坪内逍遥が児童教育にもたらした偉業 : 家庭用児 童劇の導入的意義(1) (温故知新プロジェクト)
著者 花輪 充, 山本 直樹, 鴨志田 加奈, 高谷 温子
雑誌名 東京家政大学生活科学研究所研究報告
巻 39
ページ 1‑7
発行年 2016‑07
出版者 東京家政大学生活科学研究所
URL http://id.nii.ac.jp/1653/00009980/
《温故知新プロジェクト》
坪内逍遥が児童教育にもたらした偉業―家庭用児童劇の導入的意義(1)
花 輪 充
*
1 山 本 直 樹*
2 鴨志田加奈*
3 高 谷 温 子*
4The Great Achievement Tsubouchi Shoyo Brought to Child Education
̶The Introducing Significance of KATEIYO-JIDOGEKI
Mitsuru HANAWA, Naoki YAMAMOTO, Kana KAMOSHIDA, and AtsukoTAKAYA
1. は じ め に
坪内逍遥は、晩年「児童教育と演劇」や「芸術と家庭と 社会」などの著作を発表し、その中で、第一「児童の娯楽 なり教養なりのために、ある団体が演ずるもの。」1)、第二
「形式は普通の児童劇に似ているが、その内容はむしろ成 人むきのもの。」2)、第三「今現に内外の幼稚園や家庭や小 学校などで、子ども自身をして演ぜしめるものと同じ系 統。」3)といった具合に児童劇を三種類に分類しているが、
その中でも逍遥は、この第三を児童劇の本領と考え、児童 劇の理想は家庭児童劇、児童自身が演ずる劇にあることを 強調したことは学校教育現場における演劇教育の理論的根 拠を明らかなものとし、小原国芳の「学校劇論」ととも に、自由主義思想に基づく新教育運動の一つとして迎えら れたのである。一方逍遥は、演劇学者、小説家、歌舞伎の 戯曲家、シェイクスピア全集の翻訳家、日本演劇の開拓者 として、苦難の道を避けることなく歩む人、常に行動あり き人と位置付けられる。
岡田は「learning by doingなすことによって学ぶ。あ るいはlearning by beingなることによって学ぶ。つまり 情育としてのあり方こそ彼の倫理教育であり、児童のため の演劇教育のイメージであったのではないかと思う。」4)と 説いているが、博学多識であって無類な活動家である彼に 対する評価は実に厳しいものであった。津野は「程度の差 こそあるものの、どの実験も失敗に終わったと言わざるを 得ない。それは逍遥になにか(たとえば個人や国家の意 識)が足りなかったからではなく、反対になにかが多すぎ たからである。その古さも新しさもひっくるめてのなにか
−逍遥の多すぎる夢を読みとく枠ぐみを近代日本はもって いなかった。」5)と評しているが、「言うこととやることが まるで違う人」6)とも酷評されていた逍遥にとって、周囲 からの軋轢は耐え難いものであったと察する。しかしなが
ら、時代はうねりをあげて大きく変化してきた。芸術的情 操を豊かにすることを目指した欧米の児童劇運動や表現教 育が至極当然と教育活動に取り込まれている現代、逍遥の 演劇教育に対する理解は大きく変容してきていることに着 目したい。
本研究では、逍遥の演劇教育に対する理論的根拠を明ら かにしながら、『家庭用児童劇』に託した忠恕の精神を台 帳にある物語の劇化を通じて考察することを目的とする。
2. 初年度の研究目的
『坪内逍遥が児童教育にもたらした偉業―家庭用児童劇 の導入的意義』を研究テーマとして、3年計画のもと、次 の研究課題を明らかにしていきたい。初年度においては、
坪内逍遥が提唱する演劇教育の理論的根拠を逍遥の著作や 関連文献、紀要、論文等から検証していく。
ここでは、芸術の勃興と普及、家庭の芸術化、アメリカ における芸術教育、遊戯の芸術化、児童劇の起源と進化、
児童劇の種類と使命、児童劇の効用、児童劇の課題、近親 和楽の必要性、忠恕の精神を土台とする逍遥の演劇教育、
をキーワードとして、研究者間での学習会、インタビュー、
学会・研究会参加等において知見を深めることを眼目とす る。
3. 結果と考察
初年度(平成27年度)の研究調査内容より、I. 児童 劇 の 効 用、II. 児 童 劇 の 課 題、III. 遊 戯 の 芸 術 化、
IV. 演劇教育と逍遥、V. 家庭用児童劇、に焦点をあて て報告する。
