Shelleyにおける悪の問題 : The Cenciを中心に
著者 宮北 恵子
雑誌名 主流
号 47
ページ 54‑72
発行年 1986‑02‑20
権利 同志社大学英文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014974
54
S h e l l e y における悪の問題
一一一TheCenciを中心に一一一
宮 北 恵 子
「悪
J
の問題はすぐれて哲学と神学のテーマである。シエリーは The Cenciに先立つPrometheusU:πbo仰 dの中で,人間と宇宙万有の本性およびそ れらの根源に深く係わるものとして「悪jの問題を提起している.第二幕囚 場でAsiaとDemogorgonの対話を通して考察される主題,つまり, 'The living world'を創った神が悪の創造者であるかという設聞は,いわゆる神 義論のテーマである.シエリーは,この問題の解決にあたって,実体として 捉えられる神の永遠不変の本性である「愛」を基軸に据えて,悪の根源は人 間自身の意志のもつ「自由決定J
のうちに存在するとして,愛と赦しによる 自己完成の世界を描いた.1819年は上の二大傑作が生まれたシエリーの創作活動における「驚異の年」
(annus mirabilis)である.
r
道徳的に優れた美しい理想主義」を描いた Prometheus. Unboundとは対照的に TheCenciは「悲しい現実J
(sad reality) を扱った宗教的色彩の濃い作品である.シエリーは,この詩劇において,生 命の完全否定を貫き通そうとして「一生涯を放蕩と悪徳のうちに送ったー老 人J
(序文)を描いている.神の創造し恵与した生命を自他ともに否定する ことはキリスト教では罪悪であるが,康'iJ中の老人を一個のカトリック教徒と して描いたということは,r
悪J
の問題に決定的な意義を付与するものである.劇の主題となる老人チェンチ伯 (Cenci)と娘ベアトリーチェ (Beatrice) の激しい精神の格闘を通してシエリーの「悪」についての思索を解明しよう
とするのが本稿の目的である.
Shelleyにおける悪の問題 55
The Cenαは, 16世紀,イタリアで起ったー少女による父親殺しを記録し た"relazioni,2, (報告書)を資料として創作されたもので,劇の筋は単純で ある.主要人物の一人である Cenci伯は,悪徳三味の老人で,罪の行為を 重ねては教皇から金銭で免償を購っていた.その悪徳ぶりは,実子に対する 激しい憎悪となってあらわれ,残虐と暴行の度毎にその憎悪は深まり,つい に末娘Beatriceに対して彼女の肉体を穣すという形で極点に達する.一家 の者は皆, Cenciの凶暴な振舞いに対処する術もなく, Beatriceは家族の者 と共謀して刺客を雇い,父を殺害する. しかし,事は直ちに発覚し,嫌疑,
法廷尋問,拷間にあって,彼女の力強い抵抗にもかかわらず,事件に関係し た者は皆,死刑に処せられるという筋である.
この劇において重要な位置を占めるのは, Cenci伯と娘Beatriceで,二 人の意志の衝突が主軸となっている.Cenci家の人たちである C印 Clの後 妻LucretiaやBeatriceの兄Giacomo,弟BernardはBeatriceの陣営に入 り,彼女の意志を角度を変えて補足している.これに対し,宗教界の人物と して枢機卿Camillo,世俗的な司教Orsino,その背後には当時の腐敗した 教皇 (Clement珊)が配されている.このような人物設定のもとに劇は展 開し始めるが,その最初から Cenciの悪徳が披露されている.
r
悪」の問題 は, Cenci伯の性格を通して,更には,対Beatriceとの関係を通して顕在 化していくが,まず,主要人物双方の意志の所在に焦点を合わせてみたい.第一幕一場で, Cenciが犯した虐殺罪の赦免のための示談にCenci家を 訪れた枢機卿Camilloの言葉を借りれば, Cenciは,
r
暴虐無道の青年時代J
には「無法の生活
J
を送り,r
無謀無慈悲の壮年時代」を経て,r
年老いても なお自堕落な生活」のために,罪科を積み上げているという.Cenciは自ら,次のように語っている.
