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地下の正倉院展【荷札木簡をひもとく】第

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(1)

二〇一八平城宮跡資料館秋期特別展第Ⅰ期一三日︵土︶︱一〇月二八日︵日︶

地下の正倉院展 【荷札木簡をひもとく 】 第 Ⅲ 期展示木簡

第Ⅱ期〇月三〇日︶︱一一月日︵日︶

第Ⅲ一一月一三日︵火︶一月二五日木簡は三期に分けて展示します︒

本解説シ

トでは︑今回の展示にあたり再検討した 結果︑既報告

釈文を改

ます︒

※展示番号の上記したは国宝を示します︒

荷札の ふ る さ と

和泉監からの薑の荷札

3

︵一九七次︑SD5100出土︒

﹃平城宮発掘調査出土木簡概報﹄二二︑一九頁上段︒

以下︑城二二︱一九頁上のように略す︶

天平  十月 七日和泉監薑 甕一腹

さ二〇六㎜・幅二七㎜・厚さ五㎜〇三二型式

和泉監︵今の大阪府南部︶から送られた︑甕に納めた薑︵シ

いずみげ

かめはじかみ

ョウガ︶の荷札︒和泉監は奈良時代に置かれた特別行政区の一つで︑元正天皇が営んだ離宮・珍努宮の管理のため︑霊亀二年︵七

一六︶に河内国︵今の大阪府東部だが︑当初は大阪府南部の和泉

地 域 までを 含 んでい た

︶から 三郡 を割 いて 設置 され た︒

正 以 下

かみ

の役人の職掌は国司とほとんど変わらず︑天平十二年︵七四〇︶

に一時廃止されたのち︑同地域は天平宝字元年︵七五七︶に和泉国とされ︑河内国から分立した︒

年紀の部分は釈読できないが︑は二条大路木簡の一つであり︑

3

天平八年︵七三六︶前後のものと考えられる︒年月日から書き始

める荷札は︑七世紀には一般的であるが︑奈良時代では非常に珍

しい︒ 薑は︑食用もしくは薬用として用いられた︒薑は︑﹁束

」 「 把

」 「 本﹂

あるいは﹁根

」 「 球﹂で数

える︒束把や本で数えるのは葉や茎が付

いているもの︑根や球で数えるのは葉や茎を取り去った根茎部とみられる︒甕に納められたのがどちらであったのか︑一腹にどれ

くらいの量の薑が入っていたのかは︑荷札の記載からは明らかでない︒

同じ遺構からは︑他にも二点︑和泉監から送られた薑の荷札が

見 つかっている︒一

つは︑

﹁ 天 平十年八

月廿一日

薑一把

監﹂

と書かれたほぼ完形の荷札︵城二二︱一九頁上︶︒もう一つは︑﹁

日和泉監大︹球ヵ︺薑﹂と書かれた荷札の断片である︵城二二︱一九頁上︶︒前者はと同じく︑年月日から書き始める書式で︑

3

上端のみに切り込みを入れる〇三二型式︒後者も同じ書式・型式とみて矛盾はない︒和泉監の荷札は珍しく︑これら三点以外に︑

確実なものは見つかっていない︒

一方で同じ遺構からは︑これらによく似た書式をもつアユの鮨の付札も数点出土している︒例えば︑﹁天平八年五月十七日鮨年 けふだ

魚﹂︵城三一︱三四頁上︶︒こちらは国名の記載がないため︑都で作製した付札︵整理用のラベル︶に分類されている︒

あるいはなども︑荷札ではなく国名まで書いた整理用の付札

3

である可能性もあろう︒書式が荷札としては異例な理由も︑その辺りにあるのかもしれない︵荷札と付札の関係については︑Ⅱ期

展示の解説も参照︶︒

35

(2)

相模国からのクキの荷札

︵一九七次︑SD5100出土︒城二二︱三〇頁上︶

相模 国  二斗

八八㎜・幅二四㎜・厚さ四㎜〇三二型式

相模国︵今の神奈川県のうち︑川崎市および横浜市の大部分を

除いた 地域 にほ ぼ 相当︶

か ら送ら れ た

の 荷札︒

は 大 豆を原

くき

料とする調味料の一種で︑固形状のなめ味噌の類と考えられてい

る︒食用だけでなく︑薬の原料としても利用された︒二斗は今の九升ほど︑約一六ℓにあたる︒

﹃延喜式﹄では︑

相模国と武蔵国︵今

の埼玉県・東京

都︑お よ

えん ぎしき

び神奈川県のうち川崎市と横浜市の大部分︶が豉の貢進国として

みえ

︵ 典 薬

式相 摸年料雑薬条・同武蔵年料

雑薬条

︶︑

こ れ ま

てんやくりょう

でに 見つ かって いる荷 札も この両 国の もの に限ら れる

︒ 大 膳 職

だいぜんしき

の 主

醤が雑醤・豉

・ 末

醤などの発酵食品類の製造を担当して しゅしょまっしょ

おり︑諸国から貢進される一方︑宮内でも製造していたらしい︒

延喜 大 膳 職 式 下 造雑物 法条 には︑

の原料 とし て大豆 のほか に

だいぜんし

海藻がみえる︒贄として貢進されている例があることや︵﹃平城 にえ

宮木簡一﹄四〇四号︑および同四〇六号︒以下︑宮一︱四〇四の

ように略す

︶︑

正 倉 院文書により末醤よ

りも高価であ

ったこ とが

知られるから︑高級調味料だったといえるだろう︒贄と記さない豉の荷札は︑のように国名+﹁豉﹂+数量とい

6

う簡略な書式のものばかりである︒また︑貢進量は一斗から四斗まで認められるが︑量に関わらず︑そのほとんどが長さ一〇㎝前

後と小型である︒ちなみに︑はSD5100出土で二条大路木

6

簡のひとつだが︑SD5100からはとまったく同文の荷札が

6 もう一点出

土している︵城三

〇︱七頁上

︶︒

こ ち ら も

︑ 長さ九

と小型である︒ 飛騨国?からの庸米の荷札

9

︵一七二次︑SD2700出土︒城一九︱二六頁上︶

語部 大万呂 

( 表

五百嶋一斗 新居 飽見 里

)

