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宗教人間学(コミュニティ福祉学部)

キリスト教文化講義5(文学部キリスト教学科)

2009 前期・佐 藤 研 * 授業の進め方 1. 始めと終わりに、黙想 2. 出席の意味――出席しないとついていくことが困難、主題の抽象性 3. 質問・感想カード 4. レジュメ・資料(遅れた人は、http://www.rikkyo.ne.jp/web/msato/sub4-classes.htm からダウン ロードすること) 5. 期末レポート 6. その他(私語と惰眠は厳禁) ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ * 「人間学」とは 1. anthropologia (16 世紀以来)──「人間の学」 < anthropos「人間」 + logia「論理<言葉」→「学、学問」 「人間の自然的本性の理論」(当初;心理学、身体学、解剖学) 「自然人類学」、「文化人類学」(19 世紀以降) 「哲学的人間学」(特に20 世紀以降)──人間の本質を求める 哲学的人間学 芸術的人間学 個別科学的人間学(心理学的人間学、社会学的人間学、教育学的人間学) 宗教的人間学(religious anthropology) ──「宗教」および「宗教的なるもの」を通して人間の本質を求める ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ * 「宗教」とは 1. 現代における「宗教」観 ・オウム真理教の影響──「『宗教』は個人を狂わす危険なもの」

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・文明間対立・宗教間対立──「宗教」は国家・民族を狂わす危険なもの ・神秘的オカルト現象への興味──宗教「おたく」の登場 ・「宗教人」の世界的活躍(ダライラマ、マザーテレザなど) ・「<宗教>リテラシー」の涵養の必要性 ・ 心の不安・感動――→「背後にあるもの」は何か? 2.「宗教」という日本語 「宗」: (漢字としては、「神事が行われる家」が原意→最重要のもの) 中心となるもの、主だったもの; 本源、別れ出たものの元 → 仏教の各流派で、その根本義として守るところ(「宗門」etc.) 「宗教」=それぞれの仏教的系統で、その最も中心的な見解を説く教え。 または、究極の真理と、その教え。 =明治時代(1870 年代)、外来語 religio/religion の訳語として「宗教」の語を当てた 3. religion <ラテン語の religio とは? relego: 繰り返して読む(Cicero) religo: 再び結びつける、強く結びつける 「再び」or 「強く」 「結びつける」──何と何を? 4. 「宗教」religion と「宗教的」religious 「宗教」=「教義」「儀式」「組織」を持つ宗教(通常的理解、ただし例えば神道は?) 「宗教的」=「宗教」より広範囲に、より人間学的に、人間の根源に横たわるもの 宗教的(なるもの)

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5. 「宗教」/「宗教的なるもの」の定義 5.0. 定義の多様性

5.1. ヒント的言葉

a. 「もう一つの次元をもつこと」(M. エリアーデ)

("eine andere Dimension mehr zu haben" / to have one more dimension: 『聖と俗』、後出)

b. “Something Great”(村上和雄、筑波大学名誉教授)

5.2. G.メンシングの定義

5.2.1. 「聖なる現実との体験的出会い、

および聖なるものに実存的に規定された人間の応答的行為」

("erlebnishafte Begegnung mit heiliger Wirklichkeit und antwortendes Handeln des vom Heiligen existentiell bestimmten Menschen" /

experiential encounter with a holy reality and a responding action of the human being who is existentially conditioned by the holy reality)

G. Mensching, Religion in Geschichte und Gegenwart3 V, 1961, Sp. 961;

同『宗教とは何か――現象形式・構造類型・生の法則――』(叢書・ウニベル シタス)下宮/田中訳、法政大学出版局、1963 年(原書 1959 年)、p.9 参照。 →狭義の「宗教」というより、広義の「宗教的なるもの」の定義として理解する。 →これを以下の考察の「作業仮説」(working hypothesis)として採用する。 5.2.2. 各要素の略述 a.「聖なる現実」――根源的現実 b.「体験的出会い」――理論や教えに先行する「体験」 c.「実存的に規定される」 ――忘れることが出来ない、常に回帰する d.「応答的行為」――応答(response)へと促される その結果──

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内的応答──「祈り」、沈黙、願い 思想的表現――「教義」 行為形式――「儀礼」 いわゆる宗教 集団形成──「教団、教会、僧伽、ウンマ」 社会内行動──「倫理」、生き方 5.3. メンシング的「定義」の実現程度の差異 5.3.1. いかに「定義」の現実が無意識的・潜在的に私たちを支配しているか 5.3.2. いかに「定義」を意識的・顕在的に実現しているか a. ほぼ理想的に実現している(稀れ、しかし存在する) b. 部分的に実現している(大部分) c. 堕落形態でしか実現していない(なぜならば、ego-ism がインフレ的に介入しているため) ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 宗教 宗教的なるもの 意識的・顕在的 無意識的・潜在的

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*「聖なる現実」とは 1. 「聖なる」/holy, sacred 1.1.『広辞苑』における「聖」 ① 知徳が最も優れ、あまねく事理に通じていること。また、その人。ひじり。 ② その道に最も傑出した人 ③ 天子また天子に関する語に添えて用いる語。 ④ (1)けがれなく、尊いこと。(2)キリスト教の聖者の名に冠する語。 ⑤ 清酒 ――→④(1)が一番近い?しかし不十分 1.2.『宗教学辞典』(東大出版会)の項目「聖」 「宗教に関する基本的な概念であり、自然宗教から仏教、キリスト教のような世界宗教の中 にも、欠くことのできない要因としてふくまれている」(p.459)。 「宗教現象の本質規定概念」(同)。 ――→では何か? 1.3. ある事例

2. R. Otto, Das Heilige, 1917 (オットー『聖なるもの』華園聡麿訳、創元社、2005) ──宗教的現象に接近するための、根本的概念を創出した古典的書物 2.1. 宗教における「合理性」と「非合理性」 核にある「非合理的」なるもの──それの「合理化」としての顕在的宗教 「道徳的」要素を越えるもの 「宗教的なるもの」に固有なもの 2.2. 「ヌーメン」「ヌミノス」「ヌミノーゼ」という言葉