I. 児童劇の効用
坪内は、児童劇の効用を十点にわたって論じている。
(1) 無意識に自発的に自由に快活に遊戯せしむるより生 ずる利益
(2) 過去の生存競争が遺伝したる諸種の本能の安全弁―
悪衝動の発散―アリストールの「浄化作用」
(3) 諸種の才能の発見、誘導―記憶力、想像力、発明
*1 東京家政大学(Tokyo Kasei University)
*2 有明教育芸術短期大学(Ariake College of Education and Arts)
*3 山村学園短期大学(Yamamura Gakuen College)
*4 東京家政大学非常勤(Tokyo Kasei University)
花輪 充 山本直樹 鴨志田加奈 高谷温子 力、製作力―枘鑿不相容の性と職との矛盾を除くべ
し
(4) 協同の予習―デモクラチック・スピリット、自治、
自制、自恃等の訓練
(5) 倫理的情操の自然的浸潤―ハーツ、チャップ、ホー ルらの説
(6) 世故人情諒解の端―教え易からざる恕(同情)を会 得さする捷径
(7) 諸種の知識を得―歴史、地理、科学、雑事
(8) くだらぬ読書、くださる観物、くだらぬ遊戯を排除 するより生ずる利益
(9) 言語挙作(行儀、作法)の改善―礼服を着た時の心 持―其の心持の持続より生ずる感化
(10) 大俗的、物質的、感傷的、煽情的のせせこましさ 意外に出てしむるより生ずる利益―自然なる寛ぎ、
其の他
これら坪内の主張について、演劇そのものを教えること に主眼は置かずに、ある特定の状況の中で、自分自身や他 の人物として参加し、その与えられた状況を生きる体験を 通して、自分以外の人達の考え方、態度、行動様式に接 し、人間生活の実際を学習することに主眼を置く7)とい うドラマ教育的な視点から概観すると、
(1) 教育的効果のある遊びとして、心身ともにその好奇 心が満たされることによって生理的・心理的に利益 が得られる。
(2) 道徳的に悪いと見なされるような諸処のことを、実 際に衝動的にやってしまわないように、劇的状況と いうコントロールされた中で、それを行わせること によって、自身を制御できるようにする。
(3) 上演活動を念頭においた演劇を進めるにあたって は、演技者以外にも、装置、音響、照明、制作等の 役割分担が必要となり、能力開発やその役割の向き 不向き等の個性を確かめることができる。
(4) 上演活動を念頭においた演劇を進めるにあたって は、集団における個のあり方を考える機会をつくる ことができ、社会性を磨くことができる。
(5) 演じる戯曲のテーマ(特に教え込むようなことが難 しいもの)を、演劇創作づくりを通して自然と身体 の中に入れることができる。
(6) 演じる戯曲のテーマ(特に長い間の人生経験を積ま なければ悟れないようなもの)を、演劇創作づくり を通して気付かせることができる。
(7) 自分以外の誰かになって、その人として考えてみた り、その人になるためにその人がいる時代背景や状 況を把握することを通して、知見を広げることがで きる。
(8) 時間を無駄にするような形で暇つぶし的に遊んだ り、無価値な本を読んで目が悪くなるくらいなら ば、児童劇をやった方がましではないか。
(9) 演劇の稽古や本番において、秩序が保たれている状 況(演技者である自らを成立させるために演出役や 音響照明、観客等が存在していることを認識してい て、それをふまえて行動している時)においては、
演技者としての立ち居振る舞いを自分なりにしっか りと行うことが期待できるため、社会的な礼儀作法 の理解を図り易い。
(10) 子どもがリラックスできるような状況を子どもが 児童劇をすることで作り出すことができる。
となるが、坪内はその効用に対して、教育的な遊びとして の価値(1、2、8、10)、集団活動としての価値(3、4、
9)、文学への深い誘い(5、6)、演技のメカニズムそのも のの価値(7)と考えていたことがわかる。
また坪内は、大正11年4月に児童劇の効用を再考して いる。再考した理由について「今になつて考へると、此の 並べ方は、少々手当たり任せの気味で、不秩序であつた上 に、まだやつと産声を揚げたばかりとも講すべき我が國の 児童劇、殊に家庭用の児童劇に対しては、あんまり重荷過 ぎた注文であつたかと思われる。」8)とし、次の8点につい て説明している。
(1) 児童に健全な快楽を與へる。