( 裏 )

六斗

長さ

( 一八

) ㎜・幅

二八㎜・厚さ四〇三九型式

飽 見 郡 も し く は飽見 郷 の 新 居里か ら 送られ た荷 札︒

物品 名は

あくあら

記 さ れ ていない

︑裏面 の﹁

六斗

﹂の記 載 から︑

庸 米 の荷 札と

ようまい

推定される︵参照︶︒表面には二名以上の人名が記されており︑

75

部 大 万呂や五百嶋らが

合 わせて六斗の米を納めたものであ

かた

る︒﹁飽見﹂は︑﹃和名

類 聚 抄﹄では飛騨国荒城郡飽見郷のみ みよるいじゅしょあら

が該当する︵荒城郡は今の岐阜県飛騨市付近だが︑飽見郷は比定地未詳︶︒新居里は確認できない︒そうだとすれば︑郷里制下︵七

一七年〜七四〇年頃︶の飛騨国の庸米荷札ということになる︒

しかしながら︑やや不審な点もある︒第一に︑律令の規定では︑

飛 騨 国 は 庸 と 調 が と も に 免 除 さ れ

︑ 代 わ り に 匠 丁

︵ い わ ゆ る

騨 工︶を 都に 送り︑

彼ら の食 料を 負担す るこ とにな ってい た

ひだのたく

︵賦 役

令斐陁

国条

︶︒

実 際これまでに︑

平城 京そ の他の都城跡

やくりょ

から︑明ら

かな飛騨国の荷札

は見つかっていな

︒﹃

延 喜式﹄

ぎしき

は︑飛騨国の庸は商布となっており︑米は見えない︵主計寮式 しゅけいりょ

上飛騨国条︶︒

第二に︑飽見の表記のみから飛騨と推定するには不安がある︒

﹃和

類 聚

抄﹄と木簡とで地名の表記が異なることは珍しく いじゅし

ない︒﹁あくみ﹂という読みからは︑参河国飽海︵渥美︶郡渥美 かわ

郷︵渥美郡は今の愛知県豊橋市南部および田原市に当たるが︑渥

美郷は比定

地未詳

︶︑

出 羽 国 飽海郡飽海郷︵今の

山 形 県 酒田市 の

うち︑旧平田町域を中心とする地域︶も候補となる︒このうち︑出羽国については調庸は基本的に現地で消費され都には送らない

た め

︵ 延 喜 民 部

式 上貢限条

︶︑可能性は低い

だろう︒一方︑

えんみんしょ

(3)

参河国は庸米を貢進しており︑あるいはは参河国飽見郡︵飽見

9

郷︶からの庸米荷札かもしれない︒ただし︑新居里は確認できな

い︒なお︑東に隣接する遠江国浜名郡には新居郷︵今の静岡県 とおとうみはま

湖西市のうちの︑旧新居町域︶があり︑語部氏の分布も確認でき

るが︵天平

十二年︿七四〇﹀

浜名郡輸租帳

︑﹃大日本

古文書

︵編

年︶﹄二巻二六三〜二六七頁︶︑国の違いは如何ともしがたい︒

下野国からの荷札

11

︵一三三次︑SD1250出土︒城一五︱二九頁下︶

〔五斗 ヵ 〕 下野 国   天 

長さ

( 四九

+七一

) ㎜・幅

二三㎜・厚〇三九型

野国︵

今の 栃木 県︶

から の荷札 の 断片︒

上部 と下 部に 分か

しもつけ

れ︑下部は三片が接続する︒上部と下部は直接には接続しないが︑材や文字から︑同一木簡の断片とみられる︒文字は端正︒物品名

は 残画がわずかなた

め釈読できず︑数

量﹁五斗﹂

︵今 の 二斗二 升

五合ほど︑四〇ℓ強︶のみが読み取れる︒

﹁五斗﹂

の下には一文字程

度の空白をあけて﹁

天﹂

と続く が︑

これは年号の一文字目である可能性が高い︒おそらく︑天平︵七

二九〜七四九︶・天平感宝︵七四九︶・天平勝宝︵七四九〜七五七︶

・天平宝字︵七五七〜七六五︶のいずれかが続くのであろう︒五斗で納める物としてすぐ思い浮かぶのは米︵舂米︶であろ しょ

う︵参照︶︒だが︑︑下野国はこれまで年料舂米の貢進国とし ねんりょ

76

ては知られておらず︑内陸部でかつ都から遠く︑年料舂米の貢進

国としてはふさわしくない︒

一方︑

端正 な筆 致は むしろ

︑ 贄 の 荷 札を想 起 させる

にえ

33 51

・・

な ど参照

︶︒

仮 に 贄 の荷札とすれば︑物

品 は ア ユが候 補 63 66

に挙げられる︒下野国から納められた贄としては︑足利郡波自可 あしかが

里︵

﹃ 和

類 聚

﹄では 土師 郷︒

今の 足利 市 葉 鹿 町 付 近

︶ の

うる いじ ゅし

アユが知られる︵﹃藤原宮木簡一﹄三号︶︒また︑国は異なるが︑

五斗のアユを納めた例として︑﹁筑後国生葉郡煮塩年魚伍斗﹂の ちくいく

荷札がある︵宮二︱二二八八︑も参照︶︒

33

能登国からの調のイリコの荷札

13

︵二二次南︑SK3139出土︒宮二︱二八一七︶

〔熬ヵ〕

( 表

鼠六斤 倭  調 足 小 同 戸 嶋 息 部 若 能登 主 戸 郷 嶋 鹿 郡 登 能 国

)

( 裏 )

