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教師松下亀太郎と藤樹教育

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教師松下亀太郎と藤樹教育

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藤 田 弘 之

Hiroyuki FUJIT

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1.はじめに 本稿は、松下亀太郎(大正9年一)というひ とりの教師のライフヒストリーを手がかりと し、教師のあり方やその生き方について模索、 検討することを目的とする。 さて、人の生涯を扱おうとする研究には、ラ イフサイクル、ライフヒストリー、その他様々 なものがある。これらの研究の対象にされる人 物には、例えば、大政治家や重要な政策形成に 関わったキーパースン、また教育で言えば、大 教育家や教育学者が考えられる。他方で、市井 の人々を対象とする研究もある。これらの研究 の資料として、自分史、自叙伝、伝記、日記や 私文書類がある。最近進んでいる研究にオーラ ルヒストリーがある。これまでの研究を見ると、 主として政治家や行政官の中でとりわけ重要な 政策形成に関わった人物を取り上げ、文書には あらわれない事実を正確に聞き取りそれを記録 として保存すること、またそれを分析の対象と して検討することがなされている。(1) 教育の研究において、実践を対象とした研究 が重要であり、教育実践家の研究が重要である ことは自明である。こうした実践家を研究する 際、文書が残されていることが少ない。仮にあ ったとしても、文書では読みきれない事実の方 が多い。こうしたことを考えると、先のオーラ ルヒストリーの研究手法は、実践家の研究にも 適用できる。この手法はある点で、ジャーナリ ズムの手法とも近く、あるいはその手法を利用 して行なわれる。 本稿は、考察の対象として、松下亀太郎を取 り上げるが、それは極めて私的な理由による。 筆者と松下との出会いが、正確にいつだ、ったか 失念したが、ともかく20歳代末で滋賀大学に 赴任した頃からの付き合いである。付き合いと いってもその出会いは頻繁なものではなく、何 年かに一度の出会いであり、年賀状の交換であ ったりした。このような付き合いの中で、校長 であった松下の人柄には敬服し、また学ばせて いただいた。かねてより、松下について書くこ とを考えてきたのである。 しかし、本稿は松下を美化し、婦びるために 書くものではない。松下というひとりの教師の 生き方、生きざまを可能な限り客観的に考察し、 教師のあり方、生き方を探ることが目的であ る。したがって、本稿の中で言及する中江藤樹、 藤樹教育などについてもそれを直接の対象とす るものではないことを断っておく。

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松下の履歴事項 松下亀太郎の生涯を分析するに前に、まず彼 の履歴事項の概要を記しておく。 (2) 大正9年 1月 1日、滋賀県高島郡広瀬村に 生まれる。 昭和9年3月25日、高島郡広瀬尋常高等 小学校卒業。 昭和14年3月21日、滋賀県師範学校本科 第1部卒業。昭和15年3月20日、同専 攻科卒業。 昭和15年3月31日、滋賀県高島郡大溝尋 常小学校訓導に補せられる。 昭和15年12月1日、現役兵として歩兵第 119連隊に入営。 2等兵。昭和16年1月 26日、神戸港出発。同年2月3日、中 国塘泊上陸。 昭和16年5月1目、兵科幹部候補生に採

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用。一等兵へ昇級。同年

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日、上等 兵へ昇級。同年9月31日、甲種幹部候 補生を命ぜられる。伍長に昇級。 昭和16年10月1日、中国保定幹部候補生 隊に入校。同年12月1日、軍曹に昇級。 昭和17年3月31日、保定幹部候補生隊卒 業。見習士宮を命ぜられる。曹長に昇級。 同日、保定幹部候補生隊に転属。 昭和17年

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月1日、歩兵第82連隊に転属。 昭和17年

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月30日、現役満期。同日予備役 編入。少尉に昇級する。 昭和17年12月1日、引き続き、臨時召集 により、歩兵第82連隊に応召。歩兵砲 中隊小隊長。昭和18年1月7日、中国 保定を出発。同年3月13日、西貢着。 昭和19年9月15日、中尉に昇級。昭和20年 8月20日、大尉に昇級。 昭和21年4月14日、海防港出発。同年4 月24日、名古屋港上陸。同日召集解除。 昭和21年6月22日、元勤務校高島第1国民 学校への復帰を命ぜられる。(ただし、 教職員適格審査のため待機。) 昭和21年10月24日、教職員適格審査委員 長より教員資格審査判定書受領。 昭和22年4月1日、学制改革に伴い校名 改称、高島郡高島町立高島第1小学校教 諭に任ぜられる。 昭和32年4月1日、高島町立高島第2小 学校教諭に任ぜられる。 昭和32年12月1日、高島町立高島第2小 学校教頭を命ぜられる。 昭和39年4月1日、高島郡新旭町立新旭 北小学校教頭を命ぜられる。 昭和42年4月1日、滋賀県教育委員会事 務局、社会教育課勤務を命ぜられる。主 事。兼ねて青少年宿泊研修所勤務を命ぜ られる。 昭和44年4月1日、高島郡安曇川町立青 柳小学校校長を命ぜられる。 昭和47年4月1日、安曇川町立安曇小学 校校長を命ぜられる。 昭和51年4月1日、新旭町立湖西中学校 校長を命ぜられる。 昭和55年3月31日、願いにより本職を 免ぜられる。 3.松下の履歴事項の検討 松下のこれまでの生涯を時期区分すれば、 (1)師範学校を卒業し、軍隊に入るまでの時 期、(

