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農業・食糧統制から社会主義建設へ 東ドイツ農業の戦後史

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1.はじめに

1)東ドイツ「社会主義」農業の時期区分

第二次大戦後,東ドイツ(1)は敗戦国としてソ連占 領下におかれ,そのもとで日本と同じく土地改革と 深刻な食糧不足を経験した.さらにドイツ分割によ るドイツ民主共和国(以下,東ドイツと略記)の建 国後は,東側世界を象徴する社会主義国家として冷 戦体制の最前線におかれることとなった.ソ連・中 国と異なり東ドイツはすでに工業国であったが,土 地改革と農業集団化にみられるように東ドイツの農 業改革は工業部門の社会主義化に比べてもより抜本 的であり,さらに戦後難民問題や食糧不足の問題と も関わって,農業・食糧問題は社会主義権力の形成 にとって死活的な重要問題であった.イデオロギー の面でも東ドイツ国家は反ファシズムの人民民主主 義革命を通して誕生しなければならなかったため, とりわけ土地改革の成功神話の樹立も必須のもので あった. こうして始まる戦後東ドイツ農業史の時期区分に 関しては,土地制度と農業集団化の進展度合いを基 準とした場合,以下の 3 期に分けることができる. 第Ⅰ期は,占領期(1945-49 年)を中心とする土 地改革期(1945-52 年)である.東ドイツ土地改革 は,大農場経営(グーツ経営)を分割・解体し,新 たに複数の新農民経営を創出することが主たる内容 であった.土地の接収・分配自体は比較的短期間に 遂行されるものの,その後の新農民経営の確立は流 入する難民問題とも関わって困難を極めたといって よい.そうしたなか,1948 年のベルリン封鎖と西 ドイツ通貨改革が契機となって 1949 年に東西ドイ ツが建国される. 第Ⅱ期は,1952-1960 年までの移行期である. 1952 年 7 月の第 2 回党協議会において農業集団化 運動の開始が宣言されたものの,スターリン死後に 勃発した 1953 年 6 月 17 日事件(以下「6 月事件」) で挫折,このため 1950 年代の東ドイツ農業は,新 旧農民の個人農,LPG と称された集団農場(正式 名「農業生産協同組合」,以下 LPG),機械・トラ クター・ステーション(以下 MTS)の 3 セクター の併存を特徴とした.1956 年,ハンガリー動乱な ど東欧全体の非スターリン化の動きのなかで,東ド イツでも K・フィーヴェックを中心とした小農主義 路線の動きがみられるものの,その政治的失脚を契 機として 1958 年から集団化運動が再開され,1960 年 4 月 30 日に農業集団化の完了宣言が出されるに 至る.ベルリンの壁の建設はこの 1 年 4 ヶ月後の 1961 年 8 月の出来事である. 第Ⅲ期は集団化完了以降の時期であり LPG のみ が生産単位となる時期である.この時期は 1960 年 代の経済改革のもとで,なお多数の小規模 LPG が 存在した時期,1970 年代年以降の大規模 LPG の 時期(耕種 LPG と畜産 LPG の分業化),大規模化 の限界が露呈し,停滞感が顕わとなる 1980 年代以 降の時期に区分できる. 以上のうち,本稿が対象とするのは,土地改革か ら農業集団化完了までの第Ⅰ期と第Ⅱ期,言い換え れば個人農がなお中心的な位置を占めた時期であ る.

2)戦後東ドイツ農業史の研究動向

東ドイツ農業史の研究はドイツ統一後に本格化す るが,当初の中心テーマは土地改革と農業集団化の 研究であった.私自身についていえば,第三帝国の 崩壊から東欧再編の過程の中に東ドイツの農業・農 村の再編をどのように位置づけるかを問題意識とし て,農村難民問題,村落形態(東エルベ型農村), 農業機械化(経営資本)の 3 点に着目しつつ,村レ ベルの農民主体のありようから農業集団化の多様性 を明らかにする社会史的な実証研究に約 15 年ほど 取り組んだ(2).私が自らの研究に一区切りをつけた のは 2011 年だが,むろんその後もドイツでは各地 域に即した農業集団化の実証研究が着実に進展して いる.さらに東欧各国での史料公開に伴い,ドイツ のみならずルーマニアやバルト三国など東欧諸国に おける集団化の実証研究が著しく進展したことで, 東欧の農業集団化の比較史研究の成果が出版される

農業・食糧統制から社会主義建設へ

   東ドイツ農業の戦後史   

足立 芳宏

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段階まで達している(3) 一方で,実は農業集団化以外の多様なテーマにつ いての研究もなされてきたことも見逃されてはなら ない.例えば,食糧問題に関していえば,2007/08 年の世界的な食糧価格高騰による食資源問題の浮上 を意識しつつ,国家社会主義の下での農業・食糧問 題を「飢餓の比較史」として論じた Middell et.al. (2011)が注目されよう.ただし飢餓に焦点をあて るためであろう,社会主義国家を全体主義体制とし て理解する傾向がみうけられる.また,これとは異 なり,むしろ 20 世紀ドイツ史の文脈に東ドイツ農 業史を位置づけようとする立場から,とくにナチ期 との連続・断絶を意識した景観史・農学史に関する 一連の研究群が存在する.ここでは大きくは景観創 造 Landschaftsgestaltung と称された東ドイツの農 村計画を対象とする研究をあげておきたい(4).ドイ ツの農村計画はもともとは帝政期ドイツの内地植民 政策に端を発するものといえようが,農村空間を設 計するという考え方において,設計思想を神髄とす る 20 世紀社会主義に通じる部分があると思われる からである.

3)本報告の課題

さて,今回の共通シンポの中心的な課題の一つは, 戦後の食糧危機,および統制経済下での経済復興と 新国家建設という世界史的な共時性のなかで,いか に東の社会主義農業が形成されていったのか,その 歴史的な文脈を明らかにすることである.本稿に求 められているのは,この点を占領期から 1950 年代 までの東ドイツ農業の経験に即して再検討すること であろう.そこで,第一に,共通テーマである農業・ 食糧統制に関わっては,とくに農業団体の再編過程 に着目する観点から,戦時から戦後への「連続/断絶」 の経緯を明らかにすること,もって 1949 年の「勤労 農民体制」(5)確立の意義を強調することとしたい(6) 第二に,社会主義建設の 1950 年代について,模 範村を対象として農村プランナーたちの描いたモデ ル村落の景観像を通して,農村社会主義の「夢」の 一端を素描すること,これをもう一つの課題とした い.この 2 つは本来は別の主題として論じるべきで あろうが,あえて同時に取り上げるのは,大きくは 東ドイツ農村における社会主義建設は,国家による 農業統制局面のみならず,上からの農村空間の開発 (人為的創出)の志向性を強く帯びていた点に大き な特徴があるのではないかと考えるからである. なお,中国およびソ連との違いという観点から, 東ドイツに関しては,分割国家といえどもすでに近 代工業国家であり,中ソのような農民収奪に基づく 所謂「社会主義的原蓄」政策は農政の課題にならな いこと,また,戦後の混乱期であっても近代官僚制 は総じて機能しているとみなしうること,さらに冷 戦体制の特異点におかれた分割国家であることか ら,東ドイツ国家は帝国でないことはもとより国民 国家とも言い難いこと,以上の 3 点を比較の観点か ら予め指摘しておきたい.

