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明治初期における公会計研究

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明治初期における公会計研究

-複式簿記の揺籃-

目 次 序 章

第1節 研究の背景と目的 第2節 論文の構成

【第Ⅰ部 明治初期公会計の複式簿記導入】

第1章 明治以前のわが国の会計

第2章 明治政府の樹立と複式簿記 第1節 明治維新と近代化

第2節 岩倉使節団と「明治6年の政変」

第3章 造幣寮の複式簿記

第1節 造幣寮の建設とお雇い外国人 第2節 ブラガの造幣寮簿記

第3節 三島為嗣『造幣簿記之法』

第4節 ブラガの簿記がわが国に与えた影響

第4章 明治初期公会計と複式簿記 第1節 大蔵省の創設

第2節 大蔵省出納条例 第3節 計算簿記条例 第4節 会計検査院の創設 第5節 明治14年会計法

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【第Ⅱ部 「明治14年の政変」とそれ以後の複式簿記】

第5章 「明治14年の政変」

第1節 政変前の状況

第2節 開拓史官有物払下げ事件 第3節 政変の概要

第4節 政変の本質と複式簿記

第6章 政変後の公会計制度

第7章 大日本帝国憲法と会計法 第1節 大日本帝国憲法の制定 第2節 明治会計法の制定

結 章

第1節 第Ⅰ部のまとめ 第2節 第Ⅱ部のまとめ 第3節 総括及び今後の課題

【参考資料】登場人物略歴

【参考文献】

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3 序 章

第1節 研究の背景と目的

2001(平成 13)年に設立された政策シンクタンクである RIETI(独立行政法人経済産業

研究所)は、「公会計とは、利益の獲得を目的とせず、または、利益の多寡が成果の評価 基準とはならない公共部門における経済主体の全般(中央政府、地方公共団体、特殊法人 等)を対象とする会計技術・手法を意味する。」と定義づけている。しかし、本研究で取 り扱う公会計は、明治元(1868)年に樹立された明治新政府における公会計で、換言すれ ば封建主義から近代化へ転換していく過程で行われた明治国家の公会計であり、当然こ の公会計の定義がそのまま当てはまるものではない。明治初期の公会計では、「財政」と

「会計」の用語の使い分けが判然としておらず、「財政」というべき場合にも「会計」が 用いられることが多かった。大蔵省編集の昭和財政史では当時の「会計」について次の ように述べている。

『大日本帝国憲法では「会計」の意味は広く解釈され、新憲法の「財政」の章に相当 するものが「会計」の章に掲げられている。現在では経理手続を意味する「会計」が、

当時では財政全般を指称したことは、行政内部の予算執行を規制する会計制度がまず形 成され、それが財政制度全面に及んでいった歴史的過程を反映しているものといえよ う。』1

従って、本研究で取り扱う明治初期公会計の複式簿記導入史は、表裏一体となった会 計史と財政史、さらには政治史との関連を常に意識することになる。また、本研究でい う複式簿記は、明治になってわが国に輸入された記帳法のことで、明治以前に行われて いた大福帳形式による和式帳合とは一線を画している。この複式簿記は、中世のイタリ アを発祥としてヨーロッパに広まっていたもので、明治政府のお雇い外国人たちによっ て、わが国に持ち込まれたものである。

「明治維新」と呼ばれるわが国の近代化のための変革の基本政策は「富国強兵のため の殖産興業と西洋化のための文明開化」であった。明治政府の近代化政策における最も 重要な課題は、欧米先進資本主義列強諸国と国際社会において、一日も早く肩を並べる

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1 大蔵省昭和財政史編集室編〔1959〕,p9。

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ための富国強兵策であり、それを経済面から支えるための近代産業を育成することが「殖 産興業」であった。当然、そこには今までにない資本規模の企業が誕生し、それに付随 して私企業では従来の和式帳合に代わる複式簿記導入が始まった。一方、明治政府の会 計は徳川幕府時代とは比べものにならないほど財政規模が拡大する過程で記帳法の複式 簿記化が進められていくが、明治22(1889)年大日本帝国憲法(明治憲法)の付属会計法公 布を境にして単式簿記に逆戻りをする。まさに、明治初期公会計における複式簿記は「揺 籃」のような変遷を経験するのである。そして、このような明治初期の複式簿記の波乱 に富んだ導入史に強く関心興味を抱くに至ったことが研究の背景である。

本研究の目的は、明治初期公会計において徐々に導入され定着した複式簿記が、明治 22(1889)年の「明治会計法」条文では全く触れられず、自然消滅とでも言うべき短命に 終わってしまったという史実について、可能な限り時系列に沿って公会計の複式簿記導 入史をたどり、

(1) 明治初期公会計において、複式簿記は何のために、そしてどのように導入されて いったのか。

(2) 明治政府の公会計ツールとして定着し、制度としての完成をみた複式簿記が、な ぜ「明治会計法」を契機として単式簿記に逆戻りしてしまったのか。

という大きな二つの課題を明らかにすることである。

第2節 論文の構成

本論文は、2部構成である。

第Ⅰ部は「明治政府公会計の複式簿記導入」と題して、本研究の目的の一つである

「明治初期公会計において、複式簿記は何のために、そしてどのように導入されていっ たのか。」について考察する。

まず、第1章で明治政府樹立以前のわが国の帳簿の歴史について、特に和式帳合と 呼ばれる江戸時代のわが国の伝統的な会計について触れる。第2章では明治新政府の樹 立とわが国に初めて紹介された複式簿記について考える。そして、第3章は大蔵省の一 部局であった造幣寮で複式簿記が導入されるようになった経過及びその影響、特に公会 計への影響について検証する。さらに、第4章では造幣寮で行われた複式簿記が拡大発 展し、大蔵省、次いで全省庁での導入に至る公会計の複式簿記化とその法整備の歴史的

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経過をたどり、一応の完成形として制定された「明治14年会計法」について考察する。

続いて、第Ⅱ部は、「『明治14年の政変』とそれ以後の複式簿記」と題して、二つ目の 課題である「明治政府の公会計ツールとして定着し、制度としての完成をみた複式簿記 が、なぜ「明治会計法」公布を契機として単式簿記に逆戻りしてしまったのか。」につい て考察する。

第5章では、公会計における複式簿記廃止の遠因となったと考えられる「明治14年の 政変」について述べる。この政変により、イギリス式の憲法ではなくドイツプロイセン 流の憲法採用が決定的となり、伊藤博文を中心とする薩長藩閥政治が確立する。そして、

公会計における複式簿記推進の中心であった筆頭参議大隈重信が失脚し、国づくりの方 向がプロイセンを範とする立憲君主制に決まったことが、後に公会計の複式簿記に大き な影響を与えたことを述べる。