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)軍隊に入り、復員するまでの時期、 ( 3)復員後教職生活に戻り、青柳小学校に赴 任するまでの時期、

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青柳小学校校長就任 後、退職するまでの時期、(5) 退職後今日に いたるまでの時期、の5期に区分できるであろ う。しかし、教師としての生き方という観点か ら見た場合、青柳小学校校長として赴任する前 後で、大きく

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つに区分できると思う。ここで は青柳小学校に赴任するまでを検討する。 (1) 師範学校を卒業し、軍隊に入るまでの時 期 松下は、高島郡広瀬村で篤農家の4人兄弟の 末っ子として生まれた。尋常高等小学校卒業後、 師範学校に進み、教師をめざすことになるが、 彼によれば自ら教職への強い希望があったわけ ではなかった。師範学校を受験したのは、親の 意向であり、それは授業料が要らなかったこと、 卒業後兵役が免除されていたことが主な理由で あったという。彼自身は、合格の自信はなかっ たし、受験勉強も全くしていなかったが、担任 の先生が強くすすめてくださるので、遊び半分 で受け、受かつて吃驚したという。こうして進 んだ師範学校時代も必ずしも強い教職意識を形 成するものではなかった。ただ、彼は寮生活、 ボート部の活動を楽しみ、またこうした活動か ら大きな影響を受けた。軍国主義教育の時代に あっても、滋賀師範での寮生活は比較的自由で あったという。多少とも教職の意義を感じたの は、附属小学校における教育実習であった。こ こではじめて教えることの難しさと楽しさを知 ったという。さて、戦局が厳しさを増すととも に、松下が卒業する予定の年に師範学校卒業生 に対する兵役の特権は廃止されることになっ た。兵役の特権とは、短期現役兵として5ヶ月 入隊し、除隊すると国民兵役に編入された制度 であり、こうした者に対しては事実上召集はな かったのである。彼は、特権が廃止されたこと

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教師松下亀太郎と藤樹教育 113 で、師範学校では教師がどうのこうのというよ り、戦争に行くことへの不安がきわめて大きか ったと回想した。こうして滋賀師範卒業後、大 溝尋常小学校訓導に補せられたが、わずかその 8ヵ月後軍隊に入り、厳しい体験をすることに なった。

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軍隊に入り、復員するまでの時期 松下は、履歴事項に見られる通り、昭和15 年12月1日、現役兵として敦賀歩兵第119連隊 に入営し、初期訓練を受けた。この後、中国に 渡り、歩兵第82連隊に属し、戦闘に参加しつ つ、新兵訓練を受けた。彼はその後甲種幹部候 補生に採用され、保定幹部候補生隊に入隊し、 作戦活動、戦闘に参加しつつ、教育訓練を受け た。この訓練を終えると、見習士宮を命ぜられ、 その能力を認められて同隊の教官に転属した。 さらにその後、臨時召集により歩兵第82連隊 に応召し、中国からベトナムに転戦した。彼は ここで終戦を迎え、捕虜としての生活を送った 後、昭和21年に帰国した。 松下によれば、中国では本当の肉弾戦の殺し 合いであった。道の両側には腐乱死体があふれ ていた。疲労の極の中で泥のように寝て、朝起 きたら敷いた症の下に死体がいくつもあったと いうのは、よくあったという。ゃるかやられる かであった。後方支援がなく、食糧にもこと欠 き、強奪せざるを得なかった。短期間ではあっ たが、彼はとりわけ新兵訓練の時期を生々しく 記憶している。訓練の一つに捕虜の始末があっ た。必ずしも正式な上官から命令が出ていたわ けではないが、連れて歩けず、また逃がしもな らない捕虜たちを、新兵訓練と称して、鉄砲の 的にし、また銃剣道で刺し殺す目的物にするこ とを強いられた。戦時下であり、松下もまた生 きるためにそうせざるを得なかった。ベトナム 転戦後は、主として連隊本部の作戦室に勤め、 将校として指揮をとる立場にたった。後方基地 におり、実戦に参加することはほとんどなかっ た。しかし、戦争の悲惨さを経験することは変 わりなかった。松下は、軍隊で身につけたこと のひとつは、第一に生死をかけた中で、知何に 要領よく死なずに命令を果たしながら、命を守 るかであった。それは運と要領であった。戦場 では、一秒、一瞬の判断の違いが生死を分けた。 川崎源が著した『滋賀大学教育学部120年史』 によれば、「太平洋戦争の犠牲者は卒業直後あ るいは学業半ばで入隊、応召した者からも続出 した。昭和15年から、それまで5か月服務であ った師範学校卒業者の短期現役兵の特典が廃止 された。この年の3月に滋賀師範学校を卒業し たもの114名の中で、 36名が戦場で散華した。」 のであった。松下は、数々の幸運に恵まれて生 き残り、帰還することができたのであった。

