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場家において本家筋と考えられる馬場半右衛門は 万治元 (1658) 年から延宝 6(1678) 年までの時期に 佐藤半弥と同役で庄屋役を務めた また 馬場家の本家筋と考えられる馬場弥平次は 18 世紀後半の明和 4(1767) 年から寛政 4(1792) 年までの時期に 西原金五郎と同役で庄屋役を務

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1 はじめに 本稿は、日本国内有数の蚕種生産地となっていった信濃国小県郡上塩尻村 における、主要な同族(マケ)の 1 つであった、馬場家の家計と蚕種取引に ついて、主に馬場 4 家文書(上田市立博物館蔵)を手がかりにして、18 世紀 の状況について考察を試みるものである。 馬場家の家計と蚕種取引についての検討を行うのに先立ち、上塩尻村内に おける馬場家の位置づけについて、確認しておく事にしよう。馬場家は、上 塩尻村において最有力の同族であった佐藤家には及ばなかったものの、上塩 尻村における主要な同族の 1 つと位置づけられる存在であった。 上塩尻村には、大村・利根島(本宿)・新屋の 3 つの集落があった。利根 島(本宿)は文禄 4(1595)年の洪水で建物が流されてしまった後、しばら くは家屋敷が作られなかった。しかし 18 世紀になると、本宿は上塩尻村の 人々により、再び開発される事になった。正徳元( 1 ) (1711)年に、大村の居屋 敷が詰まったので、馬場伊右衛門・佐藤半弥・菅沼定右衛門の 3 名で相談を した上で申し入れをした。庄屋役であった佐藤庄兵衛が御公儀様(上田藩) に願を取り次いだところ、願が叶い、勝手次第に本宿へ家を作り、居住する 事が可能になった。明和 3(1766)年正月現在では、人数 25 名・家数 24 軒 が本宿に出ていたが、馬場家からは馬場伊右衛門・馬場忠兵衛・馬場太右衛 門・馬場藤之丞の 4 名(4 軒)が居住していた。このような経緯からも明ら かなように、上塩尻村において 18 世紀に本宿の再開発が行われた際に、馬 場家は主要な役割を果たした同族の 1 つであった。 馬場家は上塩尻村において、村役人である庄屋役を務めた事もあった。馬 論文

馬場家の家計と蚕種取引

岩 間 剛 城

キーワード:信濃国小県郡上塩尻村 馬場弥平次家 家計 蚕種取引 地域金融

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場家において本家筋と考えられる馬場半右衛門は、万治元(1658)年から延 宝 6(1678)年までの時期に、佐藤半弥と同役で庄屋役を務めた。また、馬 場家の本家筋と考えられる馬場弥平次は、18 世紀後半の明和 4(1767)年か ら寛政 4(1792)年までの時期に、西原金五郎と同役で庄屋役を務めた。 『貫高帳』を元にして、馬場家の同族における土地所有の変遷を見てみよ う(表 1)。後述するように、蚕種取引や金銭取引を行っていた馬場家につい ては、土地所有を示す貫高のみで、その家産の全てを計る事はできない。し かしながら、貫高の変動は、それぞれの家の家産の変動状況を、ある程度反 映していたと考えられる。 馬場家同族の貫高については、時期によって変化が見られた。馬場家の総 本家として位置づけられている馬場弥平次家の貫高は享保 14(1729)年には 大きかったが、1756(宝暦 6)年には分家を進めた関係もあり、減少してい く。寛政 10(1798)年になると馬場藤右衛門家や馬場弥五左衛門家の貫高が、 馬場弥平次家の貫高を上回るようになる。馬場弥平次家は幕末期には貫高を 回復していくが、享保期の水準には遠く及ばなかった。このような貫高のあ り方からも、村内で最有力な同族であった佐藤家とは異なり、馬場家の本家 筋はあいまいになっていった事がうかがえるのである。( 2 ) 馬場弥平次家以外の家についても、いくつか見てみる事にしよう。馬場忠 兵衛家は、安永 7(1778)年時点で貫高を 1 度減らすが、その後次第に回復 し、幕末にかけて伸びている。これについては、上塩尻村内において同家が 行っていた金貸業の展開が、背景にあったと考えられる。( 3 ) 馬場藤右衛門家は文化 7(1810)年時点で 4 貫を超え、馬場家同族の中で 最大の貫高となるが、その後は減少傾向を示す。幕末の慶応 3(1867)年に は、馬場藤右衛門家から分家をした馬場藤之丞家にも抜かれてしまっている。 馬場猪右衛門家(源左衛門家)は、先に述べたように馬場家の同族の中で、 最初に本宿に分家をした家である。同家は、貫高をその後減らしていき、文 政 2(1819)年時点では 0.5 貫を切ってしまう。その後、次第に回復を示し ている。 次に、馬場家の同族が受けた恩賞について確認をしておきたい。幕末期に おいては、馬場家の同族の中には、上田藩への献金を行った事により、藩か ら恩賞を受けた者も少なくなかった(表 2)。このような恩賞を受けた状況か ら見ても、馬場家は上塩尻村内において、一定の格を認められていた事がう

