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東ドイツにおける社会主義統  成立とその問題点

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(1)

東ドイツにおける社会主義統   成立とその問題点 一党独裁の

若 松

はじめに

37

(2)

  一の労働者の党へ発達することがでぎるという希望を持っているが︑ この希望が事実上完全に不可能である以

  上︑大量の血液提供者を必要としている︒その処方箋が︵社会主義︶統一党であり︑それは社会民主党に共産党

  指導部を押し付ける試みにすぎない︒しかし共産党指導部の下に社会民主党が置かれたとするならば︑それは共

        ︵3︶

  産党に外ならない︒⁝⁝      ︵4︶ この演説を筆者は︑以前﹁共産党吸血鬼論﹂と命名したが︑ この論旨はソ連の積極的な支援の下︑共産党へKP

D︶がSPDを吸収合併していこうとする政治的意図を︑非難したものである︒しかし︑KPDが吸収合併しようと

したのは︑SPDのみではなかった︒本稿は︑東ドイツにおいて︑共産党とその後身である社会主義統一党︵SE

D︶がいかにして勢力を拡張し︑共産党︵社会主義統一党︶の独裁を確立していったかを明らかにし︑その際にいか

に少数反対意見が無視されたかを究明したいと思う︒そのために︑本稿は特に︑︵西欧的意味における︶反対党およ

び野党︵8℃oω凶鉱︒昌讐自8℃oω三8づ簿﹃蔓︶が存在するか否かという観点から︑共産党︵社会主義統一党︶独裁の成

立をめぐる問題を探っていきたいと思う︒

38 1

社会主義統一党独裁成立の過程

ω ソ連占領地区における政党に対する軍事統制

いまだヒトラーの帝国が降伏する以前の︑ 一九四五年四月三〇日に︑ソ連軍軍用機がフランクフルト・アン・デ

(3)

ア・オーデルに着陸した︒機内には︑一九三三年にモスクワに逃れていた︑一群のドイツ人共産主義者がいた︒彼ら

      ライヒの頂点には元国議会議員ヴァルター・ウルブリヒト︵ぐ﹃9一けΦ﹃ d一げ﹃一〇ゴけ 目oo㊤ω1一〇刈α︶がいた︒これらソビエト帰りの       ︵5︶

共産主義信奉者が︑東側占領地区における︑新しい政治生活を︑始めから規定していたのである︵後述表3参照︶︒

 一九四五年六月一〇日にソ連軍行政府司令官が行った指令第二号は︑他の西側三箇国の米英仏占領地区に先駆け

て︑全ソ連占領地区のレベルにおいて﹁すべての反ファシズム的な政党﹂の設立を許可した︒かかる政党は︑ ﹁ファ

シズムの残津を徹底的に撲滅し︑ドイツにおけるデモクラシーと市民の自由︵σ臼σqΦ島︒げ①団おぎΦ=︶を確立し︑か

      ︵6︶かる方向で住民のうちに幅広い大衆の創意と自主的活動を発展せしめることを目的とする﹂ものであった︒この指令      ︵7︶は︑西側三国が︑一九四五年八月二日のポツダム協定三篇A章九条二項で︑民主的政党の設立許可が定められるのを       ︵8︶待って︑始めて各占領地区ごとに︑場合によっては下級行政区レベルから漸進的に︑政党の組織化を許可したことと

は︑極めて対照的な政策であった︒

 ベルリンのソ連占領地区においては︑一九四五年六月一一日に共産党︵国︒ヨヨニ巳巴ωoげΦ勺︒︒答Φ一∪Φロ宏︒巨9巳ω

KPD︶︑六月一五日に社会民主党︵QDoN冨乙Φヨ︒ξβ︒ユωoげ①日傭誹①一∪①旨ωo色話αωSPD︶︑六月二六日にキリスト

教民主同盟︵Oげユω二一9Φ占︶ΦヨOζOけす09d三8UO三ωO置き創ωCDUD︶︑ 七月五日に自由民主党︵=げΦ冨窄

       ︵9︶

Ooヨ︒ζ9冨︒げ①℃母§∪Φ仁↓ωo巨pづ住ω﹂DPD︶が︑各々設立許可を受けて︑結党を表明した︒この時︑KPDは

結党声明で以下のように述べていた︒

   我々の見解によれぽ︑ドイツ国にソビエトの体制を押しつけるならぽ︑かかる道は誤っている︒けだし︑この

  道は現在のドイツの発展条件にふさわしくないからである︒

(4)

   我々の見解では︑むしろ︑ドイツの現状では︑ドイツ国民の決定的な利益は︑別の道を︑より厳密に言えば︑

  反ファシズム的︑民主的政体の建設︑国民のためにすべての民主的権利と自由をもつ議会制民主主義的共和国の      ︵10︶

  建設の道を︑命じている︒

      ︵11︶ しかし︑すでに一九四五年八月一二日になると︑あらかじめKPD結党声明の末尾で想定されていた﹁反ファシズ

       ︵12︶

ム的.民主的政党ブロック﹂の名の下に︑これら四品は︑ソ連軍の管理の下に統一前線︵﹈円一つげ⑦一けωhHO昌け︶をつくって  ︵13︶

統合され︑政党に対する占領軍の管理が始まったのである︒

 ソ連占領地区における政党の統一リストへの組込み過程を鳥諾すると︑図1のようになる︒まず始めにKPDはS

PDを懐柔して配下に入れ社会主義統一党︵ωON藝ω蕊魯Φ国喜Φぱω罠§∪①岳︒匿註ωHSED︶を作った︒西側

占領地区SPDの戦争直後の︑著しい反共主義の主張の理由は︑このSED化への反作用であった︒この時以降︑東

      ︵14︶

側占領地区では﹁社会民主主義﹂は︑刑務所に送られかねない犯罪とみなされた︒しかし︑ひとたび一九四六年一〇

月二〇日に行われた州議会の自由選挙で︑SEDが全議席の過半数をとれないことが明らかになると︑ ソ連軍政府

は︑一九四七年一二月六日に︑SEDが六二%を占め︑CDUD一〇%︑LDPD一二%の任命議員からなる︑人民      ︵15︶会議︵<o一冨閃︒畠﹁島︶を召集した︒これに参加を拒否したCDUDのJ・カイザー党首とE・レマー副党首は︑一九

四七年︸二月二〇日に︑ソ連軍政府の命令によって解任された︒このようにして召集された任命人民会議は︑あらか

じめ定められた議員全体に対して︑信任または不信任することを余儀なくされる統一リストへの一括投票方式によ

る︑一九四九年五月一五・一六日の選挙によって誕生した人民会議に受け継がれた︒この選挙では三三・九%の反対

       ︵16︶

票︵この選挙の開票には賛成票を増やす操作が加えられていると言われている︒︶が︑存在しえた︒しかし︑その後

40

(5)

図1 ソ連占領地区における政党への占領軍政府による統制

1期  KPD

1945.6.11.

 SPD

45.6.15,

CDUD

45.6.26.

LDPD

45.7.5.

1946.4.20.SED化

2期

SED

(KPD)

(SPD)

3期

    \

1946.10.20.

州選挙議席の合計

249(48%)

133(26%)

121(23%)

16(3%)

その他

SED CDUD

LDPD

その他

曇μ 519議席

統一リスト化

SED

        ら、

  、         , 、         ,轟覧   も        ノ   し ロロ コロロロノ ら

   、  ,  、無所属 、

・DU飢/・D・画灘獣

1947.12.6.

