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19世紀中・東欧における法律家の任意団体

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熊本大学学術リポジトリ

19世紀中・東欧における法律家の任意団体

著者 上田 理恵子

雑誌名 熊本大学教育学部紀要 人文科学

巻 57

ページ 81‑91

発行年 2008‑12‑19

その他の言語のタイ トル

Voluntary Organizations of Jurists in Central Europe in the 19th Century

URL http://hdl.handle.net/2298/10611

(2)

熊本大学教育学部紀要,人文科学 第57号,81-91.2008

19世紀中・東欧における法律家の任意団体

上田理恵子

VoluntaryOIganizationsofJuristsinCentralEurope inthelgthCentury

RiekoUEDA

(ReceivedOctoberL2008)

Thepurposeofthispaperistoclarifywhatkindofvoluntarycommunicationswerepossibleamonglawyersin CentralEuropeinthel9thcentury,atimewhenthelegalsystemsandlegalprofessionofthesecountrieswere beingmodernized,AccordingtoanarticlebyProfBraunederinVienna,thereweretwofOrmsofnon- compulsorylegalorganizationsatthattime,andtheybothderivedfTomGermanterritoriesThefirstfbrm,which tracesbacktothel8thcentury,wastheReadingSocietiesonLegalandPoliticalBooksJtsmainpurposewasto equiplegallibrariesandpublishlegaljournalsThesecondfOnnwastheAssociationofJurists,whichfOcused oncommunicativeactivitiessuchaslecturesanddebates、Theupperorganizationofsuchlocalassociationswas theGennanJuristsForumwhichisheldeventodayeverytwoyearsinadifferentcityinGermany(itwasbrieHy suspendedduringtheperiodofNationalSocialism).TheideaofhavinganationwidefOrumoflawyersreachout beyondthelegalprofessiontookrootevenoutsidetheGerman-speakingterritoriesinCentralEuropeAsacase study,thispaperexaminestheHungarianJuristsForumwhichwasheldatotaloflltimesfroml870tol896・

ThoughbothfOrumshadthesamepurpose,namely,tofOstercommunicationamonglawyersandtohelpdevelop jurisprudenceandrealizecodification,unliketheGermanJuristsForumthefbrumwasheldonlyinBudapest,

triedtoavoidhavinganypoliticalinHuence,andlackedtheohjectiveofunifyingthelegalsystembecauseof complicatednationalissuesandpoliciesatworklnmyopinionthesearethemainreasonswhythefOrumdid notcontinuetobeheldregularly.

Keywords:CentralEurope,lawyersassociationjuristsfOrum,Hungary

の関心は細部に至る.ウィーン大学のブラウネーダー 教授の論稿2)では,法律家の所属した諸団体,なかで も’9世紀を中心に成立してきた任意団体 (Selbstorganisation)とそこでの交流に着目している.

弁護士会や裁判官協会といった職種別団体ではなく,

法律家と呼ばれる人々が職種を超えて自発的に加入 した交流の場で,どのような関心を持ち,どのような 活動をしていたのかを明らかにすることは,中・東欧 地域における法と社会の実態,とりわけ大陸法学の中 心地域と,いわばその周辺地域とされる地域を理解す る重要なてがかりとなる.

中・東欧地域における司法界の近代化にあたり,ま ず注目されたのは,諸状況から考えてドイツの法制で あったはずである.それに準じて,法専門職の在り方 もドイツと類似して発達したという推測にいたるのは 容易である.そのなかで,ハプスブルク帝国の東半分 であるハンガリー王国については,1867年以降,独自 の法制度を持つことができただけに法律家たちがど

1はじめに

1990年代からEUの拡大に伴い東欧諸地域に関す る実証的な法制史研究の成果も,研究成果が飛躍的に 蓄積されつつある!)その多くの地域は,1918年まで

「ハプスブルク帝国」と総称され,現在のオーストリ アを中`し、とし,隣接するハンガリー,チェコスロ ヴァキア,さらにはポーランドやルーマニア,クロア チアの一部などを含む.ハプスブルク帝国と呼ばれた

地域である.

しかしこれらの地域で核となる法(例えばフラン ス法やドイツ法)の学問体系や学説をおきえ,それら がこの地の法と社会をめぐる諸関係を追求しようとす ればするほど託従来の中心的な研究対象や手法だけで は収まりきらない事柄が次々と登場してくる

その点もともと「東欧諸国」がハプスブルク帝国 の領土であったことから,オーストリアでもこの地へ

(81)

(3)

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上田理恵子

のような組織づくりをしたのか,という疑問が生ずる.

そこで本稿では,ブラウネーダーの論稿を出発点と しハプスブルク帝国にみられた代表的な任意団体の 種類と活動内容および役割について確認した後,ハン

ガリー王国の任意団体の在り方を明らかしたい なお,本稿にいう「法律家」という場合は,時代と 地域を考慮した結果,ひとまず法曹三者(裁判官,検 察官,弁護士)のほか,公証人,上級行政官や法学者 まで含めることとする中・東欧における法専門職は,

大学教育,国家官僚養成と密接に結びついて発展し,

とくに自由業としての弁護士を認めた法制は,19世紀 後半となる.3)

議会も,別名「法律家議会」7)と呼ばれるだけあって,

ここにも会員の名が認められる読書協会の会員が政 治の場でも活躍する足跡が認められるのである.