56 Shelleyにおける悪の問題 Al1 men delight in sensual luxury, Al1 men enjoy revenge; and most exult Over the tortures they can never feel ~
Flattering their secret peace with others' pain But 1 delight in nothing else. 1 love
The sight of agony, and the sense of joy,
When this shal1 be another's, and that mine. (
1
, i, 77‑83)彼の欲望は「肉の快楽」から「他者が苦しみ悩むのを見て秘かに満足する j という「復讐の念」に転じており,その残虐ぶりは,息子二人(劇中外の人 物)のスペインでの客死を喜ぴ〉長子Giacomo一家の困窮を見て満足する というものである.更に,一家に対する迫害は娘Beatriceの陵辱で頂点に 達するが,娘の体を織すにとどまらず,加えて意志の同意を得て (N,i,
10ー12)
r
彼女の魂を毒し,腐らせるJ
(N, i, 44‑45)ことを企むところは,「悪魔的
J
といえよう.Cenciは次のように語っている.1 do not feel as if 1 were a man, But like a fiend appointed to chastise
The offences of some unremembered world. (N, i, 160‑62) また,上にあげたような悪行の中にあって,
r
チェンチは死なねばならぬ,機悔させよ
J
(lV, i, 34)という天の声があったことを妻のLucretiaに知ら されても Cenciは耳を貸すことはなく,r
神は神の意志を,わしはわしの意 志を行ラのだJ
(He does His wi ,1l1 rnine. [N, i, 139])と言って自己の意志を主張する.
一方, Beatriceは,
r
序文」において,r
極めて優しく愛すべく,自に楽 しく,賞讃される」女性として紹介されており,兄Giacomoの次の言葉には,彼女の「美」と「知性」が歌われている.
Shelleyにおける慈の問題 Beatrice, Who in the gentlεness of thy sweet youth Hast never trodden on a worm, or bruised A living flower, but thou hast pitied it With needless tears! Fair sist巴r,thou in whom Men wondered how such loveliness and wisdom
Did not destroy each other! (III, i, 365‑71)
57
Beatriceはまた,
r
地獄の極悪無道の悪鬼J
(1, i, 118)と言われる Cenci自 身の口にさえ,r
輝やかしい麗しさによって,暗黒の世に光を与えるために 造られ,神の選りぬきの愛の露にかかって養われ,人間生活に安らぎを与え るような徳性J ( N
,i, 121‑25)をもった女性と言わしめるような存在である.しかし,神の正義を思う彼女の激しさは,腹黒いOrsinoや気弱な刺客を たじろがせたように,人を射抜く眼差しとなってあらわれる.彼女にとって,
「父殺し」は,神の正義の前には,
r
高尚で神聖な仕事J
(町,ii, 35)であり,雇った刺客は「正義のために使われる神の御手の利剣
J
(N, iii, 54),r
公平な神の右手の利剣
J
(N, iv, 126)となる.尋問において, Beatriceは自分を 裁く者は,r
生命の本質J
(the life of life, [N, iv, 142]),r
人生の光明J
(light of life, [V, iv, 134])を裁き処する者だと告発し,自己の意志を主張する.以上,登場人物の口を通して,それぞれの立場,意志の所在を見たわけで あるが,この劇は, N ewman 1. Whiteが TheCenci story offered Shelley greater scope for his ideas of evil than Prometheus Unbo開 d.,,3と述べている
ように,
r
悪j をテーマとしたものと言っても過言ではない.特に,人間の 自由意志との関連において 悪の極みに迫ろうとするものといえる.2
シエリーの「悪」についての考察は,シエリー研究家の論議を誘うもので
58 Shellevにおける悪の問題
ある • Prometheus Unboundに先立つ諸作品に表れる悪の解釈は, Carl Gra‑ boが指摘するように,プラトン哲学に歴然と認められるマニ教的特質(物 質 を 罪 悪 視 す る 思 想 ) か ら 来 る も の と い え る 1have long been con‑ ceived of the色ventualomnipotence of mind over matte,,r.5というシエリー の言葉の中にみられる「精神」の「物質」への優位,および双方の対立は,
「内」と「外」の対立意識となって,諸悪の原因は「外
J
の政治体制にある とする見解を生み出していく.物質と生成と変化のこの不完全な無常の世界 は,悪を温存させ,繁殖させる場であり,人間性の「内j にある悪の徴候は the result of unnatural political institutions'必とされた.初期の作品 Queen Mab (1813)はこの線上にある.この頃は,人間には自由意志はなく,r
必然 性」に支配されるという決定論に捕えられていた時期であった.しかし ,Julian and Maddalo (1818)において,へ it is our will / That thus enchains us to permitted il1." (11. 170‑71)と書くに至って,シエリー にとって,自由意志は人間存在の所与となった.「自由決定jとしての意志は,
善へも悪へも態度決定をなす能力であり,大作PrometheusUnboundでは,
善の化身Prometheusと悪の化身]upiterの対立を通して,善の意志の勝利 を「愛」という形で歌おうとした
r
愛」は,こうして[必然性」の鎖から 解き放たれ,Adonais (1821)においては,宇宙を統轄する霊となった.Prome訪問5Unboundで,愛を動かすものが,
r
意志jであることを描いた シエリーは,r
意志の転向」である悪行と,その本質となる人間の欲情や欲 望 (Zibido,cupiditas)に深い洞察の目を向けなかったはずはない .The Re‑む口ltof Islam (1817)やPrometheusUnbo叩 dで描かれている蛇と鷲の死闘の イメージは言うまでもなく,その善と悪の闘争は ,The Cenciにおいて,更 にー膚,意識の深化と,社会的9 神学的含みをもったものとなっている.
