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P・Natorp 教 育 学 研 究 (其 の 二)

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(1)

P・Natorp 教 育 学 研 究

(其 の 二)

―Natorp教育学の性格―

―B―

熊 谷 忠 泰

    (前    言)

 理論的基礎付け(勿論その具体的な基礎付けの過程ぱ本論稿では省略したが。),及びそれを めぐる若干の問題の解答への手懸りとして取上げた Die Philosophie als Ganzes. の究明 は,我汝をして,途に Idee に封ずる志向をなさしめるに至った。ナトルプの教育學体系に おいて,この Idee の持つ意味は,確かに一つの大きな嶺をなしている。しかし我.々がこの 論題を取上げた所以のものは,本妻,既に明かになってV・る所のものを再び同様の手口におい て取上げ様とする所にあったのではなv・から,從って本論におv・て発明せらるべき ldee の 問題も,別の角度から,詳言すれば,その Idee 探求の過程を通じてナトルプが何を志念し てv・たかの意圖におv・て,取扱われなくてはならない。かくしてのみ,ナト川プの眞に志念す る Idee の意義も生ぎた相貌をそこに露呈するに至るであろう。

 我六は最初のプラ・ンに從って, Idee を経て次に。Wirklichkeit の方向に向わねばな らなV・。この方向の弱点におV・て,上述(前号)の論究は一概明確化されると共に,全体の性 格も自ら明かとなるであろう。唯予め断っておかなくては:な』らない事は,その Idee 導出の 基盤におV・てナ干ルプが何を擦点として所論を展開したかとV・う立場の問題である。これ,敢 て前言を附記した理由である。

 A.Die Philosophie als Ganzes.からDie Idee als Ganzes.へ。(長崎大學馬田學部   ○人コ喜平科學研究報告●第4号所戴)

 B.Eie Idee als Ganzes.カ・らDie Erziehung als Ganzes.へ。 (本稿)

       Theorie−ldee−Wirklichkeitの展開

      1

 前期の肚會的立場から後期の理想主義的立場を一貫してチトルプの推論の根底を形成する所 のものは, かの論理主義である。この「立場」と「形成するもの」との關係は,假りに理論       り   

と現實との關係を・一系列として考えるならば,理論を基点として,前者は還相,後者は往相の        關係として把えられるであろう。かく,この二つのものは混同せられてはならないにも拘らす,

私見によれば, 屡汝不用意な概念規定め下に混用せられて來た様に思われる。特に: ldee の問題の場合,この混用が明瞭に指摘せられる。即ち,ナトルプとプラトγとの關係は,必ず しも從來考えられて來た様な緊密性を持つものではなV・。成程ナトルプの段階匠分の仕方は一 鷹プラトγ的であり,又その各段階の読明におV・てもプラ下γの規定に從う所は多いが,しか しそれにも拘らす我々は,それは:唯,,Tugend の詮明の部分の名構…とその内容,及び理念を 志向せんとする意味での理想主義的精神に限定されると考えざるを得ない。しかもやがて明か

●  ●  ●  ●

      一17一

(2)

になるであろう如く,その Idee でさえも,プラトγのそれとは可成り異った性絡のもので ある事を知らなければならない。

 ナトルプはプラ㍗γを大凡次の様に批判する。哲學と教育學との合一専心係を深刻に理溢 し,且つ眞に完至なる教育は本來より完全なる枇會生活においてのみ途画せられるとの信念に 立つた最初の人は:,實にプラ下γであった(Vg1., Philosophie und P記agogik.2Auf1・,

1923.Einleitung。 s.4)。それ故に我汝は,か¢)ヘルバルトの見解に反面して是非ともプラ 下ンに還らねばならぬ(Vgl., a. a.0., s.7)。しかしそれにも拘らす『,プラ下γの犯した誤 謬ば,哲學を眞に続一しなかったという点のみに在るのではなく,更にその哲學を十分に設明

しなかったとv・う点に存在する。蓋しその詮明は,理念の學としての哲婦を明確に展開する爲

       コ   リサ       

には,不可欠な條件なのであるからである(Vg1.,a. a.0., s.13)。又庇の著書では次の如く 批判する。(1)プラ下γは三個の要素の富士的展開を, 主として分割された身分或は世襲 的階級(getrennte Stande oder vielmehr Kasten)を前提として面詰した◎反心我汝は

・か、る分割そのものに關心を持つものではない。從って果してこれだけの数の階級があるか否

   の   り

かは存知せざる所である。我汝の磁心の中心は,むしろその各階級の杜會的機能の種類(内容)

       の      ロ  ロ   コ   ロ       ニ

である。(2)本誌,虚誕的機能は, プラトγの考えた如き孤立的意訳に在るめではなく,

有機的・相互不可分の關係にある。それ故にプラ1・・ンが階級相互の移動を不動・固定と這えた のに面し,むしろ相一互依存的・一体的調和として全体的に(als Ganzes)心えんとする。故 に「各の機能がすべての三個の根本的成分を包括する。lede:Funktior alle drei Grund−

teile einschliesst,」と言うべきであろう。(以上, Vg1., Sozia1P湿agogik.1899. s.ユ47

〜8)(3)プラト・ンのこの分割思想の結果は,肚會階級制の悪しき傳統を生じ國家の調和を不可 能とした。今日の危機の原因は正しくこ㌧に胚胎するものと云えよう。更にこの結果は進歩を 否定し,各の攣化はプラトγにとっては悪化を意味するが如くなった。しかし攣化は事實とし て否定二二なV・所がら,プラトγは降下的攣化のみを予言せざるを得なかったのである。翼        

之,蓮綾性(Kontinuitat)の原理こそは,この弊害を除去する唯一のものであると云わなく てはならない(VgL, Soz. P衰d., s.173〜4)。(4)事由,プラ}γにとっては降下言忌化は山 北であったから,三階級中,下の二者を嫌悪すべきものとした。それ故この二階級を越える事

こそ眞の人闇生活の目的であると老えた。しかしそれらを無規しては眞の人聞置禽はあり得な いから, 直角はむしろこれらに積極的出面を賦点し,三者一体として人類全体の陶冶的向上 或は道徳化する事(zu versittlichen)を唯一最高の目的とする(Vg1., a. a。0., S.158〜

9)。(5)從って我汝は,眞の正義國家は階級的藪育ではなくして至階級に教育が普及する事 を目指すべきだと信ずる。この限り,「試論生活は何等所與の段階の上に完結されるものでは なく,常に生成しつ、あるとv・う事である。かくて肚會生活の道徳的秩序は永遠の課題とな

