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制定の歴史を通して見たる帝國憲法の本義(五)-香川大学学術情報リポジトリ

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(1)

清 水 谷 降 魔

て序

ニ、五箇條の御尊父を通して見たる憲法の本義へ以上第十〓啓三搬︶ =て明海八年の聖詔を中心として見たる憲法の本義 ︵界十忘四既︶

四、朋治九年の薗憲起創勅諭と乏蒔き起訓せられたる元老院の国憲按を蒲して

見たる憲法の本義 ︵第十こ巻第四既︶ 五、明治十四年の政欒を通して見たる憲法の本義︵第十二泰第二讐

⊥ハ、・伊藤博文の欽洲笠蒜し賜はり應る勅語と伊藤の慧恩讐通して見たる憲法の本義

明苧翠の政警焼いで憲法解塵の資料去るものには、憲法取調の薦め欧洲へ出張するに際し伊藤博文に

賜り言動語、署手記蹄詮等に甥はれた伊藤の護憲・その助言者であつ茅ナイスト、モツセ・シふタイ

ンの敬紛、憲慧義の業妾つ三慧欝﹂の直話本、枢密院の窓鹿骨歳、明治天皇の悪制雷撃る

畢生ヒ攣 発四既

制定の塵見な適Lて見たる帝国憲法の本義︵五︶

︵三劇八︶ 二.調

(2)

御叡慮尊多々あるが、本節では此等の中濃初の伊藤博文に賜りたる勅語と書翰手記演説等に硯はれた伊藤の憲法 思想とを取扱つで見たい。 伊藤の欧洲沃適に封し伊藤に賜りにる勅語といふのは、明治十川年の固禽開設勅諭に依り図禽開設の時期が定 まつたので、政府は愈憲法制定の必安に迫られ、その取調の薦伊藤博文を歓洲に派遣するに決し、その出張に際 し伊藤に賜りたる勅語のことである。勅語に日く 朕明治十四年十月十二日ノ詔旨ヲ履ミ立憲ノ政餞ヲ大成スルノ規模ハ固∋り仙定スル所アヮト蹄其緻密持碁二 至テハ各図ノ政治ラ勘酌シテ以テ釆繹工備フルノ要用プ 額峯ノ士卜相接シ英銀絨及蟹際ノ情形l膚至ルマテ観察シテ飴鎗ナカラシメントス裁こ蘭ラ以テ特派理事ノ任ユ 首うシメ備力萬里ノ行ヲ努トセスシテ此意任ヲ負槍シ蹄朝スルヲ期ス 此の勅語に於て、憲法解稼の資料となる所は﹁立藩ノ政髄ヲ大成スヘキ規模ハ⋮定スル斯アリ﹂と仰せられた 鮎である。所謂仙定せる規模の何たるかは勅語の直接示すところではないが、伊藤への勅語が十川年の政欒後に 賜りたるものなること、十四年の政欒の結論は問愈開設の勅諭なりしこと、開合開設の勅諭は緒参議の連署進奏 せる意見昏に基きT換餐せられたるものなること、伊藤派遣の直前には二束臣の奉答せる意見寧のあちしこ.と等 を考へ合成すならば其の規模の何たるかは凡そ之を想像するに細くない。惟ふに勅語にこ足する所あり上伸せら れた意法の規模は、諸参議の意見欝に所謂﹁各圃ノ長ヲ採酌スルモ我国鰻ノ芙ヲ失ハス贋ク民議ヲ輿シ衆思ヲ集 制定の歴史を通して見たる帝国意法の本義 ○ニ鵬九︶ こ五

(3)

琴‡ニ巻﹁ 第四既 ︵三こ○︶ 〓六 ムルモ而モ我皇室ノ犬礫ヲ墜サ﹂ざるものであり、又三太蜃の奉答常に所謂﹁洪律起案ノ樵﹂は﹁畢フ主宰遍﹂ し↓君主ノ批可セサル﹂法律は﹁撃一靡シテ行ハセ﹂す、内臓は寄ら三寧鹿シ進鱒二重宝ノ揆フ斯︼鹿﹂せ しむる如きものであらう。之は明治丑年の観悪魔創動語に概しても明かである。果⊥て然ちば勅語の立憲産轟 は、良尊王轟に対する意味に於て軍手重義であり、政箆内鞠主義に射する意味に於て大穂内閣主義であり、乾綱 を紙摂し名貨共に三権を黎挺する意味に於て、天皇親政主義である。 叔勅語に↑定する閉ありと仰せられた憲法の規模が斯くの如うものであるとすれば、此の勅語の青春は∴両 前節に私が到達した結論﹁十凶年の政蟹は憲法の制定方針を決定しとといふことを立謹することになると共に、 他面患洪條規の解樺に次の決定を興へることになる。即ち ∴帝囲憲法第五條︵天白宍帝国譲合ノ協賛ヲ以テ立法標ヲ行フ︶及蟹ハ條︵固家ノ歳出歳入ハ毎年預封ヲ以 テ帝囲議禽ノ協賛ヲ腔へシ︶に謂ふ朗の﹁協賛﹂は、譲合が天皇の立法構文は橡審決是橙の行使に協翼参賛す るの意味であつて、譲合は立法樺又は預辞決定樺を分有しない。 二、帝国態扶第十條に破る閣臣の任命樵は、名賃共に天皇に厳し、下院に多数をパむる政菟の領袖を以て之に 任やるを必要としない。 lニ、帝圃憲法第五十五條に依る大臣の安住は、天皇に封してのみ之を負か、議慮蜃は圃民に勤しでは之を負は I、仏や

(4)

次に望還の塩草委員であつ符伊藤の憲法思想を述べで軋たい。

霊取諷の薦め欧洲品警晶の伊藤の憲は、明治十四年大鹿奏議の際彼が取つ義持の中によく硯はれ

でゐる。之は叉賢隠蔽論纂の普請参議が連署進奏しに蕾番の中にも、明治十草年立憲政鰻に閥する御

諮絢に封皇大臣の上つ墓毒の中に豊く硯はれでゐ恵然し彼の二雷ついでは既に前節で之最扱った

から、此度せは大隈奏議の際伊藤の取つに畢摺だけについて述べて見たい。

藷仰望議豊の慧警二畜の奉答番杵現はれた思想が夫々慧者の鷺冨芝と墨綱であるが、三大臣の寒

墓に現琵た最も、伊藤が禽陪内閣内部忙於て占めてゐた地位から見て伊藤の意見であるときこて葦ない。

伊藤が大隠の奏議を見て激怒しモとは前節に述べたが、常時伊藤は次のやう毒物嘉倉へ造って嘗御免

を戯っでゐる。

筆筒並慧取調惹御下附奉肇候三軍亭上返上可仕候廟堂今月2時勢姦考仕儀患鬼にては到悪讐

鷺の品無御座候大賢此節の建白熟読仕候蜜に寛の羞論にてとても魯鈍の博毒鸞に随従候悪

果不中風叉現今癖豪の姦晶察仕候主眼も甚商法仕候読歴史畝洲の沿革欒故の迩を忽像サる長文の管見

にては彼の建白の警る桝の如く成菅谷易に得られ候忠志不存候到底如斯大腰の眼目背馳候上は賓に過

︵享≡ニ七

剰定の歴誓適して見たる帝圃窓蓮の本義

囚、壷観議命の櫓限は怒淡に規定せられたものに限られる。

(5)

