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学習における感性の役割 一理科の場合一

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学習における感性の役割

一理科の場合一

理科教育研究室 高 野 恒 雄

§1 新教育課程の方向と望ましい学習の性格

現在,小学校から高等学校に至る学校教育,特に授業に対する要望を理科について表現してみると,

「楽しい理科」・「面白い理科」,「喜びのある理科」といってよいであろう。この種の要望は,教 育全体に拡げると「学校生活に人間性を」,「学校の人間化」などの言葉になる。そして,理科に対 する上記の要望をとりあげ,その対策を考えることは,学校教育全体のあり方を考えることにもなる のである。それほど,この問題は一般性をもった重要課題であると考える。

このような主張の背景としては,次のような事情が関連していると思われる。少し割り切りすぎる きらいはあるが,1950年代までの教育において,中心的象徴的な意味をなすことばとして「経験」

(Experience)があり,1960年代には「学問」(Discipline)がいわれたのに対して,1970 年代以後の教育においては「人間化」(Humanizing)をあげることができるとする見方がある。も ちうん,このようなとらえ方は,複雑な事情や問題を極度に単純化したものであるだけに,そのとら え方に無理もあることは当然であるが,教育の流れをとらえる視点として役立つものではないかと思

われる。

このような流れのなかで,特に1960年代の教育の現代化と称せられる学問体系を尊重した一連 のこころみは,高く評価されると同時に,かんじんの生徒にとってぎすぎすした理屈っぽいむずかし い理科という印象をあたえていったことも,大勢としては認めなければならないことであった。

このような教育における底流に,社会全体の動きの傾向が重なって,いわゆる現代における人間疎 外の傾向の存在が強調されるに至った。

つまり,先進諸国における文明の発達,とりわけ経済成長のいちじるしいばあいにみられる管理社 会への流れが人間の生産および消費の作業や生活における断片性となって,人間としての全体性がう

しなわれる傾向が現われてきたことが重視されるに至った。

 教育課程の今回の改訂において,三つのねらいが提示されているが,その内容は上のことと深い関 Aをもってい謝

(1)人間性豊かな児童生徒を育てること。

(2)ゆとりのあるしかも充実した学校生活が送れるようにすること。

(3)国民として必要とされる基礎的・基本的な内容を重視するとともに児童生徒の個性や能力に応 じた教育が行なわれるようにすること。

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上の三つの基本方向は,たがいに関連し合っていることがらで全体としてとらえる必要があると思 われる。

人間らしい人間として生きてゆくための「豊かな人間性」をやしなっていくことの重要性が・第 一に認められている。そして,そのたら6には,学校生活に「ゆとり」がなければならないし,同時に,

1充実」ある活動をとおして張りと潤いのある学習と生活が,展開されることが要求せられる。

このような視点から学習内容を考えていくと,おのずと「基礎・基本」をたいせつにし,それを軸 として,そのほかの部分へ関連がつき,先に学んだことがらが転移するように努力しなければならな い。また,学習の成立が基本的にはひとりひとりにおいておこることであるので,「個性・能力」を たいせつにし,それにぴったりと対応した教育がなされなければならない。

以上の学校教育全体の基本方向をうけて,理科の基本方針がつくられ,内容の構造と学習の過程が くふうされることになるわけである。

§2 学習における認識と感情の関係

この関係について波多野完治氏はつぎのよう1このべてい£

「認識ははじあであるが,おわりではないのである。おわりはいつも『行動』『行為』または『運

 、 ョ』である。」

「その実践であるが,これを決定するきめ手となるのが『感情』なのである。『認識』は,物や人,

または状況についての性質や形,またそれらの『うごき』の動向についておしえてくれる。すなわち,

認識は物や人についての『構造』をつかませるが,それがどうゆう価値をもっているか,そこから出 発して自分はこれからどうしたらいいか,という行動への起爆力を認識はもたない。いや,どうした らいいか,というのも一種の認識だとすると,そこまでは知性がやってくれるとしよう。しかし,そ こでおわりである。それからさきの『行動』をおこすのは,認識の仕事ではないのである。そうして そこに『感情』の役割があるのである。

