V ま とめ
1.条 坊 復原 と坪 内区画施 設
今 回 の調査 で は、条坊 遺構 と して九条 条 間路 お よび十 。十 五坪 坪 境 小 路 を検 出 し、また、
十坪 内部 を区画 す る と考 え られ る施 設 と して道路
3条
、東 西塀4条
、 お よび東 西濤1条
を 検 出 した。 これ らの遺構 と東 堀 河 をは じめ本 調査 区周辺 の条坊 関連 発 掘 調査 成 果 を も とに、十坪 を画 す条坊路 を推 定 復原 し、 十坪 内 にお け る今 回 の調査 区 の位 置 を確 認 す る。 さ らに、
検 出 した坪 内 区画施 設 と考 え られ る遺構 が十坪 内 に 占め る位 置 、 お よ び これ らによ って区 画 され る十坪 の宅地 割 を検 討 した い。
A.条
坊 復 原 (ag.30)九条条間路の復原
九条 条 間路 につ いては、今 回の南調査 区西隣 りの水 田 (現 在 は埋 め られ駐 車場1と化 す
)に
お い て1982年 に当研 究所 が行 った調査 で南耳ヒ両側濤 を検 出 し、道路 心位 置 (fi g.30A点)と、 幅員8.5mが
判 明 して い る。今 回 の調査 で は北 イ貝1濤 は検 出 した もの の南側濤 は調査 区外 で あ り、今回調査 の発掘 遺構 のみ か ら道路心 を求 め る ことがで きない。i九条条間路 日
日 μ 柱 H
43
そ こで今 回 の調査地 におけ る幅員 も
8.5mで
あ る と仮定 し、道路心 を求 めた(B点
)。 以上 の2点
の座 標 をもとに九条条 間路 の国土座 標 系 に対す る振 れ を算 出 す る とWO°19′32″S(国
土座 標 系 に対 し、西 で南へ0°19′32″振 れ る とい う意。以下同 じ。
)で
あ る。 この振 れ と幅員8.5mに
よ り、九条条 間路 を復原 した。十 。十五 坪 坪境小 路の復原
十・十 五坪 坪 境 小 路 は今 回の調査 で東西両側濤 を検 出 し、道路 心
(C点
)を確認 す る とともに、今 回調査地 におけ る幅貝 が両側濤心心 間距離5.54mで
あ る ことが半」明 した。 この小路 の南】し延 長 上 にあ る と考 え られ る小路 の位 置 は、 これ まで に
4地
点 で確 認 されてい る。 この うち今 回 の調査地 に最 も近 い地点 は1982年 に奈 良市 が行 った東
(註 ■)
市跡 第
3次
調査地 で あ る。左京 八条 三坊 十一 。十四坪 間 にあた り、 今回調査地 の北416.4mに
位 置 す る。 ここで も東西 両側濤 を検 出 し、道路 心(X=148,950.00,Y=‑17,107.68)
と幅 員
7.Omを
確認 して い る。この2地
点 か ら求 めた小路 の振 れはNO°27′05″Wで
あ る。幅 員 は5.54mと 7.Omで
あ り、2地
点 間 で異 な るが、 これ までの平城 京 におけ る小 路 の発掘 調 査 成 果 を勘案 す ると、本来 の幅 員 は両側濤 心心 間距離20尺 (5.92m、1尺 =0.296m)で
あっ た と考 え られ る。振 れ と20尺 の幅 員 に よって、十坪 の東辺 は復原 で きた。十坪 北辺 お よび西辺小 路の復 原
十坪 の南辺 と東辺 は復原 で きた が、残 るは耳ヒ辺 と西辺 で あ る。以下 の よ うに復原 した。 まず、九条条 間路 と十・十五坪坪境 小路 それ ぞ れの中心線 の交点座 標 を求 め る(ag。 30イ点)。
この交点 を原点 と し、東西方 向 は九条条 間路 の振 れ
(W
O° 19/32″ S)、 南北方向は十 。十五坪 坪境小路 の振 れ(NO° 27′05″
W)を
用 い、坪 の1辺 ‑450
尺 、
1尺 =0.296mと
仮 定 し、残 る3隅
の交点座標 を求 めた。結果 がtab.2で
あ る。(註
11)①
左京二条三坊十一 。十四坪坪境小路奈良国立文化財研究所『昭和49年度
平城宮跡発掘調査部
発掘調査概報』1975
②左京四条三坊九・十六坪坪境小路
奈良市教育委員会『奈良市埋蔵文化財調査報告書
昭和57年度』1983
③左京八条三坊九・十六坪坪境小路
奈良県教育委員会『平城京八条三坊発掘調査概報』1976
④左京八条三坊十一 。十四坪坪境小路
奈良市教育委員会『平城京東市跡推定地の調査 』11983
点 名 位
置置
X座
標値Y座
標値 備 考A
B C D
イ ロ
九条条間路心 同上
推定心 十・十五坪坪境小路心 東堀河′b
条坊路 交点 同上 同上 同上
―‑149,474.55
‑‑149,474 35
‑149,366 40
‑149,474.50
‑149,474.08
‑149,340,89
‑149,341.65
‑‑149,474.84
‑17
‑17
‑17
‑17
‑17
‑17
‑17
‑17
t85.50 150.30 [04.40 [71 60 [03 55 [04 60 337.80 を36.75
「平城 求東堀河」左 末九条三坊 の発掘調査 1983年
奈良国立文化財研究所編 今回調査 の北イ貝」濤心 よ り求めた推 定値 今回調査成果
A点と同 じ
fig.
