初期禅宗文献の新発見 ─石山寺蔵『跋陀三蔵安心 法』の紹介と研究─
著者 通 然
著者別名 Tong Ran
雑誌名 国際禅研究
巻 6
ページ 39‑73
発行年 2020‑11
URL http://doi.org/10.34428/00012830
はじめに
今回、筆者が紹介しようとする『跋陀三蔵安心法』は、現在滋賀県大津 市にある大本山石山寺に「石山寺校倉聖教・第二十九函三三号」として所 蔵されている1。この文献の存在は、既に伊吹敦氏が発表した「『楞伽師 資記』と『跋陀三蔵安心法』─その日本への将来と天台宗への影響」という 論文で言及されているが、この論文の内容については、氏が次のように纏 めている2。
1 .源信が『菩提心義要文』において用いた初期禅宗文献を円仁も『灌頂三 昧耶戒』で用いており、その将来者は、最澄、あるいは円仁と見られる。
2 .その初期禅宗文献は、『楞伽師資記』「求那跋陀羅章」と共通する内容 を持つが、必ずしも『楞伽師資記』そのものと見るべきではなく、む しろ、『楞伽師資記』「求那跋陀羅章」の一部を別行させた文献、『跋陀 三蔵安心法』と見做すべきである。
3 .この『跋陀三蔵安心法』が円仁や源信らに用いられたのは、その内容 が円・密・禅・戒の統合を立場とする日本天台宗の伝統に相応する内 容を持っていたからである。
初期禅宗文献の新発見
─石山寺蔵『跋陀三蔵安心法』の紹介と研究─
*通 然
**
*本稿は、伊吹敦氏を研究代表者とする科学研究費補助金による国際禅研究プ ロジェクト主催の「初期禅宗史研討会」(2019年12月 7 日、於東洋大学)にお ける発表原稿を増訂したものである。なお、本研究は、令和二年度JSPS科研 費〈特別研究員奨励費19J11458〉による研究成果の一部である。
**東洋大学大学院・日本学術振興会特別研究員DC
4 .円仁は『灌頂三昧耶戒』において、『跋陀三蔵安心法』に拠って求那跋 陀羅と菩提達摩の師弟関係を認めて「達磨大師付法相承」の血脈とし、
密教に準ずる内容を持つものとして、阿地瞿多・菩提流志系の「雜曼 荼羅」の血脈、善無畏・金剛智系の「胎蔵金剛両曼荼羅相承」の血脈 と併挙した。
5 .円仁が禅を密教に準ずるものとして高く評価したのは、その思想を密 教の事相や即身成仏と通ずるものと見做したためと考えられるが、円 仁自身、入唐して、禅が中国で主流となりつつあることを肌身で感じ ていたことや、馬祖禅を伝える義空が渡来して尊敬を集めていたとい う、中国・日本の社会情勢も関係していた。
6 .安然は、この『灌頂三昧耶戒』の説を承けて「九宗教判」を立て、禅 宗を密教に次ぐものと位置付け、天台宗の上に置いたため、後世にお いて大きな議論を呼ぶことになった。
7 .源信は、『菩提心義要文』において、『菩提心論』の理解に資するため に『無畏三蔵禅要』を依用したが、そこに出てくる「安心」の説を補 うために、『跋陀三蔵安心法』の文を提示した。それは『無畏三蔵禅要』
自体が禅の影響下に成立した文献で両者の間に共通点が多く見られた ためであり、それはそのまま最澄の「一乘」思想の淵源であり、日本 天台の伝統でもあった。
伊吹氏がこの論文を書いた時には、『跋陀三蔵安心法』が実在すること に気づいていなかった。そして、一応、書き終えた後に『石山寺の研究:校 倉聖教・古文書篇』によってそのことに気づき、末尾にそのことを付記の 形で示すに止まったのである。従って、氏の論文は『跋陀三蔵安心法』の 本文を見ることなく書かれたものであって、石山寺蔵本を実際に調査する ことによって、その是非を確認することが課題となっていたのである。そ うした中、伊吹氏の御好意により、令和元年 7 月27日、筆者はこの貴重な 文献を調査する機会を得た。その結果、伊吹氏の論考にはいくつかの修正
を要する点があることが判明した。本論では石山寺蔵『跋陀三蔵安心法』
を紹介すると共に、この文献の性格や初期禅宗史における意義を明らかに することにしたい。
一、『跋陀三蔵安心法』の形態と内容
現在のところ、『跋陀三蔵安心法』は、石山寺以外には存在が知られて いない天下の孤本であり、その形態については、石山寺文化財綜合調査団 編『石山寺の研究:校倉聖教・古文書篇』において、次のように記されて いる。
33跋陀三藏安心法
平安時代後期寫、粘葉装枡型、楮交リ斐紙、「石山寺經藏」朱印、押界、 1 頁 8 行、 1 行14字、訓點ナシ、尾題ナシ、表紙後補、縱15.2糎、橫14.6糎、
12紙、界高12.3糎、界幅1.6糎。
(奧書)不知□書□誤 一校了。3
これについて、伊吹氏は前掲論文「『楞伽師資記』と『跋陀三蔵安心法』─そ の日本への将来と天台宗への影響」の付記において、
この記述によって考えるに、その分量は、粘葉装であることにより、12紙
× 4 =48頁、各頁 8 行×14字=112字であるため、48頁×112字=5376字と なり、概略で5000字程度の分量であることが知られる。これは現行の『楞 伽師資記』の「求那跋陀羅章」の約三倍に当たる。もし、これが本稿で考 えたような『楞伽師資記』からの別行本であるとすれば、「求那跋陀羅章」
の内容を中心に、他の部分の抜粋等も含んでいたと考えねばなるまい。4 と推測されたが、実はそうではない。『跋陀三蔵安心法』を調査したところ、
この写本は縦15.2センチ、横14.6センチの正方形に近い冊子本で、各頁 8 行、
各行約14字、全11紙(その初頁と終頁に半紙の空白があるから)172行か らなり、十一二世紀に書写されたものである。首尾完全なもので、表紙と 首題は「跋陀三蔵安心法」であり、尾題を欠いている。その分量は5000字 程度ではなく、172行×14字=2408字となり、約2400字程度の分量である。
また、その内容は二つの部分よりなる。即ち、第一部分は浄覚(683−
750?)撰の『楞伽師資記』(723年頃)「求那跋陀羅章」とパラレルな記述 を有するが、全体の三分の一に過ぎないのである。第二部分は道原編の『景 徳伝灯録』(1044)巻二十九5、晦翁悟明編の『宗門聯灯会要』(1083)巻三十6、 子昇・如祐集の『禅門諸祖師偈頌』(南宋末?)巻下7に見られる「誌公和 尚十四科頌」である。この二部分は筆跡が同じなので、同一人物の書写し たものと認められるが、明らかに一つの文献ではなく、二つの文献が連写 されたものである。従って、筆者は「跋陀三蔵安心法」という名称を第一 部分に限って用い、第二部分に対しては「誌公和尚十四科頌」という名前 を用いることにしたい。
二、「跋陀三蔵安心法」 と関連する文献との対照
既に知られているように、源信(942−1017)記の『菩提心義要文』(997)
に、初期禅宗史書である『楞伽師資記』とパラレルな記述が見られる8。『菩 提心義要文』の本文は、「初発菩提心」「菩提心行相」「助菩提心縁」「退菩 提心縁」からなり、源信は竜猛撰の『菩提心論』に基づいて、「菩提心行相」
を「行願門」「勝義門」「三摩地門」に分け、それぞれについて菩提心の要 文を種々の文献から引用している9。このうち、『楞伽師資記』に関する ものは「三摩地門」の部分である。
これに対して、伊吹氏は源信の『菩提心義要文』が基づいた文献につい て、次の三つの可能性があると指摘している。