2.ソ連占領期の食糧不足と土地改革

1)都市の食糧問題

戦場化したベルリンなど大都市の食糧問題は農村 に比してはるかに深刻であったと思われる.東ドイ ツの食糧配給制は戦後も廃止されることはなく,実 に 1958 年まで継続されている.ただし,配給基準 についてはナチ的な人種主義原則は即時に廃止さ れ,非ナチ化と階級基準を導入,新たに「その他」 のカテゴリーとして「工場所有者,元ナチ,専業主 婦」が設けられたという(Harsch 2011, p. 231). 都市の食糧問題は,とりわけ女性たちに集中した. 彼女たちは職場を離れて買い出しなど食料調達に奔 走,ベルリンでは来院した女性の 8 割に生理がなく, 日本のベビーブームとは実に対照的だが,節制,堕 胎,避妊によって東ドイツの出生率は 1948 年まで 戦間期の54.2%まで低下したという(ibid., pp. 218f.). さらにベルリンでは 25 万箇所におよぶ小菜園 Klein- garten があり,人々はここでジャガイモを栽培す るなどしており(ibid., pp. 218f.),市民自身による 自給型の対応も目につく.1946/1947 年凶作によ り食料事情が悪化したさいには,女性たちによる「パ ン騒動」がベルリンで発生している(ibid., p. 230). ただしこの点は西ドイツも同じで,1947 年 5 月に ルール炭鉱労働者のよる食糧デモが惹起,アメリカ 政府はこれを機に西ドイツへの食糧援助に踏み切っ ている(Erker 1990, pp. 57-60).

2)農村の食糧問題

食糧自給型の対応

戦後ドイツにとっての大きな社会問題は東部領土 の喪失に伴う東方ドイツ人難民(7)の大量流入であ る.その数は両ドイツで 1949 年時点で 1161 万人, うち東ドイツの難民は約 431 万人とも見積もられ ているが(Schwartz 2004, p. 54f.),これらの難民 の多くを受け入れたのは食と住で収容力があると見 込まれた農村部であった.人口急増に伴い農村の食

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糧問題も深刻化するが,特徴的なのは東ドイツでは 食糧自給型の解決がはかられる点である.戦後飢餓 に苦しむソ連は農場占領を通してむしろ東ドイツか ら食資源を収奪したために(8),東ドイツは日本や西 ドイツのような食糧援助をあてにすることはできな い.そこで土地改革に食糧供給の役割を果たすこと が期待されたのである.土地改革はグーツ経営が支 配的な北部諸州の占める比率が大きいが,そこでは 土地改革により新農民となった者のうちほぼ半数が 難民たちであった.土地の人口収容力を優先したた め,新農民の標準的な経営規模は 5-8ha であった. これは北部では専業的中農経営のほぼ半分の水準で あるとみなしてよい. あまり知られていないが,土地改革用地は農民だ けではなく労働者・職人などにも配分されている. 単純計算でその配分面積は平均して 1 人当たり 0.6ha であるから,事実上は労働者が零細地でジャ ガイモを栽培する程度のもと推測される(9).1948 年,プニオヴェアという園芸専門家が『土地改革と 園芸』という書物を出版しているが,興味深いこと に,そこでは土地改革が「園芸化による農業集約化」 として肯定的に論じられている(Pniower 1948). 都市の小菜園とあわせ,農村部でも土地改革による 零細地の付与が,「農業の園芸化」による食糧問題 の解決策として考えられていたことを示すものとい えよう. さらに土地改革により新農民となった難民は農村 難民全体の一部に過ぎず,女性・子供・老人たちな ど経営能力を持たない弱い難民たちは,旧農民の家 屋での居候生活を余儀なくされた.彼らは農業手伝 いを提供する見返りに現物での報酬を受けることで 食糧不足を乗り切っていく.これも「自給型解決」 の一種といえるであろう. こうした土地との結合による食糧自給の営みは, 占領期の危機対応策に限定されるものではなく,実 は東ドイツ時代全体にわたってみられる現象であ る.日本の研究史上において「居つきの工業化」論 と し て 知 ら れ て い る よ う に( 足 立 1997, pp. 94, 122),もともと近代ドイツの労働者にとって,零 細地や小菜園において小規模園芸を営む行為には長 い歴史がある.東ドイツ時代においてもこうした運 動は明確に継承されており,例えば集団化運動の ピーク時である 1959 年 2 月に開催されたロストク 県バート・ドベラン郡「小菜園家・入植者・小動物 飼育者連合会」の会議の議事録では,この郡の園芸 団体の加盟者が約 4000 名と記載されている.果樹・ 野菜が中心であるものの,鶏,兎,山羊,養蜂など が小動物としてあげられているのが目を引く(10) 東ドイツの食糧不足は 1960 年代には解消されるが, その後も園芸熱自体は止むことはなく,近年の研究 では,1970 年代以後は都市市民の余暇の楽しみと して重要な位置をもったとされている(Dietrich 2003; 河合 2015, pp. 159f.).このように,東ドイツ で は, 野 菜・ 果 樹・ 卵 な ど の 供 給 に つ い て は, LPG 農民の自留地はもとより,小規模で副業的な 園芸・畜産における自給生産の比重が非常に大きく, 少なくとも 1950 年代までは食糧政策上も重要な意 義をもっていたと思われる(11)

