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米軍政下の日本政府の沖縄政策

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(1)

米軍政下の日本政府の沖縄政策

Okinawa policy of Japanese Government under the U.S. army administration

宮田 裕

Hiroshi Miyata

【要旨】

 1952

7

月、連合国最高司令部(GHQ)の覚書を受け、日本政府は米軍統治下の沖縄に「那覇 日本政府南方連絡事務所(以下、南連という)」を設置した。南連は準領事館的な性格の行政機関 であり、 沖縄政策の実態は封印されてきた。そこには恐るべき沖縄差別の実態があった。

 第一は、沖縄戦で滅失した戸籍を放置したことである。沖縄戦で多くの県民は戸籍を失った。米 軍政下の特殊事情から日本政府は自らの責任を放棄し、沖縄の戸籍回復を琉球政府に押し付けた。

琉球政府は、日本政府の意向を受けて

1953

11

16

日、「戸籍整備法」を制定し、戸籍回復作業 に着手した。敗戦から

8

年後、沖縄ではようやく戸籍回復の法律が制定されたのである。

 第二は、沖縄は「戦傷病者戦没者遺族等援護法」でも差別されていた。日本政府は

1952

年、

4

30

日に「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を公布し、4

1

日に遡及して日本本土で適用した。

沖縄住民の戸籍については、援護法が公布された

1952

4

30

日時点で日本国籍としての公証性 が問題視され、援護法適用から除外された。琉球政府が琉球列島米国民政府と交渉し、了解を取り 付けると日本政府は

1953

3

26

日、「北緯

29

度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。 に現存するものに対し、「戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用する場合の取り扱いについて」通達 を出し、沖縄に援護法を適用した。

 第三は、戦後

17

年間、日本の財政援助から見捨てられたことである。日本政府は

1962

9

13

日「琉球政府に対する援助について」閣議了解し、翌

63

年度に初めて沖縄への財政援助を開始 した。財政援助から取り残されたことが戦後復興の遅れ、格差を生じた原因となった。 

【目次】

      1

.

沖縄に「日本政府・南連」設置       2.日本政府の「沖縄政策」

      3

.

沖縄返還と復帰対策

(2)

1.沖縄に「日本政府・南連」設置  1)GHQ「覚書」

 連合国最高司令官は、1952

4

14

日付で日本政府に覚書を出した。覚書は「琉球諸島におけ る日本政府連絡事務所の設置に関する件」と記され、「琉球諸島への日本国民の渡航、琉球諸島在 住者の日本への渡航を取り扱うため準領事館事務を遂行し、日本政府連絡事務所の設置」を求めた。

さらに「戦後処理問題として戦没者の遺骨処理、分断された本土・沖縄間の渡航、貿易情報、財政 処分、通貨の兌換、日本との通信など沖縄の敗戦処理問題」を促した。業務は「アメリカ合衆国管 理当局の事前の許可を条件として行使せよ」と条件を付するとともに、「権限は、琉球諸島におけ るアメリカ合衆国政府に対し派遣されるものであり、琉球諸島住民に対しては、いかなる政治的、

または行政管理権を行使するものではない」と制限し、「職員は外交官または領事館の官称または 外交官特権(免除権)を持たないものとする」と条件を付し、日本政府の見解を速やかにアメリカ 合衆国に追報するように求めたのである。

 2)外務省回答

 覚書を受けて日本国政府は

1952

6

25

日、「外務省回答・口上書」を返信する。米軍統治下 の沖縄に日本政府の出先機関を設置することは異例のことであった。日本政府は早速「外務省回答・

口上書」を返信した。

 「口上書 日本国外務省は、在本邦アメリカ大使館に敬意を表すとともに、アメリカ合衆国政府 が日本国連絡事務所を琉球諸島に設置するよう招請する

1952

4

14

日付同省宛連合国最高司令 官総司令部覚書を受領し、右に関して那覇日本政府連絡事務所を沖縄那覇に、同事務所出張所を奄 美大島名瀬に設置することを決定した旨を通報する光栄を有する。同事務所及び出張所は本年

7

上旬に設置される予定であるが、右設置に関し、アメリカ合衆国政府関係当局の格別の協力を希望 する。」と快諾する。

 本土から分断された沖縄に日本政府は、連合国最高司令部の意向を受けて国の出先機関を設置す ることになる。

 3)沖縄に「日本政府南連」設置

 日本政府は

1952

6

30

日、総理府の付属機関として「南方連絡事務局設置法」を制定し、翌

7

1

日、総理府の外局として南方連絡事務局、沖縄に「那覇日本政府南方連絡事務所」を設置した。

日本政府は、米軍が占領している硫黄鳥島及び伊平屋島ならびに北緯

27

度以南の南西諸島を行政 の範囲と定めた。

 南方連絡事務局の所掌事務は、①本邦と南方地域との間の渡航に関する事務、②南方地域に滞在 する日本国民の保護に関する事務、③本邦と南方地域にわたる身分関係事項、その他の事実につい て公の証明文書の作成、④本邦と南方地域との間において解決を要する事項を調査し、連絡し、あっ 旋し、及び処理すること、⑤本邦と南方地域との間の貿易、文化の交流その他南方地域に関する事

(3)

