• 検索結果がありません。

会政治の本道」への寄稿論文を中心に

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "会政治の本道」への寄稿論文を中心に"

Copied!
23
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

会政治の本道」への寄稿論文を中心に

著者 鈴村 裕輔

出版者 法政大学国際日本学研究所

雑誌名 国際日本学

巻 17

ページ 53‑74

発行年 2020‑03‑25

URL http://doi.org/10.15002/00023215

(2)

鈴 村 裕 輔

はじめに

 斎藤隆夫は大正時代から昭和 20 年代前半にかけて活動した議会政治家とし て知られる。1912(明治 45)年 5 月 15 日に行われた総選挙で立憲国民党から 出馬して衆議院に初当選した斎藤は、兵庫県北部の但馬地域を地盤とし、1920

(大正 9)年に落選したことを除いて通算 13 回の当選を記録した。所属した政 党は立憲国民党から立憲同志会、憲政会を経て立憲民政党に移り、戦後は日 本進歩党の設立発起人の一人となり、日本民主党、さらに民主自由党の設立 にも参画し、1949(昭和 24)年に没するまで政界の第一線で活躍した。

 行政面における斎藤は、戦前においては浜口雄幸内閣で内務政務次官、第 2 次若槻礼次郎内閣で法制局長官を務め、戦後は 1946(昭和 21)年に発足した 第 1 次吉田茂内閣で国務大臣となり、吉田内閣を継いで 1947(昭和 22)年に 成立した片山哲内閣でも国務相を務めている。

 国会議員としての斎藤の事跡として広く知られているのが、1936(昭和 11)

年に政府の 2・26 事件への対応と軍部の政治への関与を批判した「粛軍に関す る質問演説」、いわゆる粛軍演説と、当時日支事変と呼ばれた日中戦争に関す る政府の姿勢を批判した 1940(昭和 15)年の「支那事変処理に関する質問演 説」、すなわち反軍演説である。これらの演説はいずれも政党政治と議会政治 を擁護し、軍部を中心として台頭した政党不要論や反議会政治の動きを批判 するとともに、軍部による政治への介入を指弾するものであった。

 このような斎藤に関しては、政治史的に「汪政権樹立、東亜新秩序、近衛 新体制という「革新」派路線に対する反対の意思表示」を行った「議会内少

斎藤隆夫の政党政治擁護論

―― 時事新報の特集「議会政治の本道」への

寄稿論文を中心に

(3)

数派グループとして行動する」という位置付けがなされている(1)。また、反軍 演説によって 1940 年の時点で革新派が対外的にも対内的にも「国民を統合し うるフィクションを創出していなかった」ことが明らかにされたという指摘(2)

や、斎藤には戦争を国家の維持や発展を巡ってなされる侵略と反撃として捉 え、国益を求めて侵略することを罪悪とみなさない一方で、実力を伴わない にもかかわらず侵略を繰り返した軍部や政府に憤るという「戦争観のディレ ンマ」があったという理解がなされている(3)

 その一方で、斎藤が粛軍演説の半年後の 1936 年 11 月に時事新報の特集「議 会政治の本道」に寄稿した 3 本の論考については、これまで具体的な検討が なされてこなかった。従来の研究で「議会政治の本道」に掲載された論考に 関する分析がなされてこなかった主たる理由としては、次の 3 点が挙げられる。

すなわち、これらの論考が『回顧七十年』や『斎藤隆夫日記』、あるいは『齋 藤隆夫政治論集』など、斎藤の研究の基礎となる文献の中で取り上げられてこ なかったこと、掲載紙である時事新報が特集を行った直後の 1936 年 12 月 25 日に東京日日新聞に吸収されたために当時の紙面を入手するのが困難になっ たこと、さらに議会での演説という枠組みを超えて社会に大きな反響を呼び 起こした粛軍演説に比べ、3 編の論考が読者に与えた影響が大きくなかったこ とである。

 そこで、本論では、まず斎藤が 3 編の論考を執筆した当時の日本を取り巻 く政治的な状況を概観した後、斎藤による軍部の政治への介入の批判を粛軍 演説に基づいて検討する。次に、「議会政治の本道」に掲載された 3 編の論考 の全文を紹介するとともに、これらの論考で示された軍部による政治への介 入を批判する議論の論理と国民への信頼のあり方を考察する。

1. 2・26 事件の発生から軍部の政治への介入の進展

 1936(昭和 11)年 2 月 26 日、いわゆる皇道派の影響を受けた陸軍の青年将 校が「昭和維新」の実現を目指して蜂起する 2・26 事件が起きた。香田清貞歩 兵大尉、安藤輝三歩兵大尉、栗原康秀歩兵中尉らが率いる約 1400 名の反乱軍 は斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監を射殺するとともに、

(4)

陸軍省、参謀本部、帝国議会議事堂、首相官邸などを占拠して陸軍首脳に国家 改造の断行、すなわち昭和維新の実現を要請した。反乱軍は北一輝の『日本改 造法案大綱』の影響を受けており、岡田啓介首相を殺害して内閣を倒し、皇道 派の巨頭と目された真崎甚三郎陸軍大将を首班とする皇道派暫定内閣の樹立 を目指していた。しかし、2 月 29 日に反乱軍は鎮圧され、香田清貞、安藤輝三、

栗原康秀ら首謀者や、青年将校の理論的指導者であった北一輝、西田税らが 叛乱罪を適用されて死刑に処せられ、皇道派関係者も処分された。この結果、

陸軍内部では皇道派と対立していた統制派が実権を掌握した。また、2・26 事 件の発生から 12 日後の 3 月 9 日には岡田啓介内閣が総辞職し、新たに岡田内 閣の外務大臣であった広田弘毅が首相に就任した。

 広田内閣は、1932(昭和 7)年 5 月 15 日に海軍青年将校が犬養毅首相を暗 殺した 5・15 事件で犬養毅内閣が退陣し、前朝鮮総督の斎藤実が首相に就任し て以来、4 年ぶりの文官による内閣であった。しかし、広田への組閣の大命降 下に先立ち、近衛文麿に大命が下されたものの、近衛は自らの健康問題と軍 部大臣に陸海軍を統御できる人材を充てる見通しがたたないことを理由に固 辞したこと(4)、軍部が人事に介入したために(5)広田による閣僚の人選が難航 したことは、2・26 事件によって軍部の存在感が低下したのではなく、むしろ 軍の統制を理由に政治的発言権が向上したことを示唆するものであった。さ らに、1913(大正 2)年 6 月に山本権兵衛内閣が軍部大臣の補任資格を予備役 や後備役の将官にまで拡大したことで緩和された軍部大臣現役武官制は、1936 年 5 月 18 日に「粛々と復活した」(6)。1913(大正 2)年の第一次憲政擁護運動 の成果と言うべき軍部大臣現役武官制の緩和が終わったことは、軍部が政党 への譲歩を拒絶したことを示していた。これに対して、かつて 1913 年と 1924