叉佐佐木席官紀の誌遺品れば、伊藤は芽に此の宵翰姦りたる露の七月翌日頃大警賢しその

不首姦つ真のやうに亨てゐる。︵渡憲治邸、芸慧制要綱二言常に依る︶

﹁この避雷見るに之は誓卿よ去側の嘗で民選に任やといふ組織である。これは全く君橙を人民に拗涼す

ることで雪。卿今遠下が吉年若政権蚤驚そ・は羞∼に養ったのは天下勤王の雪が芸農芸

て初誓購窟たものである。警に遠驚僅に十川年間にしでこの大権を人民に乗つ、るといふごときは人

臣の由にだ思べからざる朗である。予息吹に樹雷警2と憲警㌻たゞ空の構成が確固鹿☆ぢ

て後初めて凰す.付きこと、倍やる。﹂ 大旗の姦︵銅詣巻鏑㍍諾慄謂閑︶憲警つゝ儲の探つたこの肇摺を老へて兄ると、佃藤のこの軒

稽は次の莞悪玉閲する雨着の意見伊州速から起ったものゝやうである。

撼姦縮の姜に御座候得共普御雷率願候外語贅仕驚喜段窟盛儀昨日も概毒公へ最仕選倣炭 質

御座候遠望警告露語公に於でも衆論昌の中豊ち惟御心配而巳にて碑乎不抜の御宕無之

ては国家御緋裳発雷夙讃嘆の登に泰葡候傲は葬鳳の寺中上候早乍軍役

第十三悠 弗四既 七 丹 二 日

岩倉右府公開下

博 伊 藤 文 ︵≡二二︶ 二八

(6)

太騒は、固禽開設運動の現状より見て、開設の時期は眈に熟しでゐる。著し強いて麓ふれば法制を破壊すると 考へ︵板垣等の民選議院開設建庖にも暑同趣旨のことが述べちれてある︶伊藤は、今月直に開設せば﹁人心漁裂 奔蕩収拾シ雑キ土至﹂るのみならや勢の趨く魔﹁或︵大局ヲ敗り大本ヲ傷ケ癖ワニ挽回ヌヘカラサル﹂の状勢を 湊致す牒と考へた。︵伊藤の日には常時の図愈開設運動は不平士族の稔らなる攣動を願ふ璃めの遊動にあらすん ば、駄洲革命の風に劫された危険な廃寺ま義超勤と映じたのでぁるか饗際に於てもかく断寒jるペき多ての理由 を凝ってゐる。︶ 二、政軍門開軌道用上の成措について するも、か∼る内観には永績性がない、政策の遽行も難かしい、と考へたっ 三、政篤内閣制と王政復古との関係について が、伊藤は、小親分立の場合には何人を以て大隊に任命すべきか明瞭でない、恨令、聯立内閣を紳繊せしむると 大隈は、戯麓内閣制︵議院内職制︶に依れば政樺切佼受は園滑に行はれ、政策も容易に途行当ある、と考べた 大隈の考はかうである。君主が人物を任用抜擢せられ 制は周民のこの輿望に依って、政府の顕官を任免する制度であるから、議員の傲に依って之を任鱒せられても少 しも東碓を毀損することにはならない。香、かくすることに因う皇室は愈安泰となり、∴孝の常儲闇償痔される1 ユ、固愈開設の時期についで 制定の歴史塵隠して見たる帝国意法の本義 ︵言二三︶ こ九

(7)

幕十三巻 第四壁

三二四︶ 三C ︵此の給は英園主義の憲碧轟用せんとし三流の人々の持論で、箕浦勝人と藤田茂吉由名に於て掲哉されたが、 膚は稀澤諭吉執事の﹁郵便報知新聞﹂政談﹁固脅論﹂明治十二年八月十二日にも同様のことが述べちれてゐる。︶

伊藤の考は丁度その反封で、議院内鞠制は国展に大権を附興するものである。王政復古は統治犬植の復古で

ぁる。統治の大権覇者に在る者を復して直に人民に2を附興し、侮日ら畠窓々忍んすと音ふが如きは、循嚢の断

層﹁頼朝ガ覇閻ヲ鎌倉晶メタルハ好雄ヲシテ永ク皇位ヲ兢寮ノ心ヲ絶セシム﹂と云ふの定論主殊ならない。之

が伊藤の考である。

さて囲令開設時期の問題は憲法忠恕とは関係がないから2を省富、鉾二、筋主の両鮎から結論しで見ると、伊

藤の思想は政義内閣制は王政復古の精紳に反するから絶封にいけないといふに辟する。これは取りも直さや、大

楼内閣義攣天皇親政主義の主管ある。而して前述諸参議邁著の意見瞥、三大臣連署の奉釜簡明はれた思想

も大樺麿開主義、天皇観政主義であるから、常時に於ける伊藤の憲法思想は、哀して大棟内閣主義、雷義政

重層であると言って差受へない。

伊藤の駄行以後に於ける思想−伊藤が欧行に依って得たる思想は之を知る資料に乏しくない。しかしその最

上Ⅵ資料たる憲法草案及その説明は、憲法解棒の直接資料として後に別に之を取扱ふから・此魔では之を除き、

その他の資料に依って伊藤の常時の思想を明かにしたい。

蒐づ液初は伊藤が遠沈合縁の努頭行った起草大意の詮明を資料としで彼が審決の機軸を河鹿に崖くべきだと考

(8)

へにかを究めにい。伊藤はその中で次のこと空言つでゐる。 ﹁速攻政治は東洋諸園におい︹未だ曾りて史上行はれたことのないもので、我が日本に施行することは登べ新 創のことである。されば寛魔の結親閲家のために有益であるか禍害となるかは今日漁期し得ないのであるが、 二十年前既に封建政治を厳したる以上、立憲政治を外にしで他に国家経営の良途ありとも忍はれない。されば 嘲 我々は、ぞの始めにおいて故も憤盛にし有終の莫を全うせねばならない。立憲政治は歓洲においては、その萌 芽速く往昔に賛するものであるが、我が国においては全く新面目に屠する審柄であるから、今憲法を翻嘉する に際しては、依っでもつて立つべき機軸を確立せねばならない。これを確定せすしで、徒らに働民参政を許す ならば、圃家の統紀を失ひ国造衰滅に向はんも測り難いと思ふ。捌々欺洲においては憲法政治騎芽を敬して 千飴年、たゞに人民がこの制度に習熟せるのみでなく、まに宗教の存してこれが機軸をなし、深く人心に浸潤 しで人心これに臨〓しでゐる。しかるに我が国においては宗教なるもの何れも頗る微力であつて、何等囲豪の ∴機軸をなすに足らぬ。すなはち我が閣にあつで横軸となすべきものは、ひとり皇堂のみであるひさ鶴ばこの審 淡草案に於ては、寄ら意をこ∼に用ひ、軍機を後塵して成るべくこれを束縛せざれんことを努めたのである。 人戎ひは君植強大に過ぐるときは濫用の恐れあらと富ふものもあらうが、もしかゝるこ上ある時は大臣その賓 に任すべきであるごしの他にも濫用を防ぐの道はあるのであるから徒らに荘川を恐れて常櫓を狭小にするのは 造機なき訟であ告かくて本革案においては、祭植室上、これを機軸としひとへに欝橙を毀損せざやJとを期 制定の歴史を通⊥七見たる帝国憲法の本義 ︵三〓五︶ 三山−

