邪馬台国への道Ⅱ(第2回講演会) 魏 志 倭 人 伝 研 究 会 平 成 2 3 年 2 月 5 日 於:練馬区役所多目的ホール
『卑彌呼の遷都』と『書き換えられた倭人伝』
北 京 大 学 医 学 部 名 誉 顧 問 魏 志 倭 人 伝 研 究 会 主 宰 岩 元 正 昭 先日(1 月 23 日)、NHK が「邪馬台国を掘る」という特別番組を放映した。 奈良県桜井市の纏向遺跡の発掘の成果を踏まえ邪馬台国時代を探ろうという試みであった。 『魏志』倭人伝は中国の史書である。古代漢字の本義を以って読み解いてこそ、考古学の 進展と相まって真実が浮かび上がる。纏向遺跡(まきむく い せ き)は卑彌呼の宮殿跡なのか、倭の首都 があったところなのか、前方後円墳の箸墓が卑彌呼の墓なのか。倭人伝にはどのように記 されているのかを考えてみなければいけない。 この講演会では『魏志』倭人伝の原文に即して解明していく。継続して聴講いただけれ ば必ずやダイナミズムな古代の息吹、古代人の知恵と営みが目の当たりによみがえってく るはずである。今回は、『魏志』倭人伝の原文に取り掛かる前に、抑えておいて欲しいこと を述べようと思う。一、『卑彌呼の遷都』
1. 卑彌呼は邪馬台國にはいない(2011/1/15 漢字を楽しむ会の講演内容と一部重なっています) (1)『魏志』倭人伝には次のように載る。南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
(通説訳)南の邪馬台國にゆくには、女王の都するところで、水行十日・陸行一月 (岩波文庫「『魏志』倭人伝」:石原道博編訳による。以下通説訳は同じ) (岩元訳)郡より(別ルートで)南へ水行十日、陸行一月行くと邪馬台國(今の奈良)に 着く。女王の二代前の位牌が安置されている所である(女王はこの地にいない)。 (2)『説文解字』に載る「都」字 許慎は『説文解字』[六編下]に次のように記す。【 】都
(つ) とは、 部首=【 】邑
(ゆう)部
の [属字]。『 都、有先君之舊宗廟曰都。从邑者聲。周禮、歫五百里爲都。』
(岩元訳)「都とは、先君の舊宗廟(きゅう そうびょう)有るを都と曰う。邑に从い者の聲。 周禮(しゅ らい)に、五百里歫( た が)う國を都と為す。」 12 「都」字について <岩元解説> ※「宗廟(そ う びょう)」とは先祖の御霊屋( みた まや)を言う。 ※「みたまや」とは御霊を鎮める所、つまり廟である。 「古代中国では建国の時、天子が土地の神と五穀の神を祭った場所に廟を造る。 従って一つのエリアに二つの宗廟は無い。ところが『説文解字』では「宗廟」の前 に「舊」字を付けている。つまり「新宗廟」が何処かに在ることを示唆している。 これは天子が他所へ遷都し、社稷(しゃし ょ く)を建造したことを語っている。」 (3)段玉裁の『説文解字注』、「都」字の割注解釈 と曰う、無きを邑と曰う」 なり、 「采地」とは封地のことで「食する國」語と同義。 師」の注に曰く「家邑は大夫の采地、小都は卿の采地、大都は公の采地。王の子弟 『 して曰く「都鄙は公卿大夫の采邑、王の子弟の食する所の邑也」 には女王卑彌呼はいないと言えるのである 按ずるに『左氏』は「宗廟と先君の主(位牌)有るを都と曰う」、「先君の舊宗廟有 べて、許 部」に載る「太守劉夏遣吏將送誼京都」と言う句の「京都」語 (翻訳部分は東海大学古典叢書『説文解字注』尾崎雄二郎編によった。) 『左傳』に曰う「凡そ邑に宗廟と先君の主有るを都 『周禮』の「大使徒」に注して曰く「都鄙なる者は、王の子弟・公卿・大夫の采地 其の畍を都と曰う、鄙は居る所也」 ※解説:「其の畍」とは「采地の領域」、 「載 の食する所の邑也」 大宰』の「八則」に注 ※解説:いずれも「都の地」は王の子弟・公卿・大夫の采地であるから、王が居ないこ とを述べている。 従って「邪馬壹國」 又 ると云えば、則ち必ず晋の曲沃・故絳の如くして而して後に都と偁す可し」 ※解説:段玉裁は許慎の『説文解字』と『左氏』の「都」字の解釈の相違を比 慎の真意を探っている。『左氏』は現在の王の前の王の主と先祖を祀る廟が有 れば、これを「都」とするのに対し、許慎は「先君の舊宗廟有る」を「都」と する。この様に表現することで、「先君」を伴って遷都しても舊廟が故地にの こり、これを「都」と定義したのである。段注は春秋時代の晋の舊都を例に出 して説く。穆公の時代に「曲沃」から「絳」に遷都した際に「曲沃」を「都」 と呼称し、景公の時代に「絳」から「新絳」に遷都した際に「絳」を「故絳」 と言い、「都」と呼称したのである。「曲沃・故絳」の二都を例に挙げる諏意は 遷都後の為政の本拠地、つまり新たな「京」から見てこれ等が「都」と呼ばれ たからである。 倭人伝の「交渉の は明帝の為政の本拠地と舊宗廟の在る地の二か所を意味している。
