P.Natorp 教育学研究 (其の三)
各論・第一 「教育学の哲学的基礎付け」
A.理念の基礎付けとその導出
熊 谷 忠 泰
①P.:N.教育学研究(其の一)
総論「ナトルプ教育学の性格」
A.全体としての哲学から全体としての理念へ。
(長崎大学学芸学部・人:文社会科学研究報告,Vo1・4.昭29.3.)
②P.:N・教育学研究(其の二)
総論「ナトルプ教育学の性格」
B.全体としての理念から発体としての教育へ。
(長崎大学学芸学部・教科教育砥究報告,Vo1.1.昭29.11.)
以上においてナトルプ教育学の全体的性格を論究して,今各論に入る。総論に於いて論じ足 ちぎるを補うと共に,総論に対する具体的論拠の提示ともなるであろう。
問題の区分。
ナトルプ教育学における「全体としての哲学」なる語句の持つ意義は,単なる基礎付けの観 点からのみ把握さるべきではないというのが所論の発端であっ才こ。その「意義」は,第一・に,
ナトルプの謂う「哲学」の意味,第二に,この場合の「全体としての」が何に対して使用され ているのか,のこ点の解明を通してのみ正しく把えられるのである。しかし総論では,こ.の詳
:細は避けて,一応それは「教育自体の根源的把握の問題」を含むものであるというに止めすこ。
で,当然,この「問題」の中に,以上の二問が包含されていたと考えなければならない。
所で総論における我汝の結論は,ナトルプは教育の成立する基盤を「社会生活」の正当なる把 握の上に位置づけたという事であった。社会は理念の具体的顕現の場である,従って,理念・人 閤意志・教育は,一切そこでの生活において在る。蓋し教育とは,本来論理的には,存在における 規範を求めてなされる人間意志の努力乃至は実践的行動であり,しかもそれは,社会において
のみ具現可能なのであるから。若しそうであるならば,教育の基礎としての「哲学」も又,当 然社会内存在と見徴されねばならないであろう。ではこの場合の「哲学」とは果して如何なる ものであろうか。この問題提起は,教育学的には次の理由に由る。即ち,従来,人はナトルプ の「教育学即具体的哲学」(ph. u. pa., s,43)説を把えて,彼は教育学を単に哲学から導出
したのだと解していたが,実はそれはナトルプの真意ではないというのがそれである。従来の 常識的解釈は,ナトルプも注意深く述べているのであるが,決して「我汝の概念に従って」い
ない我流の「哲学」解釈に基くものであって,この誤解は更に,「教育学における普遍妥当性」
の本義をも没却してしまったのである。以上が「全体としての哲学」の意義が持つ:第一の問題 点である。
次に「全体としての」の対応の問題であるが,それは総論において述べナこ如く,実践的展開 としての全き教育である事はいう迄もない。融育は全体ζしての入聞形成を完極の課題とする ものである。一切の教育的営為は,所詮この点に集約せられねばならない。故に我汝は,この 含みを以て,総論において「全体としての入間性」に就いて考察したのであるが,ではこの全 体としての人間形成がその名に値する最後の拠点は何であろうか。ナトルプによれば,形式的
には「理念」である事はいう迄もない。故に教育は,「理念」を核とし,且つそれをめぐって の実践的努力に外ならないといえよう。こうして正しい「理念」の意義づけとその性格究明は,
教育における不可欠の課題とならねばならない。
総論1こおいて,理念は,「方向点」Richtpunkt及び「統一体」Einheitとして把えられ た。前者では,理念は内在的でありながら,そのものの顕外として,いわば「自己措定的目標」
と見られ,後者では,経験統一の根拠(原因ではない),或は実践的世界の統制原理と見られた。
この様な考察が可能であるのは,理念が優iれて Werden の論理を満足せしめ, stetiger Ubergang をその本質とするものであったからである。故に既述の如く、,理念とは,「経験 の単に思念された連続的統一」であったのである。ではこの連続的統一一は何によって可能とな
● ● ● ● ■
るのであろうか。私はこの小論において,便宜上第二の点を先づ明らかにし,然る後第一の点に及ぶ事にする。
即ち,理念の基礎付け及びその導出から,教育学の科学的(哲学的)基礎付けに到るであろ
う。
A,理念の基礎付けとその導出一 1,
ナトルプは,カントに従って,自然の世界と目的の世界とを峻別し,論理主義の立場から,当 為の基礎づけは自然存在にのみ交渉する経験からは不可能であると断定する。(Soz. Pa., s.5)
