言語行動の三次元的理解の試み
一盲聾児教育の視点から
福島 智
はじめに
目 次
盲聾児の言語行動の形成 言語行動の基本的構造 現代における言語の危機
盲聾児の言語行動と「言語の身体活動性」
言語行動の「三次元的モデル」
おわりに
は じ め に
「Iknew then that『W−A−T−E−R』meant
the wonderful cool something that was flowing over my hand. That living word awakened my
soul, gave it light, hope, joy, set it free! 」 (1)
その時私は、「ウォーター」が、今私の片手 の上を流れているこの素敵な冷たいものの名である
ことを知りました。この生き生きとしたひとつの言 葉が、私の魂を目覚めさせ、それに光と希望と喜び
とを与え、私の魂をときはなってくれたのです!(筆
者訳)
これは、ヘレン・ケラー(Helen Keller)の自伝
「THE STORY OF MY LIFE」の中の感動的な一 節である。ヘレンが「water」という言葉をきっかけ に、「物には名前がある」という認識に到達する瞬間 の描写だ。
ヘレン・ケラーは1880年に、合衆国で生まれた。
生後19か月の時に、視力と聴力を失い、盲聾となる。
1887年からサリバン(A.Sullivan)の教育を受け、
その後めざましい成長を遂げる。特に、その言語教 育の成功は、「20世紀の奇跡」とまで呼ばれ、各方面 からの関心を集めた。光と音のない世界に生きるヘ レンが言葉を身につけ、しかも極めて高い水準にま で到達した。このことは、人間の能力と教育の力が 秘めた偉大な可能性を証明するものであった。そし て、さらにヘレンの事例は、人間にとっての言語の 意味、人間の文化と言語との関わりといった根本的
な問題についても、多くの示唆を与えるものである。
例えば、カツシラー(E.Kassirer)は、ヘレンにつ いて次のように言う。
「はなはだ高い段階の精神発達及び知的教養に到 達したヘレン・ケラーの例は、人間が、その人間世 界を構成する際、その感覚的素材に依存していない ということを、明らかにかつ反駁の余地無く示して
いる。」(2)
ところで、このようにヘレンとサリバンの事例が あまりにも有名なので、ややもすると、盲聾児の教 育といえば、ヘレンの例のみが連想される傾向があ る。しかし、ヘレンのような「奇跡的な成功」はあ げられないにしても、盲聾児に対する教育の試みは 19世紀から始められており、現在までその実践は、
世界各国で地道に積み重ねられてきている。
確かに、ヘレンのように幼くして盲聾となった子 どもたちにとって、彼女ほどの発達を遂げることは 極めて困難であろう。そこに、ヘレンが「奇跡の人」
と呼ぼれる所以が存在する。彼らはヘレンのように 哲学や宗教を語ることはできないかもしれない。自
らの体験を自伝の形で美しく表現することもできな いかもしれない。しかしそうした盲聾児たちもヘレ ンと同様に、人間の発達における根本的な課題に取 り組む存在なのではないだろうか。茂木俊彦は、障 害の有無を問わず、全ての人間は、発達上の困難(危 機)に直面し、それを克服しつつある存在だととら
え、障害児を次のように理解する。
「そして、障害児は、それ自体社会的なものとの 関連で相対的ではあるが、なお残る障害故のハンデ
ィキャップその他の条件によって、この困難を一層 増幅した形で、経験せざるをえない子供であると考
えられる。」(3)
従って、彼ら盲聾児が直面せざるをえない困難が
大きければ大きいほど、それは人間の発達における
本質的な諸問題に、より鋭い形で向き合っているこ
となのだととらえることができるのではないだろう
か。そして、もしそうだとすれば、盲聾児の発達を
研究することは、単に盲聾児の教育に寄与するばか りではなく、広く人間一般の発達を理解する上でも、
一定の意義をもつものだと考えられるのである。
そこで本稿では、特に盲聾児の言語行動の形成の 問題を手掛かりに、人間にとっての本来的な言語行 動のあり方について考察したい。そして、続いて現 代の社会や教育をおおう「言語の危機的状況」につ いても若干の検討を加え、さらに、そうした状況を 理解し、克服するために、「言語行動の三次元的モデ ル」を仮説的に提出する。
1 盲聾児の言語行動の形成
「盲聾」(deaf−blind)という障害の定義は様々に 考えられる。すなわち、その障害の程度や障害を得 た時期、視覚、聴覚以外の障害の有無などの条件に より、多くのケースが想定されているからである。
従って、それぞれのケースに応じて、盲聾児への対 処の仕方も異なってくる。本稿では、3歳未満に視 覚、聴覚の両方に重度の障害を受けた子どもを「盲 聾児」として想定する。
次に、「言語行動」という語を、本稿では次のよう に広い意味で用いる。まず、「言語」を音声言語に限 定せず、文字言語や身振り言語なども含めた、「認識 やコミュニケーションのために用いられる記号体系 一般」としてとらえる。さらに、それを用いての「言 語行動」は、「話す」、「聞く」という相互的コミュケ ーション、及び、「読む」、「書く」という文字言語を 媒介とした行為にとどまらず、「言語」を用いてなさ れる内的な思考や外界の認識、情報の統合過程など
も含むものと考える。
さて、盲聾児とはどのような状態におかれている 存在だろうか。まず、3才未満に聴力を失うという
ことが何を意味するのかについて考えたい。
松沢豪は言う。
「いかなる原因にせよ、人は生まれつきか、また は生後3才以前に耳が聞こえなくなると、例外なく ことばをもたない子どもになります。そしてこのよ うな聴覚障害児は、特別な方法により『教えられな ければ』ことばを習得しません。」(4)
これは聴覚障害児を念頭において述べられている が、盲聾児は聴覚障害児のように視覚的な情報を受 容することもできない。聴覚的1青報及び視覚的情報 の欠如は、言語行動の形成にとって致命的な条件だ
といえるだろう。
ソビエトの盲聾教育の研究者メシチェリャコフ
(A.Meshcheryakov)は、盲聾児の特徴を次の2点 でとらえている。すなわち第一に、盲聾児は、外界 についての表象を触角を通じて形成するということ であり、第二に、他者との交流をおこなうための特 別な方法を教えられない限り、絶対的な孤独を運命 づけられるということである。(5)
