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― ― 「新詩語」の形成(5)

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(1)

「新詩語」の形成( 5 )

―写真的感性と魯迅の「悲哀」(Ⅰ)―

山 本   明

 荒野には多くの焼かれた紙の灰があり,古 い壁には何枚かの絵がある.通り過ぎるたい ていの人は気づくとは限らないが,それぞれ に意味が隠されている.それは愛であり,悲 哀(悲哀)であり,憤怒であり……そしてそ れは往々にして,叫ぶよりもっと強い(猛烈)

ものだ.その意味がわかるものも幾人かはい た.

―「深夜に書く」(「写于深夜里」)1 )

 書かれたはずの多くの言葉は,焼かれ失われて いく.しかし,古い壁の絵の中に,圧縮された言 葉は残る.そこから解凍されえた言葉は,叫び垂 れ流される言葉より,もっと強い.静止画像の感 性のフィルターで濾過され,一度転換された言葉 は,反復して発見される.1 次的な生なまの言葉より,

もっと強い.画像を仔細に見つめることで,見出

された「もっと強い」言葉とは,どのような言葉 なのか.見出された「悲哀」は,なぜ強いのか.

 引用部は魯迅が亡くなる半年前,ケーテ・コル ヴィッツの版画「犠牲」を解説したものである.

と同時に,題名が象徴するように自己の創作活動 を総括したものでもある.叫ぶより「もっと強い」

言葉を追い求めてきた34年間を,総括しうる言葉 を模索した時,「悲哀」が見出されたのである.

 例えば,画像を見つめて圧倒的感覚にうたれて いる時,言葉で画像と戦うなら 3 つのスタンスが あろう.第 1 に勝負から降りるスタンスである.

画像の作者や時代背景など伝記的事実を説明す る.モチーフやテーマを説明する.言葉は単に説 明の道具となる.第 2 に勝負はしても,画像とは よつに組まないスタンスである.画像と直接的に は関係のないテキストをコラージュすることで相 乗効果をえる.第 3 に正面から勝負するスタンス である.画像を説明しながら,つまり画像に従属 する図解に見えながら,言語が画像に勝る可能性 を模索するものである.

 魯迅は 5 年で 3 度にわたり 1 枚の画像「犠牲」

と対峙した.その間,画像に対するスタンスは変 化した.にもかかわらず, 3 度にわたり唯一共通 している言葉が「悲哀」なのである.「悲哀」は 1 ) 以下の拙訳は全て,原文の文体的特色を明かにす

ることを優先しており,所謂和訳とは性質を異に する.また原文の引用は,魯迅の修正を問題とす る箇所以外は『鲁迅大全集』长江文艺出版社,2011 年による.

(2)

スタンスの変化が顕在化する露頭であり, 3 度め に用いられた「悲哀」は,そこに到る変化のプロ セスをも内包する言葉となっている.

A 《牺牲》即木刻《战争》七幅中之一,刻 一母亲含悲献她的儿子去做无谓的牺牲.这 时正值欧洲大战,她的两个幼子都死在战线 上.然而她的画不仅是“悲哀”和“愤怒”,到 晚年时,已从悲剧的,英雄的,暗淡的形式 化蜕了.

 ―「凯绥·珂勒惠支木刻《牺牲》说明」1931年

B 当《北斗》创刊时,我就想写一点关于柔 石的文章,然而不能够,只得选了一幅珂勒 惠支(KatheKollwitz)夫人的木刻,名曰

《牺牲》,是一个母亲悲哀地献出她的儿子去 的,算是只有我一个人心里知道的柔石的记 念.

―「为了忘却的记念」1933年

C 第一本上,有一幅木刻画,是一个母亲, 悲哀的闭了眼睛,交出她的孩子去.

―「写于深夜里」1936年

 起点は1931年のAであり,柔石が虐殺されてか ら半年あまりで発表された.しかし,未だ題名通 り,画像の「説明」しか存在しない.先ずは「含 悲献(悲しみを帯びて捧げる)」,「无谓的牺牲(無 意味な犠牲)」と母親が子供を掲げる図像を説明 する.次に,第 1 次世界大戦で自身の子供が戦死 したコルヴィッツについて説明する.この段階で は, 1 次的感情と差別化するため引用符が付され た,モチーフとしての「悲哀」と,画像の説明と しての「含悲」とが分裂して出現しているのであ る.

 1933年のBは柔石が処刑された 2 年後の命日に 執筆された.画像とは直接関係のないプロットが コラージュされる.友人から批難されても実家で の介護を優先するような息子を,視覚障害者であ る柔石の母は,犠牲として捧げる結果となる.題 名の「忘却のための記念」とは,柔石の記念を意 味する.更に,柔石が虐殺された当初,魯迅は記 念する文章が書けなかったために,Aの時点では

「犠牲」の画像の中に言葉を隠し,「無言のキネン

(无言的纪念)」としたプロットも付加される.A ではモチーフの説明に用いられていた「悲哀」が,

画像の記述へと移行している.「無意味な犠牲」

という説明も削除された.しかし「悲哀」が修飾 するのは「捧げる」という動詞であり,説明的ス タンスに未だ変化はない.

 1936年のCに到り 5 章に分かれ,コルヴィッツ と柔石の母親,魯迅の無言のキネンプロットに加 え,更にコラージュが増殖した.例えば,22人が 処刑されて同獄の青年も拷問にあい,血だらけの 手とその表情の影像が,釈放後も「いつも眼前に フラッシュしてしまい,それが私に忘却を許さ ず,私に苦痛をあたえる(还时常浮在我的眼前,

使我难于忘却!使我苦痛!)」曹白の「座牢略記」

である.その上で「犠牲」の画像を記述するに当 たっては,「目を閉じて」という価値付けを排し た描写が加筆された.「捧げる」も「わたす」と いう価値付けを排した動詞へと変化した.このよ うに客観的動作描写へと移行した中で,唯一残し たのが「悲哀」なのである.その結果,A,Bと は異質な,ある虚偽が生じてしまうことになっ た.

1  何も身にまとわず目を閉じて立ち,子供 を差し出している.子供を犠牲にすること を望む母などいるはずがない.これは強制

(3)

され,悲痛な思いで子を犠牲に差し出す母 の姿―当時の彼女自身の姿であった.

―志真北美恵『ケーテ・コルヴィッツの肖 像』2 )

2  黒いマントを剥ぎ取った母親,子供を妊 娠し,乳を与えたために腹部がふくらみ,

乳房がたるんだ女性が,目をつぶって,そ の赤子を犠牲として差し出している.聖母 マリアも幼子イエスが人類のために犠牲と なることを知っていた.

―若桑みどり『ケーテ・コルヴィッツ』3 )

 いずれも「目を閉じる」との描写はあるが,悲 しげなどという修飾句はない.当然である.画像 は無表情であり,黙説化によってこそ感情は無限 の強度と定義不能な複雑さを獲得しえたのだか ら.ピエタのモチーフで生な感情を露出すれば,

崇高さは失われるようにである.魯迅が用いた

「悲哀」が 1 次的感情を表す語彙であれば,画像 の説明としては偽りとなる.

 一方で,他者は用い,魯迅は用いなかった言葉 もある.

3  在这种情况下,她创作了许多悲伤母亲的 形象,宣传反战思想,也纪录下了20世纪初 期德国底层人民生活的悲苦和艰难.―中略

―《牺牲》这幅版画刻画了一个母亲悲痛地 献出她的儿子,去为战争做无谓牺牲的场 面.画面气氛凝重,深沉,富于激情,母亲

悲痛欲绝的神情是对战争最强烈的控诉和声 讨.

―翟文明「凯绥·珂勒惠支高清作品《战争·牺 牲》」4 )

  3 も,魯迅のAと類似する.先ずは画像を説明 して「献(捧げる)」,「无谓的牺牲(無意味な犠牲)」

と価値付けをし,モチーフを「悲傷」や「悲苦」

で説明しているからである.加えて,動作に「悲 痛」が付され,表情にも「悲痛欲绝」が付されて いる.表情の黙説化された画像が,畳みかけるリ ズムで「激情」へとデフォルメされている.

