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制定の歴史を通して見たる帝國憲法の本義(二)-香川大学学術情報リポジトリ

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︵〓 憲法の上論に依れぼ、憲法の畿布は明治十閥年の詔命の履桟であり、明治十凶年の勅諭忙伐れぼ、明治八年の ︵二︶ 政憾改革の機撥である。戯るに明治八年の盟詔に依れば、八年の改革は元年の啓文の椀充に過ぎない。従つて誓

文の精神は違法の精抑であること、その誓文は抽象的忙して意義必ずし軋明瞭でないが・諸柾の材料を綜合して

商工脛臍痢究 魔十二軍螢由鍍︵用詐㌫︶

制定の歴史を通して見たる帝顔憲法の本義

制定の歴史な通して見たる帝国憲法の本義︵二︶

劇 序 説 二 五箇條の御尊文を通して見たる憲法の本嵐 三 以上前沸

清 水 谷 隆 寛

︵二九七︶ 一

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︵こ九八︶ 二 第十山容 弟四渋 見ると、其の目的峰憲法のそれと同じく、﹁臣民閣期賛の道を僻め﹂﹁園家の董基藍我国にし、八洲民生の壁踊を噂 ︵四︺ ︵三︶ 進﹂するにありしこと、其の操期せし最終の制度は立憲政膿妄りしこと、而も常終着の個々の思想より推論する と、それは囲鯉の基礎の上に、之と繭立し得る限りに於て、之を輸入するにありしこと、従って憲法の尿意義は 外形の類似に拘らず、飽く迄も日本的であり、中忙も簡閲議禽の怖質は、紀割に主槽を有する国民の代行機関に 非ざること。之が御誓文を通じて前項に知り得たる憲法の本義であつた。 註 〓︶ 明治十四年十月十二日の勅諭 朕組宗二千五官盾傲年ノ鴻緒チ嗣キ中古剋チ研クノ乾鋼チ振痕シ大政ノ統;組攫シヌ夙二立憲ノ政硯チ於テ後潤子 孫鮫クヘキノ染チ秀サンディチ期ス輝こ明治八年こ元老院チ設ケ十鮒年こ府願倉チ桐カシム此レ皆漸次慕チ創メ序こ 循テ歩チ進ムルノ迫二由ルニ非サルハ錬シ贈有衆亦朕力心チ諒トセン ︵後略︶ 七見参照 謹 ︵こ︶ 明治八年ノ聖詔後出 話 ︵≡︶ 御督父の日的が臣民忙翼賛の迫を広め、国家の不義を輩蹴にし、入洲艮件の慶福を檜進するにあることは、昏 文の﹁磨ク曾議チ起シ商機莞讐次スヘシ﹂﹁官武仙途庶民二至ル法人心チシテ偲マサラシメンコーチ嬰ヱ﹁知裁チ 世界二求メ大二皇基チ振起スヘシ﹂といふ文革自貞が直接に之を示して周る。 話 ︵四︶ 御菅又が、美智りは兎も角として、蘇周ほ裟然ながら議骨制度の移入を後期したものであることを断定せしむ る忙至る番賓として、前節忙明拾元年閏四月ゴ十∵日の政脱藩、福岡孝悌の﹁五箇條御誓文一級鰻啓ノ由衆﹂幕末の 議骨論の三を蓼げたが、同一経論の基礎となるべノき尊繁簡二三を歩げて見よう。 イ、明治こ年岬月こ十五日岩倉具祀は、議事院設置K崩する次の意見番を三像賓共に呈して、廟議忙附せんことを要

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制定の歴妃を通して見たる帝国憲法の本義 求した。 ﹁議事院を設粧するは、駅東各国の風を模擬するが如しと雌も、決して然らず。我国忙於て、公論を扶るは、既に 紳偶に始れり。述に議事鰭裁取謝を命じて、其規則案を上申せしめ、而て速に韻事院を設認すべし。抑大政維新の 洩薬は、何に由て成就Lたるかと雷へば、即ち天下の公論に由て、成就すと富はぎるを得ず。多年有志の人が大義 を明にし、名分をiEすことを論じ、而て市府の失政を式めて途k今日の盛運を致したるに非ずや。臣子の分とLて 之を富ふに悍ると雄、主上天象聡明英智忙鴻らせらる∼も、猶御弱年に在らせられ、御親ら中興を謀らせ給ひしと 云に非ず、天下の公論を間食させられて、其原著する析を、展断を以て、之を定め給ふものにLて、欝に公明正大 の御璽業なり。是故に将来に於ても、議事院を設置し、施政の法度は、衆議に附したる土、顧議血塊し、展断を経 て施行せば、維令異論甘出するも、容易に欒定ナることを得ず。此の如くなれば間柄自ら寛く、億兆之を信じ、朝 令暮改の誹讃は自然に鐸止すべし。然らぎれば、一合出ずる毎に異論官出L、其間忙事情狸綿し、途忙叉之を改む るに至り、蓮忙は番幕末世の覆轍を腐み、人心の諌離すること益々甚しからん。蓋し箪畢院を設癒するは、五節條 御聾女の御趣意を拭充ナるに在るなり。﹂へ大浮薄二郎、大日本憲政良男一巻五四七貫収録︶ 此の意見沓は明治九年の秋に江藤新平の草せる建白、議院設立の階梯として発づ﹁監教官を設くるの議﹂に基づき て濁されたものだと富はれてゐるがへ大津海け〓郎円本憲政史第副審五四六貰︺、それは兎も角、練新以衆明治十六年 迄明治政府の柱石として重要国移に参道した岩倉が、かやうな意見を抱懐したといふととは、御魯文が箪忙列藩曾 誠に止ることなく、終局的には欧米の議曾制度を輸入する意鼠を城してゐたと、断定するに足るものである。 ロ、江藤新平は元年及三年に次の姓自及建議を政府に上皇してゐる。江藤は政舟常終着として御聾女の螢布に象壷 したのではないから、建白建議を以て、直ちに御昏文の意を解繹する材料とはなし得ないが、江藤の雄白建浅は御替 ︵二九九︶ 三

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弟十一巻 第四痴 文の趣旨が議事院の設荘にあると解侍したる上に於て、劇は池波制度としての監象官の設濫を、他は御昏文の直接 の箕現を建議したものであるから、間接忙ほ御昏文の趣意が議曾の設置にあつた ︵明 治 元 年︶ 監療甘を設くるの議 大監督討論は議院の埴なり.因て議院行はる1ときは、監察官も監象司も、無用なり。日二島コ〓郡山瞳府藩とも、 ◆ 行番の局は、絡に行政官に始らる。劇邑叫郡劇握及府薄とも、議事の局は、終に議政官に膠す。如L此行政議事共 に上下忙相貫き、而て憾柄分明、上下左右均畢鯉偏、於レ是沿道立と可レ謂也。⋮⋮:・近頃閏レ之議政骨靡して議参 は行政官になり、議院は今久御取調忙なる血と。大串なり。且是迄の御官制は、乍恐、膏官上下を監察する骨な し。故忙、首官署し曲事あるとも知るべ蓉迫なく、尊事あるとも、亦知る.へき泣なし。慣令ば動物にして崩なきが 如し。何を以てか運動せんや。 叉諸官人の内探究にては間違のこともあれば、公然議事に懸け雑きもあり。且叉輿論公議も分忙過ぎ稗に越るの訪、 あり。或又過言の忠もあり。然らば果して何の迫を以てするや。監酪討論の横皇国支那は乾酪官にあり、唯丙洋は 議事院に在り。婆レ之其監事行事の爾條を以て、囲を指むるは、和漢西洋如レ今藷節川。然れば、院紅行事と云と 尊はハ監雛討論の事、寸時も不レ可レ塵也。苛も慶するときは、諸事必定に屯難あり。侶監査討論の精しく至るは、 監督は、.迫も議事院忙不レ吋レ及也。摘碩踊摘鋤㌶窟富津の猪晶二是毎撃讐院の調届き行るゝ 迄は、監露骨定かずんばある▼へからずっ 上議院を興す、議員は華族を以てす 国政改革案 図法御倉議の審 ︵明指三年十月︶ ︵三〇〇︶ 四

