大学における授業に関する考察
学生が能動的に学ぶ授業とは
池 田 恭 浩
Ⅰ.問題の所在と研究の目的
大学における授業とは一体何なのであろうか。ウィキペディアでは,
⽛授業
(じゅぎょう,英:lesson,class)は,学校教育などにおいて教科・科目 などの教育として行われるもののことである。大学の課程
(短期大学の課程,大学院の課程を含む)
などにおける授業は,講義,演習,実験,実習,実技 に区分される
(1)。⽜と紹介されている。そして,この紹介文の後半は大学設 置基準第二十五条
(教育の方法)から引用されていると考えられる。実際に 大学設置基準第二十五条
(教育の方法)には,⽛授業は,講義,演習,実験,
実習若しくは実技のいずれかにより又はこれらの併用により行うものとす
(
る
2)。⽜と記されている。その他にも,ブリタニカ国際百科事典小項目事典 の解説では,授業について,⽛教師が諸分野の知識,技能を生徒に習得さ せるために行う活動。講義や一斉教授など教師中心の授業が伝統的であっ たが,今日では新教育の影響で,生徒の自主性や経験が重んじられ,多様 な授業方式がある
(3)。⽜と記されている。また,石井
(2020)は授業を,⽛文化 内容を担う⽛教材⽜を介して,⽛教師⽜と⽛子どもたち⽜が相互作用しつ つ,文化内容を獲得し学力を形成していく過程
(4)⽜と定義している。これら の記述や定義から,授業とは,⽛行われるもの⽜,⽛活動⽜であり,⽛過程⽜
であると言える。だからこそ,その手法は数限りなくあるとも言える。し
かし現実には,まだ伝統的な講義や一斉教授など教師中心の授業がほとん
どであるといっても過言ではない。特に日本の大学では講義が中心であり,
その講義に対する学生の不満として,佐藤
(2017)は,⽛教員が一方的に話 し続ける,授業が単調である,説明がわかりにくい,板書がとりにくい,
教員の声が聞きとりにくい,授業が速すぎる,内容が難しすぎる,教科書 を読めば分かる内容である,やる気が起きない
(5)。⽜といったことを挙げて いる。さらに,平成 24 年の中央教育審議会の答申
(6)でも,⽛生涯にわたって 学び続ける力,主体的に考える力を持った人材は,学生からみて受動的な 教育の場では育成することができない
(7)。⽜として,学生から見て受動的な 教育の場を否定している。そしてその打開策として,⽛従来のような知識 の伝達・注入を中心とした授業から,教員と学生が意思疎通を図りつつ,
一緒になって切磋琢磨し,相互に刺激を与えながら知的に成長する場を創 り,学生が主体的に問題を発見し解を見いだしていく能動的学修
(アクティ ブ・ラーニング)への転換が必要である
(8)。⽜としている。ただ,この動きは 大学だけではなく小学校・中学校・高等学校でも見られる。それぞれの学 習指導要領解説
(平成29年版・30年版)には,⽛子供たちが,学習内容を人生 や社会の在り方と結び付けて深く理解し,これからの時代に求められる資 質・能力を身に付け,生涯に渡って能動的に学び続けることができるよう にするためには,
(中略)我が国の優れた教育実践に見られる普遍的な視点 である⽛主体的・対話的で深い学び⽜の現実に向けた授業改善
(アクティブ・ラーニングの視点に立った授業改善)
を推進することが求められる
(9)。⽜と記 されている。この両者に共通しているのが,学生や子ども達に能動的
(ア クティブ)に学ぶことを求めていることである。つまり,授業の中で学生や 子ども達に,⽛他からの働きかけを待たずに自ら活動すること
(10)⽜を求めて いると言える。
そして,筆者は十年以上小学校の教員として勤務してきた。その勤務校 のひとつである京都教育大学附属桃山小学校では,⽛子どもの側から教育 を発想する⽜という理念を掲げた創造性教育を実践し,その魅力と難しさ に直面してきた。創造性教育の全体像を端的に表現することはできないが,
⽛主体的・対話的で深い学び⽜を実現したときのひとつの形態といっても
過言ではない。その後,大学の教員
(教職課程専任)となり大学で授業を実 践する中で,学生が能動的に学ぶ授業を模索してきた。模索をする中で模 範としていたのが創造性教育の実践の中で見た能動的に学ぶ子ども達の姿 であった。そして,ついに新型コロナウイルス感染症の影響でおこなった 課題提示型遠隔授業の中で能動的に学ぶ学生の姿の一端を見ることができ た。
そこで本稿では,大学における学生が能動的に学ぶ授業とは何なのか,
そしてそんな授業を実践するために必要なことは何なのかを明らかにして いく。そのために,以下の手順で考察を進めていく。
( 1 ) 小学校における子ども達が能動的に学ぶ授業からの考察 ( 2 ) オックスフォード大学とミネルバ大学の授業からの考察 ( 3 ) 課題提示型遠隔授業実践からの考察
Ⅱ.小学校における子ども達が能動的に学ぶ授業
石井
(2020)は主に初等教育を念頭に,⽛日本の多くの教師は,学級集団
で学ぶ意味を生かして,一人ひとりの考えを出し合い練り上げていく授業
を理想として追求してきた
(11)。⽜と述べている。そして,学習指導要領解説