CenciとBeatriceの関係は,神を中心としてみる時,前者は悪,後者は 善の意志を表象するものであるが, Mel丘nieBandyが指摘するように,
r
悪 の化身J
である CenciI土,シエリーの作品中9 最も「実質性J
を持ったもShelleyにおける悪の問題 59 のとして描かれている.Bandyは, Peter Butterの見解を援用して,次の ように述べている.
As Peter Butter has pointed out,the distinctive thing about [Shel. ley'sJ embodiments of evil is that they are almost always presented as dreams, visions, shadows cast by the human mind itself" Butter's almost"
is significant, for though his statement is truεof The Revolt of Islam and Prometheus Unboun ,dCount Cenci is a most substantial "embodiment of evil." 7 (Italics mine)
人間の精神そのものによって生み出された夢や幻や影,として描出されてき た悪は ,The Cenciでは,劇中, Beatricεの言葉にあるように,
r
実質」を持っ た「悪魔」として,r
重く,濃密に,指先や身体に絡みつき,筋肉に喰い込む」(圃, i, 18‑20)ものとして描かれている.それはまた,善と同様,一つの「外 力」として表わされるものである.
シエリーは, Essayon Christianity"の中で,
r
神は善の泉,苦と悪の永 遠の敵で,自然界の有益な諸機能を動かす変わらぬ動機」であるが,他方,some evil Spirit'もこの不完全な世を支配しているという8 この善と悪の 二つの力は,彼が Essayon Devil and Devils"において,マニ教の二元論 を「現実経験に適応した仮説」と解するのと同様,
r
内」における闘いの擬 人化として捉えられている.このことは,後者の Essay"の次の言葉によっ て証明されよう.To suppose that the world was created and is superintended by two spirits of a balanced power and opposite disposition is simply a per. sonification of the struggle which we experience within ourselves, and which we perceive in the op巴rationof external things, between good and evi1.9
60 Shelleyにおける悪の問題
つまり,善と悪の闘争は,われわれが心の中で経験し,また,外界の事物の 働きの中に識り,その戦いを擬人化して見ているというわけである.この解 説は,人間の自由意志と顕在化する悪との関連を示すものであり,この関点 から, Cenciは,意志の「自由決定」に基づく人間内部の悪の衝動の人格化
といえる,
悪の考察において,シエリーは, CenciをPrometheusとは対照的に,自 己を制御できない人物として描いている.Cenciには,自由意志、に基づく善 への回復の道が全く閉ざされている.シエリー夫人によれば,シエリーは「意 志 さ え す れ ば 悪 は 無 く な る
J( . . .
mankind had only to wiU th昌tthere should be no evi ,land there would be none.)lOと信じていたと言うが,r
悪 以外の意志しか持たないCenciにあっては,この見解はいかなるものであ るかJ
とPeterButterが疑問を投げかけるのも首肯できる11 これは,悪と 救済に関する問いかけともなっている.この問題と関連して, Cenciの悪魔 性の骨子となる意志の発露を,作品に即して,もう一段階,堀り下げて検討してみたいと思う.