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表 1 馬場家における土地所持の変遷(貫高) 家名(家番号) 享保 14 宝暦 6 安永 7 寛政 10 文化 7 文政 2 文政 12 天保 12 安政 3 慶応 3 1729 1756 1778 1798 1810 1819 1829 1841 1856 1867 馬場弥平次家(1)(総本家) 7.778 2.614 2.537 1.505 0.879 0.879 0.815 0.818 1.156 1.772 ◎ 馬場弥五左衛門家(8) (1 の分家) 1.280 2.492 2.906 2.916 2.423 2.027 0.700 1.406 ◎ 馬場忠兵衛家(7) (1 の分家) 2.002 1.830 0.502 0.768 0.759 1.133 1.062 1.502 1.562 1.728 ◎ 馬場市郎兵衛家(16) (7 の分家) 0.017 0.009 0.017 1.373 1.221 0.976 0.979 0.979 ◎ 馬場藤右衛門家(9) (1 の分家) 1.250 1.450 3.240 4.143 3.531 3.300 1.358 1.613 1.070   馬場藤之丞家(10) (9 の分家) 1.686 1.047 0.038 0.055 0.055 0.855 0.941 0.763 1.618   馬場金兵衛家(15) (1 の分家) 0.020 0.020 0.020 0.303 0.010 0.450 0.465 ◎ 馬場源左衛門家(5) (1 の分家) 3.466 2.434 1.565 1.124 0.682 0.492 0.884 1.298 1.749 1.759   馬場伊右衛門家(17) (5 の分家) 0.017 0.006 0.018 0.005 0.005   馬場半右衛門家(6) (1 の分家) 4.223 0.902 0.420 0.016 1.213 1.213 1.213 2.053 1.528 2.382   馬場藤四郎家(13) (6 の分家) 0.155 0.642 0.431   馬場庄九郎家(18) (1 の分家) 馬場弥惣家(19)(1 の分家)   馬場九右衛門家(3) (1 の分家) 0.693 1.027 1.148 0.695 0.065 0.035 0.824 0.548 0.893 0.465   馬場六兵衛家(4) (1 の分家) 1.061 1.042 0.845 0.281 0.903 0.903 1.169 0.530 0.530   馬場儀右衛門家(2) (1 の分家) 0.352 0.352 1.056 1.524 2.418 2.418 1.294 1.042 0.679 ◎ 馬場政之右衛門家(11) (2 の分家) 1.005 1.367 2.449 1.558 2.263 2.288 2.276 ◎ 馬場徳之丞家(12) (11 の分家) 1.751 1.753 1.753   馬場太右衛門家(14) (2 の分家) 1.052 2.190 1.165 0.296 0.969 馬場マケ合計 19.566 15.346 13.404 13.940 15.242 17.996 17.349 18.201 15.984 18.417 (◎は天保 4(1833)年時点で蚕種商人の家) 1)佐藤嘉三郎家文書『貫高帳』より作成。

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かがえるのである。 馬場家は金貸を行っていた同族として、上塩尻村内でも知られる存在であ ったが、蚕種取引も行っていた。 時期は下るが、天保 4(1833)年時点での馬場家同族における蚕種仕入・ 販売状況によると、馬場源蔵(倅源左衛門)、馬場仲右衛門(倅仙之助)、馬 場忠兵衛、馬場徳之丞、馬場半之丞、馬場弥五左衛門、馬場弥五郎が蚕種商 人として記載されている(表 3)。馬場家の同族に属する多くの者が、蚕種業 に関わっていた事がうかがえる。 馬場猪右衛門家の系統である馬場源蔵(倅源左衛門)は、自家製の手取蚕 種 265 枚に加えて、上塩尻村内、上塩尻村の隣村である上田領秋和村、さら に他藩領である松代領鼠村、小諸領石井村から 61 枚を購入し、合計 326 枚 を販売していた。蚕種販売先の中心は、上州で 288 枚であった。 馬場藤右衛門家の系統である馬場仲右衛門(倅仙之助)は、自家製の手取 蚕種 200 枚に加えて、上塩尻村内の馬場六左衛門、上田領の今井村、穂越村、 及び岩村田領丸子村から 228 枚を購入し、合計 428 枚を販売していた。蚕種 販売先の中心は、信濃国伊那郡で 280 枚であった。次いで、他国である上州 が 100 枚となっていた。 表 2 上田藩による馬場家への恩賞 氏名 恩賞の内容 ◎ 7 馬場忠兵衛 文政 9(1826)年長百姓、天保 12(1841)年上判御免、蚕種世話役になる、 弘化 3(1846)年上下御免、嘉永 3(1850)年御賞詞苗字御免 ◎ 7 馬場忠作 嘉永 4(1851)年上判上下御免(親の馬場忠兵衛が積籾をしたため) ◎ 16 馬場弥五郎 嘉永 6(1853)年上判御免(兄の馬場忠兵衛が村方永続金を差し出したため) ◎ 16 馬場半助 嘉永 6(1853)年上判御免(伯父の馬場忠兵衛が村方永続金を差し出した ため) ◎ 11 馬場半之丞 文政 13(1830)年上判上下御免、天保 6(1835)年庄屋添役(親の政之右 衛門が前年に調達金を献金したため) ◎ 11 馬場岩次郎 弘化 3(1846)年上下御免(半之丞倅、御内用につき) ◎ 12 馬場得之丞 弘化 3(1846)年上下御免(御内用につき) ◎ 9 馬場仲右衛門 天保 6(1835)年上判御免(前年に調達金を献金したため) ◎ 5 馬場源左衛門 天保 14(1843)年上下上判御免(御内用につき) 1 馬場弥平次 弘化 3(1846)年上判御免(御内用につき) 1)『上下塩尻御賞詞帳 嘉永七年改』(佐藤嘉三郎家文書Ⅰ 1015)より作成。 (◎は天保 4(1833)年時点で蚕種商人の家)

