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教育という言語ゲーム成り立たせているものに関する一考察−ウィトゲンシュタインおよびクリプキの規則導守論に基づいて− [ PDF

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Academic year: 2021

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(1)教育という言語ゲームを成り立たせているものに関する一考察 −ウィトゲンシュタインおよびクリプキの規則遵守論に基づいて− キーワード:規則を身に付ける,根拠や本質の必要のなさ,正当化されない暗闇の中の跳躍,一致,言語ゲーム 発達・社会システム専攻 山岸. 賢一郎. 【本論の構成】. ないしは「ウィトゲンシュタインの懐疑論」と呼ばれる. はじめに. ものである。しかし,ウィトゲンシュタイン解釈として. 第1章. 規則遵守に関する懐疑論. も,クリプキ独自の議論としても,多くの批判がある議. 1節. 第1章における問題と方針. 論であるため,批判を受けないような議論にするために. 2節. 規則遵守に関する懐疑論−問題の定式化. 彼の議論に手を加えることとした。また,クリプキの議. 3節. 規則遵守に関する懐疑論−懐疑論者との論争の. 論は突飛な「懐疑論者」とクリプキとの間の対話ないし. 始まり. は論争という形式で議論が展開されるが,本論文におい. 4節. 規則遵守に関する懐疑論−懐疑論の結論. ても,懐疑論者を登場させることで議論を展開すること. 補節. 哲学的な問いを拒否することと懐疑論の結論を. とした。. 受け入れること 第2章. 2節:規則に従うとき,我々はしばしば自分が規則に. 懐疑論を受け入れる. 導かれたと感じる。またしばしば,我々の頭や心の中に. 1節. 第2章における問題と方針. 宿った自分を導く何かこそが規則の本質であると考える。. 2節. 懐疑論の結論を受け入れるために;SC1∼SC. そしてしばしば,我々の中に宿る何かが強制ないしは正. 3について. 当化する行為こそが, 規則に従った行為であると考える。. 3節. 懐疑論の結論を受け入れるために;根拠と原因. 規則遵守の懐疑論はこうした考え方の妥当性を問うため. 第3章. 教育という言語ゲームを成り立たせているもの. のものである。. 1節. 言語ゲームという語の導入. 我々が足し算(の規則)を身に付けていることは明白. 2節. 足し算の規則を教育するという言語ゲーム. な事実である。また,我々が足し合わせたことがある数. 3節. 力づくの教育と理性. の内には最大の数が存在することも明白な事実である。. 4節. 教育という言語ゲームを成り立たせているもの. ここで,その「最大の数」が 56 であったと仮定し,さ らに我々が,今,生まれて初めて 68+57=125 と計算し. 【本論の概要】. たと仮定する。我々は,この計算は我々が身に付けた規. はじめに. 則が強制するが故に為すべき計算であったと考えるかも. 本論文は,規則遵守をめぐるウィトゲンシュタイン ( Ludwig Wittgenstein) お よ びク リ プ キ( Saul A.. しれない。しかし,クリプキが想定した突飛な懐疑論者 + (クワス)を用いれば は,記号○. Kripke)の議論に基づいて, 「規則に従うこと」 「規則を. + y=x+y x,y<57 ならば,x○. 身に付けること」に関する考察を行い,それによって教. + y=5 それ以外の場合は,x○. 育という営みについて考えるための示唆を得ようとする. と定義されるクワス関数ないしはクワス算という突飛な. ものである。本論文における考察は,教育という営みが. 規則を持ち出し,「68+57」という問題を計算する以前. 成立しているということに関する非本質主義的な見方を. に我々が身に付けていた規則は足し算ではなくクワス算. 提示する。. の規則であり,かつ,我々は「68+57」という問題には これまでと同じようにクワス算の計算を行って 5 と答え. 第1章. 規則遵守に関する懐疑論. るべきであったと主張する。そして,懐疑論者は,この. 1節:第1章の議論においては,クリプキの手による. 主張を論駁するための何らかの〈事実〉 を示すことを我々. 規則遵守の懐疑論が提示される。その議論は,クリプキ. に要求する。ここで言う〈事実〉とは,懐疑論者の主張. 自身によって「ウィトゲンシュタインのパラドックス」. を論駁するような何らかの事実であり,我々はクワス算.