当為を前提とし,且つそれへまでの発展を予想する教育にとって,目的概念の持つ意義は重要 であるが,この概念は因果概念とは異り,制約と無制約の関係を超えた無限概念であるから,教 育は当為と共に,経験からは,たとえ経験が実践上の諸条件や制約を挙示するとしてもそれは 飽迄も単に条件や制約に止るものであって,決して基礎付けられ得るものではない。それは,
「六一が,我汝自身をば自然から常に正当に区別する如く思惟する仕方において求めらるべき である。」(a・a・ρ・・s・10)では・「正当なる区別」とは何であろうか。 rその決定は,人間は
自巳意識を持っているという事の中に存在しなければならない。」(a.a.0)故にナトルプは,
人闇の意識の分析において当為・理念・目的,従って教育の基礎付けを遂行しまうと試みる。
その分析によれば(a.a.0., s.10〜15),意識は,心理学的意識(Psychologische Bewu−
sstsein)と論理的意識(Logische Bew.)とに大別されるのであるが,更に前者は,「誰か
一46一
に意識されているもの,Das, was irgendwem bewusst ist.」と「意識存在それ自体das Bewusst−sein selbst.」とに細分される。
扱て,「誰かに意識されているもの」は,一般に「現象Erscheinung」と呼ばれ,意識か ら抽象化され主観によって措定されたものであるから,我汝と直接に密接な関係を有するもの とはい、難く,唯,認識過程を経てのみ我汝のものとなり,従って意識のこの要素の中に理念 を探究する事は不可能であろう。
次に「意識存在それ自体」は,現象と比較して意識の本質を端的に言表するものの様に思わ れるが,「それ自体」として意識されるものは飽迄も意識の対象であって「意識」ではない。
故にこのものも対象として認識法則の下に立つ。この限り,これは現象(客観)に対して主観 と呼ばれる認識対象に外ならない。主・客は常に相対・依存的であるから,この両者には自我 聞明上の優劣はない。
こうしてナトルプは,基礎付けの問題に対する心理学的意識の権能を否定して,1論理的意識 の批判に進入する。「それは,自然の対象又は意識現象に直接関係しない意識である。 (かと 言って,抽象的な純粋主観としての意識存在それ自体に関係する意識でもない一筆者要約。)
むしろ,全く認識統一とその諸条件に向けられた意識である。……(そして)か、る論理的意
● ● ● ● ● ● ● ● ● o
識の純粋な法則の上に,現象の時闇的整序の法則性,即ち因果律が基礎付けられるのである。」
(a.a.0., s.14〜15)故に論理的意識は,因果律を基礎づける統制原理として,思惟を規制 する意識である。従って,この様な超時間的意識は,心理学的・魚油的意識が真理の基準を思惟 的な現象の事実におくのに対して,唯汝思惟内容の形式的・論理的関係におく。そこでの問
題は,法則相互の全般的関係であり,集約的な論理的法則の関係である。かくて,この様な論
● ● ● ■ ● ■ ● ●
理的思惟において,我汝¢)意識は棋源的な思惟的意識(denkendes Bewusstsein)と呼ばれ
るに至る。ではか汝る意識の特有な視点は如何なるものであろうか。
ナ㍗ルプは,人間精神の独自な内的法則に関して次の様に述べている。 「かの内的な世界形 成は,補修によって常により深くより包括的な関係と結合とを完成する。換言すれば,一方で は綜合(統一における多様なるものの結合Zusammenfassung eines Mannigfaltigen in
eineτEinheit.)の,他方では分析(その内部において諸要素が結合されている如くに形成さ
れた多様なるも.のへの統一再帰関係Wiederzu瓢ckbeziehung der so gebildeten Einheit auf die Mannigfaltigen, darin Verknapften Element6.)の多分節なる・且 つ又唯一rにして最後の法則によって支配きれる過程の中において完成する。……そしてか、る 結論は,次に又か、る類似の爾後の綜合的過程にとっては出発点となり,そしてそれは無限に反 覆されるのである。」(A119. Pa., S.14)と。こ〜にいう「内的な世界形成」とは,人間精神の形 成,従って究極的な意味では,思惟的意識によって形成される世界を指すものである事は明白
である。その時綜合と分析とは,この形成の法則を意味するであろう。しかもこの法則は,「唯
