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夏目漱石の漢詩 (中篇) : 修善寺大患期を中心とし て

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(1)

夏目漱石の漢詩 (中篇) : 修善寺大患期を中心とし

著者 黒田 眞美子

出版者 法政大学文学部

雑誌名 法政大学文学部紀要

巻 77

ページ 1‑33

発行年 2018‑09‑28

URL http://doi.org/10.15002/00021352

(2)

上 では、漱石漢詩を四期に分類し、第二期に当る伊豆大患期の作に

対する高い評価を出発点に、その所以を闡明することを目的として、論

考を始めた。

第一章では、十年間(洋行及び帰国後の教員生活)の漢詩創作の空白

を経て再開された

77詩を中心に、その特質を考究し、漢詩再開が、漱石

本来のトポスへの帰還であったと論じた。

第二章では、今期の作品に目立つ「骨」と「血」という詩語をめぐっ

て、中唐・李賀詩の影が浮かぶことを述べ、両詩の関わりを考察した。

その源には、子規の存在があり、子規の「詩神」が漱石と李賀を結び付

けてトライアングルを響かせ、漱石詩を深めたことを指摘した。 以下の第三章では、「病臥」という特異な現実的条件の下で創作され

た十六首を中心に、第一節では、聴覚的、視覚的表現を観点に独自性を

追究し、第二第三節では、主に『維摩經』の影響について考覈する。

第三章 「病臥」という時空

第一節聴覚と視覚

漱石は、大吐血(明治四十三年八月二十四日)の後、絶対安静で、

「少し手を動かしたり足を動かしたりすると、すぐさま傷口から出血す

るものとみえて、顔の色が変わって目を白くする始末です」(『漱石の思

い出』二五四頁)と手足一つ動かす事にも注意が払われた。その後も

「仰向に寐たまま」(『思ひ出す事など』五)、俳句や漢詩を作った。舟形

の「寢棺」に載せられての東京への移転(十月十一日)も、再入院後も、

一貫して横臥を余儀なくされた。十月二十二日に「昼食後始めて室内を

歩く」(巻二十、日記7D)とあるので、十六首、すべて病室に限定さ

一 目次

上 第二章「骨」と「血」 第一章空白十年後の漢詩再開 中 第三章病臥という時空 下

第四章漱石の「夢」

黒田 眞美子 修善寺大患期を中心として 夏目漱石の漢詩 中

(3)

れた空間で、横臥のまま(二十二日以降の

92・ 93以外)という特異な制

約下で詠まれたのである。今期の作品の独自性を考究する際、それを現

実的条件として念頭に置くべきであろう。

漱石は、文学の基本成分として、六種の感覚的要素を挙げ(『文学論』

第一

第二章)、聴覚に関しては「美的快感の重要なる地位にある」と

述べ、特に詩について言及する。「詩に音を重んじ、韻を尚ぶも全く此

感覚を利用せんとするに外ならず」「時には単に音の感覚のみを以て立

派なる文学を構成し得べし」(三九頁)と、特筆する。視覚に関しては、

「古今東西に渡りて完全の歴史を有する芸術も全く此視覚に其立脚地を

置きし者」と、不可欠の要素と指摘し、輝・色・形・運動に分類して英

文学を中心とした用例を挙げる(四十~四八頁)。しかしながら、今期

の現実的条件は、右の如く行動の自由を剥奪され、空間を限定されるこ

とによって、視覚が極端に制約されている。その結果、いかなる特質を

呈することになるのだろうか。

視覚の制限を勘案すれば、容易に推察し得るように、聴覚が鋭くなる。

漱石自身、「鯉の跳ねる音」に何度も眠りを妨げられ、「夜は殊に甚だし

い」「犬の眠りという意味を実地に経験したのは此のころが始めて」で

夜ごと悩まされたと記す(『思ひ出す事など』二十二)。その結果、敏感

な聴覚を裏付ける作品が認められる。第二章冒頭に挙げた

78「秋風鳴萬

木、山雨撼高樓」も、皮膚感覚とともに、その一例であろう。そのほか、

次の作も、音への拘りが窺える。

83〔無題〕(十月二日、七絶、以下、

詩題を記さない場合は、すべて〔無題〕)である。

夢遶星

露幽夢は星

(天の川)を遶りて

露幽なり 夜分形影暗燈愁夜は形影を分かちて暗燈愁ふ

旗亭病

修禪寺旗亭病みて近し修禅寺

疎鐘已九秋一

(薄絹を張った窓)の疎鐘已に九秋 こう

前対後散格の詩である。起句は天界を水分豊かに詠い、承句は対照的

に、室内の仄暗い灯を描く。天と地、水と火の対比である。だが天と地、

いずれも夜の帳に包まれて、夢か現か判然としない時空である。「夢」

については、次章に述べる。後半は、一転、現実的病臥の時空を詠み、

近くの寺から鐘の音が響いてくる。それは大音声ではなく、間遠に鳴る

「疎鐘」で、薄絹の窓越しに響いて柔らかい。夜明けの時を告げて、前

半の真夜中からの時間の推移をも物語る。ところがこの鐘は、実際には

太鼓だったという。当該詩が記されている『思ひ出す事など』二十九に

「修善寺に行って、寺の太鼓を余ほど精密に研究したものはあるまい」

と記すように委細を尽す。「其太鼓は最も無風流な最も殺風景な音を出

して、前後を切り捨てた上、中間丈を、自 に夜陰に向って擲 たたき付ける

様に、ぶつきら棒な鳴り方をした。さうして、一つどんと素気なく鳴る

と共にぱたりと留った。…(略)…あゝ早く夜が明けて呉れゝば可いの

にと思った。修禅寺の太鼓は此時にどんと鳴るのである。さうして殊更

に余を待ち遠しがらせる如く疎 まばらな間隔を取って、暗い夜をぽつりぽつ りと縫ひ始める」(波線は論者。以下同じ)と。「疎 まばらな間隔」は実際に

しても、漱石は、なぜ「太鼓」を「鐘」にしたのだろうか。小説家だか

らといえば、実も蓋もない。やはり「ぶつきら棒」に「素気なく鳴る」

「太鼓」よりも、「鐘」は、残響が余韻として残ることや、仏寺によりふ

さわしいというイメージもあるだろう。さらに「疎鐘」は、祖述する漢 文学部紀要第七十七号二

(4)

詩を想起し得るのである。

漱石は、この鐘の音を、二十歳以前の作 (1)とされる6「即時」(七絶)