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)復員後の教師生活 日本は昭和20年8月15日の敗戦を境に価値 観が180度転換した。筆者が、元県視学坂田徳 三から聞いた話である。滋賀県にカ一ペニー大 隊が進駐し、現在の県庁庁舎に軍政部が置かれ て後、指令によりこれまで学校において最も神 聖なものであった天皇のご真影や皇族の写真な どをトラックで無造作に集めて回った。それを 県庁裏の広場に積み上げ火をつけて燃やした。 写真は厚みがあり、くすぶって燃えなかった。 申し訳ないと思いつつ、天皇なと‘の写真を破っ ては燃えやすくした。 このような状況の変化に、すばやく要領よく 適応できるものがいる反面、思想や生き方の一 貫性や自らの良心から悩み苦しむものもいた。 三浦綾子はそのよい例であった。近くは東ドイ ツが崩壊した時にもあった。これまで体制側に いて、マルクス主義を強力に説いていたにもか かわらず、短時日のうちに極めて要領よく転向 した者も多かったと聞く。 松下の場合は、命令により箪に入り、戦争に 従事しており、当然心には戦争の深い大きな傷 を持っていたが、内地の学校で教えていた者の 一定の者が持っていたような苦悩は少なかっ た。彼は直接軍国主義的な教育をしておらず、 また戦地での言動は非常の場であり、やむをえ なかったと自分で納得していたのであった。 彼は復員後、形式上元の勤務校に復帰するが、 しかし、実際に教員として復職するには教職員 適格審査に合格する必要があった。審査はおお むね一定の基準で行われたが、問題となる場合 も多かった。松下は将校であったが、現役では なく、予備役であった。また、外地の状況は委

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員会では十分わからなかった。こうして半年後 適格審査合格証を受け取り、学制改革によって 改称された高島第l小学校に復職したのであ る。 復員後、また教職復帰後の松下は、これがあ の祖国かという情けない状況に慨嘆した。しか し、状況の変化に適応しながら、生きていくの に精一杯でもあった。軍政部の指導の下、これ までの教育とは全く違う、実用主義的な教育、 児童中心主義的な教育、進歩主義的自由主義的 な教育と激流のように新しい教育方針が説か れ、進められた。認定講習を受け、新しい免許 状を受けた。また、講習会や研修会への出席が 求められた。組合運動も盛んになっていった。 彼は新しい状況に否が応でも適応していかざる を得なかった。 松下はその後、昭和32年に高島第2小学校 教諭に任ぜられ、同年12月に同校教頭をを命 ぜられた。また、昭和39年には、新旭北小学 校教頭を命ぜられた。この頃は自ら、戦後活発 になっていった組合運動の洗礼を受けることに なった。彼はその後、昭和42年に滋賀県教育委 員会事務局、社会教育課勤務を命ぜられ、昭和 44年 3月までこの職にあった。 松下は、教員への復職後、青柳小学校長にな るまでの時期をふりかえり、自戒的に哲学や思 想的なパックボーンが全く欠知していたと述べ た。また、この時期、時や状況、世俗に流され てきただけの自分であると総括した。教師とし ても、また人間としての生き方にも確信がなく、 その一貫性もなかったという。もちろん、その 時期その時期に、生活の上でも教育現場でもせ いいっぱい取り組んだことであろうが、松下の 意識のなかで、そうした基本的な哲学のない自 分に対する恒慌たる思いが次第に強くなってい った。 4.松下と中江藤樹 松下の生き方を大きく変えたのは、青柳小学 校に校長として就任し、中江藤樹との出会いが あってからであった。彼は青柳小学校に赴任す るまで、藤樹について「あかぎれ膏薬Jの逸話 しか知らなかったという。彼によれば、「あか ぎれ膏薬」の逸話は、郡内どこの学校でも毎年 学芸会で演劇として上演されており、藤樹神社 の例祭には遠足でお参りするのが恒例であっ た。このように藤樹については知っていたもの の、藤樹をほとんど理解してはいなかった。 赴任後好むと好まざるとにかわらず、藤樹、 及び藤樹教育に関わらざるを得なかった松下 は、その核心を知り、次第に藤樹への傾倒を深 めていった。このような松下に対する藤樹への 動機づけには、何よりも藤樹の地元であるとい う青柳の地域的特性があった。 致良知の訓の学舎に学びたる藤樹書院の藤に 遇いたし (大津)橋本敏子 平成14年6月4日付朝日新聞の滋賀歌壇に 出された短歌である。選者の西村恭子は、「致良 知は陽明学者中江藤樹の教え。人が生まれなが らに備えた知により行動せよと。藤の花に女学 生時代を懐かしんでいる。」と評している。(4) この歌に見られるように、戦前、滋賀県内の 学校において、いや滋賀県のみならず日本の学 校において藤樹は扱われるべき重要な人物のひ とりであった。池田進が、滋賀大学附属図書館 所蔵の旧教科書、約