 つまり悲しみの強さを説明するなら,上記のよ うに誇大で一義的な語彙や,畳みかける文体も,

選択肢としてあった.しかし魯迅は「悲哀」を選 んだばかりでなく,AからCの文体へと移行した.

 Cの文体とは第 2 ,第 3 スタンスが融合した形 態である.画像内容とは断層があり,しかしいづ れも贖罪感を突きつけてくるプロットがコラー ジュされるにつれ,内圧が高まっていく.そして 空間芸術でありながら時間的内圧をも内包したそ のような画像に,拮抗しうる言葉が模索される.

 墳墓の間に座るセルフポートレイトが示すよう に,魯迅の内面に贖罪意識を蓄積させていく犠牲 者は柔石に止まらない.「眼前にフラッシュする

(浮在我眼前)」は複数の作品で用いられる.そこ に出現するのは,犠牲となった多くの友人達であ り,匿名の人々である5 ).そもそも多くのプロッ トと膨大な言葉が書かれぬままに圧縮されてい る.そこで魯迅は「犠牲」という「絵」を選んだ.

2 ) 志真北美恵『ケーテ・コルヴィッツの肖像』績文 堂出版,2006年,180頁.

3 ) 若桑みどり『ケーテ・コルヴィッツ』彩樹社,

1993年,100 ~ 101頁.

4 ) https://www.mei-shu.com/famous/26522/

artistic-180444.html

5 )「在北京被捕的消息,他的圆圆的脸和中国式的下 垂的黑胡子便浮在眼前,不知道他现在怎么样」(「庆 祝沪宁克复的那一边」),「多少故人的脸,都浮在我 眼前」(「头发的故事」),「独有这一件小事,却总是 浮在我眼前,有时反更分明,教我惭愧,催我自新,

并且增长我的勇气和希望」(「一件小事」).

(4)

画像の説明を通じて,言葉は解凍されて流れ出 す.しかし,魯迅は非抑制的な「叫び」を許さな い.「悲哀」は 2 度にわたる改作を経て,「説明」

から「象徴」へと変質した.

 表情を黙説化することで感情の強度を象徴しえ た画像に,一語で拮抗しうる言葉.モチーフの説 明を必要とせず,畳みかける文体も必要とせず,

一語で画像に拮抗しうる言葉.「説明」の言葉か ら「象徴」にもたえうる言葉へと変質した言葉.

更に,犠牲者たちが次々と堆積してく過程,その 時間的プロセスをも内包することで,画像より多 義性と強度でむしろ勝る言葉.それが「悲哀」で あったといえよう.そのように「もっと強い」言 葉として,魯迅の「悲哀」は錬成されていったと いえよう.

 魯迅の「悲哀」は変化する.それは上記のよう に同一モチーフ内に止まらない.作品内では「悲 涼」から「悲哀」へと変化し,通時的には「寂寞」

から分化し,「無聊」と合わせ鏡のように立ち現 れる等,他の語彙と差別化する操作により変化し ていく.これが意図的操作によることを,変化の プロセスを明らかにすることで検証したい.

 検証の第 1 工程では,「悲哀」と共起する言葉 の中から,「悲哀」と継起的,因果的関係が認め られる「無聊」,「寂寞」,「悲涼」を抽出し,「悲哀」

を含めた魯迅全集における全量調査を行う.その 結果に基づき,作品内のみならず経年的に「悲哀」

がそれらの語彙とどのような関係を結んだかを明 らかにする.

 第 2 工程では,先ず日本において「悲憤慷慨」

から「煩悶」を経て「悲哀」に到った流行語の推 移が示す時代的感性の変化,及び「悲哀」の 3 大 論争のアウトラインを描く.次にそのプロセスが 魯迅の中でどう受容され変容したのか,日本語の

「悲哀」の訳し分けをも手掛かりにして明らかに する.論争のプラットフォームとなった日本語の

「悲哀」の多義的地図の中に,魯迅の「悲哀」の 同質的座標点を捜すことは,逆に異質さをも顕在 化させるであろう.

 第 3 工程では,中国における自然主義派と浪漫 主義派の「悲哀」論争,保守派と新文学派の「悲 哀」論争,及び魯迅が参加した「悲哀」論争のア ウトラインを描く.中国語の「悲哀」の多義的地 図を日本語の「悲哀」論争地図と比較することを 通じ,魯迅の「悲哀」の座標点が総合的に明らか になるであろう.

 以上の作業を通じて魯迅の「悲哀」の対極点に 郭沫若の「悲哀」を措定し,意味的差異に止まら ない価値付けを行いたい.なぜなら,郭沫若の

「悲哀」はモーションピクチャーの 1 コマのよう に,他の場面や感情を次々に召喚する装置とな り,動態的文体を可能にしたからである.それに 対し,魯迅の「悲哀」は不可逆的一瞬と共起し,

それを仔細に見つめることで内包するプロセスが 解凍される装置となっているからである.つまり

「悲哀」は,動画的感性と写真的感性の差異を語 る射程を持つ構造的語彙でもあるとの仮説を筆者 は有している.

 この荒唐無稽な仮説は,「「新詩語」の形成」に 関する考察と,写真的感性が魯迅の文体に与えた 影響に関する考察の「交錯点」に生まれた.

 「「新詩語」の形成」シリーズは,近代における 新たな感性を表現するため,作家たちが新たな文 学的な言葉「新詩語」を開拓する過程を明らかに した一連の考察である.spleenやmelancholyとい う感性,生命主義やvitalismという哲学などを中 国語で受容するためどのような試行錯誤を経て特 定の語彙に収斂させ,新たな文学的用語へと錬成 したかを跡付けたものである6 ).本稿はその 5 番

(5)

目に位置する.

 一方,写真的感性が魯迅の文体に形成に与えた 影響についても 3 本の論考を重ねてきた.語彙の 面からは「記念」と「紀念」,「図解」など,反復 異化という魯迅の中核的方法を担う言葉の抽出を 通じ,写真的感性の影響を論じてきた.更に個人 文体の核となる文脈と写真的感性の親和性を論じ てきた7 )

 前述の 3 つの工程は 1 篇の論文の量的限界を超 えている.まずは本稿で第 1 工程まで,つまり魯 迅が「悲哀」を「新詩語」へと錬成するプロセス を明らかにする.次稿以下で第 2 ,第 3 工程の作 業を行い,魯迅の「悲哀」が写真的感性の露頭と もなっていることを証明する.これらの 3 篇を以 て,「交錯点」を造形したい.

1 .魯迅における「悲哀」へのプロセス 1 - 1.「無聊」から「悲哀」へ

 散文の精神が,凝視の精神であるとするな らば,魯迅の第 2 小説集『彷徨』にあっては,

それは「無聊」によって表現されるであろう.

そして先に考察した観念化の傾向,対自的な 表出への傾斜をたどりつつ,「無聊」はやが て凝集的,求心的な「寂寞」あるいは「虚空」

となり,さまよいを重視する発想の凝視の文 体はやがて求心的な発想のうたう文体となる ことによって,作品的にこの「無聊」と訣別 せざるを得なかった.かくて小説家魯迅は,

内発的には「無聊」と乖離することによって,

詩人として『野草』をうたい,批評家として 雑文による行動の場へふみ出ることになる.

―蘆田孝昭「彷徨中の無聊 魯迅ノート

(下)」8 )

 魯迅の「無聊」には,詩的発想とは異なる,散 文的精神を象徴する語彙との見方が存在する.実 際『彷徨』に収められた11作品は1924年 2 月 7 日 から1925月11月 6 日の間に書かれており,表 1 か らもこの時期,「無聊」の用例数の増加が確認で きる.ただ,本稿で第 1 に付け加えたいのは,「凝 集的,求心的」文体へのプロセスのたどり着いた 先が,「寂寞」なのかという疑問である.「寂寞」

と「悲哀」の類義的共起から,「悲哀」の独立と 深化のプロセスは後述する.ここでまず着目した いのは,『彷徨』のむしろ翌年に出現した「無聊」

の第 1 ピークである.「無聊」から「悲哀」への プロセスが確認できるからである.第 2 に付け加 えたいのは,第 2 のピークが持つ意味である.