にも鳴らしており、それは祖述する漢詩に、更に近い。

楊柳橋頭人往

楊柳橋頭人往還し

緑蓑隱見暮烟間緑蓑隠見す暮烟の間

疎鐘未破滿江雨疎鐘未だ満江の雨を破らざるに

一帶斜陽照

山一帯の斜陽遠山を照らす

楊柳の岸辺にかかる橋のあたりは家路を急ぐ人が行き交い、川面には

夕靄のたなびく中、緑の簑笠(漁師か船頭)が見え隠れする。

れんば

かりの水面に降り注ぐ雨を衝いて鐘の音が響いたが、そのままふっつり

と消えたまま、次の音が鳴らない。そうこうするうち、夕陽が遙か彼方

の山々を照らし出した。この鐘は、間隔があく緩やかな速度で、遠くの

寺から響いてきて、雨音にかき消されるような微かな音だろう。「楊柳」

を初めとして、中国の山水画によくありそうな空間を背景とした伝統的、

典型的山水詩といえよう。中国の詩画への憧憬が窺われ、第一期前半、

習作時代の特質を顕著に物語る。雨に煙る手前の渡し場から水面を越え

て、彼方の山を遠望する奥行きのある空間は、北宋の宮廷画家郭煕の唱

えた技法「三遠」の一つ、平遠である (2)。前稿で記した漱石の幼少期以来 の南画趣味 (3)を彷彿とさせるとともに、中国の漢詩の中では、南宗画の祖

と言われる王維の自然詩を連想させるのである。「疎鐘」は唐代の自然

詩人の系譜、いわゆる王孟韋柳四家の中で王維のみ四例用いている。こ

れは唐詩中、最多である。たとえば、「寒燈高館に坐し、秋雨疎鐘を

聞く」(巻七、「黎拾遺昕、裴秀才迪見過。秋夜對雨作」五律、頷聯 (4))は、 6詩と同様、雨音とともに響いている。注目すべきは、『唐賢三昧集』

(巻上)等にも採録されている代表作「歸

川作」(巻七、五律)で、6

詩と同様の景観を詠う(丸囲み算用数字は、第何句かを表わす。以下同

じ)。

①谷口疎鐘動谷口疎鐘動き

②漁樵稍欲稀漁樵稍く稀ならんと欲す

③悠然

山暮悠然たり遠山の暮

④獨向白雲歸独り白雲に向かって帰る

川」は、周知の如く、長安郊外、藍田県の王維の別墅

川荘のあ

る地で、川の名でもある。「

川集」序に「余の別業は

川の山谷に在

り」とあるように、藍田山、驪山が連なる山々に囲まれた谷間に広がる

広大な別天地である。王維は宮中での憂愁を晴らすべく、陶淵明に倣っ

て、しばしば「歸」るのである。その入り口というべきところに

り着

くと、早やもう日暮れ、漁師や樵も家路をめざして、人影もまばらになっ

ていく。そこに入相の鐘が、ゆっくりと響いてくる。それを耳にしなが

ら、愛する別墅に一歩ずつ近づいていく王維は、静かな喜びを噛みしめ

ていたであろう。王維は、「詩仏」と称されるほどに、仏教との縁が深

い。「疎鐘」は、仏寺の存在をも示唆して、一層、彼の心を慰撫したで

あろう。漱石が王維詩を愛好する所以の一つも、彼自身の仏教への関心

の深さと関わる。二十代での鎌倉円覚寺での参禅が有名だが、今期にお

いても、すでに挙げた

77「禅夢」や、「骨」の用例で列挙した

79詩の起 承句「円覚嘗て参ず棒喝の禅、瞎 かつ(盲人、ここでは悟りの悪い自

身)何れの処か機縁に触れん」にも認められる。漱石と仏教(禅)との

夏目漱石の漢詩三

(5)

関わりについては、評価すべき先行研究があり (5)、詳細はそれらに譲るが、

第二・第三節で王維との関わりも含めて、私見を述べることにする。

王詩第四句「白雲」については、入谷仙介『王維研究』が、王維は

「白雲」を「詩的イメージとして愛し」「荒涼として絶望に陥りがちな王

維にとって、白雲はある希望の象徴 (6)」だったと指摘する。前述の如く、

漱石も第一期を中心に少なからず用いており、第二期の最初の作

77に王

維と同様の心情を籠めた。6詩に「白雲」は詠まれていないが、雨後の

空には、「歸

川作」と同じくそれが浮かんでいたであろう。

以上のように、

83詩は、6詩ほど王詩には近くないが、「太鼓」では

なく、「鐘」しかも「疎鐘」にしたのは、それを多用する王詩への連想

が働いたのではあるまいか。眠れぬ夜、暗闇の中でおぼろな明かりに包

まれて「寐れば夢を見る。夢を見ればすぐ覚める」(「日記」十月二日)

という夢うつつな状態のまま、待ち望む夜明け方になって「どん」と鳴っ

た音に、次はいつかと耳を傾ける漱石。病臥の中、視界を閉ざされ、と

ぎすまされた聴覚が刺激を受けて、様々な想念を掻き立てる。過去の時

間の回顧の中に6詩が浮かび、さらに王維詩へと繋がったのか。あるい

は間隔のあく無音の間に、王維の「疎鐘」が想起されての連想かもしれ

ない。聴覚的表現は、つぎの作

89〔無題〕(十月十日、七絶)にも響く。

回時一鳥鳴客夢回る時一鳥鳴き かえ

夜來山雨曉來

夜来の山雨曉来晴る

孤峰頂上孤松色孤峰の頂上孤松の色

早映紅暾鬱鬱明早に紅 こうとん(朝焼けの赤い光)に映じて鬱鬱と して明らかなり

冒頭「夢」が記されて、

83詩と同様、深夜から明け方の時間を背景に

するが、「客」という旅の身空での浮遊感は、一層儚い。「回時」は、夢

から覚めてうつつに戻る時の意であるが、東京に帰る前日の作なので、

客寓の伊豆から東京へという現実復帰も重ねていよう。その時、「一鳥

鳴く」。この鳥声は、いかなる響きであろうか。夜来の雨にしっとり濡

れた山中の空気の中で、朝焼けから次第に白みゆく清々しい光を寿ぐか

のような澄んだ音色、夢とうつつのあわいに放たれる声音は、決して弱

弱しい

りではないだろう。無意識の夢世界から現実へと覚醒を促す力

強さ、鋭さ。視界を閉ざされて鋭敏になっている詩人の聴覚には、より

鮮明に響いたであろう。それは雀のような群れの

りではなく、あくま

で「一鳥」に限定されるがゆえの雄々しさといえよう。この「一」は、

転句で重複使用される「孤」と呼応して、存在感が鮮やかである。一週

間前の「疎鐘」の持続性と異なり、入声のもつ強い響きとともに、一挙

に現実に引き戻す瞬発力を有している。生き生きとした臨場感は、実際

に聞こえた鳥声だったかもしれない。だが「一鳥鳴」には、祖述する詩

句がある。北宋・王安石(一〇二一~一〇八六)の「一鳥鳴かずして山

更に幽なり」(「鍾山即事」七絶、結句、『臨川文集』巻三十)である。

この句は、周知の如く、梁・王籍の「蝉噪ぎて林逾ゝ静かに、鳥鳴い

て山更に幽なり」(『古詩紀』巻八六「入若耶溪」五古四韻、第三聯)を

もじっている。王籍詩は、「しずかさや岩にしみ入る蝉のこえ」と同

様の発想で、静寂を逆説的に表現しているが、王安石は、それをさらに

ひねって否定したのである。一見、典拠を反転した機知的技巧のように 文学部紀要第七十七号四

(6)