ラテン語のnumen(= divinity, divine majesty, divine power etc.)から、 numinos (形容詞)/das Numinose (名詞)というドイツ語を創作

――「厳密には教えられず、ただ刺激され覚醒させられるだけ.............」のもの ――体験的現象として納得出来るもの (コーヒーの味は、コーヒーを飲んだ者にしかわからない)。 2.3. 「ヌーメン」なるものの特質 2.3.1. 「戦慄すべき秘義」(mysterium tremendum) a.「秘義」(mysterium)=言表不可能なもの、永久の謎であるもの b.「 畏おそろしいもの」、「なまなましいもの」、「荘厳(majestätisch)なもの」、 「力ある(mächtig)もの」、「妖怪的なもの」、「悪霊的(dämonisch)なもの」、

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──→その肯定的な側面は「神の栄光」「聖性」などとして、 また否定的な面は、「神の怒り」「審き」「祟り」などとして合理化...される 2.3.2. 「魅するもの」(das Fascinans) ──→「愛」「慈悲」「赦し」などとして合理化される 2.3.3. 「巨怪なるもの(das Ungeheuer)」 超-範疇性、包括性、圧倒性 2.3.4. 人間の側の無化状態 「自ら無に沈み去る感じ」──自我の無化 「被造物感情(Kreaturgefühl)」 2.4. アプリオリ(a priori)なカテゴリー しかし、経験を通してアポステリオリ(a posteriori)に実現 2.5. 現れる時、その形態・強度・特質に差異 a. 人、芸術(絵画、音楽、建築、小説など)、事物、儀式、事件において顕れる b. その実例 2.6. オットー説の特質 a. その心理性・「主観」性――「体験」の次元の強調 b. 「アンビヴァレンス」(ambivalence, 矛盾的両極性)的本質 c.「聖なるもの」は、ヌーメンなるものの主要..側面..を、価値..的.志向的...に.言語..表現..したもの 人間の体験閾 「聖なるもの」

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3. M. Eliade, Das Heilige und das Profane. Vom Wesen des Religiösen, 1957 (エリアーデ『聖と俗――宗教的なるものの本質について――』風間敏夫訳、法政大学出版局、1969) ――「聖なるものの顕現」を、「ヒエロファニー」(hierophany)という言葉で表現し、 その「裾野」まで含めた多彩な形態と形式の概略を描写。 ――「宗教的人間」(homo religiosus)は、聖化された現実への参与を志向する。 ―― 俗化した近現代社会でも、背後で(人々の意識の裏で)貫徹されているもの。 ――「ヒエロファニー」が告知している最終内容は、「死と再生」。 3.1. 「聖なる空間」 3.1.1. 「空間」の質的差 (家、奥座敷、床の間、舞台、屏風、想い出の地、聖地……) 3.1.2. カオスからコスモスへ 3.1.2.1. 世界の中心(「世界の軸」axis mundi)と周辺 (中華思想、我が家) 3.1.2.2. 浄と不浄 3.1.3. 「宇宙開闢神話」(聖なる地の創出物語、文化民族単位〔たとえば古事記〕) 3.2. 「聖なる時間」 3.2.1. 「原初の時間」(黄金時代)とその回帰 3.2.2. 新年(正月、大晦日など) 3.2.3. 祭り――聖なる次元の回帰(お盆、夏祭り、誕生日) 行事──聖なる時間の到来(新築祝い、引っ越し祝い、結婚祝い) 3.2.4. 神話――「聖なるものが世界に侵入するありさま」 聖なる時間が世界時間(=日常時間)の中に到来し、時間構造が立体的に聖化される 現代の神話創作機構――コンサート、スポーツのスタジアム、テレビドラマ 3.3. 自然および宇宙のヒエロファニーとその象徴性 3.3.0. 「象徴」(symbol)とは 「象徴」の定義 「しるし」(sign)との差

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可視的・ 可触的

不可視的・不可触的なるもの 部分 象徴 3.3.1. 「自然」――宗教的視点から見ると、「常にそれを超越する何物かを表現」している。 「天」「大地」「太陽」「月」「水」「樹木、大木」「女性」「岩、巨岩」 3.3.2. 象徴の普遍性 3.4. 人間の生の象徴性 3.4.1. 人間の生命は「聖なるいのち」の一部という感覚――出生、労働、性、遊戯、死 3.4.2. 「イニシェーション」(initiation)――「死」を通って「新生」へ

(参考文献・A.van Gennep, Les rites de passages, 1909 (A.ファン・ヘネップ『通 過儀礼』綾部恒雄・綾部裕子訳、弘文堂、1995 年))。 a. 宗教学的範疇としての「イニシェーション」(加入礼・加入式) (「広義では、従来までの社会状況から他のあたらたな社会状況への加入・参加をゆるすために所 定の手続きを踏む一連の行為体系を意味する。……狭義の成人式が一般にはこの用語の主なる内 容になっている……」(小口偉一・堀一郎〔監修〕『宗教学辞典』東京大学出版会、1973 年、pp. 28-29).) b. 人生の一般枠として透過すべきイニシェーション 誕生、成人、結婚(あるいは非結婚の決断)、家族からの独立、愛する者との離別、 老い、死 c. 個人的・主体的イニシェーション 挫折(人生における失敗、失恋、病)とそこからの(可能な)恢復 多くの文学・芸術などの根本的構造

