6
二 〇 二 一 年 四 月 富 山 文 学 の 会
特
集
翁
久
允
群 峰 6
富 山 文 学 の 会
= 目 次
=
◇ 特 集 翁 久 允 逸 見 久 美 わ が 想 い 出 に 生 き る 父 翁 久 允
5
須 田 満 翁 久 允
「 安 孫 子 久 太 郞 翁 と 私
」
―
自 筆 原 稿 の 翻 刻 と 解 説
15
水 野 真 理 子 翁 久 允 と 富 山
―
『 高 志 人
』 で 目 指 し た 郷 土 研 究 36
近 藤 周 吾 新 民 謡 の 流 行
―
『 民 謠 詩 人
』 を 中 心 に
52
◇ 研 究 論 文 谷 川 拓 矢 共 振 す る 性 欲
―
田 中 兆 子 「 べ し み
」 論
、 あ る い は 性 欲 文 学 史 序 説
59
◇ 資 料
・ 報 告 高 熊 哲 也
「 黒 百 合
」 私 注
77
金 山 克 哉 滑 川 文 学 散 歩 記 録
94
高 熊 哲 也
文 学 散 歩 報 告 い た ち 川 沿 い を 歩 く 98◇ 2 0 1 9
・
2
0
2
0
年
度
活
動
報
告
102群 峰 6
富 山 文 学 の 会
= 目 次
=
◇ 特 集 翁 久 允 逸 見 久 美 わ が 想 い 出 に 生 き る 父 翁 久 允
5
須 田 満 翁 久 允
「 安 孫 子 久 太 郞 翁 と 私
」
―
自 筆 原 稿 の 翻 刻 と 解 説
15
水 野 真 理 子 翁 久 允 と 富 山
―
『 高 志 人
』 で 目 指 し た 郷 土 研 究 36
近 藤 周 吾 新 民 謡 の 流 行
―
『 民 謠 詩 人
』 を 中 心 に
52
◇ 研 究 論 文 谷 川 拓 矢 共 振 す る 性 欲
―
田 中 兆 子 「 べ し み
」 論
、 あ る い は 性 欲 文 学 史 序 説
59
◇ 資 料
・ 報 告 高 熊 哲 也
「 黒 百 合
」 私 注
77
金 山 克 哉 滑 川 文 学 散 歩 記 録
94
高 熊 哲 也
文 学 散 歩 報 告 い た ち 川 沿 い を 歩 く 98◇ 2 0 1 9
・
2
0
2
0
年
度
活
動
報
告
102特 集
翁 久
允
特 集
翁 久
允
わ が 想 い 出 に 生 き る 父 翁 久 允
逸 見 久 美
① 限 りな く 続く さ ま ざま な 想い 父の 想 い 出は
、 限り な く ある が
、今 そ れ らが さ まざ ま な 波紋 と な って
、 わが 脳 裡を 馳 せ ては 消 え てゆ く
。そ れ ら は単 な る 父と 娘 の情 に 繋が る 追 憶と い う より
、 父の 残 し てい っ た 諸現 象 を客 観 的に 検 討 し、 意 味 づけ
、 さら に 人 間的 な 生き 方 にま で 言及 し て、
「 翁 久允
」と い う 一個 の 人 間像 を 浮き 彫 りに し て納 得 して ゆ きた い と思 う
。 父が 日 頃
、話 し てく れ て いた 数 々の こ と が、 昨 日の 出 来 ごと の よ うに 思 い返 さ れて く る
。父 は 人 の真 似 だけ で 終 って し ま うの な ら始 め から や ら ない こ と
、必 ず 自己 の 独 創性 の あ るも の を生 み 出す こ と
、そ れ を 徹底 的 に自 分 で やり 通 すこ と
、 自分 の 信念 を 曲 げず に 初志 を 全 うす る こ と、 何 ごと に も 疑問 を もっ て 思 考し
、 探究 し
、 討議 す る よう に 言 って い た。 父 は 私ど も 兄妹 が 成 長し て ゆく 過 程 に於 い て
、そ の 年齢 に 応じ て 物 事を 分 か りや す く用 例
を あ げ なが ら 物語 の よ うに 話 して く れ た。 ま た川 の 流れ の よ う に停 滞 する こ と なく
、 不断 の 努 力を 重 ねな が ら前 進 し てゆ く よう に
、と も 教え て くれ た
。 ま た 毎夕
、 晩酌 し な がら 色 々の 実 例 を挙 げ て現 実 の 問 題 と も 照合 さ せて 話 し てく れ た。 子 供 たち へ の教 育 は非 常 に 合 理的 で 厳し い と ころ も あっ た が
、一 緒 によ く 遊ん で く れ たし
、 花見 や 散 歩や 映 画な ど に も常 に 行動 を 共に く れ た。 帰 る と必 ず 感 想文 を 書か せ られ て
、 それ ら を丹 念 に 見て く れ た。 こ れ は私 の 子供 の 頃か ら の 作文 の 練 習 に な った の では な いか と も思 わ れる
。 明 治 四十 年
、数 え 年 十九 歳 の時
、 単 身渡 米 し、 大 正 十 三 年 に帰 国 した 父 は「 東京 朝 日新 聞
」の
「 ァサ ヒ グラ フ
」 に 入 り 一時
「 大阪 朝 日
」へ 転 勤に な っ た時
、 芦屋 で 三女 の 私 が 生ま れ た。 そ の 直後 に 東京 の 朝 日新 聞 社か ら
「週 刊 朝 日
」の 編 集長 と し て呼 び 戻さ れ た
。こ の 頃多 く の文 壇 人 たち と の交 渉 があ り
、そ の前 後 には
「 中 央公 論
」、
「 改 造
」、
「新 潮
」、
「解 放
」、
「文 学 時代
」 な どに 数 十 編の 小 説 や 評 論 など を 掲載
、 そ の多 く がア メ リ カ時 代 の体 験 で
、 所 謂
「 移民 地 文芸
」 と いっ た もの だ っ た。 こ れら は 一部 の 文 芸 批評 に 載せ ら れ たが
、 昭和 初 期 の頃 か らの 軍 時体
わ が 想 い 出 に 生 き る 父 翁 久 允
逸 見 久 美
① 限 りな く 続く さ ま ざま な 想い 父の 想 い 出は
、 限り な く ある が
、今 そ れ らが さ まざ ま な 波紋 と な って
、 わが 脳 裡を 馳 せ ては 消 え てゆ く
。そ れ ら は単 な る 父と 娘 の情 に 繋が る 追 憶と い う より
、 父の 残 し てい っ た 諸現 象 を客 観 的に 検 討 し、 意 味 づけ
、 さら に 人 間的 な 生き 方 にま で 言及 し て、
「 翁 久允
」と い う 一個 の 人 間像 を 浮き 彫 りに し て納 得 して ゆ きた い と思 う
。 父が 日 頃
、話 し てく れ て いた 数 々の こ と が、 昨 日の 出 来 ごと の よ うに 思 い返 さ れて く る