8500

冊(明治初年一昭和

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年8月)について行なった調査によれば、それ らに登場する近江の人物のうち、中江藤樹は際 立っており、修身、歴史、国語などで頻出して いた。(5)戦前に藤樹は、孝行の代表的人物とさ れ、国策の一環として藤樹の“孝"の思想を、 国民精神として高揚することが意図された。彼 は聖人として神格化され、とりわけ修身におい て説かれたのであった。 しかし終戦後の占領下において、いや占領体 制が終わり日本が独立した後も、藤樹は封建道 徳の権化とされ、否定され、廃棄された。また、 戦後の民主化に逆行するものとして拒否され た。やがて藤樹は全く無視されることになった。 藤樹の地元青柳では彼を尊ぶ土地柄は根強く残 っていたが、しかし青柳の地においても必ずし も積極的には取り上げられなかった。 藤樹再評価の動きが起こるのは、昭和

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年 の町村合併促進法を背景に、翌昭和29年に行 なわれた元の広瀬村、本庄村、青柳村、安曇町 の合併によって新しい安曇川町が誕生したこと

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教師松下亀太郎と藤樹教育 115 を契機にしている。とりわけ、実質的に初代町 長に就任した北川佐十郎は、新町建設の基本方 針のなかに藤樹を盛り込み、また町政において 藤樹精神を再興しようという考えを持ってい た。その彼にとって、藤樹生誕350周年となる 昭和33年は絶好の機会であった。北川はこの記 念事業を安曇川の地において大々的に進めよう とした。しかしこの当時安曇川町は過年に起こ った大規模な水害の復旧を迫られており、との 事業に予算を割くことはできなかった。このた めに彼は東京の三越本庖で藤樹展を開催しよう とし、郷土出身在京著名人の醸金を募った。こ の藤樹展で藤樹ゆかりの品々を展示するととも に、記念講演会を催した。安曇川からはパスを 仕立てて東京に乗り込み、記念事業を盛りたて た。北川はこの事業を最後に町長を辞した。し かし、彼の思いは続く町長にも引き継がれた。 ところで青柳の地には藤樹を奉じ、また藤樹 の教学に精通した人物がいた。なかでも松本義 麓(明治30年一昭和51年)は重要な人物である。 既述の北川町長が企画した東京での藤樹展の際 の講演は、「鑑草について」と題して松本が行な ったものである。『安曇川町史』のなかで、戦 前における藤樹顕彰事業として、藤樹神社の建 立と藤樹全集の刊行をあげ、それに功のあった 何人かの人物を挙げている。そして、こうした 事業の継承者として、松本義蕗に言及し、「戦 前・戦中・戦後を通じ地道ながらつねに藤樹精神 の高揚につとめ、当町はもちろんのこと、広く 日本の教育界にも大きな影響を与えた。J と評 している。(7)ここで松本に詳しく言及すること はできないが、ペスタロッチ、仏教思想に通じ、 藤樹思想、を体得していた。なかでも藤樹には深 く心酔し、藤樹の地、青柳に居を移し、生涯乙 の地で生きた。そして、藤樹精神を身をもって 体現し、藤樹精神の普及啓蒙に一生をささげた 人物であった。彼が手書きのガリ版ずりで出し つづけた「小川村だよりJは、彼の生きざまの一 端を極めて雄弁に物語っている。(8) このような状況の中で、藤樹の地元である青 柳小学校でも藤樹教育再興の動きが生じようと していた。青柳小学校はかねてより藤樹教育の メッカであった。現在の青柳小学校の基礎とな る尋常科青柳小学校は、明治19年に設立された ものであるが、これは明治

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年に設立された柳 橋学校、明治8年に設立された藤樹学校、明治 9年に設立された横江学校が統合されてできた ものである。乙のうち藤樹学校は、元の藤樹書院 を校舎としており、当然藤樹と切り離せない関 係にあった。明治13年にこの地の大火災で藤樹 書院が類焼するが、その際村民が自分の家が焼 けるのもかまわず、藤樹書院の重要物の搬出に 駆けつけたという。村民の藤樹への思いが知何 に強かったかを示す話である。(9) しかし藤樹教育のメッカであった青柳小学校 でも戦後藤樹教育は停滞していた。藤樹を再評 価しようとする気運は、既述の北川町長のころ よりあったと考えられるが、より積極的に取り 扱われるようになるのは、教育長八代慈円の影 響が大きいと思われる。八代は、松本義麓の薫陶 を受けており、藤樹教育再興の必要性を感じて いた人物である。彼は教育長に就任した後、青 柳小学校校長、山崎義次に、道徳教育の一環と して、藤樹を扱うこと、またそのカリキュラム を編成し、教材開発をするように指導したとい う。(IO)こうした要請を受けた山崎はこれに応 え、道徳教育の一環として藤樹が取り上げられ るようになったのである。 松下は、以上のような藤樹再興の動きがある 中で、青柳小学校に赴任したのであった。赴任 後松下は、地域における藤樹研究の先達であ り、啓蒙家でもある松本義麓に早速挨拶に行っ た。それ以後松本と親しく交わることになり、 彼から影響を受け藤樹について学ぶ必要性を痛 感するようになった。松下による藤樹の学びが より本格化するのは、松本の助言で参加した、第 l回全国藤樹講習会が大きな契機となった。こ の会は、昭和45年8月、広島県江田島青年の 家で開催されたものであるが、藤樹研究の第一 人者、木村光徳が事実上主宰したものであった。 松下は、その後、藤樹関係の講習会や学会等に 欠かさず出席し、木村や、また木村と並ぶ藤樹 研究者である小出哲夫などを知り、彼らから指 導を受け、あるいは影響を受けた。(11)松下はこ うして藤樹についての学びを深め、短時日のう ちに藤樹に傾倒していった。そして、校長とし て藤樹教育を一層推進する必要性を痛感したの

