――目次――
1,
禅の社会心理学的考察,黒田亮,Ryō KURODA,pp.1-16.
2,
支那正史における仏教叙述の態度について,高雄義堅,Giken TAKAO,pp.17-28.
3,
宗教伝播における地理的制約,キリスト教を中心として観たる,稲垣了俊,Ryōshun INAGAKI,pp.29-53.
4,
マックス・ウェーバー『プロテスタント倫理と資本主義』批判,高谷道男,Michio TAKAYA,pp.54-66.
5,
『マハーブハーラタ』中の(五)唯の語について,池田澄達,Chōtatsu IKEDA,pp.67-70.
6,
明治仏教雑誌発達史,上坂倉次,Kuraji UESAKA,pp.71-88.
7,
ドイツ宗教社会学の発展(下),小口偉一,Iichi OGUCHI,pp.89-98.
8,
宇井博士著『摂大乗論研究』,坂本幸男,Yukio SAKAMOTO,pp.99-110.
9,
高山寺法鼓台所蔵宋版章疏大観,附,写本及欠本,常盤大定,Daizyō TOKIWA,pp.111-146.
10,
宗教心理学の問題,上野隆誠,Ryūzyō UENO,pp.147-148.
11,
新刊紹介,pp.148-160.
Posted in 1935
(昭和10)年
ゝh 輝の赦曾心理単相考察
−∴、.㍉いJ −▲‖一方▼−は何であるか、桝謂如来芸碍看笹森讐関係如何等の間讐挙例警重要
−リー一−1ざごit一t﹁−1−−1一1− な課題であると共に、心理畢的に見ても興味ある封象たるた失はたい︹随つて哺一般ふ〆一心理畢の﹂皿喝から考察し、 所謂輯とは如何なる心理内容む待ったものであるかを、文献的に、或は直接渾恰に就いて、若くは質問紙痙等に 依って、輝関脇に踊すろ回答を求め、之等を黎理した結果から立論した碓の心理畢的研究は、従来として絶無で は無く、用常に敦夫された。併し乍ら、此の種の研究にたづさはる心理単著は、たとひ深い同情と強い興味とを 懐いてゐるとは云へ、自分白身輯の閥翰者で無く、随つて語録の如き文献を通して、或は樺遺著の同答に就いて 之が虞意を把捉することの容易でない禿めに、結局末縮約枝葉的若くは常識的な解繹に終り、心理畢的に究明さ れた部分の、殆ど見川し得ないものが多い。之は言詮を絶すと栴される醒を言詮を介して味得しょうとする矛眉 から来る止むを得ない事情に基くとは云へ、撃問研究の上から見て、極めて遺憾のことゝ云はぬばならない。 尤も、調って考へるに、理論的には矛盾は濁り外部、いら滞の何たるかを研究しょうとする場合に見出されるば かりで無く、碓町内部にも似たやうユ■仏弁巧いあり、時1こし∵其の矛栢たるに嘉がつかぬこともあらうし、又気が っいても之を矛盾として解すべからぎる研に、繹の滞たろ眞論目があるとするが如き傾向も見受けられる。致に 繹の祀昏心理革的考察 田 _ h ざ4J二
滞の批曾心理準的考案 繹の理解者を以て任する畢者と、純理的立場と関守しょうとする聾者、例へば千田篤胤の如き人々−との問に超ゆ べからざる間隙の作られる原因が横はる。篤胤の排彿思想の棋抵には、故意に俳数を排諾して、白ら奉する畢詮 の優越する桝⊥以を、間接に謬明せんとする不純が潜んでゐるこLは革質であるが、併し縛の超論理的、悪く云へ ば筋の立たない非論理的態度に業を煮やしたことも、大に興って力がある。そして鴨胤が痛感した不満はそのま ゝ現代の教葦ある人士に共通した不満であることは、見逃すことの〓釆ない事案であつて、相通者の以て他山の 石とすべき鮎であらうと忠ふ。 渾は仰教の一部門として、更に汎く宗教畢の立場から、研究されるべきであらうが、之む或る特殊の謂験と解 する限りに於て、心琴畢の封豪たることは論を要しない研である。而して心理畢的研究の封象として考へる時、若 し前述の如く輔が絶封に言詮を絶するものであるとしたならば、之た如何にして考察の材料として入れるか。而 も偶モ取り入れられた材料が、醒の形骸に過ぎない言詮であったとしたら、意味の強いことにたる。併し、師家が 畢人を接するに蕾って、等しノ\言詮む籍り、玉多の語録と雉も、亦言詮以上の何物でも無いとしたら、此の言詮 が別に或る何物かを帯同するもので無けれはならない。大慧に依って焚か、れた碧成果が、今日佃宗門第ナの苔と して、金料王侯となつてゐることは、皮肉であり、矛盾であるけれど、少くとも外来者は郁円から参入すること は出来ないので、結局言語てふ門を経由することの必要なるは、之のみに依つても知らるべく、且つ嘗曖言詮た くしては、恐らく施す術も無きに至るであらう。此の意味に於て、言語を介して其の輿に潜むものを、心理畢的 に探知せんとすることは、是認される箸であるが、併し斯かる手続を経て取り出されたものは、非常にしば′1 ふ㍑碑遺著の考へる桝と背馳すると云ふ理由を以て、彼等に依つて疎外され、無税され、又は排撃される。之は畢発
言詮に封する態度に於て、心理単著と渾遺著との問に、一致しないものがあるからである。
斯かる事情から.白身渾遺者たらざる心理嬰者は、渾の玄閥妄うは辿りつくことが出来ても、その堂奥に立入 ることは許︶上れないと考へられ、又恨りに自ら渾を親し′、閻験したにしても、心理的言詮た籍りて、之を倍へ一〇ことが出来ないと云ふことが事貰であつたならば、心理畢的斧或は碓に向つて全く無力でるとして、之を断念し
なければならないであらう。
私は此の問題に封して、決定的な断定を下す資格は無い。それは碓に関しては全くの門外漢であるからである。
只併し醒の何たるかを知らたいにも係らす、之に大なる関心と興味とを有し、膵の専門家からは、異端邪道若く
は誤解と目されるかも知れたいが、自ら解梓した膵は兎に角一膳は桝持してゐろつもりである。そして此の私の
立場から、又私の見る研から、従来車者に依って餞り注意されなかつたと思はるれ方面に就いて卑見た叙べ、識
者の高教を仰ぎたいと考へる。
繹は、歴史的には、貰山に於ける精舎の描華微笑に瑞を著し、直指笹悼の正法眼蔵王して、菩提達磨に依って
支那に将来され、帥査雨情して支那に於て大成された仰数の一流派である。勿論研低とする経典が無い謹でちな
いが、要するに辟尊の長い年月に亘る説法申の膵指的一断片で、而も侍誼的劇的色彩わ濃厚なる指華微笑から展
開された教士あるだけ、北ハの革瑚から、眈に幾多の特色ある数相として成長すろものを、未然に包撤して居たも
