井上円了と哲学堂公園一〇〇年
著者名(日)
三浦 節夫
雑誌名
井上円了センター年報
号
11
ページ
53-134
発行年
2002-07-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002732/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja井上円了と哲学堂公園一
三浦節夫
ミミミ嬬誉㌻○○年
﹂ 劒立者井上円了の時代 (一 j 創立の当初 明治三七︵一九〇四︶年四月、東京府豊多摩郡野方村大字江古田字東和田に﹁哲学堂﹂︵現在の四聖堂︶が建 立された。これが、現在の東京都中野区立哲学堂公園の起源である。この公園の創立者は、すでに哲学館︵現在 の東洋大学の前身︶を創立した井上円了であった。 この哲学堂は、現在﹁哲学堂公園﹂という名称で、東京都下の名所の一つとして幅広く知られているが、明治 の創立の当初から世間の注目を集めたものではなかった。たとえば、創立から三年後の、明治四〇年三月に、東 京市編纂﹃東京案内﹄︵上下二巻︶が刊行されているが、この本の中に哲学堂は取り上げられていない。当時の 豊多摩郡で取り上げられたものは、新宿御苑、日本赤十字社病院、東京感化院、広尾病院、金王八幡神社、青山 学院、東京高等農学校、実践女学校、東京衛戌監獄、竹貫育児院、内藤新宿町、太宗寺、日原淋巴病院、多納病 院、淀橋浄水場、淀橋町、大久保の榔燭、大久保病院、熊野神社、妙法寺、伯爵大隈氏庭園、早稲田大学.早稲 田実業学校・早稲田中学校、帝国殖民学校、高田馬場祉、山吹里、鉄道大隊である。︵豊多摩郡とは、明治二九年 53 井lPI∫’と哲学堂公園一〇い年に東京府の東多摩郡と南豊島郡が合併したもので、のちに東京市西郊の住宅地となり、昭和七年に東京市に入 り、渋谷、中野、淀橋︵のちに新宿︶、杉並の四区に分かれた。ちなみに、東洋大学は小石川区で取り上げられ ている︶。 哲学堂が建立された明治後期の野方村周辺は、後に地図でも紹介するが、当時は畑・田圃、林を主とする地帯 であった。井上円了はこの頃の哲学堂周辺の景色を、こう表現している︵←。 一、富士暮雪 二、御霊帰鴉 三、玉橋秋月 四、氷川夕照 五、薬師晩鐘 六、古田落雁 七、鼓岡晴風 八、魔松夜雨 この﹁哲学堂八景﹂について、前島康彦はつぎのように解説している︵2︶。 ﹁哲学堂の西側妙正寺川を隔てた向う側は旧片山村で雑木が茂り、疎林の上に富士山が眺められた︵富士暮 からす 雪︶。御霊神社は道路を隔てて園地の東側にあり、昭和十二、三年頃までは老杉がそびえ、ねぐらを求める鴉が 集まった︵御霊帰鴉︶。 妙正寺川は玉川の分水と考えていた円了博士はこれを玉渓と称していた。従ってその川に架る四村橋︵園の東 南端︶を﹃玉橋﹄とよんだのであり、ここでの名月は美しかった︵玉橋秋月︶。 もり 夕陽は氷川神社︵江古田の総鎮守、今の江古田二丁目︶の杜にしずみ︵氷川夕照︶、名高い新井薬師梅照院 ︵新井五丁目︶の夕暮の鐘︵薬師晩鐘︶がきこえる。 ﹃古田﹄は江古田の田圃の略で、旧江古田村の田圃には秋になると雁がわたり︵古田落雁︶、旧片山村の丘陵を つづみ 鼓ヶ丘とよんだが、その晴風は颯々として快く︵鼓岡晴風︶、そして園内にあった﹃魔松﹄︵天狗松︶には静かに 夜の雨がそそぐ︵魔松夜雨︶。﹂ 54
創立当初の哲学堂への交通手段は、最寄りのいくつかの駅から遠く︵近くて一キロ弱、遠くて三キロ︶、人里 離れた場所であった︹3︶。大正時代に入っても、環境的にはあまり変わらなかったようである︹←。このような人 里離れた場所に、井上円了は独特の雰囲気をもつ精神修養的な公園を建設した。 明治後期に創立された哲学堂は、一つの堂から出発して、その後に建物や庭園などが整備されて公園として公 開するまでに発展し、大正、昭和の時代に、その周辺地などは東京の郊外の住宅地としての開発が進み、現在で は周囲に高層マンションなどが林立して、創立の当初のような閑雅静寂の地とはほど遠くなったが、しかし、哲 学堂公園の中は今も一種異様な趣を失わずに、平成の時代に至り、現在では東京西部の名所の一つとして数える 人々も少なくない。 哲学堂公園には、明治から現在までの問に、いくつかの転機があった。ここでは、一〇〇年にわたろうとする 哲学堂公園の歴史を、それぞれの時代にわけて紹介したいと思う。 ︵二︶ 哲学堂公園の前史 哲学堂公園は、当初、井上円了が創立して小石川区原町にあった哲学館の移転地として誕生したものである。 井上円了は著書﹃哲学堂案内﹄の﹁はしがき﹂で、その経過をこう書いている︵5︶。 ﹁哲学堂の由来を述ぶるに、明治三十一年哲学館の敷地内に、京北中学校を併設せし以来、両校を別置するの 急要を感じ、将来哲学館を郡部に移すの意見を起したりしが、幸に豊多摩郡野方村大字江古田小字和田山に売地 あることを聞き、且つ其地は和田義盛の遺跡にして、東京府下名所の一なることをも知り、早速購入の上、之を 哲学館将来の敷地と予定し、其標木を建てた、其後哲学館が文部大臣より大学公称を許可せられたるに付、其紀 念として明治三十七年に三間四面の一小堂を此に建築したのが、今日の所謂四聖堂にして、実に哲学堂の起元で 55 井L円rと哲学堂公園’○Ott
ある﹂ このように哲学堂公園の歴史は、哲学館の移転地として土地が購入され、さらに明治三六年の専門学校令によ る﹁哲学館大学﹂の認可を記念して、現在の四聖堂が建立されたことから始まっている。 こうみると、哲学堂公園には現在の東洋大学の移転予定地としての前史があることになる。そして、これを井 上円了が公園へと転換・発展させたのであるが、この転換がなぜ起こり、さらになぜ﹁哲学﹂をモチーフとした 公園として創設されたのか、それを理解するには井上円了の前半生とその思想へと遡らなければならない。哲学 堂公園の前史として、また創立者の生涯について、まず井上円了の足跡を簡単に紹介したい。 井上円了は、江戸時代末の安政五︵一八五八︶年、越後国長岡藩西組浦村︵現在の新潟県越路町浦︶に生まれ た。生家は東本願寺を本山とする真宗大谷派の慈光寺で、その長男、つまり住職の後継者として誕生した。明治 維新を迎えたのは一〇歳であるが、この年に石黒忠恵に漢学などを学んだ︵6︶。修学はその後も続き、漢学や英 語を学び、明治七年に新潟学校第一分校︵旧長岡洋学校︶に入学した。その後、東本願寺に選抜されて京都の教 師教校に学び、半年後に国内留学生となり、明治=年に創立間もない東京大学予備門に入学し、明治↓四年に 東京大学文学部哲学科に入学した。当時の東京大学は日本で唯一の大学であり、理学、文学、法学、医学などを 西洋から積極的に移入していた時代である。その中で、井上円了はギリシャを発祥の地とする﹁哲学﹂と出会 い、このことが彼のその後の人生を決定づけているのである。この遍歴をつぎのように著書に記している︵7︶。 ﹁余はもと仏家に生まれ、仏門に長ぜしをもって、維新以前は全く仏教の教育を受けたりといえども、余が心 ひそかに仏教の真理にあらざるを知り、⋮⋮たまたま大政維新に際し↓大変動を宗教の上に与え、廃仏殿釈の論 ようやく実際に行わるるを見るに及んで、たちまち僧依を脱して学を世間に求む。初めに儒学を修めてその真理 56