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であった。 では松下は、どのような点で藤樹に共鳴し、彼 について深く学んでいこうとしたのか。また自 らの実践の基本としようとしたのであろうか。 松下によれば、「藤樹教学の根本には、深い宗教 的精神、具体的に言えば、天を畏れ身を慎むとい った気持ちが強くあり、その上に立った徹底し た人間信頼の教えであり、言わば人間性信仰の 教えであったこと。しかも、その生き方は在野 の精神とともに、自主自立の道を模索し、且つ村 人や門人とともに悩み苦しみ実践を重ねられた ことりがあったという。彼は、藤樹を学び、彼 の思想、や実践を自らの生き方の基礎にしようと するとともに、藤樹教育の推進に努めようとし たのであった。 5.松下と藤樹教育 戦後の青柳小学校における藤樹教育について は、昭和30年代半ばごろより教材研究等の動 きがでてきたようである。しかし、その歩みは なお緩慢であった。こうした状況の中で、松下 の前任校長である山崎は、教育長八代の強い指 導の下で道徳教育の一環として藤樹を積極的に カリキュラムに位置づけ、教材を作成しようと した。山崎によれば、藤樹を教育に組み込むこ とについてはさほど抵抗がなかったと言う。彼 によれば、教育を進める際にその学校に適した 研究課題を設定し、研究を進めながら教育の改 善に取り組んでいくという考えを持っていた。 山崎は滋賀県女子師範の教師をし、戦後滋賀大 学教育学部附属小学校にも長く勤務した。こう した経験から、学校経営における研究活動の重 要性を認識していた。さらに、彼が青柳小学校 出身で、幼少時より藤樹のことを知り、藤樹を 大切に思っていたことである。山崎によれば、 青柳に行って藤樹を取り上げることは、極めて 自然なことであったという。乙うして、山崎の 下で道徳教育の一環として、藤樹教育の研究及 び実践が進んだのであった。(12) 山崎の下での実践は、藤樹教育の再興という 点では重要であった。しかし、そこでは必ずし も藤樹の全体像を子どもに提示するものではな かった。山崎の下では、既述のように道徳教育に 資するように、その一部に藤樹の人となりや逸 話が学年ごとに配されていたものであった。 青柳小学校に赴任後次第に藤樹に傾倒してい った松下は、断片的ではなく、より体系的な藤 樹教育の必要性を感じていた。そして、藤樹を より積極的かつ全般的に学校教育に位置づける ことをめざし、そのための教材づくりを進める ことを考えた。やがて彼は藤樹についての副読 本の作成を構想し、職員会議に提案して支持を 得た。当時の町教育長は八代慈円であり、かね てよりその必要性を主張していた彼はこれを支 援した。そして、八代を引きついだ教育長中島 忠己も青柳小学校の試みを支持した。 こうして、青柳小学校において校長松下のリ ーダーシップの下、藤樹に関する副読本の編集 作業が進められることになった。編集委員会 は、松下の下で、橋本喜代治、安原貞二、菅浪 善久、稗家暁了、多胡利美、岡田三千代、西津 明子の全職員で構成されていた。第1次素案は、 主として安原が起草し、その後これを基礎に松 下を中心に、複数の職員が検討を加えた。そし て、授業が終わった後、毎日のように松本義蕗 のところに持っていき、指導を仰いだ。松本は 厳格であり、なかなか首を縦に振らず、何度も 何度も書きなおす作業が続いた。松下によれば、 「何べん通うたか覚えていない。Jほどであった という。ようやく、原稿が完成し、出版にこぎ つけたのは昭和46年3月31日のことであった。 (3) 出版に対する財政的、かつ精神的支援にあず かつて力を尽くしたのは、当時の高島郡ライオ ンズクラブ会長であり、学校歯科医であった山 本真哉であった。山本もまた藤樹教育再興の必 要性を感じていた。彼の力添えによって、ライ オンズクラブから財政援助がなされ、出版され た『藤樹先生』は、高島郡内の3年生以上の小 学生全員に配布され、その後新3年生全員に配 布されることが続いた。(14)また、高島出身で、 当時の参議院議員、河本嘉久蔵の寄付を得て、 全県下の学校や図書館に一冊づっ配布された。 さらに、松下は山本とともに県下のライオンズ クラブの会合に出席し、この副読本の趣旨や内 容を紹介し、各学校で副読本として採用しても らえるように働きかけを続けた。こうした結果、 『藤樹先生』は相当の発行部数となった。(15)

