到来覚帳」の考察
著者 籠谷 次郎
雑誌名 新島研究
号 100
ページ 124‑181
発行年 2009‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012970
近世新島家の儀礼と贈答の人びと
─「新島家祝物到来覚帳」の考察─
籠 谷 次 郎
はじめに
一 「新島家祝物到来覚帳」について 1 「覚帳」の構成と諸問題 2 「覚帳」記載の概要 二 儀礼と到来物 1 子どもの祝儀 2 出火
3 藩主と新島家 4 民治と弁治 5 新島家の女性 6 幕末の七五三太 三 贈答の人びと 1 安中藩士・下役 2 町人
3 新島家親族 おわりに
付表Ⅰ「新島家祝物到来覚帳」にみる贈答者一覧(1)武家の部 付表Ⅱ「新島家祝物到来覚帳」にみる贈答者一覧(2)安中藩下役の部 付表Ⅲ「新島家祝物到来覚帳」にみる贈答者一覧(3)町人・農民の部
はじめに
本稿の主題となる新島家は、上野国安中藩(譜代板倉氏、3 万石[城付 1 万 7000 石、下総 1 万 3000 石])江戸上屋敷(一ツ橋外)に住む同藩士で、
のち新島襄の名で知られる新島七五三太の生家である。同家を対象とする 研究は新島研究のなかでは遅れた分野である1 )。新島家の家族と生活に関 心を持つ私は、さきに七五三太の父民治が記した「新島家祝物到来覚帳」(以 下、特別の場合を除き「覚帳」と略)を翻刻した2 )。江戸藩邸内の同家の 生活、家族の動態が一部なりともとらえられると考えたからである。しか し、ことは容易に進まなかった。「覚帳」に登場する人物はあまりにも多く、
私にはほとんどが初見の人であった。その出自はもちろん、安中藩士の識 別すらつかないまま、時だけが過ぎた。しかし、2006 年秋、恵まれて、い くつかの安中藩関係史料に接することができ、安中藩士に限り多くの人物 の出自が明らかになった。
民治が残した「新島家祝物到来覚帳」は、近世新島家の生活を描いた壮 大な鳥瞰図といえる。ここには、文政元年から始まる同家の江戸藩邸生活 50 年のうち、天保 3 年から慶応 2 年まで、35 年間の新島家の儀礼とそこ に登場した人物が記されている。記された人物は藩役所機関 7 を含む 344 人(付表Ⅰ ・ Ⅱ ・ Ⅲ)、その大部分はこれまで新島研究には登場しなかっ た人である。新島家がこれらの人びととどうかかわっていたのか、それ自 体、新島研究の重要な課題である。「覚帳」の研究は、近世新島家研究の 新たな起点となるであろう。
本稿は、安中藩関係史料に接することができたことから、「覚帳」翻刻 の一つのまとめとして作成したものである。数ある課題のうち、新島家の 儀礼と贈答、そこに登場する人物について述べるものである。とりあげた 課題は広範、多岐にわたる。定説とは異なる所見、事実も浮上、新たに生 じた疑問も多い。
「覚帳」に登場する 344 人は、末尾の付表にⅠ武家(安中藩士、他藩武家、
所属不明)、Ⅱ安中藩下役、Ⅲ町人・農民に分類して収録した。「覚帳」に は同一人物であっても改名により二つの名前で登場する人物もある。付表
では二つの名を記し、同一人であることがわかるよう処理し、また、親子 関係についてもわかるよう処理した。
一 「新島家祝物到来覚帳」について
1 「覚帳」の構成と諸問題
「覚帳」は 12 冊の小覚帳から成る。小覚帳の作成内容から見て、初期に はほぼ祝い事ごとに作成されているが、時期が下るにしたがいこの形式は 崩れ、小覚帳にいくつかの祝い事が年次を追って記され、適当な量となっ たとき、新しい小覚帳が作られている。小覚帳が 1 冊にまとめられたのは 慶応 4 年 3 月江戸藩邸引きあげ時と思われる。簿冊外題に「祝物到来覚帳 新島」と記されたのはこの時と思われる。そのため、この時すでに失わ れていた小覚帳もあったようである。たとえば存在してもよいはずの天保 5 年二女まき出産、弘化 2 年くわ婚姻、嘉永 6 年まき婚姻等の記録はない。
「覚帳」の構成は別表のとおりである。天保 3 年長女くわ(於䦭)出産 にはじまり、慶応 2 年弁治(忠敬)徒小性昇進で終わる。ここには表題不 明の 3 件(整理番号 33、以下同じ)(34)(35)を含む計 39 件の到来物(一 部、新島家の返礼・挨拶品を含む)と贈答者が記されている。このうち、
表紙から 7 丁目の一丁(3)が切り取られている。同所は小覚帳内題分で、
記載状況から判断して弁治・民治に関するもので、天保 5 年藩主板倉勝明 の大坂加番に随行、そのときの贈答記録である。
図は新島家の前身である中島家と、それにつづく明治 2 年までの新島家 の人びとである。ここでは人名表記は定説にしたがった。しかし、「覚帳」
には読みも含め、定説とは異なる表記がみえる。(一)民治の表記とその 読み、(二)「新島」の表記、(三)長女くわの生年、(四)ますの没年、(五)
弁治の旧姓「中島」の表記等である。
(一)民治の読みは新島研究上「たみはる」と読む人が多い。しかし「た みじ」と読む人もいる。「覚帳」には小覚帳「天保九年四月 出火見舞覚帳」
の出火見舞(6)に続く、病気見廻(7)に「病気見廻 民二」と記す。こ こでは「たみじ」と読める。また、安中藩「文政八年五月江戸御在所諸士
表 「新島家祝物到来覚帳」の構成 整理
番号 記帳年月日 祝儀、見舞 祝物贈
与者数(人)
1 天保 3(1832) .11.18 於䦭出産 53
2 4(1833) .03.00 䦭初節句 20
3 ⎧書きだし一丁分切り取られ、欠(内題分)
⎜ 5(1835) 〔大坂加番随行、弁治・民治〕
⎩ 同上、新島家から挨拶 47 40 4 7(1836) .01.11 敬徳御徒組除 3
5 7 .02.00 於䦭疱瘡 40
6 ⎧ 9(1838) .04.00
⎩ 出火見舞同上、類焼手伝、新島家から挨拶 54
9
7 9 病気見廻民二 21
8 9 .04.28 三四吉出産 6
9 10(1839) .11.22㹰 三四吉疱瘡 31
10 12 .12.00 おまき疱瘡 20
11 10 .12.25 敬忠徒士格 8
12 11(1840) .06.16 おとき出産 24
13 11 .12.27㹰 おとき疱瘡 18
14 14(1843) .01.14 〔七五三太〕出生 40
15 14 .05.00 七五三太初幟 57
16 15(1844) .01.11 敬徳徒士小性 4 17 弘化 4 (1847) .11.15 七五三太袴着初 20
18 4 .12.14 〔双六〕出産 27
19 嘉永元(1848) .05.00 双六初節句 8
20 元 .05.09 敬忠御供 13
21 2(1849) .03.00 双六疱瘡 24 22 6(1853) .01.11 敬徳中小性格 10
23 6 .03.21 敬忠安中表御供 9
24 安政 3(1856) .06.11 〔弁治〕草津湯治 25 25 ⎧ 3 .11.00
⎩ .11.15 おとき奉公
同上、新島家から挨拶 8
8 26 4(1857) .12.15 七五三太前髪執 25 27 5(1858) .11.03 内々おます差遣 9 28 6(1859) .01.28 七五三太徒組除 45 29 万延 2(1861) .01.11 敬徳中小性 28 30 文久元(1861) .03.11 敬幹初而安中表御供 8
