著者 小坂 肇
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 50
ページ 62‑72
発行年 1998‑03‑24
URL http://doi.org/10.15002/00011262
本稿は明治天皇の地方巡幸についての研究であるが、明治初期のいわゆる六大巡幸に限定し、主要史料にも関わらず、今までさほど用いられていなかった国立公文書館の史料を中心として、各巡幸の全体像をとらえようとする研究の第一段階、基礎的研究となる。明治天皇の地方巡幸についての研究はそれほど数が多いわけではない。ここ十年ほどの間で全体的に述べられてい(1)るものとしては遠山茂樹氏の『天皇と華族』の「解説Ⅱ」(2)と、『近代天皇の成立』の論稿「天皇制と天皇」の一二「明治天皇の地方巡幸」に、いずれも明治九二八七六)年奥羽・函館巡幸、明治一一二八七八)年北陸・東海道巡 はじめに 法政史学第五十号
太政官期地方巡幸の基礎的研究
幸、明治一三(一八八○)年山梨・三重・京都巡幸、明治一四三八八己年北海道・秋田・山形巡幸について述べ(3)ている。また、佐々木克氏は「天皇巡幸と民衆」「明治天(4)皇の巡幸と「臣民」の形成」において遠山氏がふれなかった明治五二八七一一)年の大阪・中国・四国巡幸と明治一八二八八五)年の山口・広島・岡山巡幸についても述べている。このほか、明治九(一八七六)年のものに朴晋雨氏の(5)「天皇巡幸か壼bみた天皇崇拝と民衆」、明治一一(一八七八)年のものには大日方純夫氏の「天皇巡幸をめぐる民衆(6)(7)の動向」、滝沢繁氏の「北陸巡幸と民衆統治(上・下)」がある。これらの論文に共通して言えることは、天皇と民衆の関係に焦点が絞られており、近代天皇制・天皇像の形成
小 坂肇
一ハ|’について述べられている点にある。最近の研究としてはT・フジダニ氏の『天皇ページェン(8)卜』の第2一旱に「巡幸する天皇と日本の儀礼的地呈早」という題名で収録されている部分がある。この本でフジタニ氏は明治初期の遷都問題を巡幸を結びつけてとらえており、新しい視点といえるであろう。しかし、いずれにせよこれまでの明治天皇の地方巡幸についての研究は、近代天皇制の確立において地方巡幸というものがどのような位置づけてあったか、そして、民衆はどのような形でこの制度に組み込まれていったかに力点が置かれており、その基礎となる近代巡幸の制度の確立については詳細な言及がなされていない。そこで本稿ではこの点に依拠しつつ、近代天皇制の確立についての研究を進めるための基礎的研究として、六大巡幸に関する基礎的史料の検討と各巡幸の性質について言及するものである。最後に繰り返しとなるが、六大巡幸の名称と期間を記しておく。|・明治五(’八七一一)年五月一一一一一日~七月一二日大阪・中国・西国巡幸二.明治九(一八七六)年六月二日~七月一一一日
太政官期地方巡幸の基礎的研究(小坂) 奥羽・函館巡幸三.明治一一(’八七八)年八月三○日~||月九日北陸・東海道巡幸四J明治一一一一(’八八○)年六月一六日~七月二一一一日山梨・三重・京都巡幸五.明治一四(一八八一)年七月三○日~一○月二日山形・秋田・北海道巡幸六.明治一八(’八八五)年七月一一六日~八月一二日山口・広島・岡山巡幸巡幸の名称は主な立ち寄り地を基準としているが特に確定していないので、本稿では右の名称を使用する。巡幸の名称についてであるが、表記上は史料においても統一されていないためここでは「巡幸」の表記を取り、行幸ではなく「巡幸」といった場合は地方巡幸をさすものとする。
まず明治五(一八七二)年の大阪・中国・西国巡幸であるが、この基本資料としては『公文録』明治五年「壬申御(9)巡幸雑録」、臨時帝室編修局蒐集「明治五年御巡幸一件」(皿)「明治五年西国中国巡幸(遺老談話筆記添)」がある。「壬 大阪・中国・西国巡幸
