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Bu l l . F a c . Ed u c . Hi r o s a k iUn i v . 8 7:8 9 ‑9 8( Ma r . 2 0 0 2 )

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(1)

Bu l l . F a c . Ed u c . Hi r o s a k iUn i v . 8 7:8 9 ‑9 8( Ma r . 2 0 0 2 )

青森県における士族授産 と津軽藍産業化‑の試み As pe c t soI‑ Shi z oku‑ j us a n ‑ a nd H i s t or ic a lDe s c r ipt io n

oI' Ts uga r u‑ I nd i go

宮 本 利 行 * ・北 原 か な 子 ** ・肥 田 野 豊 *** ・北 原 晴 男 ****

Tos hi yu k iMI YAMOTO* ,Ka na koKI T A HARA** ,Yut a kaHI DANO*** ,Ha r u oKI TAHARA****

論文要 旨

明治初年,廃藩置県 とそれ に続 く秩禄処分によって職 を失 った士族は,深刻な経済的危機 に直面す ること にな った。 こ うした士族救済のため,政府は士族授産事業を遂行 し,青森県で も旧藩士族 らによ りそれぞれ 様 々な試みがな された。本稿では,最初 に明治初年 の青森県内に展開 した士族授産事業の様子を述べ る とと もに,特に旧弘前藩士族 の動向を取 り上げ, 当時,東奥義塾 に招碑 されていた外 国人教師が地域産業開発に 関わ った ことや,弘前で行われていた藍の産業化‑の試み について明 らかにす る ものである。

キー ワー ド :士族,士族授産,内務省,大久保利通,興業社,成美社,お雇い外 国人,津軽藍

1

.は じめに

明治初年,幕藩体制の解体 と共に士族階級を取 り巻 く状況は一変 した。特に廃藩置県によって職 を失い,その後の秩禄処分によって家禄 も失 った 士族は,たちまち経済的危機 に直面 した。 こ うし た士族救済のため,初代内務卿である大久保利通 の立案後,その主務省 となった内務省によって士 族授産事業は遂行 され,青森県内旧藩士族 らも, 様 々な試み をな した。言 うまで もな く, この当時 体制の激変に加 えて戊辰戦争 による疲弊な どによ り,困窮 した経済状態に置かれたのは青森県ばか りではないが,特 に青森県の場合, 旧会津藩士が 移住 した斗南港の窮状は 目を覆 うばか りの ものが あ り1),その救済対策 も大 きな課題 となっていた。

本稿では,最初に明治初年の青森県内に展開 し た士族授産事業の様子 を, 旧弘前, 旧黒石, 旧斗 南, 旧七戸, 旧八戸の諸藩士族の動 向について述 べる。次に特に旧弘前藩士族 を取 り上げ, 当時東 奥義塾 に招聴 されていた外国人教師の記述や残 さ れた書籍な どの資料を もとに,彼 ら外国人宣教師

が, 旧弘前藩士族たち と地域産業開発 に関わ った ことや,弘前で行われていた藍の産業化‑の試み な ど,従来ほ とん ど語 られてこなか った内容につ いて明 らかにす るものである。

2.

士族授崖の概説

士族 とは,明治政府が設けた三種の社会階級 ( 族,士族,平民)の一つであ り,江戸幕府におけ る武士階級 と大体 同様である2)。武士階級は,江 戸時代において特権階級 として家禄 を得ていたが, 廃藩置県後に常職 (軍役)を失い,そ して秩禄処 分によ り家禄は金禄公債の下付 と引き替えに廃止 された。その結果,政府の官吏 として採用 された 以外の士族は失業状態におかれた。そ こで,政府 は これ ら困窮士族を救済す るため,士族授産 を実 施す ることになる。

士族授産の研究には,吉川秀造3),我妻東策4), 安藤精一5),落合弘樹6)な どがあるが,本項では 吉川秀造氏の 『士族授産の研究

か ら士族授産の 目的 と方法を,落合弘樹氏の 「内務省期の士族授

*

青森県環境生活部県史編さん室

P r e f e c t u r a lHi s t o r yCo mp i l i n gOf f i c e ,De p a r t me n to fEn vi r o n me n ta n dCi v i lLi f e , Ao mo r iPr e f e c t u r eGo v e mme n t

** 秋 田桂城短期大学

Ak i t aKe i j oJ u n i o rCo l l e g e

***

弘前大学教育学部技術科教室

De p a r t me n to fTe c h n o l o g y ,Fa c u l t yo fEd u c a t i o n ,Hi r o s a k iUn i v e r s l t y

****弘前大学教育学部 自然科学教室

De p a r t me n to fNa t u r a lSc i e n c e , Fa c u l t yo fEd u c a t i o n ,Hi r o s a k iUn i v e r s l t y

(2)

9 0

宮本 利行 ・北原かな子 ・肥田野 豊 ・北原 晴男 産政策」か ら士族授産政策の主務省である内務省

の基本方針 を概説す る。

まず,士族授産の 目的であるが,それには社会 上の目的,政治上の目的,経済上の目的があった。

①社会上の 目的 とは,困窮 した士族 を救済す る ことである。明治政府は江戸幕府を打倒す る際に, 封建制度の打破 を歴史的使命 としたが,そのため には秩禄処分は必要不可欠の ものであった。 当然, 秩禄処分によ り士族は収入がな くな り困窮す るこ

とになった。

②政治上の 目的 とは,政府に対す る不平士族の 反抗 を懐柔す ることである。江戸時代の武士は支 配者階級 として社会的に高い地位にあ り, また, さまざまな特権 を有 していた。だが,政権が明治 政府に代わ り,士族がその変革の成功に協力 した ものの,徴兵令による国民皆兵の制度や廃刀令な ど,従来有 していた特権が剥奪 され るにつれ,政 府に対す る不平不満を高めていた。

③経済上の 目的 とは,政府の最 も重要な政策の 一つである殖産興業を遂行す るのに,無職 の士族 を一方においては資本家 (金録公債金が資本 とな る) としての育成 し, もう一方では労働者 とす る ことが必要だ ったためである。

次に,士族授産の方法であるが,それ には開墾 お よび移住の奨励,就産資金の下付,銀行設立の 奨励,授産資金の貸付 けな どが行われた。

(彰開墾お よび移住の奨励 とは,士族 を山林原野 や不毛荒蕪の土地に移住 ・開墾 させ,農耕 ・牧畜 ・ 植桑 ・栽茶な どを起業 させ ることである。ただ し, 開墾お よび移住できる土地は全国一律にあるわ け でな く,未開の土地が豊富な東北地方 ・北海道が 中心 とな った。

②就産資金の下付 とは,士族の中には家禄生活 に見切 りをつけ, 自らの身分を返還 して平民 とな り7),農工商に転職す る ものが出てきた。政府は これ ら俸禄を返還 し平民 となった士族 に転業の資 金を下付 した。

③銀行設立の奨励 とは,政府は1

8 7 6

(明治

9)

