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真宗教学研究 第19号(1998)

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情 演 会 歴史の中の教団 大 桑 斉 1 僧伽的精神の回復 安 冨 信 哉 21 研究発表 教団の本来的意味 柏 倉 明 裕 42 はじめに僧伽あり 木 越 康 50 一一真宗における「教団論jの位置一一 初期仏教教団における遊行と paribb亙jaka 茨 回 通 俊 63 平成7年度教学大会発表要旨 武 田 未 来 雄 星 名 万 美 75 竹 橋 太 酋 田 真 因 松 岡 満 雄 草 間 文 秀 三 好 智 朗 本 多 恵、 柴 田 泰

平成

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真 宗 教 学 学

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講 演 d』 ~

団 真宗大谷派教学大会の講演会に移らさせていただ きます。講演会に先立ちまして、本年度から研究発表な らびにこの大会のテ l マを、﹁教団﹂というテ l マにさ せていただきました、その経緯について少しだけお話し させていただきます。 昨年度までは﹁浄土﹂という大きなテ 1 マで、この学 会大会を進めてまいりました。三一年間、﹁浄土﹂という 大きなテlマで進めてまいりましたが、初年度は、が往 生をめぐって μ ということで、この記念講演にあたる会 ですけれども、シンポジウムを開催させていただきまし た。悌教大学の方から藤本浄彦先生に、それから龍谷大 学の方から浅井成海先生に、それから当派からは神戸和 司 会 教 講 大 桑 斉︵大谷大学教授︶ 哉︵大谷大学教授︶ 師 ,−'−合 -y; 一 一 日 田 * * * 司 会 延 道︵大谷大学助教授︶ 塚 長 日 麿先生にご出講いただきまして、お三人の先生にシンポ ジウムで往生について問題を深めていただきました。次 の年は、同じ﹁浄土﹂という大きなテ 1 マで、サブタイ トルを N ||還相回向をめぐって| 1 1 ぺということで、 池田勇諦先生、それから寺川俊昭先生、お二人の先生に ご講演をいただきました。そのご講演をうけまして、昨 年度でありますが、平野修先生、本多弘之先生、それか ら龍谷大学の方から石田慶和先生にお出ましをいただき まして、この還相回向についてシンポジウムをもたせて いただきました。 そういう三年度、一二年にわたって、﹁浄土﹂という大 きなテ l マで、問題を深めてまいりましたのですが、

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2 我々は平成十年に蓬如上人の五百回忌の御遠忌を迎えま す。それに先立ちまして、蓮如上人が﹁信をとれ﹂と勧 めて下さったご教化によって、現在の本願寺教団の基礎 が出来てきたわけですから、﹁教団﹂という具体的な問 題に焦点をしぼって考えていったらどうであろうか、と いうようなことになりました。教団というのは、組織と いう非常に現実的な側面ももっておりますし、また僧伽 というような非常に普遍的な意味ももっております。そ ういう意味で、重層的ないろんな問題をもっている課題 でありますので、この学会大会でぜひその課題のもとに 深めていこうではないかということになりました。 本年度はご案内のように、大桑斉先生に﹁歴史の中の 教団﹂というテlマでご講演をいただきます。それから、 続きまして安冨信哉先生に﹁僧伽的精神の回復﹂という テ 1 マでご講演をいただきます。来年度は、本日のお二 人の先生方のご講演をいただきまして、その課題を引き 継いだかたちで、同じテlマでまた問題を深めてゆけれ ば、というふうに考えております。ですから、できれば 来年度はシンポジウムというような形で討議することが できれば、というふうには考えております。 若干のテlマの説明でございましたが、 ただ今からご 講演をいただきます。先生方には一時間ずつほどのご講 演をいただきます。で、少し時聞がもしあればですね、 一、ニ、質問を受けさせていただきたいというふうに思 っておりますので、その点もよろしくお願いいたしま す 。 、 ご講演に先立ちまして、皆さんのお手元の方に先生の ご紹介等があります通りでありますが、大桑先生は、一 九三七年に金沢のお生れでございます。金沢大学を経ま して大谷大学の大学院で勉強なさって、現在大谷大学の 教授であられます。本日は﹁歴史の中の教団﹂という テlマで一時間ほど講演をいただきます。最後までご清 聴をお願いいたします。先生よろしくお願いいたします。

歴史の中の教団

桑 斉 ご紹介いただきました大桑でございます。﹁歴史の中 の教団﹂という、こういうタイトルを出しまして、自分 で出した自分のテlマに、今苦しめられておるようなと

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団 ころでございます。といいますのは、﹁教団﹂というよ うなことを、ここしばらくの間ほとんど考えたことがな かったわけです。そして今思いますことは、そういえば 二十年、二十五年ほど前に、教団という問題が随分やか ましいことがあったなあということを思い出します。そ して、二十五年前にあれだけやかましい問題であったこ とが、今なつかしい思い出になってしまったということ は、一体これはどういうことなのかなあ、ということを 思います。そして、今、改めて教団ということが問題に されねばならないのは一体何なんだろうか、と。今ここ で思いつきましたことなんで、それについて申し上げる だけの準備はございませんけれども、最初にそういうこ とを申し上げておきます。 私自身が宗門に身を置いております。そして歴史学の 研究をしておりますので、その中でかつては教団史とい うような分野に若干の発言をしたこともございました。 ですから、﹁歴史の中の教団﹂ということを、今までま ったく考えなかったといえば、ウソになってしまいます。 しかしそれは、歴史学の中で、教団を対象にしてきたと いうことでありまして、教団とは何か、ということを、 正面きって主題化してきた、主題的に教団ということを 教 3 問うたということが、あまりなかったように思うわけで す。そういう意味で、自分で出した題名に自分で苦しめ られているような、こんな状況になっております。 それから、私自身の歴史学の関心が、かつての教団史 から今はかなり離れてしまいまして、江戸の初期を中心 とする思想史に取り扱っているという、こういうことが ございます。ところが、この蓮知五百回忌というものを 間近にひかえまして、教団に身を置いて歴史をやってい る人間ということから、蓮如のあるいは蓮知時代の話を、 という注文がいろいろ寄せられてまいります。そこで、 外から課せられたような感じで、いろいろそういうこと を考えているわけですけれども、何しろそういう意味で、 私自身が教団史、真宗史を直接、研究課題としておりま せん。したがいまして、今日申し上げますことも、他人 の揮で相撲をとるようなことになります。つまり、自分 自身が研究をしておりませんので、自分の研究にもとづ いてものをいうということができないわけです。そこで、 もっぱら最近のさまざまな方々の研究を、拝見させてい ただきまして、そして、それを自分なりにまとめあげて ゆくという、そういう作業しか今の私にはできないわけ です。したがって、真宗史についての、あるいは真宗教