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教師松下亀太郎と藤樹教育 『藤樹先生』は、 145ページからなる副読本 であった。これは3年生から6年生まで使える ように工夫され、活字の大きさ、内容の難易に も検討が加えられた。 3年生用には、「藤の木 の下でJ という題で、誕生から米子に行くまで の時期を扱い、 4年生用には、「米子と大洲で」 という題で、米子と大洲での学びとともに、あ かぎれ膏薬などの逸話を配している。

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年生用 には、「小川村に帰って」という題で、小川村へ の帰郷、小川村での生活、小川村での逸話など を扱っている。そして、 6年生用には、「先生の 遺徳と学問Jとして、藤樹の学問と遺徳を教え ようとしている。 この副読本を使用した藤樹教育は、道徳教育 だけでなく、社会科や国語、音楽など教科はも とより、学校行事や生活指導など可能な限り、 教育全般に関連付けて教えられようとした。こ の副読本は、青柳小学校はもとより、高島郡か ら県内の各地での藤樹教育実践の手がかりを提 供したと言われている。 松下は、昭和47年4月1日、安曇小学校校長 として転勤、また昭和51年4月1日に湖商中 学校の校長に転勤し、昭和55年3月31日をも って教師生活を終えた。この間彼は、青柳小学 校での実践を引き継ぎ、学校教育の基本の一角 に藤樹を置こうとし、教師たちにその必要性を 説き、彼らの実践の中でそれを反映してくれる よう協力を求め続けた。これらの学校で松下は、 子どもや生徒、教師、保護者、地域住民などとの 関わりの中で、あらゆる機会をとらえて、藤樹 に言及し、藤樹を引用した。彼は、関係者が少し でも藤樹に関心を持ってくれるよう努めたので ある。子どもについては必ずしも多くを望まな かった。難しいことはわからなくとも、中江藤 樹という人物がいたことをおぼえておいてく れ、将来成人になったとき、何かの機会にその 教えを悟ってくれればよいという考えがあっ た。同時に彼は、副読本の編集、藤樹への言及 をとおして、子ども達に、「自己をみつめ、真実 の自己を発見してこそ、生きる上での志が生ま れること。失敗を恐れずに当初の志を大切に、個 性豊かに生きること。本心の良知(真心)は必 ず相手の心に通じるから、真心をもって温かい 人間関係を大切にすることけなどを伝え、また 学んでくれるようにとの願いも持ってい たのであった。 6、 松下による藤樹の学びと啓蒙活動 松下は、退職して後に自宅の前に広がる 山が、こんなに緑が豊かで四季の移ろい があるのをはじめて知ったという。朝早 く出勤し、夜は毎日遅く帰宅した。おそら くは、自らの教職生活に全力で取り組ん できたためであろう。しかし、彼は休む間 もなく、それまで学び、また教えてきた藤 樹についてまとめようと志し、執筆に打 ち込んだ。彼の妻によれば、何かがある 時を除き、朝から晩まで机に向かったと いう。そして、一年後、『物語 中江藤樹』 と題し、日本藤樹学会から一書が刊行さ れたのであった。 松下は、この本を著す意図として以下の ような点を述べている。すなわち、しこ れまで封建道徳として葬り去られてきた 藤樹の教えを、今日の物質的に豊かではあ るが、心の貧しさが問題になっているよう な時代にこそ再評価する必要があること、

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、藤樹の真実の生きざまを理解し、藤樹 の主体的な思想や生き方に重点をおいた 研究が進みつつあるが、再評価はそのよう な方向でなされるべきこと、 3、これま での藤樹に関する研究や書物は学問的な 色合いが強く、一般には馴染みにくいもの ・であり、もっとやさしく気楽に読めるよ うなものが必要であること、 4、しかし可 能な限り学問や思想の発展について配慮 しこれまでの研究から逸脱することなく、 全体としての藤樹の人間像を描き出すこ と、などである。 (6) 著書は、松下の意図どおり、何よりも わかりやすいことを特徴としている。また 藤樹を自らのものとして完全に消化しき っていることがよくわかる。これはいわゆ る“研究書"という仰々しいものではな いが、松下の教育者としての思いが極め てよく伝わってくる書である。 松下は退職後、著書をまとめた後も、藤 樹についての研究を続けた。そして、研究 117