このように,元来人間の行動においては,認識と感情がからみあってはたらいているのであり,子 どもの人間形成という点からいっても,両者は相ともに発達すべきものなのである。両者のうち一方 だけが発達するということは,元来不自然でもあり,また厳密にはありえないのであり,このような 統合的なはたらきあいが重要といえるわけである。」

ところで,波多野氏の上の論を正しいと認めても,実際の授業における子どもの意識の流れを考え ると,感情の役割は認識の終った後だけではなく,認識の始まり,いや始まる前にはたらいていると いわなければならない。本論では,このような認識の前後にわたる感情の役割,とりわけ認識以前か ら始ゐ6にかけての感情の役割に焦点をおいて,考えたわけである。

さて,以上のような認識と感情の関係に関連して,アメリカにおける一つの試みとして合流教育

(ConfIuent Education)1こっいてみてみよう。「感情の教育のフォード・イゼールン計画」に関 してフォード財団に提出した報告書を基にして書かれた書物,George Isaac Brown教授の著

叱足

guman Teaching for Human Learning−an introduction to Confluent Edu一 cati。n・(、97、131ま該心をついだ学習論を麟している。

「合流する教育とは,個人と集団の学習における感情の要素と認知の要素とを統合し,あるいは流

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れを一にすることを意味することばである。   この教育は時々,人間らしい教育あるいは心理学 的教育と呼ばれている。感情の(affective)ということばは情愛(affection)からきており,経 験と学習の感じ,あるいは情緒的側面を意味する。子どもあるいはおとなが,これから学習したいと 思うことについてどのように感じるか,また彼が学習しているときのように感じるが, そして学 習したあとで何を感じるか,という問題が,この感情の次元に含まれている。

認知のということばは,対象を知るときの精神の活動,つまり知的な機能を意味している。だから 個人が学ぶこと,および学習という知的過程は認知に含まれている。しかし,学習されることが態度 または価値であるなら,それは感情の学習となる。

ある種の感情を伴わないような知的学習はありえないし,また知的活動の全く含まれていない感情 もありえないことはいうまでもない。」

「ちょうど一つの川に流れ込む二つの流れのように,感情の部分と認知の部分とが流れを一つにし て,個人的・集団的学習に統合されるという,教えることと学習することについての哲学と過程を説 明するものである。『感情的』ということばは,経験や学習の感じまたは情緒的側面を言っている。

そして,一層なじみ深い『認知の』ということばは,対象を知るときの精神の活動一知的機能一 を意味している。いままで学校は,ほとんどこの認知の学習にしか焦点をあててこなかったのである。」

「人は知的に学習するときはいつでも情緒的な部分をそこに伴っているのが,冷たく,きつく,頑 固な現実なのである。知性と情緒の関係は切っても切れない仲である。いまはもうこれを否定する代 わりに十分利用する時である。実際,最も純粋で高度な抽象的思考の形態は,考える人の側において,

はなはだしい場合には極度の喜びや退屈や苦痛という感覚を伴っているのである。ミハエル・ポラニ イが述べたように,真に偉大な学問を成し遂げさせるのは学者の情熱である。」

「わが国の学校におけるカリキュラムの内容は,大抵,人間の経験をそのよりどころとしていた。

その生きた経験を捨てて,カリキュラムをもっと能率的なものにしようとしたとき,そのバイタリテ イは大抵失われてしまうのである。教育者がその変化を正当化するとき,彼は,一人一人の生徒が人 類の歴史を学ぶのに,歴史上のすべての事件を再経験するということは不可能であるとか,あるいは 数学者たちが数学体系を仕上げるまでに経験した挫折感とその後の洞察の喜びを生徒が一人一人たど

