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自然、縁起、現実、個性と教育的人間像
一その一、根本仏教の立場に於ける素描一
教育学研究室大 谷 時 中
目 次 序 説 課題の意図するもの
本 論 第1章 自然即因緑性一或る個性一 第2章 現実即自覚行一成る個性一 第3章 我亦仏心 一個性開眼一 結 語 自己より出て自己に帰る
序 説 課題の意図するもの
ヘルバルト(∫F・Ilcrbart 1776〜1841)がその著「教育学講義綱要」の巻頭に「教育 学の根本概念は被教育者の陶冶性にある. D・・gundb・g・iff d・・Pad・g・gik i、t die Bildsamkeit dcs z61b」と力説していることは周知の通りであるが・そ嘲冶性とは 何か。篠原助市博士によれば「陶冶とは生得的の素質が外界の影響によって次第に完全に 形成せられ,一定の形式と内容を得ることを指し,陶冶性とは陶冶せらるべき可能性が凡 ての顯に離することを サことであるとして・顯の陶離と素質に内在する発展 的能力とを教育学の根本的立場として極めて重視して居られるが,私はこの素質に内在す
る発展的能力こそ教育作用の本質に立脚して自然的自己発展の能力であり,且又,仏教哲 学の所謂,自然法爾であることを理会して,教育活動とは,この自然的自己発展の能力を 通して価値に志向する無限の生成過程であり,それは又素質より人格に性向化せんとする 人類の天賦的ないとなみと考えるものである。仏教哲学の所謂自然法爾とは,ありの儘の 相,換言すれば人為を離れた無為の相が自らにして法に叶っていることで,器世界或は器 であり・ルソーのエミールに於ける純粋無雑な本源的人間(L homme naturel)である。
器なるが故にそれはそれなりに大器,小器各々絶対の広がりと深さを有する。ヘルバル トに於ても同じような立場に於て前述の言葉を敷術して被教育者の陶冶性は「その内延は 無限に深く,外延は無限に広い, Dcr Begriff der Bildsamkeit hat eincn viel weite一
「numfa增G」と述ぺている・更に彼の言わんとする陶冶性は,燗の生に於〃ナる最葡
値の啓示でもあり『ものの根源にまで遡及する, Er erstreckt sich sogar auf die E。 o ・ ● ・ ● ■ ● ● ● ● ● ●
1emente der Materie. 』,ものである。
註4
このようなヘルバルトに於ける陶冶の概念を,仏教哲学の立場に於て思惟すると,「器 世界」或は「器」「如」と観じられるものであるが,仏教哲学に言う器世界は,或る(Sei一 n)生命が,成る(Werden, Sollcn)生命に精進する時間空間であり・教育活動の本質的 な意味に於て,人類の天賦的な活動の拠点であり究極である。
一方,又,教育の起点乃至出発点(Start)としての素質と,教育の帰点乃至目標(Goal)
である人格化との間に位置する陶冶の作用をみると,教育の起点である素質は自然に制約 せられ,教育の帰点である人格化は個性を現醸するが故に,教育活動の始点と終点は,畢 党,自然と個性の問題になる。この自然的生命と個性的生命とのあいだに位置する陶冶の 世界を根本仏教の座上に観るとき,その一一連の関係は縁起相依性として現実世界の中にそ の活動を継続しているのである。かかる一連的関係に於て人間陶冶の問題にくみし,「自 然,縁起,現実,個性と教育的人間像」なる課題に到達したが,この課題は長いあいだ私 の脳裏を飛躍こそすれ,心証すれば理証は寂莫,理証し得れば心証はうすれるまま虚空の 中に消失する許りであった。然し,私の認識と反省に於ける限り,この課題に対する私の 関心は去り難く,先づ素描の一端として,根本仏教の立場に於ける縁起の思想を中心概念
として以て,課題にとりくんでみたのである。
尚,始めにヘルバルトに於ける陶冶の概念を引用したのは,未熟な私の仏教哲学に於て アタ
ヘ末だ「陶冶」に中る仏教用語を見出し得ず,而も陶冶といふ概念の必要にせまられて,