。父 は 人 の真 似 だけ で 終 って し ま うの な ら始 め から や ら ない こ と
、必 ず 自己 の 独 創性 の あ るも の を生 み 出す こ と
、そ れ を 徹底 的 に自 分 で やり 通 すこ と
、 自分 の 信念 を 曲 げず に 初志 を 全 うす る こ と、 何 ごと に も 疑問 を もっ て 思 考し
、 探究 し
、 討議 す る よう に 言 って い た。 父 は 私ど も 兄妹 が 成 長し て ゆく 過 程 に於 い て
、そ の 年齢 に 応じ て 物 事を 分 か りや す く用 例
を あ げ なが ら 物語 の よ うに 話 して く れ た。 ま た川 の 流れ の よ う に停 滞 する こ と なく
、 不断 の 努 力を 重 ねな が ら前 進 し てゆ く よう に
、と も 教え て くれ た
。 ま た 毎夕
、 晩酌 し な がら 色 々の 実 例 を挙 げ て現 実 の 問 題 と も 照合 さ せて 話 し てく れ た。 子 供 たち へ の教 育 は非 常 に 合 理的 で 厳し い と ころ も あっ た が
、一 緒 によ く 遊ん で く れ たし
、 花見 や 散 歩や 映 画な ど に も常 に 行動 を 共に く れ た。 帰 る と必 ず 感 想文 を 書か せ られ て
、 それ ら を丹 念 に 見て く れ た。 こ れ は私 の 子供 の 頃か ら の 作文 の 練 習 に な った の では な いか と も思 わ れる
。 明 治 四十 年
、数 え 年 十九 歳 の時
、 単 身渡 米 し、 大 正 十 三 年 に帰 国 した 父 は「 東京 朝 日新 聞
」の
「 ァサ ヒ グラ フ
」 に 入 り 一時
「 大阪 朝 日
」へ 転 勤に な っ た時
、 芦屋 で 三女 の 私 が 生ま れ た。 そ の 直後 に 東京 の 朝 日新 聞 社か ら
「週 刊 朝 日
」の 編 集長 と し て呼 び 戻さ れ た
。こ の 頃多 く の文 壇 人 たち と の交 渉 があ り
、そ の前 後 には
「 中 央公 論
」、
「 改 造
」、
「新 潮
」、
「解 放
」、
「文 学 時代
」 な どに 数 十 編の 小 説 や 評 論 など を 掲載
、 そ の多 く がア メ リ カ時 代 の体 験 で
、 所 謂
「 移民 地 文芸
」 と いっ た もの だ っ た。 こ れら は 一部 の 文 芸 批評 に 載せ ら れ たが
、 昭和 初 期 の頃 か らの 軍 時体
制 は対 米 感 情の 悪 化か ら ア メリ カ 的な も の は親 し まれ な か った
。 しか し 父 は、 日 米関 係 の 悪化 を もう 一 度 客観 視 しよ う と して
「 朝 日」 を 辞め て 世界 漫 遊 の旅 に
、 当時 日 本画 壇 で 不遇 だ っ た竹 久 夢二 を 引き 立 て 昭和 六 年 五月 ア メリ カ へ 向か っ た
。し か し夢 二 は悪 興 行 師に 脅 さ れ、 純 粋に 応 援 して い た父 を 裏 切っ た ため 父 の 目指 し た世 界 漫 遊の 壮 途 は破 鏡 に陥 り
、 さら に 父は
「 日 米」 の 労働 争 議 にも 巻 き 込ま れ て
、朝 日 退職 金 は みな 使 い果 た し てし ま った
。 ァ メリ カ に 一年 ほ ど滞 在 して 昭 和 七年 五 月 に帰 国 した
。 そ れら に つ いて 自 著
『夢 二 と 久允
二 人の 渡 米と そ の 明暗
』
( 平二 十 八・ 四 風 間 書房 刊
)に 私 は書 い てい る
。 その 年 の 十二 月
、東 洋 精 神探 求 のた め ア ジア 諸 国を 縦 断 して 印 度 に渡 り
、詩 聖 タゴ ー ル を訪 ね
、 さら に 釈尊 を 中 心と し た 仏跡 を 一周 し て昭 和 八 年四 月 八 日に 帰 国し た
。 再渡 米 以 前の こ とだ が
、 東京 の
「朝 日 新 聞」 社 時代 の
「 週刊 朝 日
」の 編 集長 の 頃の 昭 和 五年 六 月 十四 日 に新 潮 社 から
『 十 三人 倶 楽部 新 作小 説 集 第一 集
』 を刊 行 した
。 こ の時 の 父 の作 品 は小 説
「彼 ら の 一群
」 で あっ た
。こ の
「 十三 人 倶楽 部
」 は昭 和 初期 の 新 興藝 術 派運 動 と して 近
代 文 學史 上 意 義が あ っ た。 彼 ら十 三 人中 に 川 端康 成 氏 が い た
。そ の 頃の 川 端氏 か ら父 あ ての 書 簡が あ る。
「 東 京麴 町 有 楽橋 際 朝 日 新聞 社 週刊 朝 日編 輯 部 消 印昭 2・ 8・ 24 翁 久允 様
」と あ り 拝 啓、 そ の后 は 御無 さ たい た しま し た 甚 だ 突然 乍 ら短 い 小 説一 節 買つ て い ただ け ませ ん で せ う か 明 日 頃、 持 参お 願 ひ いた し たく 存 じ ます が
、一 寸 前 以 て 手紙 で お願 ひ いた し ます 二十 四 日
川 端生 翁様 と あ っ て、 同 人の 十 三 人は 一 年一 回 ず つ新 作 集を 出 版 す る 予 定 だっ た が、 第 一 集限 り で分 散 し てし ま った
。 その 頃 の 日 本は 戦 時下 に 向 かい
、 五・ 一 五 事件 以 後は 軍 部の 弾 圧 も 目立 ち
、自 由 と か民 主 の思 想 を 提唱 す るも の は影 を 潜 めざ る を得 な かっ た
。 若 い 頃か ら 日本 を 客 観的 に 眺め て い た父 は
、こ の 非 常 時 下 に あっ て 祖国 の 本 質、 日 本の 文 化 と文 明 の展 開 につ い て 考 え、 こ れま で の 作家 生 活を 翻 し て昭 和 十一 年
、日 本
精神 の 源 流を 求 めて 郷 土 研究 に 打ち 込 も うと 発 心し て 郷 里の 富 山に 帰 って 郷 土誌
「 高こ 志し 人びと
」 を創 刊 した
。 時代 は 戦 時へ 向 かい
、 昭 和十 七 年十 二 月 勃発 の 大東 亜 戦 争は 激 化し て ゆき
、「 高志 人
」創 刊 から 昭 和二 十 年三 月 三 十日 に 富 山へ 家 族と 共 に疎 開 す るま で
、 父は 東 京と 富 山 の半 月 ずつ の 生活 を 続け て いた
。「 高志 人
」創 刊 後の 十 年 近く は 郷土 研 究 を表 看 板に し な がら
、 比較 的 自 由な こ とを 書 い たり
、発 言 し たり し てい た が