3.農業・食糧統制の制度変化

「勤労農民」体制の確立へ

1)戦時食糧統制からソ連占領軍下の食糧統

制へ

戦時ドイツの食糧統制のうち戦後に継承されるの はもちろん配給制度のみではない.農産物供出制度 もその対象であった.ナチ統治下の国内農産物供出 制度については,第一に自給分を除く全量が義務供 出の対象であったこと,第二に全国食糧職能団 Reichsnährstand をその担い手としたことを特徴と している.もともとドイツの農業団体は,19 世紀 中葉頃から各地の農民協会 Bauernverein の簇生に 端を発しており,地域的にも形態的にも非常に多様 であることを特徴としている.日本でもよく知られ るライファイゼン信用組合は,農民協会とは系譜が 異なるが,大局的にみれば下からの自助的な農業団 体の一つといえよう(12).これらの各種の農業関連 団体が,ナチ政権発足時に,いわゆる強制的同質化 政策によって単一の農業団体に統合される.それが 全国食糧職能団であるが,その実態は必ずしも一枚 岩的な集権的組織ではなく,あくまで従来の各種の 関連団体の活動を基盤としつつ,これを村・郡・邦 などの各級レベルに新たに設置された「農民団 Bauernschaft」が管理する体制だったと考えられる (足立 2013, pp.283-302). 終戦後,ソ連占領軍は,こうしたナチ期の農業・ 食糧統制を二つの点で改変した.第一点は,全量義 務供出でなく,義務供出分と国家買付分からなるソ 連型の二重価格制度を導入したことである.このう ち義務供出分に階層基準に基づく累進制が適用され た.占領期の数字は不明だが,1950 年代前半に関 しては,谷江(1989, p.94)に掲載の表によれば,

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買付価格は供出価格に対して農産物で 2 倍程度,畜 産物で 3-4 倍程度に設定されているものの,総調 達量に占める義務供出の割合は,牛乳で 79%(1952 年),肉類で 65%(1952 年),小麦で 93%(1955 年) となっており,いずれも義務供出分が圧倒的な比重 を占めている.他方で野菜や卵などは定期市(農民 自由市場)などでの販売がなされており,公的管理 下での市場取引も認められている(足立 2011, pp. 144, 237, 429f.).もちろん戦時から続くヤミ経済 ―ジャガイモ隠匿や豚のヤミ屠畜―は戦後も継続し ており,後に大農弾圧の格好の口実になるが,一般 には西ドイツに比べるとヤミ経済の比重は小さいと 推測される(13) そして第二点が農業団体の再編である.全国食糧 職能団はナチの農村支配の象徴であったからこれは 即時に廃棄されたが,これに代わって占領期の農業・ 食糧統制を担ったのが,占領軍により復活・奨励さ れた農業協同組合,即ちライファイゼン組合であっ た(14)

2)ライファイゼン組合から農民流通センターへ

(1)ライファイゼン組合の復活をめぐって 先述のように東ドイツでは土地改革によってグー ツ経営が解体され,新農民経営が創出されたが,畑 地・草地・林地や乳牛は分割可能でも,納屋,畜舎, 農業機械などの資本装備は物理的に分割不能であ る.このため当初これらの管理団体として新たに組 織されたのが新農民を中心とする「農民互助協会 VdgB」である.その全国議長の要職にあったのが 先にのべたフィーヴェックであった.他方で新たに 農民経営が大量に創出されたことで,農民経営支援 組織としてのライファイゼン組合の役割も急激に増 してくる.こちらは旧農民を中心とするが,新農民 も加盟している. ライファイゼン組合の業務内容は,穀物供出など の農産物調達業務,肥料などの購買事業,信用業務 のほか,農業機械修理所,集乳と製酪の業務,さら には村の電力供給業務までに及んでいる.表-1 は 土地改革期の農業協同組合の加盟組合数を示してい る.占領期当初の 1946 年 5 月時点の欄を見ると確 かに信用組合,電力組合,酪農組合,購買・販売組 合が数としては多いこと,他方でその他の組合につ いては各組合の加盟数は不明だが,計算上その総計 は 1129 組合にのぼることがわかる.ちなみに原史 料の一覧表では,表に掲げたもののほか注記に示す ように計 21 種類もの組合があげられている.ここ にみるようにライファイゼン組合は,当初は日本的 な単協ではなく,伝統に基づき職能組織である各種 の専門農協を基本としていたのである.ただし組合 の上部団体については,州レベルの中央組織は認め られていたものの,全国中央組織の存在は認められ ておらず,各組合は占領期のドイツ側行政組織であ る「ドイツ農林行政部 DVLF」もしくはソ連占領 軍農協課の直接的な管理下におかれたとされる (Schöne 2000; pp. 23, 25, 36). (2) 建国期前後(1948/50 年)の農業団体の再編 と集権化―「勤労農民体制」の確立― こうしたなかで大きな変化が生じるのは,ドイツ 分割が決定的となり両ドイツが建国される 1948/50 表−1 東ドイツにおける農業協同組合(ライファイゼン組合(1)),1946-1950 年 (単位:組合数) 1946年 5 月 1949年12月31日 1950年 9 月 1 日 増減(2) 村落協同組合 Dorfgenossenschaft 3,582 4,083 4,083 信用協同組合 Kreditgenossenschaft 2,927 344 147 ▲ 2,780 電力協同組合 Elektrizitätsgenossenschaft 1,142 860 775 ▲ 367 酪農協同組合 Molkereigenossenschaft 729 670 653 ▲ 76 商品取引協同組合 Reine Warengenossenschaft 385 79 41 ▲ 344 その他(3) 1,129 989 869 ▲ 260 総組合数 6,312 6,524 6,568 256 新設の村落協同組合 989 989

出典 Buss (1967; pp.66-67), Bundesarchiv Berlin, DC1, Nr.1367(最終頁),および Schöne(2000; p.35)より,筆者作成. (1)村落協同組合を除き「ライファイゼン組合」とする. (2)増減は 1946 年 5 月と 1950 年 9 月 1 日の差を表す. (3) その他の内訳は,1950 年 9 月 1 日の組合数が多い順に,家畜販売組合(102),機械・脱穀組合(92),家畜育成組合(81),その 他の経営組合(46),牛乳供出組合(71),放牧組合(72),自営業組合(53),水供給組合(49),青果物販売組合(42),鶏卵・鶏肉 販売組合(31),その他の商品販売組合(30),園芸組合(34),醸造所(29),漁業組合(33),牧羊組合(29),馬鈴薯加工・蒸留 酒・シロップ工場(20),種苗組合(15),種子洗浄組合(5),煙草栽培・販売組合(5),農地整備組合(6),判読できないもの(24) である(括弧内は組合数).