のである。而して輌変相承のmに、漸次北ハの教理が精錬されて行く一方に、自ら遺に封すろ態度、遺を芭践する 繹の祉′甘心珊揮﹁㈹考嘉 &柑方法に異説が過少︰同じ渾の内にも、行せ方を異にする幾つかの流派が生じた。縛の種子であつた祐筆裸笑その ものが、如何やうにも解樺される一種の謎のやうたものであるのに、此の種子から成長した花が、代を重ぬるに つれて攣種を生じ、文化の種子との交配に依って、益モ把捉し難い形式の花が作り朗されたのであるから、特に 門外漢に向つて一骨その理解を困難ならしめた事情もある。桝で梁末から唐宋にかけて、叢林の隆昌と共に、若 林に依つて衣食する所謂雲水恰の大きな社命骨が出来、共の問に此の骨に特有な生活形式が生じ、此の生活形式 が更に彼等の精神生活を支配するやうにたつて、端脱すべからざる攣一√﹂のものに、移しく形式的要素が加味され、 之に依って或る方向に向つて固定する傾向を促すに至った。斯くて、醒は箪たる個人的餞験として終止すること が出釆たくなり、祀倉心理嬰的性質を多分に弔するものとなつた。而して此の方面は、哺を心理畢的に研究しょ うと志す単著によつて今迄殆ど拝意されなかつた研であるが、同様に又哺畢思想の欒遷を諭する仰教史家によつ ても多く看却されて釆たのである。 師弟の相承は、一器に移すが如しと形容されてゐる。此の比喩の中には、盛る器は授受の鹿毎に興っても、盛 られる水は菩提達磨より、更に遡って砧華微笑の滞貨より以来の箪侍で、攣化なきことが、暗黙の間に認められ て居る。そして此の箪倍の水を受け畠に佑する器なりと認定する場合に、初めて師が弟子に之を侍へることにな る。我が国に古釆歌道及び武道の相俸に、之と似た事寛があるが、恐らく直接若くは間接に之に倣ったものであ 問此の相俸だけで悪く、貫地の修行に就いて見るも、哺道と武道とには、色々の共通した性質が窺はれる らう。 のであつて、畢倍が諸国を行脚して、善知識に数社仰ぎ、大事を拳揚して、菩提を許せんとしたのは、武士の武 繹の社食心理奉納考察 四 ㌫ほ
者修業と其の形式及び内容に於て、酷似してゐる。若し夫れ、六組薯能が衣鉢を五組に受ける際して、紳秀一次
の迫害を慮り、身を以て危機を晩するに、師弟共に並々ならぬ苦心をしたせつばつまつを場面を考へるに及んで
は、心琴盲ろに塞きを覚え、之が果して俳教たりやを疑って見たくなるが、之を武道に移せば、所謂大衆的興
味を唆るに充分なるH釆事であつた。倦へるものも、侍へられるものも、同一の水と考へ、又其の本質に於て、事葦同一であつたにしても、其の水
は元来種々雑多の用に供せ仁るべき原理であるっ原理が茸践と結びつく蹄、換言すれば葦践的角度から眺められ
る場合に、角度の異ろ焉めに、原理が迂つ・㌔姿に於て把握されることが、しばくある。同じ五組の門下に、慧
能ケ紳秀との封立を見るに至ったのも、不思議で無い。殊に多数の畢恰の雲来する繹林に於ては、寧ろ然うなる
のが自然であるとも謂へよう。斯くわ如くにして、一方に膵が益、、精彩を加へるL完ハに、其の内容が多角的多義的となるのは、止むを得ないのであつて、彼の看詩獣照の両適わ、箪なる方法論上の宮別に過ぎないものとして、
片附けようとしても、方法を離れて修揃の工夫なき所以む、飽くまでも主張するとしたならば、祥一般と云ふが
如きものは、老へられないことになる。故に杢碑が祀分心理学的理念と深い交渉を持つ一両がある。
私は上に、叢林を武士階級に繹を武道に封照させた。渾はまた、支部に於ても日本にあつても似セやうな事情
にあるが、一般的排彿傾向の中に、或は戦乱ハ渦中にあつて、特異の布衣として、其の命脈傍流を維持すること
が出奔た禿めに、革間の粧謹に大に貢献する結果を来した。即ち塁間に志ある俊彗が、相率ゐて志を醒林に遂げ
る風潮モ促したのであろ。特に我閥た於ては、長い晴代に亘って、民間で畢閃をするには、寺院就中碩院主疏㌫
繹の配脅心理輿的考察 五 ざよう 帆、1 ﹁、表六
躍の軋扇心理拳的考察 て外に無かつた。そして醒恰の生活は、一般に簡易素質芝目としたので、戦雲滞言■不安な世の中にあつても、経 済的にさまでの急迫を感することなしに、研志に向つて専念することを得た。斯′\て醒嬰の興隆と共に、各地の 輯院は天下の英才を抱擁する道場となり、其の間に自ら相互の切瑳琢磨も、劉烈なる競寄も行はれ、た。 然るに、一般祀脅から隔離されつ1、而も祀脅的に隠然たる勢力を有する特殊祀骨相に、兎角起り勝ちな弊啓 は、因習や博統の不覚なる跳梁である。殊に師資相承たやかましく云ふ輔林では、知らすく形式の末に走って 大分の大事を忘れる傾きがあつた。之は一つは、碓が不立文字に立脚し、其の究蒐目的が所詮表現の巧拙適否は 兎に角として、暗黙の問に譲定されてゐたことも、大に原因してゐる。即ち普通に公案と呼ばれるものに於て見 るが如く、例へば組師西木軍俳、俳港大意、産前栢梯子、越州狗チのやうた型に山耽った課題に就いて、各自自ら 貴明する研あらんことを期するのであるが、或は之は頓悟を生命とする渾数には雷然のことかも知れない。即ち 之等の公案は、畢寛大事を許する経であり/、悟入の馬めの一開門に過ぎないと云つて仕舞へばそれ迄であるが、 併し門外漢たる私共からすると、何故悟入には、常に斯かる悼統的な、御座なりな、極言すれば、陳套な門より するの必要があるだらうか。特定の怖が特定の門より悟入したから、前に来るものも亦この特定の門よりしなけ ればならない理鱒は、たいやうに思はれる。尤ち碧巌集や従容鉄に夫々百則あり、無門閥に閏十八則が掲げられ、 共教壇て勘しとしないけれど、何も之等に拘泥するを要しない筈である。願ふに、之等の公案なるものが生れる に至ったのは、哺林に遊ぶ畢檜漸く多きむ加へ、師家が一々仰人的に指導することが‖来たくなつた結灘と見る ぺく、夫々の嬰檜に、時機に適する問題む促へてエ夫せしめる燐に碑へない薦めに、古来大穂内澄の機縁となつ 瑚 £】▲たものを集成し、大量教育用の教科書として出来たものが、右に拳げた如き典籍であつて、爾来夫等に盛られた 47 ︹ハ
四十則乃至百別の若干が、随時公案として利用されるに至ったものであらう。然るべき、叉尤もらしい理窟は色
々とつけられるであらうが、試みに縛畢の歴兜の上から比校的初期の醒苔である六組法貨埠経や、侍心法要や、
又は臨臍鋒と後期の著作である無門閥や、碧巌集とを比較鮎検したならば、容易に後者が著しく教科書式のもの
であることに、束が附くであらう。葱に於てか、渾畢の隆昌は一面に教育の形式化を醸成し、一定の形式さへ具
足すれば、能事経れり■としない迄も夫れ以上立入る必要はないとする傾向を、招致したことがわかる。そして教
育者の側に於ける此の放任主義も、濯が寛容茸究を経とし、冷煤目知を緯とするものであるとの口茸に依って、
問題とされないのであるが、如何に項数であるからとて、教育的に見れば明かに昭落である。
此のmの消息は、吾々をしてギリシャわソフィスト時代ふ忙聯想せぎるを得ざらしめるものがある。ソフィスト時代は、二百にして墓せば、議論の焉めの議論の盛んに行はれた時代であるが、五豪七宗の互に入り乱れて、百
花繚乱たりし醒の全盛藤代は寧ろ却って本を忘れて末の幻影を迫ふに念であつた観がある。私は、何故に確宗に
は復古主義が勇敢に唱道されたかつたかを、不思議に思ふわであるが、それは兎に角として、我国に輸入された
滞も、尊貴震且の模克以上に出ることが出来なかつた。
我国の闊民性として、特に畢間の方面に於て、先進閻を食崇し、ひたすら及ばぎらんことを之れ恐れる謙譲心
は大に掬すべき瓢ではあるが、畢び得たものた岨囁して、血となし、肉となし更に向上の一歩た進める意菊に於
て、快けた塵があるのは惜むべき短研である。儒教既に然り、仰数就中醒望も亦然りと、遺憾乍ら云はぎるモ得