、戦 時 の弾 圧 が日 々 加 わり
、 遂に 統 合 の名 の もと に
「 高志 人
」は 廃 刊 同様 の 憂 き目 に 会っ た
。 憲兵 や 特攻 に は 父の 書 いた も の の真 髄 な ど理 解 でき な か った よ うだ っ た が、 終 戦と 共 に 言論 は 自 由に な り、
「 高 志人
」は 復 活 し、 父 は再 び 自由 に 執筆 で きる よ うに な った
。 終戦 間 際 はさ な がら 半 病 人同 様 だっ た 父 は戦 後 にな っ て 生き 返 っ たよ う に元 気 を取 り 戻 した
。 そ れが や がて 父 の 独創 的 と も言 う べき 三 尊道 運 動 へと 展 開 して ゆ く。 そ れ は戦 後 の日 本 及び 日 本民 族 の道 標 とし て 真( 釈迦
)・ 正
( 不動
)・ 愛( 観 音) の実 践を 目 指 す運 動 であ っ た。 こ れ は 人間 関 係の 理 想を 示 した も ので
、三 人 がそ れ ぞれ 真 実、 正 義、 愛 情の 精 神 で交 際 すれ ば 不 和も 不 快も な く 安静 に
過 ご せる と いう 人 間の 生 き方 が 父の 念 願で あ った
。 元 来
、無 欲 だっ た 父 は八 十 歳に な っ たと き
「高 志 人
」 の 三 尊 道運 動 の存 続 は
「高 志 人」 会 員 たち の お蔭 だ と考 え
、 更 にま た これ か ら の子 供 たち は 世 界の た め、 人 類の た め に 貢献 し 得る 日 本 人に な って 欲 し い、 そ れに は 自由 に 研 究す る た めの 資 金 が必 要 だと 考 え、 そ の 資金 を 得る た め に『 稚 翁 曼荼 羅 行
』を 書 き始 め た。 父 は 自ら を 七 十 歳 で「 太 稚」
、八 十 歳 で「 稚翁
」と 号し た
。こ の「 曼陀 羅
」 は 十 四 面の 画 帳で
、 釈 尊一 大 仏跡 諸 集 その 他
、仏 典 によ る 諸 仏で 不 動 尊、 観 音 は勿 論 中国 の 諸高 傑
、 日本 で は親 鸞
、 道元
、 日 蓮、 西 行
、良 寛
、そ れ から 富 山 に於 け る万 葉 足 跡な ど
、 父は 実 際 にそ れ ぞれ の 人々 の 歩 いた 所 を辿 っ て スケ ッ チ し、 そ の 中に そ の人 た ち の姿 を 父な り の 創 案 で 描 き、 父 独自 の 筆 法で 単 彩の 絵 と 字を 書 き残 し た
。 そ の 一 冊は 三 万か ら 三 万五 千 円と 評 価 され
、 三百 数 十冊 を 三 年 間で 書 き上 げ
、 昭和 四 十五 年 の 秋に 完 成し た
。そ の 集 ま った 一 千万 円 を 基金 と して 父 は
「高 志 奨学 財 団」 と い う財 団 法 人を 設 立 した
。 その 基 金を 底 辺 とし て 将来 の 日 本民 族 の 雄飛 を エ ネル ギ ーに し よ うと 念 願し た
。 こ の あ と 父の 一 万数 千 冊 の蔵 書 を、 富 山 市立 図 書館 に 寄 贈
制 は対 米 感 情の 悪 化か ら ア メリ カ 的な も の は親 し まれ な か った
。 しか し 父 は、 日 米関 係 の 悪化 を もう 一 度 客観 視 しよ う と して
「 朝 日」 を 辞め て 世界 漫 遊 の旅 に
、 当時 日 本画 壇 で 不遇 だ っ た竹 久 夢二 を 引き 立 て 昭和 六 年 五月 ア メリ カ へ 向か っ た
。し か し夢 二 は悪 興 行 師に 脅 さ れ、 純 粋に 応 援 して い た父 を 裏 切っ た ため 父 の 目指 し た世 界 漫 遊の 壮 途 は破 鏡 に陥 り
、 さら に 父は
「 日 米」 の 労働 争 議 にも 巻 き 込ま れ て
、朝 日 退職 金 は みな 使 い果 た し てし ま った
。 ァ メリ カ に 一年 ほ ど滞 在 して 昭 和 七年 五 月 に帰 国 した
。 そ れら に つ いて 自 著
『夢 二 と 久允
二 人の 渡 米と そ の 明暗
』
( 平二 十 八・ 四 風 間 書房 刊
)に 私 は書 い てい る
。 その 年 の 十二 月
、東 洋 精 神探 求 のた め ア ジア 諸 国を 縦 断 して 印 度 に渡 り
、詩 聖 タゴ ー ル を訪 ね
、 さら に 釈尊 を 中 心と し た 仏跡 を 一周 し て昭 和 八 年四 月 八 日に 帰 国し た
。 再渡 米 以 前の こ とだ が
、 東京 の
「朝 日 新 聞」 社 時代 の
「 週刊 朝 日
」の 編 集長 の 頃の 昭 和 五年 六 月 十四 日 に新 潮 社 から
『 十 三人 倶 楽部 新 作小 説 集 第一 集
』 を刊 行 した
。 こ の時 の 父 の作 品 は小 説
「彼 ら の 一群
」 で あっ た
。こ の
「 十三 人 倶楽 部
」 は昭 和 初期 の 新 興藝 術 派運 動 と して 近
代 文 學史 上 意 義が あ っ た。 彼 ら十 三 人中 に 川 端康 成 氏 が い た
。そ の 頃の 川 端氏 か ら父 あ ての 書 簡が あ る。
「 東 京麴 町 有 楽橋 際 朝 日 新聞 社 週刊 朝 日編 輯 部 消 印昭 2・ 8・ 24 翁 久允 様
」と あ り 拝 啓、 そ の后 は 御無 さ たい た しま し た 甚 だ 突然 乍 ら短 い 小 説一 節 買つ て い ただ け ませ ん で せ う か 明 日 頃、 持 参お 願 ひ いた し たく 存 じ ます が
、一 寸 前 以 て 手紙 で お願 ひ いた し ます 二十 四 日
川 端生 翁様 と あ っ て、 同 人の 十 三 人は 一 年一 回 ず つ新 作 集を 出 版 す る 予 定 だっ た が、 第 一 集限 り で分 散 し てし ま った
。 その 頃 の 日 本は 戦 時下 に 向 かい
、 五・ 一 五 事件 以 後は 軍 部の 弾 圧 も 目立 ち
、自 由 と か民 主 の思 想 を 提唱 す るも の は影 を 潜 めざ る を得 な かっ た
。 若 い 頃か ら 日本 を 客 観的 に 眺め て い た父 は
、こ の 非 常 時 下 に あっ て 祖国 の 本 質、 日 本の 文 化 と文 明 の展 開 につ い て 考 え、 こ れま で の 作家 生 活を 翻 し て昭 和 十一 年
、日 本
精神 の 源 流を 求 めて 郷 土 研究 に 打ち 込 も うと 発 心し て 郷 里の 富 山に 帰 って 郷 土誌