1841年に創設きれたウィーンの法・政治読書協会 0uridisch-poIitischeLeseverein)も,こうした読書協 会の一つであった.法律家の地位向上や政治社会に果 たした役割として,以下の3点ほどを挙げることがで きる.

まず,豊富な蔵書量である1844年に1300冊あまり であった蔵書は,1882年時点で23000冊を超えるまで になったという.8)ハプスブルク帝国では,1848年革 命の挫折の後の10年余りの間いわゆる新絶対主義 の下,厳しい検閲統制の時代を迎える.興味深いこと には,読書協会内部においては,外部では発禁もしく は制限されていた書物が自由に利用できたということ

である例えば,サヴィニー(Savigny,FriedrichCarl

vonl779-l861)をはじめとする歴史法学者の著作は,

当時まだオーストリアの大学で講義されていなかった

にもかかわらず,ウンガー(JosephUnger,1828-1913)

の著作は歴史法学について造詣が深い.また,シュ トゥーベンラウフ(Stubenrauch,Moritzvon)は,自 国の一般民法典の注釈に歴史法学派の成果を取り入れ られたのも,協会図書館の司書でもあったからである,

とぎれる.9)

次に挙げられるのは,1848年革命およびその前後に おける,会員たちの政治面への活躍である.1848年,

1861年の帝国議会における議員のうち,下オースト リア州の議員は40%以上が会員であったという.政 府の官僚,大臣も半数前後はつねに会員であった.'01

さらに法律家層の組織化を実現したのも読書協会 の会員たちであった」850年ウィーン弁護士会,公証 人法(Notariatsordnung)の成立もその実績に数えら れる.また,後述するウィーン法律家協会創立も,さ らにオーストリアにおける法律専門雑誌の刊行の母体

にもなっている.

総じてみれば,19世紀を通して,法,国制,法曹界 の発展に深く関わるこの集団は,あらゆる重要かつ著 名な法律家や政治家を包含していたことになる.

2.法律家による任意団体

ブラウネーダーの論稿によれば,ドイツ,オースト リアに該当する地域で認められた法律家による任意団 体は大きく二つに分けられる.一つは,読書協会 OuristischeLesegesellschaften)であり,もう一つは法 律家協会OuristischeGesellschaften)である後者の上 位組織として位置づけられるのが,ドイツ法律家大会

である.

(1)読書協会

そもそも読書協会は,法律家という集団に限られた 組織ではない.18世紀ドイツにおいて結社と読書を結 びつけた啓蒙主義の産物である.4)規約をさだめ,会 員を限定し,会費を集めて運営された私設図書館つき 読書組織であり,読書と議論の結びつきの場として,

市民からなる読書協会が「公共圏」を形成するに重要 な役割を果たしたこのことは,ハーバーマスも「公 共性の構造転換』のなかで指摘している5)

啓蒙期ドイツのコミュニケーションに決定的な役割 を果たした読書協会のなかに職能身分としての法律 家によるものも含まれていた法律読書協会の創設が 最初に認められるのは,1799年ハンブルクであるとさ れる.当初の中断を経て,1828年以降,今日に至るま で続いているというこの読書協会に附属する図書館に は,創設8年目にして1700点を超える蔵書によって,

主要専門雑誌と著名な法学者の著書が揃えられたとい う.61

読書協会本来の目的が,学術・教養・社交面の向上 であったとしても,読書協会の会員が実際に果たした 役割はそれだけにとどまらなかった1846年に開催さ れた第1回ドイツ弁護士大会で主導権を発揮し職能 団体の社会的地位の向上に努めている.また,1848年 から49年にかけて開催きれた,フランクフルト国民

(2)ドイツ,オーストリアにおける法律家協会 法曹界における自治組織の二つ目としてブラウネー ダーが挙げるのは,法律協会OuristischerVerein,

juristischeGesellschaft)または法律家協会

(Juristenverein)と呼ばれる組織である.u)読書協会と の違いとしては,読書や蔵書という要素が一義的な目 標でなくなり,報告や議論に重点が置かれるように なった例えば,ルドルフ・イェーリング(Jhering,

Rudolphvon,1818-1892)が有名な講演「権利のため

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19世紀中・東欧における法律家の任意団体 83

の闘争」を行ったウィーンの法律家協会では,専門雑 誌の刊行懸賞金や補助金を出して法学の業績に貢献し たり,1867年の基本権条項の整理に貢献したり,ドイ ツ民法典の知見をウィーンの法曹界に広め,ひいては オーストリアの一般民法典の改正作業の着手へと導く 等,立法作業や学術的発展へと貢献したという.

すでに三月革命前からベルリン(1825年),バーゼ ル(1835年),ハンブルク(1846年)の各地で法律家 協会が創設されている.また,弁護士に限っての,定 期的な会合も同時に開かれていた.