縄の旺脅心理畢的考察 七碍の祀倉心理畢的考察
八
ない。特に最も憫笑に堪へないのは、支部に於て礎遺著が慣用した俗語を、要なき研に好んで使用することであ る。従来我国人に親まれた漢文に比佼すると、醒苔の多くは、中層から宋末に行はれた支那の俗語で綴られたも のであるだけ、頗る勝手が達ふのは固よりであるが、若し眞に醒を味得した着であつたならば、輔書を績み又は 之を講する場合は止むモ得ないとしても、特に民衆を相手の説法にまで、殊更互に視みのたい、障って不可解な 支部の俗語を得意げに振廻す必要が何虎にあるであらうか。此の弊風は恐らく輔が抽入された最初から、昭和の 今日に至るまで、連綿として礪承され、それで無くてさへ掴みにくい繹は、愈三空\歪められ、斯くて群の眞髄 を一般世人に誤解させ丹こと、決して僅少で無かつた。 彿を呵し組を罵り、喝俸を加へて而も老婆親切なる所以は、支那碑林の茸際を能′\知るでなければ、含得出来 ないことであるのに、民衆が倉得出来ないことを以て、直ちに寛容茸究をしないからだと、きめつけて仕舞ふ。 明治以後に於て、碓の民衆化を目標として公にされた移しい数の碓学閥係の苔は、井上秀天氏著作の如き少数の 例を外にしては、一として此の亜流た、わぎるは無い。荒怠亦極まれりと謂ふべきである。 牌書の大部分は、前にも云つたやうに、支那の碑林と云ふ特殊の絶命厚真且で﹂して、共起に起臥して渾に参 する畢恰に、都合の宜いやうに編纂された教科書である。碓が我国に侍来された最初には、愕宜上此の種の教科 書を流用するのは差支純州いが、生活還境が違ひ、国民思想を現にする以上、恨令潤林そのものは支那の模倣であ っても、漸次園情にふさわしい教科書も生れ解説も公にされて然るべきであろのに、その工夫が足りなかつた。 却って取るに足らない俗語に、見富違ひの重き意味を寓せしめる如き愚を敢てし、不立文字の埼内にあつて、文 β4ざ字の橿楷から離脱することが出来なかつた。吾々は其の代表的な例を、数多くの所謂慣名法語に於て見出すので
ぁる。仮名漢語は、形式に於ても内容に於ても、明治以後の碓書の正しき先駆者であり、手本であつた。
恨名法語の大多数は、老幼婦女子の焉めに書かれた醒の通俗筈と云はれてゐるが、其の内容は、漢文の一般群
書と甚だしく趣を異にす恵ものが、大部分を占めてゐる。即ち其の多くは、人生無常朝露の如きを世人は知らず
何時迄も自分の生命が続くものと思払込んで、臨終に封する用意を忘れ、果敢なき浮世の夢を追ふ愚を、戒める
形式になつてゐるのが普通で、碓家の手に成ってものでありながら、極柴往生を勧める浄土眞宗の説教の慣裁を
成すものが少くない。併し、通俗俳書として見る時は斯くの如きは寧ろ却って徹底してゐる。只説く人の立場た
る輔と之が如何に交渉するかが、明かにされてゐないだけである。然るに、輯味をむき出しに表に出さうとした
恨名法語に至っては明治以後にH版された白稲高倍達の輯富岡様、語録の直諾で、而も盛るに俗人には丸で不可解な暦宋時代の俗語を以てし、讃者を威挺し、又は煙に巻かうとするハ井上秀夫氏は痛烈に近代の碓苦に封して
辛辣な批評を下して居るが、併し夫等の手本は昔の恨名法語に夙く眈に見出されるのである。此の類の恨名港語
を手にする毎に、私は倍屈整牙にして誤諾だらけで到底卒讃するに堪へない絹代の悪覇講書を思ひ糾す。
吾々俗人が滞を考へる場合、何とはなしに一種の鷹迫を感する。礪恰と聞げば、如何にも激しい語気を想復す
る。碓書を播けば剥匁上を屈むの思ひがあろ。切掩御免の世の中に抜刀した酔彿ひ武士にH逢ったら、斯うちあらうかと思はれる束持が、醒と名がつくものに感じられる。それは畢境滞遺者が、叡林以外に於て、場所柄を舞
へすに無間に閥刀を娠適すからであらう。 膵の祀せ心理塑的考.数 九 g4∂ 豪膵の批曾心理塑的考察 一〇 輝に附帯する激しい高幡的な語気は、造林生活の産物である。叢林は修絹の道場であることは無論であるが、 同時に文武遣わ道場同株に、主客白匁の間に相見ゆる角逐輿場でもあつた。共庭では何時乗込まぬとも知れぬ道 場破りに封して、備へる用意が必要であつたに遥ひない。畢人の講益は亦しば′\師に封する挑戦でもあつ丹
。
彼の醒創一致論は斯かる事情から考へてみると、一段の興味を憩える。喧嘩をする時、自然にべらんめい口調に なるやうに、確聞容に常時の俗語が思はす知らず口を突いて出るのは、無理も他州いことである。但し異国に通用 しない俗語を振廻すのは、意味が嫌い。而も俗語たるを知ら、ず、之を有難がるに至っては、沙汰の限りと云はな ければならない。 上釆繹託したやうに、醒は所謂数外別俸で、明確に之を諾すべき経典なく、一片の俸誼に過ぎないと考へられ る繹奪の精華微笑に其の端を牽し、菩提達磨に依って、直指箪俸の一種の抑違として誕生し、之が碓林と云ふ特 殊の祀含暦に培はれる聞に、一・足の形態が作り上げらる一方に、漸次分岐の径路を追って行き、其の内容に於て も、同一の範疇の中に包括することを得ない方向に、襲展するに至ったことが推知される。禅師醒と如釆碓、看 話輯と獣照輔の封立を勧め、五宏七宗の分派は、この間の滑息を物語るものであつて、等しく醒と稲するも、其 の眼目とする桝、自ら興らざるを得ないものがあらう。併し一面には、輔が全餞として簡徐の俳教各完に封して、 特色ある襲達む速げるやうになつたに就いては、諜林組織が之に大なる役割を演じてゐる意味に於て、特に之を 祀倉心理畢的立場から考察することハ必要が感じられる所以に関して、卿か説く桝があつた。併し乍ら、それは 要するに渾の形式的方面に関するものであつて、耐とは何ぞやの如き根本的な内容に慣れる薦めには、何かたり ざ占0の距離があることは確かである。只形式的方面の考察は、内容を示唆する上に於て、重要な條件たることを忘れ
てはならたい。
滞は脚叫なる抑=理ではなく、茸伐と深い関係に立つことは、何人も認める桝であるが、此の茸践を直ちに所謂坐醒と結びつけ、坐礎離葦踵と解する人が多い。茸重賞究を打坐の意味に用ゐて、ひたすらに坐輔を在家に勧める
輝檜がある。勿論打坐も茸践の一つであり、殊に初畢輯に人るの門は、坐滞以外に無いといふかも知れぬ。併し
醒に於ける最も大なる、そして最も特色ある貰践は、碓院の生活そのものである。尤も此の碓院生活の中には、
生鮮も含まれるのみたらす、恐らく之が食も重きを成すものであらうが、私の云ひたいのは、寧ろ之た除いた部
分で、而ち比較的重きを置かれてゐない毎口の雑務に、見机さるべき碓昧である。百丈清規や永乎清規の如きを
掃く時、細密に規定された行事の寧ろ焼璃に過ぎざるかと思はせるものがあるが、私は却って此塵に眞の仰の生
命が、托されてゐるのでは無からうかと考へる。行住坐臥の一撃手一投足に碓横を感得するに至らない以上は、
葦千の打坐も、何の功徳にもならない筈である。所で私に取って不可解たるは、一座の功にょつてすら、積みし
無量の罪が亡ぶと迄に坐碓を讃歌し、之を在家に拗諭する醒家が、何故在家清規を制定して、弘く之を行はしめ
なかつたかと云ふことである。滞家に清規があるやうに、在家にも在家に相磨する清規があつて然るべきであら