を究むること五年、すなわち知る、儒学も未だ純全の真理とするに足らざるを。ときに洋学近郷に行われ、友人 中すでにこれを修むるものありて、余に勧むるにその学をもってす。⋮⋮その後もっぱら英文を学び傍ら﹃バイ ブル﹄経をうかがわんと欲す⋮⋮すでにして友人中シナ訳の一本を有するものあり。ついでまたその原書を得、 原訳相対して日夜熟読するに、⋮⋮ヤソ教また真理とするに足らず。⋮⋮余これよりますます洋学の緬奥を究 め、真理の性質を明らかにして、心ひそかに他日一種の新宗教を立てんことを誓うに至る。爾来、歳月勿々、早 くすでに十余年の星霜を送る。その間余がもっぱら力を用いたるは哲学の研究にして、その界内に真理の明月を 発見せんことを求めたるや、ここにまた数年の久しきを経たり。一日大いに悟るところあり、余が十数年来刻苦 して渇望したる真理は、儒仏両教中に存せず、ヤソ教中に存せず、ひとり泰西講ずるところの哲学中にありて存 するを知る。ときに余が喜びほとんど計るべからざるものあり。﹂ このように、井上円了は少年期から青年期にかけて、仏教、儒教、キリスト教を比較講究し、さらに西洋の諸 学を学んで、﹁真理は哲学中にあり﹂という認識に達した。そして、このことを人生の出発点とし、日本におけ る哲学の普及に生涯をかけたのである。 明治一〇年代前後の日本における﹁哲学﹂という学問は、まだ﹁フィロソフィー﹂の訳語も一定せず、﹁汎知 学﹂﹁愛知学﹂などという呼称を使い、一般には﹁理学﹂と表記されることも少なくなかった。そのなかで、日 本に﹁フィロソフィー﹂を紹介した西周の﹁哲学﹂という訳語が定着しつつあったが、日本全体からみれば、少 数者内のことにとどまっていた。 井上円了は、文明開化へと展開する新たな明治の日本にとって、哲学が文明や文化の進歩にとって必要かつ重 要であると考えていたので、東京大学在学中の明治一七年に﹁哲学会︵現在の日本哲学会︶﹂を創設した。この 57 僻1・円rヒ哲学堂公園 c・いtp
ような組織を創る]方で、井上円了は哲学の普及に取り組んでいる。その方法の第↓は著作活動であった。東京 大学卒業前後の代表作を挙げると、つぎのようなものがある。 ﹃哲学要領﹄︵単行本は明治一九∼二〇年、日本ではじめて西洋哲学史を紹介したもの︶ ﹃哲学↓夕話﹄︵明治 九∼二〇年、若き日の西田幾多郎ー日本を代表する哲学者ーなどに影響を与えたもの︶ ﹃真理金針﹄︵単行本は明治一九∼二〇年、キリスト教や西洋の理学・哲学と仏教との関係を教えの真理性から 明らかにして、仏教近代化の先駆けとなったもの︶ ﹁仏教活論序論﹄︵明治二〇年、仏教と哲学の関係を中心に論じて、仏教を東洋哲学と位置づけたもので、当時 の仏教界などに多くの影響を与え、ベストセラーになったもの︶ このうち﹃哲学要領﹄﹃真理金針﹄は初めに新聞・雑誌に連載されたが、その後、この代表作は単行本となり ﹁哲学書院﹂から出版されている。この哲学書院は、その名が示すように、哲学書の刊行を目的に、井上円了が 設立したものである。このようにして、井上円了は二〇歳代にして知識人として評価され、雑誌や出版などのジ ャーナリズムを通して、日本に﹁哲学﹂を普及・啓蒙する第一人者となった。 この著作活動を第一とし、井上円了が哲学を普及させる第二の方法として取り組んだのが教育活動であった。 当時、日本で専門に哲学を学ぶ教育機関は、東京大学︵のちに帝国大学となる︶だけであった。その学生数も、 井上円了の入学時が学年でただ一人であったように、極端に狭き門となっていた。そのため、井上円了は哲学の 普及に専門教育が不可欠と考え、同窓の先輩などの協力をえて、私立学校を設立した。 それが、明治二〇年九月一六日、井上円了によって本郷区湯島の麟祥院を借りて出発した哲学館である。現在 の東洋大学の起源である。ところが、この教育機関による哲学の普及は大変な困難をともなうもので、さきに述 58
べた哲学堂の移転地までの経過にはいくつかの変遷がある。 哲学館を創立した井上円了は、東京で学生を教育するだけではなく、文科系では最初の講義録︵﹃哲学館講義 録﹄︶を発行して、全国への通信教育を行った。その志は、国による高等教育が制度的に極端に限定されていた ためである。哲学館の開設趣旨の文書に、﹁余資なく、優暇なき人のために﹂という言葉がある。つまり、﹁大学 の課程に進むだけの資力のない人﹂﹁原書を読みこなせるようになるだけの時間的余裕のない人﹂に対し、教育 の機会を開放しようとし、これによって、哲学という学問を日本に普及・開放することを目指したのである。 そして、井上円了は哲学館の教育課程を一年間で整備して、それから一年間をかけて欧米諸国の視察を行っ た。書物から学んだ知識を海外視察によって確認したわけであるが、﹁欧米各国のことは日本に安座して想像す るものとは大いに差異なるものなり﹂と語っているように、日本と世界の格差を体験して、日本における高等教 育の発展の必要性を自覚し、帰国後に哲学館を大学へと拡張するために、校舎の建設に着手したのである。新校 舎の場所は本郷区駒込蓬莱町︵現在の文京区向丘二丁日︶で、土地は借地であった。この新校舎建設は明治二二 年二月に完成して、哲学館は移転したが、その完成間際の九月に全国各地に被害を与えた暴風雨のために、九 分どおり完成していた校舎は一時倒壊し、それを再建したものである。 このことによって、井上円了は大きな負債を背負いながら哲学館を維持しなければならなかったが、その状況 なかで井上円了を激励したのが勝海舟であった。そして明治二三年から、教育・学術の普及という社会貢献と大 衆的な寄付を集める方法として、井上円了が取り組んだものが全国巡回講演︵全国巡講︶であった。この経験は のちに哲学堂の創立・拡張に役立った。 このようにして井上円了は哲学館を運営し、明治二九年には大学の学科に相当する専門科を開設するまでに至 59 井1円rと哲学堂公園 ’Oc‘fl
ったが、この年の年末に類焼により校舎を失っている。しかし、これに先立って新たな校地は購入されていた。 その土地は小石川区原町︵現在の文京区白山五丁目、東洋大学の白山キャンパス︶にあった。火災から半年後 に、この土地に新校舎が完成して哲学館は移転する。そして、この明治三〇年に宮内庁から恩賜金三〇〇円が下 賜され、それを記念して原町の校地に京北中学校を新設する。それから五年後の明治三五年に、現在の哲学堂公 園の土地を、哲学館の移転予定地として購入したのである。 しかし、哲学館の新たな発展を目指したこの年の年末に、いわゆる﹁哲学館事件﹂に巻き込まれることにな る。井上円了は、私立学校への中等学校の教員免許の開放を文部省に求めた先駆者である。哲学館事件は、数度 にわたり取り組んで得た中等教員無試験検定の認可校の指定を、文部省が哲学館から剥奪したものである︵旦。 この事件によって、哲学館は大きな被害を蒙るが、明治三六年の専門学校令による認可を経て﹁哲学館大学﹂と なる。この昇格を記念して、明治三七年四月に、現在の哲学堂公園の四聖堂が建設されたのである。 その後、数年間にわたり、井上円了は学校の立て直しに努力したが、結局、神経症を患って、明治三九年一月 に哲学館大学学長・京北中学校校長・京北幼稚園園長を辞職して、完全に学校から退隠する。この退隠のとき、 財産↓○万五、二四四円を寄付して財団法人東洋大学を作り、三万六九〇円を寄付して京北財団法人︵中学校と 幼稚園︶を作った︵9︶。井上円了は学校の創立者・経営者から退隠した。子孫に学校を世襲させず、学校を財団法 人化して社会・公共のものとしたのである︹−o︶。そして、哲学堂の土地は井上円了が改めて財団法人東洋大学から 買い戻すことにした。明治後期の地図に﹁井上哲学堂﹂という名称があるのは、この土地が個人所有になったの で、一般にそう呼ばれたのである。 60