天平 寶字三 年 五月十三日

三㎜・幅二四㎜・厚さ五㎜三一型

能登 国 能登郡 鹿 嶋 郷︵

今の 石 川県七 尾 市︶か ら 調とし て 送 ら

しま

れた熬海鼠の荷札︒では﹁海﹂を省略︑もしくは書き落として

13

いる︵志摩国︿今の三重県の志摩地方﹀の荷札にも﹁熬鼠﹂とあるので︿城二二︱一九頁下﹀︑省略とみるべきか︶︒天平宝字三年

は七五九年︒六斤は約四㎏︒

能登国は︑

養老 二年︵

七 一八︶

に 越 前 国 から 分置さ れ 成立し

えちぜん

た︒その後︑天平十三年︵七四一︶に越中国に併合されるが︑ えっちゅ

天平宝字元年︵七五七︶に再置された︒

熬海鼠は︑ナマコの内臓を取り除き︑塩水で煮るなどしてから

干して乾燥させたもの︒現在のいわゆるナマコは古代には﹁海鼠﹂

と呼ばれ︑そのうち生またはそれに近い状態のものを﹁生海鼠﹂︑ なま

乾燥させたものを﹁熬︵煎︶海鼠﹂と称していた︒さすがに﹁生海鼠﹂の状態で都まで届けられることは多くなかったようで︑今

のところ見つかっている荷札はすべてイリコのものである︒

﹃延喜 式

﹄では

︑志 摩・

若 狭︵今 の福井県

西 部

︶・

能 登・隠岐

えん ぎしき

わか

︵今の島根県隠岐の島︶・筑前︵今の福岡県のうちの︑旧福岡藩 ちくぜん

︿黒田藩﹀域にほぼ相当︶・肥前︵今の佐賀県・長崎県︶・肥後︵今

(4)

の熊本県︶の各国の調に熬海鼠がみえる︵主計寮式上の当該各 しゆけいりよう

国条

︶︒荷札から知られる熬

海鼠の産地では能登国が目

立ち︑

でも能登郡鹿嶋郷に集中する︒今日でも︑能登半島のイリコは特

産品として名高い︒能登のイリコの荷札の中では︑のみが長さ

13

三〇㎝を超え︑貢進者名を記す︒他は長さ二〇〜二五㎝ほどで︑

貢進者名は記さない︒なお︑調は毎年九月から十二月の間に納入するのが基本である

が︵賦 役

調 庸物条︶

︑荷札に見えるナマコの貢

納時期はそれ

やくりょ

より早く︑の五月のほか︑四月︑六月︑八月の例が確認できる︒

13

石見国からのワカメの荷札

︵二〇四次︑SD5300出土︒京三︱四九五五︶

天平七 年 六 月 石見国 那 賀郡右 大 殿御 物海藻一籠納六 連

五㎜・幅四〇㎜・厚さ六㎜三一型

石見国那賀郡︵今の島根県浜田市・江津市付近︶から﹁右大殿

御物﹂︵右大臣のもの︶として納められた海藻︵ワカメ︶の荷札︒

ワ カメの荷札としては異例に

長大︒

﹃ 延 喜式﹄な

ど で は

︑石見 国

えんぎしき

からのワカメの貢進は例がない︒天平七年は七三五年︒

﹁右大殿

﹂は︑天平六年︵

七三四︶正月に右大

臣と なった 藤原

武智麻呂を指すと考えられる︒武智麻呂は藤原四子の長兄で︑当

時の政権の首班︒封戸︵貴族に対する給付の一種で︑特定の戸か

ら貢納される租の半分と調庸の全部が封主に納入される制度︒ま

た︑指定された戸そのものを意味する場合もある︶からの貢進物とみられるが︑税目の明記がなく︑また米・塩以外の宛先明記の

貢進物荷札は他に類例がない︒

は︑二条大路木簡と呼ばれる木簡群の一つ︒二条大路木簡に

18 は 武 智 麻 呂 の弟で あ る藤原 麻呂 の家政 機関 に関 わる一 群が 含ま

れ︑も出土地点などから︑その一群に属すると考えられている︒

18

兄弟関係を通じて武智麻呂宛の物品が弟の麻呂邸で消費され︑二

条大路木簡に混じったものと思われるが︑詳しい経緯は不明︒

長門国からの地子米の荷札

21

︵一九〇次︑SE4885出土︒京一︱一二四︶

厚狭 郡地子 米 五斗

長さ一五三㎜・幅二九㎜・厚さ三㎜〇三二型

﹁地子米﹂に付けられた荷札︒﹁厚狭郡﹂は︑﹃和名

類 聚

抄﹄ あつみょうるいじゅしょ

の長門国厚狭郡︵今の山口県山陽小野田市・宇部市付近︶にあた

る︒五斗は今の二斗二升五合ほどで︑約三四㎏︒

﹁地子﹂とは︑諸国で口分田を班給した後に余った田地︵﹁公田﹂︑

ぶんでん

こうでん

または﹁乗田﹂という︶を百姓︵農民︶に貸し付け︵﹁賃租﹂ ょうでひゃくせい

と いう︶

︑ そ の対価 として納められた米

のことを指す

︒諸国 で徴

収された地子は基本的に都の太政官厨家に納入され︑役人の だいじょ

常食︵給食︶などに充てられた︒は︑奈良時代初頭に長屋王の邸宅が営まれた平城京左京三条

21

二坊一坪に設けられた井戸から出土したが︑ともに見つかった土

器 の年代 は奈 良時代 半ば から 後半 にか けての 時期 に位置 づけ ら

れ︑この地が長屋王邸でなくなってからの遺物とみられる︒の

21

存在︑および共伴土器のなかに﹁官厨﹂と記された墨書土器が存することなどから︑奈良時代後半にはこの地は太政官厨家となっ

ていたと見なす説が有力である︒

(5)

