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安 井 息 軒 の 経 世 論

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安井息軒の経世論

─ かの思想の素描として

山口   智弘

はじめに

安政五ヶ国条約の締結による対外交易の本格化、それが徳川日本の世に最初にもたらしたものは、空前の物価騰貴であっ た

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。そして、幕末の政治混乱はこれに拍車をかけ、もはや容易には収拾のつかぬ状況に陥っている。

近来物価格別騰貴如何ともすべからざル勢。富ハ益富を累ね。貧ハ益窘急ニ至り候趣。畢竟政令不正より所致。民ハ王 者之大宝。百事御一新之折柄。旁被悩宸衷候。智謀遠識。救弊之策有之候ハゞ。無誰彼可申出候 事

((

。( 「慶喜公御実紀」 慶応三年十二月晦日 (

「 無 誰 彼 可 申 出 候 」 と は、 物 価 高 騰 へ の 対 処 と い う 難 題 が 政 権 奪 取 直 後 の 新 政 府 に 如 何 に 重 い も の で あ っ た の か を 象 徴 し た文句である。 「御一新」の騒乱は、一人の老儒の生活にも影響を及ぼしている。

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征 東 の 師 興 り て、 都 下 騒 然 と す。 領 家 村 の 高 橋 子 善

しむ。明日遂に地を領家村に避 く

と 旧 有 り。 三 月 十 二 日、 其 の 子 吉 甫 及 び 二 弟 政 長 を し て 来 迎 せ

((

。(安井息軒「息焉舎記」 (

慶応四年初春、東征軍の京進発の報を受けた江戸は不穏であっ た

((

。これに先立って、江戸の自邸を火災延焼によって失っ ていた安井息軒(一七九九~一八七六 ( は、旧主筋に当たる日向飫肥藩の藩邸に寓居している。新たな住居の選定と予想さ れる戦火からの避難、二つの課題を抱えた息軒は、知人の高橋子善の伝を頼り、日光街道鳩ヶ谷宿の近郷である領家村に居 を移したのである。 東征軍が関八州に進出した際には、砲声がこの村落に達したこともあっ た

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。また、江戸近在に潜伏する奸賊による血生臭 い夜襲も屡々あったようであ る

((

。だが、領家での息軒当人の生活は、概ね平穏そのものであった。

二 十 七 日〔 引 用 者 補: 慶 応 四 年 三 月 〕[ ……] 未 位 僧 泰 玄

と二十年、考究未だ全からず。乃ち復た之を参訂 す 『戦国策補正』昨日〔引用者補:慶応四年四月四日〕業を卒ふ。辛酉の歳の著書『書説摘要』 、今茲の戊辰より距たるこ ず。

僧 一 運 を 攜 へ て、 吉 田 医 と 来 た る。 為 に『 論 語 』 十 章 を 講

((

。(安井息軒『北潜日抄』巻一 (

近 隣 の 僧 侶 や 医 者 を 相 手 に、 折 に 触 れ て『 論 語 』 の 講 釈 を 行 っ て い た よ う で あ る。 ま た、 『 戦 国 策 補 正 』 を 取 り 纏 め た ほ か、未完であった『書説摘要』の脱稿を果たすべく、その内容の再考にも取り組んでいる。 一連の紀事元である息軒の日記『北潜日抄』を見る限り、彼は当時の政争に直接関与していない。では、混迷を極めた幕 末 日 本 の 世 相 に、 彼 は 全 く 無 関 心 で あ っ た の で あ ろ う か。 一 時、 昌 平 黌 の 教 官 を 務 め た 息 軒 は、 「 儒 者 」 と し て の 自 負 ゆ え

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に、複雑な思いをその心中に抱えていた。

予年十三にして始めて学に志し、必ず事業を著して以て世に顕さんと欲す。始め以て伊東氏に蔭仕し、後に謬りて幕府 に挙せらる。仕籍に在ること前後三十年、而して才は時と違へて、為す所を一にすること有る能はず。衰年頽齢、始め て 素 餐 の 羞 ず べ き を 知 る。 抑 も 亦 た 晩 し。 幸 と す る 所

に勝 る ところを暁り、聖人礼を制して法を建つるの意、彷彿乎として其の一斑を窺ふ。其の学に得る、殆ど都下三十年の読書 を誤るの罪を免る、其れ是れのみ。今や身を奉じて以て退き、此の土に游息す。目は稼穡の艱難を覩、心は小民の依る

途 は 達 せ ず、 廟 乎 と し て 議 せ ず、 燕 乎 と し て 与 ら ず、 僅 に 国

((

。( 「息焉舍記」 (

息 軒 の 学 術 に 対 し て は

((

、 彼 の 著 し た 多 数 の 中 国 古 典 籍 の 注 釈 書 に 基 づ い た 後 代 の 高 評 が あ る も の の、 彼 の 思 想 に つ い て は、今日では殆ど知られていない。だが、彼の著述を通見すると、目下の政治への強い感興があり、そして、自身の学術に 立脚した方策を内に蔵していたことが分かる。本稿で主に論じるのは、この息軒による経世論である。いま、徳川後期に考 拠の学に身を投じた一人の儒者の思索を掘り起こし、その先行儒説と近代日本との関係を明らかにすることで、徳川後期に 在っては藩校教学として武士の教養となっていた程朱学と異なる観点か ら

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、当時の漢学者の思惟を追ってみようと思う。

一   徂徠学に親しむ息軒

息 軒 は 日 向 飫 肥 藩 の 安 井 滄 洲( 一 七 六 七 ~ 一 八 三 五 ( の 次 男 と し て 生 ま れ て い る

(((

。 滄 洲 は 徂 徠 学 に 傾 倒 し た 儒 者 で あ っ た。此学は徳川中期に一世を風靡したものの、徂徠没後には程朱学と国学の双方から苛烈な批判を浴びており、滄洲の生き

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た時代には既に往時の勢いを失ってい る

((1

。更に、寛政異学の禁によって、程朱学以外の儒学諸派の退潮が顕著になった、と も言われてい る

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。見方によっては、滄洲の学風は如上の趨勢に逆行するものであった、と言えるのかもしれない。 行論でまず押さえておくべきは、滄洲のこの学風が息軒の儒学に少なからぬ影響を与えた、ということである。 予 幼 く し て 家 庭 に 学 び、 我 が 伊 物 二 先 生 の 説 を 与 り 聞 く を 得 て、 固 よ り 既 に 宋 学 の 非 を 疑 ふ

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。( 安 井 息 軒「 論 語 集 説 序 」 (『論語集説』明治五年刊本 ((

本人の述懐にも見られるように、幼年期の息軒は実父滄洲から儒学を学んでいる。このときに、伊藤仁斎の古義学と併せ て授けられたのが、荻生徂徠の儒説であった。徳川中期のいわゆる「古学」に親しんだ経験によ り

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、程朱学の教説に対する 疑義を早くから宿していた、と息軒は言うのであ る

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。 西周や津田真道などの幕末維新期の思想家には、徂徠学からの影響を確認することができ る

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。つまり、徂徠学は藩校教学 の地位を広範に獲得することはなかったものの、後の一部の知識人に伏流として命脈を保っていたようである。このことか ら す れ ば、 息 軒 も ま た、 徂 徠 学 の 諸 論 が 自 己 の 学 問 に 流 れ る 幕 末 維 新 期 の 学 者 の 一 人 で あ っ た、 と 言 え る で あ ろ う。 た だ し、息軒著述を繰っていくと、徂徠学の学習が単に程朱学の相対化に寄与したというばかりではなく、彼の思想自体にも深 い影響を与えていたという興味深い面が浮かび上がってくる。このこと、以下の節で仔細に論じていく。

二   商高農低

─ 消費経済本格化の影

青年期以降、息軒が多くを過ごしたのは江戸、あるいは、東京である。彼がこの地を初めて訪れたのは、齢二十六のとき のことであった。昌平黌への入門がその目的であ る

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。鄙びた飫肥とは異なる巨大都市の光景に、若き息軒は衝撃を覚えた。

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予 年 二 十 余、 始 め て 江 戸 に 来 り て、 其 の 閦 闠 の 繁・ 貨 物 の 富 を 見 て、 喟 然 と し て 歎 じ て 曰 く、 「 盛 ん な る か な 居 る こ と や。 是 れ 以 て 楽 み て 死 を 忘 る べ し 」 と。 [ ……] 蓋 し 都 民 は 貿 易 を 以 て 生 と 為 し、 十 金 の 利、 以 て 衣 を 美 し て 食 を 珍 す べし。其の巧算妙運の者に至りては、貨殖十年、便ち能く巨万の富を致 す