に記述されているように⽛主体的・対話的で深い学び⽜が我が国の優れた
教育実践に見られる普遍的な視点であるならば,小学校における子ども達
が能動的に学ぶ授業は,⽛学級集団で学ぶ意味を生かして,一人ひとりの
考えを出し合い練り上げていく授業⽜であると言える。そこで,⽛学級集
団で学ぶ意味を生かして,一人ひとりの考えを出し合い練り上げていく授
業⽜の意義や実践方法,条件などについて,京都教育大学附属桃山小学校
の創造性教育と吉本均の教授学に,石井英真の現場の教育学を加味して考
察していく。
1 .京都教育大学附属桃山小学校の創造性教育
(
1)
創造性教育の源流京都教育大学附属桃山小学校は, 2020 年度で創立 112 年になる伝統ある 学校であり,その歴史は京都府女子師範学校附属小学校として始まった。
そして大正期には,奈良女子大学高等師範大学の木下竹次の師事を仰いで いる。木下は主著である⽝学習原論⽞
(1920年代の教育界におけるベストセ ラー)において,自律的学習
(以下,学習(12))の意義を説いている。その中で,
⽛学習においてはみずから機会を求めて活動することをすこぶる重要視す
(
る
13)。⽜として,子ども達が能動的に活動することを推奨している。また学 習の順序については,⽛新学習材料に対しては学習はつねに独自学習から 始める
(14)。⽜としている。この独自学習によって子ども達は新学習材料の大 まかな部分を把握し,習得できた部分と習得できなかった部分を明確にす る。その上で,習得できなかった部分を疑問として,さらに独自学習をし たり相互学習に進んだりするのである。相互学習は分団
(グループ)や学級 で行われるもので,⽛相互学習で言行を練り上げると研究も深刻になり物 事に徹底できる
(15)。⽜といった,相互学習の効果が述べられている。そして,
相互学習でこのような効果を挙げるためには,独自学習は欠かせないもの
であり,木下は,⽛相互学習においては各児童生徒は必ず各自の独自学習
の結果を持参して独立の意思をもって相互学習に参加する
(16)。⽜,また独自学
習は予習ではなく,⽛学習の重要部分
(17)⽜であるとも述べている。さらに木
下は,集団づくりについては,⽛むしろ優劣混合分団の方がおもしろい学
習のできることもある。⽜と分団の作り方の中で述べており,いわゆる学
力のレベルに拘らない集団づくりの効果を認めている。そのため,学級に
おける相互学習においても,⽛各学習者は異なった環境と経験とをもって
いるから着眼点もおのずから異なっている。これらの事情からとても一人
の教師などが到達し得ないところまで彼らは学習を進めていく
(18)。⽜とも述
べている。
(
2)
想像から創造へ〜研究の始まり〜創造性教育の研究は,京都教育大学附属桃山小学校
(以下,桃小)で 1965 年から始まり, 18 期 36 年に渡って進められた。そして,現在でもその理念 は同校で受け継がれている。
創造性教育の研究の始まりは,⽛考える子どもを育てるという願い
(19)⽜か らであった。そして,この願いを叶えるために着目されたのが想像の働き
(想像は思考の中に存在し,思考を点火づけ爆発させ起動させる働きをもっている(20))であった。こうして想像の追究,つまり想像力を刺激したり誘発させたり することで考える子どもを育てる研究が始められたのである。また,想像 とともに大切にされたのが創造である。⽛私たちの考えてきた思考という のは,理解をさせるための道筋を追った思考でなくて,ものを生み出して いくような思考もあわせて考えてきた
(21)。⽜という表現からもわかるように 桃小では,⽛ものを生み出していくような思考⽜も重視されていたのであ る。さらに創造については,⽛おとなにとっては概知のものであり,あた りまえのことであるかもしれないが,子ども自らの力で,法則なり新しい 考えを発見したり,新たに技能を獲得したり,作品を作り出していったと き創造したと考えている
(22)。⽜とも述べられている。そして,想像と創造の 関係については,⽛子どもは解決に至るまであれやこれやと想像しては解 決と結びつけて推理し,検証しつくり出していくのである。このようにし てつくり出されることが創造の過程であり,その所産として得られたもの が創造されたものなのである
(23)。⽜と述べられている。つまり,想像したこ とを論理的に処理
(推理や検証)して生み出されたものが創造されたもので あるということである。
(
3)
創造性教育の全体像先述の通り,創造性教育の全体像を端的に表現することはできないが,
平成 24 年度の桃小の研究紀要
(24)に引用された言葉からその全体像に迫ってい く。
創造性教育では,まず子どもと教材の出会いを大切にしている。この出
会いを工夫することで,⽛子どもの追求の意欲を発動させること
(25)⽜ができ るのである。つまり,子どもが能動的に学ぼうとするようになるのである。
そして,子どもが能動的に学ぼうとするようになった時には,教材に対し て⽛必要感⽜や⽛切実感⽜を持つことができているとも言えるのである。