同上 同上 同上
tab.2 +坪
復原座 標東 堀河 の復 原
東堀 河 は十坪 中央部 を南北 に流 れ、十坪 を東 西 に
2分
して い るか ら、十 坪 の宅地割 を考 える上 で重要 な意味 をもつ。 した が って、十坪 内 におけ る東堀河 を復原 する必要 が あ る。
東堀 河 は これ まで に
4地
点 で遺構 を確 認 して い る。北 か ら順 にI、 Ⅱ、 Ⅲ、 Ⅳ地点 と し、概 要 を述 べ る。
I地
点 は1983年 に奈 良市 が行 った調査地 で 、左 京 六条 三 坊 十坪 にあた る。 東堀 河 の東岸 を17m検
出 した が、西 岸 は調査地 外 で あ り、確 認 で きな か った。 した が って、 こ こでの東 堀 河 の 中心 は推 定 に とどまった。Ⅱ地 点 は東堀 河 を発掘 調査 によって初 めて確認 した調査 地 で、左京 八条 三坊九坪 にあた る。1975年 の 当研 究所 によ る調査 で東西両岸 を検 出 し、 中心位置 をつ かむ とともに、東堀 河 が開削 当初 は幅10m、 深 さ
1.4mの
素掘 りの堀 で あ った と推 定 した。1荘 13)
Ⅲ地点は奈良市 による東市跡第
4次
調査地(1983年 )で、左京八条三坊十一坪 の北辺部 に あた る。八条条 間路 と東堀河 が交叉す る部分 を発掘 し、堀河 の西岸の一部 、東岸 および/k・条条間路 が東堀河 を渡 る本橋 を検出 した。 この本橋 の東西の中心が東堀河の中心 に合致 し ていた と考 えると、橋心 か ら東堀河心 を押 えることがで きる。本橋 は
2回
の架替 えがある が、当初 の橋(8世
紀後半 に属す)の橋脚 から橋心(X=‑148,941.35、 Y=‑17,174.30)を
求めた。 また、 ここでの東堀河の本来の幅は11〜 12m、 深 さは2m前
後であつた と推定 し た。Ⅳ地点は今回の南調査 区西隣 りの水田である。 ここでは東堀河の西岸 およびIⅢ地点 と同 様 に条間路 が東堀河 を渡 る位置 に架 けられた木橋 を検出 した。 Ⅱ地点 と同 じく橋心
(D点
)を東堀河心 とし、座標値 を求めた。 また、本来の幅は1l m、 深 さは
2m程
度であった と推 定 した。以上の知見 を総合す ると、八〜九条付近 における東堀河 の規模 は幅11〜 12m、 深 さ
2m
程度 と考 えられ る。 また、中心線 の振 れをⅢ、Ⅳ地点の座標値 か ら求めるとNO°1025″
Wと
なる。以上の作業 によって復原で きた十坪四周の条坊路 と東堀河 を図上 に展開 し、 これに今回 の調査 区および1982年の東堀河調査の調査区 を重 ねた図がfig.30である。
B。 坪 内 区画施 設 (ag.30)
つ ぎに十坪 内 における坪内区画施設の占め る位置の検討 を行 うが、 その前 に平城京内の 宅地割 と坪内区画施設 につ いて概観 してお く。平城京の宅地割 と坪内区画施設 との関係 に つ いては、1984年に当研究所 が行 った左京三条二坊三坪 の発掘調査報告の中で検討が加 え
(註 15)
(註
12)奈
良市教育委員会 『奈良市埋蔵文化財調査報告書昭和58年度 』1984
(註
13)奈
良日立文化財研究所編『平城京左京八条三坊発掘調査概報』1976
(註14)日召和59年奈良市教育委員会発行の『平城京東市跡推定地の調査 』]報 告書の 5ペ ージ、fig,7 をもとに図上計測 した。
(註
15)奈
良国立文化財研究所『平城京左京三坊二坊三坪発掘調査報告』IV‑3、 佐藤信 1984 45
られ て い る。 それ によ る と、 まず坪 内区画施 設 は(1)坪内 をい くつ かの宅地 に分割 す る宅地 割施 設 と(2)一つ の宅地 の内部 を区画 す る宅地 内区画施 設 の
2種
類 に分 け られ る。 そ して、これ までの ところ(1)宅地 割 施 設 には坪 内道路 や溝 が 多 く、(2)宅地 内 区画施 設 には掘 立柱塀 が 多い とい う傾 向 がす旨摘 されてい る。 今回の調査 で検 出 した坪 内 区画施 設 には坪 内道路・
濤 ・掘 立 柱塀 の
3種
類 の遺構 があ るが、 缶g。 30は これ らを遺構 の時期 変遷 とは関係 な く書 き入 れた もので あ る。 また、図中の1点
鎖 線 は条坊路 の 中軸線 を基準 と した十坪 の東西 お よび南北 の それ ぞれ%、 χ 、%分
割 線 で あ る。は じめ に直角に折 れ曲がる坪内道路
3条
の位置 を検討す る。東西道路S F3700、 3710は それぞれ坪 の%、%分
割線 に近 い位置 にあるが、やや北 に片寄 る。 S F3700の 道路心は%
分割線の北3.8m、
S F3710の
道路心は%分
割線 の北約4.7mに
位置す る。 しか し、両道路 の′・しb間
距離 は17.7mで
あ り、これは坪 の%の
長 さである16.65mに
近 い。一方、商北道路 S F 3705は東側濤 がほぼ坪 の%分
割線 に合致 し、道路′bと のずれ を計 って も0.6mと
わずか である。つ ま り、3条
の道路は十坪 東辺の坪境小路 および十坪中央の東堀河 とともに十坪 を%の
区画 に分割す る機能 を果 している。 ただ し、東西方向は坪 の/分
割線 に合致す るも のの、南北方向は坪 の分割線 よ り北 に3.8〜4.7m片
寄 った位置 となる。つ ぎに掘立柱塀
4条
と濤1条
の位置 を検討す る。東西道路S F 3700上 にある東西塀SA
3730は道路 と同様 に
%分
割線の北約4mに
位置す る。 また、北方の東西塀S A 3754および 東西濤S D3750は
坪 内道路S F3710の
北側濤延長上 にある。 したがって、 いずれ も坪の分 割線 には合致 しないが、坪 内道路 と同様 に%分
割線の北 にずれてお り、坪内道路 と同一の 分割計画 にもとず く区画施設 と考 えられる。 Ⅱ区南部 にある東西塀 S A3662は%分
割線 にほぼ合致す る。また、Ⅱ区北部 の南北塀S A 3855は
/分
割線 の東約2.5mに
あ り、十坪 を東西 に/分
割 していた可能性 が高い。これ らの坪 内区画施設 によって分割 された宅地の面積 を、区画施設の中軸線 をもとに求 めた結果 が
tab.3で
ある。(fig.30参照)①
および⑤宅地の面積 はそれぞれ593.3∬、601.4∬となる。 これ らの面積 は坪 の計画寸法
(1辺
三450尺 、1尺 =0.296m)か
ら求めた十坪の面 積%の
広 さである554.5言 に近 く、1坪
を%に
分割する宅地分割 が存在 した ことをうかがわ せ る。一方、○宅地 は南限 および北限 が掘立柱塀で仕切 られてお り、面積は1396.6話である。これは十坪 の光 にあた る1108.9∬ より287.7ど も広い。この ような規則的分害1と な らない宅 地害」が実際 に行 われていたのかどうか、 また行 われていた とすれば、いかなる基準 によっ て分割 されていたの かな ど、問題 は残 る。 あるいは、坪 内区画施 設の中で も掘立柱塀 は宅