一にして最後の法則」である。我汝はこ〜で,総論での認識過程の三段階を想起せすには居られ ない。 Generalisation から Individualisation への過程は,実にか、る綜合と分析
の不断の交替によって遂行されるものと考える事が出来ようQiこう考える時.認識過程は意識 の法則に依存するわけである。故にこの法則によって,「内的な世界形成」が成就される事はい う迄もない。しかし問題は,意識のか、る法則が,何に拠ってかく作用を実にするか,という ● ● o
事に深まらなくてはならないであろう。
この間に対しては,既にナトルプ自身が答えている◎即ち,法則の無限反覆を経て最後の統 一を求めんとする意識自体の性格に拠る,というのである。意識は究極の統一性である。それ
は,時聞的な雑多な諸現象の混沌の中に綜合と分子の鋭利なるメスを入れ,更に否定と肯定の 段階的向上の過程を経て,最後に包括的な認識体系を構成せんと試みるQ故に又,意識は統一
の法則性でもある。曰く,「独自な思惟的意識の視点一そして唯思惟的意識のみが言葉の完
全なる意味における意識なのである二は,統一性なのである。」(Soz. P翫, s,22)しかしこ の統一は,時聞的存在としての現実の人闇にとっては,到底実現されぬ課題であるであろう。
ここに超時間的意識と時聞的存在との相剋と,引いては超時間的意識否定の現実主義が蓬頭す る。しかし,人問が,その価値意識を喪失しない限り,意識のかかる超時間的統一性を考えな いわけには行かないであろう。しかも,教育は,特にかかる統一的意識によって根拠ずけられ た人闇め現実的行動であると考える事が出来るであるう。故に教育は,意識による意識の教育 である。だからナトルプも,「陶冶という言葉は,明らかに,あらゆる人間精神の内容は,精神的 な,従って生命的な内容である事,又それは,不断の変形と新形成とにおいて肥えられる事,
更にすべての過程と完成せる形成とは,単に過渡点であるという事を示している。陶冶,教育 の全課題は,かくて一般にここにその根源をもつている。故に,単に所与を伝達する事は教育 の課題ではなく,実に蓮綿不断の精神形成の仕事に導入し,各個人をしてこの仕事に参加せし め,叉各個入をしてその地位におき,且つそれに力を与える事,そこに教育の仕事がある。」
(ph. u. Pa., S.49)と述べている。教育が人類の課題であるという事は,実に統一が意識の課 輝であるという事に条件ずけられている。か≦て,意識の本質が統一性であるという事は,
意識の本質は叉,蓮続性でもあるという事に外ならない。だか一ら又,「連続性Kontinuitatとは
の
意識の根本法則であって,そして後者は多くの人汝の交互関係中(先の連続性が時間的連続性を指 すのに対して,これは空間的連続,即ち人と人との漸進的な拡大を示す相互交渉を汗雫する。一筆者註)に も立証されるQそこで意識と意識とは相互を除去せず,むしろ意識そのものに固有なる統一体
への特異なる傾向,即ち理念という統一体への傾向の為に相互に結合する。」(Soz. Pa,S,
む の
71,野点筆者)とも言えるのである。かくて意識は,究極的統一を目指す連続性℃あり,統一性
と連続性とは共に意識の構造を顕示しながら,しかも相協力して意識を意識たらしめているの である。
上の事から我汝は次の様にいう事が出来る。即ち,理念は現象の彼方に在る単に思念され た連続的統一であるが,我汝と全く無関係のものではなく,我汝の論理的意識の連続的統一性 によって,いわば要請として,「在るべきもの」として措定されたものである,だから,意識一 の根本法則おる目的的連続的統一の過程を,主観的機能として見る時意識といい,目的的方向
い
として見る時理念と呼ばれるのである,と。「意識の根本法則を通して,あらゆる多様の統一,
● ● ●
一48一
又は法則性が無条件に要求される。しかしかかる要求の中に,この統一体は既に無条件に措定 されている。それは経験的意味における,在る所のもの ……としてではなく,……,在るべく在 る所のもの として措定されている。しかもそれは又,一の対象,詳言すれぱ,要求の対象の 措定である。かくて在るべく在る所の対象としての絶対無制約なるものの措定は,不可避i的に 意識の本源的法則中に基礎付けられるのである。」(Soz. pa,, S.33)意識の法則性と理念との 関係については,最早これ以上多言を弄する必要はないであろう。唯しかし,現実の時聞的意 識が理念と直接し得べくもない事は,注意されなくてはならない。そこに理念への憧憬が要請 として立ち現われるのである。「意識は,一方におびて自然を拘束しているが,他方では自然に より多く拘束されている。意識は単に知られたものとして常に唯規定されたものであり,又決 して終る事のない存在である。その限り無規定的なるものは意識の彼方に充たされない要請と して留っている。しかしその無規定的なるものは,爾あらゆる判断の最後の観点,即ち理念と