︵三︶ 哲学堂公園の土地 哲学堂公園にはこのような前史があるが、つぎに井上円了によって、公園がどのようにして形成されたのか、 それについて述べたい。 哲学堂公園の土地の購入は、明治三四年の土地捜しから始まった。丹生屋隆道が、井上円了の依頼を受けて、 護国寺の住職に新たな土地の購入を相談したことが発端である。丹生屋隆道はその経過を書き残しているが︵11︶、 要約するとつぎのようになる。 ある日、井上円了は音羽の護国寺で蔵書を調べていた。そのとき私に対して、﹁哲学館の移転のため土地を捜 しているので、護国寺住職の高城義海に相談してほしい﹂という依頼があった。私が護国寺住職と親しい間柄だ ったからである。そこで、住職高城義海は高田村︵現在の豊島区高田︶の砂利場の金乗院・那須宥高という人を 見つけたのである。この那須宥高は、高田馬場付近の土地に詳しかった。この人の世話で、和田山の土地が候補 となり、護国寺住職の口聞きだったので、ブローカーを仲介せず、井上円了は直接取引ができて、すらすらと事 が運び、この土地を﹁坪あたりただの一円﹂で購入できたのである。 次頁の二枚の地図でみると、明治一四年には哲学堂はなく田畑や山林であったが、明治四二年には﹁井上哲学 堂﹂がある。井上円了は、通称和田山と呼ばれたここの土地一万四、四四五坪を、さきのような経過で購入した のであるが、その支払いはつぎのようにして行われた︹12︶。 ﹁明治三五年一月に第一回の支払い金一、一二〇円が支払われているので、同年一月には売買契約が結ばれた のである。この土地の購入方式は哲学館寄宿舎建設予定地であった本郷区駒込富士前町畑地二反一畝五歩︵六三 五坪︶の土地に、現金八、二九七円九五銭を加えて交換するというものであった。井上円了退隠の時の引継によ 61 井1円rと哲学党公園一〇〇年
(地図は『東京都市地図2 東京北部」柏書房より引用)
ると、和田山の土地の元価は九、九九三円六五銭であったことからすると、富士前町の畑地は一、六九五円七〇 銭ということになり、前記の丹生屋のこの土地は坪一円であったという証言にもかかわらず、坪単価は安いもの であったことになる。現金は、二月に二、六四〇円五銭、六月に六七四円四〇銭、九月に三、八六三円五〇銭が 支払われた。﹂ そして、明治三八年一二月一三日に、井上円了は四つの理由を挙げて͡13︶、哲学館大学、京北中学校、京北幼 稚園の経営者からの退隠を決意する。その後、第二代の哲学館大学学長・前田慧雲との間で事務引継の契約を行 っている。その内容は、第一が学長交代に関する日程、第二が私学としての学風の継承と運営、第三が井上円了 の保有すべき財産の確定であった。 哲学堂に関係するのは第三項目であるが、退職にあたり井上円了の功労に対する﹁賞与﹂として、和田山哲学 堂一棟、曙町の木造平屋二棟、額面二、三〇〇円の株券を、井上円了に﹁割与﹂している。また、大学の移転は 見合わすこととなり、和田山の敷地一万四、四四五坪は元価九、九九三円六五銭で井上円了へ売り渡すこと、そ の支払いとして、まず、井ヒ円了の原町の土蔵付きの私宅と旧宅を建設の元価四、二〇〇円をもって哲学館大学 が購入し、残りの差し引き代金五、七九三円六五銭は、井上円了の哲学館大学への負債とし、井上円了が明治四 〇年から毎年五〇〇円ずつ、一〇年間は無利息で、↓○年以後は一割の利息をつけて、一二年間で完済すること にしている。このようにして、井上円了は哲学堂公園の土地を買い戻したのである。 ︵四︶ 哲学堂公園の建設 哲学堂公園の土地についてはこのような経過があったが、建物としては現在の四聖堂が初めての建築物であっ た。この建築計画は明治三六年一〇月一日という、哲学館大学が専門学校令による認可を受けたその日に、﹁哲 63井川些哲捲公[劃 ⊂’・Oil
学館紀念堂設計図﹂として公表されたものである︵14︶。この計画によると、建築費は一、二五〇円の予定で、設 計は山尾新三郎であった。井上円了は、東京大学を卒業直後の明治一八年一〇月二七日に、学生に参加を求めて ﹁哲学祭﹂を開催しているが、このときに哲学の始祖として四人の聖人を選んでいる。それは、東洋哲学から釈 迦、孔子、西洋哲学からソクラテス、カントであったが、これを﹁四聖﹂と呼んで祭り、以後、数年にわたり哲 学祭を行っている。そのため、哲学堂︵四聖堂︶を建設するにあたり、この四聖をモチーフにして作ったわけで ある。この建物は明治三七年四月一日に完成して落成式を行ったことになっている︵15︶。 その後、井上円了は明治三九年に学校から退隠して、哲学堂の公園化に取り組むのであるが、翌四〇年一二月 には﹁哲学堂拡張予告﹂を発表している。さきの四聖堂に続いて、六賢堂︵東洋的な学徳兼備の賢哲として、聖 徳太子、菅原道真、荘子、朱子、龍樹、迦毘羅︶、三学堂︵日本的な神儒仏の三道の碩学として、平田篤胤、林 羅山、釈凝然︶の建設を明らかにし、それを一〇年間で達成するという計画であった︵16︶。このときから、哲学 堂は哲学堂公園へと大きく歩み出し、﹁精神修養の根本道場﹂として拡張されたのである。 井上円了は哲学堂公園の目的をつぎのように考えていた︵︹︺内は筆者の注、以下同じ︶。 ﹁将来その所在地を私設公園とするにおいては、浅草や上野や日比谷の公園のごときは肉体修養の公園にして、 哲学堂は精神修養の公園として区別することができる。﹂︵17︶ ﹁西洋には体を養う公園があると同時に、心を養う公園がある。教会堂がそれである。休日の半日を公園で費 せば、必ず他の半日は会堂に費すことになっている。日本もこの心を養う公園がほしい。体を養う公園が日に月 に増えているのに、心の公園がない。﹂︵旧︶ ﹁︹心の公園としての哲学堂の建設は︺、余が存命中いささか微力を尽くし、その結果、余が死後において精神 64
修養的私設公園として永く保存せられ、世道の万一を禅補するを得れば本望のいたりなり。﹂︵19︶ 公園の施設の建築は、残された記録や資料からみると、当初の予定よりも早く進行している。それを年別にま とめると、つぎのようになる。 明治三七年四月 四聖堂の落成。 明治四〇年一二月 哲学堂拡張予告を発表。 明治四一年 ﹁本年中までに六賢台、三学亭の外部の建築は竣功したるも、内部の装飾と山門の建築とは、 来年度の事業となす。ついで、庭園の経営は五年間を期して成功の予定なり。しかして最初より全部の建築 は山尾新三郎氏の設計年にかかれり。﹂︵20︶ 明治四二年 ﹁哲学堂の工事は、六賢台、三学亭の内容と山門の建築と庭園の起工との三件なり﹂︵21︶ 明治四三年 ﹁今後の計画として庭園の増置、四聖の銅像、図書館の準備、その他基本金等、概算約五万 円を要す。これ中後両期の十ヵ年間に積み立つる心算なり。﹂︵22︶ 明治四四年 哲学堂の支出として、﹁梵鐘および什器購入費および技師へ謝儀﹂﹁堂舎および庭園修繕費﹂ が書き出されている︵23︶。 明治四五年︵七月三一日以前︶ ﹁哲学堂庭園を広げ、各所に命名したるもの左のごとし。︵総名︶哲学堂 唯 心庭 唯物園 ︵各名︶哲理門︵俗称妖怪門︶ 四聖堂 六賢台 三学亭 鎖仰軒 一元暗 圃回 無尽
蔵︵書庫︶ 時空岡闇劃︵この中に皇国殿あり︶ 幽霊梅 相対渓閨圃閨圃闇囲意識