ソ連任命人民会議

SED    62%

CDUD   10%

LDPD   12%

西側KPD 10%

無所属   6%

但し,2期,3期における図形の 面積は議席率の大きさを示す。

 本図はHermann Weber,勘γ忽6 z銀∫ θ〃zε乙{ゼ∫ご1〜6πDω}zo々解舵躍〜4 y∂Z々∫一

1)6〃20々履 θ,Wissenschaft u. Politik,1982, S.554.およびM1chaelis/Schrae・

pler,σz5α罐。η遡4 Fo496η, Bd.25, Dokumenten Verlag Dr, Herbert Wendler

&Co,, S.398,に基づいて作成した。

41

(6)

表2 東ドイツにおいて「統一リスト」が定める議席配分

1949.5.15/16.  1950.10.15,

VolkskongreB Volkskammer 会心鰍一党}{観縫欝吸工i又

リスト教民主同盟(東側)/後にSED 巾1忌,障陳側)   惚矩圭1乳政

.150

225 225

100 60 60

180 60 U0 R0 R0 Q0

垂T1515205

5.)0  −o

怩T05050505050

㎜50%

SED CDUD LDPD NDPD DBD

FDJ

FDGB

VdgB

DFD VVN KB

SPD Ost−Berlin}

社会心添一党}{観縫欝吸工i又

キリスト教民主同盟(東側)/後にSED

回外党(東側) 1魏撒

国家民主党 民主農民党 自由青年団

自ぱ1ジナf重力糸悉r1「司盟    1

概農蹴助齢雪隠1在

民主婦人戸盟 国有企業連合 文化連合 農業協同組合 無所属

    束ベルリン朴会民柔党

SPD(Ost−Berlin)束ベルリン朴会民主党 25

合計 1525 400

本表はHrsg. v.Hermann Weber,君6〃・≠〔・16〃εv5 oηz zz{・競1z6η1) woた1 α舵2θ74

y∂1偽∫46脚た1π1〜 8,Verlag Wissenschaft u. Politik,1982, S,560−561に基づい

て作成した。

の人民議会︵ノNO一屏ω閑簿筥∋O﹃︶選挙では︑反対票

を投じる場合には︑投票場での行動から見分けら

        ︵17︶

れるようになっており︑秘密投票が認められなか

ったため︑ 一九五〇年一〇月の選挙では反対率

○・二八%︑

   ︵18︶○・五四%︑

○・一三%︑

○・〇五彫︑

   ︵19︶○・〇七%︑

   ︵20︶○・  一五%と︑

要求されることになった︒

 この統一リスト化された人民会議とその後身の

人民議会︵表2参照︶では︑かってCDUDやLD

PDが持っていた野党としての性格は失われ︑ 一

九四九年の人民会議ではCDUD︑LDPD各々

が全議席の一四・七五%︑一九五〇年の人民議会

         ︵21︶

では両党が全議席の一五%︵東ベルリン代表を含

一九五四年一〇月の選挙では反対率 一九五八年一一月の選挙では反対率 一九六三年一〇月の選挙では反対率

一九六七年七月の選挙では反対率一九七一年二月の選挙では反対率統一リストへの信任を半強制的に

42

(7)

む全四六六議席のうちではCDUD一四・三八%︵六七議席︶︑LDPDは︸四・一六%︵六六議席︶︶︑一九五四年

と一九五八年の人民議会では両党が東ベルリン代表を含む全四六六議席のうちの一一・一六%︵五二議席︶︑ 一九六        ︵22︶

三年︑一九六七年︑一九七一年の人民議会では両党が東ベルリン代表を含む全量〇〇議席のうち一〇・四%︵五二議

席︶を︑選挙に先立ってあらかじめ配分されるにすぎないものとなってしまった︒他方︑西ドイツでは二九四八年

以来政治的自己決定権が拒否された︑中部ドイツ︹東ドイツを指す︺のキリスト教民主主義者の政治的代表としての

亡命CDU︵窒−8鋒が・冗五〇年三月一西三吾に設立され・一九互年以来二年に度亡命CDU

       ︵42︶

党大会を独自に開いてきたのである︒

② 東独における﹁仮装的﹂複数政党制

 一九四九年以降︑東ドイツに存在していたSED以外の衛星政党は︑確かに形式上︑仮装的複数政党制を採用して

いる証拠とされたが︑この複数政党制は︑けっして﹁政治権力の制限に役立つ﹂ものではなく︑むしろ﹁権力保持者

の支配を安定化し永久化するための道具﹂であり︑﹁たんなる仮装︵餌巳︒舞︒円鋤h讐︒楓時Φωω噂①冒①寓︒ω冒Φ鑓傷Φ︶﹂

      ︵25︶ としての意味を持っていたにすぎない︒けだし︑万一︑全体主義国家が︑外観を整えるために複数政党制︵ω誘一〇ヨ

α興趣①ゴぢ僧答①一差︶を表明したとしても︑この複数政党は見解の多様性を意味する︑多元主義︵℃一信︻ρ一一ωヨ︶を具体

      ︵%︶ 化したわけではなく︑一つの政治的方向づけに拘束されているからである︒

 具体的には︑一九八九年まで人民議会に代表者を送ってきた政党︑団体のうち︑SEDを除くと︑本来自律的な政

党であったCDUDとLDPDのメンバーに対しては︑徹底的な弾圧による衛星政党化が行われ︑その設立期の功労

43

(8)

      表3 東ドイツの共産党別名組織幹部の前歴

(1)NDPDドイツ国家民主党

LBolz党首 V.Kom副党首

J.L6hr  州党首

副党首兼メクレンブルク 0.Koltzenbung 出田.首 V.MUIler 副党首

H.Homann副党首

J.一A.Heilmann副党首兼ザクセ  ン・アンハルト発駅.首

0.RUhleザクセン・アンハルト州  党首

W.Adamザクセン州党首

Frankenberg y. Proschnitz ベル  リン党首

R.Reinwarth テユーリンゲン州  党首・機関誌編集長(ザクセン州  党首を1952年まで兼務)

A.v. Lensk1ベルリン副党首,主  委員会委員

M.Schneiderベルリン副党首 0.Korfes主委員会委員 G.Ludwig    〃

S,Dallmann 幹部会メンバー,局  長

C.一A.Brauns 主委員会委員,財務  理事

G.Kubitza ザクセン州支部設立者

1933年以前からKPD(ドイツ共産党),ソ連に移民,

 エ946年帰国

1933年以前からKPD, NSDAP,1958年党殿損行為に

 よりNDPDより追放

1933年以前からKPD

1933年以前DDP(ドイツ民主党)

ソ連抑留,NKFD(自由ドイツ国家委員会)メンバー,

 反ファシスト学校在学 ソ連抑留,NKFDメンバー 1945年以前NSDAP(ナチ党)

堵連抑留,NKFDメンバー

11 〃

 〃  11

赤軍に参加

11 〃

 11  〃

、反ファシスト学校在学

反ファシスト学校在学,

反ファシスト学校協働者 反ファシスト学校教官

ソ連抑留,反ファシスト学校在学

(2)DBDドイツ民主農民党 E,Goldenbaurn 党首 R.Albrecht副党首

P.Scholz    〃 B.Rose 総.書記

L,Helmschrott機関誌編集長 H.Rietz 党学校長・幹部会書記 H.v, Schnitzler幹部会書記 K.Kδrber      〃 H.Reichelt     〃 H.Hoffmann 幹部会メンバー

1919年からKPD 1933年以前からKPD1

/923年からKPD ソ連抑留

ソ連抑留,NKFD(自由ドィッ国家委員会)メンバー,

 SED党カール・マルクス大学在学 ソ連抑留,反ファシスト学校在学・教官   〃  反ファシスト学校在学

  〃       〃   〃       〃

1933年以前政治活動せず

44

(9)

③ FDJ自由ドイツ青年団

EHonecker団長(後のSED党

 首)