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4 団についての発言を求められました場合に、私は、真宗 教団の研究者ではありません、いわば一評論家でございま すと、こういう前置きをして、いつもものを申している わけです。本日もですね、そういういろんな方の研究を 利用させていただいて、そしてそれを論評してゆくよう な、そういうお話しにならざるをえないということをで すね、これもあらかじめおことわりさせていただきます。 それにいたしましでも、自分がやらなかったにいたし ましでも、歴史学、もしくは真宗史学が、教団論の蓄積 を十分に持っているならば、それはまだ発言しやすいわ けですが、しかし、真宗史学、あるいは歴史学全体を見 回しましでも、教団論というレベルでの研究というもの がほとんどない、と、こういっていいかと思います。と はいいますけれども、それでは、歴史学の分野で教団論 が必要ないのかといえば、ぜひともやらねばならない不 可欠なテlマであると思います。したがいまして、そう いう意味では歴史学、もしくは真宗史学の怠慢、私を含 めてのことでございますけれども、そういうことが今責 められているということになるのかなあ、と思います。 それでは、歴史における教団ということを一体どのよ うに考えてゆくかという問題なんですが、ある信仰が歴 史の場において、どのように展開していったかというこ とを、歴史学自体の問題として考えてゆくことが、これ からなされたにいたしましでも、そこに出てきますもの は、あくまでも歴史学の概念であり、いってみれば社会 科学的教団論でしかない。でしかない、というのはおか しいかも知れませんが、そういうものとして教団論が生 まれてくるだろうと思います。ところが一方で、そうい う教団論とはまったく違う、真宗学というような立場か らのいわば理念的教団論と、そのように申しておきます けれども、歴史学的な教団論と別に、理念的な教団論と いうものが一方で構築されているわけです。そうします と、この二つの教団論が一体どのように関わるのか、こ の間題が実は大変に難しい問題だと思います。中間の立 場ということはありえませんので、私なら私が関わると すれば、歴史学の立場で理念的教団論というふうなもの を問題にしなくてはなりません。しかしその場合に、そ れを問題にしてゆく方法論的な考察というものがなされ なければ、両者っき混ぜてというわけにはいかないわけ です。ですから、歴史学そのものが現在教団論を十分に 展開していない、それから、さらにその歴史学が理念的 な教団論を問題にする方法論を持っていない、こういう

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現在の状況からいたしますとですね、私が歴史の中の教 同という、こういう発言をすること自体が、ある意味で まだ時期尚早である、そういう状況にいたっていない、 こういうべきではないのかと思います。現在の状況がこ ういう状況であるということをご認識いただく、そのこ ともある意味で必要ではないか、このような状況をある べき方向に進めていく一助になればと思って本日の話を 考えてみました。 理念的教団論と歴史学の立場 団 そこで考えてゆく順序といたしまして、理念的な教団 論と歴史学の立場ということを最初に、現在私の考えら れる範囲で、考えておこうかと思います。 歴史の中の教団、つまり歴史学が対象とする教団とい いましでも、それは教法が歴史的世界と切り結んだとこ ろに聞かれてくるものである、このことは絶対否定でき ないものでございます。その歴史的教団に、教団の理念 というようなものがどのように顕現しているのか、ある いはしていないのか、こういうことを問うことは当然あ ってしかるべきことです。ただし、その場合に考えてお かねばなりませんのは、理念としての教団もしくは教団 教 5 の理念、そういうものが歴史の始まりにおいて既に存在 していたというよりはむしろ、宗祖にみられる教団理念 あるいは理念としての教団というものは、歴史の過程の 中で見いだされてきたのではないかということです。初 めに理念ありき、というように考えることができるかど うか。むしろそうではなくて、歴史の過程の中で再構成 され、さらには現代、今において再構成されて、理念と しての教団あるいは教団の理念というふうなものが作り 上げられてきたのではないのでしょうか。歴史が始まっ てから歴史の中で構築され、今再構成されて歴史を意味 付けているもの、それが理念としての教団あるいは教団 の理念、こういうものではないのかと思います。このよ うにいいますと宗祖における教団理念あるいは宗祖にお ける教団の顕現ということが、当然問題になってまいり ます。けれどもそれは、宗祖において事実として教団理 念があったということ以上に、それは今どういうものと して見出だされねばならないのかと、こういう要請のも とにおいて宗祖における教団理念あるいは教団の顕現と いうことが問題にされるのだろうと思います。このよう に、いまあるべきものとして、歴史過程を通りこして現 代において構成された教団の理念を宗祖に求めていきま

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6 理念が歴史の中で生み出され構築されてきたとい う歴史が無視されることになる。そればかりか歴史の中 の教団というものは極めて不完全なものであるとして、 いわば断罪されてゆく、そういう対象にしかなりえない、 こういうことではないかと思います。 ところが、一方で、歴史なるものも、今が構成した構 成物に他なりません。童日かれてはじめて歴史は歴史にな るわけです。書かれない歴史というものは、歴史として は存在いたしません。だから、そういう意味で、歴史と いうものもかくあった、というものではなくて、あるべ きもの、これからあるもの、そういうものとして歴史と いうものも存在いたします。したがって、歴史もあるい は教団の理念も、両者ともにいわば構成されたもの、構 成されるもの、としてあるわけです。そうであるならば、 構成された理念を構成された歴史の中に持ち込んでゆく、 そういうことは当然理論的に可能になってまいります。 したがって、ある理念の顕現として教団の歴史というも のを書く、これも理論的には可能でございます。そこに は、理念的教団観に先導された教団の歴史が書かれ、理 念的教団史が成立します。 しかし、もうひとつ注意しておかねばならないことは、 す と 、 歴史は書かれたもの、あるべきもの、構成されたものと して存在いたしますけれども、しかし一方で、歴史的現 実、歴史の現実といわれるものもまたあるわけです。そ れは、いわゆる事実という意味ではございませんで、そ れ自体もやはりひとつの構成物に違いないのですが、し かし、その歴史の現実として構成されたものが、二疋の 歴史の過程の中で、一定の普遍性を獲得しております。 つまり、歴史というものはこうあったんだという、ひと つの常識が成立しております。その意味で、それを離れ て、それとまったく違う理念の顕現としての教団の歴史 というものを書き上げてゆくことは出来ないわけです。 そしてそういう歴史の現実、現実としての歴史、あるい は常識としての歴史といいますか、そういうものを念頭 に置くならば、歴史の中の教団というものは、いわば教 団の理念の顕現ということよりも、むしろそういうもの を裏切るものとして、理念に対峠するようなものとして 存在しております。 ところが、そのように問題化されているならばともか く、理念的な教団論、それとまったく別の歴史的教団論、 この両者は現実においてはまったく無関係なものとして、 つまり両者切れ合うことがまったくないままに、勝手に