31 元 おとき婚姻 27
32 元 .11.00 双六引移 35
33 2(1862) .03.00 表題不明 29
34 年月日・表題不明
35 年月日・表題不明
36 2 .11.12 七五三太備中松山表へ航海 171)
37 元治元(1864) .03.12 七五三太箱館表へ修業 10
38 元 .05.18 雙六句語師御雇 2
39 慶応 2(1866) .01.11 敬忠徒小性 13 注) 1)同数値には七五三太の土産品進呈者を含む。
同帳では、祝物贈与者は(1)(18)(21)(32)(39)では「軒」で数えているが、
本稿では数えの単位は「人」とした。
并以下格録留覚」3 )(影写、以下「文政八年格録留覚」と略)は「新嶋民次」
と記す。「天保十一年十二月改江戸安中席順帳」4 )(以下「天保十一年席順帳」
と略)は民治を御徒組除の項で「新嶋民次」と記し、弁治を徒士格の項で「新 嶋弁次」と記す。ある時期「民次」の表記があったことがわかる。弁治に ついても同様である。「民治」の表記がいつごろからみられるのか。「安政 四年五月江戸安中諸士席順役録」5 )(以下「安政四年席順役録」と略)は 中小性格の項で「新島民治」と記し、弁治を徒士格の項で「新島弁治」と 記す。「民治」「弁治」の表記は天保後期以降と思われる。「たみはる」は「民 治」改名後に生じた読みである。
(二)新島の表記にも変化があった。文政八年格録留覚、天保十一年席
中島磯八 るい忠七 民治
くわ
まき
みよ
とき
七五三太
雙六 とみ
□
︹後妻︺ のぶ 芳五郎浅五郎弁治 ︵新島︶
ます ︹後妻︺ ︵中島家養子︶
図 中島家・新島家の人びと(明治 2 年まで)
注)『新島襄全集』8 巻、1992 年。3 頁による。人名表記も同書にしたがう。
順帳はともに「新嶋」と記し、安政四年席順役録は「新島」と記す。小覚 帳の天保九年出火見舞覚帳の表紙には「新嶋氏」の記載があり、当初は「新 嶋」と記していたことがわかる。「弁次」を「弁治」、「民次」を「民治」
に改めてから、姓も「新島」に変化したようである。
(三)長女くわの生年は、これまで天保 2 年 11 月 18 日とされ、これが 定説となっている。明治期民治が記した「新島氏家統記」6 )、公義が記し た「新島家起原」7 )による。しかし「覚帳」はくわを於䦭と記し、出産を 天保 3 年 11 月 18 日とし、翌 4 年 3 月に初節句を迎えたと記す(表)。
(四)弁治の後妻ますの没年は、新島家「過去帳」(民治筆)8 )は「嘉永 四辛亥年十二月十九日、武蔵国渋谷村吸江寺ニ葬 享年七十歳卒」と記す。
没年はこれが定説となっているが9 )、「覚帳」は、ますの祝い事として安 政 5 年に「内々おます差遣」(27)を記す。安政 5 年ますは健在である。
(五)新島家の創始は文化 10 年弁治 28 歳の時である。これ以前は、弁 治は中島秀八と呼んだ。他方、「覚帳」(34)には中島家の継承者と思われ る人物に、中嶋芳五郎、その子中嶋浅五郎の名がみえる。また、文化末期、
秀八が記した覚書に10)、自身を「文化七年十二月二十五日 足軽組除金二 分増 押合方茶番 中嶋秀八」と記す。「中島」は正しくは「中嶋」である。
史料上「中島」の表記が現れるのは明治に入ってからである11)。
2 「覚帳」記載の概要
記帳 39 件(表)のうち、表題不明の 3 件(33)(34)(35)を除く 36 件 のうち、子どもを対象としたものが最も多く 15 件を数える。子ども誕生 5 件、初節句 2 件、疱瘡 5 件、初幟・袴着初・元服各 1 件。次いで藩にかか わる各人の格式・昇進に関するものが 7 件、藩主お供に関するものが 4 件、
七五三太の航海が 2 件、他に民治の病気、弁治の草津湯治、とき奉公、ま す差遣、双六引移、出火見舞がある。疱瘡・病気、出火時の到来物は正確 には見舞品であるが、家族が無事で、大きな難を逃れたということで祝い 物となっているのであろう。
表題不明 3 件を除く 36 件を家族別にみると、長男七五三太 9 件、民治 6 件、弁治 5 件、双六 5 件で、男四人で 25 件を占める。七五三太が突出し
て多いのは嫡男であり、家族はもちろん周囲の期待も大きかったことによ る。弁治が民治とそれほどかわらないのは、藩士としての格式は、弁治は 民治より低いが、家では明治 3 年の死(85 歳)まで家督の地位にあったこ とにもよる12)。女性では、くわ 3 件、みよ 2 件、まき 1 件、とき 4 件、ま す 1 件である。とみの記載はない。
贈答者 344 人の内訳は、現在のところ私の推算では安中藩士 141 人、他 藩武家 16 人、所属不明武家 69 人、安中藩下役は役所機関を含め 24 人、
町人・農民 94 人である(付表Ⅰ ・ Ⅱ ・ Ⅲ)。安中藩関係者が 48.0%を占め るのは当然としても、町人・農民が 27.3%を占める。この分布は今後調査 の進行とともに、武家不明分の判明から、安中藩関係者と他藩士との間で 若干の修正が予想されるが、町人・農民 27.3%は大きな変化はないと考え ている。藩邸内生活とはいえ生活は町人とは隔絶したものでないことがわ かる。本稿では年月日・表題を欠く(34)(35)は考察の対象外とした。また、
文久元年 11 月双六引移(32)についてはすでに考察を終えており13)、割愛 した。
二 儀礼と到来物
1 子どもの祝儀
子どもの誕生 近世日本人の平均寿命(出生時平均余命)は、近年の農 民社会の例証から 40 歳以下(幕末は 30 歳台後半)とみられている。平均 寿命が延長した近代と比べ、指摘できる大きな特徴は乳幼児の死亡が多い ことである。幕末乳幼児死亡率はやや低下するが、人の死の大きなやまは 10 歳までにあり、このやまをこえると死亡率は下がり、平均余命ものびた。
武士の場合は、近世初期には同時代の庶民より長命であったようであるが、
近世後期には余命の伸びはとまり、遅れて余命を伸ばした庶民との差は縮 まったとみる意見もある。近年、歴史人口学が述べる見解である14)。
新島家の子どもは 6 人(図)。幼児死亡の記録はない。6 人の子どもの出 生は母親とみの年齢からみると、初産は結婚翌年(天保 3 年)の 26 歳の時、
四子まではほぼ 2、3 年間隔、五子・六子は 5 年弱間隔である。大きな間
隔はないので、出生後の死亡はなかったと思われる。25 歳の結婚で子ども 6 人は多い15)。安定した家庭であったことを物語る。
子ども誕生祝いの贈り主は、二女まきの記録がないので、5 人(1)(8)(12)
(14)(18)について見ると、くわ 53 人、三四吉(みよ)6 人、とき 24 人、
七五三太 40 人、双六 27 人で、長子と長男に多い。くわから双六までは 15 年の開きがある。この間、祝い物には量の多少はあっても品物の変化はな い。食品、酒、衣料、貨幣が多い。食品は多様である。5 人に共通するの は切餅、大福餅、煮豆、味噌漬沢庵、鰹節である。日持ちよく、すぐ食べ られる食品である。多くはないが魚がある。いな、黒鯛、海老、交魚、か れい、あじなど。これらは他の祝事にもみられ、祝儀魚として贈られたよ うである。
一般に祝儀進上品としてよく知られているのは扇子である。扇子が庶民 の間で贈り物として用いられるようになったのは江戸中期以降で、起源は 将軍吉宗の治世とする研究がある16)。量は多くないが、くわに 2 人から、