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制定の歴史を通して見たる帝観憲法の本義 右三官の下に叉郡坊の三司あり 一部坊の合併 一郡坊の裁判所 劇 那坊の議院 右三司の下に叉≡役員あり 叫 町村の細代 一町村の裁判人 一町制の評議人 ハ、木戸孝允が歓洲から踊って後︰大牢七月︶に草した建白審中忙、次の文がある。水声に依れば、人民束が文明の化 に治ねからぎれば、暫く君主の英許を以て、民意の脚致協合する鹿を迎へ、之に代りて囲移を條倒し、其裁列を有 司に課し、漸を以て之を文明の城に導かぎるを待ない。鮮に督文の盛雄ありたるも全く鼓に基く。即ち菅又は池波 時代に威する暫定憲法であって、其の意は、譲合を通し、民意を施し、政指を行ふと、堪も興るととろがない。有 司たらん老は宜しく汲K心を致し督文を以て徳政の概準となすべきであるとか 集議院は下の議院興るまでは下院の代りに置き下院興りたる後塵する事 地方を分ちて三官とす 一 臆 劇 裁 列 山 議 ︵≡○こ 五

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弟十仙啓 発四壁 誓文静布の献宋諮と富はれてゐる木戸にして此の雷ありとせば、誓文が諌合融度の輸入を後期したものであるとい ふ断定は、愈々強められて衆る。 ハ明治六年七月︶ 建 白 番 ⋮⋮戌辰ノ春、東北ノ地未ダ平定セサルノ勧、早己二甘官有司ヨリ天下ノ傑伯二茸ルマデ之チ京城二徴集シ、親ラ 天御地噛チ所り、昏文五條チ作り、之チ天下二公督シ、以テ朝憲ノ躍着スル併チ撃ソ、人民/カ郷盲二二鱒セヮ、 其過言三、国是チ定メ制度規律チ立ルハ誓文チ里丁目的トナスノ語アリ、是チ以テ、撃−版籍泰造ノ請チ許シ、 侯伯チ駿シ、国力ノ分烈チ統;ルモノ、萱五洲弧観ノ愚論二基イスルニ非ルチ得ンヤ、然ラバ則チ此五條管〃=我 邦政現ノ基クリ、犬レ政規二凶ノ足トスル併三回リテ、之チ確定シ、首官有司ノ撃一従テ、臆断スルア柴ジ、 萬機ノ事静、挽テ・其旨こ則り、彪筐スルコーチ嬰スルニ寧フバ、慮ル肝ノ深キ、期スル所ノ遺キ、常時ノ士民誰分 数慮ノ隆過ご感ジ、敢テ之チ窓戴セサルモノアランヤ、但文明ノ閲二在テハ君主アリー雌ドモ其別チ攣一セズ、 閑観ノ人民、一致協合、其意チ致シテ問移チ條例シ、英裁列サ議シ三周二委托シ、之チ目シテ政府一名ケ、有司 チシテ英事二軍7シムルチ以テ、有司クル濱モ、亦山致協合ノ民意チ保シ、重ク英男チ竃メテ国務二従事シ、非常 ノ奨二際スー應ドモ、民意ノ許ス研こ非ザシバ其措置チ縦ニスルチ得ズ、政府ノ崩密ナル撃一斯ノ如クナルニ、人 民猶超制チ規メ、議士ナル老有テ、事毎二晩査シ、有司ノ意こ随テ臆断スルチ抑制ス、是政泊ノL笑ナル所以ナリ1 若シ人民未ダ文明ノ化二治ネカラすレバ暫ク君主ノ英断チ以テ、民意ノ叫致協合スル併チ迎へ、之二代リテ囲務チ 條例シ、其裁列チ有司二議シ、漸チ以テ之チ文明ノ城こ導カザルチ待ザルモノ、是自然ノ撃︼シテ、常−重文ノ盛 恕アリシモ、叡慮ノ起ルーコロ、蓋シ之二基キシナルベシ、顧フニ、我邦未ダ議士ノ事毎二検査チ加フル有ラズー 雄ドモ、制度ノ重クシテ事跡ノ大ナル、欧米各国ノ民意チ翠ソ、政チ行フ老ニ、専モ異ナルコーナケレバ、有司タ ︵一ニ〇二︶ 六

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を心得て退く必婁がある。 制定の歴史を通して見たる帝国憲法の本義 ル者ハ、宜シク其易チ宜メ、五條ノ政規ラ以テ棟準−.ナスチ嬰セサルベカ≠ズ⋮⋮⋮ ニ、明治七年五月地方官合議開催忙付足められた議院憲法教加k監し下きーれた御沙汰に次のものがある。御暫文の趣 旨を知る席の〓資料である。 朕戯敵ノ動画明こ督ヒシ旨意三晶キ漸次之チ撰充シ全開人民ノ代議人チ召塊シ公議輿論チ以テ法律チ定メ上下協和 民情暢遠ノ路チ開キ全図人民チシテ各英米二安ンジ以テ園家ノ麓チ照任スベキノ義務アルテ知ラシメンコーチ期望 ス放こ鬼ヅ地方ノ長官チ召旗シ人民二代テ脇間公議セシム乃チ議院憲法チ項布ス各員其レ之チ迩守セヨ 御誓文に次で憲法の尿意義を知る材料となるものは、左に摘ぐか明治八年の聖詔を中心とする茂多の取替であ 各。 勅 ︵明治八年凶月十四日︶ 股即位ノ初首トシテ群臣ヲ禽シ正賓ヲ以テ紳明二誓ヒ国是ヲ窟メ萬民保全ノ道ヲ求ム孝三組宗ノ韮卜群臣ノ、 カトニ梯り以テ今日ノ小康ヲ得クリ麒フニ中興日鴻ク内治ノ軍営三振作更張スヘキモノ少ナシトセス験今誓 文ノ藩ヲ損充シ韮二元老院ヲ諾ケ以テ立法′源ヲ熊メ大審院ヲ置キ以テ審判ノ椎ヲ驚クシ叉地方官ヲ召褒シ 以テ民楠ヲ通シ公益ヲ岡り漸次圃家立憲ノ政鰐ヲ立テ汝衆庶卜横芝其慶二頗テン十欲ス汝衆庶或ハ曹二泥ミ 政一岬慣ルルコトナク叉或ハ進ムニ軽ク焉スエ魚ナルコト英ク共レ能ク脱力旨ヲ慣シテ梨賛.スル併アレ 此の盈詔の意義を知るには、常時の叫般情勢、聖詔の基礎となれる大阪倉議の経緯、常路者の立憲思想其の他 ︵≡〇三︶ 七

