市指定有形文化財(工芸品) 神 じん 照 しょう 寺 じ 木 もく 造 ぞう 懸 かけ 仏 ぼ と け 三面 指 定 昭和六十二年三月三十一日 所在地 いわき市平下神谷字宿 所有者 神 照 寺 室町時代 (十六世紀) 鏡板径 各八〇・〇㎝ 神 照 寺 に は 、 大 型 な 三 面 の 懸 仏 が 現 存 す る 。 三 面 と も ほ ぼ 同 様 の 形 状 、 構 造 を 示 し て い る 。 鏡 板 周 縁 に 二 重 の 覆 ふく 輪 りん を つ け 、 そ の 内 側 に 二 重 の 圏 線 を め ぐ ら し 、 内 外 区 を 分 け る 。 外 区 に は 、 笠 鋲 飾 を 等 間 隔 に 配 し 、 内 区 中 央 に 本 体 像 を お き 、 そ の 上 方 に 日 じつ 月 げつ を 配 し て い る 。 本 体 像 は 禅 ぜん 定 じょう 印 いん を 結 ぶ 釈 迦 如 来 、 定 じょう 印 いん を 結 ぶ 阿 弥 陀 如 来 、 両 手 首 よ り 先 を 欠 失 す る 如 来 形 ( 薬 師 如 来 ヵ ) で あ る 。 い ず れ も 蓮 れん 台 だい 上 に 坐 し 、 両 袖 先 を 台 座 の 両 脇 に 長 く 垂 ら し て い る の が 特 徴 的 で あ る 。 勝 行 院 の 木 造 釈 迦 如 来 坐 像 ( 県 指 定 ) 、 円 通 寺 の 木 造 聖 観 音 菩 薩 坐 像 ( 県 指 定 ) に 次 ぐ 、 い わ ゆ る 垂 すい 下 か 様 よう 式 しき で 、 市 内 の 垂 下 様 式 仏 像 彫 刻 史 上 の 展 開 過 程 を 示 し て い る 。 各 鏡 板 は 左 右 に 三 材 を 矧 ぎ、 前 面 に 漆 しっ 箔 ぱく を 施 す。 本 体 像 は、 一材で彫りだし、 内 うち 刳 ぐ りは施さない。如来形像を除いて、他は 両手前膊袖口部を別材とし、両手を一材で彫出し各袖口に差し 込んでいる。漆箔とし、背面の銅線で鏡板に固定している。 三面とも同時期の造立と考えられるが、本体像の表現には多 少の違いがある。 釈迦如来は幅広い体躯の造形も調和が保たれ、 面部や胸腹部の肉付きもゆったりしている。それに対して他の 二像は、表情に 拙 つたな さがみられ、 衣 え 文 もん の彫出にも形式的な固さが 残る。これらの相違は、作者の違いによって生まれたものと思 われる。 神照寺は、 花園神社の別当であった。花園神社は文禄五年 (一 五 九 六 ) 常 陸 の 車 城 主・ 好 間 三 郎 兵 衛 が 岩 城 に 所 替 に な っ た と き、氏神として常陸花園権現より 勧 かん 請 じょう したといわれる。現在、 神照寺には、文禄五年造立の愛染明王像が伝えられている。
市指定有形文化財(工芸品) 木 もく 造 ぞう 扁 へん 額 がく 「 禅 ぜん 勝 しょう 山 ざん 」「 龍 りゅう 門 もん 寺 じ 」 二面 指 定 平成元年三月二十五日 所在地 いわき市平下荒川字諏訪下 所有者 龍 門 寺 安土桃山時代・天正十六年 (一五八八) 禅勝山 縦 四六・六㎝、横 一〇四・七㎝ 龍門寺 縦 五二・五㎝、横 一〇〇・三㎝ 「 禅 勝 山 」 は 山 号 額 で、 檜 板 に 隷 れい 書 しょ 体 たい で 陰 刻 さ れ、 中 門 に 掲 げられていたという。現在は本堂内に保管されており、正面は 黒漆仕上げ、裏面に次のような陰刻銘がある。 当山九代且陽清寅大和尚寄附之 大檀那平常隆廿一歳奕葉 連枝億千歳 干時天正十六 著雍 困敦 八月上浣日 (花押) 天 正 十 六 年 ( 一 五 八 八 ) 戊 ( 著 雍 ) 子 ( 困 敦 ) 八 月 上 旬 ( 上 浣 日 ) に、 岩 城 常 隆 が 家 門 の 繁 栄 を 祈 願 し て 寄 進 し た も の で あ る。 連 れん 枝 し 億 千 歳 ( 代 々 木 の 枝 が 連 な る よ う に な が く 繁 栄 が 続 く こ と ) を 願 っ て、 菩提寺に寄進した背景には、 常隆の病弱を裏付ける証拠となる。 天 正 十 八 年 ( 一 五 九 〇 ) 八 月、 小 田 原 参 陣 の 帰 途、 相 州 鎌 倉 郡 星 谷 (神奈川県 座間市) で病没した常隆の死没年令を確定する資料で ある。 ま た「 龍 門 寺 」 扁 額 は、 楼 門 ( 市 指 定 ) 正 面 に 掲 げ て あ る。 檜 板に陰刻し、 胡 ご 粉 ふん と朱色が残っているが、長年の風化でいたみ が著しい。この扁額は、寺伝『自他門由緒記』に「文亀の間に 当 り て、 左 馬 頭 源 朝 臣 政 氏 額 を 書 し て 龍 門 寺 三 代 聞 湲 に 賜 う、 すなわち山門に掛く、政氏公は尊氏将軍の四男基氏六代の後胤 な り 」 と あ る よ う に、 古 河 公 く 方 ぼう ・ 足 利 政 氏 ( 一 四 六 六 ~ 一 五 三 一 ) の筆である。政氏は岩城盛隆・由隆の援助を得て、権力を保持 していた公方である。