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4. さらなる考察 4.1. 「宗教」の定義(Mensching)と照らして 4.1.1. エリアーデのえぐる、潜在的・深層的側面 ――→我々の存在形態がすでに「聖なる現実」の規定から逃れられないことをしめす 4.1.2. 「聖なるもの」は、人の志向する「価値」や「意味」の源泉に実在するもの 4.1.3. ホモ・サピエンスという存在は、「宗教的」以外の実存形態をとりえない 4.2 「穢れ」の問題 4.2.1. ヌミノーゼを前にした人間の世界意識は、「聖」と「俗」、そして更に「穢れ」(ハレ、ケ、 ケガレ、impurity)と分極化する a. 「ヌミノーゼ」の両極性 b. 「俗」の世界にあって「聖」を志向し、「穢れ」からの離脱を計るのが人間一般 4.2.2. 「穢れ」の超克 a. 排除 (1) 切断・絶滅──自己防衛、「聖戦」etc. (2) 内部隔離・抑圧 ──「民族の恥」「家族の恥」etc. (3) 自己保存欲または自我のインフレーションと結合し易い b. 統合 (1) 寛容 (tolerance)──共存・共生へ (2) 内化 (internalization)──「穢れ」を自分の中に発見 自己の「影」(shadow)の投影であることの発見、自己の変貌へ (3)融解(dissolution)――「聖なるもの」と「穢れ」の融合昇華 人間の体験閾 「俗なるもの」 「穢れ」 「ヌーメンなるもの」 「聖なるもの」 半意識的・無意識的・潜在的体験

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4.3. イニシェーションに関する確認 4.3.1. イニシェーションに深浅の差 a. 制度的イニシェーション b. 個人的イニシェーション ――儀式を伴う場合、伴わない場合 ――深刻なイニシェーションとなる可能性 4.3.2. 深刻なイニシェーションは自動的には生起・完了せず、各人の全的な自己投入を要する a. 「試練」と「死」――その受容の勇気 b. 「自由」感 c. 「成長」ということ ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

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*「体験的出会い」とは 1. 「体験」と「経験」 1.1. 英語/フランス語ではどちらも experience/experience(<experientia <experiri「試みる」 ドイツ語では前者が Erlebnis, 後者が Erfahrung 1.2. 日本語 1.2.1. 差異 「体験」=自分が身をもって経験すること。また、その経験。 「経験」=①人間が外界との相互作用の過程を意識し自分のものとすること。人間のあらゆる 個人的・社会的実践を含むが、人間が外界を変革するとともに自己自身を変化さ せる活動が基本的なもの。 ②〔哲〕感覚・知覚から始まって、道徳的行為や知的活動までを含む体験の自覚さ れたもの。(以上、『広辞苑』、下線は佐藤) [用法] 経験・体験――日常的な事柄については「経験(体験)してみて分かる」「はじめ ての経験(体験)」などと相通じて用いられる。◇「経験」の方が使われる範囲が広く、「経 験を生かす」「人生経験」などと用いる。◇「体験」は、その人の行為や実地での見聞に限定 して、「恐ろしい体験」「体験入学」「戦争体験」のように、それだけ印象の強い事柄につい て用いることが多い。 (以上、『大辞泉』、下線は佐藤) 1.2.2. 「体験」にある、知的言語化の限界性 →言語化に限界があるにもかかわらず、言語化しようとする、しないではいられない人間 (人間の言語表白への希求)。 →言語化の限界に突き当たることによって、言語化出来ないものがより一層鮮明に把握される (言語の逆説性)。 1.2. 「出会い」 1.2.1. 「人称」ということ a. M.ブーバー『我と汝』岩波文庫、1979 年〔原版 1923 年〕 b. 「1人称」、「2人称」、「3人称」とは、「言語の文法」の格であり、「心の文法」の格 1.2.2. 「体験的出会い」においては、人は対象を「2人称」的現実として覚知する a. 現実の人格の場合 b. 現実の事態・対象の場合 比喩としての「2人称」 ――呼びかけられているような気がする ――何とか答えたいと思う

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――衝撃的な、かけがいのないものに出会った気がする c. 「聖なる現実」との「2人称」的出会い d. 真の「2人称」的出会いは、「1人称」の限界を突破する ――真の「2人称」的出会いを受け入れることは、「1人称」にとっては新たな イニシェーション 1.2.3.「3人称」的現実とは、原理的に自分の外にあるもので、主として理解・整理・処理の対象 「聖なる現実との体験的出会い」は、「3人称」的には生起しない。 1.3. 例 ―― Ringo(→資料)

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*「聖なるものに実存的に規定される」とは 1. 「聖なるもの」=「聖なる現実」 2. 「実存的に規定される」 2.1. 「実存」(existence)とは 2.1.1. 一般的意味 ① 現実的な存在。普遍的な本質ではなく、時間・空間内にある個体的存在。スコラ哲学以来、 本質に対比して用いられ、可能的な本質が現実化されたもの。 ② 特に人間的実存を意味し、自己の存在に関心をもつ主体的な存在、絶えざる自己超克を強 いられている脱自的存在を言う。自覚存在。(以上、『広辞苑』、下線は佐藤) (参考・「実存主義」=人間を主体的にとらえようとし、人間の自由と責任とを強 調し、悟性的認識には不信をもち、実存は孤独・不安・絶望につきまとわれて いると考えるのがその一般的特色。(以上、『広辞苑』) 2.1.2. ここでの意味――「自分の自覚的生のすべてにおいて」 2.2. 「規定される」 2.2.1. 「圧倒性」 「把えられてしまう」「ガツンとやられた」「頭の中が真っ白になった」「鳥肌が立った」etc. 2.2.2. 「忘却不可能性」 繰り返し記憶がそのテーマへ戻っていく 2.2.3. 「応答」への希求の発生 3.「非実存的」に「規定」される場合 3.1. メンシンクは西洋的に「自覚」を強調(自覚的「宗教」の場合は妥当) 3.2. 無自覚的・半自覚的に規定される場合もある 「宗教性」「宗教的なるもの」の観察ではこれが必須、上記のエリアーデの説参照 「何とはなしに」「いつの間にか」「知らず知らずに」「とにもかくにも……」「一応、やっぱり」 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

