ジェ・エス・ミルの農業問題
その他のタイトル J. S. Mill on Agrarian Problems
著者 東井 正美
雑誌名 關西大學經済論集
巻 6
号 7
ページ 591‑619
発行年 1956‑11‑01
URL http://hdl.handle.net/10112/15680
. ‑ ' 9 1
書一 九五 ー' 六頁
︶
をもつて登場したのが︑ 経済学の友であるプルジョアジーを︑
ジェ
・エ
ス・
ミル
の農
業問
題︵
東井
︶
ジョン・ステュアート・ミルの
産業革命によってその物的基礎を与えられた産業資本が発展途上において殊に十九世紀にいたつて︑資本と労仇
との問題は︑土地と資本との問題にとつて代つて︑その重要さを増してきた︒経済学は︑
を現わした近代社会の基本的対立︑資本と労仇との階級闘争に︑
︵出
口勇
蔵編
︑経
済学
史︑
一九 七頁
︶︒
マルクス・エンゲルス
( P
r i n c i p l e s o f P o l i t i c a l
﹁今やここにあらわな姿
いや応なく直面し︑これをいかに理論構造に組み
﹁経済学の危機
と︑経済学に社会学的考察を噂入することによって︑経済学を改良し︑それによって﹃経済学﹄を︑
そし
てま
た︑
その危険な敵から救いだすという︑ミルの主観的意図と︑客観的な役割﹂
E c o n o m y W i t h S o m e o f T h e i r A p p l i c a t i o n s t o S o c i a l P h i l o s o p h y )
が﹃共産党宣言﹄を執筆した一八四八年に公刊された︒
かかるミルの主観的意図と客観的な役割は︑資本の農業把握においても同一の意図と同一の役割をもつていた︒
けだしミルの﹁経済学原理﹂における農業問題に関する理論︑後に一八七
0年自ら会頭となった﹁借地改良協会﹂ 入れるかが︑経済学の死命を拒するものとなった﹂
一︑ 序
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であった︒そしてこの書は︑
ス
・ ミ ル の 農 業 問 題
東
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原理
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︵ 同
592 .
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の制がとられた︒ ジェ・エス・ミルの農業問題︵東井︶
専ら集中していたからである︒このことの展望を先ずみておこう︒
英固においては﹁既に第十八世紀末︑トオマス・スペンス︑ヰリヤム・オグルヴィ及びトマス・ペイン等の一連の土地社
会主義者を裁出している︒乍併︑これ等の所謂土地公有論者達は未だ啓蒙時代の綜合的な社会思想であった自然法思想にそ
のまま立脚していた﹂︒然るに﹁一八一七年リカアドウが﹃経済学及び課税の原理﹄において展開した地代理論は土地社会主
義思想の再生の緒を作った﹂︒即ちリカアドウは︑土地の幾度︑収獲逓減の法則により地代発生の原因結果を科学的に理論
づけた︒この結果﹁地代が地主自身の労仇や出費に依つて発生したものでなく︑一般に社会経済の発展に伴い生ずる不労の
所得であることを図らずも証明した形となった︒このリカアドウの地代理論に着目し︑従前の自然法を根拠とする土地公有
論とは別に︑土地私有批判の論拠をこの理論の中に発見した人々があった﹂︒先ずジェイムズ・ミルの地代公有論を皮切り
に土地私有への批判攻限は後を絶たなかった︒しかしながら︑﹁特にその思想の影響力大きく且つ実際運動において熱心で
あった人々として︑我々は先ずジョン・ステュアート・ミル︑次いで彼を中心として現れたヘンリイ・ジョオジ︑アルフレ
ド・ラセル・ウォレイスを忘れることは出来ない﹂︵堀経夫監修︑経済思想史辞典︑二七五ー六頁︶︒
ところで︑英国が﹁所謂﹃産業革命﹄の過程を経過する頃において︑英国の地主達の勢力は著るしく強大となって
﹃地主議会﹄はその名の示す如く︑第十九世紀後半においてもなお政治的行政的な権力はすべて彼等の手中 に握られていた︒新興の商工業者と雖も︑政治的に活躍せんとするものは︑自ら土地を買収するか又は農村貴族乃 至大地主と通婚することが利益且つ必要であった︒かくの如き地主の専制的地位は︑産業資本家の資本独占以上に 幣害をもたらすものと考えられたのである︒そのために極めて偏した土地配分の状態の修正が問題となった︒更に
フランスにおける如きとは異なり︑ 来
た︒ (La
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Re
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o c i a
t i o n
) におけるミルの実践活動などは︑資本主義的農業の発達の一切の障害の除去に 英国においてはかかる大地主制度を存続せしめるため﹃長子相続法﹄
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即 ち 長 子 の 為 に
︑ 土 地 を 分 割 し な い で そ の 儘 大 面 積 を 彼 に 相 続 せ し め る こ と に
393
﹁ミル氏が吾々を虐げる害悪を文 依つて︑永久に大地主としての地位を確保せんとした︒ミルの批判は特にこの制度に向けられたものが多い︒最後に︑地主達は土地を耕作して改良するという積極的な態度を有せず︑唯これを借地人に貸与してこれから地代を収得するのみであった︒単に借地人の余剰生産物に寄食していた地主達の︑この地代収入が不労所得として攻撃され
かくのごとく︑ミルは︑不労所得に対する課税︑長子相続法の撤廃などによって︑大地主制
1 1
地主の専制的地位
けだし土地改善をなす地主を肯定
し︑土地改善をなさない地主のみを否定するからである︒今土地改善を資本主義的農業の発達と等置すれば︑前者
の地主は資本主義的地主に対応し︑後者の地主は先資本主義的地主に対応するのである︒農業生産力の増進または