 「無聊」は,1904年から1936年の33年間にわたっ て全246例が存在し,「悲哀」全136例の1.8倍とな る9 ).その「無聊」が突出する時期がある.第 1 6 ) 山本明「「新詩語」の形成―郭沫若の「悲哀」を

めぐって」『早稲田大学大学院文学研究科紀要別冊 第19集文学・芸術学編』早稲田大学大学院文学研究 科,1993年.「「新詩語」の形成( 2 )―戴望舒の『憂 鬱』をめぐって」『中央大学論集第17号』中央大学 出版部,1996年.「「新詩語」の形成( 3 )―徐志摩 における「癡」へのレトリート」『二三十年代中國 と東西文藝:蘆田孝昭教授退休紀念論文集』東方書 店,1998年.「「新詩語」の形成( 4 )徐志摩の「生 命」をめぐって」『人文研紀要第48号』中央大学人 文科学研究所,2003年.

7 ) 山本明「魯迅の文体と写真的感性」『中央大学論 集第40号』中央大学出版部,2019年.「魯迅の文体 と写真的感性( 2 )」『中央大学論集第41号』中央大 学出版部,2020年.「魯迅の文体と写真的感性( 3 )

―文脈論初探―」『人文研紀要第95号』中央大学人 文科学研究所,2021年.

8 ) 蘆田孝昭「彷徨中の無聊 魯迅ノート(下)」『中 国関係論説資料12第 2 分冊』論説資料保存会,1970 年,67頁引.

9 ) 検索結果はCD-ROM『魯迅全集』(凱希メディア サービス)の正文を対象とした検索結果に基づく が,用例数はひとつの目安に過ぎない.

(6)

のピークが,厦門に滞在した1926年 9 月 4 日から 1927年 1 月15日である.僅か 5 か月間に全活動期 の17.9%に当たる44例が集中する.そしてその極 点のなかで書かれたのが,「鋳剣」と「藤野先生」

なのである.「藤野先生」ではパーソナルコミュ ニケーションツールとしての写真とともに「無聊」

と「悲哀」が現れる.

 第 2 のピークが1934年である.そして37例中,

9 例が映画に関するものである.もはや「悲哀」

と共起しなくなった「無聊」からは動画嫌悪の感 情が見て取れるはずである.

 1926年 3 月18日,魯迅の学生が虐殺される.こ の事件が,受動的反復想起により忘却にあらがう

「キネン」という構造を魯迅に確立させたこと,

それが写真的感性との類縁性を持つことは拙稿で 論じたことがある10).その不可逆的な事件が起き た当日は「当我写出上面这些无聊的文字的时候,

正是许多青年受弹饮刃的时候.呜呼,人和人的魂 灵,是不相通的.」(「无花的蔷薇之二」)と,自己 の表現行為自体を「無聊」と表現する.ただその 後は書簡や日記などで 7 例出現するにすぎず,例 年と比し有意差は認められない.ところが 9 月に 北京を逃れ,厦門で生活するに到り,突然「無聊」

があふれ出すのである.その第 1 ピーク期に 2 つ の象徴的作品が書かれる.「藤野先生」と「鋳剣」

であり,両作品ともに魯迅の原点回帰といいうる 作品なのである.「藤野先生」は医学を捨て,表 現行為へとシフトした原点に回帰した作品であ る.「鋳剣」は越の仇敵である呉王に父を殺され た息子が自身の命を犠牲にしてまで復讐を果た す,『呉越春秋』や『捜神記』にある説話である.

魯迅の故郷である越の風土的アイデンティティー の点でも,復讐というモチーフの点でも,原点に 回帰した作品といえよう.そしてこの 2 作品には

「無聊」と「悲哀」が共起するのである.

 「藤野先生」では,藤野先生に手紙を書けない 表 1 魯迅全集における「無聊」,「寂寞」,「悲哀」の用例数の経年分布

0 10 20 30 40 50 60

無聊 寂寞 悲哀

10) 前掲論文「魯迅の文体と写真的感性( 3 )」.

(7)

理由として,自身の状況が「無聊」であることを 挙げる.一方で「無聊」を突破させるものは,壁 にある 1 枚の写真である.20年前に送られた藤野 先生の写真は,見つめるたびに,主人公に良心と 勇気を呼覚まし,筆をとらせる.その直前には藤 野先生が添削した解剖学の講義筆録が失われるプ ロットがある.しかし手稿からは,初案を線で消 し,そのプロットへと差し替えたことが確認でき る11).実際の講義筆録は 6 冊1800頁にわたり,失 われてはいないにもかかわらずである.多くの言 葉が失われて 1 枚の写真に圧縮されるプロセスの 方が,事実より優先されたのである.本稿冒頭の 引用部と同じ構成である.

 解剖図の文体,つまり実物を再現しようとする 文体と,魯迅の文体の関係については拙稿で論じ たことがある12).その解剖図と図解の言葉たちは 失われたことになり,写真は再び言葉を生む装置 となった.想起する度に贖罪感を喚起し,執筆の 原点ともなる藤野先生の表情の描写に,魯迅は

「悲哀」を選んだ.「他的脸色仿佛有些悲哀,似乎 想说话,但竟没有说」の通り,偽りの理由で医学 を捨てる報告をした際,藤野先生は何かいいたげ ながら何もいわない.生な言葉は隠される.その 映像を前に,立ち上がってきたのが「悲哀」なの である.

 「鋳剣」では復讐の邪魔をしたり,見物するだ けの同胞に「無聊」が用いられている.自身であ れ他者であれ,行動の生起を阻むものを「無聊」

と規定している.一方で「無聊」を突破させ,復 讐の行為を生起させたのが母親の「悲哀」であっ た.「他看见他的母亲坐在灰白色的月影中,仿佛 身体都在颤动;低微的声音里,含着无限的悲哀,

使他冷得毛骨悚然,而一转眼间,又觉得热血在全 身中忽然腾沸」の通り,「悲哀」の内容を黙説化 することで多義性を造形した「藤野先生」とは異 なり,「無限」という修飾句を付加することによっ て,「悲哀」の強度を造形している.ただこのよ うに非抑制的で誇張した表現は,魯迅の文体とし て「違和感」がある.

 「無限的悲哀」は,郭沫若の最初期1919年の用 例「眼眸中含蓄着无限的悲哀」13)から『創造週報』

(1923年~1924年)や『創造季刊』(1922年~ 1924年)

に他の作家達の用例が認められるのみならず,第 3 工程で詳述するように郭沫若,成仿吾,郁達夫 らの紐帯となっていた詩語である14).「無限」とは,

対象への憧憬と実現不可能な融合を希求してやま ないエネルギーを表す.つまり「無限の悲哀」は 浪漫主義的スタンスを象徴する詩語であった.文 学研究会との「悲哀」論争を生じさせたように,

魯迅の表現としては「違和感」を感じさせる所以 である.

 実際,魯迅全集中,「無限」が付される感情語 は「悲哀」 1 例,「哀感」 1 例と, 2 例しか存在 しない.しかも後者は揶揄の文脈で用いられてい る.しかも「無量」が付される語彙は「罪悪」な ど34例あるが,感情語は「悲哀」のみである.つ まり,「無限」,「無量」が共に付される感情語は「悲 哀」のみである.「違和感」こそが,魯迅の抑制 的文体の中にあって「悲哀」が特別の存在である ことを証明しよう.

 20年にわたり写真を見るたび反復想起され,今 後も想起されるであろう藤野先生に偽りをいった

11)『鲁迅手稿丛编第 1 卷』人民文学出版社,2014年,

75頁.