8

月,華士族の禄制を廃止 し,金禄公債証書を 交付 したが,その公債を資本金 とす る銀行の設立 を奨励 した。銀行事業‑の投資によ り,公債の利 子金 とともに,銀行事業利益の配当金を得 させ る ことで生活の安定 と銀行行員 としての就職の機会 を得 させた。

④授産資金の貸付 け とは,士族 らが農工商の事 業に従事するために要す る資金を政府が寛大な条

件で貸付けた ことであ り,財源には起業資金 ・勧 業委託金 ・勧業資本金の三種類 をあてた。 また, 貸付 けを受ける事業は農工商の各方面にわた り多 種多様であったが,貸付 けの多い事業には,養蚕 ・ 製糸 ・開墾 ・機織 ・製茶 ・牧畜 ・紡績 ・製糖 ・製 紙 ・農耕 ・燐寸製造 ・製傘な どがあった。 これは 授産の方法 として,政府が最 も力を入れた もので あった。

政府における士族授産政策は,内務省が管轄 し た明治

9

年か ら

1 4

年 までに基本方針が確立 され, その後,農商務省 に引き継がれた。内務省 の設立 者である とともに,初代内務卿 として政策遂行の 先頭に立 った大久保利通は,明治11年 3月 6日, 政府に提出 した 「一般殖産及華士族授産ノ儀二付 伺」の冒頭において,産業の根本である農業の停 滞 と無産士族の もた らす社会不安が国力の発展を 妨げている と判断 し,世情の定 まった今 日こそ国 力の増強に努めなければな らない と述べている。

そ して,翌 日の

7

日には,「東北地方原野開墾之儀 二付伺」を提出 し,東北地方に士族 を移住 させて, 大規模な開墾事業計画を立案す る。

士族授産の出発時点では,事業の重点が東北地 方の原野開墾にあったが, この年の

5

月 に大久保 は暗殺 され,士族授産政策 も大き く変更 され る。

だが,明治1

4

年の天皇巡幸における事前巡視のた め明治12年11月か ら翌年 3月 にかけて,宮内省御 用掛 として東北各県に赴いた佐々木高行の 『復命

において窮乏化の著 しい東北士族の状況が報 告 され る と,大久保 とともに士族授産を遂行 して きた内務卿松方正義や 内務省 における政策担 当部 局の勧農局長品川弥二郎は,大久保の意志を継 ぎ, 東北地方‑の士族開墾移住政策を再開す る。

これは,青森県にお ける士族授産事業に影響を 与 えることになる。

3.

青森県下各 旧藩士族による士族授産事業

1 8 71

(明治

4)

7

月1

4

日,廃藩置県の詔勅が 下 された際,現在の青森県域 には次の諸藩が存在 していた。津軽地域では弘前藩 (表高1

0

万石)・ 石藩 (表高

1

万石,弘前藩支藩 として1

8 09

年に成 立),南部地域では八戸港 (表高

2

万石,1

664

年に 盛岡藩か ら分かれ る)・七戸藩 (表高

1

万石,戊辰 戦争において朝敵 とな った盛岡藩の処分に関連 し て,1

8 6 9

年に成立)・斗南港 (表高

3

万石,同 じく 朝敵 となった会津藩は領地 を没収 され るが,のち に再興 を許 され,1

8 6 9

年に成立)の

5

藩である。

(3)

本項 では, これ ら県下 旧 5 藩 士族 らに よる士族 授産事業 について概括す る。

(1

) 旧弘前藩 士族 の士族授産事業

弘 前 藩 は 1 8 6 9 年 4 月 の版 籍 奉還 後 ,9 月 に この 年 の凶作 に際 して一時的減禄 を し, さ らに 1 1月 に は禄制 を改 めて最高 を 4 0 0 俵 とした こ とで,弘前藩 士の家禄 は削減 され る。そ こで藩 は翌年,地主が 所有す る田畑か ら 1 0 町歩 を残 して,残余 を 1 反 3 両で員 い上 げあ るいは献上 させ, それ を藩 士 らに 分与 して帰農 を奨 める。だが,帰農せず に土地 を 売却 して しま うものが多か った

8)

。そ の後 の旧弘 前藩 士族 の生計 は, 明治 1 8 年 の内務省御用掛梅若 誠太郎 に よる青森県下窮民状況で 「 弘前 二居ル 士 族 ハ青森県下 中士族 ノ最 モ貧 困ナルモ ノ トス,而 シテ其数モ亦少 カ ラス,現時弘前 ノ総戸数六千六 百余戸 内士族三千二百余戸二居 レ リ,即チ,総戸 数 ノ半 ヲ占ム,而 シテ現時生計 ノ最 モ憶ナルモ ノ ハ,三百五六十戸二過 キス ト聞ケ リ

」9)

と報告 され てい る こ とか らも, 旧弘前藩 士族 は困窮 の度 を増 してい くものが多か った。 そのため,次々 と多様 な士族授産事業が起業 され た。

第 1 に在来工業 として ,1 8 7 8 ( 明治 1 1 ) 年 に綿 布織物 を主た る 目的 とした弘前興業社が設立 され, 1 8 8 0 年 には養蚕 ・製糸 を 目的 とした盛蚕社,漆器 製造 を 目的 とす る漆器樹産会社 が設立 され た

10)

0 特 に,弘前興業社 は 旧弘前藩 士族 の菊池秀通,小 林忠之丞,丸瀬各之進,鳴海謙六,笹森要蔵 らが 中心 とな って設立 され た 旧弘前藩 士族最初 の結社 で, 当初 は①織工場,② 米商会所,③養蚕場,④ 製糸場,⑤薪炭仕込,⑥木材柾木舞仕込,⑦ 藁細

工員人 の多様 な事業 を行 う計画だ ったが,米商会 所 は政府 の認可が得 られず, その後,他 の事業 も 年 を追 うご とに整理 し,織工場 を営むのみ とな っ た1 1 ) 。

2

に開墾 ・農牧場経営事業 として ,1 8 8 1 年 に 困窮す る弘前 士族 を就産 させ るために,大道寺繁 禎や笹森儀助等 に よって岩木 山麓 の常磐野 に設立 され た農牧社が ある。社長 は大道寺であ ったが, 経営の 中心 は副社長 の笹森で ,1 8 8 1 年 1 2 月 には起 業資金 1 万 8, 0 0 0 円の貸付 けを受 け ( 表 3 参 照) , 牛馬や農機具 を購入 して , 8 0 0 町歩 の払下土地 に後 述す る広 沢牧場 と同様 な西洋式農場経営 を行 った。