課題に近く,しかも私の胸に映ずるまま,ヘルバルトに於ける陶冶の概念と篠原助市榑士 の陶冶観とを便宜上表現したことを了解して頂きたいと思ふ。
註1.3.4.J.F. Herb・・t;um・iss der P乞d・g・gi・ch・・V・・1・・ung・n・1835・Pad・g・gi・ch・S・h・ift・n
durch und Verlag von Herlnann Bcyer und S6hne, S.281〜282
註2.篠原助市著,理論的教育学,第三章 教育の限界と陶冶性,第一節,教育のカー歴史的概観
本 論
第1章 自然即因縁性一或る個性一
教育活動が被教育者の素質から出発して,それに順応すぺく努力を傾けること,とりも なおさず教育活動は可能なる限りに於て自然的でなければならないとして,教育活動上,
自然的概念を重視することは,その意味する自然の立場に差異こそあれ近世に於ける教育 の一大発展的基礎をなしたことは自明の理である。然して一般に意味する自然的概念は人 文主義の教育思想に対する実学主義的立場の客観的自然主義(Objective naturalism)と 人間自然の性情を心理的,生理的,更には汎神論的立場に於て解せんとする主観的自然主義
(Subjective naturalism)の類型に於て意義づけられるものであるが・本論に於ては後者
大 谷:自然,縁起,現実,個性と教育的人間像 1ア に於ける主観的な汎神論的立場に依り,この自然を理会しつつ,更に根本仏教に於ける縁 起の思想を併せて概念化するものである。即ち近世西洋教育史上に於けるルソー,ペスタ
・ツチー,フレーベルに一貫する合自然性の教育理念の中に脈うつ仏教的立場の縁起的な るものを概括し以て統合的個性の在存を素朴な相に於て把握するものである。
凡そ縁起の思想から自然をながめるとき,縁起は縁起相依性なるが故に教育作用に於け る自然の働きも時間,空間を通して因果関係の継続に他ならないとみられるものであって それ故に教育作用に於ける人間形成上,自然発生的なものは皆無であり,無因的な自然の 教育作用は人間形成に於ける教育現象としては否定し,凡ての自然現象を有因的,因果必 然の関係,即ち因縁所成の立場に於てとらえるものである。此処に仏教的立場からとらえ た自然の意義がある。固,縁起とは現象が時間的,歴史的に如何に生起してきたかを観ず
ヨ タ
驍アとで,一一切の現象は 縁りて起つ 意味に於て縁起と称するのであり,なべて吾人 に与えられた現象の一切は相依相成的な実相界に関連している限りに於て自然の現象は時 間,空間を通して無関係には在存しないのである。故にそれは一定不変に非ずして変化可 能態である。現象的世界は総てに於て,因と縁が合すれば果を生じ,離散すれば滅する。
果の生滅,成,不成立というもの,或は創造とか死滅とか言うものは,ここに因と縁との 積集と離散によって現成し,凡ての時間と空間とはそこに展開し推移するが,これがとり
もなおさず縁起の実相であるところに根本仏教の立場に立脚する自然の概念は汎神論的な 人格のすがた(Idea)として,これをとらえることができるのである。
然るが故に縁起観に於ては,万象は直接的乃至間接的相互関係に依り在存するとみて,
そこに真理を創造する。根本仏教に拠点を有する認識論的立場は,ここに於て吠陀(Veda)
や奥義書(Upanisad),或は六派哲学派等の説く形而上学的実在論を独断的偏見としてこ o
れを否定し,ひたすら所与のすがたに於て一切をとらえ,諸法はただたた縁起に於て定立 することを肯定したのである。かくして縁起の法は凡ゆる事象を統一しながら,総ての存 在を成立せしめる普遍妥当的にして最高純粋な統覚的原理をなすのである。
羽渓了諦博士はその著仏教教育学に於て「根本仏教に於ける縁起観は吾人の世界観をし て最も優れた近代的世界観である汎神論的立場に導く必然性を具えている。仏教こそ有ら ゆる存在を統一する最高価値の原理である久遠の法,すなわち縁起の法を中心生命とする 宗教であり,この縁起観は一見極めて平凡な内容の如く考へられるが,その意味するところ の認識は如何なる哲学も如何なる科学もそのまま肯定せざるを得ない真理である。」 こと を強調している。羽渓榑士のこの説述のなかにも自然のすがた,即ち諸法実相を神格化せ註5 ず,あくまでも唯心縁起として人間形成の根本的基盤にとらえようとする真意をうかがう ことができる。