12) 前掲論文「魯迅の文体と写真的感性( 3 )」.

13)『郭沫若全集 文学编第 1 卷』人民文学出版社,

1982年,75頁.

14) ErnestDowsonの詩句exceedingsorrowの訳語と して用いられた「無限の悲哀」.そして「幻滅の悲 哀」が日本留学体験を持つ 3 者の紐帯となっていた 事実は,第 3 工程で詳述する.

(8)

罪悪感.16年にわたり反復想起されてきた,復讐 の誓を果たせない罪悪感と息子を犠牲に差し出す 母親の哀しみ.「無聊」を破りうるのは,いずれ も反復想起で蓄積されていく時間的質量が持つ内 圧である.過去のみならず今後も反復されること で内圧は無限に高まっていく.その内圧を担いう る言葉は,「悲哀」以外ではなかったのである.

 第 2 のピークは1934年であり,映画に関する記 述に 9 か所「無聊」が出現する.しかし動画の場 合は,「無聊」から「悲哀」へのプロセスが生じ ないのである.

 去年到上海来,才又得到消遣无聊的处所,

那便是看电影―中略―这使我从此不很觉得电 影的神奇,倒往往只留心它的破绽,自己也无 聊起来,第 3 回失掉了消遣无聊的处所.

―「朋友」

 映画は「無聊」を突破させない.逆に「無聊」

をつのらせる.しかも「无聊」が,従来魯迅が批 判対象にもちいてきた「消遣」と共起し,他者批 判ではなく自己批判に用いられている.

 もちろん「消遣无聊(ひまつぶし)」自体は既 に常套句である.「無聊」が社会的に流行してい ること,亡国につながる病因であることが記述さ れている梁啓超のエッセイ「消遣无聊」が,1919 年には既に古典化しているほどにである.古典化 とは,日本で出版された中国語教科書に既に収録 され,20年代,30年代には別の教科書にも再録さ れている事実を指す15).「消遣」とは「無聊」を 突破するのではなく,逆に目をそらすことで「無

聊」を強化することにつながる.実際,引用した 雑文「朋友」で映画は,手品や「のぞきからくり

(西洋镜)」と並置され,一種のペテンとして扱わ れる.魯迅全集中「のぞきからくり」は 4 例存在 するが,引用作品を含め 3 例は,見抜かれるべき 対象としての「からくり」という比喩的意味で用 いられるほどである.映画は真実を直視すること を阻み,見る者にいかなるアクションも起こさせ ないものとして現れるのである.

 一方,藤野先生が主人公に渡し,主人公にも要 求したのは写真であった.写真とはそもそも明治 時代から,別れの際,あるいは親密な関係の確認 として交換されるパーソナルメディアであり,双 方向的コミュニケーションツールであった.受動 的に視聴するままの映画やのぞきからくりや手品 と異なり,与えられたものには返す責務が生ず る.「藤野先生」で主人公は「無聊」であるため,

写真はおろか手紙さえ返せず,責務を果たせない がゆえに罪悪感を覚えている.「藤野先生」のラ ストは,藤野先生の写真を見るたびに,文字表現 が生起するプロセスで締めくくられる.写真はア クションを起こさせ,「無聊」を突破させたので ある.ただ,魯迅が双務を果たしえていない相手 は藤野先生だけではない.前述の通り,第 1 ピー ク時に撮った,墓地に座るセルフポートレイトさ ながら,魯迅の周りには犠牲になった多くの仲間 たちが櫛比していたのである.原点回帰をせざる をえなかった所以である.

 一方「藤野先生」の幻灯中で同胞の死を消費し ていた中国人,そのスライド動画を見て何もいえ なかった自分も,映画で「無聊」を逆につのらせ る自分も,共にアクションを起こす者ではない.

一方向的視聴形態である動画への嫌悪が確認でき よう.何度も見つめる度に贖罪意識を生み,「無 聊」の鉄屋を破るプロセスを生起させる触媒,つ 15)張廷彦撰『新華言集 普通官話』文求堂書店,

1919年,143頁.神谷衡平編『現代中華国語文読本』

文求堂書店,1929年.大阪外国語学校支那研究会

『高等支那語読本』文求堂書店,1932年.

(9)

まり写真との対比がみてとれよう.

1 - 2 .「寂寞」から「悲哀」へ

 「寂寞」の魯迅全集中における用例数は103例に 上り,「悲哀」の136例と拮抗する.表 2 から経年 分布も類似する.ただ注目すべきは,「悲哀」と 共起する全 8 例中 7 例が1919年から1924年の初期 に集中している理由である.では「寂寞」と「悲 哀」はなぜ分岐し,どのように分化していったの か.

 まず総量で「寂寞」と「悲哀」が拮抗すること

自体,一つの特色といえる.表 3 から,魯迅にお ける「悲哀」は「寂寞」1.3倍であるのに対し,

日本の出版物における書名や章題の「悲哀」は「寂 寞」の 9 倍に上ることが確認できる16).魯迅とは 対照的に「寂寞」よりもむしろ「寂寥」の方が多 い.更に表 4 からは,「悲哀」論争で文学研究会 の論敵となった創造社の『創造週報』の全量調査 でも,「悲哀」は98例に上り,「寂寞」41例の2.4 倍に及ぶことが確認できる17).では「悲哀」と拮 抗しえた魯迅の「寂寞」とはいかなる特色を持ち,

どのような関係を結んでいたのか.

 表 2 から,「寂寞」が最大値を示し,しかも「悲 哀」を大きく上回って有意差を示すのは,1922年 であった.しかも,16例中10例は「吶喊自序」の 用例であり,それ以前の「寂寞」とは質的転換が 生じている.まずはこの断層を検証し,「悲哀」

16) 日本の出版物における各語彙の用例数は,国立国 会図書館デジタルコレクションによる.

17) 中国近代報刊庫『創造週報』の文字データを対象 とした検索結果に基づく.

表 2 「悲哀」と「寂寞」の魯迅における 用例数の経年分布

年 悲哀 寂寞

1903 0 1

1907 1 1

1912 0 1

1918 0 1

1919 4 6

1920 1 0

1921 7 1

1922 9 16

1923 0 3

1924 9 3

1925 21 8

1926 19 12

1927 10 11

1928 2 3

1929 0 4

1930 0 0

1931 8 2

1932 2 2

1933 9 8

1934 6 6

1935 10 11

1936 18 3

計 136 103

表 3 「悲哀」「寂寞」「寂寥」の日本の出版物の書名,

章題における用例数との比較

  日本 魯迅

  悲哀 寂寞 寂寥 悲哀 寂寞 寂寥 1880-1889 20 6 0 0 0 0 1890-1899 31 8 11 0 0 0 1900-1909 71 22 31 1 2 0 1910-1919 284 38 34 4 8 2 1920-1929 519 46 89 78 61 0 1930-1939 461 33 81 53 32 3 計 1386 153 246 136 103 5

表 4 『創造週報』の「悲哀」,「寂寞」,「無聊」の用例数

悲 哀 98

寂 寞 41

無 聊 69

(10)

との関係の変化をも明かにしたい.

 断層以前に,「寂寞」は17例存在する. 2 例は 有島武郎の「小さきものへ」の訳語であるが,そ の他の15例は主語が「国」や「人類」,「勝利者」

であることからわかるように,いずれも国家や社 会,あるいは他者に対して用いられている.更に いうなら翻訳した有島の原文も「人世ママは淋しい」

と人生の本質,手触りの表現である.つまり全用 例が,自己の内面描写ではない.

 15例の内,典型的なものを示すと,「不欲守口,

任华土更归寂寞,复自负无量罪恶,以续前尘;庶 几闻者戒勉,收效毫厘,而吾人公民之责,亦借以 尽其什一」(「《越铎》出世辞」)が挙げられる.そ れ以前の中国を「寂寞」とみなし,表現行為をし ないことで清朝と同じ状況に戻してしまうことを

「无量罪恶」と表現している.1912年,魯迅の風 土的アイデンティティーさえ想起させる雑誌『越 鐸』刊行に当たっての序文である.「寂寞」,表現 活動による復讐,そして罪悪感と,後の魯迅の主 要モチーフが既に出そろっている.