第 3 に国立銀行 の設立であるが ,1 8 7 6 年 1 2 月, 青森県令 山田秀典 よ り第三大 区長大道寺繁禎 に対 して, 国立銀 行設立 に関す る内務 ・大蔵卿の内達 が通知 され る と,大道寺 ら弘前 士族 7 名が発起人 とな り,金禄公債保全 を 目的 に国立銀行設立が計 画 され る。 当初,大道 寺 らは第一 国立銀 行‑ 出資 し,青森県 に支店 を開設 して もらお うとしたが, 第一 国立銀行頭取で ある渋沢栄一 に, 当行‑ 出資 す るよ り独立起業す る こ とを勧 め られ,独 自の銀 行設立 を計画す る1 2 ) 。設立準備 を進 める際は終始, 渋沢 よ りア ドバイ スを受 け ,1 8 7 8 年 1 月 に 「 国立 銀 行創立願 」を提 出 し ,3 月 1 2 日に許可 され,第五 十九 国立銀行が誕生す る。設立 当初 の株主 の族籍 別 内訳 を表 1 で見 る と, 士族 は株主総数 の 9 4. 5 パ ーセ ン トを 占め,その持株数 は 9 7 . 4パーセ ン トに 達 している。 この こ とか らも第五十九 国立銀行 は 士族授産 に よる士族銀 行 として設立 され た といえ る。

第 4 に製塩事業 であるが ,1 8 7 9 年 に開牧社 は 旧

表 1 族 籍 別 株 主 内 訳 ( 創立時)

人 員 株 数

族 6 5 9 名 ( 9 4. 5%) 3, 8 9 6 株 ( 9 7 . 4%) 平 民 3 8 ( 5. 5 ) 1 0 4 ( 2. 6 )

( 出典)青森銀 行行史編纂室 『青森銀行史』 ( 青森銀行 ,1 9 6 8 )p. 8 2 0

弘 前 藩 士 族 6 0 0 余 名 の 就 産 の た め 起 業 資 金 3

5,000

円の貸付 けを受 けたが ( 表

3

参 照) , その後, 事業 の内容 を牧畜か ら産 馬 と製塩 に変更 したい と 願 い出 1 3 ) ,表 2 の よ うに予算 を計上 し,製塩 事業 を始 め る。

1 8 8 2 年 に製塩場が東津軽郡浅 虫村 ( 現青森市) に建設 され,海水か ら浅 虫温泉 の熱度 を利用 して 製塩が行われ た。その後 ,1 91 0 年 に塩 田整理法が 公布 され る と,製塩場 は廃止 され る こ とにな った。

旧弘前藩 士族 は授産 事業 を行 うため,積極的 に

(4)

9 2

宮本 利行 ・北原かな子 ・肥田野 豊 ・北原 晴男

表 2

製 塩 事 業 原 費 予 算

製塩場宿所建築費

3 6 0

塩蔵築造費

4 0 0

8 2 0

蒸 発 場 費

2, 9 0 8

蒸 散 櫓 費

4 9 5

1 3 6

海岸埋立費

9 0 6

水揚場並脚筒制作費

5 0

(出典) 「青森県旧弘前藩廃卒就産資金ノ義二付伺」『公文禄』明治

1 4

(国立公文書館所蔵) よ り作成。

士族授産金貸付表 (青森県分抜粋)

借 受 者 結社名称 産業種別 貸付金額 貸付許可年月 日

旧弘前藩廃卒

61 2

開牧社 牧畜

3 5, 0 0 0

明治

1 2. 1 2. 2 3

旧弘前藩士族総代

2

農牧社 同上

1 8, 0 0 0

明治

1 4. 1 2. 2 2

旧弘前藩士族

5 6

弘前興業織工場 綿布製織

1 0, 0 0 0

明治

1 6. 1 0. 1 3

旧弘前藩士族

5 3

漆器樹産会社 漆器製造

5, 0 0 0

明治

1 7.2. 2 5

旧弘前藩士族

51

盛蚕社 養蚕 .製糸

5, 0 0 0

明治

1 7.9. 2 4

(出典)吉川秀造 『士族樹産の研究』 (有斐閣

,1 9 4 2 )p p. 5 5 3‑5 6 7

よ り作成。

(注)開牧社は前述 した よ うに,事業を牧畜か ら産馬 と製塩 に変更す る。

資金の貸付 けを願い出ている。 これは表3におい て,授産金の貸付を受 けているのはほ とん ど旧弘 前藩士族であることか らも明 らかである。

(2

) 旧黒石藩士族の士族授産事業

黒石藩 における士族授産事業は,表3の明治

1 8

2

2 0

日に

5, 0 0 0

円の士族授産金貸付 けが許可

された黒石養蚕会社の存在 しか把握 されていない。

『黒石市史』 (黒石市

,1 9 8 8 ,p. 1 8 8 )

に記述 され ている黒石町上町の製糸会社は黒石養蚕会社のこ とと思われ る。

(3

) 旧斗南藩士族の士族授産事業

斗南藩は,陸奥国の北郡 (現青森県上北 ・下北 那),三戸郡 (現青森県三戸郡),二戸郡 (現岩手 県二戸郡)の一部 を領地 として与え られた

。1 8 7 0

年に会津か ら来た旧藩士並びにその家族の総数は

1

7, 3 0 0

余人であ り14),不毛の土地が多 く,集落 も疎 らな北郡 に移住す るや 日常生活に困窮 し

,

者稀ニシテ死者多ク,有之過半ハ浮腫ニア ラサ レ ハ血液空乏其容体永ク禁獄セ ラル →者ノ如 ク,畢

毒,衣食住不全之致 ス処其実餓李 トモ可申」15)の 状態 となった。 さらに廃藩置県を経て青森県 とな

ってか ら困窮の度は増 していった。

成立 したばか りの青森県に とって, これ ら旧斗 南藩士族の救済は大きな課題であった。そ こで青 森県が着手 したのは,安政年代か ら新渡戸伝 らに よ り開拓が進め られていた三本木原の開墾に旧斗 南藩士 らを従事 させ ることであった

。1 8 7 2

8

に三本木開墾事業を行 う陸奥国農会社 を設立 し, 9月には大蔵省か ら開拓起業資金 として初年度分 の米

1

万8,

0 0 0

石の下付 を受 け,管 内に移住 してい る旧斗南港士族

1, 9 5 8

, 8, 1 3 3

人の うち

,2

割弱の

3 2 8

戸,

1, 5 1 5

人を入植 させ る。たが,早 くも離脱 者が続出 し,開墾に困難 をきた してきたので更に 入植者を募 り,翌年

4

月には三本木開拓場取締規 則 を定め

,1

戸あた り

5

円の下渡金を与え,各戸に

1

町歩の土地 を低価で払下げ,1

4

合の手 当米, 住宅の貸与な ど生活の安定を補償 した。 しか し, この年の

1 2

月には収穫量が上が らない ことを理由 に開墾に見切 りを付 け

,1 8 7 5

年に大蔵省 よ り開墾 事業の廃止が通達 され る と旧斗南港士族授産の開

(5)