又,一方,縁起とは空間的に諸法実相として性具されるものであり,時間的に唯心縁起 として性起されるものである。然るが故に根本仏教の立場から理解せんとする自然は,一 般的にいわれる所産的自然 (Natura Naturata) に非ずして生産的自然 (Natura Naturans) に積極的意味を見出すものであり,この能産的自然(生産的自然の意)が,
縁起相依性的な座に於て時間,空間を現在してゆくものと観るのである。
華厳哲学の権威である鈴木宗忠博士は,現存在の人間について次のように述ぺている。
「人間は現存在としてみると二つの面がある。一は定められた面であり,二は定められな い面である。定められた面は,人間の動かし得ない面であり,定められない面は人間の動 かし得る面である・」この至極平凡にして当然なる言葉の中にも自然即因縁性としての仏
註6
教的人間像を如実にうかがうことができる。ここに鈴木博士の所謂,定められた面,即ち それは動かし得ない面であるが,かかるものは「自から在るもの(Sein−sein)」で,これ を繋縛といふのである。自然即因縁性としての「或る個性」はここに成立するのである。
シユプランガー(E・Spranger,1882〜)の教育学説にも,これに近い所説をみるのであ る。即ち彼はその著「教育学的展望,(Padagogische Pcrspektiven,1952)」に於て,末 来に遡及する教育的影響の力と限界を論じ,その中に必然(MUsscn),意志(Wollcn),
当為(Sollen)なる三本の支柱を建てて,人間形成の本質を図式化しているが,この三者 は未来に対して各々,所詮的必然(das Erwarten mUssen),企図的意志(das Plancnde Wollcn),自主的当為(das Verantwortliche Sollen)の角能性を与えているのである。
ここでシユプランガーの謂う必然は外的,肉体的必然の総てであるが,それは所詮的必然 として「或る個性」を人間に賦与するという点に本論文の主題とは極めて密接な関連に於 てあわせ考えることができるが,蓋し,所詮的能詮的として,必然的なる言葉は仏教哲学 に於てこそ,ことわりできるものであろう。又,他方,定められない面,換言すれば人間 の動かし得る面についてはシユブランガーも言ふ如く意志の自由,即ち企図的意志に於て
「成る個性」へ解脱すると考えるとき,吾々の「成る, (Werden, Sollen)」個性は縁 起実相の世界につつまれて現実在の中に矛盾,対立のすがたに於て現在し,人事を尽して 以てその天命を期待していることになるのである。
以上述ぺた縁起思想にもとつく現実観の詳細については,仏教哲理に於ける五藻分析の 法を用いるが,これについては拙稿 教育道として五藩思想の一考察 (本紀要第2号)
を参考して頂き,更に縁起の思想を中観から要記することにより自然即因縁性に由る或る 個性の理会を深めたいと思う。
縁起の法を竜樹の教系である中観派に於ては「不可得空の中道」と説き,無著,世親の 教系である唯識派に於ては「非有非空の中道」と言われるが,その顕わされんとするとこ
大 谷:自然・縁起,現実,個性と教育的入間像 19 ろは竜樹に於ては諸法実相,無著に於ては法界縁起であるが,何れも法の立場にかわりは なく仏教の根本法門といわれる無自性,中道を謂うものである。竜樹の不可得空の中道に 由来する縁起観は,彼の所謂「般著皆空」であり,それ故に非有非無である。有に非ずと は即ち実在観を離れることであり,無に非ずとは即ち虚無観を離れることであるが,そこ に空即仮,又中道の中論(Madhyamika)が成立し, 縁りて起つ 諸法実相としての 縁起が「或る個性」を限定し,法の覚証の中に人間は定められた自己を神秘的に映像しつ つ仏に近づくのである。