宅
地
名地 東 西 長 さ 南 北 長 さ 面 槙 地
地 宅 宅 宅
①
⑤
⑥
32.65m 33.95 66.60
18.17m 17 72 20.97
593 25∬
601.59 1396.60
tab.3
宅地面積表地内区画施設 として使 われていた例 が多いとい うこれまでの傾 向 を考 えると、○宅地 を限 る掘立柱塀 は坪 内 をい くつ かの宅地 に分割す る施設ではな く、宅地内の区画施設であった 可能性 もある。本論 ではこ うした可能性 のあることを指摘す るにとどめ、今後の平城京内 宅地 の調査事例 の増カロをまって、 さらに検討 を加 えたい。
十坪 の建物 配 置 と時期 区分
今 回 の調査 にお いて は、十坪 東 半部 の、主 と して堀 河 に沿 っ た区域 の遺構 を明 らか にす るこ とがで きた。 その範囲 は十坪 の ほぼ
1割
にあた る。遺構 は比較的 密で、 と くに Ⅱ区の 北 半部 で は少 な くと も4時
期 にわた って建物 が重複 す るが、建 物 規模 は概 して小 さい。以下、これ らの遺構 を重複 に よる前後 関係 や伴 出遺物及 び建物 間隔 な どを基 に
I〜 V期
に区分 し、この 区域 にお け る建物 配置 の変遷 を述 べ ることにす る。 年代 は Ⅳ
‑1の
小 結 で述 べ た土 器 の年代 か ら推 定 して 、おおむねI期
が奈良時代前半 、Ⅱ期 が奈 良時代 中頃 、 Ⅱ期 が奈良時代 後 半 、 Ⅳ期 が奈 良時 代 末 頃 、V期
が平 安時代初頭頃 に比定 で きる。I期
(fig。31)
この時期 の遺構 には、建物 11棟 (S B3616・ 3660,3661・ 3668・ 3670。3680。 3722・ 3739。 3752・ 3760・ 3857)、塀
2条
(S A3754・ 3856)があ る。す で に述 べ た よ うに、 九条 条間路 と十 。十五珂 坪境小 路及 び堀河 は この時期 には形 成 されて い る。建物 。 塀 は いず れ も方 位 が国土座標 に対 して北 で西 に約3度
振 れ る。この時期 には、中心 とな る規模 の大 きな建物 が な く、塀 も部 分的 に
2条
を検 出 した にす ぎないため、坪 内の利 用状況 や建物 配 置 を確定 しがた いが、建物 はい くつ かの群│にま とま る。 Ⅱ区北辺 では、 S B 3760と S B 3857が 北 廂 と北側柱 の柱 筋 を揃 え、30尺 の距離 で東西 に並ぶ。 S B 3760と S B 3857の 中間 (妻 か ら各15尺 )に は南北 塀 S A 3856が あ り、両建物 を 区切 る。 Ⅱ区中央 で は、S B 3739と S B 3752引 約8尺
の距 離 をお いて南北 に並 ぶ。S B3739
が桁行4間
、 S B 3752が 桁 行3間
で あ って、両建物 は中軸 を揃 えていた可能性 が強 い。S B3752の
北7尺
には東 西塀S A3754が
あ り、北 を画 す。 Ⅱ区南 半 では、 S B 3668とS B36
80が6尺
の距 離 をおいて東西 に並 び、 S B 3660と S B 3661が 東側柱 筋 を揃 え、10尺 の距 離 をおい て南北 に並 ぶ。 S B 3680は 総柱 建物 で倉庫 、 S B 3660も 方形 の建物 で倉庫 と推測 で きる。倉庫1棟
と他 の建物 が一組 とな り、 かな りの距離(約61尺 )を へ だてて存 在 していた こ とにな る。堀 河 を西限 とす る十坪 東半分 の東西の中軸 、す なわ ち十坪 の東 西 の
4分
割 位 置 は、 Ⅱ区 の東端近 くにな る。 Ⅱ区北 辺 の南北塀S A3856は 、 ほぼ この4分
割 位 置 にあた るが、SB
3760。 3857が同 一 の計 画配 置 に基 づ くこ とか ら、宅地 内 の部 分 的 な区画施 設 と推 測 で きる。
また、 Ⅱ区南 半 の S B 3668・ 3680、 S B3660。 3661も
4分
割 位 置 に また が って存 在 す る こ とか ら、 この時期 には十坪 の東半部 をさらに東西 に2分
す る宅 地 は なかった可 能性 が強 い。一 方 、十坪 の南北 の 2・
4分
割 位 置 にはS B 3668・ 3680、 S B3760・ 3857があ り、8分
割 位 置 には S B 3752が あ って、南】ヒ方 向 の宅地 分割 もない よ うに思 え る。 だ が、東 西・IP S A47
3754は 、 Ⅲ期 に存 在す る%H丁ほ どの宅地 の】とを限 る濤 S D 3750に 近接 す る。 おそ らく、
S
A3754は
Ⅱ区 の北 辺 と中央部 の二 つ の建物 群 を区画 した塀 で あって宅地 はI期
に遡 ってほ ぼ同 じ位置 で区分 され て いたの で あろ う。 Ⅱ区 中央 の建物群 と南半 の S B 3668・ 3680は 、 それ ぞれの建物 は近接 して建 つ が、群 と しては北 西 と東南 に分離 して存在 す る。 区画 を示 す遺構 は残 ってい ない が、両建物 群 は北 と南 の、別個 の宅地 に属 して いた と考 えるべ きで あ ろ う。 したが って、 Ⅲ区 中央 の建物 群 には%町
の宅地 が、 また Ⅱ区北 辺 の建物 には%町
も し くは それ以上 の宅地 が推 定 で きる。 Ⅱ区南半 の
2組
の建物 群 もか な りのPL離をお いて 存 在す るが、 その中間 に S B 3670と その建替 え と考 える S B 3722が あ る点 でやや異 な る。これ らが一体 の もので あって、広場 風 の空 間地 の周囲 に建物 を配 した
%町
も しくは それ以上 の宅地 で あ るの か、 S B 3660・ 3661が別個 の建物 であって、北 寄 りに
%町
ほ どの宅地 が区分 され て いたの かは 明 らか に しがた い。
I区
の S B 3616は 宅地 規模 が明 らかで な い。Ⅱ期
(fig.31)
この時期 の遺構 には、建物 10棟 (S B 3648。3663,3667・
3669・ 3736・3740。 3751,3763・ 3764・ 3850)、 塀
7条
(S A 3662・ 3721・ 3730。 3841・ 3848A。 3848B・3852)、濤
1条
(S D 3750)、 井戸3基
(S E 3615・ 3720・ 3755)があ る。 建物 ・塀 は方位 が国 土座標 にほぼ一致 す るが、 S B 3751は 北 で西 に1度
ほ ど振 れ る。この時期 は、
I期
の建物 ・塀 を全面的 に撤去 し、東西 に細長 い宅地 割 に従 って新 た に建 物を建 て た時期 で あ る。宅地 割 は Ⅱ区南半 の東西塀S A 3662、 Ⅱ区中央 の東西塀S A 3730、Ⅱ区北 半 の東西濤 S D 3750に よって行 なわれてい る。 S A 3730は 十坪 の南北 の
2分
割 位 置 か ら12尺(4.2m)ほ
ど北 、S D 3750は8分