このように、健常児の場合には自然に獲得される 言語が、盲聾児においては特別な方法を用いて、意 図的な働きかけを行わない限り、決して身につくこ とはないのである。しかもそれは触角を通してのみ なされる。
ここで、ヘレンを例にとって、盲聾児の言語行動 の形成においてもっとも重要な条件は何かについて
考える。
村井潤一は、ヘレンが「ウォーター」をきっかけ に、「言葉に出会う」のは、神の啓示のように突然ひ らめいたものではなく、そこに至るまでに重要な要 因があったとして、次の4点を指摘する。それは第 1に、ヘレンが言葉を覚えるために必要な知識をも っていたこと。第2に、ヘレンは野生児とは異なり、
人間的な環境の中で育ったこと。第3に、サリバン との間に人間的なつながりがあったこと。そして第 4に、言葉を覚える以前に、合図や身振りを使って いたことである。(6)
メシチェリャコフも、サリバンが訪れる前のヘレ ンの生活の重要性を指摘する。
「サリバンが現れた頃には、ヘレンは家の中だけ でなく、果樹園や野菜園と言った近隣のあらゆると
ころを、自由に歩き回れるようになっていた。そし て、家の中の品物や台所用品、庭内にある道具類に ついてもよく知っていた。彼女はこれらの道具のう ちの多くの物の用途を心得ており、正しく使うこと ができたのである。また、黒人の召使いマーサや時 には身近な大人たちとコミュニケーションをとるた めに、よく発達した身振りサイン(language of ges−
tures)を幅広くかつ体系的(systematic)に用いて いた。こうしたすべては、ヘレンの発達を促す望ま しい条件が整っていたことを意味し、また、ヘレン の教育の成功をかなりの程度まで説明するものであ
る。」(7)
そして続いて、ヘレンはすでにある種の概念を身
に付け、身振りサインも用いていたので、問題とな
るのはこうしたイメージを「言語化」することだけ
だったと述べている。筆者はメシチェリャコフの主
張はやや極端であると考えるものの、「サリバン以
前」を重視する点については賛意を表明する。サリ バン自身も、ヘレンの身振りサインについて記して
いる。
「私が彼女の教師になった時、彼女は自分で60ほ どの身振りを作っていて、それらはすべて彼女を知 る人には理解されていた。」(8)
また、我が国において、長く盲聾児を含む重複障 害児の教育に携わってきた中島昭美は、盲聾児の言 語獲得において、それ以前の行動形成が重要である
という。
「確実に移動し、自発的に手を使ってものに触れ るようになった子どもに対しては、身振りサインの 導入を図り、身振りサインを使って日常生活の基本 的習慣づけを試みることができる。」(9)
そして身振りサインを身につけれぼ、そこから指 文字や点字という記号体系の学習につないでいくこ
とができるという。(1°)すなわち、盲聾児の言語行動 の形成においては、触覚を駆使した身体活動を通し て外界を探索することが先ず重要であり、そうした 経験を通して基本的な概念の獲得をめざしていく。
次に、そうした概念と身振りサインを結びつけるこ とによって、言語学習の基礎を固めるというプロセ スが想定されるのである。いったん概念と身振りサ インが結びつけば、より体系化された記号である指 文字や点字への移行は比較的容易だと思われる。(ll)
このように考えてくると、盲聾児の言語行動の最 も基本的な形態は「身振りサイン」であると思われ る。このことは人間の言語の原初的な形態が「身振 り語」であると考える一つの理由を提供しているの ではないだろうか。この言語の原初的形態、すなわ ち「言語の起源」については後に触れることとし、
ここではもう少し「身振り語」について考察する。
ヴント(W.Wundt)は、身振り語(Gebardenspra・
che)を、「見ることはできてもきくことはできない 動作による思想の表現」としてとらえている。(12)と ころで、身振り語が体系化されたものが「手話」で あるが、ここでは「手話」にはいたらない身振り語 を考える。何故なら、盲聾児において使用される身 振り語は「身振りサイン」であり、手話のような体 系性を備えていないからである。
三浦つとむは身振りを2タイプにわけて考える。
その第一は対象の大きさやかたちを模写したもの
(例えば、釣った魚の大きさを両手で示す)であり、
その第二は、ある概念を表現するもの(例えば、小 指で「恋人」を表わす)だという。(13)
村田孝次は身振りが象徴的になることにより、そ の利用範囲や自発性が高められるであろうとしなが
らも、身振りには伝達機能に限界があるとし、次の 三つの理由をあげる。それは第一に、身振りが多義 的であること。第二に、身振りでは高度に抽象的な 事象を表現できないこと。そして第三に、身振りは 音声言語とは異なり、その連鎖内に組織や構造を持 たないことである。(14)
しかし、三浦が言うように、身振りの中に対象を 模写するいわば「絵画的な身振り」と、概念を表現 する「言語的な身振り」があり、また、村田の象徴 化の理論から考えると、「絵画的な身振り」から「言 語的な身振り」が分化・発生してくることが予想さ れる。もしそうだとすれば、村田の言う「伝達機能 の限界」はあるにしても、身振りは、言語の基本的 な形態として、十分に機能しうると思われるのであ る。なぜなら、言語の本性の重要な面は、その一般 化の作用、すなわち象徴機能にあると考えられるか
らである。
ヴントも、身振り語と象徴機能との関係について 述べている。
「象徴的身振りは、象徴化の心理的発達に関して 極めて有益である。なぜなら、それらはもっとも原 初的なものからもっとも高度に成長したものまであ らゆる可能な水準を提供し、そして、そこではシン ボルが、それ自体実際には具体的な手段によって表 すことのできない概念に対する、具体的な表現にな
っているからである。」(15)
盲聾児の言語行動の形成において、身振りサイン が重要であることはすでにみてきたが、筆者はその 理由として次の二点を考える。それは第一に、身振 りサインは言語を持たない盲聾児にとって親しみや すいものだと思われる点である。というのは、実際 的な目的から行っている自然な動作を、初期の身振 りサインとして採用できるからである(例えば、コ ップで水を飲む時の手の動きを、そのまま「水を飲 む」という意味の身振りサインにする)。そして第二 に、身振りサインは言語行動に不可欠な象徴機能の 発達を促す働きがあると思われる点である。という のは、実際的な動作とほぼ等しかった初期の身振り サインを、徐々に省略・抽象化していくことにより、