土佐国からの籠の荷札 25

︵三二次補︑SD4100出土︒宮四︱四六七〇︶

土左国 交 易籠 六斤

長さ

( 一一

) ㎜・幅

一四㎜・厚さ三〇三九型

類例の少

な い

︑ 土佐国

︵今 の高知 県︶

から の貢進 物の 荷札

地方に財源として蓄え

られた

︵ イ ネ

︶を代価とし

て 籠 六

しょかご

斤︵約四㎏︶を購入して納める際のもの︒﹁土左﹂は﹁土佐﹂と

同じだが︑古代の史

料 上での 表記 では 人 偏 を付 けな い﹁

左﹂を

にんべん

用いるのが一般的である︒

延喜 主 計

寮式上土左国条には︑土左国の貢進物として︑調 えんしゅけいりょちょ

としては帛や絹のほかに堅魚︑庸としては綿・米のほかに韓櫃︑ はくきぬかつようからびつ

男 作 物 とし ては 亀 甲

・ 紙・胡麻油・

堅魚・雑

・煮

ちゅきっこうこのほしいお

塩年魚・鯖が挙げられている︒荷札の事例としてはこれまでに しおさば

五 例 が 知られるのみで︑

品 目 の わかるの

は のほ か︑

延喜 式 に 25

も通じるアユの事例があるだけである︵城一六︱六頁下︑城三八

︱二二頁上にて釈文訂正︶︒SD4100︵頁参照︶からの出土のため式部省関連の遺 しょう

16

物と捉えることも可能であるが︑はこれまでに知られている唯

25 一のカ ゴその も のの荷 札で ある こと

︑ 神

官 関 係の神 社 名︑及

じんかん

び神社名+籠の記載をもつ木簡が同じ遺構から出土していること

から考えると︑神祇官に関わる遺物とみるのが妥当であろう︒下端は欠損しているが︑文字の収まりからするとほぼ原形を保

っているとみられる︒元は〇三二型式︵上下両端のいずれか一方に左右から切り込みを入れたもの︶だった可能性が高いだろう︒

ただし︑切り込みを有する上端は山形に成形されている︒も似

36

たような形状を呈するが︑実用性は認めがたく︑何のための加工かはわからない︒荷札製作者のこだわりだろうか︒ ◎肥前国からの調の綿の荷札

26

︵一三次︑SK820出土︒宮一︱三〇五︶

四両

( 表

養老  肥前国 神 埼郡調綿壱伯屯

)

( 裏 )

真  一

長さ

( 一七

) ㎜・

幅三一㎜・厚さ六㎜三九型

肥前国神埼郡︵今の佐賀県神埼市・吉野ヶ里町付近︶からの綿

かんざわた

の荷札︒類例の少ない︑広葉樹を材とする荷札である︵も参照︶︒

60

﹁綿﹂は木綿ではなく︑蚕の繭から作る真綿を意味する︒﹁屯﹂ かいまゆわたとん

は梱包の単位︒一屯は重さ四両︵約一六八g︶に相当し︑一〇〇

屯は約一六・八㎏となる︒裏面の部分的に残る墨痕は︑類例︵Ⅰ期展示︑Ⅱ期展示など︶から考えると︑収納責任者の名前の

58

59

一部とみられる︒

は 内 裏 北 外 郭 の ゴ ミ穴SK

820 から 見つか った木 簡で

だいきたがいかく

26

同遺構からは綿の荷札が多数出土している︵︑およびⅠ期展示

60

・Ⅱ期展示

など

︶︒

こ れ らは︑貢進元の国や

郡 が 異 なるにも 58

59

関わらず書式が似通い︑材に広葉樹を用いる点も共通する︒西海

道の九国二島の

調

庸 は 大 宰 府 に 集積し消費す

る原 則 で あ っ た

ちょざい

が︑そのうちの一部︑綿や絹︑紫草などは例外的に京進された︒調綿の荷札に国や郡をまたぐ共通性が認められることは︑大宰府

にて発送準備が行われ︑一括して荷札が作製・添付されたことを示している︒

上端付近の切り込みの位置は左右でしっかり揃えられており︑大きさもほぼ同じ︒また︑よく見ると三角形というよりは台形状

を呈している︒文字は端正な楷書風で︑しかもきっちり切り込み

を避け︑荷物に括り付けるための紐を巻いても隠れない位置から書き始められている︒全体的に︑丁寧な作りが際立つ︒

(6)