いることに仕かならない︒ 土地改善に対応しない地主が否定されるということは︑資本主義農業の発達の上で不必要な地主のみが否定されて
つまり︑ミルは︑農業資本主義の擁護を意図していたのである︒これは︑
ルの小農民的土地所有の安定の理論と矛盾すると思われる︒けだし小農民的土地所有の称揚は︑資本の農業把握を
否定することになるからである︒しかし小農民的土地所有を説く理論には︑農村には資本と賃労仇の階級対立がエ
業祖ど激化していないから社会主義化などはありえないという理論が暗々裡に包摂されかぎり︑農業資本主義の擁
護が含まれるわけである︒ミルの意図如何にかかわらず︑この称場はかかる論理にまで発展し︑資本主義的農業の
発達または擁護とこれは抵触しないのである︒だからこそ一労仇者は攻撃する︑
除し近代社会の癌を治療せんと考へる方法手段は︑恰も彼の理論的結論が誤謬であり矛盾していると同様に不適当
な︑非実践的なものであることが判る︒吾々は︑進歩的発展への傾向を発展せしめる代りに︑社会的諸事情の変革
ジェ・エス・ミルの農業問題︵東井︶ を攻撃している︒しかし︑ミルは︑ たのは当然と言わねばならない﹂
全ての地主一般を否定するものではない︒ ︵同書︑二七六ー七頁︶︒
一見して︑ミ
594
ジェ・エス・ミルの農業問題︵東井︶
ル﹁経済原論﹂反駁︑
であろう︒本稿では︑
ミルの地代論は︑
マルクヌ
1 1
エンゲルス全集第十六巻︑改造社版︑
これらを対象とするのである︒但し︑
︵一労佑者のジョン・スチュアート・ミ
二︱︱︱頁︑傍点筆者︶と︒ミルの主観的意図と客観的
本論文の意図は︑前述のような観点から︑ミルが論及した農業問題を紹介しようとするものである︒ミルの農業 問題といえば①土地所有権に関する理論︑②地代理論︑③小農民的土地所有の理論︑④農業政策
11
土地政策となる︹本論文作成にあたっては本学教授杉原四郎氏から︑︑︑ルの農業問題に関する一切の文献について御教示を賜った
c
﹂のこと
l
を同氏にここで感謝し︑あわせてこれらの文献を十分に活用できなかったこと御詫びしておきたい︒︺
理論的にはこの問題に関するリカアドの基本的命題を完全に採用している︒このことはひろく ミルの地代論のこれの素描は︑田中定氏が彼の論文﹁ジヱ・エス・ミルの地代論(‑)﹂においていつているご
とくに﹁経済学原理﹂第一章の最後の箇所における次の章句によって与えられる︒
﹁社会の経済が︑もっとも重要なる自然要因︑なかんずく土地の限られたる分量に如何ばかり左右されるか︑と 知られているとおりである︒
二 ︑
ミ
J V
の地代論11
地代の公有化
らためて論及するつもりであるからである︒
(3 )
には積極的に言及されなかった︒これは稿をあ 役割はここにあるであろう︒
︑
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︑ を目論む諸提案の代りに︑彼の救治手段は社会的進歩に戻る反動的なものであり︑停滞的状態︑即ち熟慮された終
︑
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局目標としての資本家的生産の永久化を目指していることを見るであらう︒﹂ ニ四
595
ジェ・エス・ミルの農業問題︵東井︶ いうことは︑後に至ってこれを明らかにすることとしよう︒そして今のとこるは︑止めよう︒すなわち︑ある自然要因の量が実際上無制限であるかぎり︑り︑誰も無債で得られる物と交換に何物かを与えようという者はあるまいから︑それは市場において何らの価値を
落流が供給しうる水力よりも多量の水力が必要となったとす
れば︑人々は落流の使用に対してこれの等価物を提供するであろう︒もしある地方がもつている耕地よりも多量の
耕地が必要となったならば︑或いはある地味とある地利とを有する土地が不足となったとすれば︑その地味および
地利を有する土地は︑ある価格をもつて売買せられ︑或いはある年地代をもつて賃貸しせられるであろうとU
この
問題については︑後にこれを詳しく論ずるつもりである︒しかしいまだ詳説すべき箇所に到達していない原理や推
論でも︑これを前もつて簡単に述べておくことは住々にしてすこぶる役に立つものである︒
( I b i d 9 B o o k
I
,
C h a p t e r
I,
p p .
27
ー2 8 .
‑ l l
^永 市g号訳︑ミル経溶5学原理(‑)︑七四ー五頁︶﹂'
土地の全貯量は耕作の拡張ある毎にせばめられてゆくであろう︒とくに優良なる地質および優良なる位置の土地
は事実上不足することになるであろう︒地代は土地貯量の事実上の不足から生ずる︒Iここに素描を与えられてい
巻第三号
ミルの地代論はリカアドの完全な承継であって︑差額地代説であるCそしてミルの差額地代説を要約すれば︑左
のごとくである︒ 昭和十一年九月︶ るミル地代論は︑リカアド地代論の完全な再版である︒ ももちえない︒⁝⁝いまある特定の地方において︑
二五
︵田中定︑前掲論文︑九州帝国大学経済学会第六
E d i t i o n s ,
ただ次ぎのように述べて置くに
そしてそれが人為的の独占を許さないかぎ
A s h l e y
経済学研究い生計手段として耕作される最劣等地は︑種子︑家畜用飼料︑耕作者の食糧などを辛うじて償うような土地である︒
596
ー
1 8 0 8 )
まずこれを唱え︑ ジェ・エス・ミルの農業問題︵東井︶
十八世紀末頃︑ 次の等級の土地は︑種子︑飼料︑農業労仇者の食糧すなわち経常賃銀率︑
れた資本の利子︹これと同額の資本が工業企業に適用された場合にこの資本に対する利潤に等しいところの利子︺
に当る一剰余などを償うに足る十分な生産物を生みだすところの土地である︒
次の等級の土地は︑全て以上のものを超える生産物を生産するとこるの土地である︒この超過剰余分は︑地
代と呼ばれる︒ますます大きな剰余を生産するところのますます高い土地等級は︑この源泉からの地主所得に応じ
(W il li am e B nn et t B i z z e l l , Fa rm Te naき
y i n t he Un it ed St a t es ,
1 9 2 1 , P .