第6章では、「明治14年の政変」によって国の方向性が定まったことと一切関係なく、

大蔵省による複式簿記化の法整備は着々と進められ、また同時進行的に統一国庫制度の 確立に向けての法整備も行われたことを論じ、続く第7章では、「明治14年の政変」以 後の憲法と会計法の起草に焦点をあてる。政変によって定まったとおりプロイセン憲法 を範とした大日本帝国憲法の起草案が検討される中、大蔵省では主にフランスに範をと った会計法草案が検討される。しかも大蔵省では、内閣の憲法及び会計法の起草作業と は真逆の複式簿記化完成に向けての法整備が既定路線のごとく続けられる。そしてこう した政府内の矛盾する動きが収束されて大日本帝国憲法及び会計法の公布となり、直前 の「すり合わせ」の結果が複式簿記廃止という着地点であったことを検証する。

最後に結章として、本研究のテーマである「明治初期公会計における複式簿記の揺籃」

について管見を論じる。

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【第Ⅰ部 明治初期公会計の複式簿記導入】

第1章 明治以前のわが国の会計

大化の改新(646 年)は、中国の律令制を参考に、天皇を中心とした新たな国家体制を 日本に導入しようとする政治改革であり、その改革の中で「帳簿によって財政の収支を 記録する文化」が中国から輸入された。ゆえに、日本の「帳簿史」は、律令国家の成立 とともに始まったと言える。当時、地方の財源は「正税」が中心で、正税とは各国の正 倉という倉庫に蓄えられた稲のことで、国司たちはこれを毎年春に高利で農民に貸し付 け、その利息を徴収することで財源を確保しており、その収入と諸経費の支出をまとめ たのが正税帳である。この時代の帳簿は収入と支出を書き留めたものだけで、一年の収 支を正確に見積もり、それをもとに国家予算を立てるといった習慣がなかったために、

帳簿が政府や各地方自治体で大きな役割を果たすこともなかった2

奈良時代末期から、民衆の間では重税から逃れるために、戸籍上の本貫地(所在地)

から離脱する、浮浪・逃亡が相次ぎ、「戸籍をもとに土地を配分し、民衆一人ひとりから 税を徴収する」班田収受のシステムが機能しなくなってきた。そこで中央政府は、徴税 システムの変革を余儀なくされ、各地の国司に対し「4 年の任期の中で一定額の税を納 めれば、あとの国内統治は一任する」と改めた。そのため「財布の紐」が、中央政府か ら各地の国司たちに移っていき、絶大な力を有するようになった国司の中には任期後も 帰京しなくなる者が現れ、やがて自衛のために武装化し地元の富豪層を従えて武士団を 形成していくようになった。その中から平氏や源氏などが登場するのである3 。鎌倉・

室町時代には、幕府によって守護・地頭が各地に設置され、彼らがその土地の徴税を請 け負うようになったが、中央と地方の関係はほとんど変わらなかった。

その後、日本の帳簿に革命が起きるのは、江戸時代になってからで、日本三大商人と 呼ばれる伊勢商人、近江商人、大坂商人の間で、独自の複式簿記が使われるようになっ た。その複式簿記は和式帳合法と呼ばれたが、その発展過程は、商取引の記帳が商家内 の秘密であったために明らかにされていない。しかしながら、中井家、三井家、鴻池家 等の帳合法はかなり高水準のものであったと考えられ、例えば、江州中井家の帳合法の 研究の第一人者である小倉栄一郎は次のように要約している。

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2 文藝春秋編集部〔2015〕,p375。

3 文藝春秋編集部〔2015〕,p377-378。

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「中井家帳合はまことに強力な支店管理機能と資本維持機能を有していた。その全組 織は本支店会計制度として理解ができるもので、計算利息を用いた成果分割と、本支店 勘定を用いた分割会計を骨子として、それぞれの会計単位には徳用の分配で刺激をあた え、利息込正味身代の維持をもって責任限界を示すところの一種の独立採算制をなして いる。しかるに、中井家企業全体としては完全に本家に集中する単一資本の分肢経営で あるという立場は失っていない 。」4

西川〔1971〕は、わが国固有の簿記法の特徴として次の5点をあげている5

①帳簿は和紙を二つ折りにし長綴裁切にしたものと、洋紙を四つ折りにし二十枚ばかり を一綴とし、これを多数積み重ねて綴合したものとがある。

②用紙は無罫で、出入を記入する如き場合には出または入の字を書いて区別する。

③ 数字は日本数字で五百六十七円等の如く在来の記数法による。

④ 無論筆墨による縦書である。

⑤ 多数の帳簿にわかれ総勘定元帳に当たるものはない。

以上のように、和式帳合は多帳簿制であり、帳簿組織を関連させる〔突き合せする〕

ことによって損益計算がなされ、帳簿体系の次元で損益計算が行われる。これに対して 西洋の複式簿記では、元帳のなかで勘定の組み合せによって損益計算が行われる〔勘定 体系の次元の問題〕。ここに両簿記法の一つの差違が見出せる 6

そしてこのようにわが国固有の帳合法が優れていたこと、算盤という極めて優れた計 算方法を持っていたこと、また各商家の帳合はそれぞれの商家伝来の産物であり、新方 式が外部から入り込む余地がなかったことなどが大きな壁となり、複式簿記普及は遅々 として進まなかった。約150年前に複式簿記がわが国に紹介されてから、わが国固有の 簿記法がすっかり姿を消すまで 30~60 年間は並存期間があった。大福帳式簿記を利用 し馴れていた商人は、明治維新を横目で見送り、日本経済の西洋化に関与しなかった7 。 従来の和式帳合から複式簿記への転換が主要先行会社では比較的迅速に、他方伝統的な 商家・商店から会社へと転換した企業においてはゆっくりと進展していったのである8

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4 小倉栄一郎〔1960〕p264-290。

5 西川孝治郎〔1971〕p12。

6 茂木虎雄〔1976〕p41。

7 日本会計学研究会〔1978〕p51。

8 千葉準一〔2009〕p375-401。

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徳川時代に輸入されたオランダ簿記書が5冊現存している。これらのオランダ簿記書 には、いずれも「イタリア簿記」という文字がタイトルに入っている。オランダの簿記 は中世イタリアから伝わり、これがイタリア式簿記としてわが国伝わった。しかしこれ らは、日本の社会には何の影響も与えなかった。それは当時わが国の経済状態が、未だ これを受け入れるまでに発達していなかったためである。封建制度が堅く維持されてい た江戸時代においては、財の生産流通の範囲は局部的で規模も小さく、また取引は単純 で数量も少なかったのでその整理には何の工夫も要しなかった。そういう時代には、西 洋の複式簿記のような組織的計算方法が普及するはずがなかった9

幕末に、西洋の複式簿記に触れたわが国の組織があった。それは、慶応元(1865)年に建 設が開始された横須賀製鉄所である。嘉永 6(1853)年のペリー(1)来航をきっかけに、徳川 幕府は横浜などを開港するが、これにより幕府は自分達の力で日本を守る必要性を考える ようになる。日本を守るためには海軍力の増強や、軍艦を造るための近代的な造船所の建 設が必要となり、徳川幕府はフランスの協力を得て近代総合工場として横須賀製鉄所を開 設したのである。「製鉄所」はフランス語の「arsenal」(アルスナル)を訳したもので、明