*応答的行為(antwortendes Handeln/responding action) 1. 一般的観察

1.1. 「聖なるもの」が発するエネルギーと、それに共鳴する人間の本質

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1.1.2. 「人生は応答の磁場」 1.2. 「聖なるもの」への無意識的....応答 1.2.1. 幾多の社会慣習の濫觴・根源にある姿(エリアーデ参照) a. 新年祭などの祭、種々の祝い事 b. 神聖空間、象徴的事物 1.2.2. 個人的価値..の根源 a. <未来>の持つ「聖なる」本質 b. 「名辞なきもの」からの牽引――いのち、愛、真の力、成長 etc. 金、権力etc.もその代用 c. <祈り>の発生 「祈」=祭壇(「示」)に、限りなく近づく 「いのり」<「生宣り」――生命の宣言 いわゆる「宗教」より根源的な次元での発生 ――謝意「ありがたい!」 ――祈念「……であって欲しい」 「お願いします!……」(誰に?) 「苦しいときの神頼み」 →“Something great”を前にして、そのエネルギー への応答 (村上和男・棚次正和『人は何のために「祈る」のか――生命の遺伝子はその声を 聞いている――』祥伝社、2008 年) d. 人間の「宗教的」構造の展開としての人生 1.3. 「聖なるもの」への意識的...応答 1.3.1. 個人的・内的生活のレベル a. ものの見方の変化 例: 星野富弘(資料) b. 修行・修練・日常儀式の受容 1.2.2. 生き方・行動の転換 a. 例: Ringo における「私」

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2. キリスト教と仏教に見る「応答的行為」の実例 2.1. キリスト教

2.1.0. 予備知識

旧約聖書(Old Testament, Hebrew/Jewish Bible) ユダヤ教

(ヘブライ語、紀元1世紀末まで約1000 年で成立) 新約聖書(New Testament) (ギリシャ語、紀元1-4世紀) キリスト教 古代イスラエル(前1000 年頃──前 6 世紀) ユダヤ教(前6 世紀末以降) イエス ユダヤ教イエス派 エルサレム原始教会(30-60 年代) <初期キリスト教> 異邦人キリスト教会 (消滅) ローマ・カトリック教会(5 世紀半ば以降) 正教会(5 世紀半以降) プロテスタント教会(1517 以降) ルター派 ギリシャ正教会 カルヴィン派 ロシア正教会 その他 その他 イギリス国教会(1534 以降) ピューリタン

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2.1.1. ナザレ村のイエス──新約聖書の「福音書」の分析より 2.1.1.1. 古代イスラエル/ユダヤ教の伝統が前提 2.1.1.2. 生い立ち・生育・職業生活──ガリラヤ民衆の苦 2.1.1.3. 「バプテスマのヨハネ」の宣教(紀元 28 年) 「 浸 礼 バプテスマ を施す[者]ヨハネが荒野にあらわれ、〔もろもろの〕罪の赦しとなる回心の 浸 礼 バプテスマ を 宣べ伝えていた。そして、ユダヤの全地方とエルサレムの全住民とが彼のもとに出て行き、自 らの〔もろもろの〕罪を告白しながら、ヨルダン河の中で彼から 浸 礼 バプテスマ を受けていた。そして ヨハネはらくだの毛ごろもを着、その腰には皮の帯を締め、いなごと野蜜とを食べていた。… …するとその頃〔次のようなことが〕生じた、〔すなわち〕ガリラヤのナザレからイエスがや って来て、ヨハネからヨルダン〔河〕の中で 浸 礼 バプテスマ を受けた」(マルコ1:4-9)。 a. ヨハネの報知を(人づてに)聞く――「聖なる現実との体験的出会い」(その1) b. 罪の意識の解決を求めて、家を棄て、ヨハネの許へ――「応答的行為」(その1) 2.1.1.4. ヨハネの死 a. ショックゆえの飛躍──「聖なる現実との体験的出会い」(その2) ヨハネの死を契機に、「神」がまったく異なった相貌で体験さる →「お父さん」(絶対の善意の主体)としての神 b. ヨハネと異なる活動の開始――「応答的行為」(その2) 「さて、ヨハネが〔獄に〕引き渡された後、イエスはガリラヤにやって来た。〔そして〕『神 の福音』を宣べ伝えながら言い〔続け〕た、『〔この〕時は満ちた、そして神の王国は近づい た。回心せよ、そして福音の中で信ぜよ』」(マルコ1:14-15)。 2.1.1.5. 「神の王国」の開始 a. 没落者・被差別者への全幅の友情──「穢れの無化」(マタイ 20:1 以下、6:28-30、10:29) 「幸いだ、乞食たち、神の王国はそのあなたたちのものだから。 幸いだ、いま飢えている者たち、あなたたちは満腹するだろうから。 幸いだ、いま泣いている者たち、あなたたちは〔大〕笑いするだろうから。」(ルカ6:20-21)。 「さて、彼の家でイエスが〔食事の座で〕横になるということが生じる。さらに、多くの徴税 人や罪人が、イエスやその弟子たちと一緒に横になっていた。彼に従っていたそのような者た ちは、実に大勢いたのである。するとファリサイ人たちの律法学者らが、彼が罪人や徴税人と