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。(安井息軒「艾穂菴記」 (

徳川氏の関東移封から二百数十年、膨張の一途を辿って繁栄した江戸の姿がそこにはあった。息軒を何よりも驚嘆させた のは、往来を行き交う人の多さであり、また、流通する諸物の豊かさである。出生とともに、人間には死が不可避なものと して運命づけられている。それゆえ、諸賢は苦悩に満ちた思索の中でその意味を問い続け、やがて、自身の生の終焉を受け 入 れ る の で あ る。 と こ ろ が、 こ の 江 戸 で の 生 活 は、 そ う し た 人 間 の 苦 悩 を 忘 却 の 彼 方 へ と 追 い 遣 る 程 の 快 楽 に 満 ち た も の だ、と彼は感じたのである。 また、絢爛な江戸を飛び交う金銀を息軒は捉えている。江戸の商家は交易に従事し、その利潤に沸いている。また、巧妙 な投資運用によって、僅かな元本から巨万の運用益を叩き出す者もいた。江戸に住まう人間の生活の奢侈を支えるのは、そ うした投資と商売とがもたらす莫大な金子だと、彼は洞察するのである。 田舎から都会へ出た若者は、見慣れぬ華美に目が眩み、やがては、都会人以上の豪遊に溺れる、ということが往々にして ある。ところが、息軒の場合、そこでの奢侈に好感を持つことは遂になかった。江戸の繁栄に貢献のある商人へ彼が向けた 眼差しは、実に冷淡である。

夫の商なる者何ぞ用ふる所あらんや。之を治平に用ふれば、則ち詐りて以て奢り、之を戦陣に用ふれば、則ち怯へて以 て弱し。一たび心を悖らしめば、群起して之を怨み、其の口は以て人を惑はし、其の勢は衆を服するに足り、短を持し て長を評し、以て大吏を劫す。四民の中、習ひ焉より劣なるは莫 し

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。(安井息軒「務本論」下 (

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士農工商の四民の中で、最下層を成しているのは、あくまでも「商」である。しかし、徳川日本の中で積み上げた豊かな 財力を背景に当時の世を謳歌したのは、他ならぬ商家であった。その商家に対して、惰弱的かつ詐欺的な習性は治乱のいず れにも無益、また、詭弁によって人を籠絡して吏人と対峙する様は最も低劣、とさえ彼は考えている。 どういうことか。現況に至るまでの政治・経済の展開について、息軒は以下の二点を手掛かりとした考察を行っている。 第一は、徳川政権樹立による戦乱の終焉である。

乱の始平に当たるや、上下帖然として、死囚の獄を脱するが如し。嗜好は未だ動かず、苟も生くれば則ち已む。故に衣 は其の暖を取り、食は其の飽を取り、居は其の風雨を蔽するを取る。奇抜滛巧の物、以て其の心を蕩かすに足らず、其 の欲は足り易く、其の求は給し易し。是の時に当りて、風俗は淳厚、礼教以て其の分を限ること無しと雖も、未だ以て 患 を 為 す に 足 ら ざ る な り。 治 平 漸 く 久 し く し て、 人

の美ならんことを求め、食飽きて又た其の甘からんことを求め、居風雨を蔽して又た其の華麗宏壮ならんことを求 む 動かざる能はず。嗜欲既に動きて、則ち視聴は外に誘はれ、心は物と化して、底極する所無し。故に衣暖くして又た其

革 の 惨 を 知 ら ず。 身 は 逸 に し て 心 は 安 ず れ ば、 則 ち 嗜 欲 の 念、

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。 (「務本論」上 (

戦乱の世は混沌としており、そこでは、日々の生存こそが最優先される。そのため、諸物については、生存のための実用 性がまず求められた。つまり、衣服は寒さを凌げる保温性が第一となり、食については、臓腑の空洞をただ埋めるものが必 要とされる。また、住居については、雨露に身を晒さぬ空間の確保が優先されたのである。ところが、泰平の世での産業整 備 に よ り、 最 低 限 の 実 用 性 が 諸 物 に 備 わ っ た。 す る と、 人 々 は そ れ の み に 満 足 せ ず、 無 用 の 華 美 を そ こ に 追 求 す る よ う に なった、と息軒は言う。

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第二は、織豊政権以降の貨幣経済の本格化である。

豊臣氏起りて之を承り、遂に大いに其の法を変ず。凡そ穀の取る可き者、多方之を収め、而して尽く之を都会の地に糶 る。 其 の 険

金幣に困ずる、亦た未だ今日の如く有らざるな り て銭無ければ、遂に其の生くること能はざらしむ。故に生民而来、金幣の盛なる、未だ今日の如く有らず。而して民の 財として其の肆を蔵せざる無く、和僱僦宅、又た其の柄を握り、遂に天下の人をして、貴賤無く、貧富無く、一日とし 物を買て以て商売処中に供用せざる能はざれども、銭は買て之を售るを貴ぶ。一貨として其の手を経ざること無く、一 是に於いて小民は其の物を売りて以て金を輸さざる能はざれども、金は得て衣食すべからず。則ち在上の人、亦た其の

に 便 な ら ざ れ ば、 則 ち 直 ち に 変 じ て 金 と 為 す。 而 し て 百 菓・ 草 木・ 江 海 の 税、 又 た 皆 な 之 を 銭 に 折 す。

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。( 「務本論」中 (

租税として納められた諸国の年貢米は、金銀を始めとする貨幣へと交換され、貨幣を介した諸物の売買が一般化するよう になる。貨幣経済の本格的な到来である。そのうねりは、老若男女・貧富貴賤の別を問わず呑み込んでいった。通貨なくし ては諸人が生存できぬ時代が到来した、と息軒は言うのである。 華美の追求と貨幣経済の本格化により、徳川政権下の日本で消費経済が急速に発達した、と息軒は考察している。先述の 通り、投機によって僅かな元本から莫大な富が生み出される様子を、彼は江戸で目の当たりにしている。その一方で、後述 するように、農業は利潤が少なく労力がかかる。すると、人間はどのように身を処するのか。

凡百の玩好、耳目を滛して心智を蕩かす者、紛然として並出し、一物の価、動もすれば千金を糜し、利の在る所、人情 奔注す。是に於いてや、民は南畝を去り、争ひて什二を逐ひ、市井日に蕃り、田野月に荒る。而して天下始めて困 ず

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(「務本論」中 (

人間を魅了する物品が次々と世に登場すると、人々はそれらを追い求め、その需要の高まりによって、法外な値段がそれ らに付けられる。装飾と美麗を凝らした諸物を手中に収めんがために、諸人は金銀の飽くなき獲得へと駆り立てられ、その 結果として、城下の繁栄と農村の荒廃として顕著となった商高農低とも呼べる事態が生ずるに至った、と考えたのである。

三   農政の充実

こ れ ま で に 度 々 引 用 し て い る 安 井 息 軒「 務 本 論 」 の「 務 本 」 と は、 無 論、 『 論 語 』 学 而 篇「 君 子 務 本、 本 立 而 道 生 」 を 踏 ま え た も の で あ ろ う。 息 軒 に よ る『 論 語 集 説 』 は、 「 凡 て 事 は 当 に 専 ら 其 の 本 を 務 む べ し。 其 の 本 既 に 立 ち て、 則 ち 其 の 道 自 然 と 滋 生 す。 猶 ほ 其 の 本 を 培 ひ て、 枝 葉 自 ら 蕃 茂 す る が ご と し

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」 と い う 案 語 を 此 句 に 付 し て い る。 諸 事 へ の 応 対 と し て は、末流への対処を先務とせず、あくまでも根本の励行と確立が肝要だと解した訳である。つまり、諸事の根源とそれに処 するための大綱領とをいま論じる、という姿勢が「務本」二字から窺えるのである。 前 節 の よ う に 現 状 を 認 識 し た 息 軒 は、 件 の「 務 本 論 」 で 三 つ の 政 策 綱 領

─ 法

制 整 備・ 商 業 抑 制・ 農 業 奨 励

─ を

披 瀝 す る。法制整備とは何か。上古の聖人による制礼について、息軒は次のように考察する。

宮 室 に 度 有 り、 衣 服 に 章 有 り、 葬 祭 に 節 有 り、 冠 昏 に 量 有 り。 燕 饗 贈 遺、 以 て 奉 養 の 属 に 至 る ま で、 皆 な 其 の 制 を 定 め、之をして以て其の情を通じて、以て其の財を傷ること能はざるに足らしむ。海内喁喁、自ら範囲の中に入りてや、 其の欲を縦にすること能はず。是れ之を「礼以て之を限る」と謂ふ。然れども猶ほ其の侈靡に流るるを恐れるや、故に

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又た其の形を制し、以て其の俗を定 む

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。( 「務本論」上 (

礼制によって、宮室・衣服に規格・基準が定められ、また、冠婚葬祭には一定の節度が設けられている。そして、そこに は際限なき奢侈を抑制する効用がある、と息軒は言う。当今の奢侈については、以下のように、先王による制礼の意義を踏 襲した法制の整備によってこれを抑制し、質素倹約を実現させれば良い、と説くのである。

