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集03 祝ノーベル生理学 医学賞受賞大村博士の大いなる軌跡を 本人や関係者の声を交えながら紹介していく 特C O N T E N T S 特集 祝ノーベル生理学 医学賞受賞 人類への貢献の実践者 大村智博士 2015 年ノーベル生理学 医学賞を北里大学特別栄誉教授の大村智博士が受賞 スウェーデンから

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大村博士を支えた人生訓(直筆書) 「実践躬行(口先だけでなく、自分自身で実際に行うこと)」 誌名「雷(いかずち)」について 北里柴三郎は生前、その人柄から「ドンネル (ドイツ語で der Donner =雷おやじ)」と呼ばれ、多くの門下生の畏敬と信頼を集めていました。 常に厳格な姿勢で学問追究に取り組んだ北里のスピリットを象徴する 言葉として、「雷(いかずち)」を本誌タイトルとしました。

THE KITASATO INSTITUTE MAGAZINE Special Issue いかずち

【特集】祝ノーベル生理学・医学賞受賞

人類への貢献の実践者

大村智博士

THE KITASATO INSTITUTE

MAGAZINE

2016.03

学校法人 北里研究所 広報誌 No.19 ー未来科学の創造ー 2012年 北里大学創立50周年 2014年 北里研究所創立100周年 発行日/ 2016 年 4 月1 日  発行/学校法人 北里研究所 〒108-8641 東京都港区白金 5-9-1   企画・編集/法人本部 総務部広報課 〒252-0373 神奈川県相模原市南区北里 1-15-1 TEL 042-778-7883  E-mail:ikazuchi@kitasato-u.ac.jp http : //www.kitasato.ac.jp 本誌掲載記事・写真の無断転載、複写を禁止します。 Special Issue

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人類への貢献の実践者

大村智博 士

2015年ノーベル生理学・医学賞を北里大学特別栄誉教授の大村智博士が受賞―― スウェーデンから届いたこの吉報は、日本中に惜しみない賞賛の声を巻き起こした。 受賞理由は、寄生虫による感染症の新たな治療法に関する発見。 画期的な薬効を持つ微生物由来の物質を見出し、 世界で年間2億人あまりの人々を病魔から守っている功績が高く評価されたのだ。 大村博士は微生物化学研究の第一人者であると同時に、日本の産学連携研究のパイオニアとして知られる。 また、北里にとっては今日の大学及び研究所の発展をもたらした大功労者でもある。 学祖、北里柴三郎博士が第1回ノーベル賞の最終候補者となってから114年。 その門下生として、KITASATOの名を世界に轟かせる快挙を成し遂げた 大村博士の大いなる軌跡を、本人や関係者の声を交えながら紹介していく。 特 集 03 祝 ノ ー ベ ル 生 理 学 ・ 医 学 賞 受 賞

【特集】祝ノーベル生理学・医学賞受賞

02 【特集】祝ノーベル生理学・医学賞受賞

人類への貢献の実践者 大村智博士

04 [PART1]世紀の発見とノーベル賞 奇跡の新薬が打ち立てた、 感染症撲滅の金字塔 06 [PART2]画期的研究体制による取り組み 産学連携のパイオニアとして 「大村方式」を確立 08 [PART3]研究の経営と社会貢献 社会への貢献と次代の人材育成に、 知恵と情熱を傾けて 10 [PART4]大村博士を育んだ故郷の風景 眺望は人を養う― 大村博士の故郷、韮崎を訪ねて 14 北里メモリアル 2015年ノーベル賞授賞式 16 大村博士から学んだ独創性と先見性、 実行力、そしてリーダーシップ 北里大学名誉教授 山田陽城 18 エバーメクチン発見の陰で成し遂げた もう一つの偉業 北里大学名誉教授 高橋洋子 20 ノーベルウィークを振り返って ―ストックホルム滞在記― 北里大学北里生命科学研究所教授・研究推進センター長 砂塚敏明 22 特別寄稿 ローベルト・コッホ研究所前所長 ラインハルト・ブルガー氏 北里大学大学院感染制御科学府客員教授 アンディ・クランプ氏 24 大村智博士を語る ①[特別インタビュー]画家 櫻井孝美氏 ②[伝記著者からのメッセージ]科学ジャーナリスト 馬場錬成氏 26 ノーベル賞受賞決定後の主な表彰・行事 大村博士の略歴・学術賞・勲章等 C O N T E N T S

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[ P A R T 1 ] 世 紀 の 発 見 と ノ ー ベ ル 賞 04 特 集 特 集 05 [ P A R T 1 ] 世 紀 の 発 見 と ノ ー ベ ル 賞 蔓 延 す る 地 域 で 無 償 提 供 を 開 始 し た 。 こ の 「 オ ン コ セ ル カ 制 圧 プ ロ グ ラ ム 」は 現 在 も 継 続 さ れ 、 世 界 中 で 年 間 2億 人 あ ま り の 人 々 を 病 魔 か ら 守 り 続 け て い る 。   大 村 博 士 は 2 0 0 4 年 に 、 オ ン コ セ ル カ 症 の 撲 滅 が 近 づ く ア フ リ カ の ガ ー ナ を 視 察 し た 。 現 地 の 子 ど も た ち は 日 本 の こ と は 何 も 知 ら な か っ た が 、「 メ ク チ ザ ン ( 無 償 供 与し て い る イ ベ ル メ ク チ ン の 商 品 名 )」 の 開 発 者 と 聞 く と 大 歓 声 を 上 げ た 。   「 私 は 祖 母 か ら 『 人 の た め に な る こ と を し な さ い 』 と 言 わ れ な が ら 育 ち ま し た 。 実 際 に 病 気 の 恐 怖 か ら 解 放 さ れ た ア フ リ カ の 子 ど も た ち に 囲 ま れ た と き 、 世 の 中 の 役 に 立 て た こ と を 実 感 し ま し た 」   北 里 と ノ ー ベ ル 賞 の 関 わ り の 歴 史 を た ど る と 、 実 は 1世 紀 以 上 前 に さ か の ぼ る 。 1 9 0 1 年 の第 1回 ノ ー ベ ル 生 理 学 ・ 医 学 賞 の 最 終 候 補 者 の 一 人 は 、 学祖 北 里 柴 三 郎 博 士 で あ っ た 。 ド イ ツ の 医 学 者 ベ ー リ ン グ と と も に ジ フ テ リ ア の 血 清 療 法 の 開 発 に 貢 献 し た 功 績 が 評 価 さ れ た も の だ が 、 初 代受 賞 者 の 栄 誉 は ベ ー リ ン グ の み に 贈 ら れ た 。 そ の 後 、 柴 三 郎 博 士 の 弟 子 で あ る 秦 佐 八 郎 や 野 口 英 世 も ノ ー ベ ル 賞 に ノ ミ ネ ー ト さ れ た が 最 終 的 に 選 ば れ る こ と は な か っ た 。 今 回 の 大 村 博 士 の 快 挙 は 、 北 里 に と っ て 学 祖 た ち が 果 た せ な か っ た 1 1 4 年 越 し の 夢を 実 現 し た も の で あ り 、 特 別 に 大 き な 意 味 を 持 つ も の な の で あ る 。 晴 れ 舞 台 の 感 動 は 、 家 族 や 仲 間 と と も に   ス ト ッ ク ホ ル ム で 過 ご し た 10日 間 、 ホ ス ト を 務 め る 現 地 の ノ ー ベ ル 賞関 係 微 生 物 が も た ら し た ノ ー ベ ル 賞 の 快 挙   「 大 村 君 、 ス ト ッ ク ホ ル ム を め ざ し て く れ 」

ノ ー ベ ル賞 受 賞 式 に 臨 ん で 現 地 の 空 港 に 着 い た と き 、 北 里 大 学 特 別 栄 誉 教 授 、 大 村 智 博 士 の 頭 に 浮 か ん だ の は 、 2 0 1 1 年 に 亡 く な っ た 薬 学 の 先 輩 で 、 創 薬 と い う こ と ば を 作 っ た と い わ れ る 野 口 照 久 氏 か ら 託 さ れ た 、 こ の ひ と 言 だ っ た と い う 。   「 当 時 は ぴ ん と こ な か っ た の で す が 、 滑 走 路 に 着 陸 し た 瞬 間 、 わ っ と 思 い 出 し ま し た 。 あ の 激 励 ど お り 、 本 当 に 自 分 は こ こ に 辿 り 着 い た の だ と 感 無 量 で し た ね 」   2 0 1 5 年 ノ ー ベ ル 生 理 学 ・ 医 学 賞 は 、 寄 生 虫 が 引 き 起 こ す 難 病 の 治 療 に 役立 つ 微生 物 由 来 物 質 「 エ バ ー メ ク チ ン 」 を 発 見 し た 大 村 智 博 士 ら 3人 に 贈 ら れ た 。 日 本 人 の ノ ー ベ ル 賞 受 賞 は 23 人 目 、 生 理 学 ・ 医 学 賞 で は 3人 目 と な る 快 挙 で あ る 。   大 村 博 士 ら の 研 究 グ ル ー プ が 、 伊 豆 の 土 壌 か ら 採 取 し た 微 生 物 が 生 産 す る エ バ ー メ ク チ ン は 、 ア メ リ カ の 製 薬 会 社 メ ル ク 社 と の 共 同 研 究 に よ り 、 動物 の 抗 寄 生 虫 薬 「 イ ベ ル メ ク チ ン 」 と し て 実 用 化 。 家 畜 の 寄 生 虫 だ け で な く 犬 の フ ィ ラ リ ア に も 優 れ た 効 果 を 発 揮 す る 同 薬 は 、 ま た た く 間 に 動 物 薬 の 世 界 的 ベ ス ト セ ラ ー と な っ た 。   さ ら に 、 こ の 薬 は ア フ リ カ や 中 南 米 で 猛 威 を 振 る っ て い た 人 間 の 寄 生 虫 病 で 、 悪 化す る と 失 明 に 到 る 「 オ ン コ セ ル カ 症 ( 河 川 盲 目 症 )」 に 、 わ ず か な 投 与 量 で 画 期 的 な 薬 効 を 示 す こ と が わ か っ た 。 ま た 、 足 が 象 の よ う に 腫 れ 上 る 「 リ ン パ 系 フ ィ ラ リ ア 症 」 や 、皮 膚 の 難 病 「 疥 癬 」 な ど に も 有 効 で あ る こ と が 判 明 。 ま さ に 世 界 が 待 ち 望 ん で い た 奇 跡 の 新 薬 だ っ た の で あ る 。 今 も 年 間 2億 人 あ ま り の 人 々 を 守 る   世 界 保 健 機 関 ( W H O ) は 、 イ ベ ル メ ク チ ン が あ ら ゆ る 熱 帯 病 治 療 薬 の 中 で 桁 外 れ の 効 果 を 持 つ も の と 高 く 評 価 し 、 米 国 メ ル ク 社 は 1 9 8 8 年 よ り 病 気 が 者 か ら 温 か な も て な し を 受 け 、 リ ラ ッ ク ス し て 滞 在 を 楽 し め た と い う 大 村 博 士 。 し か し 、 授賞 式 で 国 王 か ら メ ダ ル と 賞 状 を 手 渡 さ れ た と き の 緊 張 と 高 揚 感 は 、 人 生 で 経験 し た こ と が な い ほ ど の も の だ っ た と 振 り 返 る 。   「 名 前 が 呼 ば れ た と き に 鳴 る フ ァ ン フ ァ ー レ と 、 自分 が 挨 拶を し た と き の 盛 大 な 拍 手 。 そ れ が 確 か に あ っ た は ず な ん で す が 、 聞 い た 記 憶 が ま っ た く な い の で す 。 そ れ ほ ど 緊 張 し て い た ん で す ね 。 後 で 娘 に 、 自 分 の 振 舞 は お か し く な か っ た か 確 か め た く ら い で す 」   続 い て 行 わ れ た 晩 餐 会 も 心 に 深 く 刻 ま れ るも の だ っ た 。 エ ス コ ー ト し た ス ウ ェ ー デ ン 王 妃 が 気 さ く な 方 で 、 大 村 博 士 が 現 地 で 訪 ね た 美 術 館 の 絵 の 感 想 を 述 べ た と こ ろ 、 大 い に 意 気投 合 し た の だ 。 ま た 、 王 妃 の 母 の 故 郷 で あ る ブ ラ ジ ル の 日 系人 を 引 き 合 い に 出 し 、 日 本 人 の 勤 勉 さ や 賢 さ を 盛 ん に 称 え て く れ た こ と も 印 象 に 残 っ て い る 。   授 賞 式 当 日 、 大 村 博 士 は 内 ポ ケ ッ ト に 亡 き 妻 の 文 子 さ ん と 共 同 研 究 者 だ っ た 大 岩 留 意 子 氏 の 写 真 を 忍 ば せ て い た 。 二 人 の 助 け が な け れ ば 、 こ の 晴 れ 舞 台 に 立 つ こ と は 決 し て な か っ た だ ろ う 。 大 村 博 士 に と っ て ノ ー ベ ル 賞 は 、 家 族 や 多 く の 研 究 仲 間 と と も に 分 か ち 合 う べ き 栄 誉 な の で あ る 。