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申御巡幸雑録」の最初の史料にある、軍艦による巡幸が公布されているようにこの巡幸は後の巡幸とは異なり海上移動が多く、民衆と接触する機会も少なかった。これは当時明治天皇は二十一歳であったが、病弱のためそのことを考(Ⅲ)虜した旅程計画であったと思われる。そして留守中の天皇(旧)の政務は太政大臣である二一條實美に委任され、巡幸の諸事(旧)は供奉の参議西郷隆盛がこれを統率した。この巡幸の目的は、政府に対して反感の強い島津久光を慰撫することであった。そのため明治天皇は、天候が悪かったこともあるが六月一三日の鹿児島港入港以来七月一日までの十日間滞在し、一三日と一一八日の一一回、島津久光の天機伺を受け、(M)意見書も受け取っている。これ以降の巡幸についても同様に言えることだが、各巡幸においては各事項に関する規則が制定されている。明治元年の大阪行幸から明治一三年山梨・一一一重・京都巡幸までに制定された規則は「明治元年御巡幸諸規」として種類別(旧)にまとめられている。このとき制定された規則は供奉員乗艦心得・御馬上御列・両宮参拝ノ節御列・神宮御参拝式・道筋沿道府県への口逹などがあった。今まで長距離の行幸はあったが、さらに長期にわたり各地を訪れる巡幸はこの明治五年の巡幸が最初であったので諸規則を新たに制定す 法政史学第五十号
る必要も多かったはずである。しかしながら、この時点での制定規則数は少なく、後の巡幸に徐々に細則が増加している。そして後で述べるが巡幸の記録である公文書の編纂様式にも変化があり、これらのことは、当時の政府には大がかりな地方巡幸を行なう体制がまだ出来上がっていなかったことを暗に示唆しているようにも思われる。御巡幸御用掛として、供奉官員には西郷従道が、留守政(川)府側には山県有朋が任命された。これ以降の巡幸でも同様に御巡幸御用掛が事務全般を請け負っていくこととなる。この巡幸にはいくつかエピソードが残っており、それを記したものが「明治五年西国中国御巡幸(遺老談話筆記添どの遺老談話筆記の部分である。これは当時巡幸に関係した供奉や現地の官員及び一般人民に対し、大正十年に臨時帝室編集局藤波言忠らが調査を行ったものである。回想のため事実と異なる点もある可能性があるが、当時の巡幸の情況・雰囲気等を感じ取れる史料である。たとえば明治天皇が鹿児島を離れた後、県庁より行在所の拝謁を一般に許可したところ、民衆が押し掛け、天皇に関するものを取っていってしまい、果ては排泄物まで有り難がって持つ(Ⅳ)ていってしまったという。ここで興味深いのは御涼櫓の杉葉を「悪魔払い」にするということで持ち帰った者がお
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次に明治九二八七六)年の奥羽・函館巡幸であるが、この巡幸目的・意義は「乞車駕北巡上奏稿」と題された三(旧)條實美の上奏稿によると、古来僻地である東北・北海道に巡幸することにより北方守備を強固にし、全国の人の注目を集め、なおかつ西巡があって北幸がないのは国民に対して幸不幸の別を作ることとなるため巡幸すべきだとしている。ここでいわれている全国の人の注目を集めるという点については、明治天皇の地方巡幸が天皇の存在を全国に「しるしめす」という大前提を改めて確認できるものであ(⑱)る。これは明治八年に作成されたものと思われるが、この年九月には江華島事件が発生し、翌九年四月二四日に東北 り、この言葉が明治五年当時のものであるとすれば、鹿児島という土地柄もあるだろうがキリスト教の普及がうかがい知れるものであろう。こういった天皇に関するものを持ち帰るというエピソ1ドは後の巡幸にも多数残っており、民衆の天皇崇拝の素地が見て取れるものである。そのほか島津久光と仲の悪い西郷隆盛が鹿児島在留中姿を隠していた噂、天皇や供奉官員の服装など当時の様子が見て取れる。
