• 検索結果がありません。

『宗教研究』季刊第4年第1輯(*111号)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "『宗教研究』季刊第4年第1輯(*111号)"

Copied!
223
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

――目次――

1,

洞山良价,宇井伯寿,Hakuzyu UI,pp.1-70.

2,

コーランか剣か,サラセン史研究に寄せて,小林元,Gen KOBAYASHI,pp.71-115.

3,

宗教的表象の意味,久保淳成,Zyunsei KUBO,pp.116-140.

4,

能楽論における修行過程と美的精神,久松潜一,Senichi HISAMATSU,pp.141-157.

5,

修行に伴ふ心の沈潜の過程,岸本英夫,Hideo KISHIMOTO,pp.158-181.

6,

メラネジアの文化と宗教,特にニュー・ギニアを中心として,中野朝明,Tomoaki NAKANO,pp.182-201.

7,

青牛白馬祭儀考,神尾弌春,Kazuharu KAMIO,pp.202-209.

8,

我国における仏教受容についての一考察,関口亮仁,Ryōjin SEKIGUCHI,pp.210-220.

Posted in 1942

(昭和17)年

(2)

且堅 ︵ 八 上八五 寂 Ⅰ り 、 南嶽 系統に 黄架 希運︵八五六 %

、大慈 寅中 ︵八六二 % 、 征山竪 衆人六六 四セ午 ︵大中元年︶ 興盛は、 宋高借 ら 七年間化導を 従って、一時は

が 桐山に入って はれる。 洙潤に の派祀 たるを 示

居道贋と曹 山本

桐山良介

宇井

伯毒

(3)

桐山見

仇 一

統でぃ へ ぼ、曹 山本寂の系統 は 僅に四世にして断絶したから、

宗としで重要 耐

、雲居 道贋は五 宵山本 寂 について、 宋高偕博は

, 共 公費 - 也。

- 之 使 、 也 。文辞 越麗號レ富 ,有 涯才 - 意。 とをい ひ 、雲居 道贋 については、又、

四方 鰍供 千里

徳 の 伎 れて居た

ぬ くに見える 所

れが為には、 先

とにしよう。 至難の事業の 一

、具徳博 雄録

あらう。然し 、

(4)

から、之によって多少 確實 なことが知られる。

れ 以前に新 豊

隼稗 である。 良 、

と 同年で , める。

年 が同じである

の杭漸餓道 の 杭

というて居るし、

く 、小弟は力を

、 少なくとも

したが。院主は

脛を念ぜしめら

師 たるに足らす

樹洞小語録にあ

。それほ 此 書簡

のものでなけれ

も 、一切の・含識、

桐山

良伶

一 一 "

(5)

桐山足

は 出家の功徳に

萬劫 の 慈観 に報 答し 、四恩三有に報ぜ む が嶌に、世上の名利、

心 を告げて居る。

る 。

、却ち 新注 省

諸 螢は杭州の東

たかは明かでな

っ たが為であら

の 倉に行かしめ られたとなす。

こで 披利 し、

下 に居た如くで

して 育 め南東 に

下 に三年居て 、

め ぼ十六七歳で

(6)

雄レ如レ此 、 猶渉 , 道場に住し、 二

た 。臨終 遺誠は、 祖堂集に よ れ ば、 妙色眞常 、本垂 T 生滅﹁法身 圓寂 、 寧有 ,去来 ぺ 無 ,強勢。 形 、 、非二五口 " 弟子 べ

に、績 いて、 洞 m

良伶

五 は と の た こ 寂 村 あ 五 幼 い は の 蔵 し 院 つ 洩 ょ は 十 は が て に た は り ね 九 セ 五 層 太 こ 馬 詩 は 歳 歳 洩 る り と 祀 才 な 頃 又 の か 、 に の に ら で ほ 下 ら 十 な 弟 長 ぬ ぼ 八 で 、 九 る 千 け 。 お ・ 功屍 実母 こ 彦 頻 : 土型 で

て 九 り の 一 る 垂 あるてした人か十

ょ、

であ 三年 桐山

がで

あ 厳 頃

かるのの頃

らに後十五年

二 乖箪 る に 、 相 で 二 洩 又

歳が

ふ所 る

書 を

窩五

でな

あ つ ふ い で、 い の が 洩 る た 敬 ば た 持 丸 の こ 十ま の の て 許 故 と 石 で こ 幼 に に に 精 頭 句 あ と に 禾 、 な 密 に よ ノつ

て 大

年齢

ヒ止

に入 に入 九歳 十九 然る , 1 五 し

時既

った つた 力 Ⅰ 歳頃

に、

た に の と 歳 五 五 - 営 人 頚 は な か 洩 捜 し で 二 セ す で の 婬 難 あ 首 、 し あ 弟 献 い ノの を ハ 、 る 子 は が 源 蔵 無 し と 元 此 へ と 眼 な 和 大 た な 耳 従 っ 十 儂 と サま

のす

をの

集 舌

った三十

ての

年セ

i 回 ( 歳 山 が 、

ゴ、

にをに

難陀

サ レ 」

よ,

八) そ麦 洞 近 超 人 。 に こ つ コ @ 刀て 頃 す 山

(7)

く 、作家・と許したと 仰 へられて居る。勿論、 桐山の 言は 後年

出 に感鈍せられた所もめうたのであらう。

五洩を餅 した

ではめるま いか

一歳︵八二 モ ︶で

く 明かでない。

居たのであら う

修行して居たの

換ふ、岐路 俄に

出 に往ったこと

母に書信を寄せ

年を脛れば 十九

途中に書いたも

めら ぅ が、嵩山

。故に、 五洩山 、 -@ @ Ⅱ /

桐山足

は下 レ見 。師表、 非 , 眼所 亡親。

(8)

を 専らにし意を さざらむと 試 し

通する所が・める ないかと考へら てもよいでめら る 返書でめらう 木を刻むが如き 尖 れ然らす かぽ 常に悲涙を油 く が、 之を譲みて 七

桐山

良伽

鉢 ・出塵の径路 には九歳か十歳かの時から十九歳か っ 五 洩の言に従って南東 に 到ったの 玄契 編次の洞 山 語録には、前記の 名利を求めす柴を求めす、 只狐に縁 長ぜ が やというて居るから、これ 明 二十歳の時まで居たと考へられる。 である。 ニ 書信と共に・桐山の自 我と規誠 と に 随って 此 生き皮すとい ひ 、一介の かに 辞 北堂菅の内容と通するものが そして受戒を終へて 遊 力行脚をなし - の三支が編入せられて居る。 自 誠に 幻嘔 能く幾日 ぞ、 他の間事の為に無 - めり・ 規 誠にぼ、沙門程子は高上を 、 先 ほ・ 明を ︵一木と

(9)

ノヘ

桐山

良伶

ことにな 離れるの に祠 山へ 催 ざしむ 、 祀師が もあり 情 諸祀侶頚 あるが、親裁のみは無い。 であ っ 洩は 桐山 十八歳で と か はれる。 實は 四十年間居たのであるから、 三十年と 南東 は既 提持を 受 が禾 てか 無封。 洞 山 ら け に い 、 を て

の も 之 る の で つ 中 め を も 激 あ た に り 講 の 働 る に

(10)

洞 二

な ほ え 洞 。 和 が 。 彼 之 か い 停 あ り " 云 家 0 % 。

い い が

篇事

之 お

し 五 便 祀 、 ぃ 祀 膣 ち 五 泉 は 確 洩 が 、 な 宋 る 一

に 下 上 の 偕 の 穴 つ ら ふ し と め 山 と 南 あ し は と 博 如 一 た く べ た は っ 蹄 莫 泉

(11)