(2) 想像力を鼓吹し善導する。
(3) 感情教育の好方便である。
(4) 趣味性、審美力を涵養する。
(5) 芸術的に取扱はれた話説なり議論なり問答なりに習 熟する結果、子供らの頭脳の働きが自然と整頓して くる。
(6) 若しも其児童の生来に芸術的創造力があるとする と、それが之によつて鼓舞せられ、善導されるのは 謂ふを俟たない。
(7) 少なくとも文学や芸術の趣味を解し、内外の有名な 文芸品の一端だけには通じるようになるから、長じ て後、まるっきりクラシックの何たるかを知らない というようなことはなくなる。
(8) 人生の知識を与える。
これらの主張について、先にも述べたドラマ教育的な視 点に基づいて概観すると、
(1) 教育的効果のある遊びとして、心身ともにその好奇 心が満たされることによって生理的・心理的に利益 が得られる。
(2) 演劇を成立させるために想像機能が不可欠であり、
想像力は社会生活をよりよく送る上で有益な力であ る。演劇を通して想像力を養うことができる。
(3) 演じる戯曲のテーマ(特に教え込むようなことが難 しいもの)を、演劇創作づくりを通して自然と身体 の中に入れることができ、これが芸術を通した感情 教育である。
(4) 子どもの頃から卓越した芸術に触れさせることで、
本物を見抜く目を養うことができる。
(5) 演劇を通してスピーチを中心とした言語学習が深ま る。
(6) 演劇を通して本来子どもがもっている芸術的な創造 力を感化させることができる。
(7) 演劇や戯曲理解を通して教養としての芸術教育を推 し進めることができる。
(8) 自分以外の誰かになって、その人として考えてみた り、その人になるためにその人がいる時代背景や状 況を把握することを通して、知見を広げることがで きる。
これらのことより、坪内はその効用を再考し、教育的な 遊びとしての価値(1)、集団活動としての価値(なし)、
文学への深い誘い(3)、演技のメカニズムそのものに価 値(8)、芸術教育としての価値(4、6、7)、想像力の研 ぎ澄まし(2)、言語教育としての価値(5)と考えていた ことが理解できる。
坪内が考える児童劇の効用について、最初と再考をまと めた価値の要素をまとめると図表1になる。
図表1 坪内が考える児童劇の効用
価値の要素 効用 効用(再考)
A 教育的な遊びとしての価値 1、2、8、
10
1
B 集団活動としての価値 3、4、9 なし
C 文学への深い誘い 5、6 3
D 演技のメカニズムそのものの価値 7 8
E 芸術教育としての価値 なし 4、6、7
F 想像力の研ぎ澄まし なし 2
G 言語教育としての価値 なし 5
まず共通要素として挙げられていたのは、
・Aの子どもの健全な成長発達を促すための遊び(教育的 な遊び)としての価値があるということである。両者とも 第一であることを考えると、坪内が児童劇を捉える土台と なる要素ということが伺える。これは、児童は生来「劇を 好む」というアメリカの児童劇場運動に基づくものであ り、一貫して重視していたことがわかる。
・もう一つは、Cの文学教育の一環として戯曲を用い、そ こに描かれている世界観や哲学を子どもが知的な学習では なく、体験的に感性を揺さぶるような学びとなることも重 視していることがわかる。これは坪内が文学者として多く の著作があることにも起因していよう。芸術教育的な視点 と言っても過言ではない要素である。
・あと一つは、Dの演技のメカニズムそのものに価値を 置くことである。誰かの人生やそこで行われた選択や行動 を模擬的ながら追体験することで、その人の人生哲学を学 び、自らが生きるということの意味を考えさせ、結果的に 生き方の練習をさせる方向へ演劇を通して導くというもの である。これら3つの共通要素は、坪内の児童劇を考察す る上で重要な要素と言うことが言えるだろう。
・また、再考にあたって強調して述べられていたのは、芸 術教育としての要素であるということである。想像力やス ピーチ・コミュニケーションも含めて、演劇のもつ芸術性 を児童劇に保障し、芸術を通した教養や審美眼の養成、世 界の真理を見抜く力を育もうとすることを強調すべきだと 再考段階で考えたのであろう。また、語ることや朗読に関 することにも目を向けているということも重要なことであ ろう。一方で、極端に語らなかったのは、集団活動や総合 活動としての演劇の側面である。一言で言えば、社会性の 養成といえるべきものである。彼は「デモクラチック・ス ピリット」と称していた。後に大戦後に新設社会科が目標 として掲げる「民主的な国家・社会の形成者として必要な 公民的資質」に通じるものである。