仏陀は「仏を見るものは吾を見る,吾を見るものは法を見る。」 と言われたが,それは 又,「縁起を見るものは法を見る,法を見るものは縁起を見る。」 と換言せられるように 縁起と空観は常に表裏一体の関係に於てこそ,この両者を理解することができるが,前に 述ぺた「或る個性」の神秘的実在も奈辺に於てわりきることができよう。宮本正尊博士は 中に拠点する無の意義について「有無の二辺を止揚する無であり,二重の否定である。こ こに無を空空と云うが両捨とも云う」と説明して更に弁証法的論理に言及し「この弁証法 的な無については,西田博士の註7無の自覚的限定 ,田辺博士の 絶対弁証法 ,高橋里 美教授の 全体の立場 ,伊藤吉之助教授の 弁証法の限界 など,無の弁証法的考察 に対して稗益する点が多い。」 と意味ふかく論及している点をみても,縁起といふ概念が 現象界の中に生動して,いかに人間の形成に影響を与えているかを認識すると共に,他方,註8 法の覚証を通して仏格への親近と理解も生じ,人格を統一する最高絶対の智慧と人間を
人聞たらしめる無限の自覚への素地もここに陶冶育成せられ,上求菩提下化衆生を目的と する自然即因縁性としての「或る個性」が定立されるのである。
註5.羽渓了諦著,仏教教育学第四章第二節,縁起思想の真理内容 註6.理想202号,鈴木宗忠執筆,仏教の人間像
註7.宮本正尊著,根本中と空,第六,中の哲学的考察 註8.同上
第2章 現実即自覚行一成る個性一
教育活動の究極的原理として現在にその意義と活動を探究する傾向は,就中,近世西洋 教育思想に於ける合自然的なるもののうえにうかがうことができる。それが求める理念は 自然といふものを重視し,自然に親近することによつて現実の意義と内容を理解すること であるが,ここに現実とは現在と解してさしつかえなきことと思う。この現実のすがたを 根本仏教に於ける思想的立場で観ずれば,過去,現在,末来の三世に於ける現在という 時間が現象的世界の中に縁起の法を覚証していることであり,そこに教育作用の事実とし
ての現実は諸法実相として実在し,その実相は既述の如く法の表裏関係に於て・縁起相依
@ タ ォの基盤の上に推移変化しているのである。即ち縁起と実相とは法の表裏関係に起つて現 在というものを時間の中に,場というものを空間の中に醸成して,現象界のなかに於ける 縁起の法を実相化している。その現実を空即無と対小破するところに仏教的立場に由る現 実観の意義がある。このような現実観が現実即自覚行としての「成る個性」の形成に如何
5 ネる作用をなすのであるか。
元来,仏教思想の特異性がその空観思想に由来する「無」にあることは一般に理解する ところであるが,その無は即ち「空」であり,無とか空とか言われるものを過程的にみれ ば推移,変化,変遷であり時間,空間の中に去来するものである。又一方,これを概念的 にながむれば無常,無自性,変異であって,それは思惟によって所産,能産されたもので あるが,そこに人間の現実があり,それが人間を規制したり限定したり推進せしめたりし て,以て吾人を形成化或は類型化しているのである。しかもここに「空」とは初転法輪後 の中道にみられる如く,大なる自覚に徹する「必過性空(Prasahga−vakya)」であり・
それは否定の否定,又は空空で所謂即非の論理ともいうべきものである。即非の論理に徹 してこそ空乃至無は否定しつつ肯定する根本智を悟証する。即ち,阿毘達磨の空観に於け る「真空妙有」「自性清浄心」である。現実即自覚行とはいえ・ここに自覚行とは矛盾対 立による生の創造であり,それが「成る個性」の母胎をなすのである。
般若皆空の最後は自性清浄心の理解にあるが故に万象は自性清浄心の上に成立する。一 切が自性清浄心の上に成立するのに何故不浄があるのであろうか・これにつき宇井伯寿博 士は次のように説明しているのである。「自性清浄心から眺める場合には・それが徹底的 である以上は善悪美醜などの差別相のあるべき道理はない。差別ありと見るは差別的見方 から見たものに過ぎないことであって,自性清浄心は決して差別的でない・故に娑婆即寂 光浄土であり,煩悩即菩提である。」と。かくして対小破しつつ自性清浄心の行きつくと