同時にそれを操作するための象徴機能の発達をも促
していくことができるのではないかと考えるのであ
る。すなわち、身振りサインが持つ可塑的であると
いう構造的な性質を利用して、身振りサイン自体を
流動的に変化させつつ、同時に象徴機能をそれに対 応させながら発達させる、というプロセスが想定さ れるからである。
このようにみてくると、身振りサイン(身振り語)
は、盲聾児の初期のコミュニケーション手段として 重要であるばかりでなく、人間の言語行動の基本的
な形態として位置付けることができるのではないだ ろうか。さらに、身振りサインがその使用によって 象徴機能の発達を促す可能性を持つものであるとす れば、それは人間の言語の起源を考える上で、極め て示唆的である。
2 言語行動の基本的構造
人間の言語行動の基本的構造をどのように理解す ればよいだろうか。前節では、盲聾児の言語行動の 形成を考察し、その結果として「身振りサイン」が
もっとも基本的な言語形態であると考えた。これは、
言語行動の基本的構造を考察する上で重要な視角で ある。本節では、さらに本質的な問題である「言語 の起源」を考えることを通して、言語行動の基本的 構造について考察したいと思う。
ところで、盲聾児にとってもっとも重要な初期の 言語が「身振りサイン」であるとすれば、それはそ のまま「言語の起源」を考える上でも当てはまるの ではないだろうか。というのも、そもそも言語を持 たなかった原初の人類というのは、周囲に言語的情 報がない生活をしていた人類のことであり、それは 言語獲得前の盲聾児の状態と酷似していると思われ
るからである。もっとも盲聾児の場合は言語的情報 の他に、視覚的・聴覚的な膨大な情報が欠落してお り、その点は、原初の人類と同じでないことは言う までもない。しかしながら、「言語的情報」に限って 考えた場合、盲聾児と原初の人類には、類似性が存 在していると思われるのである。
実際、興味深いことに「言語の起源」についての 多くの説の中で、「言語は身振りから始まった」とす る主張が大半を占めている。それでは、言語が「身 振り」から始まったと仮定して、それはどのような 身振りであっただろうか。
筆者がここで注目したいのは尾関周二の主張であ る。尾関は自説の展開に先立って、チャン・デュク・
タオの「労働起源説」を検討している。ここでもそ れに従うことにする。 チャンは意識の原初的形態 は「対象を指示する」ことだと考える。そして、そ の意識に人間の行動次元で対応するものが「対象を
指示する身振り」、すなわち、「指差し」だったと考 えるのである。ただし、「指差し」は直線的なもので なく、最初は「アーチ型の指示」だったろうと言う。
それは、例えばゴリラが示すような身体的接触によ る「誘導」を指示の身振りの原初形態として想定す るからである。
だが、このような身体的接触による誘導は、人間 の、例えば狩りのような集団的取得活動の場では起 こり得なかったろうとチャンは言う。なぜなら、手 は狩りの道具によって塞がっていたろうし、道具の 使用は人間の行動範囲を拡張するからである。そこ で対象(獲i物)に向かっての相互の誘導は、「距離を 隔てての誘導」、すなわち「指示の身振り」にならざ るをえなかったと考える。さらに、そこには音声に よる呼び掛けがともなっていたことが想定され、そ うした身振りと音声が複合することによって、言語 が発生したと考える。(16)
このチャンの説に対して、尾関はそれを評価しつ つも、不十分であると考える。すなわち、そもそも 言葉による対象指示が他者に通じるためには、そこ には社会的な規範が必要であり、必然的に言語には
「社会的規範」という特性が存在すると考えるので ある。そして尾関は次のように結論づける。
「だからこう言えよう。類人猿に近いレベルの人 類の祖先において別々に発達した、集団的な取得活 動と社会的な交渉活動が、ある段階で交差・結合し、
相互に前提し合うことによって、それらは急速に社 会的労働と言語的コミュニケーションへと形成され
ていったと。」(17)
このように、尾関はチャンが言うような「指示に 身振り」だけではなく、「社会的規範性」に裏打ちさ れ、社会的な交渉活動を支える「相互の身振り」が 必要であったろうと考えるのである。これを言い換 えれば、言語行動の基本的な構造として、「外界の認 識」という側面と「相互的コミュニケーション」と
いう側面とを想定していると考えられるだろう。
ところで、尾関はこうした言語の発生過程に、専 ら人間の実際的な目的を関連づけている。すなわち、
集団的取得活動における対象(獲物)の指示や、そ うした活動を円滑にするための相互コミュニケーシ ョンといったものである。しかしながら筆者は、言 語の発生を理解するためには、このように言語を一 つの「手段」としてとらえる視点だけでは不十分で、
言語行動そのものがある種の「目的」を持つという
とらえ方が必要なのではないかと考える。すなわち、
「外界の認識」と「相互的コミュニケーション」に 伴う、いわば本能的な喜びといったものの想定が必 要だと思われるのである。
たしかに言語発生の最初期においては、文字通り 生きるための手段としての言語行動がなされていた ということは考えられる。しかし言語行動が発達す るとともに、それ自体が「目的化」する過程が生じ たのでないか。すなわち、食欲や性欲と言う肉体的 な欲求とは別に、「外界を認識し他者と相互的コミュ ニケーションをもつ」こと自体を求める、ある種の 心理的欲求が生まれてきたのではないだろうか。と いうのも、こうした心理的欲求があり、それが満た された時の喜びがなければ、人間が文明を発達させ、
文化を生み出したこと、そして、何よりも言語行動 をこれほど活発化させたことの説明が困難だと思わ れるからである。従って筆者は、この「手段」と「目 的」の二つの側面は、言語の起源のみ関連づけられ るものではなく、現代の人間の言語行動の基本的構 造としても存在するのではないかと考える。
中島昭美は、障害児教育の実践を通してとらえた、
人間行動の二つの原動力について述べている。
「その一つは外界を知り、理解し、構成する喜び であり、他の一つは、人と接し、純粋な人間関係が 成立する喜びである。」(18)
そして中島は、次の二つの例を紹介している。そ の一つは、成人してから開眼手術を受けた女性につ いての記述であり、彼女は開眼後、視覚的情報の処 理に慣れるため、基本的な図形の弁別訓練を受けて