一一奥羽・函館巡幸
太政官期地方巡幸の基礎的研究(小坂) (別)・北海道巡幸が公布された。明治九年巡幸の基礎史料には「東巡録」「東巡雑録」「巡(別)(皿)幸雑記」「奥羽地方御巡幸」がある。明治五年の+Cのと比べてその分量は格段に増加している。「東巡録」は還幸翌月より約二ヶ月で編纂されたもので、東北・北海道巡幸関係資料をまとめたものである。「東巡雑録」は巡幸時に作成・往復された公文書を集めたものであり、種類としては明治五年の「壬申御巡幸雑録」と同じものである。「巡幸雑記」の方は各県よりの上申書類をまとめたものであり、いずれも「東巡録」の基礎史料と思われる。巡幸に際しては行先の調査を行うが、明治九年以降の公文書には「御先発」という言葉が散見される。これは字の通り巡幸に先立って現地調査を行うものである。明治九年の巡幸では参議大久保利通が御先発官として現地に赴いて(”)いうC・大久保は現地の情況を後発の]石倉や、留守をあずか(別)る一二條に報告していた。また後発の本体供奉官員として岩倉具視・木戸孝允・大隈重信といった複数の政府高官が政(窃)府を留守にして赴いている点JC特徴的である。これ以降の巡幸においても同様であり、この明治天皇の地方巡幸が政治的に重要視されていたことを示している。明治九年の規則制定としては供奉官員心得方・沿道府県
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心得方・沿道地方官心得方等がある。明治五年のものと比べると詳細な記述となっており、大規模な地方巡幸も二度目になり、要領を得てきたようである。沿道府県心得方には行在所設置に際して別段修繕を加える必要なく、道筋で通行困難な橋の修繕は官費で支払うと(邪)規定し、供奉官員心得方には「威権ヶ問敷所業」は慎むように達していた。しかしながら、行在所に指定される民家では必要以上の修繕・増築等を行い、奉迎の服装も華美な(”)ものであり、これらの、心得方はほとんど守られていなかった。また人民の情況を視察することを標傍しながらも、直(閉)訴を禁止し、厳しく取り締まっている。巡幸の方式はこの頃におおよその形が出来上がっている。沿道の各県庁、学校、裁判所、工業関係施設、神宮・墳墓参拝及び祭棄料下賜、孝子節婦義僕その他奇特者及び学業優秀生徒褒賞、地方官員への酒饒料下賜等が巡幸の主な項目であり、そのほか行在所の設置及び供奉官員の宿泊所の確保が挙げられる。
三番目の明治一一(一八七八)年北陸・東海道巡幸について、元々この巡幸は明治一○年に行われる予定であった 三北陸・東海道巡幸 法政史学第五十号
が、明治五年の巡幸で諸事を取り仕切った西郷隆盛による西南戦争のため延期となった。(閉)この巡幸の基礎史料としては「巡幸日誌」「巡幸雑記」「北陸東海両道御巡幸日誌」「明治天皇北陸御巡幸記」「戊(卯)寅官遊記」があるが、史料名は同じでも、明治九年の「巡幸雑記」と二年のものは性質の異なるものであり、明治九年の史料でいえば「東巡雑録」に相当するものである。この「巡幸雑記」は大まかな分類わけで綴じられており、準備から先発官報告、各県関係書類にまとめられている。しかし九年にあった供奉官員の辞令などはなく、他に公文史料が存在する可能性がある。この巡幸について大久保は、前回の巡幸沿道府県心得方が守られなかったことに鑑み、沿道府県に対し、民衆の負(別)担をできるだけさけるよう内示を作成していたが、明治一一二八七八)年五月一四日参内途次に暗殺された。巡幸の布告は五月一一三日におこなわれたが、大久保暗殺の他、八月二一一一日の竹橋事件など社会情勢が不安定な状況下で巡幸を行うことに対する不安感や反対が起こった。しかし供奉の侍補であった佐々木高行は出発五日前の下問に対し、岩倉や元田永孚、山口正定等の巡幸延期説に対して、俄に巡幸を延期すれば威令が立たず、その影響も大きいため延 一ハーハ