務に関し、関係行政機関との事務の総合調整及び推進を図ること─であった。

 「那覇日本政府南方連絡事務所」は、琉球列島米国民政府(

USCAR

)との連絡を行うことを義 務付け、米軍統治下の沖縄で唯一「日の丸」を掲げていた。

 1954

2

17

日、衆議院外務委員会は、「南方連絡事務所の性格について」米国民政府との関係、

法律的な関連について政府答弁を求めた。日本政府は「南連事務所はアメリカに対する関係上、実 質的には領事館のような仕事で、それに近い待遇を受けているが、事務所職員は領事館と同じよう な外交官特権は認められていない」と答弁した。

 那覇に在勤する本土から赴任した南連職員は、外交特権はないが、在勤地手当等の待遇は外交官 並みの扱いであった。現地琉球住民職員は、外国勤務に該当せず、在勤地手当で本邦職員と区別さ れ、待遇面で二重基準が適用されていた。沖縄の複雑な特殊事情が職員の給与体系で反映されてい たのである。

 衆議院外務委員会で日本政府は「琉球住民に関しては、行政事務の一端としての調査統計、その 他の陳情を受ける事由などは認められていない。沖縄住民は日本政府の行政の対象外である」との 認識を示した。

 日本人と沖縄人の扱いについては「本土国籍を持っている人は、保護機能があり、不法逮捕、拘 留された場合には米合衆国の機関と協議することができるが、琉球住民に対して米軍から弾圧、不 当な取り扱いなどがあった場合には陳情があっても、日本政府はこれを取り上げて米国民政府と交 渉する機能は与えられていない」という沖縄差別の認識を示している。

 当時の沖縄は、米軍の弾圧による土地の強制摂取や米軍関係の事件、事故などが多発していたが、

日本政府は沖縄住民を日本国民とは見ていなかった。基地建設ブームに沸いた沖縄の労働災害につ いては、朝鮮戦争勃発後、沖縄の米軍基地の建設現場で本土の土建業者、技術者、労務者が在留し ているが、労働者災害補償法については「日本本土の労働者については、労災補償法を適用したが、

沖縄人の雇用問題に関しては、米側と交渉する権限は与えられていない」と答弁したのである。

 4)なぜ「沖縄」でなく「南方」か

 日本政府は国の出先機関の名称に沖縄ではなく「南方」の名称を使った。沖縄の戦後処理をめぐ る疑問のひとつとしていまだ疑問視されている。沖縄の国家機関の名称を意識的に「南方」と表現 していたが、日本地図を見ても沖縄のことを「南方」とは記載されていない。

 南方の語源は明らかでないが、「南方の島々」と説明していた。南方とは「南洋諸島」を表現す るときに使われる。南洋諸島(サイパン・テニアン・パラオなど)は

1920

年、ヴェルサイユ条約 によって日本が国際連盟の委託統治としてグワムを除く赤道以北を統治した歴史がある。日本政府 は南洋諸島に「南洋庁」の行政組織を置き、第二次大戦終了まで統治を行ったが、

1952

4

月「日 本国との平和条約」によって放棄した。

 南洋諸島では、日本語教育が行われ、沖縄出身者が多数移住していたので沖縄では南洋諸島のこ とを「南方」と呼んでいた。南方は出稼ぎ先でもあった。日本政府は沖縄の国家出先機関を「南方」

(4)

と位置づけていたのである。

 日本政府が沖縄を南方地域と表現した記述は、

1949

5

31

日法律第

127

号「総理府設置法」

に見ることができる。第

3

3

項は総理府の任務として、南方地域(硫黄島及び伊平屋島並びに北

27

度以南の大東島を含む南西諸島)に関する事務を行うと規定している。これが沖縄のことを 南方と呼んでいる根拠と思われる。

 日本政府の沖縄認識は「南方地域」から「特別地域」として変遷していく。

1958

5

月、北方 領土問題が浮上し、総理府設置法を一部改正し、北方問題と沖縄問題を担当する部局として、「南 方連絡事務局」は「特別地域連絡事務局」に改組され、「那覇日本政府南方連絡事務所」は「日本 政府沖縄事務所」となった。国の出先機関に始めて「沖縄」という名称が使用されたのである。

 総理府設置法第4条

2

項は「日本政府沖縄事務所」を外国とみなし、本土派遣職員は「在外公館 に勤務する外交公務員の給与に関する法律」を準用するとある。給与は外交官並みの在勤地手当て が支給されたが、現地の琉球住民は待遇面で差別を受けていたのである。

2.日本政府の「沖縄政策」

 1)沖縄戦で滅失した戸籍を放置

 敗戦後の沖縄は戦災でほとんどの戸籍が焼失した。

1946

9

19

日、沖縄民政府は、終戦のと き住民動態と諸物資配給の基礎資料として各市町村長宛に「臨時戸籍事務取扱要綱」を発送し、臨 時戸籍(仮戸籍)を作成するよう指導した。

 日本政府は本土に在住する沖縄出身者の戸籍について、1948

9

30

日、号外政令

306

号「沖 縄関係事務整理に伴う戸籍、恩給等の特別措置に関する政令」を公布し、戸籍事務を福岡法務局の 支局で取り扱った。沖縄現地については、日本政府南方連絡事務所は、琉球政府に「戸籍整備法」