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戊辰の初、明治政府は、五番を以て帥明に誓明皿L、朝旨の帰着する研む明示L、人心の方轡を仙窟したといふ もの1、其の後廟堂に立ちて政治の局に菅ったもの竺〓二雄藩の士に止り、輿論を容るペき制度の賛施も、数年 を総て、束だはか′川\しくなかつた。併し、之は政府が強ち等閑に附したのではなくて、常時抄情勢よりせば直 忙民選議院を開設するといふことは時期尚早であり、それよりも明治政府の横力を筆匝lにするといふことが、よ り緊急事であつたからである。それは兎も角、二二飯浦の士が、政構を撃断するといふことには、他滞の士は不 平であり、.一方民間には、自由民棟の思想が浸潤して、中には共和政閻を主張する著すらあつた。開論を踏二し 闘民をして向ふ閉を知らしむる馬には試食の開設は兎も角として殻法の制定は是非とも必嬰であつた。立国建議 の建白者嘗璧警部は常時の情勢を叙して次の如く言ってゐる。 ﹁明治五年壬中国月小官左院二奉暇ス⋮⋮・︰然ル1こ冨時機溶立願日猶璃シ物論段々トシテ近ク府下ニハ民樵自 由ノ毒義ヨり共和政餞ヲ主張スル教派アリ遠ク猪野二封建守簡ノ主義ヨワ君主専裁ヲ妻張スル論叢ア町此 際政健一定セサレハ到底如何ナル時勢ヲ現出スル竜郷計・⋮︰︰﹂︵国憲舶碁池原、伊帝博文憲法資料四四玉東︶ ﹁今ヤ外闊交際日工開ケ月二盛ナルノ時−岬雷ル然ルニ無智蒙昧ノ人民漸々外観ノ囲慣ヲ嘉ヒ自立自由ヲ名トシ テ徒ラニ自己ノ株制ヲ誇張シ却ツテ其競技ヲ勤メス甚キ三東リテハ共和政治ノ諭ヲ焉スモノアルー仰至ル宜シ ク党ツ至雷ノ国憲ヲ立テ君樺ヲ確定シテ畠開聞宥ノ君櫻如何国憲如何ヲ郡内人民二宮知スヘシ﹂︵﹁立国建議﹂ 申の文革国憲鋸碁趣膵、伊藤博文憲法資料相関六二嵩︶ 弟十仙巻 弟四渋 ︵≡〇四︺ 八

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情勢斯の如くであつたから板垣、削鳥、江藤等の急進政治家む擁する二藤留守内閣は、岩倉、木戸、大久保等 遣外大幡二行の留守中に拘らす、五年諷月に至り途に問命開設の議む決し、左院に命じて議員召集規則を粥茶せ しめ、清々開成の準備を進めて屠た。かゝる慶へ懸案の朝鮮開祖解決の番田郷を迫掃天使として涯遺するめ問題 を生じた。留守内閣に於ては之を決行するの議が纏って払たが、岩倉道外天使叫行の踵朝と.共に、反封派は頼勢 を挽回し、六年十月には議は逆柑して灰劉に決した。菟に於て西郷、後藤、利島、板垣等の遣碍大便論派は枚を 連ねて按冠し、囲脅開設計測は叫頓座凍寒した。併し板垣等は之に屈しなかった。奴等は野忙下ると共に有志を 語ひ、七竺月には民選議院開設の建白を敏行し、民槽論を提げて政府に肉迫した。議論の可否は兎も角、遭韓 大使中止め結英国論沸騰せる應へ、此の建白出で、政府攻撃の好題目が典へられたのであるから、開論は愈々沸 騰し、天下不平の徒は、劇舛に立って、政府反封の牽を揚げた。かゝる閲読又々尼介な姉寡聞指が生じ、此度は 木戸が大久保等と議合はすして客間を去った。外には困難な外交閃電があり、内には元老和せす、囲家の前途は 嘗忙憂慮すべきものがあつた。こ1に於て大久保は喜潤問題が山應解決す竜を使って、木戸を再び寡聞に迎ふる べく計測し、伊藤、井上︵撃等がその間を斡旋し、更に板垣を加へて、三者は八年仙月途に大阪に愈合すること となつた。大久保は木戸の横尾に附して事を威さんことを約し、板垣亦木戸の漸進尭轟に譲ったので、三者の試 は合し、木戸と板皆は先の傑件に依って再び廟堂に立つことを承諾した。 筑〓 他日帝国試禽を開くの準備として立法の専菜を郷護にせんが馬に元老院を設描すること。 制定の歴史を通して見たる帝閑憲法の本義 ︵≡〇五︶ 九

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大阪愈議が終るや、大久保、木戸、板垣等は前後して衆京忙入り、木戸は三月八日に、枚棲は十二日に夫々参 議転任じ、越えて十七日には大久保、木戸、枚垣、伊藤の諸参議政牌敢調査員に仔じ、二十八日には賽なぺ左 の上奏をなした。︵尾佐竹猛者日本憲政史仙∩八貫収録︶ 方今各閣ノ政鰻ハ所謂君主、常民、人民ノ三治ヲ折哀シ以テ閻俗時勢二適スルモノヲ探ル宜シク正院右左院 ヲ太政官三協クベシ天皇正院二御シテ萬機ヲ統べ三大臣之ヲ輔弼シお院ハ太政大臣之ガ長イト焉り左右大臣参 議諸省長官卜庶政ヲ談判シ在院ハ則チ左右大臣参議州名之ガ長卜残り議員ヲ選任シテ諸法制ノ事ヲ草フシム 第二 司法樵の澗立を期し裁判の基礎を樹ふする馬に大審院を設置することC 準二 上下の民情を疏通し憲政の基磯む樹立する階梯として地方官争議を興すこと。 第凶 君主親裁の鰭裁を囲うし且つ行政上の貴任を明にせんが雷に内閣と各省との分離を残すこと但し充掛は 内閣忙凍て君主輔弼の任に常り第二流の人物を巣て行政諸般の責任に常らしむること。 常時木戸が自ら筆を把すて査定したる改革案の問は先の如くであつたと云ふ。 弟†咄春 希四駅 ︵三〇六︶ 血○

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夫レ立法行政司法/三椎並立シテ偏重ナキハ欺洲ノ艮利一岬テ我政鰻モ亦嘗二之ヲ以テ準卜馬スベシ然レドモ 今諒ク之二倣ハント欲ス未ダ行否如何ヲ審一㌦セズ宜シク樵﹂−上下開院ヲ設ケ貴族勤労及拳徳アルモノヲ選ビ 上院議員一〝充ケ立法院二擬シ下院ハ則チ地方官合議閉トシ以テ民選議院ノ瑞ヲ啓クべシ 天皇は之を嘉納し、掴月十凶日近事りて所謂立憲準僻の大詔を換畿せられた。之が最初に掲げた明治八年の翌 詔である。 そこで始に戻って、聖詔の意味を考へて見よう。 此等の材料によると、聖詔は第仙に、〓制には自由民権論、他所には保守諭、この極端な神主義を抑へて閥諭 を藤二し、人心をして瑚ふ朗を知らしむる為に換籠されたものである。明治元年政府は誓文を宣布して、人心の 轡ふべき朗を知らしめた。然し中央集植の確立が何よりも必要であつたので、誓文の資硯は決してはか人﹁1しく なかった。之に乗じて自由民権論が急激に接頭して衆た。而も仙南には頑固な守啓静がある。勢の趣く魔何時如 何なる大事を誘発するかも知れない情勢となつて釆た。そこセ政府も愈々憲法を制嘉するの外囲論を鍔辞するの 途なきことを覚るに至った。併し憲法軋制衰となると軍機めて盈大であり。軽躁に之を決定することは甚だ危険 である。因つて先づ大審院元老院地方官合議を開設L、漸を蛤ふて立憲政治を行ふの方針を決定した。哉詔はか 二こ くの如くして換教されたのである。 話 ハ脚︶ ︵伊藤博文談︶ 明治の初年に我等の先覚として仰ぐ木戸公の如き、大久保公の如き、漸次憲法政治変速議しや 制定の歴史を通して見たる帝国憲法の本哉 ︵≡〇七し 劇一