法制ハ先王ノ礼意ニ本キテ立ルヲ善トス。 『論語』ニ「奢則不遜」 、「倹則固」 、「与其不遜也寧固」 〔引用者補:述而篇〕 ト云ヘリ。天地ノ物ヲ生ズル

限リアリ有限ノ財ヲ以テ無限ノ欲ニ奉セバ、天下ノ富ヲ以テ一人ヲ養フトモ窮セザル

ヲ得ズ。是ヲ以テ聖人礼ヲ制シテ天下ノ財ヲ養ヒ、四海ノ内ヲシテ凍餒ノ民無カラシム。故ニ倹約ハ礼ニ及バザル

有 リテモ美徳タル

ヲ失ハズ。今日制度立タザル時ニ当リテ、礼ヲ論スルハ迂遠ニ似タレトモ、其意ヲ祖トシテ法制ヲ立 ル

ハ難キニアラズ。倹ニ本ヅキ法制ヲ立ツルハ、先ヅ衣・食・住ノ三ヲ首トシテ、冠・婚・葬・祭ノ四礼ヨリ始ムベ シ。中ニモ衣・食・住ノ三ハ延宝・元禄以来上下ノ奢リ甚シ。 (安井息軒『救急或問』 (明治三十五年成章堂鉛印本、以 下同 ((

ここでは、奢侈を制限するための新法制定の整備ではなく、上古の先王によって制作された礼の意義を踏襲した法制でな ければならない、と息軒が考えたことに留意しておきたい。 では、商業抑制とは何か。息軒は市場の第一義を諸地域の不足物の融通とし、そこで過度の売買利益が発生することを認 容しない。徳川日本において、物品の流通・販売を一手に担ったのは商家であった。そして、その商家の事業にも制約が設 けられている。業種ごとに構成家数の定められた「仲間」が形成され、物品価格は彼らの間で概ね決められていた。この統

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制経済の下で、商家への富の集中は必然である。商家の台頭に歯止めをかけるために唱えられたのが、諸税物納である。

上の必ず須ふる所にして民の願ひて以て抗納する所の者必ず多く、其の願ふ所を取りて其の須ふる所に頒ち、凡て天下 の人をして其の穀を食して其の物を用ひしむ。必ず已むを得ずして、然る後に、之を市に買はば、則ち農に売を賤むの 患無く、士に買を貴ぶの慮無し。士買はざれば、農売らず。則ち末に趨るの民、独り其の利を擅にすること能はず。夫 れ 民 の 末 に 趨 る 者、 特 だ 其 の 逸 に し て 利 を 多 く す る を 以 て の み。 今

浪の民、必ず翻然として慮を改 む

以 て 其 の 身 を 楽 し む に 足 ら ざ れ ば、 則 ち 游 手 浮

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。( 「務本論」中 (

流通への商家の介入を極力排し、その勢力への財貨集中の軽減を図ったのである。また、過剰な購買欲の抑制による需給 バランスの改善が期待されている。それにより、物価高騰に一定の歯止めがかかることであろう。 そして、増産に関わる重要な提言として、農業の充実が示されている。

本有らざること無きなり。其の本を培ひて枝葉栄へ、其の本を傷りて枝葉枯る。物皆な然り。而して国家甚しと爲す。 且つ古より豪傑の士、孰か農の国の本たりて務めて之を培ふことを知らざる。然れども、天下の勢、駸駸乎として常に 末に趨 る

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。( 「務本論」上 (

国家の根本課題として、息軒は農業を位置付けている。そして、上古以来の賢傑は総じてこれを認識し、その養成に励ん できた、とも主張している。彼が農業重視を主張したのは、先賢の所行の踏襲というばかりではなく、自身の農業観に根差 したものであった。

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夫れ農の四民における、其の事最も労にして、其の利最も薄く、又た水旱風蟲の災有り。此れ民の南畝を去ることを軽 ずる所以なり。然れども其の身は康健にして、其の家は数百載に綿延たる者を問はば、常に農に在りて商工に在らず。 蓋し其の事は労にして、故に其の身は以て健すべし。其の利は薄く、故に其の欲は以て節すべし。水旱風蟲の災有り、 故に預備して之を宿蓄する者詳し。此れ皆な久安の道を致すなり。且つ人の世に処するや、一家団欒、寒ければ以て衣 するに足り、飢れば以て食するに足り、嫁女娶婦、歳時に土物を供へて、以て其の先を祭り、濁酒枯魚、親姻と相ひ慰 労す。是れ亦た以て其の身を老ゆるに足る。而して農は皆な之を得。夫の都民の朝に萃堂に坐りて、夕に溝壑に赴きて 以て速に其の祀を絶つ者と、何ぞ翅だ霄壌ならん。此れ稲守の眷眷乎として本づく所以な り

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。( 「艾穂菴記」 (

四民において、最も過酷かつ薄利であるのは農民である。また、収穫高は天候に左右される。それゆえに、安易な棄農者 が多 い

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、と彼は言う。しかし、農作業の中で鍛えられた身体は壮健そのものであり、危機管理として食糧を常に備蓄し、祖 先祭祀を連綿と継承し得る唯一の存在が農民である、と息軒は説く。

農を重ずるの邦、其の俗は陋に似て実は美、商を貴ぶの国、其の治は盛に似て実は衰。故に商は其の四を去り、奢侈は 必ず衰へ、農は其の三を増し、貨財は必ず饒。此れ理の至て見易き者な り

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。( 「務本論」下 (

一見では、商業が農業に勝っているようではあるが、実は重農が重商に優越すると逆説的に言える、と考えたのである。 中世日本と比べるならば、耕地面積は広がり、収穫高も飛躍的に高まったのは確かである。だが、上述の農民像は、徳川 日本の農民一般を表すものではあるまい。なぜなら、十八世紀以降の度重なる饑饉は、奥羽一円の農村に甚大な被害をもた らし、中でも、天明の大飢饉での凄惨な光景は、当時の語り草となってい た

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— (( —

仙台の封境は六十四万石、実収二百万に至る。侯国の富、其の右に出る者無し。然れども申酉の凶荒、死亡するもの数 万 人、 物 価 踊 貴 し、 上 下 皆 な 困 じ、 鈔 を 制 し 銭 を 鋳 し、 百 方 に 支 吾 す る も、 能 く 其 の 窮 を 救 ふ も の 莫 し

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。( 安 井 息 軒 『読書余適』巻之上(明治三十三年成章堂鉛印本、以下同 ((

壮年期の息軒はかの地を周遊している。その折の見聞を通じて、奥羽における饑饉の惨状を彼は右のように熟知している のである。 すると、息軒がかの牧歌的な農民観を持ったのは何故か、という疑問が残る。管見では、彼の郷里であった飫肥の風景を 下敷として形成されたのではないか、と考える。

我郷国に指して言ふべき程の善教もなかりしか共、土地は西南の端ゆへ、其質朴なること天下に稀なり。古へより民訟 と云ふ事をしらず、我物を覚へしより、二つある牢屋に咎人の入りしこと三四度あり。何時も空牢なり。上に公事奉行 と云ふ者を立てず、偶〻咎人あれば、時に臨て人を択み之れに任ず。中にも大久保と云ふ村あり、此村には小兒まで争 を知らず、草刈農業等に出づるに、誰家の籬にても、押へ竹を結へたる縄切れたるあれば、之を結ふ。路に烟草入手拭 など落としあれば、村中ならば、垣根、田間ならば竹木の枝に引掛けをく。人々此の如くなれば、別に礼も云はず、忝 なしとも思はず、如何なる饑饉にても、年貢の滞りたることなし。男女老弱皆紺染なり。是も藍を作りて紺をかき手製 に染む。手拭は長ければ頬かぶりを為て、士族に失礼すとて皆一尺なり。家毎に農業に出精して皆富有なり。実に上古 の民と云ふべし。 (安井息軒『睡余漫筆』巻一(明治三十三年成章堂鉛印本 ((

息 軒 の 記 憶 の 中 に あ る 飫 肥

─ そ

こ は 紛 争・ 窃 盗 と 無 縁 で あ り、 皆 が 農 業 に 従 事 し て 質 素 に 暮 ら し、 日 々 を 安 穏 に 過 ご し

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ていた。かの人々を、彼はここで「上古の民」と呼んでいる。青年期の息軒が徂徠と共に学んだ仁斎には、正月の和気藹々 とした光景に唐虞三代の世への想いを馳せた言辞があ る

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。この点からすれば、飫肥に住まう質朴で柔和な農民に、唐虞三代 の民の姿を投影したということがあったとしても不思議はない。