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馬場忠兵衛家の系統である馬場忠兵衛は、自家製の手取蚕種 220 枚に加え て、上塩尻村佐藤清次郎から 9 枚を購入し、合計 229 枚を販売していた。蚕 種販売先の中心は、上州で 196 枚となっていた。 馬場政之右衛門家から分家した馬場徳之丞家の系統である馬場徳之丞は、 自家製の手取蚕種 217 枚に加えて、上塩尻村内の清水分右衛門・馬場六兵 衛・清水金左衛門・馬場仲右衛門、および隣村の下塩尻村・秋和村から 57 枚を購入し、合計 274 枚を販売していた。蚕種販売先の中心は、尾州および 濃州で 265 枚となっていた。 馬場政之右衛門家の系統である馬場半之丞は、自家製の手取蚕種 272 枚半 に加えて、上塩尻村内の馬場徳之丞・春原藤兵衛・清水分右衛門・清水久左 衛門・馬場仲右衛門、および松代領新地村から 30 枚を購入し、合計 302 枚 半を販売していた。蚕種販売先の中心は、濃州および尾州で 260 枚となって いた。 馬場弥五左衛門家の系統である馬場弥五左衛門は、自家製の手取蚕種 151 枚に加えて、御料新田村、国分寺村、上田領金剛寺村から 135 枚を購入し、 合計 286 枚を販売していた。蚕種販売先の中心は、上州および武州で 241 枚 表 3 馬場家における蚕種取引状況(天保 4(1833)年現在) 蚕種商人氏名 自家製分 購入分 主要な販売先 5 馬場源蔵 (倅源左衛門) 265 枚 上塩尻村・上田領秋和村・松代領鼠村・小諸 領石井村 61 枚 上州 288 枚 9 馬場仲右衛門 (倅仙之助) 200 枚 4 馬場六左衛門・上田領今井村・穂越村・岩 村田領丸子村 228 枚 信濃国伊那郡 280 枚、上州 100 枚 7 馬場忠兵衛 220 枚 佐藤清次郎 9 枚 上州 196 枚 12 馬場徳之丞 217 枚 清水分右衛門・4 馬場六兵衛・清水金左衛門・ 9 馬場仲右衛門・下塩尻村・秋和村 57 枚 尾 州 お よ び 濃 州 265 枚 11 馬場半之丞 272.5 枚 12 馬場徳之丞・春原藤兵衛・清水分右衛門・ 清水久左衛門・9 馬場仲右衛門・松代領新地 村 30 枚 濃 州 お よ び 尾 州 260 枚 8 馬場弥五左衛門 151 枚 御料新田村・国分寺村・上田領金剛寺村  135 枚 上 州 お よ び 武 州 241 枚 16 馬場弥五郎 162.5 枚 上州 122.5 枚、武 州 元 似 手 村 忠 義 40 枚 1)『上塩尻村蚕種仕入高取調帳』(佐藤嘉三郎家文書蚕種 S-50)より作成。

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となっていた。 馬場市郎兵衛家の系統である馬場弥五郎は、他からの買入れを行わず、自 家製の手取蚕種 162 枚半を販売していた。蚕種販売先の中心は、上州で 122 枚半となっていた。残りの 40 枚は、武州元仁手村の忠義に売っていた。 以上のように、天保 4(1833)年における馬場家の蚕種販売先について見 ると、販売先である種場は、上州が中心となっていた。ただし、馬場家の同 族全てが上州を蚕種の販売先にしていたわけではなく、上州以外の地を販売 先にしていた場合も見られた。例えば、馬場政之右衛門の子である馬場徳之 丞・馬場半之丞は、主要な販売先が濃州および尾州となっており、馬場家の 他の系統との相違が見られた。馬場政之右衛門の系統は、幕末期には馬場家 の中でも有力な系統の 1 つであったが、馬場家の中では上州以外の地に販路 を開発していた。その一方、天保 4(1833)年当時の馬場家では、奥州は蚕 種の販路とはなっていなかった。なお、近代には蚕種業を行っていた事が、 現存する文書から確認できる馬場六兵衛家については、天保 4(1833)年の 資料では馬場六左衛門が馬場仲右衛門に蚕種を販売していた事、馬場六兵衛 が馬場徳之丞に蚕種を販売していた事が記録されている。この点から、馬場 六兵衛家が蚕種生産を行っていた事は判明するが、天保 4(1833)年の時点 では蚕種商人としては登場していない。馬場六兵衛家は、馬場家の同族の中 では、蚕種商いに積極的に関わるようになった時期が相対的に遅かったので はないかと考えられる。 ここまで、19 世紀前半期である天保期における馬場家同族の蚕種取引に ついて確認をしてきたが、天保期以前における馬場家同族による蚕種取引に ついても、上塩尻村において蚕種取引が開始された際の状況を確認するとい う観点から、その解明が求められている。( 4 ) 上塩尻村で有力な同族の 1 つであった馬場家における、家計と蚕種取引の 状況は、どのようなものであったか。本稿では、馬場家の本家筋と考えられ ている馬場弥平次家に残された馬場 4 家文書を手がかりにして、天保期から 時代をさかのぼって、18 世紀の状況についての考察を試みたい。 2 18 世紀の馬場弥平次家における蚕種取引・金銭取引の状況 本章では馬場家の本家筋であったと考えられる馬場弥平次家について、馬

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場 4 家文書を手がかりにして、18 世紀における蚕種取引・金銭取引の状況 について若干の検討を行う。 (1) 蚕種取引の状況 馬場弥平次家は、享保期から蚕種取引を行っていた。『種買入覚帳』には、( 5 ) 享保 9(1724)年から享保 20(1735)年までの蚕種の買入を中心として、記 録が行われている。個々の取引について、年、金額、蚕種枚数、取引相手や 場所が記載されている。ただし、年・金額・蚕種枚数・取引相手の全てが記 録されているとは限らず、一部の記載が欠けている場合も少なくない。また、 金額については「かへ」と「代」の金額が、1 つの取引について、それぞれ 別個に記載されている場合もしばしば見られる。金額のうち「かへ」と 「代」との関係については不明であるが、「代」の方が文字は大きく記載され ている。帳面の内容については今後の検討が必要であるが、以下では、「代」 については蚕種購入に対して馬場弥平次家が支払った代金として、叙述をし ていく事にする。 享保期は、上塩尻村において蚕種取引が開始された時期に相当すると考え られているが、上塩尻村において有力な同族であった馬場弥平次家も、この 時期には早くも蚕種取引を行っていた事が確認できる。 取引相手と場所が判明する中では、馬場弥平次家の蚕種取引については、 遠隔地である上州・越中在住者との取引件数が多かった(表 4)。上州沼田よ り持参された種と、越中八尾より持参された種を、上塩尻村で馬場弥平次が 購入していたのである。他国在住者との蚕種取引では、武州本庄に在住した 者と関わる取引もあった。19 世紀の天保期とは異なり、18 世紀の享保期に は、上塩尻村内での蚕種の大量生産、および上塩尻村から他国への蚕種の大 量販売はまだ行われていなかったのである。 上塩尻村在住者との取引では、判明する延べ件数としては、馬場姓の者 6 件、清水姓の者 5 件、春原姓の者 3 件、高遠姓の者 3 件、佐藤姓の者 1 件、 塚田姓の者 1 件、原姓の者 1 件となっていた。馬場弥平次家の蚕種取引にお いては、馬場家・清水家に属する者との取引件数が多かったのに対し、上塩 尻村内で有力な同族であった佐藤家・山崎家・原家に属する者との取引件数 が少なかった。蚕種取引における、馬場弥平次家と上塩尻村内の各同族との 関わりについての強弱がうかがえる。