市指定有形文化財(工芸品) 猿 さる 楽 がく 面 めん 及 および 猿 さる 田 た 彦 ひこ 面 めん 五面 指 定 平成四年三月二十七日 所在地 いわき市平中神谷字石脇 所有者 出羽神社 猿楽面 室町時代 猿田彦面 江戸時代中期 猿楽面のうち「猿閉歯見」は鬼神系の面で、桧又は松材が用 いられ、 鼻部を欠損する。制作年代は室町末期とみられる。 「安 達 女 」 は 能「 黒 塚 」 の 鬼 き 女 じょ の 面 で、 材 質 は 桧 又 は 松 材 で、 「 猿 閉歯見」と同様の地方色の強い作風をみせ、制作年代は室町末 期 と み ら れ る。 「 阿 屋 加 志 」 は 能 の 妖 気 を 現 す 男 面 で、 能「 船 弁慶」に登場する。材質は桧で、制作年代は室町時代と考えら れる。 「茗荷大悪尉」は神や怨霊等に用いられる老翁面であり、 材 質 は 桐 で、 制 作 年 代 は 江 戸 時 代 中 期 と 考 え ら れ て い る。 「 猿 田彦」は 記 き 紀 き 神 しん 話 わ に登場する神で、 天 てん 孫 そん 降 こう 臨 りん の際に先頭に立ち 道案内を務めたことで知られ、 容 よう 貌 ぼう 魁 かい 偉 い で長大な鼻を特徴とす る。材質は桐で、制作年代は江戸時代中期と考えられる。なお 「猿田彦」の裏面には 朱 しゅ 書 しょ 銘 めい が認められる。 出 羽 神 社 誌 に よ る と、 享 保 四 年 ( 一 七 一 九 ) に 内 藤 政 栄 ( 露 ろ 沾 せん ) は、神主・佐藤和泉守の願いにより能面の修復を行った。また 享 保 五 年 ( 一 七 二 〇 ) に は、 出 目 洞 白 作 の「 猿 田 彦 」 面 が 奉 納 さ れ た こ と が 知 ら れ る。 そ の 後、 享 保 十 年 ( 一 七 二 五 ) に 盗 賊 が 押 し入り「茗荷大悪尉」と「猿田彦」面が盗まれたので、出目洞 白にその模刻を作らせ奉納した。 出 目 洞 白 と は、 現 在 の い わ き 市 泉 町 出 身 の 水 野 谷 加 兵 衛 で、 能面師の名門である大野出目家の養子となって四代目を継いだ 人 物 で あ る。 し か し、 洞 白 は 正 徳 五 年 ( 一 七 一 五 ) に 没 し て い る ので、内藤政栄の注文を請け、実際に面を制作したのは大野出 目五代洞水満矩である。
市指定有形文化財(工芸品) 黒 くろ 漆 うるし 塗 ぬり 金 きん 蒔 まき 絵 え 葵 あおい 紋 もん 几 き 帳 ちょう 一具 指 定 平成四年三月二十七日 所在地 いわき市平山崎字梅福山 所有者 専 称 寺 江戸時代 高さ 一五九・三㎝、幅 一九一・〇㎝ こ の 几 帳 は、 祐 天 上 人 ( 一 六 三 七 ~ 一 七 一 八 ) に 厚 く 帰 き 依 え し た 五 代 将 軍 綱 吉 の 養 女 竹 姫 (?~ 一 七 七 二 ) が、 江 戸・ 目 黒 の 祐 天 寺 に 寄 進 し た 宝 物 の 中 の 一 つ で あ る。 そ の 後 こ の 几 帳 は、 祐 天 寺 住 職 を 隠 居 し た 上 仁 井 田 村 ( 四 倉 町 上 仁 井 田 ) 出 身 の 祐 海 上 人 ( 一 六 八 一 ~ 一 七 六 〇 ) に よ っ て 延 享 四 年 ( 一 七 四 七 ) に、 柱 隠 し と 共に故郷の専称寺に奉納された。その時の寄進状には水引と記 されているが、 几帳とも呼ばれ室内の間仕切りな どに使われる。 部屋を飾る調度品でもある 衣 い 桁 こう と同じものである。 この几帳は鳥居状の衣桁架形を呈し、材料には檜を用い、上 段桟・中桟・下桟・立桟・足台の部材の組み合わせで、黒漆塗 りの金蒔絵に三葉葵紋五十四個を散らしている。組み合わせ部 分 は 銅 板 金 具 で 巻 き、 金 具 は 葵 紋・ 唐 草 紋 に よ っ て 装 飾 さ れ、 地には 魚 なな 子 こ を打ち出している。現在でも漆塗や蒔絵は損傷もな く精巧さを保っており、いかにこの品が優れた技術で仕上げら れているかを示すものである。 竹姫は清閑寺大納言凞定の女で、綱吉の養女となり、将軍に 愛されて育ったが、 婚約者が亡くなるなど不幸が重なったため、 祐天上人に帰依したという。 この几帳は幕府御抱え職人による作品で、江戸時代の調度工 芸の優品である。
市指定有形文化財(工芸品) 浄 じょう 光 こう 院 いん 梵 ぼん 鐘 しょう 一口 指 定 平成六年三月二十五日 所在地 いわき市小名浜字古湊 所有者 浄 光 院 江戸時代・延享五年 (一七四八) 高さ 一四〇・〇㎝、口径 七五・〇㎝ こ の 梵 鐘 は 延 享 五 年 ( 一 七 四 八 ) に、 磐 城 平 梅 香 町 の 椎 名 久 兵 衛国光によって鋳造された。鐘銘により、さきに寛文年間に鋳 造された古鐘があり、元禄年間には時鐘として時を知らせてい たが、その鐘が破損したので改鋳したことが知られる。鐘には 「 一 折 鐘 聲 當 願 衆 生 脱 三 界 苦 得 見 菩 提 」 の 願 文 と、 小 名 浜四カ村の名主と寄進者名に加えて、小名浜代官・竹垣治部右 衛 門 と 代 官 所 詰 役 人 の 名 が 刻 ま れ て い る。 