見えながら、本来の逆説をさらに転じた否定は、機知性を喪失して陳腐

な結果に陥った。唐詩尊崇を標榜する古文辞派、明・王世貞(一五二六

~一五九〇)が、「笑ふ可き者」の例として当該詩句を挙げる (7)のも宜な

りであろう。しかし機知に優れた漱石は、無論、その愚を犯さない。王

籍詩の逆説的表現をそのまま踏襲して、静寂の中での鳥声を響かせた。

それは、おそらく「一聲」だったのではあるまいか。この説を補強する

用例として、王維詩(「

感化寺曇興上人山院」巻七、五律)を挙げる。

⑤野花叢發好野花叢発好く

⑥谷鳥一聲幽谷鳥一声幽なり

⑦夜坐空林寂夜坐空林寂たり

⑧松風直似秋松風直だ秋に似たり

感化寺(『文苑英華』巻二三四では、「化感寺」)は、長安郊外の藍田

にある寺院で、曇興上人(未詳)の山院を訪れた時の作。鳥声は、仏教

的静寂を表す「空林」の中で、「一声」鋭く響き渡り、松風に乗り奥深

く広がってゆく。「空」は王維愛好の詩語で、大乗仏教の要諦を意味し

ており、王維独自の宗教的自然観照である。漱石詩にも五十七例の多数(「空空」の反復をも含める)が認められる。漱石の王維詩への傾倒を証

する詩語といえよう。それはともかくこの王維の鳥声は、あくまで王籍

と同様、逆説的に幽寂を強調する。

一方、漱石は、その幽寂を利用し、「一鳥」=「一声」を放って、場面

転換の契機としての機能をも果たす。時間は夜から暁に流れて雨も上が

り、朝焼けに染まった空には、勢いよく緑に茂る一本の松が、「孤峰」

の上に高々と聳えている。起句の聴覚的表現から、時間の推移とともに 視覚的表現に移り、転結句は、色彩をも含めた印象的景観を詠む。特に転句は、体言のみの造句で「孤」を繰り返し、リズムよく余剰を排して

潔い。当該詩掲載の『思ひ出す事など』二十八には、「朝早く床の上に

起き直って、向ふの三階の屋根と自分の室の障子の間に

かばかり見え

る山の頂を眺める」とあり、「孤峰」は、限られた視界から辛うじて見

える自然の象徴だったことが知られる。だがその上に聳える一本松への

言及は見当たらない。おそらく彼の心中の松だったのではないか。さす

ればそれは何を意味するのだろうか。

漱石は、植物の中では、竹 と共に松を好む。「松」は、漱石詩中十七

例。多くは脱俗の象徴として隠

憧憬を表し、そのほか仏教的要素を主

とする作もあるが、その両方を兼ねる場合が目立つ。いわば仏教的隠

志向である。時期別に整理すれば、隠

志向は、第三期に顕著で、すべ

て題画詩である。自画も含めた所謂山水画(「一路萬松図」「煙波縹緲図」

など)に詠まれている。隠

のトポスとしての山水を背景として、「松」

あるいは「松林」はその具体的表象として描かれる。

118「題自画」(大

正三年、七絶)では、「厓は碧水に臨みて老松愚に、路は危橋を過

ぎて仄径

なり」(起承句)と詠む。この山水画は「碧水」に臨む

下方から上方まであちこちに松が描かれている。「老松愚」という擬人

化には、自身の比喩と思わせる松への親近感が窺われよう。

第二期では当該例のみで、「孤松」も全詩中、この一例だけである。

ただ「松」が「鬱」とともに詠われるのは、第一期に二例見える。『時

運』掲載の第二首(七絶、起承句)2「高刹天に聳えて一物無く、

伽藍半ば破れて長松鬱たり」と、雲一つ無い空を背景に、荒廃した

夏目漱石の漢詩五

(7)

寺院が、鬱蒼と茂る高く伸びた松に覆われんばかりと詠う。もう一例は、

子規の『七草集』評の第七首

15(七絶)である。

洗盡塵懷忘我物塵懐を洗ひ尽くして我物を忘れ

只看窓外古松鬱只だ看る窓外古松の鬱たるを

乾坤深夜

無聲乾坤深夜

として声無く げき

黙坐空房如古佛空房に黙坐して古仏の如し

仏教的興趣(結句)が濃厚だが、脱塵志向(起句)も看取でき、双方

を見出せよう。絶句の中では忌避すべき詩語の重複(「古」)が認められ

るが、漱石の希求する詩境は明確に伝わってくる。人気無い部屋に黙然

と坐していると、世俗の塵労が洗い流されて、物と我の境界もなくなり、

無心の境地になる。ひたすら見守るのは、鬱蒼と茂る古い松の木だけ。

この「古松」は、意志的に「看る」対象なので王維詩のような松林では

なく、やはり求心的焦点として「孤松」ではないか。漱石は深夜に到る

まで座り続ける、まるで古仏のように。ここでは「古仏」も「古松」も

「我」と区別ない。即ちそれらは漱石自身でもある。「無聲」「黙坐」と

いう沈黙静寂の強調は、聴覚の逆説的表現とも捉えられるが、所謂「維

摩黙然」(真の悟道は言葉では語り得ぬ)という『維摩經』との関連を

指摘し得るであろう。「忘我物」も、我と物の区別は無意味で、主体と

客体ともに「此の二は皆空」という『維摩經』の「不二」を踏まえると

解される。第二節に詳述するので、留意しておきたい。

89詩後半(「孤峰頂上孤松色、早映紅暾鬱鬱明」)に戻れば、深夜から

さらに夜明けへと時間が流れているが、「孤峰」の頂上にそびえ立つ

「孤松」は、漸次明度が上がる空を背景に「孤」を強調することで、一 層、存在感を際立たせている。吉川・一海注を初め諸注はなぜか指摘しないが、「孤松」は、陶淵明が三例用いている(管見の限り初出 (9))。「歸

去來兮辭」にも見える。名句として知られる雲と鳥の対句に続く聯にあ

る。

雲無心以出岫雲は無心にして以って岫を出で

飛而知

鳥は飛ぶに

んで還るを知る

景翳翳以將入景は翳翳として以て将に入らんとし

撫孤松而盤桓孤松を撫して盤桓す

「翳翳」という畳語が、

89の「鬱鬱」を導き出したのかもしれない。

畳語はリズム感を醸し出しながら持続作用があり、その間に状況は変化

する。ここでも夕暮れの光は、次第に薄墨色を濃くしてゆき、太陽は今

にも沈もうとしている。詩人は、一本の松を撫でながら、立ち去りがた

い思いで留まっている。「撫」という動詞が「孤松」を単なる植物では

なく、いとおしい存在に変えており、それへの愛好を表白する。鳥は塒

に帰るが、自身の帰るべき処は、ここなのだという去り難い思い。「盤

桓」という畳韻が、「孤松」への執着を表わす。松に「孤」を加えて、

他の何物でも無い存在という意味を賦与して、いわば分身化したといえ

よう。そこには自己を客観視した「歸」の決意が含まれている。

漱石の

89詩は、陶詩の薄暮の景を、色鮮やかな夜明けに変換して、同 じく故郷(東京)に「帰る

」決意を籠めたと考えられよう。だが漱石の

帰郷先は、陶淵明とは真逆の都である。すなわち伊豆という自然から塵

界への帰還。「孤松」への執着は陶潛と等しいにしても、ぐずぐずと

「盤桓」する心情は、大いに異なっている。「鬱鬱」は松の盛んに茂る形 文学部紀要第七十七号六

(8)

容でありながら、自然との別離を厭い、揺れ動く漱石の複雑な心境をも

表しているのではないか。

89詩当日の日記には「

明日東京へ帰れると

思ふと嬉しい」と書かれているので、それを信じれば、「一鳥鳴」は、

新しい未来の始まりへの期待を告げる鳥声と考えられよう。事実、そう

解釈する向きもある

。だが果たしてそういえるか。転句で反復される

「孤」の強調は、そう単純には解せないのである。漱石詩に、「孤」は二

十二例用いられ、最多の熟語は、「孤愁」「孤雲」の各四例である。第二

期では、「孤愁」が前掲

91「孤愁空遶夢、宛動蕭瑟悲」(第四聯)と用い

られている。「愁」だけでは、今期中、すでに

78「一燈青欲愁」、

83「夜

分形影暗燈愁」を掲げた。漱石詩全体では、三十六例数えられ、「憂」

の六例も含めれば、頻出語といえよう。反復強調される

89の「孤」にも

憂愁の翳りを認めるべきである。加藤二郎「漱石の漢詩に於ける

(憂)