を制定するよう促した。

 戦争で滅失した戸籍回復は国の責任であるが、戦災で滅失した沖縄の戸籍回復を琉球政府に押し 付けたのである。

 琉球政府は、日本政府の意向を受けて

1953

11

16

日、自らの責任で「戸籍整備法」を制定し、

戸籍回復作業に着手。敗戦から

8

年後、沖縄ではようやく戸籍回復の法律が制定された。

 戸籍整備に当たって各市町村では戸籍調査委員会を置き、各市町村長に対して申告させ、戸籍調 査委員会の審査を経て、仮戸籍を整備して縦覧した。縦覧に対し異議の申し立てがないときに法務 局長に申報し、法務局長の具申に基づき行政主席の認定によりはじめて戸籍が整備された。

 整備された戸籍の副本、申告書、届出書その他の証憑書類の保存管理事務を掌握するため

1954

9

1

日、法務局支分部局として戸籍事務所を創設した。

 琉球政府法務局の資料によれば、沖縄戦で滅失した戸籍数は

11

3,817

1955

5

月末時点で 申告した臨時戸籍数は

2

638、そのうち仮戸籍調整数はわずか 1

9,652

であった。渡嘉敷村、

座間味村、伊平屋村、粟国村、渡名喜村、北大東村、南大東村は仮戸籍の調整もなされていない状 況であった。戦後

10

年が経過していたが、沖縄では無戸籍状態に置かれていた方々もいた。

(5)

 市町村は戸籍回復に当たり、沖縄群島及び周辺島嶼のいずれかの市町村に本籍を有していた者に 対して、

1954

3

31

日から

5

31

日までの間に申告及び届け出を行わせたが、親、兄弟、親 族などの証言に基づき新しい戸籍回復作業が行われた。

 戦災による戸籍整備予算は国が全額負担すべきであるが、米軍統治下の特殊事情から琉球政府は 独自の予算で戸籍を回復したのである。

 日本政府が沖縄の戸籍回復に注目したのは、総理府の組織改正で南方連絡事務局が廃止され、特 別地域連絡局に名称が変わり、はじめて技術援助を行うようになった。特別地域連絡局は

1958

琉球政府からの要請を受け、戦災による滅失戸籍回復の予算要求を行い

1959

年度から初めて技術 援助費を計上した。予算内容は、沖縄全市町村の戸籍吏員を対象とした研修に本土から専門家派遣 を行うための援助経費であった。

 日本政府が戸籍援助費予算を計上したのは、琉球政府の戸籍整備法制定からすでに

6

年が経過し ていた。

 2)「戦没者遺族等援護法」で沖縄差別

 1952

2

月、「戦傷者戦没者遺族等援護法」の法制化が報道された。沖縄タイムス、琉球新報は 援護法適用を巡って沖縄の悲痛な叫び声を報道した。そこには沖縄差別の実態があった。

 軍人軍属遺家族に対する日本政府の援護の手を求めて、全琉から高齢のオジー、オバー、戦争で 夫を失った婦人、戦争孤児などが集まった。沖縄戦で失ったわが子や夫を思い出したかのような悲 惨な報告が相次いだ。

 戦争孤児代表の小学6年生、名嘉山良哲君は涙ぐんで訴えた。「3歳のときに母を失い、5歳の ときに私たち兄弟を慰めて国のために出征した父は帰ってこない。死んだとは思えません。どこか で生きていると思います。どうして父は死んだのでしょう、あの戦争が憎らしい。今日を機会にさ らに立派な文化人になることを誓います。どうぞ、お父さん、残された私たちの将来を守ってくだ さい」

 南方に出兵し両眼を失った者、戦争で夫を失った主婦たちは、戦争で朽ち果てた魂を震わせなが ら涙ぐんで日本政府に救済を訴えた。敗戦から

7

年を経過した沖縄で戦災を受けた方々が困難を乗 り越え、全琉球遺族連合会を結成した。

 日本政府は、

1952

年、

4

30

日に「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を公布し、

4

1

日に遡及 して日本本土で適用した。しかし、沖縄への即時適用の悲願はかなえられることなく、沖縄は援護 法適用から除外された。我が国唯一の戦場となり、沖縄住民十数万人の尊い人命が奪われたが、日 本政府は沖縄の声を無視。人的被害、物的資源も失い戦後の荒廃のなかで「全琉球遺族族連合会」

が立ち上がり、日本政府に戦没者援護法の即時適用を訴えた。沖縄の悲痛な訴えは日本政府に届か なかった。そこには沖縄に対する差別があった。

 援護法案審議の

1952

3

22

日「第

13

回・参議院予算委員会」で山下義信委員(社会党)は 沖縄の援護法適用について質問した。

(6)

 「今回の対象の中で、沖縄出身の戦死者あるいは樺太出身の戦死者など現在日本領土以外の形に なっております地域の戦死者はどう処遇いたしますか」

 これに対し、厚生大臣・吉武恵市氏(国務大臣)は、「沖縄の方々の遺族に対しましては、沖縄 はまだ日本の法律が適用できませんので、今回、この援護法も遺憾ながら適用がないわけでありま す。」と答弁、沖縄は原則として援護法が適用されないことを明らかにした。

 1952

4

26

日付・琉球新報は、「沖縄の人々については、主権が日本にあるため、日本国籍 を有するとして法の適用が認められるとし、先の国会での吉武厚生大臣の発言が誤りではないのか」