して意識に属しているのである。」(Allg. pa., S。13)ここには,本来理念の基礎付けをなす べき意識を本質的な相において論える事の出来ない時間的制約下の人間の慨歎と悲哀とが描か れている。しかし人間は尚,理念への憧憬一それは価値意識といってもよいであろう一…を 巳れのものとして打棄てる事は出来ない。蓋し,理念とは,「自己意識の統一に関する基礎付 けZu begr紅nden in Beziehung auf die Einheit des Selbstbewusstsein.」(A119. P葱.,
S.3)であり,人間の・意識への早帰に外ならないからである。
以上,理念の基礎付けを了したが,この段階では理念は未だ単に思念された統一体として,
尚観念的たるを冤れない。我汝は更に,それを我汝のものとして把えなくてはならないであろ
● ● ● ● ●
う。理念の導出がこれである。
2,
論理主義の立場からすれば,認識とは,対象に対して,理念を基礎ずける意識の法則に基い て認識法則を適用する事である。この認識法則は,理論的認識の=場合には思惟法則であり,実 践的認識の場合には意志法則である。無論考え得べき認識の種類はこれに止らず,芸術的認識,
宗教的認識等が挙げられるであろうが,今は前二者のみを取り上げる事にする。
理論的認識の範囲は,現象の時間的法則によって劃される経験の世界に一致するQこ、で問 題になる点は,以上の所論からすれば,経験における思惟的規定(Denkbestimmungen in
む の
der Erfahrung,)(Soz. Pa., s・25)であろう。こ、でもナトルプは,飽迄も経験に対する思 惟法則の優位を主張する。ではこの事は,目下の我汝の問題に対して如何なる意味を持つので
あろうか。
ナトルプはカγトに従って,現象は思惟自らが発生せしめた産物であるという。(a.aO.)
従って,経験によって現象が与えちれると考える事は正当ではない。経験は認識の最初の所与
ではなく,むしろ認識が到達すべき最後のものであり,従って現象を規定するものは思惟であ
り,故に現象は思惟の構成物である。かぐて思惟は,経験の世界における中心的な地位を取得 する。(a.a.0., s.26)所で,若し以上の如くであるとするならば,経験の事実(die That一 ● ●
sache der Erfahrung)によっては,一体何が与えれるであろうか。
それは,経験的認識と言われる命題の内容である。しかしか、る命題を構成する形式的結合
様式(die formale Verknapfungsweise)は,何等この事実に依存するものではない。こ ご
うして又,次の様に言う事が出来る。即ち,経験の要素を提供するものは,成程,知覚ではあ
るが,しかし一切の合認識的言明が適合する範疇,及び範疇上の根本規定は,知覚によっては 決して与えられる事は出来ない,むしろ逆に,結合の法則性が事実を規定する,と。換言すれば,
● ■ ● ● ○ ●
結合の法則性が範躊に従って概念を整序する事によって事実を規定する。知覚は先天的には与 えられていたが,概念が与えられていながつたのである。故に知覚が事実を規定するのではな
く,況や事実が法則性を規定するのでもなく,形式的結合の法則性,即ち思惟の法則性
● ● ● ● ● ●
が所与・知覚・事実を規定するのである。(Soz. Pa., s.26〜27)所で,経験派が根源的な与件として認める事実は,果して絶対的な確実性において認識され ● ●
るものであろうか。ナトルプによれば,f各定説が適合せねばならぬ存在の唯一性(der
● ● ● ● ● ●
Einzigkeit der Existenz)」(a. a.0,, s.28)という条件を欠除する限り,事実の被限定性は 無限に止り,完結的に解決不可能な課題として残るであろう。かくて,「事実は常に認識のX
に止まる。」(a・a・0.,s.30)然るに,経験派はこの「X」をば,既に認識の検討を経たもの として自己の立論の前提とする。これは明らかに,論証せらるべきものを前提とする論点羅取の 誤謬と言わなくてはならない。この様な事が何故行われるのであろうか。彼等は,それは事実を 限定する法則的必然性を先天的に認識し得るからだ,と答えるであろう。こうして経験派は,知 覚の所与という概念に於いて,実は認識の最後に明らかになるべきものを先取する(voraus一