あったのを知り、 ぬ檜 盤と 南泉と て 、桐山が上堂 露 。桐山元、 還曾 肘木

レ 大腰。

借問、青蓮下下 随 ,風人一散、時、 是什吸 。師表、 目下底 悪 、 思組 許 。除臭二隻眼中河山代表、若党則 似レ 地芸。 刀ュ し が、 然し、貴徳 博燈録 のみに、 0 機 含に 於て て、後になし 不レ似 。釣元、

何曲見

條 く唯 南東によって彫琢せられ

められ得る。然し、祖堂集 ふ のみが 眞モ あるのであらう。 等溥 へられる所が無 い から り 、また著語をなしたりした 祖堂集 南泉偉に、 一 O が、 之によって天下に名が 播 まった 得る作家の質ありと認められたとい ことが・それぞれ 博 へられて居る。 10

(12)

の 羅を打すの問答に 、洞 して、何時か之を聞いて 有レ 借問, 南泉 ﹁牛頭 未 mW フ球 意不 ⋮ W 。 捨 - 借云 、 とある。 此 問答は祀 堂集 にこれも、 亦 、桐山 が、 と 桐山語録出にあるし、 到り、深い感動 文は 印象 ほ れる。従って、以上の ことを示すものと考ふ べ る 。 宋高偕偉は 南東 譚師 重ョロ は す に 、 直に 雲巌に け卜 至ったもの 哺 Ⅰあるゆ 故 しこれは眞を得て居らぬ 六ヒは あるまい 守 ? ︶吹に溜出 に 往った

桐山其位

三で、 馬 祀の孫弟子であり、渇仰 崇め 一一 自ら南泉の許に在ってなしたのではなく 法融 伸の割註に 、 ム 、 只驚 ⋮歩歩 賜ニ佛 階梯Ⅱ桐山 云 、 ぬ,掌 圭 老師一線道 パ 桐山元、通券 去也 。 堂集 はこの桐山の語を記して居らぬ。 故 又 、洞 山は南 泉の話を雲居に堅したこ 等によって、桐山は行脚の最初に南東 に 話 したことなどがあったのであらうと 思 て 之によって桐山が南 泉 の 許冬 長く居た く 留まって居たのではなからうと思はれ 、 確に、桐山が次に 凋出 に往ったこと 悟り、 雲 巌の下で大事を了 畢 したとなす かったから之を省いたのであるが、 然 決して 共 示寂までといふ 程 長く居たの 77

(13)

れば 、 共 年数によって、桐山と漏出との E 、徒を集むる十乗・化を三 湘に振 ふと

に 、 南 泉の見る所も洞山の見る所も互 かについては、曾て雲照 曇晟 なる論文 も雲巌 道人が批難 に 就いて汝に教ふる 所 れて居るのでめる 0 従 う で、 此鮎で 見れ 桐山との問答も多くは 仲は つて居ないの 浦山の許でも、 必 すしも特別の進境のあ 到ったの ば 大和二 % 二人二九︶頃であら う

冊述 しだ所であるが、八二九年にば 篭腋 歳 である。 ふ 如く・無情説法について教導を受け 出ぽ参じた 時 ・桐山間 ふ、 名は何ぞ 、答 年齢を算出し得る。二十 ぃ ほれた弾圧であったが、 に違は なかったのである。 の ︵三十界︶に於て述べ があらうから、 雲椴に到 ぽ 、桐山 は 浦山にも 左程 も、 恐らく、桐山が長く つた 程でぽなくして、 問 。 雲餓 自身も此年頃 雲麒 は 五十歳、洞山は二十三 る 為であった。然し 、初 道贋 ・ 祠山云ふ、向

既に五十八歳で

桐山見

位 了一

して、大潟山と ョ

たかりである 0% 七 %

(14)

考へられる。 無 U

桐山立件

一一一一 所が , -. ゅつ たので なし、というた

ことがあったの

る 。英次に 、虹

、 又涌 山も此間

。浦山も無情 詮

祓を堅して契合

ることを見抜い

なく、師資 相契

を 得しめるに 努

到らしめたので

なして 雲 巌を終がしめるを得たのである。

用 したことの

しく述べられて

年程脛た 一山八三

(15)

相違 は わりながらも、祖堂集と景 徳博燈 銭と 養時 如何、の如きが -, り 、 景徳檸燈録 のみに ︵六十九︶ 擬欲 相見時如何、︵ セト ︶仲子仲 五 Ⅰ︵ 四ト八 Ⅰ︵ 上 八十一Ⅰ亡八十四︶があり、 に 共に 偉 へられて 問此檜 竪超五指貫、 も 、 ︵六十六︶暁 通妙用、がある。 祖堂集にある︵ 五

眼精、

︵ 四

桐山

良什

聞き得れば・それは聖者であって 。眞に無情説法のある所にば 、 相によ れ ば 、八地已上になると えるのであるが、聞える時には、 無 い 。之を衆生の立場からいふか 撤去 せよ 。 反 木環源を逆に見る も うか 。決して 蹊聲に廣 長舌の詮 一情 が論法をなすことを解して 居 虔が 説法するを得る所まで到らぬ 居る。右の無情説法の外に 、 一四 、凡夫衆生ビはないがら、他の 元木 は 衆生も聖者もない稚で、 ・五根互用で、眼で聞く @ Ⅰとも・ 無情の説法でもなく、聖者が聞 ら 、無情説法 は 聖者が聞くとい を 得れ ば 、無情も有情も常 怖に 法を聞き、松風に凌生の聲を聞 るといふのは勿論不思議てのり、 ぽ ならぬ。 霊殿 曇晟 なる論文に述べた如 く、 14

(16)

傾注する所ぁ る こ とを示すもの ら、 全く不明で らう。桐山語録 くに感ぜられ あったからであらう。然し、何度にも、特に 、 桐山 が 雲照の 言 も、 既に無情 詮 十︶にある如く 、 と 問はど、如何 は ・既にい うた が 全く非常識で 容れない記述で やと 問 ぼれたら 客車列 練 いて 問 へ よ というたに 一五

桐山見

怜 15

(17)

一山 / 洞

出典

伶 を 用ひざれと 請 卸 のみがあるが、 、桐山はこの 月 斎を過 亡して、 際 、中流に於て・ 時というたから としてといふの 場合の洞 山 の 省 祭 徹底の侮 は、 沼迅 として我と 疎 なり。 切に忌む

他嬉

って 覚 むることを 虎虔に 渠に逢ふことを 得 。 我 、今、 猫り 自ら往くも 渠 ・今、正に是 れ我 我 、今、 足 れ 渠 ならす。 方に 如如に契 ふを 得 べし。 鵬に須 らく 典摩に 脅して れを 鵜 山の成道、 侶が 諸所に 喧倖 鬼む れば ・覚め 75

(18)

得ても、それほ、 雲厳めぃ 心底に於て 契営 すれば、 我 隅虔 隠事、 只 這箇 漢足 れな であらう。然し・ 渠 仝玉庭 なければならぬ。 賓鏡 三昧 時に 又 、臣は君に 奏 し、 子 し 、とあるのは・恐らく、 すべく、かく 倉 得せ は如如 て 居るといふべく、まざし らぽ此侶 によって、それ 以 山が雲 巌の為に斎を設けて 機を見たのであらう。 第四︵ 4 ︶ 桐 山ば 雲巌の 数々神山僧盤と同行したこ 雲巌の " 矛 子としてほ神山 と 仲山 は ついては、 祀堂集は

桐山其位

した如くで お る。そしてこの行脚には の がら、桐山とは同門で、祖堂集にば 洪 と神山 と幽 総和尚とを列して居る。 であり・年齢も判らないが、桐山 よ り 一七