1 .『楞伽師資記』が編集に際して用いた何らかの散佚文献 2 .『楞伽師資記』そのもの
3 .『楞伽師資記』に基づいて著された何らかの散佚文献
更に氏は、円仁(794−864)の『灌頂三昧耶戒』の序文に「求那跋陀羅」
と「三蔵達摩」が師弟関係にあると認めていることから、円仁が用いた文 献には『楞伽師資記』の「求那跋陀羅─菩提達摩─慧可─僧璨─道信─弘 忍─神秀」という祖統説と共通する点があり、それは源信が『菩提心義要 文』で依拠したものと同じものと見做した。また、『灌頂三昧耶戒』や『菩 提心義要文』が基づいた部分は、『楞伽師資記』「求那跋陀羅章」のみに限 られており、他の部分が日本に伝わっていた確証が得られないから、円仁 や源信が用いた文献は恐らくは「 3 .」であって、『楞伽師資記』「求那跋 陀羅章」の内容と呼応する名称を持つ「跋陀三蔵安心法」であったろうと 推定した10。
しかし、ここで注意されるのは、伊吹氏の説は「跋陀三蔵安心法」に『楞 伽師資記』の祖統説が書かれていたことを前提にしたものであるというこ とである。実際に、新出の「跋陀三蔵安心法」を確認してみると、そこに はこのような祖統説が存在しないことが明らかになった。従って、『灌頂 三昧耶戒』と『菩提心義要文』が『楞伽師資記』の影響下に成立した文献(「跋 陀三蔵安心法」)に依ったとする説も再考する必要が出てきたのである。
では、「跋陀三蔵安心法」はいったい『楞伽師資記』や『菩提心義要文』
といかなる関係を持つのであろうか。この問題を解決するためには、まず
「跋陀三蔵安心法」を『菩提心義要文』や『楞伽師資記』と対照しなけれ ばならない。以下、問題となっている三者の対応する箇所を掲げれば、次 の如くである。
石山寺所蔵「跋陀三蔵安心法」
問、此地居東邊、修道無法。以無法故、或墮二乘、或墮外道、久受生死、
不得解脫。西天有法、先學安心。心未安之時、善苟不應作、何況其惡。心 得安靜之時、惡心尚不應作、況復其善。若爾修道、云何六波羅密、講經座禪、
精進造行、只名善業、不名修道。或在名聞、或爲利養、人我心行、嫉妬心造。
若修道者、不見此行、若晝若夜、勤修佛行、不得安靜、不名安心。今言安 心者、爲四種。一者背理心、二者向理心、三者入理 心、四者理心。言背理 心者、一向凡夫。向理心者、厭惡生死、以求涅槃、趣向寂靜、名聲聞人也。
入理者、雖復斷障顯理、能所未亡。理心者、非理外理、非心外心、心即是理、
理即是心、心理平等、名之爲理。理照明、名之爲心。心理平等、名之爲佛。
心會實相性者、不見生死涅槃有別、凡聖無異、境智無二、理智俱融、眞俗 齊觀、染淨一如、緣起大用、圓通無碍、名大修道。自他無二、一切行名爲 大乘。内外無著、大捨畢竟、爲檀波羅密。善惡平等、俱不可得、即是尸羅 波羅密。心行無違、怨害永盡、即是忍辱波羅密。大寂不動、萬行自然、即 是精進波羅密。繁興妙寂、即是禪波羅密。妙寂開明、即是般若波羅密。如 是勝上廣大、圓滿無碍、得用繁興、是爲大乘。有求大乘者、不先學安心、
定知大誤矣。
源信『菩提心義要文』「三摩地門」
跋陀三藏云、此間地居東邊、修道無法。以無法故、或墮二乘、或墮外道、
久受生死、不得解脫。西國有法、先學安心。六波羅密、講經坐禪、精進造行、
但名善業、不名修道。或爲名聞、或爲利養、人我心行、嫉妬心造。言安心者、
爲四。一背理心、一向凡夫。二向理心、聲聞人也。三入理心、是菩薩心、
雖斷障顯理、能所未亡。四理心、心即是理、理即是心、心理能平等、名之 爲理。理照能明、名之爲心、心理平等、名之爲佛。心會實性者、不見生死 涅槃有別、凡聖無異、境智無二、理事倶融、眞俗齊觀、染清一如。而此必 不證則無、證則有照。縁起大用、圓通無礙、名大修道。自他無二、一切行 一時行、名爲大乘。内外無著、大捨畢竟、名爲檀波羅密。善惡平等、倶不 可得、即是尸波羅密。心境無違、怨害永盡、即是忍辱波羅密。大寂不動而 萬行自然、即是精進波羅密。繁興妙寂、即是禪波羅密。妙寂開明、即是般
若波羅密。如此之勝上廣大、圓滿無礙、德用繁興、是爲大乘。有求大乘者、
不先覺安心、定知誤矣。略抄11
浄覚『楞伽師資記』「求那跋陀羅章」
第一宋朝求那跋陀羅三藏、南天竺國人。以大乘學、時號摩訶衍。元嘉年、
隨船至廣州。宋太祖迎於丹陽郡、譯出楞伽經。王公道俗請開禪訓、跋陀未 善宋言有愧、即夕夢人以劍易首、於是就開禪訓。三藏云、此土地居東邊、
修道無法。以無法故、或墜小乘二乘法、或墜九十五種外道法、或墜鬼神禪、
觀見一切物、知他人家好惡事。苦哉、大禍大禍、自陷陷他。我愍此輩長劫 落鬼神道、久受生死、不得解脫。或墮禁術法、役使鬼神、看他人家好惡事、
詐言我坐禪觀行。凡夫盲迷不解、謂登聖道、皆悉降伏、不知是鬼神邪魅法也。
我中國有正法祕不傳、 簡有縁根熟者。路逢良賢、途中授與、若不逢良賢、
父子不傳。楞伽經云、諸佛心第一。我教授法時、心不起處是也。此法超度三 乘、越過十地、究竟佛果處、只可默心自知。無心養神、無念安身、閑居淨坐、
守本歸眞。我法祕默、不爲凡愚淺識所傳、要是福德厚人、乃能受行。若不 解處六有七八、若解處八無六七。擬作佛者、先學安心。心未安時、善尚非善、
何況其惡。心得安靜時、善惡倶無作。華嚴經云、法法不相見、法法不相知。
至此國來、尚不見修道人、何況安心者。時時見有一作業人、未契於道。或 在名聞、或爲利養、人我心行、嫉妬心造。云何嫉妬。見他人修道、達理達行、
多有人歸依供養、即生嫉妬心、即生憎嫌心、自恃聡明、不用勝己、是名嫉妬。
以此惠解、若晝若夜、懃修諸行、雖斷煩惱、除其擁礙、道障交競、不得安靜。
但名修道、不名安心。若爾縱行六波羅蜜、講經坐二禪三禪、精進苦行、但 名爲善、不名法行。不以愛水漑灌業田、復不於中種識種子、如是比丘、名 爲法行。今言安心者、略有四種。一者背理心、謂一向凡夫心也。二者向理心、
謂厭惡生死、以求涅槃、趣向寂靜、名聲聞心也。三者入理心、謂雖復斷障 顯理、能所未亡、是菩薩心也。四者理心、謂非理外理、非心外心、理即是心、
心能平等、名之爲理。理照能明、名之爲心。心理平等、名之爲佛心。會實 性者、不見生死涅槃有別、凡聖無異、境智無二、理事倶融、眞俗齊觀、染
淨一如、佛與衆生本來平等一際。楞伽經云、一切無涅槃、無有涅槃佛。無 有佛涅槃、遠離覺所覺。若有若無有、是二悉倶離。大道本來廣遍、圓淨本有、
不從因得。 如似浮雲底日光、雲霧滅盡、日光自現。何用更多廣學知見、渉 歷文字語言、覆歸生死道。用口說文、傳爲道者、此人貪求名利、自壞壞他。
亦如磨銅鏡、鏡面上塵落盡、鏡自明淨。諸法無行經云、佛亦不作佛、亦不度 衆生、衆生強分別、作佛度衆生。而此心不證、是即無定。證則有照、縁起 大用、圓通無礙、名大修道。自他無二、一切行一時行、亦無前後、亦無中間、
名爲大乘。内外無著、大捨畢竟、名爲檀波羅蜜。善惡平等、倶不可得、即 是尸波羅蜜。心境無違、怨害永盡、即是忍波羅蜜。大寂不動、而萬行自然、
即是精進波羅蜜。繁興妙寂、即是禪波羅蜜。妙寂開明、即是般若波羅蜜。
如此之人勝上廣大、圓攝無礙、德用繁興、是爲大乘。有求大乘者、若不先 學安心、定知誤矣……12
(*四角部については後に論ずる)
三者の文章を比較すると、『楞伽師資記』の文(下線部を参照)は「跋 陀三蔵安心法」と『菩提心義要文』より遥かに長大なものであり、しかも、