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それでは、馬場弥平次家による蚕種買入の中心となっていた、上州・越中 との取引について見てみる事にしよう。まず馬場弥平次家による上州産の蚕 種取引については、産地であった上州沼田の蚕種を購入するのが、取引の中 心となっていた(表 5-1、表 5-2)。蚕種の持参人としては、藤右衛門・伝右衛 門・善右衛門・佐右衛門・伴右衛門の名前が登場している。蚕種の持参人の 名前を見ると、上塩尻村に在住していた者が上州に出向いて蚕種を購入した 可能性が考えられる。しかしながら、上州沼田出身の蚕種商人が上塩尻村に 来て取引をしていた可能性もある。『種買入覚帳』だけからは、取引の実態 がいずれであったのかを確定するのは難しい。なお、個別の蚕種買入の代金 は、13 両 1 分 500 文が最大であった。蚕種枚数についての記録は少ないが、 最大で 378 枚であった。 それでは次に、馬場弥平次家の越中産の蚕種に関する取引がいかなるもの であったかについて、若干の事例を見てみる事にしよう(表 6)。 享保 9(1724)年には種 10 枚「越中より廻れ」を代金 1 分 117 文で購入し ていた旨の記録がある。これは、越中種の取引に関する記録であったと考え 表 4 馬場弥平次家の蚕種取引(享保期:1724 ∼ 1735 年) 地名 取引記載件数(判明分) 上州 33 越中 23 武州本庄 2 信州 小県郡 上塩尻村 21 下塩尻村 1 小牧村 1 中之条村 2 上田原村 2 鎌原村 1 諏訪形村 1 青木村 1 埴科郡 坂木村 7 戸倉村 4 金井村 1 1)『種買入覚帳』(馬場 4 家文書 D-11)より作成。

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られる。また同年には、八郎右衛門が持参した越中種 100 枚を馬場弥平次家 が購入し、代金は 2 両 3 分であった。同年 8 月 28 日に、馬場弥平次家は 208 枚の種を受取ったが「六右衛門種 越中替り」と記載されている。これ も、馬場弥平次家で越中の蚕種を購入した蚕種取引に関連して、記録が行わ れていた可能性がある。 享保 11(1726)年にも、越中種の取引を複数回行っていた。そのうち、越 中種を 300 枚購入し、代金が 2 分 300 文であった取引については「右ハ段々 表 5-1 馬場弥平次家による上州種の蚕種取引(享保 9 年(1724 年)∼享保 13 年(1728 年)) 年 蚕種 枚数 (枚) 取引内容 地名 金額(代) 元号 西暦 両 分 朱 貫 文 享保 9 1724 167.0 上州種 上州 10 800 享保 9 1724 北上州へ持出シ 上州 400 享保 9 1724 辰ノ七月十三日 沼田なつ金 上州沼田 12 2 享保 9 1724 辰十二月 沼田より取 上州沼田 9 3 享保 10 1725 巳七月十五日沼田より 受取 上州沼田 13 1 500 享保 10 1725 巳十二月二十三日 北上州よ り受取 北上州 9 3 350 享保 11 1726 午ノ七月十三日 福 北上州 より 北上州 3 享保 11 1726 八月二十五日持参 二掛 同 所藤右衛門 北上州 6 300 享保 11 1726 九月二十四日持参 北上州よ り 同所伝右衛門より 北上州 8 1 享保 11 1726 同 十月奥より 奥より伝右 衛門 持参 北上州 3 享保 11 1726 持出し上州へ 上州 300 享保 11 1726 北上州へ持出し 北上州 300 享保 12 1727 十二月十七日 沼田より善右 衛門 上州沼田 2 200 享保 13 1728 沼田より 佐右衛門持参 上州沼田 1 2 享保 13 1728 八月 沼田より 同人持参 上州沼田 1 享保 13 1728 十一月十五日 上州なつ金  伴右衛門より取 上州 5 1)『種買入覚帳』(馬場 4 家文書 D-11)より作成。

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セリへ売申捗候」とある。この記載より、馬場弥平次家が購入した越中蚕種 については、馬場弥平次家が上塩尻村の近郊で、せり売りをしていた可能性 表 5-2 馬場弥平次家による上州種の蚕種取引(享保 14 年(1729 年)∼享保 19 年(1734 年)) 年 蚕種 枚数 (枚) 取引内容 地名 金額(代) 元号 西暦 両 分 朱 貫 文 享保 14 1729 酉ノなつ 上州より持参 上州 4 2 享保 14 1729 上州奥 春 たね□代〆 上州 7 2 享保 15 1730 戌七月十日上州より 藤右衛 門持参 上州 7 1 享保 14 1729 酉ノ暮より取金覚 酉ノ暮  沼田より持参 藤右衛門 佐 右衛門 上州沼田 5 享保 15 1730 戌なつ沼田より持参 きぬわ た屋 佐右衛門 上州沼田 8 1 2 享保 15 1730 同なつ沼田より持参 藤右衛 門 上州沼田 7 1 享保 15 1730 戌十二月五日 沼田より持参  弐人 上州沼田 1 3 享保 15 1730 上州ヘ持出し 上州 500 享保 15 1730 上州奥道元金合 上州 12 450 享保 15 1730 右之内かけ取申覚 戌十二月 五日 沼田より佐右衛門持参 上州沼田 1 3 享保 16 1731 同日 上州より佐右衛門持参 上州 5 1 享保 16 1731 378.0 亥なつ元金入申覚 上州種 上州 5 1 1 28 享保 16 1731 亥ノ十二月 佐右衛門持参  両人分 沼田より取 上州沼田 2 2 享保 17 1732 子ノ七月廿四日 藤右衛門と 両人分 上州より持参 上州 7 1 享保 17 1732 惣〆 上州奥共元金也 上州 15 226 享保 17 1732 子十二月九日 沼田より 佐 右衛門持参 上州沼田 2 400 享保 19 1734 30.0 金井 ゆにき 内三枚はき種 ニ取 右ノ内六枚佐右衛門沼 田持参 沼田 1 3 453 1)『種買入覚帳』(馬場 4 家文書 D-11)より作成。 2)享保 19 年 30 枚の取引では、金額(かへ)として 6 両 1 分 2 朱が記載。