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団 存在している、面者の聞に関係性がまったく成立してい ない。そういう意味では、お互いにまったく問題になり えない、こういう状況になっておると思います。したが いまして、理念的な教団論の方から歴史学の教団論を仮 に見ることがありましでも、それは教団理念を裏切った 教団としてしか見てゆかない、という意味で、いわば全 否定的な関わりがなされています。同じように、歴史学 の立場からいうと、逆に理念的な教団論というものは、 歴史の現実をふまえていないというように、これも全否 定するのが大体一般的なやり方です。お互いに両者が相 手を全否定してみてもですね、それではまったく何の意 味も持ちえないだろうと思います。そこで、一体どのよ うな方法というものが考えられるのだろうか、歴史学の 教団論と理念的な教団論、両者の関係を問うための方法 的問題、これがどのようなかたちで処理し得るのだろう か、ということを、実は考えているわけでございます。 そこで、方法論的な処理の一つの手段といたしまして、 理念的な教団論と歴史的な教団論の分裂を統一するため に、両者を媒介するもの、そういうものを設定すべきで はないのか、このように思います。これは両方を突き合 わせるために考え出したというよりも、実は私が現在歴 教 7 史学に関わっております基本的視点、それをこの理念的 な教団論と歴史的な教団論の媒介項に出来ないだろうか、 このように実は考えているわけです。それは、人々にと って教団とは何かと、こういう視点を持ったらどうだろ うかということです。私が現在やっておりますことは、 先ほど思想史というように申しましたが、より正確には 民衆思想史ということを考えております。そういうこと を考える立場から民衆といわれるような人々にとって、 一体教団とは何だったのか、歴史を生きた普通の人たち、 あるいは歴史の中で真宗門徒として生きた普通の人々、 そういう目で歴史的な教団を聞い、あるいはそこから理 念的な教団というものを問う、こういう媒介項を視点と して設定してゆく、そういうことが出来ないだろうか、 そのように思っております。 そこで、そういうことを前提に置きまして、歴史学か らの教団論のもっている方向性を一瞥しておきたいと思 います。そして、それとあわせて、いわゆる理念的教団 論というものを私なりに理解してみようと思います。こ のように歴史学の現在の状況、それから理念的教団論の 現在の状況、この二つを押さえ込んだ上で、そこで私の 視点を導入して、何か別の突破口を見出だせないかと、

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8 こういうように話を展開したいわけでございます。 そこで、現在の歴史的教団論の方の方向性というもの を考えていきますと、教団史の全分野にわたって展開さ れているとはいい難いわけでして、現在は蓮如教団と一 向一挟、ここにもっぱら研究が集中しております。その 方向性は、蓮如教団と一向一撲を関連づけて考え、そし てそれが戦国期の社会というものにどのように位置付け ることが出来るか、こういう方向性で現在研究が進めら れております。例えばその代表が、本日取り上げてまい ります金龍静氏なんですけれども、この四月の中央同朋 会議にご講演いだたいた、そういうことでみなさんご存 じの方でございます。金龍さんの考え方の全体は朝日新 聞社が出しました﹁親驚と蓮如﹄所収の﹁蓮如の生涯と 本願寺教団﹂︵一九九二年︶によく示されておりますの で、これをベ 1 スにしていきます。この他﹁岩波講座日 本通史第叩巻﹄に収められています﹁宗教一挟論﹂は一 番最近の業績ですが、そこでは一向一授と蓮如・本願寺 とは無関係であるという既成概念が存在していたために、 真宗教団を対象にした研究は、一向一授の歴史と教団史 と、両方へ分裂状態にある。そこで両者の分裂を克服し てゆくということ、これが、金龍さんの基本的なテ l

になっております。門流から宗派へという、こういう点 に蓮知教団の形成の基軸を設定して、そこから様々な教 団の特徴というものを導き出す、こういう方法をとって おられるように思います。そのことは後ほど詳しく申し 上げようと思いますけれども、それに対して、理念的な 教団論はどのように展開されているのかということを見 て お こ う と 思 い ま す 。 その理念的教団論で私が気が付きましたのは、児玉暁 洋さんの﹁浄土・僧伽・教団願生浄土の仏道﹂とい うタイトルを持ちます、﹁教化研究﹄山・山合併号に昨 年発表されました論文、これが一番新しい理念的な教団 論というものであろうかと思います。簡単に取りまとめ て申し上げますと、浄土・僧伽・教団、この三一者の意味 およびその関係、そういうことを考えた論文であろうか と思います。その三者の一番根源にある﹁浄土﹂は、 ﹁我らに本当に生きる事を実現するはたらき﹂といわれ ております。その浄土の働きを受けとめて生まれてくる 新しい衆生は﹁願いに生きる﹂という新しい﹁いのち﹂ を生きることによって、﹁個の尊厳と存在の平等という 質を持つ念仏の共同体﹂という僧伽を生み出してくる、 これがこの論文の僧伽の規定かなあと思います。そのこ

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凶 とによって、核土は開法・求道の場として方便化身土に 転換される。その方便化身土としての械土、すなわち現 実世界、そこでの開法の歩みのうちに形成されてくるの が、これが教団だと、そのように私は理解いたしました。 その教団は、﹁真宗門徒でありながら真宗に帰していな い﹂という﹁慨慢界、疑城胎宮﹂、そういう姿を明らか にしてゆきます。そのことは、教団というのは一つのセ クトでありながら、その﹁セクトは﹁非党派﹂としてそ れ自身のなかに自己否定のはたらきを持っている﹂。つ まり、このセクトはその内部にセクト性を否定するもの として僧伽を内在させているわけです。そういう意味で の僧伽が健全に働けば常にセクト性を打ち破る働きとな って現われてきます。これが僧伽の精神ということにな る、このように私は受け取りました。ここでは理論全体 がどうであるかということはさておきまして、このよう な僧伽という理念に注目しておいては、と思います。 そこで、このような僧伽論としての教団論を今度は歴 史と突き合わせることがなされております。法然や親驚 のもとの念仏者、これが﹁念仏の僧伽と呼ぶに相応しい 共同体であった﹂。ところが、﹁改邪紗﹂に教団を見出だ された児玉さんは、﹁覚如上人こそが本願寺教団の創設 教 9 者﹂といい、そして、その覚如の本願寺というものは、 黒田俊雄氏のいう﹁顕密体制﹂の寺であると、このよう にいわれますので、関東の念仏者の集団から覚如の本願 寺教団がル止まれた段階で、そのことははっきり書いてご ざいませんけれども、おそらく僧伽の精神というものは どこかへ行ってしまうことになったんだろうと思います。 そうすれば、覚如の本願寺教団というものはまさに悌慢 界、疑城胎宮であったと、このようになってゆくのでは ないかと思います。さらに考えれば、僧伽が否定された ところに歴史的教団が生まれたと、このようなことにな るのかなあと思います。こうしたことを前提にいたしま して、蓮如上人の﹁真宗再興の志願﹂が生まれて、その 実現として山科本願寺がある、こういわれます。ですか ら、覚如の教団、これを自己否定した僧伽の精神として、 蓮如の教団がとらえられている。まあこのように私は読 み取ったわけでございます。 このような児玉さんの理念的な教団論というものは、 浄土から生まれてくる僧伽という精神を設定いたしまし て、それを教団史の中に適用していったという方法であ ろうと思います。そして、それぞれの時期の歴史的教団 に、いわば僧伽の精神があるかないか、このような問い