「 高こ 志し 人びと
」 を創 刊 した
。 時代 は 戦 時へ 向 かい
、 昭 和十 七 年十 二 月 勃発 の 大東 亜 戦 争は 激 化し て ゆき
、「 高志 人
」創 刊 から 昭 和二 十 年三 月 三 十日 に 富 山へ 家 族と 共 に疎 開 す るま で
、 父は 東 京と 富 山 の半 月 ずつ の 生活 を 続け て いた
。「 高志 人
」創 刊 後の 十 年 近く は 郷土 研 究 を表 看 板に し な がら
、 比較 的 自 由な こ とを 書 い たり
、発 言 し たり し てい た が
、戦 時 の弾 圧 が日 々 加 わり
、 遂に 統 合 の名 の もと に
「 高志 人
」は 廃 刊 同様 の 憂 き目 に 会っ た
。 憲兵 や 特攻 に は 父の 書 いた も の の真 髄 な ど理 解 でき な か った よ うだ っ た が、 終 戦と 共 に 言論 は 自 由に な り、
「 高 志人
」は 復 活 し、 父 は再 び 自由 に 執筆 で きる よ うに な った
。 終戦 間 際 はさ な がら 半 病 人同 様 だっ た 父 は戦 後 にな っ て 生き 返 っ たよ う に元 気 を取 り 戻 した
。 そ れが や がて 父 の 独創 的 と も言 う べき 三 尊道 運 動 へと 展 開 して ゆ く。 そ れ は戦 後 の日 本 及び 日 本民 族 の道 標 とし て 真( 釈迦
)・ 正
( 不動
)・ 愛( 観 音) の実 践を 目 指 す運 動 であ っ た。 こ れ は 人間 関 係の 理 想を 示 した も ので
、三 人 がそ れ ぞれ 真 実、 正 義、 愛 情の 精 神 で交 際 すれ ば 不 和も 不 快も な く 安静 に
過 ご せる と いう 人 間の 生 き方 が 父の 念 願で あ った
。 元 来
、無 欲 だっ た 父 は八 十 歳に な っ たと き
「高 志 人
」 の 三 尊 道運 動 の存 続 は
「高 志 人」 会 員 たち の お蔭 だ と考 え
、 更 にま た これ か ら の子 供 たち は 世 界の た め、 人 類の た め に 貢献 し 得る 日 本 人に な って 欲 し い、 そ れに は 自由 に 研 究す る た めの 資 金 が必 要 だと 考 え、 そ の 資金 を 得る た め に『 稚 翁 曼荼 羅 行
』を 書 き始 め た。 父 は 自ら を 七 十 歳 で「 太 稚」
、八 十 歳 で「 稚翁
」と 号し た
。こ の「 曼陀 羅
」 は 十 四 面の 画 帳で
、 釈 尊一 大 仏跡 諸 集 その 他
、仏 典 によ る 諸 仏で 不 動 尊、 観 音 は勿 論 中国 の 諸高 傑
、 日本 で は親 鸞
、 道元
、 日 蓮、 西 行
、良 寛
、そ れ から 富 山 に於 け る万 葉 足 跡な ど
、 父は 実 際 にそ れ ぞれ の 人々 の 歩 いた 所 を辿 っ て スケ ッ チ し、 そ の 中に そ の人 た ち の姿 を 父な り の 創 案 で 描 き、 父 独自 の 筆 法で 単 彩の 絵 と 字を 書 き残 し た
。 そ の 一 冊は 三 万か ら 三 万五 千 円と 評 価 され
、 三百 数 十冊 を 三 年 間で 書 き上 げ
、 昭和 四 十五 年 の 秋に 完 成し た
。そ の 集 ま った 一 千万 円 を 基金 と して 父 は
「高 志 奨学 財 団」 と い う財 団 法 人を 設 立 した
。 その 基 金を 底 辺 とし て 将来 の 日 本民 族 の 雄飛 を エ ネル ギ ーに し よ うと 念 願し た
。 こ の あ と 父の 一 万数 千 冊 の蔵 書 を、 富 山 市立 図 書館 に 寄 贈
し て公 開 し
、そ こ で「 稚 翁
」の 晩 年は 終 わ って
、 最後 に
「 稚仙
」 と改 称 した
。 そこ へ 持 ち上 が った の が
『翁 久 允全 集
』 刊行 の 話だ っ た
。家 族 や 近親 の 人た ち は、 こ の 歳に な っ て無 理 は禁 物 だ と危 ぶ ん だが
、 十数 年 前か ら ヨ ガ行 法 を 毎日 や って い た 父は
、 見 たと こ ろ元 気 そう で 曼 荼羅 を 描 いて い た頃 は 絵 遊び を 楽し む よ うで
、 ます ま す 健康 そ うだ っ た
。そ の こ ろ「 日本 経 済新 聞
」( 昭 四 十五
・三
・三
)に 父 の 署名 の
「 三尊 像 にか け る 命」 に
「描 い た 三千 体
、 画帳 売 って 奨 学 金に
」と あ り
、そ の 内容 に つい
て「 わ が 庵は 瞑 想の 場
」・
「 運命 を 決 めた 放 校」
・「 渡 米、 文 学 運動 へ
」・
「 諸 行 無常 を 悟っ て
」・
「特 高 の目 ご ま かす
」 とあ り
、 この 記 事は 全 国 的に 反 響を 呼 び
、い く つか の 注 文が あ った
。 こ れを 完 成 する に は十 年 以 上か か ると 言 わ れた が
、意 外 に 早く 終 わ った
。 その 後 す ぐに
『 翁久 允 全 集刊 行 会』 が 創 設さ れ
、着 手 し た父 は 毎 朝四 時 に起 き て「 全 集
」の 編 集 や校 正 に取 り 組 み、 入 院 しつ つ も全 集 十巻 中 五 巻ま で を 完結 さ せた
。 と ころ が 昭 和四 十 八年 二 月十 四 日
、話 し な がら 忽 然と し て 消え る よう に して 急 逝し た
。
突 然 のこ と なが ら
「 全集
」 の六 巻 以 降は
「 高志 人
」 の 会 員 た ちの 協 力も 得 て 私と 甥 の須 田 満 の編 纂 によ り 昭和 四 十 八年 十 二月 に 完結 し
、わ が 社青 林 書院 か ら出 版 した
。
「 高 志 人」 終 刊号
( 通 刊三 百 九十 九 号
)の
「 翁久 允 追悼 号
」 は四 十 九年 三 月に 高 志人 社 から 出 した
。
② 母と 父 母 キ ヨの 二 十三 回 忌 の昭 和 四十 八 年 二月 十 四日 に 父 が 急 逝 し
、父 の 死の 二 十 三年 前 の昭 和 二 十六 年 一月 七 日に 母 は 他 界し て いる
。 母 は死 の 前年 の 十 一月
、 突然 の 脳溢 血 か ら半 身 不随 と なり
、富 山 市内 の 不二 越 病 院に 入 院し
、 十 二 月十 日 に 退院 し て 新築 途 上の 現 在の 富 山 市内 に ある 安 野 屋の わ が 家へ 移 っ て新 年 を迎 え たが