(9)

儲十≡容 第甲渋

○≡六︶ 芸二 んたのであつで、欧洲に於ける主格分割の精神にj渇す、また常民英治の如きも我が怒放とはその揆を異にす るものである。﹂︵足佐竹猛・日本意法制定史撃︼八四・こ八五常に依る︶

之にょると伊藤は悪法の機軸か夷皇に密かんとしてゐる。是は所謂大鹿中心主警、主橙はすべて天皇に集中

し、誌愈は之を単なる翼賛磯幽としでゐる。

次には伊藤が明海十草年秋雄納から猫逸へ廊釆直後に認めた曹劫の嘉と、患毒草中に記した手記の壷、

それから憲法療布式の直後府腐食議長になした演詭の三に依って、政蕊内閲制に関する彼の見解を槍討したい。

︵こ伊藤が鰊納から濁逸へ躇来復二度日にグナイスJトの講義を開く前に認めた嘗翰の茹であ㌔

﹁今普政讐論ズ㌦者多クハ、英国ノ試合数響以テ模警讐シトス、而シ昌カラ云、帝誓雪ズト、

蓋シ議霊響創故セントスルカ、覇権ヲ減削セサルヲ得ズ、帝権孟ンゼントスルカ、議倉政府ヲ翔フル舶

︿ズ、愚惟ラク誓ノ見、慮共和こ偏重シテ、妾票数治二反スト、若シ識者ノ軍て妄、豊ヲ盈ンズ

ルモノトセバ、恰モ頼褒ガ所謂、頼朝ガ覇府ヲ鎌倉二創メタル︿、好雄ラシテ永ク皇位ヲ親祭ノ心ヲ絶セシふ

去ノ慧弼二殊言ズ、而シ一志音叉英国ダ淵汝沿曹推警ザル老ノ如シ、怨固ノ基、已二警年二於テ今

一応胎スルモノアルガ如ヱ︵尾佐竹寧日本態法制定皮攣6九・三〇亙収録に伐る︶ 法再伊藤は明哲1五年の五月→六芝ぺルリンに到着し以東其の年の星迄と眞休後翌年山月衰頃迄三河グナイス⋮

モツセから審問的論義を開き、其の聞入月から十月へか望月許り維紡でシ言インにつき国家の括用竺関する威

話を調いてゐる。

(10)

︵二︶後年倣洲から鋸朝後適法庭草申に記され仁ものだと青ばれTゐる手記の叫節 ﹁英樹主琴 王ハ王位アルモ統治セス 此主義ヲ属わセントスレハ、王歎後古非ナリ、我皇軌殆ンド七宙年制其統治ノ大柿ヲ傘ア、覇府正接奪セラレ クリ、.然レドモ史位皇統ハ辿軸外り、‡政復古ハ.弼謂、統治大株ノ後宮ナリ、宵等八倍ズ、統治ノ大横覇者三 水ル者ヲ後シ、直音之ヲ衆民二附典シテ、嘉盤ハ依然其統治植ヲ失ス 如キハ、日本臣民ノ心 治郎‖甘本意法制定史論八一ニ・八四寛政銀に放る︶ ︵三︶伊藤が怒漁礁布式典に参列した府腺禽議畳を官邸に舟過し七為した滅詮の二伽 彼はこゝで義横は憲法寛蒐後に於ても⋮餞として天栄に巌すること、従って、政府は天皇の政府なるこ.と、▲政 肘は不偏不寂静ら囲威の宣揚と臣民の事締を念とすべきこと、政光政舶は基利を計る不利あることを述べた後、 次のことを言つでゐる。 ﹁肺ボの大勢は能 定する桝を按じ議倉の前途を考ふるときは、我∵天皇陛下九五の位を適し大政を統治し給ふに在り。欧洲二哩 の輿卦中にはまは叫閥を統ぶるも叫囲を統治廿やと唱ふるものあり?英問の政髄は即む是なり。我姉乱本の政 制定の歴史を通し七見たる帝国葦法の本哉 バ ︵三こ七︶ 三三

(11)

弟十三窄 弟四蛮 ︵三〓八︶一事四 億に於で、天皇は仙切の困棟を親授して此観を統治し給ふを以て、宰相の進退∴つに勅裁に出でぎるべから す。素より衆望に協ふと香らぎると∵叉た能不能との如きも 陛下親ら裁鹿し袷ふ研なら。而して宰相は岨圏 の安住を帯び脚家の安危を姶ふるの材能を壁用せらるべきは亦論を待たざるなり。今後議脅を開き政事を公議 輿論に問はんとするに懲り、越に譲合政府即ち政教を以て内閲を組織せんと望むが如き、最も至瞼の寄たるを 免れす﹂︵大津浄血郡・大日本憲政史第一三谷二六四茸批銀︶ 此等の資料に依づで托ると、閣障の隼命椎に封する彼の考は⋮単に名義上之を天白㍊に蹄せしむる以で満足せす、 資質上も天皇の大横に膵せしめやうといふの下ある。さうして其の埋山とするところは政繋内剛廟は王政復古の 精神に反すといふのである9功績の大小は別として‡政復古の大柴に垂意じに伊藤としてほ正に斯くあるべきで ある。しかし伊藤のは政基四囲制の否認であつて、政教内閣の否認ではない。解り易く冨へば、閣臣は必す下院 に多数を有する政其の領袖を以て任命すべしといふのはよろしくないが、聖應により政教を基礎とする内閣が組 織せらるゝことあるは喜文ないといふのである。其の根凍は次の政来観の桝へ譲るが、このことは明治十五年に 既に伊藤が稿池濾凧邸等をして立窓帝政瀧㌢細絨せしめたことある薗麿、同二十初年肖ら政茶棚繊を金牌して成 らす、三十仙年遼に政友禽を創立した寄貨に依って詮明されると忠ふ。 次には山田可決刑へ磨った伊藤の晋翰、憲法憩布式の直後、船堀脅議長へ為した伊藤の臍訟其の他を資料とし て政茶に封する彼の見解を調べて見たい。

(12)