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b. シャーマン的能力とその自覚(ルカ 11:20) 「そして彼らは会堂から出て行くとすぐに、ヤコブとヨハネと共に、シモンとアンドレアスの 家に入って行った。さて、シモンの姑が熱病を患って寝込んでいた。そして〔人々は〕すぐに、 イエスに彼女のことを話す。そこで彼は近寄って行き、手をつかんで彼女を起こした。すると 彼女から熱が去った。そして彼女は彼らに仕え出した」(マルコ1:29-31)。 「しかし、もし[この]私が神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の王国*は お前たちの上にまさに到来したのだ」(ルカ11:20)。 c. 抑圧者への批判(ルカ 11:39 以下など)と「愛敵」(マタイ5:44、ルカ 11:39 以下、マルコ 15:20 以下) 「イエスは彼らに言う、『アーメン、私はあなたたちに言う、徴税人と売春婦たちの方が、あ なたたちより先に神の王国に入る』」(マタイ 21:31)。 「あなたたちの敵を愛せ、そしてあなたたちを迫害する者らのために祈れ」(マタイ 5:44)。 d. 自己内部の「否定性」への目(マルコ 10:17-18、マタイ 6:12、5:27-28、ヨハネ 8:1-11) 「さて、彼が道に出て行くと、一人の男が走り寄って来て彼の前にひざまずき、彼にたずねた、 『善い先生、永遠のいのちを継ぐためには、私は何をすればよいのでしょう』。そこでイエス は彼に言った、「なぜ私を『善い』などと言われるのか。神お一人のほかに善い者なぞいない」 (マルコ10:17-18)。 2.1.1.6. 十字架死の甘受 a. ゲツセマネの園――「聖なる現実との体験的出会い」(その3) 「さて彼らは、ゲツセマネという名の場所にやって来る。そして彼はその弟子たちに言う、『私 が祈っている間、ここに座っていなさい』。そして彼は、ペトロとヤコブとヨハネとを自分と 共に連れて行く。すると彼は、ひどく肝をつぶして悩み始めた。そして彼らに言う、『私の魂 は死ぬほどに悲しい。ここに留まって、目を覚ましていなさい』。そして少し先に行って大地 にひれ伏し、もしできることならこの時が彼から去って行くようにと、祈りはじめた。Mk14:36 そして言うのであった、『アバ、お父さん、あなたには何でもおできになります。この杯を私 から取り除いて下さい。しかし、私の望むことではなく、あなたの〔望まれる〕ことを』」(マル コ14:32 以下)。 b. 惨死の運命の甘受──「応答的行為」(その3) 「……事は決した。時は来た。…… 立て、行こう。見よ、私を引き渡す者が近づいた」(マルコ 14:41-42)。 c. 敵意の無化 「また、祭司長たちはさまざまに彼を告発し出した。そこでピラトゥスは再び彼にたずねて言 った、『お前は何も答えないのか。見よ、彼らはやっきになってお前を告発しているのだ』。し かしイエスは、もはや何一つ、まったく答えなかった。そのためにピラトゥスが驚くほどであ

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った」(マルコ15:3-5)。 2.1.2. 「ユダヤ教イエス派」の成立へ 2.1.2.1. 「イースター事件」(紀元 30 年)(佐藤研『悲劇と福音』清水書院、参照) a. 前提: 生前のイエスの人間的魅力、イエスへの裏切り(マルコ 14:50 他) 「すると全員が、彼を見捨てて逃げて行った。また、ある若者が亜麻布に裸の身をくるんで、 〔人々と一緒に〕彼に従って来ていた。そこで〔人々は〕彼を捕えようとする。すると彼は、 亜麻布を捨て、素っ裸のまま逃げて行った」(マルコ14:50-52)。 「さて、ペトロが下の中庭にいると、大祭司の女中の一人がやって来る。そしてペトロが暖を とっているのを見、彼をしげしげと眺めて言う、『お前さんも、あのナザレ人イエスと一緒だ ったね』。しかし彼はそれを否定して言った、『俺はお前なぞが何を言っているか知らないし、 わからない』。そして彼は、外の前庭に出て行った。[すると鶏が啼いた。]そこで例の女中が 彼を見て、かたわらに立っている者たちに再び言い始めた、『この男も彼らの一味なのよ』。し かし彼は再び否定するのであった。そして少し間をおいて、かたわらに立っている者たちがま たペトロに言い出した、『ほんとうにお前はあいつらの一味だ。なぜといって、お前はガリラ ヤ人だからな』。そこで彼は、呪い始め、また誓い〔始めた〕、『俺はお前たちの言っているあ んな人間なぞ知らない』。するとすぐに、鶏が二度目に啼いた。そこでペトロは、『鶏が二度啼 く前に、あなたは三度私を否むだろう』、とイエスが彼に語った時の言葉を想い出した。そし て、どっと泣き崩れた」(マルコ14:66-72)。 b. 展開: ba. 絶体絶命からの破裂――「聖なる現実との体験的出会い」 「(彼は)現れた」──「祟り」ではなく、「赦し」として(mysterium fascinans) 「……そしてケファに現れ、次に十二人に〔現れた〕ことである。次いで彼は、五百人以上の 兄弟たちに一度に現れた」(1 コリ 15:5)。 体験の定式化. 「神はイエスを死人の中より起こした」(ロマ 10:9 等)→「復活」 bb. 「喪の作業」(mourning work)――「応答的行為」――としての教会の発生

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ること」(1 コリ 15:3-4)。 ・「パン裂き/主の晩餐」(1コリント 11:23-26, 使 2:42.46)──想い出と想起 「主イエスは、彼が引き渡された夜、パンを取り、そして感謝して〔それを〕裂き、そして 言った、『これはあなたたちのための私の体である。私を想い起こすために、このことを行 ないなさい』。同様に杯をも、食事のあとで〔取って〕言った、『この杯は私の血における新 しい契約である。あなたたちは飲むたびに、私を想い起こすために、このことを行ないなさ い』。実際あなたたちは、主が〔再び〕来るまで、このパンを食べ杯を飲むたびごとに彼の 死を宣べ伝えるのである」(1 コリ 11:23-26)。 (2) イエスの衣鉢を継ぐ運動として──→「殉教」への情熱 2.1.3. キリスト教の基 2.1.3.1. イエスの体験よりも弟子たちの体験に注目 2.1.3.2. 関係論的構造 a. 死、裏切り、愛、赦し b. 「悲劇」を通して「聖なるもの」と出会う 「ユダヤ人たちは徴を求め、他方ギリシア人たちは知恵を追い求めるために、私たちは逆に、 十字架につけられてしまっているキリストを宣教するのである。〔このキリストは、〕ユダヤ人 たちにとっては躓きであり、異邦人たちにとっては愚劣さであるが、召された者たち自身にと っては、ユダヤ人であれギリシア人であれ、神の〔威〕力、神の知恵としてのキリストなので ある。なぜならば、神の愚劣さは、人間たちよりも知恵あるものであり、神の弱さは、人間た ちよりも強いからである」(1 コリ 1:22-25)。