奇跡の新薬 が打ち立てた、感染症撲滅の金字塔

PART1

世紀の発見とノーベル賞

2004年にガーナを訪ね、オンコセルカ症から救われた 子どもたちの大歓迎を受ける 北里柴三郎博士がノーベル賞の有力候補だったことを報 じる新聞記事を手に、受賞決定の喜びを語る大村博士 ノーベル賞授賞式でスウェーデン国王からメダルと賞状を授与される大村智博士 2015年12月10日、ストックホルムのコンサートホールに1500人の観衆を集めて盛大に開催 されたノーベル賞授賞式 ノーベル賞授賞式に続いて行われた晩餐会ではスウェーデン首相夫人と並んで着席。「と てもくつろいだ雰囲気で、心からディナーを楽しめた」と振り返る 伊豆のゴルフ場での微生物採取の様子。年間2000株 を調べる中からエバーメクチン産生菌は見つかった

©Nobel Media AB 2015/ Pi Frisk

©Nobel Media AB 2015/ Pi Frisk ©Nobel Media AB 2015/ Alexander Mahmoud

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[ P A R T 2 ] 画 期 的 研 究 体 制 に よ る 取 り 組 み 06 特 集 特 集 07 [ P A R T 2 ] 画 期 的 研 究 体 制 に よ る 取 り 組 み 当 時 の 常 識 を 破 っ た 研 究 ス タ イ ル を 導 入   産 学 連 携 研 究 は 今 で は あ ら ゆ る 分 野 で 当 た り 前 の よ う に 行 わ れ て い る 。 し か し 、 一 昔 前 ま で 日 本 の 学 問研 究 の 世 界 で は 、 企 業 と 協 力 し て 研 究 を 行 う こ と に 難 色 を 示 す 風 潮 が 色 濃 く あ っ た 。 こ れ を 打 ち 破 り 、 日 本 の 研 究 者 と し て い ち 早 く 国 際 産 学 連 携 体 制 を 確 立 し た パ イ オ ニ ア と し て も 大 村 博 士 の 名 は 知 ら れ て い る 。   1 9 7 1 年 に 北 里 研 究 所 か ら ア メ リ カ の ウ エ ス レ ー ヤ ン 大 学 に 留 学し 、 化 学 界 の 重 鎮 で あ る マ ッ ク ス ・ テ ィ シ ュ ラ ー 教 授 の 研 究 室 で 能 力 を 認 め ら れ た 大 村 博 士 は 、 帰 国 す る 1 9 7 3 年 に 教 授 の 力 添 え に よ り 製 薬 大 手 の 米 国 メ ル ク 社 と 画 期 的 な 契 約 を 結 ぶ 。 そ の 中 身 は こ う だ 。   北 里 研 究 所 の 大 村 グ ル ー プ は 、 米 国 メ ル ク 社 か ら 資 金 提 供 を 受 け て 微 生 物 由 来 物 質 を 探 索 す る 。 有 望 な も の が 見 つ か れ ば 特 許 を 取 り 、 そ の 占 有 実 施 権 を 米 国 メ ル ク 社 に 提 供 。 実 用 化 さ れ た 場 合 は 、 北 里 研 究 所 に 特 許 ロ イ ヤ リ テ ィ が 支 払 わ れ る と い う も の だ 。   こ の 「 大 村 方 式 」 の 産 学 連 携 の 大 成 功 例 が エ バ ー メ ク チ ン 発 見 だ が 、 そ れ 以 外 に も 国 内 外 の 多 く の 企 業 と の 間 で 共 同 プ ロ ジ ェ ク ト が 展 開 さ れ 、 大 村 博 士 の 研 究 グ ル ー プ は 継 続 的 に 研 究 資 金 を 確 保 し 、 先 端 研 究 を 続 け る こ と が で き た 。 産 学 連 携 の カ ギ を 握 る の は 独 自 性   産 学 連 携 で 成 果 を 上 げ る ため に は 、 承 さ れ 、 国 内 外 の 企 業 ・ 研 究 機 関 と の 共 同 研 究 を 通 じ て 有 望 な 物 質 ・ 薬 品 が 開 発 さ れ つ つ あ る 。 基 礎 研 究 に も 注 力 し 、 放 線 菌 の 全 ゲ ノ ム を 解 読   世 の 中 に 多 大 に 貢 献 し て き た 大 村 博 士 の 研 究 の 根 底 に は 、 尊 敬 す る 北 里 柴 三 郎 博 士 が 大 切 に し た 「 実 学 の 精 神 」 が 息 づ い て い る 。 破 傷 風 の 血 清 療 法 の 発 見 を は じ め 、 結 核 専 門 病 院 「 土 筆 ヶ 岡 養 生 園 」 の 設 立 、 慶 應 義 塾 大 学 医 学 部 創 設 へ の 尽 力 な ど 、 持 て る 叡 智 を 惜 し み な く 社 会 に 還 元 し た 北 里 柴 三 郎 博 士 の 姿 勢 は 、 研 究 者 人 生 の 良 き お 手 本 と な っ て い る 。   「 研 究 は 自 分 が 面 白 い だ け では だめ で 、 世 の た め 、 人 の た め に 役 立 つ も の で な け れ ば 」 と は 、 大 村 博 士 が 若 い 研 究 者 や 学 生 に 日 頃 か ら 言 い 聞 か せ て い る 言 葉 だ 。 し か し 、 誤 解 し て は な ら な い の は 、 大 村 博 士 が 実 用 化 と い う 物 差 し だ け で 研 究 テ ー マ を 選 ん で き た わ け で は な い と い う こ と だ 。   「 私 は 応 用 研 究 ば か り や っ て い る と 思 わ れ が ち で す が 、 実 は 半 分 は 基 礎 研 究 で す 。 大 切 な の は 、 基 礎 を や り な が ら 、 そ れ が 世 の 中 で ど う い う 位 置 づ け に な る の か を 問 い 続 け る こ と 。 そ う す れ ば 自 ず と 実 用 化 の 可 能 性 も 見 え て く る で し ょ う 」   こ の よ う に 説 く 大 村 博 士 が 手 掛 け た 基 礎 研 究 の う ち 、 最 も 重 要 な も の の 一 つ が 、 放 線 菌 の 全 ゲ ノ ム 解 読 に 挑 ん だ プ ロ ジ ェ ク ト だ 。 研 究 室 の ロ イ ヤ リ テ ィ 収 入 を 原 資 に 、 大 村 博 士 が 総 括 責 任 者 と な っ て 進 め た こ の 野 心 的 共 同 研 究 に よ り 、 エ バ ー メ ク チ ン を 産 生 す る 放 線 菌 の 全 遺 伝 子 が 世 界 に 先 駆 け て 明 ら か に さ れ た 。 こ の 成 果 は 、 放 線菌 の 二 次 代 謝 物 産 生 の 秘 密 を 解 く 手 が か り に な る と と も に 、 わ が 国 の バ イ オ テ ク ノ ロ ジ ー 技 術 を 世 界 の 最 先 端 レ ベ ル に 導 く 突 破 口 に も な っ た 。 研 究 者 が 心 得 て お く べ き ポ イ ン ト が い く つ か あ る 、 と 大 村 博 士 は 言 う 。   「 一 番 大 切 な の は 、 研 究 者 が 独 自 性 を 持 つ こ と で す 。 自 分 た ち が う ま く い っ た の は 、 北 里 研 究 所 の お 家 芸 で あ り 、 外 国 企 業 が 太 刀 打 ち で き な い 強 み で あ る 、 自 然 界 か ら 微 生 物 を 分 離 す る 優 れ た 技 術 が あ っ た か ら で す 」   加 え て 、 研 究 者 と 企 業 を 仲 立 ち す る 人 間 の 重 要 性 も 強 調 す る 。   「 初 め て 産 学 連 携 に 取 り 組 む 前 に メ ル ク 社 が 我 々 の も と に 、 微 生 物 の 分 野 に 精 通 し 、 日 本 人 や 日 本 の 文 化 に も 深 い 理 解 を 示 す 優 秀 な 人 物 を 派 遣 し て く れ た 。 こ の 人 が お 互 い の 要 求 を す り 合 わ せ 、 ス ム ー ズ に 仕 事 を 進 め て い く う え で 大 き な 役 割 を 果 た し て く れ た の で す 。 日 本 の 企 業 や 大 学 も 、 こ う し た 人 材 を 育 て て い か な く て は い け ま せ ん ね 」   大 村 博 士 の 研 究 グ ル ー プ は 産 学 連 携 体 制 を 生 か し て 、 こ れ ま で に 実 に 約 4 8 0 種 類 も の 新 規 化 合 物 を 発 見 。 そ の う ち 25種 類 以 上 が 企 業 に よ っ て 医 薬 、 動 物 薬 、 農 薬 、 研 究 用 試 薬 と し て 実 用 化 さ れ た 。 こ れ ほ ど の 実 績 を 上 げ て い る 微 生 物 化 学 研 究 室 は 、 世 界 中 を 見 渡 し て も ほ と ん ど 例 を 見 な い だ ろ う 。 こ う し た 活 発 な 取 り 組 み は 、 大 村 博 士 の 薫 陶 を 受 け た 後 輩 研 究 者 に も 継