      ロ

リ,その徳は理念,即ち無限の朝虹の軍なる方向点と:なる。」(Vg1., a. a。0。, s.159〜60,傍

       ほ      コ    コ    リ      り

」点イタリツ ク。) と。

 以上の批判の紹介は,しかしそれを似て直ちにナ1・ルプとプラトγとの關係を全く否定し去 らんとするものではなく,一つには所謂「理念」の目指す所のものが何であり,:二つには「理 念」がプラトγの建設的批判の上に成立したものであり,從って三つには爾者の關係を輕卒に 肯定する事の非を墨示せんと企圖したものである。ナPレプの,,Idee は,從って嚴密には,

軍に理想主義ではなく,理想主義的論理主義の上に立つと言わなくてはならなv・。然らば論理 主義とは何を以て言うのであろうか。

 ナトルプの三段階詮は,本訴認識の一般的行程に準嫁する。凡そ知畳世界の構成は, 面汚

      コ         ロ

せる思惟の法則に依存する。蓋し知畳は畢寛創造的(生産的)なる思惟であり,反面思惟は究

一18

(3)

極ずる所反省に外ならす,そしてこれは必二子に感畳的封象の本源的構成に迄遡源さるべきも のであって,.その構成を我汝は知畳と呼ぶに過ぎなV・のであるからである。故に知畳は思惟の 綜合であり,思惟は知畳の分析である。この綜合と分析とは:先づ認識の根源的規定である。

,,wo der Verstahd zuvor nichts verbunden hat, da kann er auch nichts a翠f16s−

en・ iVg1・, Phi. u. P巨d., s.60)かくて認識解明は,その作用の綜合的・分析的法則を究明 すべき事となる。

 ナトルプに依れば(a.a・0., s.6!〜64),綜合(Synthesis)は結合(Verbindung)を意:

平するが,それらは第一一に結合すべき要素(zu Verbindende Elemente),即ち雑多(ein Mannigfaltiges)を要求する。勿論この雑多には多勲(Vieles)と多種(Vielerlei)とが 含まれ,その各は結局は個を假附するから,嚴密には雑多としてのこの「要素」は結合の第:二 毅に該解する。唯しかし二野の「認識」の場合には,例え,1と錐も1自体としては認識され 得なV・から,第二段が第一段として取扱われたものであろう。第=:(論理的には第三)に結合 は,多数は1に,多種は!種に迄統一される事を要求する。この好例として墨示されるもの が,かの数観念の過程であろう。籔は,1〜系列(1.1.。。.即ち雑多の系多ID〜統一(1・1

…2.)の基礎過程を,純照門つ正確にしかも直麟的に代表する。知畳の国威におv・ても,その 根本過程はこの量観念の場合と異らなV・。雑多なる感畳の下闇的・室隅的排列が,籔観念を基 盤とせる系列の納期過程に從って観念の全一(Ganzen der Vorstellung)に蛇形威され,

この全一は夏に又高き至一に迄確立される。比較的三隅な質理解の場合には,この統一は,量 の場合が周邊的統括であったのに干し,内部的・中椹的統一となり,論理的には類の野僧とし

       り       コ

て(als das Kontinuum der Gattung)把えられる。そして量の計敬(Zahlung)に封し て質の場合は比較(Vergleichung)が用いられるが,共に差別と統「という論理的過程に於 ては相等しい。しかし全行程の反省的野照とV・う評点に立つならば,量が先づ雑多から生する のに封し,質は論理的に統一が雑多に先行し,その基礎となりつ〜更に統一を反覆するという 本質的差異が存在する。かくて量と質,計激と比較とは,最:も基礎的な認識の關係:方法である と考えられる。そして,1〜系列〜結合,或は輩一性〜蓮綾〜統合の過程は:,v・わば露納の過程.

であって,個が法則的普遍に迄昇達する過程を表明する。カγトは,この論理的行程の無限を        り

説明して動的結合(dynamische Verkn⑳fung)と呼んだのである。換言すれば,それば

制約の開係(Das Verhaltnis des Bedingens)とも言い得るであろう。兎に角いつれにせ

        り        

よ,例えばカツ1・は關係を實体(Die Substanzialitat)・因果(:Kausalitat)・相互作用

         り    

(Wechselwirkung)に麗分したが,この軍勢の旺分の仕方はどうでも,認識続一には叙上

       ●   ● の三段の過程が認められる。

        ロ

 所で若し範疇(Kategorie)が綜合の基本的方法であり,思惟的統一・に封ずる雑多の關係で あるとするならば,綜合の普遍的法則,即ち思惟の統一關係は如何なる場合にも叙上の三段の 過程を経過する。蓋し一切の認識は疑もなく綜合的であるからである。特に:認識の完結せる領 域,即ち諸科學にお幻る認識の必然的進行に封レて,この三段の過程の法則を,かの統制原理

      

(regulatives Prinzip)を以て適用したカγトの功績は:忘れられて:はならなv・。カγトはこ の原理を,総ての認識の諸原理の統一を目指す同質(Homogeneitat),絡ての相を遺漏なく認        めんとする異質(Spezifikation),前ご者の要求を合一的に満す爲の一:貫的な不断の結合を確

保せんとする親和(Affinitat)に分類した。 v・う迄もなく,一つの完結せる親和の段階は,更

       

に絶えず高度の中心的結合を志向する。故にいう,「しかしこの法則は,軍に諸三二の嚢展に 適用を見出すのみならす,すべてのあらゆる種類の嚢展にも適用せられる。獲展なる言葉は,

唯,あらゆる認識,從って認識におけるあらゆる塁橡がそこにおいて自ら構成しゆく所の綜合

一19一

(4)

のかの普遍的段階行程を二軍に一一括した表現にすぎなv・①as Wort Entwicklung ist

 selbst nur ein kurz zusammenfassenlder Ausdruck jenes allgemeinen

 Stufenganges der Synthesis, in welchem alle Erkenn加is und damit aller  Gegenstand in der Erkenntnis sich aufbaut.)。」(VgL, a. a.0 , s.64)と。

 以上がナ下ルプの三段階論の基盤となる認識(此処では特に綜合のみを取上げた。乏いうの は,分析はナトルプによれば綜合の逆であるから,綜合法則の認知のみで十分なりと思われる