両文献との対応する箇所が散在している。一方、「跋陀三蔵安心法」と『菩 提心義要文』の文(波線部を参照)はかなり簡略なもので、両者の間には 密接な親近性が認められる。「跋陀三蔵安心法」の波線部は『菩提心義要文』
に欠いているが、『菩提心義要文』の末尾に「略抄」と明記しているから、
それらの部分は『菩提心義要文』では省略したと見てよい。また、『菩提 心義要文』の波線部も「跋陀三蔵安心法」に存在しないが、それらの部分 は『楞伽師資記』に見られるから、「跋陀三蔵安心法」は恐らく、伝写す る過程で書き漏らしたのであろう。両者の本文にはいくつか文字の相違が 見られるが、少なくとも、今日知られている日本の古文献のいずれにも、『楞 伽師資記』への言及が存在しない現在では、『菩提心義要文』が基づいた 文献は『楞伽師資記』そのものではなく、「跋陀三蔵安心法」であったと 考えられる。
今問題となるのは、「跋陀三蔵安心法」の文がオリジナルなものである かということである。もしそうならば、浄覚は『楞伽師資記』を撰述する に当たって、「跋陀三蔵安心法」を用いて「求那跋陀章」に挿入したので ある。また逆に、『楞伽師資記』がオリジナルなものであったら、その後 のある人が「求那跋陀章」の内容を中心に抜粋して、「跋陀三蔵安心法」
を制作したと考えられる。そのいずれが正しいかについて、次の節で考え てみよう。
三、「跋陀三蔵安心法」と『楞伽師資記』との前後関係
周知のように、『楞伽師資記』は現存最古の禅宗史書の一つで、とりわ け神秀─普寂系(北宗)に関する最も重要なものとされている。その名の ように、本書では『楞伽経』の伝統を強調するため、この経典の訳者「求 那跋陀羅」を始めとして、菩提達摩、慧可、僧璨、道信、弘忍を経て、神 秀とその弟子たちに至るまでの八代の相承、全て二十四人の得道獲果の次 第を述べている13。
しかし、浄覚が「求那跋陀羅」を禅宗の初祖に据えたのは、禅宗に伝統 的な「達摩─慧可─僧璨─道信─弘忍……」という伝灯の系譜とは異質な 主張であって、この説は保唐系の灯史である『歴代法宝記』(774年頃)の 中で、次のように激しく批判されている。
有東都沙門淨覺師、是玉泉神秀禪師弟子、造楞伽師資血脈記一卷、妄引宋 朝求那跋陀三藏爲第一祖。不知根由、惑亂後學云、是達摩祖師之師。求那 跋陀自是譯經三藏、小乘學人、不是禪師。譯出四卷楞伽經、非開受楞伽經 與達摩祖師。達摩祖師自二十八代首尾相傳、承僧迦羅叉。後惠可大師親於 嵩高山少林寺、問達摩祖師承上相傳、自有文記分明。彼淨覺師妄引求那跋陀、
稱爲第一祖、深亂學法。法華經云、不許親近三藏小乘學人。求那跋陀三藏 譯出四卷楞伽經、名阿跋陀寶楞伽經。魏朝菩提流支三藏譯出十卷、名入楞
伽經。唐朝則天時、實叉難陀譯出七卷楞伽經。已上盡是譯經三藏、不是禪師、
並傳文字教法。達摩祖師宗徒禪法、不將一字教來、默傳心印。14
即ち、『歴代法宝記』の撰者は求那跋陀羅を「文字の教法を伝う」の訳 経三蔵や小乗学人とし、達摩を「黙して心印を伝う」の禅宗祖師として両 者を区別し、浄覚が唱えた祖統説を認めなかったのである。これによれば、
『楞伽師資記』は一時期広く流布していたことが窺えるが15、当時の禅宗 においては、浄覚の主張が極めて特異なものと考えられていたことが知ら れる。
これに対して、伊吹氏は『楞伽師資記』と「跋陀三蔵安心法」との前後 関係について、次のように述べている。
『楞伽師資記』は『歴代法宝記』などから激しい批判を浴びたが、その理由 は主にその祖統説にあった。これは確かに禅宗では認められないものであっ たが、その各章に述べられている禅思想そのものについては、当時におい ても十分に価値を持つものであったと考えられるから、『楞伽師資記』全体 に対する評価如何に拘わらず、その一部が別行したことは大いに考えられ ることである。16
確かに、「跋陀三蔵安心法」には『楞伽師資記』の祖統説が存在しない から、『歴代法宝記』の批判を契機として、『楞伽師資記』「求那跋陀羅章」
の一部を別行させた可能性があるが、ここには一つの難点がある。それは 即ち、浄覚の祖統説が批判された後に、『楞伽師資記』の「求那跋陀章」
をわざわざ抜粋して「跋陀三蔵安心法」を制作するような人が存在したと すれば、それは浄覚系統の人以外には有り得ないであろうが、文献上、浄 覚自身は優れた弟子を育てなかったので、そのような人の存在は想定しづ らいのである。筆者はこの点から、『楞伽師資記』「求那跋陀章」が「跋陀 三蔵安心法」に基づいて成立したと見るべきだと考える。
それを明らかにするために、まず取り上げるべきは、『楞伽師資記』の 各章の冒頭部分である。それらを掲げれば、次の如くである。
「求那跋陀羅章」第一宋朝求那跋陀羅三藏、南天竺國人、以大乘學、時號摩 訶衍。元嘉年、隨船至廣州。宋太祖迎於丹陽郡、譯出楞伽 經。王公道俗、請開禪訓……楞伽經云、諸佛心第一。我教 授法時、心不起處是也。
「達 摩 章」第二魏朝三藏法師菩提達摩、承求那跋陀羅三藏後。其達摩 禪師、志闡大乘、泛海呉越、遊洛至鄴。沙門道育惠可、奉 事五年、方誨四行。謂可曰、有楞伽經四卷、仁者依行、自 然度脫。餘廣如續高僧傳所明。17
「慧 可 章」第三齊朝鄴中沙門惠可、承達摩禪師後。其可禪師俗姓姫、
武牢人。年十四、遇達摩禪師遊化嵩洛、奉事六載、精究一 乘。附於玄理、略說修道、明心要法、直登佛果。楞伽經云、
牟尼寂靜觀、是則遠離生、是名爲不取、今世後世淨。18
「僧 璨 章」第四隋朝舒州思空山粲禪師、承可禪師後。其粲禪師罔知姓 位、不測所生。按續高僧傳曰、可後粲禪師。隱思空山、蕭 然淨坐、不出文記、祕不傳法。唯僧道信奉事粲十二年、瀉 器傳燈、一一成就。19
「道 信 章」第五唐朝蘄州雙峰山道信禪師、承粲禪師後。其信禪師再敞 禪門、宇内流布。有菩薩戒法一本、及制入道安心要方便法 門。爲有縁根熟者說、我此法要、依楞伽經諸佛心第一、又 依文殊說般若經一行三昧。20
「弘 忍 章」第六唐朝蘄州雙峰山幽居寺大師諱弘忍、承信禪師後。忍傳 法妙法、人尊時號爲東山淨門……按安州壽山和上諱賾、撰 楞伽人法志云、大師俗姓周、其先尋陽人、貫黄梅縣也……
我與神秀論楞伽經、玄理通快、必多利益。21
「神 秀 章」第七唐朝荊州玉泉寺大師諱秀、安州壽山寺大師諱賾、洛州 嵩山會善寺大師諱安……倶承忍禪師後。按安州壽山和上撰 楞伽佛人法志云……其秀禪師俗姓李、汴州尉氏人。遠渉江 上、尋思慕道、行至蘄州雙峰山忍禪師所、受得禪法。傳燈 默照、言語道斷、心行處滅、不出文記。22
「神 秀 弟 子 章」第八唐朝洛州嵩高山普寂禪師、嵩山敬賢禪師、長安蘭山義 福禪師、藍田玉山惠福禪師、並同一師學、法侶應行、倶承 大通和上後。少小出家、清淨戒行、尋師問道、遠訪禪門。
行至荊州玉泉寺、遇大通和上諱秀、蒙授禪法。諸師等奉事 大師十有餘年、豁然自證、禪珠獨照……23
従来、『楞伽師資記』が注目されたのは、「達摩章」以降の各章の内容で あって、「求那跋陀羅章」は浄覚が勝手にでっち上げたものに過ぎないと 受け止められてきた。このような見解を前提にして、『楞伽師資記』の構 成は、一般に「道信章」を軸にした前後二つの部分、即ち、最初の「求那 跋陀羅章」を除いて、
第一部分:「達摩章」から「僧璨章」に至るもの 第二部分:「道信章」から文章末尾に至るもの
というように分けられるとされてきた24。第一部分はその伝記的な記載を