いた。
「……小さな図形で距離を離すと、円と四角の区 別がつきにくくなったが、三角だけははっきりわか った。その時、三角を提示すると彼女は答える前に
くっくっとうれしそうに笑った。」(19)
もう一つ、「純粋な人間関係が成立する喜び」の例 として、ある寝たきりの重度障害児が初めて自力で 歩いた時の例をあげている。
「……寒い日で、た一ちゃんは一日中こたつに入 っていた。夕方、お父さんが仕事を終えて帰り、こ たつの向かい側に、入った。その揺れ具合ででも感
じたのであろう。た一ちゃんは、こたつから出てむ っくりと立ち上がり、こたつ伝いにお父さんの方へ、
抱かれようとして歩いたとの事である。た一ちゃん は、寝たっきりで、ブラインディズムが激しく、食 事も排泄も全面介助で何も出来ないように見えるけ れども、実は素晴らしい人間なのだ。これほど人間
らしさを如実に示している人間行動の原動力はある
まい。」(20)
中島の言う、「外界を知り」、「純粋な人間関係を成 立させる」喜びというのは、そのまま、「外界の認識」
と「他者との相互的コミュニケーション」に伴なう 喜び、としてとらえることができるだろう。そして
この二つが人間行動の原動力だとすれば、それはま た、言語行動の原動力だとも考えられる。さらにこ のことは、障害の有無や時代の違いを越えて、人間 の言語行動の基本的な構造をなすものとしてとらえ ることができるのではないだろうか。
近藤純夫は、子どもとのインタビューの経験を通 して、「素晴らしいコミュニケーション」が成立する ためには、「コミュニケーション」そのものを求める 姿勢が重要だと述べている。
「『子供に限らず、人と素晴らしいコミュニケーシ ョンをもてるということは、その人の考えているこ と、関心を持っていることに合わせるのではなく、
それ以上に、その人を好きになることなんだ。その 人と何を喋りたいかじゃなくて、その人とお喋りす
ること自体を望むことなんだ。』」(21>
この指摘は、「コミュニケーション」が単なる「手 段」なのではなく、それ自体が「目的」となる側面 を持っていることを示していると言えるだろう。そ して筆者は、この「目的」の側面に注目する必要を 感じるのである。
従って、これまでの考察をもとに、筆者の言語行 動の基本的構造についての第一の意見をまとめれば 次のようになる。
まず、言語行動には、その発生的観点、及び機能 的観点から見て、「外界の認識」と「相互的コミュニ ケーション」という二つの側面が考えられるのでは ないか。そして、それとは次元を異にするもので、
言語行動が実際的な目的のための「手段」となると いう側面と、それ自体が一つの「目的」、すなわち、
「外界の認識」と「相互的コミュニケーション」に 伴なう喜びを求めるという「目的」であるという側 面が存在するのではないだろうか。これを図式的な モデルで考えると次のようになるだろう。
すなわち、そこには「認識」と「コミュニケーシ ョン」という逆の方向を向いた二つの「ベクトル」
があり、さらにそれとは次元を異にする「手段」と
「目的」というやはり逆の方向を向いた二つの「ベ
クトル」が存在する。そして、この二対の「ベクト
ル」が互いに均衡し、密接な関係を保っているのが
言語行動の基本的構造ではないかと考えるのであ る。これは、いわば「言語行動の二次元的モデル」
としてとらえることができるだろう。 しかし、筆 者はこのモデルでは言語行動の基本的構造を十分に 明らかにできないと考える。その点について、以下 で考察したいと思う。
3 現代における言語の危機
現代社会には、言語をめぐる危機的状況が存在す るのではないだろうか。筆者は、この「危機的状況」
を、言語行動の基本的構造における「内部的不均衡」
としてとらえたい。前節で述べた「二次元的モデル」
で考えると、現代社会には、明らかにこのモデル内 に「不均衡」が生じているように思われるのである。
それでは、どのようなかたちでそれは現れてくるで あろうか。「二次元的モデル」を手掛かりに考察を行 いたい。
筆者がこのモデルで考える第一の次元は、「外界の 認識」と「相互的コミュニケーション」というふた つの「ベクトル」によって構成されていた。現代社 会の言語をめぐる状況を考えるとき、この次元にお ける不均衡は生じていないだろうか。それを検討す るにあたって、最も典型的な例の一つが現代の学校 教育の状況に見出だせると思われる。
現代の学校教育では、ややもすると文字言語と音 声言語を用いた「一方的な知識の注入」が中心にな
りがちである。これは子供の側から見れば、「外界の 認識」に偏った言語行動を強いられている状態と言 えるのではないだろうか。
学校で行われる授業でも、確かに教師と生徒の間 にやりとりは存在する。その意味から、学校教育に
「相互的コミュニケーション」がないとは言えない。
しかしながら、そこにおけるコミュニケーションは、
多分に教師から生徒への一方的なものに終わり、「相 互的」という条件を満たし切れていないのではない か。また、教科書を中心とする種々の教材は、まさ に文字言語による「知識の一方的注入」である。そ して、そこで生徒に求められている文字言語の使用 は、一定の知識の習得を促すためのものであり、そ うした習得の結果を確認するためのものであること が多いのではないか。これもまた、「外界の認識」、
しかも、ある決められた方法での「認識」という方 向に偏った状態だといえるだろう。
さらに、こうした第一次元での偏りは、第二次元 にも不均衡をもたらす。すなわち、「実際的目的のた
めの 手段 」と、「それ自体が喜びを伴う 目的 」 という二つの「ベクトル」を考えたとき、前者に偏 る傾向が生じているのではないかと思われるのであ る。これを学校教育に即して考えるならば、学校に おける言語を媒介とした知識の授受は、より高い成 績を修めるための、つきつめれば、より高い偏差値 の上級学校に進学するための、単なる「手段」にな
ってしまっているのではないかということである。
例えば、ある中学生は次のような詩を書いている。
ぼくの見た夢 大きな商店の店先に ぼくは並べられていた
ぼくも、ぼくのまわりの商品も みんな値段がつけられている それは偏差値である
お客(高等学校)は数値の高いものから買って
いく
ぼくは売れ残ってなかなか売れない 店先では
売り子(教師)が品物をふいたり並べたりして
いた。(22)