(大正 13)年の 2 度にわたって憲政擁護運動を展開した政党側は、ついに第三 次憲政擁護運動を起こすことが出来なかった。何故なら、5・15 事件や 2・26 事件が象徴するように、特に軍部や国家改造主義者の間に政党政治や政党勢 力に対する批判が根強く存在したからである。

 1918(大正 7)年に閣僚の大半が政党員であった原敬内閣を嚆矢とし、1925

(大正 14)年の男子普通選挙により、立憲政友会、憲政会、革新倶楽部の護憲 三派の連合によって加藤高明内閣が発足して以降、政党に基礎を置く政党内

(5)

閣が続いた。特に 1927(昭和 2)年に立憲民政党が結成されてからは、立憲政 友会と立憲民政党という当時の二大政党の間で政権が推移した。このような 政権の交代は「憲政の常道」と呼ばれ、国民から歓迎された(7)。この時期には、

政党側も反政党勢力も、政党は軍部などの他の政治勢力に対して強者の立場に あると理解していた(8)。しかし、立憲政友会と立憲民政党という二大政党が交 互に政権を担当することは、政党や政党政治家にとっては好ましいものであっ たかも知れないものの、かえって政党政治に対する批判を生じさせる結果を もたらした。すなわち、二大政党が交互に政権を担当したことは両党が政権 を独占したことを意味するとともに、いずれの政党が政権党となっても政権 運営が十分に成功しなかったことから、立憲政友会も立憲民政党もいずれも 政権担当能力を欠いていると理解された。ここに、「二大政党を一括りに「既 成政党」として批判する動きが生ずることになった」(9)のである。

 一方、軍部の政治への介入は「庶政一新」を標榜する広田内閣の下で進展 した。例えば、1936 年 10 月には陸軍による議院制度改革、選挙法改正、地方 行革が「有力な改革意見」として報道されたこと(10)は、軍部が政治への介入 を本格化させたことを示している。すなわち、陸軍による改革案として挙げ られたのは、以下の 8 項目だった。

一、 國體明徴の精神に基き國政運用上における議會の地位につき確乎た る認識を持たせること

一、 日本の今日の議會は所謂英國流の議院内閣制をとり來つたので議會 は立法、豫算に關する協賛權の行使よりも、むしろ政府の行政監督 權の行使に主力を注ぎ、ために議會は政權爭奪場と化し肝心の立法、

豫算の協賛が輕視されている、よつてこの際米國流の如く議會と政 府とを各各獨立の機關とし以て立法、行政、司法三權分立主義を確 立し議會に多數を占むる政黨が政府を組織するが如きことを禁止し 政黨内閣制を完全に否定する

一、 議會における政黨の地位に關しては政黨法とも稱すべき法律を立案 し政黨の行動範圍を規定すること

一、 政府對議會關係の如き國家の現行重要機關が對立抗爭を建前として

(6)

設置してあるからこれを改め相互協力の日本精神の趣旨を指導方針 として諸制度の改革を企畫すること、從つて議會には政府彈劾の如 き決議をなす權限を持たせぬこと

一、 議會に職能代表議員の進出をはかること

一、 貴族院の機能を改變し經濟參謀本部を設置し、これを衆議院に附設 して衆議院が經濟立法を行う場合の智能とすること、從つてこの經 濟參謀本部には出來るだけ民間經濟界の權威、專門家を網羅し官僚 政治の弊害を是正する

一、 現行普通選舉實施の成績に鑑み選舉權は家長(戸主)又は兵役義務 を終つた者に制限する

一、 經濟的活動を旺盛ならしむる如く現行地方制度の改革を斷行するこ とを主眼とし、これがためには府縣の廢合、町村合併問題に再吟味 を加え地方團體の經濟的活動の基礎強化をはかること

 上記の 8 項目のうち、第 1 項から第 6 項までが議院制度改革、第 7 項が選 挙法改正、第 8 項が地方行革に相当する。これらの中でとりわけわれわれの 注意を惹くのは、議院制度改革である。

 軍部による議院制度改革案は、日本の議会が英国流の議院内閣制を採用し たことから政党による政権争奪の場と化し、大日本帝国憲法が定める立法と 予算への協賛という役割が軽視されているため、米国流に立法、行政、司法 を分立させ、立法府に基礎を置く政党が行政府を率いる内閣を組織すること を禁止するとともに、政党の行動を規制し、政府と議会の対立が生じないよ う対策を施すことを求めた結果であるとされる(11)

 これらの提案は、一見すると、「憲政常道」の名の下に二大政党が政権を独 占し、しかも十分な政権運営能力を有していないという現状に対する批判であ るかのように思われる。また、大日本帝国憲法は帝国議会に大きな権限を与 えていたものの、政党が政権を担当することを保証してはおらず、天皇は政 党を含む各種の政治勢力の中からより政権運営に適した能力を有する者を選 んで政権を委ねることが出来た(12)。また、東京帝国大学法学部教授美濃部達 吉の憲法学説、すなわち天皇機関説に対して、1935(昭和 10)年 2 月 18 日の

(7)

貴族院において貴族院議員の菊池武夫が「国体に対する緩慢なる謀叛」であ ると非難し、政府に断固たる措置を求めたことに起因する天皇機関説事件は、

8 月 3 日と 10 月 15 日の二度にわたって岡田啓介内閣が「国体明徴に関する政 府声明」、いわゆる国体明徴声明を発する事態に発展した(13)。国体明徴運動を 経た後では、議会は天皇の統治権に挑戦することは避けねばならなかったし、

軍部に代表される反政党勢力が、天皇が政権担当という「大命降下を政党の 意向に拘束されずに行えること」(14)が明らかになったと考えたとしても不思 議ではない。

 もちろん、立法、行政、司法の三権の分立は、軍部が指摘するような相互の 不干渉ではなく、相互の抑制にあるという点は、穂積八束と美濃部達吉という 講壇憲法学界の主導権を争った二つの学派(15)のいずれにおいても、共通の理 解を有するものであった。すなわち、穂積は「權力ノ分立トハ大權立法權司法 權ノ分立シテ混同セサルヲ謂フ」と指摘して三権分立こそが大日本帝国憲法の 目指すものであるとする(16)。また、美濃部は「權力分立主義トハ國家統治權 ノ作用タル立法行政司法ノ三種ノ作用ヲ各別種ノ機關ニ分屬セシメ各種ノ機 關ヲシテ各獨立ニ其ノ權能ヲ行ハシムルコトヲ意味ス。三種ノ機關ガ互ニ相 抑制スルコトニ依リ權力ノ濫用ヲ防ギ以テ人民ノ自由ヲ安固ナラシムルコト ヲ得ヘシト爲スナリ」と、権力の乱用の防止こそが三権分立の目的だとする(17)。 このように考えれば、軍部の三権分立に関する議論が当時の日本の法学界が 蓄積してきた議論を無視するものであったのである。