墾事業は

2

年足 らずで挫折 した。その後,1

87 6

の天皇巡幸の際,新渡戸が三本木開墾の労を報い る形で天皇 よ り下賜 された ことを契機 に開墾事業 を復活 しよ うとい う運動が始 ま り

,1 88 0

年に上北 郡長藤 田重明が発起人 とな って,三本木開墾再開 の願いが出 され,1

88 4

年に三本木共立開墾会社が 設立 され る16)Oそれか ら三本木原開墾は渋沢農場, 国営開墾 と受け継がれていった。

次に, 旧斗南港士族が行った事業 として,広沢 安住によるわが国最初の西洋式牧場経営があげ ら れ る。1

871

年,広沢は牛の買い付 けに来た英国人 マキノン とその通訳ルセ〜に会い,話題が牧畜業 経営まで発展 した ことが西洋式牧場設立のきっか けになった といわれ る。同年

1

0月 には旧八戸港士 族の太 田広城 とともに提出 した西洋式牧場の開設 願いが許可 され る と,マキノン とルセ‑を雇い入

,4

名の共 同経営で洋式牧場経営が始 まる。牧場 は欧米人 との交流が増加 した ことで, 日本人に も 食肉が普及 し始めていた ことか ら牛の飼育が 目的 となっていた。牧場経営は牛の放牧による繁殖の みでな く,飼料作物の栽培 と組み合わせた混合農 法であった17)0

(4)

旧七戸藩士族の士族授産事業

七戸藩は1

8 6 9

(明治

2)年 に南部信方が家督 を

継ぎ東京 よ り七戸‑下向す ることで成立す るが, 藩内には二種類の士族が存在 していた。それは, 新藩主の信方 とともに七戸に着任 した 「江戸士族」

とこれ まで盛 岡藩の御給人であったが,盛岡藩が 戊辰戦争後に領地替 えの処分 を受 けた際に士族 と しての身分を失い,その後,信方の着任 によ り禄 高は与え られないまま, 自己所有の領地か らの収 入のみで再度七戸藩 に仕 えた 「無禄士族」であっ 18)0

旧七戸藩士族の士族授産事業 としては,後者の 無禄士族であった工藤轍郎や 中嶋勝次郎による開 墾事業があげ られ る。

まず,工藤轍郎による荒屋平開墾事業であるが, 荒屋平は七戸町 と十和田市洞内にまたが る原野の 通称である。轍郎は1

8 81

年か ら開墾事業に着手 し よ うとす るが, 当時,荒屋平は周辺の集落の人々 が利用す る放牧場であったため, これ らの利用者 の同意を取 り付 けることか ら始めた。そ して1

8 83

年に青森県‑開墾地所拝借願及び上水路掘削に関 す る願いを提出す る。だが, この土地は将来御料 地に予定 されていることで却下 され る。それで も

あき らめず,青森県令郷 田兼徳に陳情 し, さらに 郷 田の上京に際 しては随伴 し,政府関係各方面 に 陳情 し,ついに1

88 4

年,荒屋平開墾の許可を得る。

その後, さまざまな困難を乗 り越 え,開墾地は昭 和期まで拡大 された19)0

次に, 中嶋勝次郎による天間林村 中野の開墾事 業であるが, この事業は1

8 66 ( 慶応 2)午, 中野

の原野 を盛岡藩が勝次郎の父である弥六に下付 し てか ら始 まるが,戊辰戦争において盛 岡藩が賊軍 とな った ことで,政府 に官有地 として没収 された。

その後,勝次郎は何度 とな く官有地払下げを願い 出,1

87 6

(明治

9)年 に許可 された ことによ り本

格的な開墾事業が開始 され る。 当初,人夫は岩手 県花巻 よ り数十人を雇用 して開墾 し,水田23

8

反歩,畑60町歩余を開き,それか らも継続 して 自 らも耕作に従事 し, また,農事の改良を施 し,合 計8

0

町余の開田をな した20)0

工藤轍郎や 中嶋勝次郎の活動は御給人 として, その土地 に土着 していた士族が,開墾事業取組に 不屈の精神を持 って,官有地払下げや資金援助の ため県や政府 と交渉 し,地域 の指導者 となってい く姿が伺 える。

(5

) 旧八戸港士族の士族授産事業

八戸港は,藩の所有地が官有地に編入 され るの を見越 して,廃藩置県直前 にあ らか じめ山林な ど を藩士に分与 してお り,そのため秩禄処分に際 し て もす ぐに生活に支障をきたす者はほ とん どなか

った よ うである。 これ は前掲の青森県下窮民状況 において 「八戸ノ士族ノ如キハ全国無比ノ富豪 ノ 士族ニシテ莫大ノ土地 ヲ所有 シ,殆 ン ト農貴族 ノ 姿 ヲ為スモ ノ多シ」 21)と報告 されていることか ら 知ることができる。

さて, 旧八戸港士族による士族授産事業である が, これ まで資料が十分に発掘 されていないため, 実態は明確 に見えて こないが,県下他藩士族 らの 授産事業 と同様な動きはあった よ うである。

第 1

に開墾 ・牧場経営事業 としては,1

87 8

(

11)

年設立の小国牧場淘牧社があった。 この牧 場は, 田子村の有志が県の奨励によって,牛種改 良 と地方物産の繁盛 を計 り

,1

5

円で1

3 6

株の資 本金を集め,県か ら

5, 641

円の補助金 と地盤5

3 3

5

反歩を借 り受けて始め られた。のちに八戸経済 界の中心人物である浦山太吉が譲渡を受 け,事業 を継続 したが失敗に終わっている22)0

第 2

に国立銀行の設立 としては,1

87 9(

明治1

2)

(6)

9 4

宮本 利行 ・北原かな子 ・肥田野 豊 ・北原 晴男 年に旧八戸藩士の利殖団体であった鶴令社 を母胎

として設立 された第百五十国立銀行がある。 当初, 旧八戸藩士 らは,第五十九国立銀行‑共同出資す る計画であったが,第五十九側 に,資本金の制約 か ら他藩士の出資は受 け入れ られない と断 られた ため,独 自の銀行を設立す ることになった。設立 時の頭取には八戸経済界の中心人物である富岡新 十郎が就任 し,実務には野崎和治が 当たった。株 主の半数以上は士族 によって 占め られ, 当初の経 営は順調だ ったが

,1 8 8 8

年に設置 した東京支店が 業務拡張政策か ら巨額の貸倒金を出 し

,1 8 9 1

年に 営業停止を受 け,その後減資 し

,1 8 9 6

年 に営業所 を石川県輪島町に移転す る23)0

3

は製糖業を営む成美社の設立である。製糖 業は,鹿児島,長崎,愛媛,な ど西 日本の士族結 社で盛んだ ったが,東北で も岩手県の盛岡興産社 で行われていた24)。成美社は