9
3 . )
では︑この差額地代は︑どうして決定されるか︒これについて︑ミルはいう︒ および︑農場建物・設備に投ぜら
﹁かくの如く︑耕地のうち︑使用せる労佑と資本とに報酬する高の最も少きものは︑ただ普通の利潤を生ずるに
過ぎずして︑竜も地代となるべき余剰を生ぜずとせんか︑この土地こそは︑他のすべての土地の生ずべき地代の多
少を見積る標準となるものである︒荀も一の土地にして最下等の耕地の生産高よりも多くの高を生産するときは︑
ちょうどその差額だけ︑普通の利潤以外の報酬を与うるものである︒この余分は︑これを農夫が地代として地主に
支払い得るところのものである︒而して農夫がこれを地代として支払わざるに於ては︑この︹資本家的︺農夫は普
通の利潤率以上の高を得ることとなり︑随つて他の資本家の競争すなはち種々なる資本の利潤を平等にする競争起
(Ib笠
Ch ap te r
1 6 ,
P .
‑ 4 2 5 . 戸田正雄訳︑ミル経済学原理
2
︑三七七頁︶
り︑そこで遂に地主はこの余分を得ることとなるであろう︒随って︑或土地の地代は︑その土地の生産高が同資本を以て最劣耕地の産する高に超ゆる剰余である︒﹂
この差額地代論は︑ミルが自らいつているごとくに︑ た差額地代を与える︒
(3) (2)
一時忘られていたが︑その後二十年ほど経て︑
﹁アンダソン博士
Dr . Ja me s An de rs on
( 1 7 3 9
エドワド・ウエスト郷︑マルサス氏およびリカードゥ氏
‑ ︑
. . ︱
ご
ジ
597
要である︒本稿の出発点は︑ここにおかれる︒ このようなミルの地代論
11
差額地代論は︑ が殆ど同時にこれを再発見したものである︒この理論は︑経済学上の根本原理の一つである﹂七八頁︶︒そして︑ミルもこの法則を受継いでいるのである︒~
もっとも︑ミルは︑河合栄治郎氏が彼の著﹁英国社会主義史研究﹂においていつているごとくに︑リカアドの地
代論を承継すると共に︑.多少の発展をこれに加えた︒リカアドは︑﹁地代論の妥当するのは農業用の土地のみでな
く︑鉱山に就ても亦之と同様な理由で地代が発生すると説いたが︑ミルは更に一歩を進めて︑鉱山の外に漁場に就 ても︑更に住宅用に供せられる土地又はそれに附属する庭園及び公園の土地に対しても地代が生ずる︒之等は農業
用の土地ではないが尚土地であるが︑土地を離れても︑特許権の如きは旧生産方法により生ずる生産額よりも︑多景
の生産を為しうる場合に地代を生じ︑
四ー
四七
七頁
︶﹂
優秀なる才能が獲得する過剰利益も亦地代の一種であるという︵﹁原理﹂四七
︵河
合栄
治郎
全集
4︑英国社会主義史研究第二部︑現代教養文庫︑七八頁︶︒しかし︑これは︑ここでは︑ど
うでもよいことであって︑これは︑ミルの地代論がリカアドのそれの再版であることを否定しない︒
ジェ
・エ
ス・
ミル
の農
業問
題︵
東井
︶
この問題に関するリカアドの基本的命題を完全に採用していること は︑すでに述べた︒だから︑ミルの地代論では︑リカアドと同様に︑農産物価格を決定する最劣等地︑最終資本に おいて地代が生じないのであって︑農業資本が工業資本に比較してその有機的構成が低く︑しかも土地私有の存在
︑︑
︑︑
によって平均利潤化することが妨げられているために生ずる絶対地代は︑当然理論的に説かれるところとならなか
ったのである︒ミルの地代論
11
差額地代論において︑以上のごとく︑絶対地代が説かれていないということは︑重絶対地代は土地の私有から生ずる︒ミルは︑土地私有のこの役割を見落したけれども︑﹁イギリスには古典派経済 (Ib笠
P . 4 2 5 .