七五三太に 1 人から各一対が贈られている。この場合、扇子のみの進上は ない。くわへの 1 人(岡田源七郎)は縮緬表地・毛之裏地とあわせ、もう 1 人(三木戸平)は金百疋とあわせて贈り、七五三太への 1 人(橋本良助)
は太織産衣とあわせて贈っている。扇子進上の形態がわかる。酒は七五三 太に多い。一升単位で贈られるが、大部分は酒札である。
子どもの初節句 くわ、七五三太、双六に初節句(2)(15)(19)の記 録がある。祝い物贈り主はくわ 20 人、七五三太 57 人、双六 8 人。七五三 太の 57 人は全儀礼中最も多い人数である(表)。くわ、七五三太に多いの は誕生祝いの場合と同じである。くわ初節句と双六初節句には 15 年の隔 たりがある。3 人への贈り主は大黒屋武兵衛、2 人への贈り主は三木戸平、
田中左七郎、金井戸一である。
祝い物は、くわに内裏一対(2 人)、蒔絵重箱一組(2 人)、小菓子盆五、
膳椀一対、手遊び、ひいとろ一対(2 人)、白酒(3 人)、貨幣(金一分、
金二朱、金一朱各 1 人)など。七五三太に飾馬(3 人)、弓矢飾(5 人)、
鷹(2 人)、清正人形、金太郎人形、熊乗金太郎人形、五本道具一飾、飾物 大小のほか、魚(黒鯛、あじ)、酒(12 人)がある。祝詠一首に目刺を添
えるものもある。酒は「菊」「剣菱」「泉川」「花筏」など、いずれも「下 り酒」(摂津伊丹の銘酒)である17)。また、飾馬、弓矢飾、鷹等で同じ飾 物が複数で届いており、これらは節句の飾物として定着していたことを物 語る。貨幣は少なく、金二朱、金百疋各 1 人。双六へは櫃兜一飾、肴、酒 一升札 5 枚(6 人)。初節句の贈り物には男児・女児の違い、兄弟ごとの違 いがよくあらわれている。
疱 瘡 子どもの健やかな成長を願う親たちにとって、初節句のあと、
もっとも恐れたのは麻疹や疱瘡などの流行病であった。感染しても無事に きり抜けることができれば、祝い事であった。「覚帳」では、七五三太を 除く 5 人が疱瘡に感染している。くわが天保 7 年 2 月(5 歳)に、三四吉 が天保 10 年 11 月(2 歳)に、まきが同年 12 月(6 歳)に感染した。まき は三四吉からの感染であった。つづいて、ときが天保 11 年 12 月(6 カ月)
に、少しおいて双六が嘉永 2 年 3 月(3 歳)に感染した。
親はどう対処したか。状況がわかる天保 10 年 11 月の三四吉の場合、「竹 内様」の診察を受け、同月 23 日から 25 日まで小薬・煎薬・粉薬を飲み、
26 日から 12 月 7 日まで煎薬と別薬を、翌 8 日に煎薬・蒸薬・小薬を服用 した。まきは 12 月 6 日から 19 日まで、同じく「竹内様」の煎薬と小薬を 服用した。他方、ときは「南様」の診察をうけている。天保 11 年 12 月 28 日から翌 12 年 1 月にかけ、元日と 10 日を除き計 35 帖の薬を服用した。1 日 3 帖の服用なので、1 月 10 日過ぎまでであったと思われる。
3 人の服用状況をみると、瘡期は 13 日〜 17 日であったことがわかる。
いずれも薬品名は記していないが、服用頻度からみて、それほど高価な薬 でなかったようである。
天保十一年席順帳によると、安中藩の医師は江戸詰 5 人、国詰 3 人、う ち江戸詰に南玄昇、竹内宗甫の名が見える。診察の「竹内様」「南様」で ある。安政四年席順役録には両人の名は見えないが、江戸詰 3 人の医師の なかに竹内筍庵の名がみえる。筍庵は宗甫の長男で、宗甫は鍼医本道外科 兼医、筍庵は後年の記録では洋方医である18)。
嘉永 2 年 3 月感染の双六の場合、「覚帳」は「三月八日さゝ湯 四月朔 日赤飯」と記す。ささ湯はさけゆともいい、疱瘡が癒えた後、酒をまぜた
湯で湯浴みをさせること、また、米のとぎ汁に酒をまぜて赤手拭にひたし てぬぐうことで、疱瘡終末の行事である19)。赤飯は家で調理した。餅米二 斗、さゝけ四升、焼塩を買い入れ、餅米に金一分・銭五九四文を、焼塩に 銭十二文を払っている。赤飯は見舞品を受けた 24 人および御廐部屋、御 勘定所惣中、山下おふミへ「御礼」として各一箱を贈った。山下おふミ(山 下吉六の娘)は同年 10 歳、民治の寺子である[付表Ⅰー 211]。記帳は最 後に「目出度祝ひ納候」と記す。短い表記に快復の喜びがにじむ。
疱瘡見舞には、くわ 40 人、三四吉 31 人、まき 20 人、とき 18 人、双六 24 人。長子くわに多いのは祝い事に共通する傾向であるが、ここでは誕生、
初節句ほどの性差はない。見舞品は、ごく一部で魚(鯛、かれい、鰈)、
食品(煮染物、みそ)がみえるが、大部分は菓子(菓子袋、栗飴、大福もち、
軽焼、水飴、煎餅、落雁、最中)、手遊び、人形、置物(丈人形、珍人形、
金太郎人形、鯛張古、だるま、いぬ張子、おし鳥)である。菓子が多いの は農民社会とかわらない20)。くわ、まきに少数ながら赤木綿、紅絵がある。
これらは赤色の呪力によって悪霊を払うということで広く用いられた21)。 双六に金太郎人形(五)がある。疱瘡見舞には酒、貨幣はない。
七五三太の成長 「覚帳」は七五三太の成長儀礼について、弘化 4 年袴 着初(17)、安政 4 年前髪執(26)を記す。成長儀礼の記録は七五三太だ けである。前髪執は安政 4 年 12 月 15 日、岡田源七郎を烏帽子親として行 われ、七五三太は敬幹と改めた。
祝い物贈り主は、袴着初で 20 人。酒(一升 7 人、三升 1 人)が半数近 くを占め、貨幣(金二朱、金二百疋各 1 人)、帯一筋(2 人)、足袋、雪駄、
傘、巾着(各 1 人)など。子どもの祝いであると同時に家の祝いである。
前髪執では 25 人。銀札(二・三各 5 人)、金五十疋(1 人)、酒(剣菱五、
剣菱札、泉川各 1 人、酒札 2 人)等で 3 分の 2 以上を占め、他に祝儀魚(黒 鯛一、松魚二本、かれい一、あじ十各 1 人)、扇子一対(3 人)がある。扇 子は誕生祝いの場合と同じく他の品(剣菱、銀札、松魚)とあわせて贈ら れている。酒は袴着初では「酒」と記すが、前髪執では銘柄(剣菱、剣菱札、
泉川)記載が多い。いずれも伊丹の酒である。
袴着初から前髪執までは 10 年、双方に名が見えるのは岡田源七郎、飯
田丈助、内山庄助、橋本元三郎の 4 人。これに先だつ七五三太誕生、初幟 を通して名が見えるのは岡田源七郎と内山庄助である。
2 出火
天保九年の出火 天保 9 年は、江戸は大火の年であった。『東京市史稿』22)
は、この年の「重ナル火災」として 3 月 10 日、4 月 17 日、閏 4 月 4 日、
10 月 13 日の 5 件をあげている。新島家が住む安中藩上屋敷は 4 月 17 日の 火災で全焼した。
4 月 17 日の火災は、昼九ツ半(午後 1 時)前、日本橋小田原町一丁目と 二丁目の間に在る湯屋で出火。はじめ南風が強く、のち東風となり、火幅 を広めた。火の一部は三河町にもおよび、やがて神田橋御門外小川町通の 大名・旗本屋敷にもおよんだ。鎮火は夜九ツ頃(午前 12 時)、約 11 時間 にわたる大火であった。「延長凡廿三町幅員凡九町ヲ焼ク」という。上屋 敷を焼失した藩主勝明は神田佐久間町の中屋敷に移った23)。