 ところで、議院改革案として政党内閣制を否定することは、政党以外が政権 を担当することを前提としていることを示しているだけでなく、政党に代わっ て軍部が政権を担い続けるための布石と言える。さらに、政府の行動範囲の 規制や政府による議会の解散権の剥奪を主張しないことから、議会における 政党の行動範囲の規制や政府への弾劾権の剥奪の要求は、たとえいかなる政 権が誕生するとしても立法府が行政府に対して容喙できないことを制度面で 担保しようという軍部の意図を反映したものであることが分かる。そして、「議 會に職能代表議員の進出をはかる」という提案は、明治天皇が 1882(明治 15)

年に下した「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」の「世論に惑はす政治に拘らす只々 一途に己か本分の忠節を守り」という一文を参照すると、軍人が帝国議会で

(8)

議席を有することを規制する当時の状況を改め、軍人を職能代表の一員とし、

帝国議会の議席を占める道を開こうとする試みであると考えられる。

 このような改革案は「「軍は結局軍政府の樹立を希望してゐる」等の如き憶 測」(18)に一定の合理性を与えるものであった。それだけに、軍部は、「政黨方 面で陸軍の主張が議會政治そのものゝ否認であるとなしてゐるのは不當であ つて陸軍の政黨内閣制否認と議會政治否認とは全然別個の問題であり政黨内 閣制を否認することは決して議會政治そのものゝ否認にはならぬ」(19)と弁解 をすることを余儀なくされたのであった。

2. 斎藤隆夫による軍部への政治への関与の批判

 上述のように、2・26 事件の発生後の日本の政界は、軍部による政治への関 与の加速と議院内閣制、さらには政党政治の否定を掲げた制度改革が進められ ようとしていた。このような状況を受けて、1936(昭和 11)年 5 月 7 日の第 69 特別帝国議会において、斎藤隆夫が「粛軍に関する質問演説」、いわゆる粛 軍演説を行ったことは周知の通りである。

 それまで浜口雄幸内閣で内務政務次官、第 2 次若槻礼次郎内閣で法制局長 官を務めたものの、長らく党務に携わり、国民の間での知名度が決して高く なかった斎藤の存在は、粛軍演説によって広く知られるようになった。1 時間 25 分に及ぶ演説が帝国議会に居合わせた議員だけでなく、傍聴席の報道陣に も深い感銘を与えたことは、以下の論評が端的にしている(20)

 今議會の前半を通觀して最も活躍した人々を數へれば萬人舉つて第一 に齋藤隆夫君(民政)を推さねばならぬ、實に去る七日衆議院本會議にお ける齋藤君の肅軍に關する質問演説は近來稀な大論陣であつた、軍人の政 治不干與に關する鐵則の糾明、近年の不祥事件に對する軍當局の處置糾 彈、立憲支持の高揚を論じ去り來つて最後に『國民の忍耐力には限りが ある』と喝破したときは滿場げきとして聲なく、齋藤君の舌端は宛も火 をはくの慨があつた、これはまた寺内陸相が『御趣旨には全く同感である』

旨を明確に答え肅軍の決意を披歴したことによつて齋藤君の論陣は朝野

(9)

をひつくるめて一つの大きな國民的感動の中に捲込んだという效果さえ かち得てゐる、けだし齋藤君こそ今議會切つての花形であり、議會論壇 の歴史的齒車を大きく一つガタリと廻してくれたものといつていゝ

 演説の概要がまとめられるだけでなく、最後に「今議會切つての花形」、「議 會論壇の歴史的齒車を大きく一つガタリと廻してくれた」と最大限の賛辞が 寄せられている点に、斎藤の演説の持つ意義の大きさが示されていると言え よう。

 実際、粛軍演説は、2・26 事件において反乱軍を率いた陸軍の青年将校たち や彼らの精神的、理念的な指導者であった北一輝らは叛乱罪で罪を問われてい るものの、事件の「裏面に於て糸を引いて居る」(21)軍部の首脳の存在の有無 を問うものだった。さらに、軍部による反乱である 2・26 事件を放置すること は立憲君主制や政党内閣制、さらには法治国家としての日本のあり方を根幹 から揺さぶるとして軍部の政治への介入を明確に批判し、2・26 事件に対する 断固とした処置を求めたものだった。それとともに、斎藤は、次のように述べ、

政党政治家や政党が軍部と結託して権力を得ようとする態度を戒めた(22)

若し夫れ軍部以外の政治家にして、或は軍の一部と結託通謀して政治上 の野心を行はんとするが如き者が若しあるならば、是は実に看過すべか らざるものであります。(拍手)苟も立憲政治家たる者は、国民を背景と して正々堂々と民衆の前に立つて、国家の為に公明正大なる所の政治上 の争を為すべきである。裏面に策動して不穏の陰謀を企てる如きは、立 憲政治家として許すべからざることである。況や政治圏外にある所の軍 部の一角と通謀して自己の野心を遂げんとするに至つては、是は政治家 の恥辱であり堕落であり(拍手)、又実に卑怯千万の振舞であるのである。

 そして、1936 年 11 月、軍部による議院制度改革に反対する立場から、斎藤 は粛軍演説の内容を敷衍する形で時事新報の特集「議会政治の本道」に 3 本 の論考を寄稿した。すなわち、「帝国憲法ある限り政党内閣は存続す」(23)、「伊 藤・桂両公すら政党政治に帰着」(24)、「今こそ政党覚醒し政戦を起すべき秋」(25)

(10)

の 3 編を執筆し、一般の読者の注意を喚起したのである。

3. 斎藤隆夫による「議会政治の本道」への寄稿

 本節では、時事新報の特集「議会政治の本道」に寄稿され、現在では目に する機会の乏しい斎藤の論考 3 編の全文を以下に紹介する。

(1)帝國憲法ある限り政黨内閣は存續す(上) 齋藤隆夫

 二・二六事件の直後に成立したる廣田内閣は天下に向つて庶政一新を聲明し 國民に向つてこれが實行を誓約したけれども元來廣田首相を初め閣僚全體は 何れも庶政一新に關する何等の指導精神を有するものでもなければ固より統 一したる具體的經綸を抱いているものでもなく唯當時の突發的情勢に壓迫せ られて已むを得ず準備と確信なき聲明を放送し以て一時を彌縫せるに過ぎな いから爾後七、八か月の間普通一般の政務に沒頭して他は忘れたものの如く庶 政一新の根本に向つてはその片鱗だも示す能はず空しく時日を經過したので ある、然る所が九月末頃軍部方面より行政機構改革を突きつけられて俄に周章 狼狽、その對策に腐心したる結果漸く近頃に及んで各閣僚に命じてこれが研究 に着手するに至りてはその無責任なること實に驚くに堪えた(ママ)る次第であるが、