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弟十山容 第四壁 ︵≡〇八︶ 二脚 ぅと云ふ論を持って屠った。入年の勧説は大月公が常に献替Lたもので、餞り急進に奔てはいかぬと云ふので漸進主 義で立憲の基礎を且つる主嵩ふ勅籠を日本国民に降し給ふたのである。大戸公は僚程早くより憲法思想を抱いて居っ たが如何なる方法で迫るが善いと云ふ考案に就ては無かつた。公は我等忙向って﹁王政復古の功を奏して靡藩置櫛ま でしたが斯ふ鱒蔑してはいかぬ。何とか憲法と云ふものを制定して、深間なる制度を布かねばならぬ﹂と云はれた。 其際我等は﹁今卒然憲法を制定した慮が箕際行はる1や否やと云ふととは甚だ疑はしいのである。是ほ†分研究しな ければらばぬ﹂と云ったことがある。︵大洋淳〓郎大日本憲政皮琴一巻八三二節収録︶ 聖詔は攣一に制度の改革と併せて将来に於ける立審上の主益を豊明したのである・〃 聖詔及之に基き改正せられたる新制度に依れば、天・曇は太政大臣、左右大臣、参議の輔弼に依って萬機を親裁 し、行政府、大審璧元老院、地方官合議は天皇に隷属して、天皇の命令を遊行する仕紺になつてゐる。之は大 阪倉議の條件や、合議の席上木戸が自ら書き下Lたと言はれてゐる改革案と同一であつて、此度の改革では行政 府、司法府、立法南柏#の分離、内閣︵太政大臣、左右大臣、怨念︶と各省︵行政府︶との分離は樺力の分立を 意味するものでなく、三橋は依然として天皇に存するのであるC大阪合議の條件が元老院、大審院、地方官命議 の開設を條件としつ1、同時に天皇親裁の鰭裁を固くすることを催件となせることはこの問の滑息を堆粁に物語 るものである.而もこの元老院と地方官合議は、豊詔に依れば、将来設立せらるべき議脅の上院、下院に夫・々擬 せられてゐるのであるいかく考へて来ると蟄詔は同時軋婿釆忙封する立憲主義を示したものであり、而してそれ は統治作用を能率的効兼的ならしむる馬、立準司法、行政に夫々別個の官府を設くるも、統治杵は依然として

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天皇に存癒し、天皇は此等官府の災賛に依り、又は此等を通して、統治樵を級撰すとなす趣意である。即ち、こ の主義はフランス的民毛的立憲素量た反動し、叉英明的常民共清的立憲主義にも反動する。両者は怖力分立の主 義に立てる射に於て日本主義と興り、且つフランス主義は囲民主樵の理論に立てる鮎に於て、英図主義は君民共 治の主義に立てる鮎に於て夫々日本主義と異る。 とのことは堂詔の立憲主義と理論根採を異にせる筈の板塙等の﹁民選議院設立建白書﹂からさへ立謹され得 る○ 周知の如く、この建白書は、自由民権の理論に基き民遭議院の常然、有司専制の不可なる所以を力課したもので ある。自由民撼の理論に立つ限り、その排撃の目標は君主亜制でなければならぬのに、此鹿では君主専制でなく して、有司専制となつてゐる。尤も放初の草案は君主専制となつてゐたのを、塵自著名著の山人たる副島梯臣の 注意に依って、君秦専制を有司専制正改めたのだと俸へられでゐる。その之を改むるに至った経緯は建白の尿意 を知る豊嬰なる材料であるから、左に副島自身っ談を蓼げて見よう。副島は昔時の経緯を次の如く語ってゐる。 ﹁明治六年の末頃板垣後藤等の諸君が民選議院の建白書を出すことになつた。此革段は大方苫澤滋が苦いたも のであらう。素とより瑚鐸的文港にして其の眼目たる主として君主専制を谷め、之に代ふるに議院政治を以 てせむことを望むと云ふに在・汐、而して﹃私に同意しろ﹄と望まれた。そこで私は口く﹃君主専制を呑むる やうなことでは拙者は同意することは出来ない。筍くも我聾志士が勤王と云ふのは他無し唯君が専制を虚す 制定の歴史を通して見たる帝国憲法の本義 ︵三〇九︶ 〓ニ

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こと能はぎることを垂ひて起ったものである。即ち畏こくも著し我が 陛下が御自身に 紳武天皇の御教道

を選ばされたならば、民心悦服して奔命に狂するであらう。故に此原案の君主軍制を答むる議論には拙者は

同意することが出来ない﹄と断った。是に於て板垣等緒驚が然らば此度だけをどうなりとも苔直すペ、きが故

に同意を望むと言った旬﹃然らば宜しい。君主専制の字を有司専制と改正したならば息しからう。蘇我馬子

も有司専制に外ならず、淡海公の子孫も有司専制であつたから今の世も往々有司専制となるかも知らぬ。故

に有司専制の弊害を防潮するが馬め照議院五作ると云ふ怒らば我等も亦同意をLやう﹄と云ふので、乃ち私 も其連署忙加はりて建白をなしたことであつた。﹂︵﹁別品種臣談﹂大津淳表著大日本憲政皮発表七八六貰版銀︶ 彼等が君主専制を有司専制に改むるに至ったことは、閥民他の瑛はれとして誠に安い事柄である。併L、これ

