景 氣 の 循 環 性 に 就 い て の ↓ 試 論
高
橋
B良第一章
第二章
ん
B
第三章
(R
C
第四章
ム
第五章
ん 緒論‑學説史的回顧
景氣循環の直接の原因
肚會的総資本の流廼及び再生産
各種生産部門間の不均衡
景氣循環と信用
節約の移馨としての信用
附加的信用
信用と生産部門間の不均衡
景氣循環の最後の誘因
景氣循環と所得
景氣循環の態様
不景氣
景氣の循環性に就いての一試論三入五
商學討究 第四巻(下)
R景氣
C好景氣
n恐慌
︹附録︺統計的例謹
第一章緒論lIl學説史的回顯 三八六
アメリカの乞巴︒昌巴切程$=Oh団∩9臼oヨざ園︒︒・①2,畠の代表的學者ミッチエル(芝艶20罫8ぽ=)
の近業﹃景氣循環論﹄(︼W=ω一二〇ωω∩ko一〇9けげゆ℃﹃○σ一Φヨp欝焦一房ω①偉一昌σq勘宕●く.一燈い○◎)に振ると︑各國
に於ける景氣は︑左に示すが如き態襟を採つて循環して居る︒
英 國
eeI873
北 来 合 衆 國 18705 8ac18734
9=馳
一=一蠣
1888 18go x893
5 '3
2
1896 3
18go‑8
=
1gocト ー‑4 1go33
acJgOO 10
り=
=
IgO7
19T3
7eeIgo7 1910 6N19L3
4 2 3
1918‑519185 1920‑2aclg20‑2
Ig23 3
=
逸
猫
本
E
1870 xI873
1878 1880 1882
4 3 4 2 3
= 一
=一 =一一一蜘
18go
I894 5
18973
Igo5 acIgo7
ce1900‑10
1904.4 8
2eelgo73
1913
1918
1922
6
5
4
}
(其の中で︑箭印に︑一般に恐慌のあつた年として認められて居ろ年であろo)
1914 1918 eeIg20
7 5
1
一一
Ig25 3
是は︑軍なる一例に過ぎないが︑その中に既に︑恐慌の國際性︑並びに景氣の循環性を看取し得
る︒﹁第十九世紀の産業革命以來明自に表れて來π十年同蹄の周期的恐慌は一入七〇年代から次第に
その同蹄期間を短縮して居るω﹂と言ふ事は︑一般に承認せられて居るが︑然し猫ほ不景氣‑景
氣好景氣ー恐慌と言ふ循環を不断に績けて行く事は最早疑ひのない事實である︒本稿に於い
ては︑專ち景氣の循環性に就いて理論的研究を行ふ︒
然らば︑何故に︑縄濟界は静止的なる不景氣から︑やがて市揚が活機となゐ景氣が良くなゐ︑次
第に好景氣に移ム︑間もなく市揚が掩齪して恐慌が起う︑それが鎭懐ると再び沈滞し力不景氣に復
景氣の循環性に就いての一試論三八七
商學討究第四巻(下)三八入
蹄すると言ふ風に︑規則的なる循環を行ふか?
恐慌問題を理論的に精討せんと欲するならば︑吾々は経濟循環を登膿として観察することが必要
である︒何となれば︑恐慌は生産と消費との結合に劉する﹃擾齪﹄であつて︑恐慌をば正常状態の
擾齪と観︑それが原因を追求せんが鵜めには先づ正常状態の型像を示さなければならないのである
から︒
ケネー(◎ロo︒︒轟楓)は︑その﹃経濟表﹄(↓9窪︒碧警90日β=①)に於いて︑経濟循環の全記述をなし
禿︒然し︑その塗型像は鯨めにも簡軍に過ぎ︑ただ静態的経濟の型像を示しπに過ぎなかつたので︑
そこには螢展に狸する鯨地が與へられて居ない︒それは︑近代的経濟過程の凡ゆる差異を捨象し去
つて︑純濟的階級をぱ最も軍純なる形態︑即ち﹃生産階級﹄(百姓︑Ω器器箕○費鼠く︒)︑﹃所有階級﹄
(地主︑Ω9︒︒ω︒α8℃﹃︒℃﹁一偉巴諾︒︒)︑及び﹃不生産階級﹄(商工業者︑Ω霧・︒︒︒︒︹価﹃一一の)に分けただけであ
る︒ケネーは︑斯かる與件の中に於いて︑梢々強力的にして濁断的なる方法を以つて︑債値論を説