@ 註9
ころは我空法空の広大無辺にあり,それはとりもなおさず中道を意味しているのである。
ここに「中」とは真中,中庸に非ずして両端,反対,矛盾等一切を統合した絶対である が,「成る個性」はそこに定在する。かかる見地を馬鳴の大乗起信論に於ける「阿頼耶識」
の本覚,始覚の論には具体的に説明している。即ち,「心生滅者依如来蔵故有生滅心。所 謂,不生不滅与生滅和合,非一非異。名為阿黎耶識。
此識有二種義,能摂一切法,生一切法。
云何為二。一者覚義,二者不覚義。
所言覚義者謂心体離念。離念相者等虚空界,無所不偏,法界一相,即是如来平等法身。
依此法身説名本覚。何以故。本覚義者対始覚義説,以始覚者即同本覚。始覚義者依本覚故
大 谷:自然,縁起,現実,個性と教育的人間像 21 而有不覚,依不覚故説有始覚。
又以覚心原故名究寛覚,不覚心原故非究寛覚。」 とあり,これによれば阿頼耶識とは不 註10
生不滅なるものと生滅なるものとが和合して一にも非ず異にも非ざるもの,湛々たる一心 法界にして水の如きものである。而もこの阿頼耶識には二つの義があり,一を覚と言い二を 不覚と謂つている。覚とは心体の離念なるを云い如来の平等法身である。此法身に依りて 本覚と名づけるが,本覚の義は叉始覚の義に対して説き,始覚は即ち本覚に同ずるを以て なりと説いている。惟うに人間の心は咬々たる光を放つべき本徳を具えているもので,こ の本徳あればこそ磨けば光も顕われるし仏にも菩薩にも成り得る。又始覚の義とは本覚に 依るが故に不覚がある。不覚に依るが故に而も始覚ありと説き,更に心原を覚するを以て の故に究寛覚と名つくと説述している点よりみて矛盾,対立即自覚行たる現象界に於ける
「成る個性」の本質的な形相をつかみとることができる。即ち起信論に於けるこの説は自 性清浄心にもみられる如く人間解脱の過程に於て意志の自由を絶対の限度にまで許容して いることで,たとえ,シユプランガーがその教育的展望に「意志と自由は畢寛苛酷な必然 に従う」とまで明言していても「成る個性」の陶冶過程に於て従ふべき哲学的拠点たるこ とを疑わない。
又,起信論のこの点を加藤咄堂先生は次の如く説いている。「本覚と言つたのは始覚に
o o o o o
対しての語で,本覚といふのは本来の性徳であるから草木の種子のようなもの,それがだ んだん茎だの枝だの葉だのと生長してゆくのは始覚のようなもので,かくて立派な草木に
o o o o o
なったところが本覚の性徳が現はれたので,此時は始覚が漸次に開発して本覚に同じくな ったのであるから本覚の外に始覚とてなく,初めに起りたる本体(本覚)に還帰する。」
註11 更に本覚の故に不覚あるが故に本覚に固有の光があればこそ不覚もある。若し本覚に固 有の光が無ければ不覚といふものも無い,不覚が無ければ始覚も無い。本覚の徳を現はす
クキヨウカケ
始覚があり,本覚と始覚が即したるとき究寛覚があると起信論は論じている。結辞に於け る 自己より出て自己に帰る の一節はこの点を説いているのであるが,前章の「或る 個性」より出て本章の「成る個性」を形成し,騰て両者は即して究極的な人間像をつくり
あげてゆく現象界をよく知ることができる。
教育の活動がえがく個性は,かかるすがたに於て成立されると考えるが,ここに起信論 の概念的背景には諸法実相としての世界の因果的規定が厳然と存在していることを忘れて はならない。
(備考) 覚{醐始本不二
阿頼耶識 圃欝:聯:
掬て,根本仏教の哲理は以上の如き否定的表現をとるが,この否定の難関を打開して実 相の世界に出たるとき,より高い次元における全一的統合的人間が形成せられている。思う に有と説く俗諦を否定し,無即ち空と説く真諦を根本的原理とする限りに於て縁起と実相 は統合し,現実は去来の中に生成する。起信論に於ける「本覚に依りての故に不覚あり。」