 更に「悲哀」と共起する典型としては1919年の 雑文「生命の路」が挙げられよう.「想到人类的 灭亡是一件大寂寞大悲哀的事;然而若干人们的灭 亡,却并非寂寞悲哀的事」は,人類の滅亡を「大 寂寞大悲哀」としながら,淘汰される一部の人々 の死を「寂寞悲哀」ではないとする.死を対象と している以上,そもそも「悲哀」との親和性はあ る.ただ,滅亡し淘汰されるのは抽象的な「人」

なのである.この「悲哀」は,近親者と死別した 個人的感情とは異質である.そこで人類滅亡後の 絶対的孤独を表す「寂寞」と並置することで,「悲 哀」は普遍性をもつ詩語へと昇華されたのである.

「寂寞」は,修飾語の「大」同様に「悲哀」を異 化する機能をもっている.「寂寞」と「悲哀」が 並置される場合は,他の用例でも「悲哀」の方が

後になる.両者を共起させ,未分化とすること で,「悲哀」を生な 1 次的感情から差別化するタ イプである.

 断層は,「寂寞」の自己内面化によって生ずる.

1922年11月 7 日,魯迅も創造社と文学研究会の論 争に端を発する「悲哀」論争に参戦し,12月 3 日 に「吶喊自序」を書く.「独有叫喊于生人中,而 生人并无反应,既非赞同,也无反对,如置身毫无 边际的荒原,无可措手的了,这是怎样的悲哀呵,

我于是以我所感到者为寂寞」では,「叫ぶ」けれ ど反応がない,敵も味方もいない絶対的空虚,つ まり宙吊り状態にある自己の感覚を「寂寞」と名 付けた.果てしない荒野であれ,砂漠であれ,海 底であれ「寂寞」と共起する言葉は,自身の座標 点が失われている点で無限の牢獄の形象化であ る.「悲哀」は「寂寞」と名付けられる前の基底 にあるモノとして分化した.

 同じく「吶喊自序」の「在我自己,本以为现在 是已经并非一个切迫而不能已于言的人了,但或者 也还未能忘怀于当日自己的寂寞的悲哀罢,所以有 时候仍不免呐喊几声,聊以慰藉那在寂寞里奔驰的 猛士,使他不惮于前驱」では,忘却を許さず言語 表現を生起させるものとして「寂寞的悲哀」を挙 げる.「悲哀」が過去の挫折を悲しむセンチメン タルな感情ではなく,自己の絶望的な客観認識で あることが「寂寞」という条件付けによって造形 されている.着目すべきは「的」の付加により「寂 寞」が「悲哀」の修飾語となった点である.確か に断層前の「生命的路」から「寂寞」と「悲哀」

が並置される場合は,他の用例でも「悲哀」の方 が後になっていた.ただここで初めて両者が等価 ではなく,「悲哀」の方が根底にあるモノとして 分化した.

 魯迅の「寂寞」は「寂寥」と互換可能な「寂寞」

ではない.魯迅全集に「寂寥」は 6 例あるが,「支

(11)

那ニ於ケル文学ト芸術界ハ実ニ寂寥ノ感ニ堪ヘマ セン」(青木正児宛日本語書簡1920年11月14日)

から「上海文坛寂寥」(孫用宛書簡1931年 5 月 4 日)

まで活動期を通じ,日本語中国語を問わず,美術 や文学や人々の挙げる声などが活発ではない状態 を表している18).そもそも「寂寥」の「寥」は平 声である.「鳥の羽がまばらにひらいているさま」

とあり,「寥寥」が数の少ないさまを表すように,

完全な無ではない.しかし,「寞」は「寂」とと もに入声で鬱屈した音である.加えて「莫」は「太 陽が草むらに隠れて姿を見せなくなること」,「寞」

は「家の中に姿も声もないこと」19)とされる.「哀」

が,口の中に衣があるように,言語では表現不可 能な感情を表すとすれば,「寂寞」は絶対的な空 虚を表す.「寂寥」ではそこまで透徹した空虚や,

感情の強度を担うことができなかったといえよ う.

 しかもこの「寂寞」は日々成長し,大きな毒蛇 のように魂に絡みつき,苦しさのあまり,一時は 目をそらして韜晦せざるをえないほどであった.

それでも振り払えないばかりか,更に若者に感染 させかねない.つまり「寂寞」は,忘却にあらが いうる原理,言語表現生起の原理として,「悲哀」

とともに自己の内面に再発見された.そして「悲 哀」を特権化する装置の役割を担ったのである.

 断層の後,1923年 6 月には再び有島を引用し,

「“第一,我因为寂寞,所以创作.第二,我因为爱 着,所以创作, 第三,我因为欲爱,所以创作,」

と創作の起点としての「寂寞」を強調するが,

1927年 9 月には,自らの言葉として「人感到寂寞 时,会创作;一感到干净时,即无创作,他已经一 无所爱.创作总根于爱」(「小雑感」)と,ほぼ有 島をなぞる形で「寂寞」が創作の起点だと宣言す る.1919年に魯迅が引用した有島の一節は「十分 人世は淋しい.私たちは唯さういつて済してゐる 事が出来るだろうか.お前達と私とは,血を味つ た獣のやうに,愛を味つた.行こう,而して出来 るだけ私たちの周囲を淋しさから救ふために働こ う」20)であった.有島の場合,淋しさの原因であ る子供たちの母の死は,罪悪感とは無縁である.

魯迅はそうではない.魯迅は自身の「痛み」から 自身を救うために表現をしなくてはならなかっ た.その起点が「寂寞」であり,その基底にある,

一般的な感情ではない新たな感性こそが「悲哀」

であったといえよう.それが魯迅における「寂寞」

と「悲哀」の分岐点へとつながる.

 断層の後,1924年には「寂寞」と「悲哀」が分 化する.「我喜欢寂寞,又憎恶寂寞,所以有青年 肯来访问我,很使我喜欢.但我说一句真话罢,这 大约你未曾觉得的,就是这人如果以我为是,我便 发生一种悲哀,怕他要陷入我一类的命运」(「李秉 中宛書簡1924年 9 月24日」)と,所与の前提とし ての自己の内面に対しては「寂寞」を用いる.し かし,若者を自己と同じ運命に陥れる罪悪感に対 しては「寂寞」ではなく,「悲哀」を用いたので ある.そしてこの差別化がなされた後,「悲哀」

と「寂寞」は共起しなくなる.そして「悲哀」を 用い,魯迅の影響を受けて犠牲となった若者達へ のキネン文が執筆されていく.

 分化の様相は,1925年の小説「傷逝」が典型例 となろう.「但终于走进自己的屋子里了,没有灯 18) 6 例とは「《越铎》出世辞」,「《美术》杂志第一期」,

書簡「1931年 5 月 4 日孫用宛」,「1931年 6 月13日曹 靖華宛」,「1935年11月15日台静農宛」,「1920年11月 14青木正児宛」であり,引用部は『鲁迅手稿丛编第 9 卷』人民文学出版社,2014年,210頁,同書『第 6 巻』252頁である.

19)藤堂明保編『漢語大辞典』学習研究社,1981年,

368頁. 20)『有島武郎全集第 3 巻』筑摩書房,1980年,365頁.

(12)

火;摸火柴点起来时,是异样的寂寞和空虚!」の 通り,先ずは「異様な寂寞と空虚」が発見される.

現実を認識した瞬間は,変化の瞬間を表す方向補 語とエクスクラメーションマークで造形されてい る.自分の罪により,新たな生活を志した同志で あり,恋人であった彼女を喪った現実をである.

現実を直視した瞬間,立ち現れた「異様な寂寞と 空虚」は,この後 2 回にわたり反復される.