E.Baumann 副団長・総書記 H.Axen 中央参事会書記 P.Verner    〃

H.KeBler 中央参事会メンバー R.MieBner 中央参事会メンバー・

 機関誌編集長

M,Klein 中央参事会メンバー

1933年以前からKPD

1933年以前はSPD, SAP(社会主義労働者党)

1933年以前からKPD     〃

赤軍に参加,NKFD設立者の1人 1933年以前からKPD

1945年CDUD,1948年25年の強制労働の刑

(4)FDGB自由ドイツ労働総同盟 H.Jendretzky幹部会代表(〜1948)

H.Warnke    〃  (1948一)

B.Gdring 幹部会副代表 E.Lemmer   〃   (〜1949)

F.Malter 幹部会局長

」,Puhlmann 幹部会メンバー,機  関誌編集長

A,Jadasch 幹部会メンバー R.Jahn      〃 H,Lehmann   〃 T.Brylla     〃 M.Arendseeベルリン支部長 0.BraB ベルリン幹部 T.Leipart FDGB設立者 A.Wolframザクセン・アンハル  ト州副代表

1933年以前からKPD    〃

1933年以前SPD,宗教社会主義者同盟

1933年以前DDP,1945年CDUD,ユ950年以降西側で政  治活動,連邦大臣を3回務める

1933年以前からKPD 1933年以前からKIPD 1945年以前からKPD 1933年以前からKPD 1933年以前SPD

1949年以降CDUD

1933年以前からKPD

1933年以前KPD, USPD(独立社会民主党), SPD 1933年以前SPD

1933年以前SPD,1951年亡命

(5)VdgB農民相互扶助連合 K,Vieweg 総書記 G,Lotz副代表

、V. Biering 〃

F,Wehmer中央側部会代表 0.Kdrting    〃

P.Scholz中央幹部会メンバー機  関誌副編集長

R.Albrecht幹部会メンバー・主委  員会メンバー

F.Martin 主委員会メンバー

1933年以前からKPD     〃

1933年以前からSPD, KPD 1933年以前SPD

1933年以前SPD,1950年逮捕,1951年釈放,政治活動  停止

1933年以前からKPD

1933年以前からKPD,1952年12月逮捕 1933年以前からKPD,1953年春亡命

(10)

(6)DFD民主婦人同盟 M,Ahlers 設立者の1人 E.Damerius−Koenen 総裁(1948

 −49)

E,Schmidt総裁(1949−53)

K.Kern 副総裁 M,Rentmeister総書記 G.Bauer 幹部会メンバー M.Sendhoff  〃 E.Baumann   〃 T.Wohlgemuth 〃 G.ThUrmerザクセン州代表 P.Hertwigザクセン・アンノ〉レト  州幹部会メンバー

         ヒ 1933年以前KPD国議会議員 1933年以前からKPD

1933年以前からKPD,1954年政治局より追放される 1933年以前はSPD

1933年以前からKPD     〃     〃

1933年以前はSPD, SAP 1933年以前はSPD

1933年以前はDVP(民主国民党)

前歴なし

本表は,Hrsg. v. Hermann Weber,勘ア@8η錐5 6ηz 2ω露6舵η1)8脚々解舵1 ηゴ γ∂」んsゴ6〃〜oん磁召,Ver}ag Wissenschaft und Politik,1982, S,564−592, Heinz Hofmann1〃餉ゆαγ観8η躍s 8η701〃z6のρos〜 〜01z, Herbert Lang/Peter Lang,

1976,S.52−53.に基づいて作成した。

表4 CDUD, LDPD,旧SPDの亡命・逃亡者,逮捕者,公職追放者

H.Becker

 (1916一  )

A。Bretschneider

 (1886−1949),

H.L, Bri11  (1895−1959)

ユ933年以前ドイツ民主党(DDP),急進  民主党

1945年自由民主党(LDPD)設立者の1  人

1945−1948年LDPDテユーリンゲン州  副党首

1946−!948年半ばLDPDテユーリンゲ  ン州議会議員団長

1933年以前DDP

1945年LDPD

1949年までLDPDザクセン州幹部会  メンバー

1946−1947年LDPDザクセン州副党首 1947−1949年LDPDザクセン州第1党  首

1♀47−1949年LDPD中央幹部会メンバ 1945−1949年ザクセン州政府参事官・局  長

1946−1949年ザクセン州議会議員 1933年以前独立社会民主党(USPD),

 社会民主党(SPD)

1945年SPDテユーリンゲン州支部党  首

1945年6月一7月置ユーリンゲン州行  政府の長

1948年6月ソ連軍政府により  逮捕され,「スパイ』罪で25  年の懲役刑の判決 1955年刑期終了以前に釈放さ  れる

1949年事故死

逃亡・亡命し,引き続いて西  側地区で政治活動 1946−1949年ヘッセン州次  官・内閣官房長官 1949−1953年連邦議会議員

46

(11)

G.Dahrendorf  (1901−1954)

G.Dertinger  (1902−1968)

M.Fechner

 (1892−1973)

0∴H.v.d. Gablentz  (1898−1972)

A.Gaertner  (1892−1949)

E,Gniffke

 (1895−1964)

1933年以前SPD

1945−1946年SPD中央委員会メンバー 1945年燃料産業中央行政府副会長

1933年以前ドイツ民族国民党

 (DNVP)

1945年キリスト教民主同盟(CDUD)

 設立者の1人

1945−1945年末CDUD中央幹部会広  報担当官

1946年初め以来CDUD総書記・本部  長1948年末一1949年秋ドイツ経済委員会  メンバー

1949年秋一1953年1月ドイツ民主共和  国(DDR)外相

1948−1953年人民評議会メンバー,人民  議会議員

1933年以前SPD, USPD, SPD 1945年SPD,1946年SED

1945−1946年(0,Grotewohlと共に)

 SPD中央委員会党首 1946年からSED第2党首

1948−1953年DDR司法行政府長・法相 1948−1950年人民評議会メンバー・人民  議会議員

1945年CDUD設立者の1人

1945年CDUD経済政策委員会委員長 1933年以前DDP

1945年LDPD設立者の1人

1945−1948年LDPDテユーリンゲン州  支部党首,LDPD中央幹部会メンバ 1945年に短期間,テユーリンゲン州食  糧管理庁長官

その後1948年半ばまでテユーリンゲン  州銀行頭取

1946−1948年テユーリンゲン州議会議  員

1948年人民評議会メンバー 1933年以前SPD 1945年SPD,1946年SED

1945−1946年SPD中央委員会メンバー 1946−1948年SED中央書記局・党幹部  会メンバー

1946−1948年メクレンブルク州議会議  員

1948年人民評議会メンバー

1946年2月(SPDとKPDの

 統一に対する反対者とし

 て) ソ連占領地区を離れる

1953年1月「スパイ』罪で逮  捕,15年の懲役刑の判決 1964年恩赦

1953年7月解任,党から除名  逮捕

1956年特赦 1958年SED再入党

1948年から(西)ベルリンの  ドイソ政治科大学在職 1948年半ば逃亡・亡命

1948年秋逃亡・亡命

(12)

J,B. GradI  (1904一 )

W,Grles

 (1894−1971)

K.Grobbie

 (1896−1971)

K:,Hamann

 (1903−1973)

A,Hermes

 (1878−1964)

1933年以前中央党(Z)

1945年CDUD設立者の工人 1945−1947年末までCDUD党幹部会  メンバー

1933年L沃前z

1945年CDUD

1945−1947年12月CDUD中央機関誌  編集長

工933年以前Z

1945年CDUD

1945年以後CDUDブランデンブルク  語幹部会メンバー

1948年からCDUDブランデンブルク  州副党首・党首

1952年半ばまでブランデンブノレク州政  府大臣

1947年からブランデンフ)レク州議会議員 1948年から入口評議会・県人民議会メ  ンバー

1953年までCDUD中央幹部会役員・

 一時期CDUD副党首

1933年以前DDP

1945年LDPD

1945年からLDPD中央幹部会メンバー 1948−1952年末までLDPD党首(の1

 人)