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年である.東ドイツでは 1947 年にドイツ経済委員 会が設立され,以後,この組織が計画経済の中核を 担うことになるが,翌 1948 年にはこの中に農業課 が設置される.これと平行して農業部門の集権化が 進められることとなるが,そのさいに焦点となった のが旧農民の影響力が強いとされたライファイゼン 組合であった. ここで再度前掲の表-1 をみられたい.この表の 村落協同組合とは,この時期,ドイツ社会主義統一 党(以下,SED)の主導により新たに各村に設置 さ れ た 総 合 農 協 Universalgenossenschaft で あ る. シェーネによれば,1948 年 3 月の農協大会におい て,村落協同組合およびその上部組織としての郡協 同組合の設立が謳われたという.設立目的としては 計画経済の一翼を担うこと,そして国家の調達機関 設立のための施策を支援することがあげられた.こ れによりライファイゼンという名前もすべての加盟 農協から抹消されることなり,機関誌の名称も『ラ イファイゼン通信 Raiffeisenbote』から『村落協同 組合 Die Dorfgenossenschaft』に変更されたという (Schöne 2000, pp.68-70).事実,表-1 からは短期 間の間に村落協同組合が設置されたこと,これと対 照的に信用組合と購買組合を中心とするライファイ ゼン組合の数が急速に減少していることがわかる. 組合の総合農協化は村落単位で,いわば面的に農民 の経済活動を掌握する意図によるものと考えられよ う.ただしこの表からは,酪農組合については(部 分的には電力組合に関しても)減少数が小幅であり 統合の対象ではなかったことがわかる.これは製酪 場を担う酪農組合が,既に戦時期から牛乳供出制度 を支える役割を果たしてきたことによるものと思わ れる(足立 2013, pp.293f.). しかし,協同組合の再編はここにとどまらない. 上述のように土地改革期は,新農民を軸とする農民 互助協会と旧農民が主導的なライファイゼン組合が 併存していたが,1950 年,上述のように後者の村 落協同組合への再編が進展した後に,SED の影響 下にあった農民互助協会の主導のもと,両者は「農 民流通センター VdgB=BHG」に合併されるのであ る(Schöne 2000, p.82).これによりライファイゼ ン組合は一部を除き消滅し,農業資本財の取引は農 民流通センターが独占することとなった. 注目すべきは,実はほぼ同時期に①農産物の調達・ 買付機関を独占する「国営調達・買付機関」(1949 年),②トラクターなど大型機械の独占と機械提供 サービスを行う機械貸与ステーション(以下 MAS: 1948 年),③農村信用業務を独占する「ドイツ農民 銀行」(1950 年)などの一連の農業関連組織が立て 続けに設立されていることである.これらの業務は, さきに見たようにかつて各種のライファイゼン組合 が担っていたものなのである.つまりライファイゼ ン組合の消滅は,これらの農業関連業務が中央組織 のもとに垂直的に系列化された集権的な組織に再編 されたことを意味することになろう.加えて政治的 な領域では,1948 年に新農民を基盤とした SED 翼 賛政党であるドイツ民主農民党が設立されている. 当時,レーニン労農同盟論的な見方では,新農民を 中心とする中小農層は「勤労農民 Werktätige Bau-ern」と呼ばれた.以上のような点を踏まえ,本稿 ではこの 1948/50 年を中心とする一連の制度改革 をもって勤労農民を基盤とする社会主義的な農業統 制制度が整えられたとみなしたい. もちろんこうした再編に対して農民たちの反発も あったことが十分に予想されよう.農民流通セン ターの設立が他の機関に比べて 1950 年と一番遅い ことにその点が現れているとも考えられるが(Buss 1965, p. 62f.),この点の全体像は現時点では不詳 である.農民の反発を抑える出来事としてしばしば 言及されるのはギュストロー郡の「見せしめ裁判」 の出来事である.ランガーの論考によると,この裁 判ではメクレンブルクのライファイゼン組合の州役 員 8 名が「重大な経済犯罪」(具体的には州補助金 の詐欺・横領)により,東ドイツ国家の建設と人民 の財産に対し著しい損害を与えたとして逮捕・起訴 されたことに始まる.一週間の裁判ののちに 8 人に 対して懲役刑の有罪判決が下されたが,裁判の様子 は地元新聞で連日報道され,紙面には「農民の敵」「ユ ンカーの手先」「財政のハイエナ」「怠け者」「悪質 汚職人」という言葉が踊った.判決当日の土曜日に は,州裁判所に隣接するホテルが興奮する多数の 人々によってあふれかえり,ホテルの正面には「政 府は農民の資産を守る」と書かれた横断幕が掲げら れたともいう(Langer 2002)(15) (3)「反大農政策」から「農村の 6 月 17 日事件」へ こうした 1948/50 年の農業統制の強化は,1948 年より開始される「反大農政策」とセットであった. 1948 年 12 月,東ドイツ農業界の重鎮ヘルンレが, 郡・村などの行政機関,農民互助協会,協同組合な どから大農を「公職追放」するよう要請する(Bauer- kämper 2002, p.142).これは上の「見せしめ裁判」 と同じく公的領域における SED 支配の強化である.

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さらに 1949 年には,従来は頭数基準で課せられて いた家畜の供出ノルマ(食肉・牛乳・卵など)が, 農地面積基準で課せられるように変更される.集約 化を促す狙いがあるとはいえ,これは一般に土地に 余裕のある上層に不利な作用を及ぼす.しかしより 直接的だったのは供出ノルマの「差別化 Differen-zierung」の強化であった.新農民層については義務 供出量の減免措置が講じられる一方で,20ha 以上層 の供出ノルマが急激に引き上げられたのである(16) これにより供出ノルマ未達成,さらに累積ノルマに より経営を放棄し,「共和国逃亡」する大農たちが急 増する. 以上のようにおおよそ 1948/50 年を転換点とし て社会主義的集権化を志向する農業統制制度が整え られたうえ,反大農政策と一体化することで大農層 の排除が進むが(大農経営はほぼ半減する),しか し事態は SED の思惑通りに推移したわけではまっ たくない.大農経営の荒廃や「共和国逃亡」の一方 で,勤労農民体制の中軸であるはずの新農民層の経 営返上・経営放棄,さらには「共和国逃亡」による 耕作放棄地の急増が深刻化することとなり,1950 年代初頭にはこれらが食糧供給のうえでも看過でき ない重要問題となっていくのである.上述のように 建国期前後において集権的な農業統制が整理されて いくとはいえ,肝心の農業構造に関しては土地改革 時の過剰入植に起因する問題に手が打たれていない のである.既存研究において,内政面の観点から, 初期集団化をこうした事態に対する「危機の前方回 避」とする見方が提出される所以である(Bauerkämper 2002, p. 497). 冒頭に触れたように,1952 年 7 月に始まる集団 化は「6 月事件」によって挫折.これによって農村 の政治的力関係も転換,村における SED の権威が 急速に低下し解散する LPG も相当数にのぼった. 非スターリン化を背景とするいわゆる「新路線」の もと,ノルマの引き下げや農産物の国家の買取価格 の大幅な引き上げがなされることとなった(谷江 1989, p.94; Bethold 1972, p.66f.).残存した LPG のありようは村落ごとに多様であるが,多くの場合 LPG は 1950 年代半ばに至って,むしろ村の耕作 放棄地の管理団体としての性格をもつようになり, その限りではあるが LPG の経営規模は漸次拡大し ていく.その一方で新農民経営からは,皮肉なこと に既存放棄地の選別的な引受けによる思惑的な規模 拡大や(所有地ではなく管理委託地であるので供出 ノルマが低い),MTS の有効利用などを梃子として, 意図せざる形で中農規模の優良経営層が生み出され て行く.こうした事態がフィーヴェックの小農主義 路線提唱の背景になっていると思われる.彼の失脚 の後に農業集団化が再開されたことは冒頭に述べた とおりである. このように集団化の経緯という点では紆余曲折を 辿っていくものの,集団化ではなく,農業統制とい う観点から戦後を大局的に見ると,1948/49 年のラ イファイゼン組合の解体を伴う農業関連団体の再編 と集権化が,個人農と LPG と MTS の併存時代の 社会主義的な農業統制制度の確立という点で一つの 画期として浮かび上がってくる.東ドイツの場合, 農業団体のありようがその焦点となっていた点に, 他とは異なる特徴があるといえよう.ただし「6 月 事件」以後の経緯が示すように,それは「勤労農民」 たちにとっては一方的な上からの抑圧ではなく,あ る程度の幅で戦略的に対処する余地のあるもので あったことも本稿では確認しておきたい.