戸
田訳
︑原
理
2︑
.598
は︑こう書いている︒ 問題の経済的意義を十分に理解しえなかったのは︑当然である︒ 筆
者︶
年に土地所有改革の協会を創設し︑
これについて︑
一は
土地
河合栄治郎氏 ミルの地代論
11
差額地代論では︑土地国有化︵傍
点
ニ八 ︑
学の思想が支配していたにもかかわらず︑すでにジェ・エス・ミルは私有の対象としての土地の地位の特性を極め
て詳細に基礎.つけ︑国家は私有者の手から土地を奪い社会的利用のためにこれを国有化する権利があると唱えた︒
含ジ
ェ・
エ
t^・ミル﹃経済学原理﹄第二巻︑第一ー第二章︶ミルはその思想の理論的基礎づけにのみ甘んぜず︑
ている独占の廃止である︒
一八
七ご
国家は租税によって地代を地主の手から国家に移すべしと要求した︑﹂
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︑ヤ
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義農
業経
済学
上︑
四六
三頁
︶の
であ
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このように︑ミルは土地の地位の特性から︑地代を地主の手から国家に移すべしということを説いたけれども︑
これは土地国有化にまで止揚されなかった︒けだし︑ミルの地代論には︑絶対地代がない︒資本主義社会における
土地国有の問題は︑本質的には異なる二つの部分にわけられる︒すなわち︑差額地代の問題と絶対地代の問題とで
ある︒国有化は︑前者の領有者をかえ︑後者の存在そのものをくつがえす︒したがつて国有化は︑
主義の範囲内での部分的改良︵剰余価値の一部の領有者の変動︶であり︑他方では︑
国有化問題の経済的意義を十分に理解することはできない︒だから︑
ジェ
・エ
ス・
ミル
の農
業問
題︵
東井
︶
一方では︑資本
一般に資本主義の発展全体を妨げ
この二つの面︑すなわち︑差額地代の国有化と絶対地代の国有化とを区別しなければ︑
ミルは︑地代の国有化の意義を理解できなかったのにもかかわらず︑地代の国有化
11
地代を地主の手から国家に︑ ︑ ︑
移すべしという単なる地代の国有化をいかにして説くことができたのであろうか︒
﹁ミルの凡そ土地なるものに対する批判が︑二種の方面から為された訳けである︒
所有権の立場からで︑土地と動産とは性質を異にするから︑動産に対しては認められる所有権も︑土地に対しては
5QQ
ジェ・エス・ミルの農業問題︵東井︶
二九
当然には認めることは出来ないと云うのであり︑その立論の方法に於て啓蒙時代の土地国有論と類似する︒他は地代
が地主の不労の所得なりと云う立場から︑地代に特別課税を為さんとするのである﹂︵河合栄治郎︑前掲書︑八三頁︶︒
﹃所有の神聖﹄は︑同程度には土地に妥当しない︒これは土地の地位の特性に由来する︒というのはミル
によれば︑土地は次の三点により他の財貨と区別されるからである︒その区別とは︑
ていて︑随意に増加しうるものではない︑従って土地を所有することは自然の独占である︒第二は土地は人生に必
要なる場所たるのみならず︑生活必需品の原料を提供する︒従って土地を所有するものは︑他の所有を支配する︒
第三にあらゆる他の財貸が労幼により生産されたるに拘わらず︑土地のみは労佑により生産されたものではない
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑之等の特異性を有する土地は︑
財産
であ
る﹄
︑
すべきである︑ ﹃一般人類は今日も尚︑ ﹁第一にその数量は限定され
一般財貨と異りて﹃一切の人類の原始的相続
彼等が住居する地球の土地に対する原始的要求の内彼等が残りのものと別
れた目的と調和しうる限りに於て︑その要求を依然として保留する﹄︵﹃論文集﹄第四巻二四三頁︑﹃原論﹄
点筆者︑同書七三四頁︶Cかくして﹁所有の神聖﹂は︑土地所有に属さないから︑
二三
五頁
︶
c
﹃所有の神砲﹄が語られる時に︑かかる神瑕さは同程度には士地所有に属しないことを記憶せねぽならない﹂
土地の所有を正義の観念に調和さ
というのが︑ミルの土地所有権に関する見解であるC次に︑地代に関する見解は︑ミルによれば︑
﹁地代の発生は人口の増加と富の増進の結果であり︑土地所有者の嘔も参加せざる社会現象の賜物である︑然らば
地主の何等の労力犠牲を含まざる不労所得でなければならぬ︒故に地主が私有すべきものに非ずして︑社会が収得
すべきものなりと云う帰結に来た︒彼は云う﹃⁝⁝所有者によって何等の努力も犠牲も払はるることなくして︑絶 ︵
﹃論
文集
﹄第
四巻
二六
三頁
︑︱
︱七
几頁
︶︒
てい
る︒
かように︑ミルの地代の公有化は︑二つの見解︑
傍
すなわち土地所有に関する見解と地代に関するそれとから説かれ
600
ジェ
・エ
ス・
`︑
ルの
農業
問題
︵東
井︶
えず増加する傾ある所得の一種がある︒之等の所得者は自らは全く袖手傍観しつつ︑自然の事情により累進的に富
まさるる社会の一階級をなすものである︒此の如き場合に於ては︑国家がその所得の生ずるに従い︑増加したる富
の全部又は一部を使用するも︑私有財産の拠つて立つ原理に反するものではない︒こは本来何人よりも何物を奪う
ことではない︒そは唯偶然によって生じたる富をして︑特殊の階級の富に不労の増加たらしめしむる代りに︑社会