、 一 月七 日 の七 草 の 朝こ の 世 を去 っ た
。こ の 母あ っ て こそ の 父の 人 生 は 自 由 に生 き
、さ ま ざま な こと を 成し 得 たと 言 えよ う か。 母 は 富 山 出 身
、 現 在 の 滑なめり 川かわ
市 の 高たか
月つき
に あ っ た 大 き な 肥 料 問 屋に 生 まれ
、 三 人の 兄 と二 人 の 姉と 妹 一人 だ っ た が
、 両 親は 早 世し た た め、 早 くか ら 兄 たち と 店を 切 り盛 り を し てい た せい か
、 当時 の 女性 に し ては 珍 しい ほ どの 太
っ腹 で
、 鷹揚
、 その 上
、 クリ ス チャ ン だ った せ いか
、 人 のた め 常 に尽 力 して い た人 だ っ た。 父 は 在米 中 の明 治 末 から 大 正 にか け て一 時 帰国 し
、 その 時
、 母を 知 り、 結 婚 して 父 は帰 米 し
、母 は 舅に 仕 え た後 の 大 正四 年 に単 身 渡 米し
、 大正 十 三年 に 父と 共 に帰 国 した
。 まず 想 い 出さ れ るの は
、 在米 十 八年 後 の 父は 再 度の 渡 米 後の 渡 印 後の 昭 和九 年 三月 に は 大森 区
( 現大 田 区) 鵜 の 木 に 百 八 十 坪 の 土 地 を 購 入 し 五 十 四 坪 の 平 家 を 建 て
「 弟鳥 荘
」 と号 し た。 こ こに 於 い て父 は 初 めて 自 由人 と な って
、 創作 に 専念 し よう と 決意 す る。 そ の 翌 年 に 伊 豆 大 島 の 三 原 山 行ぎょう 者じゃ
窟くつ
を 紹 介 す る 要 請 に 応じ て 一巡
、そ の あと 役えんの 行ぎょう 者しゃ
の 道場 だ っ た大おお
峰みね
山さん
の 研 究の た め に山 伏 姿で 三 週 間の 大 峰修 業 を 成し
、 吉野 か ら 熊野 ま で 歩行
、 その た めか 熊 野 で体 調 を 崩し
、 白浜 で 保 養し
、 大 阪、 京 都を 経 て帰 京 し た。 そ の あと 役 行者 研 究 や山 岳 仏教 や 本 地垂 迹 説の 文 献 など を 探 索し 研 究し て い た。 こ のよ う に 日本 の 神社 仏 閣 の由 来 や日 本 史 など に 熱 中し た 後、 再 び 健康 を 害し
、 一 時保 養 のた め 母 キヨ の 兄 がい る 岐 阜の 高 山へ 行 き
、そ こ で郷 土 研 究家 の 福田 夕 咲 氏を 知 っ て郷 土 研究 誌 の意 を 固 め、 著 名 な柳 田 国男 氏
か ら 郷 土研 究 誌創 刊 の 賛意 を 得て
、 昭 和十 一 年九 月 二十 日
、 前述 し た郷 土 誌「 高 志人
」 を創 刊 した
。 こ の よう な 父の 生 き ざま を 見る と
、 家庭 の 主人 と し て の 生 活 から 外 れて 思 い のま ま 自由 に 生 き、 励 み行 動 して き た よ うに 思 われ る
。 それ は 常に 母 の 経済 的 な支 え があ っ た か らで
、 それ が 当 然の こ との よ う な家 庭 であ っ た。 そ の 中で 生 活 して き た 私は 時 折不 審 に思 う こ とも あ った が
、 生活 費 は どこ か ら くる の かと も 気付 く こ とも な く
、 母 の 大 らか な 性格 は 金 銭面 で の愚 痴 は 一切 言 わず
、 ゆ っ た り とし た 生活 態 度で あ った
。 そ の 根底 に あっ た 父 への 母 の支 え を 今に な って 想 い 出 す
。 そ れは 母 が着 物 に つい て 実に 詳 し い人 で
、い つ も丹 後 の 呉 服屋 さ んが 色 々 の反 物 を背 負 っ てや っ て来 て いた こ と が 思い 浮 かぶ
。 母 は非 常 に交 際 範 囲が 広 く、 世 話好 き で 人の 面 倒 もよ く 見 て、 困 った 人 を助 け て 上げ た り、 来 客 は絶 え ず
、わ が 家 は賑 わ って い た。 そ の 中で 母 は 人 知 れ ず 呉服 の 商売 で 生 計を 立 てて い た もの か
、そ れ を 表 面 に は 一切 言 わず
、 交 際範 囲 は広 く
、 優し い 母を 慕 って く る 人 達と の ごく 自 然 な交 際 の中 で 商 売は 成 され て いた も の か
。ま た 時折 母 は 真夜 中
、床 の 中 で算 盤 をは じ いて
し て公 開 し
、そ こ で「 稚 翁
」の 晩 年は 終 わ って
、 最後 に
「 稚仙
」 と改 称 した
。 そこ へ 持 ち上 が った の が
『翁 久 允全 集
』 刊行 の 話だ っ た
。家 族 や 近親 の 人た ち は、 こ の 歳に な っ て無 理 は禁 物 だ と危 ぶ ん だが
、 十数 年 前か ら ヨ ガ行 法 を 毎日 や って い た 父は
、 見 たと こ ろ元 気 そう で 曼 荼羅 を 描 いて い た頃 は 絵 遊び を 楽し む よ うで
、 ます ま す 健康 そ うだ っ た
。そ の こ ろ「 日本 経 済新 聞
」( 昭 四 十五
・三
・三
)に 父 の 署名 の
「 三尊 像 にか け る 命」 に
「描 い た 三千 体
、 画帳 売 って 奨 学 金に
」と あ り
、そ の 内容 に つい
て「 わ が 庵は 瞑 想の 場
」・
「 運命 を 決 めた 放 校」
・「 渡 米、 文 学 運動 へ
」・
「 諸 行 無常 を 悟っ て
」・
「特 高 の目 ご ま かす
」 とあ り
、 この 記 事は 全 国 的に 反 響を 呼 び
、い く つか の 注 文が あ った
。 こ れを 完 成 する に は十 年 以 上か か ると 言 わ れた が
、意 外 に 早く 終 わ った
。 その 後 す ぐに
『 翁久 允 全 集刊 行 会』 が 創 設さ れ
、着 手 し た父 は 毎 朝四 時 に起 き て「 全 集
」の 編 集 や校 正 に取 り 組 み、 入 院 しつ つ も全 集 十巻 中 五 巻ま で を 完結 さ せた
。 と ころ が 昭 和四 十 八年 二 月十 四 日
、話 し な がら 忽 然と し て 消え る よう に して 急 逝し た
。
突 然 のこ と なが ら
「 全集
」 の六 巻 以 降は
「 高志 人