四   経世論に流れる徂徠学

奢侈と貨幣経済の進行に深い懸念を示した儒者こそが、滄洲・息軒が学んだ徂徠であった。徂徠が青年期を迎えた元禄年 間 は、 金 銀 を 始 め と す る 通 貨 を 媒 介 と し た 消 費 経 済 が 進 展 し つ つ あ っ た 時 代 で あ っ た。 『 政 談 』 に は、 そ の 現 状 に 対 す る 徂 徠の政策提言が纏められている。

一切ノコトニ無制度、衣服ヨリ家居・器物迄貴賤ノ階級ナキ故、奢ヲ押ユル規則モナシ。是聖人ノ礼法・制度ヲ立タル ト亦表裏ノ相違也。 制度ヲ立テ是ヲ守ラスルトキハ、人々其節限・分量ヲシル故、分ニ過タル奢ハ自然ト無シテ、世上ニ費ナシ。制度ナケ レバ、上ヨリ驕ヲスルナト制シ玉フト雖モ、是迄ガ分限相応ニテ、是ヨリ上ガ奢リ也ト言符刻ガナケレバ、何ヲ当所ト ス ベ キ ヤ フ ナ シ。 華 美 ヲ 好 ム ハ 人 情 ノ 常 ナ ル 故、 制 度 ナ ケ レ バ 世 ノ 中 次 第 ニ 奢 リ ニ ナ リ 行 ク 也。 ( 荻 生 徂 徠『 政 談 』 巻 之二、財賑之事(無刊記本、以下同 ((

上古の聖人が制作した礼制に奢侈抑制の効用を認め、徳川一代の礼法・制度の制定による奢侈制限を公儀に提唱する。

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— (( —

金ニテ諸事ノ物ヲ買調ヘネバ一日モ暮サレヌ故、商人ナクテハ武家ハ立ヌ也。諸事ノ物ハ皆商人ノ手ニアリ。夫ヲ金ヲ 出シ、貰ヒ請テ用ヲ弁ズルコトナル故、直段ノ押引ハアレドモ、押買ハナラヌコトナレバ、畢竟直段ハ商人ノ言次第ニ テ、幾程ニテモ急ナル時ニハ買ネバナラヌコト、是武家皆旅宿ノ境界ナル故、商人ノ利倍ヲ得ルコト、此百年以来ホド 盛ナルコトハ、天地開闢以来異国ニモ日本ニモナキ事也。 武 家 知 行 所 ニ 居 住 ス レ バ、 諸 事 皆 如 此 不 自 由 ナ ル 故、 人 ノ 心 ヲ 練 リ、 何 事 モ 年 ヲ ツ ミ、 心 掛 テ 成 就 ス ル コ ト ナ ル ニ [……] 。( 『政談』巻之二、宜改当時倉遑風俗之事 (

また、武家の困窮を都市への集住に伴う消費経済への参画に見た徂徠は、彼らの所領土着を主張し、生活物品の現地調達 を促している。これは武家の支出節減とともに、流通過程の簡略化による商家の利殖制限が企図された政策である。更に、 地方で進む農村荒廃の原因を生活の奢侈化に求め、そして、彼が国の根本と位置付けている農業再生のために、積極的な帰 農政策の実施を提唱した。

当 時 諸 国 ノ 民 ノ 耕 作 ヲ 嫌 ヒ、 米 ノ 食 ヲ 悦 ビ、 百 姓 ヲ 棄 テ ヽ 商 人 ニ 成 ル 故、 衰 微 シ タ ル 村 々 多 キ コ ト 度 々 承 ル コ ト 也。 [ ……] 本 ヲ 重 ン ジ 末 ヲ 抑 ユ ル ト 云 コ ト、 是 古 聖 人 ノ 法 也。 本 ト ハ 農 也。 末 ト ハ 工 商 也。 工 商 盛 ン ニ 成 テ 農 業 ヲ ト ロ フ レバ、代ハ兎角如此成行コト、是亦明カナルコト也。 (『政談』巻之一、戸籍之事 (

以 上 か ら も 察 せ ら れ る よ う に、 息 軒 の 経 世 論 に は、 『 政 談 』 に 重 な る 点 が 多 々 あ る。 徂 徠 も ま た、 青 年 期 を 上 総 長 生 と い う僻地で過ごし、後に、京・大坂に肩を並べる規模へと変貌を遂げつつあった新興都市江戸を目の当たりにしている。田舎 から都市へと出て、双方のギャップに驚嘆しながらも、眼前で進行する貨幣経済を追認できない一人であったのである。息

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軒 に よ る 文 中 で の 立 説 で は、 『 政 談 』 を 正 確 に 引 用 す る こ と も な け れ ば、 徂 徠 の 名 に 一 々 言 及 す る こ と も な い。 こ の た め、 彼が徂徠とは別の水脈から着想を得た、という可能性は残されている。しかし、息軒蔵書には『政談』が含まれてお り

(11

、幼 少期より徂徠経説に接していたことからすれば、此書を通読しなかったとは考えにくい。よって、仮に『政談』以外の文献 が直接の典拠であったにせよ、その字面の先に徂徠の姿を捉えていた可能性は高い。 息軒の経世論は、若年期の徂徠学学習と青年期の江戸生活とが共鳴した結果として立ち現れた、と考えられるであろう。

五   「蝦夷論」─

息軒と明治日本

如上のように、息軒の経世論には、徂徠の『政談』の内容を想起させる点が多々ある。此書が徳川公儀に提出された享保 年間、貨幣を媒介とする消費経済の本格化に世は向かってい た

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。井原西鶴が戯作中で当時の大坂の活況を次のように写実的 に綴ったのは、これよりも少し前のことである。

惣 じ て、 北 浜 の 米 市 は、 日 本 第 一 の 津 な れ ば こ そ、 一 刻 の 間 に、 五 万 貫 目 の、 た て り 商 も 有 事 な り。 そ の 米 は、 蔵 〻 に、やまをかさね、夕の嵐、朝の雨、日和を見合、雲の立所をかんがへ、夜のうちの思ひ入にて、売人有、買人有。壱 分、弐分をあらそひ、人の山をなし、互に面を見しりたる人には、千石、万石の米をも、売買せしに、両人、手打て後 は、少も、是に相逢なかりき。世上に、金銀の取やりには、預り手形に請判、慥に何時なりとも御用次第、相定し事さ へ、其約束をのばし、出入になる事なりしに、空さだめなき雲を印の、契約をたがへず。其日切に、損徳をかまはず、 売買せしは、扶桑第一の大商人の心も、大腹中にして、それ程の世を、わたるなる、難波橋より、西見渡しの百景、数 千 軒 の 問 丸、 甍 を な ら べ、 白 土、 雪 の 曙 を う ば ふ。 杉 ば へ の 俵 物、 山 も さ な が ら 動 き て、 人 馬 に 付 お く れ ば、 大 道 轟

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— (( —

き、地雷のごとし。上荷、茶船、かぎりもなく、川浪に浮びしは、秋の柳にことならず。米さしの先をあらそひ、若ひ 者の勢、虎臥竹の林と見へ、大帳、雲を飜し、十露盤、丸雪をはしらせ、天秤、二六時中の鐘に、ひゞきまさつて、其 家の風、暖簾吹かへしぬ。 (井原西鶴『日本永代蔵』巻一、浪風静に神通丸 (

全国の年貢米が集積する北浜では、米穀の先物取引が行われている。諸条件によって時々刻々と変化する米価の先の先を 予測した売買が繰り広げられ、互いが千金の獲得のために鎬を削っている。価格差が僅かであっても、多額の取引によって 生まれる差益は莫大なのである。そこに集う人々は顔馴染みではあるものの、あくまでも為替手形で契られた商売上の人間 関係であって、その他の交際はない。そして、北浜から難波橋越しに西に見える堂島には、諸大名の蔵屋敷が軒を連ね、淀 川の川縁には大坂湾から遡上する商船が、また、屋敷の門前には物産を包む俵物を抱えた人馬が、後を絶たない。これらの 諸物は貨幣を媒介として、諸々の消費者の手へと渡っていくのである。この写実的な虚構の中にあるのは、今日の商業を彷 彿とさせる経済の姿である。つまり、徂徠の政策提言は、当時からして既に時勢に逆行する「反近代」的な内容だったので あ る

(11

。それから更に一世紀半を経た幕末期である。先述の息軒の主張は、もはや全くの時代錯誤の感すらあっ た

(11

。 だが、彼の経世論は、当人の意向から切り離されて、明治日本の下で一つの形を見せることとなる。それは蝦夷地開拓で ある。徳川公儀の下で遅々として進展せぬ蝦夷地開拓について、息軒はその本格的着手を強く主張した一人であった。蝦夷 地経略の提唱は、徳川後期の本多利明(一七四三~一八二一 ( に遡ることができる。海運・交易による通商を重視した利明 は