(犯)期をすべきではないiこし、予定通り巡幸は行われた。先に見た大久保の内示を受けて、明治九年のものよりさらに強化された沿道地方官心得書が作成された。しかしここに規定されたことはやはり守られず、一般民衆の負担はかえって増えることとなり、新聞において巡幸に対し反対(羽)を唱えるJbのもいた。岩倉も各県令に対して接待が過ぎな(洲)いように通達を山山しているが、この中で、定価の賄い料が不足することを述べており、この巡幸の予算がそれほど余裕のあったものでないことがうかがえる。この巡幸は政情不安定な状況下でおこなわれたため警備については特に配慮していた。大久保を暗殺したものが巡幸先である石川県の士族であったことや、自由民権運動の激化を懸念したものである。前二回の巡幸より供奉官員も多く三○○余人となり、それに加えて川路利良率いる警官隊が四○○人同行しており、六大巡幸中最大規模の人数と(妬)(恥)なった。さ》bに供奉巡査には帯剣が許可されるなど、警備を強化していた。この巡幸の経路には当初三重県が含まれていたが、巡幸途上、三重県下に疫病が流行したとの報を受けて急遼取り(師)やめとなり、翌一一二年に持ち越された。「巡幸雑記」をみると当時の各新聞社が記者を随行させ
太政官期地方巡幸の基礎的研究(小坂) 四番目の明治一一一一(一八八○)年山梨・三重・京都巡幸は前回行けなかった三重を含めた中山道を辿る.Iスであるが、途中で中山道をはずれて松本にまで赴いている。(⑪)この巡幸の史料には「東海東山巡幸日記」「巡幸雑記」(他)「明治十三年山梨一二重京都御巡幸」などがある。「巡幸雑記」は今までの巡幸のものよりはるかに量が多いが、凡例に分類表を付し、公文書としても以前のものと比べて整理がついていると言えるであろう。この巡幸に関して特徴的なのは巡幸請願の奏上書類が多く残っているという点にある。天皇自身がすべての地を廻るのは不可能であるため、必要箇所には代覧・巡視という形態がとられる。この巡幸では特に上伊那・下伊那両郡が郡下の状況を具に上奏してきたが、巡幸不可のため内務少 (羽)ていることがわかる。新聞はあくまで一一次史料でしかないが、記事の信愚性は高いと思われる。そのほか前回の巡幸(羽)にも同行した写真師長谷川吉次郎や、菊永日日成他一名が臨(㈹)時薬科を勤めるため戸口費随行許可を願い出ている。数は少ないがこういった民間の人間も随行していることについては従来あまりふれられていなかった点である。
四山梨二||重・京都巡幸
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(旧)輔ロ叩川弥一一郎が巡視を行い報告している。この巡幸においても新聞記者が随行しているが二年よりも増加している。その一方で新聞に対する検閲が始まっていた。「巡幸雑記」には「諸新聞紙一一記載ノ浮説取糺ノ件」として『曙新聞』『いろは新聞』『松本新聞』の記事に(M)ついて取消を要求している。そのほか『曙新聞』の記事と同様『大阪新報』の記事には巡幸のために人民が重い負担を強いられているという記事がありその取梢を命じている(佃)が、負担を重くしないようにとの心得書を作成した御巡幸御用掛が現実の人民の困窮に対して隠蔽をおこなうという矛盾もでてきている。これまであまりふれなかったが維新に尽力した者、戊辰戦争、西南戦争に尽力した者や戦没者などに対して祭粂料の下賜が明治二年から多くなってきており、二年には(㈹)(灯)橋本左内、一二一年には高田屋嘉兵衛といった人物も祭棄料の下賜を受けている。