伊藤の政来観は明準朔年以来硯蜜に存在した政義に封するものと、彼の理想とした政筑に封するものとに別れ てゐる。 先づ硯貰の助寵に封する見解から富へば、之に封する彼の見解は極端に香鑓的である。それは常時の政策が、 天戯人権圃民主樵の詮を蕃慮して自由民槽を主張し︵例べば明治七年■月設立の愛囲公準同年四月設立の立志 踏、・同八年二付設五の愛園酢︶若くは署民共済を理想としで政筑内閣制を標傍したからである.彼は十五年八月 二十廿日峡洲より山川司淡卿に肥った寄勝に次のこと堅討つてゐる。 ﹁政茶は議昏みれば肖ら視るゝ者なれとも、今日我財の現状の如き者には非や、我園の現状は政常に非ゃして 栓塞を耗び衆力を以て翠玉棟を別錮又は破却せんとするの意を合轟する者なり1之を明言すれば反逆麓の外に出 でず﹂︵摘謂舶爛硯詣翫︶以て彼の宕の全般計卜すべきである。 彼が理想としに政寓即ち幽鰭に悸らない政寵に封する彼の見解は姶よぅ肯定的である。殆全部の単者は、伊藤 は野埠三二年に否認論より肯定論に十伸したと考へてゐる。︵明治三十叫牛は彼が政友愈を組織した年である︶ さ㌢してその諭擦とするところは、鞘に掬げた山田対義ぺの苔功、是も前に述べた肘腐食舐長へ・の演説﹂それか ら明治三十′㌣年の政教細織にあるが如く・である。 然し司淡卿距附頗羞への牟の葦翰に硯はれた否認論は、硯饗の政嵐、彼臥所謂反逆盈に封するものであつて、 哩憩政魔の否認諭ではないや甘は腐願密議葬れ.切賦課はどうか・。之はその文事を蟄槻してから考ぺよう。︵以下府 制定の歴史を遺して就たる静観憲法の本義 ︵三二九︶ 言五

(13)

慮簡裁長の演野火沖渾叫郎、大日本憲政兜讐呑二六三、こ六四買収奴に依る︶

﹁次に予は政義に論及せんとす。故に各地の人情風俗讐晶ハにし、各其の利審を周ふせぎるの郵あり、府鷹合

と雌独且つ小鼓次の存するを見る。況んや憲法を設け議命を開かんとするに営り、競演の怒るは人類群集の上

に放て免るべからざるの顛なり。然れども、地目関東の政事哲臣民代表者の議決に附するに常りては、其利審

は毒腺の利審得失に非すして、則ち薙て全図の利宰相失となるべし。故に瑚も帝囲議倉の議員たるものは

畠恩の選挙せられたる義の臣民を代表するにあらゃして、全囲の臣民一曾代表し、放て郷里の利寄に拐踏せゃ

して、批く全期の利宰相欠を洞察し、寄ら自己∽良心を以て判断するの鬼悟なかるべからす。然りと弾も、互に

其の慧真にするに苧は或品警生すべし。寧︶試要は諒倉に於て莞の興起するは免れ難しと雅

も、姦仰の教派は甚だ不可管。予は明か裁に蓼開上の講究を管ゞるを得す。抑も軟酬の笈派の如きも示

壷よりして、基累次の箸残すや警り政望の主義目的ある墨すと雌も、警物々に其の鼠姦寄る

ものにあらす誼となれば時と場合に依り、政府は2に連座するの廃艦を雄きるべからざるの薯守あるものな

れば苦。故に瑚姦府警もの、其れは彼戴の焉なら此れは我麓の雷管として自篤か庇攣ることあるべか

ら笠響政府は霞威憲揚し内に勤しては臣民㌫般の謡姦讐ること芸はぎるべからす慮れ政富

行の烹諾して政府其のもの晶有の鶉警りとす。或は自親の唱道ずる桝も時ありて之を排撃せざるを得ざ

ることあるべしっ其の遭遇したる時横と場合とに依りては、此の如き廃艦を聾するは蓋し勢の免れざる斯なり。

撃三宗︼ ∴第粗補 ︵三≡○︶ 三六

(14)

凡そ政親政府の園を刷るに耕すべきものは甚だ櫛なり。し既に前に述べ㍍るが如く、我囲に於て主椛は之を、 至尊に節するセ以て、天盛糀下は金団を統治し給ひ・韓相は天職を行はせらるに付ての極弼なるのみ。而して 其の輔弼たるの任に至りては、這の分義なかるべかちサ?悲し釈義は指民の上に枕し政先の外に立っものな り故にちの賞状の駕に利を典へ他の賞状の為に省を帽ハふるの政治を施すべき泉のにあらす。即ち不偏不灘な らざるべからす。文革相ほ吋蕃を献懲しで天職を輔毎し奉るものなるを以て、政肘をして常に笈涙の左右する 朋たらしむるは甚だ容易ならや。敵洲の醒兜・を綿て端渓政府の跡を見るに、常に⋮の常は必す之を行ひ必ず彼 を排くと云ふ叫定不動の主義を躍るに非や、時ともて批時人民の東西に分れて#に勢を㈲甘んとするの槻なき にしもあらや。誠に先派政府を以て糾せらる\ゝ英囲の内閣更迭の跡に裁て之を削るに、必ゃしも道理にのみ支 配せらるゝにあらゃして、多くは偶然勢の黙らしむるものなりと認むるも敢て不吋なきが如し。而して英樹の 事情に照せば場合に伐ては就掘政肘の利なることあり、文金く然らざることもあぇべし。此の事たるや我囲に 於ても亦今E−に至るまで、既に叫の聞及たりしを以て怒淡獲布の後に在ては大に考慮すべき各項なるを侶じ、 予は予の所見を玖臓なく批露するなり。 慧兄賞状は民間に凝りては止むを得ざるの結果なりと酬も、赴を以て政府にあて及ぼすは難事なもと思考せ ざるを得す0賂釆の大勢は鮨r二人の抑制又は作為し得べき桝にあちぎるを以で・容易に椎茸する一軍得すと鞘 ・思、慮抜の規裏する桝を按じ議倉皇剛途を肇ふるときは、哀史は⋮例の囲擢を紙癒して此図を統清し給ふを以 制定の歴史を通して見たる帝閲憲法の本義 ︵三三こ ≡七

(15)

第十三啓 発四味 ≡ニ三︶ 三八 王事相の進退柵つに勅裁に出で㌢る ら裁堕し給ふ桝なり。今後試食を閃き政事を公議輿論に問はんとするに苦り、遽に識命政相即ち政基を以て内 閣を細織せ.んと望むが如さ汲も至険の番たるを免れや。﹂ 此の演敵中予論者︵明治≡十∵年に伊嘩の政先偶に太極換ありたゎと主張する論者︶が好んで引用する桝は﹂岨 政府の篤派は甚だ不可なと﹁宰相は可蕎を献藤しで天職を輔作し奉るものなるを以で、政府を心で麓濾の左右 す各所たらしむるは、由だ容易ならす﹂の文字である。七かし此の文字の前後をよく弼味して兄ふと、此の文字 は、彼の場所に出て釆る、政盛内閣制否認の論墟として、政親内閲の弊蕃1卜幽利監心れて昆利哲計る弊害を撃 示したに過ぎない。コ政府の兼派は不可灯り﹂といふのは、激賞をして内側を糾絨せしむるは不可だといふので はなくしT、政先によりて粕織せられ仁る内閻の盛況的行動は不町だといふのである。同様に﹁宰相は可膏を献 替して云ヱの文手も、挙げられて輔弼の職に就く以上たと監澤員政家と雌外よりの春暁は詐ヤぺからやとい・ふ に外ならない。所謂﹁不偏不罵﹂は政競の外に立ちて公平甘れの意味で様なくして、政晃内閣にありても不偏不 筑たれの意味である/。即ち、仝膿の論は、政戴内腐制の否認であつて、轢裾内閣若くは政弘の不認ではない。否 認されるものが政来月閥剃であるとせば潰謝の箕字を以て政先否認論の諭撼とするは細りである。 では↓何に依つで伊藤は政来意月晃したといぷか。.恥は裁で二つ、の冷媒を額げて兄たい。 伊藤が政喜怒月定したといふ私の諭墟箭二つは、伊藤が明治十五年以来屡々政兼押紙を計謁したといふ革質で