ぅ。そして苦し百丈滞肺や道元滞師が遺の茸践に向つて示した不遇樽の護菩提心を、在家の済度に向けることに
思ひ至ったならば、何等かの形式の在家清規が出来たに違ひない。而もそれが一般に弘通されたとしたら、革な
る坐滞の昔.悼や内零懲弱な一2惧名法語に健三ご﹂と、ごれ程であつたであらう。滞恰は在家に向つて謂ふ。日く、 繹の軒曾心翠畢的考察 一一 ざ∂J縄の敢曾心理畢的考察
一二
日常の坐作進退凡て醒を記する緑たらざるは無し。只之は久重の上土のみ能くするのであつて、初聾者碓に入ら
んが馬めには、普拗坐韓儀の教へる桝に従って、型の如く端坐し、綿矯なる修行を重ねなければならないと。道
に入るに一定の形式に依るの必要あることは云ふ迄も無いけれど、私の信する閉を以てすれば、徒らに形式に泥
んで、在家の俗人に打坐をのみ説くのは、間違ってゐる。百丈清規や永平清規が醒家日常の醒院生活に炊くべか
らぎるものであつても、これがそのまゝ在家に行はれ得ないものであることを熟知する醒家が、在家に向つて、
自家猫特の修滞形式たる坐輔を、そのま1強要するのは、濃劣な考方である。借りに此の形式に依る以外に、途が無いとしても、韓家と在家とは一般に日常生活が甚だしく懸け離れて居ることは事茸であるから、事情に應じ
て、適宜の取結を講することも亦止むを得ないと思ふのに、古来此の事が殆ど考慮されてゐない。精神的に醒を
弘通させると云ふことは、在家を馨げて、碑院の如ぐ抹香臭くさせることでは無い。尊貴因襲と形式とに囚はれ
て、眞精神を没却し、臨機應欒の廃置に出ることが出来たくなつた篤めであつて、故にも祀昏心理畢に取て見逃
すべからぎる材料が横ってゐる。呵彿罵組に碓の眞髄を道破する迄の飛躍を途げた補流が、大乗の眞精神たる民
衆教化に向っては全く艇女の如く、志あるもわを引接することが出来ない許りか、却って碓を誤解させ、之に封
して一種の反感をさへ抱かしめるに至ったのは、極めて遺憾なことであると云はなければならない。
徳川時代にあれ程幕府の庇護を受けた漢挙が、其の精華忙聾揮する鮎にかけては、漸くあの程度に止るのであ
って見れば、況して雷局から闇みられなかつた彿教卓牒に今日の草々が多きを期待するのは、或は酷に失するか
も知れないが∵襟川時代は勿論殊に明治に入って、文数の陸自㌃−見ろに至った後と靴も、彿数一般と同様、輯も ぶ占g亦昔時の如き畢問的に蔑まれた状態に、置かれてゐなかつた。それは、滞院が最早や文教の府では無くなつて、
狭義の絹畢の退場去ふに止まり、而豊ハの多くは、道場とは名ばかりで、茸は住職が三莞小檜を擁して居
住するに過ぎた完警あつて、繹堂の設備さへ無い醍寺が多警占め、而良衆教化完敗は、数理高速性耳
に入り難いためか殆ど試みるものなく、只這寺院同様に、葬偶に立合ふ±とが主なる撒務となつて仕舞つた。斯かる祉倉的情勢は自然有莞青年真心きつ竺魅力た失ひ、輯院は萎警﹂して振はず、院つて狂欄孟倒に何
らす′傑恰も遽に生れること無くして、今日に至った∪輯風大に興らぎるは、滞界に其の人驚こ﹂とが、興って多
きに居ることは確である。樺花一朝の夢に過ぎない一時的の涜行に、硯を抜かしてはい望仏い。
斯く一ごへばとて、時勢に迎合し俗衆に秋波を送ることが、策の得たるを説かうとするのでは無い。却って、世
外に超越し高所にあつて連偶する麿に、碓の撃たる桝以があるかも知れないっ只併し、従来の傾向からすると、
それが塵モ無焉撫究を舛諾する口茸として、利用されたかの嫌ひがある。猫善が小乗の域を脱し得ないことは、
沸教の数へる通説であス完進んで大乗を行ぜん焉わには、白2の北‖負つてゐる小さい穀を項娘にかなぐり捨て1 桝謂大空番することに依って、自2左⊥かし、兼ねて衆生を救ふの途に出誇ればならない。それには時勢の 動きを察し、深く民衆の心の異に喰ひ入る覚悟を必苧Lする∪苧\衿持すると共に、足が地に着かぬばならぬ。方便として見れば、全然意味の焉いことでも無か、旨が、民衆を蛭に措きつ放しで、能事経れりとする態度は、
先づ以て改むべき緊急事であると思ふ。
塵が、一方に、野蒜謹す孟嘉は謂つて日く、世俗の考方が三段論方式言るのに対して、輯は一段論法式
絹の批身心粗壁的考案 一三 ヾ占3 ∵一繹の融脅心理畢的考察 一四 であるから、按引の法も亦自ら興らぎるを得ないと。又謂ふ、描は相封偶に封すろ紀封観であり、修滞の方法は 此の性質に制約された最も合理的なものであつて、之を合理と認めるのは、相封俄に囚はれた人の考方であると。 此の種の立論には、確かに一面の眞理が含まれてゐる。併し、苛もさう云ふ考方に不案内な一般民衆を相子とす る場合には、少くとも一段論法若く缶封侃に沌弄る、然るべき門を設けてやろ親切が、あつても宜いと思ふ。滞 家の方では、其の親切は充分持ち人口せてゐると稲しては居るが、民衆に通じない親切では、仕方が純⋮い。そして 何は兎もあれ坐れと云はれる。何回坐ったら、悟りが聞かれるかと尋ぬると、宗組達磨は面壁九年、二組慧可は 腎まで断つてゐるではないか。さう容易に悟りが閃けてた・慧るものかと叫られる。而も之が老婆親切たる詳操だ とある。屋面目なのか戯談たのか、見骨川がつかないので、誰も厭気がさし、醒なるものはわからないけれど、下 らぬものだと蓬ひ考へるやうになる。すると又、重ぬてそれは信不及の故だとされる。取を1附く島も睦⋮い。 私の卑見を以てすれば衆生引接の紺門として、狭義の所謂坐膵を以てしたのは、教育的見地からは大なる失敬 である。其の理由は、帯林生活に自然に出来上った形式の中にも、特に形式的なるものを全然生活形式を異にす る民衆に、無造作と押し附けんとした事である。即ち衰礎の充分に築かれてゐたい研へ、輪簸たる殿堂を押建て んとする研に、無理があゃ。音せ清規等に準接した滞院生活た背景とし、共起に培はれた敬虚・なる信仰と、燃ゆ るが如き求道の念た素地としてこそ、初めて坐膵が生三﹂来島。則るべ浄在家清規の必要す、h気附かれなかつた 程であるから、無理も雄㌫ことではあるけれど、完祀入機の大雅を翳して、りきたり昆衆に薄むが如きは、誠に 本来を鮎倒した拳持であると思ふ。 .4 ■トJ £ソ テー事菱臣
札は﹂生家の宗旨が精華示であろことを、幼時から聞かされ、そして臨臍宗が輯完の一派であることを教へら
れた以外に、哺に就いては、只死者を葬るに際して、住職が大喝二軍すること以外に、何等知る研無く成長した
近時綿に興味を感じ、滞に関する諸富を渉猟したが、井上秀夫氏の﹁他州門閥の新研究﹂及び﹁碧炭錬新講話﹂以
外に、現代人に依って正しく理解され得る繹の解説者は殆ど無く、何れも羊頭を精げて狗肉を烹るの類産らぎる
は無きに驚くと共に、生家が滞完であり乍ら、輯の何たるかを知らすに過したのは、決して故なきに非ぎること
を知った。而ち井上氏の新研究が、自栴正統準で以て任する滞の東門豪又は膵僧から、異端として、或は滞む口
にする賛烙すらたき者として、取扱はれてゐると把けば、憶亦何をか云はんやの感がある。異端かどうかは知ら