延 享 四 年 ( 一 七 四 七 ) に成立した幕領小名浜代官所の記録は、散逸して残存するもの が少ないが、この刻銘はその欠を補うものとして貴重である。 梵 鐘 の 池 の 間 に 鋳 ら れ た 双 鉤 体 の 梵 字 の 大 き さ と 端 正 さ は、 見 る べ き も の が あ る。 第 一 区 に は ボロン ( 一 いち 字 じ 金 きん 輪 りん 仏 ぶつ ) 、 第 二 区 カンマン ( 不 動 明 王 ) アク ( 不 空 成 就 如 来 ) 、 第 三 区 キリク ( 阿 弥 陀 如 来 ) タラク ( 宝 ほう 生 しょう 如 にょ 来 らい ) 、 第四区 ウン ( 阿 あ 閦 しゅく 如 にょ 来 らい ) ハン (金剛界大日如来) が陽鋳されている。 全 体 と し て 作 行 き も 良 く、 当 時 の 工 芸 水 準 を 示 す 作 品 で あ る。 江戸期の鋳造銘を有するものとして、 市内で最大の梵鐘である。 梵鐘の所在する浄光院は、磐城平藩・内藤家時代の小名浜御 殿に隣接しており、この地をしばしば訪 れて 吟 ぎん 行 こう した内藤露沾 が 撰 ん だ「 小 名 浜 八 景 」 の ひ と つ、 「 虎 山 の 晩 鐘 」 の 景 勝 地 と して広く知られ、俳句や漢詩にもとり上げられている。 江戸時代には鐘撞き道心もおり、時鐘として連綿と続いてき たその役割は今もなお受け継がれており、まさに地域に根ざし た存在となっている。
市指定有形文化財(工芸品) 飯 いい 野 の 八 はち 幡 まん 宮 ぐう 神 しん 輿 よ 一基 指 定 平成六年三月二十五日 所在地 いわき市平字八幡小路 所有者 飯野八幡宮 江戸時代・貞享三年 (一六八六) 高さ 二・一五m 四面台座巾奥行及び巾 一・六m 毎年九月十五日の直前の日曜日には、飯野八幡宮古式大祭の 神輿 渡 と 御 ぎょ が行われる。拝殿で御霊入れの儀式後、楼門を出て稲 荷台 (子鍬倉神社の境内) まで渡御する。 この神輿は、飯野八幡宮の宮大工である平沢儀左衛門清貞が 棟 梁 と し て、 貞 享 三 年 ( 一 六 八 六 ) 六 月 に 制 作 し た こ と が 神 輿 内 部に収められた銘札に記されている。儀左衛門四十五歳の作品 で、建物の木割を熟知した技術が各所にみられる。 神與は藩主内藤義孝の家老松賀伊織と上田主計の両人によっ て寄進された。なお、鳳凰は、家臣の近藤左五右衛門が寄進し たことが、露盤裏の墨書によって確認出来る。 全体に漆彩色が施され、 金 こん 剛 ごう 垣 がき と台輪鳥居が四周を囲み、一 間 四 方 の 唐 から 戸 と 付 つき 八 はっ 角 かく 身 も 舎 や 柱 ばしら は 塗 金 仕 上 と な っ て い る。 軸 部 は 四 周 に 廻 縁 を め ぐ ら し 高 こう 欄 らん 付 つき 腰 こし 組 ぐみ 斗 と 栱 きょう が 付 き、 軒 は 中 の 間 八 枝、脇の間十三枝、地垂木六枝、 論 ろん 治 じ 垂 だる 木 き 一枝、 飛 ひ 檐 えん 垂 だる 木 き 四枝 を化粧で組む。頭貫木鼻、台輪を組み、斗栱は龍の総彫り尾垂 木 が 組 ま れ る。 屋 根 は 斗 栱 に 二 ふた 軒 のき 化 け 粧 しょう 垂 だる 木 き が 組 ま れ、 輪 りん 宝 ぽう 金 かな 具 ぐ 付 つき 照 て り 起 むくり 屋 や 根 ね に、 四 注 棟 化 粧 に 蕨 手 様 の 飾 り が 付 き、 棟 中 央の 露 ろ 盤 ばん に鳳凰が乗っている。台部分は二本の担ぎ棒を竪に貫 いて 轅 ながえ として、台隅四周を金具で補強している。
市指定有形文化財(工芸品) 竹 ちく 林 りん 七 しち 賢 けん 図 ず 硯 けん 屏 びょう 一口 指 定 平成十一年四月三十日 所在地 いわき市平字八幡小路 所有者 個人 江戸時代 総高 一五・七㎝、左右幅 一九・八㎝ 衝 立 風 の 陶 製 の 小 品。 桐 鳳 凰 図 硯 屏 ( 市 指 定 ) と 規 模・ 作 風 が 相似し、同じ工房で制作された可能性が高い。 腹と背に図像が描かれていて、双方いずれを主面とするかは 決し難く、配置される和装仕様に応じて使い分けされたと思わ れる。一方の面には、 俗 ぞく 塵 じん を避け霞たなびく竹林境に集会する 清 談 中 の 長 なが 衣 ぎぬ を ま と っ た 隠 士 七 人 が 描 か れ て い る。 他 面 に は、 洲 浜 に 浮 か ぶ 巨 厳 か ら 大 振 り の 枝 が 伸 び る 竹 葉 と 梅 花 が 描 か れ、袴様の台基の波形と調和し、いわゆる 蓬 ほう 莱 らい 図 ず を構成する。 図像の外縁には押木が表現され、隅は 木 もっ 瓜 こう 面 めん をなす。左右の 側 脚 は 欄 らん 干 かん 状 じょう を な し、 帳 台 を 支 え、 台 瓶 牙 子 の 様 式 で あ る。 外縁の平坦面には雲気状の唐草紋を入れている。 鉄 分 を 抜 い た オ フ ケ の 灰 はい 釉 ぐすり を 全 面 に か け、 色 調 は 青 灰 色 に 近いが、紺の着色で部分的に強調している。 胎 たい 土 ど は乳色の精練 された粘土を用い、焼成はよく堅緻である。 江戸時代中期から後期に流行した文人趣味と相まって、書院 飾りとして使われたものと考えられる。竹林七賢図は、近世に 障屏を飾る題材に頻用され、蓬莱図も同じく、鏡背意匠によく 取りあげられている。江戸文化への憧憬とその受容をよく物語 る資料である。こうした文藝への指向は、美術工芸への関心を 高め、日本各地に窯産業を促がすこととなった。 作者は不詳であるが、磐城焼として伝世し、当時の文人世相 を示す作品として貴重である。なお、磐城焼きとは、磐城平藩 主・ 内藤家の御用窯で、延宝年間に内藤義概によって開窯され た。