」 の 会 員 た ちの 協 力も 得 て 私と 甥 の須 田 満 の編 纂 によ り 昭和 四 十 八年 十 二月 に 完結 し
、わ が 社青 林 書院 か ら出 版 した
。
「 高 志 人」 終 刊号
( 通 刊三 百 九十 九 号
)の
「 翁久 允 追悼 号
」 は四 十 九年 三 月に 高 志人 社 から 出 した
。
② 母と 父 母 キ ヨの 二 十三 回 忌 の昭 和 四十 八 年 二月 十 四日 に 父 が 急 逝 し
、父 の 死の 二 十 三年 前 の昭 和 二 十六 年 一月 七 日に 母 は 他 界し て いる
。 母 は死 の 前年 の 十 一月
、 突然 の 脳溢 血 か ら半 身 不随 と なり
、富 山 市内 の 不二 越 病 院に 入 院し
、 十 二 月十 日 に 退院 し て 新築 途 上の 現 在の 富 山 市内 に ある 安 野 屋の わ が 家へ 移 っ て新 年 を迎 え たが
、 一 月七 日 の七 草 の 朝こ の 世 を去 っ た
。こ の 母あ っ て こそ の 父の 人 生 は 自 由 に生 き
、さ ま ざま な こと を 成し 得 たと 言 えよ う か。 母 は 富 山 出 身
、 現 在 の 滑なめり 川かわ
市 の 高たか
月つき
に あ っ た 大 き な 肥 料 問 屋に 生 まれ
、 三 人の 兄 と二 人 の 姉と 妹 一人 だ っ た が
、 両 親は 早 世し た た め、 早 くか ら 兄 たち と 店を 切 り盛 り を し てい た せい か
、 当時 の 女性 に し ては 珍 しい ほ どの 太
っ腹 で
、 鷹揚
、 その 上
、 クリ ス チャ ン だ った せ いか
、 人 のた め 常 に尽 力 して い た人 だ っ た。 父 は 在米 中 の明 治 末 から 大 正 にか け て一 時 帰国 し
、 その 時
、 母を 知 り、 結 婚 して 父 は帰 米 し
、母 は 舅に 仕 え た後 の 大 正四 年 に単 身 渡 米し
、 大正 十 三年 に 父と 共 に帰 国 した
。 まず 想 い 出さ れ るの は
、 在米 十 八年 後 の 父は 再 度の 渡 米 後の 渡 印 後の 昭 和九 年 三月 に は 大森 区
( 現大 田 区) 鵜 の 木 に 百 八 十 坪 の 土 地 を 購 入 し 五 十 四 坪 の 平 家 を 建 て
「 弟鳥 荘
」 と号 し た。 こ こに 於 い て父 は 初 めて 自 由人 と な って
、 創作 に 専念 し よう と 決意 す る。 そ の 翌 年 に 伊 豆 大 島 の 三 原 山 行ぎょう 者じゃ
窟くつ
を 紹 介 す る 要 請 に 応じ て 一巡
、そ の あと 役えんの 行ぎょう 者しゃ
の 道場 だ っ た大おお
峰みね
山さん
の 研 究の た め に山 伏 姿で 三 週 間の 大 峰修 業 を 成し
、 吉野 か ら 熊野 ま で 歩行
、 その た めか 熊 野 で体 調 を 崩し
、 白浜 で 保 養し
、 大 阪、 京 都を 経 て帰 京 し た。 そ の あと 役 行者 研 究 や山 岳 仏教 や 本 地垂 迹 説の 文 献 など を 探 索し 研 究し て い た。 こ のよ う に 日本 の 神社 仏 閣 の由 来 や日 本 史 など に 熱 中し た 後、 再 び 健康 を 害し
、 一 時保 養 のた め 母 キヨ の 兄 がい る 岐 阜の 高 山へ 行 き
、そ こ で郷 土 研 究家 の 福田 夕 咲 氏を 知 っ て郷 土 研究 誌 の意 を 固 め、 著 名 な柳 田 国男 氏
か ら 郷 土研 究 誌創 刊 の 賛意 を 得て
、 昭 和十 一 年九 月 二十 日
、 前述 し た郷 土 誌「 高 志人
」 を創 刊 した
。 こ の よう な 父の 生 き ざま を 見る と
、 家庭 の 主人 と し て の 生 活 から 外 れて 思 い のま ま 自由 に 生 き、 励 み行 動 して き た よ うに 思 われ る
。 それ は 常に 母 の 経済 的 な支 え があ っ た か らで
、 それ が 当 然の こ との よ う な家 庭 であ っ た。 そ の 中で 生 活 して き た 私は 時 折不 審 に思 う こ とも あ った が
、 生活 費 は どこ か ら くる の かと も 気付 く こ とも な く
、 母 の 大 らか な 性格 は 金 銭面 で の愚 痴 は 一切 言 わず
、 ゆ っ た り とし た 生活 態 度で あ った
。 そ の 根底 に あっ た 父 への 母 の支 え を 今に な って 想 い 出 す
。 そ れは 母 が着 物 に つい て 実に 詳 し い人 で
、い つ も丹 後 の 呉 服屋 さ んが 色 々 の反 物 を背 負 っ てや っ て来 て いた こ と が 思い 浮 かぶ
。 母 は非 常 に交 際 範 囲が 広 く、 世 話好 き で 人の 面 倒 もよ く 見 て、 困 った 人 を助 け て 上げ た り、 来 客 は絶 え ず
、わ が 家 は賑 わ って い た。 そ の 中で 母 は 人 知 れ ず 呉服 の 商売 で 生 計を 立 てて い た もの か
、そ れ を 表 面 に は 一切 言 わず
、 交 際範 囲 は広 く
、 優し い 母を 慕 って く る 人 達と の ごく 自 然 な交 際 の中 で 商 売は 成 され て いた も の か
。ま た 時折 母 は 真夜 中
、床 の 中 で算 盤 をは じ いて
い る姿 も 見 受け ら れた
。 そ の頃 の 私は 無 意 識の ま ま、 母 の 姿を 眺 め てい た だけ で
、母 一 人 で金 銭 面 での 苦 労を し て いた の で あろ う が、 母 はそ う し たこ と を 人に は 一切 言 わ ず悠 々 自適 な 生 活者 と して の 姿 のみ が 思 い浮 か んで く る ので あ る。 母は い つ も「 高こ 志し 人びと
」 に つ いて
「 高い 志 を持 つ 人
」の 雑 誌と し て 高く 評 価し て いて
、 父 に対 し て は非 常 なる 尊 敬 の念 を 抱 いて い た。 私 が初 め て
「高 志 人
」に 掲 載し た
「 太宰 治 の
『斜 陽
』を 讀 んで
」( 昭 二 十三
・ 九
)を 始 め
、
〈 俳句
〉「
『 探梅 行
』の 中の 四 句」
、「 故 郷に 帰 って
」( 昭 二 十 五・ 四
)を 非 常 に喜 ん でく れ た こと も
、こ れ ら を限 り に 他界 し て しま っ ただ け に涙 と 共 に想 い 出 され る