る時間はないというようなことを言う。

そして,その代わりに,教育者たちは,カリキュラムの全分野で知識を圧縮し,組織化した。しか し,そのことによって教室の中に作られたものは,ポール・ティリッチが致命的な教育上の誤りと呼 んだものだった。すなわち,『まだ質問をしていない人々の頭めがけて石でも投げつけたのである。』

このことは,われわれがすでに述べてきた無感動という病理学上の条件を強め,合成してきたし,認 知の学習そのものに対しても重要な否定的影響を及ぼした。」

このように,認識と感情,知的活動と感情の動きは密接不離の関係にあり,この点に注意して学習 の流れを構成しないと,授業は死んだものになってしまい,効果はあがらない。

また,カリキュラムとしての提案としては,Louise M. Berman の考えがある。 Bermanの 提案するカリキュラム計画は,人間主義的諸過程に焦点整合するもので,人間主義カリキュラム

(H㎜nistic Curricul㎜)ともよばれ,燗は過鱗向的存在(process−oriented瞬)

であるという見解に立っている。      一

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過程指向性(process−orientation )1こついて, Bermanはつぎのごとく説明する;

過程指向性は,彼等自身と彼等がその一部である諸場面を,適切かつ容易に処理することのできる 人びとを特徴づけるものである。このような人びとは,社会の資源を受け容れる人(recipients)

であると同時にそれに貢献する人(contributOrS)でもある。あらゆる教育施設とくに学校は,今 日の子どもと青年のなかに過程概念を助長することを高度に優先させるべきである。もし個人の適切 性と責任性とが,学校プログラムの主目的のなかに存在するものだとすれば。

Bermanは,個々のディシプリン,インターディシプリンなもの,およびディシプリンに源をもつ 教科に反対し,〈過程〉,それもAmmonsにおけるコミュニケーシ・ソのごとき単一の過程ではな

く,認知的(cogni tive)と感情的(affective)の両者を含む人間主義的過程に焦点整合する。

§3 情念の構造

以上のような方向の考え方に立って,学習に結びつく情念を考えるとき,参考になるのがデカルト

(Descartes)の情念論である。デカルトは感性を三つに区別し,最も基礎的なのが情動(Emoti(n)

で動物的,本能的なものであり,その情動が意識的なものになったり激しい状態が情念(Passion)

であり,情念が納得され,確立され,不動のものになったものが感情(Sentiment)であるとする。

そこでわれわれが学習に結びつけて注目するのは,情念であるが,デカルトは六つの基本的な情念 をあげている曾)

「69基本的情念は六つあるのみ,

しかし,単純で基本的な情念の数はたいして多くない。事実,今までに枚挙したすべての情念を振 り返って見て容易に認知できるように,単純で基本的な情念は六つしかない。すなわち,『驚き』,

『愛』,『憎み』,『欲望』,『喜び』,『悲しみ』の六つであり,他の情念はすべてこれら六つの うちのいくつかからの複合であるか,あるいはそれらの種である。」

この六つの情念を野田又夫氏は,つぎのように図式イヒしている曾)

喜    愛

驚異      欲望 悲     憎

驚異の念はすべての情念の内で最初のものであり,基礎をなすものであることがわかる。このこと に関連して,デカルトの言うところをみてみよう。

「5a『驚き』

或る対象との最初の出合いがわれわれの意表をつき,われわれがそれを新しいと判断するとき,す なわち,それ以前に知っていたもの,あるいはかくあるべしと想定していたものとは非常に異なると 判断するとき,われわれはその対象に驚きを感じ,愕然とする。ところで,このことは,その対象が われわれに適した都合のいいものなのか,わるいものなのかまったくわからないうちに起こり)るの であるから,.『驚き』はあらゆる情念のうち最初のものであるように思われる。また,『驚き』には 反対の情念がない。なぜなら,現われた対象のなかにわれわれの意表をつく何ものもないときには,