さらに創造性教育では,子どもが⽛モヤモヤした状態⽜になることも重要 視されている。この⽛モヤモヤした状態⽜とは,とても気にはなるが言葉 では言い表せない状態のことであり,⽛独自で,新しいものをふくんでい るがゆえに,創造の前駆的過程である
(26)⽜とも言える。このように,教材と の出会いによって⽛必要感⽜や⽛切実感⽜を持ったり,⽛モヤモヤした状 態⽜になったりすることはひとつの理想形ではある。しかし,子どもによ ってはこの後の学習場面で⽛必要感⽜や⽛切実感⽜を持ったり,⽛モヤモ ヤした状態⽜になったりすることもある。そのため,授業者は子どもを見 取る時には常に,⽛必要感⽜や⽛切実感⽜を持っているか,⽛モヤモヤした 状態⽜になっているかという視点を持つことが必要になってくる。
次に,個の学びと集団の学びを大切にしていることが挙げられる。創造 性教育における学びの順序としては,⽛一人ひとりが自らの課題を追究し,
自らの考えを作り上げる時間を十分にとっておくことが大切である。そし て追究したものを持ち寄り,ぶつけ合うことで自己創造を再構成してい
(
く
27)。⽜と述べられているように,基本的には個の学びの後に集団の学びを するということになっている。しかし,このことは言い換えると,集団で の学びを有意義なものにするためには個の学びが必要不可欠であるという ことでもある。つまり,⽛個別学習で十分自分と向き合った児童が集団と 関わることで,まわりの人や物から新しいものを取り入れ,自らをさらに 高め,自己を再構成していくことができる。個の創造性は集団の学びを通 してさらに飛躍していく
(28)。⽜のである。そして,集団の学びで重要視され ているのが⽛異質の導入⽜と⽛視点の転換⽜である。もちろん,⽛同質の 強化⽜も重要ではあるが,⽛自らをさらに高め,自己を再構成していく⽜
には,個が独立していながらも自分とは違う意見や視点を受け入れていく
ことが必要となる。つまり,⽛個性的な考えや追究が否定されることなく,
全体としても問題を認め合い,個がからみあって学習が展開していくこと で個の視点の転換が行われ,自己の世界が開かれていく
(29)。⽜のである。
そして,創造性教育では授業者に支援者,指導者,学習者としての姿勢 が求められている。支援者としては,⽛子どものありのままの姿を見取る⽜
姿勢が求められている。具体的には,⽛教材に対して子どもたちがどのよ うな受け止めをし,学習を進めていこうとしているか。何につまずいてい るのか⽜を見取ったり,⽛発言した意見や根拠の背景をさぐりながら,子 どもの言葉に心から耳をかたむける
(30)⽜ことである。そして,支援者として 見取った⽛子どものありのままの姿⽜をもとに,指導者として⽛個の変容 を見取る⽜姿勢が求められる。この時に,先述の⽛必要感⽜や⽛切実感⽜
を持っているか,⽛モヤモヤした状態⽜になっているかという視点を持つ ことも必要になってくる。さらに,個の変容を見取りながら学びの場
(集 団)を組織したり,授業者の出場
(でば(31))を探ったりすることも必要となって くる。さらに,このような過程の中で,常に子どもの姿を捉え直し続ける ことが,学習者として求められる姿勢である。学習者としてはこの他にも,
授業者自身が教材を味わったり,その教材を学習する意味について考え続 けたりする姿勢など,⽛常に自己吟味をし続ける姿勢
(32)⽜が求められている。
2 .吉本均の教授学
⽛授業における知的能動性の促進ということ,それが世界の現代教授学 が当面している共通課題だといってよいのである
(33)。⽜と述べているように,
吉本も能動的に学ぶことの重要性を認識している。
吉本は,同じ学級集団でも教科や教師によって能動的に学ぶことができ
る場合もあれば,できない場合もあるとしている。また,同じ教材や教師
でも,学級集団によって子ども達が能動的に学べる授業ができる場合とで
きない場合があるとしている。このことは,筆者の経験則からも共感でき
ることである。そして,その原因として吉本は,⽛教科内容という⽛実在⽜
が,一方的に,機械的に,子ども・学級集団に伝わるものではないからで ある
(34)。⽜と述べている。つまり,同じ内容を同じように伝えても学級集団 によってその伝わり方が違うことがその原因であるとしている。こういっ た現実に対処するために,吉本が重視したのが教授行為である。この教授 行為によって教科内容という⽛実在⽜が,⽛子どもたちに媒介され,規制 され,方向づけられていく
(35)⽜とされている。さらに,教科内容の科学や子 どもの学習能力も絶対的な固定量として存在しているわけではないことか ら,⽛応答し合う関係を指導する一連の教授行為の技術体系
(36)⽜が必要だと している。そして,この⽛応答し合う関係を指導する一連の教授行為の技 術体系⽜については,⽛バラバラの群れであったり,セクト化されたり,
序列化されたりしている現実の学級集団実態を,教師と子ども,子どもと 子どもとの⽛応答し合う関係⽜につくり変え,そしてその⽛応答し合う関 係⽜の質をたえず高め,深めていく