について」(『漱石と漢詩近代への視線』十

)が示唆に富む。

漱石にとって「愁」は、「単に進路上での迷いといった皮相に根ざした

ものではなく」「生涯に亙る思索」の対象、「いわばアルファでありオメ

ガであった」と述べる。それは熊本期から明らかになり、その淵源は、

「明治以降の日本総体の基底」に求められる。「近代」において特徴的な

「不安への顛落、安心の欠落の返照、そしてその心の空隙に湧出する悲

哀の情調」、所謂

近代の憂愁

の日本的典型と説く。第二期の「孤愁」

については、前掲

91「縹緲玄黄外、死生交謝時」(第一聯)という「天

地」の外からの「危うい帰還者としての自己への視線」を背景として、

「現実の人間社会はもとよりのこと、文学や思想の影をすら擺落した文

字通りの

としてある

」と論ず。したがって「孤峰」「孤松」 と強調される「孤」には、内奥の中核に

愁 を抱えて自己を凝視する

中で、すべての事象を「擺落」した、より本質的な存在への観照が込め

られているのではないか。「孤松」は、それゆえ「色」に収束するので

ある。先行の諸注には一言もないが、この「色」は、看過し得ない。直

接的には結句の「紅」と補色関係にある松の色を指すが、その抽象性は、

『般若心経』や『維摩經』などに見える「色即是空、空即是色」という

大乗仏教の要諦「空」に関わっていると考えられるからである。漱石自

身、

159詩(大正五年九月九日、七律首聯)に「曾見人間今見天、醍醐上 味色空邊(曽て人 を見今天を見る、醍醐の上味色空の辺)」と

詠う。亡くなる三か月前の自身の在りようを、いまや塵界の諸事を眼に

入れず「天を見る」と述べて、その感懐の所以を第二句で説く。「醍醐」

は、牛乳を精製して作った最も純粋美味なもので、如来の最上の教法に

喩えるが、漱石は、それを「色空」(「色即是空、空即是色」の略)の理

解に導かれたと唱えている。したがって「色」は、無論単なる色彩の意

味もあるが、「空」との関わりを勘案すべきであろう。龍樹(一五〇~

二五〇ころ)が主著『中論』で唱えた「空」について、詳しくは専科に

委ねるしかないが、梶山雄一『空の思想』に拠れば、「空」という言葉

の原語(sunya)の意味は、「実体がない」ということで、「何もかもが

存在しないというわけではなく、すべてのものには実体がないというこ

と」である。「実体」とは、自立的・恒常不変・単一という三つの性質

によって規定されるが、それらは「ことばの世界にしか存在しない」と

説かれる。「本体とは、実在するものではなくて、言葉の意味の実体化

されたものにすぎない」「各瞬間に変化消滅する無常なもの」で、「実体

夏目漱石の漢詩七

(9)

がない」のである

。拙論に即していえば、「孤松」の「色」は可視の事

象であるが、その本体は不可視である。漱石は、本体を究明せんとして、

死生の境界を越えて往還した経験の意味を考究するが、その際、言葉を

用いて合理化し、表現しようとする。だがそれは「戲 ろん」(言葉の虚構)

に過ぎない。そのことに気づいた漱石は、言葉の呪縛から解き放たれた

「空」を意識したがゆえに、諸々の事象を擺落するかの如く「孤」を繰

り返し、その帰着点を「色」=空としたのではないだろうか。「孤松」

は、冷徹なその姿をシンボライズする。

だが「色」は、帰着点に止まらない。帰着点は、始まりでもある。空

間的に「孤」を重ねて視線を上方へ誘い、末句は、さらに上の天空へと

伸びて線から面へと大きく広がる。紅く染まって果てしなく広がる天空

は、現実には限定された狭小空間しか見えず、あくまで彼の想像の中で

広がっている。この空について、漱石は次の如く記す。「当時十分と続

けて人と話をする煩はしさを感じた。…口を閉ぢて黄金なりといふ古い

言葉を思ひ出して、ただ仰向けに寐てゐた。難有い事に室の廂 ひさしと、向

ふの三階の屋根の間に、青い空が見えた。其空が秋の露に洗はれつゝ次

第に高くなる時節であった。余は黙って此空を見詰めるのを日課の様に

した。何事もない、又何物もない此大空は、其静かな影を傾むけて悉く

余の心に映じた。さうして余の心にも何事もなかった、又何物もなかっ

た。透明な二つのものがぴたりと合った。合って自分に残るのは、縹緲

とでも形容して可い気分であった」(『思ひ出す事など』二十)。この

「縹緲」は、死からの蘇生後、すべての事と物を擺落したまさに「空 くう

というべき位相と考えられるのである。 本節では、病臥という制約下に於て、まず聴覚的表現を追求したが、必然的に視覚的表現にも及んだ。視覚は制限されたがゆえに、いや増す想像力によって、現実を超える豊かな時空の構築を可能にした。それは漱石の情念と思惟を深めることになった。その胸懐を簡潔に詠った作が、

次節に挙げる

81詩である。

第二節「芭蕉」について『維摩經』との関わり(1)

81詩(九月二十九日、五絶)は、漱石自身気に入って、しばしば揮毫

し、また現在修禅寺に石碑が建てられ、大患期を代表する作と看做され

ている。

仰臥人如

仰臥して人唖の如く

黙然見大空黙 もくねんとして大空 だいくうを見る

大空雲不動大空雲動かず

終日杳相同終日杳として相同じ

平易な詩語を用いて、病臥の時空が極めて客観的に描写されている。

その客観性を最初に提示するのは、起句の「人」である。「人」は、漱

石も好んで揮毫している王維詩の「人閑かにして桂花落ち、夜静かにし

て春山空なり」などを想起させるが

、詩人自身を指す場合には、一人称

(漱石の漢詩文中では、余・吾・我)よりも客観化、普遍化している。

従って「人」の仰臥を客観視する詩人の存在、すなわち「危うい帰還者

としての自己への視線」を認め得る。いわばもう一人の漱石の耳目であ

るが、その耳には何の音も響かず、その眼には「大空」を見るともなく

見ている「人」の姿が映る。だが承句以下の「大空」を見ているのは、 文学部紀要第七十七号八

(10)