それによってわれわれはまったく動かされず,情念なしにそれを眺めるだろうからである。」

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「54.『重視』と『軽視』,『高適』と『高慢』,『謙虚』と『卑下』

われわれの感ずる驚きが,対象の大きさによるか小ささによるかに応じて,『驚き』に『重視』ま たは『軽視』が結びつく。そこでわれわれは自分自身を重視または軽視することがありうる。そこか ら,『大度』や『高慢』,『謙虚』や『卑下』の情念が生じ,ひいてはそれらの習性が生じる。

「55.『尊敬』と『軽蔑』

他方,われわれの重視または軽視するわれわれ以外の対象が,みずから善のあるいは悪をなしうる 自由な原因であると見なしうる場合には,『重視』から『尊敬』が生じ,単なる『軽視』から『軽蔑』

が生じる。

「5α『愛』と『憎み』

ところで,これまでにあげた情念はすべてそれらを生みだす対象の善し悪しを,われわれがまった く認知しなくても,われわれのうちにひき起こされうる。しかし,或るものがわれわれに関して善き ものとして,すなわちわれわれに適した好都合なものとして表示される場合,われわれはそのものに 対して『愛』を感じるようになる。また,そのものが悪しきもの,有害なものとして表示される場合,

われわれは『憎み』を感じるようになる。」

「57.『欲望』

その他の情念が生まれるのも,すべて,この同じ善悪の考慮からである。しかし,それらを順序よ く並べるたδ6に,私は時間を区別する。そして,情念が現在や過去よりもはるかに多く未来の方にわ れわれを向かせることに着目して,まず『欲望』から始める。というのは,次のいずれの場合におい ても,この情念が常に未来に向かっていることは明らかだからである。すなわち,まだ手に入れて いない善を得ようと欲したり,今後起こるかもしれない悪を避けようと欲したりする場合にとどまら ず,ただ今ある善の保持,今ある悪の不在を願うだけの場合にもそうである。そして,これらが『欲 望』というこの情念の及びうるすべてである。」

「61.『喜び』と『悲しみ』

さらに,現在の善,現在の悪が考慮に入ってくると,われわれに属する善や悪として表示される場 合には,現在の善はわれわれのうちに『喜び』を,現在の悪は『悲しみ』を生じる。」

以上のデカルトの考えによると,情念の根源は驚きであり,驚きは最初に発動する概念でもある。

この驚きから出発して,喜び,そして対象への愛,到達するのは盛んな意欲(欲望をこの場合は意欲 と解したい)という情念の過程は,理科学習における子どもの学習意欲の高まりを示唆するところが 大きいと考えるのである。

§4 学習意欲の出発点としての驚き

上のデカルトの説に学びながら・情念の最初で根源である驚きを重視するとき,ギットン(J.一 Guitt。n)の考えは誠1・符号するところが多い曾)ギ。トンはまずこうし、う。

「思考の師というべき人たちに聞いてみると,考えることを学ぶための第一条件は,自分の中に驚 異の能力を養うところにあることがわかるであろう。」

「驚異の能力」という表現は,強い意味をもっている。驚くということは単に人間にそなわってい る性情ではなく,育てられるべき価値のある能力であるとさえいっているわけである。彼はその驚き

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の姿を,つぎのようにのべている。

「われわれの思考の最初の印象は,われわれの最初の当惑と時を同じくするのはなぜであろうか。

それはすべての旅行,すべての転居,すべての脱走,すべての動揺は思考をかくしているからである。

田舎の人がはじめて町に出ると,すべてがかれらを驚かせるから,かれは考える。かれはおさえられ ない考えの中で,町とは何であるか,田舎とは何であるかを発見するのである。ものごとは対照と比 較によってのみ知られる。