1945年からLDPDテユーリンゲン州  幹部会メンバー

1948−1949年LDPDテユーリンゲン州  副党首

1949−1952年末DDR通商・供給大臣 1946−1950年テユーリンゲン州議会議  員

1950−1952年人民議会議員

1933年以前Z

1945年CDUD設立者の1人

/945年半ば一1945年12月CDUD党首 1945年大ベルリン市副市長

1947年末ソ連軍政府によって  解任

1947年から西側占領地区・西  ドイツで政治活動 1947年から亡命CDU暫定幹  部

工953−1980年西ドイツCDU  連邦幹部会メンバー 195㍗1980年連邦議会議員 1947年12月ソ連軍政府によっ  て解任・引き続いて西ベル  リンと西ドイツで日刊紙編  集長として活動

1953年党ζこよ り蚕巨:罰

1952年末逮捕

1954年『スパイと妨害活動』

 の故に10年の懲役刑の判決 1956年釈放,西ドイツへ逃  亡・亡命

1945年12月ソ連軍政府にょっ  て解任

1946年から西側占領地区・西  ドイツで政治活動 1947年フランクフルト米英両  占領地区経済評議会メンバ 1948−1955年ドイソ全国農民  組合連合会長

48

(13)

LHerwegen

 (1886−1972)

H.Hickmann

 (1877−1955)

H.HUbenthal

J.Kaiser  (1888−1961)

H,Kastner

 (1886−1957)

1933年以前Z

1945年CDUD設立者の1人

1945−1949年CDUD開閉部会メンバ  一,ザクセン・アンハルト州幹部会  メンバー

1946−1949年CDUDザクセン・アンハ  ルト州党首・副党首

1945−1946年置行政府長宮

1946−1949年ザクセン・アンハノレト州政  府大臣

1946−1949年ザクセン・アンハルト州議  会議員

1948年人民評議会メンバー 1933年以前ドイツ国民党(DVP)

1945年CDUD設立者の1人

1945−1950年CDUDザクセン州支部  党首

1945−1950年CDUD党幹部会メンバー 1948−1950年CDUD副党首 1946−1950年ザクセン州議会議員 1948−1950年人民評議会メンバー,人民  議会議員(人民議会副議長)

1945年CDUD

1945−1946年CDUDザクセン・アンハ  ルト州幹部会メンバー

1946年からCDUDザクセン・アンハ  ルト下面党首

1945−1946年ザクセン・アンハルト州行  政参事長官

1933年以前Z

1945年CDUD設立者の1人

1945年12月一1947年12月CDUD党首

1933年以前DDP

1945年LDPD

1945−1947年LDPDザクセン州支部党首1 1947−1950年半ばLDPD中央幹部註脚  党首・党首

1945−1950年半ばLDPD中央幹部会メ  ンバー

1950年半ばLDPDから除名 1951年再入党

1946−1948年ザクセン州政府大臣 1948−1949年ドイツ経済委員会副委員  長

1949−1950年秋DDR閣僚議会副議長

1949年全公職を解任,逮捕 1950年15年の懲役刑の判決 1956年釈放,西ドイツへ逃  亡・亡命

1950年初めSEDの激しい攻  撃により全公職から辞任を  余儀なくされる。

1946年公職辞任,逃亡・亡命

1947年12月ソ連軍政府により  解任

1948年から西側占領地区・西  ドイソで政治活動 1949−1957年連邦議会議員,全  ドイツ問題担当連邦大臣 1956年西ドイツへ逃亡・亡命

(14)

1951−1955年半ばDDR閣僚議会議長  付属ドイツ知識人促進委員会委員長 1946−1950年ザクセン州議会議員 1948−1949年人民評議会議長 M.Klein

 (1925−1981)

G.Klingelhδfer  (1888−1961)

1945年目DUD

 自由ド・fツ青年団(FDJ)設立者の1  人

 FDJ中央参事会メンバー 1933年以前SPD

1945年SPD

   SPD経済政策事務長    SPD中央委員会メンバー    ベルリン市参事会経済局長    SPDとKPDの統一への反対者

1948年25年の強制労働の刑 1956年釈放,その後西ドイソ  で成人教育に従事

1953−1957年連邦議会議員

G.Knabe

 (1894−2)

1945年LDPD, CDUD

1946年末一1951年CDUDザクセン州  幹部会メンバー

1946年末までザクセン州政府高級官吏 1946年末一1950年半ばまでザクセン州  政府大臣

1948こ入民評議会メンバー

1950年人民議会議員・ザクセン州議会  議員

1950年州政府大臣更迭 ひき続いて逃亡・亡命

W.Kunze

 (1898−1977)

1945年LDPD

1947−1948年LDPDブランデンブルク  州支部党首

1947年からLDPD中央幹部会メンバ 1948年までブランデンブルク州政府大  臣

1946−1948年ブランデンブルク州議会  議員

1948年人民議会運動に反対投  票し,「人民所有の企業を駿  損するために大蔵大臣の職  を乱用した』かどで解任 1948年逃亡・亡命

E.Lemmer

 (1898−1970)

A.Leusche1

1933年以前DDP

1945年CDUD設立者の1人

1945−1947年末CDUD党葬部会メン

 ノ{一

1946年初め一1947年末までCDUD副  党首

1945−1949年自由ドイツ労働総同盟  (FDGB)連邦幹部会副代表

1945年LDPD

1945−1946年10月LDPDザクセン・ア  ンハルト州副党首

1946年10月までメルゼブルク地区行政  副長官

1947年ソ連軍政府により解任 1950年から西ドイツで政治活  動

1956−1957年連邦郵政大臣 1957−1962年全ド・fツ問題担  当連邦大臣

1964−1965年難民・亡命者・戦  争負傷者担当連邦大臣 1946年末逃亡・亡命

(15)

A,Lieutenant

 (1884−1968)

E.L銭bbe  (1891−1977)

R.Markewitz

 (1898一〜)

LMoo9

 (1882−1962)

E.Nebge11  (1890一 )

E,Plewe

II,1くeif

 (1899一

1933年以前DVP, DDP

1945年LDPD設立者の1人

1945−1949年LDPD書記長 1946−1949年LDPD中央幹部会副党首 1948−1949年ブランデンブルク州政府  大臣

1948年人民評議会メンバー 1933年・以前SPD, USPD, SPD 1945年SPD,1946年SED

1945−1946年SPD中央委員会メンバ  一,SPDベルリン支部首脳部書記 1946−1947年SED党幹部会メンバー 1946−1948年大ベルリン市参事会員 1933年以前DVP

1945年LDPD

1948年までLDPDベルリン市幹部会  メンバー,LDPD中央幹部会メンバー 1946−1950年ベルリン市会議員 1933年以前DDP

1945年LDPD

1945−1948年LDPDテユーリンゲン州  副党首

1948−1949年LDPDテユーリンゲン州  党首

1948−1949年LDPD中央幹部会党首の  1人

1950年までLDPD中央幹部会メンバー 1950年までテユーリンゲン州政府大臣 1948年ドイツ経済委員会総会メンバー 1946−1950年テユーリンゲン州議会議  員

1948年人民評議会メンバー 1933年Lユ前z

1945年CDUD設立者の1人

1945−1948年CDUD党幹部会メンバ  一,CDUD中央婦氏委員会委員長

1945年CDUD

1945年からCDUD党幹部会法務担当  者,CDUD党幹部会対外政策委員会  メンバー

1933年以前DDP

1945年LDPD

1945−1948年初めLDPD中央幹部会メ  ンバー,LDPD中央幹部会経済政策  委員会委員長

1950年LDPDより除名され,

 逃亡・亡命

1950年SEDより離党

1948年から西ベルリンで政治  活動(1948年から西ベルリ  ン市会議員)