(2) ではなく足し算の規則を身に付けていたということを. SC1を一般化したものが SC2である。SC3は,例えば,. (従って,68+57 には 125 と答えるべきであったとい. 我々が為した 68+57=125 という計算は我々が身に付. う我々の確信を)根拠付けるないしは正当化するような. けた規則によって(懐疑論者を論駁できる水準で)正当. 何らかの事実である。. 化されたあるいは根拠付けられた計算ではないというこ. 3節: 「68+57=125」という計算を為す以前において. とを表現している。. 我々が身に付けていた規則は足し算ではなくてクワス算. 補節:ウィトゲンシュタインは SC1∼SC3を拒否し. であったと主張する懐疑論者を論駁するためには,我々. ていたというウィトゲンシュタイン解釈も存在する。し. は懐疑論者に何らかの〈事実〉を提示せねばならない。. かし,その解釈は誤りである。懐疑論者はまともな人物. しかし,我々がこれまで足し算の計算を為してきたとき. (Der Vernünftige)ではないという理由で,あるいは懐. に起こっていた事実は,それが心的なものであれ,行動. 疑論者が求める根拠付けや正当化は不必要であるという. に表れるものであれ, 脳内に起こる過程であれ, すべて,. 理由で,ウィトゲンシュタインが懐疑論者の主張を拒絶. 我々が足し算の規則を身に付けていたということを確証. したとしても,ウィトゲンシュタインは SC1∼SC3は. すると同時に,懐疑論者の主張――我々は足し算ではな. 受け入れていたのでなければならない。SC1∼SC3を. くクワス算の規則を身につけ,クワス算の規則に従って. 論駁するためには,懐疑論者が求める〈事実〉を提示す. きた――をも確証する。従って,懐疑論者が要求する〈事. る必要があるからであり,そのような〈事実〉は存在し. 実〉はそもそも論理的に存在し得ないような何ものかで. 得ないからである。. ある。よって,我々は,懐疑論者を論駁することはでき ない。換言すれば,懐疑論者に対しては,我々が「足し. 第2章. 懐疑論を受け入れる. 算を身に付けていた」ということを,あるいはそれが「明. 1節:第1章においては,SC1∼SC3が規則遵守の. 白な事実」であったということを,理性的なやり方によ. 懐疑論の結論として得られた。第2章においては,クリ. って説明することはできない。. プキの「懐疑的解決」およびウィトゲンシュタインの議. 4節:3節までに足し算の例を用いて為されてきた議. 論から,懐疑論および SC1∼SC3を論駁できなくても. 論は,それがどのような語であれ,語の意味に関しても. 構わないということ,さらには,SC1∼SC3から得る. 適用が可能である。例えば,椅子のことをテーブルと呼. ことのできる独特の価値について論じられる。その価値. ぶ人物はテーブルという語を習得ないしは理解している. とは,我々が我々の扱う言葉に関してしばしば抱いてし. 人物とは見なされ得ないのであり,テーブルという語を. まう誤解に気付き,それを放棄せざる得なくなるという. 習得ないしは理解するということは,テーブルという語. 価値である。. の使用規則を身に付けることだと見なし得る。この使用. 2節:SC1については,或る特定の哲学的立場に立っ. 規則に対しては,足し算とクワス算と全く同じ論法が適. て,その言葉に対応する〈事実〉が存在しないが故に「・・・. 用可能である。 かくして, 4節までの議論の結論として,. は足し算を身に付けている」「・・・は『足し算』という語. 