割 位 置 から18尺(5,4m)1二ど北 になるが、S A 3662 は8分
割 位 置 にほぼ一 致 す る。 S A 3730と S A3662の心 々距 離 は71尺(21.2m)、SA3730と
S D 3750の 心 々IL離は60尺
(18,Om)で
、坪 の南北 長(道路心 々距 離)450尺のほば%に
あた る。坪 全体 か らみ る とほぼ
%町
の宅地 にな る。 Ⅲ区の南辺 と北辺 の宅地 も建物 の大 きさや配 置 か ら同 じよ うな規模 と推 定 で き、十坪 東半部 においては基本的 には2行
8F弩制 による細 か い宅地割 が行 なわれていた可能性 が強 い。次 に、宅地 内部 の建 物 配 置 をみてみ よ う。 Ⅱ区北辺 では、宅地 の西 寄 りに丼戸
S E3755
を設 け、 その北 と西 に小 規模 な建物 S B 3763・ 3850を 配 す。 S B 3850と S E 3755の 間 には 目隠塀S A3848A・ Bが
あ る。 S B 3763の 南側柱 には東西塀 S A 3852が 取 り付 き、東 に延 び る。宅地 の東辺 や や北 寄 りには、総柱 の倉庫 風建物 S B 3764が あ り、 この南 に主屋 が想 定 で きる。 コ区 中央 で は、宅地 の西辺 にやや規模 の大 きな建物S B 3740,3751を
雁行 させ て お き、中央近 くに総柱 の倉庫 風建物 S B 3736と 井戸 S E 3720を おいて、両群 を南北塀SA
3841で一部 区切 る。主屋 は S B 3736の 東 に推 定 で きよ う。 ちなみ に S A 3841と S B 3736と の距離 は16尺 、S A3841と S B 3740と の距 離 は28尺 、S B 3740と 南限 の塀 S A 3730と の距 離 は約23尺で あ る。 コ区南半 の北 寄 りの宅地 で は、中央近 くに
8尺
の距 離 をおいてS B366
7・3669を 南北 に並 べ るが、西 半部 が空 間地 になる。宅地 の北 限塀 S A 3730と S B 3669と の 距 離 は
5尺
、 南 限塀S A3662と S B 3667と の距 離 は約33尺 で あ る。 Ⅱ区南辺 では、宅地 の︺中﹁一 帥
+
r― ― 一
―
―
―
元 条 々 間 路
九 条 々 間 路 fig.31 違膊変遷図
西寄 りに小 規模 な建物
1棟
をお き、 その西14尺 に日隠塀 を設 けてい る。主屋 は東半部 に想 定 で きよ う。I区
で は建物1棟
と井籠組 の井戸S E3615が
あるが、宅地 規模 は明 らかで ない。Ⅲ期
(fig,31)
この時期 の追構 には、建物9棟
(S B 3617・ 3665。 3666・ 3675,3735。3737・ 3849,3851・ 3858)、 塀
2条
(S A3731・ 3855)、道 路3条
(S F 3700。 3705・ 3710)と その側溝6条
(S D 3701,3702,3703・ 3704,3706・ 3707)、 井戸1基
(S E 3765)があ り、井戸 S E3615・ 3720。 3755、 東西塀S A3662及 び東西濤 S D 3750は この時期 に も存続 す る。
建物・ 塀 の 多 くは方位 が国土座標 に対 して北 で西 に約
2度
振 れ るが、 S B 3849・ 3851は 北 で西 に約5度
振 れ る。この時期 は、 Ⅱ期 の宅地割 を基本 と して さらにその細分化 が行 なわれた時期 で あ り、 Ⅱ 期 の建物 を全面的 に撤去 し新 た に建物 を建 ててい る。宅地割 で大 きく変 わ るのは Ⅱ区中央 で ある。 ここでは南限 の東西塀S A3730を廃 して その位置 に道 路 S F 3700を 設 け、 これ と 道路S F 3705,3710を 鍵 の手 に連結 して宅地 を
%町
に分割 す る。西半部 の北限 は Ⅱ期 の東 西濤 S D 3750を 踏 襲す るが、東半部 は耳ヒを新設 の道路 S F3710、 南 を新設の東西塀S A3731 で画す。 Ⅱ区北 辺 の宅地 もほぼ中央部 に南北塀S A3855を 設 け%町
に分割 す るが、 Ⅱ区南 半 で は Ⅱ期 の宅地割 を踏襲す る。Ⅲ区北 辺 の東半部 の宅地 には遺構 がないが、西半部 の宅地 では井戸 S E 3735が あ り、 そ の北 と西 に東西棟 と南北棟 建物 を鍵 の手 に配置 してい る。新設 された井戸 S E 3765は 北側 の別個 の宅地 に属 す るので あろ う。 Ⅱ区中央 の西半部 の宅地 も類似 した建物 配置 をとる。
建物 規模 や柱 間寸法 か ら、 ともに東西棟 が主屋 、南北棟 が副屋 と推淑1で きる。 なる、 Ⅱ区 中央 の西 半部 の宅地 で は、道 路 S F 3705に 面 して門 S B 3858を 開 く。 S B 3858の 位 置 は宅 地 の南北 中軸線 上 にほぼ一 致す る。井戸 S E 3720は 道路 S F 3705の 建設 に伴 って東半部 の 宅地 に取 り込 まれ る。 Ⅱ区南半 の北 寄 りの宅地 では、中央部 南辺 に
2棟
の建物 を鍵 の手 に 配 置 し、北 東 にやや離 れて倉庫風 の建物 を置 く。 Ⅱ区南辺 は遺構 がな く、す で に宅地 で なくなって いた可能性 が あ る。
Ⅳ期
(fig.31)
この時期 は、 Ⅲ期 の宅地割 を踏襲 し、 Ⅱ区北半 の建物 を建替 えた時期 で あ る。 Ⅱ区南半 の建物 ・塀 は建替 えがな く、 その まま存続 していた可能性 があ る。I区
の S B3617も す ぐ北 に土 羨S K3640が
設 け られて い るこ とか らこの時期 に存続 しよ う。Ⅱ区北 半 で新 た に建 て られた建物 は
5棟
(S B 3738・ 3761・ 3762・ 3840。 3845)であ る。方位 は国土座 標 に対 してS B 3762・ 3845が北 で東 に
2〜 3度
、他 が北 で東 に約6度
振 れ る。Ⅱ区北 辺の西半部 の宅地 で は、 Ⅲ期 と同様 に丼戸 S E 3755の 北 西 に
2棟
の建物 を鍵 の手 に配置す る。 Ⅲ区中央 の西半部 の宅地 で もⅢ期 の建物位置 をほぼ踏襲 して2棟
の建物 を鍵の手 に配置す るが、 ここでは別 に
1棟
増加 され計3棟
とな る。V期
(hg。31)
この時期 の遺構 には、建物2棟
(S B 3753・ 3844)、 塀4条
(S A 3830・3831・ 3838・
3839)が
あ り、井戸 S E 3755は この時期 まで存続す る。建物 が かつ ての道路 S F 3705・ 3710上 に建 て られて い ることか ら、 Ⅳ期 の建物 ・塀 な どはすべ て廃絶 していたと推 測 で きる。建物 は S E 3755の 東 と南 に鍵 の手 に配 置す る。 S B 3753の 南西部 は
L字
形 の塀 S A 3838・ 3839で囲 み 、 S E 3755の 北 西部 も同様 の塀 S A 3830。 3831で 囲 う。 この時 期 には他 に遺構 がな く、閑散 と した状 況 とい える。以上 の ほ か に、建物