(37)⽜ことだとしている。つまり,授業の 中で子ども達
(学級集団)を学習集団として捉える必要があるということで ある。そのためには,まず以下の三つ分裂という視点で,子ども達を掌握 する必要があるとしている。
( 1 ) 授業に参加している,していないの⽛分裂⽜
−学級づくり的次元の問題
( 2 ) 答えがわかる,まだわからないの⽛分裂⽜
−知的技能を教え,習熟させるという次元 ( 3 ) 答えが同じ,違うの⽛分裂⽜
−教科内容が要求する集団性の次元 三つ分裂という視点
(38)そして,三つの分裂という視点で子ども達を掌握して明らかになった三
つの矛盾の克服に取り組むことが必要であるとされている。
( 1 ) 参加・不参加の矛盾
( 2 ) ⼦わかる⽜⽛わからない⽜の矛盾 ( 3 ) 認識の質的ちがいとしての矛盾
三つの矛盾
(39)さらに,この作業を繰り返しながら⽛応答し合う関係⽜の質を高め,深 めていくことも重要であるとしている。このように,⽛応答し合う関係⽜
になることで教育の客体であった子ども達が,教育の主体となるのである。
このことは言い換えれば,子ども達が能動的に学ぶようになるということ である。
それでは,⽛応答し合う関係⽜をつくり,その質を高めたり深めたりす るためには,具体的にどのような教授行為の技術が必要とされるのであろ うか。吉本は,⽛応答し合う関係⽜の質的発展とその指導として以下の 5 つの指導が必要であるとしている。
( 1 ) 対面する関係の指導
( 2 ) うなずき合う
(首をかしげる)関係の指導 ( 3 ) ⼦わからない⽜をだすことの指導
( 4 ) 発問
(説明・指示)による対立,分化とその指導 ( 5 ) ⼦接続詞でかかわり合う⽜関係の指導
⽛応答し合う関係⽜の質的発展とその指導
(40)授業は,対面して相手の話を聞いたり相手に語りかけたりすることから
始まる。そして,うなずき合ったり首をかしげたりすることで,子ども達
が主体的に授業に参加をしている第一段階に至り,やがて⽛わかった⽜や
⽛わからない⽜という意思表示をすることで子ども達が主体的に授業に参 加する第二段階に入っていく。さらに,発問を有効活用することで子ども 達がさらに主体的に授業に参加することができる。この発問について吉本 は,⽛教科内容と子どもの能動的思考活動とを媒介する教授行為のなかで,
もっとも重要なものが発問だといえる。
(中略)教えねばならないものを教 えてはならないのである。それを子どもたちの学びたいものに転化してし なければならいのである。そしてそこに,発問という教授行為の本質があ るのである
(41)。⽜と述べている。つまり,発問によって授業者が子ども達に 学ばせたいと思っていたことを子ども達が学びたいことに変えたり,子ど も達の意識の中に矛盾を引き起こしたりすることが能動的に学ぶことにつ ながるのである。さらに,⽛発問は,ただひとつの答を引き出すのではな く,学習集団内部に対立・分化をよびおこすものでなくてはならい
(42)。⽜と も述べている。つまり,学習集団内部に対立・分化を引き起こすことで,
集団での思考活動が始まり,教科内容をより深めることができるのである。
最後の⽛接続詞でかかわり合う⽜関係の指導とは,具体的には子どもの意 見に対して授業者が,⽛そのわけは⽜⽛もっとくわしく⽜⽛だから⽜
⽛でも,しかし
(43)⽜といったように,かかわっていくことである。このよ うにして揺さぶりをかけることで,子どもの意見をさらに掘り下げていく のである。また,⽛接続詞でかかわり合う⽜関係は,授業者と子どもだけ ではなく,子どもと子どもでも成り立つものであり,子どもと子どもで成 り立たせることで,さらに集団での思考活動が能動的になっていくのであ る。
さらに吉本は,⽛学校における授業を,教師と子どもたちとが⽛まなざ
しで向かい合い⽜,互いに⽛応答し合う⽜場所として改造しなくてはなら
ない
(44)。⽜とし,⽛まなざし⽜の重要性を訴えている。この⽛まなざし⽜と比
較の対象とされているのが⽛眼⽜であり,⽛眼⽜は子どもを客観的対象と
して捉えることであるとしている。吉本は,子どもを客観的対象として捉
えることで解決された課題も多くあることを認めている。しかし,その一
方で見落とされたのが子どもを主体的現象として捉える⽛まなざし⽜であ ったとしている。そして,⽛まなざし⽜が見落とされたことが不登校増加 の一因だともしている。さらに,⽛小・中・高校・大学を問わず,いまわ が国の学校において,授業が,学習集団として成立していないのである。
制度としての授業は,毎日大量に行われている。しかし,⽛まなざしで向 かい合い⽜,主体として参加し,応答し合う学習集団は十分には成立して いないのである
(45)。⽜とも述べている。また,子どもと向き合う時に⽛まな ざし⽜と同様に授業者に必要なのが,⽛相互作用的で,相互応答的な語り
(46)⽜ や,⽛⽛一人のなかに二人の自己⽜をみる子ども観,いや子ども感
(そういう ように感じる力(47))⽜だとしている。そして,⽛教育的指導の技術