ないが、井上氏の所詮は、少くtも請来をして甘骨せしめるものを持つてゐる。自分にも解らぬことを、臆面も たく述べ立て1之が解らたいでは話せたいと云ふが如き、馬脚㌔エ蹄はす愚劣さは微睡も毎⋮い。此の意味に於て、井上氏の研究は最も隼軍せらるべきものであらう。
兎に角、滞は其の歴史に於て、又其の生育した環境に於て、兎角常規を逸し易き要因を、多分に持つてゐたこ
とは事茸であり、そして歪められた祀の理仰から挙0弊害は、多くの宗教に免れることの出来ない迷信と同校に恐るべき雫毒を祀倉に流して来た。少くとも、碑を以て正気の沙汰ではないと一部の人十に考へさせただけでも、
之は滞家の負\ヤへき常然乃不覚であつたと考へギるモ得たい。勿論曜は滞日己の中に、或は滞咤と云ふ背景を通して、濁白に考へらるベキ一モ有すろに違ひたい。換言すれば、れ完封接とは切離して、考究さろべき領域がある
わで苧h■りし、綾なき衆仕︰を一々相手にする必要もなかろべく、自らの▲治山一三何に準ぎ﹂とも無意味では無いか 軒の融悪心珊塑的考察 ざJ∂潤の酢倉心理塑的考嘉
一六
も知れない。只併し、他方に求道の在家がある場合に、自己の踏んで釆た途以外に、示すべき何物も無く、而も
其の示されたものが、示される者に取つて、全く不可解である時、其の不可解なりとするを一途に青めろだけで
他に施す術が無いと云ふことはどうであらうか。固より手を執つて導くだけが、教化でないことはわかつて居る
けれども、繹寛が既に衆生の磯に艦じて、法㌢一語く良い模範た示してゐるのに、求淡紫の磯の如何に頓着なく、
塑に山吹った佼ひ古しの公案む以て、一様に律し、夫れ以上は技手傍観するだけで、見込が無かつたら緑なき衆生
として拾て1顧みなふのは、正しく脾怠である。勿論そのつちりだと云ふ細宏は他州いであらうが、参躍にせよ、 滞書にせよ、貰際はそれ⊥1上にHたいのが通例である。修碓は、斯かる樽続的方法に描る以外に、兼して眞に別途無きものであろかを、改めて考へ直して見る必要は無いであらうか。
侍統に給て難い砂越のあとことは言ふ迄ち佃⋮く、殊にリーイ一れが長い歴史左右すれば有する程、一骨之が切琵に感
じられ、且つ底知らぬ力を以て迫つて来ぁことは確かであろが、同時に共起にも沈滞と筍小ぞ﹂の潜入する危険が
あることを忘れてはならなりJ吾々が膵の歴史を同相すろ場にも、特に此の感が深い。悼統にょつて、一骨精錬されて行つた部分と認められると共に、常然行はれなければならない尿閃や坤同が葦現されない篤めに、障流に
毘き去りに苧ルるに至った形跡が雉⋮いでち無い。而して棒杭は沌倉心理嬰の重要なる課題の一つであり、之と並
んで、矢脹Ⅴ元ハの研究封象として取扱はるべきものが、滞に閥しても斯くない。本論文は、例として北ハの一二に
就いて識者の︰任意を喚起するに止つたに過ぎないが、此の万両か、ト壁で研究することに依って、滞に関する全く
新しい解群が、生れて来る時期があるかも知れないと思ふ。
ぶ占/7支那正史に於ける沸教叙述の態度に放て
高
雄 義 堅
隅書経符志が繹史子集の最後に側道二敢慧畔血ハモ糾せる理由として、是等の二数は方外の数であり、迂怪恨託
宝臼なるが故に、と云ふを以てしてをりノ、又閏庫提要巻二国元に﹁一史は外教の苧土心す′に柚ぼ梗概を存して必ず
しも全きを求めす﹂と論じてをるが如く、支那の歴史家の問には最初から仰数は方外教であり、又外囲数である
とわ先入観念に騙られてこれを別放とし、歴史に記載サきる方針を探って来てをる。されど沸教俸来以後畠の勢
力頓に隆昌に赴き、彿教を全く度外成してはその時代の文物を鼓する鮨はぎるの情毎に立ち至るや、正史を始め
絵他の史類の多くは幾分り沸教に関する叙述左読るの止むなきにγヨたし人﹁︸北川ハの行へる沸教薮述の難産に就て考察するであら三っ。
二十岬奥の申で持氏の悼霊“けてをろもわを列撃すると次わ如くである。 仲間澄 晋書巻九五︵塾術倍︶僧 捗 同 “
鳩塵羅什 同 上曇 荘 丁
支那正史に八八L∵っ俳放叙述〃撃沈に丑て 一七 ざ∂7誠 恰 一 義 普 選 弘 紳 元 惑 乱 行 幅 波 音旨 忍 秀 英 憎特師 浮屠溺 同 上 帥夜光 支那正史は於ける彿放叙蓮の髄心庇に満て 誌 遠 南史巻七六︵隠逸悼、附陶弘景侍︶ 後魂書巻九一︵萎術侍、附脹褐侍︶ 北東雀八九︵萎術倖、附劉釜助倖︶ 同 上 ︵萎術俸、附李順興侍︶ 唐書撃一〇四︵方技侍、附祀生侍︶ 管膚書巻一九一︵方技侍、附一行俺︶ 蘭書筆一〇四︵方技悼、附弧果俸︶ 警衛巻一九一︵方枝博︶ ユ一 同 ﹂ 同 上 ︵附紳秀倍︶ 同 上 ︵同 上︶ 同 上 ︵同 上︶ 同 上 ︵同 上︶ 同 上 ︵方按悌︶ 司 ︵附一行倍︶ 背五代虹巻七一︵附許寂俸︶ β占g
〃上の表にょると、正史に於ける沙門わ侍記は本俸附偉た合して晋筈に四人、南史に一人、後魂苔一人、北兜 志 言 懐 丙 知 繚 八思巴 謄 巴 必簡約識理 楊埴眞加 重 隠 智 光 噌 慌 洪 蒐 應天寺檜 藩 欽 眞 賓 支那正史に於ける仰故叙述の悪政に放て 堅 同上 元妃巻二〇二︵繹老侍︶ 同上 ︵附八思巴倦︶ 同上 ︵同 上︶ 同上 ︵同 上︶ 明史巻二五〇︵附熊吏燦憧︶ 同上雀二九九︵方妓俸、附張正常侍︶ 同上巻三〇七︵倭倖侍︺ 同上 掴六一︵方技倍︶ 同上 四五六︵孝養俸、附董道明俸︶ 同上巻閥五二︵忠義侍、附李几侍︶ 宋史巻向五五︵忠義俸︶ 同 同 同 」二 _上 」二 ︵附洪薙倦︶ 四六二︵方技侍︶ 9Jβ
支那正弘宣於け季彿孜叙述〃態度に就て 二〇 二人、唐草一人、嘗暦苔九人、曹五代史一人、宋史八人、元史四人、明聖二人であり、而して繹老・伝倖・忠義 ・孝義諸博の如き特殊のものを除くと、柁氏侍はこれた彗術倍に収めるか、又は方技隠逸二倍中の何れかに寓せ ることを知る。 然らば順序として先づ正史に於けろ方枝隠逸及び蓼術詔侍の意義を吟味する〃要がある。正史編纂の年次より すれば三国志に始めて方妓倦を遣いたこと1なるけれども、後の方技侍の基礎をなすものは後撲書の方術侍であ る。後漢書方術俸の上巻に収まれる諸侍は、要するに災典・固識・占候・占星の諸説に喝し、その下巻に於ては 養生・常術・幻術の諸事で博してをる。此の災異乃至パ星は易及び五行虫想より登生せる所謂天人の畢であつて その時代の常識で云ふ政治学イ一形成し、これ術と云ふよりも箪と云ふキ通常となす相見面目さを石し、儒畢の本 領を多分に含んでゐたと思はれるけれども、著者花描が共序論に暗示せろ如く、前漢武痛が方術を好み方士を任 用せることより次第にそり長南日さが崩れかけ、撃より術へと朗落して行って、後漢の頃には天人調和の撃とし てよりも、凝ろ一切を宿命的に説く悪い部分が助長されて行つたものである。 次に下巻の誇生腎術幻術に紺十る詔侍は、之を前者に比べると一府偶人の清澤宴欲た欲する傾向著しく、叉全 然個人ハ運命に閥心を有せる人々でl♪諭る。期の如く上巻と下巻とに於けろ人物の型が著しく趣を異にすろ所以 は、これやがて根深末よりの時勢の攣遷を維持に物語るものであつて、孔子に日立サ三倍塑の人心を指導する時 代が経た告げて、幻術撃術等を旨とする方術者が全盛を極めんとすることを意味し、史に一時代を経過すると遺 仰の徒が方技俸中に現れて来、これ遺仰二教が勢を占むる祀倉人心の攣化し行く傾向を物語るちのである、︺一問 ∫′J√)