このように、学校教育における言語を媒介とした 知識の授受は、「相互的コミュニケーション」よりは、
一方的な「外界の認識」の強制へ、「喜びを伴う目的」
よりは、単なる「手段」と、それぞれ偏る傾向があ るのではないか。そうした学校は、子供達にとって 抑圧的で魅力のないものとなってしまう。小学4年 生のある子供達は、「学校」に対するイメージを問わ れ、「学校は地獄の塔だ」、「学校は人食いだ」、「学校 は私達を苦しめる悪魔だ」、と凄まじい表現で答えて
いる。(23)
さらに問題なのは、このような言語の危機的状況 が、単に学校教育の場においてだけでなく、子供達 の日常生活全体に、様々な形をもって現れてくると いうことである。例えばそれは、学習塾などの「学 校外教育」をめぐる現状であり、また、テレビや貸 しビデオ、コミック雑誌などに代表される一方的で 膨大な情報の氾濫の中に見出だされるであろう。
学習塾の存在は、今や子供達の日常生活において、
学校以上の意味を持っていることも少なくないだろ
う。しかし多くの場合、その背景には、「偏差値のよ
り高い上級学校に進学する」という、強迫的とも言
える要求が横たわっていると思われる。そして、こ
の上級学校に進学するための入学試験は、ほとんど
の場合、先にあげた「外界の認識」と「手段」の方
向に偏った言語行動を求めているのではないだろう か。筆者は、こうした状況の中に、現代の学校教育 をめぐる登校拒否・不登校・中途退学問題の原因の
・つを見出だすのである。
一方、学校や学習塾から離れた家庭においても、
テレビやコミック雑誌などに代表される膨大な情報 が、「言語の危機的状況」を作り出しているとは言え ないだろうか。こうした媒体は、映像、写真、絵と いった視覚的情報を含んでいる。しかし、いかにリ アルな情報を提供してくれようと、それが実体験で ない以上、映像や写真も「記号」の一種にすぎない のではないだろうか。それらは、音声言語、文字言 語に続く「映像言語」としてとらえることができる のではないかと考える。そして現代にあっては、こ の「映像言語」の存在が、量的にも質的にも他の言 語を圧倒しつつあると思われるのである。その顕著
な例がテレビの生活への浸透である。
汐見稔幸は、テレビを通しての膨大な情報の中で、
現代の子供達が感動に乏しい生活を送っていると言
う。
「それは、今日の子供達の多くが、氾濫する刺激 の中に埋もれてしまい、自分の感動をじっくり暖め、
それを表現することによって感動を生きる、という ような生活を極めて送りにくくされているからであ る。テレビの番組に一一日に何時間も浸っている子供 は、大抵次の日にはどの番組を見たかも忘れている。
感動が持続しないシステムの中で生活を強いられて
いるのである。」(24)
また、坂元忠芳は、遊びとしてのテレビ鑑賞につ いてふれ、それが一方では子供・青年の人間関係の 不安定さを覆い隠す働きをするものであり、他方で は、テレビの非日常性を日常性へと移す「気分」の 転換であるという。(25)
テレビは、音声言語と文字言語で、そして「映像 言語」によって構成された情報媒体である。その情 報はあくまでも一方的であり、「相互的コミュニケー ション」は存在しない。そしてさらに、こうした一 方的な情報は、子供達に喜びを与えることなく、「不 安定な人間関係を覆い隠し」、「『気分』を転換する」
ための単なる「手段」の役割を果たすだけのものに なってしまってはいないだろうか。そこには、テレ ビを通して得た認識によって、喜びや感動を経験す るといったこととは程遠い状況が、存在していると 思われるのである。そして、このテレビをめぐる状 況は、各種のビデオテープの氾濫によって拡大され、
一層危機的状況が深まりつつあるのではないだろう
か。
付言すれば、このような状況は子供達ばかりでな く、当然の事ながら大人達にも無関係では有り得な いだろう。現代社会の中で大人達も一方的な「知識 の詰め込み」を強制され、膨大な言語的情報の中で、
感動に乏しい生活を強いられているとは言えないだ
ろうか。
それでは、何故言語行動にこのような偏りが生ま れてくるのだろうか。それについて、再び盲聾児の 言語行動に立ち返りながら考察を加えたい。
4 盲聾児の言語行動と
「言語の身体活動性」
前節において、現代社会の言語をめぐる危機的状 況についてふれた。そして筆者は、これを「二次元 的モデル」内部の不均衡としてとらえようとした。
それでは、この不均衡は何故生じてくるのであろう か。ここで、再び盲聾児の言語行動の形成について 考えたい。というのは、盲聾児の言語行動の形成が、
言語行動の本来的なあり方を考える上で示唆的だと 思われるからである。
まず、一つのエピソードを紹介する。筆者は、か つて阪田広揮君という盲聾児について事例研究を行 った。(26)広揮は3歳未満に視覚・聴覚に重度の障害 を受けた盲聾児である。このエピソードの当時(1
986年11月)、広揮は9歳で、盲学校小学部の3 年生である。知的諸能力、とりわけ言語能力の発達 遅滞が著しく、語彙も乏しい。他者とのコミュニケー ションには指文字を用いているが、ごく短い言葉で のやり取りがほとんどである。しかしながらその一 方で、外界に対する旺盛な好奇心を持ち、対人・対 物の活発な活動を展開する。特に他者との相互交流 においては、実に楽しげに生き生きとした様子を示 す。人格面での発達には素晴らしいものがある。
さて、ある日広揮が母親とともに学校から帰宅す ると、家の前にブルドーザーが止まっていた。畏の 家を解体する工事のためのものである。広揮はブル
ドー一ザt−一に興味を持つと同時に、それ以上に「家を 壊す」ということに魅きつけられる。
彼は早速裏の家に回り、木切れを触りながら説明 を受ける。そして、「オジサンワイエヲコワス」と指 文字で「独り言」をしきりに言いながら周囲を探索
していたという。
この興奮は家に戻ってからも消えず、広揮は母親
に指文字で次々と質問を行う。
広揮 「オジサンワ ゲンカン(は
の?)」
母 「モ コワス」
広揮 「オジサンワ ダイドコロ」
母 「モ コワス」
どうする
とやり取りを行い、この後、「トイレ」や「階段」や 「二階」についても続いて尋ねる。そして最後に、
広揮 「オジサンワ カベ」
母 「モ コワス」
というやり取りを行うのである。この時、広揮はリ ビングルームの壁をばんばんと叩いていたという。