 この小説は「如果我能够,我要写下我的悔恨和 悲哀,为子君,为自己.」と「悔恨と悲哀」の先 説で始まり,「悲哀」に到るプロセスを作品内容 とし,「我活着,我总得向着新的生路跨出去,那 第一步,―却不过是写下我的悔恨和悲哀,为子 君,为自己.」と「悔恨と悲哀」の総括で終わる.

異様な「寂寞」は所与の前提として反復生起する.

にもかかわらず生き続けるためには,罪悪感を書 くしかない.「悔恨と悲哀」を書き続けることこ そが,贖罪であり生きることであるとのモデルが 提出されたのである.

 先に1926年ピークとなった「無聊」を突破する ための原点回帰として「藤野先生」と「鋳剣」を 挙げたが, 2 作品ともに「寂寞」は 1 例も無い.

意味的には, 2 作品中の「悲哀」を「寂寞」と置 き換えることが不可能ではないにもかかわらずで ある.これも「寂寞」の自己内発見から,「悲哀」

の贖罪意識を原動力とした表現の生起というプロ セスモデルによって,「寂寞」と「悲哀」が切り 分けられた事実を示していよう.

 亡くなる半年前,12年ぶりに共起する用例が出 現する.最後の用例である.「我每当朋友或学生 的死,倘不知时日,不知地点,不知死法,总比知 道的更悲哀和不安;由此推想那一边,在暗室中毕 命于几个屠夫的手里,也一定比当众而死的更寂 寞」(「写于深夜里」).

 「寂寞」はもはや魯迅の内面ではなく,処刑さ

れる他者の感情である.志を同じくしたために犠 牲となった友人や学生に対する自身の贖罪感の方 が「悲哀」で表現されているのである.この贖罪 感こそ後述の通り,日本における「寂寞」と「悲 哀」の共起のあり方とは異なる,魯迅の特色とい えよう.

 以上から,魯迅には 1 次的な感情「悲哀」とは 異なる感覚が存在する.それを表現する詩語を模 索して,「寂寞」を並置したり,修飾語として冠 したり,違いを説明するなどして差別化した.そ れが初期に両者の共起が集中する理由といえよ う.新詩語「悲哀」への錬成は,その後,「寂寞」

の共起による差別化がなくても,「悔恨」という 蓄積された過去の時間の内圧を示す詩語との共起 をはじめとし,文脈上の差別化により実現されて いった.そのプロセスが確認できよう.

1 - 3 .「悲涼」から「悲哀」へ

 「悲哀」以外で,魯迅全集に現れる悲しみを表 す語彙には,「悲涼(悲凉)」(全集中23例),「悲惨」

(同19例),「悲痛」(同12例),「悲苦」(同11例),「悲 傷(悲伤)」(同 4 例),「悲愴(悲怆)」(訳語とし て 1 例)が確認できる.136例出現する「悲哀」

が他の語彙よりも量的に突出し,魯迅にとって重 い言葉であることが確認できよう.類義語の中で 唯一,同一作品内でその語から「悲哀」へのプロ セスが存在し,つまり構成によって「悲哀」との 差別化がはかられている言葉がある.「悲涼」で ある.「悲涼」は表 5 のように活動期を通じて存 在する.いい換えれば「悲哀」との共存が可能で あった.その理由に,「悲涼」がもつ「悲哀」と は異質な「初期性」が考えられる.類義語である 以上,両者のニュアンスの差が,「無聊」や「寂寞」

よりも細密に,「悲哀」の位相を前景化させるは ずである.

表 5 「悲涼」の用例数の経年分布 1907 1 1912 1 1918 1 1921 2 1923 2 1925 3 1926 2 1927 1 1928 2 1929 3 1933 1 1934 1 1935 1 1936 2

計 23

(13)

 「初期性」とは第 1 に初期の反応であること,

つまり 1 次的感情であることを意味する.「慷慨 就因当天下大乱之际,亲戚朋友死于乱者特多,于 是为文就不免带着悲凉,激昂和“慷慨”了」(「魏晋 风度及文章与药及酒之关系」)の「悲涼」は,近 しいものの死に起因する点で「悲哀」と同質にみ える.しかし,「激昂」や「慷慨」といった怒り に関わる生な感情と並置されている.「夜间独坐 在会馆里,十分悲凉,又疑心这消息并不确」(「范 爱农」)も,友人が死んだ知らせを受けたばかり の初期反応である.

 「初期性」とは第 2 に人生における初期性を意 味する.「虽然是悲凉漂渺的青春罢,然而究竟是 青春.然而现在何以如此寂寞?」(「希望」)で「悲 涼」は過去の「青春」の修飾句となっており,現 在の「寂寞」と対比される.つまり「寂寞」に到 る前段階との位置付けがなされている.「但那时 觉醒起来的智识青年的心情,是大抵热烈,然而悲 凉的」(「《中国新文学大系》小说二集序」)も知識

青年の経年変化を,晩年になり回顧した記述であ る.「悲涼」は「熱烈」と並置されるように,目 覚めたばかりで,さまざまな事態を経験する前の ナイーブな感情を表現しているのである.

 こうした「初期性」は「故郷」(1921年)から 既に,「悲哀」との使い分けによって確認できる.

 「故郷」で「悲」は 4 例存在し,「悲涼」2 例,「可 悲」 1 例,「悲哀」 1 例で,この順に生起する.

ただし「可悲」は「悲しむべき厚い壁」と,心理 描写ではないため,「悲涼」と「悲哀」が対比的 に用いられているといえる.

 「悲涼」は作品冒頭に出現する.第 1 ,第 2 セ ンテンスで冬の故郷の景色の描写がなされ,第 3 センテンスで「我的心禁不住悲凉起来了」と最初 の「悲涼」が現れる.第 4 から第 8 センテンスで,

イメージと違う眼前の故郷を否定する心内語と,

やがて受容する心理描写が続き,第 9 センテンス で 2 番目の「悲涼」が現れる.そして「于是我自 己解释说:故乡本也如此,―虽然没有进步,也 未必有如我所感的悲凉,这只是我自己心情的改变 罢了,因为我这次回乡,本没有什么好心绪」の通 り,否定される.先ずは淋しい風景に喚起された 1 次的感情として「悲涼」が生起する.ところが,

風景の見え方自体が自己の心情によるデフォルメ であるとし,「悲涼」はその主観性において否定 されるのである.

 一方,「悲哀」は作品の掉尾に出現する.「故郷」

の全167センテンス中,最終的な認識の変化が生 ずる際の第155センテンスになって初めて現れる.

 我只觉得我四面有看不见的高墙,将我隔成 孤身,使我非常气闷;那西瓜地上的银项圈的 小英雄的影像,我本来十分清楚,现在却忽地 模糊了,又使我非常的悲哀.

れる他者の感情である.志を同じくしたために犠 牲となった友人や学生に対する自身の贖罪感の方 が「悲哀」で表現されているのである.この贖罪 感こそ後述の通り,日本における「寂寞」と「悲 哀」の共起のあり方とは異なる,魯迅の特色とい えよう.

 以上から,魯迅には 1 次的な感情「悲哀」とは 異なる感覚が存在する.それを表現する詩語を模 索して,「寂寞」を並置したり,修飾語として冠 したり,違いを説明するなどして差別化した.そ れが初期に両者の共起が集中する理由といえよ う.新詩語「悲哀」への錬成は,その後,「寂寞」

の共起による差別化がなくても,「悔恨」という 蓄積された過去の時間の内圧を示す詩語との共起 をはじめとし,文脈上の差別化により実現されて いった.そのプロセスが確認できよう.