紛れもなく一体化した漱石その人である。結句の「杳相同」とは、主体

としての判断に拠る様態であり、客観視は消えている。この「人」につ

いての禅的解釈は後述することにして、今は、二人から一人へ、客観か

ら主観への変化に着目する。それを可能にするのは何だろうか。その一

つは、頂真格(蝉聯体)である。前掲

66詩(第二章第一節、十三頁)で

言及したように中国の尻取り歌で、二十字という極小の世界に頂真格を

用いるのは、危険な

けである。それゆえ頂真格の多くは、長

の古詩

や物語性のある楽府に用いられて、換韻による場面転換や韻律上の断絶

性を補う機能と効果を発揮する。当該詩でも「空」は押韻箇所に措かれ

ているが、反復によって音声的にも緩やかに連携し、内容的にも承句か

ら転句への変転の亀裂を損なうことなく、滑らかに導く。「転じる」と

いう本来の変転を実現しながら、連続性を保持する。すなわち「大空」

を重ねる中で、主客二人の漱石から一人へ合体する。変転と持続という

きわどい綱渡りを頂真格が補完しているのである。言うまでもなく、

「大空」を強調しながら。

「大空」は、素直に「おおぞら」と読んでも差し支えないだろう。だ

が平易であるがゆえに、頂真格で強調されると逆に何らかの含みがある

のではと不安を覚える。翻って、前節の漱石自身の弁に拠れば、「何事

もない、又何物もない此大空」である。彼の「心」と「ぴたりと合った」

「透明な」「縹緲たる」「大空」。これは単なる「おおぞら」ではない。も

し「おおぞら」なら、「雲ひとつない」などが順当で、そこに「事」や

「物」が提示される必然性はない。さすればそれは、抽象化された、事

も物も何一つない無の虚空、「大いなる空 くう」ではあるまいか。「大空」は、 六朝詩には見えず、唐代は、安史の乱以降の中唐詩人等が用いているが

宋代からは詩僧を中心に、仏教的興趣を詠った作が飛躍的に増える。そ

の背景には、詩僧の増大や仏典の充実があり、事実、仏典を繙くと、多

くの用例がある。『大正新修大蔵経』(SATテキストデータベース20

18版、以下同じ)では、「般若部」だけでも千例を超える。したがっ

て『仏教語大辞典

』にも立項されており、そこでは、『大品般若経』「問

乗品」を引いて「十方の世界が空であること。東西南北と四維と上下と

が空であること」などを説く。さすれば「

」「黙然」も仏教的語彙で

ある蓋然性があろう。この二語は、同様の意味を表して、五絶の中では

一見冗漫にも見えるが、それぞれに仏教的典故と意味が有り、その相違

を知れば、冗漫性は消える。

」は、『碧巌録』第三則「馬大師不安」にも見える。唐の禅僧、馬 祖道一(七〇九~七八八

)が病気になり、院主(寺の執事、事務長)に

ご機嫌如何かと問われて「日 にち(千八百歳の長寿の仏)、月 がち(一 日一夜の短命の仏)」と答えた。この雪 の「本則」について、

「日面仏、月面仏。五帝三皇、是れ何物ぞ。二十年来曾て苦心す

」が

詠われるが、「二十年来~」の圜悟の著語に「

子」が見える。「自是よ

なんじ落草す。山僧が事に干 かかわらず。唖子苦瓜を喫ふ(もともとお前(雪

竇)は落ちぶれているのだ。わし(圜悟)には関わりない。唖子が苦い

瓜を食っている)」と。唖子が苦い瓜を食べて、その苦さを人に伝えよ

うとしても、伝えられない。何かを体認しても、それを正確に全的に言

葉で表現するのは、不可能であることを喩えている。同様の意味では、

若き漱石の円覚寺参禅の折にも与えられた唐末・趙州従

和尚(七七八

夏目漱石の漢詩九

(11)

~八九七、注(

28)参照)に因む「趙州狗子」(「狗子無仏性」)、いわゆる

「無字」の公案の「

子得夢」(唖子が夢をみても、それを人に語ること

ができないように、十全に体得すればするほど人には説きようがない。

『無門關』一)の方が有名だろう。「夢十夜」第二夜において、この公案

との命がけの格闘が記されており、漱石にとって大きな課題であったこ

とが明らかである。禅による悟達の境地は言葉では表現できず、たとえ

言葉で表現しても、それは悟道ではない。「

子得夢」こそ禅の極致で、

大悟徹底といえる。言葉に対する懐疑も語られて、後述するように、漱

石の漢詩において繰り返される重要テーゼである。ここにはそれへの一

つの教示が認められよう。従って、漱石の

81詩起句「仰臥人如

」の

「人」は単に「仰臥」するのではなく、自ずと悟達の境地を求めており、

それを表現するのに「如

」を用いたのである。『無門關』にせよ、『碧

巌録』にせよ、色濃い禅味は、漱石がなぜ客観的な「人」(禅学では

「にん」と呼ぶ)を用いたのかを類推させる。その点は、転結句に関し

て第三節で述べるので、留意しておきたい。

この「如

」は、『碧巌録』第三則に由来するとは断定しないが、漱

石は自らも病に臥して、病んだ馬祖道一に、以前に増して親近感を覚え

たのではないか。馬祖に因む「磨甎」の典故は、『景德傳燈

』巻五な

どにも採録された周知の故事であるが、前掲(第二章第二節、十七頁)

75詩にも「磨甎未徹古人句(甎を磨きて未だ徹せず古人の句)」(第 かわら

三句)の典故として漱石自身の愚鈍を表わす意味に用いられている。ま

た『吾輩は猫である』九にも甎を磨いて鏡にしようとする和尚の記述を、

「いくら書物を読んでも道はわからぬ」という寓意に用いている。斯く の如く馬祖は、漱石にとって、馴染みの禅僧だったといえよう。また

「日面仏、月面仏」という答えも機知に富み、彼の興味を引いたであろ

う。寿命の最長と最短の二仏を挙げて、相対的な長短は無意味であるこ

とを示している。この死生観は、深刻な病臥という状況において、彼に

は大きな慰めになったと考えられるのである。

「黙然」の出典としてもっとも有名なのは、『維摩經』「入 にゅうほうもん

(鳩摩羅什訳『維摩詰所説經』第九章、以下は、すべて同書)の「維摩

黙然」である

。『維摩經』は初期大乗仏教経典で、聖徳太子著とされる

『三經義疏』の一つとして、すでに七世紀初めには、日本でもよく知ら

れていた。維摩詰を主人公とするが、彼は、在家居士で病人である。こ

の基本的設定の二点が、『維摩經』の独自性と関わっている。摩詰は、

サ」(者長む「住)にルフーベ耶の在現ー、リーヴァイシャ(離資産

家で高徳の者)であり、不思議な力(神通、神力)を持ち、非凡な智慧

があり、優れた弁舌の才にも恵まれている。自宅で病気療養中のため、

釈尊が菩

たちに、摩詰を見舞うように依頼する。だが、最初に声をか

けられた舎利弗を初め十大弟子や菩

たちは、以前、みな摩詰に説破さ

れたことがあり、彼を畏怖して尻込みしてしまう。最後に「智慧第一」

の文殊菩

が引き受けて見舞いに訪れるが、優れた二人の問答に期待し

て、「八千人」の菩

たちもあとに従い、二人の応酬を見学するという

戯曲仕立てのユニークな構成になっている。

摩詰はベッド一つ以外何もない「空っぽ」の部屋で彼らを迎えて「空」

を説き、文殊との問答で自らの病について語る。その種類、原因、「調

伏(心構えと克服)」が仔細に説かれる(第五章「文殊師利問疾品」)。 文学部紀要第七十七号一〇

(12)

紙幅の都合で詳述しないが、原因と「調伏」だけを挙げれば、病は「痴」

と「有愛」(無知と執着)から生じ、「一切衆生病むを以て、是の故に我

病む。若し一切衆生の病滅すれば、則ち我が病滅す」「菩

の疾は、大

悲を以て起こる」と述べる。人々が病むので、菩

はそれを大いなる慈

悲(「大悲」)、すなわちすべての他者の悲しみや痛みを自分の事として

悲しむがゆえに発病すると説く。ここに摩詰が在家居士である必然性が

看取される。山中で修業するのではなく、苦悩し闘病する「一切衆生」

が身近にいる世俗にいてこそ、その実体を把握し、「共振

」することが

可能になるのである。

克服の仕方については、こう語る。病は、自身への執着から起こるが、

人の体は、地・水・火・風の四つの元素(四大)が集合したものに過ぎ

ず、「四大に主無く、身も亦た我無し」。現代の最新医学と同様の見解

(人間はゲノムの集合体にすぎない)に驚かされるが、「無我」を理解し

て自身から「離れる」ことができれば、主体と客体の区別もなくなり、

すべてに平等になれて病を免れることができる。「我」も「涅槃」(解脱)