産学連携 のパイオニアとして「大村方式」

を確立

PART2

画期的研究体制による取り組み

人生最大の師と仰ぐウエス レーヤン大学のマックス・ティ シュラー教授と(1971年) 1893年開院の日本初の結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」。北里柴三郎博士の恩師、 福澤諭吉が土地と建物を提供した 破傷風の血清療法を確立した北里柴三郎博士。その「実学の精神」を大村博士も継承 エバーメクチンを産生する 放線菌。その全ゲノムも大 村博士を中心とする研究グ ループが解読した WHOによるエバーメクチン 無償投与プロジェクトを伝 える1987年の読売新聞  1965年に北里研究所に入所した大 村先生は、当時の所長であった秦藤樹 先生の研究室を活動の場としました。 秦先生は戦後、国産ペニシリン開発の 研究メンバーの一人にも選ばれた抗生 物質研究の第一人者であり、大村先生 はその直弟子、私は孫弟子にあたります。  秦研究室で注力していたのは放線菌産生物の研究で、代表 的な成果の一つが白金の土から採取されたロイコマイシンの発見 です。優れた抗菌活性を示すこの物質は、外部企業の協力で 製剤化され、その後、大村先生の手で成分の分離や構造の決 定がなされました。  さらに、もう一つの重要な成果として、抗がん剤マイトマイシン の発見も挙げられます。これらも企業の支援により大量生産が 実現して、がんの治療に多大な功績を残し、今も臨床現場で使 われています。  このように秦研究室では、企業との協力関係に基づく研究に 早くから取り組み、多くの実績を重ねていました。この研究スタイ ルをさらに発展させたのが 大村先生で、その画期的な 点は、研究を始める前に企 業と研究内容や研究資金、 特許などに関する契約を結 び、より緊密な連携を実現したところにあります。抗生物質を発 見して製品化するまでには多くの資金や大規模な設備、大量生 産のノウハウなどが欠かせません。大村先生はこの現実を見据 え、先見の明を持って最善の研究体制をつくり上げたのです。  さて、学校法人の初代理事長や学長も兼務した秦先生は、 研究室メンバーから敬愛を受ける一方、ときに激しく叱咤する怖 い存在でもありました。その後、研究室を引き継いだ大村先生 も似た面があり、当時は私もよく雷を落とされました。北里柴三 郎博士に始まる「雷親父」の伝統は、ここにしっかりと生きてい るのです。  厳しさと気配り。その両方で研究チームを牽引されてきた大村 先生のノーベル賞受賞は、苦楽を共にしたスタッフ全員の誇りで あり、これ以上ない喜びです。

伝統を継承し発展させた先見の明

北里生命科学研究所客員教授 一般社団法人 北里柴三郎記念会常務理事 

岩井 譲

2014年ガードナー国際保健賞受賞 を記念して作成したガードナー財団 の小冊子の表紙 大村・岩井両博士の恩師、 秦藤樹博士 研究室時代の思い出を語る岩井譲博士

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[ P A R T 3 ] 研 究 の 経 営 と 社 会 貢 献 08 特 集 特 集 09 [ P A R T 3 ] 研 究 の 経 営 と 社 会 貢 献   「 最 後 の 決 め 手 は 住 民 の 皆 さ ん の 後 押 し で し た 。 途 中 で 挫 折 し そ う に も な り ま し た が 、 多 く の 応 援 の 声 と 関 係 者 の が ん ば り 、 そ し て 北 里 柴 三 郎 博 士 譲 り の 不 撓 不 屈 の 精 神 。 こ れ に 支 え ら れ た の で す 」   K M C に は 、 足 を 踏 み 入 れ た 瞬 間 に 気 づ く 大 き な 特 色 が あ る 。 大 村 博 士 本 人 が 収 集 し た り 、 公 募 や 寄 付 で 集 め ら れ た り し た 大 小 多 数 の 絵 画 ( 大 村 コ レ ク シ ョ ン ) が 病 院 中 に 飾 ら れ て い る の だ 。 ま た 、 エ ン ト ラ ン ス ホ ー ル に は 、 小 さ な コ ン サ ー ト が 開 け る よ う グ ラ ン ド ピ ア ノ も 設 置 さ れ て い る 。   「 た だ 病 気 を 治 す だ け で な く 、 人 の 心 を 癒 し 、 文 化 を 担 う 場 所 に し た か っ た 」 と 大 村 博 士 は ね ら い を 語 る 。「 絵 の あ る 病 院 」 の コ ン セ プ ト は 2 0 1 4 年 に 神 奈 川 県 相 模 原 市 に 完 成 し た 新 し い 北 里 大 学 病 院 に も 生 か さ れ 、 同 じ よ う に 多 数 の 絵 画 が 院 内 に 展 示 さ れ て い る 。 日 本 を 代 表 す る 有 名 画 家 か ら 新 進 気 鋭 の 作 家 ま で 、 両 病 院 を 彩 る バ ラ エ テ ィ に 富 ん だ 作 品 は 、 訪 れ る 人 の 目 を 楽 し ま せ 安 ら ぎ を 与 え て い る 。 ※ 現 北 里 大 学 メ デ ィ カ ル セ ン タ ー 卓 越 し た 実 績 を 上 げ る 人 材 育 成 の 取 り 組 み   「 人 を 育 て る 名 人 」 の 顔 も 持 つ 大 村 博 士 は 、 次 代 を 担 う 若 い 人 材 の 育 成 に 大 き な エ ネ ル ギ ー を 注 い で き た 。 そ の 根 底 に は 、「 金 を 残 す のは 下 、 仕 事 を 残 す の は 中 、 人 を 残 す の は 上 」 と い う 、 関 東 大 震 災 後 の 首 都 復 興 に 力 を 尽 く し た 政 治 家 、 後 藤 新 平 の 言 葉 が あ る 。 自 身 の 研 究 室 の 学 生 に は 、 常 日 頃 か ら 「 失 敗 を 恐 れ る な 」「 人 と 違 う こ と を や れ 」 と 叱 咤 激 励 。 も ち ろ ん 単 な る 精 神 論 で は な く 、 専 門 が 決 ま ら な い 学 生 に 研 究 を 支 え る た め に 経 営 に 注 力   研 究 者 が 社 会 に 役 立 つ 研 究 を 継 続 し て い く に は 、 安定 し た 運 営 基 盤 が 不 可 欠 だ 。 大 村 博 士は 「 研 究 を 経 営 す る 」 こ と も 学 者 の 重 要 な 使 命 と 認 識 し 、 組 織 の マ ネ ジ メ ン ト に も 比 類 な き 手腕 を 発 揮 し て き た 。   1 9 6 2 年 の 北 里 大 学 の 開 学 以 降 、 社 団 法 人 北 里 研 究 所 は 、 大 学 拡 充 の た め に 人 材 や 資 産 を 傾 注 し た こ と で 組 織 と し て の 疲 弊 が 進 ん で し ま っ た 。 こ の 窮 状 を 見 か ね た 大 村 博 士 は 、 経 営 の 再 建 と 強 化 に 最 優 先 で 取 り 組 む こ と を 決 意 し 、 数 々 の 打 開 策 を 打 ち 出 し た 。 そ の 最 大 の 切 り 札 が 、 埼 玉 県 北 本 市 に 新 病 院 を 建 設 す る プ ラ ン で あ る 。   1 9 8 0 年 代 、 埼玉 県 は 人 口 に 比 し て 医 療 の 整 備 が 立 ち 遅 れ た 「 病 院 過 疎 地 」 で あ り 、 医 療 施 設 の 充 実 は 重 要 な 課題 だ っ た 。 大村 博 士 は 自 ら ヘ リ コ プ タ ー で 用 地 視 察 を 行 う な ど 、 入 念 な 事 前 調 査 を 行 い 、 武 蔵 野 の 豊 か な 自 然 が 残 る こ の 地 に 白 羽 の 矢 を 立 て た 。   し か し 、大 規 模 な 総 合 病 院 の 建 設 は 、 患 者 を 失 う こ と を 恐 れ た 地 元 医 師 会 の 猛 烈 な 抵 抗 に あ う 。 大 村 博 士 ら は 、 既 存 の 医 療 機 関 と 北 里 の 病 院 が 連 携 す れ ば 住 民 に 多 大 な 恩 恵 を も た ら す と 説 明 し た が 、 そ れ に 納 得 し な い ど こ ろ か 、 当 時 は ま と も に 話 し 合 い の 場 に 着 こ う と す ら し な か っ た 。 住 民 の 応 援 で 「 絵 の あ る 病 院 」が 完 成   難 航 す る 新 病 院 計 画 に 追 い 風 を 吹 か せ た の は 大 村博 士 の 夫 人 の 文 子 さ ん だ っ た 。 彼 女 は 、 大 村 博 士 の 教 え 子 の 母 親 で も あ る 友 人 と 相 談 し て 、 住 民 に よ る 署名 運 動 を 開 始 し た の だ っ た 。 運 動 が 始 ま る と す ぐ に 2 5 0 0 0 人 を 超 え る 署 名 が 寄 せ ら れ た 。 こ れ を き っ か け に 建 設 反 対 の 声 は 萎 み 、 1 9 8 9 年 、 つ い に 北 里 研 究 所 メ デ ィ カ ル セ ン タ ー 病 院 ※ ( K M C ) が 誕 生 し た 。 は そ れ ぞ れ に 合 っ た テ ー マ を 与 え 、 意 欲 の あ る 者 に は 公 平 に チ ャ ン ス を 授 け る な ど 、 き め 細 か な 指 導 を 実 践 す る 。 こ れ ま で に 大 村 研 究 室 は 1 2 0 人 以 上 の 博 士 、 30人 以 上 の 教 授 を 送 り 出 し て き た 。 一 研 究 室 の 実 績 と し て は ど ち ら も 驚 く べ き 数 字 で あ る 。   ま た 1 9 9 4 年 に は 、 急 速 に 進 歩 す る 医 療 の 現 場 で 活 躍 す る 優 れ た 看 護 師 を 育 て る た め に 、 K M C に 隣 接 す る 土 地 に 北 里 看 護 専 門 学 校 ※ も 開 設 し た 。 こ ち ら の 広 々 と し た エ ン ト ラ ン ス ホ ー ル に も 、 優 れ た 絵 画 や 書 画 作 品 が 並 ぶ 。 豊 か な 感 性 と 人 間 性 を 備 え た 心 あ る 医 療 人 に な っ て ほ し い と い う 大 村 博 士 の 思 い が こ こ に も 生 き て い る 。   さ ら に 、 大 村 博 士 は 生 ま れ 故 郷 の 山 梨 で も 、 若 者 を 育 て る た め の 斬 新 な 取 り組 み を 起 ち 上 げ て い る 。 大 学 教 授 や研 究 所 の リ ー ダ ー な ど 1 3 0 人 か ら 構 成 さ れ る 「 山 梨 科 学 ア カ デ ミ ー 」 は 、 県 内 の 研 究 者 の 顕 彰 や 、 地 域 の 小 中 高 生 の た め に 訪 問 事 業 な ど を 行 っ て い る 。 1 9 9 5 年 以 来 、 2万 人 以 上 の 子 ど も た ち が 参 加 し て 科 学 の 心 を 養 っ て い る 。 ※ 現 北 里 大 学 看 護 専 門 学 校