黎生翳術幻術の類は常時の序の中にも口吻を洩せる如く、此が侍記を正史の中に入る1ことそれ白襟が矛盾であ り、正史の憫裁に叶はぬとさるゝの勢であつたものが、時代の攣化によつて方技俸の根幹となり更に遺彿二教徒 を加ふるに至ると云ふ事賓は、やがて正史が北ハ編纂昔の個性にょつて相互の聞に夫々の左右濃淡の産む虫にする ーこしても、大局上り閉る時は各時代の欒遥の跡を、可成りな正確さを以て描焉してをるものと云ふべきである。 後漢苔の逸民悼の序論によると、所謂逸民とは時勢を全く超越した人の意でたくて、白ら遺を禁しみつ1必要 に應じて国家の重任を負ふ直の人々を指してをり、此の侍巾に収められた人物には後漠初頃の人が多い。然るに 晋筈隠逸侍になると、その中に含ま云ゝ人物は多く陶淵明のやうに政治的祀合的の活動に失望して、一個人の運 命を享受せんとする型に威し、此の晋苔の隠逸侍は後漢諾の逸民倍に照苑を倣ひながら、その精神は寧ろ後漢書 の方術偉から探る研があつたもの1やうで、両者の上に刑て来る人物の問に、全く世の中を度外親してをる郡に 於て彷彿たる類型を見出すのである。此の後漢苔〃逸民伸と晋苔のは逸侍との距りは、これ亦前述せる如き時代 の嘩蓬を物語るもので、士人り政治に対する興味が次第に内面的となり偶人的となつて発たことを考へさせ、こ れかり已後の隠逸倍は概して晋苔と同株の意味社有してをる。 成術倖わ名稲は晋苔に始めて見えてを云、尤もこれち編纂の年月から云ふと北轡の魂牧の著した北魂苫に已に 術萎倖があつて、そっ前序は簡略ながら明に術苅て﹂は暦数卜箕占候の題た蕗すと云つて¥Q。晋苔の塑術俸の前 序は北魂菖に比べ一?﹂堂々たるもわであるが、要するにそ〃内容は司蟻子長の亀策停ヤ漢武市の一両佃方士の流を 汲める識術†㌣りし∵、兼は怪力乳紳の末に至ろ迄、衆術諾彗に通ぜろ人々を侍するの意に外たらぬから、此の彗 支那正史∴予廿↓㌧価数叙述C態度に丑て 二一 ざβJ
支那正史に於ける価故叙述の態度に就て こ二 術俸は後漢書竺二圃烹あ方術ガ故に相苦り、而もその説す研一啓多合で、養生欝術幻術識術よりして騙役鬼面や 趨災む法術迄も含ますこと1なしてむる。然れば聾術借方妓俸は畢克名目の相異に過ぎす、従つて正史に於ける 恰俸は結局隈準か方技萎術か此等二停〃車に設けられてをるもので、人′試に晋書垂術侍を検すると、俳間澄・鳩 摩誰什の二人が伶従の代表的な博記である。例数側の記録例へば梁高僻俸の如きは、前者を紳異科後者を語群科 ︵註一︶ に侍して、支那に俳数の開明せるもの全く諾経の功にょり、叉輌異と・に﹁通レ感適レ化則強暴以羅﹂き所以た五と して、仲間澄の宿へる研一に被わ高風よりHでゝ以て石勒石虎の如き強暴をも感化せしめ、件数宣布の目的に叶 へるものと美化して書いてをるのに、今の晋書にありてはその諭讃に、 澄什安自避簡素遊諸宴。什眈兆見星象。澄乃謳役鬼神。並通幽洞箕。重文間数。諒見珍於道墾。非取貴於他 山︺挑石泰之若紳。艮有以也し と迷べあるが如く、羅什程の大部講究も之を正史に侍する所以のものは、彼が風を相して不仲の風としこれを好 叔あるり前兆と撃言したといふが如き鮎に存し、況んや休園詳の如きは怪力乱紳を能くする鮎に着眼し、僻教側 より認むる特徴の如きは宅も之を問題としてゐないことが分る。 叉次に試みに薯密書の方技悌を案するに玄英・紳秀・一行?三沙門た怯し、更に数名の附俸を曝せしめてを る。而して玄英の如き暦高檜侍では非常に長き俸記であるとに拘はらす、今正史ではその数分の一に過ぎない。 而もその内容を検するに晋書の羅什悼に於ける如き何等占相預言の分子を含ますして、玄英がよく除を犯して大 鹿宿に成功せることゝ一大繹謹む成し遂げたことの二項を挙げ、紳秀倦に於ても何等怪異的分子を見出さぬ、唯 封ほ
=三二; ‘て だ一行偉中には彼が玄完の間に封して答へてをる中に故黄によく通じ、所謂通人らしき風格の持主たる一面が描 かれてあるけれども、これとても晋書に於けるが如き紳攣不可思議の要素を伴ってゐない。 嘗唐菩の方技倦前序には術数パ相の法の淵源を論じて、﹁今健蓄電巳下此の術に探き者を録し乗ぬて桑門道士 の方技等を此篇に附録する﹂旨を述べてをるが、此の前序に言ふ沙門の方技とは晋菩萎術侍に於けるものと梢面 目を異にし、詩経・求法・修繕・著作等沙門として菖然畿拝すべき特長を具備せる人物を容げてをることが知ら れる。正史の垂術又は方技俸中に収まれる恰俸は結局⊥1上の二の型の中の何れかであつて、後者に在りては彿数 は外数なるが故に、其道に練達なる人物も止むをえす方枝倦中に之を寓すると云ふ詮程偏則的な趣が見え、前者 に於ては之に反し外政なるが故との除外例を認めヰ、全然その人物む品隔して費術方技の塑に合致する鮎から之 を侍するの態度をとつてをる。而して萎術心技雨停に在りては二つの型のその何れなるを間はす、多くは宮庭に 接近せる恰侶を侍するの傾向を有してをる。 次に吾人は後魂苦の繹老諒と九史の繹老倦を考へ、更に正史の外国俸に於ける俳教記事に就ても言及するの要 を認める。是に放て先づ二言すべきは十七史商樺巻六四の﹁外聞博叙例数﹂の一文である。云く、 ︵前略︺朱書九十七雀。詞羅隋閣王。呵羅笹岡王奉表於宋。皆稲大栄揚都。則揚都之名著夫。更有閤婆婆同王。 天竺迦枇黎王所奉之衰。案北ハ文義皆彷彿書。故沈約於篇未練結之云。凡此諸国骨事仰遺。国連歴我僻教始末。 諾在興域自首事典教。約之栽述彿敦於外囲侍中。亦差可。若魂牧作繹老志。則可笑。南史以倍賛誌入隠逸。慧 唐書以〓H入彗術。則尤快安。此雅紀表志侍中葦無可位置。 友邦正史に於けろ㈱数叙蓮の態度に就て 封㍑
と著者王嶋盛の考では西域諸国の王が宋の天子に奉れる上表を見ると、何れも文養が俳書に彷ひ、而も迦枇黎図 の條下に於て、末書の著者沈約が彿致の歴史の大膿を述べてをるが、此の叙述法は仰数なる外教わ外閻侍巾に、 述べるのであるから、史書として尤も安富なものであ一っとなし、従つて彼は魂牧が魂書中に群老志を作り、南史 が恰貫誌を隠逸倍に入れ、薔膚書が一行を彗術俸に入る1如きは尤も笑ふに堪えたる失敗で、空誌や一行輩の如 きは正史の伺わ部分にも之を加ふべ草場所がないと極論してをるのであるが、彼わ議論は史記や漢書等の上でな らば之を首肯しえられんも、歴史書の慣伯はその大部分が忠貰な云時代的捕鳥の上に存する諾であり、支部の正 史も時代わ欒遽にょり夫々栽述の様式に欒化を来せることは前に埠言したるが如くであつて、後親書の如きも官 氏魂老の二志を新に特に設けたのは之を設けぬばならぬ常時の怖勢に適合せるもので、殊に俳数の急遽な弾展は 菖時の杜合図家と相結んで偉大た文化を出現させ、か1る時代の叙述は別席叩単なる一列倖の下で視めることが出 来薙いからであつて、王鳴盛の非歴史的な批評の態度にけ讃同するをえない。 後魂書の志朗には何れも前序を設けてあるが、繹老志の夫れは本文と序との限界が茫漠として明でない。限界 は判明サブるち前序を設けてをることだけは認めえられ、その要徹は史記も劉舐の七略、珊同∈斐文志巳下も、 繹氏乃軍に放ては未だ曾て記す研たしと云ふに在る。未だ記さすと云ふもハ北ハ意先人の関を祁ふ旨を暗示せるも ので、史適量呈心篇︶に、 魂牧晩進。宏以繹老。斯則自我作歌。田平胸臆。求諸歴代。不過一二者焉。 と云へるが如く、全く塊根わ碍別である、畢克北挽頃に至ると仰教は精神的にち形式的にも大いに草屋を蓬げて 支那正史に於けろ彿欽叙述の軍拡に就て 二閤 .\(JJ 人■