3棟
(S B 3846。 3853・ 3854)があ るが、方位 がかな り振 れ、伴 出遺 物 もな い こ とか ら時期 が明 らかで ない。tt S A 3843はV期
以降 の もので、中世 にな る可能 十生が あ る。3.小
規 模 宅 地 の 建 物 構 成 一 月借金完解 の再 検 討 を通 じて一今 回 の調査 で明 か とな った十坪 の遺 構 の時期 変 遷 につ いて は前節 で述 べ た とお りで あ り、
従 来平 城 京 の宅地割 や宅地 内部 の構 造 につ いて指摘 されて いた次 の諸点 を再確認 した。(1)
宅 地 の規模 は次 第 に拡 大 す る例 が多い なかで、五 条 以南 では宅地 が細 分化 されてゆ く傾 向 が ある、(2)宅地 内部 の建物 配置 につ いて、小規模 宅地 の場 合 は雁 行式 (棟方 向 を揃 えた建
ti生17)
物
2棟
を柱筋 を違 えて横 または前後 に斜 めに連 ね る型)やL字
式(建物2棟
を棟方向 を直交 させ近接 して配す る型)が
多い、(3)宅地割施 設 と して道路・濤・掘立柱塀 がみ られる。更(「1:19)
に今回の調査 では従来の指摘 の再確認 にとどま らず、い くつ かの新知見 を加 えることがで きた。
14)従
来文献史料の上 だけで存在が予測 されていた%町
の宅地 を初めて確認 した、(5)%町 の宅地 が奈良時代前半 に遡 る可能性 がでて きた、俗)奈良時代後半の
%町
の宅地 に総柱 の掘立柱建物 を検出 した。
ここでは、今回新たに確認 した
%町
の宅地 を始 め とす る平城京の小規模宅地 が内包す る 問題 につ いて、 まず文献史料の検討 を行 い、次 ぎに今回の調査成果 について若子 の補足 を 加 えることとす る。宅地割資料 としての月借銭解の史料的検討(PL.23、24、
25)
平城京 における小規模宅地 の存在 を示す文献史料 として常 に用い られ るもの に正倉院文書中 にある月借銭解 がある。月借銭解 とは、造東大寺司の写経所で写経 に従事 した下級官人である写経生た ちが種 々の 動産や不動産 を質物 として写経所 に借金 を申 し込 んだ文書で、その うちの宝亀
3(772)年
や月 借 銭 解
の 年 月 日 経 師名 「家」の所在 「 地 J 「在物」 月イの 額昔1完 備
考 出 典 宝 亀
3 225
ク 3 11 27 // 3 12 28 // 3 12 28 // 3 12 29
// 4 4 5
″ 5 2 10
丈 淵;浜足
円士L国 守 占部忍 男 他 ‖I合人建 足
桑 内連 真 公 山部針 間万 呂
大宅者 ま 子 りj大宅常小万出
右求工条I坊
左求九条二坊
左求八条四坊
イf求八条工坊
→
(
1 (
1ラ
(
十 ラ
(
1六ぢ
(
り十1
く分 之 半 /32μ r) く分之H4 /321111)
分之PЧ一 /64‖J)
分之 匹1‐
/64PI丁)
之 四 分之 ―
/64「 lJ)
i分之 一 /32四丁)
メ、サ)― ― /]6HJ)
板 片12問 板L:3聞
板 猪:2問 板猪!2聞 板堵!1聞 板 上!2問 板 比:5問
500文 1,000
500 500 200 500 600 1,000
̀ │う )│‖3口J
(高 ド君勝)
│十分││+3町8段 (高 ド謝
̀)
6‑273 19‑297 6‑425 6‑425 6‑426 6‑509 6‑567
tab.4
月借 銭解 の小 規模宅地出典は全て『大 日本古文書』により、例 えば6273と あるのは第六巻273頁であることを示す。
同
4年
に作成 された月借銭解のなかに写経生た ちが平城京内 に有 していた「家一区」 を質 物 とした例 がある。 そのなかで宅地 の規模 が明記 されている例 を表 にまとめたのがtab.4 である。tab.4か らは、従来より指摘 されている点 も含 めておおよそ次 の諸点が確認で きる。宅地 割 については、①写経生た ち下級官人の宅地 が坪 の光 を基準 として表 わされる例 が多い、
しか し、②実際 の下級官人の宅地 は基準 である
%町
の%や
%、 即 ち%町
や%町
である。一方、③下級官人の宅地 のなかには坪 の
%を
基準 として表 わ される例 もわず かなが ら1例
存 在す る。宅地 内部 の構造 にかかわることでは、④下級官人 た ちの%〜
光町程度の宅地 には 平均2〜 3棟
の板屋 が存在 した、 しか し、⑤ そのなかに「倉」 の存在は確認で きない。 こ うした小規模宅地 の分布の傾 向 として、⑥平城京の南辺 に近 い八条や九条 で、 しかも東西 両端 に近 い三坊 や四坊、 あるいは外京 に集中 してい る。まず、小規模宅地 の分布 に関す る⑥ については、平城京内 における居住 者の位階分布 か ら高位 の官人 が平城宮近辺 に宅地 を占めているとの指摘 の裏返 しとして当然の ことである。
次 ぎに、宅地割 に関す る①〜③ についてみ る。①は平城 京 における宅地規模 を表示す る 基準 として
%町
を想定す る有力な史料的根拠 とされ る点で ある。 しか し、%H丁とい う基準 が平城京遷都 当初 にまで遡 り、宅地班給の基準 の一つであったか否 かは検討 の余地 がある。①〜③ か ら推測 されるのは、宝亀年間 を遡 るある時期 に光町宅地 が出現 し、宝亀年間には 少 くとも宅地 の規模 を表示す る基準 の一つ として
%町
とい う単位 が認 め られるに至 り、更 にこの頃 には宅地 の細分化 が一段 と進行 して現実 には%町
の%や %の
規模(%町
や%町
)が 下級官人の宅 地 として標準的 なもの とな りつつ あ り、 その なかで も%町
宅地 が新たな宅地 規模 を示す基準 の一つ と認 め られるよ うになって きていた、 とい うことで ある。下級官人の宅地 の内部構造 に関 わる④⑤ につ いては、既 に彼 らの宅地 が全て板屋 で構成 され「倉」 は存在 しなかった と指摘 され、 これ らの ことが下級官人の戸の京戸 あるいは京 の居住者 としての経済的 な未 自立 を示唆す るとの見解 も出 されている。 このよ うに考 える
(註 22)
前提 には、 当然 、 月借銭 解 に質物 と して記載 されて い る建物 が その宅地 に存在す る全 ての 建 物 で あ る との理 解 が あるが、 かか る前提 が成立 し うるか否 かの検 討 が まず必要 で ある。
そ こで注 目 され るのは、tab.4の丈部浜足 に関す る三 通 の 月借銭 解 の存在 で あ る。二通 の解 は、
9ヶ
月余 りの 間 をおいて いず れ も右 京三条三坊 にあ る宅地 を質 に借金 を申 し込 んだ こ とを記 して い る。 丈部 浜足 が同 じ坊 内 に同一規模 の宅地 を三個 所 ほぼ同時期 に有 していた と考 えるので は な く、同一 の宅地 につ いて三度入 質 した とす る と、三通 の解 に記 された板 屋 の数 に胆 船 の あ る点 が留意 され る。二 通の解 それ ぞれ に記 された数 の板屋 が実際 に%町