1950年1月西ベノレリンへ逃  亡・亡命

1948年逃亡・亡命

1952年ソ連内務省人民警察に  より逮捕

1954年13年の懲役刑の判決 1961年釈放,引き続いて西ベ  ルリンで生活

1948年から西側占領地区・西  ドイツで政治活動 FDP党幹部会メンバー 1949−1957年連邦議会議員

51

(16)

1948年初めまでLDPDベルリン市幹  部会メンバー,一時,LDPDベルリ  ン市副党首

1946年からベルリン市会議員

A.R6nsch 1945年以後LDPD

1952年半ばまでLDPDザクセン州幹  部会部長

1952年半ばからLDPDドレスデン支  部首脳部担当官

その後逃亡・亡命

E,Schilling  (1882−1962)

1933年以前ライプツィッヒドイツ労働  総同盟組合長

ユ939年9月一1945年5月ブーヘンヴァ  ルト強制収容所に収容

1945年SPDライプッィッヒ設立者の  1人,支部幹部会メンバー,アメリ  カ軍の占領下で労働組合の機能を果  した。ライプツィッヒ『10人委員会』

 の委員長

1945年11月15日にソ連軍政府  により解任,その後労働組  合で財産管理に従事 1948年11月6日逮捕,SED郡  幹部会から『派閥的活動』

 により除名

1949年1月FDGBより1『分離  主義者』として除名

W.Schreiber  (1884−1958)

1933年以前DDP

1945年CDUD設立者の1人

1945一工945年12月までCDUD副党首 1946d948年CDUDベルリン市党首 1946−1948年ベルリン市会議員

1945年12月A.Hermesと共  にソ連軍政府によって解任 ベルリン市の東西への分割  後,西ベルリンで政治活動 1953−1954年西べ〃リン市長 W,v, Stoltzenberg

 (1895−1955)

1933年以前DDP

1945年LDPD

1945年から.LDPD中央幹部会メンバ 1946年からLDPDライプッィッヒ支  部党首

1951年LDPDザクセン州副党首 1951年末からLDPDテユーリンゲン  州幹部会メンバー

1949年ドイツ経済委員会メンバー 1949−1950年DDR建設省次官,その  後,テユーリンゲン州行政裁判所長  官

1946−1952年ザクセン州議会議員 1948−1953年人民評議会メンバー,人民  議会議員

1953年西ド・fソへ逃亡・亡命

E.Thape  (1892一 )

1933年以前SPD 1945年余PD,1946年SED 1945年ザクセン・アンハルト州経済・

 交通大臣,その後同心国民教育大臣,

 ザクセン・アンハルト州議会議員

1948年西ドイツへ逃亡・亡命

52

(17)

R.Tillmanns  (1896−1955)

1945年CDUD設立者の1人

1946年からCDUD党幹部会メンバー 1946−1947年末ザクセン州議会議員

CDUDのベルリン支部の東

 西への分割に際し,西側で  政治活動を継続

1949−1955年連邦議会議員 1953−1955年特別任務担当連  邦大臣

1949−1952年CDUベルリン  支部副党首

1952年からCDUベルリン支  部党首

1955年CDU副党首 S.Trabalski

 (1896一 )

A.Wolfram  (1902一 )

1933年以前SPD 1945年SPD,1946年SED

1945−1946年SPDライプッィッヒ支  部党首

1946年SED西ザクセン支部(旧KPD  所属者の党首と並ぶ〉党首 1946年からSEDザクセン州幹部会メ  ンバー

1947年からSEDザクセン州幹部会書  記

1946−1947年SED党幹部会メンバー 1933年以前SPD

1945年SPD,1946年SED

1945−1950年FDGBザクセン・アンハ  ルト州副代表,連邦幹部会メンバ7 1947−1950年ザクセン・アンハルト州議  会議員

1948−1950年人民評議会メンバー,人民  議会議員

1948年逮捕

1950年再逮捕1『社会民主主  義』などの故に6年の懲役  刑の判決。釈放後,政治活  動をせず

1951年逃亡・亡命

 木表は,Hrsg. v. Hermanll、〜でber, R〃癖61z隈勧濡z臨(ゾ〜ご〃Dご〃〜oゐ7π〜〜61 1〜4

}b疏sゴ61,zo々7ττ〜㎏、でrlag Wissellschaft v.1)01itik,ユ982, S.564−592.に基づいて 作成し,一部,Hrsg. v, G. Neske, Dごノ D6〃∫0/〜cβ〜ご7〜♂召s! く9」エエ1{〜 1ゆθガ∂♂ら

1987,V6rlag G, Neske, S.241, Hrsg, v, Benz/Moos,1)α∫GG〃〃 /4〜cβム〜1)∴Z919

198銑1989,、でrlag Moos&Partner/Rehm Vεrlag, S.135,によって補完した。

(18)

老のうち多数が︑公職追放︑亡命︑刑罰に至っており︵表4参照︶︑SEDが一九四五年以降︑人造的に作った︑私見

によれぽ﹁︵親ソ︶共産党別名組織﹂といえる︑国家民主党︵NDPD︶︑民主農民党︵DBD︶︑自由ドイツ青年団

︵FDJ︶︑自由ドイツ労働総同盟︵FDGB︶︑ドイツ民主婦人同盟︵DFD︶などは︑いずれも︑その組織の主要

幹部には︑旧KPD党員ないしソ連抑留者が据えられていたのである︵表3参照︶︒SPDとKPDのSEDへの統一

       ︵27︶

へ至る過程においても︑本来統一反対であった︑0・グローテヴォール︵︵︶一一〇 ∩甲声OけΦ≦O冒一︶が︑統一賛成へと豹変し

たのも︑グローテヴォールが︑ ソ連単のカールスホルスト︵︸︵帥﹁一ω﹈PO﹃ω一︶に招かれた︑ 一九四五年一一月コ物日の

夜を境にしてであった︒ 一九四九年から六九年まで西ベルリン選出の連邦議会議員を務めたF・ノイマン︵﹁毒農

Z2ヨき﹃SPD︶の証言によれば︑その夜﹁何がそこで起こったか︑誰も知らず﹂﹁グロ!テヴォールもその夜起

      ︵28︶ きたことについて一言も語っていない﹂が︑﹁その時以来︑我々は一人の別人となったグローテヴォールと対面した﹂

のであった︒

54

㈹ LDPDとCDUDの抵抗と衛星政党化

 一九四五年六月と七月にソ連占領地区で再建または結党された政党は︑ ほぼ伝統的なドイツの悪党制︵≦興O母−

けΦ一戸ω誘8日︶に相当する︑政治的多様性を呈していた︒すなわちKPD︑SPD︑CDUD︑LDPDである︒こ

れらの政党のうち最後のものとして七月五日後︑ドイツ自由民主党は許可されたのである︒このワイマール共和国の

ドイツ民主党と民主国民党の市民的でリベラルな伝統に根ざし︑CDUDとならんで︑唯一︑明示的に﹁非社会主義

政党﹂と名乗った政党は︑数年の間に︑ソ連占領軍とSED︵社会主義統一党︶によって改変を余儀なくされ︑五〇

(19)