も「此の二は皆空」と諭す。これは「大空」とも関わるのではあるまい

か。病気を通して、『維摩經』の要諦と人間観が明快に語られ、これに

続く「不二」(無分別智)への導入にもなっている。漱石は摩詰と同じ

く病苦中ゆえ、この件りに深い関心を抱いたであろう。なぜ発病し、病

と如何に対峙すべきかへの教示を得たのではあるまいか。最後の漢詩

208

に「碧水碧山何ぞ我有らん、蓋天蓋地是れ無心」、「無我」「無心」

と詠んだことを想起せざるを得ないのである。明暗期においても深刻な

病状に苦悩して、二十日後に迫りくる死を実感しながら、今期の作の中 でも好んで揮毫したという

81詩を、引いては『維摩經』の人間観を反芻

したのではないだろうか。

「入不二法門品」の「不二」とは、長尾雅人『

維摩經

を読む

』に拠

れば、「絶対に矛盾したような二つの概念善悪とか、美醜とか、有

と無とか」「互いに結びつかないもの、真反対のものが別ではない

ということ」(二六五頁)である。「入不二法門品」は、「三幕十二場か

ら成る」(長尾氏)というべき『維摩經』ドラマのクライマックスに相

当する。それを象徴するのが、いわゆる「維摩の一黙」であり、これが

「黙然」の典故と看做せよう。「入不二法門品」冒頭、摩詰は文殊菩

彼に従って来た多くの菩

たちに問いかける。「菩

はどのようにして

不二の法門

に入るのでしょうか。」最初に法自在菩

が、「生」と

「滅」という相反するテーゼを挙げて、「生」が、否定されるなら「滅」

もないことになり、「無 にん」(長尾注実相には生も滅もないと忍

可すること、諦認すること)を得ることになり、それが「不二」に入る

ことと説く。かようにして、以下三十一人の菩

が各自、相対立する二

つのテーゼ、垢と浄、善と不善、福と罪、世間と出世間、生死と涅槃、

我と無我などを挙げて「不二」(無分別)とし、その止揚を説く。拙論

と関わるものだけを掲げれば、前掲「孤松色」で言及した「色空」につ

いて、喜見菩

(十七番目)が、「色則是空、非色滅空、色性自空(色

は則ち是れ空、色の空を滅するに非ず、色は性自ずから空なり)」と述

べて、「色」(物質的現象)は本来的に「空」であり、それに「通達」す

るのが「不二の法門」に入ることと話す。また「明暗」に関しても、月

上菩

(二十八番目)が、暗(闇)が無ければ明(光)もなくなり、二

夏目漱石の漢詩一一

(13)

つは対立しない。一切のこころの働きが無になった静寂の境地(「滅受

想定」)に入れば、闇も光もなくなり、全ての存在も同様であり、その

中で平等であることが「不二の法門」に入ることと説く。この見解は、

漱石の『明暗』に何らかの影響を与えたであろうか。

最後に文殊菩

が問われると、「すべての存在や現象(「一切の法」)

において、ことば、思考、認識、諸々の問いや答え、すべてから離れる

こと(「無言無説、無示無識、離諸問答」)、それが絶対平等の不二の境

地に入ること」と答えた。三十一人の菩

は、皆二項対立を掲げて、そ

れが「不二」であると説明したが、文殊はそうせずに、「一切の法」は、

言葉で理解したり説明することは出来ず、思索や認識という知的営為を

超えてこそ「不二」に入れると説いたのである。その上で、摩詰に尋ね

た。「我々は各自、見解を述べました。あなたの話す番です。どのよう

にして

不二の法門

に入るのか、お聞かせください」と。並み居る菩 たちは、一言も聞き逃すまいと固唾を呑んで答えを待つ。ところが

「維摩詰は黙然として言無し」、文殊を初め、皆今か今かとじりじりしな

がら待っている。ピンと張り詰めた緊張が極限に達した時、沈黙を破っ

たのは、文殊であった。「善きかな、善きかな。乃至文字言語有ること

無からん。是れ真に不二法門に入るなり(素晴らしい!本当に素晴らし

い!何と一字も一言もないとは!これこそ正に不二法門に入るというこ

とに他ならない)」と。直前に文殊が説いた「無言無説~」という解答

を、維摩は「黙然無言」によって体現したのである。文殊は、維摩の沈

黙が熟考中だからではなく、解答そのものと理解するに至って、この詠

嘆を発した。自分では「無言無説~」と言いながら、それを言葉でしか 説かざるを得なかった矛盾を、維摩が「一黙」によって見事に止揚し、具現したことへの讃嘆といえよう。これが所謂「維摩の一黙、響くこと雷の如し」である。この言葉の出自は不明だが、いかにも禅問答的逆説が当を得ている。立錐の余地なく、菩

たちで埋まった部屋に、雷が直

撃するような割れんばかりの大音声を轟かせたのは、無音無声の「一黙」

だった。雷の閃光も、解脱を求める菩

たちを衝撃的に照射したことを

表わすであろう。本章の最後は、この問答に立ち会っていた「五千人」

の菩

たちが皆不二の法門に入り、悟道の安らぎを得た(「得無生法忍」)

と締め括られるのである。

81詩起承句は、表面的には病臥の日常を簡潔に詠んだと捉えられるが、

典拠に基づいて読み解けば、漱石の言葉への懐疑というテーゼが浮上し、

彼が時間をかけて、その思索を深める中で、宗教的解釈に一つの教示を

得た作といえよう。吉川氏の説く「思索者の詩」の一端を物語るのであ

る。漱石には『維摩經』の内容そのものへの言及はないが、蔵書目録に、

2191釈宗演述『維摩經提唱』(至道庵、大正五年)が見えるので、経典に 通じていたことは明白である。小説にも例えば、「一夜

」(巻二)では、

維摩の部屋について記している。「維摩が方丈の室に法を聴ける大衆は

千か万か其数を忘れた」と。この記述の前には阿修羅が帝釈天と戦って

敗れた時、「八万四千の眷属」を連れて蓮の茎を折ると出る糸の細い穴

という極小世界に隠れたということ(『臨済録』「示衆」十)が並記され、

いずれも空間的大小は、無意味だということを示している。続く段落は、

「百年は一年の如く、一年は一刻の如し。一刻を知れば正に人生を知る」 文学部紀要第七十七号一二

(14)