駅 直覚径 認識路 論理関 心字池 概念橋 ・王観亭 倫理淵 理性島 先天泉 心理崖 独断峡 学界 津 百科叢 懐疑巷 二元衛 造化澗 神秘洞 後天沼︵↓名扇状沼︶ 原子橋︵↓名扇骨橋︶ 博物提 理 65 #]円ゴた哲学堂1’ttca−(⊃、,llr化潭 客観庸 物字壇 進化溝 万有林 感覚轡 経験坂 天狗松 F閨 髄饅庵 常識門 そのうち 輪廓を付したる分は未建設なり。﹂︵24︶ 大正元年︵七月三一日以降︶ ﹁哲学堂経営としては、物字園を完成せり。なお引き続きて講堂︵宇宙館︶を建 設することに定む。﹂﹁哲学堂内に講堂および図書館を建設することに着手せり。﹂︹25︶ 大正二年六月 ﹁哲学堂の由来記を印刷に付せり。題して﹃哲界一瞥﹄という。その緒言に哲学堂の起源およ び将来の計画を略言した﹂︵26︶﹁哲学堂経営としては、小講堂︵宇宙館、皇国殿︶を建築せり。外に石門を新 設せり。なお引き続きて図書館の建設に着手する予定なり。﹂︹27︶ 大正三年 ﹁哲学堂経営の方にては、図書館の新築に着手し、大半竣功せり。本年は豪雨、洪水のために 山崩れありて、唯物園に多大の損害を与え、復旧工事に多額を支出せり。また、論理関に傘亭を新設し、そ の周囲に小庭を築造せり。﹂︵28︶ 大正四年 ﹁哲学堂図書館内に四聖の像を石に刻して安置することに定め、田中百嶺氏をして原画をえが かしめ、田中良雄氏をしてこれを刻せしめ、その台石に余自ら左の記文を筆して刻せしめたり。﹂︵9E︶﹁哲学 堂の建築費および維持金を積み立つる一方法として、全国巡講の際、各所において揮毫のもとめに応ずるこ とに定めたりしが、目下工事過半竣成したれば、筆塚を設くることに決し、左の記文を草せり。﹂︵30二哲︹学︺ 堂経営の方は図書館の新築を完成し、霊明閣を創建し、陳列所を開設し、帰納場および三祖壇を築造せり﹂︵31︶ ﹁︹一〇月︺二十三日と二十四日両日をトして、哲学堂内設置中の御大典紀念図書館の披露をなすことに定 め、各所へ左のごとき案内状を発す。﹂︵32︶﹁本堂︹哲学堂︺は七八分通り出来上り候に付、今後は時々日曜 講演又は講習会を開催致心得に候。然し全部完成までには尚ほ数年を要すべく、其間に図書館陳列所を充実 66
する外に三祖苑史践を増設し、更に進んで庭外に学生監督所も設置致度心算に候﹂︵33、句読点は筆者︶ 大正五年 ﹁本年七月十六日より二十三日まで、哲学堂において﹃活仏教﹄の題にて夏期講習会を開けり。 御大典紀念図書館は本年六月より毎日曜公開することとなり、碑文を日下寛氏に依頼せり。﹂︵34︶﹁哲学堂庭 園経営の方は唯物園の川向こうの地所数十坪を購入して星界洲を開き、これに望遠橋と観象梁との二橋を架 せり。﹂︵35︶ 大正六年 ﹁哲学堂経営の方は、星界洲中に半月台を建築し、図書館前に紀念碑を設立せり。本堂将来の 目的は﹁東洋哲学﹄をもって発表せり。︵雑誌六月号︶﹂︵36︶ 大正七年 ﹁哲学堂経営の方は、硯塚を建て、史垣を設け、四聖堂中に実行的本尊として唱念塔を置き、 図書館内に雑誌をも閲覧し得る設備をなせり。﹂︹37︶ ︵五︶ ﹁哲学堂七十七場﹂ このように、哲学堂公園は明治三七年の四聖堂の落成にはじまり、大正七年の硯塚の建設まで、井上円了の生 存中︵大正八年六月死去︶は続けられた。その際、井上円了は、哲学堂公園の建物・庭園などにすべて名称をつ けた。それが﹁哲学﹂に因んでいることは前述のとおりである。大正二年の著書﹃哲界一瞥﹄は、現在知られて いる哲学堂に関する著書﹃哲学堂独案内﹄に、先駆けて出されたものである。﹃哲界一瞥﹄という書名のように、 この哲学堂公園は、哲学の世界が理解できるように各所に名を付けたわけである。﹁哲学の普及﹂を使命として、 またそれを信念にまで高めてきた井上円了の人生を象徴するものでもあった。哲学堂公園の建物・庭園の名称は、 東洋と西洋の哲学の聖人・賢者と、哲学という学問を理解する⊥で必要な概念、これを取り上げている。そして、 哲学堂公園の各所の名称を整理している︵38︶。 67 非」円rと哲学堂公園 こ)O年
﹁︹哲学堂公園の︺庭園は丘上と丘下とに分かれ、丘下に左右両翼ありて、右翼に物字園を設け、左翼に心字庭 を置いた。これは唯物論と唯心論とを表示したのである。⋮⋮丘上すなわち中位の方⋮⋮右翼すなわち唯物園の 方⋮⋮左翼すなわち唯心庭の方⋮⋮以上を総称して哲学堂と定めた。その中には未だ建設せざるものもある。こ れらの名目を一々説明すれば、哲学の大意が分かるように工夫したつもりである。﹂ さらに大正四年に﹃哲学堂独案内﹄を出版して、﹁哲学堂庭内七十七場名称﹂を著している。井上円了の記述 を元に、その名称の意味するところを、当時の配列にしたがって、つぎにまとめて紹介したい͡39、漢文の句読点は筆者︶。 哲学堂庭内七十七場名称 1哲学関 哲学堂の入り口の石柱の一つで、2の真理界と対をなし、これより先の境内が﹁哲学上宇宙の真 理を味わい、かつ人生の妙趣を楽しむところ﹂を表している。 2真理界 1の哲学関と対をなす哲学堂の入り口の石柱の一つである。 3 讃仰軒 蹟仰とは徳を仰ぎたっとぶの意味であるが、門戸を監守するために設けたところである。 4哲理門 この門は四聖堂の正面にあり、この門には﹁樟論理舟湖物心之源、鞭理想馬登絶対之峰︹論理の 舟に樟さし、物心の源にさかのぼり、理想の馬に鞭うちて、絶対の峰に登る︺﹂という漢詩が書かれている。 門の両側には仁王尊の代わりに、天狗と幽霊の彫刻物が置かれている。物質の世界、精神の世界には根底に ﹁理外の理﹂という不思議なことがある。物質の世界の不思議を天狗に、精神の世界の不思議を幽霊で表した ものである。そのため、﹁物質精気凝為天狗、心性妙用発為幽霊︹物質の精気凝りて天狗となり、心性の妙用 発して幽霊となる︺﹂という標語がある。この門には妖怪門という俗称がある。 5 一元播 哲理門より一直線に連なっている垣根のことで、﹁世間の多元的な見解︵事々物々の差別のある 68
こと︶﹂と﹁哲学の一元的な見解︵差別の深底に潜在する一大原理︶﹂とを区分する境界を表している。 6常識門 5の一元將の左端にある門で、﹁普通﹂を表す出入り口であるが、その門柱に﹁四聖堂前月白風 ほとり 清、六賢台上山紫水明︹四聖堂の前、月白く風清し、六賢台の上、山紫水明︺﹂と書かれている。この門の右 側に来観者の入り口がある。 7 髄饅庵 常識門に隣接する一棟をいう。これは肉体上の死を意味するのではなく、精神上の死を表してい る。その理由は、世間の俗塵にまみれた心をここで消滅︵死︶させるからである。来観者は、必ずここで名簿 に住所・氏名を記入することになっている。そのときに粗茶を進呈する。 8復活廊 働艘庵に連なる小廊下をいうが、燭艘庵では日常的な精神は死んでいるので、その心を蘇生し て、新たに哲学的な心眼を開くための場所である。 9 鬼神窟 復活廊で結ばれている二階建ての建物をいうが、すでに来観者の精神は俗界を離れて霊的になっ ているので、人の耳目では接しえない霊魂と神霊の世界にいることを表している。 10@接神室 鬼神窟の内室をこう呼ぶが、天地の神霊に接していることを表している。 11 霊明閣 また鬼神窟の楼上をこう呼ぶが、特別の客を歓迎する迎賓室を表している。 12 V狗松 霊明閣から連なる松林のなかで、ひときわ高くそびえている松をこう呼んでいる。﹁和田山や一 本高し天狗松﹂といわれて、哲学堂の道標となっている。 13 時空岡 四聖堂の周辺の平地をこう呼び、哲学の時間・空間を表している。 14 S科叢 時空岡の一方の、こかげのしげみをこう呼び、もろもろの科目を表している。 15 @四聖堂 哲学堂の中心となる建物である。その本尊は哲学的理想を表している。内部の装飾にも意味があ 69井ト円rtrr学堂公園・:Ott