それよりも更に甚だしきは新聞紙の傳ふる所によれば現閣僚の中には普通選 舉に反對する人があるようである、普選法制定せられてより十有二年、總選 舉を重ねること四回、國民は普く參政權を獲得し國政の運用に益々關心を厚 くしつつある今日に當り立憲政府の首腦部に於いてかりそめにも普通選舉に 反對し國民より參政權を奪い去つた舊時の制限選舉に立ち還らんとするが如 き思想を抱き、しかもその思想の持主が一國の文教を司り青年學徒に向つて 立憲教育を施すべき大責任を有する地位の人なるに至つては實に咄々怪事で はないか、政治に苦勞せず政治に經驗なく憲政に理解なく國民に同情なき人々 の思想には斯くの如きものがある、深く戒めねばならぬ。

 次にまた議會政治の改革に關し軍部方面の提唱として新聞紙に傳へられる 所によれば議會と政府とを各獨立の機關となし議會の向背によつて政府の進 退を決することなからしめこの目的を以て現行制度に根本的の改革を加える

(11)

と同時に政黨法の如きものを制定して政黨は議會において立法及び豫算に協 賛する外内閣を組織して政府の地位に立つことを防止せんとするが如き、一言 以てこれを蔽へば議會政治、政黨政治の否認であるがこれが果して軍部の意 見であるかどうか、兩三日前寺内陸相は右の改革意見なるものは全然陸軍の 關知する所にあらずと聲明せられて居るからこれは一応その言を信用して置 く、併し他の一面において公式に議會改革に關する軍部の意見として現はれ る所を見るに、或は國體觀念を明徴にしわが國固有の憲政確立を希望すると か或は憲法に遵い議會の權限を明確適正にするとかいう文句がある、この文 句そのものについては何人も異論あるべき筈はないが、併しその言う所の國 體觀念を明徴にしわが國固有の憲政を確立するとは抑も如何なることを意味 するのであるか、從來行はれたる憲政は國體觀念に背反しわが國固有のもの に非ずと主張するのであるか、若し左樣なる主張であるならば先ず以てその 點を指摘してこれを明示されるのでなければ是非の議論は加へられない、な ほまた憲法に遵ひ議會の權限を明確適正にするとは如何なる點を明確適正に せんとするのであるか、從來議會の行ひ來りたる權限は憲法の章條と相容れ ざるものありと主張するのであるか、これ亦何等具體的に指示したるものが ないから暫く論評を控へて置くが、何れにするも同一政府の首腦部において 普通選舉反對をはじめとして憲政運用の根本方針について柄鑿相容れざる思 想が暗々裏に對立してゐることは爭はれない事實であつて内閣は既に精神的 に分裂しているのである、斯くの如き内閣の組織を以て今後果して立法、行政、

司法の諸機關に向つて統一ある根本的の改革を加へ、併せてその運用を完う して以て所謂庶政一新の實を舉げることが出來るであらうか、恐らくは何人 と雖もこれを期待するものはないであらう。

 之は兔も角として一體憲政の實施以來近く五十年を迎へんとする今日の時 代に當りて議會政治或は政黨政治の否認などといふことは眞面目に論ぜられ るであらうか、議會政治は即ち政黨政治であり政黨政治は即ち政黨内閣を意味 するのであるが、假令近年一部の間において反動思想が擡頭して動もすれば ファッショやナチスを夢想する輕率無思慮のものありとするも苟くも帝國憲 法の儼存する限りは未來永久わが國においては政黨内閣否認という如きこと は政治論としては暫く措き憲法論としては斷じて許すべからざる議論である、

(12)

往年政黨と官僚と相爭ひたる當時において政黨内閣は憲法上より見て大權を 干犯し憲法違反であるといふ議論が唱へられたことがある、これは政黨内閣に 反對する官僚一派の議論であつてその言ふ所を聽けば政黨内閣は政黨政治家 が國務大臣に任命せられて内閣を組織するものであるがわが憲法上天皇は文 武官任命の大權を握つて居らるるに拘らず政黨政治家にあらざれば國務大臣 に任命せらるること能わずとする政黨内閣主義は大權發動の自由を拘束する ものであるといふのであるが、これは根本的に謬りたる議論であつて、政黨内 閣主義は決して政黨政治家にあらざれば内閣を組織する能わずと主張するも のではなく、またわが憲法上より見て斯くの如き議論が唱えられる理由はな い、即ち天皇は文武官任命の大權を握つて居られる以上は如何なる場合にお いても、國務大臣として政黨員を任命せられるも非政黨員を任命せられるも、

全然天皇の自由であつてこの自由に向い何者も立入ることの出來ないのは無 論である、唯立憲治下における政界の情勢に照らして國民的代表者たる政黨 政治家を以て内閣を組織せしめることが國政運用上最も利益であると思召さ れてこれを任命せられるに至つて大權干犯などという議論の起る餘地はない、

大權干犯と言う以上その間に大權行使の自由を拘束する何ものかがあらねば ならぬ、即ち天皇の自由を犯して聖意にあらざるものを以て内閣を組織せし めるが如き反逆行爲があらねばならぬが、斯くの如きことが起り得べき筈な く況や政黨内閣はかかる事情の下に現はれるものでない以上は大權干犯論が 起る餘地がないではないか、畢竟するに斯くの如き議論は官僚が自己の實力 に據らずして自己の權勢を維持せんがために名を大權に藉りて政黨政治を否 認せんとする陰謀に出でたるものであつて、憲法上より見れば一顧の價値が ないのみならず反つて政黨内閣を否認し政黨政治家を國務大臣に任命すべか らずと主張する彼等の議論こそ最も明白に大權の自由を拘束せんとする違憲 の甚だしきものであることを悟らねばならぬ。(續く)

(2)伊藤・桂兩公すら政黨政治に歸着(中) 齋藤隆夫

 斯くの如き次第であつて政黨内閣論は憲法上の問題にあらずして全く憲政 運用に關する問題である憲政運用の上から見れば政黨内閣は必至の理であり 且勢ひであるから憲法を廢棄し立憲政治と絶縁して專制政治に逆轉せざる以

(13)