と報道した。

 援護法を適用するには日本国籍を有するものとしているが、援護事務に必要な戸籍は、1947 臨時戸籍取扱要綱により調整されていたが、その公証性が問題視され、

1953

11

16

日、琉球 政府は戸籍整備法を公布し戸籍の整備回復に着手。戦争で滅失した戸籍は国の責任で行うべきであ るが、援護法が公布された

1952

4

30

日時点で沖縄住民の戸籍について日本国籍として認めず、

援護法の適用から除外されたのである。さらに、沖縄は戦後日本の行政からまったく切り離された ため、直ちにこれら諸法律を適用するのは困難とされた。琉球政府は日本防衛の犠牲になった沖縄 の遺族を救うために、那覇日本政府南方連絡事務所及び琉球列島米国民政府に働きかけて、三者間 で検討が行われ米国民政府の承認を取り付けた。

 日本政府は

1953

3

26

日、「北緯

29

度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)に現 存するものに対し、戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用する場合の取り扱いについて」通達を出し、

沖縄にも援護法を適用した。

 援護法の請求は南連事務所が窓口となった。死亡した者については、死亡当時におけるその者と の身分関係を明らかにすることができる戸籍謄本の提出を求めた。しかし、戦争で戸籍が滅失し請 求は困難を要した。戸籍謄本が得られない方々は、請求者との身分関係に関する申立てを求めた。

申立書には請求者の親族の証明書及び本籍地の市町村長の証明書の添付を義務付けたが、沖縄の特 殊事情から請求事務は大幅に遅れた。

 援護法が適用され、遺族弔慰年金が沖縄に伝達されたのは、法律制定から

2

年近く経過していた。

 戦没者援護法の適用は、日本国民であることを条件としていたが、沖縄は戦災で戸籍が滅失し、

住民の一部には無戸籍が存在し、「日本国民」として認定していない時期があり、そのため沖縄で は援護法の適用が後れていた。

 戦没者援護法は戦争犠牲者を救済する目的で策定されたが、祖国防衛の犠牲になった沖縄で戦没 者援護法の施行が遅れたことは、米軍施政権下であったにせよ、日本政府は沖縄住民の要望に向き 合ってこなかった。

 3)分断した沖縄に「財政援助」 

 1958

5

月、日本政府の対沖縄行政は「南方地域連絡局」から「特別地域連絡局」に組織が変 遷、沖縄は南方地域から特別(特殊)地域として位置づけられる。日本政府沖縄事務所に援助業務

(7)

課が設置され、沖縄への技術援助、医療援助、財政援助などを検討するようになった。琉球政府は、

日本政府沖縄事務所に対して技術援助と財政援助を要請したが、沖縄事務所は琉球列島米国民政府

(USCAR)と折衝をしながら予算要求を決意し、翌

1959

年度予算で対沖縄技術援助費を計上した。

 技術予算は、沖縄戦で滅失した戸籍回復について本土の専門家を沖縄に派遣し、沖縄の市町村の 戸籍担当者を対象とした研修費負担から始まった。敗戦から

14

年目に初めて戦後処理問題が予算 化されたが、国の対沖縄戦災復興がようやく本格化したのである。その後、技術援助は本土より立 ち遅れた沖縄の経済、医療・社会福祉の向上、行政分野まで拡大されるようになった。特に医療分 野は深刻な問題を抱えていた。終戦直後の沖縄の医師はわずか

60

人余で無医地区が多数存在して いた。技術援助が開始された

1959

7

月時点で医師

199

人、歯科医師

58

人で沖縄は慢性的な医師 不足に悩まされていた。

1961

1

月、日本政府は沖縄の医師不足解消を目的に無医地区への本土 派遣医師等の医療援助を開始した。さらに沖縄の基幹作物である農業分野及び模範農場への技術援 助、本土・沖縄マイクロ回線の設定援助など通信分野まで拡大されるようになった。

 1962年になると、沖縄を取り巻く国際環境に大きな変化が現れる。沖縄を統治している米国は 日本政府に対し、沖縄統治経費の財政負担を日本政府に要求したのである。琉球政府発足以来、経 済援助については放置されていた。このことは、わが国の財政史上、類例がなく沖縄の戦後復興が 遅れた大きな原因となった。沖縄は、米軍統治下の特殊事情から日本の財政援助から取り残され、

本土との社会資本・生活基盤の格差、所得格差が生じる原因となった。

 なぜ日本政府は、沖縄に財政援助を行ったのか? その根拠は

1962

3

19

日に発表された「ケ ネディ沖縄新政策」にある。沖縄新政策は、沖縄が日本の一部であることを認め、①沖縄住民の福 祉向上及び沖縄の経済発展を増進する、②太平洋のキーストーンとして沖縄の米軍基地を重視する、

③日米協力体制の強化で沖縄基地を安定的に保有する─ことが主な内容であるが、米国は沖縄統治 の経済負担の一部を日本政府に求めたのである。

 日本政府は米国の要求を受け、

1962

9

13

日「琉球政府に対する援助について」閣議了解し、

63

年度に初めて沖縄への財政援助を開始する。この間、沖縄は米国民政府の財政援助に依存し ながら戦後復興を歩んできたのである。日本政府は、日米協調路線を重視して沖縄に財政援助を決 定したが、援助の内容は、①琉球政府(市町村を含む)の諸施策、事業等の水準を本土並みに引き 上げ、住民の所得の向上に努める、②沖縄に日米琉諮問委員会を設置し、援助については沖縄住民 の意思を反映して実施する─こと等を明らかにした。