ドイツの法律家とハプスブルク帝国のオーストリア 側の組織的交流は1860年代から強まっていったよう である1859年に設立きれたベルリン法律家協会をは

じめとする各地の法律家協会の設立とともに,それら の上位組織としての法律家大会が交流基盤となった 1862年の時点で,すでにドイツ諸邦の都市で法律家 協会が設立されている.すなわちプロイセンの諸都市 ではブレスラウ,ケーニヒスベルク,ポーゼン,シュ ヴェーリン,中部南部地方ではミュンヘン,カールス ルーエ,ギーセンである.続いてより大規模な協会が ハンブルク,ケルン,ライプチヒ,ダルムシュタット に作られた'2)

オーストリアではまず,1861年にウィーンにおいて,

ベルリンを範とした協会が設立されたという.これは 長つづきしなかったが,1867年に再度設立された

ウィーン以外でも,グラーツ(1863年),シユタイア (1867年),ウイーナー・ノイシユタツト(1872年),

リンツ(1891年),現在のチェコにあたるボヘミアお よびモラヴイア地方ではプラハ(1864,1867,1878年),

オパヴァ(1876年),ブルノ(1888年),このほかガリ ツイア地方では,スタニスラウ(1880年),コロメア (1888年),ジエソウ(1889年),ヴエドヴイツエ (1889年),サノク(1890年),サイブシユ(1890年),

クラカウ(1867,1890年)など,ハプスブルク帝国の いわゆるオーストリア側各地においては,法律家協会 が設立された.

の私法,訴訟,刑法,国内行政法規の諸分野にお いて統一した発展へのさらなる是認をはかるよう 努めること,この発展に障害となる問題を指摘し 適切な諸提案を相互に知らせ合い,法の統一を要 求することにある.'4)

この会は任意加盟の協会であったものの,大学の教 授・研究者も含めて,およそ「法律家」と総称される ドイツの法律専門職従事者すべてが一堂に会しその 時々の重要な法律問題について議論した結果を大部な

「鑑定書(Gutachten)」として公刊してきたまた,

今日のように旅行や移動の機会や手段が多くなかった 当時,ここが法律家の貴重な社交の場として機能も果 たしていた1862年に開催地となったウィーンにおい て議長役を務めたライプチヒ大学教授兼ドイツ帝国枢 密顧問官のヴェヒター(Wiichter)は,「人的交流とい う無類の収穫と,磨き抜かれた人々による議論の場」

が大会の意義であると述べている.'5)

このうち設立から1933年までの主要課題には,法 の統一が挙げられており,より具体的には,1866年ド イツ同盟解散まで,1871年のドイツ帝国成立の前後に よってドイツ同盟内,ドイツ帝国内,やがてはドイツ とハプスブルク帝国内のオーストリア側の法的統一へ と変化していったという.'6)

ドイツ法律家大会の開催は,1860年のベルリンから 1908年のカールスルーエまでの間に,1年から3年以 内の間隔で合計29回開かれている開催地のなかに は,ウィーン(1862年,1912年),ザルツブルク (1876年),インスブルック(1904年)といったハプ スブルク帝国の都市も見られる1912年のウィーン大 会では,フランツ・クライン(KleinFranz,1850- 1926)が主催者側の挨拶を述べている.ここで強調 きれたのは「ドイツ人すべての文化的共同体

(Kulturgemeinschaft)」の役割の一端を担うことであ

り,ここで「出自(Stamm)と精神(Geist)」によっ て結びつけられた者たちが活気に満ち,研ぎ澄まされ た意見交流の場を持つとともに,「政治の上でも常に 最高の基盤」を持つようになることである.そうする ことで,「法律家大会が共通の法感情を培う場となり,

法の上での共通点が増えることで,中欧における二つ の大国間の交流促進への軌道を円滑にすることが望ま れる」というのである.'7)

さらに,ドイツ帝国内の法典編纂という「我々オー ストリア人にはあまり関わりのない時期」を経たのち,

再びドイツ,オーストリアが相互に歩みよっているこ とを歓び,「オーストリアの法学は独自の特徴を持つ ことによって,ドイツ法学全体に貢献していることを 誇りに思う」'8)とも述べられている.

(3)ドイツ法律家大会

ドイツ諸邦やハプスブルク帝国の各地で創設された 各法律家諸協会の上位組織(Dachorganisation)とし て位置づけられるのが,ドイツ法律家大会

(DeutscherJuristentag)である'3)

開催目的については,規約の最初に明文化きれてい

る.

第1条ドイツ法律家大会の目的は,ドイツの法 律家間(unterdendeutschenJuristen)の活発な意 見交換と人的交流の結びつきをつくること,広義

(5)

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上田理恵子

ほか,エステルゴム,ショプロン,ケチケメート,

カッシャの法律家協会の名もみられる.

ここで交わきれた意見のなかには,例えばブダペ シュトのトミッチ・ベルトラン(TbmicBertalan)の ように,全国規模の集会を開くことは性急にすぎると いう意見を持つ者もあった.まだ(統一された)法典 がそろってもいないのに,集まっても議論する対象が ない,というのである

集会を開催することに賛成する者のなかでも,弁護 士の全国集会を開くことには賛成できないという声も あった各地の弁護士会が抱える諸問題はそれぞれで 解決しており,全国規模である必要がない.法律家集 会を開く目的と意義は,根本的に別のところにあるべ

きだ,というのである.

そのなかで多数意見となったのは,ハンガリー王国 における法の状況は,すべての法律家の協力により全 国的にまとめられることを必要とする,という意見で あった21)こうして,裁判官,弁護士,検察官,官僚 等といった職種を超えた法律家の集会を開催すること が取り決められ,1870年9月25日に第1回ハンガリー 法律家大会が開催される運びとなり大会規約の作成 など準備が進められた.