明し︑或る黙(螢業部門の利潤)に於いては︑現實に劃して暴力を加へπ︒然し︑登展せる交換経
濟に於ける生産は既にそれ自身の中に分配過程を含み︑それによつて新しい生産が豫め準備せられ
て居ると言ふ一個の正當なる競黙から︑全経濟が把握せられて居る︒斯くて︑生産論の外に︑特殊
なる分配論及び償格形成論の存在する飴地はないのである︒是は︑實に現在に於ける支配的立場で
ある0而して︑是のみが唯一可能の立場である︒生産をば︑それ自身成立する・濁立なる・経濟的
過程と観︑次にそれとは無關係に他の﹃肚會的﹄なる力に從つて分配過程を研究するのはいけな
い︒斯う言ふ風に︑生産過程と分配過程とを分離すると︑一國民経濟に於ける景氣循環運動の全形
像を完全に展開する乙とは不可能になつてしまふ︒②
ジヤン.バプテイス︾︒セバ(一①磐野嘗・︒梓ω曙)は︑生産と分配・生産と消費は︑軍に同一事實
の双面に過ぎないと言ふ乙とを認識せんと試みて曰く︑
﹁物に何等かの効用を創造して以つて之に債値を與へむが爲めに産業を行ふ者が︑此の儂値の他人
の尊重する所とな5て支彿を受くるに至らむことを希ひ得るは︑他の人々が之等の物品を獲得する
の資力を有する場合に限らる︒然らば︑此の資力は︑如何なるものよう成れムや︒曰く︑他の償値︑
他の諸生産物︑他人の産業・資本及び土地の所産︑即ち是なゐ︒從つて︑一見矛盾せるが如きも︑
生産物に勢して販路を開く竜のは︑生産たるなりし︒㈲
﹁思ふに︑最後の生産者が一生産物を完了したる揚合には︑その最も欲する所は︑右の生産物の儂
値をして自己の手中に止まらしめざらむが駕めに之を販費せむ之とに存す︒而も彼れは︑此の販責
景氣の循環性に就いての一試論三八九
商學討究第四巻(下)三九〇
によゐて得る貨幣の債値をして自己の手中に止まらしめざらむが爲めに之を手離さむ乙とにも等し
く焦慮しつ\あh︒然るに︑人がその貨幣を手離し得るは︑何等かの生産物を買はむと欲する揚合
に限らる︒故に一生産物の形成せられπる事實だにあらば︑其の瞬間よφ直ちに他の生産物に劃し
て販路を開く竜のなる乙と︑自ら了解せられむ︒ωLと︒
斯くて︑セイは︑そこから生産と消費との・必然的にして織績的に常に與へられて居る所の・一
致が生ずる︑と考へることを以つて自ら安んじて居π︒從つて︑セィに在つては︑景氣循環は副次
的問題として取扱はれて居控︒確かに︑彼は︑此の生産と消費との結合を最も力強く強調しπと言
ふ黙に於いて︑大なる貢献をなしπ︒此虜に初めて問題が始つ完︒
ヘヘヘへ生産と消費とは常に織績的に一致しなければならないと言ふ主張は︑決して生産と消費との間に
不一致が與へられ得る事を排除しないし︑又如何にして此の不一致が周期的に現れるかと言ふ謎を
解決し得ないし︑術ほ叉商品生産と清費との一致從つて調和せる経濟的疏水溝の再現する過程ーo
それが好景氣の途上に在るにしろ︑或は叉恐慌の途上に在るにしろーを明自にしないのである︒
ヵール.マルクス(内9ニリ鳥9鴨×)に至つて始めて︑ケネトが本源的に定立した問題を︑再び取h上
げて問題としカ︒マルクスに在つては︑勿論︑領値論はそれ自身の中に分配論を包含して居る︒勿
論︑マルクスの﹁到達し控結果は︑生産・分配.交換.消費が同一だと言ふZとではなくて︑それ
等が総て一の総膿の成員をなし︑一の統一の内部に於ける差異をなす︑と言ふことである︒⑤﹂そも
て︑生産と清費との縫れ合ひを儂値法則から導き出さんが駕めには︑﹃競孚﹄の作用を働かせること
が必要であつπ︒然し︑マルクメは︑生産の型像をばケネーよう竜ヨリ一暦複難せる竜のと観た︒
即ち︑ケネーは﹃経濟表﹄に於いて﹃輩純再生産﹄(似=砕9︒因①で﹃○山=一ハ叶凶o=)を問題としたに過ぎな