これらのことから、坪内は、演劇を教育手法として捉え るというよりも、演劇をすることを教育の目的として捉 え、その主張をすることが重要と考えたのであろう。
II. 児童劇の課題
坪内は児童劇の課題について杞憂と称して5点にわたっ て紹介している。
(1) 専門俳優になりたがりはせぬか、道楽者になりはせ ぬか
(2) 真面目な、じみな職業を厭忌するに到らざるか
(3) 妙に気取るようになり、一挙一動、一顰一笑に虚偽 を弄する癖を馴致する無きを得るか
(4) 虚栄心を助長せざるか
(5) さなくも教うる人の身振を模し口真似をすることが 主となり自己発揮の機会は存外稀なるにはあらざる か、等
おそらく、坪内が講演をしている際に、聴衆から出た否 定的な質問をまとめたような形であるが、彼はその取り扱 いに注意を払えば、単なる杞憂に過ぎなくなると述べてい る。
彼が強調している点は以下のようである。
* 大人が指導者として教育上の目的を立てて、虚栄心を 抱かないように正しい指導をすること。
* 卑俗的な娯楽にならないように褒めすぎないこと。
* 指導は、教え込むのではなく、子どもが自ら工夫しな がら進めるようにすること。
花輪 充 山本直樹 鴨志田加奈 高谷温子 これらのことは、坪内の論術の中にも言及があるが、児
童劇よりも前に教育界で活動が展開されていたお伽芝居や 童話劇と一線を画したかったことが理由とされるのではな いだろうか。彼は児童劇を正しく扱いさえすれば、上記の ことは杞憂に終わるとしているが、些か曖昧さを拭えない 概念である。ただ、正しく扱うというのは指導法に関する 事項である。現状の演劇教育や表現教育における指導法に 関して俯瞰してみても、何が正しいのかという根拠は一概 に見いだせない。もちろん、誰かの立場に立てばというこ とでは正しいということが言えるが、その人が言っている ことが正しいという科学的な根拠は簡単に見いだせるもの ではない。仮に坪内のいう正しい指導のあり方を理解した としても、それを実践することができるか否かは指導技術 や経験の問題であり、別の話となってしまう。それらを含 め、坪内の提唱する家庭用児童劇には、当時の文化、風俗 にそぐわない要素が多かったように思える。例えば、一般 家庭の保護者が坪内の考えに基づいて子どもと劇をつくる ということも現実的には困難なことであったに違いない。
それは、坪内自身が課題ではなくて杞憂としている点から も読み取ることができる。論と実践との間に、坪内自身で はなく、他の人が見て乖離があったということが児童劇の 課題の一つだったのではないだろうか。
III. 遊戯の芸術化
「児童教育と演劇―遊戯の芸術化」
坪内は、「児童教育と演劇―遊戯の芸術化」(大正11年 11月以降)の中で、普段家庭で行なわれているお話や、
子供たち自らが無意識に、無秩序に最も好き好んでやって いるごっこ遊び等を、立派に規則立てて、次第に理想化さ せるというのが家庭の芸術化の糸口であると述べている。
つまり家庭の芸術化とはつまりは遊戯の芸術化によって成 せると解釈できる。この主張を裏付ける為に家庭に留まら ず広義にわたって、日本の民衆娯楽についての問題点、遊 びと仕事・遊びの性質についての諸外国の研究者による研 究の諸説、アメリカでの遊戯善導運動等について論述を行 なっている。章末に家庭での遊戯の芸術化に家庭用児童劇 について少々述べているが、ここではその概要についての みで抽象的な内容に留まっている。日本の民衆娯楽につい ての問題点、遊びと仕事・遊びの性質等の論述については
「逍遥選集第九巻―民衆娯楽問題(大正11年3月)、―教 育に於ける遊戯の職能(大正11年9月)」にほぼ趣旨を同 じくした詳細な記述がある。「児童教育と演劇」は講演録 であるが、選集にある記述をもとに講演された可能性も考 えられる。本稿では、「児童教育と演劇―遊戯の芸術化」
での論述を中心に、「逍遥選集第九巻」の論述を補足的に 用いながら、坪内の主張を要約したい。
遊戯と娯楽の区別:
坪内は、はじめに遊戯については、自分から好き好ん で、進んでやる、自発的ということを其の特徴とし、概し て受け身の娯楽とは異なるものであり、それらを区別する 必要があると述べている。娯楽とは、自分で進んで事に当 たるというより、足を投げ出したり寝そべったりしながら 見物をするようなことを指すとし、受け身的であることを 強調している。逍遥がこの遊戯と娯楽との区別にこだわる 理由として、民衆の娯楽について文部、内務等によって唱 道される現状に対する危惧が挙げられる。民衆もとより政 府当局の遊びに対する認識が浅はかであり、時代遅れであ るという主張が「逍遥選集第九巻―民衆娯楽問題」で約 20頁に渡り述べられている。まず、政府による全国的な 民衆娯楽の調査の詳細が述べられ、続いて、政府が娯楽と 教化を兼ね備えた機関をもって国民の娯楽を振興しようと するのに対し、坪内は「娯楽を及ぶべきだけ芸術程度にま で引き上げて、民衆の趣味性を涵養し、自然及び人間の美 に対する鑑賞力を高め、同時に其創造本能を鼓吹し、よっ て以て其内面生活を且つ豊富にし、且つ高尚にするの用に 適せしめることが必要である」9)と述べている。
遊びと仕事 概念の変化:
「仕事も、遊びも、互ひに相接近すればするほど、其価 値を増加するものだという点でも、諸説がほぼ一致する。
プリントンはいふ、「仕事の価値は其内に籠る遊戯の分量 で計られるが、遊戯の価値も其内に籠る仕事の分量で計ら れる」と。これは理想的な仕事は楽しんで出来るものでな ければならず、理想的な遊戯は有用な結果を齎すものでな ければならぬという意味であろう。」10)
余剰精力説―本能予習説―撮要復演説―休養説:
「遊びとは其の活動其のこと以上に何等の報酬をも期待 することなくして為さるる自発的活動である。即ち人に強 いられ勧められて後に、いやいやながらやることではない というのが其の本体である。で、これには、子供と成人の 別はない。其の心理的状態や作用は子供も成人も同じであ る。但し大勢が一しょになって集まって所謂郡団的に大規 模に遊ぶとなると、普通の場所には見出されない一種の強 制が行われるようになる。(中略)この軍団の威力のため に、めいめいの我儘を慎ましめられるという処に、和衷協 同の萌芽が成り立つ。そうしてそれが人間の持って生まれ ている社交本能の修養に資するという効用がある。」11)
遊びの性質に関する4つの説:
坪内は前述の遊びと仕事の峻別に対して、遊びは愉快と して好まれ、仕事は苦痛として嫌われるという世の常識が
あり理論上の食い違いがあると指摘している。「本来仕事 と遊びと善く調べてみると、必ずしも峻別されるべきもの ではない。むしろ共通する点が幾らもあるということなぞ も、近来は学者の主張する所である。」12)と述べ、・余剰精 力説–シルレル・スペンサー説、・本能予習説–グロオス 説、・撮要復演説–スタンリー・ホール説、・休養説–パト リック説など、学者の諸説を紹介している。
これらの諸説に対し坪内はどの説にも幾分の真理がある とし、どの説が優れているかといったようには結ばず、
「要するに、遊びとは普通に言うスポオツ(遊技)とか ゲーム(競技)とか、リラキゼーション(休養)とか、リ クリエーション(娯楽)とかばかりを指すのではない。
もっと広い意味のものである」13)と述べ、遊びの持つ奥深 さについて着目するよう促している。続いて「特に子供な んぞにあっては、遊びの為に其の全力、ありったけの力を 傾注する」14)という記述や、大人であっても「休養の為に 催されるべき筈のものが、…過度にやり過ぎるからの弊で ある」15)と述べ、子供、大人の分け隔てなく、「遊びに取っ ての一番眼目なことは、その感興が自己発展的であるとい うこと…言い換えれば、自分から好き好んでするというの が遊びの本来性である」16)と述べ、「遊びとは其の活動其 のこと以上に何等の報酬をも期待することなくしてなさる る自発的活動」17)とまとめている。郡団的となるに及びて 強制的となりて和協を馴致す、故に社交の訓練に資す―遊 びの価値、効用、これらに関しては、「例えば、心理的に も、社会的にも、道徳的にも、宗教的にも種々の貢献を為 し得るものであるのだから…比喩的に言ってみれば、遊び は、あらゆる意味に於いて、幼少年の心の働きの練習所で あるといっていい」18)と手短に述べ、詳しくは児童劇の効 用にて述べるとしている。
遊びの大別―個的と集団的・静的と動的・室内と戸外・家 庭と社会:
「いよいよ本論に入る前に、都合上、遊びのざっとした 分類をする。」19)とし、上記のような分類を紹介し、特に 坪内が静的と動的と名づけたものに関して以下のように説 明を加えている。
・静的―家庭に居て書でも読んで遊ぶとか童話やお伽話を 聴いているというような場合児童のために図書館や展覧会 を開くというような場合 → 若しそれが遊戯本位である ならば静的の方に入る
・動的―戸外へ出て遊ぶ場合/集団的遊びに縁故が深い。
児童劇等はそれが家庭で演じられても動的である。
アメリカに於ける遊戯善導運動―余暇の善用、不良性の予 防:
坪内はこれまでの論説の終着地として、アメリカおけ る、遊戯を用いた教化運動である遊戯善導運動(プレー ムーヴメント)について述べている。
「次第に青春期に近づいている少年どもを、休暇其の他 の余暇に只ぶらぶらと遊ばしておくのはわるい。余りに無 意義なもしくは筋のわるい遊戯や、懶惰に導き易い娯楽な ぞに耽らせてばかりおくのは教育上極めて宜しくないこと であり、社会経済上から言っても、甚だ寒心に耐えないこ とであるから、其の余暇を、傍らから指導して、専ら善い 方へ用いさせて、依るに以て其の不良性の発動を未前に予 防しようというのが此の運動の第一目的である。」(南カリ フォルニア大学教授クラレンス・レインコート著「ザ・プ レー・ムーヴメント・イン・ユナイッテド・ステイツ」)20)
このような動向に坪内は強く共感し、さらに「アメリカ に於ける遊戯善導運動は、男女の少年どものあらゆる本能 を先ず専ら其の遊戯中に発動せしめて、そうしてそれを社 会の為にも当人の為にも、有利であるほうへ導き馴らして 行く運動」21)と述べ、「遊戯」に重きがおかれるような形 に言い替えている。これに対し日本の現状について以下の ように述べ、現状に失望している。
・不良少年への対応も、ただ禁制するといったところに留 まっており、善導、利導する為の工夫や設備が必要。
・わが国でも1908年に英国で始められたボイ・スカウト
(少年斥候隊)が組織され、ある程度実施されかけている が、それらが発達するに及んでいない。
・いくつかこれらに関する書が出版されているが、直訳の ようで意味まで咀嚼されていなかったり、演劇に関する部 分については特にやってつけであったりと、真面目な咀 嚼、研究、深切味が足りない。
童話は家庭的、静的、室内的―児童劇は家庭的、動的、室 内兼戸外的―従って衛生的、心理的、論理的、芸術的:
最終節にきてやっと坪内は、家庭について言及を行な う。遊戯善導運動にあるような遊戯を通した教化の捉えは 重要視しつつも、その内容に関しては男性に適していると し、「婦人達としては、もう少し静かな、しとやかな、私 の謂う家庭的、室内的遊戯の善導に従事なさる方が適当」22)
と述べ「そうしてそれには、童話とか児童劇とかいうもの が先ず最も重要なものとせらねばならぬ」23)としている。
さらに、実際に坪内の著の家庭用児童劇を実演している家 庭からの賛評について触れながら、童話や児童劇の効用、
を簡単に以下のように述べている。
・衛生的(児童劇は動的)、心理的、倫理的、芸術的にも 有益な結果を齎す。
花輪 充 山本直樹 鴨志田加奈 高谷温子
・男女の区別なく同様に適用され得るのが都合良く、家庭 享楽の愉快な一機関ともなる。
最後に「在来の家庭芸術は、…成人本位のもので、子供 自身の為のものではない。概して父母たちの楽しみであ り、趣味である。」24)というように簡単に述べ、現状に一 石投じる形で章を締めくくっている。
「逍遥選集第九巻―私の希望する家庭童話劇(大正10年 12月)」:
坪内は、「遊戯の芸術化」の最終節で、童話や児童劇な どの遊戯をもって家庭での扶育陶冶を行なうことについて 触れているが、その詳細には触れていない。
児童劇については、講演の約一年前に書かれた「逍遥選 集第九巻−私の希望する家庭童話劇(大正10年12月)」
には、坪内自身、童話や童話術や家庭劇(若し既に有るな ら)に対しての不満足、不安感があるため、家庭劇の実演 に際して、特に注意せねばならぬことだけを言い添えると して次のように述べている。
[言葉使い]言葉使ひなぞも、不自然で形式的な下手な敬 語はやめてもらいたい。無選択に方言、スラング、造語、
古風な言葉、が使われるのも困る。甘ったれた女言葉えな ければならぬと勘違いするのも困る。
[話術]話術においても成人の智恵で加工したような技巧 的なものでありたくない。口演する上での工夫は、すべて 彼等に任せる方が、啓発的にも、趣味的にも、あらゆる意 味において有利で正当である。