は常然のことで、彼等の自由民雄諭が抑も借物であつたのである。彼等が心の輿で望んでゐたことは、天皇を輔

弼する機関を少数の有司より多数の議院に捷大するにあつたのである。天皇の大樵を制限したり、民主共和に改

めようなどとは彼等の夢想だもしなかつた磨である。然るに窮司専制を排撃する忙は民杵諭は誠に好都合であつ

た。そこで之を借用した。併し最も大切なる庭に気がつかなかつた。それを副鳥の︰作意に依って翻然覚るに至っ

たのである。唯それだけである。王政復古を意囲し之に協力した前参議蓮が本来の自由民粁諭をこのまゝ僧奉し

ようなどとは、到底常々の考へ及ぼざる魔である。之が建白の尿意である。

さて詔勅は板掴も開展の一人として之忙参劃したものである。塵白の尿意従つて板垣の精紳が此虚にあるとせ

第十一巻 発四蟹 ︵三 抑○︶ 山四

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ぼ建白に硯はれてゐる立憲重義は叉詔勅の立憲主義であると云はねぼならぬ。詔勅の立琴‡義は建白苔の精神よ りするも、即ち板垣が詔勅の換後に闘興したことから見るも既述の如くであらねばならぬ。建白の尿意が奈避に ありしかを愈々明白ならしむる鶉、左に建白書の原文から二退の文字を引用して置かう。 ﹁臣等伏して方今政樺の蹄する所を察するに、上帝窒にあらす下人民に在らす、而も嘱り有司に節す。夫れ有 司上帝窒を螢ぶと日はぎるに非ず、下人民を保つと日はぎるにあらす、而も政令首珊瑚出幕政、政刑情嘗に 成り、賞罰愛憎に出づ、言路塑倣困苦告るなし。夫如是にして天下の治安ならん暮を欲す、三尺の憲子も猶 甚不可なるを知る。因循改めす、恐くは国家士朗の勢を致さん。臣等愛観の隅自ら巳む能はす、即ち之を振 激するの迫を請求するに、唯天下の公議を張る在るのみ。天下の公議を張るは、民選璃院を立つるに在るの み。即ち有司の樵限る朗あつて而して上下安全其の車両を受る者あらん。描ふ途に之を陳ぜん。 夫れ人民、政府に封Lて和親を排ふの義務あるものは、乃ち政府の頚を輿卸可否するの樵理を有す。是天下 の通論にして叉喋々臣等の之を琴首するを待たざるものなり。故に、臣等鏑に礪ふ。有司も亦長の通埋に抵 臣等既に己佗今日我が民選議院を立てすんばあるべからざる所以、及び今日我国人民進歩の慶能く斯の議院 を立つるに堪ゆることを桝諭する者は、則ち有意の之を痛む者をして口に籍する斯なからしめんとにあら す、斯の議院を立つる者は、天下の公論を伸張し、人民の通養椎利を立て、天下の祀気を鼓舞し、以ノて上下 抗せざん事を。 制定の歴史を過して見たる帝国憲接の本義 ︵tニー一︶一五

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第十一巻 第四渋 ︵三ニー︶ T六 親近し、君眉相愛し、我が帝国を維持振起し、襲帽安全を保護せんことを欲してなり。講ふ率に之を繹び給はん ことを。︵大津淳〓郎、大日本憲政皮第山容七八八−七九〇寛政銀︶ 堂詔の立憲主義がかく如きものであつたことは、常時廟堂に立った閣僚が、包懐せし憲政思想からも謹明され る。代表的なるものとして木戸、大久保二氏の憲政意見を拳げて見よう。 木戸が歓洲より鋸って後塵白書を上ったこと隻別にも述べたが、彼はその中で次の意味のことを述べてゐる。 一団の興亡盛衰は一に政規︵憲法︶、典則︵法痙︶の適不適に懸つ、てゐる。その例は披錐速からすポーランド にある。ポーランドが猫立せる督時は土地も焼く人民も多く、別に暴君汚吏があつた詣ではない。而も途に滅亡 したのは、時勢の攣遷に際して政規む確立することは能はず、甲は自ら信じて智者と焉し、乙は自ら負して能者 と為す、彼此相服せず、而も公僕は矯て公道を矯め、豪族は榔にして私利を営む、和琴ひ相乱し、生民の困苦言 ふに堪へざるに至り、図属所在に蜂起し、擾乱は遽に北隣魯普現に章で及んだ。此魔に於て三図の民として傍観 するに忍びず、兵力を集めて成城を暦懲し途に其の図吏二分して其の有としたのである。我が因も瑚には時勢の 攣吏あり。士民其の鹿を矢ひ、貧困に陥りしもの鮮からす﹂吊故北陸の躇役に至りては生民叫時塗淡に坐するを免 れさるの嘆があつた。且つ叫家の厄に就て富へぼ、父は京城に戦ふて囲車に殉じ、子は北柏に光れて君恩に報ず るあり、今にして常時を追想すれぼ未だ冷汗背に淡かさるものがある。然L之は私情であり、〓閣の欒は公賓で ある。之㌻云々するものは之無きも、その後諸制の攣革天下の耳目に偶るゝもの、一として嘗慣に異らざるもの

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なき魚、或は狐疑を抱き、別棟を謀り、未だ朝憲の輯ふ所を知らざるものあるが如くである。故に戊辰の容、誓 文五條を作り、之を天下準公営して、朝憲の固着する朗を詮し、人民の方替を一定した。即ち此五條は我邦政規 の基であるd然るに其の後の景況を見ると、人心は央張両方に偏執し、樺利を速さすして開化を擬したり、負槍 に任ゼナして文明む模するの弊がある。∵万政府の側も、淡令鮮田咋是今非、前者未だ行はれざるに後者叉機ぐと いふ如きことが多い。之人民の能く堪ふる所でない。而も政府の事務は自二日と煩鎖となる。今日の事務は最早 戊尿のそれと日を同うして諭すペきでない。か1る情勢に於ても、諸政の規準となるべきものは葡五億の誓文あ るのみである。五條は我が国の政規であるが、今日は之のみにては不充分である。今日の急務は完重な政規︵譲 渡︶さを制定するにある。 木戸は此の建議を上った同じ年の九月に次の自記を物Lてゐる。 君民同治ノ憲法−こ主テ六人民ノ協議三着ラサレハ同治ノ憲法卜認メサルハ固ヨリナリ。今我 天皇陛下励精 政治而テ維新ノ日簡未ク蔑ク、智識進鼻シテ人民ノ合議ヲ設立二重ルハ自ラ多少ノ歳月ヲ費サ、ルヲ得ス。 故二今白二於テハ政府ノ有司萬機ヲ論議シ、天皇陛下夙工場裁セラル、ハ固ヨリ旨ヲ箱クサルナリ。而テ自 ラ偏重偏軽ノ忠信リテ硯−︻紛擾ヲ生シ必寛人民ノ不串一㌦紺スルモノ少カラス。礫テ 天皇陛下ノ英断ヲ以テ 民意ヲ迎へ固綺ヲ候例シ、其裁判ヲ認シ、以テ有司′随意ヲ抑制シ、軸囲ノ公事二供スル三軍フハ今日二於 テハ澗裁薫旗法卜雄トモ他日人民ノ協議起ル∴壷り、同治憲法ノ板柾トナリ、大二人民撃帽ノ基トナルヤ必セ 制定の歴史を親して見たる骨組憲法の本義 ︵三丁三︶ 州七

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ー ︵ニ二四︶ 山八 第十⋮魯 第四渋 り。政一岬孝允ノ切二希望スル所ニシテ政府諸公二此藷ヲ呈シ速二憲法ノ制定有ランコトヲ陳述セリ。簡テ常 時容レ︼㌢レサルモ固ク信シテ止マス、此注憩ヲ陳述スル㌣ノ叉数次二及ヘリ。︵尾佐猛日本憲政史七七貫収録︶ 此の二偶の文献軋依れば、木戸は何よりも発きに憲法の制定を望んでゐたやうである。併し、それは政治秩序 としての試合政治の嘗然を信じての上ではなくして、新政腫横立彼の紛擾を鎖荒すること、政治を嬢り所あるも のたらしむること等か目的であつたのである。従って差苦りは議愈なき憲法でもよかつたのである。但し滞釆の 憲法としては君主同治の憲法を痕想としてゐた。唯此魔に注意すべきことは1木戸が君民間治を如何なる意味に 解してゐねかといふことである。英幽にありて常民同清とは岩民が議愈にありて共同Lて毒櫻を行ふことを意味 する。これは明治八年の▼制度の精細とも、大阪合議の木戸の改革案とも趣旨を異にする。八年の制度の将帥は、 立法も司法も行政も、すべて天皇が之を組濃されるのである。恐らくは木戸は民選議院五持つ署秦政治む常民同 治と考へたのではなからうか。著し然りとせば、木戸は英圃の議倉政治をその賛情と吟興るものに解絆してゐた と旨はねぼならぬ。 大久件の藩政思想は、明治六年十叫月伊藤博文と寺島宗則が政鰻取調掬を命ぜられた際、伊藤の求めに應じて 伊藤に書き輿へたる意見書が能く之を表はしてゐる。原文より必要なる部分を引用しょう。 世ノ政鰭ヲ議スル老師ハチ闇ク君寅政治、或ハロク民主政治卜。民主末夕取ルヘカラス、君主モ未夕以テ拾 ツ可ラス。⋮⋮︰ 夫レ民主ノ政ハ天下ヲ以テ一人−岬私セス、贋ク観衆ノ洪釜ア計カリ、拾ネク人民ノ自由ヲ