Vg1., a. a.0., s.61.からである。)の行程である。ナトルプにとってこの行程は:,實にカ       

γ拳に擦るものである事,ナトルプ自身の表現によって明白である(z.B., Vgl., a. a.0.,

s.12,13,50,usw.)。又他書におv・ては以上の三段の表現とは異るが内容的には同一である 所の言葉を以て,カγトの自然認識の段階を,同質性(Homogeneitat),異質性或は特殊性

(Spezifikation),蓮二二(Kontinuitat)として,叉別言すれば,普遍化(Generalisa−

tion),個別化(lndividualisation),恒常的移行(stetiger Ubergang)として把え

(VgL, Soz.凪, s.168〜9 u. AI19. pa., s.14〜5),そして次の檬に述べている。「カント はこの前進の自然的行程を,……統制的原理の中に形式化した。その原理は更に嚢下しで一何

となれば,すべて人間的なるものは意識や認識の中に根差すものであり,そして結局,すべて

       り       の   コ       の

の人間的野里の前進は意識の前進なのであるかちして一必然的にあらゆる方向におV・て人類 の歴史的獲展に迄及ぶのである。例えば,経濟・法律・宗教・言語・文學・藝術,又最も包括的 な意味における人類の呪言に迄及ぶのである。そしてその結果として,個入におけると同様,

人聞性の規模におv・て,学界の人間に封ずる陶冶の全体に迄(fo191ich auf das Ganze der

:Bildung des Menschen zum Menschen, im Grossen der Menschheit wie im

エ11dividuum)及ぶのである。」(Vg1., A119.顧. s.工4〜5)と。この引用に示された如く,

意識の蓮績的・漸遙的稜展を Schema とし,しかもその嚢展を基礎付け・るに認識の論理的 行程を, regulatives Prinzip として使用したこの段階論,更に加うるに凡ての人問子嚢 展法則の基準として正當に適用を許されるこの原則,それをナトルプは教育のあらゆる部面に 鷹示しようとするのである。(註1)今や以上の所論によって,ナ塾ルプの基本的立場は明確

1となったのである。しかし Idee を考究する場合,論述なこれに止ってはならなv、。我汝は 今一歩,かの行程の諸段階の本質を探求する事によって, ldee 理解の正確なる端野を誤り

なく把握しなくてはならなv・。

 認識行程の各段階は,ナトルプによって次の檬に読明されている。即ち自然認識は第一に,

      コ   の    

最:高の獲i得し得べき一般性及び:一切の自然認識が最後に基礎すべき所の諸原理の統一体に樹し 努力する。第二に,それにも拘らす各の現象をその本來の個体性に於て把握せんと努力する。

この二つの努力の:方向は外見上矛盾するもの、様であるが,しかし次の場合には結合され得る のである。即ち(第三に),外見上無限旦つ不可規定的な二二が一の恒常的移行を認識せしめ

るとか,或は又精密なる槍討によって一現象から他現象への蓮績が嚢見せられ,依て以てそれ が二二的な既知の自然の法則性で解繹せられ得るという場合である(Vg1., Soz. pa., s.169)。

又この殺階の實践的領域への適用としての衝動(Trieb)一意志(Wille)一理性意志(vern一

      コ        

且nftige Wille)の關係は:,二二的な二一及び:一致への意志の根源的志向、の程度に鷹じて

(Vg1., Soz. P蓑., s.55),(1)軍に無意識に何物かに向わんとする感性的な傾向性,(2)

樹象の意識は存在するが尚自由な目的規範の設定を欠除する経験的な意志,(3)意志の純粋 形式法則の自箆の下に,自由旦つ自律的に二二の法則性を意識的に志向する意志(Vg1., a. a.

0.,§8,9)と.して把えられている。

 以上の二例における各段階の詮明の表現上の差異は一懸認めるとしても,各同一段階に封ず

(5)

る二丁の二丁を我救は護取る事は拙來なv・であろうか。試みに前例の場合には,既述の二三念 の認識段階の読明が用いられ,後例の場合には,意識的主体を個と假定する時,主体と倫理的

:法則との關係が量認識の詮明・として途行せられていると考えよう。さすれば第ご段は,前例で は「本來」の個体性の把握において,後門では「封象の意識」において, 雑多の差異認識,

換言すれば他我に嫁る自我認識として理解出來よう。蓋しこの爾者は,:量・質共に「多」を予

       

想するものであるから,この意味におV・て爾者は矛盾なく同一形式に纒める奪が出來るからで ある。封之第三段は,前例では「法則性」への「蓮績」乃至は「恒常的移行」におV・て,後例 では「法則性の意識的志向」において,容易に原理或は法則性の把握による完結的なより高遠 な統一体への三二的移行として把える事が出來る。以上二段階に謝して第一段は,爾例におV・

て可成り相違せる表現が用いられているが,しかし量認識と質認識との本質的な差異が,出嚢 点における爾者の差異に最も顯著に集約せられているとv・う以前の論述を想起するならば,こ れも又止むを得なv・所であろう。それにも拘らすこの爾例の中に,共通的な形式が支配してv・

る事を看過してはならない。先づ前例における「一般性」或は「諸原理の統一体」とV・うの は,決して最後的なものではなく,むしろ全体として漠然たる假読的なそれ,換言すれば,認

       の       コ       

識者の側におv・ては,全体的な性格決定の爲の露点的個体に封ずる嚴密な認識以前の關心とv・

う程度のものと解するを得べく,牛後例における「無意識的な傾向性」とは,丈字通り感性的 被拘束性,即ち低級なる自我への固執と解する事が出來る。それ故に第一画面,共に出展の起 点としての素材的個体への固着の段階と見る事が出痴るであろう。

      

 所で「起点としての素材的個体」は,輩なる1であり,又或るそれ自身と同一なるものとし ての輩一性である。V・わば認識・道徳以前の抽象的・孤立的個体である。次に「差異認識」と

しての「自我認識」・は,雑多なる系列中の個体の認識を意味し,この段階において個物は他を 予想し,その他の措定において始めて醗って眞の自我の存在を認識し得るに至る。多(=他)

との比較における一心の認識,現實的な自我の存在の自畳は,こうして具体的な他(=多)と の交渉を構成して合法的前進を開始し,漸次自我超越に進んで行く。とは云え,この段階にお ける自我は尚「多」との相互制約と相互依存の出馬にあり,從ってその認識は尚媒介的なもの と云わなくてはならない。最後に「統一体への蓮績的移行」は,それが原理或は法則性の認識 に基いてなされる限りにおv・て,軍なる相封的雑多への媒介知ではなく,南面と自我との眞の 統一を意味する。換言すれば,差異性における同一一性或は種の根底に存在する一己としての類 の認識を意味する。六ってこの段階における自我は,自我の諸規定が自らのものであると共に 又封象的でもあり,この意味におv・て原理或は法則性の本質規定でもあるとの確實性を保有す