我疎に 相違ない。他に随 は すに自の b めるから、 盧虞に 渠に逢ひ得る L 、 の 二旬が真空妙有の 営 購を示す重要 句 時に 我 今木 是 渠の正位に即する偏位が あらす、 渠 正に是 れ汝、 と かひ、同

に 非す、潜行 密 用は愚の如く魯の如

らう。従って・ 須 らく此の如く 倉得

には桐山の 心 詮の境界が言詮はされ の 許を諦した後のことであるから、 然 ぼ、 決してさ ぅ で は あるまい。後に 洞 の説破せさりし所に師資の澄英郎 通の Ⅰ 7

(19)

云 、倉庫人造陸地 無 。桐山下。 語 。師表、一條 純子自 紫 。 行 、作, 任腔

ち 師の師兄と考 伯 とについては て 、共闘 係 が知られる。 祖堂集と景 徳窩燈録 とに 力ヂ寧解 , 興 煙道 得パ 桐山元、 将 。 謂 , 有 ,気力 - 店 是 ㏄

もう 。 又 、景 徳 見るに、 把針。桐山 云 、 作 座上把針。師表、今今 興レ他 相似。桐山 云

地 一斉 大 磯。 曹山云 、 篇 , 什 輝 - 寸林下 レ留 。 曹 山間 レ借 、作性 茗荷, 寸遜 ﹁

存 , 得寸称へ曹 山元・ 迎 開架足間 生 。

耳 、上座 還膏 洞

由良

位 一八

山を師弟と呼ん 8

(20)

積 代替 櫻 暫時 落薄 。 が お り、丹霞 子淳 禅師 頚古 第二十 別 に 、

二起 本橋 - 日、過 朱 。 伯云 、 仇閣梨 。 師便放 , 下 本橋 べ

、 何れも、 被昌師 仙一問一 一九

河川

良け

79

見掘泥不 レ ニ エ役 レ 仙田田 のでの る 0 これ

っ たことに相違 ない。然るに、貴徳 偉燈録に 、又、

。 師日 、共 二 長老 - 過 レ水 。

九巻立に 、

ニ通商語語め 伯日 、傭作荻生 道 。 師日 。脚下 レ摂 。

五十六 別 に・ セ - %ルル 仙田、俊哉。節目、作 腰生 。 伯日 、大仙白衣

。 相 。節日、

(21)

不レ得 ,他姓 托顔

と は い はないが、

小語録が同行と

一人のみが訪 う

よう。

外 、洞 山 と密 師 なる記述となっ 優れた貼が示さ 居るし、︵五︶に られて居た貼が

りも下位である 直 を載 とで ぅが 箇 得 生死 せて 居 あら う な い 。

由良

伶 十分。 伯日 、 詮レ 仏説 レ性 庇護。節目、死 る 。これは碑林類聚第三にあり、又、正 が、比較的に多数の話が 窩は つて居って 唯 、時代の下るに従うて、老老大大とか 二 ① 中得レ活 。 行脚の時のこ ぅかぼ確めょ 針 についても 20

(22)

搬出語 要 を編 し、

、 重 葉桐山偏

正幻

桐山見

位 一一一

るといへるが、女日の台顔の 語は ャ ヤマ ツテ

圭何 ︶ 閣梨 、堂頭喫茶去 捧 。茶籠、

大田山 武 、天尊貴士。 顔 書目、 クシテ 道 ﹁開架 若在 ,富山 - 過。 夏 、老僧元町, 依栖べ 瀬田、請、 闇梨 、 別

鳥毛

曾 - 三十年佳山今日方 潤 二人同 日 の 百 顔の言は、貞徳 博燈録 でぼ、 昨日勤三三間英二樽話本 レ稔 、今 講 ・ 尊貴士。 師 力闘, 粥 ︵ 飯 ︶﹁共通二夏中 といふのであって 、 大に異なって居る。 速 遁避 道 。桐山口・ 太 この石頭和尚 と 桐山

る 。然るに、 吹

日 、自 有 : 郎 専 -

二頭陀 便請 , 在 。顔回、雄 レ不レ出虔 ,弁事 ぺ 節刀 佛レ袖 市田。

。節日、某中足 代 請田 師 代表、地大尊貴。

を貴 不出入とな

(23)

桐山

良伶

五位 曹 出陳 語 となしたものを、更に というて居るが、これは 慧 霞の門人 のことを師友に尋ねたといふに ょっ とはあり得ないからである。祖堂集 自ら門人とい ひ 、 慧霞 の続書を重 集 霞 の 偏 したよりも二十鈴午後で、 祀 とあるのを 程 する篇の程の文である 文に 対 照すると、祖堂集よりも、 此 慶輝の程の丈に 披 るべきものが見出 ね 。何れにしても、地場合、洞 山は 年 、初めて一人を見たとまで賞揚 せ 然るに、ここに、この目顔につい 祖堂集も別に共偉を立てないから、 の 一人として鄭州 百顔 明哲 祀師 の 窩 小語録 は 石巌となし、 玄契 編次の洞 行 ばれて居る桐山語録 は柏巌哲 禅師 一一一一 である。 慶 輝は自ら門人 廣輝

いことは、二十 飴 年間五位

年間師友に尋ねると りふこ 偉 へられて居ないが、然し 、

らぼ 、その澤にめる 言は詣 に 、湖南観察使の語の如き、 のである。故に 、 之を前の一一 るを得ない。然し、猶且つ 、 なることは何等記されて居ら て 、 百 顔によって、佳山三十 られたのである。 百顔 和尚となすのみでめり 、 が 、貴徳 博燈録は 築山の弟子 Q 。然るに、五家語録中の洞 師録 中にあって現今一般に 哲と 百態 と柏 嵌替との相違が 22

(24)

桐山

良位

一一一一一

。 顔と巌と住菅

し 、ここに重要

して、同一人を指すのではないことになる L 、 それが 又 結局地

得るに至るのである。

答 のみを 畢げ、

し Ⅰそこで は栢

たものでめるこ

の 申に 、

似 。対日、正 如何。節日・

百瀬ともなして

と 問答した 百顔

とは疑ない。 然

ぼ、 明かにこれ異人となして居るものである。 従って、貴徳 侍

。これ明かに 薬 2%

(25)

桐山見

印 校訂が 二四

す めぼ、

弟子とし

湖北 省江

すること

手 に勅任

懐暉 ぼ太

編巷 十一

て 居る。

0 盲鰻 は

となり・

問答し 、

したのは

と せられ

いて、 途

、一人を この 定 不注意 て定 川 藻道哉 は貴 徳 する 以 打首 恩 に 、百 丈 臼 居

栢父

また 柏 桐山と 定 州柏 、而も に 烏祀 二人と 24

(26)

は は に 吹 土 商 ・ な 孫 に 子 の る 記 る す 確 飛 泉 に 四 倍 後 し 弟 す と 許 。 行 に る

實了

にの

川越人偉者た

無べ中

とにに等

子ら

存 して にそ

百蹟

三戒

まに

で 至

弟洞

た げるあるの 数に 五人 は

し * " ・ 故に とに は八 の 人 とな の語 が篇 とい ゑ

場 れ 宣 れ な に 子 う ち 俘 決 め 四 葬 祀 無

合の

ない,

叫榊 Ⅰ | ァレ 占 l 力

い、

就い とし て ノ

とも 山の 一 して る

人に 一ナと の東 柏 二

り の 創 に が れ 宋 文 た 檸 で 人 が を せ 如 、 田 面 知 て 高 は も に あ と 自 利 む き

こ又し三

こ泉

た十れへ

8

%

偉基

其の存るも

なしとめ中しし

聖と

に 州 も 八 る た も い ら 、 ぃ は に 、 た 在

な へ 刑 す る る を が を 大 な が 過 四 途 れ く る 鏑 の が 。 栗 本 馬 購 い 、 ぎ 人 に な

創出 慧思四人 タ のト が 八 は 宋 と すが 数 と 系 の 燈鐸 弟 の 馬祀 であ 惇 は 出す コこ

(27)