(アート)とい うものが存在している
(48)⽜とも述べている。
3 .考えを出し合い練り上げていく授業
(
1)
意 義考えを出し合い練り上げていく授業,つまり集団での学びの意義として は,これまで見てきたように創造性教育における,⽛異質の導入と視点の 転換による自己創造の再構成⽜ができることが挙げられる。さらには,集 団での学びによって必要感や切実感,モヤモヤした状態が生まれたり,同 質の強化がされたりすることもある。また,木下も集団での学びによって,
⽛研究も深刻になり物事に徹底できる⽜,⽛とても一人の教師などが到達し 得ないところまで彼らは学習を進めていく⽜と述べているように,他者と 学ぶことには大きな意義があると言える。そして,他者と学ぶ集団での学 びは,学習における出力
(output)の場としても重要だと考えられる。
(
2)
実践方法それでは,集団での学びはどのようにすればできるのであろうか。この ことについては,これまで見てきたように吉本がその実践方法の一端を示 している。その実践方法とは,⽛応答し合う関係をつくり,その質を高め,
深めていく⽜ことである。応答し合う関係をつくるには,まず三つの分裂
という視点で集団を掌握し,三つの矛盾の克服に取り組むことである。そ して,矛盾の克服や応答し合う関係の質を高め,深めるためには, 5 つの 指導が必要とされている。こうすることで,集団での思考活動が能動的に なっていき,考えを出し合い練り上げていく授業の意義が生み出されるの である。また,集団での学びは他者との関わりで成り立っているので,吉 本の実践方法は他者との関わりを生み出すための方法とも言える。このよ うに考えれば,他者との関わりを生み出すことが,集団での学びの条件の ひとつだとも言える。
(
3)
条 件それでは,他者との関わりを生み出すこと以外に,集団での学びを成り 立たせるための条件としてはどのようなものがあるのだろうか。これまで 見てきたことから考えると,個の学び
(独自学習)と授業者としての姿勢
(求 められること)が挙げられる。
まず個の学びについては,創造性教育において,⽛一人ひとりが自らの 課題を追究し,自らの考えを作り上げる時間を充分にとって⽜おき,その あとに⽛追究したもの持ち寄り,ぶつけ合う⽜ことが重要であるとされて いる。そしてその結果,⽛自己創造の再構成⽜がおこなわれるとされてい る。さらに木下も,独自学習を学習の重要部分と位置付けており,⽛各自 の独自学習の結果を持参して独立の意思をもって⽜集団での学びに取り組 むことが重要であると述べている。つまり,自分の考えや一定の知識をも った個が集団となって学習することで,集団での学びの意義が生み出され るということである。このことはよく例えられることであるが,掛け算の 仕組みと同様であると考えられる。現状の個を⽛ 1 ⽜とした場合,現状の 個が集まって集団での学びをおこなったとしても⽛ 1 ⽜のままである。し かし,現状の個に考えや知識を足した状態の個が集まって集団での学習を おこなえば,その効果はとても大きなものになる。また,考えや知識が
⽛ 1 ⽜以下の状態の個が集団に入ることで,集団全体に負の効果をもたら
す可能性もあるとも考えられる。このように,個の学び
(独自学習)は学習
における入力
(input)の重要性を示唆しているとも考えられる。
次に授業者として求められることについては,創造性教育において,子 どもを見取るための支援者,指導者,学習者としての姿勢が必要だとされ ている。また吉本は,子どもを主体的現象として捉える⽛まなざし⽜や一 人の中に二人の自己を見る⽛子ども感⽜が必要であると述べている。そし て木下も,⽛教師は学習者に霊感を吹聴する人であり,鼓舞奨励する人で あり,忠告者であり,案内者でなくてはならぬ。また教師は,実にかれら の共学者であることを要する
(49)。⽜と述べている。それでは,なぜこのよう なことが授業者に求められるのであろうか。このことを考える上で重要な 見方として,吉本が授業における教育的指導の技術を⽛アート⽜と表現し ていることや,石井
(2020)が授業の芸術性
(50)について述べていることが挙げ られる。さらに,石井は授業を⽛創発的なコミュニケーション⽜の過程
(51)で あるとも表現している。つまり,子ども達が能動的に学ぶ授業の展開は必 ずしも当初授業者が想定していた通りにはならないということである。言 い換えると,授業者が練りに練り上げた授業の展開を越えていく授業こそ が,子ども達が能動的に学ぶ授業だということになる。そこで,授業者に 必要になるのが即興的な判断である。つまり,先述の創造性教育,吉本,
木下が授業者に必要だとしていたことは,全て良質な即興的判断に᷷がる
ことなのである。また,石井は教師の仕事の特性のひとつとして不確実性
(何が良い教育なのかという安定した一義的基準がない(52))を挙げている。この不
確実性があるために,授業者には自律性が求められ,即興的な判断を活か
せる授業,つまり子ども達が能動的に学ぶことができる授業が実践できる