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、 蝦 夷 地 に 自 生 す る 諸 産 物 の 収 集 と そ の 交 易 に よ る 金 銀 の 獲 得 を 主 張 し て い る。 時 の 老 中 で あ っ た 田 沼 意 次 は 此 論 に 注 目、近藤重蔵・最上徳内の派遣による千島・樺太調査を進め、また、公儀主導の蝦夷地経営を検討している。だが、開発は 実際には殆ど着手され ず

(11

、北方防備強化のための天領化が一時的に成されたものの、蝦夷地経略が半ば放棄されていたこと は、周知の通りである。

(17)

息軒が自身の蝦夷経略論を纏めて「蝦夷論」を著したのは、嘉永七年(一八五四 ( のことである。この年、ペリー二度目 の 来 航 に よ り、 日 米 和 親 条 約 が 締 結 さ れ て い る。 本 稿 冒 頭 で 言 及 し た 物 価 急 騰 は こ れ よ り 後 の こ と で は あ る も の の、 文 化・ 文政期以降、物価上昇は慢性的に進行しており、徳川公儀はその対処に追われてい た

(11

。いま、此論を見ると、利明の蝦夷経 略論との間には大きな違いがある。

蓋し松前の俗は漁猟を国と し

(1(

、其の事は逸にして其の利は巨なり。謂らく、終歳野に耕すも、一朝海に漁るに若かず。 故 に 上 下 相 ひ 率 て、 耕 耘 を 棄 て て 漁 る。 然 ら ば 是 れ 以 て 一 国 を 富 す る べ く も、 竟 に 天 下 遠 大 の 策 に 非 ざ る な り

(11

。( 安 井 息軒「蝦夷論」下 (

蝦夷地の一部を領した松前藩の当時の財政は漁業、中でも鰊漁によって支えられてい た

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。諸国での商品作物の作付増加に より、金肥に対する需要が高まったことで、鰊粕関連の運上金が松前藩の貴重な財源となっていたのである。寒冷な蝦夷地 において、漁業は農業よりも金銀獲得手段としての効率が遙かに良い。そして、自給できぬ穀物については、獲得された金 銀によって他藩から調達されていた。息軒がここで厳しく批判したのは、かような産業体質である。 では、息軒の考える「天下遠大の策」とは何か。

夫 れ 遠 大 の 策 を 建 つ る と は、 必 ず 先 づ 民 生 の 源 を 疏 す。 源 と は 何 ぞ や。 穀 是 れ の み。 故 に 刀 耕 火 田、 以 て 其 の 荒 を 墾 し、糞壅培灌、以て其の畬を養ふ。人烟既に蕃へて、陰気自ら消ゆ。数年の後、化して壌と為らざる者有らんや。然ら ば則ち夷地の穀、亦た以て其の民を食するに足ら ん

(11

。( 「蝦夷論」下 (

(18)

— (( —

穀 物 を「 民 生 の 源 」 に 位 置 付 け て い る。 人 間 の 生 命 維 持 に 直 接 関 わ る 食 糧 の 生 産 を 重 視 し、 荒 野 開 墾 と 土 壌 改 良、 つ ま り、人為による農地開拓を経略論の中心に据えたのである。ここに利明の経略論との明らかな断層が見られるのである。 かような息軒の経略論の特質は、六十余州の周縁に位置する琉球と蝦夷地に関する彼の比較考察において、一層顕著なも のとなっている。

琉球は地偏にして物少なく、其の財は以て我が乏を助くるに足らず、其の民は以て我が伍を補ふに足らず。而して我が 西 陲 に 距 り て 又 た 遠 し。 [ ……] 蝦 夷 唯 だ 宜 し く 棄 て ざ る べ か ら ず、 又 た 当 に 我 が 民 を 樹 へ て 以 て 其 の 地 を 墾 闢 す べ き なり。今の時に及びて、誠に能く貧氓を募りて、刑徒を謫め、厚資して之を優遣し、忠信に才略有る者をして之を率ゐ しめ、十百の分輩、力に任せて之を闢 く

(11

。( 「蝦夷論」上 (

蝦夷地経略を優先せよ、息軒はそう説いている。ロシアの脅威に対する防衛上の重要性もここにはあろう。だが、経略優 先理由としてここで掲げられているのは、土地開発による富強の潜在性であり、それに適う施策として示されたのが植民で ある。蝦夷地経略による富有は、通商による利潤の追求ではなく、穀物生産量の抜本的増加に求められたのである。これは 自身による年来の重農主義の延長上に構想されたものと言えるであろ う

(11

。 息軒も言及するように、当時、松前藩の処遇、五穀の不毛、移住を妨げる寒冷な気候、投資費用の回収の不透明性、など が蝦夷地本格開発の障碍として意識されていた。ところが、こうしたことは問題にならない、と彼は考えている。

会津に藩祖神公有り。遠く子を翼するの謀を貽す。米沢に則ち鷹山公有り。祖業を振起し、皆な倹素を以て国を立て、 流 風 善 政、 奉 守 は 敢 へ て 失 せ ず。 申 酉

荒 し て、 死 者 は 数 万 人、 二 国 は 則 ち 一 人 と し て 凍 餒 す る も の 無 く、 而 し て 米

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沢尤も裕なり。乃ち知る

国の盛衰は政に在りて地に在らざるな

(11

。( 『読書余適』巻之上 (

先 に 言 及 し た 奥 羽 周 遊 の 折 に、 息 軒 は 饑 饉 の 際 に 生 じ た 仙 台 藩 の 凄 惨 な 様 子 を 見 聞 し て い る。 そ れ と 同 時 に、 近 隣 の 会 津・米沢藩に饑民が皆無であったことも知ったのである。その理由として挙げられているのが、昔日の保科正之と上杉鷹山 による善政の影響である。国の貧富は土地の肥痩や気候の順不順が問題なのではなく、あくまでも政治の巧拙の問題だとす る彼の考えをここに窺うことができる。また、移民定住を妨げる蝦夷地の寒冷な気候については、北虜の住居を模した家屋 の抜本的改良によって克服せ よ

(11

、と言う。彼の主張は実に剛毅である。 新規開墾可能面積が既に飽和状態にあった当時の日本において、重農主義に立脚した開発を目論むならば、その目が列島 の外に広がる大地に向けられるのは、必然であろう。時を経て、息軒の直接的な参画を経ぬままに、昔日の開拓構想が太政 官・ 開 拓 使 の 手 に よ っ て 次 々 と 施 行 さ れ て い く

(11

。 明 治 三 年 十 二 月 布 告 の 開 拓 使 移 民 規 則 に は、 「 農 業 ヲ 以 自 産 相 立 候 儀 専 一 ニ可致」とあ る

(11

。北海道開拓の中で明治日本が得た経験、その後の日本に功罪相まって寄与したことは、既に諸人の知る所 である。

おわりに

諸経考証に業績が多いものの、これまで殆ど知られることのなかった息軒の思想について、彼の経世論の分析を介してそ の 趣 向 に 迫 っ て み た。 そ れ は 徳 川 中 期 に 隆 盛 し た 徂 徠 学 を 継 い だ 点 を 多 々 含 む も の で あ っ た。 そ し て、 一 見 す る 限 り で は 「反近代的」とも受け取れる主張の中に、明治日本で展開する経略に一部連なる内容が含まれていることを明らかにした。 た だ し、 息 軒 に よ る 経 世 論 の 淵 源 は、 徂 徠 学 の み に よ っ て 語 り 尽 せ る も の で は な い。 彼 に は 古 典 解 釈 学

─ 特

に『 管 子 』

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— (0 —

研究

─ がある。息軒が著した注釈書の中でも異彩を放つのが、

『管子』への注釈書『管子纂詁』である。息軒の注解には、 徳川諸儒の経説が多く盛り込まれてお り

(1(

、また、清代考証学の成果も踏まえた内容となってい る

(11

。 『 管 子 』 と は 何 か。 斉 の 桓 公 に よ る 覇 業 を 輔 翼 し た 管 仲 の 撰 と さ れ る が、 こ れ は 早 く か ら 疑 わ れ て お り、 今 日 で は、 複 数 の 門 弟 に よ る 加 筆・ 編 輯 を 経 て 生 ま れ た 書 物 と さ れ て い る。 そ の 内 容 は 多 様 で 一 概 し 難 い も の の、 『 管 子 』 研 究 に 従 事 し た 金 谷 治 に よ る と、 同 書 に は 通 商 政 策 も 散 見 さ れ る が、 そ の 主 要 モ テ ィ ー フ は あ く ま で も 農 政 論 に あ る、 と 言 う