二六 ノ

桐山見

はしかものが 存

多くが博はつ て

とする意識の存

を桐 山が訪 う たとして、

無封。 曹 山稜 聞云 、一子 規得 。

博を見ると、 杵 化縁の始終を決せすと か ひながら、

在 : 雨虎弍師 蓋覆 農作焼生。 曾 無封。宮代、良久。

、 貴皿一 。 借 。

存託拍一ビ ・ - のヮつ っ﹂と

語が 附せられて

見ると、 26

(28)

繍悶朱 多少 時也 。 師便佛袖 市田。

ると、 娩樹窩に 客と 、 ︵一一一︶に

達 して居る所が 馬祖道一の弟子

、 共他には 一話

出したものに 外

つては、江西省

神樹とのみあ っ れるのである。

は 桐山とほ叔姪

がある如くである。 居るが、 密師伯

ぼ 、曹洞三師 録

類聚 庵 居間作、 二七

桐山見

(29)

︵三︶桐山国 レ此 額口 若 一不老。 因レ此 能才大師道 レ 額口、

蒐道

本土 @ 一年 相逢不 。 易 。 看 。 因レ此曹 四大師 造レ頒日 得 二白頭児 田 ソの 。 或 は 、 弓 巳 - 口 と 一一八

桐山

良伶

むと、 乃ち 入 っ 、光づ 古 い祖 堂 菓 里見ると、

、 末虔 川下。

ね俺篇 , 什 理 - 不レ知 。 云 、春秋不二到来 ぺ

幾何。 云 、 長

ぺ文・ ィ 赤日、

不 。 私 欲。 知 , 北 中憲一寸歩 不 , 相離べ 28

(30)

。 馬 祀の弟子中

弟子の次に 、附

貴徳 偉燈録が馬

リま A ﹂ 十 L

プ、ヤ州一

湖南 省汀江

に迷うて、偶然

相異なる重要な

-@. Ⅰ ォ、 OO

田 桐山元、 賓

何 言説 田 師 表 、清風 佛 ,白月 ゅ

彊 の師団 有レ 頚 、 云 、

来耕古我 浮生 穿 堅木,相関中

土中主を指すのが正しがらうと考へられるし、 土中賓は殆ど意

は 意味をなさな

が 。明かに目語

で めらう

僻燈録の 二しワ 洞

由良

伶 29

(31)

宝む 忠の語 し 、最 小語録 雷文の して居 を省き るし、 ︵ 祀 ︶ 賓中 土中 とろ り 居ると ことに ︵ ハむ ︶ 嶺で ・ あ 録は、 1 口

良什

冊|

三 D , 、

語 と道道

居る。 但

編次 う洞

、青山 白

を 由加

又 その 頚

と思はれ ︵二︶については、之を封 照 すると、

青山稜白雲。 ︵ 且尿 ︶ 長年不出角。

を 混じて

り 得ない びると考へられる。

ある南涼 貴徳 仰燈 嬰 げて 居 30

(32)

る 。祖堂集を見ると、

。文芸,和尚 桐山元、 拍二 錯放過の 桐山懐樽井 云 ・ 有 , 什 理事 ぺ師云 、多望, 佛法 ﹁ 廣作口 利谷中 洞 山間、多 里 , 佛法 - 印 本レ問 、如何 是廣作 ,利谷 パ 師云 、一物化石 " 篤郎 是 。桐山優佳両年央。

佳 両年央 を快い

一物本篇 を 一物

して、述べら

では殆ど平凡な

きことが存する。

︶の弟子とな 集まり、東寺 は

め 枯れ、 異百秘 一一一一

桐山

良位

31

(33)

由良

什 一一一一一

蛍袋も来 高健 伸 る 、 劉珂が 碑を著ばしたとい リポみ 、典博 記は

た洋 固 のみは・

高階 窩は 、加舎

㌃ と - . く 。・ ァ

パは

全、 央ょ

混同して誤った

入山道盛徳 至 ﹁

る 所であるから、

一方に於てば 火

とな 一 。如き 杜 ・ 撰

八 0 五| 八八一

め,る 。貴徳 僻燈

宋高僻 博の東寺

、 如俺 と書甘と

付 け 、 共際 また、

(34)

ば 何事も博へられて居らぬ。従って 、 果して、 桐山が目らの 疑 れる。貞徳 窩燈 列せられて居る る 。或 は 、桐山 一一一一一一

桐山其位

、桐山との問答 。前日、好 箇佛 、 只是無 :九絵㍉ 何 ﹁ 特末見 , 和 た 基をなしたも のとして 喧便 せられる所である。 た所と遠くない であらう。貴徳 偉燈録に、 山塊︵ 地 ︶ と問 東寺知命にっ ぃ 共 まま禅宗 里に 刺の碑にば勅諭 いひ 、 塔名 を水

(35)

三四 同 い 間の㌦の 山如 てに馬刷の 孫弟 子 たる 裏 山よりも親しい。 ︵ 川 ︶ 祀 生業 魯祀博に、 一ム、仙石 レ飢 ・ 喫 , 什腔叩 客畳 T 俸にも、 洞 つて桐山語録Ⅲ は、 更に、この引用文の前に 、 コ 八不﹁ 肯 。 師 云 、 作 接取:枚目癖 ぺ 桐山刀 侍奉 数月。 つ たことを知っ 相違ないから、 祀は 平生 暦 の 束 ぼ 河北省の北京 34

(36)

師柏 。 掌訪レ之 。 保幅云 、見本 レ祖は : 幾箇与 ,取木人 - 芸。 看 。中山 云 、 不 : 是 英中 じであるから、 境を得て居たと くに 興干 といふ 一一一五

桐山

几峰

了了

三知。

見解

見ると、 云

亦未

られないし、桐山との関係がなかったなら

ぼ、

全く

ばれ去

0

故に

果して

のでめる

奥平和尚は洞

人名でもない ろ

的に、奥平和尚

(37)

す 相違がある。 道 , 什擦ぺ師 。 妓而終 。 霜 とも、石籠とも、 石瀧 ともあるとせら うか、 ほ ついては、何とも考へて見よう 総 ︶ 祀 蛍袋桐山 博に ・ 師到 : 浬 ﹁ 見 : 故 上座 謂 。衆説話 - 五、 且詮 : 道界佛界 - 晃 什 圧入、月読一言。 話 が事實であったか、 ど カアレざよ ・。 使用、通 界佛 弁別本 レ問、 、宇川下。 得 。 師云 、 道

虔 としては、 石

桐山足

位 三し、 ,

南の,ヴ ・ - Ⅰ 一 るれ

もので、六 % 恩

と見るのが 億嘗 であらうと 思 ばれる。 布嫡 -. 或 ハ % 又ハ遡大 善を訪うだとわる。

界 - 芸 也 。

ならい うて 居ら

(38)