るが、とくに世界の哲学者として、東洋哲学の中から中国哲学の孔子、インド哲学の釈迦、西洋哲学の中から 古代哲学のソクラテス、近世哲学のカントを奉崇している。それを表しているのが﹁孔聖、釈聖、墳聖、韓 聖﹂の扁額である。 16@唱念塔 四聖堂の本尊として﹁哲学的理想﹂を本尊とするが、これに対する実際的本尊として、四聖堂内 に﹁南無絶対無限尊﹂の石柱を置いてある。この﹁南無絶対無限尊﹂のことばを唱念することにより、人の憂 薔、苦悩、不平、病患などが静まる。唱念の方法には、請唱︵声に出して︶、黙唱︵口をふさいで︶、黙念︵目 をとじて︶の三つがある。 17 Z賢台 四聖堂のとなりの赤い三層六角の建物である。この六人は東洋的、つまり、日本、中国、インド から選ばれた賢人である。日本の古代から聖徳太子、中世から菅原道真、中国の周代から荘子、宋代から朱 子、印度の仏教から竜樹、外道︵仏教以外のバラモン哲学︶から迦毘羅仙、以上の六賢者である。その肖像な どを台上に掲げている。この画工は中沢弘光氏、鋳造者は津田信夫氏、建築は山尾新三郎氏である。二階には 井上円了が全国巡講した際に集めた神社仏閣の守り札などが壁に展示されている。この建物の屋根の一部にレ ンガの天狗が付けてある。 18 M塚 六賢台を出て天狗松の下の小坂を下り、右側にあるのがこの塚である。全国巡講の際、各地で揮毫 して謝儀をえて、この公園を建設したので、揮毫の記念として建てられたものである。﹁字をかきて恥をかく のも今暫し哲学堂の出来上がるまで﹂の歌と、台の前面に﹁余欲建設哲学堂、使人修養身心、荷筆歴遊諸州、 応需揮毫、積其謝報充此資、大半既成、於是築筆塚以記其由云︹余は哲学堂を建てて、人をして身心を修養せ ふで しめんと欲し、筆を荷いて諸州を歴遊し、もとめに応じて毫をふるい、その謝報を積みてこの資に充て、大半 70
すでに成る。ここにおいて筆塚を築き、もってその由を記すと云う︺﹂と記されている。 19 @懐疑巷 筆塚を過ぎると、道が分かれていて、前方に進めば唯物園、後方に降りれば唯心庭となり、﹁往 こうか唯物、返ろうか唯心、ここが思案の懐疑巷﹂と、哲学上の分岐点を表している。 20@経験坂 唯物園に達する道をこのように名付けているが、唯物論は経験を階段とし、理科や博物などの実 験にもとついているからである。 21 感覚轡 経験坂から唯物園までの途中には、実験に関する名称が付けられている。この坂の途中のところ を感覚轡というが、われわれの経験が耳目などの五感の感覚によっていることを意味している。 22@万有林 感覚轡から下を臨めば、小池が扇面となり、小橋が扇柄となっているのが見える。そこから右の 方に行く松林を、こう呼んでいる。 23@三祖苑 哲学の元祖の三人を祀るこのあたりの庭園を、こう呼んでいる。 24@三字壇 万有林の中に、大理石で造られた三字形の腰掛けを、こう呼んでいる。 25 @三祖碑 三祖とは、中国の黄帝、インドのアクシャ・パーダ︵足目︶、ギリシャのタレス︵多礼須︶のこと である。それぞれの小伝はつぎのとおりである。 ﹁支那 黄帝 伝日、黄帝有熊氏、名軒韓、生而神霊、長而聡明。察五気、立五運、順天地之紀、定幽明之 占、又日、帝与岐伯、上窮天紀、下極地理、遠取諸物、近取諸身、更相問難、而作内経、蓋支那哲学発源於 此、其後歴千有余年、百家競起、一盛一衰、以至今日、黄帝実為其肇祖焉。右黄帝小伝︹支那 黄帝 伝に日 いんゆう けんえん く、黄帝は有熊氏、軒猿と名つく。生まれながらにして神霊あり、長じて聡明、五気を察し、五運を立て、天 かみ しも 地の紅にしたがい、幽明の占を定む。また曰く、帝と岐伯とは、上は天紀をきわめ、下は地理をきわめ、遠き 71 #1円/tと哲re公園 ○○年
テ れ こもごも は諸を物に取り、近きは諸を身に取り、更々相い問難して、内経を作る。けだし、支那哲学は源をここに発 へ す。その後、千有余年を歴て、百家競い起り、↓盛]衰して以って今日に至る。黄帝は実にその肇祖たり。 右、黄帝の小伝なり︺﹂ ﹁印度 足目 足目者印度古仙也、不詳其年代、或云、劫初大梵天王化作此仙、或云、其人即帝釈天也、両 説荒唐不可信拠、然此仙遠在釈迦以前、始説因明法、立九句因及十四過類、是為論理之規矩、爾来諸学派皆 由、此以判是非、弁邪正、故今推足目、為印度哲学鼻祖也︹印度 足目 足目なる者は印度の古仙なり。その つまびら こうしょ 年代を詳かにせず。あるいは云う、劫初の大梵天王化してこの仙人となると。あるいは云う、その人はすなわ ち帝釈天なりと。両説は荒唐にして信拠すべからず。しかれどもこの仙は遠く釈迦以前に在り。はじめて因明 の法を説き、九句因および十四過類を立つ。これ論理の規矩となす。爾来、諸学派みなこれによりて、もって さだ わか 是非を判め、邪正を弁つ、故にいま足目を推して、印度哲学の鼻祖となすなり。 右、足目の小伝なり︺﹂ ﹁西洋 多礼 往古希臓有七賢人、多礼須居其首位、西暦紀元前七世紀之人、夙究数学、兼修星学、進破当 時神話、依物理原則、湖天地太初、寛以水為世界真元、森羅万象皆生於水云、自是而後、諸家輩出、甲論乙 ギリシヤ 駁、遂成西洋哲学大観 、然始開其端者、即多礼須其人也。右多礼須小伝︹西洋 多礼 往古の希臓に七賢人 タ レ ス あり、多礼須はその首位に居る。西暦紀元前七世紀の人なり。つとに数学を究め、かねて星学を修め、進んで 当時の神話を破り、物理の原則によりて、天地の太初にさかのぼり、ついに水をもって世界の真の元となし、 森羅万象はみな水に生ずと云う。これよりして後、諸家輩出し、甲論乙駁、ついに西洋哲学の大観を成せり。 しからば、始めてその端を開く者は、すなわち多礼須その人なり。 右、多礼須の小伝なり︺﹂﹁井上円了識す﹂ と書いている。 72
26 @哲史躍 万有林という松林に設けた哲学史に関するもので、つぎの哲史塀に続いている。この塀には、哲 学者の年表が刻まれている。 27@唯物園 三祖苑の三字壇から、万有林の碑の側を過ぎて、石段を下れば、そこが唯物園である。 田物字壇 唯物園の目標として、芝で﹁物﹂という字が造られている。 29@客観庸 物字壇の側にある休息所︵草亭︶のことである。客観とは哲学上の概念で、耳目に感じる物的世 界のことである。もう一方の心的世界を・王観という。 30 @進化溝 物的世界の進化を表したものである。 31 理化潭 物的世界を研究する自然科学の世界を表したものである。 32 @博物限 動物、植物、鉱物、地質、古生物などの物的世界についての研究を表したものである。 33@数理江 この唯物園の側に流れる水は妙正寺川であるが、物的世界の研究の基礎にある数学と理科を象徴 して、この川に名付けた。 38 37 36 35 34 観象梁 望遠橋 星界洲 半月台 神秘洞 る。進化の根元をさぐっていくと神秘の世界に行くので、 ている。唯物論の究極は神秘に入ってしまうことを表している。 妙正寺川に架かる橋で、天文・気象などの自然観察を表している。形状から富士桟とも呼ぶ。 妙正寺川に架かる橋で、遠くの世界まで観察する道具を表している。 川の対岸の地域を、星の世界にたとえて表している。 その星の中に月が見えるから、その月を半月で表している。川の対岸にある。 進化溝の左にある石窟であるが、この暗黒の世界がもつ、物の造化の幽玄性と神秘性を表してい 反対に、この洞から流れる水によって進化溝ができ 73 tt[円rと哲学略公園一〇〔’年