以下のような懐疑論の結論(SC)が得られる( 「・・・」に. で足し算を意味している」等の言葉が事実ではないと考. は任意の人称・人名が入り,それは単数形・複数形を問. えるのでなければ, さしたる問題は起こらない。 我々は,. わない) 。. 我々が普段行っている日常の言語実践においては,これ. SC1: 「・・・は足し算を身に付けている」 「・・・は『足. らの言葉を(懐疑論者が求める水準において)根拠付け. し算』という語で足し算を意味している」という. る〈事実〉の存在を探したりはせずに,それにも関わら. 確信や言葉を(懐疑論者を論駁できる程の水準で). ずこれらの言葉は明白な事実であると考えている。SC1. 正当化ないしは根拠付けることはできない。その. を受け入れるためには,この日常の言語実践を重視し,. ような正当化ないしは根拠付けを可能とする〈事. その哲学的な誤解を放棄せねばならない。. 実〉は存在し得ない。. また, 「足し算を身に付けている」という「明白な事実」. SC2:SC1で「足し算」という語を用いて提出さ. は( 「足し算」 「身に付ける」 「意味する」等の言葉を使わ. れた論点は完全に一般的であり,あらゆる規則・. ずに表現されるような,かつ)そのことの本質となるよ. あらゆる語の意味について適用可能である。. うな何らかの特定の事実に還元できるのでなければなら. SC3:或る規則,あるいは或る語について,・・・が. ない,と考えるならば,SC1 は受け入れ難いものと映る. 行う新しい状況での適用は,全て「正当化されな. はずである。そのように考えるならば, (クワス算ではな. い暗闇の中での跳躍」である。. く) 「足し算を身に付けている」ことに対応する〈事実〉.

(3) が存在していなければならないからである。 〈事実〉が存. ったということである。そのような「何か」などなくと. 在し得ないということは, 「足し算を身に付けている」と. も,規則の本質などなくとも,人間は,特定の教育ない. いう「明白な事実」は脳内に起こる或る過程や,心の中. しは訓練を受ければその大多数が, 「68+57」のような問. に起こる或る過程や,行動に表れる或る過程等々には還. 題には一致して 68+57=125 のように計算を行うように. 元不可能であるということを示している。SC1により,. なる。68+57=125 という計算をするとき,我々は懐疑. 我々は還元主義的な考え方も誤解として放棄せねばなら. 論の言葉を用いるなら「暗闇の中での正当化されない跳. ない。以上で SC1について述べられたことは,SC2に. 躍」を行っている。しかし,我々の日常の言語実践の中. も当てはまる。SC1や SC2は我々の日常の言語実践を. で「足し算を身に付けた」と呼ばれ得る人物の間におい. 否定するものではなく,しばしば我々の日常の言語実践. ては,この跳躍は概ね一致する。この一致は,もはや正. について回る誤解を否定するものである。. 当化する必要もなければ正当化することもできない,単. SC3も我々の日常の言語実践は否定しない。SC3が. なる「剥き出しの事実」である。. 否定するのはしばしば我々を惑わす誤解である。規則を 身につけたとき,語の意味を理解したとき,我々に宿っ. 第3章. 教育という言語ゲームを成り立たせているもの. た「何か」が,あるいは規則・意味の本質が,我々を為. 1 節:第2章までの議論で,規則遵守についてしばし. すべき行為へと導くと考えるならば,SC3はその考えと. ば抱かれる誤解が明らかになるとともに,その誤解を放. 矛盾する。しかし,懐疑論を論駁できない以上,斥けら. 棄するべきであることが論じられた。