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表 6 馬場弥平次家による越中種の蚕種取引(享保 9 年(1724 年)∼享保 20 年(1735 年)) 年 蚕種 枚数 (枚) 取引内容 地名 金額(代) 元号 西暦 両 分 朱 貫 文 享保 9 1724 10.0 越中より廻れ 越中 1 117 享保 9 1724 100.0 越中八郎右衛門持参種 越中 2 3 享保 9 1724 208.0 八月廿八日受取 六右衛門種  越中替り 越中 1 1 享保 9 1724 50.0 奥売 越中次兵衛種 越中 享保 9 1724 15.0 越中 八郎右衛門種 二口合 越中 1 290 享保 9 1724 116.0 越中 越中 2 326 享保 10 1725 八月より巳春迄五百枚 越中 かい 越中 4 享保 11 1726 152.0 午春 越中 越中 1 134 享保 11 1726 15.0 同所 かへ 越中 372 享保 11 1726 中間種ヘ出ス 内壱分百文ハ 越中ヘ払取 越中 1 2 享保 11 1726 25.0 越中種 越中 310 享保 11 1726 67.0 伝之丞 越中より 越中 977 享保 12 1727 伝兵衛殿ヘ□種 越中なつ 越中 332 享保 13 1728 300.0 申春 越中種 此代弐分三百 文ニ而申候。右ハ段々セリヘ 売申捗候 越中 2 300 享保 13 1728 172.0 申ノ八月かい 越中 右之内 弐十枚三兵衛ニ□候 越中 3 150 享保 14 1729 69.0 越中 越中 1 1 673 享保 15 1730 69.0 越中 越中 1 1 673 享保 15 1730 10.0 越中 越中 264 享保 15 1730 69.5 越中 越中 1 523 享保 17 1732 20.0 六月廿五日 越中 越中 830 享保 18 1733 232.0 八尾買 越中八尾 7 3 880 享保 20 1735 50.0 卯ノ二月廿一日 越中春種  〆三両三分五百廿十六文 越中 2 享保 20 1735 30.0 越中 越中 1 253 1)『種買入覚帳』(馬場 4 家文書 D-11)より作成。 2)享保 9 年 10 枚の取引では、金額(かへ)として 2 両 3 分が記載。 3)享保 9 年 50 枚の取引では、金額(かへ)として 1 両 3 分が記載。 4)享保 9 年 15 枚の取引では、金額(かへ)として 1 両 1 分が記載。 5)享保 15 年 69 枚の取引では、金額(かへ)として 2 両が記載。

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が考えられる。 享保 18(1733)年には、八尾種を 232 枚購入し、その代金は 7 両 3 分 880 文となっていた。この取引は、越中八尾産の蚕種に関するものであったが、 他の越中蚕種の取引についても、越中八尾産の蚕種であった可能性が高い。 以上のように、蚕種が生産されていた上州沼田と並んで、越中八尾は享保( 6 ) 期の馬場弥平次家にとって、重要な蚕種取引先になっていたのである。 蚕種の買入や取引の状況を確認するため、馬場弥平次家では蚕種枚数や代 金について、不定期に「〆」などの格好で締めていた(表 7)。 締める際には、蚕種枚数と代金が併記されていた場合と、代金のみが記載 されていた場合があった。枚数・金額としては、最大でも享保 9(1724)年 の 1109 枚、33 両 1 分であった。享保 9(1724)年に 33 両 1 分であった時に は、「売揚持出共」と書いてある事より、購入分以外の販売分も一部に含ん でいた可能性もあるが、その具体的な実態は不明である。上州産の蚕種や越 中産の蚕種は、馬場弥平次家の蚕種取引において重要な位置を占めていたが、 享保年間の馬場弥平次家ではまだ、他国産の蚕種の買入・購入が中心であっ た。19 世紀の天保期のように、馬場家の同族が上塩尻村で蚕種の生産をし た上で、上田藩領内や他国に出向いて商いをして多量の蚕種を販売するよう な状況には、18 世紀前半の時点では、馬場弥平次家はまだ到達していなか ったと考えられる。 表 7 馬場弥平次家による蚕種取引の総締(享保 9 年(1724 年)∼享保 18 年(1733 年)) 年 蚕種枚数 (枚) 取引内容 金額(代) 元号 西暦 両 分 朱 貫 文 享保 9 1724 609.0 種数〆 内弐百枚大上南ヘ引 右代〆 28 2 1 2 享保 9 1724 1109.0 辰合 惣〆代 売揚持出共 33 1 享保 10 1725 惣〆 12 2 5 享保 11 1726 667.0 〆 16 3 804 享保 11 1726 惣〆 20 享保 11 1726 惣〆 27 3 享保 12 1727 〆 21 1 1 25 享保 15 1730 424.0 惣〆 10 2 963 享保 18 1733 674.0 惣〆種数 代金〆 17 2 242 1)『種買入覚帳』(馬場 4 家文書 D-11)より作成。