3.ハンガリー法律家大会

(])法律家大会設立の経緯

1867年以降にいわれる「ハプスブルク帝国のオー ストリア側」の法律家たちにとって確かにドイツ法 律大会が自国内の法律家協会の「上位組織」であった

では帝国の「ライタ111以西」すなわちハンガリー 王国の法律家たちにとってはどうだったのか

ドイツ法律家大会は,ドイツ語が優位とされた地域 以外の法律家にとっては直接的な上位組織ではなかっ たものの,範例とされたと考えることはできる.以下 では,その事例としてハンガリー法律家会議について 検討したい

1907年に編纂されたハンガリー法学辞典によれば

「法律家大会の理念はドイツに由来し・・・ハンガリー もほどなくしてドイツに従ったのである」と明言され

ている.'9’

この法学辞典の記述内容の大半は,シーグムント・

ヴイルモシュ(SiegmundVilmos)201による法律家大会

の年次報告書に依る.実際のところ,具体的な設立経 緯を知る手がかりは,この年次報告書の創刊号を除い ては見つけにくい

それによれば,ハンガリー法律大会開催の発端は,

1868年11月18日,シヨプロン弁護士総会の決議を会 長ヴカニッチ(WukanichViktor)からブダペシュト 弁護士会にあてて伝える書簡であったことになる.書 簡では,国内と首都に多数ある弁護士会をまとめてほ しい,と要請されていた.1869年の弁護士地方会議を ブダペシュト開催することも求めている.

この書簡内容は,各地の弁護士会にも送られたが,

首都の弁護士会はとくに依頼きれたのである.回答は,

「ブダペシュト弁護士会の代表委員会は」868年12月 4日付の動議を審議し,弁護士会のみならず,およそ ハンガリーにおける全法律家の集会とする,という変 更を加えて支持する」とあったほどなく活動規約 草案が委員会に提出ざれ,必要な準備にはいれるよう に12名の会員による小委員会が組織された間もな く商法典を起草することになるアパーシイ・イシュト ヴアーン(ApathylsMin,1829-1889)や,後の司法大 臣となるシラージイ・デジェー(SzildgyiDezs6,1840 -1901)を含む,ハンガリー法曹界の重鎮たちが集 まった委員会であることがわかるこの小委員会が規 約の草案を提出した後,1869年12月21日から22日

にかけて検討のための会合が開かれた出席者にはハ ンガリー王国司法省,上級裁判所,ブダペシュト裁判 所長官,弁護士会長,会員の半数,ブダペシュト大学 やその他の法科専門学院教授たちが名前を連ねている

この準備作業の過程とドイツ法律家大会とを直接結 びつけることは難しいただ,こうした動きと並行し て,ドイツ法律家大会には第2回を除き,ほぼ毎回の ようにハンガリーの法律家たちが出席していたことは 指摘しておきたい1869年までは1名から4名程度,

1870年のシュツットガルト大会にはアパーシイらを 含めて16名を数える.その後は10名前後が続き,

1912年ウィーン大会では地の利もあってか26名とな る.22'ハンガリーの法律家たちにとって,ドイツ法 律家大会は全く遠い存在ではなかったはずである.

(2)大会規約

ドイツ法律家大会の規約と同様,開催の目的は第1 条に掲げてある.

第1条ハンガリー法律家大会の目的は次の通り である.ハンガリー王国の法律家たちを,学術的 な場における緊密な人的交流と意見交換のために 結びつけること,国内法の必要な改正と発展に向 けて影響力を行使すること,特に自由な法改革に 向けた適切な制度の構築を促進すること.23’

ドイツのように「法の統一」を正面から打ち出して はいないものの,法律家相互の交流や法制度構築への 貢献が調われている.

(6)

19世紀中・東欧における法律家の任意団体

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毎年の開催を原則とすること,常任委員会の構成,

法分野ごとに部会を分けるなど,大会の構成や進行に ついては,ドイツ法律家大会に倣った部分が多い動

議(indiMny)とそれに対する意見(v61emeny)が予 め提出きれ,それらに関する当日の議論(tEirgyalas)

は発言者の氏名を含めて速記録にまとめられる.最後 に動議に関する決議(hatEirozat)が表明される.

開催地については,各地の都市で11頂番に開催される ドイツ法律家大会とは異なり,常にブダペシュトで開 催されることとされた(第4条).24)

弁護士」にかわって,裁判官をはじめとする裁判所の スタッフの参加が増加したことによって「数の上では 少ないが,質の点では十分に埋め合わされた」27)と報 じられてもいる.「裁判官の独立」ないし身分保障は,

19世紀を通じてハンガリー王国司法制度の主要課題 とされてきたが,その実現に向けた軒余曲折は,裁判 所構成員の行動にも強く影響していたことになる.23’

出身地域の内訳について,詳細は後日に譲らねばな らないが,上級裁判所所在地29)に限定して,1870年と 1896年の参加者数を対比してみたのが表2である.

(3)開催回数と参加者数

ハンガリー法律家大会の開催状況,

の通りである.25)

表2王立上級裁判所所在地からの参加者数比較 参加者数は表1

lハ ンガリー法律家大会の開催時期・参加者数

IIJ 1583

注:Siegmund(1870,1896)より筆者作成.地名はハンガ

リー語読みに倣った.カッシャ,ポジョニは現スロヴァ キアのコシツェ,ブラチスラヴァ.コロジュヴァール マロシュヴァージヤールヘイ,テメシュヴァールは現 ルーマニアの,テイミショアラ,ザーグラーブは現クロ アチアのザグレブに該当する.

開催地ブダペシュトからの参加者は,常に群を抜い ていたハンガリー王国のほぼ全域から参加がみられ た第1回大会に対して,第11回大会では,住所に「ブ ダペシユト」と記入している者だけで258名すなわち 全参加者数385名の7割近くに該当してしまうのであ

る.