しかし, 「規則を身. れるべきは我々を導く「何か」や本質が存在するという. に付けている」という「明白な事実」について直截的に. 考えである。ウィトゲンシュタインの言葉を借りるなら. は論じられなかった。この点について,本質主義的・還. ば,根拠付けや正当化はどこかで終りになるのであり,. 元主義的・心理主義的な語り方を避けるために,ウィト. 或る規則に従うとき,我々は, 「とにかく」或る行為をす. ゲンシュタインが用いた「言語ゲーム(Sprachspiel)」. る。また,我々は,或る規則に従うとき,その規則に習. という語を議論に導入する。この語は,ここでは,言語. 熟していればしているほど,どのような行為を行うべき. ないしは言葉の背後に想定されるかもしれない根拠や正. でどのような行為を行うべきではないのかといったこと. 当化や本質の必要のなさを強調するためのものであり,. を考慮に入れることなく「盲目的」に或る行為する。. 言語ないしは言葉が人間の生のあり方(Lebensform)の. 以上の考察によって,我々の言語実践についてまわる. 一部であることを強調するためのものである。. かもしれない誤解さえ取り除くことができたならば,懐. 2節: 「規則を身に付ける」という「明白な事実」とは. 疑論において求められた根拠や正当化はもはや必要がな. 一体何かという問いは,その「事実」から還元された何. いと考えることができる。また,SC1∼SC3も単に当. らかの本質を求めるかのような問いである。もはやこの. たり前のことを述べた言明として受けとめることができ. 問いは不要であり,この問いに代えて,我々は言語ゲー. る。. ムの中で一体どのようなときに「規則を身に付けている」. 3節:ここまでの考察においては,根拠や正当化の必. という言葉を使用するのか,一体どのようなときにその. 要のなさが執拗に説かれてきた。しかし,もちろん,我々. 言葉を使用しないのか,我々が為している言語ゲームの. が 68+57=125 という計算をすることには原因が存在す. 実際においてどのような条件のもとでこの言葉が 「(明白. る。その原因とは,我々が十分に教育を受けたというこ. な)事実」となっているのかを考察することにしたい。. とであり,ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば十分. 或る子どもに足し算を教育するという言語ゲーム(子. な訓練を受けたということである。しかし,我々はしば. どもが足し算を学習する際の言語ゲーム) を想定しよう。. しば,こうした「原因」だけでは満足できずに,原因と. この子どもは,まず,数の数え方を学ぶ。もちろん,こ. 行為の間の隔たりを埋めてくれるような「根拠」を欲す. のとき,この子どもは数の数え方を理性的な説明によっ. ることがある。そして,その欲求が,我々の頭や心の中. て学ぶわけではなく,ウィトゲンシュタインの言葉を借. に宿った我々を導く「何か」を,ないしは規則や意味の. りれば「訓練」によってそれを学ぶ。また,一桁の数同. 本質を,想定させる。ウィトゲンシュタインの言葉を借. 士の足し算を同様のやり方によって学ぶ。そして,二桁. りれば,我々はしばしば,規則に従った或る行為をする. の数同士の計算も,初めの内は同様にして学ぶ。このと. 際には「何かがそうさせるのでなければならない」と考. き,この子どもは度々繰り上げを忘れ,煩悶しながら問. えてしまうのである。我々が懐疑論者および SC1∼SC. 題を解くかもしれない。我々はまだ,この子どもに対し. 3を論駁できないということは,この考え方が誤解であ. て「足し算を身に付けている」という言葉は用いない。.