[劇]劇に至っては尚更、子どもたちの工夫を中心にする べきだ。大人はよくわかるように読んで聞かせる程度で、
トガキの意味をよく吞み込ませ、衣装、小道具、その他の 工夫も当人らにさせるうようにするのが良い。
[その他]ほんの中途半端な知識や経験や技術しか所有し ていないような成人なぞの生半の指南は大禁物である。子 どもたちの天真をそこない自然の美を殺すばかりである。
要点は、どうも現在のわが国の童話、童話術、童話劇 は、概して成人の主観の表現であるように思われるが、本 来は主として子供其人の為のものであり、子どもが自ら工 夫し楽しめるようなものである必要があると述べている。
IV. 演劇教育と逍遥
1942年(昭和17年)、河出書房発行の『演劇と文化―
演劇論』の中で飯塚友一郎は、逍遥について次のように記 述している。「かくて坪内逍遥の文化的使命は、演劇教育 にあったのである。一口に演劇敎育といっても、逍遥の場 合は、歌舞伎の傳統と西洋近代劇の輸入との渦まく過渡期 の觀衆の敎育、從って新脚本の提供、それと、新時代に働 くべき教養ある俳優の養成と、劇團の育成、さらに社会敎
化に資すべき民衆の演劇教育としての公共劇の提唱、つい では兒童敎育の爲の兒童劇の創始と、明治大正昭和に亙る 目まぐるしい時代の進歩につれて、次々と非常な熱意を もって、演劇敎育の理論と實際とを展開して行ったのであ る。」25)逍遥が一番に問題視したことは、観衆の教育にお いてである。従来、日本の演劇の伝統は、観客を丁重にも てなすことであり、その背景として「茶の湯その他あらゆ る藝道に現れた賓客歡待の日本精神である。その爲に觀客 を教育するといふよりもむしろ甘やかすに傾いた。」26)と、
飯塚は記述しているが、河竹も『人間坪内逍遥』の中で、
「それは「名残の星月夜」の上演が、大正九年十月の歌舞 伎座においてなされたとき、初日に、はからずも見物が大 いにわいてしまった。唐船の場の長問答が見物の倦怠をま ねき、とうとうメチャメチャにしてしまい、指導役の作者 はそうこうと退場帰宅するという結果をもたらしてしまっ た。逍遥は、非常にこれを憤慨した。なさけなく思った。
そうして劇作にはもう筆を折る、上演指導もしない。――そ ういう結果をまねいたのは、観客の演劇文化水準が低いか らである。これでは劇の進歩はのぞめない。それには小さ な国民――児童の演劇にたいする関心を高め、やがては国 民ぜんたいに演劇文化を向上させるようにしたい」27)と、
当時の演劇文化に対する関心の低さを憂う逍遥の心情を記 している。一方、新劇運動はというと、逍遥の思いとはか け離れて、芸術至上主義へと傾倒していった。西洋近代劇 運動に立脚したわが国の新劇運動は、賓客歡待の日本精神 と真っ向から対峙するばかりか、「傳統的な歌舞伎の觀衆 を衆愚とあざけり、かかる大衆を新しき演劇にとっては縁 なき衆生として眼中に置かなかった」28)のである。この二 極分化の中で、逍遥が掲げたものこそ、公共劇運動として のページェント劇の提唱と、児童教育を目的とする児童劇 の主張であった。
V. 家庭用児童劇
大正デモクラシーの風潮を追い風にして広まった大正自 由教育運動と女性の社会進出運動が高まりをみせ、さらに は旧文化生活から新文化生活の急改造を迫られていた 1922年(大正11年)に「家庭用兒童劇」は発行された。
大正期は、童話劇たるものが新劇団体によって上演され るようになる一方で、坪内逍遥などにより児童劇運動が展 開され、専門的な児童劇団が誕生するなど、戦前において 全盛期を迎えた時代である。そうした時代の潮流の中で、
逍遥は「家庭用児童劇」なるものを世に発表した。逍遥は これを「家の中で、子供たち自身が、家の人達や友だちに 觀せるために演る劇の臺帳です。」29)と定義しているが、
当時の児童劇運動に対するアンチテーゼたる意味合いをも つものであったことは明確である。それは「私のは専ら家