開催地の1点集中は,とくに地方からの参加者の減 少に結びついた.なかでも,カッシャ,コロジュ ヴァールやマロシュヴァージャールヘイなど,ハンガ リー人以外の民族の割合が多い大きな地方都市からの 参加者が大幅に減少してしまっていることは,単なる 中央と地方の溝という問題を超え、民族問題に関わる

注:Siegmund(1870-1896)より筆者作成

上述の規約第4条によれば,大会は毎年開催される こととされていたが,後半になるにつれ,次第に不規 則になる.会員数についても,第1回大会の1696名 を最高に減少の一途をたどり,第5回ではすでに1000 名を割っている.第10回大会と第11回大会では385 名となっている

参加者減少については,複数の要因が考えられる.

当時の司法制度が整備途上であったという不安定な状 況もその-つである.例えば第6回大会(1876年)に ついては,申込数は依然として1000名を超えていた ものの,「裁判所構成法の抜本的再編成が行われ,数 多くの裁判所が閉鎖」され,その分だけ裁判所スタッ

フの仕事量の増えた結果,出席者が大幅に減少したと 報じられている26)もっとも,その3年後の第7回大 会ではさらに全体数は減っているものの,「地方の

上級裁判所所在地 第1回大会 (1870年)

第11回大会 (1896年)

ブダペシュト 537 258

デブレツェン 8 3

-ノレ 8 2

カッシャ 25 4

コロジュヴァール 48 5

マロシュヴァーシャ

-ルヘイ

43 0

ペーチ

16 3

ボジョニ

11 4

セゲド 11 5

テメシュヴァール 15

ザーグラーブ 5 0

期間 参加者数

1 1870年9月25-30日 1696 2 1871年9月24-27日 1583 3 1872年9月24-26H 1327

4 1873年5月末 1163

5 1874年5月末 962

6 1876年6月末 725

7 1879年10月後半 526

8 1882年10月第1週 453

9 1885年9月20-24日 430

10 1889年9月末 411

11 1896年10月 385

(7)

86 上田理恵子

1895年の時点で,スラヴオニア・クロアチアを含め,

ハンガリー王国内には30の弁護士会が設置されてい た33)1888年から1895年までのブダペシユト弁護士会 所属弁護士数をみれば,829名から1048名に増加して いる.34)比較的参加が容易な地域に勤務・居住するは ずのブダペシユト弁護士会会員たちでさえ1896年の 時点では,大半が参加していなかったことになる.

ことにもなったと推測される.

開催時期や開催地を求める動議はたびたび提出きれ た第5回大会(1874年)において,王国内のほかの 都市での開催をめぐって激しい議論になっていた30)

それでも,圧倒的に多数を誇る首都周辺の法律家たち が,業務の支障をきたすという意見で押し切り,開催 地は最後までブダペシュトであった

ドイツ法律家大会の最初の30回分についてみると,

1年から2年の間隔で,異なる諸都市の開催が実現し ている.3')これに対して,ブダペシュトヘの-極集中 化は,法曹界においても中央と各地方の,あるいは民 族間の溝を深める一方だったのである.

参加者の職種の内訳について,詳細な分類化と検討 には至っていないが,名簿の職業欄には法学者や官僚 まで含め,幅広い名称が並ぶ.とはいえ,いずれの大 会でも,多数派を占めるのは,大会名簿の職業欄に

「弁護士」(Ugyved)と記入している人々であった32)

ただし第1回大会と第11回大会における弁護士の参 加者数は773名から229名へと大幅に減少している.

(4)議題

では,取り扱われたテーマや議論は国内の法律家た ちにとって関心の低いものだったのだろうか

各大会の議題一覧が表3である.ただし実際の題 目は,より具体的な長い文章であったが,表の作成に あたって簡略化している.

目立って多いのは立法や諸原則の確認など,制度構 築に向けての課題が扱われていることである.実務と 密接に結びついた具体的な論点も少なくないおりし も,1867年以降のハンガリー王国は法制度の整備が急 がれていた最中である.1875年には商法典が35)1878

表3.ハンガリー法律家大会における議題一覧

詣祭EC

の徹也

鋤悟寺ぞF学、

7丁百

の閂是信

hl

L。

〕婚外-F0

4工匹1百l;F1二t当0

L監察医の常置について 2民法上の法人について 3.公証人強制の撤回について 4.労働賃金の抑制について 5.証拠としての宣誓 6.法定相続について

7.民事訴訟の問題(宣誓による証明)

8.重罪および政治犯罪における陪審制について 9.刑事裁判手続(刑の宣告)について

10婚外子の保護について 11単独裁判官の管轄について 12.世襲財産制度の廃止について 13.株式会社の設立について 14共同抵当の廃止について

議題

1 1.公証制度について

2.商法と手形法の統一に関するヨーロッパ規模の会議のために 3.死刑制度の廃止について

4.新破産法の諸原則

5.弁護士の位置づけについて 6.婚外子の法的状況について

7.法科専門学校や大学の設置について

8.オーストリアー般民法典の暫定的復活について 9.世俗婚について

10.信用制度の変更について

11.鉄道会社の賠償義務について

12直接主義と口頭主義の導入について

13.治安判事制度の導入について

14~16.会則の変更について

(8)

19世紀中・東欧における法律家の任意団体 87

15.刑事時効について 16.刑事手続について

17.~22設立規約変更について

(前回の残りの議題)・・・2,13,14

(新たな議題)

1.ハンガリーにおける孤児に関する法制度 2.遺留分の譲渡について

3.商事会社の破産における特則

4.刑法典における実行行為の三分割について 5.証拠に対・する自由な判断について

6仮釈放について 7.~8規約変更について

(委員会から提案された議題)

時効制度は妻にも適用されるか?