宅地 に存 在 して いた全建物 で ある とす ると、丈部浜足 は9ヶ 月余 りの間 に 自 らの宅地 内 に 新 た に
1棟
の板屋 を建 て増 した こ とにな り、下級 官人 の京 内 にあ る宅地 におけ る実生活 の 一端 を窺 わせ る貴重 な文献史料 とな る。 しか し、実際 には いず れの時点 において もこの宅 地 には3棟
以上 の板屋 が存在 し、丈部浜足 が必要 と した金 額 の多少 に応 して2月 には そのうちの
2棟
を、11月 には3棟
を、それぞれ質物 とした と解す ることもで きる。以上の解釈 を示唆す るのは次の二点 にある。第一 に、 2月 の解 をみ ると、浜足の借銭額 を記 した「重貫 文」が朱筆で抹消 され「伍イ百文」 と訂正 されていることか ら、浜足 は 2月 の解で1貫
文の 銭 を借 りるために「地」%町
。板屋2棟
の「家一区」 と田分田3町
を質物 としたが、実際 には500文 しか借 りられなかった。そこで浜足 は11月 にまた1貫
文 を必要 とした時 に入質す る板屋 の数及び口分田の額 を増 した と考 えることがで きる。猶、板屋同様 、11月 の解で入 質 された口分田の額 が 2月 に比べ8段
益 している点 について、 この二通の解が作成 された 9ヶ 月余 りの間 に班田収授 が行 われ日分田が増加 したためにいずれの場合 もたまたま浜足 の戸の全 国分田 を入質 したにす ぎないのであって、いずれも板屋・口分田については全て であるとの解釈 が成 り立つかにみ えるが、班年は宝亀3年
ではな く宝亀4年
であるので、(i主24)
この解釈 は成 り立 ち難 い。第二 に、本来 「家」 を構 成 す る重要 な要 素 で あ るはずの建物 が
(,125)
「地」とは別個 にそれだけで入質・売買・施入 され、実際 に建物 だけが解体 され別の地へ運 ばれての ち建 て られている例 もしば しばみ られ、建物 が不動産 たる「地」 と密接 な関係 を
(i126)
保 ちなが らも動産 としての側面 を強 く有 していた可能性 がある。家地 の売買や入質の文書
(註 27)
で 、 ま ま建 物 が その 「地 」 の 「 在物 」 と して記 され る こ とが あ り、 これ も「地 」 と そ こ に
(「
ある建物 との緊密 な関連 を示す とともに、建物 が「物」=28) (「財物」「資財」といった語で表 さ れる動産
)と
して把 えられていたことを示唆 していよ う。以上の二点 を考慮す ると、一般 に、月借銭解 にあ らわれる建物 がその宅地 に存在す る全ての建物 であるか否 かについては 慎重 な検討 が必要だ とい うことになる。一方 また、 このよ うに月借銭解 にあらわれる建物(三129)
がその宅地 にある全建物 を網羅 していない可能性 が出て くると、⑤の月借銭解 に「倉」 が あらわれないことが、
%〜 %町
といった小規模 な宅地 に「倉」が存在 しなかった ことを示 す と結論付 けるのは問題であ り、 そこから一般の京戸や京の居住者 の経済的 な未 自立 を導 き出すの も慎重であ らねばなるまい。「倉」について言 えば、月借銭解以外 の平城京の宅地 に関す る史料では、「倉」だけではな く「屋」 にも「資財」 が収糸内されていたことが確認で(430)
き、「屋」と表現 される建物 にも収納施設 としての一面 をもつ ものがあったことは間違 いな い。問題 は、「倉」と「屋」の相違 が建築構造の相違 に由来す るだけなのか、あるいは収納 される動産 の内容や、消費・蓄財の在 り方 とも関連す るのか、 とい う点 にある。
遺構上の建物構成
上述 の月借銭解の史料的検討 から導 き出 された平城京の小規模宅地 に関す る問題点 を踏 まえ、今回の調査成果 について若干の検討 を加 えておこう。
宅地割 については、既述の如 くにX5)の点 を確認 した。 しか し、 この うち6)の奈良時代前 半 に遡 る可能性 の ある光町宅地 の場合、実際 には、十坪 の東西中軸線上 を東堀河 が南流 し ていたことに制約 され、東西 に細長い
%町
宅地 が東半%町
と西半%町
とに三分 されたため に、必然的 に%町
宅地 が生 まれたと解すべ きで、極 めて特殊 な事例 と見倣 すべ きであろ う。従来の調査 で
%町
宅地 よ り小規模 な宅地 は奈良時代前半 に遡 って確認 されていないことも 考慮す ると、今回確認 した%町
宅地 の例 をもって直 ちに%町
宅地 が奈良時代前半 に一般的に存 在 していた とす ることはで きない。
宅地 の内部 構 造 に関連 した施 設 と して既 述 の俗)の総柱 の掘 立柱建物 の検 出 があ る。以前、
畿 内 の古 代村 落遺跡 との比較 を通 じ、平城 京 の宅地 に発掘 調査 によって倉庫 と確 認 し うる 総柱 の掘 立柱 建物 は存 在 しない と されて い
4ボ
、文献 史料 の上 で は平城 京 の宅地 に も「倉」の存在 が確認 で き、発掘 調査 によって検 出 され る総柱構 造 を伴 わない倉庫 の機 能 をもつ建
(i,32)
物 が存在す るのではないかとの推定 されていた。 しか し、近年の平城京の調査 では、京の
(i133)
宅地 に も倉庫 と考 え られ る総柱 の掘 立柱建物 の検 出例 が次 第 に増加 す る傾 向 にあ る。 ただ
(「i34)
し、従来 の発掘 調査 で検 出 された例 の 多 くは宅地 の規模 が明 らかで なかった り、
%町
以上 の中・大規模宅地 の場 合 に限 られていた。 したがって、奈 良時代後 半の%町
宅地 に伴 う総 柱 建物 の確 認 は小 規模 宅地 の例 と して貴重 で あ る。 た だ、遺構 と して検 出 された総柱 建物の倉庫 が即座 に文献史料 にあ らわれ る「 倉」 と全 く同 じもの と考 えて よいの かは別 問題 で、
先 に述 べ た文献 史料上 の「倉」 と「屋 」 との問題 ともかか わ らせ て理 解 す る必要 が あ る。
以上 、今回の調査 で得 られた宅地割 及 び宅地 の内部構 造 に関す る成果 は大 きいが、 その 評価 には今後 の解 明 にまつべ き問題 点 も多 い。殊 に、文献史料 が平城 京 の宅地 につ いて有
して い る情 報量 とその質 につ いてはかな り限界 があ り、 その微 い にも慎 重 さが要求 され る。
いずれ に しろ、文献史料 と発掘調査 の成果 を安 易 に結 び付 け るのは避 け るべ きで、今後 の 両方面 におけ る研究 調査 の成 果 の積 み重 ね に期待 され る点 が大 きい。
fig.32 Ⅲ期 の宅地復原想像図(北か ら)
(註16)奈良国立文化財研究所 『平城 京左京四条二坊十五坪発掘報告』1985 (註17)町田章 「都市」(『岩波講座 日本考古学』4集落 と祭iE所収 1986)
(註18)註16革R告書。
(誰19)奈良国立文化財研究所 『平城 京左京三坊二坊 三坪発掘調査報告』 1984