が 主であって

、ガ

桐山奥

位 三七 ヰ 打 - Ⅰ 、 腐 隆道吉 宴蚊 ・

湖南 省 湘江 道倣懸 、 鄭州 即 ち湖北 省 江漢 道 武昌 瓶 、 宣 川部 ち安 川部 ち 安徽省 既に 洪 川洲滝山 法脅 、 湖浬 椎 樫 懐海 と稗せられたのである れかに居たのであらうから、 ほ れるが、桐山は い 浬に於て 道俗を激 働 する 侶頚や 我等 を や 、禅門 諸祀侶 頒などに存す 建 、 湖濱常 興などかはれる人々があり、 から、Ⅶ浬に は既疫留衆 の 住 する所があ 桐山もそこに行ったことがあったと知ら 大蔵経を 尋絆 して、大乗 脛 要一巻を撰し - 作ったといはれるが、これほ心下しも 百丈 は馬祀寂 後、石門の塔 傍に腐 して、 刮 つたのであらう。 政又は初 上座もそこの何 れるのである。恐らく・地侍であらうと 思 た 。 憎 い我、現今にば博はつて居ない。 又 ・ 浬に於てで は なく、而も共幾分は洞 山 語録

、 馬祀 の弟子 に 放すからである。 かでな い 0 祖堂 渦を機縁として な い 0% 堂集 は 。百箱の弟子 九

(39)

桐山

良伶

一一一八

方 にば往って 居 して ぱ ・維持せ し、 更に・互換 て 見るがよい。 の 末を大中 卜 十三年であって 教の復興によ つ を 、 斯 登山とな 者は、西京雑記 て東婦せ むと欲したから、高帆 は 衛里を改め、 途 に新盤と 號す と ではないから おる。桐山の 作 新 雙山 が新 盈洞 、新豊田に住し と か はね ば なら 明かでな い珂か 5%

(40)

めるから、多少 、 数々桐山と 尊 から、新 豊出 に 附せられて居る るが、然し 、こ 初め高安に至 っ 戚 通の初めには桐山に移って居るのである。 れて居る。 高 ある。桐山 は高 方からいへ ぼ、 桐山に在る寺を 、 確 でないが、 威 たのは八六 0 年 る 0 束高僧 伸 の桐山 倖に、 往蓉 請益、堅 同 : 洙 酒田

桐山

良伶

三九 3 タ

(41)

置いたから、

が 、多少考究し

の方面から少しく述べて見よう。

為に、桐山 が

ろ名かつた 0 ふフ ︵一︶祠堂 集 丹霞 偉に、

せ有 レ 大持, 此

不 。 味 ,同上田 二倶桔漢 。 慶

保南 事後日 道 、某 甲叫漢 行庫。

、 更に 文 覚の 語

桐山

良位

口 O

ことが想見ぜら㏄

れるのである。

(42)

桐山見

位 四一 の時寂して居る 漣州 大川︵ 又 ハ人 湖 ・︶和尚の博に・ 偕使出 。 師目 霞 田鰻 日 、 於 : 拝 。露国、 錯 分 二玉ナ力 卜ゅ にあるが、祖堂 ことが判ると 思 はれる, 石室書通がこめ。 0 。 祀堂菓 のこの石室の偉中に 、 桐山間二市人﹁ 作 桐生。射目, 拾 , 縄 二 % 八千粒舎利 づ 一閃 粒 別納,宮家﹁ 一 日 、有 レ 眼下, 敢 石室行者 雨 句 五拍 ぺ 4 Ⅰ

(43)

0 -

於て具足戒を受 乃堅之佳 ,

める。 貴 徳 偉燈録 には、 とのなしたもの ふのは祖堂集に 木口と問答した 答を掲げ、 練ぃ 木口とあったの を失 う たのか、 ︵一一一︶祖堂集 石

師君㊧

年 二一

古 -;J 一

のが、木ロ、香山については判らない。 霜僻に、

四二

桐山

良峰

溥を立てて

居な杉

の 草にありと 注

答 が臨済と木口

(44)

く、屹 として 柑 机の如くであったから、天下、 2 を 石 霜の枯木

人 かあると嘆じ

た 。桐山と石 霜 と では、法系上、従兄弟である。 八こがある。祖堂集火山 偲 ,に 、 手足 伶 。 師云 、

ラ MW 、 欲レ川哩 竹工

千重 抄 、林下 一のあし 英中﹁阿州 箇

回 、 窟 : 什腔 - 政 如レ此 。某 甲 釣元、目前燕 レ寺 。 先師 日 、 什摩 四三

桐山其位

4/

つて 南嶽に択 り、大泊 出 に入り、下山の台下

圓智毛

六九 | 八三ぎに遇 うて 垂問して意を

湖南 省 湘江 道劉陽牡 の御家に於て 、 俗に混じ

よって世に知られることとなり、又、陶 家坊 近 い 。 石霜出 に入ってから・ 汚 吾が百箱 出 に

霜は優れた人で、多数の堅人が集まり、潤け に 在って飯頭とな 知 D 、 三 夏の曾と て 椅悔 して居た。 の北の石 霜出 に入 至り、五箱 が 之に ても 集 舐りて ごげ

(45)

桐山

良伶

四四

同侶﹁ 日 ・目前

二 ・正 け 。英中 無 ⋮贈物 興 ,閉架﹁這箇 是老 僻見: 先 師 - 因縁、嚢中

無 八弾 得破 、 却 :遺老僧 べ

看 。 封 ・ 云 、 彼

・ 欲レ行 二島 wm 一 ﹁

便女 レ聲云 、火山道, 什腔円封云 、買持千里紗、 林下道人 悲 。 桐山 云 、灼然火山足作家。

たかの如く 思は ばさ ぅ で は なく

三 路で、桐山 語

附 ぜられて居て・

にも火山と三略との己とが掲げられて居るが、 同じく文略とあ 。買持 は 執持 の

とぃふ 0 千里の

のとなす意味と

処子和尚 徳誠 J Ⅰ

(46)

に緩 いて、火山

うて、婦らしめ

に 対して火山は 、

個展 受 、 又怖 : 我什控虎パ

らしめたのと 杢 く 同一である。

此須 , 親 ,近作

得田 偕云 、 向 , 什腔虎 一通 銃 。桐山 云 、 不到虎 。

味は 、首部八が

れる故事に よな

いふのであら う

あって、 樺徳輿 穴一八芭の碑文は元和十年︵

二手六十歳で

︵八一八︶ 寂 とし

つて 徳 + ピ述ぶと

年つ 七五六・ ソで乙

一口曳

怜 同 Ⅰ 四五

(47)

安 ハ % レ掌 三下。と述べ、 共註に、 曹 山元、如何 一倍と長 慶 との外に 、 更に一個と大元との問答 を堅げ 、桐山 の 文鳥祀の弟子 南 ぬ 西園蘭若 曇藏 ︵七五八 | 公一さについて、 親閲。桐山元、 咄 還収 兄脾子 。 とれたものであらう。 丈 C

、灰ま

1章

あーセ 五六1人 生前に開 係 があったので は 無い。 る 。祠堂集金牛 偉に、 師 尋常自作。散供,養家 偕ヂ脚 。 飯禾 , 堂 前末工 デ 乃撫 。 掌作 。 舞 、大笑 云 ・菩薩 子喫 。散木。︵ 一 撫レ 掌大笑 是奴兄姓 千本。桐山 云 、 是 。 暦云 ない。元和 卜 二年 一五の一生で、 洞 れたもので,って 、 健と 長慶 とが之につ 、向上事、請、師、 寂の翌年に全身 な ・丁に至ったの

桐山其位

詮 であると考へ 何

(48)