と時間の長短の無意味さを説く。最後に「彼等の一夜を書いたのは彼等

の生涯を描いた」「人生を書いたので小説をかいたのでない」とまとめ

る。「一夜」は、紫陽花の咲く五月雨の降る夜に、二人の男と一人の女が

とある八畳の座敷に会し、夢と画をめぐって話そうとするが、その夜の

現実的些事(ホトトギスの声や隣家の楽音、蜘蛛や蟻など)によってし

ばしば中断し、結局「中途で流れ」て「思ひ

臥床に入」ってしまう

という不思議な作である。男女の思わせぶりな設定や題名にも関わらず、

三人の間には何事も起こらず、加藤二郎「漱石の

一夜 について

」が

述べるように、「一種の

反小説 アンチ・ロマン

」と評される。詩と画をめぐるテー

マは、『草枕』に繋がるであろうが、ここで書評を為す余裕はない。た

だ加藤氏が指摘する如く、「

一夜 の基底にあるのは明らかに禅」(九

五頁)であり、その観点においては、「一夜」の「一刻」、限定された

「八畳」という時空が、彼等の「人生」「生涯」であると看做し得るのは、

「禅家の尊ぶ」『維摩經』の「不二」に通じているといえよう。

このほか「沈黙」についても、「不言之言」(巻十六、明治三一年、

『ほとゝぎす』十一・十二月号)に見える。「糸瓜 へちま」先生と自称しての諧

謔と諷刺に満ちた導入部に続いて、東西文芸の相異を記した後、逆に

「東西類似の点」を具体的に挙例し、博覧強記を開陳する。例えば、上

田秋成の菊花の契りとシラーの「ビュルグシャフト」は、「事実こそ異

なれ精神に至ては悉く符号」などを指摘した後、「維摩黙然には

パイ

サゴラス

の沈黙こそ匹敵」なるべしと述べる。ピタゴラスの弟子たち

は「沈黙がちで、熱心な聴き手」が賞賛され、「最初の五年間は沈黙を 守り、師の講義に耳を傾けるだけ」だったという(全集小森洋一注解、

六六二頁)。両者は本質的には同一とはいえず、単純に「沈黙」という

点に限っての挙例であるが、題名の「不言之言」も含めて『維摩經』と

の関わりが認められる。

もう一点を挙げれば、「芭蕉」についてである。俳人ではなく、植物

の「芭蕉」である。すでに漱石三十歳前後の俳句にも詠まれている

が、

もっとも有名なのは、晩年の住居、所謂漱石山房の庭に植えられた山房

を象徴する植物である。明治四十年(一九〇七)九月二十九日、漱石は

本郷西方町から早稲田南町へ転居し、逝去までの足かけ十年を山房で過

ごした。夏には書斎としていた部屋から欄干のある回廊越しに、大ぶり

の葉を蓄えた芭蕉が見えた。彼自身の手に成る「書斎図

」には、バナナ

の葉によく似た長楕円形の数枚の葉が硝子戸の向こうに描かれている。

芥川の「漱石山房の秋」(大正九年)・「漱石山房の冬」(大正十一年十二

月)にも「玄関から右手の廊下へ出ると、唐めいた欄干の続いた外には、

もう秋風に裂けた芭蕉の葉が、婆裟と星月夜の空を払ってゐる」(秋)、

「縁の外には芭蕉もある。芭蕉の軒を払った葉うらに、大きい花さへ腐

らせてゐる」(冬)と漱石亡き後の山房の庭が記されている。かように

他者にも認識されていた漱石の芭蕉への愛好は、何故であろうか。解答

の一つが、以下に述べるように、『維摩經』と関わるのである。

まず漱石の漢詩においては、没年の大正五年(一九一六)、夏から秋

にかけての三首

140(八月二十日)、

148(八月三十日)、

163(九月十三日)

に詠われている。いずれも〔無題〕七律。

淸風滿地芭蕉影淸風地に満つ芭蕉の影

夏目漱石の漢詩一三

(15)

揺曵午眠葉葉輕午眠を揺曵して葉葉軽し(

140尾聯)

昨日閑庭風雨惡昨日閑庭風雨悪しく

芭蕉葉上復知秋芭蕉葉上復た秋を知る(

148尾聯)

秋風破盡芭蕉

秋風破り尽す芭蕉の夢

寒雨打成流落詩寒雨打ち成す流落の詩(

163頷聯)

三首ともに、芭蕉は夏から秋への季節感を醸し出す機能を担っている。

140詩は、芭蕉が緑陰を作り、さやかな風がそよぐ中、葉擦れの音が、漱

石を午睡のまどろみへといざなっている。

148・ 163詩は、風雨に打たれた

芭蕉の葉によって、秋の訪れを知る。時は

及するが、伊豆からの帰京

の翌年、明治四十四年(一九一一)の日記十には、連日のように、芭蕉

の葉を観察している。「芭蕉猶青くさら

と鳴る。裂けながら鳴る」

349十一月二十七日)、「晴、風強し、稍冬の感。風の音の所為だらう。

芭蕉はまだ青い」(

360十二月六日)、「初めて白い霜が降る。芭蕉を見る

と無残にくしゃ

になって裂けてゐる。色は火に焦げたやうに茶色を

してちゞれて仕舞った」(

362十二月九日)。この観察からも、風雨による

芭蕉の葉音への関心の強さが認められる。また秋の到来は、単なる季節

の推移というよりも、一日にして靑から茶へと無残に枯れてしまう芭蕉

の葉の儚さによる告知なのである。すなわち人生の儚さというコノテー

ションを有し、それゆえか「芭蕉」の詩は、同じく儚い人生の比喩であ

る夢に通じていく。

140詩尾聯は、長閑なまどろみで結ぶが、冒頭は、 「両鬢衰へ来たりて白きこと幾茎、年華始めて識る一朝にして傾

くを」と始まり、③「蝴蝶夢中此の生を寄す」と詠う。「老」の認識

に、「一朝」突如目覚める。自らの

闊さに衝撃を受けながら、『荘子』

斉物論に基づく「大夢」という生の儚さを実感する。ただこの見解は、

仏教にも同様に認められ、それが後述する『維摩經』と関わっていくの

で留意したい。

同じく夢を詠う

163詩は、前掲(第二章第一節)「劍」の典故(季札の

故事)の用例として首聯「剣を挂くる微思自らは知らず、誤って季子

と為り期無きを愧づ」を挙げたが、亡き人への果たせなかった約束を

悔いている。それに続く如上の頷聯は、忽ちにして枯れる芭蕉のように

短い生の中で、慙愧を抱えたまま、さすらいの詩を紡ぐ自身の姿を描い

ている。この文脈は、「秋風」とともに、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻

る」という芭蕉の俳句をも浮上させよう

。冷たい雨音が響かせる「流落」

のメロディーも、「野ざらし紀行」を連想させる。俳人との関わりは別

の機会に譲らざるを得ないが、軽やかに蛇行する俳人の夢の持続性に対

して、漱石詩では、冷たい雨風が束の間の夢を打ち砕く。愕然として現

実に直視せざるを得ないのは、うらぶれた詩を詠む情けない自らの姿。

後半の頸尾聯の激越な調子は、まるで自己に鞭当てるかのようである。

⑤天下何狂投筆起天下何ぞ狂へる筆を投じて起つ

⑥人間有

道か之して挺を身有りに挺間人之身ん

⑦吾當死處吾當死吾当に死すべき処吾当に死すべし

⑧一日元來十二時一日元来十二時

狂った「天下」への咆哮ともいうべき憤激。その現况に対して、正道 文学部紀要第七十七号一四

(16)

正気を求め、残り時間を意識して、もはや躊躇は許されない、命を

て立ち上がるべきだと、自身を奮い立たせている。具体的に如何なる現

状を指しているか不明だが、時は、二年前に始まった第一次世界大戦

(一九一四~一九一八)の真っただ中。「投筆」は、後漢・班超の匈奴遠

征軍参加に基づく典故(『後漢書』班超傳)であるが、周知の如く、『唐

詩選』の巻頭に収まる魏徴(五八〇~六四三)の「述懷」「中原初め

て鹿を逐ひ、筆を投じて戎軒(戦車)を事とす」を祖述する。典故は、

軍事への参加の決意であるが、漱石は逆転させて、憤激の矛先を、世界

の狂気に巻き込まれて正道を踏み外す軍国主義に向け、それへの危機感

を訴える。夙に日本の「亡び」を広田先生(『三四郎』一、明治四一年)