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2.2. 仏教の元祖ゴータマ・シッダッダ 2.2.0. 予備知識 ゴータマ・シッダッダ(釈迦牟尼) (紀元前463-383 年) 仏弟子たち <初期仏教> 第一結集 第二結集 教団分裂 (紀元前280 年頃) 大衆だいしゅ部(Mahasanghika)(進歩派) 上座部(Theravada) (保守派) 各部派仏典編集 <部派仏教/ アビダルマ仏教> 計 9 部 計9 部 「説一切有部」など計 11 部 (中インド、南インドなど) (西方インド、北方インド、および (勢力小) スリランカ、タイ、ミャンマー、カンボジア、 ラオスなど<南伝仏教/南方仏教>) (勢力大) パーリ 語 サンスク リ ッ ト語

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*************** (紀元前後、インドにて) 大乗仏教 密教 中国仏教 (1世紀頃) 唯識派 (律宗、三論宗、天台宗、三階教、浄土教、法相宗、 中間派 華厳宗、密教、禅宗) 日本仏教 (6 世紀半ばまで) (南都六宗、平安仏教、鎌倉仏教、など) チベット仏教(8世紀) 13 世紀初頭インド仏教衰退 2.2.1. ゴータマ・シッダッタの生涯 (中村元『ゴータマ・ブッダ I.II』文献表参照) 2.2.1.1. 前提状況 a. カースト制(司祭者ブラーフマナ、 王 族クシャトリア、庶 民ヴァイシャ、隷 民シュードラ) b. 紀元前 6-5 世紀、ガンジス河中流・下流にアーリア人の移入 混血、社会の流動化 c. 大国の興隆(コーサラ、マガダ、アヴァンティ、ヴァンサ)と都市文 化の発展、階級社会の相対化(ブラーフマナの位置低下) d. 自由思想家の登場(六師) 2.2.1.2. ゴータマ・シッダッタの生涯=紀元前 463-383 年(中村元説) (参照・ソクラテス(紀元前469-399 年)) 2.2.1.3. ネパールの釈迦(Sâkiya)族(コーサラ国に従属、釈尊の晩年に滅ぼされる) ゴータマ(Gotama、「最も良い牛」)家 父スッドーダナ(Suddhodana, 浄飯王じょうぼんのう)、母マーヤ(Maya, 摩耶) 釈迦族の首都カピラヴァットゥ(Kapilavatthu, カピラ城)郊外の ルンビニー(Lumbinî)園で誕生 ゴータマ・シッダッタ(Siddhattha、「目的を達成した者」)と命名 生後7 日で母没す──原体験 2.2.1.4. 青年シッダッタの苦悩 内向性

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老、病、死の生存の苦悩(人生の普遍枠としてのInitiation) 「四門出遊」の伝説 「ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといこれ以上長く生きるとも、 また老衰のために死す」(『スッタニパータ』804) 2.2.1.5. シッダッタ結婚(16 歳頃) 妃はヤソーダラー(Yasodharâ「誉れある淑女」の意) 息子ラーフラ(Râhula、「束縛」の意?)誕生 2.2.1.6. シッダッタ出家(29 歳)、遍歴修行者になる 当時の(上層階級の)修行者の類型 マガダ国の首都ラージャガハ(Rajagaha, 王舎城)に至る ビンビサーラ(Bimbisara)王の申し出を拒否 二人の仙人の許で修行 アーラーラ・カーラーマ(Alara-Kalama) ウッダカ・ラーマプッタ(Uddaka-Ramaputha) マガダ国ウルヴェーラー(Uruvelâ)で苦行、かつ苦行の放棄、坐禅(djana) 2.2.1.7. シッダッタ覚醒=「聖なる現実との体験的出会い」 ブッダガヤー(Buddhagayâ=「仏の霊場」の意、地理的にはウルヴェーラーに等しい) のアシヴァッタ樹(菩提樹)のもと、「悟る」 (35 歳、紀元前 428 年頃、「 臘ろうはつ(ろうはち)八 、明けの明星」の伝説) 7 日間、および 49 日間、法悦に留まる(numinose fascinans) 2.2.1.8. ブッダ(Buddha)の教化活動開始=「応答的行為」 聖地ベレナスへ、その郊外の「鹿の園」にて旧友を教化 サンガ(僧伽そうぎゃ)形成、雨う安居あ ん ごと遊歴の交替 教化の中心地 ラージャガハ(王舎城)──竹林園をマガダ王ビンビサーラが寄付 サーヴァッティー市(Savatthî、舎衛城、コーサラ国内)──北方インドの 交通の要所、一富豪がここに祇園精舎を寄付 2.2.1.9. 約 45 年間の活動後、帰郷途上、 クシナーラー村(Kusinârâ, ネパール国境付近)近くで入滅(紀元前 383 年) 2.2.2. ゴータマ・ブッダの悟りの体験とは 2.2.2.1. 直接の描写なし