の利益の為に没収するものたるに過ぎない︒今や地代の場合が実際に之に当る⁝・・・地主は佑くことなくして︑危険・
を冒すことなくして︑経済を考うることなくして云わば眠れる間に愈々富む︒社会的公正の一般原理に立つて︑彼
等は富の此の種の増加に対して︑果して何の要求の資格ありや︒﹄︵﹃原論﹄八一七ー八一八頁︶﹂︵同書︑七九ー八0
頁 ︶ ︒
このように︑ミルの︑地代を不労所得となす地代に関する見解は︑地代の公有化につながるのである︒
以上要するに︑ミルの地代論は︑理論的にはこの問題に関するリカアドの基本的命題を完全に採用している︒そ
してこのことは︹差額地代論
11
絶対地代の欠如︺は︑ミルをして土地国有化の経済的意義を十分に理解せしむるところとはならなかった︒しかしながら︑ミルは︑土地所有の特性︑ーー̲︱方で土地所有は労佑の産物でないから﹁土
雌所有の神聖﹂さはなく︑他方で地代は不労所得であるーから︑
︵絶対地代に関する認識の欠如︶︑地代の公有化を説えるに至ったのである︒
︱︱‑︑士地所有者の敵対的役割
土地国有化には止揚されえなかったとはいえ
資本主義経済社会における土地所有者の敵対的役割および資本主義経済社会における土地所有の地位の矛盾的役
割について︑ミルは︑どのように考えていたのであろうか︒
IO
601
ジェ・エス・ミルの農業問題︵東井︶
に︑
﹃労
仇支
出﹄
および所有者による土地耕作の最大の生産性という原理から出発して︑
づけようとする試みが生れた︒他方では︑土地所有の﹃条件性﹄および暫時的性質に対する見解が生れ︑土地所有
は一定の事情の下では法律制度の如く国家によって廃止されるものとせられた︒
上︑
ニニ
七ー
八頁
︶︒
このように︑ミルが土地所有の﹃不可侵性﹄の概念から出発して︑ 有利な形態は農民的所有であるとの結論に達している︒
土地所有を基礎づけ正当
︵直井訳︑リャンチェンコ農業経済学
土地所有の最も有利な形態に関する論証を発
展させ︑最も正義にかなった社会的に最も有利な形態は︑農民的土地所有であるとの結論に達した︒かかる土地所
有の﹃不可侵性﹄←農民的士地所有に関するミルの見解の成立の根拠には地主・小作の敵対関係があったことは︑忘 ここから一方では︑
もはや﹃人間の本性﹄から出発せず
る ︒ ﹄ シスモンヂ︑ミル等々の古典学派の亜流達が資本主義の急速ない︑唯一の正常的なものと見倣したからであった︒ 義的経済におけるその地位の矛盾性を理解しなかった︒というのは︑彼等はその経済を一般に永久的な︑矛盾のな 社会的収入の源泉を決定する諸条件の﹃自然性﹄から出発して︑土地所有の歴史性を理解するにいたらず︑資本主 古典学派もその亜流達も、ーー'とリヤシチェンコがいっているごとくに—ー上土地所有の原理の『永久性』とその
発展と連関して土地所有のこの社会的現象の唯一の矛盾と見倣すに至ったことは︑発展する資本主義が小生産一般 を破壊し呑下すると共に︑小農経済をも︑小土地所有をも盛んに破壊し始めたことである︒ミルは一方では︑土地 所有の﹃不可侵性﹄の概念の条件性を特に明白に強調している︑なぜなら﹃土地は人間によって創造されたもので
なく︑その占有は全く一般的利益に依存している︒若し土地私有が利益をもたらさないとすれば︑それは不正であ
更に進んで土地所有の最も有利な形態に関する論証を発展させたミルは︑最も正義にかなった社会的に最も
ら 02
ジェ・エス・`︑ルの農業問題︵東井︶
れてはならない︒これについて︑リヤシチェンコは︑彼の他の著書︑
完全に採用している︒それにも拘らず彼はこう言っている︒
一七六ー一七七頁︑傍点筆者︶と︒ ﹁ミルが最も詳細に論じているのは地代問題である︒彼は理論的にはこの問題に関するリカードの基本的命題を
そこ
リカードは完全な経済的自由と正常な生産的経済諸関︑.︑︑︑︑︑︑︑係が支配する場合を眼中に置くことができた︒しかるに事実上は必ずしも︑地主と借地農との間︑即ち地片を提供
︑
︑
︑
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︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
する人とそれを受領する人との間の諸関係が自由な経済競争によって決定されるというような場合が生じない︒常︑︑︑︑︑︑︑︑に生じている状態は︑農民は与えられた土地を余儀なく借り受けなければならない必然性の前に立つている︑
で彼はただ必要な地片を借受けたいがために唯々諾々として地代の外に労佑に対する報酬の若干の部分をも地主に
だから二三の国には︑地代がリカードの理論によってどう作られようとその正常的水準以上にせり上るといった
種類の﹃強制的﹄借地が見受けられる︒こういう国は︑例えば︑アイルランドであって︑アイルランドに於てミル
は︑地代が正常水準以上に高められて︑リカードの地代の定義に背馳する多くの場合を観察する機会を持った︒
このことから明かなのは︑地代の確定が不変な法則でないこと︑人民大衆はこの地代の高さの決定に利益を持つ
ているから︑国家権力が或る場合に地代の高さに影響し得ること︑これである︒こうしてミルは或る場合には国家
が基本的な所有権の実現に干渉を加えて欲しいという結論に達し︑これによって彼は古典学派の純原則から決然離
反している︵第二篇第十五章︶︒﹂︵平館利雄訳︑リャッチェンコ経済学説史︑
ミルは︑国または処を異にして様々になる土地諸関係の類型について書いている︒﹁ある所では︑地主は︑産業