】■ 文化様式の重要な要素となり、道教も亦此時代に冠諒之が出て天師道喝を構へてから祀禽の表に頻れて釆たの で、故に二教の宗教として、盛大になつて来た釆庭看病める必要上、啓例を破り新に一志を設けたもので、沸教 の記事を見ると先づ彿教俸木に筆む始め、俳法恰に亘れる簡潔な説明を試み、次で漢代より魂に至る件数々勢の 襲達し来る状態をよく描いてをつて、その手腕は多くの悌致史家の手に成れるものよりも一段優れた鮎を認あえ られる。一潤に志は歴史編纂中で尤も困難な箇所と云はれ、親閲の漢書ですら兎や角の非難がある程で、後には
、
志を作り桑ぬる史家が出てをる例せば三国志には志なく従って沈約の朱書は紀侍は宋一代のことを苔きなが ら志のみは後漢より三国雨晋宋に通じて書いてをり、北朝に於てち今の魂牧が芋茎臼いただけで以後のもの一切 志が作られてない。されば魂牧の歴史編纂者としての力量は、か1る瓢より相骨相に認めらるべきであり、繹老志 を書いた識見には寧ろ賛美を惜んではならぬと思はれる。 ︵註二︶ 元史中に繹老俸を設け而も方技俸の前に安ぜることも亦異例であつて、焉にE畑提要の著者をして﹁前史の遺 規に合はす尤も碓迂たり﹂と嘆整を牽せしめてをる。されどこれ亦時代の特色といふ考から必要とされた諾で、 仰数が蒙古と特殊の関係があり道教も金光にかけて蟄居数元E一致ヒ下の分通がH釆、一種清新な気運が其閑に泣 ふてゐたので、共時代を措く必要から纏つた繹老伸を設くるに至った。此事は絹老倍の前序に於て件数は晋宋梁 陳に盛であり、黄老は漢魂膚宋に於て視るべきものがあつた。元興るや鐸氏を崇付し帝師の盛なる苗と同日の談 でなく、道教の勢力の如きはその什一にだも及ばないと断じ、次に﹁一束琴芝里心老伴。欺有旨哉。乃木其意作稚 老倖。﹂ と云へるもつ、北ハ意仰放の盛況む鼓するを眼目とし老を之に配適しに過ぎす、従って繹では一人の八忠 支那正史に濃けら俳訣叙述の態既に北て 二五 ざβ方 ■支那正史に分ける彿故叙述の態度に凡て 二六 巴軍霊一抹くるのみたるも、其内容は必閥納識理・楊魂眞加・謄巴に及び、此等閑人の倍記た中心に骨同時の沸教の ︵註三︶ 隆盛な模様を描くことに、苦心の筆㌔乱川ゐてをることを聞取し得るのである。狗隋の王動等の編せる替書中に述 仰志の一篇が設けられ、群書は現有せざるも述仰志は贋弘明築中に牧められてをり、舐吉祥老志に比べると非常 に短文であり内界亦貧弱である。但し贋弘明某所牧の繹老志が申史の本文に比して代入蹟る多く、全櫻としては 徐程短縮されてゐる鮎より考へると、今の述彿志も恐らく原文の経ではあるまい。 次に正史の外聞倍中に仰数の纏った歴史女挿入してをるのは朱書及び南史であるが、朱書は後漢書より暗示む え絹史は栄吉に掘って諾いたものである。沈約の叙述は先づ迦唯黎固より朱代に使の東亜せることた記し、それ に引続いて末代仰教わ大勢モ述べて、仰法沙汰、沙門井不挿王者の問題、竺遺生の頓悟轟、慧琳〃均善論、慧厳 のこと等に言及し、此等の記事の問に白から朱代仰数の特色を鮮明せしむるに努力せる跡がよく知られ、此記事 は繹老志あ如く彿数倍来常時からの記経でなく、末代一代に根られてはをるけれども、繹氏の志として別置する に足るだけ?内容を有せるものである。 以上わ外仰数に踊する纏った記部はないけれども、仰数を披声態度に於て好箇の封照むたすものは、劉呵竿の 射せろ哲膚書LL欣陽傭の新釈書である。洪邁の客撃二筆に、哲唐書や五代史の申で仰氏に関する箇所は研磨書に 於て胴り志したと遣破してをるが、濁りそれのみに止まら車哲唐恵は常に彿故に封し柚狛て好意あろ態度を持し てをるに反し∵新暦書では多く彿数を非毀す一義蒜妄とつてをる。例せば唐太㌫を我するに磐蘭書が彿を好んで 世を臍ふとなせるもの、新暦苦に至ると、 ム†JU l●
至干牽於多愛。復立澤固。好大書功、勒兵於遠。此中材庸主之研常焉。
と論断せるが如き、か1る例頗る多きを覚えるのである。正史ではないけれどちその歴史としての償億は正史以上と云はる、司馬先の資治通鑑にも、仰故に閲せる記事が豊富であつて、その筈き振りも新暦書のやうな冷淡な
態度ではない。通鑑に於ける倍の歴史は主として哲唐苔より抹り、新暦奮は持て1願なかつたと云はるゝ程であ るから、封彿数の熊度ち亦哲唐苔に似通へることは苫肯せらる1研であらう。最後に正史の冒錐に於て彿教書籍を如何に取扱ってたるか㌃二言すると、支邪に於ける一般的書籍目録申に俳
書モ牧むることわ起原は、劉末の王伶の七志であらう。七志とは㌍典志・諸子志・文物志・軍書志・陰陽志・術
讐心・開講志であるが、此の七志の限外に遣彿二書た収めたのであろ。梁の院孝紺の七妹は此の七志を承け三
︹瀧四︶車オー進め、仰法佃遺の二鋒を外篤として牧め、而ち遣仰を仰遺の順位とし、被自らその押出を、故に蔑探あるに
由ると明した。研謂七錐とは経典錬・記倖鋒・手兵錬・文集錐・術技錐︵以上内誓 仰法錬・佃遺錬︵以上井筒︶であつて、仰法鋒はその内春を戒律部・滞足部・智慧部・疑似部・諭記郡の五郡に分類してをる。陪書経籍志は
此の七錐の精油をそのまゝ晒粟して、狩野十燕の経りに彿清二教の苦難寓加え、編者肖らその理由を挙げて、
遣仰斉力外之数。聖人之違致也。俗士焉之不通。其指多難。以迂怪恨託攣化乱於世。朋所以焉弊也∪故中庸之
敦。是明竿言。然亦不イ凍也∪故錐其大綱。附千明郡之末。
と北恵方外の敦であり迂憧憬託の苔で雪景ら、巻末に附すると云ふに在る。尤も隋苧岩恰侍高僧侍等㍗一変部
に、車ナ.宇部〃儒者に、屡代三空記・感應博・血水槽侍 ︵琴十野編︶∴晶僧倦︵虞孝孫聖等キ十郡の灘に入れ 支那正史に於けち彿弘叙述の撃毘に就て β♂7 トてをるけれども、北ハ意此等を純粋の仰教書とは見なかつた焉である。 その後曹蘭書経籍恵になると全然焚た撤し、一般書申に彿数書籍を介在せしめ、檜侍類は史部わ難侍巾に収め 幸子・揮住子の類は老子琴ナ類と共に千部の遺棄類巾に収めてをる。それが新暦苔塑女詰にな↓?﹂、子部道家類 巾に弘明袋・繹迦譜・高倍倍の類より緬の語録に至る迄一切を包含せしめ、宋史彗文詰も亦同様である。以上に ょって仰数が漸次支那一般文化の重要な要素をなし、歴史が又よくこれを認めて適應の取扱をなせることを知り 得る諾である。 吾人は以上に於て正史が仰数を取扱ふ態度の大軍忙見た。従来の仰教史家が放りに正史類に合れたる仰数記事 を無税し過ぎたことは、一大病弊たると共に、一部の堅者の如く柚端に正史の記事を過信紺するのも、亦恨しむ べきである。何故たれば正史は多く彿数七万外政として遠ぎけ、従つて之に偶れたる記事倍記等も亦正史自身の 設けたる範疇に菖てはめらる1程度に之を止め、よく沸教の全般を正輯しての叙述でないからである。︵完︶ ︵註一︶ 墾苗曾欄自序 ︵註二︶ 四庫提要発明六元史の條に云く 列停刊先及澤老。次/以ガ技。草木合前史遣規。而凋除車文〓心。朕入列倖之拍。汚使無博之人研背骨不可考。尤篤詭迂。 ︵註三︶ 史導剋繹怨一二正史の低下に舛平に潤する次の記事がある。 隋輔葦濫王凱。内史令李徳林。並少仕謂中。多識故事。王乃濃沌起居江。蹟以典闇。批氾鋸ヰ‡。蛇口弊誌。十有六 番。 原注 其序云二十巻今世間借着唯十六令焉 ︵詐四︶ 麓弘明集所収の七味序に云く 王 ︵三倍︶期先泣面後加。今期克加扁後退。芸所小▲小有不同。亦由其紋有津深也。 支那正史に於ける怖数叙述の態度に放て ββg