 日本政府が沖縄援助を開始した

1963

年度の日米両政府の援助額は

71

4,826

万円であった。そ のうち日本政府は

10

1,283

万円(

14%

、米国政府は

61

3,543

万円(

86%

)で米国の援助額は 約9割近く占めていた。琉球政府は米国政府の援助金で戦後の沖縄復興を図ってきたが、日本政府 が沖縄への財政援助を開始した

63

年の1人当たりの県民所得は

301

ドル、当時の為替レートで

10

8

千円,対日本の国民所得

21

5

千円のわずか

2

分の

1

の水準であった。 

 米軍統治下の

27

年間,琉球政府に対する援助金は、日本政府

1,232

億円(

43%

、米国政府

1,649

億円

(57%)

であったが、日本政府援助金の

8

割は沖縄返還が確定した

69

年度以降の復帰対策に集

(8)

中している。69年度以降は米国中心の財政援助から本土・沖縄一体化政策を進める日本政府の財 政援助が増額され逆転した。

 財務省「財政統計(予算統計等データー)」及び沖縄・北方対策庁「沖縄関係予算(内部資料) によれば、米軍統治下時代(

1947

年~

1971

年)の日本政府の一般会計歳出予算額は

68

9,577

円で、そのうち、沖縄関係予算は

1,232

億円で、国の歳出に占める沖縄財政援助の割合はわずか

0.2%

である。

 4)放棄された「講和前補償」問題

 講和前補償とは、講和条約発効(

1952

4

28

日)以前に米軍が与えた損害補償の未解決問題 であるが、日本政府は沖縄住民が受けた被害を放棄した。沖縄県対米請求権協会発効の『対米請求 権の記録』を基本に、沖縄無視の「講和前補償問題」について検証する。

 損害被害の一つは、基地建設に伴う接収された土地、建物の被害、農地を接収された農作物及び

「離作」の損害、軍用地に隣接している土地、建物の浸水、土砂流出などの近傍財産の損害、井戸、

墓などの損害補償を放棄したことである。

 二つは、米軍人、軍属などによる人身被害補償である。講和条約発効前までの人身被害は、死亡

315

人、負傷

760

人。主な罪状を見ると死亡は、車両事故

145

人、射殺

6

人、轢殺

7

人、強姦致死

4

人、

損害は車両事故

108

人、発砲による傷害

32

人、袋たたきによる傷害

23

人、凶器による打撲

22

人、

強姦

111

人などが発生したが放置した。

 三つは、米軍の爆撃・射撃演習、上陸訓練演習などによる漁業被害補償である。

 1955

5

月、「軍用地四原則」を掲げて渡米した比嘉秀平行政主席以下

6

人の住民代表団は米国 に対し、沖縄の実情を訴え「講和前補償」を要請したが、米側は、日本政府は講和条約第

19

条の規 定によって如何なる請求権も放棄しているので米国としてはその責任を負えないと回答している。

表1 日米両政府の財政援助額(米軍占領下)

米国政府 日本政府 合 計

財政援助額

1,649

億円

1,232

億円

2,881

億円

構成比

57.2

42.8

100.0

(資料出所)米国民政府資料、日本政府援助金は総理府沖縄北方対策庁内部資料から作成

表2 日本政府の対沖縄財政援助(米軍占領下)

政府の一般会計歳出予算額 対沖縄財政援助額 沖縄財政援助の割合 米軍統治下 689,577 億円 1,232 億円 0.2%

(資料出所)財務省『財政統計(予算決算データー)、沖縄への財政援助額は沖縄北方対策庁内部資料から 作成

(注)一般会計歳出予算額は補正後ベース(1947年度~1971年度)沖縄財政援助額は当初予算ベース(1947 年度~1972514日)

(9)

 一方、日本政府は、沖縄住民の請求権補償について、1956

12

月、根本龍太郎官房長官は次の ように述べている。

 「平和条約

19

条にいう日本国領土には沖縄が含まれず、同規定にいう国民に沖縄住民が含まれな いと断定することは困難であるという前提に立ちつつ、①日本国としても、外交上の保護権として 沖縄住民の損失補償を米国に対して請求することは問題がある、②講和前の沖縄は行政分離されて いるので、沖縄住民の土地の使用料については関知していないし、講和後においても米国が施政権 を行使しているので、補償する責任はない。」─とし沖縄切捨ての答弁を行っている。

 沖縄は講和前補償として、敗戦からサンフランシスコ平和条約発効まで

7

年間の米軍が摂取した 土地の地代

170

億円の補償を要求した。

 1956

12

13

日衆議院外務委員会は、「講和条約発効前の補償問題について」質疑を行った。

日本政府は「終戦後から平和条約発効までの米軍進駐でこうむった沖縄人の財産上の損失について 要望が頻繁にある。政府としては、重要な問題であるが、沖縄側の言う百数十億円の巨費を要する もので、こうした問題に、それだけの数字があるものかどうか、損失自体に日本政府として調査を することができない。島民から要望のある土地の損失補償は、財政的に非常に大きな損失となって おり、いま直ちにこれを解決することは困難である」と答弁、沖縄県民を失望させた。