治36(1903)年日本海軍でも使われ始めた「工廠」を意味していた。しかし、幕末には船を

造るための鉄を造り、鉄で機関を造り、さらには大砲まで造る工場を言い表す言葉がなく、

ネジ一本から巨大な船体までのあらゆる鉄製品を造る工場を「製鉄所」と称したが、明治 4(1871)年4月、横須賀造船所に改められた10

横須賀製鉄所のトップとして、フランス海軍大技士ヴェルニー(2)が雇用され、また会 計課長としてフランス人のメルシェー(P.L.Mercier)が着任し、その下に日本人会計課員 が配属され、日本で最初に複式簿記が採用された。横須賀製鉄所での複式簿記の実践は、

日本(徳川幕府)がつくった組織内で行われたもので日本の組織が最初にふれた西洋の複 式簿記である11が、本研究は明治政府の公会計における複式簿記がテーマであるため対 象外とした。

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9 西川孝治郎〔1971〕p13。

10 山本詔一〔2016〕,p16。

11 工藤栄一郎〔2016a〕,p25-34。

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9 第2章 明治政府の樹立と複式簿記

第1節 明治維新と近代化

18世紀後半から 19世紀前半にかけてイギリスで始まった産業革命により工業生産力 は飛躍的に高まった。イギリスを初めとする欧米列強は、工場制機械工業の大量生産品 の販売市場と原料の確保をめざして、アジアへの進出を開始し、アジア諸国を資本主義 的世界市場に強制的に組み込もうとした12

こうした時代背景の中、嘉永 6(1853)年浦賀沖にアメリカ合衆国艦隊が突然来襲し、

わが国に開国を求めたのである。その後わが国の体制は劇的に変化し、ついに慶応

3(1867)年12月王政復古の大号令が発せられ、260年あまり続いた江戸幕府は滅亡した。

黒船来襲からわずか14年後のことである。明治元(1868)年9月、新政府は元号を明治と 改めて、従来の旧習を一新して新政を推進する決意を示した。

新政府が成立に際して発した王政復古の大号令では、摂政・関白・将軍を廃し、神武 創業にもとづく天皇親政を行い、総裁・議定・参与の三職を置くことが定められ、「百事 御一新」を唱え、政治をすべて新しくすることを強調した。御一新という言葉は、そう した期待をこめて世に広まり、大きな変革を意味する物として、広く用いられるように なった。この一新に通じる言葉として、中国の古典である『詩経』の中の「維新」とい う古語があてられたものと思われる13 。そしてこの時期の変革を明治44(1911)年に文部 省内に設置された維新史料編纂会14が、公式に「明治維新」と称した。

日本の歴史上、特に近代史において明治維新は最も関心の高い歴史的な出来事である。

明治維新は、近代日本の出発点となった大改革であり、日本はこれによって「近代化」

の第一歩を踏み出したといえる。天皇を頂点とする中央集権的統一国家体制の成立、自 由民権運動、立憲制、議会主義など、日本資本主義の出発点を見いだすことができる。

そのため「明治新政府の樹立が我が国の『近代化』の始まり」という歴史認識が一般的 である。桑原武夫は、明治維新について次のように述べている。

「世界からの接近(アプローチ)を謝絶し、鎖国して独立を守ってきた日本民族は、お

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12 佐藤信,五味文彦編〔2012〕,p314。

13 佐藤信,五味文彦編〔2012〕,p327。

14 明治維新関係史料の収集・編纂を目的として1911年(明治44)文部省内に設けられた修史機構。

1931(昭和6)年までに「大日本維新史料」稿本初稿四千余冊が編纂された。1942年、東京大学史料

編纂所に吸収され事業を継続。

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よそ250年の平和のうちに高度の国民文化を形成、普及せしめたが、19世紀半ばに国際 的力関係から開国の避けられぬことをさとり、自主的に大胆に西洋文明を取り入れて近 代国家をつくるために一つの文化改革を行った。これが明治維新である。」15

明治維新が生み出したものは、独立と富国強兵を目的とする中央集権的な民族国家 であり、明治維新から始まった日本の近代化はほぼ成功し、その速度は世界史上先例の ないものであった。では近代化が生み出したものは何か、言い換えればどういう条件が そろえば近代化といえるのかについて、次の6項目が考えられる16

①政治における民主主義

②経済における資本主義

③産業における工業生産

④教育における国民義務教育

⑤軍備における国民軍の成立

⑥意識における共同体からの解放(個人主義、伝統排除)

このうち、どこに力点を置くかによって近代化の考え方が変わるが、②経済における 資本主義と③産業における工業生産の観点に立つと、複式簿記による会計システムは必 要不可欠なツールであったことは間違いない。複式簿記を使用する西洋式会計技術は、

明治維新前後においてわが国にもたらされた近代化、すなわち、西洋化を象徴する文明 の一つである 。ゆえに、複式簿記は明治初期に日本の近代化の一環として導入され、企 業社会の発展に寄与したと理解できる17

我が国の近代化の始まりとされる明治維新はいつからいつまでを言うのであろうか。

まず、明治維新の定義には、

①「明治維新」とは、「事件」であり、大政奉還によって、政治の実権が幕府から朝廷 に移った「出来事」を指すのであって、「近代化」「文明開化」などの継続した活動と は違う。したがって、明治元(1868)年「五ヶ条のご誓文」発布をもって、明治維新と するという説。

②「明治維新」は日本の近代化を目指した政治改革であって、「近世的権威」が終了し

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15 桑原武夫〔1984〕,p205。

16 桑原武夫〔1984〕,p118。

17 山地秀俊,藤村聡〔2014〕,p27。

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た時点で達成された、つまり明治元(1868)年「五ヶ条のご誓文」発布から始まり、

近世に政治を独占していた「武士」が、「名実ともに」消滅した明治4(1871)年「廃 藩置県」までという説。

など諸説があるが、一般的にはペリー来航から廃藩置県・地租改正・秩禄処分などの封建 諸制度解体に至る一連の大きな変革を、明治維新として理解するのが妥当であろう18 。 明治維新は、殖産興業・文明開化という近代化のための明治政府の政策が遂行されてい く過程そのものである。

明治新政府は、「欧米列強に追いつけ追い越せ」のスローガンの元に、富国強兵をめざ した「殖産興業」で近代産業の育成を図るとともに、「文明開化」と呼ばれる諸制度の西 洋化を推進した。

これまでの明治維新に関する研究は政治史が中心であり、文明開化は文化史・思想史 を主とする傾向が存在した。文明開化は、概してその始まりを明治 4(1871)年に断行さ れた廃藩置県の前後とみなし、それから2年後の明治6(1873)年、明六社の結成が「文 明開化」の本格的な時期と位置づけられている19

明六社はアメリカ帰りの外交官森有礼(3)が、欧米諸国の学会にならった学術・談話の 会の設立を志し、西村茂樹(4)らに相談したことに始まる。森・西村のほか、福澤諭吉(5)・ 加藤弘之(6)・中村正直(7)・津田真道(8)・西周(9)・神田孝平(10)らの洋学者が参加した学術 結社20であり、政治・経済・外交・社会から言語・宗教・教育・科学に至る広範な分野に、

西洋文明の摂取のための啓蒙を行った。しかも社員のほとんどが官僚学者であって、政 府の開化政策を先導する役割を果たした。そして、「(明六社)社員のなかで、西洋の導入 と人心の改造にもっとも包括的な構想をもち、大きな影響力をもったのは、いうまでも なく福澤諭吉であった。」21