宗教侍播に於ける地理的制約
・i其督敢を中心として観たるき1
了 俊
稲
発生率朝の極竺﹂限られた範田の地域から、他の地域に延び強がり、戎ものにありてはその及ぶ範囲が漸次疾
大して、蓬には壮旦わ各地に抵まつて行く慧拍宗教悼措の文化現象は、確かに史的現象であるが同時に又、地理
的硯象でもある。従つてかゝる宗教倍捲の現象には、必然的に地理的條仰が参加し、地理的制約む強制し氷るこ
、とは、託し常然のことゝ言はねばならぬ。慶でこの地理的制約の如何なるものか、如何にして行はれるものなる
かに就いて考察せんとするのが、この小論文の目的と†る塵である。
今強いて比喩的に説明することが許されるならば、宗教の侍持する形式は、味原に放たれた火が風に煽られて
風の方向に草原た苛め志して行く桂た形式によるのでもたく、又撒かれた豆の鮎々として何の聯絡もたく散らぽ
って行ぐ様な形式によるのでちない。恐らくそれは粗末わ成季義侠せしめるが如くであつて、樹木が党づ申刊
に根を張り、次に根から酔示一日し、酔わ成良すると共に漸次四方に枝を延ばし、更にそゐ枝から棟数の小枝を派
生し、やがてその伐ちたははに葉を繁らし、淫には花象ろけ葦た結ぶに例へることが出来去。若し果して然らば
宗教侍播の形式が何故にかくの如き形態た取一〇に至るかの疑問に封しては、余はそれは結局地摺諸條件の制約に
にハ、∴∵′”票決倖描地理的制約
二九 ざβ9㌫紋儒漕に於ける地理的制約 二一 轟くからであると答へて悍からない。而してかゝる宗教偵播畿展の形式は特殊な宗教の具牒的畢葦に基㌫て論諭 するむ便なりしL信するを以て、今便宣上特に基暦数侍播の史貰に基いて之む求明すること1する。 + 克つ羅揖時代に於ける急速にして贋範な益軒教の倍描畿展にに多くわ理由を数へ挙げるこ、とが出水るが、これ む内外二つの傑作に大別して考へるのが傾利であらう。 すヒメ 言ふ迄もなく基督教は、貧しき者、負債あるもの、逐はれたろ者の宗教であ一?﹂同時に愛の宗教である。愛の 宗教であると共に又純潔の宗教でもある。而して是等の基督教の特長が、執苅刷な信仰に然える教徒連の不屈の努 力と相使って、その侍播畿展上極めて重要た内的傑作であることは確かであるが、然し最も根本的な俸措の内的 ︵l︶ 條作として考へられるものは、羅蟻時代に於ける宗教道徳並びに文化ハゝ一般的情勢であつたらうと思はれる。之 に閲すノる研究は多くの箪料に依つて詳細に研究されてゐる慮で、今は之を顧みてゐる飴裕ちなく、文人∵の自分の 問題と直接紺係がないと思ふから、之は暫く不問に附し専ら外的條件のみについて考察を進めることゝしよう。 尤ち外的傑作即ち基督数の急激な憧撃ノ几促したと考へられろ外的條作に就いても、多くの重要な研究が試みられ ︵2こ てゐるが、然かし全鰭として大農一致した見解に達してゐる株に考へられる。その中ハルナツクは最ち克明に廣 範囲に渡つて一々この外的條什を列車してゐるーニガヘられるから、今これを借川するならば、ハルナツクは基暦 数に先立って眈に猶大数が侍挿されてゐたことは、其軒数に取って俸括の道が眈に開拓されてゐた事を示すもの 占■70
なることを指摘し、働この外に次の九憫わ外的條件を奉げてゐる。 一3︶ ︵一︶言語とこれに基く思考の比校的統一 ︵二︶羅罵皇帝の世界的統治とそれに伴ふ地中海民族の完全な政治的痍一 ︵三︶極めて容易に確葦とたつた李過、−﹂れに依る民族〃混希、物賛と思想の交渉交換 ︵四︶一方では羅篤大帝固といふ甥茸の事密、他方では析=軍的畿展、二ハニつから在れ、若くは強化うれた人類ゐ 本質的革一、人間の腫利及び義務に封する賓際的理論的確信が、羅揖の眞に輝かしい立法に依つて確立された こと ︵五︶哲祀倉の崩解とその民主化、羅罵市民と地方人、ギリシャ人と野若人との漸次的均衡化、地仰の比較的平均、 奴隷的地位の上井 ︵六︶薙偶の宗教政策 ︵七︶自由な組合制度、並びに自治惜の従って各州の組織の羅践帝国的なること ︵八︶前亜細胡、シリヤ、ペルシャ及び挨及の諸宗教の市岡内侵入、 ︵一4一 ︵九︶賞辞科挙の産落と天啓を望み奇蹟を憧れる紳秘的完教習箪の尊貴、 この内八と九竺一便作は、ハルナツクち注意してゐろが如ノ\、寧ろ内的條作として宥倣す方が稽富であらう。 然し棲恵七偶の條作は、恐らく基常数の急速な博播た促進した外的傑作として殆ど放べてを網羅し諾してゐると 考へてい1。要するにこれ等ハ外的條作が一つに結合して、羅情瞳代わ吐倉生活に一大攣草鞋滑らし、引いてそ ㍍数侮播に於けろ地理的制約 ∵ ざ7ヱ 吉山
宗教博播に設ける地理的制約 ≡一 れが基督教の俸播を促進せしめたものと考へられる。然しこ1で吾人の注意を促し度いことは、これ等外的傑作 こしてわ七偶の保件の小、最ち根本的な決定的な傑作は何であるかといふことである。勿論一々の傑作は、それ だけで猫正に充分な意義を分婿してゐろのは明らかであるが、然かし特に︵三︶の傑作はー︵六︶︵七︶を除き、これ なくしては他C傑作は恐らく考へられない、叉その成立が不可能にすら思はれる桂庵めて革要な傑作ごはなから うか。 即ち基督故に先立つ猫大数の倖播といふことにしても、言語、即ち希隠語、ラテン語の停播統一といふことに しても、沈にそ﹂に頻繁生父過といゝ言とが濠想されて居り、羅麗大帝閥の成立並びにその統治には地中海の海 上樵の掌粋がその根鹿に基づき、若しあの偉大な交通路なかりせば、OrbisrOmanuSの軍備も行政も不可能で ︵5︶ はなからうか。︵五︶の傑作にしても、畿達した交通による物資と思想並びに各民族の交渉交換が中心に働いてゐ ないであ、わうか。 若しこの推論にして軍はいとする・︶はらば、︵三︶の交通の要道きQ條作は、最も根本的な基本的傑作であると言 はねばたらない。従って若しこ?傑作なか示せば基督数の急速た侍捕獲展といふことは、恐らく不可能であつた らうと考へぎるを柑たい。 かく交通の彗連なる傑作は、基暦数の急速な侍捕獲展に取って放くべからぎる重要な根本的條作であつた。然 かち他の傑作はいぎ知らず、この傑作のみは、箪に基背教のみに限つたことではなく、絶ゆる宗教わ侍措に取っ ても、依然根本的な重要な傑件だと言ふことが出来る。なぜならば、いやしくも宗教の侍播といふ事が可能なる ぷ7β