の口を借りて記す漱石の一貫した反軍国主義観を看取し得るのである。

漱石は、軍国主義について、この年、正月から朝日新聞に連載された

「点頭録」(巻十六)に於て論じている。世界大戦の空しさ、馬鹿々々し

さ、悲しさを指摘し、ドイツを代表とする軍国主義は、個人主義を侵害

するものと位置づける。「個人の自由」を重んじてきた英仏すら、その

影響を免れないことを「悲しむものである」(六三九頁)と説く

。これ

は世界大戦に参戦した、時の大隈内閣が、二個師団増設問題を巡って、

大正三年十二月末、衆議院を解散し、翌年三月二十五日に総選挙を実施

したこととも関わる。その際、漱石は、立候補した英文学者馬場孤蝶を

支援し、選挙費用の為に刊行された文集の巻頭に、学習院で講演した

「私の個人主義」(巻十六)を寄稿した。だが選挙は惨敗し、「個人の自

由」は、益々侵害されることになり、軍国主義は、勢いを得て、国中を

席捲して行く。正に「天下何ぞ狂へる」という絶望的憤激が発せられて 当然の状況へと直走っていったのである。

以上のように、「芭蕉」は、漱石の漢詩において、強い思い入れのあ

る対象であるが、中国漢詩の詩語としては、管見の限り、六朝時代には

見えず、唐代に入って数多く用いられるようになる。寓意や機能として

は、四点挙げられる。第一点は、風雨という気候や季節感の表現(心象

風景にしても表層上)、第二点は、所謂「蕉鹿の夢」(『列子』周穆王

を典故とする作で、元明以降に見えるが、そう多くはない。

第三点は、紙の代用である。芭蕉の葉は、唐代では高価だった紙の代

用となり、詩人は葉に詩を書きつけたという。例えば漱石が傾倒する王

維と並ぶ自然詩人の一人、中唐・韋應物(七三五?~七九〇?)の絶句

に「尽日高斎に一事無く、芭蕉葉上独り詩を題す」(「閑居寄諸弟」

七絶、転結句)、詩僧皎然(七二〇?~七九三?)も「芭蕉一片の葉、

書き取りて吾が師に寄す」(「贈融上人」五絶転結句)、晩唐では特に司

空圖(八三七~九〇八)が多用し、「雨は洒ぐ芭蕉葉上の詩」(「狂題

十八首」其十、七絶起句)、「自ら見はす芭蕉幾十

」(其十二、七絶承

句)など。大山岩根「司空図の詩作における

狂 について

狂題

十八首を中心に」は、芭蕉を詠むことは、司空図の「詩作に対する

旺盛な意欲の存在」を窺わせると論ず

。かように芭蕉は、詩作と分かち

難く結びついており、漱石が下の句で「流落詩」と詠むのも、その相関

性を意識していると考えられる。この風習は、唐代を代表する書家の一

人、釈懐素(七二五~七八五)に因む。幼くして仏門に入った懐素は、

修行の合間に書を学んだが、貧しかったために紙を買えず、庵の東に芭

蕉を植えて紙の代用品にしたという 。漱石の蔵書目録に、

2203『懐素草書

夏目漱石の漢詩一五

(17)

千字文』(西東書房、明治四五年)が見えるので、この逸話は、当然、

知っていたであろう

したがって、漱石の「芭蕉」への愛着は、一つには、それが詩と書と

いう文人にとっての不可欠な対象と密接に関わるからと考えられよう。

第二章で論じた如く、「書くこと」という命がけの営為の換喩として存

在しているのである。

第四点は、拙論と関わる仏教的寓意である。懷素の思い付きは、彼が

仏徒であったことを勘案すれば、古代インドにおいて、仏典を貝多羅樹

(パルミラ椰子)の葉に書き付けたことに起因するのではないか。南洋

風の幅の広い葉の形状も相似する。唐代以降の「芭蕉」の用例を見れば、

右の皎然詩のように、仏寺や詩僧に因む作が少なくない。『大正大蔵經』

には七二六例が認められ、仏教的植物といえよう。直接的に詠われる例

は、例えば、中唐・劉禹錫(七七二~八四二)の「病中一二禅客見問因

以謝之」(五律)である。前半では、禅僧が見舞いに訪れたので、「鶏舌

香」を焚き、敷物を用意したことを述べ、次いで頸聯⑤⑥は、「身是芭

蕉喩、行須

竹扶(身は是れ芭蕉の喩へ、行くに須ふ もち

きょうちく(竹製の

杖)の扶け)」と衰弱した「身」を詠み、その滅びやすさ、生の儚さを

訴える。病中の作であることは、それを実感させるのであろう。また、

「身」を用いていることは、注目に値する。当該句の注釈は

、『涅槃經』

の「是の身堅からず、猶ほ蘆葦、伊蘭(悪臭の強いインドの植物)の水

沫、芭蕉の樹の如し」(「壽命品」)、「善男子、譬へば芭蕉の如く、実を

生ずれば則ち枯れ、一切の衆生の身も亦た是の如し」(「師子吼菩

品」)

を引き、いずれも生の儚さの比喩と説く。さらに陶敏等注は、『維摩經』 の「觀衆生品」をも引く。文殊師利の摩詰への問いかけ、「菩

はこの

世の生きとし生けるものをどのように見ますか」に対する答えである。

「譬へば幻師の所幻の人を見るが如く、菩

は衆生を観ること此の若し」

と、幻術師が幻術で作り出した幻の人を見るようにご覧になると始めて、

以下、「水中の月」「鏡中の像」「空中の雲」「水上の泡」など、いずれも

虚像や儚い事象が列挙される。その後に「芭蕉の堅きが如く、電の久し

く住まるが如し」と続く。芭蕉と稲妻は、実は儚いと逆説的に並記され

ている。この比喩の列挙は、むしろ「方便品」の「十喩」の方が有名で

あろう。維摩は、見舞いに訪れた国王・大臣から長者、居士、役人など

数千人を前に、病気を例にとって、「是の身」は「無常無強、無力無堅、

速朽之法」と教えを説き始める。「苦を為し悩を為し、衆病の集まる所

なり」と述べて、「觀衆生品」と同様、「是の身は聚沫の撮摩す可からざ

るが如し。是の身は泡の如く、久しく立つを得ず」という比喩が始まり、

四番目に「是の身は芭蕉の如く、中に堅きもの有る無し」と見える。さ

らに比喩が列挙され、「是の身は夢の如く、虚妄の見を為す」「是の身は

浮雲の如く、須臾にして変滅す」「是の身は寿無きこと、風の如しと為

す。是の身は人無きこと、水の如しと為す」と続く。句頭の「是身」は、

無論、ほかの仏典にも見えるが、『維摩經』における十回の反復は、際

立って印象的である。また右の傍線の被喩詞は、みな漱石の漢詩に頻用

されるが、特に「雲」と「夢」は、『涅槃經』には見えない。「十喩」は、

大乗仏教の要諦をまとめたもので、『魔訶般若波羅蜜經』以来、多くの

記述を認め得るが、『般若經』の「十喩」には、「芭蕉」も「雲」も見え

ない。また空海の「詠十喩詩十首」が有名であるが、唐・善無畏訳『大 文学部紀要第七十七号一六

参照

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