市指定有形文化財(工芸品) 仙 せん 女 にょ 蟠 はん 桃 と う 図 ず 硯 けん 屏 びょう 一口 指 定 平成十一年四月三十日 所在地 いわき市平字八幡小路 所有者 個人 江戸時代 総高 一八㎝、左右幅 二一・五㎝ 陶製の衝立風小品。脚台に衝立が乗る形状を示し、市指定の 他の二つの硯屏とは違いが目立つ。 外縁に裾えられる押木らしい部分は見あたらないが、隅 木 もっ 瓜 こう が施され、画面の縁はとくに低く削られ段差がつく。また、他 の二口に共通する両面台瓶牙子は腹面のみにつき、背面にはな い。さらに、この硯屏には袴腰に筆差しが造出され、主側を強 調する。焼成もよく、堅く仕上がり、底面以外にかけられた灰 釉は滑沢を呈す。 主面の左右につく側欄状の台瓶牙子は、 上幅二・二㎝、下幅 五㎝、正面厚二・五㎝内外を測り、主面からみると急な階段状 をなすが、側面に廻れば、その段は 霊 れい 芝 し 雲 うん 気 き 紋 もん の涌き立つ姿と 考えられる。脚台下端の側面には、箱人れ用の紐掛けが施され ている。主面前段に設けられた筆差しは横幅一三・三㎝、高さ 六・九㎝、厚み二・二㎝で、底面はなく、木瓜状に化粧取りさ れている。筆差しの四孔は直径約一・五㎝内外で横に並ぶ。 主面の画は浮彫が浅く判然としない。山の尾根で狩をするか のように、一人は矢筒を背負い短弓を曳く。一人は刀らしきも のをかざして走り、一人は長槍を突き出して構え、小動物を追 う場面かと思われるが画題は不明である。背面には老樹の巨株 に 腰 を 据 え る 仙 女 ( 西 王 母 ) に 蟠 桃 を 捧 げ る 侍 女 の 姿 が 見 え る。 不老長寿を願う情景である。 浅 い 彫 塑 は い か に も 地 方 造 り ら し く、 稚 拙 感 は 拭 え な い が、 資料の少ない磐城焼の作品として伝世された価値は高い。
市指定有形文化財(工芸品) 桐 きり 鳳 ほう 凰 おう 図 ず 硯 けん 屏 びょう 一口 指 定 平成十一年四月三十日 所在地 いわき市平字一町目 所有者 個人 江戸時代 総高 一七・二㎝、左右幅 一九・一㎝ 陶 製 の 衝 立 風 小 品。 竹 林 七 賢 図 硯 屏 ( 市 指 定 ) と は 作 風 が 近 似 する。 木 もっ 瓜 こう 隅 の 押 木 が 外 縁 に つ き「 几 帳 面 」 の 語 源 が 示 す よ う に、 その面には双筋の浅い細線を配す。 さらに押木の左右両側には、 やや太目の凹溝が垂直に引かれ、上縁面には、新芽と若葉の唐 草文が浅く陽彫されている。左右側面より延びる台瓶牙子は表 裏対称をなし、帳台に安定感を与え、波頭形の曲体の中央付近 には 猪 い ノ の 目 め の透かしを穿つ。 主面中央に上下約一〇・一㎝、左右約一三・一㎝の大きな心 葉 形 の 窓 内 に、 尾 羽 を な び か せ 両 翼 を 広 げ た 鳳 凰 と 蔓 かずら 茎 くき に 生 える桐葉をたくみに配した意匠が透彫されている。地紋は繋菱 格子内に唐菱を埋めている。 折 おり 上 あげ 様 よう の袴にも浅彫りの 青 せい 海 がい 波 は 文 もん がつく。この主面の裏面は透彫りであるから、類似形の意匠に ならざるを得ないのに対し、あらたに鳳凰の腹躯と脚を表わす 工夫をこらしているのは心にくい。 地紋は 霊 れい 芝 し 雲 うん で埋めつくし、 袴 は 海 かい 賦 ぶ 紋 もん を 描 く。 灰 釉 が か け ら れ、 主 文 に は 紺 を 加 彩 す る。 連続地紋や中国伝来の桐と瑞鳥の構図は、磐城焼の秀作と評価 してよい。 磐 城 焼 は、 延 宝 二 年 ( 一 六 七 四 ) 六 月 の『 万 よろず 覚 おぼえ 書 がき 』 や、 貞 享 二 年 ( 一 六 八 五 ) に 没 し た 内 藤 風 虎 の か た み わ け の 品 と し て、 磐 城焼の茶人れなどの記述があることから、一六〇〇年代の後半 には操業されていたらしい。享保年間の作と推定される 平城下 古地図 (市指定) にも、 「せとものや」の記載がある。