に従事する階級とは低とんどまったく別の︑それ自身一個の階級をなしている︒しかるに他の所では︑土地所有者 支払う︑ということである︒ ﹁経済学説史﹂においてこう述べている︒
603
ジェ・エス・ミルの農業問題︵東井︶ 自身が地主によって所有される︑奴隷国の場合である﹂︒ ギーにおいて普通に見られるものである﹂︒ はほとんど常に耕作者にして︑鋤を所有し︑多くの場合はみずからそれを把つている︒土地所有者がみずから耕作をしないところでは︑時に地主と労仇者との間の仲介として借地農業家のいることがある︒この借地農業家は︑労佑者に生活費を前貸し︑生産要具を供給し︑その代わりに地主に地代を支払いたる残りの生産物を全部収納する︒
また他の場合には︑農産物はもつばら地主とその有給の代理人と労仇者とに分けられる﹂
P ri n c ip / e s of o l P i ti c
a l ︒E
Co mo my
.経済学原理︵一︶︑五八頁︶︒
業社会は︑地主と資本家と生産的労仇者とに分かたれる﹂が︑
相分かつところの別々の階級として存在することもあるが︑
このように別々の階級として存在するものではない︒
ンド︑ならびにベルギーのある地方︑オランダのある地方︑これらの地方が︑世界において農業に使用される土地と
資本と労仇とが一般的に別々の人の所有にかかる︑
三要素の二または三をあわせ有するのである﹂︒
る︒この事実は︑
﹁同じ人が生産の三要素のすべてを所有してはいないと また他の箇所においても︑
﹁この三階級は︑時として自分たちの間に生産物を
しかし実際をみると︑必ずしも︑またいつの場合にも︑
ほとんど唯一の国々である︒普通の場合は︑同じ人がこれらの
﹁同一人がこれらの要素を三つとも所有する場合は︑労仇階級の独
立と品位とからいつて現存社会の両極端をふくんでいる︒その一は︑労仇者自身が生産要素の所有者たる場合であ
アメリカ合衆国の北部諸州においてもっとも普通の場合であり︑ らの階級の完全なる分離を一般原則としている社会は︑
(P ag e
19 1 20 0
fRe ma rk
これについて書いている︑
フランス・スイス・スカンディ
ナヴィアの三王国およびドイツの諸地方においてもっとも普通な場合の︱つであり︑イタリアの諸地方およびベル
﹁同一人が土地と労仇と資本とを所有するいま︱つの場合は︑労仇者 ︱つか二つかあるのみである︒イングランド︑スコットラ
実際においてはむしろそうなっていないことが多く︑これ
﹁ 産
604
かし「土地こそ勤労の生産物ではないけれども、土地の貴重な性質の大部分はそうである」
(Ibid•
B o o k 2 , C h a p t e r 2 ,
の︑土地が産み出す原材料には妥当しないわけである﹂ ころのものを︑すべてそれらの人々に保障するということである︒随ってこの原理は︑.労佑の生産物にあらざるも ミルによれば︑
る﹂
︒
ジェ
・エ
ス・
ミル
の農
業問
題︵
東井
︶
いう場合のなかには︑その二つを所有するということが︑すくなからずある︒時として︑同じ人が資本と土地とを
労佑を所有していないということがある︒
に必要な蓄財の全部または一部を提供するのである︒この制度は︑
土地所有者でもないところの地方において普通に見られる制度である︒またこの制度は︑大革命前のフランスにお
いて極めて普通に行われていた制度であり︑今日でもフランスのある地方では︑耕作者が土地を所有していない場
合に︑なおよく行われているところのものである︒この制度は︑
﹁またある場合には︑
A s h l e y d F i t i o n , P P . 2 3 8 ‑ 2 4 1 .
末
永訳
﹃原
理﹄
︵二
︶︑
八四
ー九
0頁 ︶
︒
の類型のうち︑ミルが称揚するのは︑小農民.的土地所有︹自作農︺
が解消するからにほかならない︒しからば︑ 所有しているが︑
この
場合
︑
地主は労仇者と直接に契約を結び︑
ヨーロッパ大陸の︑労仇者が農奴でもなければ
イタリアの平野地帯でも一般にひろく行われてい
地主は慣習上何ものをも提供しないことがある︒この制度は︑概してアイルランドで盛んに行われている﹂
以上のような種々の国々における土地諸関係の様々
であ
る︒
種々の国々における土地諸関係の様々な類型のうち︑ミルが小農民的土地所有を称揚するのは︑普通にいわれて いるごとくに小農民的土地所有に関する論証の帰結であるとはいえ︑小農民的土地所有には地主・小作の敵対関係
これが︑ミルによってどのように具体化されているか︒
﹁私有財産の本質的原理は︑人々が自分の労仇によって生産し︑自分の制欲によって蓄積したと
( I b i d , B o o k 2 ,
C h a p t e r 2 , P P . 2 2 9
ー2 3 0 ・
同訳
革自
︑六
七頁
︶︒
し
労佑者は土地を所有してはいないが︑
( I b i d 9
土地の上で使用する小蓄財を所有しており︑
一 四
耕作
605
P . 2 3 0 .
同訳書︑六八頁︶︒随つて﹁土地を農業に使用するに当つては︑その使用は︑さし当り必然的に排他的でなけ
土地を耕し︑
一 五
大地主というもの しかし土地所有
( I b i d , B o o k 2 , C h a p t e r 2 , P . 2 3 1 .
(Ibid•
B o o k 2 , C h a p t e r 2 , P . 2 3 0 .