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2.2.2.4. 「無我」の体験 a. 自我の非存在――苦の主体の消滅 「たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、 そのように聖者は名称と身体から解脱してしまって滅びてしまって、(存在する者としては) 数えられないのである」(同1074)。 「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ」(同 916)。 (参考) 「人生に苦しみがあることは誰だって認めざるを得ないところでありますが、これをどうや って解決して乗り超えるかというときに、仏教以外の解決の仕方では、まず「苦しむ自分」 というものを前提として認めるわけです。この私が苦しむのです。つまり苦しむ私としての 「自我」を認めてこれを前提として、その自我の持つ苦しみをどうやって解決するかという ふうな発想になるわけです。そのためにはいろんな方法が考えられるでしょうが、おおまか にいえば苦しむ主体としての「自我」を前提として認めているということです。その上で、 その「自我」の担っている苦しみをどうして解決するかという考え方になると思うのです。 ところがこの点で釈迦はまさに画期的なのです。着眼がちがうのです。苦しむ主体としての 「自我」を認めてしまって、その「自我」のもつ苦しみをどうやって解決するかということ では、本当の解決には到達しないという認識をもつのです。この点が仏教的解決の決定性で あります。釈迦は苦しむ主体として「自我」そのものにメスを入れるのです。「自我」を認 めてしまうのではなくて、「苦しむ自我」とは何者かというところに遡るわけです。つまり、 苦しむ自分というものが実在して、本当にそこにいて、その自分が苦しむというような考え 方を我々はするわけです。それは当たり前のことだと思っているのですけれども、釈迦はそ こに着眼いたしまして、その苦しむ自分という者は果たして実在するのだろうかというとこ ろへ考えを徹底させるのです。そしてよくよく考えてみると、これが自分だ、これが私だと 言っているいわゆる「自我」というものは本当は実在しないのではないかというところにた どり着くのです。・・・・・・(中略)・・・・・ 私は、これくらい徹底した思想の持ち主はちょっと他にはないのではないかと思うのです。 皆さん、西洋思想史をずうっと振り返ると、いろんな優れた人たちが出て来ますけれども、 しかし、この釈迦の発想に匹敵するようなことを考えた者がいるでしょうか。私は皆無だと 思うのです。これは全くユニークな着眼であって、世界宗教の開祖になるのも尤もだと私は フェアーに認めざるを得ないのです。だからその「苦しみの主体」を認めた上で苦しみをど うするかではないのです。これは極めて中途半端な不徹底な解決だと釈迦は言うわけです。 そうではなくて、「苦しむ主体」そのものを「空」にするのです。これが釈迦の悟りという ことになります。ですから「空」という今日のテーマは、大変に重大なことになると思いま す。「空」というのは、あとでは「無」というふうに言うようにもなります。哲学の中では

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「空」よりも「無」の方が使われますけれども、大体同じ消息だとお考えになっていいでし ょう」(北森嘉蔵『日本人とキリスト教』教文館、1995年、117-121頁)。 b. 主体の消滅・客体の消滅──「空」性 「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうす れば死を乗り超えることが出来るであろう」(『スッタニパータ』1119) 「よく気をつけて、無所有をめざしつつ、『何も存在しない』と思うことによって、煩悩の 激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ」(同1070)。 c. 現象界のより深い認識──我欲・愛執の煩悩 「この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえているのを、わたくしは見 る。下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く」(同776)。 2.3. イエス/その同志達およびゴータマ・シッダッタの根源体験 2.3.1. 「聖なる現実との体験的出会い」

=「神秘体験」mystic experience(W. James, Varieties of Religious Experiences〔ジェーム ス『宗教的経験の諸相』岩波文庫〕) 2.3.2. 体験の宗教心理学的特徴(W. James による) 2.3.2.1. ①言語表現の不可能性、②認識的性質、③暫時性、④受動性 2.3.2.2. 自己の Initiation 的変貌(自己の死滅と新生) 2.3.3. 神秘体験の及ぼす影響=「応答的行為」への必然性 2.3.3.1. 世界観・人間観の変貌 2.3.3.2. 人格の変貌――急激的・漸次的 2.3.3.3. 社会的活動への道

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*思想的次元における「応答的行為」――教説 1. キリスト教的教説 1.0. ユダヤ教との共通性 1.1. キリスト教的実在観──「聖なるもの」を何ととらえているか a. 「2人称的エネルギー」=「神」 「私」と関わりを求め、「私」を生かすエネルギー 姿形は非存在的存在──人間の思い通りになる存在ではない (「汝は己のため、刻んだ像を造ることはあり得ない」出エジプト20:4) 「呼びかける」エネルギー (「主なる神は人に呼びかけて言った、『あなたはどこにいるか』」 創世記3:9)) 歴史において自己開示する者──歴史が超越との交渉の場 無条件・無制限の善意(アガペー)のエネルギー 「契約」(covenant)思想 「審き」のエネルギー b.「全人称的エネルギー」と化する「神」 「人間を通して働く神」、「乗りうつる神」 「場」のエネルギーとしての神 c. 「三位一体論」 歴史において自己開示する神の活動としての、イエスの十字架事件 イエスの十字架事件の働きの図式化 「父」(エネルギーの根源) 「子」(イエスの十字架事件、あるいはその中心のイエス) 「聖霊」(「私」を巻き込む力) この三者が「神」の全体 ただし、「父」や「子」という概念の前時代性 1.2. キリスト教的人間観 a. 「被造物」(creature)としての人間 ──「土からできた人間」+「神の霊」 神との峻別、神との一体性 ──「神の似像じ ぞ う」(創世記5:1-2)の意味 b. 「肉(flesh)なる」存在、「罪ある」存在 「罪」とは? 「原罪」(original sin──Augustinus) 不可避的な悪への傾向性

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c. 「贖罪論」 イスラエルの宗教史的文化の前提(旧約聖書の儀式的背景) 罪の持つ報復のエネルギー──その無化 イースター事件に心理的な源泉 裏切りの罪の慚愧と、その呪いを無化されたことへの感謝 (負い目の記憶は存続)

罪にも拘わらず、生が許された(simul iustus et peccatus) d. 倫理──隣人愛、愛敵 社会活動・社会批判の重視 イエスにならう道 1.3. キリスト教的世界観 a. 宇宙観 i. 起源──神の意思による「創造」、creatio ex nihilo