1 - 3 .「悲涼」から「悲哀」へ

 「悲哀」以外で,魯迅全集に現れる悲しみを表 す語彙には,「悲涼(悲凉)」(全集中23例),「悲惨」

(同19例),「悲痛」(同12例),「悲苦」(同11例),「悲 傷(悲伤)」(同 4 例),「悲愴(悲怆)」(訳語とし て 1 例)が確認できる.136例出現する「悲哀」

が他の語彙よりも量的に突出し,魯迅にとって重 い言葉であることが確認できよう.類義語の中で 唯一,同一作品内でその語から「悲哀」へのプロ セスが存在し,つまり構成によって「悲哀」との 差別化がはかられている言葉がある.「悲涼」で ある.「悲涼」は表 5 のように活動期を通じて存 在する.いい換えれば「悲哀」との共存が可能で あった.その理由に,「悲涼」がもつ「悲哀」と は異質な「初期性」が考えられる.類義語である 以上,両者のニュアンスの差が,「無聊」や「寂寞」

よりも細密に,「悲哀」の位相を前景化させるは ずである.

表 5 「悲涼」の用例数の経年分布 1907 1 1912 1 1918 1 1921 2 1923 2 1925 3 1926 2 1927 1 1928 2 1929 3 1933 1 1934 1 1935 1 1936 2

計 23

(14)

 幻想の中の閏土の「影像」が曖昧になると,な ぜ「悲哀」が生ずるのか,また「悲哀」が生ずる となぜ最終的な認識への変化が起動するのか.「悲 哀」は 1 次的な感情に見えるが,実は「影像」を めぐるプロセスのクライマックスとなっているの である.

 プロセスをたどる前に,先ずは引用部におけ る,「悲哀」を特権化する操作を確認したい.セ ミコロンの前後で対称性が崩されている.前半,

後半いずれも私を目的語とする使役構文で対に なっているにもかかわらずである.後半は「的」

が 3 個も修飾句に累加され,特権化された「影像」

が現れる.次に元々は「影像」がクリアであった との連続性が設定され,その上で「影像」が不鮮 明になった非連続的瞬間が,「今」,「忽然」,変化 を表す語気助詞により立ち上がった.結果,受動 的に「悲哀」が生じたのである.しかも前半最終 部は 2 文字, 4 文字リズムが形成する 6 文字の対 句で安定的な終わり方となっているが,後半最終 句は「使我非常的悲哀」と「的」が挿入されるこ とで,直前の句とはもちろん,前半最終句の「使 我非常气闷」とも安定した対の関係が崩され,前 景化させられたのである.「悲哀」は「影像」が 消失する不可逆的一瞬により,受動的に認識の変 化が生ずるプロセスの核となることが確認でき た.

 次に作品内の構成から引用部の構造的意味を明 らかにしたい.「影像」には起承転結があった.

 「起」は第 7 センテンスである.「但要我记起他 的美丽,说出他的佳处来,却又没有影像,没有言 辞了(故郷の美しさを思い出し,言葉にしようと しても,なんと「影像」も言葉も無くなってしまっ た)」.つまり画像の欠落は言語表現も生起させな いのである.

 「承」は第25センテンスである.「这时候,我的

脑里忽然闪出一幅神异的图画来:深蓝的天空中挂 着一轮金黄的圆月,下面是海边的沙地,都种着一 望无际的碧绿的西瓜,其间有一个十一二岁的少 年,项带银圈,手捏一柄钢叉,向一匹猹尽力的刺 去,那猹却将身一扭,反从他的胯下逃走了」.幻 の影像が「突然(忽然)」脳裏に「閃く(閃出)」

のである.少年閏土の動画である.動画は現実で はなく,少年時代に抱いたイメージに過ぎない.

現在の現実を直視し続けることで,それがフェイ クであることが明らかになっていく.

 つまり幻像が消滅した第155センテンスは「転」

であったのである.

 「結」は第165センテンスである.「我在朦胧中,

眼前展开一片海边碧绿的沙地来,上面深蓝的天空 中挂着一轮金黄的圆月」.「小英雄」の幻影が消滅 した後は,もはや静止画像だけが「脳裏」にでは なく「眼前」に,現実の手触りとして残っている ばかりだ.

 「悲哀」は「影像」をめぐる起承転結の「転句」

に刻印された.作品内構成においても,「悲哀」

はプロセスの核となっていたのである.

 ではそもそも「影像」とは何か.魯迅全集中,

他者の作品名を除けば 6 例しか存在しない希少な 語である.むしろ「承」で用いられた「図画」の 方が165例存在し,一般的語彙である.魯迅の「影 像」には 2 種類の意味がある.

 第 1 は言語表現を生起させる触媒である.「阿 Q的影像,在我心目中似乎确已有了好几年,但我 一向毫无写他出来的意思.经这一提,忽然想起来 了,晚上便写了一点,就是第 1 章:序.」(「《阿Q 正传》的成因」).何年も書けなかったものが,阿 Qの「影像」が想起されたことで執筆できた経緯 が描かれている.「突然(忽然)」という副詞や「起 来」という生起を強調する方向補語によって,画 像想起の瞬間性が誇示されている.

(15)

 「影像」はたとえ50年前あまり前のものであっ ても,作品集までを生起させる.尻を出し,指を くわえている子供の頃の「写真」のように,今と なっては恥ずかしいものであっても,過去の作品 は確かに自分の「影像」であるから,作品集とし て出版するというのである(「集外集序言」).

 第 2 は幻影消滅としての「影像」である.「她 近来实在变得很怯弱了,但也并不是今夜才开始 的.我的心因此更缭乱,忽然有安宁的生活的影像

―会馆里的破屋的寂静,在眼前一闪,刚刚想定

睛凝视,却又看见了昏暗的灯光」(「傷逝」)の通り,

「故郷」以外の小説でも幻の「影像」が「突然(忽 然)」,「閃く(一閃)」のである.そして消滅する のである.希望に満ちた頃の「影像」の消滅が,「故 郷」同様,現実に対するリアルな認識を起動させ る.結果,「我活着,我总得向着新的生路跨出去,

那第一步,―却不过是写下我的悔恨和悲哀,为 子君,为自己」の通り,悔恨と「悲哀」を書くと いうキネン行為が,主人公の生き続ける理由とな り,そうなるプロセスを内容とした作品を生起さ せたのである.つまり「悲哀」は,そのプロセス の核といえる.

 魯迅の「影像」を日本語からの借用語とみるも のもある21).日本語の「影像」は,表 6 の通り,

明治大正期において決して一般的な語彙ではな かった.しかも,物理学や心理学の用語として用 いられていた.井上円了が『心理摘要』で「image」

に「影像」をあて,「影像とは外物の脳中に入り て留めたる印象に与ふる名称にして之に暫時の影 像と永時の影像との二種類あり」22)としたように である.

 魯迅が 2 冊翻訳している厨川白村は,近代 の「悲哀」を 4 種に分類し,第 1 に「幻影消滅 disillusionmentの悲哀」を挙げている23).「影像」

に対する魯迅の操作を考え合わせると,プロセス 全体を支え,核となりうるのは「悲哀」であり,「悲 涼」ではなかったことが確認できよう. 

 それでもなぜ「悲哀」が選ばれたのかという問 題は残る.数種の類義語辞典から「悲哀」の特色 をまとめると,第 1 に多義性,第 2 に相対的口語 性,第 3 にダブルバインド状態のニュアンスとな ろう.第 1 の多義性については,「悲傷」は「淡 漠(あわい)」など軽微な修飾句をとることはで きないが,「悲哀」は「万分(極めて),「异常(異 常な)」といった極端な修飾句のみならず,軽微 な修飾もとることができるとするもの,「悲傷」

や「悲痛」と比べて「悲哀」は用いることのでき る範囲が広く,人にも動物にも用いることができ るとするものなどが挙げられよう24).第 2 の口語 性については,「悲惨」,「悲苦」,「悲痛」の書面 語性を指摘するもの,「悲涼」の書面語性を指摘 するものが挙げられよう25).第 3 については「苦

表 6 「影像」を書名,章題に用いた,日本 における作品数

出版年 作品数

1880 ~ 1889 3 1890 ~ 1899 14 1900 ~ 1909 8 1910 ~ 1919 19 1920 ~ 1929 45 1930 ~ 1939 105

(国立国会図書館デジタルコレクションによる)

21) 常晓宏『鲁迅作品中日语借词』南开大学出版社,

2014年,228頁.