市指定有形文化財(工芸品) 山 さん 水 すい 鈕 ちゅう 銅 どう 印 いん 三顆 指 定 平成十一年四月三十日 所在地 いわき市平字一町目 所有者 個人 江戸時代 ① 磐 いわ 城 き 侍 じ 従 じゅう 陰刻 縦四・五㎝、横四・五㎝、高さ八・七㎝ ② 柔 じゅうもくらわずごうもはかず 不 茹 剛 不 吐 陽刻 縦四・八㎝、 横二・七㎝、 高さ九・四㎝ ③ 藤 ふ じ 原 わらの 信 の ぶ 正 ま さ 字 あざな 君 き み 行 ゆ き 陰刻 縦四・三㎝、 横四・四㎝、 高さ九・四㎝ この銅印は、 磐城平藩主・安藤信正所用のものと伝えられる。 三顆の印面は右のとおりである。 三穎の 鈕 ちゅう にはいずれも、屹立する奇岩に生える松樹、岩根を 流れる川、橋上に杖を曳きたたずむ人物など、山水の景が刻ま れており、工芸的にも見るべきものがある。 銅 印 の 鋳 造 年 代 は、 信 睦 ( 信 行 ) が 信 正 と 諱 いみな を 改 め た 文 久 二 年 ( 一 八 六 二 ) 以 降 で、 さ ら に 鶴 翁 を 称 す る 慶 応 四 年 ( 一 八 六 八 ) 以 前のことと推定される。 印 面 の ① か ら は、 万 延 元 年 ( 一 八 六 〇 ) に 老 中 職 に 就 い た 信 正 が侍従に任ぜられたこと、③からは信正と改めた後の字を君行 と言ったことなどがわかる。地元に残る安藤信正に関わる歴史 資料としての価値も大きい。 さ ら に、 ② は 中 国 の 詩 の 一 節 で、 出 典 は「 詩 経 」 の 大 雅 部、 蕩 の 什 じゅう 、 蒸 民 の 章 で あ る。 周 の 時 代、 宣 王 に 仕 え た 賢 相・ 仲 山甫が至正公平の人であったことを述べた部分で、その箇所か ら句を引いて信正の人となりを強調しようとしていることが知 られる。 人 亦 有 言、 柔 則 茹 之、 剛 則 吐 之。 ( ひ と も ま た い え る あ り、 じ ゅ うなるはすなわちこれをくらい、ごうなるはすなわちこれをはくと) 維 仲 山 甫、 柔 亦 不 茹、 剛 亦 不 吐。 ( こ れ ち ゅ う ざ ん ほ は、 じ ゅ う もまたくらわず、ごうもまたはかず) 不侮矜寡、 不畏彊禦。 (かんかをあなどらず、 きょうぎょをおそれず)
市指定有形文化財(工芸品) 絹 きぬ 谷 や 諏 す 訪 わ 神 じん 社 じゃ の 祭 さい 礼 れい 幕 まく 一幅 指 定 平成十二年四月二十八日 所在地 いわき市平絹谷字諏訪作 所有者 絹谷諏訪神社 江戸時代・天保二年 (一八三一) 縦 二八二・五㎝、横 一、 一三九・〇㎝ この幕は現在、 諏訪神社の祭礼幕として使用されているため、 「 絹 谷 諏 訪 神 社 の 祭 礼 幕 」 と 称 し て い る が、 地 元 の 古 老 達 の 伝 承によると、絹谷村 (平絹谷) の若者組 (青年会) が主催して奉納す る 獅 子 舞 や 地 芝 居、 磐 城 七 祭 の 一 つ で あ る 龍 りゅう 立 だつ な ど で 使 用 し ていた長大な幕である。現在では獅子舞の時に、楽屋と踊り場 の仕切りとして使用されている。 図柄は地元産と思われる手織木綿の生地に、やや中央左寄り に富士山と巨大な猪に跨がる武士、右には多くの家臣に警護さ れた武将が馬に乗り、草原の至る所に多くの動物が右往左往し ている様子が描かれている。構図は古来からの画題として有名 な 源 頼 朝 の 富 士 の 巻 狩 で、 家 臣 の 仁 田 四 郎 忠 常 ( 一 一 六 七 ~ 一 二 ○ 三 ) が、 主 君 頼 朝 に 襲 い か か ろ う と す る 大 猪 を 仕 留 め よ う と する情景である。 幕の左に年号を、右に所有者と染物師の名前が記されている が、 こ の 銘 に よ り 天 保 二 年 ( 一 八 三 一 ) 七 月 に 絹 谷 村 の 若 者 連 が 下 泉 崎 村 ( 平 泉 崎 ) の 染 物 師 で あ る 仁 左 衛 門 (?~ 一 八 五 九 か ) に 依 頼して制作したことが知られる。 染物師の仁左衛門は松本姓で、 代々染物を業として多くの職人を雇い手広く行っていた家の当 主名である。友禅染の技法を用いた秀逸な作品であり、地元染 師の技量の確かさを見ることができる。構図は江戸時代におい て様式化したもので、決して斬新なものではないが、これほど の大作は市内では赤井に例がある程度で数は少なく、 年号の分 かるものでは最古のものである。
市指定有形文化財(工芸品) 猿 さる 田 た 彦 ひこ 面 めん 一面 指 定 平成十八年四月二十八日 所在地 いわき市平中神谷字立鉾 所有者 立鉾鹿島神社 江戸時代・享保七年 (一七二二) 高さ 二〇・八㎝、幅 一四・二㎝ 桐の一材で鼻先を除くすべてを彫り出し、表面には漆を塗っ て仕上げる。両耳中央に小孔があり、紐を通すようにする。面 部は朱漆を塗り、眉を墨彩とし、白眼は漆箔とする。丁寧な仕 上げをみせており、正統的な面打師によってつくられたと考え られる。眉を寄せ、大きな口を一文字に閉じ、両眼を見開いた 魁 かい 偉 い な容貌を破綻なく造形化している。顔の皺などの彫出に定 型的なところがみられる。 立鉾鹿島神社では、 神輿渡御の際にこの面を使用するといい、 「 古 事 記 」 で の 猿 田 彦 の 先 導 者 と し て の 性 格 を 踏 襲 し た も の で あろう。 面 内 側 刻 銘 に よ り、 享 保 七 年 ( 一 七 二 二 ) に 内 藤 政 栄 に よ り 奉 納されたことがわかる。中神谷出羽神社の猿田彦面も内藤政栄 の奉納で、作者は出目洞水満矩といわれており、この面も同人 の作と 思われる。