大宰府から送られた薩摩国の紫草の荷札

︵一九七次︑SD5100出土︒城二二︱四〇頁上︶

筑紫 大宰進 上 薩 麻 国 殖 

長さ

( 八〇 ) ㎜

一七㎜・厚さ二㎜〇三九型式

﹁筑紫大宰﹂から進上された物品に付けられた荷札︒筑紫大宰 たいさ

は大宰府の

こと

︒西 海 道の九国

二嶋 の調 庸は 大宰府 に集 積し消

さいかいどう

費する原則であったが︑そのうちの一部︑綿や絹︑紫草などは例外的に京進された︒は薩麻︵=薩摩︶国︵今の鹿児島県西部︶

30

から大宰府に納められた物品の一部を平城京に回送する際に付けられた荷札とみられる︒

西海道諸国の荷

札とし ては︑

内裏 北 外 郭 官衙 地区 で検 出した

たがいか

ゴミ捨て土坑SK820から出土した真綿の荷札の一群が知られ

る︵

など

︶︒これら真綿の荷札群

には︑広葉樹

を材と する 26 60

ことや︑楷書風の文字を謹直に記すといった共通点が認められる︒も材は広葉樹とみられ︑肉眼ではやや見づらいが︑文字も端正

たれ荷札とみてよいであろう︒ に整っている︒真綿の荷札群と同様︑大宰府で一括して付け直さ 30

下端欠損により品目は不明だが︑国名の下に﹁殖﹂とあるのが注目される︒とともに出土した木簡の中には﹁︹紫︺大宰

30 進上肥後国

託麻郡殖種子紫

﹂ ﹁

麻郡 殖種子紫草伍拾斤

﹂な どと記され

た荷札がみられ︵

いずれも城二二︱

四〇 頁上︶

も30

根を染料として用いる紫草に付けられたものと考えられる︒天平

九 年度︵七三七

︶豊後 国

正税帳

︵﹃

大 日 本 古文書

︵編年

︶﹄

うぜいち

巻四〇〜五五頁︒豊後国は今の大分県のうち宇佐市・中津市など

を除いた大部分にあたる︒正税帳は国単位で作成される年間の収

支決算報告書︶には﹁紫草園﹂を国司が巡行した記録がみえ︑大宰府管内において紫草が栽培されていたことが知られる︒

荷札 のカタ チ

◎筑後国からのアユの荷札

33

︵二二次北︑SD3035出土︒宮二︱二二八七︶

霊亀三年 筑後国 生 葉郡煮塩年魚 肆 斗 弐升

一七二㎜・幅二一㎜・厚さ四三一型

筑後 国生 葉郡

︵今 の福 岡県 うき は市 付近

︶か ら貢 進さ れた

「 煮 塩 年 魚

﹂︵

塩で煮 て 加工し たア ユ

︶の荷 札︒霊亀

三 年は七 一

にしおの

七 年

︒﹃

延 喜 式﹄によると︑大宰府から

の 贄 として煮塩年

えんぎし

ねんりょにえ

魚 を貢進している︵

内膳司式年料御贄

条︶

︒ には税 目の記 載は

ないぜ

33 な いが︑郡単位の貢

進であること

︑﹁

霊 亀三年﹂

の 記 載 は同年の

年料分という意味に解されることなどから︑贄の荷札とみて差し

支えない︒

は 造 酒 司跡か ら出 土し たも ので あり

︑今回 は 出 展

ぞうしゅ

33

していないが︑造酒司跡からは同じ生葉郡から貢進された霊亀二

年の煮塩年魚の荷札も見つかっている︵宮二︱二二八八︶︒では︑二種類の数字が使われている︒年号の部分が﹁三﹂の

33

ような普通の漢数字を用いているのに対し︑数量の部分では﹁肆﹂

︵=四

︶︑

﹁ 弐

﹂︵=二︶などの画

数の 多い漢字

を当て ている

︒現

在でも領収書などで用いることがあるこれらの数字表記は大字と

呼ばれ︑古代

の正 式な公 文 書など で改 竄を 防ぐ ために 使 用され

かいざん

た︵一=壹︵壱︶︑二=貳︵弐︶︑三=參︑四=肆︑五=伍︑六=

陸︑七=︵漆︶︑八=捌︑九=玖︑十=拾︑百=佰︵伯︶︑千=阡︵仟︶︑万=萬︶︒荷札木簡で用いられることは多くないが︑荷

物が贄であるため︑特に気を遣ったのだろうか︒活字のようにか

っちりと整った楷書と合わせ︑その趣は︑天皇への献上品の荷札にふさわしい︒

は上下両端に切り込みが施され︑〇三一型式に分類される︒

33

上端の切り込みが三角形であるのに対し下端の方はやや台形と若

干カタチが異なるが︑左右では位置・形状ともきっちり対称をな

(7)

しており︑全体的に優美で端正な雰囲気が漂う︒なお︑の材は

33

広葉樹とみられる︵広葉樹の荷札についてはなどを参照︶︒

60

美作国からの黒葛の荷札

36

︵一九五次︑SE5135出土︒京一︱一二五︶

英多 郡吉 野郷黒葛十斤

二二㎜・幅二〇㎜・厚さ二㎜〇三二型式

作国英多郡

吉 野郷︵

今 の 岡 山県美 作 市東部

︶か ら納 められ

みまさか

た黒葛の荷札︒黒葛は︑ツヅラフジなど丈夫な蔓性の植物の総称

とみられる︒籠や綱などの材料にしたり︑結索に用いたりした︒黒葛は賦役令調絹絁条に規定された調副物︵調の付加税︶ ぶやくりょちょうそわつもの

の品目にみえ︑一人あたりの貢進量は六斤︵小斤︒約一・三五㎏︶

とされる︒調副物は︑養老元年︵七一七︶に中男の調と統合さ ちゅうな

れ︑

男作

物に 改編 された︵

令集

解﹄賦 役

調絹

絁条 ちゅうなんさくもりょしゅやくりょ

令釈所引養老元年勅︑﹃続日本紀﹄同年十一月戊午︿二十二 りょしょほん

日﹀条︒の解説も参照︶︒

72

は︑平城遷都から天平元年︵七二九︶まで長屋王邸の一郭だ

36

った平城京跡左京三条二坊一坪中央南部にある井戸SE5135

の遺物で︑七六〇年代以降の土器とともに出土している︒したが

って︑税目は書かれていないが︑の黒葛は中男作物としての貢

36 進 とみられる

︒﹃延喜式﹄で

も黒葛は美作国が貢

進 す る 中男作 物

えんぎしき

の品目の一つに指定されている︵主計寮式上美作国条︶︒ しゅけいりょ

は上端に切り込みを有し︑〇三二型式に分類される︒この切

36

り込みの間をよく見ると︑横方向に白い筋が走っているのがわか

る︒これは︑荷物に括り付けるための紐が掛けられていた痕跡で︑紐の下に隠れていた部分だけ日焼け等による変色を免れたことに

よるものである︒紐そのものは残らないが︑切り込みが︑確かに紐を掛けるための加工であることを示してくれている︒ 常陸国からの養銭の荷札

38

︵三九次︑SD5100Ⅴ区出土︒宮三︱三〇七六︶

( 表

常陸国那賀 郡 日部郷戸主物部大 山戸口日下部桑万 呂養

)

( 裏 )

銭六百文 天平寶字 四年正 月 廿 日

さ二四〇㎜・幅一九㎜・厚さ五㎜〇三三型

常陸国那賀郡︵今の茨城県北部︶からの養銭の荷札︒天平

宝字

ようせんてんぴょうほう

四年は七六〇年︒仕丁または衛士の資養のため出身地から物資 ちょう

を送る制度があり︑その物資のことを国養物という︒養銭は国養

物として送

られた銭のこと︒

米で送る場合もあ

る︵

﹃ 飛 鳥藤原 京

木簡二﹄三三九四号︶︒仕丁・衛士の養物制は養老二年︵七一八︶ ようろう

に は じまる

︵﹃

令集

解﹄

賦 役

仕丁条所

引同 年四 月二十 八

りょしゅやくりょ

日 格

︶︒木簡や正倉

院文書に散見する養

物銭︵養銭︶

は六百 文で

ある︵宮三︱三〇七六︑宮四︱四六六二︑城十五︱二八頁上︑城

十九︱二一

頁下など︑正倉院

文書続々修三︱四

︿﹃大日古﹄十五

巻二七頁﹀︑同十八︱三︿﹃同﹄十五巻一七〇頁﹀︶︒

通常 の荷 札と 異な り︑

日下 部 桑 万 呂 は 貢 納 者では な く︑都 に

さかべの

差発されている仕丁もしくは衛士の名であり︑桑万呂のための養

銭 六〇〇文という意

味 と な る︒荷 札の日 付は 萬 年 通 宝 が発 行さ

まんねんつうほう

れ る以前である

ので︑

六〇

〇文の 銭は和 同 開 珎 で納め られ た︒

どうかいちん

は︑上端付近に切り込みを有し︑下端は鋭く尖らせる加工が

38

施されており︑〇三三型式に分類される︒米の荷札には下端を尖

らせた形状のものが多く︑米俵の中に差し込んで使用した可能性などが想定されている︒一方︑切り込みは荷物の外側に紐で括り

付けるためのものと考えられる︒は銭の荷札であるから︑おそ

38 ら く は 束 に し た銭の 孔 に 通し た紐 を上 端の切 り 込みに 掛 けて結

あな

わえ付けられたのだろうが︑だとすると︑下端の尖りは一体何の

ための加工なのだろうか︵も参照︶︒

75

(8)