4.社会主義「模範村Musterdorf/Beispiel-dorf」事業にみる農村建設

社会主義村落の建設は農業制度の集権化と農業集 団化だけで完結するものではない.1950 年代の東 ドイツではソ連の自然改造計画にみられるような大 規模農業開発プロジェクトは実施されていないが, 社会主義農業の演出として,農村プランナー(17) よる模範村の建設がなされたことを大きな特徴とし ている.これは農林省ではなく建設省の役割であっ た.以下,農村プランナーたちによる社会主義村落 の景観構想をみることで統制局面だけではみえない 社会主義農村の側面に触れてみたい(18)

1)土地改革期のモデル農家家屋建設事業

土地改革は大農場を分割するため本来であれば農 場の建物を個人農仕様に作りなおさねばならない. さらに新農民の 4 割が難民であり,農村の住宅不足 も深刻な課題であった.そこで考案されたのが占領 軍命令 209 号による新農民家屋建設事業である. その内容はグーツ支配の要であった大農場の畜舎・ 納屋・舘を解体し,これを建築資材として新農民の 「家屋+畜舎」を新築するというものであった.冷 戦期の研究では,建築資材不足のもと,途中から家 屋の建築方法が伝統的な煉瓦ではなく安価な粘土工 法に修正されたことに着目することで,結果的に中 途で挫折した事業実績の乏しさはもちろんのこと,

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この政策の恣意性,政治性,杜撰さなどを強調する ことに力点がおかれた(Zank 1987). これに対して事業の実態よりも,農村建築家に着 目したのがディクスの研究である(Dix 2002ab; Dix 2005).これによれば,当該事業では土地改革 理念に相応しい新農民家屋の設計が求められたが, プランナーたちはヴァイマル期以降に発達した農業 労働科学をもとに住居と畜舎が一体化した家屋を構 想したという.その設計に当たったのはヴェルナー・ コーズ=パルヒムやトニー・ミラー(19)など戦前か ら農村入植事業に携わってきた農村建築家たちで あった(Dix 2005, p. 73f.).ディクスはその設計が 「テーラー主義に基づく農場の最適化と労働投入の 極小化」を基調としていたこと,また設計者の戦時 のキャリアを論じることで,戦前からのドイツ農村 入植政策との連続性が確認できることを強調してい る.ここでは,この時期の設計が,専業的な中農経 営に相応しい農家屋敷地の合理的空間配置の追求に 向けられていたことを確認しておきたい.ちなみに, こうした彼らの家屋建築プランは設計だけにとどま らず,チューリンゲン州の二つの村,すなわちゼー ガ村とグロースフーラ村(ノイハイデ地区)の建設 事業に結実していく.既存集落の改造事業であった 前者と異なり,とくに後者のグロースフーラ村は, 上記の設計に基づき規格化された新農民家屋 18 戸 からなるまったく新しい集落の建設事業であり,土 地改革の理念を象徴する希有な事業となった(Dix 2002a, pp.198-218; Dix 2002b, pp.353-355).

2)社会主義の模範村の建設

メストリン村

の場合

(1)模範村事業の開始 土地改革期のモデル農村事業は所詮は点の存在に 過ぎないが,1950 年代になると,より全国的でか つ体系的な農村地域計画が取り組まれるようにな る.また集団化の開始に伴い,農家の家屋設計だけ でなく,むしろ LPG や MTS の作業場・事務所な どの設計,およびこれらの要素からなる村落全体の 景観計画が求められるようになった.さらに一口に 村落 Dorf といっても東エルベ農村の場合,人口規 模が大きく MAS/MTS がおかれるような中心村落 (Zentraldorf)から,日本でいう枝村のような小集 落(Weiler)まで多様な形態の村落が存在する.こ のためこれらを考慮・整理した郡全体の広域的な地 域計画も必要とされてくる.社会主義計画経済とい うと中央政府による集権的な経済計画がまずは想起 されるであろうが,農業・農村に即せば,実は県や 郡レベルの地域計画,村落の景観計画,さらには LPG, MTS 等の事業所の設計から上述の農家の住 居設計まで,多様な計画・設計の束として存在して いたのである. そのさい焦点となったのが中心村落であり,さら にそのモデルとして位置づけられたのが模範村建設 の事業であった.再びディクスによれば,1951 年, ライプチヒ大学農業植民学教授にして農村計画の指 導的プランナーとされるF・ベルクマン Friedrich Bergmann が,都市建設 16 原則を参照にもっとも 基本となる「農村居住の原則」を作成,これをもと に同年 9 月から,専門家会議である建築アカデミー が各州 3 村を基準に模範村の選定作業行い,11 月 にその候補地リストが提案されたという.選定基準 は複数あったものの,まずは新農民が多数を占める 村落が優先された(Dix 2002a, pp. 350-370). (2)模範村メストリンの建設と村落空間の変化 さて,こうした模範村事業の中でも,東ドイツを 代表する特別な模範村の一つが「農村のスターリン・ アレー」と称されたメストリン Mestlin というメク レンブルクの寒村であった(20).シュヴェリーン市 から東へ約 50km ほどのところにある旧グーツ村落 である.村には立派な教会(13 世紀半ば建立)が あるように,もともとは修道院領であり,このため 農場所有者による直営地ではなく,御料地借地人 B 家により経営されてきた.19 世紀中葉の村の農業 労働者世帯は 47 戸である.ヴァイマル期に州農場 となったものの,農場借地人は同じ B 家のままで あり,借地契約にも変化はなかったという(21) 現地展示パネルと公文書の記述によれば,戦後の メストリン村の土地改革は,ソ連軍による農場占領 のため 1947 年になって実施され,全部で 128 戸の 新農民経営が設立された.(ただし隣村を含む数字 か否かは未確認である).1949 年には先述の村落協 同組合と MAS が設立され,1950 年には電化がなさ れている.模範村に指定されたのは 1951 年 11 月で あった.そして 1952 年 8 月,本村では東ドイツで もいち早く大規模な LPG が設立されたという(22) 図-1 は,開発前後の村の空間の変化を示してい る.ここで右側の図は現地に展示されているパネル をもとに作成したグーツ村落時代の全体図である. ここにみられるように,村の中心部は教会と牧師館, およびグーツ館を中心とする農場屋敷地である.敷 地内には納屋,牛,羊,馬などの畜舎,車庫などが