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10 方になっているのではないでしょうか。そうすると、ま さにこれは、初めに理念があってその理念を歴史の現実 の中に適用してゆくという、こういう方法です。ですが、 先ほど申しましたように、このような方法でいいのだろ うかということを思います。理念を理念として構築する、 そのことは間いませんが、それが歴史に適用される場合、 このような適用のされ方ですと、あらゆる歴史を理念で もって裁断してゆく。そうではなくて、理念的な教団地一酬 を歴史に適用する場合、何らかの方法論的な処理という ものがもっと考えられなければならない。それを欠いた 単純な適用論では私は問題が多すぎると、このように思 い ま す 。 II 歴史学の教団論 そこで、それでは翻りまして歴史学における教団論の 研究成果というものを少し見てまいります。先ほど申し ました金龍静氏の一連の教団論、蓮如教団研究というも のを中心にいたしまして、それに神田千里さんの所論 ︵ ﹁ 戦 国 期 本 願 寺 教 団 の 構 造 ﹂ 、 史 学 雑 誌 一 一 四 四 ︶ を 補 足 として用いて、問題を三点ほどに整理してまとめてみよ う と 思 い ま す 。 金龍静氏は、蓮如は﹁従来の法脈を中心とした門流観 と決別し、親驚以来の血脈相承を根拠に、宗派として独 立﹂を成し遂げようとした、というように、門流から宗 派へというテ 1 マをたてて、蓮如における宗派独立に教 団の成立を見ております。その内容といたしまして、ま ず第一に、それまで本尊と称されていました様々な画像 類、これを一切破棄いたしまして、名号と阿弥陀如来像 のみを本尊と定める。そして各種の親驚像のうちから、 礼盤に座る親驚、そしてそれと連座する蓮如、この連座 像というものを選択してまいりました。ただ一人の宗祖 と、それに寄り添う宗主蓮如、こういうことをもって教 団形成というものを成し遂げた、このようにいっており ます。そうしますと教団の成立には、ただ一つの本尊、 ただ一人の開祖、そしてそれに寄り添う宗主が、まずも って必要条件であった、このようになるわけですが、こ のような教団観念というものが、先ほど申しました理念 的教団論とはまったく次元を異にするものであるという ことは、いうまでもないわけです。言い換えれば、ここ に、僧伽論のように、この蓮如の教団が真であるか仮で あるか、というようなメルクマールはまったく持ち込ま れていないわけです。門流から宗派へということ、 こ の

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団 門流は、決して僧伽を意味するわけではありません。む しろ僧伽と反対の立場を意味するのが門流という言葉で しょう。ですから門流から宗派へということ、このこと は僧伽から教同へということでもないし、この逆でもま ったくないわけです。このようなメルクマールをここに 持ち込むことは、ここでは行なわれていないのは、当然 といえば当然のことでございます。 さらに金龍さんの研究をもう少し続けて見てまいりま すと、次に裏書ということが問題にされております。ご 存じのように、本尊・画像類には、下付されます時に必 ず裏書が付加されます。この裏書の書き方というのは、 ﹁大谷本願寺釈蓮知しという宗主の名と書き判︵花押︶ が一番最初にありまして、年月日があって所付けがあっ て、最後に願主名に終わると、こういう形式を持ってお りますが、これを裏側から見るのではなくて表から見た らどうなるか。表からは実は見えませんけれども、しか し、もしこれをまったくひつくりかえして逆に見たらど うなるか。そうすると宗主の署名、書き判というものが、 これが一番最後に来ることになります。そういう形式と いうのは、実は古文書学上では﹁奥判下文﹂という形式 にあたる。そうすると、その奥判下文というものは 教 11 ﹁真﹂の命令者が直接署名を加えぬ形式で、裏書きはこ の形式を意味することになります。したがって、裏書に は﹁大谷本願寺釈蓮如﹂というように書いであっても、 じつはそれを下付した真の下付者は親驚なんだと、こう いうことを意味するものだと、こういう論一証をされてい るわけです。ということは一体何なのかということにな ってきますが、こういう裏書を持ちます本尊・画像とい うものが、本願寺教団というものを組織してゆく上で、 大変重大な役割を果たしたのだということを、金龍さん は説くわけです。すなわち、この下付を願いました﹁願 主は、下付された本尊・画像の元で、月に一・二回﹂、 つまり毎月両度のご命日に、﹁宗教的な集会︵講︶を催 し﹂ます。その際、この講に集まり講の役を勤めるもの、 これが﹁願主のもとにおける組織的・固定的な門徒とし て確定﹂されてゆくわけです。このように、本尊・画像 への勤仕・奉仕ということが、﹁役﹂として設定される、 このことによって門徒の組織化が行なわれたということ を考えるわけです。そうすれば、この門徒の組織化とい うことも、本尊・画像のもとですから、実は親驚の、か くれた親驚の名において、宗祖の名において門徒化とい うことが進んでゆく、こういうことになります。このよ