3 . 卑彌呼は何処にいたか。 に書かれている。
次奴國此女王境界所盡
2 ~それは倭人伝原文に明晰 (通説訳)つぎに奴國(重出、また□奴國の誤脱か)がある。 これが女王国の境界の尽きるところである。 <岩元解説> 「此女王」の三文字は「此処に女王が居る」と訳さなければならない。 卑彌呼は「奴國」に邪馬台國から遷都していたのである。 この三文字は「女王之所都」の五文字と照応している。 .卑彌呼の朝献 年の誤りではない等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣
3 ~景初二年は景初三景初二年六月倭女王遣大夫難升米
京都
(通説訳)景初二年(明帝、二三八)(注)、六月、倭の女王が大夫難升米(田道間守か) らを遣わし郡に詣り、天子に詣って朝献するよう求めた。太守(郡の長官) 劉夏は役人を遣わし、京都まで送らせた。 (注)明帝の年号。景初三年(239)の誤。『日本書紀』所引の『魏志』および『梁書』は三年とする。 (岩元訳)景初二年(二三八)六月、倭の女王は大夫難升米等を郡に詣いたらせ、天子への 朝献を求めた。太守劉夏は吏に将ひきい、送らせ、京都に詣った。 <岩元解説> 界は景初二年を景初三年の間違いであるとしている。その根拠としては、魏 ② しかし洛陽から司馬懿仲達軍が襄平城攻略に四万の大軍で発進するという情報が公孫 ① 今日の学 が樂浪郡、帶方郡を接収したのが景初二年八月であり、難升米が郡に六月に至ったと すれば、そこは公孫氏経営の帶方郡であることになり魏に通じることは不可能である という。さらに『日本書紀』、『梁書』倭伝にも「三年」と記されていることも論拠と する。 氏側に伝われば、襄平城の公孫軍大本営は背後の樂浪郡、帶方郡の兵力を襄平城に結集 させたに違いない。魏の明帝は司馬懿仲達の主力部隊を発進させると共に、樂浪郡に鮮 于嗣軍を、帶方郡に劉昕軍を黄海に船団を浮かべ、派兵している。これは司馬懿仲達軍 と襄平城の淵を挟み打ちにする作戦なのである。4 司馬懿仲達は六月には既に襄平城に到着している。その一方の劉昕が六月に帶方郡に到 着していない訳はないのである。 ③ 明帝は景初三年一月一日に崩御している。しかもその日の内に斉王芳は皇帝の 位に付 いている。景初三年は皇帝に即位した斉王芳治世の年号である。景初三年の年号に「明 帝」とつける筈がない。随って「三年」こそ「二年」の間違いである。 ④ さらに「景初二年六月」を「景初三年六月」の間違いであるとするならば、当然の「其 年十二月」は「景初三年十二月」である事になる。学界のこの考え方には明帝の景初三 年一月の崩御と言う事実認識が欠落している。この記事は卑彌呼への「論功行賞」であ る。喪中にこれが行われる筈がない。事実魏の「論功行賞」は景初二年十一月に行われ ている。卑彌呼に対する「論功行賞」もこれに続いて行なわれたのである。又「景初三 年六月」とすれば当然明帝の訃報は卑彌呼に届いている。たとえ難升米等がこれを知ら ずに「詣郡」しても、太守劉夏から明帝崩御を知らされたに相違なく、であれば難升米 等らはその魏朝訪問の目的を「弔問」としたに相違ない。しかし、「六月の条」には「求 天子朝獻」とのみ記され、「弔問」に答える文辞が窺われないのである。 4.卑彌呼の遷都時の動向 ~生口は公孫氏系官の捕虜
(景初二年一二月の条)劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利奉汝所獻
男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之
忠孝我甚哀