相続における寡婦の権利 手形法について

会社法について 訴追人と検察官の関係 弁護人と検察官の公平 証拠調べ

準備書面の効力

離婚の合法性について 夫婦財産権について

商人の妻は債権者よりも特権があるか?

国外から国内に向けて行使される償還請求権の効力について 出版犯罪について

行政に対する違反行為と司法判|新 口頭手続における証拠調べの構造 口頭手続と控訴

相続と遺贈

刑事事件における被害の民事的請求

刑事手続における,民事法上の前提問題の証拠調べについて 会則の変更について

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L登記上譲渡された権利に対する,有体物の占有 2.公的行為に対する,官僚と任命権者の損害賠償責任 3.将来の破産法において,保証人の優先弁済の可能性 4手形法について

5.刑事手続における公的訴追と訴追者の権限について

6違法な公権力行使に対する抵抗権の範囲について

7.名誉棄損事件における真実の抗弁の適用について 8口頭直接手続における控訴について

1.登記制度のもとでの,物権の譲渡の方法 2.夫婦間以外の者との遺贈契約の有効』性について 3.手形事件,商事事件のための特別裁判所

4.合併による保険会社の消滅と加入者の契約を解除について

5.破産手続における強制調停の是非

6通常の刑罰以外の,判決による法律上の効果の制限の可否

7.原告の訴えの範囲にもとづく裁判所の行為の制限

8裁判手続の再開について

1.遺留分について

2.債務負担に関わる諸原則について 3.優先弁済権利者の権利保護について

4.財産をめぐる争い以外におけるパウリアナ訴権の適用の可否 5.アメリカ式決闘の刑法上の位置づけ

(9)

88 上田理恵子

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注:Siegmund(1870-1896)の目次より筆者作成.

年には刑法典,1896年には刑事訴訟法典が成立する.

また,王国時代にはついに民法典の完成にはいたらな かった私法一般分野においても,36)法学上の論点から 個別具体的な法実務上の論点については,法典不在の ままで議論されていたことがわかる.ここでは,とく に諸外国の立法例やローマ法が引用されている.,9,, 年に成立することになる民事訴訟法の分野においても,

ドイツ帝国民事訴訟法(1877年)やオーストリア民 事訴訟法(1895年)の成立過程という時期にⅡ乎応し,

37)問題となる裁判法上の諸原則を議論していたと思 われる.この分野における最新の話題であり,法曹界 の関心を惹かないはずはなかった.

このように議題一覧からは,法律家大会も法典編 纂に深く関わる議論の場として活用きれようとしてい たことがうかがえる.

したがって,議題や議事録を概観したかぎりでは,

一貫して法専門職者たちにとって興味深いはずの議題 が並び,前半期に比べて質が低下したとは考えにくい

むしろ参加への意欲を失わせていったのは,議題よ りも他の要因が大きかったのではないだろうか例え ば,大会自体の方針が関係していたのではないか

この点を考えるに当たって繕<必要があるのは,第 1回大会開催と同じ1870年に創刊された専門雑誌『マ ジヤールテミス」である.38)刊行したのはハンガ リー法律家大会であるその1879年10月21号に掲載

きれたファイエル・ラースロー(FayerLdszl6,1842-

1906)の言葉は,法律家大会の担う役割について,

ドイツ法律家大会の在り方とは異なる方向を目指して いる.ハンガリー法律大会は「政治的立場を持ってい ないし,持ってはならない.この大会は,法的統一の 維持と司法における中央集権化という二つの課題を同 時に満たすことなどできない純粋に社会的かつ学術 的であるべきだ」39)何が「社会的」「学術的」とい えるのか白体が争われているが,ファイエルの考えで は,「法律家という職能団体の共同意識を強め,人的 交流を深めて裁判官,弁護士,教授,公証人といった

|’

6.第一審の事実問題に対する上訴の是非 7.裁判官の任命および昇進準則の法定について

8区裁半||所の管轄に,所有権争いに関する裁判手続も含めるべきか?

1出身地法または居住法と国際私法 2遺留分減殺の程度と適用原則 3.発明・特許法について 4.受動的手形能力について 5貯金局預金の法的性質について 6刑事手続き開始における諸問題 7.法学教育の改革に向けて

8法律による授権にもとづく省令の改正について

8 L水利法制定のための諸原則について

2民法典における第三者のためにする契約の効果について 3.登記簿に記入される書式の形式的効力について

4郵便貯金局預金者の権利保護立法について

5.国債およびそのほかの有価証券の分割購入に関する諸原則 6刑事手続について

7.行政裁判所の構造,組織 8弁護士法の改革に向けて

手続の諸原則

10 1.所有権取得の条件としての動産の譲渡について

2業務上の事故にそなえての労働者の保険強制加入の在り方について a株式取引紛争・のための特別裁判所の要否

4刑事訴訟手続における予審の公開性の程度 5.法学教育の改革について

6口頭主義にもとづく裁判手続について

11 1.所有財産から生ずる収益の扱いについて 2組合法について

3.一般市民の保護をl=|的とする保険業者の権限について 4部分判決の導入について

5.宣誓にもとづく当事者の証言について

6最高裁判所への法律問題に関する上告について

(10)

19世紀中・東欧における法律家の任意|J1体 89

それぞれの枠を超えること」と「抽象的な学問上の問 題ではなく,生活に密着した課題に取り組むべきであ り,法制度を準備したり,法専門職集団としての意見 にさからうような法律の成立を阻止すること」である という.