「覚帳」(6)の出火見舞は、このとき新島家に届けられた見舞品の記録 である。見舞人は 54 人、数の多さは 57 人の七五三太初幟に次ぐ。見舞品 は茶碗(十個 7 口、五個 4 口)、煮物(煮豆 3 口、煮染 3 口、煮肴 1 口)、
重詰(4 口)等を筆頭に、弁当(2 口)、汁、梅干一樽、徳利一酒、すし(2 口)、餅、菓子(2 口)、餅菓子(2 口)、まんちう、最中、煎茶、おこし、
鰹節など調理を必要としない食品と、蓋茶碗、鍋、土瓶(3 口)、手桶(鯛、
平目とあわせ)、行平など台所用品、手拭(2 口)、座物、硯蓋、和紙など 日用品である。住まいを焼失した時の見舞品の特徴が読みとれる。貨幣も 7 人(金二分 3 人、金一分 2 人、金一朱 2 人)から贈られた。
贈り主 54 人のうち、安中藩士は武元太左衛門、田中治右衛門、藩医津 金元良、御陸尺部屋頭辰五郎、森田万之助、御厩部屋頭、飯田長重郎、根 岸團蔵、鈴木亀次の 9 人。大部分は町人を含む藩外者である。
焼失後の片付けは各家ごとにおこなった。新島家では、手伝加勢の 9 人 に「挨拶」として金一分(1 人)、金二朱(4 人)、金一朱(3 人)、反物一 反(1 人)を贈っている。
3 藩主と新島家
藩主の大坂加番 大坂加番は大坂城警衛の幕府軍事組織の一つである。
大坂加番創始の時期は、諸書により異なるが、寛永 2、3 年頃とする説が 有力である24)。幕府の西国支配の拠点であった大坂城には将軍の名代であ る城代と、その補佐役である定番(京橋口定番、玉造口定番)が置かれ、
その下に正規の勤番である旗本役の大番(東大番、西大番)が一年交替で 勤め、同時に小人数の大番の加勢として大名役の加番(山里加番、中小屋 加番、青屋口加番、雁木坂加番)が置かれた。
加番の任務は、山里加番・青屋口加番が東大番の加勢、中小屋加番・雁 木坂加番が西大番の加勢で、山里加番は山里丸および極楽橋外二ノ丸曲輪 西東両仕切内の警衛、中小屋加番は二ノ丸青屋口の警衛、青屋口加番と雁 木坂加番は半月交代で二ノ丸雁木坂の警衛である。山里加番には 3 万石程 度の大名が、他は 1 − 2 万石程度の大名があたり、任命された各大名は軍 役に定められた人員25)を率いて、それぞれ大番と同じく 1 年交替で勤めた。
年々の交替は、7 月朔日に「御暇」を賜り、15 日(大の月は 16 日)より 18 日にかけ順次江戸を発ち、8 月 3 日から 6 日にかけ山里、青屋口、中小屋、
雁木坂の順に交替した26)。
同制度発足以来、安中藩の大坂加番は 5 回を数える。①寛政 5 年板倉伊 豫守勝意、②文化 6 年板倉伊豫守勝尚、③天保 5 年板倉伊豫守勝明、④天 保 10 年板倉伊豫守勝明、⑤安政 6 年板倉主計頭勝殷が勤めた。いずれも 山里加番である27)。後年、襄が手記「青春時代」のなかで、「私が十七歳 になった年の早春に、殿様は将軍の命令により、約三世紀前に日本全国を 平定し統治した有名な英雄[豊臣]秀吉のたてたあの偉大な城を守るため、
大坂に派遣された。殿様はむろん多数の家来を連れて行った。父もその中 の一人だった。父は殿様の書記役として随行し、(中略)私はまた殿様か ら留守中は江戸の藩邸で書記役をつとめるよう命令を受けた。」28)と記し たのは、安政 6 年勝殷在番の記憶である。
これに先立つ天保 5 年の大坂加番では弁治と民治が随行した29)。「覚帳」
(3)が同記録である。祝儀贈り主は 47 人、天保 3 年くわ出産、同 9 年出 火見舞に次ぐ人数である。47 人のうち安中藩士・藩関係者と確認できるの
は 12 人、町人と確認できるのは 18 人、あと 17 人は出自不明であるが、
町人が多いのが特徴である。祝儀は貨幣(金二両、金一分、金二朱、金二朱、
金百疋)、小菊、煙草、煙草入、砂糖、茶など。また金平糖、風呂敷、紺 足袋、鬢付、歯磨があるのは長期の在番を意識してのものであろう。扇子 一対も 1 件、手拭とあわせて贈られている。大坂加番の随行は慶事と考え られていた。
軍団を率いて移動する大坂加番は大名には大きな負担であったはずであ るが、この軍役に限って幕府は大名に合力米を支給した30)。加番の役高は、
延享 3 年以来、山里加番は 2 万 7000 石、中小屋加番は 1 万 8000 石、青屋口・
雁木坂加番は 1 万石とされ、その四ツ物成が合力米として支給された。山 里加番の安中藩では 1 万 0800 石が支給された。本高 3 万石に対し 1 万 0800 石は大きい。加番を願い出る大名は多かったという31)。安中藩が願 い出ていたかどうか、確認できないが、大坂加番が藩の財政補給となって いたことは間違いない32)。安中藩では在番終了後に随行の藩士に賞与手当
(「大坂御祝義金」)を支給している33)。藩が望む軍役であり、藩士も喜ぶ 課役なら、人びとが随行に祝意をあらわすのも当然である。贈り物が多く、
後述するように返礼も広範囲におこなわれているのはこうした事情によ る。
新島家は返礼として「挨拶」品を贈っている。対象は 40 人。贈り主 47 人とは若干のずれがある。47 人のうち 13 人は対象とならず、他方 6 人が「挨 拶」だけの人である。6 人は渥美様、横井様、屋根屋岡本傳次、小松忠八、
中村道葛、大工内山庄助である。新島家とは特別の関係を持つ人と読める。
渥美様は渥美吉右衛門、横井様は横井源右衛門と思われ、藩の重臣である。
40 人への挨拶品は猪口、茶碗、椀、箸、湯呑、盆、皿、酒道具、状箱、座 蒲団、重積ふとん、魚串、人形、櫛、丼、筆、肴串、花かんさし、振出壷、
昆布など多様である。かなりの出費である。
藩主のお供 藩主のお供も祝い事であった。「覚帳」は嘉永元年 5 月敬 忠御供(20)、同 6 年 3 月敬忠安中表御供(23)、文久元年 3 月敬幹初而安 中表御供(30)の 3 件を記す。襄が手記「青春時代」の中で、藩主のお供 について「私が十八歳になった年の早春には、安中までもお伴をしたので
あった。殿様はむろん駕籠で行き、私たち警護役のものは徒歩だった」34)
と記したのは、文久元年 3 月御供の記憶である。敬幹 19 歳の時である35)。 しかし、これらのお供が藩主のどのような用件の発駕であったのか、現在 のところわからない。
祝儀贈り主は、嘉永元年敬忠お供で 13 人、同 6 年敬忠安中表お供で 9 人、
文久元年敬幹安中表お供で 8 人、大部分は藩士である。ここでは家よりも 個人に対する関係が強い。
敬忠は茶を嗜み、煙草を好む人であったらしい。嘉永元年 5 月の贈り物 には茶と煙草が多い。同 6 年 3 月の贈り物にも茶が見える。文久元年 3 月 の敬幹には風呂敷、麻裏草履、元結、小菊、半切など日用品が目立つ。扇 子一対も風呂敷とあわせて贈られている。敬幹初めての安中表お供であり、
贈り主の配慮が読みとれる。
敬忠に贈られた茶で注目したいのは「茶」と記すのは 1 件だけで、他は「神 田園」「八幡園」「常盤園」「清風」「三文字」「山本山」と記す。「八幡園」
は日本橋通十軒店茶問屋白寉園八幡屋覺右衛門の茶36)、「清風」は神田豊 島町新橋の茶鋪伊勢屋(清風軒)吉兵衛の茶37)、「山本山」は日本橋通二 丁目茶鋪山本嘉兵衛の茶38)である。他は確認できないが、この時期、茶 の業界にも銘茶が存在したことがわかる。