社会への貢献と次 代の人材育成に、

知恵と情熱を傾けて

PART3

研究の経営と社会貢献

北里大学メディカルセンターの広大な敷地には、病院、看護師宿舎、看 護専門学校、保育園、運動場、大村記念館などがある 北里大学相模原キャンパスに2014年に誕生した北里大学病院にも たくさんの絵が飾られ、来院者の心を癒す 北里大学看護専門学校附属棟のエントランスホール。一流の芸術 家の作品が学生生活を彩る 化学界の第一線で活躍する多くの人材を育て続けている大村博士。 「人への投資は裏切らない」が持論だ 山梨科学アカデミーのワンシーン。科学の面白さを伝え ることを大切にしている 美術館のように多くの絵が出迎える北里大学メディカルセンター内部。院内では市民コンサートも催される

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[ P A R T 4 ] 大 村 博 士 を 育 ん だ 故 郷 の 風 景 10 特 集 特 集 11 [ P A R T 4 ] 大 村 博 士 を 育 ん だ 故 郷 の 風 景 ど 古 い 農 家 の た た ず ま い を 随 所 に 残 し て い る 。   こ の 生 家 の す ぐ 目 の 前 に 、 現 在 、 大 村 博 士 が 里 帰 り の 折 に 滞 在 す る 自 宅 が あ る 。 最 近 、 回 数 は 減 っ て い る が 、 韮 崎 を 訪 れ た 知 人 や ゴ ル フ 仲 間 ら を こ こ に 招 い て の バ ー ベ キ ュ ー パ ー テ ィ に も 使 わ れ る 。 そ の 際 、 訪 問 客 を 迎 え る 見 事 な 日 本 庭 園 は 、 自 身 で 設 計 を 手 が け た も の だ 。   「 イ メ ー ジ し た の は 子 ど も の 頃 に よ く 登 っ た 裏 山 。 下 に 池 が あ っ て 、 登 っ て い く と 林 の 中 を 歩 く よ う な 感 じ に し た 。 小 さ な 木 は 自 分 で 植 え た ん で す よ 。 安 い 木 ば っ か り で す が ね 」 と 目 を 細 め る 。 芸 術 の 共 有 の た め に 美 術 館 を 寄 贈   自 宅 か ら 歩 い て 2分 ほ ど の と こ ろ に は 、 ノ ー ベ ル 賞 受 賞 の 際 に 何 度 も 報道 さ れ 、 全 国 区 の 知名 度 に な っ た 「 韮 崎 大 村 美 術 館 」 が あ る 。 大 村 博 士 が 私 財 を 投 じ て 集 め た 女 流 画 家 の コ レ ク シ ョ 大 人 物 を 生 み 出 す 、 美 し き 故 郷   甲 府 盆 地 の 北 西 部 、 山 梨 県 韮 崎 市 が 大 村 博 士 の 生 ま れ 故 郷 だ 。 か つ て 甲 斐 の 国 を 治 め た 武 田 氏 の 発 祥 地 で あ る が 、 20世 紀 以 降 も 各 界 で 活 躍 す る 大 人 物 が こ こ か ら 輩出 し て い る 。 そ の 代 表 格 が 、 阪 急 電 鉄 や 宝 塚 歌 劇 団 の 創 始 者 で あ る 小 林 一 三 氏 。 韮 崎 の 商 家 に 生 ま れ 、 慶 應 義 塾 大 学 で 学 ん だ 後 、 実 業 家 と し て 大 成 功 を 収 め た 立 志 伝 中 の 人 物 だ 。 ま た 、 世 界 的 な 数 学 者 と し て 名 高 い 大 阪 大 学 教 授の 功 刀 金 二 郎 博 士や 、 東 京 タ ワ ー を は じ め 多 く の 塔 を 設 計 し 、「 塔 博 士 」と 呼 ば れ た 内 藤 多 仲 博 士 も 同 郷 。 山 梨 県 出 身 で 日 本 学 士 院 会 員 に な っ た 人 は 、 功 刀 、 内 藤 の 両 博 士 に 大 村 博 士 を 加 え て 3人 い る が 、 偶 然 か 必 然 か 、 そ の す べ て が 大 村 博 士 の 生 家 か ら ほ ど 近 い 場 所 か ら 出 て い る 。   「 詩 人 の 大 岡 信 は 『 眺 望 は 人 を 養 う 』 と 言 っ て い ま す が 、 そ の 通 り だ と 思 う 。 私 に と っ て 故 郷 韮 崎 の 一 番 の 自 慢 は 、 日 本 を 代 表 す る 山 々 に 囲 ま れ た 風 景 。 こ の 眺 望 と 自 然 豊 か な 環 境 が 、 人 間 形 成 に 大 き な 影 響 を 与 え る ん で す よ 」   実 際 に 生 家 を 訪 ね る と 、 北 に 八 ヶ 岳 、 そ の 東 隣 に 茅 ヶ 岳 、 奥 に 秩 父 連 峰 、 そ し て 南 東 に は 霊 峰 富 士 が 壮 大 な パ ノ ラ マ の よ う に 広 が っ て い る 。 こ れ が 幼 少 期 の 大 村 博 士 の 原 風 景 で あ り 、 こ の 自 然 の 中 で の 体 験 の 数 々 が 、 そ の 後 の 研 究 者 人 生 の 土 台 を 育 ん だ の だ 。 生 家 や 自 宅 は 、 和 や か な 交 流 の 場 に   韮 崎 市 神 山 町 に 残 る 大 村 博 士 の 生 家 は 、「 蛍 雪 寮 」 と 名 付 け ら れ 、 最 近 ま で 北 里 大 学 の 学 生 や 研 究 者 の 研 修 な ど に 利 用 さ れ て い た 。 こ の 建 物 が リ ノ ベ ー シ ョ ン さ れ て 「 シ ェ ア ハ ウ ス 蛍 雪 寮 」 と な り 、 2 0 1 6 年 か ら さ ま ざ ま な 人 々 が 田 舎 体 験 や 交 流 を 深 め る 拠 点 と し て 活 用 さ れ る 。 家 屋 は 改 装 さ れ 、 室 内 の 様 子 も 大 村 博 士 が 暮 ら し て い た 当 時 と は か な り 変 わ っ た が 、 土 間 や 竈 な ン を 中 心 と す る こ の 美 術 館 は 2 0 0 7 年 に 開 館 。 そ の 翌 年 に 韮 崎 市 に 寄 贈 さ れ た 。   「 す べ て の 芸 術 は 人 の 心 を 楽 し ま せ 、 清 く し 、 高 め る た め に 役 立 つ べ き も の で あ る 」 と い う 山 本 周五 郎 の 言 葉 に 共 鳴 す る 博 士 に と っ て 、 優 れ た 美 術 品 は 人 類 の 共 有 財 産 と い う 意 識 な の だ 。   こ の 美 術 館 は 、 そ の 素 晴 ら し い 作 品 と 並 ん で 、 展 望 カ フ ェ か ら の 眺 め も 売 り 物 だ 。 大 村 博 士 自 ら が 、「 最 高 の 景 色 を 楽 し む な ら こ の 目 線 が い い 」 と 決 め た 場 所 に 大 き な 窓 を 設 け て お り 、 来 館 者 は お 茶 を 飲 み な が ら 四 季 折 々 の 山 河 の 景 観 を 堪 能 で き る 。 2 0 1 7 年 秋 に は 博 士 ゆ か り の 品 々 や 資 料 な ど を 展 示 す る 「大 村 智 記 念 室 」 も 開 設 さ れ る 予 定 だ 。   ま た 、 美 術 館 の 隣 に は 日 帰 り 温 泉 施 設 と 蕎 麦 処 を 建 て 、 こ ち ら も 地 域 住 民 の 憩 い の 場 と し て 愛 さ れ て い る 。「 人 の た め に な る こ と を 」 と い う 祖 母 の 教 え は 、 こ の よ う な 形 で も し っ か り 実 践 さ れ て い る 。 武 田 発 祥 の 地 で 信 仰 を 集 め る 願 成 寺   甲 州 山 梨 を 代 表 す る 歴 史 上 の 人 物 と 言 え ば 、 戦 国 の 知 将 、 武 田 信 玄 公 を お い て 他 に な い だ ろ う 。 そ の 武 田 家 の ル ー ツ が 韮 崎 に あ る こ と は 市 民 に と っ て 大 き な 誇 り だ 。 中 で も 大 村 博 士 の 生 ま れ 育 っ た 神 山 町 周 辺 エ リ ア は 武 田 発

眺望は人を養う ― 大村博士の故郷、韮崎を訪ねて

PART4

大村博士を育んだ故郷の風景

生家を改装したシェアハウス蛍雪寮。八畳間4部屋、6畳間1部屋が あり、大人数での利用にも対応できる 大村博士が自分で設計したとは思えぬ見事な日本庭園。晴れた日には正 面に富士山が望める 四季折々に変化する八ヶ岳や富士山、甲府盆地の田園風景を楽しむことが できる美術館内の展望カフェ 韮崎大村美術館は、1階に上村松園ら女流画家の作品を、2階には画壇の 重鎮で、大村博士が愛してやまない鈴木信太郎の作品を中心に展示 多くの名峰が織りなす美しい山並みに囲まれた韮崎市。この風景を見ながら大村博士は育った