る。故に封象的法則性と主翻的自我の爾面は共に同一の蓮綾的思惟の中に存在する。さればヒ れは自我にとっては最高の自我認識であると共に,又完結せられなv・不断の「蓮績的移行」を 本質として必然する。一言注意を附記するならば,所謂「統一体」は決して軍に封象的なもの のみを言うものではなく,自我の意識の志向的法則性に二二づけられたものであって,v・わば 意識自体が,自らの本質に二って統一を形成するものと云わなくてはならなv・。かく観じ來れ ば,「統一・体への三二的移行」とは,封象的・客観的統一体への室間的な移韓をV・うのではな

く,自我意識の二二的な自己形成を意味すると見なくてはならなv・。故にナトルプも,「道徳

       コ         の    コ         コ      

的秩序の中にその最後の基礎を持つ所の人間陶冶の根本法則(das Grundgesetz der tnen・

schlichen Bildung, die ja in der sittlichen Ordnung ihr letztes Fundament hat,♪

は,その内容の豊富さ,しかも同時に統一と恒常的相關とに於て(in Einheit und stetige

Zusammenhang),人二二本性を表明し,二つ所與の主体におv・て(uhd im gegeben−

en Sublekt),その能力に從って完成に近づかしめるとv・う事である。」(Vgl., soz. pa.,

(6)

s.175)と述べて,敏育によって人聞本性を何処に導v・て行かんとするのかを示している。蓋 しもと本性に可能性として存在しなv・所のものは,藪育の如何なるカを以てしても無益に終ら

      

ざるを得ないであろう。ナトルプの教育への期待は,その可能性への確信に在るのである。

 以上におけるナおルプの三段階の二段階の持つ論現下意義に卜する論述を一讃して,人はそ の中に何を見出すであろうか。我汝は疑もなく,その中にヘーゲルの「有論」(Die Lehre

vom Sein)における Sein の弁証法的護展の實相を看:下する。勿論ナPレプ自身,その諸 著の中でカγトに言及する程のヘーゲルへの關心を示してはv・なv・。この事からヘーゲルとナ

トルプとの關係に労する下町な引用を示す事が出門す,三って推定から爾者の思想的蓮繋を直 ちに結論する事は危瞼であるかも知れなV・。けれども既に見た如く,各段階の持つ性格及び各 殺:平間の蓮績的・嚢展的關係の本質を探る時,我汝は痛く函者の思想的近似性に打れざるを得な いのである。それ故に唐澤博士も「由來マールブルビ學派はコーへγに於て 根源 を考える点 に於てヘーゲルに近v・ものとv・うべきであろう。しかしこの事は特に事實をFieri, Methode       ミ即ち永遠の進行に於て把握せんとするナ㍗ルプに於て著しく,この点彼は師コー・ヘツとは異っ て始めよリヘーゲル的傾向をより濃厚に有ってv・たものとv・うべきであろう。」(唐澤富太郎

「ナ1・ルプの祉會教育學」昭・24,P・111)と述べて居られる。

 「有論」の世界は墨型の世界であり,その回雪は「移行」(Obergehen)の論理によって支 えられる。この論理は最も抽象的な Sein 及び Nichts から出嚢して Etwas Ander−

es とv・う具体を経て,最後に Qualitat Quantit盗t の統一としての Mass に及ぶ が,こ、では未だ「實体」(Substanz).はなく,唯在るものは Vergehen Entsteh−

en の論理のみである。所が「有は直接的なものであるから,聞接的なものである本質に關 係を持っている。諸汝の物は一般に存在する。けれども物の有〔存在〕はそれ自身本質を指示

してv・る。そこで有はそれ自身本質になる。…本質は有との關係から言えば媒介されたものと

         の         む    コ         の    コ         り    の     

見られるが,しかし實は本質は根源的なものである。有は本質の中で自分の根篠に露る。」

       り       ロ   の

(Vg1., Philosophische Propadeutik.武市健人課「哲累入門」岩波文庫P.157,)それ故 に有の論理は本質の論理と塗ウなければならなv・。かくして有の本質は年三す盗のである。今

,少しく詳細にこの關係を見よう。

 ヘーゲルに由れば(Vgl。, Die Wissenschaft der:Logik. Erste Abteilung. Die Lehre vom Sein.)「定有Daseinとは,直接的な或は有的な規定性としてある如ぎ規定性 を;持つた有である。ist Sein mit einer Bestimmtheit, die als unrnittelbare oder

seiende Bestimmtheit ist,」(§90)この定有はしかし有的な規定性,即ち質(Qualitat)と

∫して肯定的な・埋るものであるとv・う實有性(Realitヨt)を持っている。實有性は他面,他の ものでは:ないという否定(Negation)を意味し,後者は:他州(Anderssein)として定有の一 つの質を講成してv・る。そして質の有そのものは即自有(An−sich−sein)である(§91)。〜二 の論理は,穿るものと他のものとが門別されながらも或るもの自身の中に他のものが含まれて いるとv・う事を示すものであって,◎この他者への置注が,ヘーゲルでは向地有(FUr−anderes一        ロ    

sein)として規定されてv・るが,これ1と即自有とは勿論同時的のものと考えられねばならな い。しかし即自有は「有の室虚な抽象にすぎなv・(das Ansichsein, ware nhr die leere

Abstraktion de$Seins.)」(§92)これに封して,「向自有FUrsichseinは,自己自身へ の干係としては直接的であり,否定的なものの自己自身への干係としては洞自有するもの,即 ち一価であるund als Beziehung des Negativen auf sich selbst ist es FUrsichs−

eiendes, das Eins.一一者は自分自身の中に匠別を含まぬもので,從って他者を自己から排除 す.るものである。」(§96)こ、でヘゲ戸ルが考えている事は,完成された質であり,有及び定

(7)

有を自己の中に含んだ質である。だからこれは有限な規定性ではなく涯別を止揚したものとし て自己の中に含んでいる無限な規定性である。ヘーゲルはこの手近な例として自我を墨げる。