上は早晩政黨内閣に復歸すること毫も疑うべき餘地はない、若しこれを疑はし く思へば先ず試みに政黨を無視して内閣を組織したりとせよ、議會において政 黨の反對に遭へば如何にするか、政府は政府の政策を是なりと信じ政黨がこ れに反對するは過りなりと主張するに相違ないが政黨より見れば政府の政策 は非にしてこれに反對するは國家のため當然の道なりと主張するに相違ない、

この兩者の爭ひは何ものが判斷するかといふにこれを判斷するものは國民で あつて議會を設けて萬機公論に決するはこの趣旨に外ならず、茲において議 會の解散が起る、言ふまでもなく議會の解散は國民に向ひ政治上の裁判を求 むる手段である、政府の主張是なるか、政黨の主張是なるか總選舉によつて これを決す、而して總選舉の結果政府が敗れたりとせば如何にするか、この 場合においても政府はなほ獨善主義を固執して政府の主張是なりと頑張るこ とを得るが若しそれ頑張りて再び議會を解散するが如きことがあるならば總 選舉は全く無意味となり萬機公論の趣旨は沒却せられて立憲政治は茲に終焉 を告ぐるのである、然らば時の内閣は辭職して更に他の内閣現はれたとせよ、

同じ政爭が繰返されるに過ぎずして政策の實現は斷じて望むことは出來ない、

茲において憲政の運用を圓滿ならしめ、政策の徹底を圖らんと欲せば政黨自 ら内閣を組織して政局にあるより外に決して履むべき道はない、政黨内閣は 憲政の常道にして必至の勢ひなりといふは全くこの意味に外ならず、曾て官 僚の頭目たりし故伊藤公や軍人の頭目たりし故桂公が屡政局の表面に立ち官 僚軍閥の獨善主義に立てこもらんとして成らず自ら得たる經驗により遂に進 んで政黨を組織するに至りたるは全くこの間の事情を物語るものであつて兩 公の足許にも及ばざる後進未熟の徒は退いて深く考ふべきである

 併し茲に最も注意を要する一事がある、斯くの如く政黨内閣は憲政必至の 理であり且つ常道であるとはいふもののこれは一の道理であつてこの道理が 實際行はれるか行われないかはまた別に考へねばならぬ、言うまでもなく政 界は勢力の競爭であり勢力によつて支配されるものであるから政黨の勢力が 強ければ政黨内閣が興り、弱ければ他の内閣が興る、これは已むを得ないこ とである、例へばある事情によつて文武官僚の内閣が現はれたりと假定せよ、

政黨はこれと對戰する自主獨立の主張もなければ勇氣もなく反つてこれに迎 合するが如き場合には政黨内閣興らざるは無論のこと、假にこれと對戰する

(14)

も議會の解散等を懼れて遂に政府に屈服するが如き、政黨の基礎薄弱にして 且無氣力なる場合においては政黨内閣は決して興るものではない、何故なら ば前述せる如く政黨は勢力の競爭である以上は勢力の強いものが政權を握り 弱きものが驅逐せられるは當然である、然れども一歩進んで政黨の基礎強固 となり如何なる内閣も政黨を無視して國政を運用する能はざるに至れば嫌で も何でも政黨内閣は興らざるを得ない、斯くの如き次第であるから立憲政治 の下において政黨内閣は當然の歸結ではあるけれどもこれに達するためには 先ず以て政黨自身の基礎を強固にしてその勢力を養はねばならぬ、これを省 みずして徒らに憲政常道論を唱えて他の内閣を攻撃するも畢竟弱者の泣言と して世の嘲けりを招くのみである、これを要するに政黨内閣は憲政の常道な れども立憲治下の内閣は必ずしも政黨内閣に限る譯ではない、政黨内閣が興 るか興らないかは全く政界諸般の情勢によつて定まるものなれどもその最も 主なる條件は政黨自身の勢力である、故に政黨内閣の復歸を望むならば先ず 以て政黨に對する國民の信任を向上し政黨の基礎を強固にし以て變態内閣成 立の餘地なからしむることが肝要であつてこの準備と根柢なくして徒らに政 黨内閣を唱うるも結局無用の議論に終ることは必然である、今日の政黨には この準備と根底あるか

(3)今こそ政黨覺醒し政戰を起すべき秋(下) 齋藤隆夫

 五・一五事件が動機となつて政黨内閣中斷せられて變態内閣が起り政黨勢 力の衰退に反比例して軍部の勢力が擡頭し日に月に増長して遂には軍部本來 の領域を超越し國政全般に干渉するの傾向を現はすに至つたことは近時の趨 勢とは言ひながら國家憲政の大局より觀て大いに憂ふべき現象である

 固より我輩は今日に及んで軍人の政治干渉を論議せんとするものではなく これを論議するには自ら他に適當の機會がある、然れ共今日の大勢を以て進ん で歇むことを知らざれば、わが國における政治上の實權は全然軍部の掌中に歸 し、憲政の破壞はいふに及ばず、遂には武斷專制の弊に陷るは火を睹るよりも 明かである、さなきだに最近數年間我が國の政治を動かすものは何者であるか と見れば、政府にあらず、議會にあらず、政黨にあらずして實に軍部であつて 軍部の主張は殆ど貫徹せざるものなく政府も議會も政黨も、軍部の前には戰々

(15)

兢々としてその意見に逆はざらんことを恐るるの有樣である

 由來抵抗なき勢力は奔馳して歇む所を知らず、今回軍部の名を以て議會政治 の否認を宣傳するが如き、假令陸相これを關知せずと辯明するも正しくこの間 の事情を物語るものであつて、敢て怪しむに足るものはない、然れども退い て考ふれば、苟くも今日の時代に當りしかも軍部の名を以て斯くの如き宣傳 をなすことが軍部自身に利益であるか不利益であるかと問へば、何人も百害 あつて一利なしと答へるに相違ない、何となれば議會政治の否認は即ち國民 的代表者たる政黨政治家を政權の領域より驅逐せんとするものであつて、明 かに國民大衆に對する挑戰行爲であることは爭はれない、廣義國防を提唱し、

國民總動員を主張する軍部において、國民的代表者を政權より驅逐するが如き 言辭を弄し、國民的反感を刺激して何れの所に廣義國防、何れの所に國民總 動員の實を舉げることが出來るか若し軍部に一人の智者あり靜かに國民心理 の趨く所を考えたならば斯くの如き輕率なる言動は斷じてなさないであらう  更に飜つて最近軍部の勢力を増長せしめたる責任は何れに在るか、曰く政黨 ではないか、今日帝國内外の情勢を達觀すれば國運は駸々と進歩の一途を辿 りつつあるが如く見ゆるも、進歩の裏にはまた大なる危險の伏在するを悟ら ねばならぬ、この内外重大なる時局に際會して帝國の運命を背負つて立つも のは抑も何者であるか、國防のことは軍部に委すべし、然れども國政全般を 委すべからず、官僚の如きは論ずるに足らず、殘るものは政黨より外にはない、