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12 うなことを理念的教団論から見れば、宗祖親驚のあるべ き姿ではないというような非難があるのではないかなあ というふうな感じがいたします。 それから、もうひとつ重要な問題は、経済的な基盤が、 ﹁懇志﹂というものとして考えられてきたわけですけれ ども、その懇志というのは、単なる金銭の上納というこ とではない。懇志という言葉の用例をずっと検討されま して、まさしく字の通り﹁ねんごろな志の思い﹂という 用例がある、あるいは﹁手足をも運び:::たてまつらん 人こそ:::報恩謝徳の懇志﹂という言葉がありますよう に、﹁ねんごろな意識で参詣・出仕︵その結果として懇 志上納︶﹂するという、これが懇志という概念である。 金銭を納めるということよりも、むしろ出仕して奉仕す る、つまり役を勤めるということが懇志の中身である、 このように考えてゆきます。そして、その﹁役を勤める 者を身分的にその集団の帰属構成員と確定﹂するという、 こういう機能がこの懇志上納には備わっております。こ のようにして、本尊、そのもとでの集会、そこへの出仕、 勤仕、それを役として教団構成身分が確定するという、 こういうラインで考えられてゆきますと、本尊というも のが、教団形成にきわめて重要な意味を持った。教団と いうものは、本尊への懇志、つまり役の体系によって組 織されている、こういうものである。しかも同時にそれ がひとつの身分秩序を形成している。あるいは、さらに は、その画像を取り戻すということが破門につながると いうようなことから、この画像が同時に破門権あるいは 成敗権というふうなものとしても機能する。まあこのよ うに考えております。このようにして、金龍さんの一つ の論点は、本尊・画像類への奉仕ということを軸とした 身分編成論として、教団構造論が作り上げられているわ け で す 。 それから第二に教団の結集原理というべきものを金龍 さんが提示いたします。﹁阿弥陀如来絵像や画像類を下 付される者は、ほとんどは地方末寺に属する末寺・道場 坊主たち﹂で、本山に直結していないのですが、その坊 主たちに本山、本願寺が直接画像を下付することによっ て、願主の法名を追認するということで、宗主がいわば ﹁名付親﹂になる。その結果、地方の末寺門徒も本願寺 に直結するという意識を持つことになるわけです。この ようなことを﹁複合大家族集団の家父長である蓮如と、 その一冗での膨大な猶子群、このような原理で、教同の結 集が進められていった﹂のだと、このように述べており

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団 ます。さらに加賀に一向一授が成立いたしますと、その 一向一撲の組織の中心をなします組衆というような人た ち、こういう人たちに対して、本願寺宗主が烏帽子親と なって擬制的な親子関係を結ぶ。そこでこれまた巨大な 家としての本願寺ということをあらわしてくることにな ります。そのようにして、﹁本願寺が巨大な家﹂となり ますと、毎月両度のご命日という、本来善知識への、善 知識迫慕の報恩謝徳の行事であったものが、これが先祖 忌の性格を持つことになってくる。このようにして、本 来の善知識への御恩報謝というある意味では僧伽の原点 になるような、そういうものが、家の組織というような 世俗的な原理に変質していった、これが一つの論点であ ろ う と 思 い ま す 。 それから第三の論点は、金龍さんもそうですが、神田 千里さんが強謂する﹁教団全体を一挟とみる﹂という視 点です。このことを考えてゆく場合に重要な問題は、 ﹁御文﹂では、仏恩報謝の念仏が説かれ、報謝行という ものが念仏ひとつに絞り込まれております。ところが、 人々にとって念仏は、報謝行の一部でしかない。といい ますのは、先ほど申しましたように、懇志を運ぶという こと、これが報謝行の非常に重要な部分を占めてまいり 教 13 ます。ですから、念仏は報謝行の一つであるけれども、 念仏のみが報謝行では決してない。日常、非日常のすべ ての行為が報謝行であった、このようになってゆきます。 そうしますと、戦国時代の教団というものは、どこまで もどこまでも限りのない報謝行ということを要求する、 そういう教団になってゆくわけです。神田さんは、往生 のための念仏ということを否定したということは、これ は信徒の側から仏の世界へ働きかけることが一切否定さ れていることだと、つまりこれは、﹁浄土往生の為の交 換を否定した﹂思想である、このように神田さんはとら えます。このように交換を否定したことによって、本願 寺への報謝の懇志というものは、本願寺と門徒の聞の ﹁双務的な関係ではなくて﹂、もっぱら﹁他力信心を教 えた親驚に対する門徒側の報恩という一方的関係﹂にな ってまいりました。したがって、往生治定の喜びが深け れば深いほど、懇志もそれにふさわしい形を取らねばな りませんので、喜びが深まってゆくにともなって、無限 に肥大化してまいります。こうして、親驚の家すなわち 本願寺を守るための、命と引き替の軍役もまた親驚への 報謝、否最高の報恩謝徳となる。こうなれば報恩謝徳の 論理が、本願寺が門徒の一撲すなわち二同一撲を発動す

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14 る為の論理となるのは見やすい道理となります。このよ うにして、報恩謝徳の論理が、二同一授を引き出したの だと、神田さんは考えます。 そして、一方で教団全体を一挟と見るという考え方の 一つの有力な論拠は、宗主といえども、﹁教団の衆議に よって決定される﹂ということです。細かい論証は後で また申し上げますけれども、宗主の決定ということは、 教団の中の衆議によって決まるんだと、このように考え ます。したがって、宗主といえども、親驚以来の提に背 いてはならない、こういうなことが含まれてまいります ので、この点では一授というものが持っている平等意識 は宗主まで含むものである。そこで、﹁門徒たちにあっ ては一撲の平等意識と、親驚の血筋の権威への無条件な 服従とは何の矛盾もなく併存﹂するのであり、このよう にして教団は、﹁世襲の棟梁を持つ一挨﹂となったんだ と、非常に荒っぽく申しましたが、このような教団全体 が一撲であるということが、神田千里氏を中心として展 開されている論理でございます。

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歴史の中の教団における僧伽 以上が、現在蓮如教団論の中で問題になっている教団 構造論の概略でございます。それでは一体、このような、 ﹁懇志﹂を報恩行として役に組織する、あるいは身分に 編成する教団、巨大な家としての教団、あるいは全体が 一撲であるといわれるような教団、このような教団構造 論というものは、教団をまったく世俗的な、あるいは社 会的な存在としての教団という観点からのみとらえよう とするものですから、このなかに僧伽がどうであるかと いうようなことは全然入っていないのは当然なわけです。 そこでこれをもう一度僧伽というような観点から見なお してみると一体どうなるかと、そのことを少し考えてみ よ う と 思 い ま す 。 そこでこれを一撲ということを手がかりにして、少し 考えていってみょうかと思います。蓮知が行ったところ、 そこではすべて一撲が起こったという、こういう事実か ら考えて見たらどうかと思います。蓮如の行くところ、 人々はすべて一撲をもってこたえたと、こういっていい かも知れません。そもそも、大谷破却つまり、寛正の法 難といわれる事件がありますが、ここでは一撲は起こっ ていないようでございますけれども、実は後から堅田門 徒が駆けつけてまいります。これは考えてみれば、武力 衝突にはいたらなかったけれども、破却の後ではあるけ