『続高僧伝』に受けており、確かにその文章が引用されている。第二部分 は「道信章」に道宣が晩年に増補した「道信伝」を引かず、「弘忍章」と「神 秀章」に浄覚の師である玄賾撰の『楞伽人法志』に依拠しており、明らか に「僧璨章」以前とは異なっている。このような分類は恐らく、この二部 分が基づいた資料が上記のように相違するためと考えられる。
しかし、上記の各章を概観するに、注目すべきは、「神秀弟子章」以外 の各章においては『楞伽経』の依用が一貫しているということである(二
重線部を参照)。浄覚はまず「求那跋陀羅章」を設けて『楞伽経』の訳出 について述べ、「達摩章」において『続高僧伝』と同様に「二入四行論」
の内容を掲げつつ、そこに『楞伽経』に関する記載がないため、同書の「慧 可伝」によってこれを補った25。続いて、「慧可章」においては『楞伽経』
の「牟尼寂靜觀、是則遠離生、是名爲不取、今世後世淨」26を引用した。
また、「僧璨章」は明確には『楞伽経』に言及しないが、「蕭然淨坐、不出 文記」の句から見て、やはり『楞伽経』の伝統に関わるものと言えるであ ろう。『続高僧伝』の「法沖伝」に慧可の後継者として、粲禅師を含めて 恵禅師、盛禅師、那老師、端禅師、長蔵師、真法師、玉法師の八人を記し て、「已上並口說玄理、不出文記」27と言っている。更に、「道信章」には「求 那跋陀羅章」と同じく「依楞伽經諸佛心第一」、「弘忍章」には「我與神秀 論楞伽經、玄理通快、必多利益」、「神秀章」には「不出文記」とある。最 後の「神秀弟子章」は最も簡略なもので、浄覚による当時の禅宗の動向を 新たに加えたものであると考えられる。
このように見てくると、「求那跋陀羅章」から「神秀章」に至る各章の『楞 伽経』に関する記載は、意図的に付加、挿入されたと見ざるを得ないので あろう。『楞伽師資記』の成立や性格については検討の余地があるが、そ の構成を考える時には、これまで「求那跋陀羅章」をほとんど問題にして こなかったことは反省されるべきである。既に指摘されているように28、
『楞伽師資記』はそれ以前に存在した諸資料を集めた性格を持っているの で、「求那跋陀羅章」の場合も基づいた資料─「跋陀三蔵安心法」があっ て、それを取り込んだことも十分に考えられる。
実際のところ、『楞伽師資記』と「跋陀三蔵安心法」の文章と比べると、
前者は『楞伽経』だけではなく、『華厳経』、『諸法無行経』、『大品経』、『思 益経』、『禅決』、『維摩経』など多くの経典を引用しているばかりでなく、
前掲文章の四角で囲った部分は文献名を明記しないものの、『臥輪禅師看 心法』の「安心要法爲緣者說、所以經言、道逢良賢、途中授與、不逢良賢、
父子不傳」29、『大方等大集経』の「不以愛水漑灌業田、亦不於中種識種子
……如是比丘、我則説之名爲法行」30、『修心要論』の「如雲底日、但了然 守眞心、妄念雲盡、惠日即現。何須更多學知見、歸生死苦。一切義理及三 世之事、譬如磨鏡、塵盡自然見性」31に依拠したものと見ることができる。
これに対して、後者は極めて簡潔である。前者に見られる「跋陀三蔵安心 法」との対応部分が分散しているという点から見ても、両者の前後関係は これまで考えられてきたのとはむしろ逆で、「跋陀三蔵安心法」の存在を 前提として、『楞伽師資記』「求那跋陀羅章」が書かれたと考えるべきだと 思う。
四、「跋陀三蔵安心法」の成立について
上に述べたように、「跋陀三蔵安心法」は『楞伽師資記』「求那跋陀羅章」
の原資料として先行して成立したと考えられるから、その成立の下限は、
少なくともそれ以前でなくてはならない。『楞伽師資記』の撰述時期は不 明であるが、最後の「神秀弟子章」に列名される第八代の祖師、即ち普寂、
景賢、義福、恵福四人のうち、景賢が最も早く開元十一年(723)に入寂 したから、その完成はそれに先立つと考えるべきである32。また、その上 限については、『跋陀三蔵安心法』の作者がいったい誰であるかという問 題と関連している。
「跋陀三蔵安心法」の題名で示されているように、その作者は「跋陀三蔵」
と擬されている人物であろう。『楞伽師資記』において、浄覚は『楞伽経』
の伝統を強調するため、それを「求那跋陀羅」のことであるとするが、「跋 陀三蔵安心法」そのものにその名前が明記されているわけではないから、
本当に求那跋陀羅のものと認めうるかどうか疑問がある。歴代の僧伝資料 を探ってみると、「跋陀」と名付ける人はいく人か存在するが、最も有名 なものとしては、次の三人が挙げられる。
仏陀跋陀羅:『華厳経』や『達磨多羅禅経』の訳者
僧伽跋陀羅:『善見毘婆沙律』の訳者 求那跋陀羅:『勝鬘経』や『楞伽経』の訳者33
彼らはいずれも南北朝時代(420−589)に中国に来た外国出身の訳経僧 であるが、「求那跋陀羅」については、浄覚が本書を『楞伽師資記』「求那 跋陀羅章」に挿入したのは、楞伽主義を宣揚しようとする意図によるので あり、それ以前については明らかでない。また、「僧伽跋陀羅」は禅宗と はあまりに関係がないため、本書の作者の可能性はないと言ってよい。従っ て、残る可能性は「仏陀跋陀羅」しかない。周知のように、慧遠(334−
416)が『達磨多羅禅経』のために撰述した「禅経の序」は、初期禅宗の 祖統説に大きな影響を与えた。この点からは「仏陀跋陀羅」が本書の作者 である可能性は否定できないが、「跋陀」を「仏陀跋陀羅」の略とするこ とは用例がなく、現時点では証拠の不足より、彼を決定することが考えら れない。
実は、この問題を解く鍵は『続高僧伝』の「斎鄴西竜山云門寺釈僧稠伝」
にある。即ち、そこで道宣(596−667)が二箇所で「仏陀禅師」を「跋陀」
と略称している。このような用例は、裴璀撰の『皇唐嵩岳少林寺碑』34や 神清撰の『北山録』35にも見られる。従って、仏陀禅師の具名は、恐らく「仏 陀跋陀」であろうと考えられる36。これに関して、更に注目すべきは、仏 陀禅師と僧稠との関係であるということである。『続高僧伝』の「僧稠伝」
によれば、
釋僧稠姓孫、元出昌黎、末居鉅鹿之癭陶焉……時年二十有八、投鉅鏕鏕景明 寺僧寔法師而出家。落髮甫爾、便尋經論、悲慶交并、識神厲勇、因發五願。
所謂財法通辯、及以四大、常敬三寶、普福四恩。初從道房禪師受行止觀、
房即跋陀之神足也。既受禪法、北遊定州嘉魚山。斂念久之、全無攝證、便 欲出山、誦涅槃經。忽遇一僧言從泰岳來、稠以情告。彼遂苦勸修禪愼無他志、
由一切含靈皆有初地味禪、要必繋緣無求不遂。乃從之、旬日攝心果然得定。
當依涅槃聖行四念處法、乃至眠夢覺見都無慾想。歳居五夏、又詣趙州障供 山道明禪師受十六特勝法……稠以死要心、因證深定。九日不起、後從定覺、
情想澄然、究略世間、全無樂者。便詣少林寺祖師三藏、呈己所證。跋陀曰、
自葱嶺已東禪學之最、汝其人矣。乃更授深要、即住嵩岳寺。37
僧稠(480−560)は北魏正始四年(507)、鉅鹿(今河北省内)の景明寺 で僧寔法師のもとで出家し、最初に道房禅師から「止観」の法を受けて修 行を行ったが、証得することができなかった。しかし、泰山から来たある 僧と会い、その勧めに従って、『涅槃経』「聖行品」の「四念処法」よって 修行し、ようやく禅定を得た。その後、道明禅師から更に「十六特勝法」