(4) さて, 今, この子どもにとってはじめての足し算の問題,. もを我々の一員とするのである。理性的な態度で子ども. 例えば「50+51」を解かせようとすると,この子どもは. に接するような教育は,この一致が既にどこかで成立し. なんと 50+51=1と答える。我々は,この子どもの勘違. ている場合にのみ成立し得る。. いを正すために,何らかの声掛けをするかもしれない。 あるいは,何の声掛けもせず,子どもの手を取って一緒. 4節:行為の根拠なき一致が,特定の「訓練」 (規則を. に筆算をするかもしれない。そうした我々の態度は特に. 教育するという言語ゲーム)によって人間には起こると. 特別な働きかけをしているわけではなく,単にこれまで. いうこと,このこと自体が,その訓練自体を成り立たせ. 我々がその子どもに幾度も為してきた訂正の反復である。. ている。そして,その一致を前提にして,理性的と見な. そして,訂正の際には,多くの場合は何の問題も起こら. され得るような教育 (という言語ゲーム) が行われ得る。. ず,その子どもは殆どの場合は我々の働きかけの内のい. その際にも,我々の行為は根拠なく一致し続けている。. ずれかによって我々の計算と一致した 50+51=101 と. 我々の行為の根拠なき一致は,規則の本質によるもの. いう計算をするようになる。そして,以上の働きかけを. でも我々を導く何かによるものでもない。この一致は,. 幾度か繰り返すならば,多くの場合,子どもは十分に大. 人間の生のあり方(Lebensform)の上に,我々が行う特. きな数に対して, 我々と一致した計算をするようになる。. 定の言語ゲーム(特定の訓練)が足されたことで創られ. このとき,我々は, 「この子どもは足し算を身に付けた」. る一致なのである。. 「この子どもは足し算を理解している」 「この子どもは足 し算の計算を把握した」等々の言葉を使用する。このと き,これらの言葉は「明白な事実」と言われ得る。ただ し,それは子どもが我々と一致しない突飛な計算をしよ うとしない限りにおいてである。 「足し算を身に付けている」ということが「明白な事 実」であるということの最大の条件は,我々と一致した. 【主要引用文献】 Saul A.Kripke, Wittgenstein on rules and private. language,Harvard University Press Cambridge,1982。 Ludwig Wittgenstein, The blue and brown Book , Oxford:Basil Blackwell,1969〔1933-1935〕。. 計算をするということである。これを或る規則に置き換. Ludwig Wittgenstein , Bemerkungen über die. えるならば, 「・・・の規則を身に付けている」ということ. Grundlagen der Mathematik , Suhrkamp , 1984. が「明白な事実」であることの最大の条件は,我々と一. 〔1937-1944〕。. 致した行為を為すということである。2章において述べ られたとおり,この一致には懐疑論者が求める水準の根 拠を与えることができない。我々が生きる言語ゲームの 中では,あるいは我々が為す足し算を教育するという言 語ゲームにおいては,子どもは「とにかく」我々と一致 した計算ができるようになるのである。. Ludwig Wittgenstein, Philosophische Untersuchungen, Suhrkamp,1984〔1936-1949〕。 Ludwig Wittgenstein,Zettel,Suhrkamp,1984〔大 部分は 1945-1949〕。 Ludwig Wittgenstein,Über Gewißheit,Suhrkamp, 1984〔1949-1951〕。. 3節:決して我々と一致した計算をしない,ないしは 我々と一致した計算をしようとしない子どもは, 「足し算 を身に付けた」と言われることはない。また,この子ど もは「まともな人物(Der Vernünftige)」と見なされる. 【主要参考文献】 黒崎宏, 「クリプキの『探求』解釈とウィトゲンシュタ インの世界」,『現代思想』13-14,1985。. ことさえないかもしれない。それゆえに,ここで我々は. コリン・マッギン,植木哲也・塚原典央・野矢茂樹訳. 言わば理性的(vernünftig)ではない力ずくの教育を行. 『ウィトゲンシュタインの言語論−クリプキに抗して』. う。こうした我々の態度を,懐疑論者が求める水準にお. 勁 草 書 房 , 1990( Colin McGinn , Wittgenstein on. いては正当化できない態度であるという理由で問題視す. Meaning,Oxford:Basil Blackwell,1984)。. る必要は全くない。我々の言語ゲームは,50+51=1と. 松坂陽一, 「規則の認識論―クリプキ以降のウィトゲン. 計算し続ける人物に対しては理性(Vernunft)を見出す. シュタイン解釈」, 飯田隆編 『ウィトゲンシュタイン読本』 ,. ことはないのであり,こうした子どもに対しては我々は. 法政大学出版局,1995。. 力づくの教育(ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば. 丸山恭司, 「教育において〈他者〉とは何か――ヘーゲ. 「訓練」 ) を為してでも我々と一致した行為をするように. ルとウィトゲンシュタイン の対比から」,教育学研究,. 働きかけねばならないのである。そして我々はこの子ど. 67,2000。.

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