五番目の巡幸は明治一四二八八一)年北海道・秋田・山形巡幸である。明治九年の巡幸は奥羽・函館巡幸と銘打ちながらも秋田・山形の二県へは立ち寄らなかったため、 五北海道・秋田・山形巡幸 今回の巡幸となった。山形については明治二年の巡幸途次において三島通庸が巡視の請願を行い、侍補侍従が派遣されたが、巡幸についてはなかったため三島としては念願の山形巡幸であったと言えよう。沿道に宿泊可能な施設が少ないとのことで当初の予定より人員を削減したものの、それでも三五○人、七四日間の旅であった。この巡幸の史(州)(鯛)料には「巡幸雑記」「山形秋田両県北海道御巡幸」等がある。この巡幸の特徴は、出発四日前に起きた北海道開拓便官有物払い下げ事件の影響を受けているという点である。黒田清隆はこの巡幸の供奉であったため、影響は避けようもなく、この事件によって起こった社会情勢の不安定さ、自由民権運動のさらなる激化を解消することも課題となった。この巡幸では警官は同行しなかったものの各地の警戒は厳重なものであった。沿道地方官心得書で再三いわれた施設の過剰な修繕、服装の華美さなどは相変わらずであった。小学校生徒の揃い服の新調等はなくなったものの、巡幸歓迎のため衣服を新調する風は変わらず、それを貧困の父兄にまで督促する者(卯)もあったという。『東京横浜毎日新聞』の社説には歓迎の(別)ため外飾を施すことがないように説いている。
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六番目は大政官期最後の巡幸である明治一八二八八五)年の山口・広島・岡山巡幸である。この巡幸は期間も短く随行人員も明治五年についで少ない。そしてこれ以降大規模な地方巡幸は行われなくなり、政府の方や大政官制から内閣制へ移行するという政治的転機でもあった。この巡幸は当初同年四月、福岡にある鎮台の大演習天覧の後に行われる予定であったが、明治天皇の健康上の理由から一時延期されていたものであった。この時期の史料は少なく、また巡幸に対する批判も根強くあり、当初政府が意図していた巡幸目的もおおよそ達成されたとみたのであろうか、前五回の巡幸に比して勢いが感じられなくなっている。
最後に、全体として巡幸の意図と構造の特徴についていくつか問題提起を行いたいと思う。今回詳細にはふれていないが、行幸を含めた明治天皇の巡幸は明治元(一八六八)年の大阪行幸に始まり九○数回を数えた。その中でも六大巡幸は非常に大規模なものであ 六山ロ・広島・岡山巡幸七六大巡幸の全体像
太政官期地方巡幸の基礎的研究(小坂) り、内閣制度に移行する年までに集中して行われたが、なぜこの政情不安定な時期に集中して行われたのだろうか。|般的にいわれている人心収攪にはこの方が好都合であるが、それにしても政府首脳がこの巡幸に随行し、政府を留守にする意味はどこにあったのだろうか。政府としては天皇が全国を一巡して各地で民衆と触れ合うことにより、民衆に新しい支配者を認識させ、その代理としての政府という構造を全国的に知らせることにより政治を行いやすくするという意図をもっていたのであろうが、巡幸に随行することにより政治が手薄になることは免れない。したがって、その危険を冒しても政府は巡幸を成功させる必要があったと思われる。その答えは今後さらなる詳細な研究を行わなければならないが、ここで一つ言えることは、巡幸中は実質的には政府そのものが移動しているという構造が公文書の往復書類からうかがえる。もちろん平時の政務は留守政府で十分であるが、難事の場合は電信を駆使して連絡を取り合い処理をしている。したがって、政府首脳は東京を留守にしても、政務がさほど滞ることはないのである。この地方巡幸の特徴的なものとして、計画の柔軟さが挙げられる。現代のお役所仕事とは違い、巡幸先で臨機応変