(11

。 ま た、 『 周 礼』への言及が多く見られ、制度設計への志向が強い、とも同氏は言っている。つまり、雑多な内容ではありながらも、マ クロには制礼と農政とを連関的に捉える傾向が此書にはあるようである。この実証研究は未だに十分ではなく、細部につい て は 多 く の 点 に 解 決 す べ き 問 題 が 残 さ れ て い る。 だ が、 『 管 子 』 と 息 軒 の 経 世 論 と の 趣 向 に 類 似 性 が あ る こ と は 確 か で あ る。 ま た、 『 管 子 』 に 記 さ れ た 諸 々 の 政 策 を 取 捨 選 択 し て 実 施 す る こ と で、 直 面 す る 内 憂 外 患 の 打 開 を 図 っ て い く、 と 息 軒 本人もまた述べている。

仲尼嘗て管仲の功を大なりとして曰く、 「管仲微せば、我れ被髪左衽せん」と。史遷も亦た称す、 「卑くして行ひ易く」 「 善 く 禍 に 因 り て 福 と 為 し、 敗 を 転 じ て 功 と 為 す 」 と。 之 を 其 の 書 に 験 す る に、 其 の 言 ふ 所 は 即 ち 其 の 行 ふ 所 な り。 方 今

夷 猖 獗 し て、 海 内 は 多 事 な り。 其 の 法 を 択 び て 之 を 施 さ ば、 必 ず 能 く 禍 に 因 り て 福 と 為 す 者 有 ら む

(11

。( 安 井 息 軒 「管子纂詁序」 (冨山房漢文大系所収本 ((

こうしたことからすれば、息軒の経世論に自身による『管子』精読の成果が流れている、という類推は、強ち的外れでも あるまい。この仔細については、別稿にて論じる必要があろう。

(21)

【注】 (

少なくなりたる」 (福沢諭吉「唐人往来」 ( も僅かにはあった。なお、山本有造はこの時期のインフレ原因を、① な り、 武 家 の 払 米 も 同 様 の 割 合 に て、 何 れ も 困 る 訳 は な き 筈 な り。 実 は 交 易 始 り て よ り 以 来 日 本 国 中 金 銀 の 融 通 よ く、 難 渋 す る も の 却 て ら ず 金 の 位 の 下 り た る に て、 小 判 直 上 り の 割 合 に す れ ば 昔 一 両 の 品 物 は 此 節 三 両 か 四 両 に て 丁 度 相 当、 諸 色 の 高 値 に 付 て は 日 雇 賃 も 高 く 〇 一 ( に よ る 肯 定 的 な 見 方「 諸 色 高 直 に て 諸 人 難 渋 と 云 ふ も の 多 け れ ど も、 此 も 評 判 許 り に て 根 も 葉 も な き こ と、 実 は 品 物 の 直 上 り に あ 価 騰 揚 し て 四 民 共 に 其 害 を 受 て 殆 困 難 に 及 ば ん と す る 勢 也 」( 横 井 小 楠「 国 是 三 論 」( が 主 流 で あ っ た も の の、 福 沢 諭 吉( 一 八 三 五 ~ 一 九 に 換 る と も、 金 銀 も 従 来 事 を 欠 に あ ら ざ れ ば 此 上 の 事 は 不 用 に し て 有 用 の 物 を 減 ず る に 替 る 事 な し、 其 害 五 な り。 目 今 已 に 交 易 の 為 に 物 二。 其 物 滅 し 其 用 不 足 す る 故 其 価 大 に 貴 に 至 る、 其 害 三。 其 利 を 得 る 者 は 数 輩 の 商 売 に し て 其 害 は 全 国 に 被 る、 其 害 四。 縦 令 物 品 を 金 銀 物 に し て、 彼 よ り 入 る 処 は 我 が 無 用 の 物 な り、 有 用 を 以 て 無 用 に 易 ふ、 其 害 一。 彼 に 出 す 処 多 け れ ば 我 に 有 処 不 足 し て 我 用 を 欠 く、 其 害 物 豊 饒 他 に 求 む る を 待 た ず し て 人 物 其 生 を 遂 る に 欠 事 な け れ ば、 数 百 年 の 鎖 国 毫 も 不 足 の 事 を 知 ら ず、 然 る を 今 鎖 鑰 を 開 か ば 我 が 有 用 の 1( 幕 末 期 の 物 価 急 騰 に つ い て、 当 時 に お い て は、 横 井 小 楠( 一 八 〇 九 ~ 一 八 六 九 ( な ど に 見 ら れ る 否 定 的 な 見 方「 本 邦 五 穀 金 銀 を 始 め 万

日本と欧米との金銀価格

差 に よ っ て 生 じ た 金 の 国 外 流 出 の 補 填 を 目 的 と す る 貨 幣 悪 鋳( 万 延 小 判 (、 ②

( 同定している(梅村又次・山本有造(編 (『開国と維新(日本経済史三 (』 、岩波書店、一九八九、一二三~一二五頁 (。

費 捻 出 を 目 的 と し た 慶 応 年 間 の 諸 藩 の 藩 札 大 量 発 行、 に

((『続徳川実紀』第五篇、吉川弘文館、一九七六、三三七~三三八頁。

( 抄』 (大正十四年判本、以下同 (( (( 原 文「 征 東 之 師 興、 都 下 騒 然。 領 家 村 高 橋 子 善 与 予 有 旧。 三 月 十 二 日、 遣 其 子 吉 甫 及 二 弟 政 長 来 迎。 明 日 遂 避 地 於 領 家 村。 」( 『 北 潜 日

( 一九五八、二三頁 (。 んとする者多く、 中には外国人に無縁の人までも手筋を以て内々之を貰ふたる歴々の人物もあり。 」( 『福沢諭吉全集』第一巻、 岩波書店、 時 横 浜 に 在 る 外 国 の 公 使 館 領 事 館 等 に 縁 あ る 者 は 日 本 人 に し て 之 に 雇 は れ 居 る 身 分 な り と 証 明 券 を 貰 ひ、 之 に 由 て 官 軍 乱 暴 の 災 を 免 か れ し な ど 江 戸 市 中 の 人 情 恟 々、 其 間 に 訛 伝 誤 報 は 固 よ り 必 然 の 勢 に し て、 官 軍 必 ず 乱 暴 な ら ん と は 市 中 一 般 の 評 判 を 成 し た る に 付 て は、 当 (( 福 沢 諭 吉「 福 沢 全 集 緒 言 」「 維 新 の 当 年、 徳 川 将 軍 は 東 帰、 官 軍 は 京 師 を 発 し て 東 征 の 事 と 為 り、 其 軍 勢 は 既 に 箱 根 を 越 え て 富 士 川 に 近 5(『北潜日抄』巻一「

〔引用者補:慶応四年三月〕十七日[……]晡時砲声起於西。八九発乃止。未詳何故」 。 (

((『北潜日抄』巻一「

〔引用者補 : 慶応四年三月〕二十八日夜、将二更、盗銃殺下青木村済法寺僧。蓋都下騒擾、奸徒潜伏者、四散於近郊。 故数致此変耳」 。 (

辰二十年、考究未全。乃復参訂之」 。 (( 原 文「 二 十 七 日[ ……] 未 位 僧 泰 玄 攜 雛 僧 一 運、 与 吉 田 医 来。 為 講 論 語 十 章。 」「 戦 国 策 補 正 昨 日 卒 業。 辛 酉 歳 著 書 書 説 摘 要、 距 今 茲 戊

(22)

— (( —

( 穡之艱難、心暁小民之依、聖人制礼建法之意、彷彿乎窺其一斑。其得於学、殆勝於都下三十年読書。 」( 『北潜日抄』 ( 年 頽 齢、 始 知 素 餐 之 可 羞。 抑 亦 晩 矣。 所 幸 宦 途 不 達、 廟 乎 不 議、 燕 乎 不 与、 僅 免 誤 国 之 罪、 其 是 已。 今 也 奉 身 以 退、 游 息 於 此 土。 目 覩 稼 (( 原 文「 予 年 十 三 始 志 于 学、 必 欲 著 事 業 以 顕 於 世。 始 以 蔭 仕 伊 東 氏、 後 謬 挙 於 幕 府。 在 仕 籍 前 後 三 十 年、 而 才 与 時 違、 不 能 有 一 所 為。 衰

( 連の研究( 「安井家の蔵書について」 、『斯道文庫論集』三五~三七、二〇〇〇~二〇〇二 ( が委細を尽している。 (( 例 え ば、 『 書 説 摘 要 』『 毛 詩 輯 疏 』『 左 伝 輯 釈 』『 論 語 集 説 』『 孟 子 定 本 』 な ど。 息 軒 著 述 に つ い て は、 高 橋 智 に よ る 安 井 家 蔵 書 に 関 す る 一