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団 れども、一撲が起こっているということを示しているわ けです。武力衝突がなかったものだから一授がなかった ように考えております。それから、蓮如が近江に移りま すと、蓮如を目指して山門の武装勢力が押し寄せてまい ります。そこで、蓮如を守って戦う門徒との間で、いわ ゆる金森合戦といわれる事件が起こります。これも明ら かに、一向一挟が起こったことでございます。他にも蓮 知の近江時代に様々な一撲が起こっていることは有名な わけです。そこで、今度は次に吉崎に移りますと、ここ ではまさしく一授の渦中に蓮如は入ってまいります。し かも蓮知の一番お膝元の士口崎に集まっていた多屋衆とい われる人たちが、吉崎が危機的な状況におち入ると、一 命を惜しまず合戦すべしという決議を行ないます。これ が多屋衆の御文と呼ばれるもので、一命を惜しまず合戦 すべしという多屋衆の決議を、蓮如が文章化いたしまし た。そういう意味で帖外御文に残っているわけですね。 その後の文明六

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七年には加賀での一向一撲が続発した ことは御存知の通りです。さらには蓮如が立ち去った後 にも、一撲の結成あるいは蜂起ということは、ずうっと 継続してゆきまして、やがて長享の加賀の大一撲となり ます。そして、加賀には﹁百姓の持ちたる国﹂というも 教 15 のが生まれてきました。 このように蓮如の行く先々でもって、人々が一撲でこ たえたということは、一体どういうことなんだと考えま すと、それは、﹁百姓の持ちたる国﹂といわれますよう に、人々が百姓としてのおのれの生きざまを、一撲とし て表現したということでないのかと思います。この当時 の人々の共通した願いは﹁現世安穏、後生善処﹂という 言葉によく示されております。いろんな史料にこの文句 は出てまいります。そういう﹁現世安穏、後生善処﹂と いう人々の願い、その願いを実現するものとして、人々 は信心獲得を求め、あるいは往生治定の保証を求めたの ではないでしょうか。それが保証されていった時に、そ の歓喜を報恩謝徳の行として、一撲として表現したわけ です。ですから、蓮如の行く先々で一撲が起こったとい う こ と は 、 蓮 知 の 教 化 を 、 つ け た 人 々 が 報 関 心 謝 徳 の 行 と し て一撲を起こしたということです。しかも、自分の願望、 自分たち自身を守るということ、こういったこと自体も 自分の力で守るしかなかった戦国時代におきましては、 一撲ということはごく普通のことでした。そういう意味 では、人々の生活というものは、報恩謝徳の行として、 そしてごく普通の行為として一撲をもってするというこ

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16 とからいえば、まさしく人々の生活というのは、全体が 一撲そのものであったのではないかと思います。 このことをもう少し詳しくいいますと、村々での人々 の生活というものは、﹁惣﹂を結成するということに始 まります。惣村といわれるものですが、﹁惣﹂はそれ自 体で財産を持っております。それから構成員が平等な権 利をもって衆議と呼ばれる合議制で運営されてゆきます。 さらには﹁古来の大法﹂といわれる、国家の法などとは 全然違う、独自な慣習法をもちまして、それに基づく裁 判権、成敗権を合法的に所持しております。とすれば、 このような﹁惣﹂というものは、いわばひとつの自律的 な集団であります。その自律的な集団、これを別のいい 方をすれば、一撲ということに他ならないわけです。し たがって、民衆の日常的な生活のあり方、これが一撲な のです。そして、それがたまたま蜂起したことだけを、 我々は一撲と呼んでおりますけれども、決してそうでは ない。郡中一撲、河北郡一投、何々一撲というものは、 日常的に自分たちの生活を自ら律してゆく、そういう姿 が一撲という姿なんです。 ですから、そういう日常的に一撲を結んでいる状態に おいて、その人たちが門徒化してゆけば、自律的な集団 である一授が、そのまま門徒集団になってまいります。 あるいは、門徒集団になった一授は、そのまま一向一撲 になってゆくわけです。一撲の実践は、すべて仏恩報謝 の行為として位置付けられてゆきます。そこでは、門徒 化した人たちの全生活というものは、門徒としての宗教 的実践に覆いつくされている。あるいは一撲が門徒化す れば、一撲の組織がそのまま教団組織となり、一撲の行 動がそのまま教団の行動となる。このようにして一撲と 教団とは、完全に重なってしまうわけです。ということ は、教団の内に様々な一投の精神が持ち込まれてきたこ とを意味します。そういう事例を一つ考えてみようと思 い ま す 。 教団の捉という問題がございます。例えば、御文の四 帖目第六通ですが、これは文明十五年の山科本願寺にお ける報恩講において、二一か条の提が定められたというこ とが書かれてございます。ところが、その一番最後には、 ﹁この両三年のあいだ、報恩講中において、衆中として さだめおくところの義、ひとつとして違変あるべからず。 この衆中において、万一相違せしむる子細、これあらば、 ながき世、開山聖人の御門徒たるべからざるものなり﹂、 こういう文章が、最後についております。ということは、

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この三か条の捉は、本山の報恩講に参詣した門徒たちが、 衆中として制定したものなのです。そのゆえに、この提 の違反者は、衆中の名で衆中を追放されます。このよう にして衆中という名で提を作り、衆中の名で追放すると いうこのやり方は、まさに人々が﹁惣﹂において、ある いは一撲において実行していた作法そのものなのです。 このようにして、一撲の作法としての衆中追放というこ とが教団に適用されて、破門ということが成立します。 こういうことは既に立教大学の藤木久志さんが﹁一向一 挟 論 ﹂ ︵ ﹁ 講 座 日 本 歴 史 ﹂ 中 世 2 お東大出版会︶のなかで 指描し、そして神田千里さんがこれを継承して展開して お り ま す 。 団 このことから、神田さんはさらに様々な事例を追加い たしまして、宗主の御書も一方的に個々の門徒が受けと ったのではなくて、宗主の御室田に対する衆議による一味 同心の受諾という、こういうあり方があるんだと指摘し ました。宗主の御室日を一味同心して受諾する、そうすれ ば宗主と門徒は、ここで一撲に結ぼれた存在として﹁と も同行﹂ということになるのだと。したがって、一撲の 平等意識が、信心に立脚する概念である同朋意識を生み 出していたことになるのではないでしょうか。ですから、 教 17 蓮如の同朋精神ということがいわれますが、例えば御丈 の第一帖目第一通の﹁とも同行﹂や﹁御同朋・御同行﹂ という言葉の根底にはこのような一授の平等意識、そし てそれと同じ一撲に結ばれている蓮如、こういうことが あって初めて蓮知が言い出すことが可能になった、こう いうことではないのかと思います。だから、同朋意識と いうのも、親驚の、宗祖の理念にあったからというより も、実は教団の組織が一撲の理念を取り込んでくること によって、同朋意識というものが新たに見出されてきた と、このように考えることが出来るのではないでしょう か。あるいは、﹁おれは門徒にもたれたり、と。ひとえ に門徒にゃしなわるるなり﹂という、有名な言葉、その 後に﹁聖人の仰には、弟子一人ももたずと。ただとも同 行なり﹂︵﹃空善記﹄︶と、こう続くわけです。で、この 言葉も、このような一撲の平等意識に支えられた平等意 識、このように神田さんはいうわけですが、まったく私 もそれに同感いたします。 つまり、蓮如の﹁門徒にもたれたり﹂﹁ゃしなわるる なり﹂あるいは﹁ただとも同行なり﹂という言葉は、教 団全体が一撲というあり方に支えられたというところか ら発想されたものだ、こういってもいいのではないかと、