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会、学会に欠かさず参加し、時おり論文を発表 した。(j7)彼は、童門冬二によって著された『小説 中江藤樹J (学揚書房、1999年)のなかの幾つ かの問題点を指摘できるレベルにまで達してい た。(j8)松下には、時おり学校、地域、 PTAでの 講演の依頼も県内、県外から来るようになった。 このような講演会で、彼は、今日の社会におけ る藤樹精神の意義とそれを再認識する必要をき わめてわかりやすく訴えつづけた。このように 彼は退職後も、藤樹の学びを続け、その教えの 啓蒙に努めてきたのである。 7.教師松下亀太郎とその生き方一一結びにか えて 本稿の目的は、松下亀太郎という l人の教師 の生き方を問題としてきたのであり、藤樹や藤 樹教育を体系的に論ずることを目的としていな い。こうした観点から論ずるとすれば、取り上 げその功を評価すべき人々は他にも多い。しか し、ここで松下の事績という点から見るならば、 現青柳小学校校長北川暢子の言が参考になる。 北川は、かつて教諭として青柳小学校に勤務し、 また後に望んで青柳小学校に来たものであっ た。その北川は、松下を藤樹教育を体系化し、 本格化した人物と評した。また、副読本、『藤樹 先生』の絶版を機に始められた第6次の大幅改 訂にあたり、北川は実質的にはひとりで検討を 行なったが、その過程で、松下の『物語 中江 藤樹』を何度となく読み返し参考にした。ま た、松下から直接間接に教えを受けたという。 北川自身、こうした作業の過程で、松下に学び、 松下を通して、藤樹を深く学び、自己の思想と 一体化する必要性を痛感したという。川)藤樹を 形だけ教えてもだめで、教える者が藤樹の本質 に迫り、また自らと一体化する必要を悟ったと いう北川の指摘は重要である。松下の後、藤樹 教育は、時期によって温度差があったものの、 心ある人々によって受け継がれてきた。そして、 今日青柳小学校はもとより、安曇川町内の学校 において新しい観点から藤樹教育が進められよ うとしている。高島郡において藤樹精神を基礎 とした地域づくりも始められようとしている。 そうした流れの源で、松下は一定の役割を果た したものと思う。 藤樹と関わり、藤樹を学び続けてきた松下は、 その過程で学んだ「生きる上ではどんな職業で も努力と精進が大切なこと。特に教育職にあっ ては、読書と前向きな研究心が大事であること。 生きるうえでの姿勢については、謙虚な気持ち を忘れぬこと。つまりすべて、自らの努力だけに よるものではなく、偉大な力のはからいによる ことを忘れぬこと。J を自らの生き方の信条と してきたという。松下は、以上のように教師と しての自己成長の過程で、自らの生き方を確立 し、哲学を持ち、それを基礎に教育実践を行な い、自らの生き方を貫こうと模索してきたので あった。こうした松下の生涯から学ぶべき最も 重要なことはただひとつ、教育に関わるものが、 自らの生き方の確固たる根本精神と倫理観を持 つこと、あるいはそれらを求めつづけることで あろう。 既述のように、本稿の目的は松下亀太郎とい うひとりの教師のライフヒストリーとの関わり で、藤樹教育に言及したものであり、藤樹教育 を体系的に論じようとするものではない。松下 の果たした役割や松下という人物そのものの評 価をめぐっても当然異なった見方があるであろ う。何よりも松下自身が、藤樹に近づこうと努 力しつつ、近づくことが至難であったこと、ま た世俗的煩悩を脱することがこれまた困難であ ったことを自戒的に述べている。しかし、完全、 無欠な人間など現実には存在しない。彼が、さ まざまな煩悩や俗欲、限界を持ちながら、なお かつどう生きょうとしたかが問題であり、仮に 何らかの限界や問題を持っていたとしても、松 下の生涯や経歴から学ぶことは多いと思う。 松下にみられるような教師のあり方が、今日 的な状況の中で可能かどうかについてさまざま な論があると思われる。現在、公教育そのもの が、一言でいえば市場原理を基礎としたシステ ムに移行しつつあり、教師の専門性や権威が低 下し、まさに時の流れのままに、状況対応的に 動いていかざるを得ない状況もある。教育論、 教育観、教育思想についても、誤解を恐れずに いえば肥満、飽和状態にあり、他方で信念や使 命感が極めて希薄な教師も少ないとはいえな い。しかし、こうしたなかであればこそ、教師 自身、自らの生き方を処し、教育実践の基礎と

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教師松下亀太郎と藤樹教育 119 なる確固とした哲学を持つべきとの主張も一つ の立場であると考える。 (注)、 (1)例えば、御厨貴、『オーラル・ヒストリー一 現代史のための口述記録一』、中央公論社、 2002年。もちろんこの種の研究は、近年突 然始まったものではない。 (2 )松下亀太郎については、平成13年12月22 日、及び平成14年8月25日、いずれも松下 宅におけるインタビューの他、私信、電話、 私文書などから情報を得た。 (3 )川崎源、『滋賀大学教育学部120年史』、滋 賀大学教育学部同窓会刊、平成13年。 88ペ ージ。松下の軍隊時代の体験については、筆 者がインタビューを行なった後、滋賀県庁 総務部、豆村ひとみもインタビューを行い、 それを起文している。(調査票、平成14年4 月12日、調査番号、 H14-2)

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原文どおり。正しくは、知は、良知とすべ き。 (5 )滋賀大学附属図書館情報、『図書館だより』、 平成8年7月15日、 4-8ページ。 (6)~tJII 佐十郎の任期は、昭和 29 年 12 月 15 日 から昭和33年12月14日である。彼はその 後、昭和38年4月30日から昭和42年4月 29日まで県会議員を努めたがこの間も藤樹 再評価が必要であると考えていた。

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安曇川町史』、ぎょうせい刊、昭和59年。 919-920ページ。