ようになるのである。しかしその一方で,不確実性があるためにどこまで
やればいいのかが明確にならず,その不安からマニュアルに頼ったり,過
度に他の授業者と歩調を合わせたりするということも起こっている。この
短所に関しては,⽛主体的・対話的で深い学び⽜の導入により,今後さら
に顕著に現れるのではないかとも危惧されている
(53)。それでも,こういった
短所
(リスク)を持ち合わせているからこそ,授業には芸術性が現れたり,
創発的なコミュニケーションが生まれたりする可能性があるのである。こ ういったことを自覚しておくことも,子ども達が能動的に学ぶ授業に取り 組む授業者には必要なことであると考えられる。
Ⅲ.オックスフォード大学とミネルバ大学の授業 中世からの歴史があるオックスフォード大学と, 2014 年設立のキャンパ スがないミネルバ大学でおこなわれている授業にはやはり大きな違いがあ るのであろうか。それとも共通点もあるのであろうか。次にこういった視 点から学生が能動的に学ぶ授業について考えていく。
1 .オックスフォード大学の授業
イギリスやアメリカの⽛ユニバーシティ⽜では,アーギュメントができ
る人間を育てることが最終的な目標であると言われている。アーギュメン
トとは,⽛ただ自分の意見をいうと言うのではなく,知識を分析的に自分
で獲得した上で,⽛だから私はこう考える⽜と論じること
(54)⽜である。その
ためにオックスフォード大学では,チュートリアルという仕組みを導入し
ている。チュートリアルとは,⽛学生一人ひとりに一対一で教師がアーギ
ュメントの相手になる
(55)⽜仕組みである。つまり,教師がアーギュメントの
手本を学生に示すのである。そして,チュートリアルをおこなう前に必ず
必要になるのが,リーディングアサイメントである。リーディングアサイ
メントとは,事前の文献学習であり,知識という部品を提供
(56)することであ
る。つまり,知識を講義で伝えるのではなく,学生が自分で文献を読んで
チュートリアルで取り上げるテーマに関する知識を獲得するのである。そ
のため,チュートリアルに臨む前にかなりの量の文献を⽛読む⽜ことが求
められる。また,オックスフォード大学の図書館には人類の知の集積が具
体物として保管されているため,大学の図書館を利用することで,これま
での人類の知の集積に恐れおののく,つまり学ぶことに対して謙虚になる
ことができるのである。さらに,オックスフォード大学では,⽛書く⽜と いう行為も重要視されている。そのため,課題としてかなりの量のエッ セーを書くことが求められる。そして,いまだに卒業試験では,⽛完全に 紙ベースの手書き
(ハンドライティング)の試験
(57)⽜を三時間かけておこなって いる。このようにして,オックスフォード大学では,⽛読み⽜⽛書き⽜,⽛チ ュートリアル⽜をおこなうことで,アーギュメントができる人間を育てて いるのである。このことは言い換えると,知識を⽛頭の中でどうやって知 として再構成するか
(58)⽜を教えているとも言えるのである。
2 .ミネルバ大学の授業
ミネルバ大学では,⽛知識をどのように実社会に応用できるのか
(59)⽜を学
ぶことが目指されている。授業はオンラインでディスカッションを中心に
おこなう形式である。授業の定員は 19 名以下で,学生の発言時間を確保す
るために 90 分間の授業時間のうち,授業者が話すことができるのは連続 4
分,合計で 10 分間と決められている。また,アクティブ・ラーニング・フ
ォーラムという独自のプラットフォームを採用することで,学生全員の顔
が画面に表示され,個々の学生の発言量や質問に対する学生の意見を授業
者が瞬時に把握できるようになっている。そして授業には,⽛ 3 , 4 時間
程度を要する事前課題を提出した学生のみが参加できる仕組み
(60)⽜になって
いる。この事前課題は,MOOC と呼ばれる大学の講義を無料配信する
サービスを通じておこなわれている。つまり,授業でのディスカッション
に必要な予備知識は自分で習得するのである。さらにミネルバ大学には決
まったキャンパス
(図書館などの施設も含め)はなく,世界 7 都市
(1年目サン
フランシスコ,2年目ソウルハイデラバード,3年目ベルリンブエノスアイレ
ス,4年目ロンドン台北(61))を 4 年間かけて巡りながら学ぶという仕組みに
なっており,学生は各都市で寮生活を送っている。また,これらのミネル
バ大学の仕組みには,大学教育にかかる膨大な費用を削減することや学外
連携活動を豊富にするというねらいもある。
3 .二つの大学の授業より
オックスフォード大学とミネルバ大学の授業は一見すると対照的である。
そして,実際にオックスフォード大学では MOOC を否定したり,ミネル バ大学では図書館の存在を否定したりしている。しかし,これらはある部 分だけを捉えたものあり,両者の共通点という観点から見ていくと,また 別の見方ができる。両者の共通点としては,授業の目的,授業における入 力
(input)と出力
(output)を重視している点が挙げられる。授業の目的は,