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達シ、法政ノ旨ヲ失ハス、首長ノ任1こ蓮ハス、賛二天理ノ本然ヲ先兵スルモノニシテ、自今合衆囲、瑞西蘭 土其他南亜凝利加駕地方二於テス。此政鰻ハ創立ノ図、新徒ノ民二施行スヘクシテ常習二馴致シ宿弊二間着 スルノ閲民一品テハ適用スヘカラス。︰・→二∵︰=⋮若シ夫レ君主ノ政<蒙昧無智ノ戌、命令約束ヲ以テ之レタ治 ムヘカラう是干於テ才力梢衆二擢ル者、共成力椎勢二任カセ、其自由ヲ束縛シ、共通義ヲ制度シ、以テ之 ヲ驚御ス。此レ方サニ時適用ノ至治ナリ。然レドモ上三明君アリ、下モ艮弼アル時ハ、民其ノ鍋ヲ琴フ ス、固共販ヲ椒ラスト錐トモ、轡門外ノ政、朝欒碁化、百番換散′弊ヲ兎カレス。若シ⋮日暴君汚吏其樺カ ヲ培マ、一三ルノ日−エ鱒リテハ、生殺輿奪唯意惟レ行フ。故二米穀関怨翠玉剛人ノ身二踵シ動モスレハ腰立 基密ノ欒アリ、其法政概ムネ人間言出テ天理二任カセス、此レ人情時勢二於テ久シク持守へカラサルモノ ニシテ、即ハチ英国コロンウニル及俳団子七百年代ノ革命授轍亦以テ徴スヘシ。抑政ノ腰タル君主民主ノ異 ケルアリト錐トモ、大凡土坤風俗人情時勢二随デ自然一岬之レア成立スル者ニシテ、敢テ今日ヨり之ヲ構成ス ヘキモノニ非ラス。亦敢テ苗二掠空ア之レヲ墨守スヘキモノニ非ラスb魯観ノ政鱒以テ英閏三雄行スヘカラス シテ英闊ノ政牒以テ亜困一l用ユヘカラス。態ヤ英ヤ魯ヤ共政鰭以テ我観1一行フフヘカラス。故二我国ノ土地 人情時勢二院テ亦我政照ヲ立テサルヘカラサルナリ。維新以来学内ヲ絶党シ拾ネク四海三通シ、義園ヲシテ 萬邦二卓越セシメントス。然レトモ、其政ハ、依然クル暫套二因襲シ、君主墟制ノ醗ヲ存ス。此牒キ今日宜 シク之レヲ適用スヘシ。而シテ土地ハ我国通航ノ要衝ヲ占メ、風俗ハ進取兢奔ノ気態ヲ為シ、人情眈l一蹴米 ● 制定の歴史を遺して見たる帝囲憲法の本義 ︵ニ〓五︶ 一九

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飴風ヲ恭ヒ、時勢牛ハ開化ノ地位一価臨ム。将来以テ之ヲ固守スヘカラサルナリ。然ラバ則ハチ政牒以テ民 ノ 主三好スヘキカ。日ク不可。辛未ノ秋鷹番ノ命下り、天下漸ク郡願浣辟シ政令嘲途一一山ツルト艶トモ、人民 久シク封建ノ塵制云憤レ長ク偏僻ノ隋懲以テ性ヲ成ス殆ント千年、皆;風俗人情ノ以テ之レニ適用スル囲ナ ランヤ。民主簡ヨリ適用スヘカラス。君主モ亦固守スヘカラス。我鯛ノ土地、風俗、人情、時勢一仰鴎テ我カ 政慣ヲ立ツル、宜シク定律図法ヲ以テ之レカ目的ヲ定ムヘキナリ。′︰⋮⋮:・抑我力甜宗ノ囲ヲ建ツル崖ユ斯 ノ民ヲ外ニシテ其政ヲ馬ンヤ。民ノ政ヲ車スル亦畳二此ノ君ヲ後蒜シテ共闘ヲ保タンヤ。敵方定律閥接ハ、 即ハチ君民共治ノ政ニシテ、上三軍櫻ヲ定メ、下モ民横ヲ眠り、至公至正君民得テ私スヘカラス。夫レ人々 相交ハル時ハ人々相競フ。君民相交ハル時ハ上下亦相競フ。上下相競ヒ相交ルノ際二於テ是非曲直、善栗邪 記ノ分、之レヲ裁決セサル可カラス。共時櫻君テ在ルヲ君主卜謂ヒ、民二在ルヲ民主卜謂フ。共常民英一脚之 レヲ執ルヲ君民共冶卜謂フ。此レ上下各其公桔通義ヲ保全暢達センカ薦メ、君民共進以テ確乎不抜ノ問怒ヲ 制定シ、.爵磯決ヲ之レーl取ル。之レヲ根源律法卜謂ヒ、叉之レヲ政規ナ謂フ。即ハチ所謂砂糖ニシテ金団無

上ノ竃ナり。︵胆謂酢蛸鯛離㌶錮耶硝恥鵬詣謂霜離㌶完政︶此鰻㌃タヒ篠誉ル時ハ則ハ看

官有司授マ、ニ臆断ヲ以テ寄鋳l−魔セス、施行スル桝劇轍ノ準嬢アリテ嬰化換散ノ愚かク、民力政棒並馳シ テ開化虚行セス。此レ連関ノ根幹焉政ノ本源−〟シテ、今日百般ノ務メニ従事スル、着々花王注意セスンハア ルオカラサルナリ。 ー 第十一巻 第 四壁 ︵三∵不︶ 二〇

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こゝで彼は立憲君主制に移ることが天皇の大横を馴鹿するものに非ざる朋以を諒明し偽携けて冨ふ。 然ラハ則ハチ今日ノ要務尭ツ我力闘倦ヲ議スルヨリ大息ツ急ナルハナシ。筍シクモ之レヲ議スルニ序アリ安 リニ欺洲各国君民共冶ノ制二枚スヘカラミ我カ国自力ブ皇綴二.系ノ法典アリ亦人民開明ノ程度アリ、宜シ ク共得爽利弊ヲ審按配慮シテ以テ法憲典苛ヲ定立スヘシ。⋮⋮⋮⋮ 世の中に政鰭を論ずるものは、或は君義政治が善いといひ、民主政治が善いと言ふ。しかし民主政治は闘民が 菖召に固着する塵では資行困難であり、斬らしい図表に於ても将来の賛既は疑はしい。翠玉政治は明君良弼ある 問はよいが、それでも朝攣芯化官署換散の弊は免れす、血目盛君汚吏出づるに及んでは人民の受くる災禍は怖る べきものがある。そこで我が鴎の数倍であるが、政餞は大凡土地、風俗、人情、時勢に依って成立するものであ るからい我が閥の頸状で時間君主摘融でよいとするも、将来は立憲君主制︵君民共治︶訂採用すべきである。然 し之に至るには順序があゎ㌔今瞭躁に欺洲各観君民共治制に擬ふてはならない。叉我が問には哉固で皇統叫系の 法典があり、人民の開明にも程度がある。宜しく其の得突利弊を溶接酌慮して法恩典贅を作成すべし上いふので ある0 彼は綬いて我が政鰻の現状、その弊寄の因って凍る朗以及官制改革案を挙げて次の如く貰ってゐる。 ⋮⋮今我政鰻ヲ察スル一一自ラ此三者ヲ掛酌折衷スルモノ一lシテ能ク闊風二應ジ時勢二邁スル三似クリト邸賓 際二臨ミ陶ホ適切ニシテ以テ弊ナシトセザルモノアリ。其故何ゾヤ。命針′机ル鹿脊椎ナク叉随l三ナラザ 制定の歴史を通して乳たる帝団憲法の本義 ︵三劇七︶ 二劇