(通説訳)帯方の太守劉夏が、使いを遣わし、あなたの大夫難升米・次使都市牛利 (出石心・都我利)を送り、あなたが献じた男生口四人・女生口六人・ 班布(木綿の布・さらさの類)二匹二丈を奉って到来した。あなたの在 所ははるかに遠いが、そこで使いを遣わして貢献した。これはあなたの 忠孝であり、わたしは甚だあなたをいとしく思う。 (岩元訳)(景初二年十二月の条)劉夏は、汝の献じた男生口四人と女生口六人、班 布二匹二丈を 奉たてまつった汝の大夫難升米と次使都市牛利が来たので、(彼 ら)を使いにより(京へ)送らせた。汝の在る所、踰ゆ遠えんなれども、すな わち使いを遣わし貢献した。我は甚だ汝を哀( 慈いつくし)む。5 <岩元解説> ① 岩元説では伊都國を公孫氏帶方郡の出先機関と見ている。この伊都國には「一大率」と 呼ばれる検察官が常駐し、邪馬壹國以北の倭人國邑に対する警察権、及び裁判権を独占 し諸國邑は皆恐れていたと言う。郡使は此処に泊まっていた。 ② 有力な國邑には公孫氏帶方郡直属の派遣官が駐在した。邪馬壹國にも伊支馬、彌馬升、 彌馬獲支、奴佳鞮の四人の公孫氏帶方郡の指導官が駐在した。私は難升米等が献上する 中に生口男四人女六人とあるのを、邪馬壹國に派遣されたこの四人の公孫氏系の官とそ の妻と娘二人であると類推している。 ③ そもそも難升米等の献上物は極めて貧弱である。十人の生口と「班布二匹二丈のみ」で ある。班布とは濃淡の文様の布、班布二匹二丈は僅か五人分の衣料である。弔問時の貢 物である筈がない。この粗末な献上物を難升米が差し出せたのは、十人の生口が公孫氏 系の捕虜だったからである。であればこの生口献上が魏の明帝を最も喜ばせたに違いな い。 ④ 四人の公孫氏帶方郡派遣官が突然卑彌呼の薹だいから姿を消した。調べてみると九州の帶方 郡の出先機関の伊都國に駐在していた総督等は公孫氏の居城である、 遼りょう東とうの 襄じょう平へいじょう城 が魏の本隊に攻撃されるとの情報に浮き足立ち、邪馬壹國に送り込んだ四人の官を見捨 てて既に伊都國から半島に撤退てったいしたと言うのである。邪馬壹國に派遣された四人の官は これを知り、慌てて夜逃げをしたのである。倭の女王卑彌呼は難升米を追討部隊の隊長 にこれを捕ほ縛ばくさせた。そしてそのまま今まで倭人國邑を服属していた伊都國を陥落すべ く進軍させた。 ⑤ 卑彌呼も邪馬壹國本隊を率いて伊都國を目指したのである。難升米が伊都國に入城した 時には公孫氏系の支配者は既に誰もいなかった。それを「膂そじ宍し之の空むな國くに」というのである。 一足遅れて到着した女王卑彌呼は難升米に半島の帶方郡まで攻め上る事を命じた。難升 米が景初二年六月、太守劉夏に逢ったのはこのような状況でのことであった。 卑彌呼 は先ず伊都國に入り、その後奴國に滞在する。既にこの時代、半島、大陸の情勢を把握 せずには倭國経営が成り立たなくなっていたのである。この地の方が奈良に居るより、 大陸、朝鮮半島の正確な情報を得やすい事は言うまでもないことである。又この時点の 問題として、特に半島の難升米と密な連絡を取るにはこの地に留まる事が得策だったの である。これが卑彌呼の邪馬壹國からの遷都となってゆくのである。
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.卑彌呼は親魏倭王と為る (一)~帶方太守封付(着任)の身み支じ度たく今以汝爲親魏倭王假金印紫綬装封付帶方太守假授汝其綏撫種人勉
爲孝順。
(通説訳)いまあなたを親魏倭王となし、金印紫綬(むらさきのくみひも)を仮に与 え、装封して帯方の太守に付し仮に授けさせる。あなたは、種人(同一種 族の人・異族の夷狄)を安んじいたわり、勉めて孝順をせよ。 (岩元訳)今(少し前に)汝を以って親魏倭王と為している。 帶方太守封付(着任) の身み支じ度たくに金印紫綬を假す。汝に其(帶方太守職)を假授するので、種人 を綏すい撫ぶし、勉めて孝順を為せ。 <岩元解説> この 「今」 字は既に述べたように過去と現在の中間に位置する時制である。 この原 文では「卑彌呼が帶方太守に封じられた制詔の時点が現在である。随って親魏倭王假授 の時点は、帶方太守に封じられた時点より前にあるので、既に成立している親魏倭王卑 彌呼が帶方太守に封じられたのである。従って金印紫綬を賜る時点は、親魏倭王が除正 された時ではなく、帶方大守に封じられた時点である。ここに使用された「假」字は貸 し与えると言う義である。 「綏すい撫ぶ種人」の「種人」とは本々そこに住む人々の意である。つまり帶方郡治所付近にい る本々の住人を 労いたわり安心させよ、と言う意である。 又「孝順に勉めよ」とは、親に仕えてその意に逆らわないように「種人」を「教育」せ よと言う意である。因みに「孝順」語は左さきゅう丘 明めいの撰と言われる「国語」に出る春秋時代 の国別記録の「楚そ語ご」を典拠にしたと考えられる。随したがって魏の詔書等を作成する法務官 は古文経系の儒学者であろうと推察できる。左丘明の「左氏春秋」が古文経系の儒学者 の教本であったからである。7 (二)「皆裝封付・・」の解釈