確かに自我は,定有するものとして自分が先づ他の定有池ら麗別され,そして小別されながら もそれに關制してv・る事を知ってv・る。定有としてのこの自我が,向自有の形式をとるので ある。それ故に自我は,無限であると共に否定的な自己干係の表現である。そしてそれによっ て自我は,自己を自賠自らから旺別し,多者を定立する。しかし自我・C一別)と多野との反

擾(Repulsion)は又牽引(Attraktion)によって止揚されるから,ζれによってそれは

量(Quantitat)に移行する。量(reine Quantitat)は次に定量(Quantum)の段階を経て 質的な定量としての度量(Mass)になる。これが完成された有であるがしかし直接的な統一一 にある限り,質・量はそれぞれ猫立的である。それで質・量はそれの直接性を止揚しなければ ならなV・。止揚によって始めて質・:量は自分自身に出門う事が出配る。この出門㌔(躰,即ち止 揚された有,本質(Das Wesen)を生む。本質こそは,以上の弁証法の成果である。(§111)

 以上は軍に有論のみを中心としてその弁証法的過程を見たものであるが,へFゲル論理畢の 至体系から見れば,しかし有論は輩に直接的な二つ移行の論理の世界であり,倫即自的な有の 段階にすぎなv・のである。從って有の二二的な向自的段階ば 次の本質に於て始めて展開せら れる事になる。故に本質は,「自己自身の中への反照としての有das Sein als Scheinen

in sich Seibst」(§112)なのであった。本質は一一般に,他の干干する事によってのみ自己へ 關吊する所の反省(Reflexion)の立場に立つ。しかしその論理が尚關係(Beziehung)であ

る限り,他の規定の媒介を前提とする段階である。以上の二つに封して即亘向自的,即・ち絶封 的な段階は概念の世界であって,この進展はも早移行や反照ではなくて獲展である。蓋し概念

       コ

,におv・ては,匿別されているものがそのま、同時に相互及び合体と同一なものとして定立され ており,規定性は全体的な概念の自由な存在としてあるからである(§161)。かくて概念は輩純 な絡体性であって, そとからあらゆるその規定が流れ出て肥るものである。嚢展とは實にこの

言胃に:外ならなV・o

 今や以上において,ナトルプとヘーゲルとの思想二七關は明かであろう。前者における1〜

多〜統一の行程は,後者では即自〜向自〜即旦向自において見る事が出來る。「1」は感性的.段 階であるから軍に直接的な二丁自身への拘束にすぎす,その論理は他者(即ち無)への移行に

すぎなv・。「多」は悟性的段階であり,他者を通しての自己への二一の段階であるから,それは 間接的な向自,即ち反照の論理,關係の規定性の領域である。i封之,「統一」は理性的段階で あって1從って自己と三巴とは同時に同一のものとして在存する。故にそれは,絶封の止揚,

換言すれば輩なる絡体性であり,磯展の世界である。蓋し嚢展とは,自己自身の内部における 可能性の顯現であり,從って個と普遍。自己と封象との綜合止揚を意味するものであるからで ある。されば我汝は,爾者の關係につv・て,一唐澤博士と共に次の様に結びたいと思う。「我・々 はか、る彼のヘーゲル的傾向にも拘らす彼の後期著作にヘーゲルの名を見出す事が極めて稀な る事に驚かざるを得ない。……我汝はこれに封してカツシラーと共に,ナトルプの思想がヘド ゲルの思弁的根本原理及び弁証法の方法と殊夏に明示するに及ばざる程にまで,到る所に明か になっているからであると解したいと思う。」(上掲書,P・129参照。)まことにナトルプの思 想は,その根源的な論理の側面に於て,カγトの論理主義をその形式とし,へ門ゲルの弁証法 をその内容として統一し更に推進し,自己猫自の徹底的な論理主義の立場を確立していると言 わなければならなv・。それ故に思弁的な論理主義の面構こそ,ナ下ルプの立場を示す最も適切 な言葉であるとしなければならなV・と思う。

      2      

 以上の立場は,徹頭徹尾一貫的にナトルプの藪育論を支配している;理念論も又この例に漏

一23一

(8)

れなv・◎二ってナトルプの Idee の本質を理解する爲には:,人は必ず以上の立場を誤りなく 心えなければならなV・であろう◎それにも拘らす,ナトルプの理念論を評して,外在観である

とか或は抽象論であるとの批難が壁画行われていた。これはナトルプの嚢展思想の誤握に露因 する。本稿では,紙幅の制限の爲その「根嫉」及び「導出過程」の槍討は省略し,直にその

「本義」のみに魅して考察を加える事にする。

 本匠,獲展の思想は Werden の論理によって支えられてv・る。從って嚢展の思想は,軍 に内在論でもなければ外在論でもなv・筈である。というのは,生成とは,「成るもの」の成る        事であると共に,成らしめられる事を意味するからである。「成るもの」は,成る事と成らし

       ロ       ロ

められる事の統一の成果であり,この全体的な統一の過程を機能的に見て,「生成Werden」

と呼ぶのである。所で成るは,前段階における生成によって成らしめられた「本質」の肯定面

      コ       

を,從って實有の存在を主張する所に成立する。所が本來室虚に出ての主張は何等の主張でも あり得ない。そこに成るの成らしめられる所以がある。ヘーゲルはこれを,自己の矛盾的契機

       の       

の措定と否定とにおV・て論明した。自己の在るは自己の無V・事によって實有となる。同様に自 己の成るは自己の成らなv・,或は成らなv・ものの存在によって存在となる。されば「存在」も

      ロ       つ      

「生成」もそれ自体としては室虚であると云わなければならなv・であろう。かくでナトルプが

,,Es gibt keine fertigen Objekte, nur einen ewigen Prozess der Objektivierung.