      ︵29︶ 年代初頭までには︑ ﹁市民勢力を社会主義社会へ編入する伝動装置﹂の機能へと機能低下するに至ったのである︒

 一九四八年から一九五〇年にかけて︑CDUDとLDPDのSEDに対する抵抗は︑幾度かにわたって極めて激

しかった︒振り返って見ると︑これらの抵抗は︑共産主義者に対する市民サイドの野党の最後の反抗のように思われ

︵30︶る︒

 一九四八年四月二七日のLDPDのSEDへの覚え書きの中で︑LDPDは五月一日の祭典へのあらゆる参加を︑

       ︵30︶ ﹁当該行事の社会主義的性格の故に﹂拒否した︒

 一九四八年六月三〇日のSED党首部会の決議によって︑東側占領地区ドイツが計画経済体制へ移行し︑かつ︑一

九四九年と一九五〇年の国民経済二箇年計画草案が提示された時には︑計画経済の原則にそもそも反対し︑かつ︑S

EDが支援する重工業の再建優先を拒否する︑両市民政党による当該決議への抵抗が︑当然︑国民によって支持され

    ︵鉛︶たのである︒

 一九四八年六月一四日にLDPDの中央幹部会は︑SEDが﹁反ファシズム的・民主的政党ブロック﹂に敵対的な

政策を続ける場合には︑LDPDは当該ブロックから脱退するであろうと宣言した︒二日後︑LDPDブランデンブ

ルク州党大会で︑州党首シュナイダー︵一︶同. ω6げコΦ一口Φ﹃︶は︑﹁最近の発展﹂に対する﹁重大な憂慮﹂を︑以下のよう

に言い表わした︒ ﹁我々は︑ナチズムの代わりに︑もう一つの別の独裁に足を踏み入れることになることを可能にし       ︵30︶ ようとは︑意図しなかったはずである﹂︒

 一九四九年二月一五日に新ツユーリッヒ新聞︵Z窪oN母︒冨﹃NΦ算巷αq︶は︑以下のように報じた︒

   我々は東側地区CDUDの屋台骨が崩れかかっているのを︑見聞することができる︒CDUDの下級政党職員

(20)

  や党員は︑CDUD党執行部がSEDの﹁指導性の要求﹂に対して余りにわずかしか抵抗していないと非難し

  て︑CDUD党執行部に対立している︒⁝⁝この出来事から︑東側地区において抵抗はまだ完全には死滅してい

  ないことが︑推論されうる︒CDUD党指導部が重要な問題について︑再三再四にわたって共産主義路線に譲歩

       ︵31︶

  することを強いられているのに対して︑下部の地位にある人々の間では抵抗が最も強く現存しているのである︒

 当時のCDUDとLDPDが抵抗に関与していたことを証言する文献として︑W・ウルブリヒト︵ゼく9一けΦ﹃ d監り﹃凶Oげ一︶

の演説さえも引用しうる︒ウルブリヒト︵後のSED総書記一九五〇1五三年在職︑SED第一書記二九五三一

七一年在職︶は︑一九四七年六月七日に共産主義者幹部を前にして︑以下のような極めて示唆に富む宣言を︑大胆不

敵にも行ったのであった︒

   何人かの人々が今なお推定しているように︑ナチ党のかっての構成員や移住民が敵対的な勢力であるのではな

  くして︑敵対者の主要な勢力は︑両市民政党の内部で一定の機能を持ち︑自己をカムフラージュしており︑部分

  的には︵反ファシズム的・民主的政党︶ブロックの政策さえも︑敵対的活動の隠れみのとして用いていることが

  判明した︒敵対勢力は︑我々の︵経済︶二箇年計画が公表されて以来︑その敵対行動を強化している︒まず第一

  に︑敵対勢力は計画に対する不法な宣伝を行い︑次に敵対勢力は部分的には大企業においてさえ労働生産性の向

  上に反対する態度をとっている︒彼ら敵対勢力こそが︑第一によりよい生活︑しかる後により多い生産というス

  ローガンを述べている張本人なのである︒今や︑このことは選挙運動における公然たる闘争にまで︑発展してき      ︵32︶

  たのである︒        ︵33︶

 しかしながら︑CDUDとLDPDの抵抗は︑﹁公然たる闘争﹂には至らなかったといわれる︒この観点の主旨は︑

56

(21)

CDUDやLDPDが︑政党組織のヒエラルヒーの上部から下部に至るまで﹁体となって︑社会主義統一党の支配に

対する抵抗を行いえなかったことによるであろう︒

 他方︑ドイツ民主共和国︵DDR︶では︑市民政党が行った抵抗の萌芽は︑以下のように見なされて︑摘み取られ

たのである︒

   反動的な人々を︑公然かつ民主的な対決の中で︑孤立化させ政治的に打倒することは︑SEDと他の︵反ファ

       ︵鈎︶   シズム的・民主的︶政党ブロックの指導的進歩的勢力が行う︑功績に属するのである︒

 以上のように︑東ドイツの政党制の発展は︑中央集権的な﹁上から下へ︵<O昌 OげO昌 コ帥Oげ =嶺け①コ︶﹂の圧力によっ

      ︵25︶ てなされている点で︑西ドイツの連邦制の﹁下から上へ︵<oロ二二①旨⇔90﹃oび魯︶﹂の自律的発展とは︑正反対であ

った︒

ω SEDの衛星政党としてのNDPDとDBDの成立

 ドイツ国家民主党NDPD︵ヴ釧鋤け凶O昌①一IH︶①昌ρO一ハ﹃9一一ωOゴr①  用ワ餌同けΦ一 H︶①二一ωOげ一ゆ旨αω︶とドイツ民主農民党DBD

︵uoヨ︒ξ讐冨︒げ︒切鋤器目下母8一∪①旨ωo巨9︒巳ω︶いう二つの新衛星政党の設立は︑CDUDとLDPDという︑当時        ︵36︶ 野党としての性格を今だに持っていた︑二つの市民政党の弱体化を計る目的を持っていた︒

 新しい政党を人為的に造ることによって︑市民政党を弱体化しようとする試みは︑他国においてもその事例があ

る︒例えば︑ ハンガリーにおいては︑絶対多数を占めていた﹁小農民党︵ら虫巳①巳乱H8b費8一︶﹂を弱体化せしめ

るために︑一九四七年の第二回選挙を前に三つの市民政党の設立をソ連軍行政府は許可し︑その結果︑第二回選挙に

(22)

よって共産党は連立与党の最大会派になった︒引き続いて旧小農民党から派生した最大の野党である自由党︵津①一ー

ゴ虫房O碧けΦ一︶を︑ ファシズム的であるという名目で解体せしめ︑その議席を連立与党のみに配分した︒閣外にいた

三弱小市民政党も︑形式上︑一九四九年春の第三回選挙までは存続したが︑この選挙においては﹁統一リスト﹂に基

      ︵73︶

ついて︑事実上︑一党制︵国一旨℃9同一Φ一①⇒ω団ωけ①5P︶が確立し︑野党としての性格はこれら市民政党から失われ︑衛星政

党︵Qり鋤件①一凶叶①昌弓鋤肘帥①一︶化したのである︒

 このような東欧における衛星政党化した︑非共産主義政党は︑ハイソツ・ホフマン︵閏Φ凶昌N ︼田Oh蚕下昌コ︶によれば︑

自党を野党︵080ω三8ω冨二虫︶とみなしてはいなかった︒けだし︑この点について東側の資料によれば︑社会主義

      ︵38︶

国家は﹁考えを同じくする者の調和のとれた共同体における生活﹂を保証するからである︒しかし︑九九彫以上の人

が︑常に︑統一リストであらかじめ定められた議席に︑信任することを強要されてきた体制下では︑見解の自由︑少

数意見表明の自由は皆無である︒従って︑野党が存在しない議会は︑その本来の意味での議会手続を全く果すことは      ︵39︶

できないのである︒

 NDPDは︑非ナチ化政策が﹁九四八年二月二六日にソ連占領地区で終了したのに伴って︑ ﹁誠実な労働によって

更生した﹂元ナチ党員が﹁民主的で経済的な再建に協力すること﹂を︑可能ならしめるために︑一九四八年六月一九       ︵40︶日に設立された政党である︒しかし︑一九四八年六月の極秘扱いのSED豆幹部会のNDPD設立に関する内部向け