1 8 8 0

年 に旧八戸藩士 族小山田源内,神右門,福 田祐寛 らが 中心 となっ て設立 され る25)。製糖 には,琉柏甘煮,産粟が原 料 とな り, 同年

3

月に大坂で開催 された綿糖共進 会の砂糖之部に出品 し

,7

等褒賞を受 けている26)0 ちなみに社 名は青森県第二課課長の吉田氏が 「

糖ハ結晶シテ愈美味 ヲ成 ス,製場ハ結構 シテ益美 薬 ヲ成 ス,社員ハ結合 シテ遂二美薬 ヲ成 ス」27)と

の考えか ら命名 した ものであった。成美社は明治

2 0

年代までは存在が確認 されているが,その後製 糖事業は採算が合わず解散を余儀な くされた よ う である。

筆者の知る限 り,成美社 に関す る研究は発表 さ れていないので,今後明 らかにす る必要があるだ

ろ う。

以上のよ うに, 旧各藩士族 ごとに青森県下の士 族授産 についてのべてきたが,本県における士族 授産事業は, 旧弘前藩士族 らによる 「農牧社」の 経営,旧斗南藩士族授産のための 「三本木原開墾」, 旧斗南港士族広沢安任 による 「西洋式牧場 (広沢 牧場)」の経営,旧七戸藩無禄士族 による「荒屋平」・

天 間林 村 中野」の開墾, 旧八戸港 士族 に よる

小国牧場」の経営 と, 内務省の東北地方の原野 開墾に重点を置 くとい う政策方針に沿 った形で展 開 された といえる。その一方で,織物業,養蚕 ・ 製糸業,製糖業な どを起業 した士族 らの活動 もあ

ったo

次項では,特に旧弘前藩士族 らの動向を,東奥 義塾に招聴 されていた外国人教師 らの活動を通 し てみてみたい。

4.

旧弘前藩士族の外国人教師の記述にみ る士族 授産の試み

前述 した よ うに,明治初年の弘前藩財政は,き わめて逼迫 した状況におかれた。その大きな一因 をな していたのは,戊辰戟争 に関わ る軍事支出で ある28)。戊辰戟争の うち,明治元年の東北戦争か ら同 2年の箱館戟争 に至 るまでの弘前藩戦費支出 総額 は,藩の歳入額 を超過 し,政府か らの償還額 も,藩の財政負担を軽減す るものではなか った。

これに旧来の古借財 も加わ った。 さらに明治

2

には天候不順 による飢健 ともなった。 こ うした状 況の中で,禄制改革,帰 田法な どが実施 されたが, 決 して生活 を支えるに潤沢な ものではな く,弘前 藩士族はきわめて困窮 した状態におかれた。 こ う

した状況を,東奥義塾29)第二代 目外国人教師 とし て明治

7

年に弘前に滞在 していたアーサー

・ C.

ックレ‑ 30)は次のよ うに描写 している。

こ うした労働者 [旧士族]たちが置かれた 惨 めな状況の一例 を挙げま しょう。私 は弘前 市内を歩いている とき, しば しばタオルで顔 を隠 した人たちを見か けま した。いったいあ れは何だ ろ うと尋ねてみた ら,彼 らは田圃か ら帰 って くる途 中の貧 しい侍たちである とい うことで した。彼 らは非常に彼 らの置かれた 状況に屈辱 を感 じているために,人に顔 を見

られた くない とい うことだ ったのです31)0

この状況下では,東奥義塾 に教師 として着任 し たキ リス ト教宣教師たちも,単にキ リス ト教 と学 問的内容を教 えるに とどま らず,士族たちの生活 基盤 を支える産業開発に関す る事柄の指導に も力 を貸す ことにな った32)。特 に第

3

代 目外国人教師 として東奥義塾で教鞭を執 ったジ ョン ・イングは, 学問的内容のみな らず, リンゴや レタスな どの果 樹や野菜を弘前の人々に伝 え,量法や鉱物学 も 教授 した と伝 え られている33)Oそれ を裏付 けるか の よ うに,現在の東奥義塾高等学校図書館資料室 に残 されているイ ングの寄贈書34)の中には,各鉱 物の特色な どが詳細に書かれ るな ど,明 らかに鉱 物 学 の 専 門 書 と 目 され る本

( Da na ,J a me sD. ,A

S ys t e m o f ML ' De l do g y: De s ‑bt wC ML ' De t a l o g y

,

co mpn' s J ' D gt J Z eMo s tRe c e nt DJ ' s c ov e n' e s)

が入 ってい る。 これは出版年が

1 8 7 5

年であ り,イ ングが弘前 にきたのは

1 8 7 4

1 2

月であることか ら,イ ングが 弘前で生活 している間に,何 らかの必要があって

(7)

取 り寄せた ことが確実な本である。表紙裏のイ ン グ の サ イ ン の 下 に 自筆 と見 られ る 筆 積 で,

Hi r os a ki , Åu g. ,1s t .1 87 6J a pa n

との書 き込みがある。

おそ らくイングが東奥義塾 に着任 した後に私費で 購入 した ものを寄贈 してい った と推察 される。東 奥義塾には,他にも地学関係書籍 として同じ著者35)

による本

( Da na ,J a me sD. A Te xt ‑ Boo ko fGe o l o gy)

があるが, しか しこち らの方は,地質関係の入門 的概論書であ り,前述の本 とは内容的にかな り趣 を異にす る。

地学を専攻 したわけではないイ ングが, どのよ うに してこ うした専門書を購入 したのか,そのい きさつは不明である。 しか し,イ ングは弘前に滞 在 中,近隣に住む外 国人たち とある程度の交流は もっていた。その中には,鉱 山技師 も含 まれてい た ことが,明治

8

6

月1

5

日にイング夫人によっ て書かれた手紙の内容か らわかる。イ ング夫人は 次のよ うに伝えている。

私は先週,私たちの隣人であるカーライル 氏か ら手紙 を受け取 りま した。彼は ここか ら

60

マイル離れた

「 oog uz a 」鉱 山の技師を して

います。彼は以前カ リフォルニアで金銀の採 掘に従事 していま したが,今は鉱 H技師 とし て月給41

5

円に住居食事付 き とい う待遇で,日 本政府 と三年の契約 を結んでいます。 (中略) 彼は とて もよい隣人で,.私たちに新聞な どの 包みを送 って くれ ます。学校の人たちは,私 たちが

8

月の夏休み 中に彼の ところを訪ね る ことができるよ う,東京で許可書 を申請 して くれています。 もし,幸いな ことに許可書が 取れた ら,彼の所に行 く途 中, ここか ら

2 5

イル離れた小坂鉱 山にいる, もう一人の隣人 であるネ ッ ト氏の ところ も,訪れたい と願 っ ています36)0

上記文 中のカーライル

( Ro be r tG.Ca r l yl e )

とは, 工部省鉱 山寮 と契約 を結 んで来 日した人物 であ

37),また,ネ ッ ト氏 とは明治

6

年 よ り小坂鉱 山 に勤務 していた ドイ ツ人Cur

t Adol phNe t t oの こ と

と思われ る38)。実際にイング夫妻が明治

8

8

の夏休み にカーライルを訪ねたのか ど うか不明だ が,カー ライルは この手紙が書かれた後間 もない 明治 8年 8月11日に病死39)しているので,カーラ イル との交流 自体はおそ らく短か った。 しか しネ ッ トの方は明治10年10月に東京大学理学部採鉱冶

金学教師 として転出す るまで,小坂で勤務 してい 40)。 ここに出て くる二人はいずれ も鉱 山専門技 師 として 日本政府か ら招聴 されていた人物であっ た。