を受け、何年間の修行を経て「深定」を獲得し、次いで嵩山の少林寺に赴 いて、その開創者の仏陀禅師(跋陀)に参謁した。仏陀禅師は「葱嶺より 已東、禅学の最たるは汝其の人なり」と賛嘆したという。つまり、仏陀禅 師と僧稠との関係は、道房を経由して「仏陀禅師─道房─僧稠」とな る38。
よく知られているように、禅宗が成立する前に、習禅の系統には「達摩 系統」と「僧稠系統」が存在していた。既に、道宣は『続高僧伝』の「習 禅篇」の総論に、
觀彼兩宗、即乘之二軌也。稠懷念處、清範可崇。摩法虛宗、玄旨幽賾。可 崇則情事易顯、幽賾則理性難通、所以物得其筌。39
僧稠は「念処」を中心とし、達摩の法は「虚宗」であると比較すると共に、
両者を「乘之二軌」として高く評価しているが、両系統には顕著な相違が 窺える。具体的に言えば、道宣は『続高僧伝』の「達摩伝」において、
菩提達摩、南天竺婆羅門種。神慧疎朗、聞皆曉悟、志存大乘、冥心虛寂。
通微徹數、定學高之、悲此邊隅、以法相導。初達宋境南越、末又北度至魏、
隨其所止、誨以禪教。于時合國盛弘講授、乍聞定法多生譏謗。有道育慧可 此二沙門、年雖在後而鋭志高遠、初逢法將知道有歸。尋親事之、經四五載、
給供諮接、感其精誠、誨以眞法。如是安心謂壁觀也。如是發行謂四法也。
如是順物教護譏嫌。如是方便教令不著。然則入道多途要唯二種、謂理行 也。40
達摩の禅を「安心」「発行」「順物」「方便」の四つとし、それぞれ「壁観」
「四行」「教護譏嫌」「教令不著」に配当して、「理入」と「行入」に纏めら れている。これを『二入四行論』の本文と対照すれば、「安心」が「理入」
に、「発行」が「行入」に当たることは一目瞭然であり、「順物」を「行入」
の「報怨行」「随縁行」とし、「方便」を「無所求行」「称法行」として理 解していたと考えられている41。
これに対して、『続高僧伝』の「達摩伝」を承けた浄覚は、『楞伽師資記』
の「達磨章」において、次のように述べている。
略辨大乘入道四行弟子曇林序。法師者西域南天竺國人、是大婆羅門國王第 三之子也。神惠疎朗、聞皆曉晤、志存摩訶衍道。故捨素從緇紹隆聖種、冥 心虛寂通鑒世事、内外倶明徳超世表。悲悔邊隅正教陵替、遂能遠渉山海遊 化漢魏。亡心寂默之士莫不歸信、取相存見之流乃生譏謗。于時、唯有道育 惠可此二沙門、年雖後生俊志高遠、幸逢法師事之數載。虔恭諮啓、善蒙師意、
法師感其精誠、誨以眞道。如是安心、如是發行、如是順物、如是方便、此 是大乘安心之法、令無錯謬。如是安心者壁觀、如是發行者四行、如是順物 者防護譏、如是方便者遣其不著。此略序所由、意在後文。42
ここでは、浄覚が「安心」「発行」「順物」「方便」を全て「大乘安心之法」
とし、「安心」が達摩禅における極めて重要な、あるいは唯一の重要な教 義であったと考えている。『楞伽師資記』のいわゆる「略弁大乗入道四行 弟子曇林序」は、『続高僧伝』とパラレルな記述が見られるが、道宣はそ
の撰者の「曇林」や達摩の禅を「大乘安心之法」とすることについて何も 記していないのである。この「曇林序」は、敦煌本『二入四行論長巻子』
にも存在しているが、現存する諸本はいずれも冒頭の部分を欠くから、曇 林がその序の選者であるかどうか確認することはできない。恐らく、浄覚 は『楞伽師資記』の「達摩伝」を撰述する際に、『続高僧伝』以外、「曇林 序」が付された『二入四行論』を参考したと推測される。こうした浄覚の 意図は、達摩の禅を「安心」に帰そうとしたのであろう。というのは、浄 覚が「求那跋陀羅」から「達摩」への伝承を説くため、求那跋陀羅の出身 地「中天竺」43を達摩と同じく「南天竺」に変えたのみならず、更に、「二 入四行論」の安心は、「求那跋陀章」の「安心」に由来するものと見做そ うとしたことが考えられるからである。
一方、僧稠の禅については、道宣は小乗禅観の範疇に属するものと捉え ているが、『続高僧伝』に「稠は以って仏法を要務し、志は修心に在る」44 とあることから、僧稠の禅における「心」の重要性が窺える。更に重要な のは、敦煌から出土した資料に僧稠の著作とされる『稠禅師意』、『稠禅師 薬方』、『大乗心行論』などがある。これらによれば、従来、僧稠の小乗禅 観とは異なって、大乗的な要素を持っていることが指摘されている45。特 に、『稠禅師意』においては、次の一節に注目すべきである。
問、大乘安心入道之法云何。答曰、欲修大乘之道、先當安心。凡安心之法、
一切不安名眞安心。言安者頓止諸緣、妄想永息、放捨身心。虛壑其懷、不 緣而照、起作恒寂。種種動靜音聲刺、莫嫌爲妨……夫安心者、要須常見本 清淨心、亦不可見。如是不可見、心常須現前。雖常現前、而無一物可得。
非但無一物可得、乃至少許相貌、亦不可得。雖少許相貌、亦不可得。如是 行處、分明了了、不被一切言教惑亂、而不捨此心。46
ここに見られる「大乘之道」を「安心」とする説は、正しく「跋陀三蔵 安心法」の思想と共通しているのである。このことから、僧稠の禅におけ
る「安心」の法は、仏陀禅師(跋陀)から受けたものではないかと推測さ れる。もしそうであるなら、「跋陀三蔵安心法」は恐らく仏陀禅師自身に よるもの、あるいは僧稠の系統によって制作されたものであろう。
ところで、浄覚と僧稠との関係も注意される。『楞伽師資記』の「浄覚 自序」によれば47、浄覚は大足元年(701)に東都洛陽で神秀と出会って 禅法を受け、景竜二年(708)玄賾の門下に入り、十年間以上両京の間に 往来して玄賾の印可を得たことが知られるが、神秀が入寂した神竜二年
(706)から玄賾と出会う景竜二年までの二年間については不明である。た だ、王維(701−761)撰の『大唐大安国寺故大德浄覚師塔銘』には、
禪師法名淨覺、俗姓韋氏、孝和皇帝庶人之弟也。中宗之時……入太行山削 髮受具、尋某禪師故蘭若居焉。猛虎舐足、毒蛇熏體、山神獻果、天女散花。
澹爾宴安、曾無喜懼、先有涸泉枯柏、至是布葉跳波。東魏神泉、應焚香而 忽湧、北天衆果、候飛錫而還生。禪枝必復之徵、法水再興之象。聞東京有 賾大師、乃脫履戸前、摳衣座下。48
と述べられていることからすれば、浄覚はこの間に太行山(河南省内)に 入って出家して戒律を受け、ある禅師の故居に止まったことが分かる。ま た、ここで言う「某禅師」が誰であるかについては、浄覚撰の『注般若波 羅蜜多心経』に付されている李知非の序文によって明らかになる。
其禪師(淨覺)年二十三、去神龍元年、在懷州太行山。稠禪師以錫杖解虎 鬪處修道、居此山注金剛般若理鏡一卷。其靈泉、號名般若泉也。古今相傳 高歡之時、稠禪師於太行山靈泉、見兩虎鬪爭一鹿以錫杖分之、兩虎伏地不 敢爭也。稠禪師涅槃以後、數百年無人住持、靈泉涸竭、栢樹枯朽。自從大 唐淨覺禪師尋古賢之跡、再修葺禪宇、掃灑未經三日、涸泉爲之湧出、朽栢 爲之再茂也。49
即ち、浄覚は神竜元年(705)二十三歳の時に、既に「僧稠」が住した 太行山で修行して禅宇を再興したという。このことは、浄覚が僧稠に対し て尊敬の念を抱いていたことを示すものであろう。つまり、浄覚は達摩系 統のみならず、僧稠の遺響も強く受けていたと考えられる。外にも、僧稠 の跡を慕って太行山に入った人として、慧安に学んだ「鄴都円寂」があ る50。彼と浄覚との関係は不明であるが、同じく僧稠から強い感銘を受け ていたことが知られる。