39 @狸灯 神秘洞の右にある狸の灯篭であるが、狸はよく人をだます、人間も詐偽、虚喝、妄語などの術に長 じていて、共通性がある。しかし、このような悪徳のなかにも、ときには光輝ある霊性を表すことがあるの で、狸の腹に光り︵灯篭︶を仕込んでいる。このような世界は、人生の真情を表してもいる。 40 @後天沼 狸灯の傍らにある小池をいう。人の性質・習慣などが生後の経験や教育によってえられ発展した ものであると見る立場を表している。池の形状が扇に似ているので、扇状沼とも呼ぶ。 41原子橋 この扇状沼にかかる橋なので、扇骨橋ともいうが、もとの名は原子橋である。万物の原子が次第 に集合・発展して、世界と人類の文化を開発する点を、扇の面で暗示したものである。 42 ゥ然井 原子橋を渡っていくと、噴泉がある。自然に噴出する天然泉であるが、世界の原動力はこのよう に天地自然より間断なく発生していることを表している。 43 @造化澗 自然井より川にそって、唯心庭の方に歩むところの断崖一帯の総称である。岩石の間からこんこ んと小さな水が流れるのは、万物の創造の妙用といえる。 44@二一兀衛 二元とは哲学上の用語で、物と心の二者対立の名称である。つまり、ここが唯物園と唯心庭の岐 路にあたる︵この二元衛より上の方に進めば、朱色の字で﹁人生必須之処在此︹人生必須のところ、ここにあ り︺﹂と書いてあるが、これは便所を指している︶。 45 w界津 二元衡より下の方に向かえば、水辺に突き当たる。これを学界津と名付けた。前述の便所からこ こで水洗できるので、人生の不浄を学界にて清めるとの意味もある。 46 ニ断峡 学界津から唯心庭へは、もともと断崖であった場所を切り開いた道である。そこでこの名称にし たが、哲学上では、独断は経験に相対する言葉である。物質上の学理を根拠とする方が経験派で、精神上の理 74
想を基礎とする方を独断派という。そのため、経験は唯物に関係し、独断は唯心に関係している。この独断峡 をさらに進めば、唯心庭にたどりつく。 47 B心庭 唯心論を表したもので、これに関するさまざまな概念を総称している。 48 @心字池 唯心論の中心は心であるが、そのことを表すために、中央に﹁心﹂の字を形にして池を掘ってい る。唯心庭の目標になっている。 49 @倫理淵 唯心の一つの形が倫理であるが、川に臨んでいる淵をこう名付けている。 50 @心理崖 唯心のもう一つの形が心理であるから、川と反対に山によっている崖をこう名付けている。これ で、唯心庭の中央が﹁心﹂で、それの左右が倫理と心理になる。 51 理性島 池の中心の小島をいうが、理性が心の奥底にある本性であることを表している。 52 S灯 さきの狸灯が人生観とすれば、この鬼灯は人心観にあたり、われわれの心中に悪念、妄想がやどっ ているのは心の鬼のためで、しかしその心の内に良心の光明があるので、鬼が灯篭をいただきつつ、その灯篭 ︵良心︶に圧倒せられて、苦しんでいる状態になっている。 53 T念橋 概念とは心の↓つの作用であり、外界に関連するものであるが、理性に達する前置の作用にすぎ ないことを表している。 54 @先天泉 橋の左の方に天然泉が噴出している。これを先天泉と名付けたが、われわれはときによって心の もっとも深いところから、なんとなく高妙尊厳の消息を感じることがある。それを倫理学では、先天の命令と いうが、教育や経験を超越した最高のものをいう。この泉の水が心の池へと流れることは、先天の命令がわれ われの心に伝わってくることを表している。 75 月1円了と哲学常公園一〇〇Yl
55 @主観亭 池の湖畔の高所にある茅軒をいう。心の世界の休息所を意味し、唯物園の客観盧に対立する名称 である。この小亭で休み、心の世界の風光を観察してもらう場所である。 56 シ覚径 唯心庭から丘上へと、庭から丘への坂道の一つをこう名付けている。哲学上の認識の一つの方法 で、思考、推理を待たず、にわかに速やかに覚知することを意味する。そのため、丘へ直接する近い道であ る。 57 @認識路 直覚に対するものである。哲学の研究は論理によるが、論理に関する心︵意識︶の作用のことを 認識といい、事物を知覚し思考し推理することはすべて認識という。直覚を直線的とすれば、認識は迂回とな り、庭から丘へと、迂回する坂道である。この道を進むと、つぎの論理域に至る。 58 _理域 理学の研究は数学によっているように、哲学の研究は論理にもとついている。 59 @演繹観 論理の一つが演繹で、認識路の途中にある傘の形の小亭をこう名付けている。演繹とは、思想の 原則によって推論することをいう。 60 @帰納場 論理のもう一つが帰納で、演繹観をさらにのぼって丘上に達する三脚鼎立の休息台をこう名付け ている。帰納とは、すべての事実を集めて立論することをいう。演繹と帰納は論理の二大部門で、演繹は心の 内で道理にあてはめて断定する方、帰納は広く目を外界に放って引証する方であるから、来観者が演繹観で憩 い内省し、帰納場にすわり外望することを願っている。 61意識駅 直覚、認識ともに意識の作用であるから、認識路と直覚径の間に意識駅を設けている。ここに二 脚の腰掛けがある。ここでも休んで観相することができる。 62 @絶対城 哲学上、対立するもの︵相対︶がなければ、絶対となることを表している。この城は帰納場と四 76
聖堂の間にあり、読書堂であるが、万象について推究すれば絶対の本体を想出するように、万巻の書物を読み 尽くせば、やはり絶対の境地に体達することからも、この城を絶対城と名付けた。ここに所蔵する図書は、明 治一九年から三〇年間にわたり乏しい生活の中で収集したもので、明治以前の国書・漢籍・仏書があわせて二 万一、一九三冊ある︵40︶。これを公開したいと考えている。書函のあるところを聖哲院と名付けてもよい。な お、四聖堂の中には一切の肖像を置かないようにしたので、ここに四聖の肖像を刻した聖哲碑を安置してい る。 63 @聖哲碑 絶対城にあり、四聖の肖像を刻した碑である。この肖像は田中百嶺氏が橋本雅邦氏の四聖の図に 基づいて描いたものである。 碑の台石には﹁凡哲学東西相分、在東洋支那哲学以孔聖為宗、印度哲学以釈聖為首、西洋則古代以項聖為 宗、近世以韓聖為首、故本堂欲合祀斯四聖而代表古今東西之諸哲、弦刻影像以致讃仰之誠、如其位次則従年代 前後、非有所軒軽也︹およそ哲学は東西に相い分ち、東洋に在りて支那哲学は孔聖をもって宗となし、印度哲 学は釈聖をもって首となす。西洋はすなわち古代は項聖をもって宗となし、近世は韓聖をもって首となす。故 に本堂はこの四聖を合祀して古今東西の諸哲を代表せしめんと欲す。ここに影像を刻してもって讃仰の誠を致 けんち す。その位次のごときはすなわち年代の前後にしたがい、軒軽する所あるにあらざるなり︺﹂と刻している。 64 @観念脚 絶対城︵読書堂︶の二階は閲覧室で、書を読んでいろいろな観念を凝らすので、こう名付けてい る。さらに屋上には書を読んで疲れたときの休息所として観望台を置いている。 65 マ察境 絶対城の屋上の観望台は哲学堂の周囲を一望するのによいので、こう名付けている。別名では大 観台とも呼ぶ。 77 井1川∫’ヒ哲学堂公wa oo句