オックスフォード大学ではアーギュメントができるようになることであり,
知の再構成である。ミネルバ大学では,知識をどのように実社会に応用で きるのかである。それぞれの表現は違うが,知の再構成をという観点から 見れば,両者の授業の目的がかけ離れているとは言えない。つまり,知識 を何かに応用するためには,やはり知の再構成が必要とされるのである。
そして,授業における入力
(input)と出力
(output)の重視に関してはこれま で見てきた通りである。ただ,その方法が違うために両者の共通点には見 えなかったと考えられる。入力
(input)については,オックスフォード大学 では,実物の本を中心に事前の文献学習がおこなわれ,ミネルバ大学では オンラインで無料の MOOC を中心に事前課題がおこなわれている。また,
ミネルバ大学では教育にかかる費用の削減も重視していることから,両者 の図書館に対する見方が全く違っているのである。出力
(output)について は,オックスフォード大学ではチュートリアルという授業者と学生が一対 一で向き合うという仕組みを採用しており,ミネルバ大学では少人数でオ ンラインでの独自のプラットフォームを用いるという仕組みを採用してい る。また,オックスフォード大学が MOOC を否定しているのは,MOOC は知識の伝達のためのものであり,MOOC だけでは知の再構成はできな いと見ているからだと考えられる。そして,ミネルバ大学でも 4 年次には,
⽛シニア・チュートリアルと呼ばれる学生 3 名と教授 1 名からなるセミ
ナー
(62)⽜がおこなわれている。このように,オックスフォード大学とミネル
バ大学ではその歴史や授業の方法に違いはあれども,知の再構成という大
きな目的に向かうために学生が能動的に学ぶ授業を実践しているからこそ,
多くの支持を集めることができていると考えられる。
Ⅳ.課題提出型遠隔授業
令和 2 年度
(2020年度)の前期は新型コロナウイルス感染症の影響で多く の大学が遠隔授業をおこなうことを余儀なくされた。筆者の所属する大学 も例に漏れず前期のほとんどの授業が遠隔でおこなわれた。そして,筆者 はいつくかの遠隔授業の方法の中から課題提出型を選んだ。その理由とし ては,準備の時間があまりなかったこともあったが,何よりオンラインや オンデマンド型の遠隔授業で学生が考える場面をつくるのが困難であった ためである。もちろん,初めての取組であったために,課題提出型遠隔授 業で学生がしっかりと考えることができるのかということに自信は持てな かった。それでも結果的には先述の通り,課題提示型遠隔授業の中で学生 が能動的に考え,学ぶ姿の一端を見ることができたのである。そこで,令 和 2 年度
(2020年度)の前期に実践をした教職課程の科目である⽛教職入門⽜
(1・2回生配当)
と⽛特別活動及び総合的な学習の時間の指導法⽜
(2・3 回生配当)の課題提出型遠隔授業から学生が能動的に学ぶ授業について考え ていく。
1 .課題提出型遠隔授業の進め方
⽛教職入門⽜
(受講生76・31・17名)と⽛特別活動及び総合的な学習の時間
の指導法⽜
(受講生39・19名)の課題提出型遠隔授業は,基本的には学生支
援ポータルサイトを通じて学生に課題
(活動)を出し,その課題
(活動)を通
じて学んだことや気づいたこと,考えたことを授業内小レポート
(以下,小 レポート)として提出させるというものであった。さらに,小レポートの中
から全員で共有するべき箇所を抜粋してまとめたものを資料⽛前回の授業
内小レポートより⽜として,第 2 回以降は毎回提示した。
2 .教 職 入 門
教職入門では,第 3 回の小レポートから以下のような記述が見られるよ うになった。
☆他の方々のレポートを読んで,たくさん刺激を受けました。私は,
課題に関して,浅い理解で終わっていて,深く考えられていないこと に気づかされ,反省しました。⽛今の事しか考えられていない⽜とい う点に関しては衝撃を受けました。私も⽛今⽜のことしか見えていな いと思ったからです。⽛過去⽜と⽛今⽜を考え,批判するという点で 終わってはいけなくて,考えて批判した上で⽛未来⽜に᷷がるように しなければいけないのだと思いました。
☆⽛前回の授業内小レポートより⽜を読み様々な人の意見を見てから もう一度教科書を読み直してみると,一度目に読んだ時は,解釈に困 った言葉も,二回目読んだ時にはスムーズに頭に入ってきました。こ れこそ⽛自分の持っている視野を広げること⽜,⽛連携・協働すること により組織を向上させること⽜につながるのだと実感しました。
☆この授業をして,自分と同じ考えや,違う考えを見ることで,より 深く前回の課題について考えられたと思います。このような授業がア クティブラーニングということなのか気になりました。
☆私も高校生の時にアクティブラーニングしました。先生の話を聞く 限り実験段階で導入するという形で,グループ交流~発表という流れ で,まさに小レポートに書いてあるマニュアルどおりでした。実際や ってみて,かなりグダグダしていた記憶があります。そのグダグダか ら生徒たちがやる気になってくれるための工夫が必要でしょうけど,