 沖縄側は納得せず、重ねて要求したが、

1957

3

9

日、自民党政務調査会と総務会は、政治 決断として

170

億円の要求に対し、沖縄への見舞金として総額

11

億円で最終決着を図った。見舞 金内訳は、講和条約発効前の土地補償関係

10

億円、外地引揚者関係

8,000

万円、元沖縄県庁職員 の恩給関係

2,000

万円であった。日本政府からの土地補償見舞金

10

億円は、1958

1

25

日に開 催された全島受任者会議で「旧正月に間に合わせるよう各市町村を通じて当該者に支給する」方針 が決定され、支払いがなされたが、米軍占領下にあった沖縄では、講和前に受けた被害額

170

億円 の補償に対して、日本政府は

10

億円の被害見舞金で決着したのである。

3.沖縄返還と復帰対策  1)沖縄・北方対策庁の設置

 1967

11

月、佐藤、ジョンソン会談において、沖縄と本土との一体化政策を進め、沖縄住民の 経済的、社会的福祉の増進を図ることが確認された。これを受けて琉球列島高等弁務官に対する助 言と勧告を行う機関として、

1968

5

1

日、那覇に「日米琉諮問委員会」が設置され、日本政 府代表(沖縄大使)が赴任した。

 

69

11

21

日、佐藤、ニクソン共同声明で沖縄の

1972

年返還が決まると、復帰準備に万全を期し、

豊かな沖縄県づくりのために、

1970

5

1

日「沖縄・北方対策庁」が設置された。対策庁の任務は、

沖縄の復帰に関し、その準備のための施策を推進し、沖縄の経済及び社会の開発発展を図り、併せ て北方領土問題その他北方地域に関する諸問題解決の促進を図るため、沖縄及び北方地域に係る国 の行政事務を総合的に行うことを主たる任務とした。東京に本庁、沖縄現地には沖縄事務局が設置 され、琉球列島米国民政府との連絡及び協議を行う権限が付与された。

(10)

 対策庁設置法第

4

条で沖縄事務局長は沖縄・北方対策庁長官(国務大臣)の命を受けるが、米国 民政府との協議に関する事務については、外務大臣が局長を指揮監督するとしている。

4

条の規定 は、外務大臣が沖縄事務局長を指揮監督するときは、内閣総理大臣と協議することを義務付け、現 地米側との権限は沖縄事務局長に一任された。

 沖縄・北方対策庁は本土・沖縄一体化政策として

1970

年度以降の沖縄財政援助の増額を決定した。

日本政府の復帰準備体制が整うと行政、経済、社会各般にわたる格差の是正措置、各種制度の整備 及び産業経済の振興開発等が強力に推進されるようになった。

 対策庁の主な仕事は、

3

次にわたる沖縄復帰対策要綱の取りまとめ、沖縄振興開発特別措置法、

沖縄開発庁設置法、沖縄振興開発金融公庫法の開発3法、沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律 等を取りまとめ、沖縄の円滑な本土復帰を実現することであった。

 日本政府の財政援助の推移を見てみよう。1963年度に初めて琉球政府に

10

1,283

万円の財政 援助を実施したが、

69

年度は一体化政策を進め

126

億円まで増加した。その後復帰対策経費とし

1970

年度

177

億円、71年度

260

億円に拡大し、復帰が確定した

72

年度(4月~

5

14

日)は

427

億円の財政資金が投入された。

 米軍統治下時代の日本政府の財政援助総額は

1,232

億円であるが、7割は復帰が確定した

1970

度以降の

3

年間に集中している。復帰対策経費の主なものは道路、空港、港湾、漁港などの産業基 盤整備をはじめ復帰記念主要離島の一周道路整備事業等の社会資本整備に使われた。

 財政援助は立ち遅れた社会保障制度、医療体制の整備充実、文教施設の拡充強化など本土との格 差是正などにも門戸を広げた。一体化政策が進むと琉球政府の行政運営費の財政措置の充実、市町 村交付税の増額をはじめ本土の財投資金を琉球政府及び市町村の公共施設資金として貸付措置も行 われるようになった。

 2)沖縄復帰の精神

 

1970

5

1

日、沖縄・北方対策庁が発足、初代沖縄事務局長に自治省官僚の岸昌さん(沖縄 勤務後は自治省官房長、大阪府知事を務める)が就任した。岸さんは

1968

6

月、日本政府沖縄 事務所長として沖縄に赴任、復帰対策の指揮を執った。沖縄の現実に心を痛めた岸さんは

1969

4

月、沖縄タイムスに『沖縄復帰の精神』の論文を発表した。米軍施政権下の沖縄で本土から赴任 した官僚は、沖縄の歴史認識に欠落し、特権意識で勤務していたが、岸論文は日本官僚の沖縄政策 について「沖縄の心」を鋭く指摘した。その一端を紹介しよう。

 「もう、沖縄へは十数回きている某省のA課長が私の事務所を訪れた際、次のような質問を発し た。復帰準備委員会で話しあったとき、B、C両氏とも、沖縄側からは復帰に際して暫定措置や特 例措置の要求がたくさんくるだろうが、甘やかさないで厳しい態度で望むべきだが岸所長はどう思 うか」

 岸さんは、「人類はじまっていらいの歴史からみれば、

5

年や

10

年は瞬間に等しい。あっという 間に過ぎ去ってしまう時間といってよい。そういうつかぬ間の「特別措置」を惜しんで、沖縄復帰

(11)