66 I念碑 絶対城というこの図書館は、大正四年二月の即位の御大典紀念として開館したので、それを永 く忘れないように、図書館の前にこの碑を建てている。 67 @相対渓 さきの聖哲院、観念脚、観察境を総称して絶対城と名付けたので、これに隣接する無水溝を相対 渓と名付けている。 68@理想橋 相対渓に架けた石橋をこう名付けている。 69 搖O門 理想橋の外の小門を理外門という。ここには三つの門があるが、正面の哲理門は表門、常識門は 通用門、そしてこの理外門は裏門にあたる。この裏門は、上扉を解いて外に開き、下扉を揚げて内に支えるよ うにすれば、屋根の形になる。門であって、門でない、つまり理外の理を表している。 70 @幽霊梅 理想橋の左あたりに、痩せた梅の木がある。この木は、もともと井上円了の駒込の自宅にあっ て、あるときにその下に幽霊が出ていると騒いだことがある。それから、この梅の木を幽霊梅と呼ぶようにな ったのであるが、哲学堂の天狗松と夫婦にするために移植したものである。 71宇宙館 幽霊梅の隣に建っているのが、この宇宙館である。哲学は宇宙の真理を研究する学問であるか ら、この一棟を建てたのである。哲学上の講話、または講習会を開催するための講義室である。 72 c国殿 哲学は社会国家の原理をも研究する学問であるから、世界万国の中のもっとも美なる日本を表す シフち ために、宇宙館内の一室をこう名付けている。ここに﹁宇宙万類中人類為最尊︹宇宙万類の中、人類をもっと うるわ も尊しとなす。︺﹂﹁世界万国内皇国為最美︹世界万国の内、皇国をもっとも美しとなす。︺﹂という二つの聯 をかけている。四角の室の中に、さらに横斜する]室を入れて、宇宙︵世界︶と日本を表している。 73@三学亭 哲学堂には、世界的な四聖堂、東洋的な六賢台がある。そこで、これに加えて、日本的な神道、 78
儒教、仏教という三道から碩学大家を選んだのが、この三学亭である。三道の中でもっとも著述の多い大家と して、神道は平田篤胤、儒教は林羅山、仏教は釈凝然の三人である。この三学亭の天井にかけた石額の彫刻は 田中良雄氏の作品である。この三角山を下って降りたところに、﹁尾無毛泉無白︹尾に毛なし、泉に白なし︺﹂ の石柱がある。この文句は﹁尿﹂の字となり、便所を指す。 74 ・塚 筆塚に対立させて設けたのが、この硯塚である。また、近くの哲理門の裏には、﹁一心大海起知情 意之波、絶対古月放真善美之光︹一心大海は知情意の波を起す。絶対古月は真善美の光を放つ︺﹂と、哲学の 意味を詠っている。 75@無尽蔵 哲理門より数歩のところにある一棟は陳列所で、こう名付けている。 76@向上楼 無尽蔵の階上をこう名付けている。 77@万象庫 無尽蔵の階下をこう名付け、向上楼とともに、世界と日本の記念品を陳列している。玉石同架式 の配列で、妖怪棚、珍奇棚もあり、なかでも貴重なのは勝海舟翁からいただいた文殊菩薩︹41︶、その他に不動 明王の座像、閻魔大王の彫刻である。 井上円了の生存中に、哲学堂公園はこのような建物・庭園が完成し、それぞれに哲学的な名称が付けられてい た。 ︵六︶ 哲学堂公園の建設と井ヒ円了の全国巡講 すでに述べたように、井上円了は哲学堂公園の土地を買い戻し、その上で今のような諸施設を建設したのであ るが、その資金はどのようにして集められたのかと言えば、全国各地で講演して、社会教育 現在の生涯学習 を提唱・実践したのである。そして、そのときに揮毫を行い、講演と揮毫の謝礼を集め、注いで哲学堂公園を一 79 ;i}円了と9学堂公園・・○∩年
人で建設した。 井上円了の生涯について、ある研究者は﹁理念を生きた思想家﹂︵42︶と呼んでいるが、大規模な事業を展開する ときには、必ず一つの理念を掲げて実践をしている。哲学堂公園の場合は、明治三六年↓○月に提唱した﹁修身 教会﹂︵大正改元から﹁国民道徳普及会﹂と改称︶の運動を提唱しているが、井上円了がいうこの運動の目的は、 要約すればつぎのようになる︵43︶。 西洋では学校以外に日曜教会があって、社会道徳、実業道徳の成長を支えているのである。しかし、日本では 知徳と道徳がバラバラである。これをただすには各町村、寺院に修身︵倫理︶の教会を設け、国民道徳の大本で ある教育勅語を開達敷術して、町村の人民にことごとく道徳を修習させるのが急務である。日露戦後の日本の経 営も、これがまずやらなければならないことである。 この時期までに、井上円了はすでに日本全国を巡回した経験をもち、日本社会の実情を上から下まで把握して いた。その知見をもって、学校教育以外の社会教育の必要性を訴え、自ら各地に赴いて講演を行った。多くは辺 境にある農山村や漁村で、寺や小学校を会場とした。明治三九年一月に、学校から退隠した井上円了はこの社会 教育事業に全力を注いでいる。この全国巡講の講演の日数は、]年の三分の二にあたるなど、多くの日々を費や している。講演のテーマは大きく分けて六種類あり、明治四二年から大正七年までの統計が残されているが、そ れを割合の多い順に並べると、勅語修身︵四〇・八%︶、妖怪迷信︵二三・六%︶、哲学宗教︵一五・四%︶、教育 ︵七・九%︶、実業︵六・八%︶、雑題︵五・四%︶となっている︵44︶。 明治三九年から大正七年まで一三年間に、井上円了が全国を巡講した日数、講演した市町村数、席数、聴講者 数は、次頁の表のようになっている。 80
哲学堂時代の全国巡講 年 講演日数 市 島 郡 町村 箇所 席 人 数 明治39 173 6 1 15 83 137 305 61,400 40 275 6 66 171 283 504 112,445 41 262 6 45 235 307 576 170,000 42 185 3 2 28 155 193 363 98,770 43 226 6 47 190 236 451 112,830 44 7 1 3 1 8 11 19 5,700 大正1 92 3 21 83 103 192 45,150 2 284 7 51 260 310 589 173,205 3 232 5 41 215 259 460 124,420 4 197 3 34 193 254 440 107,960 5 214 5 44 206 250 483 117,120 6 221 5 49 228 272 514 109,995 7 172 4 30 171 216 395 67,900 8 81 一 一 一 一 一 一 合 計 2,621 60 6 472 2,198 2,831 5,291 1,306,895 大正8年の市町村数などは不明。また、各年度の統計から海外巡講分を除いた。 81 井1川J’と哲学堂公園’oo智
年間の講演日数が極端に少ない年は、海外視察・講演、あるいは明治天皇の逝去のため謹慎した期間である。 それ以外をみると、いかに多くの日々を費やしていたのか、それが分かる。井上円了の長男の妻である井上信子 は、当時を振り返ってこう述べている︹45︶。 ﹁妹が﹃うちは変なのよ、お父様が家にいらっしゃると変な気がするの﹄と、子供の頃、よく言っておりまし た。私の結婚後︹大正六年︺もそうでした。一週間家におりましたらいい方でしょう。二、三日ですね。他の巡 講が待っているんですね。よく電話がかかってきました。﹂ 井上円了は哲学堂という精神修養的な公園を建設し、さらにこれを維持するために、﹁七万五千円﹂を積み立 てることを目標としていた。そのため、これだけの金額を集める方法を考えたが、それを要約すると、つぎのよ うになる︵46︶。 哲学堂の資金については、有志者から寄付金をあおぐのは本意でないので、別に工夫することにした。﹁国民 道徳の大本である教育勅語の御聖旨を普及徹底するには、学校教育以外に社会教育、民間教育を各市町村におこ さなければならない﹂というのは、余の年来の持論である。そのために、日本全国の各郡各郷を周遊して、その 趣旨を講演することに定めたが、開会の経費を支弁する方法を案出する必要があった。余は生来﹁悪筆﹂で揮毫 を断ってきたが、近年余儀なくそれを受けるようになり、今回の巡遊でも、町村の有志の所望に応じて額や掛け 物の揮毫をすることにした。そこで、揮毫による謝礼の半額を開会経費に充て、もしくは町村の公共事業、慈善 事業に寄付することとし、他の半額は哲学堂の建築費維持費に充てることにした。 井上円了が哲学堂を公園として建設するにあたり、その決意を詠んだ漢詩がある。﹁哲学堂所吟之一﹂という ラと タイトルであるが、﹁草鞍竹杖席難温。浮浪身猶浴聖恩。沐雨椀風知世態。食疏飲水味天尊。曲肱枕上眠能熟。 82