。母 は い やな こ とは 一 切 父に は 告げ ず
、 父の 文 才を 何 と して も 自 由に 伸 ばし て 上 げた い とい う 切 願こ そ が母 の 生 き甲 斐 だ った よ うに 思 われ て なら な い。 終戦 の 二 か月 前 の六 月 に 東京 の 家に 残 し てき た 物を 母 と 姉が 取 り に行 っ た時
、 父に 関 し ての 移 民 資料 の 殆ど が 運 送で 運 ば れ、 衣 類は 一 切入 れ ず に在 米 中 の父 の 自筆 原 稿 や掲 載 記 事や 書 物の み で、 こ れ らは 今 日 の父 の
「移 民 地 文芸
」 研究 に 於 いて も っと も 貴 重な 資 料の 数 々 であ っ
た こ とも
、 母に 心 から 感 謝し た い。
③ 父か ら 受け た 恩恵
( A
) 卒 業論 文 は「 高 志人
」 から
「 与謝 野 研究
」 へ 昭 和 二十 五 年の 三 月
、早 稲 田大 学 文 学部 の 旧制 二 期 生 と し て 国文 科 を卒 業 し
、二 十 八年 に 大 学院 を 終え た
。学 部 の 卒 業論 文 には
「 み だれ 髮 と晶 子 の 研究 みだ れ 髮 評 釈
( 一
)( 二)
」( 四 百字 原 稿用 紙 八 十六 枚
・ 百九 十 五枚
) を 提 出 した
。 此の 頃 は
『み だ れ髪
』 に つい て の資 料 は手 許 で 容 易に 見 られ な か った の で父 の 友 人の 歌 人尾 山 篤二 郎 氏 を 父か ら の紹 介 で 金沢 文 庫の お 宅 へ毎 週 通っ て ご意 見 を 伺っ た り
、そ の 頃 の図 書 館は 上 野に あ っ て頻 繁 に通 っ た りし て
、未 熟 なが ら 卒論 を 仕上 げ た。 こ の頃 の 私の 苦 労を 父 は察 し てか
、卒 業 後 の私 に「
『み だ れ 髮
』だ け では な く
、晶 子 の研 究 を
『高 志 人』 に 書い て み た らど う かな
」 と いう
、 思い が け ぬ父 の 言葉 を 受け た
。 そ の時 の 私は た だ〱
度 肝 を抜 か れる 思 い だっ た
。 そ の 頃 の私 は
「研 究
」 その も のに つ い て未 だ 何の 知 識 も な
かっ た ので
、何 と な く慄 然 とし た が、 その 一 瞬
、「 こ れ こ そが 文 学 愛好 の 新し い 出発 な の かな
」 と 思っ て これ ま で の「 高 志人
」 掲 載の も のな ど を 読み 返 し てみ た
。そ の 時 から 父 の意 向 に 添っ て 僭越 な が ら「 晶 子研 究
」 に着 手 し よう か と思 い 至っ た
。 その 後 父 はさ ら に「 題 を つけ て 連載 し て 見た ら どう か な
」と も 助 言し て くれ た こと に よ って
、 卒 業し た 昭和 二 十 五年 か ら
「高 志 人」 に
「与 謝 野 晶子 研 究
」十 五 回( 昭 二 十五
・ 七
~二 十 八・ 三
)の 連 載 をは じ め
、さ ら に「 与 謝 野晶 子 研究 ノ― ト」 四 十 一回
( 昭四 十
・ 二~ 四 十五
・ 二
)を 連 載す る よう に なっ た
。そ の他 に 随想 と して
「『 高 志 人』 と 父を 憶 う」
(昭 四 十四
・ 三) を書 き
、連 載 の「 わ が 半生
」 二十 三 回
(昭 四 十五
・ 五
~四 十 八・ 二
) を書 い た が、 こ れが
「 高志 人
」掲 載 の最 終 とな っ た。 この よ う に卒 論 の書 き 直 しで は ない が
、 父の 励 まし に よ る「 高 志 人」 連 載は
「 晶子 研 究
」の 出 発 にな っ たと 言 え よう か
。 その 頃 は高 度 成長 期 の 途上 に あ った せ いか
、
「 浅間 嶺
」、
「 形 成
」、
「 青 雲」
、「 明 日香
」、
「 青遠
」 など の 歌 誌に 発 表の 場 が十 分 にあ り
、「 与 謝 野研 究
」は ど んど ん 前 進し て いた よ う に思 わ れる
。 こ れも 父 の「 高 志 人」 が
土 台 に あっ た こと と 父 の励 ま しの 言 葉 によ る もの と 思い
、 感 謝 し てい る
。ま た 父 につ い ての 連 載 は、 富 山の
「 つむ ぎ
」十 三 回( 昭 五 十・ 八
~ 昭五 十 三・ 十 一)
、神 奈 川の
「 焔」 四 十 四回
(昭 五 十一
・八
~ 平十 一・ 四
)な どに も あっ た
。
( B
) 父 の言 葉—
「 勉 強は 生 涯つ づ けて ゆ くも の
」 昭 和 四十 四 年に
、 日 本の 女 子大 学 の 中で 実 践女 子 大 学 に 初 の ドク タ ー( 博 士 課程
) が設 立 さ れた
、 その と き当 時 実 践 女子 大 学教 授 だ った 恩 師塩 田 良 平先 生 から
「 博士 課 程 の 第一 号 に君 を 推 薦し た い」 と い うお 言 葉を 電 話で 受 け た。 余 りに も 唐突 な こと で 早速 夫 に相 談 した が
、「 早 稲 田 の大 学 院 を出 て い るの に
、今 さ ら何 を 言 うの だ
」と 言 っ て、 全 く とり 合 っ ても く れな か っ た。 そ こで す ぐ 富 山 へ 電 話し て 父に 一 部 始終 を 伝え る と
「勉 強 は生 涯 つ づ け て ゆ くも の だ」 と 言 って
、 翌日
、 早 速私 の 姉を 上 京さ せ 塩 田 先生 宅 に私 と 共 に訪 ね させ
、 大 学院 に つい て 詳し く 聞 き
、そ の 内容 と 父 の意 志 を姉 は 夫 に詳 し く伝 え
、ま た 父 から も 直 接電 話 で 夫に 頼 んだ よ うで
、 や っと 夫 の許 可 を 得た
。 試 験日 に は マス タ ーや ド ク ター の 受験 者 が 多
い る姿 も 見 受け ら れた
。 そ の頃 の 私は 無 意 識の ま ま、 母 の 姿を 眺 め てい た だけ で
、母 一 人 で金 銭 面 での 苦 労を し て いた の で あろ う が、 母 はそ う し たこ と を 人に は 一切 言 わ ず悠 々 自適 な 生 活者 と して の 姿 のみ が 思 い浮 か んで く る ので あ る。 母は い つ も「 高こ 志し 人びと
」 に つ いて
「 高い 志 を持 つ 人
」の 雑 誌と し て 高く 評 価し て いて