(22)

︵≡脚八︶ こ二 罪十川啓 発四壁 甜で−今渓ク此淀江意シ篤ク時勢ヲ薮ツテ窃テ左ノ提議ヲ建ツ ル一一因ルナリ。・⋮:⋮

太政官職制

太政官中三瞭〓寮ヲ置ク可シ。 甫院 産院 右院 式 部 寮 此三院仙寮ヲ以テ太政官卜名附クヘシ。 院 正 天真陛下祓臨

太 政大臣

夷皇陛下ヲ輔弼シ萬機ヲ釈迦シ甜上書ヲ奏聞シテ制可ノ裁印ヲ紛シ且勅署三著名給印スルヲ以テ任トス。 右院二在テハ之力長クルヘシ。

左 大 臣

職草太政大臣子鹿ク、太政大臣紋腫ノ時ハ其ノ夢路ヲ代讐ルヲ得、其右院二在ルヤ参議卜共−墓園百般 ′事務ヲ裁決施行スルヲ掌トル。 大 内 兜

(23)

金閣百般ノ機務ヲ商議判決スルヲ紫ル。 式部寮云々。 倫この官制の説明として被いて次の文字があるっ 正院ハ 天皇陛下臨御シテ由磯ヲ終刊シ太政大臣、左右大臣之ヲ輔弼シテ庶政ヲ膳掛スル桝セナリ。 凡全期﹂椴−−布告スル制度傑例及 勅旨特例ノ感件ハ太政大臣ノ名ヲ以テ正院ヨリ之レヲ語合スヘシ。 諸省使寮司局ヲ腰立分合スル先ツ右院ノ商践ヲ紅テ上奏シ允裁アレハ則太政大臣ノ名ヲ以テ令スル正院ヨリ スヘシ、凡刺任官ノ進鱒ハ震断二田ルト錐トモ必兜右院ノ商議ヲ経テ上達シ太政大臣之ヲ奏上シ允裁ヲ得テ 参 右 院 左右大臣或.ハ籍議ノ中チョウ之レカ議長トナルヘシ。 二等二等云々ハ諸立法ノ議寄ヲ畢トル。 院 太政大臨之レカ長クルヘシ。 議 制定の歴史を油して見たる帝国憲法の本義 ︵ニ二九︶ こ三

(24)

後チ進退スヘシ⋮・⋮⋮︰■ 凡ソ重大ノ訟嶽二付其事情二美浜ヲ生シ裁判上㌧過ツテ断決スルモノアリトスルーキハ司法官共情曲ヲ異状 シ、右院ノ商議ヲ経テ太政大臣之ヲ上奏シ簡裁ヲ得テ其罪科ヲ宥ムルコトアルヘシ、凡ソ蜘般ノ魂寄ハ必ス 右院ノ商議ヲ轟シ判決シテ後チ主任ノ者ヨリ之レヲ正院三択クスヘシ、然シテ太政大臣之レデ奏上シ制可ヲ 得乃ハチ主任二付シテ施行セシムヘシ︰︰⋮・⋮・ 左 院 左院ハ諸立法ノ寄ヲ議スル所ナウ。 新二制度條例ヲ創立シ或ハ従来ノ成規定則ヲ増損改革シ及例規ナキ事件ヲ新二老衰スル等惣テ局中ノ衆論ヲ 姦シ自カラ盛議シ或ハ右院ノ下譲二依テ草案ヲ起シ之ヲ議定シ紛印ノ上之ヲ議長三豊シテ右隣言出スヘシ。 左院ハ立法ノ主務チ付充分擬議スルノ碓アリト錐モ裁決ノ櫻ハ固ヨり有スル能ハズ、本院ノ議論ヲ控、本院 ノ給印有ルニ非サレハ直チニ右院二於テ議判シ太政大臣三豊シ偶令之力允蓼ヲ受クルト雛モ決シテ奉行スル コ斗能ハサル者トス。 議員ハ平常卜格外トノ爾員アルヘシ、平常ノ虜ハ常浣此局二審賓スル者ヲ云、格外ノ員ハ諸省鞘惑ノ内ヨリ 。 撰揮シ共著ノ任按言開スル事件−卿付法案ヲ起スコトアルトキハ常二田仕蓼輿スヘシ。 右 院 発十仙巻 寛四既 ︵三〓○︶ こ四

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右院ハ天皇陛下太政大臣参議及諾省ノ卿ニシテ参議スル着工時任シテ諸法案及ヒ常務ノ蕾否ヲ商議シ定論ヲ 卑アシメ太政大田ヨリ之ヲ奏上セシムル所ナリ、著シ政審大ナル訝件㌢商議スル言苛テハ時機一一任テ 天皇陛下親臨スルコト7ルヘシ。 緒秦事及諸般ノ布告等皆ナ巳二右隣ノ判決ヲ控ルー〟非サレハ太政大臣卜錐モ決シテ直チニ奏上允裁ヲ受ケ奉 行スルコト能ハス、凡ソ諸般ノ専務二於テ列坐相共モニ商議判決シ給印シテ同意ヲ表スル上ハ英事務ノ主任 離レクルヲ論セス蓮印ノ員ハ常ナ均シク英資二任スヘシ 右の官制案に依ると、左院は﹁諾立法ノ革ヲ議スル桝﹂であり、﹁立法ノ主務二付﹂ては﹁充分擬議スルノ析﹂ はあるが、二期の法案は右院の議決を経、太政大臣より奏上允裁を受けて後始めて効力を教生するのであつて、 允裁を受けた後と雑左院としては之を奉行するを得ない。その右院は諸法案及事務む商議する所であるが。その 議決したる廃は太政大臣を通してゞなけれは奏上出来ない。結局〓切の統治作用は太政大臣の輔弼菅侍って逸行 され立法司法行政はすべて太政大臣の職種に威する。官府的な分業は並分有するとするも所謂三検分意なるもの は存しない。 大久保の意見書は次には将来への憲法草案に及んでゐる。大久保は言ふ。 立法行政司法ノ三件ハ各御株ノ事務ニシテ自ラ区別アリ、英断療−芸苧リテ革亦区別ナキコト能ハス。著シ之 ヲ一手:司り法ヲ立テ政ヲ行ヒ司法ノ標ヲ有スル時ハ、共事務大工規乱シテ、之ヲ反軍討論探思熟慮スルコ 制定の歴史を諭して見たる帝国憲法の本義 ︵ニ三こ 二五