3
シエリーは,
r
序文」でD6
世紀の人物と行動を,私自身の精神や冷やか な化身に変えた」と述べている.すでに見た CenciとB白tnceの意志の対 立は,前者を神に対抗する悪魔として,r
悪霊が己れの凶悪な行為を見るた めの光J
(困,ii, 44‑45),つまり「闇J
,後者を「人生の光明」つまり「光J
とするものである,
Cenciの行動原理は,その「欲望の具体化」において,彼の「心に巣喰う 悪魔
J
(1, i, 45;n
, i, 45)が主導因となっている.罪深きこと,即ち,神の 意志、に反するようなものに悪魔的な喜びと満足を感じる彼は,自らの自由意 志によって罪の常存を計り,罪の反復は「地獄の大魔王のために乾杯J
(1,Shel1eyにおける悪の問題 61 iii, 83)と言わしめる程に彼の意志の増大化を促すものとなっている.Cenci のこのような豪胆ぶりは,一個人である悪徳者に留まるものではなく,サタ ンを偽りの父とする悪の歴史を優に背景にもつものであることは, Beatrice の行動原理が,つまるところ,
r
神の正義J
(God' s justice)を求めてやまな いことによって証明される.Donald H. Reimanは, Beatriceは不正の裁き に身を委ねても尚,自らの動機の正しさと「神の正義」を信じてやまないと 評し12,Stuart Curranは Beatriceis not simply an instrument of God's justi回 onearth. She is its embodiment."と述べている13.r
神の正義の化身」であるということは,劇中, Beatriceが枢機卿Camilloによって,
r
最も完 全に神の愛を表象しているJ
(That most perfect image of God's love, [V,ii, 67])と賞されていることや,家族の者たちが拷聞に屈していく中,ただ 一人,固執し続けているものが,彼女の次の言葉から明らかなように,
r
何 千年にもわたる神の栄光J
であり,神の「永遠不滅の名声jであることによっ て是とされる.For some brief spasms of p昌in,which are at least As mortal as the limbs through which they pass, Are centuries 01 high splendour laid in dust? And that eternal honour which should live Sun‑like, above the reek of mortal fame,
Changed to a mockery and a bye引rord? (V, iii, 28‑33, italics mine) 悪は本来,神のみこころである義または善と対立するものである.Cenci の悪徳の背後には,悪しき動機,さらに罪が潜んでいるわけであるが,その 動機,罪とは,一体,何であるのか.
Cenciの悪徳の動機に関して, Melanie Bandyは, .• • one cannot suffi‑ ciently explain his motives for evil."14と動機の不鮮明さを指摘している.
Newman I. Whiteも,直接の動機には触れずに,劇中,最大の悪徳で、ある
62 Shelleyにおける悪の問題
強姦に対して,その動機は,肉欲ではなく, adeep, unexplained hatred and love of evil for its own sake"にあると解し, Stuart Curranは, Beat‑ nc巴の精神の完全な敗北を要求する Cenciの絶対権力欲にあるとする.
Cam巴ronは, WhiteとCurran双方の見解を認め,かつ性的動機も明白にあ るとして,次の箇所を傍証としてあげている15
My blood is running up and down my veins! A fearful pleasure makes it prick and tingle・
1 feel a giddy sickness of strange awe: My heart is beating with an expectation Of horrid joy.
C N
, i, 163‑67)「深い憎しみと悪のための悪j という理由や,
r
権力欲j,更に「肉欲J
が, あげられたわけであるが,何故,憎しみが起こるのか.何故,悪に徹するの か.また,何故,権力欲や肉欲に駆り立てられるのか.これらにも原因(動 機)があるはずである.このことは,劇中, Cenciが,何故,r
虫色j(A ser‑ pent, [N, iv, 16])と呼ばれ,また,Cenci本人をして,悪の起源に関して,r
ア ダムが全ての人聞を罪深く造ったj(1, iii, 12)と言わしめるのか,というこ とと深く係わりがあるのではないかといえる.悪および、罪は,聖書の重要なテーマであると同時に,人間の経験の中でも 大きな場を占める事実である.キリスト教において,始めて神は唯一の絶対 人格とされ,それに叛く悪もまた,蛇=悪魔=サタン,すなわち堕落した天 使長ルシファーと同一視され,そこから悪とは何かという問題が,宗教的な 主体的信仰の問題として提示されてくるわけであるが, Cenciを通して描か れる悪の姿は,
r
蛇」であるサタンを分析することによって明らかにされる のではないかと思う.シエリーはPrometheusUnboundの「序文j において,アイスキュロスの プロメテウスはミルトンのセイタン (Saian)より「詩的な性格」をもって
Shelleyにおける悪の問題 63 いるという.つまり,プロメテウスは「勇気や壮大,全能の力に対する強固 な忍耐づよい反抗」に加えて,セイタンのような「野心,羨望,複讐,自己 栄達への要求といった汚点はないj16と述べているが,彼はCenciを描くに あたって, ミルトンのセイタンを意識しなかったとは言えないで5あろう.と いうのも, Cenciとセイタン双方の反逆精神のあらわれる経路はよく似てい るからである.