いずれにせよ、浄覚が太行山に住した時は、まだ師の玄賾と出会えず、『楞 伽師資記』も撰述していない。僧稠系統の影響が強い太行山で、「跋陀三 蔵安心法」を得たということは十分に想定できるであろう。その後、玄賾 の『楞伽人法志』の影響を受けて、浄覚は楞伽主義を宣揚するため、『楞 伽経』の訳者、求那跋陀羅を禅宗の初祖に据えて、既に入手した「跋陀三 蔵安心法」を求那跋陀羅から達摩に至る相承の根拠として、「跋陀三蔵」
を「求那跋陀羅」に改変したと考えられるのである。
五、「跋陀三蔵安心法」の流布とその影響
現在知られる限りでは、中国や朝鮮半島で編輯されたいかなる目録にも、
「跋陀三蔵安心法」に関する記載は一切存在しないばかりか、日本の将来 目録や正倉院の写経関係文書にも、その名は全く見ることができない。た だ、永明延寿(904−975)撰の『宗鏡録』(961)の引用から、十世紀まで には「跋陀三蔵安心法」が中国本土で流布していたことが確認される。
跋陀三藏云、理心者、心非理外、理非心外、心即是理、理即是心、心理平等、
名之爲理。理照能明、名之爲心。覺心理平等、名之爲佛。心會實性者、不 見生死涅槃有別、凡聖無異、境智一如、理事倶融、眞俗齊觀。圓通無礙、
名修大道。51
ここでは、「跋陀三蔵云」という形で引用が行われており、『楞伽師資記』
から引用したと見做すことはできず、「跋陀三蔵安心法」に基づいたと考 えられる。また、「跋陀三蔵安心法」の文章に類似したものは、慧光集の『大 乗開心顕性頓悟真宗論』にも見られる。
六波羅蜜者、亦云六度。布施持戒忍辱精進禪定智慧等、對其六根。六根清淨、
六道不生。内外無著、自然布施、即攝檀波羅蜜。善惡平等、倶不可得、即 攝尸波羅蜜。境智和會、違害永盡、即攝忍辱波羅蜜。大寂不動、萬行自然、
攝精進波羅蜜。繁興妙寂、法身自現、攝禪波羅蜜。妙寂開明、無有變異、
究竟常住、不著一切、攝般若波羅蜜、是名六波羅蜜。52
この六波羅蜜に関する記述は、明らかに「跋陀三蔵安心法」と共通する が、ほぼ同文が『楞伽師資記』にも見えるから、慧光が用いたものがその いずれであるかを明確にすることはできない。
一方、「跋陀三蔵安心法」の将来者や日本における流布、その影響など を考える際に、まず伊吹氏の論考を確認する必要がある。上に述べたよう に、氏は円仁の『灌頂三昧耶戒』の序文に、
夫欲修身愼行、要先捨惡進善。捨惡者調身口意、進善者專修戒定慧。慧者 即一切陀羅尼門、定者即是一切三摩地門。欲入此二門者、要藉正戒以爲根本。
而是三門如世伊字、闕一不可。自有古先大徳、則有求那跋陀羅三藏達磨、
師師傳授、唯詮三摩地門。又三藏瞿多三藏留支、唯集陀羅尼門。近有三藏 善無畏與金剛菩提流志、即天竺高徳此土傳燈、鳩此三門歸乎一揆。53
と説かれていることに基づいて、『灌頂三昧耶戒』に見られる「求那跋陀 羅─菩提達摩」の師弟関係を「跋陀三蔵安心法」に説くものと推定し、「跋 陀三蔵安心法」の日本渡来は円仁以前に遡るとし、最澄か円仁のいずれか が齎したと考えた。また、安然(841?−915?)著の『真言宗教時義』巻
四54や『観中院撰定事業灌頂式具足支分』第三55に、『灌頂三昧耶戒』の序 文を二回に渡って引用しているから、「跋陀三蔵安心法」は源信以外、円 仁や安然にも影響を与えたと判断された56。しかし、上に述べたように、「跋 陀三蔵安心法」には「求那跋陀羅─菩提達摩」の系譜が存在していないか ら、それが円仁や安然など日本天台宗の学匠に影響を与えたとは言えなく なる。ただ、源信が「跋陀三蔵安心法」を用いたのは確かであり、彼に与 えた影響は否定できない。
ところで、円仁が用いた「求那跋陀羅─菩提達摩」の祖統説は、どう考 えるべきであろうか。少なくとも、現在まで知られている他のいかなる文 献も、「求那跋陀羅」に禅宗諸祖としての資格を与えてはいないから、浄 覚の独創と言ってよいであろう。それに関しては、円行(799−852)の『霊 厳寺和尚請来法門道具等目録』にある次の記述に注目すべきである。
般若心經註一卷 淨覺師註57
これによれば、円行は浄覚の『注般若波羅蜜多心経』を日本に齎したこ とが知られる。残念ながら、現存していないようであるが、敦煌出土の同 書には李知非の序文があり、その中で「求那跋陀羅─菩提達摩」の系譜が 述べられているということである。
古禪訓曰、宋太祖之時、求那跋陀羅三藏禪師以楞伽傳燈、起自南天竺國、
名曰南宗。次傳菩提達摩禪師、次傳可禪師、次傳粲禪師、次傳蘄州東山道 信禪師、遠近咸稱東山法門也。次傳忍大師、次傳秀禪師、道安禪師、賾禪師。
此三大師、同一師學、俱忍之弟子也。58
この記述は浄覚が唱えた祖統説と一致するから、李知非がその伝灯の系 譜を受けたことは明らかである。このことから、円行の時代には、このよ うな禅宗の祖統説が日本に伝えられていたと考えられる。円仁が『灌頂三
昧耶戒』で依拠した祖統説は、浄覚の『注般若波羅蜜多心経』によるので あろう。当然のことながら、円仁自身も入唐したことがあり、中国でこの 祖統説を知った可能性も排除することができない。これについては、更な る検討が必要である。
最後に、「跋陀三蔵安心法」の将来者であるが、それは入唐八家のいず れかと考えるべきであろう。もっとも、彼らの目録のいずれにも記載され ていないが、思うに、「跋陀三蔵安心法」は非常に短いものであるため、
私的なものとして天皇に呈する目録に載せるに及ばないと考えられたため であろう。
六、「誌公和尚十四科頌」と宝誌
宝誌(425−514)は、六朝の宋代から梁代にかけて活躍した神異の僧侶 として高名であり、特に後世の禅宗で重んじられていた。彼の伝記につい て考える場合、まず基づくべきは、陸倕倕(470−526)撰の「誌法師墓誌銘」
と、慧皎(497−554)撰の『梁高僧伝』巻十「梁京師保誌伝」である59。 なお、既に牧田諦亮氏は「宝誌和尚攷」60を発表し、宝誌伝記の神異化の 過程、また宝誌と観音信仰との関わりを中心として論じているが、宝誌と 禅宗との関係については全く触れてはいない。ここでは、主に新出の石山 寺本「誌公和尚十四科頌」(以下、「十四科頌」)を手掛かりに、宝誌を作 者とする禅関係文献の意味について考えてみたい。
それに先立って、まず石山寺本「十四科頌」と既存諸本の関係について 論じておきたい。上に述べたように、「十四科頌」の異本として『景徳伝 灯録』本、『宗門聯灯会要』本、『禅門諸祖師偈頌』本がある。これらの諸 本を比較すると、『宗門聯灯会要』本と『禅門諸祖師偈頌』本は『景徳伝 灯録』本にその本文が極めて近いため、三本間の密接な関係を想定するこ とできる。一方、石山寺本は他の三本と文字の出入りが極めて多く、更に
「十四科の名称」にも種々の相違が見られる61。
異本 十四科頌の名称
石山寺本 ( 1 )ナシ ( 2 )持犯不二 ( 3 )理本不二 ( 4 )事理不二
( 5 )静乱不二 ( 6 )善悪不二 ( 7 )色空不二 ( 8 )生死不二
( 9 )断常不二 (10)真俗不二 (11)解縛不二 (12)天堂地獄不二
(13)運用不二 (14)迷悟不二
他の三本 ( 1 )菩提煩悩不二 ( 2 )持犯不二 ( 3 )仏与衆生不二 ( 4 )事理不二
( 5 )静乱不二 ( 6 )善悪不二 ( 7 )色空不二 ( 8 )生死不二