の覚え書きによれぽ︑一一名の設立準備委員会︵仮称︶の構成は︑SED六名︑LDPD二名︑CDUD一名︑無党       ︵41︶派一名︑党派別不明者一名であったから︑SEDを名付け親︵℃讐O昌︶とするNDPDが︑始めからSEDに忠実で

      ︵42︶

あり︑統一リスト化に支持していたこともうなずけよう︒しかし︑NDPDの主要幹部はトップの旧KPD出身の三

58

(23)

名を除くと︑ほとんどがソ連に抑留され︑しかも抑留中にNKFD︵Z卿謡8巴困︒ヨ犀8胃虫︒のUΦ昇ω〇三ρ匿自由

ドイツ国家委員会︶というソ連勝の政治組織に加わっていたのである︵表3一ω参照︶︒従って︑ソ掛戸夢中に組織さ

れ︑戦後東ドイツに輸入された政党であった点で︑DBDと同じであった︒

 他力︑DBDの場合は︑主としてソ連抑留老の中で反ファシスト学校︵︾画け一剛曽一ωOげ=一〇︶在学者を中心に︑ソ連で

組織され︑やはり同じく三名の旧KPD党員をトップに据えた権力構造を有していたのである︵表3一②参照︶︒ドイ

ツ民主農民党︵DBD︶はその名称で明らかなように︑農業政策を専門とする政党であり︑一九四八年六月﹁六日の

結党後 年を経た︑一九四九年七月二日と三日の第︸回党大会で採択された︑DBD綱領によれば﹁DBDは民主的

土地改革の遂行に際しては︑特に最も信頼できる農民の側に立つ嬰であることを常に示してきた﹂のであ・蜷D

BDはNDPDと同様に︑真の議会であるかのように共産主義者が宣伝していた︑ ﹁仮装的﹂代替物である人民会議

       ︵44︶

︵<O一閃ω昇○昌隔四﹃Φこ◎︶における統一リスト化に︑賛成していたのである︒

 これに対して︑A.ヘルメス︵﹀昌α﹁O鋤ω ︸肖ΦHヨΦω︶党首︑W・シュライバ〜︵箋巴8﹃ω︒腎①ぎ興︶副党首が率いる

初代CDUD指導部は︑ソ連が行った無償での土地収用に反対し︑一九四五年一二月二〇日に︑ソ連の命令によって

解任された︒更に︑J・カイザー︵一日OOび ︸︿鋤凶qα①﹃︶党首︑E・レマー︵豪勇ωけピ①巳8①﹃︶副党首が率いる第二代CD

UD指導部は︑人民会議とその後身である人民議会への参加が︑人民民主的発展への出発点となることを本能的に察

      ︵45︶

知して拒否し︑一九四七年一二月二〇日に︑ソ連の命令によって解任されたのである︒カイザーとレマーはその後壁

の向こう側の東ドイツでは︑CDUを﹁かっての帝国主義の道へ回帰せしめ︑反ファシズム的・民主的統一前線を乱

      ︵46︶ そうと﹂した﹁反動主義者﹂と呼ばれたのである︒

59

(24)

㈲  ︵親ソ︶共産党別名組織成立の経緯

 他方︑占領初期に︑政党とならんで︑私見によれぽ﹁︵親ソ︶共産党別名組織﹂と呼ばれうる各種団体も形成され

たのである︒       ︵47︶ 一九四五年六月一〇日のソ連軍指令第二号によって︑労働組合や︑文化︑教育等の組織の設立も許可されたので︑

その後二箇月間に︑後のドイツ民主共和国︵DDR︶人民会議︵<o貯ω貯8σq冨しQ︶とその後身である人民議会︵<o時ω・

冨ヨ已興︶で議席を有することになる各種団体が設立されることになった︒

 FDGB︵自由ドイツ労働総同盟︶ 一九四五年六月一三日目ソ連軍行政府は︑自由ドイツ労働総同盟︵津虫曾

∪Φ日︒犀鎚二ω9ΦHOΦを興〆ωoげ簿津ωげロロら︶を認可し︑六月一五日にFDGBは設立された︒

 八月二九日にKPD幹部を前にW・ウルブリヒトが述べたところによれば︑FDGBはSPDとKPDが合併する

ことに対して﹁直接の利益﹂を持つものであった︒また労働組合が政党に対して中立的でなければならないという

﹁宣伝﹂は︑かっての﹁SPD的な労働組合﹂が主流であった時代の産物であり︑今日の﹁統一的な労働組合﹂で

       ︵48︶

は︑ ﹁労働者階級の統一﹂が目的となるべきであった︒このウルブリヒトの主張は︑KPDがFDGBを形成するこ

      ︵49︶

とによって︑SPDの下部組織を吸収し︑タルト・シューマッハーの言を借りて再解釈すれば︑いわば﹁吸血鬼﹂と

化して党勢を拡大しようとする︑KPDの戦略を明らかに表明したものであった︒

 事実︑いわゆるFDGBの﹁超党派の準備委員会﹂は︑KPD三名︑SPD虚名︑CDUD二名で構成されていた

が︑一九四六年二月一一日に準備委員会を引き継いだ︑四五名からなる幹部会の内訳は︑KPD一九名︑SPD一八

60

(25)

      ︵50︶

名︑CDUD四名︑無党派四名であり︑さらに表31ωに示されるように︑FDGB幹部会第一議長H・イェンドレ

ツキーやFDGB機関誌﹃ディ・アルバイト﹄編集長J・プールマンのように︑幹部会主要メンバーは旧KPD党員

が占めていたのである︒

 また︑FDGB設立と同時に︑ソ連軍行政府は︑FDGB以外の労働組合の結成を禁じた︒かくして︑ソ連占領地

区の共産主義者とソ連軍政府は︑労働組合政策においても︑統一労働組合の即時結成により︑KPD以外の政党から

      ︵50︶ 政党の下部組織の組織権を剥奪するという﹁古典的﹂方法を︑追求したのである︒

 この統一労働組合政策は他の東欧人民民主主義国でも認められる︒例えばハンガリーでは︑ 一九四四年九月・一〇

月に社会民主主義者と共産主義者間で協定が結ばれ︑当該協定により社会民主党は自党の独立性を守ることができた      ︵51︶

にもかかわらず︑他方︑労働組合は︑統一的マルクス・レーニン主義的労働組合運動に統合されていたのである︒

 FDJ︵自由ドイツ青年団︶ 一九四五年六月二五日に共産党中央幹部会メンバーであるW・ウルブリヒトは︑ベ

ルリン共産党幹部会で﹁青年委員会﹂の設立が急務であるという演説を行った︒これは﹁共産主義青年団﹂の設立断

       ︵25︶

念の発表と同時に表明された方針であったが︑ここで意図されたのも共産主義の指導の下にあるKPDの別名組織に

外ならなかった︒ 一九四五年七月三一日にソ連軍行政府司令長官G・K・シュコフ ︵O︒o蹟ご目○霧3三ぎ︒≦一房︒ゲ

ωげβざ毒︶元帥は︑ベルリン市長府の付属機関として青年組織の創設を許可したが︑同時に︑いかなる種類であって

も︑他の青年組織が結成されることに対しては厳しい禁止命令を布告した︒ここで禁止された青年組織の中には︑ス

       ︵53︶

ポーツ団体や他の社会主義組織︑社会主義に類似した共同体組織も含まれていた︒ここでは当然︑各政党の青年組織

も禁止されていた︒時のソ連任命によるベルリン市長府の構成が︑市長一名︵無党派︶︑市長代行四名︵KPD乙名︑

(26)