イ ングが鉱物学の専門書を購入 した背景に, こ うした鉱 山学専門家 との交流があった ことは少な か らず影響 した もの と考え られ る。上記の内容の ほかに も,た とえばカー ライルか ら贈 り物 をもら うな ど,物質のや りとりもあった ことをイ ング夫 人が伝 えている。問題 となるのは,なぜイ ングは この本 を取 り寄せ る必要があったのか, とい うこ とであろ う。 これに関連 して, 当時の弘前港内の 鉱 山の状況を述べておきたい。

現在はすでに閉山 して しまった ものの,かつて 弘前藩領に鉱 山は存在 し,弘前藩の大 きな財源で もあった41)。幕末の津軽 を代表す る蘭学者であっ た佐々木元俊 も,硫黄精練や石炭採掘な ど様々な 鉱山開発を行な っている42)0

廃藩置県以降,青森県では県内鉱 山の開発に取 り組む ことに し,明治

6

年には県内の調査が行わ れ た。 また,明治1

4

年 には,ナ ウマ ン

( Edmu nd Na u ma nn)が弘前近郊 の尾太鉱 山や秋 田県の太良

鉱 山に地質調査 を行っている43)。イ ングが弘前に 来たのは, こ うした時期であった。イ ングは 「 塊 を路上に拾ひて破物撃 を講 じ44)

」た と伝 え られ

るが,その具体的な例の一つ と見受 け られ る内容 が,長尾周庸の 日記 に書かれた次の一文である。

明治九年六月十七 日

宮館村領の内相青色之如き土の出る処有是 珍敷一品土俸 [介一郎]等兼々分析用方可有 之敗 と中居た り (中略)今度青森江御巡幸之 節北岡博覧会相聞候 と申幸二付可差出心得こ て大道寺区長北岡有格義塾教師米人エ ング夫 婦其外生徒等実地踏査の為め同村江来れ り45)

ここで同道 した と名前がでて くる人々の うち, 東奥義塾関係者は,長尾介一郎のみであった。大 道寺繁禎は,反キ リス ト教の立場を取 り,後に東 奥義塾関係者 と真 っ向か ら対立す ることになる人 物である。 当時のイ ング夫妻は,単なる東奥義塾 の教師 とい う立場を越 えて,地域の指導者的な存 在になった時 もあった ことが, この ことか ら推察 され る。 また興味深い ことに,イ ング去 った後 明治

1 2

年か ら東奥義塾に着任 した第

5

代 目外国人 教師のカール も地質学に興味を持 った とい う記述

(8)

9 6

宮本 利行 ・北原かな子 ・肥田野 豊 ・北原 晴男 を残 している46)。きわめて資料が少ないため, こ

れ以上の言及は困難だが,イ ングだ けではな く, カール も弘前に来た後,地質学に興味を もってい るのは,おそ らくそれだ けの理由があったか らで あろ う。イ ングたちを取 り巻いていた士族層に, 地域資源を開発す る動きが若干な りともあった と い うことではなか ったか と思われ るのである。

そのほかにイ ングと士族授産 との関連について は,上記のほかに,藍 に関す る内容を上げること ができる。イングが明治

1 0

8

月に母国の両親に 宛てた手紙の中には,次の よ うな部分が見受 け ら れ る。

私は今,藍を作 っています。 もし, うま く いった ら,その うち教 えてあげることができ る と思います。植物はよく育 っています。 こ の藍の葉は,染料 にす るため,腐食 させなけ ればな りません47)

東奥義塾教師のイ ングが,藍の栽培お よび染料 の製造に取 り組んでいる とい う内容である。 これ に関 しては,た とえば, この手紙が書かれた時期 の少 し前の明治

1 0

7

17

日の 『北斗新聞』3

5

に, 「産業記事」 として藍 を用 いた 「青黛」 48) 製造法 と思われ る記事が掲載 されている。 また, それか ら半年ほどた った,明治113月 9日の『北 斗新聞

』7 6

号に も,藍の製造方法に関す る記事が 掲載 されている。その冒頭の紹介文は次のよ うに なっている。

植藍ノ法相開ケ製藍 ノ方モ漸 ク密二赴キ固 ヨリ地二通 シタルモノナ レハ爾後益々盛 ンニ スへキモノニテ本県 ヨリ高知県二紹会セ ラレ シニ阿波国ニテ兼テ施用セ シ所左ノ方法書 ヲ 送 ラレシ ト聞キシカ培養家宜 シク講究アル‑

この紹介文か らわかるのは, 当時本県の,少な くとも北斗新聞の読者が多か った津軽地方 におい て,藍が土地柄 に適 している と考 え られていた こ と,及び藍を 「培養」「講究」している人たちがい た とい うことである。周知の通 り,津軽地方は, やがて敬業社によ りリンゴ栽培が盛んに行われ る よ うになってい くが,その以前に,産業開発の一 つ として藍に取 り組んだ士族たちがいた とい うこ とにな る。 この記 事 は,上記 の紹 介文 に続 けて

播種」方法, 「苗手入」方法が記載 されている。

明治

1 0

年代の藍の栽培が,藤崎地方で行われてい たことは,『藤崎町史』に詳 しいが,イ ングの手紙 の内容な どを鑑み る と,弘前で も行われていた こ とが窺 える。実際,明治11年に弘前市内の小学校 に学 田が作 られた49)とき も,和徳小学校では藍を 栽培 していた50)

5.

結びにかえて

本稿では,青森県下において明治初年に展開 し た様々な士族授産事業を見てきた。 また,従来, 東奥義塾教師,あるいは弘前教会宣教師 としての み捉え られがちであった外国人教師が, 旧士族階 級の人々 とともに地域の開発に関わる事柄 にも関 わ っていた ことを,彼 らが残 した書籍や書簡な ど をもとにみてきた。士族授産事業の中には,財政 的 ・方法論的問題 によって産業 として発展す るに 至 らず,途 中で潰えた もの も多い。その一方で, その土地 に暮 してきた士族たちが,それ まで地域 に蓄積 された経験 を生かそ うとして着 目した事業 もあったのではないか と思われ る。産業開発に関 わる科学技術が格段の進歩を遂げている現在,あ らためて旧士族達の着眼点に 目を向けることが, 新たな地域開発の可能性発見につなが らない とは 言いきれないのではないか。そ うした視点にたっ て,今後 さらなる資料発掘 に努めたい。

*本稿は,本学部教官北原晴男,肥 田野豊を含む 津軽藍研究会の うち,歴史部門を担 当す る宮本利 行 ・北原かな子が 中心 となって構成 した。主な執 筆分担は,本稿前半の青森県内士族授産関係部分 を宮本利行,後半の津軽地方 の外国人教師 と藍の 部分 を北原かな子が担 当 した。 また,最終的考察 は,全員の協議に よる。

1

)斗南藩の窮状を伝える資料は数多いが,たとえ ば,石光真人 『ある明治人の記録‑会津人柴五 郎の遺書

』(中公新書

,1 97

1)などがある。

2)