Paradise Lostの第4巻には,地獄の門を抜け出たセイタンが楽園を視察 する場面が描かれている.時に鵜に姿を変えたり,ライオンに姿を変えたり
して,アダムとエパの「優れた姿と幸福な状態」を近くで観察しながら,
I
怒 りと羨みと絶望の激情」に身を駆られて,彼らを堕そうと決意を固めるわけ であるが, CenciがBeatriceの中に愛と美の神の姿をみたように,セイタ ンも次の引用からわかるように,二人の中に「栄光の創造主のみ姿」を認め ている.Two of far nobler shape erect and tall, Godlike erect, withnative Honour clad
In naked Majestie seemed, for in thir looks Divine The image of thir glorious Maker shon,
Truth, Wisdom, Sanctitude severe and pure, Severe, but in true filial freedom plac't;
Whence true autoritie in men. . . .17 (Book N, 288‑95)
相対する者が,
I
神の像J
(imago dei)を宿しているということは,セイタ ンにとっても, Cenciにとっても悪の行使力を強める引き金となっているこ とは言うまでもない.また,一般に,サタンの悪の動機(堕落の動機)そのものについては,次 の]effreyB. Russellの解説は的確といえよう.
64 Shelleyにおける悪の問題
創造の神話ではサタンは「神jの最大の最初の被造物のひとつとされ ている.拓みと高慢から高い身分を失い,
I
神J
が自分よりあとから生 まれたもの[アダムとエパ]のほうを優先させるからといって,問中J
への愛を憎悪に変えた被造物である.この悪魔は悪の根本原理というよ りはむしろ親から傷つけられうとんじられた子,というようにみえる.
だが反抗してしまうと,まさにみずからのもつ力の重みによって,
I
主j に対する敵意のなかへいっそう深く推しやられてしまう 18ここで鍵となるのは,
I
神への愛を憎悪に変えるj という言葉であるが,ま ず前提に「愛jが指し示されている.それでは, Cenciと「愛」の関係はどうであるのか.すでに見たPeter Butterの間いに関連して, Cenciは最初から「悪以外の意志しか持たない」
者であったのか一一一そうではない.Cenciの悪徳の動機もまた,サタンと同 様,
I
愛のかげり」にあるといえる.動機を「愛のかげり」にあると見るのは,劇中,影の大立役である教皇が,
「父」という視点から Cenci伯を弁護し,枢機卿 Camilloが,それを代弁 している箇所が一つあるからである.次の教皇の言葉は,ややもすると,扇 情的な劇展開の中では,かき消されてしまうものである. しかし,その言葉 には,人類史が愛と罪の問題によって出発したことと無関係とは言えない重 要な点が含まれている.また,教皇から枢機卿へと二重の間接をふまえて,
Cenciの悪徳の動機が語られるのも悪が悪であるゆえんであろう.つまり,
「人目にっかぬよう(悪の)目的に向かつて進んで行くのだ
J
(n, i, 192‑93)と言う決意の固いCenci自ら口にすることはありえない.それでは隠さ れた動機とは,
Children are disobedient, and they sting Their fath巴rs'hearts to madness and despair, Requiting y巴arsof care with contumely.
Shelleyにおける悪の問題 65 1 pity the Count Cenci from my heart;
His outraged love per加1うsawakened hate,
Andthωhe is exasperated to ill. (II, ii, 32‑37, italics mine) 子供というものは親不幸なもので,父の心を傷つけ…倣慢無礼な態度をもっ て長年の思愛に報いるものだ,という教皇の言葉に見られる「父と子jの関 係は,
r
神と人間J
の関係に置き換えて読むことができる.それというのも,Beatric巳が言うように,
r
父権というものは,いわば教皇自身の反映J ( n
, ii,55‑56)であり,教皇も thefather of all'(I, iii, 118)としての神を地上に おいて代表するからである.r
父と子」の関係は,劇中,神(親)の愛に対 する人間(子)の不従順への告発となって表われ,r
親不幸で、反抗心の強い 息子J
(1, iii, 43)への言及がなされているのも,一つには人間の歴史的実存を背景としているからだと言えなくもない.