5同訳書・六八頁︶︒そこで﹁経溶的見地からいつて土地の所有権を正当化するところ
の諸理由﹂は︑﹁土地所有者が土地改良家である場合にのみ有効な理由となるものである︒ある国において土地所
有者の大部分が土地改良家でなくなると︑そのときから︑経済学はその国に行われている土地所有権を揺護していう
べき何ものをももたないことになる︒私有財産制に関する健全なる理論において︑土地所有者はその土地に住む単
なる徒食者であってよいと考えられたことは︑
訳書
・七
一頁
︶︒
イギ
リス
では
︑
﹁土地所有者が土地改良家であったことは︑珍しいことではない︒
者はいつもそうだとはいえない︒ いまだ曽つて一度もないのである﹂
のみならず土地所有者は︑多くの場合︑他の何びとかが土地改良を企てるのを妨
げるような条件をもつて耕作を許可するものである︒イギリスの本島の南部地方では︑普通に永代小作の制度が行
われていないので︑地主の資本による保か土地の永久的改良なるものは行われない︒随つて南部地方は︑イングラ
ンドの北部地方やスコットランドの低地に較べると︑農業上の改良がなお著しく後れているのである﹂︒地主は︑
﹁多額の費用のかかる土地改良をなす資力をもつていないのである︒・・・・・・地主がたとい大いにその気があったとし
ても︑これを慎重になしうるのは︑ただ科学的農業の原理を真剣に学んだものだけであるが︑
は︑多くはほとんど何も真剣に学んだことのない人たちである︒もっとも大地主でも︑自分ではなしたくない︑あ
るいはなしえないことを︑借地農業家にある誘因を与えてなさせるようにするということは︑少くともできるわけ
であ
るが
︑
しかし長期の借地契約をむすぶに当つてさえも︑イギリスでは︑大地主は古風な︑すでに廃棄された農
ジェ
・エ
ス・
ミル
の農
業問
題︵
東井
︶
ればならない︒これに種子を播いた︑その同じ人が刈り入れることを認められなければならない﹂
606
長期の借地契約はまったく結ばず︑借地農業家にはわずかに一収穫期の占有の保證しか与えないことによって︑そ
の土地をわれわれの野蛮な祖先の時代よりもほとんど改良に好都合でない状態に追い込んでいるのである﹂
B o o k 2 , C h a p t e r 2 , P P .
1 2 3 1
2 3 2 .
同訳書︑七一ー七三頁︶︒さて﹁﹃所有権の神聖﹄ということが云々される場合︑この
神聖性は︑
何び
とも
︑
のほ
︑
とても正気の人々を納得させることはできないであろう﹂
( I b i d , B o o l { 2 , C h a p t e r 2 , f . 2 3 3 .
同 訳一般に不満をもたれており︑またその多くは︑
土地の所有権に対しては他の所有権と同じ程度に帰属するものではないということを忘れてはならぬ︒
土地を創ったものはまだいない︒土地ほ︑本来︑全人類の相続財産である︒その土地を人に私有させる
まったく人類全般の便宜に出でることである︒土地の私有がもしも便宜を与えないならば︑この私有は不正
である︒ある人が︑他人の生産した物の所有を否認されたとしても︑それはその人にとつて苛酷なことではない︐}
他の人はこの人に使用させるために物を生産する義務はなかったへ︾そしてこの人は︑右の生産者がいなかったなら
ぽまったく生じなかったであるう生産物の分前にあずからなくとも︑何らの損失をこうむるものでもないのであ
る
c
しかしながら︑ある人がこの世に生まれ出たとき︑自然の賜物はすでにことごとく他人に占有されてあり︑新来の自分には何ら分配にあずかる余地がないということは︑幾分苛酷である︒人々が自分は一個の人間として道徳
的権利があるという考えを抱くようになったあと︑これらの人々に︑このような事態を納得させるには︑土地の排
他的所有がこれらの人々自身をふくむ全人類に対して幸福をもたらすものであることを知らしめることが︑いつも
必要であろう︒しかしながら︑地主対農民の関係が︑世界到るところ︑従来のアイルランドに見られたような有様
であるとしたら︑
書︑
七四
ー七
五頁
︶︒
W . 八
B .
B i z z e l l , o
p c i t . , C h a p t e r 6 ,
PP 69
ー7 2
.
V 業の慣行にもとずいた契約によって借地人を縛り上げるといつて︑ジニ・エス・ミルの農業問題︵東井︶
一 六
( I
b i
d
6o7
ならないであろう︒他方で︑ミルは︑ ︵
田中
定︑
前掲
論文
︶︒
だか
ら︑
役割⁝⁝をよみとることができるであろう﹂ ミ
ルは
︑
i七 ﹁﹃特別の負担﹄ということについて論議がたたかわ
一九
五ー
六頁
︶︒
とい
うわ
けは
︑こ
うで
ある
︒
﹁経
済
ミルによれば︑土地の所有権を正当化するか否かは︑土地改良と人類全般の便宜いかんにかかつている‑)そして
土地改良即人類全般の便宜と考えている︒
る︒それはともかくとして︑ミルは︑土地改良
1 1
人類全般の便宜ということによって発展しつつある農業におけるてまた︑経済学の友であるブルジョアジーを︑
ジェ
・エ
ス・
ミル
の農
業問
題︵
東井
︶
ここにコントの社会学とミルの経済学の結びつきが見出され
プルジョア的進化と地主・小作の敵対的関係の融和を考えている︒つまり︑農業における資本主義的発展を育成し
つつ︑これの制動機となるような地主・小作の敵対関係をそれからとり除こうとするのである︒ここにも︑
学の危機と︑経済学に社会学的考察を導入することによって︑経済学を改良し︑それによって﹃経済学﹄を︑そし
その危険な敵から救いだすという︑ミルの主観的意図と︑客観的な
︵出
口勇
蔵編
︑経
済学
史︑
ルが掲げている改良の諸場合をひろつて考察を加えて要約すると︑田中定氏がいつているごとくに︑
次の如く云うことができるであろう。ー~農業上の改良に大別して二種あり、
ところなき改良︵例証としては農産物調整機の発達︑交通機関の発達などー筆者補註︶︑
ぎない﹂アイルランドの地主の例をあげてこう書いている︒ ﹁要約すれば
一は工業におけると本質的に異なる
他の一は農業固有の改良︑すなわ
ち土地の自然的諸限定を克服する作用を営む改良︒後者はさらに三に再分類される︒
るもの︑二は土地の有効面積を変更するもの︑三はそれらの結果として︑豊度の差異の自然的序列を変更するもの﹂ 一は土壊の有効豊度を変更す
ミルによれば︑・土地改良とは農業生産力の増進
11
資本主義的農業の発達の意に低か﹁その土地のためには︑ただ土地の生産物を取り尽すという仕事をするに過
された際に︑地主こそは﹃土地にとつての最大の負担﹂だという奇警な言葉が吐かれたことがあったが︑この言葉
607
革すべきときが到来しているのである︒﹂ のを消費している︒ は︑これを彼らにあてはめると︑文字どおりに適切な言薬となる︒彼らは︑土地に向つて何の償いをもなさず︑
普 し
かも土地の生産物は︑ただ住民を餓死するのを防ぐのに絶対に必要な程度の馬鈴薯を残すのみで︑他のすべてのも
而して彼らがかりに土地改良という目的を想いおこした場合に︑
通︑人民にこの僅少の食糧すら残さず︑彼らを餓死に追い立てないまでも︑乞食に零落させることである︒土地所
有の状態がこのような基礎の上に立つている場合︑それはもはや弁護の余地がない︒そしていまやまさに事態を改
( I
匿B o o k 2 , C h a p t e r 2 , P P .