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18 このように考えます。一撲の平等精神に立脚して人々の 生活のすべてのありょうが実現されてゆく、そういう場 として教団はあったのではないかと、こう考えます。そ こで、そのような人々の生き方によって生み出されてき た教団、あるいは一撲の精神を反映し、一撲の精神を基 盤として成り立ってゆくような教団、こういうものが ﹁仏法領﹂といわれるものでないのかと思います。黒田 俊雄さんの言葉でいいますと、仏法領では、﹁仏法がす べてを支配し、ひとびとは仏法によって擁護されあるい は罰される﹂という。こういうものであるならば、それ はまさに﹁惣﹂とか、あるいは一授とかいわれるものが そのまま門徒化した、こういう集団である、こう考えて い い と 思 い ま す 。 具体的にそういう仏法領の事例を、越中の五箇山とい うところに求めてゆくことが出来るように思います。越 中五箇山というのは、実は戦国期に入りました頃から、 この領主が誰であるかほとんどわからない、そういう意 味では﹁無主の地﹂になっております。この五箇山を三 分する有力者、﹁村殿﹂と呼ばれる人たちを代表とする ような、惣的な結合が生まれてきます。いわば集団的な 自治支配が行なわれております。ところで、その村殿た ちは、一方では道場を構える坊主でもあり、本願寺から は、﹁五箇山衆﹂という名前で呼ばれる門徒集団を形成 しております。そして、やがてこれが戦国の半ば頃にな りますと、﹁五箇山十日講﹂という信仰集団に発展して まいります。このようにして、そもそも五箇山惣、惣村 ともいうべきような自律的な地域集団があって、それが 門徒化して五箇山衆という門徒集団になる、さらにそれ が信仰集団として十日講というものを作り上げてゆく、 まあこういう二一重構造、あるいは三つの機能を持った組 織が一体化している、このように考えることが出来るわ け で す 。 そういう点だけでも仏法領と呼ぶにふさわしいわけで すが、そこに蓮如の高弟、赤尾の道宗という人物が存在 したということは、大変大きな意味を持っております。 そして、この赤尾の道宗という人は、従来、一撲などと まったく関わりのないような信心一筋の人であると、そ のように考えられてきました。しかし、私はそうは思い ません。というのは、例えば井波の瑞泉寺の住職が、 ﹁道宗へ、世間の公事辺をも御談合﹂されたという史料 ︵﹁天十物語﹄︶があります。﹁公事﹂というのは、裁 判・訴訟のことを意味いたします。井波瑞泉寺の住職が

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団 道宗に裁判のことを相談しているわけです。ということ は、赤尾の道宗は信心一筋の人ではない、そういう世間 の公事に通じていた、そういう人物であるということが、 この言葉からわかつてまいります。その道宗は蓮如の高 弟として信心の人ですから、信心にもとづいた衆議によ って五箇山では裁判が行われていたことになります。さ らには、有名な﹁道宗二十一筒条﹂というものがござい ます。道宗が自分の信心のありさまを書き記したもので ございますが、一番最初の有名な言葉が、﹁後生の一大 事、命のあらん限りは油断あるまじき事﹂という、言葉 で始まってまいります。この道宗覚書には、﹁あさまし、 あきまし﹂という道宗の自覚が、何度も何度も繰り返さ れております。では一体何があさましいのか、と見てま いりますと、﹁仏法より外に心ふかく入れ候こと候はば、 あさましく存じ候﹂、仏法より他のことに心を深く入れ ることがあさましいのだというのです。﹁仏法をもって 人に用いられ候らはんと思い候事、かえすがえすあさま しき事﹂ともあります。だから、仏法より他のことに心 を入れる、つまり世間のことにのみ没入してゆく、そう いう道宗がここにおります。あるいは、逆に今度は、仏 法のゆえをもって人に用いられるという、そういう慢心 教 19 した道宗がここにおります。ということは、信心深い道 宗が、信心以外のことや、あるいは信心の故をもって世 間で高く評価されてゆきます。そういう自分の存在をま ことにあきましいと嘆いているわけです。そうすれば、 ここにおります道宗は、世俗と縁を切ったような、ただ 念仏一筋の人間ではなくて、まさに世間の真っ只中で信 心を貫く苦闘を続けた人間であろうと思います。そのよ うに見るならば、この道宗を信心と世俗の双方のリー ダーと仰いでいる五箇山衆、あるいは五筒山十日講、十 日講の段階ではもう道宗は死んでおりますが、五箇山惣 中というのは、まさにこれは仏法領であったのではない かと思います。そして事実、五箇山に仏法領という言葉 が残っております。江戸の初期に田畑の売買の文書の中 に、﹁この田畑は、仏法領であるから云々﹂という言葉 が出てくるわけです。ということは、明らかに五箇山が 仏法領として意識されていたこと、そのことを意味して いるのではないかと思います。 まあこのようにして、他にもいろいろ申し上げたいこ とがありましたが、もう時聞がまいりましたので、この 辺で打ち切りたいと思いますけれども、こうなってまい りますとですね、金龍さんあるいは神田さんたちが提示