22)井上円了『心理摘要』哲学書院,1891年, 6 頁,

82 ~ 83頁.

23)「近代文学十講」『厨川白村第 1 巻』改造社,1929 年,124頁.

24) 前者は佟慧君主编『汉语同义词词典』北京商务院 书馆,2002年,33頁.後者は周永惠编『同义词反义 词词典』四川辞书出版社,2004年,47頁.

(16)

境に立たされどうしようもない(无可奈何)感情 を表すことができ」,「「悲傷」,「悲痛」にこのよ うな意味や用法はない」とするものが挙げられよ う26)

 ただ上記は現代において,口語としての「悲哀」

のニュアンスを記述したものである.もし1918年 に魯迅が口語小説や詩を発表し始める以前から,

書面語としての「悲哀」が既に特別なニュアンス をもって流行していたのならば,そして魯迅が口 語に流用したのならば,「新詩語」とはいえない.

1903年,魯迅が書面語で,複数の論文や翻訳を発 表した雑誌『浙江潮』第 1 期から第10期の全量調 査をすると,他の作者も含め「悲哀」は 1 例も存 在しない.「悲」は181例,「哀」は84例存在する にもかかわらずである.では強い悲しみはどのよ うに差別化していたかというと,「悲夫」34例,「哀 哉」13例,「悲哉」 8 例と感嘆の助詞が用いられ ていた.助詞以外に,魯迅が後に口語文学で使用 することになる自立語も存在する.「可悲」10例

(魯迅全集中24例),「悲痛」 2 例(魯迅全集中12 例),「悲苦」 2 例(魯迅全集中 9 例),「悲憤」 6 例(魯迅全集中27例)などである27).しかし「悲 哀」は存在しないのである.

 もちろん「悲哀」は「老子」に用例があるよう に書面語として歴史のある言葉である.ただ,当 時,悲しみを表す類義語から差別化されて流行し ていた事実は認められない.そして魯迅が初めて

「悲哀」を用いるのはその 4 年後の「文化偏至論」

を待たねばならない.しかも未だ「国」を主語と した書面語としてである.

 「故郷」のラストは「我想:希望本是无所谓有,

无所谓无的」であった.幻影が消滅した後の一義 的には収束しないダブルバインドの状態こそが,

現実の手触りであった.口語文学における詩語を 錬成する際,他の類義語に比べ,「悲哀」の持つ 多義性,「どうしようもない」終局性が,プロセ スを内包しうる言葉として選ばれた理由として想 定されよう.

 以上は,魯迅の中国語の「悲哀」に限定した考 察であった.ただ,もし日本語における「悲哀」

にも上記のような 3 つの特色が確認でき,作品内 で「悲涼」との差別化が確認でき,「無聊」,「寂寞」

と同様の関係を結ぶケースが確認できるのなら,

「悲哀」は魯迅が錬成した「新詩語」とはいえない.

従って,第 2 工程では日本語における「悲哀」の 位相を明らかにしなくてはならない.例えば,日 本語の「悲涼」ならば,国会図書館デジタルコレ クションでは明治から魯迅の活動期において書名 や題名で用いられた例がヒットしない.もちろ ん,1886年の『小説神髄』から「悲涼」が「悲哀」

と共起する例は確認できる.ただ,「悲哀小説に 於けるもまた然りいかに愁歎場が主なればとて徹 頭徹尾悲涼惨憺悲しき事のみ多かりせば讀者遂に 倦はつべし」の通り,坪内逍遥の場合「堵ラゼヂ イ(悲哀小説)」は悲劇というジャンルの訳語で あり,「悲涼」から「悲哀」へのプロセスは存在 しない28).「悲涼」は日本において論争のプラッ トフォームになることもなかった.もとより浪漫 主義派,自然主義派双方のキャッチコピーとして 流通する多義性も存在しなかった.といった検証 が必要となる.

25) 前者は佟慧君,前掲書33 ~ 34頁.後者は周永惠,

前掲書,48頁.

26) 周永惠,前掲書,47頁.

27) 中国近代報刊庫『浙江潮』の文字データを対象と した検索結果に基づく.

28)『明治文学全集16 坪内逍遥集』筑摩書房,1977年,

48頁.

(17)

小結 「新詩語」の形成と写真的感性の交錯点  郭沫若の短編小説「煉獄」には,7 回の「写真」

と 4 回の「悲哀」が合わせ鏡のように現れ,とも にある「重力」を持つ.この重力こそが,郭沫若 と魯迅との差異を顕在化させる.差異とは日本に おける 3 大悲哀論争に対するスタンスを通じて露 出する言語観の差異であり,その基底にある写真 的感性と動画的感性の差異であるとの仮説を筆者 は有している.

 「煉獄」では別居した妻の写真が 7 回出現し,

次々と新たなプロットを連結していく.「悲哀の どん底に沈み(沉沒在悲哀的絕底了)」,どうもが いても「悲哀の量を減らすことができない(悲哀 的分量總是不會減殺)」.「悲哀」の煉獄から逃げ だすため,主人公は写真に救いを求める.「机に むかう時には写真を机の上に置き,寝る時には写 真を枕元に移し,外出することになっても写真を 懐に忍ばせる(他倚案時,相匣是擺在桌上,睡時,

又移在床頭,偶爾一出門也把來揣在懷裏.)」.「い つも話しかけ(他時常對着相匣說話)」,「いつも 罪を告白する(他時常向着相匣請罪)」29).しかし その行為が逆に「悲哀」を呼び寄せ,そのため更 に,次々と写真を持ち出すプロットを呼び込んで いく.

 ところが,写真の画像の描写は,皆無なのであ る.

 詳細は第 3 工程に譲るが,郭沫若は「悲哀」と

「写真」の重力が,上記のようにセンテンス内,

作品内にリズムを作り,プロットを連結してい る.映画フィルムの端にあって,コマを次々送り 出していく穴=パーフォレーションのようにス トーリーを推し進める装置となっている.一方,

「藤野先生」では,写真と対峙するプロットは唯 一,作品掉尾に置かれているだけである.「実物 を変えてはいけない」という魯迅の原点となるス タンスを,藤野先生が形作ったプロセスは, 1 枚 の写真によって象徴されている.

 「煉獄」では,妻の顔が空白である.描写がな されないのである.「悲哀」は画像と勝負して,

画像よりも強い言葉として錬成されたものではな い.では郭沫若の「悲哀」とはなにか.

 そもそも,妻の写真といいながら,他者として の妻はそこにいない.主人公は妻と友人達との集 合写真から妻だけを切り離している.妻にとって の「記念」という本来の文脈から切り離し,一方 的な利用がなされている.主人公が自己の「悲哀」

に耽溺するため,妻は召喚され,「写真」は召喚 のツールになっている.しかし,前述の通り写真 とはそもそもパーソナルコミュニケーションツー ルであった.「藤野先生」では裏面に「惜別」と 書かれているように,主人公に対して渡された メッセージである.そこには「実物」である他者 との対峙がある.

 「藤野先生」の写真は,まるで今にも話し出そ うだと描写される.それは,まるで話し出そうと して結局話さなかった藤野先生の表情を想起させ る.そしてその画像は「他的脸色仿佛有些悲哀,

似乎想说话,但竟没有说」と,「悲哀」で表現さ れた.異国に近代医術が根付くようはらった献身 的努力が無駄になった瞬間,あるいは主人公が理 由を偽って医学をやめることをも含めて理解し,

それら全てをのみ込んで言葉を抑制した瞬間,そ の瞬間の映像が圧縮する藤野先生の思い.更にそ の瞬間を20年間,贖罪意識とともに反芻し,その 内圧に耐えてきた魯迅の思い.それらは言葉が黙 説化され,「犠牲」の母親さながら抑制的な藤野 先生の表情の画像で象徴された.そして,その映 29)『創造週報第44号』創造社,1924年 3 月16日, 1

~ 2 頁.

参照

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