昇進と増俸 昇進、増俸は家の慶事である。祝う人は他の祝事に比べ少 ないが、「覚帳」は弁治に 2 件、民治に 4 件、七五三太・双六に各 1 件を 記す(表)39)。
新島家の働き手の中心である民治は文政 11 年(22 歳)に徒士格(御用 部屋書役手伝)となり、金四両一人半扶持となった。天保 2 年(25 歳)に 武蔵国浦和宿鍵屋六之丞長女とみ(25 歳)と結婚した。天保 7 年 1 月(30 歳)に御徒組除(御祐筆見習)金一両増(4)となる。このとき 3 人から 祝儀をうけた。大黒屋武兵衛から博多帯一、田中左七・橋本良平から各酒 一升。天保 15 年 1 月(38 歳)に徒士小性金二分増(16)となり、このと き 4 人から酒(各一升または二升)が届いた。同年 6 月御書方祐筆となる。
つづいて嘉永 6 年 1 月(47 歳)に中小性格金二分増金(22)となり、2 人 から魚、8 人から銀札(二・三・五)が贈られた。祝儀に銀札が贈られた
のは、「覚帳」ではこのときが初めてである。次いで万延 2 年 1 月(55 歳)
に中小性(29)となる。増俸はなかったが、28 人から祝い物を受けた。4 人の祝い物は朱筆減退で読み取れないが、肴、菓子、泉川札、銀(三匁)
各 1 人、銀札(二・三・五)20 人である。彼は慶応 3 年 3 月金一両増とな るが、「覚帳」には記載はない。民治は中小性金七両二人扶持で明治を迎 えた。
弁治は文政元年 10 月(33 歳)江戸に移ったとき、中間頭(同職は文久 2 年 12 月まで)であった。天保 10 年 12 月(54 歳)に徒士格(11)勤め かわらず金四両二分となる。このとき 8 人から祝福を受けた。6 人には祝 い物の記載はないが、金井清兵衞から酒一升、岡田源七郎から金二朱が贈 られている。安政 4 年 2 月(72 歳)に御徒組除金二分一人扶持増となり、
文久 2 年 12 月に金二分増御広間平番となる。これらの記録はない。慶応 2 年正月(81 歳)に徒小性(39)となり、このとき 12 人から銀札(各二ま たは三)、1 人(星野庄右衛門)から「真寿盛」40)一升札が贈られた。全 員安中藩士である。新島家では餅米を用意し、有り合わせの小豆で赤飯を 作り、4 月 7 日に内祝として贈った。弁治は徒小性金五両三人扶持で明治 を迎えた。
安政 4 年に前髪を落とした敬幹(七五三太)は、安政 6 年 1 月(17 歳)
に御徒組除(28)金四両二分一人半扶持御広間平番となる。初めての出仕 である。このとき 45 人から祝い物をうけた。天保 14 年初幟の 57 人に次 ぐ人数である。「菊」酒札(2 人)、魚(2 人)、扇子一対(2 人)、金五十疋、
鼻緒、他は銀札(二・三・五、39 人)である。扇子一対は銀札および「菊」
酒札に添えられている。
双六は元治元年 5 月(18 歳)に句読師御雇金三両二人扶持(38)となる。
贈り物は尾崎夆治(金一朱)、市原利八(銀札三)の 2 人である。
昇進・増俸の祝い物には貨幣(銀札を含む)、酒が多い。ここで、贈り 物として使われた貨幣について述べておこう。「覚帳」に贈り物として登 場する貨幣は、金貨、銀貨、銭貨、銀札の四種である。銀貨は万延 2 年民 治中小性昇進時の銀三匁だけで、銭貨もそれほど多くない。大部分は金貨 と銀札である。金貨は特別の場合を除き多くて金二分、大部分は金二朱、
金一朱である。銀札は藩札と思われる。藩名などはわからない。安中藩で は当該期藩札は発行していないので41)、他藩のものであろう。「覚帳」に 銀札が登場したのは先に述べたように嘉永 6 年 1 月民治中小性格昇進の祝 儀が最初で、以降、大量に登場し、金貨とその地位を変える。よく似た現 象は民治の手習塾の束脩にもみえる42)。社会経済上、どのような変化があっ たのか、関心をひく現象である。
銀札は地域的な通貨不足を解消するため幕府貨幣との兌換をたてまえと して発行された領国紙幣である。領内限りの通用で、贈答用には使えなかっ たとする見解がある43)。一般的な理解であろう。しかし、「覚帳」では上 記のとおり嘉永 6 年から贈答に使われ、また民治の手習塾では嘉永 5 年か ら束脩として使われている。この実態をどう考えるか。新たに遭遇した疑 問である。
4 民治と弁治
「病気見廻 民二」 天保 9 年 4 月出火見舞(6)の次に「病気見廻 民二」
と記す記帳(7)があることはすでに述べた。年月の記載はない。同記帳 の次ぎに 4 月 28 日三四吉出産の記載があり、つづいて類焼手伝「挨拶」
の記載があるので、「病気見廻」は 4 月 17 日出火直後の出来事と思われる。
「病気見廻」は病気見舞のこと。民治への見舞である。見舞ったのは 21 人。
藩重臣の「渥美様」(吉右衛門)・江場牧右衛門・尾崎千吉、藩医の南玄昇、
のち藩医となる谷川友斉ほか、田辺周助、宇津木清六、三木戸平、田中左 七郎、松原十兵衛、目付仲蔵(以上安中藩士)、加納屋吉衛門、本屋市五郎、
指物屋忠吉、紋次、小蓑庵の名が見える。他藩の武家と思われる人物に内 山藤蔵、小越藤蔵、中野敬助、福島春伯、市藤岩の名が見える。見舞品は 梨子(七ツ・五ツ・三ツ、5 人)が最も多く、幕之内一重(2 人)、煮豆一曲、
梅か香(砂糖漬菓子)、かすてひら一折、よふかん、小倉よふかん、練羹、
餅菓子一重、干饂飩、菓子折、菓子袋、平目、きす、生貝、いさき、かれい、
あひる、兎、守袋など、ほとんどが食品である。守袋は菓子折とあわせ贈 られている。民治の病気は何か。記載状況から判断して、4 月 17 日の火災 による疲労、加えて三四吉の出産をひかえての心労と読める。
弁治の草津湯治 弁治は安政 3 年 6 月 11 日、草津湯治願を提出し、許 され同月 25 日に旅に出た。71 歳の夏である。「覚帳」(24)は草津湯治と 記すが、弁治は別にこの旅の歌日記ともいえる「手控」44)を残しており、
信濃善光寺参りを兼ねた一人旅であったことがわかる。
「手控」は、安政 3 年 7 月 5 日、安中から始まる。旅は秋間を越え、上山、
三ノ倉を経て、大戸で一泊、宿は永楽屋。6 日に須賀尾、長野原を経て草 津に入る。弁治は健脚である。7 日、草津では一井屋に逗留し、13 日まで 滞在した45)。この間、10 日に金毘羅権現に参詣。14 日に草津を発ち、上 信国境の渋峠を牛に乗って 7 里の道を越えた。澁越えは難所で、物資の輸 送は牛に頼ったことから牛道とも呼ばれた46)。渋では八幡屋という宿に入 る。八幡屋はゆきとどいた宿で、湯治客が多かったという。15 日は善光寺 へ急ぎ、婦しや平五郎方に泊まった。この日、御開帳あり、早速に拝仏。
翌 16 日朝にも御開帳あり、拝仏。同日、渋に戻る。夜、村で盆踊りがあり、
男女入り交じり、子どもの花笠踊もあった。17 日、渋峠を越え、草津に戻っ た。久しく願った思いをかなえることができたといい、わが家に帰ったよ うな感慨を覚え、この喜びを一井屋夫婦に話したという。18 日は帰りの準 備で過ごす。19 日に先触れを出し、宿の善三郎に万端取り扱いを頼んだ。
20 日は草津で残っていた神仏への参詣をすませ、21 日に草津を後にした。
22 日、大戸では暑さが残り、草津で着込んだ厚着をぬぎ、三ノ倉を越えた。
「手控」に記された旅程はこれで終わる。
要した経費は土産品、食材に計金一両一朱・銀四五匁・銭四貫四一四文。