ぐVg1., Philo. u. P身,, s.49)という時,この生成の論理を強く意識していたと考える:事が

出癖るであろう。      一

 ナトルプの親展の思想を最1も端的に示す言葉が,かの stetiger Ubergang である事は:

何人も異論のなv・所であろう。既に見た如く,この「恒常的移行」は,1と多の分裂封立を,

特に1に(尤もこの1は軍なる1ではなく,高次化した1である。)重心を置き・つ〜統一しな

がらより高取化した1に嚢展する過程を言表したものである。從ってこの「移行」そのもの

は,軍なる1としての自己とか,或は自己に封立する他者としての多を問題の覗野に置いてv〜

るのではなく,むしろ嚢虫的に爾者を統一せんとする機能面に漁船が置かれている。我々ば

「移行」といて概念使用の申から,この様なナトルプの意圖匙汲取るものである。かくてこ〜

に,同構造を頭に描ぎながら,嚢展の主体に中心をおv・てそれを,例へば  Dasein Wesen Begviff と表現したヘーゲルと,むしろ磯展そのもの、構造に中心を置v・て 叙上の如くに述べたナ1・ルプの相違点を置こうと思う。

 この事はしか恩決:して小さな問題ではなv・のである。生成に:おv・て,成る所の成るもの(自

      

己)に中心を置けば,必ずや内在論となるであろう。ヘーゲルの絶史的観念論は決して偶然で はなv・。又「自己」が途に Geist に迄昇華されたのもあながち誇張ではなv・のである。反

之,成らしめるものに重心を置けばどうなるであろうか。18世紀末から特に19世紀にかけ

       

て,自然科學及び批會科學におV・て,特に「進化」或は「獲展」の思想が急速に西台を風靡し たが,それが以上の科學では唯物論或は島山論と結合してナトルプの時代には,既に人間性を 犠牲に供する程の科學全盛時代・機械主義時代或は又唯物論時代を現出してv・た事,前廊に述 べた如くである。ナトルプは,ヘーゲルの絶封的唯心論に偏しなかったと共に,唯物論的感量 主義にも組しなかった,否むしろ,盃盤を全き・人聞性の或は人間の Gemeinschaftsleben において統一せんと企遍したのである。ナトルプは,かくて嚢展しつ〜ある:事實,成りつ、ある 玉台的虚位において自我と応益とを一体的に把えんと試みた。それがかの stetiger Uberg−

ang の意味である。ヘーゲルは, Ubergehen Entwidklung とを嚴に麗別し,前 者は唯Seinの益城における弁証法的過程としてのみ正忌である旨を述べてv・るが(Vg1., a.

a.0.,§161,Anm.)ジナトルプのそれはヘーゲルの如く,唯,,,Ubergehen in… ではな く,(註,・2)統一的段階移行,換言すれば, ewiger Prozess の相を表現したものであ

一24一

(9)

る。さればナ㍗ルプの 14ee も叉,か、る永遠の蓮檀の過程の成りつ、ある死相を哲學的に

      ●   ●   ●   ● 表現したものに外ならなV・。

 以上によって我々は,ナトルプによって眞に志念せられた所の ldee は,實にかの ste−

tiger Ubergang にその本質を有するものと考える。從ってその理念は,決して外在的に 措定せられた實体ではなく,又無限の彼方に観念的に想定せられた不動の實在でもなく,實に 永遠の過程そのもの,詳言すれば,成りつ、ある働きによって成らしめられた所の威りり、あ

ド        の      の       り     ロ  リ       り      

る成るもの,つまり動因を自己の内部に包藏しつ、自ら志州する事に於て他者を措定し,その

      

措定を介しながらしかも統一しつ、自己を二二化する過程の申に在るもの、生成を老える。こ の自己の顯在の過程において,一つの自己生成の方向点(Richtpunkt)が明かになる。、それ        る

故に,若し理念が生成の過程であるならば,この自己生成の方向点は明かになった(具象化し た)理念と考える事も出來よう。この意味におv・て,嚢展は成るもの、自らによる理念の展開

       し

であり,二って理念は,内在的には高山の主体の潜勢として,外在的には嚢展過程を導く方向 点(目標)として把握する事が出來る。故に理念は瞬闇と永遠に存在する。その限り理念は経 験的には,即ち封象的には決して把握出來なV・課題たる性格を持つであろう。何となれば,封 象的に把握出湯るものは不動の實体としてあるものであり,しかも完成可能の目的は嚢展的過 程を形成する所のものではなv・からである。故にv・う,rこの目的こそ終局の目的ではある が,しかしそれはも早決して経験的には獲得されす,むしろ無限なる,それにも拘らす進路の

:方向を,無限なるものへ合法的に規定するものである,sondern unendlicher, der indes−

sen die Richtung des Weges<die immer hbhere Erhebung unserer Zwecke>

im Endlichen gesetzmassig bestimmt.」(Vg1., Allg. pa., s.17)進路,それは愚女 の目的の常により高き高揚,の:方向を無限なるものに高して,合法則的に規定するものが理念 であるというこの丈章は,最も明白に以上の我・々の論明を証明する。そしてこの合法則的な規 定というのは,既述の如く,理念が一個の統制原理であるというに外ならない。我汝が理念は

内在的であると共に外在的であると云ったのは,蜜に理念がか、る統制原理であるからこそ,

       コ       り      

かく断言出來たのである。蓋しこの原理は,範疇の如き・経験界の封象一般(Gegenstand 豊berhaupt)を構成する原理(Konstitutives Prinzip) と異り,第一に反省的判断:力

(Reflektierende Urteilskraft)の,第二に理念(ldee)の原理であって,勿論この場合 は,後者に該當して純料1悟性認識に面して統制的に働きかけるものであるからである。されば この原理は認識を統制しはするが,認識によって証明されるが如き・ものではなく,飽迄も認識 の可能原理として,しかも認識の過程に浸出する所のものである。理念も又か、る本質に在る ものとするならば,正しく理念は,終局であると共に起点であり,統一体であると共に源泉で でもな汚ればならなv・であろう。故にナ㍗ルプも,「もしも理念が,ある点におv・て目的乃至 終局であるとするならば,それは他の,そして根源的な点におv・て,恐らく眞の出口である。

即ち,輩なる始源ではなくあらゆる多様の意識方向の根源である。das heisst nicht bloss

Anfang sondern Ursprロng aller mannigfachen Bewusstseinsrichtung.若しそこ

から何も出なければ,それは如何なる出口でもなく,又もしそこから何物も嚢生しなければ,決

して根源ではなv・。而して又,もし雑多なる實際的傾向の萌芽をその中に包み,又そこから嚢 芽せしめる如き 統一としてでなければ,如何なる眞の統一でもなv・。」・(Vg1., Phil o. u.露.,

s.16)と言い,又他の書では簡潔に, Ursprαnglich ist sie nicht das Zie1, sondern der Ausgangspunkt, nicht das Ende, sondern der wahrste Anfan.g, namlich Ursrrung:das Prinzip. (VgL, Soz. P菱., s.24)と述べている。以上,我汝は主として 理念の目的性的性格乃至は方向点としての性格について論じて來た。それはv・わば理念の外在

一25一

(10)

面であるであろう。だからナトルプも, blossen Richtpunkt einer unendlichen Entwicklung (Vg1., a. a.0., s.160)として理念の忌明をなしてv・る個所もある。だが しかし,所謂「無限なる」とか,或は「輩なる方向点」とかの表現を,二字通りに解すぺぎで ない事は,上述の所で明かであろう。それは外在面ではあっても飽迄も理念本來の全体性格か ら考察せられなくてはならぬのである。蓋し存在の自畳は,その饗者との否定的媒介による止 揚によってのみ可能なのであるから,外在性も又内在性との止揚によってのみ把握せられ得る

のである。      .