福澤は明六社の後、明治 12(1879)年には西周・加藤弘之らと東京学士会院(のちの日 本学士院)を創設、初代会長となり、明治 13(1880)年には日本最初の実業家社交クラブ である交詢社を設立、「明治14年の政変」を経て明治15(1882)年には「時事新報」を創 刊する。後世、福澤諭吉の三大事業として、慶応義塾、交詢社、時事新報があげられる

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18 佐藤信,五味文彦編〔2012〕,p342。

19 松尾正人編〔2004〕,p303。

20 佐藤信,五味文彦編〔2012〕,p339。

21 鹿野政直〔2004〕,p50。

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22。後の章で詳述するが、その中で特に交詢社は私擬憲法を発表するなど政治に関わり、

「明治 14 年の政変」によって政府内の福澤派(三田派)と呼ばれる多くの慶應義塾出身 の若手官僚が辞職する原因の一つとなった。そしてこれが公会計の複式簿記導入の歴史 に影響を与えた。

本研究のキーワードである「複式簿記」は、明治6(1873)年『帳合之法』によって福澤 諭吉が、わが国に初めて紹介したとされ、福澤諭吉が横浜の友人から紹介された、アメ リカで連鎖組織の商業学校 60 校ほどを経営していたブライヤントおよびストラットン 共著の学校用簿記教科書”Bryant & Stratton's Common School Book-keeping (1861)” を翻訳して出版したことに始まる。時期的にいえば、「文明開化」の本格的な時期と完全 に重なっている。これが、わが国最初の簿記書となる『帳合之法』で、明治6(1873)年を 日本会計研究学会はわが国企業会計制度近代化の出発点としている23

複式簿記の導入は、福澤が旗振りの中心であった「文明開化」の一環と考えられるが、

複式簿記はすぐにわが国在来法を駆逐して、一斉に普及することにはならなかった。後 に福澤は『福澤全集緒言』(明治30年刊)の中で次のように述べている。

「明治6年の頃帳合之法を発行して、書物は売れたけれども、さてこの帳合之法を商 家の実地に用いて店の帳面を改革したる者は甚だ少なし 」

福澤が落胆したように、西洋の経営法を採用した新規企業においてさえ当分は両方を 併用したし、その普及には時間がかかった。この状況について大阪市編集の『明治大正 大阪市史』にも次のような記述がある。

「商業帳簿の状況は尚明治・大正期には統一するに至らず、一方には不完全なる旧式 記帳法根強く行われ、他方には新式複式簿記法が漸次一般化し、或いは並び行われ、或 いは折衷混用せられ、帳簿の洋式亦一定せざる有様である 。」24

また、明治24(1891)年商法典公布にあたり、商人は商業帳簿を設置する義務があると

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22 竹中英俊〔2014〕,p1-3。

23 黒澤清総編集〔1979〕,284。

24 大阪市編〔1933〕,p326-330。

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知って、複式簿記に転換しようとするものが続出したが、和式帳合でも用が足ると主張 するものも多かった25。福澤は、複式簿記の普及を彼の門下生に引き継ぎ、福澤の門下生 たちは商法講習所に協力するとともに、神戸、大阪、岡山、横浜をはじめとする商業学 校の開校と運営に協力し、多くの門下生が旺盛に簿記、商業学に関する教科書、翻訳書 を出版するなど明治の会計教育に大きな影響を及ぼした26

複式簿記は、「明治維新」という近代国家形成の過程の中で「近代化=西洋化」の手段 として大きな役割を果たしたアイテムの一つである。一般的に言って、資本主義あるい はそれを構成する企業が今日のように発展する必要条件として、利益計算方式あるいは 利益の可視化手段としての複式簿記の存在が不可欠であり 、わが国の近代化に複式簿 記は大きな役割を担った「文明開化」の一つであったと考えるのが自然である。

第2節 岩倉使節団と「明治6年の政変」

明治4(1871)年11月12日から明治6年(1873)年9月13日までの約1年10ヶ月、足 かけ3年に及び米欧各国を回覧した岩倉使節団は、幕末以来の遣外使節の最後にしてま た最大規模の派遣であった。このような遣外使節は、古くは遣唐使27や天正遣欧使節28、 幕末には徳川幕府によって 5 回の遣外使節29が実施されている。しかし、明治政府が派 遣した岩倉使節団は、そのスケールにおいて過去の遣外使節をはるかに凌駕するもので、

日本の近代化の形成に大きな影響を及ぼした。岩倉使節団の一番の目的は、不平等条約 の改正に向けた欧米諸国との予備交渉であった。しかしこの目論見は、最初の訪問国ア メリカで頓挫してしまう。簡単に言うと、法体系の未整備など日本の国内の近代的諸制 度がまだ確立されていなかったため、相手にされなかったのである。不平等条約の改正 をあきらめた岩倉使節団は、以降はもっぱら欧米各国の国家制度や産業技術、伝統文化 などの視察を続けることになり、訪問国は次頁図1のように12カ国を数えた。

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25 黒澤清総編集〔1979〕,p264。

26 山内慶太〔2016〕,p35-41。

27 遣唐使は、630年の犬上御田鍬の派遣に始まり、894年の菅原道真の建議による中止にいたるまで、

十数回にわたって実施された。(佐藤信編『詳説日本史研究』)

28 大友義鎮、有馬晴信、大村純忠のキリシタン3大名は、貿易を望んで宣教師を保護し、イエズス会宣 教師ヴァリニャーニの勧めにより伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノら4 の少年使節を1582(天正10)年にローマ教皇のもとに派遣した。(佐藤信編『詳説日本史研究』)

29 万延元年(1860)年遣米使節、文久2(1862)年遣欧使節、文久3(1863)年遣仏使節、慶応2(1866)年遣露 使節、慶応3(1867)年遣仏使節。

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【図 1】 岩倉使節団の訪問国 (筆者編集作成)

この使節団は、特命全権大使の右大臣岩倉具視(11)を筆頭に、副使には参議木戸孝允(12)、 参議兼大蔵卿大久保利通(13)、工部大輔伊藤博文(14)、外務少輔山口尚芳(15)の 4 名、加え て理事官とその随行員46名、随従者18名、留学生43名(内、女子5名)の総勢108名 の大所帯であった。このメンバーが、当時の明治政府の中にあっていかに重要人物ばか りであったのかは、次頁の政府組織図(図2)からも明らかである。

これほど政府の中枢を担う複数の人物が長期にわたって新政府に不在となったことは 驚きである。派遣団の人選については、当時の政府内には官僚派と反官僚派あるいは開 明派と武断派ともいうべき対立があり相当もめたようであるが、結果的に官僚派・開明 派のほとんどが使節団に加わり、その派で留守に残ったのは参議大隈重信(16)と大蔵大輔