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[ P A R T 4 ] 大 村 博 士 を 育 ん だ 故 郷 の 風 景 12 特 集 特 集 13 [ P A R T 4 ] 大 村 博 士 を 育 ん だ 故 郷 の 風 景 祥 の 中 心 地 と さ れ 、 一 族 に 縁 の あ る 歴 史 的 遺 産 が 集 ま っ て い る 。   多 く の 旧 跡 の 中 で 、 特 に 大 村 博 士 と 関 係 が 深 い の が 願 成 寺 で あ る 。 生 家 か ら 1キ ロ メ ー ト ル ほ ど 離 れ た 場 所 に あ る こ の 寺 は 、 武 田 家 の 開 祖 で あ る 武 田 信 義 公 が 平 安 時 代 末 に 再 興 し た 菩 提 所 で 、 本 尊 の 阿 弥 陀 三 尊 像 は 国 の 重 要 文 化 財 に 指定 さ れ て い る 。 丸 み を 帯 び た 柔 ら か な 姿 が 気 品 を 感 じ さ せ る 美 し い 仏 像 だ 。   こ の 名 刹 も 昭 和 の 前 期 に は 畳 も 無 い ほ ど に 荒 れ 果 て 、 本 尊 ま で 売 り 払 わ れ そ う に な っ た 。 そ の と き 売 却 反 対派 を 主 導 し た の が 大 村 博 士 の 父 親 で 、 仲 間 と と も に 地 元 の 宝 を 流 出 の 危 機 か ら 守 っ た と い う 。   こ の 大 村 博 士 の 父 と 母 、 そ し て 妻 の 文 子 さ ん が 眠 る 墓 地 も 願 成 寺 に あ る 。 山 本 正 乗 住 職 は 、 博 士 が ノ ー ベ ル 賞 受 賞 後 、 初 め て 墓 参 り に 来 た と き の 様 子 を 鮮 明 に 覚 え て い る 。   「 そ の 日 は 渋 滞 で 大 村 博 士 の 韮 崎 へ の 到 着 が 遅 れ た の で す が 、 日 が 落 ち て 暗 く な っ た 中 、 懐 中 電 灯 を 頼 り に 熱 心 に お 墓参 り を さ れ て い ま し た 。 た い へ ん な 仕 事 を な さ れ た 方 な の に 、 そ の 振 る 舞 い は 皆 と 少 し も 変 わ ら な い 。 な か な か で き る こ と で は あ り ま せ ん 」 イ ベ ル メ ク チ ン 柄 の お 守 り も 登 場   鬱 蒼 と し た 緑 の 中 に 建 つ 武 田 氏 の 氏 神 、 武 田 八 幡 宮 も 大 村 博 士 の 生 家 か ら 歩 い て 20分 ほ ど の 距 離 に あ り 、 子 ど も の 頃 か ら な じ み 深 い 神 社 だ 。 1 5 4 1 年 に 武 田 信 玄 公 が 再 建 し た 桧 皮 葺 の 本 殿 は 、 力 強 さ と 装 飾 性 を 兼 ね 備 え た 室 町 期 の 特 色 を 伝 え 、 国 指 定 重 要 文 化 財 に な っ て い る 。 そ の ほ か 、 武 田 勝 頼 公 の 夫 人 が 奉 納 し た 祈 願 文 や 鳥 居 な ど は 県 指 定 の 文 化 財 。 韮 崎 を 訪 れ た 際 に は 、 ぜ ひ 足 を 運 び た い 史 跡 だ 。   ま た 、 今 回 の ノ ー ベ ル 賞 受 賞 に あ や か っ た ユ ニ ー ク な ア イ デ ア で 話 題 を 呼 ん で い る 神 社 も あ る 。 大 村 博 士 の 母 校 で あ る 県 立 韮 崎 高 校 の 近 く に 鎮 座 す る 若 宮 八 幡 宮 が そ れ 。 こ の 神 社 で は 2 0 1 6 年 1月 、 ノ ー ベ ル 賞 を も た ら し た画 期 的 物 質 「 イ ベ ル メ ク チ ン 」 の 化 学 式 を 模 し た 亀 甲 柄 デ ザ イ ン の お 守 り を作 っ た 。 特 に 「 健 康 」 や 「 学 業 成就 」 の 助 け に な る と 謳 う こ の お 守 り は 、 販 売 初 日 に 売 り 切 れ た と い う 人 気 ぶ り 。も ち ろ ん 大 村 博 士 も 承 認 済 み で 、 販 売 開 始 前 に 本 人 に 手 渡 さ れ て い る 。 市 民 の 熱 烈 な 歓 迎 が 大 村 博 士 を 待 っ て い た   大 村 博 士 の ノ ー ベ ル 賞 受 賞 は 、 韮 崎 市 民 に 我 が こ と の よ う な 感 動 を も た ら す ビ ッ グ ニ ュ ー ス だ っ た 。 市 内 の 至 る 所 に 記 念 フ ラ ッ グ や ポ ス タ ー が 掲 げら れ 、 全 市 中 が 祝 福 の ム ー ド に 包 ま れ た 。   2 0 1 5 年 12月 20日 に は 、 大 村 博 士 が 中 学 校 に 通 っ た 川 沿 い の 道 が 「幸 福 の 小 径 ( こ う ふ く の こ み ち )」 と 命 名 さ れ 、 そ の 記 念 式 典 が 本 人 も 臨 席 し て 行 わ れ た 。 当 日 は 主 催 者 の 予 想 を は る か に 超 え る 1 4 0 0 名 も の 人 々 が 大村 博 士 を 熱 烈 に 歓 迎 。「 歩 き 初 め 」 で は 、 取 り 囲 ん だ 市 民 の 握 手 攻 め に 会 い 、 ほ と ん ど 前 に 進 む こ と が で き な か っ た 。 こ の 小 径 に は 今 後 、 大 村 博 士 の 銅 像 や 若 手 芸 術 家 の 彫 刻 な ど が 設 置 さ れ 、 景 色 と ア ー ト が 楽 し め る ス ポ ッ ト と し て 整 備 さ れ る 予 定 に な っ て い る 。   こ の ほ か 韮 崎 市 で は 、 名 誉 市 民 で あ る 大 村 博 士 の 軌 跡 を 紹 介 す る 特 別 展 の 開 催 な ど 、さ ま ざ ま な 記 念 企 画 を 実 施 。 そ の 一 環 と し て 、 韮 崎 市 へ の ふ る さ と 納 税 の お 礼 と す る ノ ー ベ ル 賞 受 賞 記 念 ワ イ ン も作 ら れ た 。 地 元 の ワ イ ナ リ ー が 韮 崎 市 で 収 穫 さ れ た 葡 萄 を 使 っ て 開 発 し た も の で 、 ラ ベ ル に は 大村 博 士 の 写 真 が あ し ら わ れ て い る 。   韮 崎 市 を 訪 ね て 、 街 を 歩 き 、 人 と 話 し て み る と 、 大 村 博 士 が い か に 地 元 の 人 た ち か ら 多 く の 敬 愛 を 集 め て い る か が よ く わ か る 。 そ れ は 、 ノ ー ベ ル 賞 を 受 賞 し た か ら だ け で な く 、 美 術 館 や 温 泉 を 作 っ た か ら だ け で も な い 。 大 村 博 士 が こ と あ る ご と に 口 に す る 「 自 分 は 韮 崎 と い う 素 晴 ら し い 場 所 で 育 っ た の だ 」 と い う 思 い が 、 し っ か り と 人 々 の 心 に 届 い て い る か ら で は な い か 。 郷 土 が 生 ん だ 世 界 的 研 究 者 の 快 挙 に 心 躍 ら せ た 子 ど も た ち の 中 か ら 、 い つ か 「 第 二 の 大 村 智 」 が 生 ま れ る か も し れ な い 。 人気を呼んでいる受賞記念ワイン。赤は大村博士の温厚な人柄を、白は 研究への鋭い感性をイメージした味わいとのこと 願成寺の本尊は、平安文化を伝える阿弥陀三尊像。武田信義公が寄進し たと伝わる。拝観には予約が必要 「大村先生は般若心経も唱えますし、 信仰心篤い方です」と語る願成寺の 山本正乗住職 重要文化財の武田八幡宮本殿。甲府にある武田神社とよく混同されるが、歴史はこちらがずっと古い 若宮八幡宮とイベルメクチン柄のお守り。樹齢300年以上の「鶴亀の松」でも有名だ

少年時代を過ごした美しい場所、武田の里への変わらぬ思い

幸福の小径は見晴らしのいい約1.8kmの遊歩道。この名称は、大村博士 の研究が人類の幸福に貢献したとして名づけられた ノーベル賞を記念した特別展を韮崎市内で開催。ノーベル賞メダル(ノー ベル財団公式レプリカ)も公開された

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14 北 里 逍 遥 北 里 逍 遥 15

鳴り響 いた 拍 手 は 、

数 億 人の人 類と大 地 からの 祝 福 。

2 015 年 12 月、ストックホルムのコンサートホールで開催された ノーベル賞授賞式の壇上に立つ大 村 智博士。 客席を埋めた 15 0 0 人以上からの惜しみない拍手は、 病魔から救われた数億人の人類の喝采であり、 土の中の微 生物の可能 性を信じて研究に打ち込んだ博士 への