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に計画を変更しており、事務処理も迅速に行われている点は興味深いと言える。この六大巡幸が回を重ねるごとに公文書の分量が増加しているというのは、一般的にいえば初期の計画が不十分であったことになるのだが、|回一回が独立した計画、すなわち地方巡幸が一連の計画ではなかった場合はあり得ることである。もし計画が不十分であったとしても二回目に補完され、三回目以降は前例に則って行うため、事務手続き等も減少するはずである。地方巡幸が一連の計画ではなく、結果的に全国をまわったに過ぎないとすれば、そこにはどのような意図が存在するだろうか。各巡幸は日数、人員数ともに異なるため一概には言えないが、各巡幸間の関係も検討する必要があるだろう。各巡幸のなかでは特に述べなかったが、巡幸先の地方官はこぞって自らの県をアピールし、巡幸の請願を行っている。県下の施設を修繕し、道路を開通させるなど、沿道地方官心得を守らず、華美に飾って天皇を迎えた。このことは民衆の重い負担となっていたが、道路修繕などは日本の近代化に大きく貢献したといっても良い。それに関連して天皇の、工場や鉱山といった工業関係の視察は、地方官の見栄も手伝って勧業政策において一役買っていたといえる 法政史学第五十号
今回は六大巡幸の全体像の基礎的研究であるため、各巡幸の詳細にはさほどふれなかった。巡幸の研究でもっとも議論される部分は、巡幸の意図したものと民衆の天皇崇拝がどのように形成されていったかについてである。しかしこの部分は一括りにして論じられるものではないと思われる。民衆は必ずしも同質のものではなく、地域により異なる可能性もあるし、意図も各巡幸によって異なる可能性もあるだろう。その辺の研究を詳細に行った上でなければ、近代天皇制の確立という議論に到達しないように思えるため今回の研究を行ったみた次第である。全体像の基礎研究を行ったのは、先に全体を捉えた上で各巡幸を調査していかなければ、地方巡幸が一連の計画であった場合、各巡幸に固執してしまう危険性を回避するためである。今後の研究としては各巡幸の詳細な調査を行いつつ、各巡幸間の関係を捉え巡幸を行った意図・意義、そしてその だろう。しかしながら巡幸において「おこなう側」と「迎える側」の意図するものに隔たりがあることは全体を通して一一一一口えることであり、この体質は六大巡幸に共通したものであった。
おわりに 七○
影響がどれほどのものであったか、段階を追って研究していきたい。
註(1)遠山茂樹校注『天皇と華族』岩波書店、一九八八。(2)遠山茂樹編『近代天皇制の成立l近代天皇制の研究‐l』岩波書店、’九八七.遠山氏はこのほか「明治天皇の東北巡幸」(『米沢史学』三号、’九八七)などの論文がある。(3)『立命館一一一一口語文化研究』五巻四号、立命館大学国際言語文化研究所、’九九四。(4)『思想』第一○号、八四五、岩波書店、’九九四。佐々木氏はこのほか集英社版日本の歴史一七『日本近代の出発』(集英社、一九九二)の第二章「国民と天皇」、「天皇像の形成過程」(飛鳥井雅道編『国民文化の形成』筑摩書房、’九九四)の三「行幸・巡幸」などの論文がある。(5)『日本史研究』三○九、日本史研究会、’九八八。(6)『地方史研究』’七五、第三一一巻一号、一九八一一。(7)『新潟史学』一一四・二六、新潟史学会、’九九○・一九九一。(8)T・フジダニ『天皇のページェント近代日本の歴史民族誌から』日本放送出版協会、一九九四。(9)国立公文書館所蔵。(、)宮内庁書陵部所蔵。