( 9 )断除不二 (10)真俗不二 (11)解縛不二 (12)境照不二
(13)運用無礙 (14)迷悟不二 ※( 4 )事理=理事㊪
この表に見るように、『景徳伝灯録』本と『宗門聯灯会要』本、『禅門諸 祖師偈頌』本は完全に一致する。石山寺本の( 1 )は欠落しており、科の 名称が確認できないが、( 3 )( 9 )(12)(13)は、石山寺本と他の三本が 不同である。また、本文の対照によって、両者の相違は石山寺本が当初の 原型に近いものであり、他の三本が転写されたうちに生じた比較的新しい ものと見てよいかと思われる。いずれにせよ、科名や文字の相違から、石 山寺本と他の三本は、同系統ではないと判断することができる。石山寺本 は現存する諸本の中で最も古く、その発見は、宝誌撰とされる諸著作の成 立に重要な情報を提供するものと言えよう。
現存する宝誌の著作は、文献の性格により、概ね「讖詩類」と「仏教義 理詩類」という二類に分けられている62。「讖詩類」は『先秦漢魏晋南北 朝詩』「梁詩」巻三十、『全梁詩』巻七十一、『古詩紀』巻百五十六に収め らており、全部で八首が確認されるが63、内容的には禅宗と無関係なので、
ここでは議論の対象としない。一方、「仏教義理詩類」は「大乗讃」、「十二 時頌」、「十四科頌」、「志公薬方」64、敦煌出土の「答梁武帝問如何修道」65 があり、いずれも禅仏教に関係するものと考えられる。
今問題の「十四科頌」等文献の成立については、『景徳伝灯録』巻 二十七の「金陵宝誌禅師伝」において、次のように述べられている。
又製大乘賛二十四首、盛行於世。餘諸辭句與夫禪宗旨趣冥會、略録十首及 師製十二時頌、編于別卷。66
LJ I
これによれば、「大乗讃」はもともと二十四首からなり、道原はこの 二十四首から禅宗の宗旨と合致する十首を抽き出し、それを「十二時頌」
と共に、別巻に収録していることが知られる67。ここでは「十四科頌」に は言及しないが、別巻第二十九に「大乗讃」、「十二時頌」、「十四科頌」の 順に収められていることから、恐らくは道原が「宝誌伝」を著した後、「十四 科頌」を得たのではないかと推測される。
また、禅関係の文献を調べてみると、宗密(780−841)撰の『円覚経大 疏』や『円覚経大疏鈔』、『円覚経略疏鈔』68、裴休(787−860)編の『伝 心法要』や『宛陵録』69、静・筠編の『祖堂集』、延寿(904−975)撰の『宗 鏡録』などにも宝誌の言葉の引用を見出すことができる。特に『祖堂集』
には「十二時頌」と「大乗讃」70、『宗鏡録』には「十四科頌」71の引用がある。
「十四科頌」の依用は「十二時頌」や「大乗讃」より遅いが、石山寺本「十四 科頌」の書写年代や渡来時期から、その出現は、ほぼ同時期であると推測 される。なお、恵運(798−869)や円珍(814−891)の『将来目録』に「志 公歌一卷」72とあり、これも上述のある作品の異本、あるいは同類なもの であろう。このように、唐末から五代にかけて宝誌に帰されたものが禅文 献にしばしば引かれていたことが知られる。
一方、初期禅宗のどの一派が宝誌の著作を利用しようとしたかについて は、従来から様々な意見が提出されている。例えば、それらの作品を弘忍 と神秀時代の思想動向を反映したものとする説がある一方で73、洪州宗の 思想を表すための馬祖門人の手になるものとする説もある74。しかし、当 時の禅宗各派の依用状況から見た場合、特定の一派に限定するのは難しい。
上述の宗密(神会派)や裴休、静・筠(馬祖派)のほか、『宋高僧伝』の「唐 天台山仏窟巌遺則伝」によれば、牛頭派の惟則(751−830)も「爲寶誌釋 題二十四章」75としていることが知られる。
では、当時の禅宗の人々は、なぜ宝誌の著作を利用しようとしたのであ ろうか。それは思うに、達摩と梁武帝の説話や宝誌の影響力などと密接な 関係があるのである。よく知られているように、梁武帝が達摩の伝記に登
場するのは、神会の『南宗定是非論』(732)に始まるが、『歴代法宝記』(774)、
『宝林伝』(801)、『六祖壇経』、『内証仏法相承血脈譜』(819)、『祖堂集』(952)、
『景徳伝灯録』(1004)、『伝法正宗記』(1061)などにも採用され、その記 述には様々な変遷がある76。その中で、『宝林伝』と『祖堂集』の「達摩伝」
に宝誌が登場するのは、その変遷の一つである。『宝林伝』巻八では「達 摩と梁武帝の無功徳問答」を述べた後、次のような後日談が記されている。
後釋寶志問梁武帝曰、昔聞達摩至國、大王何不敬仰留住。武帝曰、未知此 人志在上乘、意趣沖遠凡情不冊惻(測)、因茲致謗故不留耳。寶志曰、王雖 遇而不遇。武帝曰、何人。寶志曰、此是傳佛心大士、乃觀音聖人乎。王乃 良久驚恨。77
ここで注目すべきは、宝誌が達摩を観音菩薩と考えたとされていること である。牧田氏の論考によれば78、梁の時代から宝誌こそが菩薩であると いう話が流布し、唐代宗の大暦九年(774)の頃に十一面観音であるとす る説が定型されたことが知られる。つまり、達摩よりは宝誌こそが観音の 化身とされていたのである79。このように観音が宝誌から達摩へと変化し たのは、むしろ宝誌の影響力を裏付けるものであろう。宝誌が達摩と同時 代の名僧であるため、禅宗の人々が禅の立場を強調する際に、彼の影響力 を借りて達摩の地位を顕彰しようとしたと考えられるのである。
宝誌の存在を利用しようとする動きは、禅宗に限られるものではなかっ た。『続高僧伝』の「陳楊都興皇寺釈法朗伝」によれば80、三論宗の第三 祖である法朗(507−581)の出現を宝誌が予言したという。これも宝誌の 影響力の強さを裏づけるものと言えよう。これら宝誌に帰された一連の作 品が、本当に宝誌その人のものかどうか、史実的にはもとより問題である が、初期禅宗の展開過程で、達摩系の人々に歓迎されたことは確かである。
おわりに
以上、新出の『跋陀三蔵安心法』をめぐって様々に論じてきたが、その 内容を纏めれば、およそ次のようになる。
1 .石山寺蔵『跋陀三蔵安心法』は、「跋陀三蔵安心法」と「誌公和尚十四 科頌」の二部分によりなるが、その外題は前者のみに該当する。後者 の内容は『景徳伝灯録』、『宗門聯灯会要』、『禅門諸祖師偈頌』にも見 られる。
2 .「跋陀三蔵安心法」は、『楞伽師資記』と共通する内容を持つが、『楞伽 師資記』は先行資料の集成といった性格を持っていること、「跋陀三蔵 安心法」の文は首尾一貫していることから、『楞伽師資記』「求那跋陀 羅章」は、「跋陀三蔵安心法」に基づいて書かれたと考えられる。
3 .「跋陀三蔵安心法」の作者は、その標題に示される「跋陀三蔵」という 人物であり、それは本来浄覚が言う「求那跋陀羅」ではなく、「仏陀禅 師(跋陀)」を指すものであったと考えられる。また、浄覚と僧稠との 関係からも、「跋陀三蔵安心法」は「仏陀禅師─僧稠」の系統の思想を 前提に成立し、その成立年代はかなり古いと見なくてはならない。
4 .楞伽主義を宣揚した浄覚は、『楞伽師資記』「求那跋陀羅章」を撰述す るに当たって、『楞伽経』の訳者、求那跋陀羅を禅宗の初祖とされる菩 提達摩の前に据えて、「跋陀三蔵安心法」を達摩の思想の根拠として、「跋 陀三蔵(仏陀禅師)」を「求那跋陀羅」に改変したのである。