(16)

ある。

伊藤は自ら政友禽を紺絨するまでは轟に政蒐内閣を否認するのみならす・政先が内閣を和紙することにも反封

したとは﹂般の侶するところである。然し、奇貨は之に反し、′十五年以水屋々政教紺繊を計諭してゐる。其の最

初は明治十五年の立憲帝政衆である。此の郎は自らは陣頭に立仁す、稲城瀕−都政示して組織に常らしめでゐ

る。次は明治∴十川年の政親許詣である。この時は、自ら表面に立って組織に常ったが、、出願等の弥懲反封に適

ひ、天皇も埋申公明ならすとして許し給はなかったので断念した。敢後は明清三十︻年の政盈料紙である。常時

伊藤は枚隈内聞の後を承けて大政空理にあにつてゐたが、進歩塞との捷携も成らす、目叫菟からも絶縁状を突き 爪ド

つけられたので、途に決心してnら故基糾鵡に着手.し、此の度は成功した。赴が政友愈の始である。

さて、液彼の政友合は別としても・伊藤が十戴年、∴十川年と二向迄も政琴ピ糾織し又は糾絨せんとしたこと

は、伊藤が政教及政罵内槻藍円足し㌢Jとの論棟となら克いだらうか。私は立派空論嬢たり得ると侶サる。 溝川 帝政菟は常時の参洩発券軍院議及伊藤博文を中心とし、長洲系の大官井1禦参議求外務嘲︶小田姉襲象耗粂内務

刺巻の首唱に依って組織せられた政簸であるが、其の計凄忙参加し、其の嚢任と躍動の衝に写ったものは、兼京日

々新聞の政長庵地源一郎、明治日報の創刊者丸山作舞、東禅新報の証農水野寅吹郎、元の曙新聞社長であつて、常

時東京日々新聞の主筆たりし岡本武雄の人々である。︵大津渉劇郡、大日本憲政虫邦二撃品九貰以下に伐る︶左忙

其の政綱考掲げておかう。

故意帝政辣の罫餓綱領

制定の歴史を通して見たる帝隊旗渡の本義 ︵ニ〓ニ≡︶ ≡九

(17)

是は欧行前の伊藤の思想を知る仙食料と・もなる。 艶2 政友倉の創立経過は鏑係讃の思想敦知る上忙参考となるから尾崎行雄著﹁日本憲政址を語る﹂忙依って揃話を劇〓 策十≡啓 発四渋 ︵ニニニ川︺ 四〇 我文意帝政鼠は明治八年四月十四日及則治十四年十月十二巳の勅諭を奉戴し内は濁世不易の閲鰭を保守し公衆の 厳庵腰利を畢附ならしめ外は鯛機を按張し各囲に封して光粂を保たんこと盈典ひ漸に循て歩を進め坪静忙泥まず 躁念を郡元ず恰K秩序と進歩の併行を求め似て闘安を保持し以て改進を計登せんことを彗冒す依りて尭忙抱く る斬を以て我戴の綱領と定む。 弟山草 弗二単 発三単 発四箪 親玉韓 節六革 弟七草 罪八草 非九準 節十革 節十仙革 観食開設は別冶二十二串を期する。と敦勅忙明なり我蒸之を慈恵し敢て其伸縮避妊革議せザ。 冤法は 驚天子の親裁忙出ること聖勅忙卯なり我親之を遵奉し敢、て欽定態潅の別忙漣はず。 裁量例の主櫨は 艶天子の滞り線掩し給ふ俳たること%論なり而して共施璃忙至てほ憲法の別に依る。 憐骨議院は雨月の設丑を要す。 代議人速歩は其分限資格む定むるを要す。 固倉誠院は閲内忙布く法律を議決するの機あるを廃す。 翌天子は頑骨組院め決議を裁可し若くは裁可せざるの火種を有し給ふ。 陸海軍人をして政治這干渉せしめぎるを賓ナ。 司法官は法律制度の璧噺するに従て之を猫立せしむるを要す。 隣攻及秩序に妨音なき巣食言論は公衆の自由なり演説新聞著番灯共法律の範腐内に於て之を自由ならし むるを要す。 珊肘は漸次忙現今の紙幣を欒じ交換紙幣となすを要ナ。

(18)

と符へた。しかし、山願は未だ追撃の予をゆるめなかつた。 制定の歴史を癒して見たる帝凶憲法の本義 拾って見たい。 伊痛が政裁組織の決忠を閣議忙骨げたときのことである。閥見は唯顔を見合はす詐りで山人とLて蟹富ナるもの はなかった申に、段落額大臣金子野火耶薫は濁り取つて、 ﹁私は不竹ながら先年憲法敦元の思時既に政盈組織のこと革進言し憲政を先供すろのはこの外佗ないと言った。 今日閣卜が政鼎組織忙志されるのは劇大進歩であつて、国家のため産徽忙域へない﹂ と諾ったっそこで閻高〓人の輿沌讃なくこれを承認した之いふことである。︵﹁日本悪政虹を語る﹂土〓五五寛︶之に よると金†氏は初より政蒸を基礎とする内閣の存在を儀定してゐたことが解る。 吹は伊藤が元老骨髄に政戴組織のことを調ったときのことである。伊藤は紘々去冬元老曾誠以米の政局の著しき 攣化を説明して、政務組織の已むを得ぎる旨を述べた。すると山賭は猫然且って反封を嚢明した。 ﹁なるほど政鼎も議院制には必要であらう。我等も決して賂封に政鼎を否認するものではない。しかL易は内周 線現大臣の職忙在りながら、その同志を糾合Lてこ鼎を槍てんとするのは、鈍らに官民の抗争を激賛するむので あって、政党あ上から見ても、決して上乗と鱒雷へないりまして政府は、何れの政務に封しても公正でなくては ならぬの忙、親理蔽象の典鼎があっては、公平を失ふまいと思っても、できないことである。元は切に伊疎佼の 思ひ止らんことを希望する。﹂ 伊藤は少しむつとし、之に射して、 ﹁我蟹は志すで忙決してゐる。著卜現職にあつての結果がいけないと富ふならば、軟く甘粕の印綬を解尊野に下 って政鼎を組織するのみである。﹂ ︵≡ニ⋮五︶ 四一