即ち國民の直接選舉に依り國民代表の大任を負つて立つ所の政黨が眞面目に なり眞劍になつて國家を指導するに非ざれば、他に國家を託するに足るべき 何ものもなく、これが即ち憲政の本義であると同時に政黨はその實力を握つ ているのではないか、見よ、苟くも今日の政治組織の下において議會の存す る限りは軍部官僚その他如何なる政府と雖も議會の協賛を得ざれば一厘の國 費を使ひ、一條の法律を作ることは出( マ マ )ない、而してその議會は全く政黨によ つて占領せられているのではないか、斯くの如く絶大なる實力を握りながら 何故政黨はこの實權を發揮し國家指導の任に當ることが出來ないのであるか  近來政黨の更生が唱へられ、失墜したる政黨の信用を恢復せんがために議 會制度や選舉法等を改正して以てこれに資せんとするものあるが、我が輩の 見る所に依れば全然方向を謬まつている、政黨の更生は法規の改正によつて

(16)

得られるものではない、政黨更生の道は外に在らずして内に在り、即ち全國 の黨員相戒めて過去における政黨の弊害を根柢より芟除すべきは無論のこと、

更に進んで飽くまでも自主獨立の見地に立ち、徹頭徹尾國家のために政黨本來 の使命を完うする所に存するのであつて、この以外に政黨の更生すべき何もの もなく、法規制度の改正の如きは抑も末の末のものである、顧れば今春の總 選舉に當りてわが國民は政民兩黨に對し約一千萬の投票を與へてゐる、何が 故であるか、國民に代つて國家指導の大任に當らせたい、この目的に外ならず、

況や、過去において政黨政治の長所短所を實驗したるわが國民は其後四箇年有 餘に亙る變態政治の下に文武官僚の横暴跋扈に悲憤の涙を絞り、寧ろ政黨政治 を迎へんとするの氣運は中央地方を通じ澎湃として吾人の目前に迫りつつあ るのである、この秋に當つて政黨自ら覺醒奮起して國家のために政戰を開始 するに至れば全國民は舉つてこれを後援すべく若しまた依然として昏睡状態 に一日の易きを貪ることあらば國民は彌々政黨を見限るとともに文武官僚は 益々勢力を得て、土足の下に政黨を蹂躪し政黨は遂に自滅のほか行くべき道は ない、全國民よ公等若し文武官僚の跋扈を咎めんと欲するならば、その以前 に先ず以て公等の代表者たる政黨を咎めよ若しまた一部の議會政治否認を責 めんと欲するならば、その以前に先ず以て公等の選出せる政黨政治家を責め よ、同時に憲政に對する最後の責任は國民自身の雙肩にあることを悟られよ、

人を責むるよりも先ず己れを責めよ、これが僞りなきわが輩の告白である

(此項終り)

4. 「議会政治の本道」への寄稿論文が示す軍部の政治関与への批判の 論理と国民への信頼

 「帝國憲法ある限り政黨内閣は存續す」において、斎藤は「庶政一新」を掲 げながら何ら具体的な方針を示さない広田内閣の姿勢を「當時の突發的情勢に 壓迫」されたと指摘する。また、広田内閣の閣僚による普通選挙の制限や軍 部による政党法制定の動きを批判し、大日本帝国憲法が存在する限り憲法論 として政党内閣否認は決して許されないことを確認する。さらに、軍部の政 党内閣主義は天皇が統治権を発動する自由を拘束するという主張についても、

(17)

むしろ政党内閣を否認し、政党政治家を国務大臣に任命してはならないとい う主張こそが天皇の統治権の行使を拘束する「違憲の甚だしきもの」だとする。

 次に、「伊藤・桂兩公すら政黨政治に歸着」では、まず「政黨内閣論は憲法 上の問題にあらずして全く憲政運用に關する問題である」とした上で、憲政の 運用の観点からは政党内閣が組織されるのは当然のことであり、憲法を廃止し て専制政治に戻る以外に政党内閣の復活が妨げられる可能性はないとされる。

さらに、政府と政党の関係について、政党が政府に反対すれば政府は議会を 解散して国民に信を問うことが出来ること、「官僚の頭目」であった伊藤博文 や桂太郎も自らの経験から進んで政党を組織したことが強調され、政党内閣 の必然性が指摘される。その一方で、政党側にも、ただ憲政常道論を唱えて 内閣を攻撃するだけでは不十分で、政党自身が基礎を強固にして勢力を養い、

国民の信任を向上させることこそが、政党によらない「變態内閣」の出現を 阻止する最も有効な方法であるとされる。

 そして、第 3 編の「今こそ政黨覺醒し政戰を起すべき秋」では、5・15 事件 を契機として政党内閣が中断したことを「近時の趨勢」としつつ、「國家憲政 の大局より觀て大いに憂うべき現象である」と現状が分析される。そして、過 去数年間の状況に照らし合わせて日本の政治が政府や議会、あるいは政党で はなく軍部によって動かされていると指摘される。その一方で、議会政治の 否認は国民の代表者である政党政治家を国政から排除する、国民に対する明 らかな挑戦であり、国民の総動員を主張する軍部にとっては「輕率なる言動」

であると批判される。しかし、議会の協賛がなければ軍部官僚は国費を使い、

法律を制定することが出来ないことを考えるなら、軍部の勢力の増長を許し たのは他ならぬ政党自身であるとされる。そして、政党は自主独立の見地か ら国民の負託に応えなければならず、しかも「憲政に對する最後の責任は國 民自身の雙肩にある」として、政党と政党政治家だけでなく、国民にも自覚 を持つことが促されている。

 以上のような議論において、特にわれわれの注意を喚起するのは、大日本 帝国憲法に従えば政党内閣が組織されるのは当然であり、天皇による統治権 の行使を阻害しないばかりか、政党政治家を国務大臣に任命することを否定 することは天皇の大権を妨げる違憲の行為であるというように、斎藤が憲法

(18)

の規定に基づいて政党内閣を擁護し、さらに実際の憲政の運用の点からも政 党内閣の必然性を主張していることである。

 一貫して憲法に依拠しながら政党政治の正当性が強調されるのは、東京専門 学校において法学を学び、「特ニ憲法ニ於テ意ヲ注」(26)ぐだけでなく、「憲法 政治を完成」(27)させようと多年にわたって努力してきた斎藤にとって、当然 のことであったと言えよう。また「政府當局者も議員も、驚くべく憲法上の知 識が未熟である」(28)現状に鑑みれば、政党内閣は憲法の法理の問題ではなく 運用の問題であり、政党内閣は憲法の規定に反し、天皇の大権を侵害するとい う議論が法理上の根拠を欠くという持論(29)が改めて示されたことも無理から ぬことであった。しかも、政党が未熟であり、国政を託すに値しない時代にあっ ては官僚内閣が出現するのは当然ながら、憲法の規定からも国体からも政党 内閣の出現は促進されるべきであって否定される理由はないとする斎藤(30)に とって、政党内閣が定着を見せたにもかかわらず、軍部が公然と政党内閣の 不要を唱えたことは許されないことと言えよう。