を再び

琉球処分

の再現を思わせる行政は、決して当を得たことではない・・・」「沖縄の心を どれだけ理解することはその人の能力のほか、さらにいうならば、人生観の問題。古い言い方をす れば政治哲学としていわゆる王道をとるか覇道とるかの違いだろう」と答えている。二人の会話は これで終わった。岸さんはA課長の質問が象徴的になにかをもっているように思え、心の中を次の ような自問自答する。

 「大学を出て特権意識に擁護されたキャリアの中には、同僚を蹴落としながらひたすら立身出世 のエリートコースを走っている。日本の官僚に真の沖縄の心がわかるだろうか。困窮と挫折と不安 の中で、沖縄が米軍に統治されていること自体大きな不幸というべきだが、特権意識の官僚達が沖 縄の復帰問題を取り扱うことは、もっと大きな不幸なのではなかろうか」

 岸さんは米軍統治下の沖縄の現状を憂い、本土の高級官僚にとって治外法権の沖縄に対する認識 に警鐘を発し、外交官特権を振舞った官僚に次のように指摘している。

 「日本の官僚に『沖縄の心』がわかるのだろうか。沖縄を占領している米軍の感覚より自由気ま まである。沖縄の苦難の歴史を知り、住民の気持ちを理解するのは所詮無理なことではないだろう か」

 岸論文は、米軍施政権下の沖縄で大きな反響を呼び起こした。沖縄の歴史認識に欠落した状況で 沖縄の復帰準備を行う本土官僚に猛省を促し、復帰準備の精神を鋭く問うその姿勢は、本土官僚に

「沖縄の心とは何か」について大きな示唆を与えた。

 オリオンビール(株)の創設者・具志堅宗精社長は、岸論文に同感の意を表され、「沖縄復帰の精神」

が掲載された沖縄タイムスを日本政府の要路へ向けて多数送付した。県内経済界は、岸さんの「沖 縄復帰の精神」に影響を受け、復帰特別措置の要請活動を展開する。復帰不安が高まる中、復帰ショッ ク緩和策として特別措置を求める沖縄の声は日増しに高まり、日本政府を動かした。岸さんは「沖 縄の国政参加問題について」の論文も発表している。「沖縄住民の国政参加」についての岸論文は 日本テレビ社長・小林与三次氏の英断によって読売新聞は破格の紙面を割いて報道した。さらに高 辻正巳法制局長官のご示唆もあって練り直し、当時の自由民主党国会特別委員長・園田直氏に提出 し、園田氏のご尽力によって実現したと回想している。岸昌『住民自治の座標』昭和

47

5

月、ぎょ うせい。

 3)山中貞則氏と「復帰対策」

 1970

5

月、沖縄・北方対策庁沖縄事務局発足に当たり、沖縄復帰の恩人で総理府総務長官・

山中貞則氏は、那覇で沖縄の歴史認識に触れ沖縄県民に謝罪した。沖縄事務局職員に対し、「復帰 対策の基本は県民への

償いの心”が原点だ」と述べ、「日本政府は贖罪意識すなわち償いの心を持っ て米軍統治下に終止符を打つ」と明言した。

 復帰対策については、「先の大戦での最大の激戦地となり、さらに戦後引き続き四分の一世紀余 の長きにわたり我が国の施政権の外に置かれてきた。沖縄県民の方々の心情を深く思い、県民への 償いの心をもって祖国復帰という歴史的な大事業の達成に全力を投入したい。そして沖縄の苦難の

(12)

歴史に終止符を打ちたい。長い間、本土から切り離され苦難の歴史を歩んできた沖縄県民に対する 謝罪の気持ちを持って復帰対策に当たりたい。諸君も今、非常に苦しい試練の時期であるが、沖縄 復帰という輝かしい未来に向かって復帰対策には万全を期して対処してほしい」

 沖縄を思う山中大臣の言葉は職員に大きな感動と勇気を与えた。沖縄を思う心は沖縄復帰の原点 となった。

 沖縄の歴史は明治

12

年の琉球処分、沖縄戦、戦後

27

年間の米軍支配下に貫かれた暗くて不幸な 歴史がある。大臣訓示はこのような歴史認識のもとに復帰対策の基本として沖縄県民に「償いの心」

を強調するものであった。

 山中大臣の政治力によって沖縄の復帰対策は大きく進展する。沖縄・北方対策庁発足直前の

1970

3

31

日、日本政府は「沖縄復帰対策の基本方針」を閣議決定する。

 基本方針は、「1969

11

月の日米首脳会談の結果、1972年中に沖縄の施政権が日本に返還され ることについて、日米両国政府の合意が成立、施政権返還協定締結が行われる」とし、併行して「日 米琉三政府の緊密な連絡、協議のもとで復帰準備の措置が講じられる」との姿勢を示した。復帰準 備体制と復帰対策の概要、沖縄の経済、社会の開発、発展を図るための施策、復帰対策の策定及び 復帰準備の進め方、復帰準備の目標が掲げられた。

 復帰対策として、①沖縄県に置かれることとなる地方支分部局等の設置及び琉球政府職員等の身 分の引継ぎ準備、②本土法令の適用準備、③公社、公庫その他公的団体の取扱い、④公有財産及び 米国資産の引継ぎ準備、⑤通貨の切替え準備、⑥日米地位協定の適用準備─などを明らかにした。

 具体的には、①本土法令の適用に際し、沖縄の経済社会の特殊性を考慮して必要に応じ暫定特例 措置を講ずる、②沖縄の復帰に関し、その経済、社会の開発、発展を図るための施策の推進に関す る立法上、財政上の措置を十分に講ずる─とした事務が推進された。