国名 滞在日数 主な都市 備考

アメリカ 204日 サンフランシスコ ワシントン

ボストン グラント大統領と会見

イギリス 121日 ロンドン エディンバラ ビクトリア女王に謁見 フランス 68日 パリ カレー マルセイユ ティエール大統領と会見

ベルギー 6日 ブリュセル レオポルド2世に謁見

オランダ 10日 ハーグ アムステルダム ウィリアム3世に謁見 ドイツ 29日 エッセン ベルリン

ハンブルク

ウィルヘルム1世に謁見 ビスマルク、モルトケと会見 ロシア 18日 ペテルブルク アレキサンドル2世に謁見 デンマーク 5日 コペンハーゲン クリスチャン9世に謁見 スウェーデン 5日 ストックホルム オスカル2世に謁見 イタリア 24日 ローマ ベニス エマヌエル2世に謁見

オーストリア 15日 ウィーン フランツ・ヨーゼフ1世に謁見

スイス 26日 ベルン セレソール大統領と会見

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井上馨(17)、兵部大輔山県有朋(18)のみとなった30。しかも、留守政府に対して岩倉使節団 の派遣中に、大規模な内政改革は行わないことを約束させた上での渡航であった。まだ 明治新政府が樹立されたばかりのこの時期に、岩倉をはじめとして、木戸・大久保・伊 藤という実力者たちが2年近く日本を留守にすることは、政治的には全く希なケースで あり影響が大きく31、岩倉大使ら帰国後に留守政府と大衝突する原因の種は、この時に蒔 かれたのである32

【図 2】明治初期の政府組織 (筆者編集作成)

留守政府の中心は薩摩藩出身参議西郷隆盛(19)であったが、その他は参議板垣退助(20)、 参議後藤象二郎(21)、参議兼司法卿江藤新平(22)など土佐藩と肥前藩の出身者であった。こ の留守政府は当初の大規模な内政改革は行わないという約束に反して地租改正、学制、

太陽暦の採用、徴兵制、司法制度の整備、キリスト教の実質解禁、鉄道の敷設など日本 の近代化に重要な政策を次々と実行し、ただの留守番ではない存在感を示した。それゆ え、岩倉使節団の帰国後に「征韓論」を媒体にして、両者の明治政府内における覇権争 いの大衝突となり、明治6(1873)年10月西郷、板垣、後藤、江藤、副島の5人の参議と 大量の軍人達が辞職する「明治6年の政変」が起こる。

一方で、明治における最後にして最大の遣外使節であった岩倉使節団は、明治新政府 の発足期であり、政府の最高指導者をはじめ各省庁のエリートたちが各国の元首・要人 に接し、また文物・産業・明蹟を広く見聞し、新国家の建設にあたって具体的な先例を

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30 井上清〔2006〕,p224。

31 大久保利謙〔1986〕,p71。

32 井上清〔2006〕,p225。

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体験できたという意味では、明治の特筆すべき国家的壮挙であった33。特に、ドイツ訪問 の際に、鉄血宰相ビスマルク(23)と懇談し次のような話を聞いた。

(原文)―――――――――――――――――――――――――――――――――――

「方今世界ノ各国、ミナ親睦礼儀ヲ以テ相交ルトハイヘトモ、是全ク表面ノ名義ニテ、

其陰私ニ於テハ、強弱相凌キ、大小相侮ルノ情形ナリ、予ノ幼児ニ於テ、我普国ノ貧弱 ナリシハ、諸公モ知ル所ナルヘシ、此時ニ当リ・・・(以下省略)」34

(現代語訳)………

「方今世界の各国は、みな親睦、礼儀をもって相交っているが、それはまったく表面上 のことで、内面では強弱相凌ぎ、大小相侮るというのが実情である。私の幼時には、わ がプロイセンがいかに貧弱であったかは、諸公も知られるところであろう。このときに あたって、小国の状態を親しく閲歴してきた私が、つねに憤懣を抱いていたことは、い まにいたっても決して忘れることはできない。あの、いわゆる公法というのは、列強の 権利を保全する不変の道とはいうものの、大国が利を争う場合、もし自国に利ありとみ れば公法に固執するけれども、いったん不利となれば、一転、兵威をもってするのであ る。だから、公法はつねにこれを守らなければならないというものではないのだ。これ に反して、小国は孜々として外交の辞令と公理とを省顧し、決してそのワクを越えるよ うなことはない。そして、自主の権を保とうと努めるのだが、大国の〝黒を白といいく るめ、相手を凌侮したりする政略″にあえば、ほとんど自主の権を保持することはでき ないのがつねなのだ。小国がその自主の権利を守ろうとすれば、その実力を培う以外に 方法はない」35

この話は、使節団一行に深い感銘を与えたようである。

「大久保はビスマルクの演説に熱狂的な感慨を抱いた。この瞬間、大久保は日本のビ スマルクを標榜したといっていい。『同時代史』を著した明治のジャーナリスト三宅雪 嶺(21)もそう断じていた。」36

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33 大久保利謙〔1986〕,p136。

34 久米邦武編、田中彰校注〔1993〕,第3p329-330。

35 加来 耕三〔1994〕,p313-319。

36 加来 耕三〔1994〕,p319。

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後に明治政府は、ビスマルクのプロイセンを範とする国づくりを目指すことになる。

一方、岩倉使節団が「明治6年の政変」という政府内の覇権争いの原因となり、薩長 藩閥政権確立の背景となったことも忘れてはならない。以上のような、明治初年の政治 史を踏まえて、本研究のテーマである複式簿記と岩倉使節団の関わりを考えると、次の ようなことが浮かび上がってくる。

①岩倉使節団が西洋の複式簿記に直接触れたという記録は残されていないが、複式簿記 は岩倉使節団の帰国後に推進された文明開化の一つである。

②鉄血宰相ビスマルクの話が岩倉使節団一行に感銘を与えたことが、「明治14年の政変」

への伏線となった可能性が強く、その後の複式簿記導入史に大きな影響を与えた。

③岩倉使節団帰国後に起きた「明治6年の政変」に肥前藩出身でありながら生き残った 大隈重信が、大蔵卿のポストを得て財政改革及び公会計の複式簿記化を推進していく ことになる。

第3章 造幣寮の複式簿記

第1節 造幣寮の建設とお雇い外国人

嘉永6(1853)年、ペリーが「黒船」を率いて来航して以降、わが国は開国への道を歩む

ことになり、外国との貿易が始まった。当時の貿易決済にはメキシコドルが用いられてい た。メキシコドルの額面は8レアルであるが、アメリカで1ドル銀貨として通用していた ことからメキシコドルと呼ばれた。また、中国及び日本ではメキシコを「墨西哥」と表記 していたので、墨銀とも呼ばれ外国から流入した洋銀の主流であった。1メキシコドルの 重さは27グラムで品位90037、安政1分銀3枚に相当し、メキシコドル4枚で安政1分銀 12枚と交換でき、日本国内では4分銀=1両だったので天保小判3枚(3両)となった。こ の天保小判を海外で鋳つぶすとメキシコドル12枚分となった。

【メキシコドル4枚⇒安政1分銀12枚⇒天保小判3枚⇒⇒⇒メキシコドル12枚】

つまり、4枚のメキシコドルを日本に持ち込めば3倍の12枚になる勘定である。この 矛盾は海外での通貨両替は量目計算で行われていたのに対し、国内では名目計算で通貨両 替が行われていたためである。当然、大量の小判=金が流出する事態となり、貨幣制度は 混乱に陥った。維新政府は近代的統一国家を建設するためには先ず幣制を確立し、逼迫し