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建てられており,屋敷の入り口の横を東西に走る ゴールドベルカー通りに沿って典型的な二軒長屋の 農業労働者住宅が立ち並ぶ.立派な修道院があるこ と,牧羊業の比重が大きいことを特徴とするが,そ れ以外は学校,村居酒屋,搾乳夫の存在などを含め, ほぼ典型的なグーツ村落の空間構成といえよう. こうした農場屋敷に象徴される伝統的な空間構成 を大きく刷新することが模範村事業の課題になっ た.図- 1 の左側が,1980 年のこの村の実際の地 図を元に,当時のプランナーたちが書いた村の再開 発計画図を重ね合わせたものである.(地図中の農 民 流 通 セ ン タ ー と 国 営 調 達 機 関, お よ び MAS (MTS)は計画図に記されたものである.また計画 図には池,並木道,住宅附属地,防風林なども描か れていたが,ここでは煩雑になるために省略した.) 開発前と比較すれば一目瞭然だが,第一に村のエリ アが南西に大きく拡大しているのがわかる.旧中心 部のグーツ屋敷については,農場館は解体されず MAS の事務所・食堂として使用されたといわれて おり(Dix 2002a, p.386),その北東側に大きく MAS

エリアが整備された.ここに管理棟,工房,機械・ 農具倉庫,トラクター置き場がつくられた.そして 南北の通りを挟んでこのエリアの反対側に農民流通 センターと国営調達機関が計画された.ただし旧農 業労働者家屋(土着農業労働者家屋)は,住宅に直 接附属する形で菜園地が設置されているものの,住 宅様式は既存のままになっている.計画時は集団化 開始前であるため計画図には LPG の記載がないが, 設立当初 LPG は MTS エリアに設置され,その後 は村境の外側にあたる南部エリアに拡張していった と思われる(Hahn, 1984, p.93). 刷新された村の景観の中心となるのは,新たに開 発された南西側に設けられた村広場(現在のマルク ス・エンゲルス広場)である.この広場の回りに各 種の公共的な建物が建設されるが,その中心的建造 物が「文化会館 Kulturhaus」であった.文化会館 には演劇・映画・舞踏などの多目的ホール(500 席), 飲食ホール(100 席),図書館,青年の家,展示室 がおかれた.さらに村広場の周辺には農村診療所, 学校,農学校,幼稚園・保育園,村役場・金融機関・ 1.文化会館(1958), 2.農村診療所(1955), 3.学校(1959) 4.幼稚園・保育所(1954), 5.食料・衣料品店 (1956) 6.店舗(工業製品販売)と村旅籠(1956) 7.村役場・貯蓄金庫・郵便局(1956) *図中の「M-E Platz」は「マルクス・エンゲルス広場」

開発前後の模範村メストリン村の変化

農民流通センター 国営調達機関 機械貸与ス テーション) MASの事業所と職員住宅など. (MTS,LPGもここに置かれた. LPGは後に南部地域に移動したと思われる) 8.新住宅区(新設の新農民の2階建て集合住宅) 出典: 及び および現地展示パネ ルほかより筆者作成. 運動場 A.新しい村中心部 C: 村の北東部(旧グーツ屋敷地を含む) D:グーツ屋敷地 Gutshof ①グーツ館(御料地借地人経営者) ②③④納屋, ⑤馬小屋,⑥畜舎 ⑦車庫 ⑧穀物置場, ⑨羊小屋 , ⑩⑪ 納屋

年の村の地図

S

N

:旧村のエリア: 通り沿いに農場労 働者の住居

開発後のメストリン村

教会 (括弧内は竣工年) 図−1  開発前後の模範村メストリン村の変化

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郵便局,老人ホーム,食料・衣料品店,および工芸 品の店舗が立ち並んでいる.そしてこの中心部の外 側のエリア,具体的には広場の南東側には立派な運 動場が,南西側には新たに新農民を中心とする村民 の二階建て集合住宅が 10 棟ほど建設された.これら は概ね十年ほどをかけて実際に建設されていく(23) 以上の設計構想から読み取れるのは,第一に村中 心部と MAS が開発の焦点となっている点である. MAS が焦点となるのは,この設計が集団化前の時 点であるためだが,同時にこの時点において新しい 機械化時代の農業を象徴するのが MAS/MTS で あったことによろう.しかし,第二にその配置をみ ると明確な職住分離の構想であるということも明白 である.MAS/MTS などの社会主義セクターの建 物は村中心部ではなく農業生産関連ゾーンとして, むしろ村の周辺部とされた旧グーツ屋敷地およびそ の外側のエリアにおかれている.これに対して難民 など他村出身者が居住したであろう新規建設の住宅 は,生産区域とは離れた村中心部に近い南西エリア に,しかも先にみた土地改革期の個人農家屋のよう な畜舎と一体化した一戸建てではなく,居住のみに 利用される二階建て集合住宅(一棟当たり 5 世帯ほ ど収容)として建設されている.個人農の生活形態 は放棄されていると言わざるを得ない.第三に村の 中心には消費・余暇と公共生活を象徴する「文化会 館」がおかれ,これが新時代の農村のシンボルとなっ ている.ここにあげたのは村計画図だけであるが, 計画作成時には,文化会館,農村診療所,学校など の各公共施設はもとより,集合住宅,MAS 事業所 の設計図までがそれぞれ別に作成されている.プラ ンナーたちが村の建物の詳細な部分まで設計しよう としていたことには驚くが,しかし計画全体のトー ンは,樹木や庭地がふんだんに配置されていること を別とすれば,農民的要素は後掲に退き,むしろ地 方小都市的な色彩に強く彩られていることがみてと れる. メストリン村の「文化会館」は資金計画が 300 万マルクから 140 万マルクに縮小され,かつ建設 事業も遅延し,6 年の歳月を経て 1958 年に完成し た(Dix 2002a, p. 383).ただし適正なサイズを度 外視した過大な設計であったために,その維持費の 負担が大きく,結果的には他の中心村落に普及する ことはなかった.とくに土地改革では散居形態の新 農民村落もかなりの数が見られたために,上記のよ うな集住制を基本におく地方都市的な模範村建設は 難しいという声が,当時より現場から出ていたこと を付言しておきたい(24).テクノクラートの夢は, 農民的ハビトゥスを身に刻む新農民たちの現実とは 相当ずれていたということが,この事例からはいえ るのではないか.