かつカが︑マルクスは更に進んで﹃援張再生産﹄(臼壽一叶︒﹃8因Φ℃﹃○α爵氏︒=)の問題をも究明し泥︒
カール・カウツキー(囚9二内9三︒・す)の言ふが如く︑﹁マルクスは恐慌問題の解決を既に登見して
居πのであつて︑そのことは彼がこれに就いて書いて居る畳書に徴して明かなのである︒しかし︑
彼はその個々の原因を展開する所までしか來てゐない︒それらを総括して叙述すると言ふ所嚢では
來てゐなかつカのである⑥︒﹂
今︑此の軌道の上に︑重大にして決定的なる一歩を進め力竜のは︑恐慌の周期性に關してヒルフ
ァデイング(国一一諭aぎσQ)のなしπ研究ωである︒恐慌理論のこの部分は︑猫ほ殆んど朦朧πる状態
にあつた︒そ之に︑ヒルファデイングは明るい光を投げかけたのである︒けれど竜︑彼に在つては︑
恐慌は個々の生産部門間の不均衡から生じ︑その際消費は何等の役割を竜演じて居ない︒即ち︑彼
.景氣の循環性に.就いての一試論三九一
商學討究第四巻(下)三九二
の言を借血て言ふと︑﹁恐慌は︑輩純再生産の場合に於てさへ竜︑若し竜例へば死滅せる資本と新π
に投下せらる可き資本との間に叙上の比例が破壊せられるならば︑登生し得る︒だから︑恐慌が資
本主義的生産に内在する大衆の消費不足にその原因を有する等と言ふ結論は︑決して出て來ないω﹂
のである︒
エミイル・レーデラー(国日一一目①血巽ε敷授は︑恐慌理論の通説とも謂ふ可き此の﹃不均衡読﹄
(∪9δ℃︒岳・邑鼠算ゴ︒9.δ)を論駁して︑生産は可成う揮力性に富んで居るものであるから︑生産
上の不均衡が恐慌の原因を成すものではなくして︑生産の磯展と所得の壇進との間の決裂が規則的
な景氣循環の原因を成すものである事を力説する︒
斯くて︑問題は懸つて﹃生産過剰﹄(dσ・養・量・まコ)か﹃消費不足﹄(q9︒.犀oコ︒︒ニヨ甑︒旨)かに在る
竜の㌧如くに見える︒
抑々恐慌〜從つて景氣循環は資本主義の趾會に特有の現象である︒此の肚會に於いては︑無政
府主義的商品生産が支配的である︒而して︑此の無政府主義的商品生産は︑個々の生産部門の間︑
並びに同時に生産の規模と消費の規模との間に何等の均衡竜存在しないと言ふ黙に現れて居る︒故
に︑﹃杜會的生産均衡の概念﹄︒.剴Φσq﹁§島2国○℃︒岳︒b9一一聾α韓αq①︒︒亀ω︒冨塗一9︒昌団戦︒島爵缶︒一μ・︑には︑
二個の要素︑即ち一は個々の生産部門間の均衡と他は生産と清費との間の均衡とが下属して居る︒
換言すると︑肚會的全生産の不均衡は︑だ心に生産部門聞の不均衡ばかりでなく︑生産と個人的消
費との間の不均衡に竜存するのである︒即ち︑レーニン(b︒昌一εをして言はしむれば︑
﹁﹃肚會の消費力﹄と﹃種々なる生産部門間の均衡﹄とは︑決して何等か分離しカ︑濁立?或は
相互に無關聯の條件をなす竜のでない︒反墨に︑一定程度の清費は︑均衡要素の一である︒㈲﹂
従つて︑ヒルファーデング等の如く︑滑費と絶緑して生産部門間の不均衡のみを問題とするのは
明かに偏見であると言はなければならない︒生産と消費とは︑互ひに分離せる︑無關係のものでは
なくして︑一つの統一物を形成して居ると言ふ事の認識は︑やがで︑景氣循環ー從つて叉恐慌の
眞正なる原因の把握に導かずには置かないのである︒
一定程度の消費は︑生産の均衡を保つ鴬めの一つの要素である︒そして︑資本主義の肚會に在つ
ては︑生産手段の生産は清費手段のそれよゐ竜ヨリ速かに磯展し得る︑と言へる︒さうかと言つて︑
前者が後者と濁立に︑無關係に登達し得る︑と言ふ事は出來ない︒爾者は︑相互に制約せられて居
る︒だが︑生産關係を基礎として肚會の分配關係及び清費關係が決定せられる竜のであるから︑吾
々は︑景氣循環の原因としての﹃過剰生産﹄と﹃清費不足﹄との關係を︑次の様に綜合して述べる
景氣の循環性に就いての一試論三九三