ー
2 3 2
2 3 3 .
同訳書︑七三ー四頁︶と︒かくのご
とく︑地主が土地改良家でないかぎり︑地主・小作の敵対関係は︑ミルによれば︑次のごとく現れる︒すなわち地
主こそは﹃土地の最大負担﹄となって現れるばかりでなく︑人民にこの僅少の食糧すら残さず︑彼らを餓死に追い
立てないまでも︑乞食に零落させる︒かかるミルの論理は︑地主・小作の敵対関係は︑地主が土地改良家︑すなわ
ちすでにみたごとく資本家でないかぎりにおいて現れる︑
有形態は︑・ミルによれば︑自作農であった︒さればこそ︑ミルは﹁アイルランドの場合においては︑地主の手取り
の平均額をもつて不変的な地代税となし︑その借地人の地位を高めて自作農となすこともできる﹂
C h a p t e r 2 , . P . 2 3 4 .
同訳書︑七六ー七七頁︶といったのである︒ここにおいて︑ミルは︑資本主義的農業の発達と地主・
小作の敵対関係を見事に調和さしたかのごとくである︒
に地主がそうなれば︑地主・小作の敵対関係はありえないと︒かかる︑ミルの論理的帰結は︑単に社会的生産一般の
上に重い負担として横たわるばかりでなく︑農業における資本主義的生産を著しく制限するものであるところの社
会的生産および社会的分配における土地所有の社会経済的役割に関する考察の欠如によることはいうまでもないで
ジェ
・エ
ヌ・
ミル
の農
業問
題︵
東井
︶
まず第一になすことは︑
ということになるであろう︒地主が資本家である土地所
一 八
(I bi d,
B
o o k 2 ,
つまり︑ミルによれば︑農業における資本主義的進化の線
609
種々の国々における土地諸関係の様々な類型のうち︑ミルが小農民的土地所有を称揚するのは︑小農民的土地所
主・小作の敵対関係は︑ミルによれば︑地主が土地改良家
11
資本家でないかぎりにおいて現存するのである︒だから︑地主が土地改良家である場合︑または地主が農業における資本主義的進化の線にそう場合には︑かかる土地諸
関係は︑人類の一般福祉の増進に役立つものとして︑ミルによって肯定される︒そこで︑ミルが資本主義的借地農
制を肯定するのは︑当然のことである︒
資本主義的借地農制のもとにおいては︑資本主義的社会における所得の三大群が明確に分離されて現れるー│'土
地の所有者と︑その他の生産手段の所有者︑すなわち資本家と賃銀労仇者︒
るに当つて代償を払う要なしと︒﹂ は立ちどまるや︑こういつている︑﹁資本家は地代を払う要なし︑すなわち資本家は︑占有されたる天然力を使用す
﹁小作人はすべて地代を払い︑その他の生産階級も多くは地代を払う︒しかし︑
今やすでに明らかなるが如く︑およそ地代を払う耕作者は︑その支払の代償として︑無地代の土地よりも遥かにす
ぐれたる生産要具︹土地︺
も大である﹂︒ あ
ろう
︒
を得る︒生産要具︹土地︺の優秀なる保ど︑
一 九
とこ
ろで
︑
かかる資本主義的借地農制の前に︑ミル
﹁この土地の必要とする費用は︑他の土地または資本をして地代を出さしめ︑以て費用を同等にす
るものである︒地代を払う者はすべて︑それだけ余分に利益を得︑地代の出費を埋め合わす︒地代︹賃貸料︺を払
う人も︑地代︹賃貸料︺を払わず能率劣れる生産要具に頼る人も︑その地位相同じく︑地代を払えばとてその地位
悪くなることはないのである」
(I
客d•
B o o k 2 ,
Ch ap te r
2 , P P . 4 2 3
ー
4 .
戸田
訳﹁
原理
﹂二
︑三
九0
ーニ
頁︶
︒
ジェ
・エ
ス・
し︑
ルの
農業
問題
︵東
井︶
有には、地主‘•小作の敵対関係がないからである。
これに向かつて支払わるる賃貸料︹地代︺ このことはすでに明らかになった︒このような地