禄金四両二分の弁治には多額の出費である。「手控」には随所に旅の情景 をよんだ歌が記されている。あらためて知る弁治の一面であり、今後の研 究が期待される。
弁治は旅立ちにあたり 25 人から贈り物を受けた。藩の重臣星野三太夫、
同じく「横井様」(横井保吉)、目付久保弥平・長助・忠蔵、尾崎や勘助、
富士屋新七、大工内山庄助、福蔵の名がみえる。贈られた品物で目立つの は煙草、茶、はし、金平糖、砂糖、団扇、小菊、羊羹、半切、真綿である。
茶には「神田園」もある。弁治の藩主お供の贈り物に茶が多いことは述べ たが、彼は茶を好み、同時に煙草や甘いものを好む人あったことがわかる。
5 新島家の女性
ますととき 「覚帳」に登場する新島家の女性は娘 4 人と弁治の妻ます である。娘 4 人のうち、成人後も登場するのは四女ときだけである。
ますにはわからないことが多い。彼女は民治の母のぶの死後迎えられた 弁治の後妻である(図)。襄は手記「青春時代」に、6 歳の時の出来事とし て、「人間の死というものがいかに深い感銘を与えるものであるかをさとっ た」として祖母の死とその葬儀にふれ、「祖母は人に好かれる気質の女性で、
晩年には貧しい人に惜しみなくめぐんであげることを常としていた」47)と 記している。手記は祖母の名を記していない。ますと思うが、ますとみれば、
多くの疑問が浮上する。
すでに述べたとおり、ますの死は、定説では嘉永 4 年 12 月 19 日(70 歳)
である。しかし「覚帳」には安政 5 年 11 月「内々おます差遣」(27)の記 載がある。どのような用件で、どこに遣わされたのか、そこまでは触れて いない。「覚帳」はこの時の到来品を「祝物」と記し、扇子、上田縞一反、
小杉(3 口)、かけ切、半襟、うかひ茶碗一、紅粉具、風呂敷一、まゆはけ 三、白粉一包、白粉筆二、半襟一、和紙、扇子、日傘・雨傘、金二朱、銀 札三を記す。贈り主は 9 人、祝い物は後述するとき奉公のものと似ている。
疑問はこれだけでない。襄の手記「青春時代」は、祖母の死を七五三太「六 歳」の時と記す。6 歳は数えの年齢とすれば、死亡は嘉永元年(弘化 5 年、
2 月 28 日改元)となり、「過去帳」の嘉永 4 年とは異なる。
ときは、安政 3 年 11 月奉公(25)と文久元年結婚(31)が記されている。
奉公は 17 歳の時、奉公先はわからない。祝い物は 8 人から白半襟袖、か ねわり、しやうこ、うかひ茶わん、鼻紙(2 口)、足袋(2 口)、苧、千代紙、
白粉、紅猪口、元結、ひん付、すきが贈られている。8 人は全員が安中藩 関係者である。新島家では 11 月 15 日に赤飯を用意し、銀札(二・三・五)
または酒札に添えて贈った。
ときは、文久元年 22 歳、定府の堀出雲守(越後国椎谷藩、1 万石)の家 臣速水林治48)に嫁いだ。「覚帳」は 27 人の名を記す。贈り物の記載はない。
安政 3 年奉公時の祝い物贈り主と重なるのは岡田源七郎、松原左仲、坂本 藤太、田中ふきの父(隆平)の 4 人である。
6 幕末の七五三太
七五三太の航海 「覚帳」は幕末の七五三太について、文久 2 年 11 月備 中松山表航海(36)と元治元年 3 月箱館表修業(37)を記す。「覚帳」は 乗船の快風丸を「軍艦」と記す。七五三太も父宛書簡の中で「御軍艦」と 記している49)。
松山表航海は「覚帳」が記すように江戸出帆の文久 2 年 11 月 12 日から帰 着の翌 3 年正月 14 日までの約 2 カ月、航海の一部は彼の「玉島兵庫紀行」50)
に詳しい。七五三太は乗船にさいし飯田丈助、白井福蔵、石井右兵衛、星 野閏四郎、清原来次、岡田源七郎、速水おとき、植村おまき、飯田逸之助、
江場新太郎、卯町衆の 11 人から「餞別」をうけた。風呂敷一、白足袋一、
紺足袋一、煙草一玉(2 口)、玉あられ、有平巻せんへい、てんふ一曲(3 口)、
金一朱である。長旅に備えての贈り物であることがわかる。煙草は石井右 兵衛、岡田源七郎から贈られており、この時期、七五三太には喫煙の習慣 があったことがわかる51)。
航海終了後、七五三太は上記の餞別 11 人のうち、卯町衆を除く 10 人と 他の 6 人に帰着挨拶として、柚へしを主品に、こんふ、きひたんこ、飴、
かきなどを添えて贈った。主品の柚へしは松山藩主板倉勝職が好んで食べ たという松山銘菓である52)。思いを遂げた七五三太の土産品と読める。16 人のうちの 6 人は杉田廉卿、甲賀源吾、川田剛、浅尾藤兵衛、木村三弥、
根岸団蔵で、特別の思いを持つ人と読める。杉田廉卿、甲賀源吾、川田剛 が「覚帳」に登場するのはこの一度である。
「覚帳」は元治元年 3 月箱館表への乗船を「為修業」と記す。このとき 10 人から餞別が贈られた。さきの松山表航海時の人物と重なるのは飯田丈 助、飯田逸之助、白井福蔵、植村おまき、速水おときの 5 人である。10 人 の中に田辺潤之助、市原利八の名も見え、また当時七五三太が入塾してい た川勝塾主の「川勝様」と記す川勝光之助(広道)、その塾生松前藩士鈴 木熊男・邑尾四郎の名も見える。元治元年 4 月 25 日付け七五三太が箱館 から民治に宛てた書簡および「函館紀行」には、餞別で、もう一人川勝塾 生の田中浩造の名が見えるが53)、「覚帳」には田中浩造の名はない。餞別 は新島家で受けとったものと、七五三太が受けとったものがあったのであ
ろう。「覚帳」が記す餞別は貨幣(金一両二分、金一朱 2 口、金二百疋、
銀札三)、金平糖、白砂糖、和紙、手拭、あら二折。持ち物として手に余 るものはない。
明治期民治が記した「忰稽古修業一件」54)にも箱館表乗船時の餞別が記 されている。ここには 11 人の名がみえる。「覚帳」の 10 人に比べ、1 人多 いのは石川右兵衛である。石川右兵衛は石井右兵衛[付表Ⅰー 12]である。
三 贈答の人びと
「覚帳」に登場する人物は 344 人(付表Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ)。期間は天保 3 年か ら慶応 2 年までの 35 年である。この間、344 人がそのまま生存したわけで はない。代替わりの家もある。家を重視する武家の生活形態を考えると、
これらは家単位でみるべきであろう。しかし、現在のところ、それに必要 な史料は持ちあわせない。比較的家族関係が明らかな安中藩士 141 人、他 藩武家 16 人についてみると、各 116、14 家族となる。今後、整理がすす めば、家族数は少しは減少するであろう。
新島家には文政 8 年 1 月以来江戸引き上げの慶応 4 年 3 月まで、子ども を対象とした民治の藩邸内手習塾があった。この間、民治の寺子は 352 人 を数える55)。これを「覚帳」344 人との関係でみると、寺子 122 人(武家 116 人、町人 6 人)が確認できる(付表Ⅰ・Ⅲ)。新島家の生活には寺子を 通しての交際も無視できない。
以下、本節では「覚帳」に登場する人物のうち、贈答 6 件以上(一部 5 件を含む)の人物、家族について、付表をベースに、出自、経歴等をみて みよう56)。対象を上記のように限定したのは紙幅の都合による。ただし、
新島家親族については制限しなかった。贈答件数最多(22 件)の岡田源七 郎は、かつて述べたことがある57)ので省略した。人物(家族)名につづく、