と同じくここに「中」の根本義が「現実」を意義あらしめる指導理念として考えられるの である。かかる概念化について宮本正尊博士はその著「根本中と空」の序文にかく述べて いる。「一方的見地を固執することは謂わば対立に終始するに過ぎない。このような対立 に陥いらず,これを超える立場は何か。一つの立場を堅持し不動心に住しつつ而も対立を 打開する正しい高い立場は何か。古い伝統の下に薔套に堕せず,革新的であるが破壊的で ないことが如何にして可能であるか。而も我々の理想的精神は永遠なる伝統に立ちつつ常 に清新なる発展を遂げんとする,中道の思想的意義は,かかる問題に対して答うぺき性質 のものである。云々」と。
ここに宮本博士の序文の趣旨は,換言すれば「空⊥ 「無」,「縁起」の到達する中観思 想が,人間の形成上,現実に対して如何なる意義を有するかについて明解する極めて尊い 示唆であると考えるもので,先天的な或る個性即ち本覚と,後天的な成る個性即ち始覚
との矛盾,対立,時に即し,時に非する時空に於て創造される人間形成のすがたをわりき る最高の哲学的根拠であると認めざるを得まい。
扱て,ここで前述に於ける鈴木宗忠博士の説く定められない面即ち動かし得る面と,現 実即自覚行による成る個性との関係について考えてみよう。
縁起実相の思想にも知る如く仏教的諦観の本質は絶対に消極的否定に終始するものに非 ずしてむしろ積極的な生成発展への基盤である。それ故に人間は定められた面に於ては繋 縛せられる一一方に於て定められない面に対しては意志が志向してそれを動かすことができ
る。即ち鈴木博士も言う如く「或る個性に対する可能性(Sein−K6nnen)」である・こ れが起信論に於ける「始覚」のはたらきであり,聴てその始覚は本覚に統合され始本不二 の個性を形成するが,ここに自然,必然性の法則に対して意志による自由の法則が人間を 形成していることも知ることができる。この意志による自由の原理に於て「末来に遡及す る教育的影響の力と限界」を考えるとき,シユプランガーの謂う意欲(Wollen)から創 造される「成る個性」を考えることができる。即ち意志の力によつて人間は当為の世界へ と解脱してゆくことができるとみる彼の「教育学的展望」に於ける所論と親近して概念化 することも決して観念の飛躍ではないと考えられるのである。
ヒツキヨウ
L寛,現実とは矛盾,対立である。それを大乗仏教の根本義に於ては「一切皆空」と観じ
大 谷:自然,縁起,現実,個性と教育的人間像 23 竜樹の空観は「真空妙有」と称し,大乗起信論に於ては「本覚始覚不二」の説を明かにし
たのである。がここに立脚して人間の個性を理会すれば・自然即因縁性と現実性とも不二 であり,自性清浄心としての人根もここに於てこそ全き生命の力を具えることが可能であ り,「神人同性」,「我亦仏心」の正しき意味に於ける児童神性が顕現されることも充分に 期待することができるのである。
註9.宇井伯寿著,仏教思想研究第四,我空法有と我空法空 註10.大乗起信論,第三段解釈分,第一章顕示正義
註11.加藤咄堂著,大乗起信論講話,10,阿黎耶識の解
第3章 我亦仏心一個性開眼一
根本仏教の立場は既に述べた如く典型的な汎神論である。浬桀経にも「一切衆生悉有仏 性」とあるように大乗仏教に於ては先天的,性得仏性を人間の本来的なすがたとしている のである。故に仏と衆生との関係は二元的対立的存在に非ずして一元的であり,汎神論的 思想を以て一貫している。(この点は将来,ペスタロツチーに於ける 隠者の夕暮 と
探究 を中心として研究する意図を有しているものである。) 存覚上人(本願寺第四 世)がその著頑名紗に日「衆生と仏と元より一体なり。されば自心を離れて仏道を求むべ
からず,何ぞ他力をかるぺきや,そもそも他力とは如何やうにこころうぺきことそや……
仏は万行の薫修にこたえて,よく仏性の玉を磨きたまへり。衆生はOさしく生死の泥に沈 みてかの玉を汚せり。かかるが故に生仏あひ隔りて迷悟さかひを分てり,しかるあひだ,
迷える凡夫われを覚りがたき故に,覚りにかなへる仏智に帰すれば,かの力をもて,もと より法性を離れざりける自心の仏性を顕はすなり。弥陀の本願の起り,他力往生の道,そ の意これにあり云々」と。
存覚上人のこの言葉は極めて俗世問的なものであるがその中にも「心,仏及衆生是三,
無差別」といふ汎仏性観を容易に理解することができるが,かかる汎人類的仏性を通して 註12