頃 で、

0% 叫と

に せら 信用に 憤 しないものでめる。 わる。祖堂莫大慈 博に、

。 師云 。 脚 ,腺毛 檜 - 芸、得 控 。 封云 、 非 ⋮ 但和 荷 、 更

ぬ云 、坦道。 得 。 凹ゼ

桐山文位

桐山

使 いふのが れ難いが・ 石下 過 : 於 と 同じ所に住し 山 語録は明かに れない人で・める は 金牛和尚のこ 、以下貴徳 偉燈 語 とせられ、又、 西園奇怪と答へ、 是 向上事。 借 無封。 曹 山元、 這沙禰 。 ぃ 。元家語録 中 47

(49)

周一頁、行時無, 訟路づ訟時無 - 行路ハ不 レ論不 。行合,行作鹿踊 パ 詮倶不レ 別本草 在 。文武、大慈和尚 則古佛 。桐山和尚 則細駕 。 師父 聞レ拳云 、作家。 もめる。 梨浦は で , 雲 殿と生年 摯 似せられたの で, める。桐山語録的、㎝参照。 博に、 師問 。 檜 、僻在:這裏 - 得,幾年中判 云 、五六年。 仙 - 生。 甥云 、 似 桐山ぺ 桐 山 代表・・ 喫レ水喫 。 草 。 所で、かなり 北 が 通常の詮であ 四八

桐山

良伶

器官

レ 大聖, 。 曾云 、浩典 釣元、 離 , 此二

(50)

戊 千歳十一月十 年 が正しいので 世 の 貴 とする 所 、 趙州 の 行實を かと思はれる。 して 莱英 に問 は 語が 録せられ、 曹山 語録に よ れ も曹山も、 之について、借と問答して居る。 堂集 仰山 博に、

、星川一切 不 是 、不足 則 一切 是 。 師 侮日、 擬 ,理体 焔 八 % レ 点擬老鶴 。 して 信 ずべから 徳偉燈録 、仰山 四九

桐山其位

(51)

五じ 洞

由良

寧 二年人丸 吾

三日寂し、享年

ある。故に 、洞

とか、貞明二年

あったと見える。

間に 油然として、

たことで 有 タモ ある。祖堂集 香嚴侮に ・

山 一ム 、有 : 什挫佛法 因縁中判 云 、 佛法 因縁 却多 、ロ 八日 疋 ・ 愛ニ卦肌 - 二

。 山云 、 作腔

間別 府 ・ 不レ

作 , 什 控 へ封

は興 煙浪 下 。

如 許多険難﹁

山印: 婦杏嚴 ﹁ 、小照 時喚作 ,

(52)

封云 、 實興煙 。

且 和尚 是 作家。

代は何れにも 使 る 。祠堂 集は、 える。然し 、 % 伎

有 , 褐 瑛二百 飴

に巧な 鮎が桐山 である。

身 がそれぞれ

。桐山がそれぞ

に 移ってからの 出来事であらうと思はれる。

を 如何に見た

違 。ないかも、 か

れて居るの へ 、 は

ついて 述 ベス・。 五一 51

(53)

同じで、明かな 老師は羅 山が姓

虜 目蓋 陳 老師 綴 T 山 ﹁ 又 佛 、 只 % Ⅳ︵ 0 口 八日万冊 皿 一山ナ ハ 寂したが 好箇 俳と 同じであ 祖堂集難山 博に、 光彩 ゴ 末客、桐山狩,何 % 悶 ﹁便追。

光彩Ⅱ

師羅山

ら 青苧

足 下 喚 - 無

"

ぅす嚴

か 6 頭 な っ

莞貰

由良

位 五二 あらしめた人で 兄

。巌頭の弟子に 答 として、

(54)

目 ら巌頭から聞いて、後に無惨に之を説くに、 無珍が 喚ぼれた

媛 する意味の含

うかと 思 ばれる。

頭も 不意気の揚

とを、 無光奴と

立し、 狂奴が山

ぎるから、四出

︵二︶祖堂集 襯和 何 % に,

,面陳﹁如何見

泉パ 南 東 也有,

日 、王老師三歳時剣石、如今世。

大安 宙 七九三1人

れるのである。

ら、 時には畏愛

ばれる。大安 は、

桐山見

位 五一一一 5 Ⅰ

(55)

山其位

五四

城の人、二十五

かれて弟子とな

ので・ 石甘は弓

涌出蟹祓の大潟

こと三十年とい

浦和尚と ぃ ばれ、

となすのが正し

が 西 陣 に脅 う た

述べた便宜上の

て 語ったの 却ち、

である。祖堂集 ば 右に引 練 いて・

黄興︵ 禰曾到

向 。 禰道 、別別

再三苦 切 、問

ハ埋 : 却我 図ハ 5.l

(56)

が 一度 門 を抽 ぃ

れたのみである

山が禧建 智夏 門

一である 驚 " であらう。 祖堂集 濯蹊窩に、

、 濯蹊は 高く評

であらう。

とい ばれる 如イ Ⅱ 五五

桐山

良怜

コつ 下 。 休 同黄興︵ 合掌 云 、 古 悌吉 佛 。

る 。それが 桐 山

るが、砕石 院の

永山 倖老峯 、 亦 師出 , 家 黄興 寺ハ密承 , 黄栗 宗教﹁後役, 硫問於 丁 裏山ド ニ二 小藤 指すのであるの

(57)

商量 轟未 。 得 , 勒 繍 如何道行 瑚 在 ,兜率唯夫 廿

パ師 万化 レ之 。 桐山と雲居との

下 のものが 編し

幅博に、 、右下器 兄幾 節日・ 束 言下盤。

桐山足

什 五 % ハ

出される。既に

の 桐山が雪 峯に

弍 桐山 云 、貧鉱 T 一人 得 , 入 ,此間 ぺ 進駐、興 腔 清吾 天レ屈レ 人世 無 。

- 間、古人 還扶レ入レ門 、不 レ挟レ入レ門 。 保祠云 、 行脚得得, 什控 人力 パ 56

(58)

あったと見える。 はれ去ったであ らうの 山 無段︵九六 0 寂 ︶がある。祖堂葉末四 % に、 凡知 曹山不 直二 雑 舎、聖者 多 、神着 少 。 った 。 又 、前の 、最後の洞山幸 夏頃子細 始得 僻説の實例とな すが如きことをなして居たと考へられる。 ︵ エ

じ骨

徳博燈録雪峯俸に 上 ,桐山中倍 述べられ、又、 九度となって 居 五七

桐山見

仲 57

(59)

彼 此 居 と 慶 子 で 之 て 雨 ( 味 た る 博 人 た い 夫 金 僻 杏 あ 塔 堅 手 セ に

と 。 こに住して う たもので、 ないが、里見

と議 端 とが 五八 桐

山畏怖

桐山に上つ

に 由比人の意

て 居る。

時 、延慶は

の 弟子とし

大師、明金

複は 甚だ 奇

に 涌出の 弟

堂集 にば 延

て、

腐朽:千世 - 5S

(60)

相違ない。恐らく、祖堂集が 可 なるべきこと

弟子なら ぽ ・これは可能であるか乙である。 問 はしめ、桐山が答へたとある。 米 和尚 は米 あった如くに見える。仰山の答を聞いて、 師 るからでめる。然るに、貞徳 僻燈

・録に・

君嫌

。桂二雲霞

色ゅ

左と全く同一の問答を嬰げ

更に、

師摘

叙述をなして居るのであり、 米嶺和俺が果

桐山

良伶

和尚と共に、 馬 祀 らなかつたのであ 滅 - 刀 遺レ侶 として して 馬 祀の弟子で のものかどうかも 和尚の所にも附記 渋川米領和尚を牽 九 ば 、涌出の弟子で は しいのに、南東 ゼ師 ︵ 又 ハ % 二七郎 - したことを 博 へて 千 と見るのが正し 深 青レ之 といばれ、

(61)