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策十二番 儲四部 ︵≡士こハ︶ 柑二 ﹁たとへ現職を養って点茶忙従寄せムれるとしても、予は臥して止むわけ忙はいか氾。伊藤侯は元老ではない か。元溜は陛下に封七奉り、国家の至賓笥大なる條件について、異変するの地億にある。その元老が∵方の政為 に最たる以上、発して仙鼎仙涯忙偏せずといふを︶るか。予は断じて伊藤侯の踏戴に反封する。﹂ すると伊藤は、いよく激怒して﹂ ﹁内閣組理大臣としては不叫ん。また現職を節しても∵冗老だから不可んといふならば、我聖は縫封に政策を組 織し待ずと雷はれるのであるか。然らば我輩ば、動静小切を秤即し、i偶の平民として結鼎に社務するだけであ る。仙平民として終蒸する以上元老骨強に御謝りナる必要は全然ない。﹂ と革∬切った℃然るに山願はなほも執拗に1 ﹁それほどまでの御決心ならば.、我璧また何をか冨はん甲である。Lかし友人として三富はせていたゞ逐た い。﹂ と前提して次のやうなことを育った。 ﹁伊藤候は憲法取駒を了して廊朝せられた時、強迫の牽問の進歩と政給組織の完備Lた賓情を語られ、周務大臣 は天皇忙封してのみ麗任を寓ふべきものであると高唱し、わが国鱒において参考となるのは、ひとり猫逸あるの みと論ぜられたのを傾聴した。帝国憲法もその主義に凍って立案せられ、議曾忙封しても、その趣旨で臨み衆っ たのである。しかるに伊藤侯咋、如何なれば官ら政戴を組織し、碓蒸の鼠璧と相岱して、政蒸内閣の哨を啓かん とせられるか。政務内閣はわが閲髄の破壊である。金殿錬鉄の帝国をして、一の民主政治に陥らLむるものであ る。予は伊藤侯のかくの如牒豹欒の理由を費見するに管しむと同時に、′衆人の丸播から、侠の再考を切為してや まないものである。﹂

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伊藤は僻も威せず、山雌と富ひ争ったノが、つひにその動かすべからぎるを知るや、突如起って.闊外に出で、直ち に天顔忙埋尺して奏上するところあり、翌日閻魚の節米を纏めて脚下忙捧具し、自らは首相の印綬と共把、勤位蘇 鰐をも奉避することの御許しを請ふた。勃笛拝辞忙ついては御辞しのなかつたのは無論であぁが、伊藤は所信K邁 進して、九月十九日波音政彦倉㌃創慮した。︵﹁日本憲政史豊冒﹂上告ハ畢⊥きハ七茸︶ 之に依って菅々が救へらわること′は、山路は倣低的な政鼠膏認論で、政策が内閣を組織することすら許さなかつ たことであか。伊藤は政教内乱制を否認こそしたが、骨錦が政黙許蚤ひて内閣を純綿すること汚も苓認はし甘かっ た。とゝに山桜が政蒸組織忙皮剥し、伊藤が之を放てした所以の理由がある。しかし伊傭は、義政冶家のや 撰を足暴とする馬に、富ひ換ふれば、之を手段として政他を獲得する席忙政盈を組織せんとLたのではなくして、 自己の政鷺数賓行するが秀に、その卓疲として政菰の組織を企間したのである。政他の推得忙は別に管労を要し なかった伊藤元とりて、政兼が政機獲得の手段でなくして、政策箕行の手段忙過ぎなかつたことは、埋の嘗然であ る。癒しこの悪殿の相遮が、政戴の性質に閲する兄妹の相造を招氷する。この鋸については本文で述べる。 伊藤が初より政常患円盤しにといふ諭摸の彷二は、疲が創立しキ政友禽創よ宣言の文字である。 ﹁抑も閣臣の任免は憲淡上の大横l=魔し、非簡接種川、或は政基員よりし、或は親外の土を以てす、層元首の自 由意志に存す。而して北ハの己に輝げられて帥粥の職.に就き、献熔の事を行ふや、兼良政友と離、決しで外より 之Ⅴ容唆するを許さす。、苛も此の本義智明にせぎらむ乎、成ば政横の運川を換り.、或は観力の軍奪に流れ、其 審富ふペからぎるものあらむょす。予は同志を基むるに於て、全く此の鰊風の外に璽止せんことを期す。几、そ 政濃の国家に封するや、其の金力を埠げ、叫苛公に車するを以て座とせ 制定の歴於を通して見たる帝図憲法の水盛 ︵三三七︶ 拘三

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弟十二葱 第四批 ︵ニ〓ニ入︶ 四四 以丁開運の慧ハに作はしめけとせば、姦の資格密謀け、先の内外を問ふことなく、博く通常の撃散辟験を鹿 ふる人才を収めぎるペからす。茶員たるの故を以て地位を典ふるに能力セ論ぜぎるが如きは、断じて減めざる ペからす。地方若くは圃憺利害の問題に至りては、亦叫に公益を以て準と馬し、授急を按じて之が施政を決せざ るべからす。或は郷賞隅健に泥み、或は舘豊の諦托を受け、伽∵言に戴授を以てするが如きは、亦断じで不可 なり。予は同志と共に此の如き地番を酬沈せんことを希ふ。﹂︵大枠浄㌦那大日本憲政政策五番二義、二こハ箕救銀︶ 政簸畜を以て内閣を加藤することを政先日らが違態とする筈はないが、此の文字は弦初に汲塵芥点て紬紳する 内閣の違憲に非ざることを明許し、この新通の下に政尭内閣が笈利の篤めに囲務を犠牲とすること曽警め仁もの である。然らばこの文字も亦政駕肯定のよ珊城となる。 伊藤は虜逆政詫、民、‡的政盈は之を蕎認レたが、理想政琴問膿に傍らぎる政筑は終始之哲骨東レにのであ㌢ 伊藤の政展観克は今∴つ確藁弄ることがある。それ霊政罵の仲買についてゞある。 私は前の詰に於て︵囲三蛮︶仰戯が政親密料紙したのは政策の智行の馬であると音つに。伸厳にとりでは政端ほ 寄政の道川の焉にのみ必要であつたのである。従って筑員は、彼の政策を倍率し、紹割にその命令に従ふもので なければならない。之れ彼が弼裁政治家若くは外見的立藩政治家と呼ばる∼桝以であり、又その政紫紺怖が結局 に於で失敗に経りたる桝以である。︵彼は政友禽を創立しその総裁とぢつにが眈域股賞の寄せ集めであつた蕎め 凝畠の統御意の如くならす三十右ハ年覚旨を舞するに及び造に政友と別れで枢府議艮となつた。︶

(22)