しかし,劇の視点は変質している.つまり,この教皇は悪徳者Cenciを 金銭によって免償にあずからせようとする者である.Beatriceが言うよう に,
r
人間というものは,お父様同様,忌わしく血なまぐさいものJ ( n
, i, 55)であるということは,r
父」は本来の父ではなく「罪の父」であるサタンを指し示すものとなる.従って,上の引用箇所では,神とサタンと人間の 関係カ可数妙に交錯して,後半の言葉一一「あの男の愛情がないがしろにされ た為に,憎悪が燃えあがり,遂に怒って,あのような悪事をなしたのだ
J
における Cenciの愛と憎悪は,アダムとエパを誘惑した蛇の本性に強 く係わるものとなってくる.Cenciにおける「愛のかげり
J
は,従って,神 に対しては神の絶対善に対する絶対悪の要求,つまり「深い憎しみと悪のた めの悪」として,また,子供に対しては「権力欲J
と「肉欲J
となって現わ れたと結論づけられる.悪は,また TheCenciにおいて,r
腐敗した宗教J
との関連をもって,具体的に劇的にとり扱われていることは,次のWhite の言葉によって証明される.
66 Shelleyにおける悪の問題
In Prometheus Unbound Shelley had emphasized his belief that the evil in men's minds corrupts the institutions by which men are gov‑ erned. In The Cenci he gave objective, dramatic representation to what he was otherwise presenting as an abstract theory, and extended the area of corruption to include parental authority in the evil al1iance of secular and religious oppressions19
腐敗宗教と Cenciの関係は,これだけでも大きなテーマとなるが, '‑'‑~ ~
では,人間の意志に焦点を合わせて, Cenciの悪徳の動機が「愛のかげり」
にあることを見た.次のCenciの冷ややかな決意の言葉には,隠しておか なければならない愛の痛手と恨みが復讐という強い意志となってあらわれて いる.
. . . 1 bear a darker deadlier gloom Than the earth's shade, or inter1unar air, Or constellations quenched in murkiest cloud, In which 1 walk secure and unbeheld
Towar,ゐmypurpose. ‑ W ould that it were done !
(II, i, 189‑93, italics mine) Cenciの悪は,実に,愛されてないことへの恨みの一点に尽きる.そしてま た, Cenciの意志の力は,悪への「自由決定」によって, Cameronが指摘 するように, fBeatriceを破壊するだけでなく, Cenci自身の破壊をもたら す力J20ともなっていく.
4
キリスト教において,神に反逆する以上の大罪 (peccatumgrave ) 21はなく,
Cenciの悪徳には, f死
J
の代償がかかっていることは,劇中, f死とは罪をShelleyにおける悪の問題 67 犯した罰
J
(目i, 125)という Beatriceの言葉やLucretiaの言葉(ill,i, 121‑24)に示されている.つまり,絶対悪を要求する故に起こる自己破壊と言い 換えられる.
Cenciは, Beatriceを先導者とする輩を「わしの敵
J
(some enemies / Against me, [II, i, 153‑54])と言うが,真の敵は「神」である.Cenciの絶 対悪の要求は,r
神の正義の化身」である Beatriceをして,r
神を呪って死なせてやろう
J
(Beatrice shall . . ./ Die in despair, blasheming, [N, i, 49‑50])とすることであり,
r
呪岨で腐れ壊れた醜い塊となった彼女を神の前に 連 行 しJ
, そ の 罪 を 告 発 す る こ と で あ る (Herspirit shall approach the throne of God / Plague‑spotted with my curses. 1 will make / Body and soul a monstrous lump of ruin. [N, i, 93‑95]).更にまた,キリストの受難 を思わせるような次のCenciの言葉の中にも,彼の絶対悪は復讐の叫びと なって反響している.1 will drag her [Beatrice], step by step, Through infamies unh巳ardof among men: She shall stand shelterless in the broad noon
Of public scorn, for acts blazoned abroad . . . . (N, i, 80‑83)
「広く世界に知れわたる行為のために,大衆の瑚笑を受け,白日の中でさら し者にしてやるのだ]という Cenciの叫ぴは,サタンをして,歴史をかけ た神との対決の総決算をさせようとする, Cenciの絶対悪の究極的イメージ 化といえよう.
サタンの敵意は,あくまで神だけに向けられている.サタンは「救われて いない者には決して敵対しないし,彼がその火の矢を神の子らに向ける時は,
彼らに神の性質が宿っているという事実のゆえにのみ彼らを攻撃するのであ り,彼らを通してサタンは神を攻撃することができるからなのである.J22宴 会の席で, Beatriceの必死の訴えに対して,耳こそ貸せ,
r
生命をかけて,68 Shelleyにおける悪の問題
わし (Cenci)を妨げることのできない
J
(II, i, 157)貴族,賢者達に対し,Cenciは,彼らの「理性を支配し
J
(1, iii, 134),人心を惑わすだけである.聖書の表現を借りれば,家の主人の畑に毒麦を播いたり,人の心から神の言 葉の種を奪ったりするだけで,サタンがサタンの名において,最大の権力と 栄光を獲得できるのは,
r
神の子J
を霊肉共に屈服させる時である. しかし,「神の子jである「光」に対し,悪の絶対性を要求するということは,自ず と自己の破壊(死)につながるということは,すでに述べた通りである.