備後国からの庸米の荷札

︵九一次︑内裏西南隅外郭整地土出土︒宮七︱一一三二一︶

不知 山 里 俵 五 斗八 升

一七一㎜・幅二四㎜・厚さ三五一型

俵につけられた荷札︒﹁五斗八升﹂とあることから︑庸米の荷 ようま

札と考えら

れる︵

参照

︶︒五斗八升は今の約二

斗 六升一合

︑三 75

九・二㎏ほどにあたる︒

「 不知﹂と書いて

﹁いさ﹂と読む事例

が﹃万葉集﹄に

ある︵

巻 四

︱四九〇︑巻七︱

一〇八八︶ことか

ら︑

﹁不知山﹂

は﹁いさ

ま﹂と読むと考えられる︒﹃和名

類 聚

抄﹄では︑諫山郷は備後 いじゅしょういさやま

国︵今 の広 島県 東 部︶と 豊 前 国︵

今の 福岡 県東 部か ら大 分 県 北

ぜん

部にかけての地域︶にみえるが︑米の荷札であることからは︑備

後国沼

隈郡諫 山郷

︵今の 広 島 県 福山市 域 か︶に あた る可 能性が

ぬのく

高いと考えられる︒

な お︑備 後国 の諫 山郷 は︑

宮二

︱二 二六 三に よる と御 調 郡 に

つぎ

属 している︒この宮

二︱二二六三は︑

﹁国︱郡︱里﹂

表記で ある

ことから︑七〇一年から七一七年までの木簡である可能性が高い︒

の出土遺構からは和銅二年︵七〇九︶︑同三年の木簡が出土し どう

ており︑同じく御調郡所属であった可能性がある︒御調郡は沼隈 42

郡の西隣にあり︑どこかの時点で改編が行われたと思われる︒

下端を尖らせる〇五一型式は︑米の荷札に多い形状︒米の荷札は一つの荷物に二枚セット︵荷物の外側:外札と︑内側:中札︶

で付けられた可能性が指摘されている︒下端が尖っているは荷

42

物の内側に入れられた中札かもしれない︒

は第一次大極殿院内裏外郭の造営に伴う整地土から出土して

42

いる︒庸米は地方から上京してきた仕丁や采女などの食料に充 ちょうね

てられた︒の米は平城宮造営に差発された仕丁などの労働者に

42

よって消費されたのだろう︒ 讃岐国からの俵の荷札

45

︵九一次︑内裏西南隅外郭整地土出土︒宮七︱一一三二三︶

綾郡宇治 部里 宇 治 部阿弥俵

㎜・幅二一㎜・厚さ四〇一一型式

俵 に付け られ た荷 札

︒﹁

綾郡宇 治部里

﹂は﹃

類 聚

抄﹄

うる ゅし

の讃岐国阿野郡氏部郷︵今の香川県坂出市加茂町︶にあたる︒単

に﹁俵﹂としか記されないが︑米俵であろう︒税目を記さない米︵俵︶は︑年料舂米︵諸国の正

税 を 搗

精し都に送る米︒ ねんりょまいしょとうせい

76

参照︶の場合が多い︒貢納者は宇治部阿弥︒ べの

年料舂米は大炊寮に保管され︑主として役人の常食︵給食︶ おおりょう

に充てられた︒はと同じく第一次大極殿院内裏外郭の造営に

45 42

伴う整地土から出土しているから︑平城宮の造営に関わり米が消費されたのであろう︒

米の荷札とみられるが︑とは異なり長方形のシンプルな形状

42

で︑〇一一型式に分類される︒こちらは︑荷物の外側に付けられ

た外札かもしれない︒ただし︑そうであれば荷物に括り付けるた

めの紐を掛ける切り込みが欲しいところだが︑にはそれがない︒

45

あるいはも︑中札と考えるべきであろうか︒

45

平城宮跡出土であることから︑讃岐国からの旅路の途中で落ちることなく︑無事に都まで辿り着いたことは確実である︒は︑

45

一体どのように俵に添付されていたのであろうか︒

(9)

荷札 の大きさ

因幡国からのワカメの荷札︵三二次補︑SD4100出土︒宮四︱四六六八︶

48

( 表

因播国 気 多 郡 勝見 郷中 男神部 直 勝見 麻呂 作物海藻 大御 贄壱籠 六 斤

)

( 裏 )