 これに加えて、第 3 編「今こそ政黨覺醒し政戰を起すべき秋」において「全 國民よ」と国民に向ける形で事態を直視し、軍部の政治への介入と政党政治の 危機に主体的に取り組むことを訴えている点も重要と言えよう。斎藤の名前を 一躍高からしめた粛軍演説は、帝国議会での演説という性格からも、斎藤が「全 国民に代つて」(31)広田内閣、特に陸軍大臣の寺内寿一に質問したものであった。

一方、「議会政治の本道」の 3 編の論考は、時事新報に掲載されたことが示す ように、読者を対象とするものであった。そのため、斎藤は読者である一人ひ とりの国民に対して、何故軍部の政治への関与が許されないのか、何故政党政 治や議会政治が擁護されなければならないのか、何故軍部が台頭しているの か、といった基本的な事項を所説に従って説明しつつ、官僚の跋扈が許せない のであれば政党の奮起を促し、政党政治を否認する動きがあるならそのような 動きを許す政党政治家の責任を問うことを求め、しかも事態の打開は最終的に 国民の双肩にかかっていると説くのである。こうした意見は、一見すると理想 主義的であるし、現実をわきまえないという意味で書生論の域を出ないと言 えるかも知れない。だが、非公選の貴族院と異なり、有権者の投ずる一票によっ て当落が決まる衆議院に議席を持つ斎藤にとって、一人ひとりの有権者は信

(19)

ずるに足るものであり、有権者とその背後に控える一人ひとりの国民が団結 すれば、たとえいかなる難題が生ずるとしても事態を打開し、日本をより良 い方向へ導くことが可能であるとする信念があったと言うべきだろう。

おわりに

 このように、斎藤隆夫はそれまでの所説を集大成する形で「議会政治の本 道」の 3 編の論考を寄せ、国民が政党政治と議会政治を擁護のために奮起する ことを促した。しかし、その後の日本の政治的な状況は、斎藤の期待とは異な る方向を歩むことになる。1937(昭和 12)年 1 月に広田内閣が立憲政友会所 属の衆議院議員である浜田国松と寺内寿一陸相との間で行われたいわゆる「腹 切り問答」(32)によって総辞職すると、2 月に元陸相の林銑十郎に大命が降下し、

新内閣が発足した。軍関係者、貴院、衆院親軍派が入閣した林内閣は総選挙を 行うものの惨敗して退陣し、6 月には近衛文麿が組閣した。しかし、新内閣の 発足から 33 日後の 7 月 7 日に起きた盧溝橋事件を契機として日本と中華民国 は事実上の全面戦争に突入する。その後も事態の収束が見通せない中、近衛の 後を平沼騏一郎、阿部信行が襲い、1940(昭和 15)年 1 月 16 日には米内光政 内閣が発足した。そして、2 月 2 日に斎藤は米内内閣の支那事変への対応を問 う「支那事変処理に関する質問演説」、いわゆる反軍演説を行うものの、内容 が反軍的であるとして軍部や親軍的な諸政党、さらに事態を穏便に収集したい 立憲民政党首脳部の意向もあり、3 月 7 日に衆議院を除名されることになる。

 一方、1931(昭和 6)年 9 月 18 日の柳条湖事件に端を発する満州事変を受け、

1933(昭和 8)年に国際連盟からの脱退を通告したことは、英仏伊独 4 か国と ともに常任理事国としての指導的な立場を放棄するだけでなく、日本が国際 社会から孤立する過程の第一歩であった。その後、日本も他国も状況の打開 を目指す試みを行ったものの、1941(昭和 16)年 12 月 8 日に日本が米英両国 と戦端を開いたこと、そして最終的に 12 月 12 日に東条英機内閣が「今次ノ対 米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ 含メ大東亜戦争ト呼称ス」(33)、すなわち、今後米英との戦争及びこれに付随 して生じる戦争を 1937 年に始まった支那事変も含めて大東亜戦争と呼ぶと閣

(20)

議決定してから 3 年 8 か月後の 1945(昭和 20)年 8 月 14 日に連合国によるポ ツダム宣言を受諾し、9 月 2 日に降伏文書に調印した経緯は周知の通りである。

 このように見れば、新聞紙上において国民の奮起を求めた斎藤の試みは水泡 に帰したと言えるだろう。それでは、何故、斎藤の試みは失敗したのだろうか。

軍部、特に陸軍が自らの存在をあたかも不敗であるかのごとく宣伝する一方 で、1938(昭和 13)年に国家総動員法が制定されたことで戦時体制が法的に 導入されたことは、われわれに、どれほど斎藤が世論を喚起しようとしても 時流を改めることが難しかったであろうと推察させる。また、斎藤が憲法論 の面からも実践活動の面からも重要性を擁護した政党が、近衛文麿を盟主と する新体制運動の進展によって自ら進んで解党し、1940(昭和 15)年 10 月 12 日に一国一党を目指す大政翼賛会の結成によって名実ともに政党政治が終焉 したことは、斎藤にとって痛手であった。「昭和十五年は不愉快の間に過ぎ去 り」(34)という一文は、衆議院を除名された後、雪辱を期すために総選挙の実 施を待ち望んでいた当時の斎藤にとって、偽らざる心境であったと言えるだ ろう。

 1945 年 8 月 15 日、ポツダム宣言を受託したことを告げる天皇の終戦の勅命 が下された。敗戦を受けた斎藤は「やるべからざる戦争をやつて大敗を招い た」、「日本が突飛なる侵略主義を抑制して、一歩々々と堅実に進んで行つたな らば日本はまだまだ伸びるべき運命を有し、日本の前途は極めて輝かしいもの があつたに相違ない」、あるいは「軍人の政治干渉は国家の大局より見て許す べからざるものである」(35)と事態を分析する。それとともに、「若し万一此 の敗戦に依つて国民が失望落胆して気力を喪失したる時は其の時こそ国家の 亡ぶる時である。それ故に日本国民は茲に留意し新たに勇気を取り直して旧 日本に別れを告ぐるゝと同時に新日本の建設に向かつて邁進せねばならぬ」(36)