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山 田 陽 城 先 生 に 訊 く 16 特 集 特 集 17 山 田 陽 城 先 生 に 訊 く 多 忙 な 留 学 中 も 、 き め 細 や か に 研 究 員 や 学 生 を フ ォ ロ ー   山 田 が 大 村 博 士 と 初 め て 出 会 っ た の は 、 北 里 大 学 大 学 院 薬 学 研 究 科 へ の 進 学 に つ い て 相 談 を し よ う と 当 時 助 教 授 だ っ た 大 村 博 士 の 研 究 室 を 訪 ね た 時 の こ と だ っ た 。 大 村 博 士 は 黒 板 に 向 か っ て 一 心 不 乱 に 数 式 を 書 き な ぐ っ て い る 。 よ く 見 る と 、 計 算 し て い る の は 水 道 代 。 お そ ら く 研 究 に 水 を た く さ ん 使 用 す る た め 、 そ の 費 用 の捻 出 を 考 え て い た の だ ろ う と 山 田 は 想 像 し た 。 そ し て 、 初 対 面 に も 関 わ ら ず 「 こ れ から 学 会 が あ る か ら 一 緒 に 行 かな い か 」 と 誘 わ れ た 。「 面 食 ら い ま し た 。 お か げ で 、 そ の 時 の こ と は 今 で も 鮮 明 に 憶 え て い ま す 」と 山 田 は 話 す 。   山 田 が 研 究 科 の 2年 生 に 進 級 す る 春 、 大 村 博 士 は 米 国 へ の 留 学 を 決 意 し 、 ウ エ ス レ ー ヤ ン 大 学 の マ ッ ク ス ・ テ ィ シ ュ ラ ー 教 授 の も と に 向 か っ た 。 1 9 7 1 年 の こ と で あ る 。「 羽 田 空 港 ま で 見 送 り に 行 き まし た が 、 そ の 留 学 か ら 帰 国 前 の 製 薬 企 業 訪 問 が 結 果 的 に エ バ ー メ ク チ ン の 発 見 に つ な が っ た わ け で す か ら 、 あ の 時 が 壮 大 な ド ラ マ の 始 ま り だ っ た わ け で す 」と 山 田 は 当 時 を 振 り 返 る 。   大 村 博 士 は 、 限 ら れ た 時 間 の 中 で 確 か な 成 果 を 挙 げ な け れ ば な ら な い 多 忙 な 身 で あ り な が ら 、 頻 繁 に 日 本 の 若 手 研 究 員 や 学 生 た ち に 手 紙 を 送 っ て き た 。 しか も 、 封 筒 と 便 箋 を 兼 ね た エ ア ロ グ ラ ム ( 航 空 書 簡 ) の 紙 面 い っ ぱ い に 可 能 な 限 り 文 字 を 詰 め 込 ん で く る 。「 日 本 か ら の 研 究 報 告 に 対 す る 指 示 や 『 こ の 化 合 物 を 日 本 か ら 至 急 送 っ て ほ し い 』 と い う 指 示 以 外 に も 私 の 博 士 課 程 へ の 進 学 に 関 し て も い ろ い ろ ア ド バ イ ス し て く だ さ い ま し た 。 留 学 中 の 多 忙 な 中 で も 、 学 生 に 親 身 に な っ て 関 わ っ て く だ さ る 先 生 で し た 」 ( 山 田 )。 大 村 博 士 の 性 格 を 明 快 に 物 語 る エ ピ ソ ー ド で あ る 。 学 部 を 持 た な い 大 学 院 設 立 を 通 じ 、 思 い 知 っ た 博 士 の 偉 大 さ   当 時 、 北 里 大 学 の 大 学 院 に は 博 士 課 程 が なか っ た た め 、 山 田 は 東 京 薬 科 大 学 の 大 学 院 に 進 学 し た 。 博 士 号 の 取 得 後 、 同 大 学 で 7年 間 教 員 を 務 め 、 1 9 8 2 年 に 大 村 博 士 の 誘 い で 北 里 研 究 所 に 入 所 す る 。「 そ の 頃 、 研 究 所 の 将 来 に つ い て 大 村 先 生 は 深 く 考 え て お ら れ 、 具 体 的 な 将 来 計 画 を 策 定 す る 『 21世 紀 委 員 会 』 を 組 織 さ れ ま し た 」。そ し て 、 山 田 は そ の 委 員 長 に 任 命 さ れ る 。   「 そ の 頃 、 大 村 先 生 は 研 究 者 養 成 型 の 学 校 を 作 り た い と い う 大 き な 構 想 を 持 た れ て い ま し た 。 そ れ は 学 部 を 持 た な い 国 際 的 な 生 命 科 学 の 大 学 院 大 学 で し た が 、 当 時 、 そ の よ う な 大 学 院 は 『 前 例 が な い 』 と い う 理 由 で 、 設 立 は 難 し い と いう の が 国 の 答 え で し た 。 そ の 後 も 研 究 部 門 の 将 来 を 見 据 え な が ら 、 北 里 全 体 の こ と も 考 え て 我 々 は 議 論 を 重 ね 、 そ の 第 一 フ ェ ー ズ と し て や は り 大 学 院 大 学 の 設 立 と い う 構 想 に 至 っ た の で す 。 も ち ろ ん 社 団 法 人 北 里 研 究 所 と 学 校 法 人 北 里 学 園 の 統 合 も 視 野 に 入 れ て い ま し た 」。   大 村 博 士 と 山 田 の 悲 願 が よ うや く か な っ た の は 、 2 0 0 2 年 の こ と 。 大 学 に 北 里 生 命 科 学 研 究 所 を 開 設 し 、 こ れ を基 に し た 学 部 を 持 た な い 大 学 院 感 染 制 御 科 学 府 が 国 よ り 設 立 を 許 可さ れ 、 山 田 は そ の 初 代 学 府 長 に 就 任 し た 。   そ う し た 一 連 の 取 り 組 み に お い て 、 山 田 は 大 村 博 士 の 偉 大 さ を 改 め て 思 い 知 っ た 。   「 ま ず は 独 創 性 。 人 の 真 似 で は な い こ と を つ ね に 追 求 さ れ て い ま し た 。そ し て 、先 見 性 。 10年 先 、 20年 先 を 見 つ め て 、 今 ど う す べ き か を 考 え ら れ る の で す 。 若 い 時 は 、 大 村 先 生 が 言 わ れた こ と を す ぐに 理 解 で き な い こ と も し ば し ば あ り ま し た 。 で も 、後 か ら 『 こ う い う こ と だ っ た の か 』 と 気 づ き 、 深 い 感 銘 を 受 け た も の で す 」 と 山 田 は 話 す 。   そ し て 、 山 田 が 指 摘 す る 、 大 村 博 士 の も う 一 つ の 偉 大 さ は 実 行 力 で あ る 。「 先 見 性 を も っ て 考 え た こ と を ど の よ う に し て や り 遂 げ る か を 、 大 村 先 生 は 徹 底 的 に考 え 抜 く の で す 。先 生 が 発 案 さ れ て 実 現 で き な か っ た も の を 、 私 は 挙 げ る こ と が で き ま せ ん 」。   だ が 、 大 村 博 士 は 何 事 も 独 断 で 進 め る わ け で は な い 。「 先 生 は 様 々 な 人 に 意 見 を 求 め ま す 。 研 究 者 だ け で な く 、 時 に は お酒 を 酌 み 交 わ し な が ら 事 務 方 の 声 に も 耳 を 傾 け て か ら 考 え を ま と め ら れ る の です 。 そ し て 最 終 決 断 は 先 生 が 明 確 に 下 す 。 そ の リ ー ダ ー シ ッ プ は 見 事 で し た 」 と 山 田 は 語 る 。 果 て し な い 夢 に 向 か っ て 大 村 号 の 旅 は こ れ か ら も 続 く   「 僕 ら は 大 村 先 生 の 背 中 を 見 て い る だ け で も 、 い ろ い ろ な こ と を 学 ば せ て い た だ い た と 感 じ て い ま す 。 独 創 的 な 研 究 成 果 か ら 熱 く 語 ら れ る 科 学 の 面 白 さ や 壮 大 な 夢 。 真 の 教 育 者 と し て 先 生 が 特 に 重 視 さ れ て い た の は 、 高 い 志 と ま っ と う な 人 と し て の 生 き 方 。 人 と 人 の 出 会 い の 大 切 さ や 周 囲 へ の 細 か い 気 配 り 等 、 先 生 の 傍 に い る だ け で 多 く の こ と を 教 え て い た だ き ま し た 。 リ ー ダ ー と し て の 指 南 書 も い た だ き 、 人 の 生 き る 道 を 照 ら す 考 え 方 を 学 び ま し た 」 と 山 田 は 語 る 。   ま た 、 こ ん な 話 も 紹 介 す る 。「 大 村 博 士 が よ く 言 わ れ る の は 『 北 里 柴 三 郎 先 生 だ っ た ら こ う い う 場 面 で ど う 考 え る だ ろ う か 』 と い う こ と 。 そ し て 今 の 私 は 、『 大 村 先 生 な ら ど う 考 え る だ ろ う か 』と よ く 思 い ま す 」   そ し て も う 一 つ 、 大 村 博 士が よ く 口 に す る 「 生 き 抜 く 」 と い う 言 葉 を 挙 げ て 、 山 田 は こ う 説 明 す る 。「 先 生 は ま さ に そ れ を 実 践 さ れ て 来 た 方 だ し 、 こ れ か ら も そ の 姿 勢 は 変 わ ら な い こ と で し ょ う 。汽 車 はま だ 走 り 続 け て い る の で す 」。 時 代 時 代 の 大 き な タ ー ミ ナ ル 駅 で 出 会 っ た 人 々 に 想 い を 託 し な が ら も 、 大 村 号 は 果て し な い 夢 に 向 か っ て 邁 進 し て い く こ と だ ろ う 。

大村博士から学んだ

独創性と先見性、実行力、

そしてリーダーシップ

北里大学名誉教授

山田陽城

北里大学名誉教授の山田陽城は、大村博士の愛弟子の一人として、

博士とともに北里研究所の発展に貢献し、社団法人北里研究所と

学校法人北里学園の統合にも関与した功労者である。

その山田の眼から見た、偉大な科学者であり教育者である

大村博士の素顔を語ってもらった。

や ま だ ・ は る き / 東 京 薬 科 大 学 卒 業 、 北 里 大 学 大 学 院 薬 学 研 究 科 修 士 課 程 修 了 、 東 京 薬 科 大 学 大 学 院 薬 学 研 究 科 博 士 課 程 を 修 了 後 、 北 里 研 究 所 東 洋 医 学 総 合 研 究 所 研 究 部 門 長 、 北 里 研 究 所 W H O 伝 統 医 学 協 力 セ ン タ ー 長 、 北 里 研 究 所 基 礎 研 究 所 所 長 、 北 里 大 学 北 里 生 命 科 学 研 究 所 所 長 、 北 里 大 学 大 学 院 感 染 制 御 科 学 府 長 等 を 歴 任 。 2 0 1 3 年 北 里 大 学 名 誉 教 授 、 14年 4月 よ り 東 京 薬 科 大 学 薬 学 部 特 任 教 授 。 エバーメクチン発見25周年記念マックス・ティシュラーシンポジウムにて(2004年)