この事例は、盲聾児の概念形成や言語獲得の問題 を考える上で大変興味深い。広揮にとって「家」の 概念とはどのようなものだったのだろうか。通常、
視覚によって「家」の全体を瞬間的に把握できるも のにとって、「家」とは一つの統一体である。また、
建築中や解体中の「家」を見ることによって、それ が必要に応じて建てたり壊したりすることのできる
ものだということは容易に理解できる。
ところが広揮にとっての「家」とは、台所や玄関 や、階段や二階といった、自分の足で歩き、手で触 って過ごしている個々の部分の集合体である。それ 故に、「家を壊す」という事態が、大きな興奮をもた
らす事件として感じられたのであろう。これは、広 揮が「家」という概念を、あくまでも自らの身体的 経験を元に作り上げていることを意味しているので はないか。そしてそれは、「家」にとどまらず、広揮 が外界の事象を認識する際に常に用いている基本的 な方法なのではないだろうか。さらに言えば、その ためにかえって、外界に対する関心や好奇心が強ま り、それらが満たされた時の驚きや喜びも大きくな っているのではないだろうか。
概念は、本来具体的な経験を通して獲得される。
すなわち、自らの身体的活動、それに伴う様々な感 情的経験といった実体験を通して、子どもは概念を 身につけるのである。そして、そうした概念の把握 を土台に言語が習得されていく。
サリバンは言う。
「子どもの教育で重要なのは、感覚を多く経験す る能力であって、言葉ではないのです。」(27)
しかしながら、このように本来、身体活動と密接 な関わりをもっていた概念は、それが言語に転化し、
さらにその言語の使用が増大し、複雑化していく過 程で、次第に言語から離れていくのではないだろう
か。
守屋慶子は言語に媒介される概念が自己の存在感 を喪失させる働きをもっていると言う。 「言葉に 媒介される概念で構成された世界に生活する私達に とって、自己の存在は極めて不確かである。自らの 身体的活動に基づいて意識をつくることができない ということが、私達の意識を自らのものとも他者の ものとも見分けることのできないあいまいなものに
している。」(28)
筆者は、先にみた言語行動の基本的構造における 不均衡を、このような身体活動と言語との乖離とし とらえたい。すなわち、言語行動には「身体活動性」
がともなわなければならないと考えるのである。こ れは言い換えれば「言語行動の具体性」と考えても よいだろう。ここでいう「言語の身体活動性」、ある いは「言語行動の具体性」というのは、第一に、言 語を自らの身体活動を通して獲得するということで あり、第二に、言語行動においても身体活動との結 びつきを重視するということである。
すなわち、第…について言えば、言語を獲得し、
それを発達させていく過程で、常に自らの身体活動 との結びつきを重視するということである。そして 第二についていえば、このようにして獲得した言語 を用いて外界を認識し、他者とのコミュニケーショ ンを行うということである。従って、そこには、「言 語」と「身体活動」とのあいだに相互依存の関係が 存在し、互いに相手を豊かに高めあうという関係が 存在すると思われる。
さらにいえば、「言語の身体活動性」とは、「言語 行動」とそれが引き起こす身体活動の変化との結び つきをも意味するものと考えたい。つまり、ある「言 語行動」が、それに関わる人間の感情や行動に対し て持つ実際的な影響の大きさを、「言語の身体活動 性」の強さによって表そうということである。付言 すれば、ここでいう「身体活動」とは、肉体的な活 動のみをさすのではなく、感情的・情緒的経験を含 めた、ある個人の具体的活動と経験全体をさすもの
である。
筆者は、この「言語の身体活動性」の概念を前述 の広揮の事例研究を通して導き出した。すなわち、
広揮の言語行動が、身体活動との結び付きを極めて
強く持っている点に注目したからである。それと同
時に、このことは広揮、或るいは盲聾児の言語行動
の性格としてのみとらえるのではなく、原初の人類
の言語行動を考察することと同様、人間の言語行動
の本来的あり方を探る上で、極めて示唆的であると
考える。
それでは、広揮をはじめとする盲聾児の言語行動 はどのように展開され、それがどのように「身体活 動1生」を持っていると考えられるのであろうか。
第一に、盲聾児は自らの身体活動を通して言語を 獲得し、外界を認識するということである。1節で 述べたように盲聾児は、まず触覚を駆使した身体活 動を通して外界に働きかけ、他者と交流する中で基 本的な概念を獲得していく。そして、このような概 念をもとに外界を認識し、言語を獲得していくので ある。逆に言えば、自らの身体活動との結び付きが 稀薄な言葉の獲得は困難である。
第二に、身体活動と言語行動との結び付きの強さ があげられる。その一つは、言語行動に用いる言語 が、既に述べたように、それ自体身体活動との結び 付きに裏打ちされているということである。つまり、
自らの体験を通して獲得した言語を用いることによ り、そうした言語によって構成されるコミュニケー ションや思考過程が、常に生き生きとした具体性を 帯びてくるということである。
盲聾児の言語行動と身体活動との結び付きで注目 されるもう一つの点は、特にコミュニケーションの 側面において強く見出だされる。すなわち、例えば 他者とのコミュニケーションに用いる身振りサイン や指文字、点字などの特別な会話手段は、通常の音 声言語と比較して、ほとんどの場合、より多くの努 力と時間を必要とする。このことは、効率性におい て音声言語に劣ることを意味するかもしれないが、
その一方で、より自覚的で、より目的的なコミュニ ケーションが成立する可能性をも意味するであろ う。すなわち、「話したい」という明確な「意図」を 持ち、一定の努力を払いながらコミュニケーション をとる、ということが日常的に行われるのである。
このように、自らの身体活動に裏打ちされた言語 を用い、そして「コミュニケーションしたい」とい うより自覚的な欲求の中で行われるコミュニケーシ ョンは、「口先だけの言葉」、「上滑りなコミュニケー ション」に終わることなく、そこでの言語行動が、
それに関わった人間の実際的な身体活動に強く影響 する性格を持っているのではないかと考える。ここ で、2節でふれた「言語の起源」について振り返っ てみたい。原初の人類において、言語が生まれてき た状況を考えると、それはまさしく「身体活動性」
を極めて強く持った言語ではなかっただろうか。と