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)

松本については別に詳しく考察の予定であ るが、特に“小

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iI村だより"については、 松本孝太郎が編集して刊行した、『小川村だ よりJ(昭和53年刊)参照。松本は戦後教職 追放を受け、解除後、安曇川中学校校長、 高島高校教諭、等の職にあった。退職後、 私立藤波幼稚園を開設し、病に倒れるまで 幼児教育の現場を離れることなく、同時に 藤樹精神の啓発を続けた。

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)火災の後、明治13年、横江学校と藤樹学校 は、共進学校として統合され、その後明治19 年に共進学校と柳橋学校が統合して、尋常科 青柳小学校になる。 (10)八代慈円の教育長の任期は、昭和41年10 月1日一昭和45年3月31日。なお藤樹教 育低迷の原因のひとつに、教員組合関係者 の反対・抵抗があったと言われている。 (11)翌、昭和46年、第 2回全国藤樹講習会は育 柳小学校で聞かれる。木村は藤樹について 精微な文献学的な研究を行なった。小出は 神父や専門の心理学の立場から考察し、ま た世界史の見地から藤樹を取り上げて高く 評価し、特に幼児教育に実績を残した。松 下は後に、新旭町出身で、元兵庫教育大学 教授、古川治をはじめ多くの研究者から学 ぶことになる。なお、松下は、木村、小出 の追悼集に寄稿している。天田茂編集、『昭 和の良寛さん、小出哲夫神父回顧録、追悼 文集』、昭和61年、 59-62ページ。木村光 徳博士頒徳記念集刊行会、『藤樹先生への 道』、平成13年、 61ページ。 (12)平成14年12月4日、電話インタビュー。な お、山崎の下で行なわれた教育のカリキュ ラム及びこの時期に作成されたとされる指 導資料集は、青柳小学校では既に廃棄され、 多方面の調査をしたが、稿了時点でいずれ も現物を確認できなかった。 (13)松下によれば、副読本作成に際して、多数 の文献を参照したが、小川喜代蔵著、文学 博士、高瀬武次郎校関、『藤樹先生』、(鯨 社藤樹神社刊)もその一つであった。これ は大正

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年に初版が出され、その後版を重 ねているが、昭和

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年に改訂第

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版が出さ れている。この刊行に尽力したのは、松本 義麓であった。同じく松下によれば、萩市 の明倫小学校の『松蔭読本』の体裁、内容 も参考にしたとのことである。 (14)ただし、その後無料配布は中止された。 (15)この副読本は、発行以来30年間に7次の改 訂を重ね出版を続けてきた。藤樹書院の図 書頒布でも頗る好評であり、書院の維持に 貢献したという。発行部数は正確には確認 できないが、相当冊数にのぼると思われる。 (1

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)

松下亀太郎、『物語・中江藤樹』、 日本藤樹 学 会 刊 、 昭 和56年、 3 - 5ページ。 3 96-397ページ。 (17)松下による藤樹についての論稿には、以下 のものがある。①「藤樹書院の所蔵遺著及

(10)

び資料」、『藤樹研究.!I (日本藤樹学会)、 143号、平成2年、②「中江藤樹と大塩平 八郎一藤樹学と大塩学一」、(古川先生学位 論文記念文集刊行会編、『教育論集』所収。) 平成9年、③「鴻溝録における藤樹関係資 料」、『藤樹研究』、 153号、平成12年、④ 「中江藤樹の世界と禅の世界一『禅は無の 宗教』と『法句経の心』を読んで 」、『藤 樹研究』、 154号、平成13年、⑤「藤樹学 における宗教性を考える」、『藤樹研究』、 155号、平成14年。なお、『歴史研究.!I (人 物往来社刊)に掲載された「中江藤樹の郷 土史」は、第

5

回郷土史研究賞論文に応募 したもので、優秀賞を受賞している。(昭 和53年5月号。) (18)

r

童門冬二著、『小説中江藤樹』を読むー 読後感と藤樹像」、「続・童門冬二著、小説 中江藤樹の読後感」。何れも平成11年に執 筆。藤樹研究の第一人者木村光徳は、乙の 論評を激賞し、これを同学の土に送付する ことを勧めたという。童門は、松下に問題 点を指摘され、「よくそこまで深く読んで いただいた。感謝する。Jとの返書を松下に 送った。 (19)平成14年11月13日、青柳小学校にてイン タビュー。なお、第6次改訂版は平成7年 刊行。 (2002年12月8日脱稿) 〈謝辞とお願い〉 本稿作成に際して、松下亀太郎先生には、幾 度と知れない筆者の執劫な質問にその都度丁寧 に答えていただいた。また、青柳小学校長の北 川暢子氏、藤樹記念館の中江彰氏、松本孝太郎 氏などにも大変お世話になった。記して謝意を 表したい。なお、本稿作成に際して、時間的制 約から入手できなかった資料もあり、またイン タビューできなかった人も多い。本稿には、不 備や誤りもあると思う。ぜひご教示を賜りたい と思う。 (連絡先電話兼ファックス、 077-537一7803、

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参照

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