神護景雲四

さ四〇八㎜・幅二〇㎜・厚さ五㎜〇一一型

因 播 国 気 多 郡 勝 見 郷︵

今の 鳥取 県鳥 取市 気高 町と 鹿野 町︶

かち

らの﹁海藻﹂の荷札︒海藻はワカメのこと︒因幡の﹁幡﹂は︑木

簡では手偏の﹁播﹂で記される︒

贄︵参照︶は木簡では普通︑大贄または御贄と表記される︒ にえおおにえにえ

63 古くは大贄で

︑ 天平初 年頃 を境 に御 贄へ と変 化する

︒ 大 御 贄 は

おおにえ

例が少ないが︑御贄にさらに敬称の﹁大﹂を重ねたのであろう︒

「 神 部

直勝見麻呂﹂はのほかには見えないが︑因幡国には みわべのあたいかち

48

神部直が分布していた︵年未詳﹁因幡国戸籍﹂︿﹃大日本古文書︵編

年︶

﹄一 巻 三 一 九頁﹀

︶︒

表 面 末 尾 の

「 太﹂は 大 斤 の意

︒大斤 の 六

だいきん

斤 は約四㎏

︒ 神 護 景 雲 四 年 は 七 七

〇 年

︒ 理 由 は わ か ら な い が

じんけいうん

﹁年﹂に相当する墨痕は残らない︒

因幡国のワカメの荷札には︑三〇㎝を超える長い材を用いるも

のが多い︵城一九︱三一頁下︑城二二︱三五頁上などのほか︑下欠であるが︑城一六︱七頁上︑城一七︱一四頁上も三〇㎝ほどの

長さがあっ

た可能性がある

︶︒

は四〇

㎝を超えてお

り︑とり

わ 48

け長大な逸品と言える︒

﹃延喜式﹄によれば︑因幡国はワカメを中

男 作 物

参照︶

えん ぎしき

ゅうなんさ

72 と 贄 の二つの税目で負担してい

る︵

主 計

式上 因幡 国条

・ 宮

にえしゅけいりょ

内省

式 例貢御贄条・内膳司式年料御贄条

︶︒なお︑内膳司

式同

ないしょ

ない ぜん

条には﹁参河国︿穉海藻一担四籠︑籠様長一尺二寸︑広八寸︑深

四 寸︑他 皆 同 此

︑﹀

﹂とある︒

穉 海藻︵ワカメの新芽︶の場合で

わか

はあるが︑貢納形態を考えるうえで興味深い︒中

男 作 物 は郡・郷単位までで

個 人 名を記さな

いの が通 常 で

んさ くも

あるが︑は個人名を記した上で︑中男の労役によって贄として

48

納めるワカメを採取したことを示す︒なお︑因幡国の荷札には︑

中男作物で個人名を記す贄のワカメの荷札が︑ほかに二点ある︵城一七︱一四頁上︑城二二︱三五頁上︶︒

◎若狭国からの贄のイワシの荷札

51

︵二二次北︑SD3035出土︒宮二︱二二八三︶

青郷 御贄伊和志  五升

さ七八㎜・幅一四㎜・厚さ三〇二一型

御贄として届けられたイワシの︵干物︶の荷札︒イワシは にえきた

﹁伊和志﹂と万葉仮名で表記されている︒﹁青郷﹂は︑﹃和名類 みょ

聚抄﹄の若狭国大飯郡阿遠郷︵今の福井県大飯郡高浜町付近︶ じゅしょうわかおお

にあたる︒はじめ遠

敷 郡 に属 し︑

二年︵

八二 五︶

七月 に

おにてんちょう

大飯郡所属となった︒五升は現在の約二升二合五勺︑四ℓほど︒

イワシの荷札だから小型なのかと思いきや︑貢納量は五升︒五升の荷物に付けるには小さな荷札である︒切り込みなどもないプ

レーンな短冊形の〇一一型式であり︑荷物にどのように添付されていたのか︑疑問も残る︒

(10)

荷札 の樹種

丹波国からの白米の荷札

53

︵九一次︑内裏西南隅外郭整地土出土︒宮七︱一一三〇七︶

〔国 ヵ 〕 〔負 千 部ヵ 〕

( 表

丹波   里  牟一俵

)

( 裏 )

和銅 三年四月廿 三 日 納白米五斗

二一四㎜・幅一九㎜・厚さ四三三型

丹 波国︵

今の 京 都府中部

と 兵庫県 東北 部︒

大阪府 域も 一 部 含

まれる︶から納

め ら れ た白米五斗の荷

札︒

税目 は記 さな いが

年料舂

参照︶の荷札とみられる︒米は重いため︑都に ねんりょまい

76

近く︑主に水運の利用できる国が輸貢国として規定された︵延喜

民部

省式下年料舂米条︶︒和銅三年は七一〇年︒ みんしょ

郡・

里を 記した 部 分は表 面が 剥が れてし まっ ている が︑

近く か ら見つ かっ た二 点の荷 札︵

宮七︱

一一 三〇 六・一 一三

〇八

︶ は と もに氷 上郡 石負 里︵今 の兵 庫県 丹波市 氷上 町周辺

︶からの

もの で︑

も﹁里

﹂の 上の 字は﹁

負﹂

と考え て矛 盾は ない︒

こ 53 れ らは貢進

者は 異なる が︑

地 名

+ 貢 進 者 名+﹁納白米五斗﹂+

年月日︑という書式も共通している︒また︑と宮七︱一一三〇

53

六は月日が﹁四月廿三日﹂で同一︑と宮七︱一一三〇八は年が

53

﹁和銅三年﹂で同一である︒したがって︑これらは同じサトから

同じ和銅三年四月廿三日付けで納められた荷札の可能性がある︒

は︑やと同じく︑第一次大極殿院内裏外郭の造営に伴う整

53

42 45

地土から出土している︒この遺構からはのように︑同じ国ない

53

し同じ郡からの荷札が複数組まとまって出土しており︑荷札の品目は米が多い︒地方から送られた米が平城宮造営に関わって消費

されたことを物語っている︒の樹種はヒノキ︒ヒノキを材とする木簡は平城宮跡出土木簡

53

の大勢を占めている︒は︑科学的保存処理が施される前に︑生

53

物顕微鏡で解剖学的特徴を観察して樹種を同定している︒従来行われてきた表面観察だけでは︑科より詳しい属を特定することは

できない︒破面を用いるなど︑試料採取の条件が揃うのであれば︑

より確実なデータを得るために有効な手段である︒

越前国からの白米の荷札

56

︵九一次︑内裏西南隅外郭整地土出土︒宮七︱一一三〇五︶

( マ

) ( 表

香 越前国 々郡綾部 里綾部里

)

( 裏

伊支見  白 米五斗

)