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第十劇巷 笥四壁 ︵三二こ︶ 三ハ ト能ハう艮漁ヲ立テ克ク之ヲ磨分シ叉諾件ノ定法二合スルヤ否ヤヲ決スルー岬暇ナク、自然諸事倉卒二出テ 百弊並ヒ蛮スルヲ免レス。加之此三大樵ヲ一旗二任スル時ハ、或ハ威棟ヲ迄フシ、私意二任セラ法制ヲ妄立 シテ其枚埋ヲ窟トセス、慈マ、1−衆人ヲ奴組シテ紋テ其疾苦ヲ願ス、全図′利害三関セスシテ特三己ノ情 欲ヲ等ニセンコト有ラントス。於是乎欧州各固多年賢験ヲ攣ア久シク政塾二一カヲ壷セシ朗ノ図工於テで此 三大梯ヲ笹川シテ↓各々其職掌ヲ制限シ、法規ヲ立テ、以テ各自ノ椿限ヲ定メ、要一相守り竜モ干犯セシム ルコーナキヲ嬰ス。是其政務ノ木原二基キ、英機軸ヲ定立セル者ニシテ、蓋政腰上二於テ、其′法ヲ得クリ よ弼フ可シ。是故−一我囲現今ノ形隋ヲ見将来ノ寄勢ヲ察スル三、早ク此鰭裁二注目シテ、政審ヲ定ムルニ非 サレ人英シテ政牌ノ曹葉ヲ得クリト云フヘカラス。雑然今此牒鼓二倣ヒ治観ノ三大桔ヲ区分シ貫三相干犯ス ヘカラストスルトモ、未ク茸際二於テ果シテ行ハル、ヤ否ヤ三至つテハ賢二預メ冨フヘカラス。故三日慶ヲ 鼓−−期シ将来ヲ慮ツテ左ノ擬義ヲ建ツ。 この前線の下に彼は次に憲法の基礎たるべき綱要を掲げてゐる。 政 議 議院之レヲ紫トル、〓塑議轟ノ網徹二摘クル桝ノ者ヲ議スル苗止マリ直チ1〟之ヲ施行スルヲ得ス 囲憲二基キ識別二様り重大ノ番件ヲ議シ議決スルモノヲ太政大臣上付シ奏聞シテ親裁ヲ乞フモノトス

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各省府解之レヲ掌トリ直チ一二股;施行ス特構ヲ以テ太政大臣ノ奏スル朋ヲ親裁シ直チエ之レヲ施行ス 囲憲二基キ議院ノ議ヲ結テ巳二制可スルモノヲ施行ス 天皇陛下ノ横 一関政ヲ執行スルニ無上′特撼ヲ有ス 制定の歴於を通して見たる帝国憲法の本義 皇統ヲ描ル 祝ラ勅任官ヲ郡捗ス 全株公使ヲ派出ス 簡血ハ機密ノ使ヲ海外二派迫ス 議禽ヲ衆散ス 議院′議会固二階碍アルトキハ共議ヲ腰ス 接待J撰定ヲ議院二下ス 師ヲ輿シ師ヲ罷ム 政事上′過失三関セス 叫般法律ノ締束ヲ受ケス 訴訟ノ被告トナ1.7スト碓モ裁判官二特命シテ之ヲ聴セシムルチトアルヘシ ︵≡二芋︶ 二七

(28)

︼ 皇族ヲ管理ス 叫 我臣民ノ派出ヲ禁シ外国産留ノ我臣民ヲ召シ叉ク我臣民ヲ海外品放逐ス 一外国人ヲ我生民卜同硯シ之レヲ使用ス 一外囲人民三免状ヲ舶ハフ

議 政 院

華族及ヒ特命選螢ノ議員警行政諸省ノ卿ヲ集合シ閥警琴芸大ノ寄汚ヲ議セシムル桝言 制 発十山容 発四渋 叫 謀叔不軌ノ徒ヲ除クノ外裁判凝決ノ後特典ヲ以テ死罪ヲ宥クム ー賞 罰 −爵位ヲ典奪ス 一新クエ華族ヲ愚ク ー籍族ノ名稲ヲ輿奪ス 陸海軍及城砦軍艦兵給ノ顆ハ叫切之レヲ管ス。侶郷兵ヲ親管ス 尺度盈衡ヲ定ム 官 ︵ニ〓一四︶ 二八

(29)

事 一新クニ詔租税ヲ尉スル規則ヲ議定スル啓 一諸法律ノ綿実正院三成ル老ヲ議鹿スル事 叫 語合新二般ノ礫例定規ヲ議定スル専 一貸簡鋳造ノ方遡及ヒ共晶質ブ議定スル蕃 山 金券ノ蟄行償却ノ方法及ヒ共規則ヲ議定スル専 一内外ノ国債ヲ募り及ヒ之レヲ償却スルノ方法ヲ議定スル層 別定の歴史を通して見たる帝国憲法の本義 議事ノ 綱領 一顔出入ノ額ヲ議衰スル事 但概算ハ大蔵省二於テ措常調泰シ其法案ヲ正院二於テ通議案意シ然ル後議政院二出スヘシ ー眈窟ノ祝融ヲ増減欒栗スヘキ寄 但非常ノ天災及ヒ不得巳ノ事故等≡三戯ノ収入漁算ノ額二浦タサルトキハ靂二之ヲ慣フ方法ヲ議定スル 一ノ議員ヲ議員中ヨリ疫名ヲ以テ選螢シ院中ノ番務ヲ琉球ス 図審1〟基テ議事ヲ塾頚シ議員ヲシテ議則ヲ確守セシメテ行政ノ事務三相渉スルナシ ︵三二五︶ 〓九

(30)

山 兵員ヲ増減スル事 但非常ノ尊アルニ臨ンテハ

陛下ノ特樺クル専

一南蛮ノ許可ナクシテヘ本院ノ議定ハ仙般ノ迭トセサル寄

但一旦決議スル旨上奏シテ不可ノ令アル者ハ本年ノ分譲二於テ甫ヒ之レヲ議定スヘカラサル翳

一本院−−於テ議スヘキ事件ヲ本院二机サスシテ大臣直二 陛下二奏聞シこ根テ公布スルト奇ハ之レヲ蓮ム

ノ樵アルヘシ

憲法草案はこれで経ってゐる。彼は此魔で艮二怖分立制の善美なる所以を強調L、﹁日慶ヲ鼓二期シ将来ヲ旛

ツテ﹂この草案綱領を庖賞したと言ってゐるが、綱領に表ほれたる虞では行政緒省の卿が常然議政院の議員とな

って居り、譲政院の議決は太政大臣を経て奏閲し、天皇は﹁議政院ノ議会図工障碍アルーキハ其議ヲ靡﹂し得る

ことになつてゐる。統治作用を効典的能力的たらしむる焉の官府の分立はあつても、劇個としての統治権の分立

は何磨にもない。

之を要するに翌詔及聖詔の表現せる将氷の立憲主義は、大阪合議の協足條件が示してゐるやう把、天皇親裁の

濃を固持するにあるし民意を知る馬議禽を設けるが議脅に立法椎を血ハヘヤうといふのではない。裁判の公・正を期

する焉裁判所を脇立せしむるがそれは天皇大権よりの司法樵の分立を意味するものではない。尊貴、諸般の制度

は憲法の督丈に言ふが如く﹁国家ノ杢基ヲ聾随lニシ八洲民生ノ慶摘ヲ増進スル﹂馬のものであり、叉督文の示す 弟十一巻 第四既 ︵山≡二八︶ ≡○

(31)

如く﹁人心ヲ侶マサラシメ﹂﹁皇基ヲ振起スル﹂以外工他に何等の目的を有するものでない。而して此の方針は 憲法制定の其の後の準備過程に於て二暦確認されこそすれ十竜も欒吏を加へられたる跡を見ない。帝闘志法の精 紳及その指導原理は蜜に故にあると富はねぼならぬ。 ︵発 覚︶ 制定の歴ぬを過して見たる帝国憲法の本義 ︵一土二七︶ ニ二

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