こそ人間性に内在する永劫不変の法則と価値が人間の個性を形成している事実を知ること ができる。尚,ここに人間性に内在する永劫不変の法則と価値とが人間の個性を形成して いるということは,先づ「或る個性」の限定であるが,或る個性は定められた動かし難い 面なるが故に繋縛から解脱へと自覚的向上の努力が尽されて「成る個性」へと自由意志の 動きを見るのである。ルソーがエミールに於て「自然に還れ」と絶叫したその自然は絶 対完全なる究極的価値を実現せんとする人間の純粋なる本性即ち自己に還ることである,
がその自己とは人間が性得した仏性の開眼されたものにほかならないのである。 そこに
「或る個性」が「成る個性」へと生成発展することができる。
羽渓了諦博士は「仏教の教化的理想が現代の人格的教育学のそれと同じく先験的理想主 義の哲学を背景として人間の本性を絶対価値と看倣し,その体現を期する形而上学的意味 の人格主義に立っている。」 と説かれているが,或る個性と成る個性を汎神論的立場に於
註13
て一元化する仏性の普遍的存在に於てこそ,万人の成仏可能を強調することができる。又 かかるみかたは大乗仏教の根源である般若思想にも由来するものであるが,元来般若に於 ては法体としての空を一つの大きな容器と見るのである。何時でも容器を空(から)にし
・ てなるぺく多くを容れようとする。「遠離を般若波羅密と名つく」と云う所以もここに存 註14
するが,成る個性に期待する仏教の立場は実に偉大であり且荘厳である。更に容器をから
(空)にするところ「如」の世界が展開される。故に「如実知見」に解脱があると仏教は 説いているのである。「如」の原語はtathaで,「その通り」,「その如くに1,「そのよ
うに」等の義であるが,この「如」につき鈴木大拙博士はかく説いている。『如が仏教的
● ● ● ● ●
に用いられるときは,ごとくの意味ではなくて,「ものが本然のままでの姿」と云う義に
● ●
なる。日本語のままが該当する。自然法爾と同意語である。如は必ず如実であり,真如で ある。』 かく,如実知見に解脱があり,そこに人間の自由意志が働き,或る個性は成る個
註15
性へと自在に成長発達する。如の真実,真実の如もここにある。仏を一般に「如来」とか
「如去」と言うが,これは仏は如から来るもの,あるいは如に去るものの意で,それ故に 如は「真如」であり,人間形成の本質としてみるべきものである。然し本質に対しては現 象というものがあらねばならない。その現象を仏教では生滅と言うが,この本質と現象に ついて,加藤咄堂先生は「水と見たのは本体(真如),波と見たのは現象(生滅)である。
水と見るときは不生不滅,波と見るときは生滅である。故に本質は絶対,平等,不変,自 由,独立的であり,現象は相対,差別,変異,不自由,依存的である。」 と述ぺている。
@ イッ 註16
即ち生滅があるから万象の差別もあるのである。水は一だが波は多様であり水に変易はな いが波には変異がある。これと同じく人間の或る個性は本体であり,成る個性は現象であ
る。本体は真如なるが故に不生不滅,成る個性は現象なるが故に生滅である。然して成る 個性は生滅の過程を経て本体としての本質的な或る個性に帰る。即ち『個より出て個に還
る』ことに他ならないのである。「個の故郷」,舷に我亦仏心になり得る。
「人類が父なる神に血統するとすれば,神と通ずる心は万人に共通普遍で特殊の人の私 することを許さない。」 と長田新博士はそのペスタ・ッチー教育学の研究中に夙に喝破し
註17
ているが,この言は前述の華厳経文殊聖典よりあげた「心,仏及衆生是三無差別」の仏典 並びに存覚上人の顕名砂に於ける「衆生と仏とは元より一体なり,されば自心を離れて仏 道を求むぺからず」と同一の轍を踏む思想であり, 「一切衆生悉有仏性」と説く浬桀経の 性得的仏性と相並んで人間形成に於ける個性の陶冶上,充分に準拠すぺき根本法則と考え
大 谷:自然,縁起,現実,個性と教育的人間像 25
るぺきである。然も個を個たらしめる根拠を正しく縁起の理法にもとめるとき,凡ての現 象世界は縁起の法に統合され,我も亦仏心として仏に近づき,且は親しみを以て,個を価 値ある個へ生成発展せしめることができる。