皆裝封付難升米牛利還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜
汝好物也。
(通説訳)みな装封して難升米・牛利にわたす。還り到着したら目録どうり受け取り、 ことごとくあなたの国中の人に示し、国家(魏)があなたをいとしく思って いることを知らせよ。故に尊重にあなたに好物を賜うのである。 (岩元訳)皆帶方太守に封じる身支度とせよ。 難升米、牛利還り到らば、録受し、汝 の国中の人に示し、国家が汝を 哀いつくしみ、故に汝に好物を鄭重に賜ったこと を知らしむべし。 <岩元解説> この原文中、学界は実に滑稽にも、「皆装封付難升米牛利還到録受」の意を「総て装 封して難升米、牛利に託したから、彼らが國に帰ったなら記録して受け取るように」と採と る。賜り物は難升米、牛利が持ち帰っておらず「建中校尉の梯雋」が次に出る「正始元 年の条」に運んだと記されているではないか。 「録受」を「記録して受け取る」と誤訳する。正しくは 目録通りのものを受け取るとい う意である。一番の喜劇は帶方太守に封じるという意の「封」字を梱こん包ぽうする義に解釈す る事である。賜り物を『装封』 したと記すことにどれほどの意味があろうか。 「装」字は帶方太守に付く「身み支じ度たく」を言う。「皆装封付難升米牛利還到録受」の句は「皆 装封付」で句点である。実際には、この次に「帶方太守」語が書かれていなくてはならな いが、これが省略されている。二、『四度に亘り書き換えられた倭人伝』
現在我々が知る通行本の『魏志』倭人伝は三国を統一した晋朝の歴史家陳寿の書き遺 したものだが、これは公孫康の時代に初めて造られた「第一次倭人伝」を、その後三回 に亘り書き換えたものである。 従って通行本の陳寿の倭人伝は「第三次倭人伝」を底本として完成したものである。 陳寿の倭人伝は「第四次倭人伝」と言える。8 (1)第一次倭人伝 公孫度が自立を宣言し建国した燕國の二代目国王の公孫康が東夷民族を採訪し韓地、 倭地を正確に描いた倭人伝である。西暦204年帯方郡新設直後のことである。 (2)第二次倭人伝 三国時代に入り燕國の四代国王の公孫淵の軍事参謀が魏と呉を威い嚇かくする為に第一次倭 人伝を書きなおし、虚偽のデマゴギー威嚇叙述を編纂した。呉が西暦222年に独立し、 魏と呉の境界地点東台が確立した直後のことである。 又 岩元説では、倭人伝に登場する國邑に置かれた所謂「官」は公孫氏が派遣した「監視 官」と言う見方をするので、この「官」が見られる原文のフレーズは例外なく『公孫志』倭 人伝時代を述べた記事である。この視点は倭人伝解明の善きヒントである。 <添付の第二次倭人伝地図を参照> (3)第三次倭人伝 公孫燕國討伐隊の長官司し馬ば懿いちゅう仲 達たつが戦利品の一つとして魏に持ち帰った第二次倭人 伝を魏の史官がその時代に即した視点で幾つかの歴史的事象を書き加えている。 その代表的記事は卑彌呼の遷都である。 原文中の「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」の句の「女王之所都」の五文字 である。先述のように、これにて卑彌呼が邪馬台國にいないことが分かる。 (4)第四次倭人伝 陳 ちん 寿 じゅ が以上をトータル的に纏まとめた倭人伝である。これが現在の通行本である。陳寿の倭 人伝は第二次倭人伝に上書きされた第三次倭人伝を底本として書かれている。 西暦270年頃の編纂である。この時、何を書き込んだのかを精査することと、それに より陳寿がどのように幻惑されたかを察知することが倭人伝研究の最高の醍醐味なので ある。 (5)各次倭人伝の歴表 第一次倭人伝・・・西暦210年頃(正確に描かれた公孫氏倭人伝) 第二次倭人伝・・・西暦230年頃(虚実の公孫氏倭人伝) 第三次倭人伝・・・西暦240年頃(魏の史官による倭人伝) 第四次倭人伝・・・西暦270年頃(陳寿の倭人伝)
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<第二次倭人伝の地図>
(読売新聞:2011 年 1 月 22 日付記事) 11
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