士族階級には,武士階級の他に官家 (皇室所属 の職員),神官および寺院家士も含まれた。( 川秀造 『士族授産の研究』有斐閣

,1 94 2

年によ る。)

3)

全訂改版士族授産の研究』(有斐閣

,1 94 2) 4)

明治社会政策史』(三笠書房

,1 94 0)

,『士族授

産史』(三笠書房

,1 94 2)

5)

士族授産史の研究』(清文堂

,1 98 8)

(9)

6) 「 内務省期 の士族授産政策 」( 『日本歴史』第4 92 号,1 9 8 9) , 「 士族授産の展開 と岩倉具視」 ( 『中 央史学』第1 2 号,1 9 8 9) , 「 士族授産金の府県別 貸与額 について」 ( 『中央史学』第1 4 号,1 991 ) 7) 1 8 71 年1 2 月1 8 日の布告 に よ り,士族 らは在籍 の まま 自由に農工商の職業 に就 くことが許 され る が,それ までは士族 らが農工商 を営む場合は, 必ず平民籍 に入 らなければ な らず, 士族の身 分のまま従事す ることは許 されなか った。

8)

青森県農地改革史編纂委員会『 青森県農地改革 史』 ( 農地委員会青森県協議会,1 952)p p. 5 6‑

58

9) 『明治財政関係資料』1 7 ( 京都大学文学部所蔵) 1 0) 弘前市史編纂委員会 『弘前市史』明治 ・大正 ・

昭和編 ( 弘前市,1 9 64)p. 88

l l ) 「 弘前興業社事業沿革」津軽家文書 ( 国立史料 館所蔵)

1 2) 青森銀行行史編纂室 『青森銀行史』 ( 青森銀行, 1 9 68)pp. 2 7‑4 00

1 3) 「 青森県旧弘前藩廃卒就産資金 ノ義二付伺

『公 文禄』明治1 4 年 ( 国立公文書館所蔵)

1 4) 前掲 『 青森県農地改革史』p. 8 2

1 5) 『 青森鯨史』第 6 巻 ( 青森県,1 92 6)pp. 8 5‑8 6 1 6) 前掲 『青森県農地改革史』p p. 82‑84

1 7) 前掲 『 青森県農地改革史』p. 84

1 8) 七戸町史刊 行委 員会 『 七 戸町史 』3 ( 七 戸町, 1 98 5)p. 231 0 ( ただ し, 当町史の七戸藩士族に 関す る記述では, 江戸士族 ・無禄士族の他に復 籍 士族 の 3 種類あ った説 と,盛 田稔氏が唱 える 無禄士族 と復籍士族 を区別せず 2 種類 とす る説 を並記 しているが,その後,盛 田説が有力 とな った よ うで, ここでは江戸士族 と無禄士族 の 2 種類 とした。

1 9) 前掲 『七戸町史』3 p p. 38 7‑41 2 0

2 0) 天間林村史編纂委員会 『天間林村史』下巻 ( 天 間林村,1 981 )pp. 791‑8 050

21 ) 前掲 『明治財政関係資料 』1 7

22) 「 浦山太吉 と小国牧場 一明治授産牧場 の一つの 瓦解過程 ‑」 ( 『奥南史苑』第 3 号,1 958) 23) 前掲 『 青森銀行史』pp. 1 9‑21 0

24) 前掲 『士族授産史』p p. 7 37‑7 40 0

25) 「 成美社決議」小山田家文書 ( 青森県立郷土館 所蔵)

26) 「 明治十三年綿糖共進会褒賞授与人名一覧表」

同上

27) 「 成美社設立仮規則草案」 同上 ( 傍点筆者) 28) 明治初年 弘前藩 の財政お よび経済問題 につ い

ては,坂本寿夫 「 明治初年弘前藩の経済政策に ついて」 ( 『国史研究』94 号,弘前大学国史研究 会,1 9 93, pp.9‑34)が詳細である。 また藩士 救済のための諸政策 に関す る先行研究 も, 同論

文 において詳細 に レビュー され ている. この弘 前藩財政については,坂本論文の研究成果 に基 づいて記述す る。

2 9) 弘前藩学校校舎,書籍類,教師陣な どを引き継 ぎ, 旧弘前藩主の援助 に よって明治 5 年1 1月に 津軽地方弘前 に設立 された私立学校。

3 0) A仙u

rC

.Ma c l a y( 1 8 53. 8. 1 4‑1 93 0. ll. l l ) 育 山学院初代院長で 日本 メソジス ト派伝道の中心 人物であ った ロバー ト ・サ ミュエル ・マ ックレ ーの息子で,明治 7 年 4 月頃か ら1 1月まで弘前 に滞在 した。明治1 0 年にア メ リカに帰 国。明治 1 9 年 に 日本の体験記 をま とめて 『日本か らの書 簡集』 として出版 した。 これ は優れた 日本論 と して高い評価 を得た とい う。 この本の中には明 治 7 年 当時の弘前が描かれていて, 当時を知 る 格好の資料 とな っている。詳 しくは北原かな子

「 若 き米国人教 師 と明治初期弘前‑アーサ ー ・ C. マ ック レt 『日本か らの書簡集』 よ り‑」

『 英学史研究』第3 0 号, 日本英学史学会,1 9 97 年1 0 月,pp. 61 ‑72, 「 明治初期津軽 の洋学受容

と米国人教師‑アーサー・ C. マ ックレーの 日本 体験記 を中心に‑」阿野文朗編 『ア メ リカ文化 のホ ログラム』,松柏社,1 9 99 年1 0 月,pp. 2 7‑

47 な どを参照の こ と。

31 ) Toi l l u s t r a t et h ee xt r e mec on t e mpti nwhi c hl a b ori s h e l d ,i nmywa l ksa r o un dHi r os a

kH

f r e q u e nt l yme t me nwh os ef a c e swe r edi s g ui s e dwi t ht owe l s ・Up on l n q ul r y

,I

wa si n f o r me dt h a tt h e ywe r ep o o r s a mwa j r e t u m in gf r o mt h e i rwo r ki nt h er ic e ‑ f i e l d s ,a n dt h e y we r es omo r t i f i e da tt h e i ro c c u pa t i o nt h a tt h e yd i d n otwi s ht ob er e c o g ni z e di np u bl i c ・

32) 本稿で以下 に述べ るイ ング と鉱 山開発 の内容 に関 しては,北原かな子 『洋学受容 と地方の近 代』( 岩 田書院,2 0 02)の第三章第‑節 の一部 と 重複す る内容があるこ とをお断 りしておきたい。