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高 橋 洋 子 先 生 に 訊 く 18 特 集 特 集 19 高 橋 洋 子 先 生 に 訊 く 研 究 室 を 歓 喜 の 声 に 包 ん だ エ バ ー メ ク チ ン 発 見 の 知 ら せ   米 国 ウ エ ス レ ー ヤ ン 大 学 で の 1年 間 の 留 学 を 終 え 、 大 村 博 士 が米 国 メ ル ク社 と の 契 約 で 研 究 を 開 始し た 頃 か ら 、 高 橋 は 微 生 物 グ ル ー プ の 一 員 と し て 博 士 の 研 究 を サ ポー ト し 続 け た 。 そ し て 1 9 7 9 年 、 高 橋 が 忘 れ る こ と の で き な い 歓 喜 の 瞬 間 は 、 不 意 に 訪 れ た 。 メ ル ク 社 か ら エ バ ー メ ク チ ン の 詳 細 な 試 験 結 果 が 届 い た の で あ る 。   「 メ ル ク 社 は 微 生 物 を 直 接 イ ン ビ ボ ( 生 体 内 ) で 試 験 し て い ま し た 。 イ ン ビ ト ロ ( 試 験 管 内 な ど の 人 工 的 に 構 成 さ れ た 条 件 下 ) で はそ の よ う な 化 合 物 が すで に 見 つ か っ て い ま し た が 、 イ ン ビ ボ で は 初 め て の こと で あ り 、 医 薬 品 開 発 に お い て は 驚 異 的 な 出 来 事 。『 こ の 菌 株 の 生 産 物 質 が イ ン ビ ボ で 効 い た 』 と 教 え ら れ た 時 、 研 究 室 に い た 全 員 が 歓 声 を 挙 げ ま し た 」 と 高 橋 は 当 時 を 振 り 返 る 。   エ バ ー メ クチ ン の 発 見 に よ り 、 世 界 中 の 畜 産 業 で 使 用 され る 駆 虫 薬 「 イ ベ ル メ ク チ ン 」 が 誕 生 し 、 さ ら に ア フ リ カ ・ 中 南 米 に 蔓 延 し て い た オ ン コ セ ル カ 症の予 防 ・治 療 に 効 果 を 示 す こ と も わ か っ て い く 。「 一 般 的 に ヒ ト の 医 薬 品 は 認 可 ま で 膨 大 な 時 間 が か か り ま す が 、 エ バ ー メ ク チ ン は と て も 早 く 認 可 さ れ ま し た 。 イ ン ビ ボ で 動 物 試 験 を 行 い 、 ヒ ト の オ ン コ セ ル カ 症 に も 効 く と わ か っ た 時 に は 安 全 性 も 証 明 さ れ て い た の で 、 発 見 か ら 極 め て 短 い 期 間 で 医 薬 品 に な っ た の で す 」 と 高 橋 は 説 明 す る 。 多 く の 人 々 の 命 を 救 う こ とに つ な が っ た エ バ ー メ ク チ ン 発 見 の 主 役 は 大 村 博 士 であ る 。 し かし 、 そ の 陰 に は 大 村 博 士 を 信 じ 、 研 究 活 動 を 真 摯 に 支 え 続 け た 協 力 者 た ち が い た こ と を 忘れ て は な ら な い 。 高 橋 は 、 ま さ に そ の 重 要 な 役 割 を 担 っ て き た 弟 子 の 1人 だ 。 研 究 補 助 員 に 新 属 の 菌 を 発 見 す る 大 き な チ ャ ン ス を 与 え た 度 量   高 橋 は 北里 研 究 所 に 就 職 す る と 、 まず 研 究 所 の 初 代 理 事 長 で あ る 故 ・ 秦 藤 樹 博 士 の 研 究 グ ル ー プ に 配 属 さ れ た 。 そ の メ ン バ ー の 中 に 大 村 博 士 が い た 。「 当 時 、 私 は 研 究 補 助 員 と し て 微 生 物 を分 離 す る 手 伝 い を し て い ま し た 。 し ば ら く し て 直 属 の 上 司 が 退 職 す る こ と に な り ま し た 」。 そ の 頃 、 高 橋 は 帰 郷 を 考 え て い た が 、 秦 藤 樹 博 士 の 後 継 者 と な っ て い た 大 村 博 士 か ら 「 あ と 5年 間 、 研 究 を 手 伝 っ て ほ し い 」 と 言 わ れ て 心 が 変 わ っ た 。 博 士 の も と で 働 き 始 め て か ら 、 ま す ま す 仕 事 が 面 白 い と 感 じ て い る 自 分に 気 づ い た の だ 。「 先 生 は つ ね に 周 囲 の 人 々 の 様 子 を 見 て 、 落 ち 込 ん で い る と 思 っ た ら 『 こ う い う こ と が で き な い も の か な ? 』 な ど と 声 を 掛 け て く だ さ る 。 そ れ で 『 や っ て み よ う か な 』と 思 っ て し ま う の で す 。 本 当 に 、 や る 気 を 起 こ さ せ る の が お 上 手 で し た 」 と 高 橋 は 話 す 。   あ る 日 、 高 橋 は 、 大 村 博 士 が東 京 都 世 田 谷区 内 で 採 取 し た 土 壌 か ら 特 異 な性 質 を 持 つ 菌 を 見 つ け た 。 一 般 的 な 放 線 菌 には 見 ら れ な い 性 状 で 、 新 し い 化 合 物 を 生 産 す る 。 「 こ れ は 1種 類 の 菌 で あ る と 私 は 思 っ た の で す が 、 周 り の 先 生 方 の 大 半は 『 2種 類 以 上 の 菌 が 混 ざ っ た も の ( コ ン タ ミ ネ ー シ ョ ン )』 と 言 っ て 取 り 合 っ て く れ ま せ ん 。 納 得 が い か な く て 、 覚 悟 を 決 め て 大 村 先 生 に 『 私に こ の 菌 を 研 究 さ せ て い た だ け ま せ ん か 』と 直 談 判し ま し た 。 研 究 補 助 員 の 身 の 程 知 ら ず の 懇 願 に 対 し 、 先 生 は 『 君 が そ う 言 う な ら や っ て み な さ い 』と 話 し て く だ さ い ま し た 」。   そ し て 、 高 橋 は そ の 菌 が 新 属 で あ る こ と を 突 き 止 め 、 1 9 8 2 年 、 国 際 学 術 誌 に 論 文 を 発 表 。「 キ タ サ ト ス ポ ー ラ セ タ エ 」 と 命 名 し た そ の 菌 の 存 在 が 世 界 に 認 め ら れ た 。 ヒ ト に も 菌 に も 真 摯 に 向 き 合 い 育 て あ げ て 社 会 に 輩 出 す る 名 人   ち ょ う ど そ の 頃 、 大 村 博 士 は 高 橋 に も う 一 つ の 大 き な チ ャ ン ス を 与 え た 。「 先 生 か ら 『 博 士 号 を 取 っ て み な い か 』 と 言 わ れ た の で す 。 大 学 を 出 て い な い 私 に と っ て 、 あ り が た い け れ ど 現 実 味 の な い お 話で し た 。と こ ろ が 、 北 里大 学 衛 生 学 部 ( 現 ・ 医 療 衛 生 学 部 ) に は 4年 制 大 学 を出 て い な く て も 博 士 の 資 格 を 得 ら れ る シ ス テ ム が あ り 、 大 村 先 生 が す べ て の 段 取 り を 組 ん で く だ さ っ た の で す 」。 高 橋 は 奮 起 し 、 娘 2人 を 育 て な が ら 猛 勉 強 を 行 い 、 北 里 大 学よ り 「 大 卒 相 当 の 学 力 」 の 認 定 を 受 け 、 そ し て 1 9 8 5 年 に 博 士 号 を 取 得 し た 。   さ ら に 、 大 村 博 士 の サポ ー ト は 続 く 。 日 本 放 線 菌 学 会 で 学 術 企 画 員 を 務 め る よ う に な っ た 高 橋 は 「 海 外 に 出 て 広 く 勉 強 し た い 」 と い う 気 持 ち を 博 士 に 伝 え た 。 す る と 、「 自 分 か ら や る 気 を 出 す 人 は 応 援 す る 」 と 言 い 、 「 私 が 行 き た い と 思 っ て い た 米 国 ウ ィ ス コ ン シ ン 州 立 大 学 の 教 授が 会 長 を 務め る 国 際 放 線 菌 学 会 に 私 を 連 れ て 参 加し 、 学 会 の 合 間 の 散 歩 中 に 話 を し て く だ さ っ た の で す 」 と 高 橋 は 語 る 。   た だ し 、 大 村 博 士 は 決 し て 自 分 だ け を特 別 扱 い し て き た わ け で は な い と 高 橋 は 断 言 す る 。「 先 生 は 誰 に で も チ ャ ン ス を 与 え よ う と し ま す 。 そ れ ぞ れ の 良 い と こ ろ 、 能 力 を 見 つ け て 、 そ れ を 伸 ば し ま す 。 しか も 、 最 初か ら 答 え を 与 え る の で は な く 、 頑 張 れ ば でき な そ う な 少 し だ け ハ ー ド ル の高 い 課 題 を 与 え 、や る 気 を 起 こ さ せ る の で す 」と 高 橋 。 医 薬 品 を 育 て る 偉 人 は 、 人 を 育 て る 名 人 で も あ っ た 。 相 手 が 菌 でも ヒ ト でも 真 摯 に 向 き 合 う こ と に よ り 、 世 紀 の 大 発 見 と 、 弟 子 か ら 数 多 く の 大 学 教 授 を 輩 出す る と い う 偉 業 を 成 し 遂 げ た こ と は 言 う ま で も な い 。

エバーメクチン発見の

陰で成し遂げた

もう一つの偉業

大村博士の愛弟子である高橋洋子は、研究補助員を務めながら

専門学校の夜間部に通い、大学相当の学力の認定を受けて博士号を取得、

大学教授になった苦労人である。そして、博士によるエバーメクチンの

発見にも貢献している。そんな高橋の視点から、博士による偉業と、

その背景にある「人を育てる哲学」について語ってもらった。

た か は し ・ よ う こ / 1 9 6 7 年 北 里 研 究 所 入 所 。 69年 北 里 衛 生 科 学 専 門 学 院 二 部 卒 業 、 85年 保 健 学 博 士 号 取 得 ( 北 里 大 学 衛 生 学 部 、 現 医 療 衛 生 学 部 )。 92年 米 国 ウ イ ス コ ン シ ン 大 学 へ 留 学 後 、 98年 北 里 研 究 所 生 物 機 能 研 究 所 微 生 物 機 能 研 究 室 室 長 、 03年 北 里 大 学 北 里 生 命 科 学 研 究 所 教 授 、 04年 北 里 大 学 大 学 院 感 染 制 御 科 学 府 教 授 を 経 て 、 14年 北 里 大 学 生 命 科 学 研 究 所 創 薬 資 源 微 生 物 学 寄 附 講 座 コ ー デ ィ ネ ー タ ー を 経 て 、 16年 よ り 現 職 。専 門 は 創 薬 資 源 微 生 物 学 。 「いま地球環境が抱えている問題に対し微生物の役割が大きいことを、今回の受 賞で世界に知らしめることができたと思います」と高橋は話す。