( )内数字は当該人物(家族)の贈り物件数(新島家からの「挨拶」を 含む)、[ ]内は付表整理番号である。
1 安中藩士・下役(28 家族 47 人)
飯田太郎作・丈助父子(21)[Ⅰー 8・9] 父太郎作の贈り物は天保 3 年 くわ出産から天保 14 年七五三太出生まで 7 件(付表)。子の丈助は天保 14 年七五三太初幟から記帳最後の慶応 2 年弁治徒小性まで 14 件(付表)。二 人で「覚帳」全期間にわたる。七五三太の全祝儀 7 件を筆頭に、双六、と き各 3 件、弁治、くわ各 2 件、民治、ます、みよ、まき各 1 件である。
同家は代々、太郎作を名のった。丈助(幼名は岩吉)は、「覚帳」では 丈助の名で登場するが、明治期に太郎作と改めている58)。
父太郎作は天保 10 年給人御馬役御取次定助、天保十一年席順帳では給人。
弘化 2 年に死亡。丈助は弘化 2 年 10 月に家督を継ぎ、同年 12 月に大小性格、
嘉永 2 年 8 月に大小性となる。安政四年席順役録では給人格御馬役、「慶応 二年改板倉從五位主計頭源勝殷公分限帳」59)(以下「慶応二年分限帳」と略)
では給人御馬役御取次定助、「明治二年十一月安中藩席順及分限帳」60)(以 下「明治二年分限帳」と略)では給人御馬役である。丈助の二男清吉、娘 さた、三男鍮蔵は民治の寺子である(付表)。
三木戸平と三木茂作・伊三郎(20)[Ⅰー 194・195・196] 戸平の贈り物 は 天 保 3 年 く わ 出 産 か ら 同 15 年 民 治 徒 士 小 性 ま で、 く わ 3 件、 と き、
七五三太、民治各 2 件、弁治、大阪加番各 1 件(付表)。茂作は天保 10 年 三四吉・まき疱瘡から嘉永 6 年弁治安中表御供まで、弁治、双六各 2 件、
民治、みよ、まき、七五三太各 1 件(付表)。贈り物が嘉永 6 年弁治安中 御供で終わったのは翌 7 年国詰に転じたことによる。
天保十一年席順帳は三木戸平を江戸詰中間小頭と記し、三木茂作を江戸 詰徒士格と記す。茂作は同年御用部屋書役、同 14 年 2 月に御徒組除となり、
嘉永 7 年国詰となる。安政 5 年 8 月戸平と改名、安政 6 年 9 月に病死。
伊三郎は、茂作改め戸平の養子である。安政 6 年 8 月に徒士格御広間平番、
当分国詰として出仕。同年 12 月(31 歳)に亡養父戸平を相続。彼の贈り 物は 1 件、文久 2 年[題意不詳]に書状を添えて麻を贈っている。一家三 代にわたる交際は、同家と後述する金井家、福岡家の 3 軒である。
宇津木清六(16)[Ⅰー 25] 贈り物は天保 3 年くわ出産から嘉永 6 年弁 治安中表御供まで、七五三太、弁治各 3 件、民治、くわ、双六、とき各 2 件、
三四吉、大阪加番各 1 件である(付表)。彼は天保十一年席順帳では江戸 詰小頭、安政四年席順役録には見えない。娘きよ、倅兼吉は民治の寺子で ある(付表)。
金井清兵衛と金井戸一・金井郡太(15)[Ⅰー 49・50・51] 金井家は代々、
清兵衛を襲名したらしい。清兵衛の子戸一も、戸一の子郡太も、ある時期、
清兵衛と改めている。贈り物は戸一の父清兵衛が天保 3 年くわ出産から同 14 年七五三太出生まで 4 件(付表)、戸一が天保 14 年七五三太初幟から嘉 永元年弁治御供まで 6 件と清兵衛改名後に 3 件(付表)、郡太が 1 件と清 兵衛改名後に 1 件(付表)で、「覚帳」最初のくわ出産から最後の敬忠徒 小性まで計 15 件、三代にわたる親交である。計 15 件のうち、弁治が大坂 加番を含め 5 件を占める。
天保十一年席順帳は戸一の父清兵衛(中小性格)と戸一(御徒組除)を 記し、安政四年席順役録は戸一改め清兵衛(徒小性御近習)と郡太(徒士 格御供徒士)を記す。次いで明治二年分限帳は郡太改め清兵衛(中小性格 下総御代官)を記す。
戸一の二男民八、娘みつは民治の寺子である(付表)。民八は嘉永 4 年 に戸一二男として入門、みつは嘉永 7 年に清兵衛娘として入門しており、
戸一の清兵衛襲名は嘉永 5、6 年ごろ、郡太の清兵衛襲名は元治元年前後 と思われる。
芳賀彦太夫・代助父子と作蔵・多喜三・彦太郎・お幾久(14)[Ⅰー 154・155・158・159・156・157] 芳賀彦太夫の贈り物は天保 3 年くわ出産、
同10 年三四吉疱瘡、同 11 年とき出産、同 14 年七五三太出生の 4 件。彼 は天保 10 年大目付見習御徒士支配御金奉行、翌 11 年 1 月に大目付役、翌 12 年 1 月に勘定奉行となる。このころ病気がちで、同 14 年 2 月に隠居。
贈り物が天保 14 年七五三太出生で終わったのは隠居による。隠居と同時 に代助が家督を継いだ。
代助の贈り物は天保 14 年七五三太初幟、弘化 4 年双六出産、安政 3 年 弁治草津湯治、同 6 年七五三太徒組除の 4 件。他に安政 3 年とき奉公に新 島家から「挨拶」(酒札一、赤飯)をうけている。天保 11 年 12 月に大小 性となった彼は嘉永 2 年 1 月に給人格御作事奉行、安政元年 12 月に御勘
定奉行見習となる。安政四年席順役録では御勘定奉行見習、御領知掛り、
御作事奉行、家具預り。同年御徒支配となる。万延元年 10 月に病死。
代助の子四人は民治の寺子である(付表)。二女きくが弘化 4 年に、続 いて三女たねが嘉永 3 年に、二男作蔵が嘉永 6 年に、三男多喜三が安政 3 年に各入門。作蔵と多喜三は安政 4 年七五三太前髪執に銀札三を贈ってい る。二人は入門中であり、父代助が二人の名で贈ったものと思われる。
「覚帳」には芳賀姓を名のる人物が多い。うち、兄妹と思われる芳賀彦 太郎、お幾久が見える。彦太郎の贈り物は嘉永元年双六初節句、文久元年 双六引移の 2 件。前者はお幾久との連名である。彦太郎は代助の長男、お 幾久は代助の長女と思われる。彦太郎も民治の寺子であり、二女きく入門 5 年前の天保 13 年 1 月に入門(付表)、万延元年 12 月 19 日に「亡父」家 督を継いでおり、この「亡父」を代助と思うからである。
安政 4 年御近習であった彦太郎は、万延元年 12 月家督相続後に大小性格、
文久 3 年 5 月に大小性御勘定役となる。慶応 2 年 12 月に給人格、慶応 3 年 12 月に御領知掛見習となる。明治二年分限帳では給人格御勘定役。明 治 5 年 35 歳、下総に住む61)。
尾崎千吉(直記)・養子鎨治(13)[Ⅰー 42・43] 尾崎千吉は、七五三 太が少年時代最も尊敬した人である。襄は手記「青春時代」で、彼を「家老」
(one of these elder men,gentleman in Annaka)と記し、可愛がられたこと を記している62)。尾崎家は藩の重臣で代々、直記、直右衛門、又太夫を名 のった。千吉も、のち直記、直右衛門と改めた。彼も文政 11 年入門の民 治の寺子である。
天保 10 年高 160 石御取次格御広間詰であった彼は、翌 11 年 9 月に御物 頭格諸願取次組預り(御金奉行、御取次はこれまでどおり)となる。嘉永 5 年 6 月 15 日に御用人役月番加判御勝手重掛り国詰となり、8 月 9 日帰国 した63)。
直記と改めたのは天保 11 年ごろ64)。彼の贈り物は天保 3 年くわ出産か ら嘉永 2 年双六疱瘡まで、千吉の名で 6 件、のち直記の名で 5 件。大坂加番、