3 3 ) 彼は元米国騎兵少佐 に して宣教師 とな り,資性

忠厚義気に富める人であった。英語,理,化,

数,博物,史学 を据普 したが教授 に苦っては一

字一句皆肺肝 よ り出で,其歴 史講義 に於て忠孝

節義 の候 に至れば音馨顧動両眼涙を浮べ,一堂

の畢生為めに鳴咽す る事屡々あ った。 また彼は

自然科学 の教授 に普っては実地に付 いて新知識

を興‑,或は岩木山の高 さの測量法 を授 け又は

石塊 を路上に拾ひて碗物撃 を講 じ,又農業を奨

励 し,米国よ り トマ ト,アスパ ラガス, レタス,

キヤベ ジ, グーズベ リー各種 の野菜果樹 の種子

苗木等 を移植 し,特 に林檎 を始めて弘前 に紹介

し後 日鯨下随一の産業たるの濫腸 を開きたるは

特筆 大書すべ きで あ る。 ( 笹森順造 『東奥義塾

再興十年史』東奥義塾学友会,p p. 1 3‑1 4)

34) ほかにイ ングが寄贈 していった書籍 は,次の よ

(10)

9 8 宮本 利行 ・北原かな子 ・肥田野 豊 ・北原 晴男 うな ものである。

Sc h we gl e r , A lbe r t . ,t r a ms .J .H・Se e l ye: A

H

J ' s l o T yO f mJ ' J o s o ph yJ ' nEpl ' t O me ・

Hi a t t ,J .M. : m e Po J J ' t J ' c a lMa nu a l ,Co mpr J s J n g Nu mc T Ou SI mpo J l a I 7 l Do c u me nt sCo n ne c l c dwJ ' ( A t hePo J J ' l J ' c a l

HJ'sl

o r yo f A mc n' c a ・

She ppa r d,Fur ma n : 7 加 Co DS l J ' t u l J ' o n a J7 T e xt ‑ Bo o k:

A

PT a C l J ' c a J a I 7 d Fa m1 ‑ l l ' a r Ex po s J ' l J ' o I 7 0 f t he Co D S t J l u l J ' o DO ft h eUn ) ' l c dSl a l c s .

Cus hi ng , L S・ : Ru J c so fPJ 1 0 c c e d l ' I 7 ga ndDe b a t eJ ' D De J J ' b e J l a l J ' v eAS S e mb J J ' e s .

Sc o

t

t ,Col one lH ・L: ML ' J J '

l

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y DJ ' c l 1 ‑ o D a

ry.

Co p pe e ,He n r y:EJ c mc Dl SO fRhe l o n' C , ' Dc s J ine da s a Ma I 7 u a Jo fl n s l T u C L l ' o D.

35) 著作者のデーナ ( J a me sDwi ghtDa na ) は,鉱物 学者,地質学者 として世界的 に有名であ った。

( 今井功『奉明期 の 日本地質学』 ,ラティス ,1 968 , p. 26)

0

36) Ir e c e i ve dl a s twe e kal e t t e rf r om ournei ghb

or

,M r . Ca r l yl e ,a nen gl ne e ra tOoguzami ne s ,a bouts i xt y mi l e sf r om he r e・Hewa sf om e r l ye nga ge di ngol d a nds i l ve rmi nl ngi nCa l i f omi a ,i snow unde rat hr e e ye a r se nga ge me ntt ot hi sGovt .a sMi ni ngEngi ne e r

,

s a l a r y41 5ye nspe rmont hwi t hhous ea ndf ood‥・ ・

MT

・ C . ,i sagoodne i ghbor ,s e ndi ngus pa r c e l sof home pa pe r s ,& C. The s c hoola ut hor i t i e sha ve a ppl i e d ( a tTok i o) f orapa s s ,f orust ov is i tM r . C.dur i ngourAugus tva c a t i on.Ont hewa y ( I fs o f or t una t e a st o obt a i n apa s s ) wehope t o vi s i t a not he rne i ghb or ,Mr .Ne t t o,a tKos kami ne s ,a bout 25mi l e sf r om he r e.

I ng,Luc yH Mor ef r om J a pa n. " GJ l e e I 7 C a S l J eBa n ) 7 e r

,

Augus t5,1 875.

37) ユネ スコ東ア ジア文化研究セ ンター『資料御雇 外国人』( 小学館 ,1 975)p. 249. ここではカーラ イルの給料が 450 円 ,41 5 円の二つの記述がある。

時期,あるいは勤務 した場所 によって変更 にな った もの と考 え られ る. カー ライルの雇用期間 は明治 6年 8月 24 日か ら三年間であ った 38) ユネ スコ東ア ジア文化研究セ ンター『資料御雇

外国人』 ( 小学館 , 1 975)p. 344 0

39) ユネ スコ東ア ジア文化研究セ ンター『資料御雇 外国人』 ( 小学館 , 1975)p. 249 0

40) ユネ スコ東ア ジア文化研究セ ンター『資料御雇 外国人』 ( 小学館 , 1 975)p. 3440

4 1) 弘前藩時代の藩領 内鉱 山開発については,弘前 大学教授長谷川成一氏による詳細な研究がある。

このイ ング と地学関係 の部分は,長谷川研究か ら多 くの教示 を得た。

42) 竹 内運平 『郷土叢書第六輯 佐 々木元俊先生』

( 大 日本同志骨青森鯨支部 ,1 943) 。 この本に よ る と佐々木元俊 はオ ランダ語の 『 地学全書』を 訳 してお り,その中には坑道の掘 り方,鉱石の 運搬法,な ど鉱 山関係についての内容が記 され ていた。 さらに鉄の精練関係の本 を著 した とも 伝 え られ る。 また,本の著述 のみではな く実際 の開発 にも従事 してお り,西津軽郡舘岡村海岸 の 「 石炭の如き香を発 して燃 る」石炭の よ うな

「 黒い土の層」 を発見,調査 した ことに始 ま り, 弘前近郊の久渡寺のマ ンガ ンの発見,百沢村の カルキ磯製造等様 々な業績 を残 している。 この 当時の津軽にはその他 に も,岩木 山での硫黄精 練, 同様 に岩木 山に近い 目屋,赤沢地方 の石炭 採掘な ど様々な鉱 山開発が行なわれ ていた。( 同 書 p. 1 6 による)

43) 今井功 『奉明期の 日本地質学』 ( ラティス発行, 1 968)p. 87.

4 4 )

注33参 照

45) 「 津軽長尾 日記抄」( 函館図書館所蔵史料)この 史料及び解読文は,沼津市在住の兼松成一氏の 提供に よる。

46) 1 880 年 6 月 1 3 日 は じめて ここを訪れ てか ら 一年が過ぎた。今,地質学 に興味 を もってい る。

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48) 明治 1 0 年の 「 各府県勧業着手概況書」の うちの, 青森県分の報告に も 「 青黛」の製造状況が報告

されている。土屋喬雄 『現代 日本工業史資料』

第一巻,労働文化社 , 1 949, pp. 1 47‑148.

49) 『文部省第六年報』 ( 宣文堂 , 1 965)

50) 千 葉 寿 夫 『小 学 校 現 場 の 百 年

津 軽 書 房, 1 975, pp. 7

1

‑73,

*なお,本文中の引用資料は読みやす さを考慮 して, 筆者が適宜読点を付 したQ

( 2002.1. 15 受理)

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