同時に二つの真実を知るほかはないのである。そして,この二つの真実の比較から結果として真理 が生じる。目のように,顔のように,またこの世の一切の生あるもののように,真理はその部分と部        噛

ェとの対応によって成立している。それだからこそ真理は均衡からはなれないものであり,見る人の ・ 美の感情の中に成就するものである。」

驚きの基礎に,「対照と比較」をおくことは,理科の場合,実に素直に肯定できる理である。また 積極的な驚きについてつぎのような指摘もある。

「あらかじめ作った設計図が現実と一致しているということは,大事なことではない。それは厳密 にいえば不可能なことである。それはまた望ましいことでもない。発見するように期待していたこと を見いだすのではなくて,期待していたことを見いだしたことの相違を意識するのである。この相違 の意識こそすぐに思考をほとばしらせるものなのである。思考の衝撃は,われわれの予備知覚とわれ われの知覚との隔りから生じる。驚きの情緒をあたえるこの隔りそのものが,発生状態における思考 である。次に来るものはその発生した思考を自分の中に受けいれること,拡大すること,いわゆる分 析や綜合によって豊かにすること,批判すること,制御すること,類推によって伸ばすこと,体系的 な装いをあたえることである。」

このように「相違の意識」を大切にする考えは,驚きを最も本質的な面で起こそうとするものであ り,学習の本筋の出発点を明示しているといえよう。

      ワ     (7)哲学者の茅野艮男氏もこの間の事情についてつぎのよっにのべている。

「経験において心はものと向かい合います。向かい合ったものから,心は何らかの『こと』をうけ いれます。このように,ものに向かい合って何らかのことをうけいれるのが心で思う働きの基盤とな ります。」

「人間の心は,接触し向かい合うものやことから動かされます。心はその感覚圏内の事物や人や事 件から動かされ,感受し感動するだけでなく,感覚しえない観念や表象から,しかも美や善や聖とい

う表象,明晰で判明な観念からゆり動かされるだけでなく,醜く悪しく俗っぽい表象からも曖昧で不 明瞭な観念からも,感受し感動をうけます。昔から驚くことが哲学的な思索の発端に置かれるのも,

奇異なるもの,未知なるもの,既知のものへ逃げこもうとしても逃げ道のない難題にぶつかったとき,

心の感受する新鮮な受動態(パトス)が,知恵への愛のバネであると考えたからでしょう。心が動か されて,はじめて,接触している相手のことが,私たちに見えてきます。」

「心はものと出合うことにより,おのれの内面を複雑にし豊かにし,いわば自分が開拓され耕やさ れるだけでなく,心の籠もる身の振舞いや態度を変え,この身の外に,思いの表現されたものを,新

しく置き立てるのです。」

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§5 自然探究における喜びと愛

茅野氏の上の文章においてものべられているように,驚きから喜びや愛が芽生えるのであるが,実 際に子どもが自然愛を持つためには,「繰り返して自然に触れる」ことが何よりも基本になると思わ れる。一度だけの野外の自然観察では愛にまでは高まらないものである。同じもの,あるいは同類の

ものに数多くの回数にわたって接し,手を加えるうちに次第に愛は育っていくものといえよう。

喜びについては,「わかる喜び」と「できた喜び」が主なものであろう。「わかる喜び」は,始あ は対象のしくみやその中にひそんでいるきまりがカーテソ越しにぼんやり感じられる程度であったも のが,次第にはらきりとみえるようになってくるとき,「わかる喜び」が味わわれていく。そして,

本当にわかったと感ずるときは,つぎの「できた喜び」に達する。

       ,   (8)

uできた喜び」とは,いわば「達成体験」の喜びである。川喜田二郎氏はつぎのようにいっている。

「達成するということは,外から情報,知識をイソプットして,そして自分の力で加工処理して再 びアウトプットへ持っていくということ。このイソプットからアウトプットへというフルコースがな されたとき,『ものをやった』という達成体験が得られます。」