市指定有形文化財(工芸品) 猿 さる 田 た 彦 ひこ 面 めん 一面 指 定 平成二十三年十月二十日 所在地 いわき市平字八幡小路 所有者 飯野八幡宮 江戸時代・元禄十年 (一六九七) 高さ 二三・五㎝、幅 一五・〇㎝ 鼻高く、両眼を見開き口を一文字に閉じる、忿怒形である。 面部を一材で彫出し、内部を 刳 く る。両瞳、両鼻孔、両耳孔は 貫通する。鼻先は一材で彫出し、鼻の面に角枘差しとする。両 耳孔に紐を通す。面部朱漆塗、眉黒漆塗、白眼 漆 しっ 箔 ぱく 。 面 内 側 刻 銘 に よ り、 元 禄 十 年 ( 一 六 九 七 ) に 内 藤 政 栄 ( 露 ろ 沾 せん ) に より寄進されたことがわかる。この年は政栄の後厄の年にあた り、 ま た そ の 日 付 は「 正 月 吉 日 」 と あ る こ と か ら、 こ の 面 は、 政 栄 の 厄 除 け 祈 願 の た め 飯 野 八 幡 宮 に 寄 進 さ れ た 可 能 性 が 高 い。 同じく政栄により寄進された立鉾鹿島神社の猿田彦面と比べ ると、この面の方が二十五年古い。 皺 しわ の彫出など両者では異な り、おそらく作者は別であろう。この 面には肉の盛り上がりに 量感があり、写実的表現がみられる。 いわき市に伝来する猿田彦面では古い部類に属し、来歴も明 確で、歴史、工芸資料としての価値は高い。
市指定有形文化財(書跡) 安 あん 藤 どう 家 け 累 るい 代 だい の 寄 き 進 しん 状 じょう 五通 指 定 昭和四十三年十二月二十七日 所在地 いわき市常磐藤原町手這地内 (いわき市考古資料館内) 所有者 いわき市 江戸時代・明和二年 (一七六五)~嘉永二年 (一八四九) この寄進状を賜わった牛頭天王社神主の山部天王大夫は、岩 城 家 が 磐 城 を 支 配 し て い た 時 代 よ り、 御 子 大 夫 や 好 間 大 夫 ( 現 在 の 好 間 の 熊 野 神 社 宮 司 吉 田 家 の 祖 ) ら と と も に、 領 内 で 大 浄 神 楽 を行うことをまかされていた。 この功績により牛頭天王大夫は、岩城家・鳥居家時代は判物 を、内藤家・井上家・安藤家時代には代々の領主より判物とと もに、 牛頭天王領 (現在の平字揚土の八坂神社) として、 北白土村 (平 北白土) に五石の寄進 (黒印地) をうけていた。 現在、山部天王大夫の子孫である山部家には、岩城貞隆・鳥 居忠政らを始め、内藤家・井上家・安藤家代々の寄進状の判物 が揃って現存するが、指定文化財となっているものは次の安藤 家のものである。 安藤信明寄進状 明和二年 (一七六五) 安藤信馨寄進状 文化八年 (一八一一) 安藤信義寄進状 文化十年 (一八一三) 安藤信由寄進状 天保四年 (一八三三) 安藤信睦寄進状 嘉永二年 (一八四九) なお、牛頭天王社は磐城平城築城の際に社地が城内になって しまったため、元禄元年 (一六八八) 現在地に再建された。
市指定有形文化財(書跡) 禅 ぜん 福 ぷく 寺 じ 文 もん 書 じょ 三通 指 定 昭和五十二年五月四日 所在地 いわき市小名浜野田字八合 所有者 禅 福 寺 南北朝時代・観応三年 (一三五二)~貞治四年 (一三六五) 縦 三〇㎝、横 三五・八㎝~四六・五㎝ 禅福寺は臨済宗に属する寺院で、鎌倉の建長寺第八世・痴鈍 空 性 が 永 仁 三 年 ( 一 二 九 五 ) に 開 山 し た 寺 院 で あ る。 痴 鈍 は、 建 長 寺 を 開 山 し た 大 覚 禅 師 の 法 嗣 で、 当 山 で 正 安 三 年 ( 一 三 〇 一 ) に没し、寺内に葬られた。 禅 福 寺 文 書 は、 足 利 尊 氏 御 み 教 ぎょう 書 しょ ・ 斯 波 直 持 施 行 状・ 舜 秀 証 状の三通を、一巻に 巻 かん 子 す 装 そう としたものである。 足利尊氏御教書は、足利将軍が、敵対する者に対して勝利を 得 る よ う に 祈 祷 し た こ と に 対 す る 礼 状 で、 斯 波 直 持 施 行 状 は、 前記の祈祷により領地を賜わり、その地の税金を免除すること が記されたものである。舜秀証状は、前記二通の書状を受けて 舜 秀 ( 岩 城 地 方 の 豪 族 ヵ) が、 「 禅 福 寺 領 田 在 家 の 国 衙 正 税 に 対 す る譴責 (督促) の使いを止むべし」と知らせたものである。 足利尊氏御教書 凶徒對治祈祷事、殊可致精誠之状、如件、 観応三年一 月廿一日 (花押) (尊氏) 禅福寺長老 斯波直持施行状 当寺領陸奥岩崎郡野田村内田在家等 御公事課役事為御祈祷 所々被免許也 可被存知之状 如件 康安元年九月卅日左京権大夫 (花押) 禅福寺長老