 後者の側面における理念の考察は,その統一体的性格を経て具体化にまでの進路を我汝の前 に展開する。勿論この面の考察が,常に前の考察との反照に於てなさるべき事ばV・う迄もな い。扱てこの面における理念の性格は,認識批判的見地からすれば,時間的現象として散乱す

る所の異雑なものの超時間的意識におのる最後の統一を意味する。(Vg1., Soz, P蕊.,§4)又實 践的見地からすれば,意志の無限なる四達としての自律的な弘遠的且つ自由な決断の着眼点

(徳)の向上に弱ならなv・。(VgL, a. a. 0.,§62しかしこ〜の所謂「統一体」 Einheit,

とは勿論「實体」的なそれではなく,封立する異種のものの綜合止揚をV・うのであるから,こ の点で「体」は,方向点(Richtpunkt)の「点」と同様の性格のものであると考えなければ ならなV・。順次認識批斜的意味の統」から探求を進めよう。

 論理的法則は,時間的制約を持つ現象的法則とは異って,超時闘的規定性を言明する。八っ てこの法則適用の認知は:,事實には基かす,純輝に論理的内容にのみ面詰する。所でこの内容

とは,思惟されたものの全般的面面をV霜,この關係の調和的無矛盾性を論理的思惟とV・うの

        ロ    

であるから,從ってか、る論理的思惟内容のロ∫能的關係を系統的に壮心せしめる事が,つまり 認識i血判の課題である。故にこの批判においては,批判者は全く痔面的制約から解放せられて.

いな1つればならなv・。そしてこの批判は認識におv・て根源的なものであるからして,時闇的無 制約の思惟こそ,:最も根源的な思惟であるとV・う事になる。所で理念は,認識の統制原理とし て超時間的無制約的法則であったから,最も根源的な思惟は,直に理念に基くものと考えなけ        、 ればならなV・。換言すれば,理念は,かかる思惟へ進入するのである。か、る理念に根嫁して 始めて,我汝の認識は成立する。けれども繰返し述べる如く,理念は経験的事實によって証明 せらる、が如き・ものではなv・。故に,,Sie<Die Idee>besagt schliesslich nichts andres

alsdieblossgedachteletzteEinheit,denletzten,eigenstenBlickpunkt

der Erkenntnis. (Vg1.,Soz.P含.,s.24♪この場合,「輩に思惟された」とは,

懸隔聞賭規定を意味するもので,決して室虚・抽象をいうのではない。後者は現象と全く無關 係であるが,前者は究極的には現象への具象性を持つのである。從ってこの「最終の統一体」

とは,蜜に「経験の」最終統一体であると解される。即ち時聞的雑多を超時間的意識に迄統一 し,論理的法則に適合した論理的思惟を構成する所のものである。故に, Die Einheit der Idee bedeutet dagegep die Einheit eines Grundsatzes, einer Methode. (Vg1.,

a.a.0., s.44)と言えるのである。叉次の様にも述べてv・る◎ Einheit, Ubereinsti血一 mung im Inhalt des Geづachten ist Sinn aller Gesetzlichkeit. (Vg1., a. a−0., S.

37)。して見れば統一体としての理念は,認識統制的意味における統一体・認識方法或は認識 原理の統』体,從って論理的思惟内容の統一体,こ、から認識批判原理として考えらるべきも のであるとV・う事になろう。さればこそナトルプも,この理念に包括される法則として,二二

係の法則(Gesetze von Grδssenrelationep二mathematische Gesetze)・現象の山高

感恩の法則(Gesetze von Zeitrelationen des Geschehens・=Ursachliche od・Natur−

gesetze),目的法則(Zweckgesetze)を墾げている(Vg1・, a・a・0)。

       一26一

(11)

 前段に志げたナトルプの理念への三二的法則中,特に目的法則は直接に實践的問題に開係を 持つ。入.聞の意志は,意識,衝動の褒展として,特にそれが高度なものになればなる程,最終統 一体を必然的に要請する。この要請の中に,目的法則への志向,更に理念としての究極統一体 への志願が比われる。如何なる意味におv・ても,意志にとってこの統一体は不可欠なものなの である。

 思うに,意志にとっての問題は,(1)何が具体的にその封象であるか,(2)如何にして 理念が経験的履定の下に,一の意志世界を構即するか,とv・う事に外ならなv、。(Vg1., Soz.

P浅・,s.48)しかし此等の問題は決して不可分のものではなく,如何にして理念を志向する意.

志が経験世界と相馴れるか,とV・う問題に括める事が出選る。この問題の解決は,直に我汝に,

理念の写象性と統一体としての本質を,其ざに露呈するに至るであろう。

 意志は自らの法則を,時間的・被制約的な自然法則に從屡させる事が出來ないとV・う決定は,

既にカγトの言明せる所である。然らば経験にも基く所の思惟内容の中に根出を有する所の如       の    

何なる法則性が我汝に當爲を規定するか。換言すれば,何によって統一体(理念)が我汝に規.

乱せられるのであるか。我汝各人の目的設定の最終的晶晶は,・一切の目的設定を集中せしめる 統一体に外ならなV・。この統一体こそが,すべての法則性の根面なのであるが,意志は正にそ の様な統一体を,自らの本性として,(註3)追求する。反之,悟性はこの目的確立後に,それを

      

出現する爲の手段に關する疑問に解答を與えるものに外ならなv・。若し意志と悟性とが,かく一 懸範園を異にした領域をその重たる封象とするとするならば,意志こそは正にこの統一体(=

      

理念)をば先取的にその主要封象としなりればならなV・であろう。意志の無限なる追求の究極 の貌一体,これこそ實に理念た外・ならなV・。故に,意志と理念との關係に面してナトルプは次 の様にいう。 Wille heisst zuletzt nichts andres als Zielsetzung, Vorsatz einer

Idee, d.1. eines Gesollten. ζVg1., a. a.0., S.5♪,,lnsoジern kannt auch der Wille, gerade unter der:Leituag der Idee, kein:Letztes, namlich keine Ietzte

empirische Aufgabe. a.a.0.,S.4的それ故に目的設定は:,思惟の自由,目的

自身の選揮が存ずるとV・う瞬闇から先は,一切の目的統合の形式的統一体としての理念の中に 求めねばならなv・。かくて理念こそは意志の究極目的である。しかもそれは,次の急な二重の 意味:におv・てである。,,Das Gesetz der Idee dagegen ist eben dann fUr ihn richtend,

irn Doppelsinn des Richtunggebenden und des richterlich Entscheidenden. (a. a.