5.おわりに

本稿の課題は,戦後の食糧危機を背景とした東ド イツの農業・食料統制の形成過程について農業団体 のありように着目しつつ明らかにすること,および 農村プランナーたちの描いたモデル村落の景観像を 通して農村社会主義の建設構想の一端をみることで あった. 第一に戦後の食糧危機に関しては,非農民の小菜 園の意義,土地改革における労働者・職人への零細 地付与など,多様な形での食料自給型ともいうべき 対応がみられた.とくに小菜園は 19 世紀後半以来 の労働者文化に根差すもので,少なくとも 1950 年 代までは食料問題対応としての意義を保持したと考 えられる.土地改革自体が農村難民の定住化政策と しての性格を強く帯びたことも同じ文脈で理解でき るが,このために農地面積や経営資本装備の点で新 農民経営は専業的中農経営の確立にはほど遠く,実 態的には過小農経営たらざるをえなかった. 第二に個人農時代の農業統制のありように関して は,戦後のライファイゼン組合の復活と,その後の 集権的組織への再編が焦点となった.具体的にはラ イファイゼン組合から総合農協としての村落協同組 合への移行,さらに農民互助協会主導による両者の 合併,その結果としての農民流通センターの設立に いたる経緯である.これは同時に進行した一連の SED 主導による集権的な農業関連組織(MAS, 農 民銀行,農産物調達機関など)の設立と重なってお り,この点から建国前後の時期に「勤労農民体制」 とも形容すべき社会主義の農業統制制度が整えられ たといってよいだろう.ナチズムの農業・食料統制 も強制的同質化に基づく全国食糧職能団を軸に論じ られてきたが,戦後東ドイツの農業統制も伝統的な 農業団体の再編が焦点となったのである.ただし, この過程は一方で「見せしめ裁判」にみるように現 場における潜在的な反発が根強かったと思われるこ と,のみならず実は基盤となる新農民の経営の脆弱 性には手をつけなかったことで,大農経営の荒廃・ 「共和国逃亡」だけでなく新農民経営の耕作放棄を 深刻化させた. 第三に農村建設の構想に関しては,土地改革時代

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の新農民家屋建設事業に関わって,かつての内地植 民政策に携わった農村プランナーたちにより,住居 と畜舎が一体化した合理的な農家家屋の設計が構想 され,一部はモデル農村として結実していたこと, しかし建国期前後に本格化する模範村事業では,新 農民家屋の設計ではなく,中心村落の設計へと変化 していくことが確認できた.その背景に新農民建設 の困難と,MTS 時代への路線転換があったことが みてとれよう.これを旧グーツ村落のメストリン村 を事例としてみると,機械化時代を体現する MAS/ MTS の整備が重視される一方で,全体として職住 分離を徹底した村落のゾーニングが図られているこ と,さらに新たな村の中心部は,公共機関のみなら ず消費・余暇の機能を持つ文化会館を中心とした空 間の造りになっていることが見てとれた.ここに土 地改革時の農民的要素は消滅し,職住分離を前提と する地方小都市としての中心村落の建設構想が前面 化することとなったのである. 戦後東欧社会主義の形成は,領土再編に伴う人々 の強制移動の問題を抜いては理解できない.東ドイ ツ農業に即せば,この点は土地改革から集団化過程 において難民出自の新農民(彼らは往々にして元農 民である)が社会主義村落秩序の形成に大きな役割 を果たした点に現れている(足立 2011).その意味 では,模範村事業は社会主義政権による新たな「故 郷」の開発・建設でもあった.実は同じ事はエムス ランド開発にみられるような西ドイツの農村開発・ 入植事業にもあてはまるが,その構想は散居制に基 づく専業的中農農家の入植を基本とし,中心村落は 教会,学校,職人,商店などの公的・社会的機能を 提供する役割に限定される.東西の違いをどう考え たらいいのか,この点は他日に期すこととしたい. ⑴ 本稿ではソ連占領区(SBZ)およびドイツ民主共 和国(DDR)を慣例に従い東ドイツと記す. ⑵ 足立(2011, 2016a).なお本稿において足立(2011) によるところはいちいち典拠を示さない. ⑶ 代表的な国際的な共同研究の成果として Iordachi et.al (2014)がある. ⑷ 本稿でも参照するディクスによる一連の研究が代 表的なものである(Dix 2002a, 2002b, 2005). ⑸ 本稿の造語である.ここでは土地改革によって創 出された新農民を軸とする社会主義統制下の個人 農体制を指す言葉として用いることとしたい. ⑹ 土地改革期の「国家社会主義的」な農業統制制度 の形成過程をソ連との関わりに着目しつつ詳細に 明らかにした近年の研究書として Scherstjanoi (2007)がある.本稿は 648 頁におよぶこの大著 の内容を十分に咀嚼できていない. ⑺ 東側で移住者 Umsiedler,西側で被追放民 Ver-triebene と称された人々を本稿では難民と記す. ⑻ ソ連軍の農場占領については足立(2011, pp. 64f.) を参照.なお 1946/47 年のソ連の飢餓では死者 が 150 万人にも達したといわれる(Filtzer 2011, p. 59). ⑼ 土地改革で土地を取得した「非農民の労働者・職 員」は,1950 年 1 月 1 日時点の東ドイツにおいて 計 18 万 3261 人,その総土地面積は 11 万 4665ha であるから,単純計算では 1 人当たり 0.6ha とな る.耕地 Ackerland と庭地 Gartenland の内訳は 不詳であるが,1946 年の農民地帯のザクセン州 では,労働者・職員の土地改革用地のうち,耕地 は 1 万 1405ha,庭地が 321ha であり,また村有 の 庭 地 が 244ha と な っ て い る(Stöckigt 1964, pp. 255, 265).なお,専用の区画地が整備されて 貸し出される小菜園 Kleingarten と区別するため, 本稿では自給用の小規模農地を零細地と表記し た.