然し我が国の立憲政としては伊藤の考は決して淑りでない。之を非立憲的と許するものこそ、却つで我が問猫 特の豪速政を知らないものである。我が圃の立憲政は興野寛琴空し天皇を翼賛し奉る政治である。而もこの衆智 は、小我を琴しゝ大我につき、靭家的見地に立ちて囲利を念ふ多数人の智膿である。己むを得すして多数決には 放るが自利を念ふ多数個我の衆智では決してない。 児童囲にありては、圃家は之と封立し、之と弼立なる個我の利益の為の制度である。正憲政治は、欄我の利益 の為に、多数窓思に依りで行ふ政治である。面しで多数意思は、各々自利を追ふ弼立偶我の意思なるが故に、こ れは暦に圃家を念ふ多数窓憩に依る日本の政治とは越智興にする。これは小数の犠牲に於て、多数が臼利を計る 政治である。兎も角民童閲にありては、閑寂は璃立存在な有する佃我の馬の制度である。従って政治は、多数先 に依りて為さるべきであb、裁許は多数者此を代表するものでなければならぬ。見が所謂立憲政治家である。 伊藤ば以上の意味に放ては立怒政治家ではない。絞れは臼己の意志に踏推し、その嘉義を慮惑する多数を傘ひ ん・≠し持からである。然し、我が国の場合に於ては、それで差支へない。多敬意剖を代表する場合に於ても、多 数恵山心は他人的利盆を念とする多数窓忍の代表であつてはならぬ。叉多数意思を代表するを難曲としで政樵獲得 の槽ありと考へ.てはならない。それは民主国、磐くは麿質土民壷観たる政錆内閣制の囲豪にのみ通用する議論で ある? かくしで、、伊藤にあゎ一て、政筑は虞に圃家を念ふ偉大怒る叫人によりて指導され、引率せらるゝ多数人の閣倍 制定の歴史を流、して見たる帝国悪法の本義 ︵三三九︶ 四茸

(23)

鱒王壷▲ 第四壁 ︵三四〇︶ 望ハ

である。政友愈の綱領は、この事を雄料に物語ってゐる々是が伊藤の政篤観である。

次には伊藤が磨際に行つ立憲政の運用を適して、天皇政治に射する彼の見解を考へて見たい。

義挙者の考では∵不皇は試合の協賛を杓づで、又は大伍の輔弼を待って大横を行政きれる心枚に受身であ

号殊に天皇は政治については、無責任であり、責任を負ふものは大筒であるから、天皇が種麹的に大権を行使

きれることはぁり待ない。ナ︺れが叫般の考のやぅである。

伸戚の考は之と大に嘩義ハにする。伊藤によると、輔弼は天恵の略表ではあるが、大横行使の紫件ではない。

故に棄権は輔弼に先手言も又輔弼に反しても蟄劫する。之に反し協賛は大横行使の螢件である。故に協賛に先

立ちて大穂の蜜刻することばないり然し協賛憩悲の決粟に発意ち、烏合望が議禽に抒を伴へで、試合の微ふべきと

こケを示し給ふことは、之と矛眉するものでない。故に之の形態に於ては、犬撥は協賛に兇立ちても終動するや

即ち大権は輔弼に魔す事項についても、又協賛を要する事項についても積極的に譜動する。之が日本の天皇政治

である。

伊藤の此め見解を読経する伊藤自らの文献は今私の手許にない。然し彼の饗践した憲政の運用が何物よりも明

健に之を傑諾してゐる。

灘の叫は明治二十糾年妨二譲合のときのことである。試食は預罪に閲し松方内㈲と桝兄を異にし、怒政の前途

は蜜に餐既に堪へざるものがあつた。・このと、き仰麒は自ら政治の房に賞つでゐたのではないが、之の状勢を見

(24)

て、時局収拾の途は、勅諭敏謂ふの外なしと肇へ、自ら勅諭案を起革し、次の意見を以七井上毅に籠すところぁ

﹁試食に封しか∼る手段怠ることは、欧洲悪法幽の常例ではない。百分も囲より之を知ってゐる。しかし接

淡の智慧東方未曾有めことで、今口は£最大ぢ試験期である。西洋諸国の糟粕のみを聯めて、この囲歩の

搬雑纂がんとするのは、自分の好まぎるところである。報が天皇は肱淳の父母である。今是淡制度の危機

に際して、その救解に天皇に墟らゃしてよからうかり﹂

井上は伊藤から意見を級されふと、更に之を仰東己代治に謀つに。しかし伊東は此の時は未だ典の時期でな

いとして之に反封しにので、伊藤の議は寒行されやた潜んだ。︵汲趨幾治郎、鱒杢鱒準嬰謂二讐ニ、蒜芸忙伐る︶ 其の二は、・仰藤が臼ら内管紳絨しで解明警に臨ん≡きのことである。1仰藤は議愈と黎に闘し芸術爽

を釆し、議禽ほ内閣膵動上奏痍を融通しで内観追つに。然し議昏を解散することも、紙断機を淡掌ること

も、・時局多難の折柄望に不利であつ忘で、歪は喋く時局を蛤念せさせ袷ひ、伊藤の率菅驚て明治工

夫年二月十日各圃務大臣各艇密顧問及嚢衆両院議長名さ品ひ、1E螺に御して、親しく時局匡済に関する詔

勅霞させ警た。之が明治二十六年音十日の所謂刺協の勅讐あ恕

発出天鬼面此の詔勅で↓宇和列由ノ進妙音宣言警芽ノ警官町紛雷ヲ険ク▲シ警大計ヲ退レ以テ圃渾進韻

ノ警莞蒜キコ与ラ蒜晶幕ノ威警蛋スルノ志蒜芸蒜ノ契典ブ故ムルノ彗非ザルナ蒜ハ雀

︵三相二︶四七

制定の歴史を通して見誓帝国窓潅の本義

(25)

第王墓▲ 第四胱 ︵三由〓〇 四入 廷ノ曜僚尊信任シテ英ノ火事チ終始セムコトヲ欲シ叉人民J準艮こ傭籍シテ躾力日夕ノ憂慮チ分ツコーヲ疑ハサル

ナどと仰せられ遠雷問警なつ患法禁十七嫌わ誉については藷霊宝の保障す⋮蓬であ孟

ぎ今に於て紛絨の曾なすことは許さぬが、特忙牒臣忙命じて行政各般の整理を行ほしめ必賓に碓ひ稔ろ蒜弼熟

計仙窟盲晶せしめやう。唯凶妨の慧至つ七、は首もウ音響ナ晶に行かね。拘つて警内廷の警官今

後蓋丁間毎年象拍鵜鹿甘辛而して娃舷の資財に充てしめやう﹂と仰やbれて懇ろにヒ下の和協を諭し繚ふた○

奥の言明箪二糾怒竿五議脅の

十ときのことである。相応は北碑番攣の後を更け、必夢な軍費を支耕する弱

め、増税の計韻を読て∼議傘に提案した。衆議暁は典盛が多数をーパめで之夢通過さしたが、貴族院は公債に、よつ

で之笠舞すべしと琶、.数次の停倉→元署の調停に拘らす之憲警んとしに。伊藤は薦第査

‡告賢御槌

がりし、次の詔勅イ笠刷ふて局面を極回したq 般嗅外ノ形警告深ク時局ノ灘ナルヲ姦フ!嘉テ必要′軍費ヲ友郷▲シ並二財政ヲ華周ニスルノ計轟ヲ五ツ

ル∴誠晶衣ノ急務三軍ス験兜こ議倉ヲ開クエカリ革スニ娯力意ヲ以テシ而シテ政府二命シテ提出セキメタル

増税諸法案ハ眈二衆議院ノ議決ヲ粧クリ

験ハ出炭員各ほノ忠誠・ナル必ス牒力日夕ノ憂ヲ傭ツヘヰヲ南シ速二廟減ヲ翼賛シ園家ヲシテ他行ノ櫨ヲ始ササ

ラム.コトヲ璧ム

明治≡十川年三月十三凹

地の詔勅に′は副審が′なかつた。′事柄の1性質上副署は確認でないと考へて故意に副署をしなかつたものの申うであるがそ

(26)