最後に, Cenciの悪の絶対性を,視点をかえて,善の絶対性からとらえて みたい. というのも,シエリーは, Essayon D巴viland Devils"において,
「マタイによる福音書
J
8章28‑34節にある「悪霊に愚かれた者たちについ ての話jに言及しτ
いるが,イエス・キリストによる悪魔城いのイメージは,Cenciの「肉体から,その奥底に潜む地獄の悪魔を追い払う
J
(N,ii,7‑8) という Beatriceの行動原理となっているからである.円高音書J
の物語は,イエスの命令で,悪霊たちが人間の中から出て,豚の中に入ると,豚の群れ は全部,崖から海の中へ落ちて死んでしまったというものである.
話は,悪霊に態、かれた者たちが,イエスに向かつて叫ぶところから始まる.
「神の子よ,あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです.まだその時 ではないのに,ここにきて,わたしどもを苦しめるのですか
J
(8 : 29)と, 悪霊は自分たちカf神の子と何の係わりもない関係にあるという悪魔の本賀を 表わしている.丁度,光が強ければ影がくっきり浮き出るように,悪魔的な ものは,キリストの全き善によって触られる時,悪魔としての本質を表わさ ざるを得ないといえる.それは悪が悪の中に深まっていくことであり,劇中 すでに見たようにCenciの悪徳は,青年時代,壮年時代,そして老年へと 時を経るにつれ,r
歓楽の情J
, (1i, 97)が「復讐の念J
に深まり, Beatrice の「光」を前に,彼の悪徳は頂点に達している.また,悪霊がキリストの全き善に係わりをもつことを拒絶するのは,係わ りを持つことは,彼らの悪の立場の破綻となるからであり,この点, Cenci
Shelleyにおける悪の問題 69 もまた, Beatriceの 「 忍 耐 と 愛 情 の 涙j,
r
神 に 対 す る 熱 い 祈 り j(1, iii, 114‑18)に応えようとはしない.何故,悪霊が悪の立場を守り,r
何の係わりあらん」と言って,キリストとの係わり,つまり「救いjを拒絶するかは,
「救い」は悪霊にとっての「審判」だからである .Prometheus Unboundに おける悪の化身Jupiterが,自らの没落の場 (3幕l場)において,善にし て「全き愛」のPrometheusを「審判者j,
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世界の王者」として「救い」を 求めるが,r
審判J
とは,悪であるものの破壊を通しての「救ぃ」である限り,J upiterは墜落していかなければならず,
r
審判Jは,悪にとっては,実に死 の苦しい自己否定となる.しかし, Cenciは悪の化身Jupiterとは違って,来たるべき死の「審判」
を一蹴する豪胆ぶりを示す.CenciはLucretiaに対し,彼女たちによる Cenci殺害の目論見を次のように榔捻している.
Seeing we had no other judge but God, And Hεhad sentenced me,丘ndthere were none But you to be the executioners
Of His decree enregistered in Heav巴n? Oh, no! You said not this? (II, i, 144‑48)
審判者である神が,天上ですでにわしに死刑宣告を下しているというので,
それを執行するのは,お前たち以外にはないというのか,という Cenciの 言葉には,
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審判j を恐れる小心な悪霊の姿は徹塵も無い.更に,先程引用した『福音書』の物語では,イエスの命令によって豚の中 に入り込んだ、悪霊は崖から海の中へ落ちて死んでしまうが,
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救い」か「死」かの二者択一は,
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自己否定」か「完全虚無」かの極限に至らしめるもので ある.Cenciの「完全虚無」は「神は神,わしはわし」というサタン的強固 な「意志決定」によって すでに死をも陵駕するものとなっている.ここに,死を越えて意志する悪徳者Cenciの素顔がある.