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37 品位とは、金銀の地金または金銀貨に含まれる金及び銀の割合。品位90090%のこと。新村出編

〔1991〕『広辞苑第4版』岩波書店

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た経済を立て直す必要のあることを痛感し、 慶応4(1868)年政府は近代的造幣工場を建 設し、先進諸国の貨幣に較べ遜色のない貨幣を鋳造することを決定した38

新政府が近代造幣工場の建設を決定した、ちょうどその頃、イギリスが元治元(1864)年 香港に設立した造幣局が閉鎖することになり、その最新の造幣機械を五代友厚(25)らの尽 力でグラバー商会を通じて6万ドル(1ドル=約1円)で購入することができた。こうして 新政府は大阪川崎の地に世界最大規模の造幣局39(明治元年着工、3年12月竣工)を建設し た。当時は他に工業が興っておらず、必要な機材、資材の多くは自給自足で賄い、鉄道馬 車、電信なども自営し、明治初期における近代工業の先駆となった。

わが国は開国の後、急速に欧米先進国からあらゆる新文化―新しい産業技術、経済制度 を盛んに移植するようになり、会計ツールとしての複式簿記もそれに付随して入ってき た。機械設備、技術制度の導入にはそれぞれの専門技師がついてきて、建設・運転にあた り、簿記会計にもエキスパートが同時に招かれてきた。彼らはある場合には事業の現場に はいって自らも簿記会計の実務を担当しながら、直接日本人にそれを伝授し、その指導を 行った40

明治4(1871)年4月、世界最大規模の造幣寮が創業式を挙行した。しかし、当時のわが

国の技術をもって最新の造幣機械を操作することは困難であり、西洋人技術者を雇い入 れ、その技術指導を仰がざるを得なかった。このため政府はかねてより親密な関係にあっ たオリエンタル・バンク41と「貨幣鋳造条約」を締結し、外国人の雇い入れ、監督、給与 支払いなどの事務を委任した42。こうして 明治3(1870)年1月以降、「造幣首長」となっ た英人キンドル(26)をはじめとして31人の外国人が雇用され、建築、機械設備等の指導に 携わり、造幣局の創業期、近代工業がなかった時代において重要な役割を果たした。しか し、造幣首長のキンドルは当時世界に冠たる大英帝国の陸軍少佐であり、しかも香港造幣 局長も経験していたため、自信とプライドも人一倍強かったようで、いざこざが絶えず、

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38 大蔵省造幣局編〔1921〕

39 明治2(1869)年2月、貨幣司が廃止され、太政官中に造幣局が設置された。初代造幣局知事には甲斐

九郎が就任した。同年7月大蔵省の設置とともにその所属となり、名称も「造幣寮」に改められた。

造幣局知事は造幣頭と改称された。井上馨、伊藤博文も歴任した。造幣局のあゆみ編集委員会

〔2011〕,p21。

40 黒澤清総編集〔1979〕,p295。

41 オリエンタル・バンクは,代表的な英系植民地銀行。1842年にボンベイに設立された当時は,Bank

of Western Indiaと称していたが,1845年に本店をロンドンヘ移してOriental Bankと改称,さらに 1851年にBank of Ceylonを買収して王室特許状(Royal Charter)を取得した際,Oreintal Bank

Corporationと改称した。同行は19世紀中葉に東洋で最大の勢力を誇ったものの1884年5月支払不

能に陥った。

42 立脇和夫〔1986〕,p49-83。

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後に日本人の不評・反発を招き、 明治8(1875)年にはキンドル以下大半のお雇い外国人 が解雇されている。造幣事業の自立は、明治新政府と官僚の自主性を確立することと等し く、オリエンタル・バンクとの間の条約を廃棄し、お雇い外国人の人員を減らし、必要な 部門にお雇い外国人を残し、彼らを政府の直接雇用にして権限・責任を明らかにし、造幣 事業全般の主導権を明治政府が握る必要に迫られていた43ことも、造幣寮お雇い外国人の 大量解雇の一因であった。

キンドルは外国人の造幣首長として広範な権限を与えられ「一寮双頭の現象」と言わ れるほど、日本人の造幣頭と同等の権限を持っていた。しかし、会計事務だけは初めから 日本人の所管として、会計担当外国人をオリエンタル・バンクを経由せず、直接日本政府 が雇い入れるという特別の注意が払われた44。そのお雇い外国人が、ポルトガル人のブラ ガ(27)である。「近代化=模倣」の浅はかさはもちろん批判されなければならないが、当時 の情勢の中で明治日本のもつ自主・自立への意志が感じられ、高く評価される45

文明開化は政府関係者によって強く推進され、開化政策は、維新の政治過程と密接に関 係し、国家の独立を目的とした統治の方策と軍事・産業などの技術が、先進国から導入さ れている46。そして、この導入時に大きな役割を果たしたのが造幣寮だけではなく他の省 庁でも「お雇い外国人」と言われる多数の外国人であった。

【図 3】 お雇い外国人数

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43 秀村選三〔1965〕

44 西川孝治郎〔1971〕,p80。

45 秀村選三〔1965〕

46 松尾正人〔2004〕,p303。

教師 技術者

管理業務者 熟練労働者

その他 合計 明治 5年 102人 127人 43人 46人 51人 369人 明治 7年 151人 213人 68人 27人 65人 524人 明治 9年 129人 170人 60人 26人 84人 469人

明治11年

101人 118人 51人 7人 44人 321人

明治13年

76人 103人 40人 6人 12人 237人

(東畑精一『日本資本主義の形成者』による)

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お雇い外国人は明治7~8年がピークで、その後は漸次減少していく。お雇い外国人を国 籍別でみると、当時日本との国際的関係のうえで重要な地位を占めていたイギリス、フラ ンス、アメリカ、ドイツの四カ国からきた人々であり、イギリス人は、鉄道・電信などの 工部省関係と海軍教育、フランス人は横須賀造船所と陸軍教育、アメリカ人は文部省と開 拓使、ドイツ人は教育と医学の方面でもっとも多く活動し寄与した。それぞれの分野で、

当時最も先進的と考えられた各国の制度を導入したわが国の近代化は、各国のお雇い外国 人によってなされ、お互いの相互関係が一切無視された「モザイク的近代化」をその特徴 とした47。お雇い外国人を最も多く雇い入れたのは文部省と工部省で、明治政府が近代的 な学術と技術の移入を重要視していたことがわかる。

例えば、創立当時(明治10年)の東京大学の四学部の教授総数39人のうち、27人が外国 人で、日本人は12人しかいない。また、これらのお雇い外国人は、日本人職員とはけたは ずれの高い給料が払われるなど優遇されていた。しかし、政府はお雇い外国人を優遇はし たけれども、あくまでも知識・技術の提供者として使用したのであって、政治的に外国人 に指導されたわけではない。明治政府は、文明開化は富国強兵と国の独立のためであると いうことを片時も忘れてはいなかった48