フアイエルは法律家大会の常任委員の一人で,1896 年刑事訴訟法典の編纂および陪審制の導入を推進した ことでも知られる.40'大会の設立方針についても少な からず影響力を行使したと推察できるその人物の方 針とは,少なくとも特定の政治的立場に与することな く,社会生活と結びついた法学的見地,法律家の視点 をこの大会によってまとめあげていくことだったよう

である.

ハンガリーの法律家たちの多数派がとくに弁護士 層が,それに賛同し続けたかどうか,大会の開催を重 ねるごとの参加者の減少が答えとなっている推測の 域を出ないが地方の法律家にとっても,ブダペシュ トの実務法曹にとっても,大会での議論と決議が,常 に法実務や立法にただちに反映されるという確信がも

てなくなってきたのではないだろうか

会員数の迅速な増加により会費の確保もさることなが ら寄付や寄贈,さらには司法省からの補助金に支 えられていたからである独自の出版局からは数多く の出版物が刊行され,活動内容も多岐にわたった

王国時代に最後の法律家大会となった第11回大会 会長就任挨拶の中で,ジェーリは大会継続への努力を 怠らぬように呼びかけている

今回の開催までには,これまでよりも長い間か かりましたしかし26年前にハンガリーの法律 家たちを覆った愛国の炎が燃え,法の改革におい て有益な共同作業が始められ,法律家大会が再開 したというときにそれが藁に点けられた炎のよ うに,最初は勢いよく燃えざからせるものの,自 らを焼きつくしたのちは,あとかたもなく消え 去ってしまうようであっては,断じてなりません.

そんなことをしたら,ハンガリーの法曹界の人材 は枯渇し,国のための作業は停滞しざらには,

より危険で嘆かわしい事態を惹き起こしてしまい ます.すなわち,自国の法生活の発展と繁栄とい う目的こそ,さまざまに利益が拮抗しても肩を組 んでともに力をつくす価値があるのですがそれ らに対する無関心をもたらしてしまうことになっ てしまうからです.43)

(5)法律家大会から法律家協会へ

「マジヤールテミス』の1879年12月18日号には,

内務省が法律家協会Oogdszegylet)の設立を認可し たことが報じられている.`u)各地に点在する多数の法 曹関連諸団体の活動を結びつけるような団体が必要で あるというのが理由である.法律家大会との違いは,

「活動までに時間がかからないこと,常にあらゆる法 分野の動きに注意を払い,実効性のある思想や,制定 前の法案に対して適時に反応し支持することができ

ることにある」とされている法律家大会の開催にあ たっては,議題の常任委員会への提出大会準備事務 などの時間がかかり法に関わる動きにより迅速な 対応が求められたということである.

一方。国内の法曹界の統合の場として,法律家大会 自体の重要性は依然として認められ,しばらくは二つ の団体が併存することとなった.第11回大会の会長 を務めたジェーリ・エレク(Gy6ryElek)やファイエ ルをはじめ,法律家大会の常任委員と法律家協会の設 立メンバーたちをはじめ,会員の多くは重なっていた と思われる.421また,二つの団体から発行される機関 誌に互いの活動に関する言及はみられないしかしな がら,少なくとも法律家大会が消滅するまでは,あく

までそれぞれが異なる団体であった.経済的基盤につ いて,法律家大会は,年次報告書の末尾にある会計報 告によれば主として参加費や会費を中心に運営され た自治団体としての立場を貫いたこれに対して,法 律家協会には当初からより強固な基盤を持っていた

しかしながら第12回大会が開催されることなく,

法律家大会は消滅してしまうこととなる.

法律家の国外流出や法制化への無関心という,

ジェーリが心配したような危機的状態にはいたらな かったのは,法律家協会が法律家大会の役割をも受け 継いだからだ,と解釈することもできる.

それでも,はたして法律家協会が法律家大会に代 わって国内各地の法律家たちのネットワークとしてど こまで機能しえていたのかこの問いに答えるために 必要な作業,例えば法律家協会の活動の詳細と評価に ついては後日に譲り,ここでは以下の点のみ指摘して おくにとどめたいすなわち,19世紀末のハンガリー テE国の法律家たちは,とくにブダペシュトの法律家た ちは,意見集約や交流の形態として,専ら自発的に運 営される学術的な全国集会よりは,本拠地と会員数,

経済的基盤が安定した常設的な.そして何より政治的 な団体を選びとった,という点である.

4.おわりに

中・東欧地域の19世紀に次々と登場した法律家の

(11)

90 上田理恵子

など,開会時には330名しか出席がなかった.最高 は同年冬の600名であった.このうち,157名の外交 官,66名の弁護士,学者や官僚を含めると,法律家 は350名を超えたという.上山(1966)423頁.

8)Brauneder(1994)98 9)Brauneder(1994)99 1o)Brauneder(1994)lOO ll)Brauneder(1994)lOL 12)Brauneder(1994)102 13)Brauneder(1994)103.

14)Olshausen(1910)4 15)Olshausen(1910)16 16)Brauneder(1994)103.