さ一六七㎜・幅二一㎜・厚さ六㎜〇五一型式

前国香 々郡 綾 部 里

︵﹁

香 々郡

﹂は

﹃ 和

類 聚

抄﹄の加賀 えちぜんあやうるゅし

国加賀郡で︑今の金沢平野北半にあたる︒但し﹁綾部里﹂は﹃和

名類聚抄﹄には見えない︶から納められた白米の荷札︒加賀郡は︑

弘 仁 十 四 年

︵八二 三

︶に江 沼 郡とと もに 加賀 国と して 分立 する

ぬま

までは︑越前国に属していた︒﹁加賀﹂の表記には︑の﹁香々﹂

56 のほ か︑

﹁香 我

﹂︵天

平 四 年

︿七三 二

﹀ 山 背国愛宕郡

郷 里未詳 計

やましろ

帳︑﹃大日本古文書︵編年︶﹄一巻五二八頁︶や﹁加我﹂︵﹃国

造本紀

﹄︶

こくうほん

も知られている︒年紀は書かれていないが︑国︱郡︱里の行政組織︵里制︶から

みて︑霊亀三年︵七一七︶以前のものである可能性が高い︒﹁綾 れい

部 里

﹂ を 二 度 繰 り 返 し て い る の は 書 き 誤 り で あ ろ う

︒ 裏 面 の

﹁伊支見﹂は貢進者の名︒ウジ名にあたる裏面冒頭の二文字は︑

筆画は明瞭で︑二文字目は﹁田﹂の字形に近いが︑一文字目が釈読できず︑成案は得られていない︒

踊り字︵同じ文字を繰り返す記号︒藤原宮跡など︑七世紀の木簡にもみられる︶の﹁々﹂は︑古代の木簡では一般に﹁﹂の字

形で書かれるが︑では最初の入りが弱く︑最後を横に引いて止

56

めているため︑﹁└

」 に

近い字形になっている︒

(11)

の樹種はスギ︒と同じく︑生物顕微鏡による樹種同定を行 56

53

った︒スギは平城宮跡出土木簡のうち︑ヒノキに次いで多い樹種

である︒また︑特に日本海側の諸国からの荷札にはスギを材とす

るものが多い傾向が指摘されている︒一方︑藤原宮跡出土木簡の樹種同定結果によると︑ヒノキ系が九割と圧倒的多数を占め︑ス

ギは全体の数%にとどまる︒樹種同定のデータを今後も蓄積して︑都城における木材利用の在り方を分析する必要があろう︒

◎豊後国からの調の綿の荷札

60

︵一三次︑SK820出土︒宮一︱二九六︶

( 表

豊後 国 大 分郡調綿壱伯屯 

)

( 裏 )

長さ

( 一二

) ㎜

二四㎜・厚さ五〇八一型式

豊後国大分郡︵今の大分県大分市・別府市を中心とする地域︶ ぶんおいた

か ら 調 として 納 め ら れ た 綿 の荷 札︒

類例 の少 ない

︑ 広葉樹 を 材

わた

とする荷札である︒﹁綿﹂は木綿ではなく︑蚕の繭から作る真綿を意味する︒﹁屯﹂ かいまゆわたとん

は梱包の単位︒記載は残らないが︑類例︵Ⅰ期展示︑Ⅱ期展示

58

など︶からみると︑一屯は重さ四両︵約一六八g︶に相当し︑

一〇〇屯は約一六・八㎏となる︒裏面の部分的に残る墨痕は︑や 59

はり類例から考えると︑収納責任者名の一部とみられる︒

は 内 裏 北 外 郭 のゴミ穴S

K8 20か ら見つ かっ た木簡 で︑

だいきたがいかく

60

同遺構からは綿の荷札が多数出土している︵︑およびⅠ期展示

26

・Ⅱ期展

示 など

︶︒これらは︑貢進

元の国や郡が

異なるに

も 58

59 関わらず書式が似

通い︑

広葉 樹を 用いる 点も 共通す る︒西

海 道

さいかいどう

の 九 国 二 嶋 の 調 庸 は 大 宰 府 に集 積し 消費 する 原則 であ った が︑

ざい

一部︑綿や絹︑紫草などは例外的に京進された︒調綿の荷札に国

や郡をまたぐ共通性が認められることは︑大宰府にて発送準備が行われ︑一括して荷札が作製・添付されたことを示している︒

荷札 にみ える 税制

丹後国からの贄のサケの荷札

63

︵一九七次︑SD5100出土︒城二二︱三五頁上︶

〔鮮鮭 ヵ 〕 雌腹

( 表

丹後

)

 御贄 「  」

( 裏

与謝川 

)

六二㎜・幅二五㎜・厚さ四㎜〇三二型式

丹 後国︵

今の 京都 府北 部︶

から 贄 と し て 届 け ら れたサ ケ の 荷

たんにえ

︒贄は 神に 供す る神 饌 や 共 同体の 首長 に貢 納す る初 物に 起源

しんせん

があるとされ︑そのため﹁御贄﹂﹁大贄﹂などと記されることも にえおおにえ

多い︒奈良時代には主に天皇の食膳に供する食材をいい︑海産物を中心とする︒

﹁鮮鮭﹂は︑軽く塩をした程度などの︑いわゆる干物に比べて せんけい

生に近い状態のサケのことか︒丹後国のサケは雌雄の区別をして

届けられており︑のほかに︑﹁雌腹﹂﹁雄腹﹂各一例が知られて

63 い る︵雌腹:城三一

︱二九頁上︑雄腹

:城二四︱二八

頁下︶

︒サ

ケの荷札としては他に因幡国︵今の鳥取県東部︑城二四︱二九頁

上︶・伯耆国︵今の鳥取県中・西部︑城二九︱三五頁上︶・信濃国

︵今の長野県︑城二二︱三三頁上︶の例があり︑因幡国の場合は

やはり雌雄の区別を明記している︵但し︑いずれも雄栖︶︒他に︑

越 後 国︵

今の新 潟 県︶で も サケの 漁獲 があ った ことが 長 岡市の

えち

八 幡

林官衙遺跡出土木簡からわかるが︑越後国のサケの荷札は はちまんばや

これまでのところ都では見つかっていない︵Ⅱ期展示も参照︶︒

14

裏面の﹁与謝川﹂は︑今の京都府与謝野町を北流して宮津湾に

注ぐ野田川・与謝川で︑この川を遡上したサケであることを示す︒

ワカメの荷札には︑

﹁埼﹂

﹁前﹂

﹁浦﹂

﹁ 嶋﹂

﹁海

﹂﹁浜﹂などの固

参照

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