CDUD一名︶であり︑ソ連任命の市参事会の構成も︑KPD九名︑CDUD一名︑SPD/SED一名︑無党派四

         ︵留︶名︑不明一名であったことを考えると︑ ﹁超党派的﹂ ︵一九四六年二月二六日FDJ︵自由ドイツ青年団閏﹃虫Φ      ︵55︶

∪①巳ω畠①甘σqΦロ住︶設立決議︶と称しつつも︑実質的にはソ連軍行政府が︑KPDを通じて支配しうるものであった

ことは容易に推定できよう︒

 ソ連占領地区でKPDの結党が許可されて以来︑共産党が意図し︑かつ追求してきた﹁子分である政党︵目ooげ87

b巽§︶﹂︑すなわち全青少年を包括する民主的・反ファシズム的統一青年運動を形成するFDJは︑自らの団体以外

のいかなる他の青年団体をも許容せず︑団体・結社の自由が侵害されるが故に︑ベルリンの西側三箇国の司令官は︑

FDJを職務上認可することを拒否した︒これに対してソ連占領地区では︑とりわけ華々しいFDJの設立集会が催

された︒ 一五名のメンバ1で構成される中央参事会は︑超党派性の外観を装っていたが︑SED六名︑CDUD二

名︑tDPD一名︑教会代表二名︑FDGB一名というSEDが過半数を占めることから明らかなように︑組織内で

の本質的に重要な地位は︑始めからSED所属のメンバーによって占められており︑SEDは︑FDJをソ連の共産

主義青年同盟であるコムソモール︵︼︵◎5PωOゴPO一︶に倣って︑ マルクス・レーニン主義的教育・訓練の中心に置こうと

      ︵56︶

配慮したのである︒

 事実︑このようにして結成されたFDJの団長を︑一九四六年から一九五五年まで務めたE・ホーネッカー︵国二︒プ       ︵訂︶出8Φ︒貯巽︶は︑一九三三年以前からのKPD党員であり︑一九四五年当時にはKPD中央委員会青年部長であった︒

このホーネッカーこそ︑W・ウルブリヒトの後継老として︑一九七一年五月三日以降SED第一書記︵一九七六年五

月二二日以降SED書記長︶となり︑一九八九年一〇月一八日まで一八年以上にわたって︑DDRに君臨した人物で

62

(27)

あった︒したがって︑後の国家元首への出世コースの途上に︑KPD︵後のSED︶の別名下部組織である︑FDJ

団長の職があったといえる︒︵FDJ主要幹部に占める旧KPD党員については︑表31㈹を参照︒︶

 一九四六年に制定されたFDJ規約一八条によれぽ︑FDJは︑各々一名の所轄書記局構成員の下に︑FDJの一

部門としての﹁カトリック教会青年活動との連合機関﹂︑﹁福音主義︵プロテスタント︶教会青年活動との連合機関﹂

   ︵58︶を設立し︑かくして︑宗教への統制が始まったのである︒さらに︑一九五二年に修正補完されたFDJ組織規約一章

       ︵59︶

四条によれば︑FDJの構成員は︑国防の任務も兼ねる人民警察連合との社会主義的協力関係へ積極的に参加するこ       ︵60︶とを︑義務づけられることになった︒かくして︑未成年への軍事教育機能もFDJは担うことになったのである︒

 このように︑ソ連占領地区では︑諸政党が本来︑独自に持つべき多元主義︵勺霞8δ口℃一百会一口ω日⊆ω︶的立場とは正        ︵61︶ 反対に︑青年運動においても始めから﹁統一路線﹂による画一化が追求されたのである︒

 DKB︵ドイツ文化連合︶ 一九四五年七月四日にベルリン市において︑ ﹁ドイツ国の民主的新生のための文化連

合﹂が設立された︒DKB︵ドイツ文化連合∪巽U①三ωoゴΦ国⊆=ξσニロα︶の設立宣言において︑DKBは︑﹁新し

い︑自由主義的で︑民主主義的な世界観﹂を宣伝し︑﹁真理の精神と闘う民主主義︵ωけ﹃O山け一∪窪目①H 一︶①目PO屏﹃9け一ωゴP信ω︶の

精神に基づいた︑ドイツ国民の教育﹂を訴えた︒しかし︑ ﹁ドイツ国民にすべての民族の文化的獲得物︑とりわけソ

連邦の文化的獲得物についての知識を与える﹂という目的は︑いかなる方向に向かって触手が伸ばされるに至ったか

ということを︑容易に認識せしめるであろう︒事実︑DKBの議長団と総書記局は︑KPD党員によって占有されて

いた︒かような﹁国民前線組織﹂の設立によって︑ソ連占領地区ドイツは︑独自の道を歩むことになった︒類似の組

      ︵26︶ 織は︑共産党の政権掌握に先立って他の東欧諸国では遅い出せないものであった︒

(28)

 DFD︵ドイツ民主婦人同盟︶ ﹁婦人政策﹂においても東ドイツは︑他の東欧諸国に先がけて﹁統一﹂という独

自の道を歩み︑青年運動と同様に︑最初からあらゆる多元主義︵勺一二吋曽一一ω巴P信ω︶は排除された︒これに対して他の東欧

諸国では︑共産党の政権掌握後も︑婦人政策における一定限度の多元主義が容認され︑一九四八年ないし一九四九年

      ︵63︶ になって始めて︑共産党が支配する統一的婦人組織が成立したのである︒

 一九四五年=月三日に︑ソ連軍行政府司令長官G・K・シュコフ元帥は︑ベルリン市参事会に付属する﹁婦人委       ︵餌︶員会﹂の設立を命じると共に︑諸政党勢において他のいかなる婦人組織も創設されてはならないことを命じた︒これ

は諸政党の内部組織柔ないし下部組織権を大幅に剥奪することを意味する点で︑FDJ︑FDGBと等しかった︒

 一九四五年=月九日に︑ソ連任命の市参事会︵KPD八名︑SPD一名︑LDPD︸名︑無党派四名︑不明二名

  ︵65︶で構成︶は︑付属の中央婦人委員会の設立声明を発表したが︑この時の︑婦人委員会の委員長は︑KPD︑SPD︑C

DUD︑LDPD各一名で構成されており︑政治的にはまだ中立的であった︒したがって﹁平和︑自由︵男﹃①一ゲ①一け︶︑        ︵66︶

人間性︵ン臼①⇔ωOげ=Oず困Φ一け︶︑幸福の確保﹂を新しい﹁民主的ドイツ﹂の目的として表明することができたのである︒

 しかし︑一九四六年六月=二日︑一四日には正副委員長にいずれもSED︵社会主義統一党︶︵一九四六年四月二〇

       ︵67︶

日に︑O・グロ!テヴォール率いるSPD少数派は︑KPDと統一しSEDを結党した︶のM・ゼンドホフ︵冨p︒ゆΩα9

      ︵碍︶

ω魯爵ohh︶︑E・ハウザー︵﹈四二一けげ ︼田9信ωΦ同︶が選出された︒M・ゼンドホフは︑︑一九三三年以前からのKPD党員で

  ︵69︶あったので︑この時までに︑婦人委員会の親ソKPD︵SED︶の別名組織化が進行していたと言える︒

 一九四七年一月二二日︑二三日に開催されたSED党幹部会議で︑﹁DFD︵ドイツ民主婦人同盟∪Φヨ︒ξ9δ︒げ9

国罠β9ω9巳U①旨ω95昌傷ω︶﹂設立に関する報告が行なわれた︒この席でSED党幹部に提示された︑DFD起草

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