0・,s・46)こうして我欧は, 理念〜意志の目的設定〜悟性の目的實現〜経験の逸品を明白 ならしめる事が出減た。勿論,読明上,一品意志と悟性とを麗別したが,爾者は共に理念の法 則的統一に基V・てのみ各の機能が果されるものであるから,事二上,恒別さるべきではなV・。

のみならす・意志が現計に働く世界・所謂意志の世界は,又悟性の,四って構成された経験の 世界でもある。意志は,理念を封象とすると共に弓手をも志向する。だからナトルプも,意志 世界構成の爲の法則的形式として, 絶翼的法則性(理念)に封ずる軍閥的志向と共に,経験 構成そのものの中に,一の意志的世界の素材に迄この経験を適合せしめ,規定せんとする動力 が包含されてv・ると見ている(a.a.0., s.48♪。この事は,意識と封象との相互關係を老察す れば一暦明白であろう。心象(存在)が手掴象に關係を有し,この開係が意識によって意識さ れる事により,そこに認識が成立する。この場合,「意識」は理念志向的であり,「意識され た關係」は経験的素材であるが,前者の後者に封ずる意識による「意識される事」には,從って 理念が進犬している筈である。だから「経験構成」とv・う事の中に,意志と悟性との続一飯とし

コ       る       ロ

ての理念が見られなければならなv・。この關係を,梢長くはあるが,直接,ナトルプの引用に よつ経験て一三明確にしよう。「(理念は経験を超越すると非難する者に話して)理念は必然的に に立野ると答える。意志は軍に目的の認識のみならす,目的への努力である。我汝は四丁的な

       一27一

(12)

ものから永遠を,より正しくは,永遠から時問的なものを意志する。しかし理念の永遠なる法 則は,あらゆる野洲的目的を自らの下に從属せしめ得る。何となれば,経瞼は, 結局,理念と 同一基礎の上に成長するからである。即ち経町の平平設定と意志の目的設定とを支配するもの は,意識統一の根本法則そのものであるか 轤ナある。」(a.a.0., s.44〜5)

 かくして我汝は,以前の:二つの設問に解答した。理念が,方向点であるという想定と共に,

又統一体であるという假定をも,同時に証明する事が出來た。特に後者の過程に曾ては3認識 的側面と實践的側面とを便宜上匪別したが,露する所,理念と経験とは,意志(悟性をも含め

       つ   ロ

て意識とv・う程の廣義な意志)を媒介として統合すべぎものであるという事,換言すれば,人 間の・経験構成という事物の中に,悟性,意志,理念,経験素材は一切包含せられるという事 が明かとなった。これによって理念は,必ずしも外在的・抽象的なものでなV・所以が明かとな ったと思う。しかしこの統合は,決して理念を経験的次元に迄引下げ,不可知の中室に於て爾 者を要町せしめんとするものではなV・。理念は,飽迄統制原理として経験を支配する。それが 法則性としての理念の眞義であるであろう。「確かに理念が我汝に指示する實践的任務は常に 輕験的のものである。これは,我汝の欲求に,通覧し得べき最高の経験的目的に迄注目する事 を命ずる。それは,もしも一つの向上した着眼が,第一紀受納した目的を超越する程の他の大 なる目的を認識した時には,か、るより大なる目的に迄,我汝を向上せしむべしという事を條

件とする。」(Vgl., a. a.0., s.44)

 由來, 新力γ1・学派は,一般的に見て反形而上學的な立場に立つ。マールブルビ門派は新カ ット學派申,特にヵγトの批判主義・論理主義を極度に野物せレめ,この結果一見思弁的とさ え思われる程に観念化した。けれども我汝は,それをヘーゲルの絶罫的観念論等と混同すべぎ ではなv・。たとえナトルプがその弁証法に於てヘーゲル的であるとしても,やはりそこに明確 な一線は確保されてV・る。この点でナトルプの理念は:,決して今一ナ性を持ってはいなV・。それ は,理念自身が相封的であるとV・うのでは:なく,どこまでも認識批判的立場から,從って極め て嚴密な論理的立場に立って,論理の展開と磯展との究極におv・て必然的に饗出すべくして獲 出した究極性としての法則的統一体であった。しかもその論理の下端は,人闇の意識という・

最も端的直戴な事實なのである。この事實から出で事實を基礎づける法則的統一体,それ故に こそ,ナトルプの理念は常に経験という事實に立蹄る事が可能であったのである。ここに先験 的観念論の眞面目が伏在する。

 以上の理念論を要するに,理念は stetiger Ubergang として,常に震展の論理におい て考えられなければならなv・。方向点としては一癒ナトルプのv・う如く,目標として外・在的に

=考えられてもよいであろう。これは,敢:て schematisch な観点からすれば,嚢展の「成 らしめる」ものとしての外的四三と考えてもよv・。しかし嚢展そのものには内外の旺別はなv・

から,この外的條件は,直に内的主体の嚢展能力と考えられる。そこに主体の能動性が在る。

條件を内在的動機に輔化する所に眞の人闇的意志の勇がある。しかしこれは軍なる精紳至上を 肯定するものではな{(。内外相呼晒して嚢展し,その過程におv・て條件を改善せんとする所に,

経験構成としての,又統制原理としての理念の意義が存在する。現實から寒して現實に還平す る人問の護展を,内(主体的動機)・外(目標設定)二義におv・て統制する所の理念こそは・か、

るが故に最も具体的なものではなV・であろうか。弁証法は,決して論理の袋小路的避難所では なく,入聞世界の現實の嚢展経路を最も端的・野蚕に表現する所の町明の論理である・以上が ナトルプの根本的立場としての論理主義の意味であり,それに基く所の理念論の臨結である。

 この理念論の教育的展開は,ナトルプ教育學理解の爲の極めて興味ある問題を提起する。從 來,以上の解明が十分になされなかった所に,ナトルプ理解の不徹底性が潜んでいたのではな

一28一

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