容膝慮中楽却存。無位無官吾事足。終生不敢伺権門。﹂ これを読み下すと、つぎのようになる。﹁草鮭と竹の杖で旅を続けて、席の温まるひまもなく、そんな浮浪の 身でありながら、なお天皇の恩恵に浴している。雨に髪を洗い、風にくしけづりながら、世のさまざまな姿を知 り、そまつな食事をし、水を飲み、ほとけの恵みを味わうのである。肘をまげて枕とし、眠ることよく深く、膝 いおり を入れるほどのせまい盧のうちにこそ、楽しみがかえってある。なんの位もなく、いかなる官職もなく、それで 吾がことは充分であり、身を終えるまで、敢えて権力のある者のところには行かないのである。﹂ここに井上円 了自身の信念が表れている。あえて権力に近寄らず、自らの力と恵みによって、﹁独立自活の精神﹂で進んだの である。 このようにして、午前は移動、午後は講演、夜は揮毫という全国巡講の生活を続けたのであるが、揮毫の謝礼 は内規として﹁寄附金五〇銭以上へは小切もしくは額面、↓円以上へは額面もしくは半切、二円ないし三円以上 へは半切もしくは全紙﹂︵﹁館・王巡回及招聰心得﹂﹃妖怪学雑誌﹄第五号、明治三三年六月一〇日︶と定めていた。 少額を大衆的に集めたのは、哲学館を拡張・維持した方法でもあった。さきの哲学館時代には、能書家として知 られていた勝海舟が揮毫をして﹁陰ながらの筆奉公﹂︵47︶をしてくれていたが、明治三二年に勝海舟が死去したの で、かわって井上円了自身が揮毫するようになったのである。当初、その揮毫は能書というのにほど遠いもの で、後年になると井上円了流のスタイルが完成したと言われている︵魍。また、全国を巡回して講演と揮毫を行 って募金するという井上円了の方法は、学者にあるまじき行為とされ、﹁守銭奴﹂﹁俗学者﹂と批判された︵49︶。 しかし、筆塚にあったように、﹁字をかきて恥をかくのも今暫し哲学堂の出来上がるまで﹂と思い、井上円了は 取り合わないようにしていたと言われている。 83 Al}I」rと哲学堂公園一〇(川
この当時の井L円了の生活について、残されているエピソードを二つ紹介したい。第]は巡講生活について、 第二は清貧な生活についてである ﹁︹父は︺酒は好きだが、﹃朝はいや、昼は少々、晩たっぷり、とは云ふものの上戸ではなし﹄と公表し、晩年に は晩酌に一合の酒︵主として桜正宗を用いた︶を水で薄め二合にして飲むという具合に自制していた。これは親 が代々卒中でたおれたからでもあろう。ただ晩年全国を巡講、揮毫にせめられ毎夜二、三時間しか睡眠をとれな いことが多かったため心機転換にウイスキー︵当時一番安かったダイアモンド印が多い︶を用いた。﹂︵50︶ ﹁石川義昌氏から私︹前島康彦︺がうかがったところであるが、堂主円了博士が日頃いかに勤倹これつとめて 蓄財し、哲学堂の運営に心がけたかがわかる逸話がある。 石川君、今日は大御馳走をするから、久しぶりに和田山に来ないか。 という博士の誘いに従って、まだ若かった石川氏はいそいそと遠路を和田山哲学堂にはせ参じた。その日の夕食 は、いつもとちがってこあじの焼いたのが一疋だけ粗末な膳に加えてあっただけなのには驚きました:・:.という のである。一汁一菜だけが夕食だとすれば、朝食は汁だけだったのかもしれず、焼魚一疋つけることは、円了博 士にとっては大御馳走であったにちがいないのである。﹂︵51︶ 哲学堂公園は大正四年から一般公開されるようになった。そして、それから四年後の大正八年に、井上円了は 死去する。井上円了の全国巡講は、明治二三年からと、明治三九年からに大別されるが、通算二七年間で講演日 数は記録されているものだけで三五八七日に達し、講演した市町村は現在︵平成七年︶においてみると︵一市町 村に数ヵ所も一ヵ所として︶、全国の半数︵五三・○%︶に達している。大正八年は、井上円了が六〇歳の還暦を 迎えた年であったから、哲学館の卒業生がそのお祝いをと申し出たところ、﹁もう少しで全国巡講が完了するの 84
で、そのときにお願いしたい﹂といって、還暦の祝いを断っていた。 大正八︵一九一九︶年の井上円了は、二月から五月まで静岡県下を巡講している。この国内の巡講が終わった のが五月三日である。それから二日後の五月五日に中国に渡っている。この海外巡講は中国で五・四運動が展開 されていた時期にあたり、政治的経済的な問題があって順調に進まなかったと言われている。なんとか大連に到 着したのが六月五日で、同地の西本願寺別院の幼稚園で講演したのが夜の八時四〇分であった。開演から一五分 ほどで、井上円了は突然よろめき顔色も変わり、休演になったという。駆けつけた医師の診断は急性脳溢血であ った。翌六日、昏睡状態のまま午前二時四〇分に亡くなっている。このようにして、井上円了は満六一歳で生涯 を終えている。二度にわたる叙勲も断り、権力を求めず、権力の座につかず、いわゆる在野で奮闘し続けた人生 であった。 六月二二日、東洋大学学葬が行われ、哲学堂公園の向かいの﹁蓮華寺﹂に埋葬された︵52︶。生前に墓の設計図 は出来ており、﹁井﹂の字の上に﹁○﹂が乗り、そのまま﹁井ヒ円了﹂と読める形であった。哲学堂を公園とし て設計した心が墓にも表されている。 二 財団法人哲学堂の時代 ︵一︶ 財団法人の設立 井上円了が全国を巡講し、また揮毫をして、哲学堂の建設のために集めた資金はおよそ七万五〇〇〇円であっ た。明治三九年から大正七年までの一三年間の収支は、つぎのようになっていた。 収入 揮毫謝儀 七万三九一四円〇五銭 85 井1円rと哲学埠公園・○Oit
支出 死去で残されたのは、 予期しないことであったが、 この遺言状は大正七年一月二二日の夜に起草されたもので、 ていた。 件という四つの事項に分けられていた。 た。 遺言第参類 篤志寄付 二〇五円五〇銭 銀行利子 八〇九円八四銭 総額 七万四九二九円三九銭。 基本財産積み立て 二万〇二〇〇円○○銭 敷地購入費 一万〇五六一円五八銭 建設・修繕・器具購入費 二万三四七四円〇二銭 贈呈書等・印刷費 二二九二円四六銭 事務費︵俸給・手当・切手代︶ 八四九八円八九銭 南半球旅費補助 三五〇〇円○○銭 前年度不足金 九四四円三三銭 総額 六万九四七一円二八銭。 哲学堂の土地、建物の他に、積み立て金二万二〇〇円あまりであった。海外での客死は 井上円了はこういう事態に備えて遺言状を残していた︹53︶。 ﹁死亡ノ節親子立合開封スベシ﹂と袋面に記され この遺言状の内容は、葬式および法会に関する件、遺産に関する件、哲学堂に関する件、臨時に関する このうちの哲学堂に関する項目には、つぎのようなことが書かれてい 86