(註20)奈良国立文化財研究所 『平城 京左京四條 四坊 九坪発掘調査報告』 1983 猶、発掘調査 の成果か ら、
宮 に近 いほ ど宅地 の規模 は大 きく、遠 ざかるに従 って小 さくなる傾向があることも既 に黒崎直「平 城 京 における宅地の構造」(『日本古代 の都城 と国家』所収 1984)に指摘 があ る。
(註21)古くは、喜田貞吉 「本邦都城 の制」(『歴史地理』
18‑6
王911)、田村吉永 「平城 京 内の宅地害1に つ いて」(『大和志』5‑8 1938)、 松崎宗雄「平城 京宅地害Jの一例」(F建築史 』2‑6 1940)、
大 井重二郎 『平城京 と条坊制度 の研究』 1966等 、近年 では、北村優季「京戸 につ いて一 都市 と しての 平城京一 」(『史学雑誌』93‑6 1984)、 栄原永遠男「都の くらし」(『古代 を考 える奈 良』所収 1985)等 。(註22)註21北 村論文。
(註23)従来、月借銭解 に記 された宅地1個所 だけが写経生 た ちの京内での宅地 であ るとの暗黙 の 了解 が あるよ うであるが、実は全 くその保証 はないのであ り、検討 の余地 を残 してい る。
(註24)虎尾俊哉『班 田収授法のIT究 』1961
(註25)因み に、以上の如 くに考 えてよいな ら、2月の解 に記 された3町も11月の解 に記 された3町 8段 も、 いずれ も丈部浜足の戸の全受 田額 である(中村順昭 「平城 京一 その市民生活」『歴 史 と地理』334 1983年 6月 、註21北 村論文、註21栄 原論文、等)との保証 はないこととな り、下級官 人 の京居住 者 である同戸 の規模 をこれ らの史料 か ら直接復原推定 す るのは困難 となる。
(註26)月借銭解 にみ られ る入質の例 と しては、宝亀3年8月29日狛子公等解 (『大 日古』6‑319)、 宝 亀 3年6月15日坂合部秋人解 ば大 日古 』19‑312)、 宝 亀3年9月 8日 物部首 乙麻 呂・唐広 成解(『大 日 古』19‑305)、 宝亀3年9月11日僧行芥 解(『大 日古』19‑300)等。売買 による移築の例 と しては、藤 原豊成 が紫否楽 に有 していた板屋 を購入 し食堂 として石山寺 に移築 した例(『大 日古』16‑206等)、
越前国桑原庄 での板屋 の購入例(『大 日古』
4‑52等
)等。施 入の例 としては、やは り石 山寺へ施 入移 築 された法備国山Fの板殿(『大 日古』16‑204等)が あ り、現在 に遺 る建築 にも法隆寺東院伝法童 の ような″」もある。
(註27)日本の古代 にIDNいて、建物 を不動産 た る土地 と同一視 したか否か疑 間の余地 があ るこ とについて は、例 えば石井良助 『 日本法制史概 説』1948に指摘 だけがある。
(註28)月借銭解 にあ らわれ る「在物」 の話 につ いては、註21大井著書 に板屋 に「物 を合 む」 意 であると の解釈 が示 されている。 しか し、同 じ月借銭解 にあ らわれる「在板屋二間」等 は「在物」 の「物」
が省略 された表現 と理解 で きる し、 また家地 の売券等 (例えば、宝亀3年 8月11日大宅 朝 臣船 人牒
『大 日古』
6‑389)に
記 された「在物」 は明かにその土地 に「在」る「物」 との意味 で あ る。(註29)ただ し、丈部浜足の場 合 を除 いて、他の例 では宅地 とともに入質 された建物 がそこに存 在 した全 建物 であった可能性 は十分 にある。
(註30)例えば、奈良国立文化財研究所 『唐招提寺史料』第
‑ 1971
所収 の唐招提寺文書天 之巻 第一号 文書。(註31)鬼頭清明「平城京の発掘調査 の現状 と保存 問題」(『歴史評論』346 1979)
(註32)註30参照。
(註33)註20黒崎論文。
(註34)註20報告書、奈良国立文化財石汗究所編 『平城 京右京二条二坊十六坪発掘調査概 幸R』 1982等
4
年 輪 年 代 法 に よ る井 戸 枠 の 年 代 推 定遺跡 か ら出土す る木製品のなかで、年輪年代法 による年代測定の可能 な試料 には柱根 、 曲物、折敷、井戸枠等 がある。平城京左京九条三坊十坪 の発掘調査 によって検 出 した
SE
3615に は、遺存状態の良好 な丼戸枠 が
7段
残存 していた。 このなかから3点
を選定 し、年 代測定 を行 な うこととした。試料 と方法
試料
3点
の樹種 はヒノキであ り、 この うちの1点
は きわめて珍 らしいことであるが一部 に樹皮 が残存 していた。年輪幅の計測 は、板材 の本 に面 をカッターナイフで測定部分 を薄 く削 った後、年輪読取器で読み とり、 コンピュー タに入 力 した。年輪変動パ ター ンの照合 は、B.C.37年
〜A.D.1984年
までの ヒノキの標準年輪変動パ ター ンを基準 と し、3点
の年輪変動パ ター ンをそれぞれ試料年輪変動パ ター ンとしてコンピュー タと目祝 とで重複位 置 の検討 を行 なった。
結果 と考察
3点
をそれぞれA.B,Cと
す ると、年輪数 は130、 160、 154年を数 えた。 この うち樹皮 が残存 していた板材は、Cで
ある。 まづ、 コンピュー タで標準年輪変動パ ター ンと3点
の 試料年輪変動パ ター ンとの相関 を求 めた結果、Aは
標準年輪変動パ ター ンのA.D.479年
一608年 、
Bは A.D.468年
〜627年、Cは
568年 〜721年の間で最 も高い相関 を示 した。つ ぎに、相 互の年輪変動パ ター ングラフを透視台 に重 ねあわせてお き、両者の重複位置 を検討 した 結果、
3点
ともコンピュー タで検出 した年代位置で合致 していることを確認 した。 よつて、3点
の うちCが
最 も新 しい年代 を示 し、 その伐採年代 はA.D。
721年である。 この よ うに、樹皮 が残存 している試料であれば、 その材の正確 な伐採年代 を決定で きる。ただ し、最終 形式年輪のなかの夏材部の形成状況 によっては測定年代 に
1年
の誤差 が生 じる場合 が ある。1生
長輪のなかの本材組織 を細 か くみ ると、大型で薄膜 の仮道管 からなる春材部 と、刻ヽ型 で厚膜 の仮道管 か らなる夏材部 とで構成 されている。春材部 は春 から夏 にかけて、夏材部 は夏 か ら秋 にかけて形成 される。 したがって、試料 の最終形成年輪が春材部 のみ か らなっ ていて、夏材部 がまだ形成 されていないもの については、伐採時期 を夏期 と特定 し、試料 材の伐採年代 にあてることがで きる。 また、春材部 につづ く夏材部 がわず かで も形成 され ておれば、 その伐採時期 を夏 から秋 にかけて と推定で きる。 しかし、最終 形成年輸の春材 部 と夏材部 との1組
がすで に形成 されている場合 は、 その伐採時期 がほぼ11月頃 か ら4月
頃 までの暦年の2年
にまたがった時期 が想定 され、伐採年代は この2年
間のいずれか特定しがたい。今回の場合、
Cの
最終形成年輸(A.D.721年
)についてみ ると、春材部 とこれ に つづ く夏材部 の仮道管 が 2な い し3列