17)Friedliinder(1927)1025.

18)Friedliinder(1927)1025.

19)Markus(1907)451

20)本稿では,本文中のカタカナ表記についても,ハン ガリー人については,ハンガリーの慣例に従い人名 は姓を先に記載することとする

21)Siegmund(1870)XI-XIL

22)ハンガリー,ドイツ,オーストリアの法律家の交流 はブラウネーダー教授主催によるウィーン大学法 制史研究所とブダペシュト大学法学部との合同セミ ナーのうち,1994/95年度冬学期実施分のテーマでも あったドイツ法律家大会の名簿中のハンガリー出 身者については,直接にはこのセミナー報告資料を 参考とさせていただいた

23)Siegmund(1870)FUggel6k

24)Siegmund(1870)FUggelek当時の表記ではブダと

ペシュトが分かれていたことを受け,"Buda-Pesf,と

なっている.首都がブダペシュトBudapestとなった

のは1872年である

25)開催時期,回数についてはセーチエニ国立図書館 所蔵の年次報告書に依った資料残存状況により,

期日の特定にいたらなかったものもある.参加者数 については,年次報告書補遺の参加者リストに依る か,リストがない年は,翌年の会計報告をもとに推 計してみた.

26)JMsrMIeB伽er(1876)344 27)んrMsc比B伽er(1879)533.

28)Stipta(1998)125-133.

29)王立上級裁判所については1868年裁判所更生法

(法律54号)に規定されている.

30)Siegmund(1874)

31)Olshausen(1910)Z0-2L

32)年次報告書の名簿によれば,1871年大会では参加者 数1583名中773名,1896年大会では385名中229 名が「弁護士」としている

33)1874年法律34号.

34)ハンガリー王国に関する司法統計はAzOrszdgos MagyarkimStatisztikaiHivatal(1895)MugyQr MMkqjMtj"WljjfOlyomBudapestl895による

35)商法典の成立過程については拙稿(1996)

36)ハンガリー民法典編纂の試みについて概観したもの

任意団体にはまず読書協会,次いで法律家協会という 形態が登場してきたドイツ法律家大会は,このうち ドイツ語を用いる法律家協会においては,直接的な上 位組織として位置づけられた言語の異なるハンガ リー王国においても,範例としてハンガリー法律家大

会の設立に影響力を及ぼしたと明らかになった.

しかしながら,そのハンガリー法律家大会の設立経 緯と,開催状況を概観するうちに,ドイツ法律家大会 のように王国内の諸法律家協会の上位組織として存続 することはできなかったと明らかになった.

本稿の考察過程から,ハンガリー王国内の司法界が 首都ブダペシュトと他の地域との溝が格段に深かった こと,にもかかわらず,国内の法曹界として意見の統 一をはかろうとしたことに無理があったこと,立法作 業を中心とする法をめぐる目まぐるしい動きに大会で は対応しきれなくなってきたことなどが浮かび上がっ てきた.

合計11回の開催で終わったハンガリー法律家大会 を過大評価するのは適切ではないしかし,少なくと もドイツ語圏以外で,19世紀末に中欧における全国規 模の法学・法曹界ネットワークの構築を実現させた点 については,今少し評価しここで行われた具体的な 議論や人々に注目するべきではないだろうか

今日になって,「ハンガリー法律家大会」という名 称が復活しているという.法専門職集団の在り方をめ

ぐる議論は,まだ尽きないようである.

(付記)本稿は,科学研究費・萌芽研究「中・東欧に おける法専門職の近代化過程に関する研究」の研究成 果の一部である.

')代表的なものとして「東欧における法文化一伝統と 継受一」(2005-2007年度)をはじめとする,マツ クス.ブランク.ヨーロッパ法史研究所(在フラン クフルト.アム.マイン)による数々のプロジェク トとその刊行物,ザクセン科学アカデミー(在ライ プチヒ)のプロジェクト「東西ヨーロッパの接点と してのザクセン=マグデブルク法」などが挙げられ る.

2)Brauneder(1994)

3)McClelland(1995)13,Pokrovac(2007)

41三成(2005)137-167頁参照 5)ハーバマス(1995)103頁 61Brauneder(1994)97.

7)1848年にフランクフルトの聖パウルス教会で開

かれたドイツ最初の国民義会の議員数は831名で

あったが,ボヘミアやモラヴイアのスラヴ人不参加

(12)

19世紀中・東欧における法律家の任意団体 91

に邦文では伊藤(1996)がある.

37)両者の成立過程については拙稿(19981 38)GOnczi(2006)266-277.

39)MJ8ya,7肋川(1879)Nr451879」O2L

40)拙稿(2000)参照

41)Mwar771e川(1879)Nr、54187912」8.

42)ノピgyz6ACj,2W(1931)

43)Siegmund(1896)Tdlgyalasok,4

r6szvenytdrsasdg

9・McClelland,C/Merl,S/Siegrist,H(edj(1995)

P、/l9ssjo"sj〃Mo`er〃Easje"1EⅨmpe・Berlin:

Duncker&HumbloL

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19.三成美保(2005)『ジエンダーの法史学一近代ド イツの家族とセクシュアリティーj勁草書房.

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2L拙稿(1998)「1895年オーストリア民事訴訟法の 成立過程」一橋論叢ll9-LlO1-118

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Budapest:Pallasirodalmiesnyomdai

1.

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5.

●●●}〃【叩〉『〃〃,(})(⑪)

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