(参考・Big Bang の発想〔George Gamow, ロシア生まれ、米国ユ ダヤ系、1948 年発表〕 180-120 億年前 10-23cm から誕生、それ以後膨張し続け る宇宙。銀河系は約100 億年前、太陽系は約 46 億年前) ii. 構造──創造された秩序の存在、それを探る自然科学の発生 目的論、「摂理」、および「神義論」破綻の可能性 iii. 運命──「終末思想」(eschatology)と「最後の審判」 新しい「第二の創造」の展望 b. 他界観 i. 死と眠り(陰府) ii. 「最後の審判」──「天国」と「地獄」 iii. キリスト教的他界観の再構成の必要性 上記のi.と ii.の側面は、時代的制約が大きい iv. 新たな方向性 ――現在的終末論(ヨハネ福音書);「第二の創造」を今既に生きる ――転生観念の必要性? c. 時間観 i. 直線的構造(不可逆性)という一般的見解

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2. 仏教的教説 2.1. 仏教的実在観──「無我無法」(とりわけ大乗仏教) a. 「全人称的エネルギー」としての「空」 空観 くうがん ――人空、法空 i. 「人空にんくう」(「人」とは自分の主体のこと) ――「私」が実体として存在しないこと、「無我」と等しい ――「人空」が体験的に現出するとき、根源的エネルギーが湧出する ―― 体験的現実(資料参照)、知的理解を超える ii. 「法空ほっくう」(「法」とは現象界のこと) ――「私」の外にある現象界が「もぬけのカラ」であると体験する 実体として存在しないと体験する ――「あるがままで、何もない。何もないのに、あるがまま」 (「色即是空、空即是色」(般若心経)) 参考・現代物理学の中の「空」: 顕微鏡で細胞を――(可視光は10-5m まで、X 線は 10-8m まで) ――分子――原子――(ガンマー線の使用); 原子:原子核(+)10-15m と電子(-)からなる: <半径60m の球の周りを半径 60cm の球が地球ほどの大きさの軌道 を回っている。その中間はもぬけのカラ> ――原子核:陽子と中性子と中間子〔雲状の糊的存在〕 陽子の大きさ?:1.2x10-13m の素粒子―― <陽子には大きさがあるということは、陽子自体の特性ではなく、そ れを見る側の光子の特性?陽子には本当に実体があるのか?実は見 る側自体の姿ではないか?> 電子には時間的空間的広がりは確定できない ―→原子は99.99%以上「空間」 「空」でありながら「頑空がんくう」ではなく、絶大のエネルギーを発散している。 (参考・「真空」(vacuum)の持つエネルギーの超越さ) b.「2人称的エネルギー」と化する「空」 「阿弥陀仏」などの宇宙的「仏」──「空」が人格化して表象される姿 真の「空」は、「慈悲」のエネルギーそのものという面を持つ とりわけ浄土宗/浄土真宗、しかし禅宗でも c. 「空」は「存在論的」(ontological)現実 キリスト教は「関係論的」(relational) 現実を第一義とする 2.2. 仏教的人間観──四諦し た い観(四聖ししょう諦たい)

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a. 苦諦(苦という現実態がある) 苦観く が ん──「一切皆苦」 「四苦」( 生しょう、老、病、死) 「八苦」(愛あい別離苦べ つ り く、怨憎おんぞう会苦え く、求ぐ不得苦ふ と く く、五陰ご お ん盛苦じょうく) 「五陰」(「五蘊ご う ん」)= 色(肉体、現象界)、受(感覚)、 想(表象)、行(意志)、識(認識) b. 集諦じったい(苦には愛執/煩悩という原因がある) 「三毒」――貪〔むさぼり、貪欲〕 瞋〔いかり、憎み怒ること〕 癡〔おろかさ、迷い惑うこと〕 c. 滅諦めったい(苦は止滅しうる、ニルヴァーナに達しうる) 「空」を体験的に知ることによって 涅槃寂静、四苦八苦も三毒もそのままで「空」 <木の根本が根絶されている> <現象においては苦は続く、しかし盤石の安心あんじん> d. 道諦(滅諦のための道〔=八正道/中道〕がある) 八正道=正見(正しい見解)、正思惟し ゆ い(正しい思索)、正語(正しい言葉)、 正 業 しょうごう (正しい行為、業)、正しょうみょう命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、 正念(正しい思念、心の在り方)、 正 定しょうじょう(正しい禅思ぜ ん し) 2.3. 仏教的世界観 a. 宇宙観 i. 起源──不明 ii. 構造──「縁起観」 「縁起」=「あいよって生じせしめる力」、因果関係 「因」=直接原因、「縁」=間接原因 ただし、現代科学では、因果関係の及ばぬ所を想定している iii. 運命──「諸行無常」 「四劫し こ う」(成 劫じょうこう、住劫、壊劫え こ う、空劫)の繰り返し 巨大な現象的時間――「劫」――の想定 ――四方1由旬ゆじゅん〔7km〕の石を、白センで 100 年に一度払 った結果、その大岩がなくなるのを「一劫」という

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c. 時間観 i. 現象的時間: 円環的構造──「輪廻」 ii. 時間の滅却した世界=「空」 iii. 現象的時間の只中で、時間の滅却した世界がある 3. キリスト教と仏教――言語表象の差異を通底する共通要素 3.1. 「聖なる現実」への応答としての教説化であること 3.2. 人間の否定的状況の克服が可能であること 3.2. パラドックス的実存が成立すること――罪責の自覚と同時に、救いの自覚 *倫理・生活的次元における「応答的行為」 2.1. キリスト教的実践 2.1.1. 例1: 水野源三 2.1.2. 例 2: マザー・テレザ 2.2. 仏教的実践 2.2.1. 例 1:テック・ナット・ハン 2.2.2. 例 2:ダライ・ラマ 14 世

参照

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