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以上のような『種買入覚帳』の記載内容から、馬場弥平次家では蚕種業に 関する金銭出入について、注意を払っていた事がうかがえる。享保期におけ る「奥むき」に関する帳面の存在が確認できない事もあり、18 世紀の馬場 弥平次家において、蚕種業が収益基盤の中心となっていたか否かについては、 確定できない。しかしながら蚕種業だけに注目してみても、上塩尻村で蚕種 取引が始まりつつあった 18 世紀には、馬場弥平次家においては、当主が家 産の保全や家産の多少について考慮をする、「家計」の観念が形成されつつ あった可能性を指摘できる。 (2) 金銭出入の状況 上塩尻村内において、馬場家は蚕種業のみならず、金貸を行う家としても 知られていたが、18 世紀前期から後期にかけての金銭出入の状況はいかな るものだったのか。次に部分的ではあるが、18 世紀前期から後期に相当す る、宝永 5(1708)年〜寛政 2(1790)年における馬場弥平次家の金銭出入に 関する状況について、概観してみる事にしよう。ここで検討をする際に用い( 7 ) る『金銭貸借帳』は、各取引の行われた年月日・金額・取引相手・内訳など が主に記載されている。ただし全ての取引において、全ての項目が完全には 記録されていない。例えば、取引の行われた年月日の記載が抜けている場合 や、取引相手の在住村の記載が抜けている場合がある。さらには個々の取引 が金銭の出入のいずれであるか、金銭貸借のいずれであるかが明示されてお らず、判然としない場合も少なくない。各年毎に金高の総締めも行っていな かった事より、この文書は金銭出入についての備忘録的な帳面であったと考 えられる。以上のような帳面の記載状況より、この『金銭貸借帳』は、馬場 弥平次家から見て個々の金融取引が金銭貸借の何れであったのかを、全ての 金融取引について厳密に確認するという点では限界はある。しかしながら、 18 世紀前期から後期における馬場弥平次家の金銭取引のあり方を探る際に、 有力な手がかりを得られる史料である。 馬場弥平次家は、18 世紀前期の宝永年間から、上塩尻村およびその周辺 村に在住する者との金銭貸借を行っていた。取引に関する総件数 706 件のう ち、510 件が上塩尻村在住者との取引であり、馬場弥平次家の金銭取引は上 塩尻村在住者との金銭貸借が中心的であった。 上塩尻村に在住していた者のうち、高橋基泰氏作成の上塩尻村宗門帳デー

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タベースとの照合により、現時点で個人名が判明する延べの取引回数では、 馬場姓の者が 126 回で最大であった。馬場弥平次家の金銭取引は、上塩尻村 内における同族との関わりを背景として、行われた場合が中心的だったので ある。次いで高遠姓の者が 61 回であった。以下は清水姓の者が 57 回、佐藤 姓の者が 39 回、滝沢姓の者が 28 回・塚田姓の者が 7 回となっていた。これ に対して山崎姓の者は 16 回、原姓の者は 10 回となっており、上塩尻村内で 有力な同族であった佐藤家や清水家に比べて、金銭貸借の取引回数は小さか った。馬場弥平次家は、金銭取引に関しては、山崎家や原家に属する者との 関係は、必ずしも密接ではなかったのである。 上塩尻村以外では、隣村である下塩尻村在住者との取引回数が 39 回と多 く、上塩尻村およびその周辺村に在住する者との金銭取引が、馬場弥平次家 の金銭取引の中心であった。 『金銭貸借帳』での各取引の記載については多様であり、その内容につい ては今後の検討が必要である。具体的な金銭出入については不明な点も多い が、蚕代や種代、繭代などの蚕種取引に関する金銭取引や、無尽金にともな う金銭取引の記録が見られる。年貢金として、馬場弥平次家が貸付を行って いる場合もあった。このような帳面の記載から、百姓による商取引との関わ りや短期的な資金需要に対応して、農村地域において地域的な金融市場が形 成されつつあった状況がうかがえる。 蚕種取引において大きな比率を占めていた上州・越中八尾在住者について は、『金銭貸借帳』の記載では取引回数は多くなかったが、金銭出入が全く 無かったわけではない。「巳ノ正月廿六日 一金弐分取替道中金 越中八尾 次兵衛殿 三五郎殿」のように、享保 10(1725)年において、越中八尾との 関係で馬場弥平次家が金銭取引を行っている事例もあった。 越中八尾に関係した金銭取引については、事例としてはごく少数ではある ものの、他にも確認する事ができる。享保 17(1732)年には、越中八尾の本 郷?屋与惣兵衛に金 1 両取替であったが、内 2 分は同年の大晦日に取った。( 8 ) 残りの 2 分に対して利足が付き、享保 19(1734)年には元金と合わせて、3 分 736 文になっていた。 享保 12(1727)年には、越中八尾のかに寺屋平右衛門に 1 分取替であった が、利足が付いて、元金と合わせて 2 分 954 文になっていた。 享保 15(1730)年には、正月 5 日より同 9 日まで、越中八尾の京屋三五郎

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の関係者 3 人が泊まり、合わせて 15 人分(1 泊 3 人× 5 泊= 15 人分)となっ た。この代金は、1 貫 500 文となっていた。 享保 10(1725)年には、越中八尾のかに寺や平右衛門に 1 分取替であった が、8 年間で元利を合わせて 2 分 1 貫 260 文となった。 享保 17(1732)年には、越中八尾高分や又兵衛の 340 枚の種を預かった。 この種に対しては、翌享保 18(1733)年春に 513 文を払い出した。他に 35 文が山たちん取かへ、75 文が山払取かへで、合わせて 627 文であった。さ らに 500 文が飛脚へ取かへで、合わせて 1 貫 127 文取かへとなっていた。こ の事例では、蚕種取引に関連した金銭出入があった事がうかがえる。 ここまで、『金銭貸借帳』を概観しつつ、金銭出入の状況について確認を 試みた。18 世紀の馬場弥平次家では当主が家産の保全について考慮をする、 「家計」の観念が形成されつつあった事が、金銭取引の帳面からもうかがえ る。 馬場家は金貸を行っていた同族として上塩尻村内で知られていたが、ここ まで見てきたように、馬場家の本家筋に当たると考えられる馬場弥平次家は、 享保期から金銭取引を行っていたのである。 (3) 金融講・無尽への関与 ここまで、馬場弥平次家による金銭取引の状況について概観してきた。た だし、馬場家の金融に関する事例は、1 対 1 の金銭貸借にとどまらなかった。 1 対 1 の金銭貸借に加えて、馬場弥平次家は、複数の構成員によって組織さ れる金融講・無尽にも関わっていたのである。 馬場弥平次家の当主であった馬場弥平次は、自らが加入していた無尽につ いて、掛金の記録をしていた。本節の(1)蚕種取引の状況において検討し た享保年間からは後の時期となるが、18 世紀後半にあたる明和 7(1770)年 から安永 4(1775)年の間に、馬場弥平次家の当主であった馬場弥平次が加 入していた無尽の掛金について記録をした、『年々無尽掛覚帳』が、馬場 4 家文書の中に含まれている。そこで以下では『年々無尽掛覚帳』を手がかり( 9 ) にして、馬場弥平次が加入していた無尽につき、概観をしていきたい。 『年々無尽掛覚帳』には、馬場弥平次家が加入していた無尽につき、年月 日、何回目の会合であるかの番号、金額、無尽名が記入されている。この帳 面の「覚帳」としての性格もあり、各年毎に現金有高を締めてはいない。