⑽ Landesarchiv Greifswald, Rep. 294, Nr.251, Bl. 27. ⑾ 占領期の東ドイツ食糧問題を考える上では 1946/ 47 年の干魃や水害の影響が与えた影響も見過ご せない.ソ連については上述のとおりだが,東ド イツにおいては飢餓こそ発生していないものの, とくに不作による種子不足は深刻で,ソ連占領軍 は「ソコロフスキー元帥による種子の供給」なる キャンペーンを行っている.また干魃はとくに南 部では牧草不足を引き起こし,土地改革後に家畜 不足に苦しむ北部の新農民地帯に南部の乳牛を送 付する「家畜調整」が実施されている.さらに戦 場化した東部ブランデンブルク地方では,戦災被 害も癒えぬうちに 1947 年 3 月にオーデル河が氾 濫,深刻な被害をもたらした.水害による疎開児 童に対する差別問題も問題になっている.以上, Landeshauptarchiv Schwerin(LHAS), 6. 11-2, Nr. 666, Bl. 382-383(オーデル河氾濫), LHAS, Nr. 666a, Bl. 651-656(種子不足).干魃と家畜調 整については足立(2011, pp. 79f., 115)による. ⑿ ライン州ノイヴィート郡ヘッデスドルフ連合村長 の職にあった F.W. ライファイゼンは 1862 年に 同村のアンハウゼン教区で貸付組合を,さらに 1864 年にヘッデスドルフ貸付組合を設立,同組 合は 1969 年に定款の変更を行うが(自助原則の 明記など),村岡はこれをもってライファイゼン型 農村信用組合が確立したとする(村岡1997, p.120).

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また黎明期の有力なドイツ農業協同組合としては このほかにヘッセン州の W・ハースによる農村 信用組合があるが,信用組合に特化したライファ イゼン系の組合に対して,ハース系の組合は酪農 組合など信用組合以外の協同組合が多数を占めて いたことが特徴である(同上 p. 205).ただし帝 政期ドイツの農業団体史のうえでは農業者同盟や 農民同盟などの政治的圧力団体の影響力が非常に 強く,ドイツの農業協同組合は日本における産業 組合ほどの意義をもっていたわけではない.この 点はヴァイマル期についても同様である. ⒀ 1947 年パルヒム郡からの州知事宛報告に「西側 からの訪問者の弁によると,西側地区ではヤミ市 は恐るべき規模に達している」との記述がある (LHAS, 6.11-2, Nr. 666, p. 387). ⒁ 当該期の東ドイツでは,ライファイゼンという名 称は自助原則に基づく農業協同組合一般を表す用 語として使われたという(v. Neide 1952, p. 7). 従って旧ハース系ほかの組合もライファイゼン組 合として扱われたと考えられる. ⒂ もう一つの重要事件がブランデンブルク州テル トー郡の農業協同組合の事例である.これは組合 長でもある村長が SED から除名される事件である (Bundesarchiv Berlin(BA), DC 1/2696 und 1367). ⒃ メクレンブルクの 1950 年の穀物の 1ha あたり義 務供出ノルマは,1946 年を 100 として 5-10ha 層が 95 とやや減であるのに対し,20-50ha 層は 145と約1.5倍になっている(Berthold 1972, p.60). ⒄ 本稿では KPD/SED の農業・農村政策に基づき 農村計画の具体化に携わる建築系の専門家を農村 プランナーないし農村建築家と呼ぶことにする. 中心となるのは工科大学の建築科教授,および東 ドイツ科学アカデミー建築研究所に所属する指導 的研究員たちである.その前歴はさまざまだが, ナチ期に東部農民入植事業に何らかの形で関わっ ている点に共通性が見出される(Dix2002, pp. 84 f.).20 世紀ドイツでは帝政期の「プロイセン内 地植民法」(1886 年)を嚆矢として,ヴァイマル 期には「帝国入植法」(1919 年)に基づく農民入 植政策が本格化(各州における土地整備庁設置と 公益入植会社設立を伴う),ナチ期の 1935 年に これらが「ドイツ農民の新形成」に再編されるこ とで,農民入植政策はそれまでの近代的農民経営 の創出から農村景観全体を新設計するものへと変 化していく.戦時のナチス・ドイツ併合地ポーラ ンドの「民族ドイツ人」入植事業などの東部入植 事業もこの延長線にあった(足立 ,2016 b, pp.85-87).こうした一連の経緯の中で,食糧・農業省 の農政官僚とは必ずしも重ならない農民入植事業 に携わる行政官僚が形成されていった.建築系の 農村プランナーたちもその一翼をなすと考えられ るが,現時点で両者の関わりの詳細は不詳である. ⒅ 日本では菊池(2011),菊池(2018)が政治的演 出事業としての国際花博(IGA)と園芸集団化の 関わりを論じている. ⒆ Werner Cord-Parchim は戦時期にヴァルテラン トの大農場建築コンペに関わている.戦後はドレ スデン工科大学農業建築制度講座教授である. Toni Miller は戦時中はダンチヒ工科大学の国土 開発・東部植民・農村入植講座の助手.戦後は 1946 年よりヴァイマル建築芸術大学の農村建築・ 入植担当の教授としてグロースフーラ村やゼーガ 村の基本設計に携わるが,その後西側に逃亡して いる(Dix 2002a, pp. 76, 420f, 444, ; Dix 2005). ⒇ 他の代表的な模範村は Marxwalde

村(Branden-burg 州)と Gnölbzig 村(Sachsen-Anhalt 州)であ る(Hartung 2001, pp.244-250; Dix 2002a, pp.350, 381-398).  以上は現地の展示パネルの解説による.なお『農 場住所録』(1928 年版)によると,農地面積は記 載されていないが,馬 64 頭,牛 190 頭,羊 580 頭 となっており牧羊業の比重が大きい(Niekammer’s landwirtschaftliche Güter-Adreßbücher 1928, p.152).  BA Berlin, DK 107/ 22293 (1958, p.4).この文 書によれば隣接する R 村の農民の共和国逃亡後 に,そこで働いていた「農業労働者」が LPG を 設立している.この LPG にメストリン村と V 村 の新農民が加盟することで LPG メストリンが当 該期の東ドイツで最大規模の LPG になったとさ れる.ちなみに行政村メストリンはメストリン村 のほか 4 集落からなり,総経営面積は 3,293ha で ある(ibid, p.5).  以上は Hartung(2001, pp. 238-244), Dix(2002a, pp.384-386),Hahn(1984, p.93)の記述を参照.  BA Berlin DH 1/ 39046, 1951 年 5 月 1 日付け「メ クレンブルクの新農民村落の計画に関する報告」 と題する文書. (引用文献)

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