庭内で、家人及び、たかが親類か近所の人々ぐらいを主な 見物人にして、子供ら自身が、ちょっとした庭か座敷かを 舞臺にして演ずるためのもので、親たちや兄姉たちとて も、只その臺帳の創作、添削、或は説明、或は上演に關す る肝要な指導ぐらいはするが、また丁年未満の兄姉たち は、時としては一役二役を手傳うこともあるが、まづ成る べく四五歳以上十三四歳以下の子供らばかりに演ぜさせる のを主眼としたものです。」30)とか、「従来わが国で行われ ているお伽芝居や童話劇に対しては、余り多くの賛意を表 しかねる。わが国のは、その過半は余りに興行本位のもの であるらしく、その幾分は寧ろ成人向きのものであるらし く、其の余の分とても、まだまだ、児童心理や教育的原理 の研究に於いて、不足しているもののように想像されてな らぬ。」31)とか、「どうも現在のわが国の童話、童話術、童 話劇なぞというもには概して成人の主観の表現であるよう に思う。其の書き方からいっても、其の話し方からいって も、其の演じ方からいっても、餘に多く成人の心持や観察 や解釈や理屈や趣味や意匠や技巧が加わり過ぎているよう に思う。私はもっとすっと無邪気に、純に、無技巧になっ て貰いたいと思ふ。」32)など、家庭用児童劇の巻末の記述 を読めば明白であろう。一方逍遥は、子どもの劇につい て、「子供らの心から自發する純な、自然な遊戯同然のも の…(中略)子供の自由畫と同じような旨味や力を発揮す ると同時に、子供ら自身の心性啓發に裨益する所の多かる べきものである。」33)とし、いわば、他人に見せることを 目的とした劇とは一線を画す、いわば、〈劇あそび〉のよ うなものであるとも表現している。このことは、今日にお いても子どもと劇を考える際の指標ともなる文言である。
4. ま と め
坪内は、家庭の芸術化は遊戯の芸術化を持ってなせると いう自身の主張に対し、広く「遊び(遊戯)」について説 くことで、説得を試みているが、これは、遊びというもの に対する理解が、政府を含め軽率、未熟であり世の中の動 向を危惧する坪内にとっては、まず遊びの有用性について 本質的な投げかけをすること無しには始まらないといった 心情であったかもしれない。
5. 今後の課題
2年目にあたる平成28年度は、『家庭用児童劇』台帳に ある戯曲(数編)の劇化に取り組む。研究員それぞれの専 門性を活かし、逍遥の唱える表現形式(パントマイム式、
小喜歌劇式、戸外劇式、ページェント式、操り人形式、旧 劇式)に沿っての劇化、また現代の児童青少年演劇におけ
る表現形式(素劇式、朗読劇式、参加劇式、人形劇式、立 絵芝居式、ミュージカル式、舞踊劇式)を用いながら、逍 遥世界を具現化していく。晩年、素人がつくり、素人が楽 しむ限界芸術に目を向け、子どもたちのための児童劇へと 情熱を傾けた逍遥の趣意についても考察する。
また、平成29年度は、2年目に取り組んだ作品を、幼 稚園、保育園、児童館、学校、家庭等において巡回公演す る。作品作りや実演の省察を通して、坪内逍遥が標榜した 演劇教育の意義や課題を明らかにする。
文 献
1)社団法人日本児童演劇協会:日本の児童青少年演劇の歩み,
100年の年表,p. 298(2005).
2)前掲書,p. 298.
3)前掲書,p. 298.
4)前掲書,p. 299.
5)前掲書,p. 299.
6)前掲書,p. 299.
7)小林志郎:Drama in Education論考.東京学芸大学紀要,
第39号,p. 38(1988).
8)坪内雄藏:坪内逍遙選集第九巻〜児童劇の効用(再び).p.
824,春陽堂(1926).
9)前掲書,p. 116.
10)前掲書,p. 406.
11)坪内逍遥:児童教育と演劇〜遊戯の芸術化.p. 53–54,日本 青少年文化センター(1973).
12)前掲書,p. 44.
13)前掲書,p. 52.
14)前掲書,p. 52.
15)前掲書,p. 52.
16)前掲書,p. 53.
17)前掲書,p. 53.
18)前掲書,p. 54.
19)前掲書,p. 55.
20)前掲書,p. 56–57.
21)前掲書,p. 58–59.
22)前掲書,p. 61.
23)前掲書,p. 61.
24)前掲書,p. 63.
25)飯塚友一郎:演劇論全五巻〜第四巻「演劇と文化」.p. 127,
河出書房(1942).
26)前掲書,p. 127.
27)河竹繁俊:人間坪内逍遥 近代劇壇側面史.p. 238,新樹社
(1959).
28)飯塚友一郎:演劇論全五巻〜第四巻「演劇と文化」.p. 127,
河出書房(1942).
29)坪内逍遥:家庭用児童劇.p. 1,早稲田大學出版部(1922).
30)前掲書,p. 188.
31)前掲書,p. 177.
32)前掲書,p. 184.
33)前掲書,p. 193.