いうのは、言語の起源が「指示の身振り」と「相互 の身振り」にあるとすれば、まずそれ自体が身体活 動である。自分の体を動かし、はっきりと「話した
い」、「伝えたい」という意図を持ってなされた「身 振り言語」であったろう。それと同時に、当時の人 間達が自らの身体活動の経験を通して外界を認識 し、概念を獲得し、思考を組み立てていたことは容 易に想像される。
すなわち、原初の人類にとって、「言語を用いて外 界を認識すること」は、「自らの身体活動の経験を通 して外界を認識すること」と等価であり、また他者 とのコミュニケーションにおいても、同様の関係が 成立したであろうと思われるのである。
このように考えると、盲聾児にとっての言語のあ り方とは、言語発生期における人間のそれとの間に 相通ずる側面を含んでおり、それが「言語の身体活 動性」ではないかと思われる。そして、この「言語 の身体活動性」、すなわち、「言語の具体性」の欠如 が、現代における言語の危機的状況を招来する重要 な要因だと考えるのである。
ところで、もし「言語の身体活動性」、あるいは、
「言語行動の具体性」が減少すれば、必然的に「言 語行動の抽象性」が増大すると考えられる。確かに、
言語行動が抽象化されることにも重要な意義があ る。例えば、ピアジェ(J.Piaget)のいう「具体的 操作期」から「形式的操作期」への発達段階論を考
えてもわかるように、子どもの思考能力は「具体」
から「抽象」にむかって発達していくからである。
だが、こうした思考能力の発達とそれに対応する言 語行動の抽象化は、その一方で、実際的・具体的な 体験と言語行動との「乖離現象」を引き起こす危険 性を、常にはらんでいるのではないだろうか。
このことを学校教育に即して言えば、学校教育が 期待する子どもの抽象的思考能力の発達とは、抽象 的な言語で構築されたさらに抽象的な「知識」の獲 得をめざす過程だととらえることもできるのではな いか。抽象的な言語で構築された抽象的な「知識」
の習得は、それ自体抽象的である「偏差値」という 数値によって測定される。こうして、さきに紹介し た詩を作った中学生のように、現代の子どもたちは、
これらのいわば「多重的抽象性」の中に捕えられ、
身動きのできない状態におかれている存在なのでは ないだろうか。
このような学校教育と子どもたちの実生活との乖
離は、例えば次のようなデータの背景にも横たわっ
ているのではないかと思われる。ある世論調査(1988 年)によれば、科学技術の進歩によって21世紀がど のような世の中になっていると思うか、という問い に対し、20代前半のほぼ半数の若者が、「今より、嫌 なことや不愉庚なことが増えるだろう」と答えてい る。しかしながら、その一方で、20代の半数以上 が「科学技術にはあまり関心がない」と答え、「非常 に関心がある」としたのは、男で19%、女で3%
に過ぎなかったという。(29)
このような矛盾とも無責任ともとれる反応の背景 には、学校で習う理科が、試験に合格するための知 識の詰め込みに終わり、自らの実生活との関わりで 現代の科学技術をじっくり考える、といったことが 疎かにされているという事情が存在すると思われ る。以上のことから、現代社会の言語をめぐる危機 的状況をもたらすものとして、筆者は「言語行動の 抽象性」の傾向に注目する。そして、これを克服す るためには、「言語行動の具体性」への復元をめざさ ねばならないのではないかと考える。そこで、この
「抽象性」と「具体性」という対立する新たな「ベ クトル」を加え、言語行動を「三次元的モデル」で 理解しようと思うのである。
5 言語行動の「三次元的モデル」
これまでの考察をもとに、筆者は、言語行動を次 の表に示すような「三次元的モデル」として把握す ることを提案する。
表1 言語行動の「三次元的モデル」
それ自体喜びを伴なう「目的」
実際的な目的のための「手段」
他者との「相互的コミュニケーション」
外界の「諸対象の認識」
各次元に含まれる二つの「ベクトル」がそれぞれ 均衡を保っていれば、望ましい言語行動が実現する
と想定する。しかし筆者は、現代社会においては、
上の表の各次元で、「後者」が「前者」に優先する傾 向が強いのではないかと考える。そして、その「偏 り」が言語の危機的状況の原因になっているのでは
ないかと考えるのである。
ところで、上の表は空間的に配置してとらえ直す ことができる。すなわち、一次元・二次元・三次元 を、それぞれx軸・y軸・z軸に対応させ、各次元を構 成している二つの傾向を、それぞれ逆行する「2ベ
クトル」と考える。そうして各「ベクトル対」の「前 者」をプラス方向、「後者」をマイナス方向に配置し て、各座標軸上に位置付ければ、この表は、そのま ま三つの座標軸が直行する三次元空間のモデルとし てとらえ直すことができる。 そして、言語行動を 成立させるための不可欠な要件として、先の三次元 の存在を想定すれば、ある特定の言語行動は、この モデル内で特定の空間座標に定位されることにな
る。
手段
抽象性
相互的コミュニケーション
▼ 諸対象の認識
図1言語行動の 三次元的モデル
このように考えれば、…定の基準を設定すれば、
全ての言語行動はこの三次元的モデルのどこかに位 置を占めることになり、そのとりうる位置は無限に 存在する。しかし、便宜ヒおおまかに区分すれば8 タイプに分類できるだろう。すなわち、三つの座標 軸によって作られる八つの象限が、それに対応する
と考えられる。
次に、この8タイプを表に示し、それぞれに該当 する言語行動の具体例を仮説的に提示する。
ここに掲げた表は、人間の言語行動の性格を、八 つのタイプに機械的に分類したものである。しかし ながら筆者は、このような単純な図式化によって、
言語行動の構造が明らかになるとは考えない。何故
なら、現実のある特定の言語行動は、ここに示した
八つのタイプのうちの二つ以上を併せ持つ複合的な
構造をなしていると思われるからである。
表2 言語行動の「三次元的モデル」における8タイプ
モデルのタイプ 内容
1 P−CM−CN型
i目的、コミュニケーション、具体性)
家族の団攣。愛1青や相互信頼によって結ぼれた人間同士で交わさ 黷髏g近な話題についての対話。具体的な体験や対象を媒介にな ウれる対話。
2 P−CM=A型
i目的、コミュニケーション、抽象性)
遊戯的な議論。言葉遊び。自らの体験と結びつかないテーマにつ
「ての対話。
3 P=CG−CN型
i目的、認識、具体性)