明治維新以降になると複式簿記の実践化が始まる。西川孝治郎は「複式簿記の導入は、

専門外人招致の形で始まり、続いて文献の輸入、その翻訳・出版および学校教育の段階に 入って、いよいよ国内に広く普及するようになった」という。明治初期の多数のお雇い外 国人の中に、わが国の会計史に大きな足跡を残した二人の外国人がいる。一人は既述のブ ラガであり、もう一人がイギリス人のシャンド(28)である。

ブラガは30 歳の時、 明治3(1870)年に造幣寮勘定役兼帳面役として大蔵省に雇用され たのに対し、シャンドは28 歳で 明治 5(1872)年に紙幣寮附属書記官として大蔵省に雇用 された。二人ともほぼ同年齢で大蔵省のお雇い外国人であったが、造幣寮は大阪、紙幣寮 は東京と勤務場所が異なっていた。この二人によって日本にもたらされた西洋の複式簿記 は、明治初期のわが国の公会計に大きな影響を及ぼした。

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47 千葉準一〔2009〕,p377。

48 井上清〔2006〕,p300-301。

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【図 4】 お雇い外国人ブラガとシャンドの年譜 (筆者編集作成)

西暦 和暦 3月香港在住のポルトガル人ジョア

ス・ブラガの次男として誕生

1840

天保11

1844

天保14 2月スコットランドの良家に生まれ る

11月 香港のオリエンタル・バンク・

コーポレーションに勤務

1856

安政3

4月香港に英国造幣局が開設され、

同日会計係として就職

1866

慶応2 イギリスの香港造幣局が閉鎖。

日本政府が機械を6万両で購入 移設

1868

明治元

12月 旧香港造幣局長、英人キンダー が大阪造幣寮長となる

ブラガは造幣寮勘定役兼帳面役 に任ぜられる

4月

造幣寮開業。ブラガは複式簿記 を応用して、地金・銀の数料を 整理する簿記組織を立案

1871

明治4

1872

明治5 7月紙幣寮に雇い入れられ、銀行簿 記制度立案に着手

1873

明治6 12月大蔵官員、第一国立銀行員に講 習。『銀行簿記精法』刊行

1874

明治7 11月

紙幣寮外国書記官件顧問長とし て雇い入れ、銀行学局で教授指 導

2月

首長キンダーの他、多くの外国 雇員が解任。ブラガは大蔵省本 省に移る

1875

明治8 2月 紙幣寮改革のため解職

7月任期満了により大蔵省を退職

1878

明治11

(筆者作成)

ブラガ年譜 シャンド年譜

1870

明治3

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22 第2節 ブラガの造幣寮簿記

新政府は、近代国家建設のために社会制度の整備を急ぎ、幕末から維新当初にかけて混 乱していた貨幣制度を刷新するため、明治 4(1871)年大坂に造幣寮を設置した。当時、世 界で最新式の貨幣鋳造機械が導入され、人事としてはキンドルを「造幣寮首長」とし、「勘 定役助役」としてブラガを雇い入れた。大坂造幣寮の会計システムはブラガによって構築 された。大坂造幣寮の会計システムは「造幣寮事務取扱規則」として次のように規定され ている。

① 外国人が管理するすべての部局に日本人の会計担当者を置く

② 各部局の会計担当者は英語で証憑類を作成しこれに基づいて英語の帳簿を編成する

③ 英語で記帳された帳簿内容を照合するために原始記録である証憑類に基づいて日本 語による帳簿を編成する

明治4(1871)年7月15日制定の「造幣寮事務取扱規則」の全文を次に示す。

(原文)―――――――――――――――――――――――――――――――――――

『日本政府にて現今欧羅巴各国および米利堅等に行なわるる普通の条規に従って、造幣寮 を建置し、新貨幣を鋳造するため、制規方法および器械運用等の事に熟達せる外国士官を 雇入れ、諸簿冊の制およびその計算法を設為する等の権を付与し、政府または内外人民の 差出す地金を寮中に受取り、政府の制定に従ってこれを外国士官に通達し、地金を引渡し、

製貨を受収る等の事を総管するため日本士官等を寮中の職員に任じたり。

外国士官等の司掌する事務を総称して工業局とし、日本士官の司掌する事務を総称して計 算局とす。但し工業局とは学術サイエンチヒック、施行エキザクチーフ、工業オペレーチ ーフの諸局を指令するなり。』

ブラガは地金局の所属であった。地金局は計算および貨幣の出来ばえを検査し、枚数を

「計算して封包し、かつ全局中の金庫たる任務」をもっていたので、元来計算局は日本人 の造幣頭に直属するものであった。しかし、 明治3(1870)年キンドルがブラガを勘定局助 役という名義で、オリエンタル・バンク経由で造幣寮に雇い入れたので、当時の造幣頭井 上馨が憤慨し参議大隈重信あてに陳情を行い、 明治4(1871)年に政府直接雇い入れに改め

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るということになった49。鋳造に関する技術指導は受けるが、あくまで経営は日本政府主 導でありたいと考える当時の日本人の気概が伝わるエピソードである。

造幣寮地金局の帳簿組織50は、次のようなものであった。

【図 5】造幣寮の帳簿組織

①Voucher・・・・・・・・・初めは証拠書と訳し、後には伝票と訳した。わが国の伝票のはじめであ る。金・銀の受払いは、すべてこの書式に責任者が署名して行われた。

②Waste Journal・・・フールス・キャップ二つ切り用紙に仕訳日記の下書きをしたもの。記入 は伝票から行われ、借方・貸方の各勘定科目に、それぞれ摘要説明が書 いてある。

③Journal・・・・・・・・・仕訳日記帳のことで当時は日記簿といい、Waste Journalから清書したも のである。

④General Ledger・・総勘定元帳のことで、当時日本語では原簿と称し、厚い革の表紙に鍵がか っていた。様式は残高式で、仕訳帳の摘要をそのまま転記している。

⑤Daily Balance・・・日計表帳は、日々の総勘定元帳残高試算表で、左頁(借方)と右頁(貸方)と にそれぞれ六つの数字欄があり、上に日付を書いて一週分を記入する。

⑥Balance SheetとProfit & Loss account・・定期的に作成される決算書類である。

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49 西川孝治郎〔1971〕,p81。

50 西川孝治郎〔1968〕,p28-29。

Voucher

Waste Journal

Journal

General Ledger

Daily Balance

Balance Sheet Profit & Loss Account

造幣寮の帳簿組織 西川孝治郞〔1968〕

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仕訳作業から決算書作成にいたる一連の会計プロセスは,完全に複式簿記によるもので ある。したがって,大坂造幣寮は複式簿記を導入した日本で最初の組織といえる51。ただ、

ブラガが造幣寮で実施した簿記は、貨幣価値による計算ではなくて、金・銀等の重量(オ ンス)による計算だった。そのためか、造幣寮の複式簿記に関する評価は高くない。しか し、造幣寮は大蔵省管轄の貨幣鋳造官庁というだけではなく,わが国において最初の本格 的かつ大規模な洋式金属化学工場の性格を併せ持つ施設であり,組織であった。加えて、