( 十七~十九世紀』 、東京大学出版会、二〇一二 (。 ま え て、 「 御 一 新 」 以 降 の 啓 蒙 思 想 を 朱 子 学 的 世 界 像 に よ る 西 洋 思 想 の 読 み 替 え と 解 す る 向 き が こ れ で あ る( 渡 辺 浩『 日 本 政 治 思 想 史: 化 に つ い て は、 近 年、 西 洋 の 思 想 文 化 の 移 植 と い う 従 来 の 見 方 が 修 正 さ れ つ つ あ る。 程 朱 学 の 教 養 化 と い う 徳 川 後 期 日 本 の 知 的 状 況 を 踏 公 的 教 育 機 関 か ら 徐 々 に 姿 を 消 し た の で あ る。 藩 校 教 学 の 地 位 を 得 た 程 朱 学 は、 武 家 の 間 で 素 養 と し て 習 得 さ れ て い く。 明 治 日 本 の 近 代 徳 川 公 儀 か ら 寛 政 異 学 の 禁 が 発 せ ら れ た。 こ れ 自 体 に 強 い 拘 束 力 は な い も の の、 以 降、 程 朱 学 は 藩 校 教 学 と し て 各 地 で 採 用 さ れ、 古 学 は 宣邦『 「事件」としての徂徠学』 、 青土社、 一九九〇 (。また、 諸藩で藩校が陸続と設置されたのがこの時期であり、 こうした状況の中で、 批 判 し た 徂 徠 学 は、 程 朱 学 者 か ら の 苛 烈 な 批 判 を 受 け て い る( 小 島 康 敬『 徂 徠 と 反 徂 徠 』、 増 補 版、 ぺ り か ん 社、 一 九 九 四。 ま た、 子 安 10( 徳 川 後 期 儒 学 の 展 開 に お い て 重 要 と な る の は、 仁 斎 学・ 徂 徠 学 な ど の 古 学 の 登 場 後 に 起 こ っ た 程 朱 学 へ の 揺 り 戻 し で あ ろ う。 程 朱 学 を

( 各自による参照を乞う。 文 出 版、 一 九 九 八、 一 四 五 ~ 一 六 七 頁。 初 出: 『 東 方 学 』 七 二、 一 九 八 六 (。 本 論 文 で 言 及 す る 息 軒 の 行 状 は、 多 く を 両 書 に 拠 っ て い る。 11( 小 宮 厚・ 町 田 三 郎『 松 崎 慊 堂・ 安 井 息 軒 』( 明 徳 出 版 社、 二 〇 一 六 (、 ま た、 町 田 三 郎「 安 井 息 軒 の 生 涯 」( 同『 江 戸 の 漢 学 者 た ち 』、 研

( 足覩者矣。而世以為一家学者、蓋得時機之会者与」 。 『 弁 名 』、 『 学 則 』、 『 学 庸 解 』〔 引 用 者 補: 「 大 学 解 」「 中 庸 解 」 の 合 刻 本 〕、 『 論 語 徴 』 在 焉。 然 皆 牽 強 付 会 過 半。 其 侘 之 著、 則 瑣 瑣 小 言、 無 1(( 冡 田 大 峯『 随 意 録 』 巻 一「 荻 生 茂 卿、 称 以 古 言 読 古 書、 而 生 一 見、 以 風 靡 一 時。 至 今 人 猶 目 称 徂 来 学 矣。 而 其 著 書 有 幾。 唯 有『 弁 道 』

( 書小学近思録者、以更其学風之徒、亦多有焉。鳴呼此輩之於学也、元来其立志、其何如哉。予為深羞之」 。 1((『 随 意 録 』 巻 一「 寛 政 庚 戌 夏、 有 官 命 林 祭 主 之 書、 称 朱 学 為 正 学、 謂 他 学 為 異 学。 於 此 時 乎、 天 下 学 者、 其 非 宋 学 者、 瞿 然 変 色、 俄 誦 四

( 1(( 原文「予幼学於家庭、得与聞我伊物二先生之説、固既疑宋学之非」 。

( 古人之語者、皆似隔靴掻痒」 。 殊、 由 何 脗 合。 是 以 和 訓 廻 環 之 読、 雖 若 可 通、 実 為 牽 強、 而 世 人 不 省。 読 書 作 文 一 唯 和 訓 是 靠。 即 其 識 称 淹 通、 学 極 宏 博、 倘 訪 其 所 以 解 庫 研 究 之 二 」『 斯 道 文 庫 論 集 』 三 五、 二 〇 〇 〇、 二 〇 六 頁 (。 荻 生 徂 徠『 訳 筌 初 編 』 題 言「 此 方 自 有 此 方 言 語、 中 華 自 有 中 華 言 語。 体 質 本 る。 前 後 転 倒 に よ る 漢 文 の 和 読 を 非 と し た 徂 徠 学 の 影 響 の 一 つ、 と こ れ を 理 解 す る 向 き も あ る( 高 橋 智「 安 井 家 の 蔵 書 に つ い て ─ 安 井 文 15( 息 軒 の 書 く 漢 文 に は「 返 り 点 」「 送 り 仮 名 」 は な く、 開 板 の 際 に も、 本 人 の 指 示 に よ っ て 付 さ れ る こ と は 殆 ど な か っ た、 と 言 わ れ て い

1(( ま た、 息 軒 は「 答 某 生 論 濮 議 書 」( 『 息 軒 遺 稿 』 巻 之 二 ( に お い て、 父 滄 洲 の 言 を 以 下 の よ う に 引 用 し、 仁 齋・ 徂 徠 を 中 心 と す る 日 本 諸

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儒 に よ る 経 説 の 学 習 重 要 性 を 主 張 し て い る。 「 先 君 子 曰、 「 聖 人 道 大、 雖 七 十 子 之 賢、 僅 得 其 偏、 固 非 一 家 之 説 所 能 尽 也。 乃 徧 取 漢 唐 諸 家 及我伊物諸先生之書読之、恍然如有所得焉者。於是益推而広之、以庶幾逢其原」 」。 (

( 1((

Kiri Paramore. Japanese Conficianism: A cultural History, Cambridge university press, London, (01(, p.1(5.

( 1(( 前掲町田「安井息軒の生涯」 、一四七~一四九頁。

( 之利、可以美衣而珍食。至其巧算妙運者、貨殖十年、便能致巨万之富。 」( 『息軒遺稿』巻之三、以下同 ( 1(( 原 文「 予 年 二 十 余、 始 来 江 戸、 見 其 閦 闠 之 繁・ 貨 物 之 富、 喟 然 歎 曰、 「 盛 哉 居 乎。 是 可 以 楽 而 忘 死 矣。 」[ ……] 蓋 都 民 以 貿 易 為 生、 十 金

( 長、以劫大吏。四民之中、習莫劣焉。 」( 『息軒遺稿』巻之一、以下同 ( (0( 原 文「 夫 商 也 者 何 所 用 哉。 用 之 治 平、 則 詐 以 奢、 用 之 戦 陣、 則 怯 以 弱。 一 令 悖 於 心、 群 起 而 怨 之、 其 口 足 以 惑 人、 其 勢 足 服 衆、 持 短 評

( 其華麗宏壮」 。 欲 之 念、 不 能 不 動。 嗜 欲 既 動、 則 視 聴 誘 於 外、 心 与 物 化、 無 所 底 極。 故 衣 暖 矣、 而 又 求 其 美、 食 飽 矣、 而 又 求 其 甘、 居 蔽 風 雨 矣、 而 又 求 蕩 其 心、 其 欲 易 足、 其 求 易 給。 当 是 之 時、 風 俗 淳 厚、 雖 無 礼 教 以 限 其 分、 未 足 以 為 患 也。 治 平 漸 久、 人 不 知 兵 革 之 惨。 身 逸 而 心 安、 則 嗜 (1( 原 文「 当 乱 之 始 平 也、 上 下 帖 然、 如 死 囚 之 脱 獄。 嗜 好 未 動、 苟 生 則 已。 故 衣 取 其 暖、 食 取 其 飽、 居 取 其 蔽 風 雨。 奇 抜 滛 巧 之 物、 不 足 以

( 今日。而民之困於金幣、亦未有如今日也」 。 其 手、 一 財 無 不 蔵 其 肆、 和 僱 僦 宅、 又 握 其 柄、 遂 使 天 下 之 人、 無 貴 賤、 無 貧 富、 一 日 無 銭、 不 能 遂 其 生。 故 生 民 而 来、 金 幣 之 盛、 未 有 如 又 皆 折 之 銭。 於 是 小 民 不 能 不 売 其 物 以 輸 金、 金 不 可 得 而 衣 食。 則 在 上 之 人、 亦 不 能 不 買 其 物 以 供 用 商 売 処 中、 銭 買 而 貴 售 之、 一 貨 無 不 経 ((( 原文「豊臣氏起而承之、 遂大変其法。凡穀之可取者、 多方収之、 而尽糶之都会之地。其険不便於輸、 則直変為金。而百菓草木江海之税、