そこまでに誘導する方法はとても難しいことだと思います。その点小
レポートの能動的に動くという能力は重要で結局自分で考えないとい けないと思いました。
☆また,知識だけでなく自分の言葉で教えることは経験がないと難し く,マニュアルに頼ってしまうのも仕方のないことだと思いました。
☆前回のレポートを一通り見て気づいたことは,教師を目指す人は一 人一人様々な意見やモチベーションを持って目指しているということ が分かった。教師という 1 人の人間として,自分の中の正義を貫き通 そうという意思が文章をみていて強く感じた。そして,同じく教師を 目指す者として,意見交換をすることにより,その人にも自分自身に も⽛教職⽜という視野が広がると思った。またそれととともに,自分 の文章力は,まだまだ大学レベルに達していないということを痛感し た。
☆僕は授業内レポートを見て自分は視野が狭く,知識が足りていない 事を痛感しました。僕の課題提出はほとんどが自分の経験した事を元 にして,自分が思った事を書いていました。ですが,他の人達のレ ポートは経験だけでなく,自分の持つ知識等も使って自分の考えを書 いていると感じました。さらに内容は難しい事を書いているわけでは なく,誰でも思いつけそうな事が多くありました。
これらの記述から,一部の学生が能動的に学ぼうとし始めていることを読 み取ることができる。さらに,第 4 回,第 5 回の小レポートにはこのよう な記述があった。
☆今回の⽛授業内レポート⽜読んで,改めて他人の意見を聞くことの
面白さを実感しました。コロナウイルスの影響で家族以外と会話や意
見の交換をしない中,このようにして同じ文章を読んでも自分とは,
違う捉え方をしている人もいれば,似たような考えの人もいて,自分 とは異なる捉え方の意見を自分の考えと照らし合わせられることは,
この状況下での気分転換にとても有効だと実感しました。
☆他の人の小レポートを見た後に自分のレポートを見直してみると,
言っていることは似たようなことなのだが,⽛伝え方⽜⽛一つの内容を 自分でどれだけ深く考えられているか⽜この二点がほかの人たちに比 べて圧倒的に自分に足りないのかを実感させられた。何度も教科書を 読みなおし,書いてあることだけを理解するだけではなくそこから自 分自身の意見を取り入れまとめていくことが大事である。他の人の小 レポートを参考にしながら徐々に自分のレポートの質も上げていく。
これらの記述からは,文章表現のみで有効な意見の交流ができていること や,教科書の内容を理解するだけではなく,そこに自分の意見を取り入れ ていかなくてはならないことに気づいていることを読み取ることができる。
また,第 6 回の小レポートでは,
☆授業内レポートは,私が誰かのものを参考にしているように,誰か に参考にされているのだなという意識をもって課題に取り組んでいき たいと思います。こんな状況なので,授業内容について話し合いや意 見の交換ができない分,こうして疑問に思った点や気づいたことなど をたくさん書いてくれているのは参考になるし,私の成長にもなるの でとてもありがたいです。
☆前回の授業内小レポートよりを読んで気づいたことは似たようなニ
ュアンスの意見はあっても,みなさんがきちんと自分の自身の考えを
自分の言葉で述べていることです。言葉は最強のコミュニケーション
ツールの 1 つであると言われていますが,自分の思っていることを相 手に対して 100 % 伝えるということは難しいことです。ですが,回を 重ねるたびにとても簡潔でわかりやすいレポートが増えてきていると 感じたのでそんなレポートを書くことができるように努力しようと思 います。
このように,自分自身の小レポートが仲間の学びにつながっていることや,
自分達の成長に気づいていることを読み取ることができる。そして,第 9 回の小レポートにはこのような記述があった。
☆今まで教職入門で習ってきたことと組み合わせて,学習することが 大切だと改めて感じました。以前に習った分限処分について,精神疾 患で休職する人が多いのは,教員の仕事の多さが関係しているという 意見について,その通りだなと思いました。回を進めていくうちに前 回疑問に思っていた答えが分かったり,見方や考え方にも違いが出て くると感じました。
この記述からは,これまでの学びとつなげ合わせることの意味に気づいて いることがわかる。
このように,教職入門では学び方についての多くの気づきが見られた。
教職入門の受講生の大半が一回生であることを考えると,初めての大学で
の授業と,おそらく初めてとなる課題提出型遠隔授業に戸惑いがあったと
思われる。しかし,仲間の小レポートの抜粋を読むことで学び方に関して
これだけのことを学ぶことができていたのである。もちろん,ここで取り
上げた記述も⽛前回の授業内小レポートより⽜として,他の学生の目にも
触れられている。小レポートの記述には現れなくても,これらの記述から
学び方を学んだ学生もいると考えられる。
3 .特別活動及び総合的な学習の時間の指導法