形成 されているものの、明瞭 な年輪界を形成す るに いたっていない。 したがって、この板材の伐採年代はA.D.721年
と特定で きる。 よってS
E3615の
作 られた年代 は、A.D.721年
以後 と推察 される。5
結 語本文中 に詳述 したよ うに、今回の平城 京左京九条三坊十坪 の調査 では、小規模宅地 の変 遷 の様子 が明 らかとなった。 ここでは調査成果全体 の まとめ と問題点 を指摘 して お きたい。
十坪東半部 にあたる今調査地 での宅地変遷 は、奈良時代 については大 きく
4つ
の時期変 遷 がみ られた。第1に
宅地割 を中心 にみ ると、I期
は、区画施設が小規模 な東西塀一条 し か検出 していないため、調査地全体 の宅地分割 を明確 にす るには至 っていないが、少 くと も一区画 については%町
宅地 と推測 され る。 コ期 は確実 な%町
宅地 が2区
画 は確認 で き、2行 8門
制 による宅地分割 が行 われていた可能性 が高い。 Ⅲ期は、 Ⅱ期の区画割 を踏襲 し つつ も鍵 の手 に曲 る道路 によって分割 された さらに細 かい%町
宅地 がつ くられてい る。Ⅳ 期 は宅地内の建 て替 えにとどま り、区画 は Ⅲ期 をその まま踏襲 してい る。以上のよ うな宅地割 の変遷 か らは、宅地 が細分 されて小規模化 されてい く傾向 が端 的 に 示 されている。同時 に、
I期
ではそれ程顕著 ではない%町
宅地 が、 Ⅱ期 では一般化 してい ることや、%町
宅地 の場合で も鍵 の手道路 が示す よ うに当初 からこの区画 で全体 が計画的 に区分 されていたのではな く、 よ り大 きな宅地 の一部分 を区分 した と考 えられ ること、 な どか ら実態 が先行 してい く様子 を うかが うことがで きる。おそらく平安京 において定着 す る4行 8門
制の%町
宅地 は、すで に奈良時代 において実態 としては各所 にみ られたのであ ろ う。第
2に
は、各時期 の年代の問題 がある。遺構 の全体的 な年代観は、土器の年代 か らみ る とおおよそI期
が奈良時代前半、 Ⅱ期 が奈良時代 中頃、 Ⅲ期 が奈良時代後半、Ⅳ期 が奈良 時代末 と考 えることがで きる。 そ うす ると%町
宅地 がこれまでの事例 よりも古 い奈 良時代 前半 に遡 る可能性 がでて きた。 また、I期
に伴 う土器が前半でも古 い時期 の もので あ るこ とをみ ると、平城京造営 当初 まで遡 るのは困難 であるとしても、比較的早 い時期 にこのあ た りの宅地 が形成 されていた とも言 える。ちなみ にⅡ期の遺構 の うち、S E 3615の側板 の伐採年代が、
V‑4で
述べたように年輪年 代測定法 によって721年 と与 えられた。 この ことは、井戸の時期 が721年以後 で あ ることを 示 していてそれ以上の年代 を限定 で きるわけではないが、 もし伐採後 まもな く井戸 に使用された とすれば土器の編年観 とは合 わない。検討課題 としておきたい。
第
3に
、宅地分割の基準の とり方の問題 がある。V‑1で
詳述 しているよ うに、大路 。小 路の道路心、すなわち平城京の計画線 を基準 にとると、今回の場合、宅地 の区画施 設 と考えている道路、塀、濤の遺構 が分割線上 に正確 に位置 していない例 が殆 ん どで ある。一方、
宅地 自体 の実長 と宅地面積 については、計画寸法 から求めた数値 に近似す る場合 が多いが、
そ うでない場合 もある。
こ ういつた ことは、左京八条三坊九坪 などで も同様 の ことが指摘 で きる。従来 は、近似 値 をもって何分の
1町
宅地 と考 える傾 向があつた。本書で も基本的 には同 じ視点 で解釈 し57
てい る。 しか し、計画寸法 との整合性 の有無 は、 それが宅地の規模 の大小 に関連す るのか どうか、 あるいは宅地内施設 と宅地区画施設の違 いに関連す るのか どうか、 さらには宅地 分割 の実施 にあたっての官の関与の仕方 に関連 した ものであるのか、な ど重要 な問題 を含 んでお り、今後新 たに検討すべ き課題 の
1つ
で ある。第
4は
、建物規僕、配置 と宅地内の利用状況 の問題 である。建物規模 については、大半が桁行
3間
、梁行3間
の大 きさで、柱間寸法 も5尺
〜7尺
程 度の小規模 なものが多い。%町
以上の宅地の場合 は、未調査地 の東側 に主屋 の存在す る可 能性 があるが、左京八条三坊九坪 で も桁行5間
の建物 を主屋 と している宅地 は%町
以上の 宅地 に限 られている点 が注 目される。%町
宅地 の場合、敷地面積 か らみて、検出 した もの 以外 に大規模 な建物の存在は考 え難 い。月借銭解 にみ られる写経生 クラスの建物規模 は こ の程度 とみ るべ きであろ う。建物 の棟数 について も
%町
宅地 では Ⅱ期 の宅地 が2棟
、Ⅳ期 の宅地 が3棟
である。月借 銭解の解釈の問題はあるとして も敷地規模 か らみてこれ以上の棟数は考 えにくい。 しか し%町
宅地 では5〜 6棟
が建つ可能性 もあろ う。建物構 成で注 目されるのは、
%町
宅地 に存在す る総柱建物 である。桁行・梁行 とも2間
の小規模 なものであ り、 どの程度の倉庫 と解すべ きかむずか しいが、 これまで事例 として 知 られていないだけに宅地内の建物構 成 を知 る上 で重要であろ う。最後 に宅地内の利用状況 をみておこ う。宅地 の出入回は、
%町
宅地 がS F 3705に門 を開 いてい るほかは不明であるが、西が堀河 であるとい う敷地の制約 から、%町
以上の宅地 は 東の南北小路 に問が開いていた もの と推測 され る。次 に丼戸 は どうであろ うか。京内の宅地 は一般的 に宅地毎の井戸 が確認 されているので、
井戸の ない宅地 については東側 の未調査地 で考 えざるを得 ない。左京八条妨九坪 で も東の 入 口 を入 った ところに丼戸 を設 けてい るので、井戸 の配置 については地下水脈 との関係 で 決め られた もの と考 えられる。
%町
宅地 は逆 に西の堀河寄 りに置かれたのであろ うか。建物配置は、 Ⅲ区北半の宅地 では
%町
以上の宅地 の場合でも建物の集中 している様子 が み られ るが、南半の宅地 は棟数 も少 な く空 閑地 が目立つ。東側未調査地の様子 が解明 され ていないので、各宅地毎 に全体の配置 をみ ることはで きないが、左京八条三坊九坪 の例 で は、入 口に近 い東側 に建物 が集中 してい る。 とすれば、 Ⅱ区北半の宅地 については、全体 的 に建 物 が配置 されていたもの と考 えられ るし、南半の宅地 につ いては西側 を空閑地 とし て、菜園等 に利用 していた可能性 が考 えられる。宅地内の敷地利用 と建物配置の多様性 をうかがわせ る。
以上判 明 した遺構 を中心 にその成果 と問題点 を列挙 して きたが、いずれにしても小規模 宅地 の例 はまだそれ程 多いとは言い難 い。 わずかな事例 で、 これだけ多 くの問題点の指摘 で きることを考 えれば、今後 とも一層 の調査例 の増加 んヾ倹 たれ るところである。