民治が各 1 件、他は子どもたちへのものである(付表)。嘉永 2 年双六疱 瘡で終わったのは嘉永 5 年国詰による。
彼は安政四年席順役録では直右衛門と記され、高 160 石御用人役月番加 判御勝手重掛り、安政 4 年閏 5 月に御年寄格高 30 石加増となる。直右衛 門改名は、関口徹氏によると、安政 2 年という65)。安政 5 年 7 月に死亡。
民治の手習塾入門が 6 歳とすれば 36 歳の死であった。
安中藩では職制上「家老」の称はない。同藩ではそれに相当するのは「年 寄」であり、年寄格、年寄役がある。彼の経歴は上記のとおりで、国詰の 安政 4 年に年寄格になったが、年寄役にはなっていない。若い死であった ことによる。
彼には実子がなかった。重臣の家筋であることから、死後藩内で同家の 存続が提唱され、安政 6 年 12 月に許され、翌 7 年 1 月に尾崎夆治(23 歳)
を迎えた。
夆治は、安政 7 年 1 月に御取次格で出仕、高 130 石御朱印番。万延 2 年 1 月に御朱印番頭取、文久 3 年 5 月に御物頭格御近習頭兼帯諸願取次となる。
慶応二年分限帳では高 130 石御物頭御近習見習、慶応 2 年 10 月に御用人 役月番加判となる。翌 3 年病を重ね、月番加判を退き、ついで御用人役も 退き、隠居。彼の贈り物は文久 2 年(題意不明)と元治元年双六句読師の 2 件である。
橋本元三郎・嘉一郎父子(13)[Ⅰー 165・166] 橋本元三郎は天保十一 年席順帳では徒士格、のち嘉兵衛と改名。贈り物は弘化 4 年七五三太袴着 初から安政 6 年七五三太徒組除まで、七五三太 3 件、弁治 2 件、民治、とき、
ます、双六各 1 件(付表)。七五三太徒組除で終わったのは安政 6 年 8 月 病死による。文久 3 年 1 月嘉一郎が相続した。
嘉一郎は民治の寺子である。寺子帳は嘉市と記す。彼は文久 3 年 1 月に 徒小性御広間番として出仕。贈り物は万延 2 年民治中小性、文久元年 七五三太初而安中表御供・とき婚姻、文久元年双六引移の 4 件。親子二代 にわたる親交である。
橋本良助(7)[Ⅰー 164] 「覚帳」には橋本姓を名のる人物にもう一人、
橋本良助の名が見える。彼の贈り物は天保 3 年くわ出産から同 14 年七五三 太初幟まで、くわ 3 件、七五三太 2 件、民治 1 件、天保 5 年大坂加番(付表)。
彼は天保 10 年徒小性下総代官見習、同 13 年 12 月に中小性格となる。安
政四年席順役録には彼の名はない。贈り物の推移からみて橋本元三郎の父 と思われるが、現在のところ確証はない。
田中左七郎(12)[Ⅰー 111] 贈り物は天保 3 年くわ出産から嘉永元年 双六初節句まで、くわ、とき、七五三太、双六、民治各 2 件、弁治、まき 各 1 件。ほぼ家族全員にわたる。彼は天保 10 年には徒小性御徒目付とし て見え、同 15 年 1 月に中小性格となる。安政四年席順役録には彼の名は 見えない。
市原利八(12)[Ⅰー 18] 贈り物は天保 14 年七五三太出生から元治元 年双六句読師まで、七五三太 6 件、双六 4 件、民治、とき各 1 件(付表)。
七五三太、双六に多い。天保十一年席順帳、安政四年席順役録には彼の名 は見えない。明治二年分限帳では足軽部屋目付同格。二人の娘ぎん、二女 としは民治の寺子である(付表)。
福岡荘八・庄治父子と松三郎(12)[Ⅰー 172・173・174] 莊八は庄八 とも記す。贈り物は天保 3 年くわ出産、同 10 年三四吉疱瘡の 2 件。彼は 天保 10 年中小性御広間平番、翌 11 年 8 月に病死。同年 11 月、庄治が家 督を継いだ。
庄治は庄次とも記す。彼の贈り物は天保 10 年まき疱瘡から安政 3 年と き奉公まで、まき 1 件、とき 3 件、七五三太・双六各 2 件(付表)。彼は 天保 10 年徒小性、金之助様(勝殷)御付、天保十一年席順帳では中小性格、
安政四年席順役録では江戸詰中小性御近習として見える。安政 4 年 5 月に 大小性格御使番、翌 5 年 8 月に病死。
庄治の子松三郎は、はじめ吉馬と呼んだ。弘化 2 年 1 月に出仕、御徒組 除御広間平番。同 4 年 12 月に御書方書役となる。安政四年席順役録では 徒小性御書方書役。安政 5 年 10 月に家督を継ぎ中小性格となる。贈り物 は安政 6 年七五三太徒組除、文久元年とき婚姻の 2 件。贈り物は三代にわ たる。すべて子どもたちへのものである。
菅沼総蔵(11)[Ⅰー 93] 贈り物は天保 10 年みよ疱瘡から嘉永 6 年民 治中小性格まで、七五三太、双六各 3 件、民治 2 件、みよ、まき、弁治各 1 件(付表)。天保十一年席順帳にみる総蔵は大小性。同 12 年 1 月に御勘 定所手伝、その後一時、金銀払方御賄役兼帯、下総代官。嘉永 5 年 1 月御
勘定奉行となる。贈り物が嘉永 6 年民治中小性格で終わったのは同年死亡 による。
子の錠次郎、娘の超、二女せんは民治の寺子である(付表)。錠次郎の 入門(天保 10 年 11 月 15 日)を機に新島家との交わりがはじまったよう である。錠次郎は安政 3 年に七五三太(14 歳)らと、藩主勝明から蘭学を 田島順輔について学ぶよう命じられたときの三人の中の一人である66)。
嘉永 6 年 7 月に錠次郎が相続。彼は安政四年席順役録では中小性。菅沼 家は総蔵を襲名したらしく、のち錠次郎も総蔵と改名。慶応二年分限帳で は総蔵と記され、給人格大目付助勤、御留守居添役助勤。「覚帳」には錠 次郎(総蔵)の名はみえない。
江場牧右衛門・釜五郎父子(11)[Ⅰー 28・29] 江場牧右衛門は藩の重 臣である。天保 14 年 2 月御物頭役高 70 石、御留守居役兼帯。安政四年席 順役録では高 110 石江戸詰、番頭御側御用役。贈り物は天保 3 年くわ出産 から嘉永 6 年民治中小性格まで、七五三太 3 件、くわ、民治各 2 件、双六 1 件(付表)。安政 5 年 8 月に死亡。
釜五郎は天保 11 年 1 月に出仕、中小姓。天保十一年席順帳では江戸詰 中小性。天保 12 年 11 月に御近習となり、嘉永 5 年 1 月に大小性となる。
安政四年席順役録では御小納戸御留守居添見習。安政 5 年 10 月家督を継ぐ、
高 60 石。慶応二年分限帳では高 80 石(本高 70 石)御物上席御側御用、
御籏奉行格。贈り物は安政 3 年弁治草津湯治、同 4 年七五三太前髪執、同 6 年七五三太徒組除の 3 件。彼は文政 13 年入門の民治の寺子であり、娘お のぶ、二女かね、惣領廣太郎も民治の寺子である(付表)。
根岸團蔵(10)[Ⅰー 149] 根岸團蔵は当該期国詰である。天保十一年 席順帳では安中町同心。安政 2 年には小頭67)、慶応二年分限帳では徒士格 中間頭。贈り物は天保 9 年出火見舞から慶応 2 年弁治徒小性まで、弁治、
七五三太各 2 件、出火、民治、とき、双六各 1 件(付表)。他に安政 3 年 とき奉公では新島家から「挨拶」(銀札五)を、文久 2 年七五三太松山表 航海では七五三太から土産品(柚へし一、こんふ、かき十)をうけている。
国詰藩士のなかでは贈答の最も多い人である。
田辺周助(10)[Ⅰー 123] 彼の贈り物は天保 3 年くわ出産から嘉永元