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無尽に関する記載は 103 件見られるが、判明分のうち上塩尻村在住者が発 起した無尽が 87 件で大多数を占めている。上塩尻村および、小泉村や諏訪 部村などの周辺村に在住する人々が発起人となって組織されていた無尽に、 馬場弥平次は加入していたのである。 馬場弥平次が加入していた無尽については、1 つの無尽で年に 2 回会合が 開かれるのが一般的であった。高橋基泰氏作成の上塩尻村宗門帳データベー スとの照合により、記録されている無尽の延べ回数を見てみると、馬場姓の 者が発起した無尽が 24 回、佐藤姓の者が発起した無尽が 23 回、春原姓の者 が発起した無尽が 15 回、清水姓の者が発起した無尽が 10 回と多かった。こ れに対して、上塩尻村で主要な同族であった山崎家・原家の者が発起してい た無尽については、原姓の者が発起した無尽が 3 回、山崎姓の者が発起した 無尽が 2 回となっており、馬場弥平次が関与していた事例は少なかった。無 尽の発起者との関わりから見ると、先に見た金銭取引と同様に、馬場弥平次 家と山崎家・原家との関わりは、馬場弥平次家と佐藤家や清水家などとの関 わりに比べて、強くなかったのである。 無尽を発起した人名について見ると、まず馬場家では、馬場金兵衛発起の 無尽に関する記録が 8 回、馬場市郎兵衛発起の無尽に関する記録が 7 回、馬 場弥平次自らが発起した「手前発起」の無尽に関する記録が 6 回、馬場忠右 衛門発起の無尽に関する記録が 2 回、馬場藤右衛門発起の無尽に関する記録 が 1 回となっている。会合での 1 回当りの掛金は、1 両程度の場合が多いが、 馬場金兵衛発起の無尽のように、1 回当りの掛金が 1 分であった場合も見ら れる。馬場弥平次が自ら発起した無尽については、1 回当りの掛金は 2 両 〜3 両程度となっている。無尽で集められた金を受け取った事例としては、 明和 9(1772)年 3 月 9 日に馬場金兵衛発起の無尽より 1 両 2 分、安永 2 (1773)年 3 月 17 日に馬場市郎兵衛発起の無尽より 10 両を、それぞれ馬場 弥平次は受け取っている。 佐藤家では、佐藤忠次郎発起の無尽に関する記録が 13 回、佐藤惣左衛門 発起の無尽に関する記録が 9 回、佐藤嘉平治発起の無尽に関する記録が 1 回 となっている。会合での 1 回当りの掛金は、1 両である事例が最も多かった。 無尽で集められた金を受け取った事例としては、会合の年が記載されていな いが、3 月 19 日に佐藤忠次郎発起の無尽より 11 両を、馬場弥平次は受け取 っている。

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春原家では、春原治左衛門発起の無尽に関する記録が 6 回、春原安左衛門 発起の無尽に関する記録が 5 回、春原友七発起の無尽に関する記録が 3 回、 春原嘉七発起の無尽に関する記録が 1 回となっている。会合での 1 回当りの 掛金は、1 両以下であった。無尽で集められた金を受け取った事例としては、 会合の年が記載されていないが、3 月 26 日に春原安左衛門発起の無尽より 10 両 3 分を、馬場弥平次は受け取っている。 清水家では、清水四郎左衛門発起の無尽に関する記録が 5 回、清水弥平太 発起の無尽に関する記録が 3 回、清水弥平太・清水四郎左衛門両名で発起の 無尽に関する記録が 1 回、清水源左衛門発起の無尽に関する記録が 1 回とな っている。会合での 1 回当りの掛金は、1 分〜3 分程度で、1 両以下にとど まっていた。 なお馬場弥平次とは別に、上塩尻村で最有力であった佐藤家の本家筋であ った佐藤善右衛門も、寛延 3(1750)年〜安永 9(1780)年に加入していた無 尽への掛金について、『無尽年々掛次帳』への記録を行っていた。同文書に(10) よると、佐藤善右衛門が加入していた無尽のうち、馬場家に属する者が発起 人となっていた無尽について記録が、全体の 2 割近くを占めていた。このよ うな『無尽年々掛次帳』の記載状況から見ても、馬場家に属する者が、18 世紀から無尽に関与していた事が確認できる。馬場家に属する者の無尽への 積極的な関与から、馬場家に属する者に「家計」の観念が形成されつつあっ た可能性がうかがえる。 ここまで見てきたように、馬場家の本家筋に当たると考えられている馬場 弥平次家は百姓身分であったものの、蚕種取引や金銭取引、無尽の結成への 関与など、18 世紀には米の生産のみにとどまらない経営を行っていたので ある。上塩尻村での蚕種取引の拡大にともなう、地域的な市場経済化を背景 にして、馬場弥平次家の蚕種取引・金銭取引は展開していたと言えよう。 3 むすびにかえて 本稿では、上塩尻村において有力な同族の 1 つであった馬場家同族のうち、 本家筋と考えられる馬場弥平次家を取り上げて、同家の 18 世紀における蚕 種取引と金銭取引の状況について、馬場 4 家文書を手がかりにして考察を試 みた。

(18)