太政官期地方巡幸の基礎的研究(小坂) (Ⅱ)飛鳥井雅道『明治大帝』筑摩書房、’九八九、参照。(皿)「壬申御巡幸雑録」十一上(文書番号、以下同じ)。(旧)「明治五年西国中国御巡幸」。(u)同右。(旧)国立公文書館所蔵。編纂年代は不明だが、収録規則の年代から明治十三年から十四年にかけてではないだろうかと思われる。(旧)「壬申御巡幸雑録」三・(Ⅳ)「明治五年西国中国御巡幸(遺老談話筆記添ご鹿児島市吉村貞寛談(当時熊本鎮台鹿児島分営陸軍大尉)。(旧)「三條実美文書」書類の部、国立国会図書館憲政資料室所蔵。なお前掲『天皇と華族」に所収されている。(旧)『大久保利通日記』下巻(日本史籍協会、’九二七)に明治八年七月五日北海道巡幸を言上したという記述がある。(別)「東巡雑録」上、一・「明治元年御巡幸諸規」。(Ⅲ)いずれも国立公文書館所蔵。(皿)臨時帝室編集局編宮内庁書陵部所蔵。.(昭)「東巡雑録」上、五。(別)『大久保利通文書』七(日本史籍協会、’九二七)には東北地方関係について岩倉に報告し、上奏を願っている。また「東巡雑録」中、四九においても半田銀山の機械運動を天覧されたいとの上申も行っており、東北における資源の確保に強い意欲を示している。
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(胡)『朝野新聞』明治一一年五月一○日等、『朝野新聞』は巡幸に対して反対を唱えることが多かった。(狐)「明治十一年公文録巡幸雑記第一」十六。(妬)明治十一年巡幸の供奉官員については、坂井友五郎編「御巡幸御行列弁御供官員附」(吉野作造編『明治文化全集第一巻皇室編』日本評論社、’九二八)を参照。(弱)「大政類典」第三編一四巻明治一一年七月一七日。(師)「明治十一年公文録巡幸雑記第三十。(胡)「明治十一年公文録巡幸雑記第三」九九。(胡)「明治十一年公文録巡幸雑記第三」’○○。(刎)「明治十一年公文録巡幸雑記第三」一○’。 (閲)「東巡雑録」上、五。(船)「東巡雑録」上、’九。(Ⅳ)「東北御巡幸記」(吉野作造編『明治文化全集第一巻皇室編」日本評論社、’九二八)(肥)「太政類典」第二編五五巻第一三号。(四)国立公文書館所蔵。(釦)臨時帝室編修局編・宮内庁書陵部所蔵「戊寅官遊記」は藤波言忠の供奉日記である。(剖)『大久保利通文書』七、日本史籍協会、’九二七。(皿)『保古飛呂比佐佐木高行日記』八、東京大学出版会、
/■、〆向、/~、/■、/=、/■、/■、
42414039383736
、_ノエーノ、=〆、_ソ、_〆、=ノ、=ノ
法政史学第五十号
臨時帝室編集局編・宮内庁書陵部所蔵。 九七六。国立公文書官所蔵。 尚、国立公文書館所蔵史料の内、「壬申御巡幸雑録」「明治五年御巡幸一件」「明治五年西国中国御巡幸」「東巡録」「東巡雑録」「明治九年公文録巡幸雑記」は我部政男・広瀬順晧・岩壁義光・小坂肇編『大政官期地方巡幸史料集成』(柏書房一九九七)|巻~八巻に収録されている。 (岨)「明治十三年公文録巡幸雑記第四」’四三下。(u)「明治十三年公文録巡幸雑記第十七」二七二。(妬)『長野県史」近代資料編二長野県史刊行会一九八一ハo(蛆)「明治十一年公文録巡幸雑記第九」二五九。(〃)「明治十三年公文録巡幸雑記第九」一七八。(岨)国立公文書官所蔵。(蛆)臨時帝室編修局編・宮内庁書陵部所蔵。(別)『東京横浜毎日新聞』明治一四年九月三日。(Ⅲ)『東京横浜毎日新聞』明治一四年七月三日。
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