( 田野月荒。而天下始困矣」 。 ((( 原文「凡百玩好、 滛耳目而蕩心智者、 紛然並出、 一物之価、 動糜千金、 利之所在、 人情奔注。於是乎、 民去南畝、 争逐什二、 市井日蕃、

( ((( 原文「凡事当専務其本。其本既立、則其道自然滋生。猶培其本、而枝葉自蕃茂」 。

( 自入乎範囲之中、不能縦其欲。是之謂礼以限之矣。然猶恐其流於侈靡也、故又制其形、以定其俗焉」 。 (5( 原文「宮室有度、 衣服有章、 葬祭有節、 冠昏有量。燕饗贈遺、 以至奉養之属。皆定其制、 使之足以通其情、 而不能以傷其財。海内喁喁、

( 游手浮浪之民、必翻然而改慮」 。 無 賤 売 之 患、 而 士 無 貴 買 之 慮。 士 不 買、 農 不 売。 則 趨 末 之 民、 不 能 独 擅 其 利。 夫 民 之 趨 末 者、 特 以 其 逸 而 多 利 耳。 今 利 不 足 以 楽 其 身、 則 ((( 原 文「 上 之 所 必 須、 而 民 之 所 願 以 抗 納 者 必 多、 取 其 所 願、 而 頒 其 所 須、 使 凡 天 下 之 人、 食 其 穀 而 用 其 物。 必 不 得 已、 然 後 買 之 市、 則 農

( 之勢、駸駸乎常趨乎末」 。 ((( 原 文「 無 不 有 本 也。 培 其 本 而 枝 葉 栄、 傷 其 本 而 枝 葉 枯。 物 皆 然。 而 国 家 為 甚 焉。 且 自 古 豪 傑 之 士、 孰 不 知 農 之 為 国 本 而 務 培 之。 然 天 下

於 農 而 不 在 商 工 焉。 蓋 其 事 労、 故 其 身 可 以 健。 其 利 薄、 故 其 欲 可 以 節。 有 水 旱 風 蟲 之 災、 故 預 備 而 宿 蓄 之 者 詳。 此 皆 致 久 安 之 道 也。 且 人 ((( 原 文「 夫 農 之 於 四 民、 其 事 最 労、 其 利 最 薄、 又 有 水 旱 風 蟲 之 災。 此 民 之 所 以 軽 去 南 畝 也。 然 問 其 身 康 健、 而 其 家 綿 延 乎 数 百 載 者、 常 在

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之 処 世 也、 一 家 団 欒、 寒 足 以 衣、 飢 足 以 食、 嫁 女 娶 婦、 歳 時 供 土 物、 以 祭 其 先、 濁 酒 枯 魚、 与 親 姻 相 慰 労、 是 亦 足 以 老 其 身 矣。 而 農 皆 得 之。与夫都民之朝坐萃堂、而夕赴溝壑以速絶其祀者、何翅霄壌。此稲守之所以眷眷乎本也」 。 (

( 出づ」と」 。 て、 他 国 に 来 れ る や。 」 亀 蔵 曰、 「 上 国 に あ ら ず。 田 畑 高 価 に し て、 田 徳 少 し。 江 戸 は 大 都 会 な れ ば、 金 を 得 る 容 易 か ら ん と 思 ふ て 江 戸 に 国 の 産 に て、 笠 井 亀 蔵 と 云 者 あ り。 故 あ り て 翁 の 僕 た り。 翁 諭 し て 曰、 「 汝 は 越 後 の 産 な り。 越 後 は 上 国 と 聞 け り。 如 何 な れ ば 上 国 を 去 に 集 う 者 に つ い て は、 例 え ば、 二 宮 尊 徳 と 門 人 と の 間 に、 次 の よ う な 対 話 が あ っ た こ と が 記 録 さ れ て い る。 『 二 宮 翁 夜 話 』 巻 之 一「 越 後 ((( 棄 農 者 の 増 加 は、 十 八 世 紀 後 半 以 降 の 徳 川 公 儀 を 悩 ま せ 続 け た 課 題 で あ っ た。 農 業 の 労 苦 を 厭 い、 安 易 な 金 銭 獲 得 の 機 会 を 求 め て 江 戸

( (0( 原文「重農之邦、其俗似陋而実美、貴商之国、其治似盛而実衰。故商去其四、奢侈必衰、農増其三、貨財必饒。此理之至易見者也」 。

( 馬犬鶏の類を喰尽し、人々相喰といへども救助の天命到来せず、国民凡二百万人余餓死せし事は、人々倶にしる所なり」と。 (1( 本 多 利 明「 交 易 論 」 に、 「 天 明 癸 卯 以 降 二、 三 ヶ 年 の 如 き、 関 東 奥 羽 大 飢 饉 到 来、 殊 に 奥 羽 二 ヶ 国 は 甚 し く、 売 買 の 食 物 絶 果、 手 飼 の 牛

( 支吾、而莫能救其窮焉」 。 ((( 原 文「 仙 台 封 境 六 十 四 万 石、 実 収 至 二 百 万。 侯 国 之 富、 無 出 其 右 者。 然 申 酉 凶 荒、 死 亡 数 万 人、 物 価 踊 貴、 上 下 皆 困、 制 鈔 鋳 銭、 百 方

( 挙觶上寿、各祝万歳、一家熙熙、頓忘窮歳之労。 」(宝永四年刊本 ( ((( 伊 藤 仁 斎『 童 子 問 』 巻 之 中、 第 二 十 六 章「 先 王 之 世、 家 給 財 阜、 民 安 俗 醇、 自 晨 至 夕、 自 春 至 夕、 民 心 和 洽、 猶 正 月 之 吉、 被 服 具 儀、

( ((( 高橋智「安井家の蔵書について─安井文庫研究之二」 『斯道文庫論集』三六、慶応義塾大学斯道文庫、二〇〇一、二九一頁。

( 刊本 ( と。 に、 上 品 ノ 八 丈 絹 六 匹、 代 百 廿 文、 紺 布 二 反、 代 四 文 と あ り。 む か し は 銭 の い と い と す く な か り し ほ ど、 こ れ に て し る べ し 」( 文 化 九 年 (5( 中 世 か ら 近 世 に か け て の 貨 幣 流 通 量 の 増 加 と 物 価 の 上 昇 に つ い て は、 本 居 宣 長『 玉 勝 間 』 一 の 巻 に、 「 お な じ 書〔 引 用 者 補: 『 吾 妻 鏡 』〕

( 知の通り(丸山真男『日本政治思想史研究』 、新装版、東京大学出版会、一九八三、一〇六~一〇七頁、一九六~一九七頁 (。 ((( 前 掲 渡 辺『 日 本 政 治 思 想 史: 十 七 ~ 十 九 世 紀 』、 一 九 七 頁。 な お、 丸 山 真 男 が 徂 徠 学 に 日 本 に お け る 近 代 的 思 惟 の 先 鞭 を 捉 え た の は、 周

( 共和政治に強い反対を示しており(安井息軒「与某生論共和政事書」 (、この点においても、両者の主張は対極に位置している。 る 国 富 化 を 目 論 ん だ の で あ る( 横 井 小 楠「 国 是 三 論 」( 。 な お、 ア メ リ カ の 共 和 政 治 に 堯 舜 の 治 世 の 講 習 討 論 を 見 た 小 楠 に 対 し て、 息 軒 は 窮 乏 を 憂 慮 し た 儒 者 の 一 人 で あ る。 彼 が 説 い た の は、 海 外 交 易 に よ る 金 銀 獲 得 で あ る。 安 政 五 ヶ 国 条 約 を 一 大 契 機 と し て、 海 外 交 易 に よ ((( 息 軒 に よ る 経 世 論 の 対 極 に あ る の は、 彼 と ほ ぼ 同 時 期 の 日 本 を 生 き た 横 井 小 楠 の 通 商 論 で あ る。 小 楠 も ま た、 徳 川 後 期 の 武 士・ 農 民 の

る密策なり。名づけて自然の治法と言」と。 せ り。 [ ……] 撫 育 の 道、 渡 海・ 運 送・ 交 易 に あ り て、 外 に 良 法 な き 事 明 か 也。 小 に 取 ば 我 国 内、 大 に 取 ば 外 国 迄 に 係 る、 是 国 に 益 を 生 を 以、 帝 王 の 天 職 な れ ば、 至 て 大 切 に、 官 職・ 有 司 も 殊 に 厳 重 に 守 護 す る 也。 故 に 天 下 万 国 の 金 銀・ 財 宝・ 珍 器・ 良 産 は 皆 欧 羅 巴 に 群 集 ((( 本 多 利 明「 交 易 論 」 に、 「 交 易 は 国 家 守 護 の 基 本 」 と 見 え、 同『 西 域 物 語 』 上 に は、 「 西 域 に て は 治 道 第 一 の 国 務 は、 渡 海・ 運 送・ 交 易

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