市指定有形文化財(書跡) 天 あま 田 た 愚 ぐ 庵 あん の 遺 ゆい 偈 げ 一幅 指 定 昭和五十四年十一月十七日 所在地 いわき市常磐湯本町三函 所有者 個人 明治三十七年 (一九〇四) 縦 一八㎝、横 三七㎝ 愚 庵 は 安 政 元 年 ( 一 八 五 四 ) に、 磐 城 平 藩 士・ 甘 田 太 夫 の 五 男 として平城下に生まれた。幼名を久五郎、のちに天田五郎と改 め た。 慶 応 四 年 ( 一 八 六 八 ) 十 五 歳 の と き 戊 辰 の 役 に 出 陣 中、 父 母妹が行方不明となり、以後、その所在を尋ねて二〇年全国を 遍歴した。その間、山岡鉄舟の知遇を受け、一時、清水の次郎 長の養子となった。明治二十年、適水禅師に依って得度し、鉄 眼と号した。その後、京都清水の産寧坂に庵を結んで愚庵を名 乗った。漢詩・書のほか万葉調の和歌を 能 よ くし、正岡子規に大 きな影響をあたえた。著書に 『東海遊侠伝』 (明治十七年刊) 『順 礼 日 記 』 ( 同 二 十 七 年 刊 ) が あ り、 没 後 に『 愚 庵 遺 稿 』 ( 同 三 十 七 年 刊) 、『愚庵全集』 (昭和三年刊・同九年刊) がある。明治三十七年 (一 九〇四) 一月十七日、京都伏見桃山の庵にて五十一歳で没した。 この書は、死の五日前に書かれた 遺 ゆい 偈 げ である。遺偈とは、禅 僧が臨終にあたって書き遺した辞世のことばであり、そこには 死に臨んでの悟りの境地や感想が端的に示されている。愚庵の 遺偈は、このほかに同文のものが京都大学に現存する。 氷 塊向水散 氷塊水に向かって散じ 鉄骨入苔穿 鉄骨苔に入りて穿つ 月下人尋否 月下人尋ぬるや否や 梅花白處烟 梅花白き處に烟る 明治三十七年一月十三日 愚庵 眼銕
市指定有形文化財(書跡) 紙 し 本 ほん 墨 ぼく 書 しょ 後 ご 西 さい 天 てん 皇 のう 宸 しん 翰 かん 御 ご 懐 かい 紙 し 一幅 指 定 昭和五十八年八月二十五日 所在地 いわき市鹿島町御代字寺ノ入 所有者 光 西 寺 江戸時代・延宝二年 (一六七四) 縦 三三㎝、横 二七㎝ 光西寺に伝わる後西天皇宸翰御懐紙には、つぎの和歌がした ためられている。 なかき日のもりのしめ縄くり返し あかすかたらふほととぎす哉 これを収める桐箱の蓋裏には、 後西院 新院様御震筆 延宝二歳暮秋廿八日 従 常修院様拝受 と 記 さ れ て お り、 延 宝 二 年 ( 一 六 七 四 ) 九 月 二 十 八 日 に 常 修 院 より拝受したという伝来が明らかである。当時は霊元天皇の時 代で、 院御所には後水尾法皇と明正・後西の二上皇がいたので、 新しく上皇となった後西上皇を新院様と称した。懐紙の和歌は 年代から推定して、後西天皇三〇歳代の筆跡と思われる。 後西天皇は第一一一代の天皇で、後水尾天皇の第七皇子であ る。 承 応 三 年 ( 一 六 五 四 ) 兄 の 後 光 明 天 皇 崩 御 の あ と 天 皇 と な り、 寛 文 三 年 ( 一 六 六 三 ) 霊 元 天 皇 に 譲 位 し、 以 後、 院 政 を 行 っ た。 和歌・連歌に長じ、 歌集 『後西院御集』 には、 承応元年 (一六五二) か ら 天 和 元 年 ( 一 六 八 一 ) ご ろ ま で の 約 九 〇 〇 首 を 収 め る。 別 称 を水日集・縁洞集という。書風は、父後水尾天皇の影響をうけ て能筆であった。貞享二年 (一六八五) 四十九歳で崩御した。 また、常修院様とは、後陽成天皇の第十六皇子で後水尾天皇 の弟君にあたる、常修院宮慈胤法親王のことである。天台座主 を三度つとめ、大原三千院の第四十 三代門跡となった。梶井宮 ともいう。茶道・華道に通じ能書家であった。
市指定有形文化財(書跡) 絹 けん 本 ぽん 用 よう 林 りん 顕 けん 材 ざい 建 けん 長 ちょう 寺 じ 山 さん 門 もん 疏 そ 一幅 指 定 平成二年三月二十七日 所在地 いわき市小名浜林城字大門 所有者 禅 長 寺 室町時代 縦 三五・四㎝、横 一三三㎝ 用 林 顕 材 は、 磐 崎 郡 金 成 村 ( 小 名 浜 金 成 ) を 本 領 と し た 岡 本 氏 の出身で、禅長寺に入った後、鎌倉五山の建長寺一七三世の住 職となった人物である。 享 禄 元 年 ( 一 五 二 八 ) に 足 利 義 晴 か ら 顕 材 宛 に 出 さ れ た 建 長 寺 住 職 任 命 の 公 こう 帖 じょう に よ っ て、 こ の「 山 門 疏 」 の 成 立 年 を 知 る こ とができる。 「 疏 そ 」とは、 禅宗では下から上へ出す文書を言う。 「山門疏」 は、 住職が新たに任命された赴任先の寺院によって新命を拝請する ために 書かれるもので、最後の句には天皇の 聖 せい 寿 じゅ を祝い、国家 の安寧を祈る意味の語を用いる。差出人の署名は、知事比丘・ 頭首比丘・勤旧比丘の三者である。縦横に墨罫のある特定の料 紙 に、 闕 けつ 字 じ ・ 平 へい 出 しゅつ ・ 擡 たい 頭 とう な ど の 法 則 を 厳 重 に 守 っ て 楷 書 さ れ る文書で、寺の書記がこれを作成するのが原則であった。 「疏」 の構成は、 蒙頭・八字称・過句・襲句・結句の五部分より成り、 その中に新命者について何を各部で表現すべきかが定められて いる。文体は 四 し 六 ろく 駢 べん 儷 れい 体 たい と呼ばれ、四字句、六字句を基調とし て対句を用い、音調をととのえ、故事を盛り込み 美 び 辞 じ 麗 れい 句 く を用 いることが特徴とされている。 享禄元年閏九月に足利義晴の公帖をうけた顕材は、関東十刹 の禅興寺から建長寺の住職となった。入院の式に当たり、建長 寺方丈で寺からの招聘状ともいうべき山門疏が、軸に表装され 前堂首座によって読み上げられた。顕材の建長寺退引後、その 転出にともなって「山門疏」は禅長寺にもたらされたものであ る。