造幣寮における簿記・会計について大蔵省は、

『神速にして正確なる複式簿記法を採用し貸借の区別を明確にし証拠書日計表等に依 て勘定を査定せるか如き亦皆始めて本局に於て行へる所なり52

と述べ、複式簿記を最初に行ったとの認識を持ち、さらに造幣寮で簿記を学んだ者がその 後各地で活躍したことを伝えている。

このことから、わが国の洋式簿記・会計の導入過程を検討するうえで造幣寮の簿記・会 計は重要な位置を占めると思われる。しかし、この組織における簿記・会計が如何なるも のだったのかということは現在でも十分に明らかにされたとは言えないし、特殊性をもっ た造幣寮の簿記・会計に関する研究業績は驚くほど少なく、研究者も少ない53

第3節 三島為嗣『造幣簿記之法』

ブラガは造幣寮で英文帳簿全般を担当しながら、邦人職員に複式簿記を指導教授した。

彼は自分で日記を書き,助手には原簿の転記をやらせ、あるいは自らWaste Journalを書 いて、助手にはその清書を手伝わせた。ブラガの側で邦文帳簿を担当したのは計算課長三 島為嗣で、造幣寮初期の和文簿はみな彼の自筆である。

昭和 44年~45年の文部省科学研究費補助金で造幣寮の簿記制度を調査していた西川孝 治郎が、戦災を免れた造幣局の書庫から三島の自筆本『造幣簿記之法(一)(二)』を発見し、

直ちにわが国最古の簿記文献として学界に報告している54

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51 工藤栄一郎〔2016b〕,11頁。

52 大蔵省造幣局編〔1921〕,25頁。

53 白坂亨〔2017〕,153-154頁。

54 西川孝治郎〔1982〕101-103頁。

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西川は、『造幣簿記之法』について次のように述べている。

「この書は明治6年の初め頃(推定)新入の会計要員のために編集したもので,日本人 が直接外人から習得した簿記技術を,自らの力により十分なる正確さと精密さとを以て書 き記したということ、そして物量計算による複式簿記書は,世界にこの書がただ一つであ るかも知れないということで高く評価しなければならない。」55

これに対して、ほぼ同時期に出版された福澤諭吉『帳合之法』やシャンド『銀行簿記精 法』を、黒澤清は、次のように高く評価しているが、三島為嗣『造幣簿記之法』について は全く触れていない。

「わが国の近代化にとって、明治6年すなわち1873年は、決定的に重要な意義をもっ ている。第1には、明治6年6月に、福澤諭吉の『帳合之法』初編2冊が出版されたこと である。これがわが国の最初の西洋式簿記書であるといってさしつかえない。第 2 には、

明治6年12月に、英人シャンドの『銀行簿記精法』が大蔵省から刊行されたことである。

その年の8月 1日から開業した第一国立銀行の会計実務は、『銀行簿記精法』に記述され たシャンド・システムにしたがって施行されたのである。」56

これは、三島為嗣『造幣簿記之法』が造幣寮内での簿記伝習本であり、しかも物量会計 の簿記であったため特殊な簿記として世間には普及しなかったためであると考えられる。

わずかに、西川孝治郎だけが「三島はブラガについて簿記技術を学び、それを早急に邦訳 するだけでも大任だった。その上に彼はそれを十分なる正確さと精密さとをもって書きし るし、巧妙に整理配列して書き上げた、わが国最初の簿記教科書である。」と評価している。

一方これに対して、久野秀男は造幣寮の簿記制度について次のような辛辣な感想を述べて いる。

この造幣寮・地金局の複式簿記について、敢えて寸評をといわれれば、「ご苦労様」とし かいい様がない。複式簿記は記帳の「形式」であって、記帳の「内容」に関わりがないと

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55 西川孝治郎〔1974〕102-103頁。

56 青木茂男編〔1976〕,3頁。

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いう典型的な事例である。要するに、「やってやれないことはない」が、その必要性もなけ れば必然性もない57

このように造幣寮の簿記についての評価は低く、研究業績は驚くほど少なく、研究者も 西川孝治郞と佐藤千代子以外見当たらないという現状である58が、『造幣簿記之法(一)』の 緒言を検証したい。佐藤千代子が翻刻した原書の緒言は次の通りである59。尚、以降の現代 語訳は全て筆者によるものである。

(原文)―――――――――――――――――――――――――――――――――――

計算簿記ノ術ニ於ケルヤ其関渉スル所最大ナリトス蓋シ洋算ノ我海内ニ行ハルルコト 久シト雖簿冊ノ法ニ於テハ未夕其制一ナラス故ニ記者ノ失誤ナキコト能ハス或ハ私埋ニ 趨リ又奸詐ヲ醸スルノ憂アリ爾耳ナラス我事務ニ於ケルカ如ク造幣一般ニ関シテ出納ノ 計算繁雑錯綜シ殆ント整理スルニ難ト雖簿記ノ規則ヲ守テ毫ヲ起セハ記者ノ遺漏ハ勿論 奸ヲ謀ルニ道ナク本末瞭然トシテ数多ノ監者ヲ要セス只四五輩ノ官吏卜共ニ容易ニ其日 ノ出納ヲ決算簿記スルニ至ルナリ而シテ日々ノ出納ヲ明瞭ニシ計算ノ錐綜ヲ単一ニスル コトコレ簿記ノ術ニ基ク処ナリ其術二法アリテ単記ト云復記ト云フ其単記ナルモノハ則 チ制度ナリ其ノ復記ナルモノハ則チ一課ノ学術ニシテ海外ノ先哲理義ヲ極メテ于今其学 日々新ナリ苟モ人タルモノ学テ後ニ之ヲ習フハ天理ニ順フナリ況ヤ方今文運隆盛ナルノ 機ニ接シ夙夜勉励学ザル者ハ政化ノ深旨ヲ奉戴セサルナリ又国ニ報セアサルナリ我輩聊 簿記ノ術ヲ聴テ実ニ同家ニ益アルヲ知ル偶同僚秬野氏命ヲ我長官ニ奉シテ官務ノ除暇 貨幣ヲ鋳造スルニ寮内各局アリテ其事務ヲ異ニシテ亦地金ノ出納ニ於テハ復記ノ法ヲ用 ヰテ其計算ヲ全フスルノ順序ハ既ニ前編造幣寮事務ノ雑記ニ演タル所ナレハ今又説朗ス ルヲ要セスト雖我計算課局ニ来ル初学輩ヲ教導センカ為ニシテ再ヒ其大約ヲ掲テ其順序 ニ従テ造幣計算ノ書法ヲ顕シ而シテ又簿記帳ノ式ヲ知ラシメントス (佐藤千代子の翻刻)

(現代語訳)………

計算簿記の技術において、関わり合うことが多い。たしかに、西洋簿記がわが国で行わ れるようになって長くなるが、記帳の方法についてはまだ統一されていないために記入者 の誤りをなくすことができない。あるいは個人が都合良くごまかす恐れがある。あなた方

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57 久野秀男〔1992〕262-263頁。

58 白坂亨〔2017〕156頁。

59 佐藤千代子〔1970〕74頁。

参照

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