上塩尻村においては、蚕種取引は 18 世紀に始まったと考えられるが、馬 場家同族の中で本家筋と考えられる馬場弥平次家も、上塩尻村内の家として は早くから蚕種取引に関与していた。馬場弥平次家の蚕種取引としては、上 塩尻村および周辺村に在住する者が中心であった。しかし、上塩尻村および 周辺村のみに止まらずに、遠隔地で蚕種の産地である上州沼田・越中八尾に 在住する者との取引も行っていた。 馬場弥平次家は、金銭取引も行っていた。『金銭貸借帳』の記録によると、 馬場弥平次家の金銭取引は上塩尻村の在住者が中心となっていたが、その中 でも馬場家同族との取引回数が最多であった。蚕種取引との関係で、越中八 尾に在住する者との金銭取引に関する記録も残されていた。 さらに馬場弥平次家は、上塩尻村在住者が発起した無尽の結成に、18 世 紀から積極的に関わっていた事も確認された。 以上のように、馬場弥平次家は蚕種取引や金銭取引に関与しており、米の 生産のみにとどまらない経営を 18 世紀から行っていた。馬場弥平次家は 「多角化」を進めつつ、蚕種取引や金銭取引に関する金銭の出入状況につい て、当主が帳面への記録を行っていた。この事から、馬場弥平次家において は、当主が家産の維持について考慮をしており、「家計」の観念が 18 世紀中 に形成されつつあった事がうかがえる。上塩尻村において進行しつつあった、 地域的な市場経済化に対応した経営動向を、18 世紀における馬場弥平次家 は示していたと言えよう。 ※本稿は、科学研究費若手研究(B)「市場経済形成期日本における地方金融 組織の研究」(研究課題番号 23730333)による研究成果の一部である。 (1) 以下の上塩尻村における本宿再開発についての記述は『本宿家村始覚書 之事』(馬場 4 家文書 F-1-4)による。 (2) 馬場家の家譜および本家については異説も多いが、本稿では差し当たり、 馬場 4 家文書(上田市立博物館蔵)と馬場桂三『上塩尻馬場一族名簿』 1973 年に従い、馬場弥平次家を本家として叙述を行う事にする。 (3) 馬場忠兵衛家は金貸業を展開していた事は、上田市上塩尻地区に話が伝 わっているが、同家が所蔵する金貸業関連の文書は、本稿執筆時点で確

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認できていない。 (4) 上塩尻村についての代表的な研究成果として、飯島千秋「幕末期におけ る蚕種業の展開と農村金融 上田藩上塩尻村の場合」『信濃』29 巻 6・7 号、1977 年。大口勇次郎「幕末期における蚕種業の発達と農村構造 上 田藩上塩尻村を素材として 」同「商品生産の発展と農村構造の変質」 『幕末農村構造の展開』名著刊行会、2004 年。長谷部弘・高橋基泰・山 内太編『近世日本の地域社会と共同性 近世上田領上塩尻村の総合研究 Ⅰ』刀水書房、2009 年などがあるが、18 世紀における上塩尻村の状況に ついての解明は、課題となっている。 (5)『種買入覚帳』馬場 4 家文書 D-11。 (6) 貞享年間(1684〜1688 年)、山屋善右衛門・紺屋治兵衛らは蚕種製造に 尽力し、付近村落の養蚕家に飼育を奨励した。元禄年間(1688〜1704 年)に至ると付近村落養蚕家の指導者として、八尾の山屋善右衛門・紺 屋治兵衛・水口屋久右衛門の名が著名になった。正徳年間から宝暦年間 (1711〜1764 年)にかけて、八尾の製糸家の激増と活躍はめざましかっ た。文化・文政期(1804〜1830 年)になると、八尾蚕種は最も繁栄した 時代を迎えた。蚕種の販路は全国の 4 分の 1 を占め、越中・越後・加 賀・能登・近江・丹波・丹後・但馬・美濃・信濃・尾張・三河・甲斐・ 武蔵・相模・越前・飛騨の 17 カ国にわたった。幕末には輸出用の蚕種も 激増した。『八尾町史』1967 年、331〜341 頁。以上のように越中八尾は、 近世期に蚕種の産地となっていったが、享保期には越中八尾から蚕種商 人が信州に来て、小県郡上塩尻村の馬場弥平次家と蚕種取引を行ってい たものと考えられる。 (7)『金銭貸借帳』(表紙は判読不能)馬場 4 家文書 B-104。 (8) 文書に記載されている「取替」の具体的な取引内容については、不明で ある。1 つの可能性としては、馬場弥平次家が越中八尾の蚕種商人に対 して、蚕種を購入したのと「取り替え」で代金を後払いするという事で、 馬場弥平次家が一時的に借金をしている格好になっていた事が考えられ る。 (9)『年々無尽掛覚帳』馬場 4 家文書 D-28。 (10)『無尽年々掛次帳』佐藤隆一家文書 48-25。この『無尽年々掛次帳』に ついては、18 世紀における佐藤善右衛門家の経営や、上塩尻村の地域的 金融市場のあり方を探るため、本稿とは別に検討が必要である。 (近畿大学 日本経済史・日本金融史)

表 1 馬場家における土地所持の変遷 (貫高) 家名(家番号) 享保14 宝暦 6 安永 7 寛政10 文化 7 文政 2 文政12 天保12 安政 3 慶応 3 1729 1756 1778 1798 1810 1819 1829 1841 1856 1867 馬場弥平次家(1) (総本家) 7.778  2.614  2.537  1.505  0.879  0.879  0.815  0.818  1.156  1.772  ◎ 馬場弥五左衛門家(8) (1 の分家) 1.280  2.492  2.
表 6 馬場弥平次家による越中種の蚕種取引 (享保 9 年(1724 年)∼享保 20 年(1735 年)) 年 蚕種 枚数 (枚) 取引内容 地名 金額(代)元号西暦両分朱 貫 文 享保 9 1724 10.0  越中より廻れ 越中 1 117 享保 9 1724 100.0  越中八郎右衛門持参種  越中 2 3 享保 9 1724 208.0  八月廿八日受取 六右衛門種  越中替り 越中 1 1 享保 9 1724 50.0  奥売 越中次兵衛種 越中 享保 9 1724 15.0  越中 八郎右衛

参照

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