「インプットぱかりの教育で達成体験がなくては,客観的にも力がつかない,また精神的にも成長 しない,結局,欲求不満で自信のない人間が生み出されるのは,むしろ,あたりまえといえます。」

「達成体験で人間らしさを実感した人間は,まず自分が生きているこの世界に対して,非常にみず みずしい感受性がよみがえってくる。何を見てもみずみずしく見えて,そして喜びを感ずるというと

ころがある。それから,何かをやらずにはおれないという非常に檸猛なファイトが沸いてくる。いわ ゆる『やりがい』を求めるという傾向が強く出てくる。一言でいうならば,生き生きとするというこ とです。」

「達成体験をした人びとは,自分をとりまくこの世界に対して自分の殻を閉じて受け身になるより は,積極的に扉を開いて開放的に連帯していこうというマインドになる。」

「一まとまりの物事を初あから終りまで達成するという能力を高めることが,教育の根本だと思う」

この種の達成体験の喜びは,理科においては,先にあげた「わかった」というわかる喜びの外に,

「発見の喜び」,「問題解決の喜び」,「作る喜び」などがあろう。そして,その結果,連帯感をも とにした人間関係にも大きな影響を与えていくに至るのであるから,事は重要である。

§6 問題場面の重要性

以上のように考えてくると,理科で大切な問題場面の構成は,事の外重要なことであると感じさせ られる。問題場面において,問題意識から問題把握への過程は,富山市立八人町小学校の沢柿教誠氏 の表現によれば,つぎのようになるが,上の事情をよく表わしているものと考える。

おどろ_蓮鋲 )       一一  一 一  一  一 一 一 , _  

間顯鴛鍼   問題婚握

困難ミ あいδ.し1さ…        一一一一一__。.,

㈹楠鐸矯(綱 一

一21一

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そして,つぎのように補足されている。「子どもが自然の事物・現象に接して,そこに疑問をもつ

のは,

・これまでの経験の中になかったものを見い出したとき

。結果が自分の考えていたことと違うとき

。ふり返って事実を見直すとき

。あたりまえという考え方が,あたりまえでない事実に直面したとき

などであり,矛盾・おどろき・あいまいさ・困難さなども含んでいて,このような疑問が問題意識へ と発展していくようである。」

「問題意識をもたせる場の設定条件として,次のことが考えられる。

①驚き・疑惑をもたせる事象の提示→目で。      低

②疑惑・矛盾をひきおこす困難さの遭遇→からだで。

③いくつかの不確かな問題の提供→ことばで。

④矛盾をはらむ事象の提示→目で,からだで,ことばで。       高

@      」 ネ上のように考えてくると,∫問題場面の構成のいかんこそ,授業において知性と感性が躍動するか 否かを決定するものとさえ,いえよう。本論の視点で,今後一層問題場面の吟味を行っていきたいも

のである。

文      献

(1)教育課程審議会:教育課程の基準の改善について(教育課程審議会の審議のまとめ),文部省,

(1976,1α6),同答申(197(Ua18).

(2)波多野 完 治:子どもの認識と感情,岩波書店(1975).      F

(3)G.LBrown :Human Teaching for Human Learning, NewYork, The Viking Press.(1971).

金子・藤田・榎原・宮崎訳,人間性を培う教育 一向流教育への入門書一,

日本文化科学社(1975).

(4)Descartes  :Les Passions de L急me Par RonざDescartes,花田圭介訳,デカル ト著作集3,白水社(1973>.

(5)野 田 又 夫:デカルト,改文堂書房(1937).

(6)J.Guitton :Nouvel Art Penser, AubiaをEditeur−Paris,渡辺秀訳,新しい思考術,

中央出版社(1959>.

(7)茅 野 艮 男:認識論入門,講談社(1973).

(8)川喜田.二 郎:中央公論,1974年11月号,中央公論社.

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