70 Shelleyにおける悪の問題
5
シエリーは,聖書を第一の書物とし,絶えず聖書を研究していたと言われ る.事実,彼の詩作品の随所に聖書からの引用が見られ,The Cenciも例外 ではない.この傑作は人類の壮大な悲劇を背景にもつ,時と空間によって選 ばれた「生]のメタファーと言っても過言ではない.彼は, John Miltonを 模範としながら,彼独自の「失楽園
J
をものしたといえよう.更にまた,愛 に始まり,愛にかげり,愛にある意志を持ち,愛に終結していく「生」の本 流にどこまでも組してゆこうとする詩人が,楽園を夢想する絶えざる詩的営 為の中で,1
失楽園J
の悲劇 ηeCenciを通して,彼の「複楽園J
とも言え るPrometheω Unboundの光輝ゃく透明の世界へ向かうのも,1
生」の本質が そうであるからである.アルファにしてオメガである神の存在証明と言えよっ .
シエリーの悪の考察は,その摘出において CenciとBeatriceという特異 な歴史上の人物を得て,一大ピークを成し得たといえる.自由意志の決定に よる二つの力の衝突は,神を中心として大きく対峠するものではあるが,シエ リーが「序文」で説明している当時のイタリアのカトリック信仰との関連に おいて,それぞれの意志と行いについては更に突っ込んだ検討が必要であろ う.また,
1
善をもって悪に勝つj( 1
ローマ人への手紙j,12: 21) Prome‑theusの愛とは対照的に,血の復讐によって神の正義を守ろうとしたBea‑ triceの悲劇性に対しでも,キリスドの「平和と愛j(序文)の心情か前提と
されている以上,悪の考察は,この劇の複雑性に応えるべく,さらに多くの 紙面を必要とするであろう.
Shelleyにおける惑の問題 71
i主
l 金子晴勇 『アウグステイヌスの人間学.J (創文社, 1982), p. 177.
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自由決定」(liberum arbitrium)の用語はアウグスティヌスの次の言葉より借用した.
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自己の意 志と自由決定のほか何ものも精神と欲情の共謀者たらしめるものはないJ(仰llares alia mentem cupid.均 的comitemfaciat quam propria voluntas et liberum arbitrium) 2 英 訳 Relation of the Death of the Family of the Cenci, The Complete Works ofShelley, vo .l2. ed. by Roger Ingpen, and Walter E. Peck (N ew York: Gordian Press, 1965), pp. 159‑66に収録.本稿中のPrometheusU:πbound, The Cenciおよび,
シエリーの他の詩作品,散文,書簡もこの版による.尚,引用は本文中の[
1
およ び ( )内に行数を示すa 以下,Worksと略記する.3 Newman Ivey White, Shell.り(NewYork: Octagon Books, 1972), II, 143
4 Carl Grabo, Prometheus Unbound: An Interpretation (N ew Y ork: Gordian Press, 1968), p. 78
5 Shelley' s letter to Eliz昌bethHitchener, October 18, 1811, Works, VIII, 160 6 Ibid, p. 228
7 Melanie Bandy, Mind Forg'd Manacles: Evil in the Poetry of Blake and Shelley (Alabama: University of Alabama Press, 1981), p. 89.
8 Works, VI, 235 9 Works, VII, 87.
10 Note on Prometheus Unbound by Mrs. Shelley' ,Works, 269
11 Peter Butter, She,zzのきIゐlsof the Cave (Edinburgh: Edinburgh University Press, 1954), p. 83.
12 Donald H. Reiman, Percy Bysshe Shelley (London and Basingstoke: Macmillan, 1976), p. 92.
13 Stuart Curran, SheUのきCenci, ScoゆionsRinged with Fire (Princeton, New Jersey: Princeton University Press, 1970), p. 94.
14 Bandy, p. 86
15 Kenneth Neil Cameron, Sh,ezzり:the Go励nYears (Cambridge: Harvard Universi‑ ty Press, 1974), p. 405
16 Works, II, 171‑72
17 The Comρlete of John Milton revised by John T. Shawcross (Garden City, New York: Anchor Books, 1971), p. 324
18 J Bラッセル(Jefferey B. Russell)野村美紀子訳『悪魔ー古代からキリスト教 まで
J
(The Devil, Perceptions of Evil from Aπtiquity to Primitive Christianiか,) (教文 館, 1984), p. 20772 Shelleyにおける悪の問題
19 White, p. 143 20 Cameron, p. 405
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神学的に又実践的に最も重要なる種類は大罪 (peccatumgrave, mortale)と小罪 (peccatum leve, veniale)とである……大罪となるには道徳的要求の重要性以外に,違反行為に於ける行為者の責任能力,十分なる認識,及び自由なる意志の同意等も 必要である.J
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罪と悪Jr
カトリック大辞典J(冨山房, 1970)阻.22 Lewis S. Chafer