実体験を綴った文章。日記やある種の写生文。詩人の活動のよう ノ、言語を媒介として外界を認識し、表現する活動。
4 P−CG−A型
i目的、認識、抽象性)
学的思索。好奇心や真美愛に裏打ちされた真理探求。
5 M CM一一CN型
i手段、コミュニケーション、具体性)
商談などの実利的・実務的対話。法廷や議会での言語行動。その シ、社会関係を取り結ぶために実際的に必要な言語行動。問題解
?フための議論。
6 M−−CM−−A型
i手段、コミュニケーション、抽象性)
社交的な外交辞令の対話。人間関係を円滑にするための表面的な G談。その他、何らかの目的を達成するために行われる抽象的な c論。
7 M−CG−CN型
i手段、認識、具体性)
実際的な目的を達成するために行われる読書、例えば各種実用書、
mウハウ物、パンフレット類を読むこと。
8 M−CG−A型
i手段、認識、抽象性)
抽象的な知識の教授とその学習。例えば、現代の学校教育におい トは、偏差値・得点のためだけになされる抽象的な知識の獲得、
ニいうかたちで存在する。
表中記号の説明
P−purpose(目的)
M method (手段)
CM − communication(相互的コミュニケーション)
CG − cognition (外界の諸対象の認識)
CN − concreat (具体性)
A − abstract (抽象性)
例えば、5の「手段、コミュニケーション、具体 性」のタイプの例として、クライエント中心療法な どの心理療法を考えてみる。これを一つの「言語行 動」として見た場合、そこに「コミュニケーション」
と「具体性」の側面が存在するとみてよいだろう。
また、「療法」である以上、症状の軽映を目指すとい う意味で、「手段」の側面があることも確かであろう。
また、治療者の側からすれば、それが職業である以 上、生活費を得るための「手段」であるとも言える。
しかしながらその…方で、心理療法の過程でなされ
る対話そのものに、クライエントとの心理的一体感 に伴う喜びが存在するのではないだろうか。このよ うな、対話の過程そのものが「目的」となる側面が あってこそ、初めて優れた心理療法が成立するとも いえるのではないだろうか。すなわち、この例で言 えば、5のタイプと1のタイプがともに含まれてい ると思われるのである。
このように、ある一一つの言語行動を考えた場合、
そこには幾つかの側面が含まれており、より正確に
は、先にあげた八つのタイプ全てが、割合を異にし
ながらも、何らかの形で含まれていると考えたほう が適切であろう。
また、同じ言語行動でも、その場の文脈によって、
或いは、それに関わる人間の内的条件によって、様々 な意味が付与されるであろう。さらに言えば、諸能 力や人格の発達とともに、ある特定の言語行動が持 つ意味が変化・発展していくことも容易に想像され
る。
従って、先に示したような「三次元的モデル」、す なわち、三次元空間に一定の座標を取るという形で の言語行動のモデル化には、大きな限界が存在する であろう。何故なら、ある言語行動を一定座標に定 位させてしまうと、相対立する「2ベクトル」が量 的に相殺され、結果として現れるのはより大きな「ベ クトル」とより小さな「ベクトル」との量的な「差」
でしかないからである。
そこで、相対立する三対の「ベクトル」のそれぞ れを図示し得るモデルが必要となる。図2に示した のは、それを試みたものである。原点を中心として、
三つの座標軸上のプラスとマイナス方向に、それぞ れ原点からの距離が等しい六つの点を取る。すなわ ち、これが相異なる三対の「ベクトル」の大きさが 等しい場合である。この六つの点を線分で結ぶと、
原点を中心とした正八面体となる。これを、「言語行 動の標準型」として想定すれば、この「正八面体」
がどの方向にどれだけ変形するかによって、言語行 動の基本的構造を表すことが可能だと思われる。な お、ここに示した八面体モデルを構成する八つの三 角錐の含まれる象限が、表2で示した八つのタイプ に対応することになる。
それでは、この八面体モデルがどのような形をと ったときに言語の危機的状況が生まれ、また、それ を克服するためには、どのファクターの増大を目指 すことが望まれるのであろうか。表2で示した八つ のパターンに即して言えば、最も深刻な問題を生み 出しているタイプを、筆者は8だと考える。これは 学校教育において、一つの典型例を見ることができ
るが、それ以外にも、社会の各方面に存在する可能 性を持つ。
逆に、筆者が最も尊重すべきだと考えるのは1と 3である。学校教育においてこれらを実践すること は困難な課題ではあるが、例えば生活綴り方教育の 実践は、1と3の結合を、学校教育において実現さ せる可能性を示していると思われる。(30)
しかし、例えば1を尊重するといっても、それを
構成する「目的」と「コミュニケーション」と「具 体性」という三つのファクターを同時に満足させる
ような取り組みは容易には行えないだろう。そこで、
筆者が強調したいのは、「言語行動の具体性」を回復 することが、他の全ての不均衡の是正に最も効果的 であろうということである。
そのためには、まず幼児期に豊かな身体活動を経 験し、それをもとに言語に「生きた内容」を持たせ るようにする。さらに、学校教育においては、実際 的な体験自体を重視しつつ、それと言語との結び付
きを強化していく努力が必要である。すでに述べた ように、それは、「言語」と具体的な「身体活動」と の相互の依存関係を大切にすることであり、そうし た取り組みが学校教育において構想されるべきであ
る。
このような取り組みによって、現代社会の言語の 危機的状況を、教育の側から改変していくきっかけ が見出だされるのではないか。身体活動を通して獲 得された言語を、その具体的な経験に即して用いる ならば、そこには自ら喜びが生ずるであろう。そし て、こうした「生きた言葉」は、相互的なコミュニ ケーションの場において、最もその真価を発揮する に違いない。
このように、「言語行動の具体性」を回復する取り 組みによって、喜びを求めるという本来の「目的」
や「相互的コミュニケーション」の傾向をも回復す ることが可能であり、そこから言語行動全体の不均 衡の克服が実現していくのではないだろうか。
手段
相互的コミニュケーション
諸対象の認識 図2 言語行動の八面体モデル (言語行動の標準型)
目的
手段
図3 表2のタイプに 偏った八面体モテル
相互的コミュニケーション
諸対象の認識
具体性
目的