六 O 洞

由良

の米 緩和尚すらが全く判らない人である。

めるも異なる

つて桐山語録を

もの ぽ 之を省い

、ここには嬰げ

知られる所もあ

盤 官費 安 、南東

即 ち清涼文金、

げ扮陽に嗣 いだ

注せられるもの

ぱ太陽 警玄 のこ 之を指すのであ

観 に望んだと せ 大層二年三六 モ ・︶前後の人である。 ︵・ 本利一一 + け Ⅱ払下 供 @

状 下放終始Ⅰ 龍 60

(62)

攻勒 し・大優 の

っ たと考へられ 田 一は

良怜

同|

工 八一 めて 土圃 車と 號 静 、 疎 山元仁、 何 なく椎名の ヶ なって 、 蜀で 寂 、典例がない。 堂 集の十人から 居る。 、今 は共他 について概略を見よう。 居るの然し 、 が含下 に在り・ 更に桐山によ つ 寂 の 年 、世 誇 な 満とがあるとな ぱ ・武俊、即ち

(63)

ぢ武 陵から 末 れる。 祀堂集に も 白水の弟子とばして居ない。

養を下し 著

何と・を嬰げ 、長 興は鳳朔府 に在るとなすが、 朔は 翔であらう。

に 住し、天役牛 等は知られな レ lo 答 がめり、 共答 、菅川と房州 と

寺 に住し・六斎 山の法を得て

がある。

わ ぬし 、弟ナ 六二

桐山其位

る 。桐山語録 瑚 、瑚に鉄山 のナ 。三がめる。

(64)

風 、師不許安上

飴鯵経覆

青草

とあり、下二旬

ぽ 、八九八年頃

ら 、大 購 信ぜら

印ち 虎頭 和荷 、第五世は 共 弟子桐山 敏 である。 育 林の弟子は 、

石藏款炬 と襲 州 にぼ語句がない。 物を凌ぎ 、精

標準となった。

でもあったから、

0 所にも存する。 樹 黄葉送風 還

いう だといぼれ

には 機縁の語句 山 、一二 ノ

桐山其位

、 後に 洞 円に 佳 63

(65)

語 が存する。 弟 白馬弘 寂 、梅川 の 二人には語句を述べて居るの

桐山

良伶

が 録せられて居る。 妹 山 する時、洞 山は 、 曹 出に たのを、桐山は知らすに 師叔 頸を引いて呼んで 日 笑と、 後 智育 ふ 所の如し 書 となして 共 中に入れて したなどとは到底考へら 慧洪 がかかる詮を誠しや 能才 居 遁は姓は郭・ 臨 翠微 無 堅に参じた。 又 ・ 五馬 氏が 請 うて 湖南 濃 州 賜ひ 澄 空大師と 號 せしめ なして居る。之に よ れ ば 士ハ W Ⅲ 円 僻 の 曹山偲に 、 曹山が 桐山 を榊去甘 むと

時舩師叔が 之を知り、 維 床下に潜伏し 二種 溶混む 、宵山に投げ畢ったから、 倭 驚いて 日 ばく・法を盗ま ぼ倒 嗣及び無し 質 のものでなく、九て雪山の弟子が既に のは、後世人の作 諾 であり、麻由が盗 法 東野人の語である。自ら特 む所高 かつた

楠田 青 で出家し、嵩山に 径 つて 受 具して、 出 に末って大事を了した。後、天衆僻案 し 、後梁貞明の初め - ︵九一五 % 紫 袈裟を 寂したが・貴徳 陣燈録 のみは八十九歳と であるかどうかは判らない。能才は侶 頒 ガ . ノ

(66)

高 耶 と は 事 唯 と % 蝦 荷 偉 も - で 長 く 幽

洞芳デ

二景

し滴

るのるつ 句通燈こ燈綺

の 徳 て 大 の で 為 て は の 錬 と 録 は

に っ 玄 る 號 か る い 潜 入 な る 蝿 子 清 稽 至 て

ば に ち ろ 。 ふ 入 が い 。 千 も 道 道 円 通 し 。 し 蝿 上 、 表 文 窯 ぃ 九

臨海

博はれ

爾,

ィ ( ぷ 右 し で 洪 が 峯 後 居 和 て 子 に 公 恩 の " あ の " は 休 て 筒 頗 問 ナ各 る 爪革 そ 宜葺 静 " と る が 深 呼 奇 答 申 が 木村 れ 川 を Ⅰ こ 賛 す に 京 夜 ん 八

満、

二 た な 遊 こ 傍 ら ぁ 師 婦 だ で 七 が し び れ に 判 る に つ 白

、 て が は る の 在 た 夜 洞 と 互 用、 洞 律 九 、 な で っ 時 は 山 馬遁 0 桁 古 芯 た 、 東 の

儒、

問 俸 の 山

聴音

峯笘

いわ

ら 待 肥 山 池 答 , 燈 、 佳 日 を 車乞 が 録

寂後

き、

滴大 し峯 / 九 桐山 dl は し , 馬 4 号 峯 格 式 師 玄 語 景 干 て 廟 て 牙 。 @ 傍 凌 に 祀 銀 徳 赤口 、 の ズ J 、 伯丁 6 、 %L に に 相 師 130 陣 荷 祀 砥 ら 力し @ ま 席 末 違 が に 燈 8 % 小 銭 は 禾 て す っ な 棄 洞 録 往 四 の Ⅰ 居 道 る て か 徳 山 は っ 禾 中 岡 矛 Ⅰ る 幽 ら 博 と 使 た 意 に 川 向 し と と 徳 ぅ 燈 の の が を 臥 に い 三 山 。 録 間 間 ・ 間 し な 天 共 ふ 六 年 に 通 に 答 答 従 う た て 五 参 玄 あ が を 重 他 名 を た が 俗 @ 8 で・ 母轟 じ は る め 言己 聚 が Ⅰ て 二二 大 ぁ 者 た 佳 洞 る す め 、 華 混 啓 韓 る 案 が 氏 山 が の る 市中 嚴 じ

ミ " " と " み 教 祖 り 徳 共 の 祀 で

、江

こと 前 酒 林齢 蓋 す 堂 、 山 先 開 堂 な 藁 が 岸 | 圧 - る 集, 中 は は 答 案 何 く 盤 眞 で 木口 が に Ⅰ 5

(67)

桐山

良位

和の初め︵八八一色北進 し 、 又南 に還 し 、 乾寧 三年︵八九 さ 六十三歳で寂し あるが、 碑は断 壊し、僅に水神があっ 然し、 普満 大師の號は出て居ない。 然 九 峯の弟子に渋川風棲山岡安焼成 が + め 白馬婚 儒 8% 記は判らすに、多少の 弟子に興 元府青 御山和尚、京兆 保 幅が 乾峯 和尚は瑞 峯 ともいふとあるから 外 何事も知られない。 天山 利爾は 吉川に居たのであるが、 どうか。 天童川成 啓は明州 天童 出 であるが、 も明州 天童川成体があり、機縁の語句 なるものとして天童山戎啓を出して 居 實 釜山和尚 は浬州 に居たのであるが 北 暁通は谷川、 即 ち四川省成都府、

子 佳山第二世 竪 宗の弟子に

高僧 僻は竪宗 の弟子の 尤 しいものであらう。

の 。後に桐山に到り、未だ エ ノソ 、上、 らしめた。 爾木 堅人を接 待 は 自ら九 峯に 往ったことが したもので、信ぜられ得る。 るのである。具徳 悼燈録は るとなして居る。 馬は洛陽白馬寺であらう。 わるといふ。 みであって、多少の問答の 二人は果して桐山の弟子か ガげ

(68)