 沖縄の経済、社会の開発、発展を図るための施策としては、米軍統治下に生じた本土との格差是正、

沖縄県の建設のための長期的な見通しに立って基本施策の策定、沖縄施策に必要な立法措置、財政 上の措置が検討された。

 当時、県民の間には復帰に伴う経済不安を懸念する声が根強く横たわっていたが、復帰対策はこ れに応えるものであった。

 経済対策としては、産業基盤等社会資本の整備充実、産業振興対策の樹立推進、生活環境施設、

福祉施設及び文教施設等の整備を図ること等が明らかにされ、

1972

年の沖縄復帰の実現に向けて 準備が進められた。

 一方、

1970

5

1

日沖縄復帰準備委員会日本国政府代表事務所(沖縄大使)が那覇に設置された。

琉球政府は同年

5

月に復帰準備委員会顧問代理を置き、10月には復帰対策事務専管の復帰対策室 を設置するとともに、各局に復帰対策協議会を設け、これら各機関の機能及び連絡体制を十分に発 揮させて復帰対策に取り組むようになった。

 沖縄・北方対策庁は、

1

次から

3

次にわたる復帰対策要綱及び復帰関連法案を取りまとめ、沖縄 の円滑な本土復帰の実現に向けて作業を開始する。

(13)

 復帰対策要綱とは、沖縄の諸制度と本土の諸制度を円滑に一本化して復帰に伴う混乱を最小限に とどめるための措置である。

 基本的な考え方は、①国、県、市町村の基本的制度については、沖縄と本土と一体化することが 必要であり、このことによって本土とまったく差別のない沖縄県の誕生を確保する、②沖縄の経済 生活ないし一般の住民生活に大きな変化を与えるような諸問題については、激変緩和のための暫定 ないし特例措置を講じていく、③復帰対策の策定に当たっては、琉球政府を始め沖縄県民の意思を 十分に尊重し、できる限り施策に反映させる─というものである。

 政府は

1970

11

20

日、第

1

次復帰対策要綱を閣議決定する。県民生活及び産業活動に重要 な影響があると認められる事項として、①教育・文化、②厚生・労働、③通貨・金融、④産業・経 済、⑤交通・通信、⑥免許・資格、⑦公務員─などについてまとめた。

 第

2

次復帰対策要綱は、①沖縄県及び市町村、②琉球政府の関係機関、③沖縄振興開発公庫、④ 教育・文化、⑤厚生・労働、⑥産業・経済、⑦運輸・通信、⑧司法・労務、免許・資格、⑨在沖外 国人の在留資格─などについて1次要綱で漏れた内容の検討が行われ

1971

2

19

日、閣議決定 された。

 第

3

次復帰対策要綱では、1次から

2

次要綱で網羅できなかった①行政、②税制、③財政・金融、

④産業・経済、⑤厚生、⑥教育・文化、⑦司法・法務、⑧その他(対米請求権、所有者不明土地な ど)─などが

1971

9

3

日、閣議決定され復帰施策の全貌が示された。

 

1971

9

月、沖縄復帰対策要綱を踏まえ沖縄復帰関連法案が立案され「沖縄の復帰に伴う特別 措置に関する法律案」「沖縄の復帰に伴う関係法令の改廃に関する法律案」「沖縄振興開発特別措 置法案」「沖縄振興開発金融公庫法案」「沖縄開発庁設置法案」などの沖縄復帰関連法案が第

67

国会(沖縄国会)に提出された。

 祖国復帰を目前に控え、復帰特別措置

2

法案と沖縄振興開発特別措置法案は

1971

12

30

日、

可決・成立し、

31

日公布され、沖縄返還協定の効力の発生日(1972

5

15

日)から施行された。

なお、沖縄開発庁設置法案については、継続審議とされていたが、第

68

回国会において修正を加 えた後、1972

4

25

日、可決成立し、5

13

日公布され、1972

5

15

日沖縄復帰の日から 施行された。公庫法案については

1972

5

12

日に可決・成立し、

5

13

日公布され、同日か ら施行され沖縄復帰対策は完結したのである。

参考文献

(1)

那覇日本政府南方連絡事務所、日本政府沖縄事務所の行政文書等を参考にしたが、個別に資料 名を掲げることは差し控えたい。

(2)

米軍政下の日本政府の国会委員会における答弁は文章の中で明記した。

(3)

『沖縄問題基本資料集』昭和

43

11

月、南方同胞援護会

(4)

『追補版沖縄問題基本資料集』昭和

47

7

月、南方同胞援護会

(5) 総理府「沖縄関係残務資料」

(14)

(6) 総理府本府組織令 (7)

総理府本府組織規則

(8) 南方連絡事務局設置法

(9) 戦傷病者戦没者遺族等援護法

(10) 沖縄関係事務整理に伴う戸籍、恩給等の特別措置に関する政令 (11)

琉球政府の戸籍整備法に関する事務説明資料

(12)

『沖縄対米請求権問題の記録』1994

3

月社団法人沖縄県対米請求権事業協会

(13)

財務省「財政統計(予算決算データー)」各年度

(14) 総理府「時の動き」昭和 47

3

(15)

岸昌『住民自治の座標』昭和

47

5

月、帝国地方行政学会

参照

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