観 心 図 式
自然一因縁性,有因性… …… ・或る個性…・…・ ・…・…一・→素貫
P (Sein−sein) …
謙_〈 繍一性起 起 幽
空間的(実相)一一性具 諸法実相 : P …
[ 過勧_推瀕化 ・
(時間,空間に所産,能産されるもの)ロ / 三 : 諱謖ヲ議∴灘即i ↓響一矛鮒立 ((冶1)個性 自性清浄心一一知人根………・………・………→性質
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教育的人間像
註12.華厳経,文殊聖典
註13.羽渓了諦著 仏教教育学 第1章第3節 教育的指導原理としての仏教 註14.無生品 第二十六
註15,鈴木大拙著 禅思想史研究 一,盤珪禅 第三 悟りと悟る
註16.加藤咄堂著大乗起信論講話八,真如生滅の二門
註17.長田 新著 道徳及び宗教教育の本質,第二,ペスタロツチーの宗教思想
結 語 自己より出て自己に帰る
或る個性から成る個性が成立してそこに我亦仏心という神人同根のすがたに於て人間は 形成されるのであるが,そこに個人の差別が生ずることも必然的で,仏教哲理に於てはこ れを凡そ個人の業(Karma)に帰している。カルーマの語源はKriで,クリとは為す(do)
の意味であり,一切の行為が縁と合して果を結ぶところに業の意義が存し,そこに吾人の
個性が創られてゆくのである。故に業観からみた吾人の個性とは自己より出たものが自己 に帰ったすがたである。佃性を形成するものは畢寛,佃人の業力の結果乃至集積によるも のであるが,個々人の過去に於ける業は多種多様なるが故に,個性も異なって来る。
「一切衆生皆如也,一切法亦如也,夫如者不二不異」と維摩経にもあるように大乗仏教 の根本義は先にも述べた如く無縛,無解,無所住であり,それ故に「如」である。無縛,
無解,無所住に於ける「無」は絶対的な否定であり乍ら然るに「如」は絶対的な肯定であ る。絶対的な否定が肯定であり,絶対的な肯定が否定であるところに,人間はその個人の 有する最大限の人格を業に因りながら形成してゆくものであり,「見性成仏」の法にした
アラ
がえば常に自己に帰る努力である。性を見わすことが即ち仏に成ることであるが故に自己 を顕現することは「個性の故郷」に帰ることなのである。
鈴木大拙博士は「無で如,如で無,而して如と無とが対立しているのではないという智 即ち般若の智による所得,これを無所得の所得,無分別の分別といふ。」と,論述している
ヨ タ 註18
が,ここに大乗安心之法により,人間の自然的なすがたは縁りて起らつつそこに現在し以
アラ アラ
て性を見はして(見性)ゆくのである。その見はれた性が時々刻々に於て真にその人間の 自己実現であるところに成仏の語が生ずる。「見性成仏」とは畢寛,人間性が個より出て 個に還ったものとここにも理解できるのである。而も「見性」は絶対知であり絶対用であ
り絶対寂であるが故に見性成仏に依って醸成される個性こそ,その人間の理想的人間像を なすものであり,先天的性得仏性の開顕としての個性,即ち自性清浄心としての人格が形 成される,そこに人間は先に述ぺた如く「個性の故郷」を見出して自我の自覚にいたるの
である。
註18.鈴木大拙著 禅思想史研究 一,盤珪禅 第七 盤珪禅の再叙 追 記
本論文は1960年第19回日本教育学会に於ける発表論文を加筆補正したものであり,尚その二とし てはペスタロッチーに於ける 隠者の夕暮 及び 探究 を中心として素描を試みるぺく意図し ている。
主 要 参 考 文 献
宮本正尊著 根本中と空 宇井伯寿著 仏教思想研究 宇井伯寿訳註 大乗起信論 羽渓了諦著 仏教教育学
鈴木宗忠著 原始華厳哲学の研究 鈴木宗忠執筆 仏教の人間像(雑誌,理想202号)
加藤咄堂著 大乗起信論講話全 鈴木大咄著 禅思想史研究 O 盤珪禅 富永半次郎著 法華の思想 篠原助市著 理論的教育学
長田 新著 ペスタロッチー教育学
E.Spranger, Padagogische Perspektiven。1952.