5 .延寿の『宗鏡録』の引用から、十世紀には「跋陀三蔵安心法」が中国 本土に流布していたことが知られるが、その影響は『楞伽師資記』と『宗 鏡録』に確認されるのみであり、また、『大乗頓悟真宗論』もそれに依っ た可能性があるが確定できない。
6 .一方、日本では源信が『菩提心義要文』において「跋陀三蔵安心法」
を用いたが、そこには「求那跋陀羅─菩提達摩」の系譜が存在しない
から、円仁も『灌頂三昧耶戒』で「跋陀三蔵安心法」を用いたという 説は妥当ではない。恐らくは、日本に伝えられた同じ系譜を持つ浄覚 の『注般若波羅蜜多心経』の序文によったのである。
7 .『跋陀三蔵安心法』の将来者は、入唐八家の一人と考えるべきであるが、
彼らの目録にはこれに関する記載は存在しない。それはこの文献が極 めて短い書物であったため、私的なもので、天皇に上呈する目録に載 せる必要はないと考えられたためであろう。
8 .石山寺本「十四科頌」は、現存諸本の中で最古のものであり、他の宝 誌を作者とする作品と共に、唐の中晩期に出現してから、しばしば禅 文献に引用されていた。その理由は禅宗各派の人々が禅の立場を強調 するため、宝誌の影響力を借りようとしたのであろうと考えられる。
【注】
1 「石山寺校倉聖教」は、平安時代前期から院政期を中心とする総数1926点を 数え、石山寺に伝来した諸種の聖教の中で最も重要なものとして、早くか らその価値が知られている。そのため、石山寺文化財綜合調査団により調 査が行われ、『石山寺の研究』(全五巻、法蔵館、1978−1992年)が刊行さ れて、その全貌が明らかになったものである。
2 伊吹敦「『楞伽師資記』と『跋陀三蔵安心法』─その日本への将来と天台宗へ の影響」、『東洋思想文化』4 、2017年、69−70頁を参照。
3 石山寺文化財綜合調査団編『石山寺の研究:校倉聖教・古文書篇』、法蔵館、
1981年、447頁。
4 前掲「『楞伽師資記』と『跋陀三蔵安心法』─その日本への将来と天台宗への 影響」、68頁。
5 『大正蔵』51、450頁上−451頁下。
6 『続蔵』2 B− 9 、475頁下−477頁下。
7 『続蔵』2−21、467頁下−469頁中。本書の成立については、椎名宏雄「『禅 門諸祖師偈頌』の文献的考察」(田中良昭博士古稀記念論集刊行会編『禅学 研究の諸相:田中良昭博士古稀記念論集』、大東出版社、2003年、221−242頁)
を参照。この論文によって、本書は『続蔵』本以外、早稲田大学に所蔵され る現存最古の五山版の存在が知られる。その後、椎名氏は『五山版中国禅
籍叢刊』第十一巻「詩文・詩話」(臨川書店、2014年、43−45頁)に、この 五山版の写真を掲載した。
8 伊吹敦「最澄が伝えた初期禅宗文献について」、『禅文化研究所紀要』23、
1997年、146−150を参照。
9 『菩提心義要文』は長らく散逸していたが、1968年に佐藤哲英氏によって発 見され、「新出の源信記『菩提心義要文』の研究」(『龍谷大学仏教文化研究 所紀要』7 、1968年)で初めて紹介された。ただ、この写本(藤岡新三私蔵)
は巻首を欠くため、全体の内容を知ることができない。その後、小山昌純 氏は「源信記『菩提心義要文』の散逸部分に関する考察─高山寺所蔵の院 政期写本に基づいて」(『印度学仏教学研究』54−2 、2006年)で、新たな高 山寺本を紹介すると共に、両写本の比較によって、高山寺本は本文的に藤 岡本と一致し、藤岡本で欠落していた部分が具わっていることを明らかに した。更に、小山氏は高山寺本に「已上初志發心。此論中……」とあるこ とに基づいて、本書の巻首に「初志発心」の一節があることを指摘した。
10 前掲「『楞伽師資記』と『跋陀三蔵安心法』─その日本への将来と天台宗への 影響」、85−88頁。
11 天台宗典編纂所編纂『続天台宗全書』密教 3 、春秋社、1990年、207頁下−
208頁上。
12 柳田聖山『初期の禅史Ⅰ』、筑摩書店、1971年、93−112頁。
13 『楞伽師資記』に「自宋朝以來、大徳禪師代代相承、起自宋求那跋陀羅三藏、
歴代傳燈、至于唐朝、惣當八代、得道獲果、有二十四人也」(前掲『初期の 禅史Ⅰ』、321頁)とあり、二十四人とは、求那跋陀羅、達摩とその弟子の 慧可、道育、曇林三人、僧璨、道信、弘忍とその弟子の神秀、玄賾などの 十一人、神秀の弟子普寂、敬賢、義福、恵福四人、及び浄覚を加えたもの であろう。
14 柳田聖山『初期の禅史Ⅱ』、筑摩書店、1976年、59−60頁。
15 このことは、上山大峻氏(「チベット訳からみた『楞伽師資記』成立の問題 点」、『印度学仏教学研究』21−2 、1973年)や、沖本克己氏(「『楞伽師資記』
の研究─蔵漢テキストの校訂および蔵文和訳 1 、 2 」、『花園大学研究紀要』
9 、『禅文化研究所紀要』11、1978−1979年)がチベット語訳の存在を紹介し、
吉田豊氏(「ソグド語訳『楞伽師資記』と関連する問題について」、『東方学』
133、2017年)がソグド語『楞伽師資記』を紹介したことによって、その過 去における盛行の様子を窺うことができる。
16 前掲「『楞伽師資記』と『跋陀三蔵安心法』─その日本への将来と天台宗への 影響」、85頁。
17 前掲『初期の禅史Ⅰ』、127頁。
18 同上、143頁。
19 同上、167頁。
20 同上、186頁。
21 同上、268−273頁。
22 同上、295−298頁。
23 同上、320頁。
24 柳田聖山『初期禅宗史書の研究』柳田聖山集第六巻、法蔵館、2000年、62
−63頁を参照。
25 「慧可伝」に「初達摩禪師以四卷楞伽授可曰、我觀漢地惟有此經、仁者依行、
自得度世」(『大正蔵』50、552頁中)とある。
26 『大正蔵』16、480頁中。
27 『大正蔵』50、666頁中。
28 前掲『初期禅宗史書の研究』、74−84頁。なお、この点については、拙稿「『楞 伽師資記』の依用文献について─新出石山寺蔵『跋陀三蔵安心法』を手掛 かりに」(『日本印度学仏教研究』69、2020年、近刊)を参照。
29 鈴木大拙『禅思想史研究第二』鈴木大拙全集第二巻、岩波書店、2000年、
452頁。なお、この句は『究竟大悲経』巻二に「若逢良賢、途中授與、若不 逢賢、父子不傳」(『大正蔵』85、1370頁中)とあるが、柳田氏が指摘された ように、『楞伽師資記』の引用は『臥輪禅師看心法』によったのである(前 掲『初期禅宗史書の研究』、67−68頁)。
30 『大正蔵』13、157頁下。なお、この句は慧思(515−577)撰の『諸法無諍三 昧法門』巻上に「不以愛水洗業田、不於中種識種子……比丘如是觀身心、佛 説是人眞法行」(『大正蔵』46、628頁下)とあるが、『楞伽師資記』の引用 は恐らく直接に『大方等大集経』によったと思われる。
31 田中良昭『敦煌禅宗文献の研究第二』、大東出版社、2009年、51頁を参照。
なお、この事実を初めて指摘した鈴木大拙氏は、『修心要論』が『楞伽資記』
に基づいたと解したが(前掲『禅思想史研究第二』、292−297頁)、関口真大 氏以降、その関係を逆とするのが通説となっている(同『禅宗思想史』、山 喜房仏書林、1964年、53−55頁)。
32 『嵩山会善寺故景賢大師身塔石記』に「開元十一年龍集癸亥歳八月、在嵩山