:nehmen)のである。かくてナトルプはいう,「事実的規定は如何なる場合においても唯汝近 似的価値のみを有する。絶対的事実は,唯,絶対的な認識に対してのみ存在する。」(a.a.0.,
s,30〜31)と。では果して,論理的認識は,常に不確定なるものとして止まらねばならぬの であろうかQ
これに対するナトルプの結論は悲観的である。「上述した所から,無制約的なるものとして の完結性(Abschlusses im Unbedingten)の認識は,その本性上不可能であるという事が
・結論される。」(a・aO.,s.32)ではその理由,即ち「本性」とは何であろうか。
第一一に,理論的認識では「結合的な思惟法則」が前面に立つ。いう迄もなくこの結合の法則 性は,結局意識の法則性に基くものであるが,しかし,この場合の意識の方向は問題であろう。
即ち,この場合,意識は絶対に向わずに相対に向うのである。連続的統一の法則性を,自らの 進路に従って機能せしめずに,むしろ時間的なものに対して解放するのである。故に意識の法
則性は,理論的認識の際には消極的とならぎるを得ない。かくして「経験における思惟的規定」
は,か、る限界を露呈するに至るのである。しかしそれは,本質的には,理論的認識の範囲が,
時間的被制約性を持つ事に由るのである。若し,理由,又は本性が以上の如くであるとするな らば,理論的認識は,到底「存在の唯一性」,或は「絶対的事実」を得る事は出来ないであろ う。しかしこの事は,この種の認識が理念と全く隔絶する事を意味するものではないQ故にナ
一50一
トルプも又,「成程,無制約的な理念は,理論的悟性に対しても妥当するQが,理念はその悟 性に対し,第一に,か、る悟性を,この悟性の認識が常に制約的性格を持っているという立場 から制限するという如き消極的意義を持つのである。」(a・a・0・,s・32)と述べている。「制限
された悟性」が理念に対して如何なる関係を持つかは明白であろう。こ、に我汝は,理論的認 識の第一の限界を発見する。
第二は,経験自体が,自らの為に何等積極的な完結を必要としないという事に由る。経験は,
回りに論理的基礎が確実であり,且つ前提する根本概念・原則・方法が十分に定義され,証 明される様に見えるならば,これ以上敢て自己の限界を超えて絶対的なるものを探求しようと はしないのである。経験は,自己の世界を持ち,そこに破綻が生じない限り,その世界を改善
しようとはしないし,又その必要をも認めない。この意味で,唯自己の在る所のものであるの ● ●
である。以上二つが,理論的認識の相対性の根源である。
所で,理論的認識,或は悟性の機能が以上の如くであるとしても,意識の法則性はあの段階 に止まる事は出来ないであろう。蓋し,意識は叉,機能的に他の方向を持っているからである。
故に人は,相対の中にすら常に理念の像を求めようとする。 「経験は,それ自身では単に意識 の一つの様式(nur eine Weise des Bewusstseins)に過ぎない。故に経験は,無制約的 なるものに対する意識のあの最後にして最高なる視点に従属する。そしてこの立場は,経験と ● ● ● は全く異る認識の種類へと導くのである。」(a.a.0., s・33)かくして我汝は,より根源的なも
● ■ ● ● ■ ● ● ● ● ●
のへと志向する。そこでは,絶対的なるものは,恐らく決して獲得出来ない限界という消極性 において∫はなく,むしろ積極的に一つの中心となって経験を吟味し,そして経験に対して,
絶対的完結性の理念にまで関係させる事により新なる意義を与えるであろう。ひに,実践的意 義における「当為」の源泉がある。かくて経験は,新なる意識の法則性を媒介として自己を断念 し,高次の認識の境涯へと飛翔する。それは,経験が「経験における思惟的規定」を肯定的に 否定する事によって(勿論この否定は,経験自身によってなされるのではなく,実は理念の手 引に由るのである),経験を超えた意志規定に従属する事を意味するのである。
● ● ● ●
要するに,経験自身は絶対の真を得る事は出来ない。しかし方向点としてそれを求めようと
● ● ● ● ● ●
する限り,経験は既に単なる経験の領域に在るのではなく,常に絶対的なるものに迄の進歩の
● ● ● ● ● ・
方向が都されたという意味二二?寒雲劉コに従っているのである。こうして理論から 実践への転回は・経三々昏學倉↑の飛躍を意味するのである。我汝は・進んで意志の領域に向 わなくてはならない。 (未完)