0 元 幽廿一 0 七八 |一 0 八苦頃の人々であらう。 す とあるから、

共 二十八歳であ 6

一山足

伶 上ハ 亡 ・ 同 l

新一百六十三歳後方

: 此塔

- 葬

,全身

に全身を葬

,彼岸

-

雲山林下

:迷津

-

流流

法乳誰無レ分

了了教如裁量

ことになるが、

して、次の掲を

朝せす、

復の初め完

0

一色街

入った。

日本

上職

となして

せしめたが、大に玄風を振

うた

後梁

宙拐印ぢ長

する。卍に 共 五胡 の後に 澄 真大師 和尚があると せ らしる。

(69)

ら る 見

せ追

のらり

" " 宋

高ふ既め疎疎

いり

と 政 一

十洞

の な 動 す 窩 れ 欲 偉 耶 従

人音鹿笛

。 。

「 る あ り 追 出 の た を 之 、 青 毛

の う 蓮田Ⅰ

、「

で か み た は ど

注 か 意 判 な ら

要 な と - ㌻ い そ 手 と 者 が ま な な

ノの

れ 段 が 皆 、 け く す 何 百 一 O 故 等 は 刺 捕 遠 、 と が を 太 る 矢 刃 洞 も

宋高

@

し、

述 牌 。 し の 出 、 有 霜田

沙辞

暦 7 周 べ 洞 こ て 祀 の 洞 時

る 出 れ 、 侶 名 山 で

ィ乙 二 ム は い

こ語等交

と録の々篇

のはにも

天は将

か ぅ か て

圃凰亡放

辞状 上人出かし 廿 に左 呉

s

囲囲 けに 下に 凡て て す に て 緯 喧 閑 時 人 法

る膀,| も、

し る 封 吾 せ 侍 名 で、

事號

ポ、 共 が 弟

らる

らお

で や

う、

雲居

ロ 寺 イ 可 。 の 洞 窟 、 れ つ 伺 々 ・ @ な 語 出 に 因 た た れ 代 槌 見 か 、 の せ っ も の に 五 日 受 を 及 壬 よ て の で し

け 指 六 び 圭 - と 深 で あ て 祀 の 請 山 あ る も 堂 接 ふ 無 る が 集 得 " 太 こ " 洞 な 提 と の と 自 由 ど 斬 あ 境 が ら ぼ

幼よ

葮 は他に に入・刀 る

牛 0 ノ l 1 力く 若 音 珪ブ つ - ノ Ⅰ れ の る で

け オ L 拝 ヨ - 五口 乙 <r な 68

(70)

られ得る。 雲 られるが、然し られて居る。 か れるのである。 第十桐山の示寂について、祖堂集に 、 、 今 。 撃 。 鐘 、俄然 而往 。大衆挽櫛。 師復 愛日、 夫 出家兄、 心 - 備 。 師亦少 W 。 至 ,八日 - 便: 明 洛ぺ 浴詫 端坐 長在 。 く名 づけたので 備 したといふの なくとも数日の 一度俄然として往いて、再び覚めたのであるか ら 、 宋 高僧 陣は 居る。桐山の 世 ・祖堂集は四十 居る。祖堂集 が 師角も 桐山先師

桐山

良位

六九 69

(71)

桐山見

で示寂しようと言うたとの僻説 に基い ら 、僧職四十一と数へ、それによって 杜 詩 居ると見るべきでほ無い。故に、桐山 は六 生は八 0 セ ー 八六九である。後に 悟 本欄 師 られ・塔を憲 見 といふ。︵一六・ ハ ・ ム 五︶ 文 士 を て は 三 六 層 七 , l 音 毛 茂 - 卜 る 。 本 寂 二 の 大 で と で 師 あ な あ と つ し る 勅 た た が 音 と の

申仏 70

(72)

れば 敵意を内 烈 であるらしい。 ヨーロッパ人が し 、それ ばぃは 的 生活塞間の 植 撫 との必要を痛 回教徒が世界的 意識に燃えて ゐ コーラン か剣か 七一

り Ⅱ

i;

サニ

フセン

研究に寄せて

ラン

か側

lf Ⅰ

フ 7

(73)

における ゴッグ ︵ l レ

らず﹁沙漠の笘

のぽ 、なんと 皮

煮 に符合すると

ながら、ルネサ

やむをえないと もい へる。 ︵Ⅰ︶ 目り笘シ ︶叶の @ し 一ヰ @ 弓 ¥ QQ@ ︶︶ コ @ の上︶ ざ、 H ︶Ⅰ∼の︶ 局コ 。 HH.

︶Ⅰ・ ヰ ㌔ ざ ︶︶の・Ⅰ 円

︶・ @0 日 ト侍ダロ のひ宰の

ロガこ せ 巳 . ⅡⅠⅠ など 捷ア照 0 ︵。 み ︶・ H 汀 ︶ 巴 ・・ す巴 ︶ め ・。 シ ∼・ q ﹁ 臣 め り おけ参照。

乃 にしても、

もかかばらす

七二 コ一 ラン か側 か たからであるらしい。

ぽ悪兜 のため

(74)

ア J で は へ 的 的 お

は れ ば な 諏 ょ ゃ

とし

な も 意 び ん、

押目

芸暴

結は

ニ 三五 % ひ 缶 に 対 い ッ ヨ三

・ ノ

-

ぎ ざ の ふ な 加 る て

に レ 、

のオ

り し - ビ ト ボ 風 い あ

も つ

" T

博 せ と と る く ョ 士、 め

て る に @

「あ

て ぬ 宗 宙ツ び る つ と 教 ノく 戯 ッ 早 化 資 Ⅱ 曲 ト や し 木 ッ し に め く て 主 パ か コ 麦 生 ダ ゐ 義 到 る

強が

に、

l 現し 涯を |テ

る。

的競 ン よ こ も そ 寧 国 策

前後

實 上 て 地 計宜 の世(:Ⅰ の諸 作 ひ 選 捜 盤を 」 界 人 意 す 原 に な に 物 的 る 料 な

圏知

にら・ 白 特別 して 致 貧地 「 観 に も 治 、 識 マ 察 回 、 自 り 可了 の

水準

ホメ した 教の 回教 意 固 場

ッ 祀 創 徒 と 過 が ト 下話 青黛 遊ヒ 堅 乗 u - ヒ 頒 ょ 首 好 的 人 界 歌 」 @ を 意 良 日 し も 簡 約 め の を 、 抜 に と 捌 さ 構 む し 取 か け ろ 想 、 し て り ら 口 に

た の

し め 口 約 革

の波

イ ラ に通 億漢

る。

人の 変 し 二 ル ず 祀 す 同 道 及 も る し な 教 的 と

わ 辿 で す 急 い れ つ ホ で に は ョ は て メ に 轡 は )

参照

関連したドキュメント

[r]

2)医用画像診断及び臨床事例担当 松井 修 大学院医学系研究科教授 利波 紀久 大学院医学系研究科教授 分校 久志 医学部附属病院助教授 小島 一彦 医学部教授.

 21世紀に推進すべき重要な研究教育を行う横断的組織「フ

 本研究所は、いくつかの出版活動を行っている。「Publications of RIMS」

また、第1号技能実習から第2号技能実習への移行には技能検定基礎級又は技

経済学研究科は、経済学の高等教育機関として研究者を

山階鳥類研究所 研究員 山崎 剛史 立教大学 教授 上田 恵介 東京大学総合研究博物館 助教 松原 始 動物研究部脊椎動物研究グループ 研究主幹 篠原

人類研究部人類史研究グループ グループ長 篠田 謙一 人類研究部人類史研究グループ 研究主幹 海部 陽介 人類研究部人類史研究グループ 研究員