の秀下院から訪問を受け番を送って輔弼の良性を固唾するもの桓非、ぎろ旨を明かにし恕。 づて以上の三軍箆中二りは伊藤が斑際に勅緻督辞した場合であ・ウイ∴つば勅許を辞せんと計覇した場合であ る。その何れにするも、か∼る行動は、天皇政治牽積極的なものだとする思想の下でなければ馬し得ないことで ある?彼の天畠政治に刺する思想は此等の行動より克て精機的だと結論し得る。 然し、御協哲葵諭した彼り行助には、議静政治家の方衝から、衷龍の袖に稔れて非立悪を焉すものだ抜の非難 が聞けられてゐる。之に判する彼の回答鳥又⊥掬喜怒歯の小に含まれてゐるかう併廿て明かにして澄浸い。 伊藤に来ると、燕皇は軍なる薔等の統治者ではなくし†常に許等の父痙であう、指導者である。腐食隠賢の 鹿利を代来する機軸ではなぐて、上下合鰻、畠遥を扶翼する横舶である。故に談合の行動が常軌を逸常冬場合、 政肘と議愈との衡炎が問題の進展を寄ずる場合.其の他問家危急の場合にぬて、天皇が議愈に和協を濁給し給 か、其の他議昏の行動を傾鮭にすべきこと暫寂し超されょしても別に不思議はない。果して然ちば大隠がか∼る 勅忽を奏諭し需としでも之も不肝還ばれ射い。何者天白芸大樵に威する事項はすべで大鹿輔弼の縄阻に廃するから でぁる。即ち大臣が和協の勅諭智素謡することば大臣常然の職賓に威し、之を非立憲と呼ぶことは全然謂はれな きことであ▼る○ 兎も角も天皇政治に封サる仰戯の考ヘカは兢極的セ、それは榔㈹に儀する藩現についても∵丈協翼を要する事 項についでも同様であ翫。 制定の歴ぬを過し空風たる帝国憲法の本義 ハ芸西三︶ 両九

(27)

さて伊藤の点想は何墟までも伊藤の思想で憲法その物ではないが、憲法は伊藤の苦心の.礎草に成るものである こと→叉悪法は岩倉伊藤等に依づ■で決定され王政船の既定方針に基き起草されたものであること等を考へ禽はす ならば、伊藤の点恕は憲政解鍵の蕊夢資料とされてよいと児ふ。又之を基礎としで旛淡を鼠に場合襟際に於ても 礎釆の凍鎗が初めで解.されるやyγに慮ふ。 野り脚魔の思想を基礎にして憲法を見ると、次のやうな疲ホ∴騒明瞭になつて来る。 苧. で患壊はむの機軸を告琵竃いてゐる\。横軸を奉呈におぐとは、箕島葱∵切の陛捨所動の本源にするといふ 第十三窄 鹿四鋭 ︵≡甲鱒︶ 五〇 誅冊之は画頗の思想せ知る参考登料にはなら 療ふれる資料で潜るか.ら併せ息葦てお計度い。 州つは明哲二十二竺隈校内閣組織のときのことである。外啓、内務、大域、司法、文部、逓信、農商琴の七大際 こ完走\事づだが、陸軍﹂海軍のこ大臣は頗る鬼まれた。笛時の制度及情勢では藤島以外に人む求むることは囲難であ るのに、之に乗じて、卸閻を流産させようと企んだも て撃蹄を仰ぐと.天意は﹁陸時の二大臣は購自ら庭命して内鱗の組織を助けよう﹂と御読あり、前閻艮の海軍大臣 西郷従温L陸軍九段杜太郎貯留任を諭し給ふた。︵尾崎行雄﹁甘本憲政史吾川る﹂上≡七二宵に依る︶ 二つ旦糾に拐げを明哲′手六年〓力十訂の和陥の勅諭が政教せられ、た前の事柄である。衆議院は凍寒に由し内周 速効上奏秦を上皇して二月七日之を可擁し、軍日薙長屋審は参内して上奏文を問下隼寿農した。盈忙於て伊藤も衆 韓院の解散ノや葵請したが、、天恵は深く慮らせ給ふ析ありて絶K裁吋童されなかった。

(28)

∴\ヽ. 即ち 意味でめ聖故に本源を来襲におく以・に、腐食ち大臣打裁判所も天皇を離れで準正の廠報告持ち得る管粛見い。 二〃、議昏軋上奏樺を有し、立應頚欝にくづいでは協賛腰を滞ってはゐるが、之は吉夢翼賛する馬めに天皇に依 り興へられにる感限に過ぎない。激に、その櫻限は怒法議院港に依りて興へられ上るものに限られる。︵所謂眉由立 淡事項は言葉の零やうに議脅の浩然の樺猥の範囲に濁さない。︶又之は翼賛の得めの椎能であるからト必要に應 じ、ノ翼賛を受くべき天皇かち希望を述べられることあるは勿論である。 霊、国務大臣は綿飴畝轍線とはしでゐ各が、櫛蘭は大権行使の姿件でない。故に大様は未だ紳輔なきに計上し も、叉輔弼に反しても畿執する。かゝる場合、大臣は輔弼に関らざるを理由として副署を由み得ない。 輔弼の柿餅は軍令事項その他∵あ事項潜聴き大磯事項の全部に捗る。故に雲宗立法に紺レ又は優等に粕し 議禽に示し鉛ふ必要仏事項あるとき、天馬がその詔勅に副署し又はかゝる詔勅を秦請すろこと軋訝然㊥破顔で一の る○ 如、由務大臣の任免は名蟹華に大草山大棟に廃する。改革円軸軋は憲政の森川するところ■でない。しかしそれ は政篤を基礎とする内鞠の路和せらる∼ことあるを排斥するもので準い。従・りて故意の布衣は骨淀せられる。但 しそ抒は蹄幣に民族麟鰭としての阿家政利益針念とす惑ところの■ものに限られねばならぬ。個人を圃家に封立す ㌃㌃のと考へ、か㌻借入の利益を擁茸する篭めの樹儲を政篤と考ふ藩政賞は恐なく簿淡の承認すを警古い。 制定の歴史を過して見たる帝国憲法の水温 ︵き四五︶ 五山

(29)

第十三容 顔畠駅

︵三讐ハ︶ 五二

五、患家七十蒜に操業健吉場合には縮年鑑の預界を施行し得るとしたる鮎、南莞十二陳及警十≡

條に於て薗豪の貨は藤堺に阿ら姦律に囚つで管れるとしたる鮎、同綿六十大備に皇産の辟螢は硯療の姦

ん.n几

に依り毎年樹管呈出王将木簡管掌る場合の外帝国議昏の協賛を警やとしたる鮎、同筑大十七條に怒

∴ご 璧芙検に苧賢者出及法律の結英に由是は法律上政府の義務に掌る欝は、若の何意なくして議

いた﹂ 合之姦険し又は削減す象得やとし誉警警が警の審議権を創面して貰上関警伍の任免樺墨守 /′ るに書ことめる晶ぐの警首郎で、賢ひ ︵求完︶

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