と、国民が失望落胆することなく、戦後の新しい日本の建設に向けて邁進する ことを期待する。この点で、斎藤は「議会政治の本道」に掲載された 3 編の論 考と同様に、戦争を経た後も、国民への信頼をなくすことはなかったのである。

謝辞

 本論の執筆に際し、国立国会図書館及び法政大学市ヶ谷図書館より資料閲

(21)

覧の便を供された。記して謝する次第である。

(1) 伊藤隆「宇垣一成の外交政策論――昭和十五年を中心に――」『史学雑誌』第 94 巻第 1 号、1985 年、71 頁。

(2) 有馬学「戦争のパラダイム――斎藤隆夫のいわゆる「反軍」演説の意味――」『比 較社会文化」第 1 巻、1995 年、1-9 頁。

(3) 出原政雄「斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論」『同志社法学』第 63 巻第 1 号、

2011 年、153-180 頁。

(4) 本庄繁『本庄日記』普及版、原書房、2005 年、284 頁。

(5) 芦田均(福永文夫、下河辺元春編)『芦田均日記 一九〇五-一九四五』第 3 巻、

柏書房、2012 年、768 頁。

(6) 村井良太『政党内閣制の展開と崩壊 一九二七~三六年』有斐閣、2014、372 頁。

(7) 村井良太『政党内閣制の成立 一九一八~二七年』有斐閣、2005 年、1 頁。

(8) 米山忠寛『昭和立憲制の再建 1932 ~ 1945 年』千倉書房、2015 年、37 頁。

(9) 同上。

(10) 「貴院の機能改変」、東京朝日新聞、1936 年 10 月 30 日朝刊 2 面。

(11) 同上。

(12) 米山、前掲同所。

(13) 貴族院における美濃部達吉の演説及び天皇機関説の問題、さらに国体明徴運動の 持つ意味については、次の文献を参照せよ。参照、米山、前掲書、66-76 頁。

(14) 米山、前掲書、75 頁。

(15) 井田輝敏『上杉慎吉 天皇制国家の弁証』三嶺書房、1989 年、26 頁。

(16) 上杉慎吉編『穂積八束博士論文集』上杉慎吉、1913 年、865 頁。

(17) 美濃部達吉『憲法撮要』改訂第五版、有斐閣、1932 年、59 頁。

(18) 東京朝日新聞、前掲同所。

(19) 「議会政治否認せず」、東京朝日新聞、1936 年 11 月 3 日朝刊 2 面。

(20) 「稀に見る大論陣 齋藤氏の氣魄」、東京朝日新聞、1936 年 5 月 14 日朝刊 2 面。

(21) 「粛軍に関する演説」、齋藤隆夫『齋藤隆夫政治論集』齋藤隆夫先生顕彰会、1961 年、

289 頁。なお、以下では『齋藤隆夫政治論集』は『政治論集』と略す。

(22) 齋藤、前掲書、291 頁。

(23) 齋藤隆夫「帝国憲法ある限り政党内閣は存続す」時事新報、1936 年 11 月 9 日 2 面。

(24) 齋藤隆夫「伊藤・桂両公すら政党政治に帰着」時事新報、1936 年 11 月 10 日 2 面。

(25) 齋藤隆夫「今こそ政党覚醒し政戦を起すべき秋」時事新報、1936 年 11 月 11 日 2 面。

(26) 齋藤隆夫『帝国憲法論』私家版、1901 年、14 頁。

(27) 斎藤隆夫『回顧七十年』改版、中央公論新社、2014 年、166 頁。

(28) 齋藤隆夫『憲法及政治論集』渓南書院、1915 年、6 頁。

(29) 齋藤、前掲書、19 頁。

(30) 齋藤、前掲書、20-21 頁。

(31) 斎藤、『政治論集』、292 頁。

(32) 粟屋憲太郎『昭和の政党』岩波書店、2007 年、254 頁。

(33) 内閣制度百年史編纂委員会編『内閣制度百年史』下巻、大蔵省印刷局、1985 年、

242 頁。

(34) 斎藤、『回顧七十年』、153 頁。

(35) 斎藤、『政治論集』、262-263 頁。

(36) 齋藤、前掲書、270 頁。

(22)

<ABSTRACT>

Saito Takao and His Advocacy in Parliamentary Politics:

Focusing on Distributed Articles to the Jiji Shimpo’s Sepecial Issue “The Right Way of Parliamentary Politics”.

S

UZUMURA

Yusuke

Saito Takao (斎藤隆夫, 1870-1949), who is a well-known statesperson from the Taisho Period to 1949, won 13 times in the General Election of the House of Representative since 1912. Keeping the seat Saito was appointed as the Parliamentary Vice-Minister of the Home Ministry in the Hamaguchi Cabinet, the Director-General of the Legislation Bureau of the 2nd Wakatsuki Reijiro Cabinet, a Minister of the 1st Yoshida Cabinet formed in 1946 and a Minister of the Katayama Tetsu Cabinet. He took an active role in the front line of the political world and had passed away in 1949.

One of the most remarkable achievement of Saito is two speeches at the Diet: “An Interpellation on a Purge of Army” (粛軍に関する質問演説) in 1936 and “An Interpellation on Handling the Second Sino-Japanese War” (支那事変処理に関する質問演説) in 1940. In the former Siato criticized the governmentʼs attitude to the 26th February 1936 Incident and in the latter he denounced measures taken by the government. However, there is no study on Saitoʼs three articles contributed to the special issue “The Right Way of Parliamentary Politics” (議会政治の本道) published in the Jiji Shimpo in November 1936.

In this paper, we examined the three discussions published in “The Right Way of Parliamentary Politics” and discussed Saito's comment on military intervention in politics and his trust in the people. In this way, we demonstrated that Saitoʼs defense parliamentary politics in terms of the

(23)

provisions and practical use of the Constitution of the Empire of Japan and his belief that each people might effectively prevent effectively military intervention in politics.

参照

関連したドキュメント

1)研究の背景、研究目的

和歌山県臨床心理士会会長、日本臨床心理士会代議員、日本心理臨床学会代議員、日本子どもの虐

people with huge social costs which have not been satisfactorily mitigated by social policy in.. : Social costs of

第四。政治上の民本主義。自己が自己を統治することは、すべての人の権利である

Right Copyright © 日本国際政治学会 The Japan Association of International

Minimum rank, Symmetric matrix, Finite field, Projective geometry, Polarity graph, Bilinear symmetric form.. AMS

• Informal discussion meetings shall be held with Nippon Kaiji Kyokai (NK) to exchange information and opinions regarding classification, both domestic and international affairs

“Indian Camp” has been generally sought in the author’s experience in the Greco- Turkish War: Nick Adams, the implied author and the semi-autobiographical pro- tagonist of the series