市指定有形文化財(書跡) 高 たか 月 つき 山 さん 阿 あ 遮 しゃ 院 いん 祠 し 堂 どう 金 きん 之 の 記 き 一巻 指 定 平成七年四月二十八日 所在地 いわき市四倉町薬王寺字塙 所有者 薬 王 寺 江戸時代・享保九年 (一七二四) 縦 三四㎝、横 一五〇㎝ 飯野八幡宮神主・飯野式部大輔盛政の弟、星野勘左衛門政勝 が 延 宝 三 年 ( 一 六 七 五 ) に 没 し、 飯 野 家 の 菩 提 寺 阿 遮 院 ( 天 正 八 年 (一五八〇) 薬王寺七世・宥堅の開山) に葬られた。 宝永四年 (一七〇七) の三十三回忌に金三両が寄進され、神領の代官・大河原茂右衛 門 に 預 け ら れ、 毎 年 そ の 利 息 米 が 供 養 料 に 充 て ら れ た。 更 に、 五 十 回 忌 に 当 た る 享 保 九 年 ( 一 七 二 四 ) に は、 星 野 政 勝 の 子 息・ 杏庵尹勝 (江戸の町医者で、新井白石の友人) が金七両を寄進し、そ の利息米を日々の供養料、墓所の修理及び 香 こう 花 げ 灯 とう 明 みょう 料 りょう にする という尹勝の志を記したものが「高月山阿遮院祠堂金之記」で ある。 祠堂金とは永く祖先の霊を供養するために、祠堂修復の名目 で寺に寄進する金のことである。 こ れ を 書 写 し た の は、 江 戸 時 代 中 期 の 書 家 と し て 代 表 的 な 佐 々 木 文 山 ( 一 六 五 九 ~ 一 七 三 五 ) で あ る。 文 山 は、 磐 城 平 藩 主・ 内 藤 政 樹 に 召 抱 え ら れ て い た 能 書 家 で あ っ た。 そ の 作 品 に は、 扁 額 で は 長 谷 寺 の「 慈 光 殿 」、 絵 巻 で は「 紙 本 著 色 黒 石 大 明 神 縁起絵巻」 (市指定) など数点の作品が現存している。その中で、 この「高月山阿遮院祠堂金之記」は、特に代表的傑作とみられ る。唐様や朝鮮系の書風がよくあらわれ、得意の楷書で一字一 字正確に記された、文山晩年期の作品である。 文山は江戸に生まれ、名は襲・淵竜。文山はその 字 あざな である。 墨花堂と号し、通称百助、一時高松藩に仕えた。広く寺社の扁 額を書し、門弟が多く、榎本其角や紀伊国屋文左衛門らとも交 遊し、逸話が多い人物である。
市指定有形文化財(書跡) 奥 おう 州 しゅう 磐 いわ 城 き 薬 やく 王 おう 寺 じ 来 らい 由 ゆ 記 き 一巻 指 定 平成七年四月二十八日 所在地 いわき市四倉町薬王寺字塙 所有者 薬 王 寺 江戸時代 縦 二九・三㎝、横 六二七・〇㎝ 「 奥 州 磐 城 薬 王 寺 来 由 記 」 は、 真 言 宗 智 山 派 に 属 す る 薬 王 寺 の 寺 史 を 主 と し、 更 に 寺 史 を 記 し た 禅 海 ( 一 六 三 八 ~ 一 七 〇 九 ) の 伝記等を加えたものである。 奥書によると、同寺の十九世住職であった禅海が隠退するに あ た り、 貞 享 四 年 ( 一 六 八 七 ) 八 月 に 薬 王 寺 の 由 来 を 詳 細 に 記 し たものである。 筑波の徳一が奥州布教のおり、八茎嶽に薬師堂を建立したこ と に 始 ま り、 建 武 の 頃 に は 勅 ちょく 任 にん の 僧 正 が 在 住 す る 寺 で あ っ た こと、しかし平朝義のため僧正が追放されてからは、しだいに 衰えてしまったこと、その寺を再建したのが僧正の生まれかわ りとして誕生した岩城隆忠であることなど、伝承されている下 神谷の花園山の一鍬塚にまつわる話を交えて、十八代二四〇年 にわたる歴史ある真言の根本道場であることを述べている。 元 禄 五 年 ( 一 六 九 二 ) 三 月、 禅 海 の 門 弟 で あ っ た 仙 台 大 崎 八 幡 神社の別当龍宝寺の二十二世実養は禅海の伝記をつくった。さ らに禅海も 遺 ゆい 偈 げ をつくり、みずからの葬儀の作法をも書き残し た。禅海は、隠退後は白水の遍照光院に住んで入寂した。その 後 継 者 で あ る 禅 悦 が、 宝 永 六 年 ( 一 七 〇 九 ) 秋、 師 を し の び、 禅 海があらわした「薬王寺来由記」などをまとめて一巻としたも のである。 禅 海 が 能 筆 家 で あ っ た こ と は、 専 称 寺 に 伝 わ る「 無 む 量 りょう 寿 じゅ 経 きょう 」で知られるが、 禅悦も師に優るともおとらぬ能筆家であり、 当時の僧侶達の書の力量を知る上で貴重である。