北里大学名誉教授

高橋洋子

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砂 塚 敏 明 先 生 に 訊 く 20 特 集 特 集 21 砂 塚 敏 明 先 生 に 訊 く 「 楽 し ん で 来 よ う 」と い う 英 気 に 満 ち 溢 れ て 日 本 を 出 発   2 0 1 5 年 10月 5日 の 夕 刻 、 砂 塚 は 同 じ フ ロ ア に 研 究 室 があ る 大 村 博 士 か ら 呼 び 出 し を 受 け た 。 大 村 博 士 は 開 口 一 番 、「 ス ウ ェ ー デ ン か ら 電 話 が か か っ て き た 。( ノ ー ベ ル 賞 を ) 受 け る か ど う か と訊 か れ た か ら 『 謹 ん で 受 け ま す 』 と 答 え た よ 」 と 話 さ れ た 。「 大 村 先 生 は 、 興 奮 と い う より は 驚 か れ て い ま し た 。 私 も そ う で し た が 、 も し 受 賞 す る と し た ら 2日 後 に 発 表 さ れ る 化 学 賞 と 思 っ て い た の に 生 理 学 ・ 医 学 賞 だ っ た か ら で す 」。 だ が 、 大 偉 業 で あ る こ と に 違 い は な い 。「今 ま で も ノ ー ベ ル 賞 を 必 ず 受 賞 す る だ ろ う と 思 わ れ て い た の に 、 受 賞 で き な か っ た 先 生 方 を 何 人 も 見 て 来 ま し た 。 最 後 は 人 が 決 め る も の だ か ら 、 運 も 必 要 に な る と 思 い ま す 。 そ う い う 意 味 で 、 大 村 先 生 は 強 運 の 持 ち 主 で あ る と も 感 じ ま し た 」 と 砂 塚 は 話 す 。   受 賞 の 報 を 受 け た 日 の ち ょ う ど 2ヵ 月 後 に あ た る 12月 5日 未 明 、 授 賞 式 に 出 席 す る た め に ス ト ッ ク ホ ル ム へ 向 う 大 村 博 士 と と も に 、 砂 塚 も 羽 田 空 港 を 発 っ た 。 出 発 前 、 彼 は 少 な か ら ず 不 安 を 感 じ て い た 。 1年 前 、 カ ナ ダ の ト ロ ン ト で 行 わ れ た 「 ガ ー ド ナ ー 国 際 保 健 賞 2 0 1 4 」の 授 賞 式 に も 砂 塚 は 同 行 した の だ が 、 そ の 時 、 大 村 博 士 は 体 調 を 崩 さ れ た の で あ る 。「 今 回 も か な り タ イ ト な ス ケ ジ ュ ー ル が 組 ま れ て い ま し た 。 ご 年 齢 の こ と も あ り ま す し 、 体 調 面 を 非 常 に 心 配 し て い ま し た 」( 砂 塚 )。 と こ ろ が 、 離 陸 後 も 大 村 博 士 は 非 常に 穏 や か な 様 子 で 、「 『 楽 し ん で 来 よ う 』『 元 気 い っ ぱ い に 全 日 程 を こ な そ う 』 と い う 英 気 に 満 ち溢 れ て い ま し た 。 機 内 食 を し っ か り 摂 ら れ 、 普 段 は 飛 行 機 で は あ ま り 眠 れ な い よ う で す が 、 そ の 夜 は ぐ っ す り お 休 み に な ら れ て い ま し た 」。 砂 塚 は 胸 を 撫 で 下 ろ し た 。 日 本 の 哲 学 に 触 れ た 記 念 講 演 、 そ し て ノ ー ベ ル 賞 の 授 賞 式 へ   ス ト ッ ク ホ ル ム 到 着 後 も 大 村 博 士 の 体 調 は 良 好 な ま ま 、 ノ ー ベ ル ウ イ ー ク が 幕 を 開 け た 。「 今 回 の ク ラ イ マ ッ ク ス は 12月 7日 、 カ ロ リ ン ス カ 研 究 所 で の 記 念 講 演 。 少 々緊 張 さ れ て は い ま し た が 、 完 璧 に 近 い 講 演 を さ れま し た 。 ど の よ う に歴 史 的 な 大 偉 業 を 成 し 遂 げ ら れ た の か を 非 常 に 端 的 に ま と め ら れ 、 大 変 に 好 評 で し た 」と 砂 塚 は 説 明 す る 。   大 村 博 士 は 、 海 外 で の 講 演 の 終 盤 で 必 ず 日 本 の 哲 学 や 文 化 に 触 れ る 。 今 回 も 例 外 で は な く 、 茶 の 湯 に つ い て 語 っ た 。「 キ ー ワ ー ド は 、 一 期 一 会 。 研 究 に 取 り 組 む 際 は 、 新 た な テ ー マ を 設 定 し 、 他 の 研 究 者 と の出 会 い や 協 働 が あ る 。 ノ ー ベ ル 賞 の 受 賞 も 、 共 同 研 究 の 賜 物 。 人 と 人 の 出 会 い を 大 切に す る の が 日 本 文 化 で あ り 、 1回 1回 が 勝 負 。 大 村 先 生 は 、 茶 の 湯 の 写 真 を 掲 げ な が ら そ ん な 話 を さ れ ま し た 」   前 日 の 6日 は ス ト ッ ク ホ ル ム の 中 心 部 に あ る ノ ー ベ ル 博 物 館 へ 足 を 運 び 、 椅 子 にサ イ ン を し 、 持 参 し た シ ャ ー レ と 構 造 式 を 寄 贈 。 8日 に は 、 日 本 大 使 主 催 の パ ー テ ィ ー が 催 さ れ 、 在 ス ト ッ ク ホ ル ム の 日 本 人 留 学 生 や ビ ジ ネ ス マ ン と デ ィ ス カ ッ シ ョ ン や 記 念 撮 影 を 楽 し み 、 さ ら に コ ン サ ー ト ホー ル で お 嬢 様 と 演 奏 会 を 鑑 賞 さ れ た 。   12月 10日 、 コ ン サ ー トが 行 わ れ た ホ ー ル に て ノ ー ベ ル 賞 の 受 賞 式 が 執 り 行 わ れ 、 市 庁 舎 に 会 場 を 移 し て ノ ー ベ ル 財 団 主 催 の 晩 餐 会 が 開 か れ る 。 千 数 百 人 が 集 う 壮 麗 な 宴 の オ ー プ ニ ン グ は 、 受 賞 者 た ち が 国 王 や 王 妃 と 一 緒 に 階 段 を 降 り て く る と い う も の 。 「 ま る で 映 画 の シ ー ン を 観 て い る よ う に 壮 麗 で し た 。 先 生 は 国 王 や 王 妃 と ず っ と お 話 を さ れ て い ま し た 。 直 前 に 行 わ れた 授 賞 式 で は 、 メ ダ ル を 受 け 取 る 際 に 決 め ら れ た 手 順 が あ る の です が 、 お そ ら く 大 村 先 生 だ け が 完 璧 に こ な さ れ て い た よ う に 見 え ま し た 」 と 砂 塚 は 回 想 す る 。   大 村 博 士 は 、 自 ら の 意 思 で 今 回 の 行 程 に ノ ー ベ ル の 墓 参 り を 組 み 込 ん だ 。「 受 賞 者 で も 墓 参 り を す る 方 は な か な か い な い と 思 い ま す 。 ま た 、 前 日 に 晩 餐 会が 行 わ れ た 場 所 に あ る 美 術 館に 再 度 立 ち 寄 っ て 、 名 画 も 鑑 賞 さ れ て い ま し た 。 こ の ノ ー ベ ル ウ イ ー ク で は 、 そ う し た 余 裕 が 垣 間 見 ら れ ま し た ね 」 と 砂 塚 は 話 す 。 次 世 代 の 研 究 者 た ち が 追 い 求 め る 果 て し な い 夢 の プ ロ ロ ー グ   現 地 で の ハ ー ド な ス ケ ジ ュ ー ル を 無 事 に こ な し 、 一 行 は 帰 路 に つ い た 。 羽 田 空 港 に 到 着 直 後 の 記 者 会 見 で は 少 々 疲 れ た 表 情 を 見 せ た 大 村 博 士 だ っ た が 、「 先 生 は す こ ぶ る お 元 気 で し た 。 ス ト ッ ク ホ ル ム で も 食 事 は し っ か り 摂 ら れ た の で 、『 1週 間 で 1キ ロ 太 っ た よ 』と 話 さ れ て い ま し た ( 笑 )」 。   そ し て 砂 塚 は 、 こ の よ う な 話 で 締 め く く っ た 。「 大 村 先 生 の 功 績 を 、 次 の 世 代 の 研 究 者 た ちが ど の よ う に 展 開 し て い く か が 非 常 に 大 事 。 プ レ ッ シ ャ ー を 感 じ ま す が 、 意 欲 も 湧 き あ が っ て き ま す 」。 北 里 研 究 所 の 今 後 を 担 っ て い く 者 に と っ て 、 ノ ー ベ ル 賞 受 賞 は も ち ろ ん 果 て し な い 夢 で は あ る が 、 手 の 届 く 大 目 標 と し て 実 感 で き た こ と も 事 実 だ ろ う 。

ノーベルウィークを

振り返って

~ストックホルム滞在記~

北里大学北里生命科学研究所 教授•研究推進センター長

北里大学大学院感染制御科学府 専任教授

砂塚敏明

大学時代に大村博士のもとで学び、以降、愛弟子であり

共同研究者であり続ける砂塚。博士による海外での視察、講演、

授賞式の数々に同行し、2015年12月に行われた

ノーベル賞の授賞式をめぐる一連のスケジュールでも行動を共にした。

その砂塚がノーベルウィークの模様を紹介してくれた。

す な づ か ・ と し あ き / 1 9 8 8 年 北 里 大 学 薬 学 研 究 科 博 士 課 程修 了 。 薬 学 博士 。 90年 ペ ン シ ル バ ニ ア 大 学 化 学 科 へ の 留 学 を 終 え 、 北 里 研 究 所 入 所 。 そ の 後 北 里 大 学 薬 学 部 専 任 講 師 を 経 て 、 05年 よ り 北 里 大 学 北 里 生 命 科 学 研 究 所 教 授 、 北 里 大 学 大 学 院 感 染 制 御 科 学 府 教 授 に 就 任 し 、 12年 よ り 現 職 。 専 門 は 天 然 物 有 機合 成 化 学 、 マ ク ロ ラ イ ド の 化 学 、 創 薬 科 学 。 「今回の受賞は、北里がさらに50年先、100年先へ向かって邁進する契機 になった」と語る砂塚。 「毎年、色紙で金言を贈っていただくが、人の道を教えてくださ る希有な研究者」と砂塚は大村博士を評する。

参照

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東北大学大学院医学系研究科の運動学分野門間陽樹講師、早稲田大学の川上

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内閣総理大臣賞、総務大臣賞、文部科学大臣賞を 目指して全国 36 都道府県 ( 予選実施 34 支部 400 チー ム 4,114 名、支部推薦6チーム ) から選抜された 52

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内閣総理大臣賞、総務大臣賞、文部科学大臣賞を 目指して全国 38 都道府県 ( 予選実施 34 支部 415 チー ム 4,349 名、支部推薦8チーム ) から選抜された 53

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