、 父 に対 し て は非 常 なる 尊 敬 の念 を 抱 いて い た。 私 が初 め て
「高 志 人
」に 掲 載し た
「 太宰 治 の
『斜 陽
』を 讀 んで
」( 昭 二 十三
・ 九
)を 始 め
、
〈 俳句
〉「
『 探梅 行
』の 中の 四 句」
、「 故 郷に 帰 って
」( 昭 二 十 五・ 四
)を 非 常 に喜 ん でく れ た こと も
、こ れ ら を限 り に 他界 し て しま っ ただ け に涙 と 共 に想 い 出 され る
。母 は い やな こ とは 一 切 父に は 告げ ず
、 父の 文 才を 何 と して も 自 由に 伸 ばし て 上 げた い とい う 切 願こ そ が母 の 生 き甲 斐 だ った よ うに 思 われ て なら な い。 終戦 の 二 か月 前 の六 月 に 東京 の 家に 残 し てき た 物を 母 と 姉が 取 り に行 っ た時
、 父に 関 し ての 移 民 資料 の 殆ど が 運 送で 運 ば れ、 衣 類は 一 切入 れ ず に在 米 中 の父 の 自筆 原 稿 や掲 載 記 事や 書 物の み で、 こ れ らは 今 日 の父 の
「移 民 地 文芸
」 研究 に 於 いて も っと も 貴 重な 資 料の 数 々 であ っ
た こ とも
、 母に 心 から 感 謝し た い。
③ 父か ら 受け た 恩恵
( A
) 卒 業論 文 は「 高 志人
」 から
「 与謝 野 研究
」 へ 昭 和 二十 五 年の 三 月
、早 稲 田大 学 文 学部 の 旧制 二 期 生 と し て 国文 科 を卒 業 し
、二 十 八年 に 大 学院 を 終え た
。学 部 の 卒 業論 文 には
「 み だれ 髮 と晶 子 の 研究 みだ れ 髮 評 釈
( 一
)( 二)
」( 四 百字 原 稿用 紙 八 十六 枚
・ 百九 十 五枚
) を 提 出 した
。 此の 頃 は
『み だ れ髪
』 に つい て の資 料 は手 許 で 容 易に 見 られ な か った の で父 の 友 人の 歌 人尾 山 篤二 郎 氏 を 父か ら の紹 介 で 金沢 文 庫の お 宅 へ毎 週 通っ て ご意 見 を 伺っ た り
、そ の 頃 の図 書 館は 上 野に あ っ て頻 繁 に通 っ た りし て
、未 熟 なが ら 卒論 を 仕上 げ た。 こ の頃 の 私の 苦 労を 父 は察 し てか
、卒 業 後 の私 に「
『み だ れ 髮
』だ け では な く
、晶 子 の研 究 を
『高 志 人』 に 書い て み た らど う かな
」 と いう
、 思い が け ぬ父 の 言葉 を 受け た
。 そ の時 の 私は た だ〱
度 肝 を抜 か れる 思 い だっ た
。 そ の 頃 の私 は
「研 究
」 その も のに つ い て未 だ 何の 知 識 も な
かっ た ので
、何 と な く慄 然 とし た が、 その 一 瞬
、「 こ れ こ そが 文 学 愛好 の 新し い 出発 な の かな
」 と 思っ て これ ま で の「 高 志人
」 掲 載の も のな ど を 読み 返 し てみ た
。そ の 時 から 父 の意 向 に 添っ て 僭越 な が ら「 晶 子研 究
」 に着 手 し よう か と思 い 至っ た
。 その 後 父 はさ ら に「 題 を つけ て 連載 し て 見た ら どう か な
」と も 助 言し て くれ た こと に よ って
、 卒 業し た 昭和 二 十 五年 か ら
「高 志 人」 に
「与 謝 野 晶子 研 究
」十 五 回( 昭 二 十五
・ 七
~二 十 八・ 三
)の 連 載 をは じ め
、さ ら に「 与 謝 野晶 子 研究 ノ― ト」 四 十 一回
( 昭四 十
・ 二~ 四 十五
・ 二
)を 連 載す る よう に なっ た
。そ の他 に 随想 と して
「『 高 志 人』 と 父を 憶 う」
(昭 四 十四
・ 三) を書 き
、連 載 の「 わ が 半生
」 二十 三 回
(昭 四 十五
・ 五
~四 十 八・ 二
) を書 い た が、 こ れが
「 高志 人
」掲 載 の最 終 とな っ た。 この よ う に卒 論 の書 き 直 しで は ない が
、 父の 励 まし に よ る「 高 志 人」 連 載は
「 晶子 研 究
」の 出 発 にな っ たと 言 え よう か
。 その 頃 は高 度 成長 期 の 途上 に あ った せ いか
、
「 浅間 嶺
」、
「 形 成
」、
「 青 雲」
、「 明 日香
」、
「 青遠
」 など の 歌 誌に 発 表の 場 が十 分 にあ り
、「 与 謝 野研 究
」は ど んど ん 前 進し て いた よ う に思 わ れる
。 こ れも 父 の「 高 志 人」 が
土 台 に あっ た こと と 父 の励 ま しの 言 葉 によ る もの と 思い
、 感 謝 し てい る
。ま た 父 につ い ての 連 載 は、 富 山の
「 つむ ぎ
」十 三 回( 昭 五 十・ 八
~ 昭五 十 三・ 十 一)
、神 奈 川の
「 焔」 四 十 四回
(昭 五 十一
・八
~ 平十 一・ 四
)な どに も あっ た
。
( B
) 父 の言 葉—
「 勉 強は 生 涯つ づ けて ゆ くも の
」 昭 和 四十 四 年に
、 日 本の 女 子大 学 の 中で 実 践女 子 大 学 に 初 の ドク タ ー( 博 士 課程
) が設 立 さ れた
、 その と き当 時 実 践 女子 大 学教 授 だ った 恩 師塩 田 良 平先 生 から
「 博士 課 程 の 第一 号 に君 を 推 薦し た い」 と い うお 言 葉を 電 話で 受 け た。 余 りに も 唐突 な こと で 早速 夫 に相 談 した が
、「 早 稲 田 の大 学 院 を出 て い るの に
、今 さ ら何 を 言 うの だ
」と 言 っ て、 全 く とり 合 っ ても く れな か っ た。 そ こで す ぐ 富 山 へ 電 話し て 父に 一 部 始終 を 伝え る と
「勉 強 は生 涯 つ づ け て ゆ くも の だ」 と 言 って
、 翌日
、 早 速私 の 姉を 上 京さ せ 塩 田 先生 宅 に私 と 共 に訪 ね させ
、 大 学院 に つい て 詳し く 聞 き
、そ の 内容 と 父 の意 志 を姉 は 夫 に詳 し く伝 え
、ま た 父 から も 直 接電 話 で 夫に 頼 んだ よ うで
、 や っと 夫 の許 可 を 得た
。 試 験日 に は マス タ ーや ド ク ター の 受験 者 が 多