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20 してまいりました一撲としての教団、こういうものは、 その一撲という精神によって教団の中に僧伽の精神が発 現されてくる、むしろ一撲の精神によって、親驚の中に あった僧伽が発見されたと、このように考えておかしく ないのではないか。したがって、僧伽というものが教法 として歴史の始まりからあったと考えるよりも、歴史の 中で人々によって生み出されていったと、このように見 るべきではないかと思います。人々が一撲を結んでおの れの全生活をそこに委ねたときに、そこに生まれた平等 の意識、その平等の意識が教団として伝持してきた教法 の内から、同朋精神を発見してゆく、それに裏付けられ た一撲が仏法領というものを作ってゆく、そういうあり 方のなかに、僧伽というものを見てゆくことが出来るの ではないでしょうか。だから、初めに理想ありきでは、 歴史はまったく不完全なものとして否定の対象にしかな りません。そうではなくて、歴史の中に生まれてきたの は、そういう理念の芽生えであります。この芽生えを見 出して、その芽生えが生まれた状態、あるいは育った土 壌、時には枯れかかったような理由、そういったことを 明らかにしてゆくということ、これが歴史学の役割では ないのかと、このように思います。 それから、最後にもうひとつ申し上げますと、 うに、現在の状況では、理念的な教団論と歴史的教団構 造論というのは、まったく次元の異なるものとして無関 係に併存しております。そこで、これを関係づけるため には、理念的教団論はそれなりに、理念的な構造論とい うものを持つべきであろうと思いますけれども、それに も増して歴史的な教団論自体が、構造論のみではなくて、 教団理念論の歴史的展開というようなことをですね、も っと問題にしてゆかねばならないのではないか、人々に とっての教団というような媒介項を設けることによって、 画方の希離、相反する、あるいは無関係な研究が進めら れている、そういう状況を突破してゆく手がかりが出来 上がるのではないかと思います。ある意味では問題の提 起ということになったかなあということで終わらせてい た だ き ま す 。 ︵ 拍 手 ︶ こ の よ 司会先生ありがとうございました。先生、ちょっとお 待ちください。ええ、あまり、時間もありませんのです が、せっかくの機会ですので、もし何かご質問等があり ましたら、一人ないし二人くらいと思っておりますが、 どうでしょうか。よろしいでしょうか。それでは、先生、

(23)

どうも大変貴重な講演をありがとうございました。︵拍

団 教 21

僧伽的精神の回復

安 冨

E E , a B 哉 失礼いたします。只今ご紹介にあずかりました安冨で す。今回、この真宗教学大会で﹁教団﹂というテ l マ を 与 え ら れ ま し た 。 教団というものは、世界のあらゆる宗教に存在してい るわけです。キリスト教にも、仏教にも、それから、特 に最近話題になっている新々宗教のなかにも、教団とい うものが存在しております。宗教は本来教団を持つわけ です。そして、この教団というものは、先程の大桑先生 のお話にもありましたように、理念というものと離れて はないわけです。キリスト教の場合では教会という理念 があると思います。チャーチ︵品目忌︶という。では、 仏教教国の理念は何か。仏教では、最も基本的には、や はり僧伽

2

2

H

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E

︶という理念があると思、つんです。 この僧伽という場合には、仏・法・僧という二一宝の一つ としての僧伽ですね。つまり、僧宝です。しかし、 僧 伽

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22 といえども、やはり現実には教団としてあるわけですか ら、世俗の中でかなり汚濁にまみれ、相当の泥が付着し てしまうわけです。しかし、本来仏教の教団は僧伽とい うものを指向しているわけです。僧伽の理想を追求して いると、こう言ってもいいと思います。 この僧伽の概念の正確な意味につきましては、私は専 門が異なりますので、仏教学の先生からお聞きしなけれ ばいけませんけれども、僧伽というのは、ごく簡単にい ってしまえば、仏教における求道者の集団でございます ね。そして﹁和合僧﹂とか﹁和合衆﹂と、こういう風に 訳されております。そして、原始仏教以来、仏教者の集 団としては、七衆︵比

E

・比正尼・優婆塞・優婆夷・式 叉摩那・沙弥・沙弥尼︶それと四衆︵比

E

・ 比

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尼・優 婆塞・優婆夷︶という人々の集団が挙げられております。 これにつきましては、ちょっと私ハッキリしないところ があるわけですけれども。 そういう七衆とか四衆の中でも、 を 僧 伽 と 一 一 = 口 、 つ ん だ と 。 で も 、 比

E

・比丘尼の教団 つまり出家の教団ですね。その中 とりわけ比丘教凶を僧伽と、こういう風に言うよ う で す 。 ﹃ 大 智 度 論 ﹄ ︵ 巻 二 一 ︶ で は 、 ﹁ 云 何 な る を 僧 伽 と 名くるや。僧伽は秦に衆と言ふ、多くの比

E

の一処に和 合する是れを僧伽と名く﹂と説かれております。やはり 比丘が中心のようですね。これが原始仏教以来の伝統で あって、近年私達は仏教の教団であればすべて僧伽とい う言葉で呼ぶ傾向があるわけですけれども、もともとは 比丘の集団を僧伽というわけです。したがいまして、そ のように私達が在家・出家含めた教団を僧伽という名で 呼ぶことは不適切じゃないかと、そうしばしば仏教学者 からも指摘されることであろうかと思います。それで、 この事柄の是非はともかくといたしまして、宗祖親驚ご 自身はどうであったのかなあということが、ちょっと気 にかかるわけであります。 ご承知のように、親驚は四

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歳をすぎて、六

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歳ごろ まで関東で伝道活動を行います。そしてやがて東国の各 地に念仏の共同体といいますか小さな教団が出来ていき ます。その教団から様々な念仏者たちが誕生した。親驚 の手紙を読みますと、例えば、法然上人の二五日のご命 日には門弟たちが集まって講を営んでいたとか、色々な 析に親鷲に﹁念仏のすすめもの﹂と称して、一具加金を送 っていたということが伝えられております。また、横曽 根性信房が法廷に立たされたときには、親鷺は他の念仏 か た う ど 者に対して、性信の﹁方人になれ﹂︵聖典 H 瑚 頁 ︶ と 、 つ

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団 まり共に連帯していけということを言っておられるわけ です。そういうように、念仏者の共同体というものを非 常に親驚自身が大切にしていた。仏法の場としての念仏 の教団ということを大変に重視にしているということが よく分かるわけです それじゃ親驚は、この念仏の共同体を僧伽と意識して おられたのかどうかということになります。その一つの 例として思い起こされるのは、激変の晩年に息男の慈信 坊善驚が、親驚の願いに背いていくという、そういう事 件のことです。当時東国の同朋教団は念仏の異解者が多 く、親驚はこれを悲しんで、その異解を札すために、京 都から東国へ善驚を派遣します。ところが、その親驚の 顧いを託された善驚は逆に念仏の異解を増幅することに なります。親驚晩年の悲劇です。そういう中で親驚は、 常陸の念仏の同朋に手紙を宛てています。これは、﹃御 消息拾遺﹂に入っております。それを見ますというと、 この同朋教団を混乱させたということについて、益口驚を 厳しく処断するわけですが、それについて、 ことに破僧罪ともうすつみは、五逆のその一なり 教 ︵ ﹁ 聖 典 ﹂ 印 頁 ︶ といっていますね。つまり、善驚はこの僧を被る、僧伽 23 を破ると、﹁破和合僧﹂の罪を犯しているといっており ます。だから、普驚の行動を﹁破和合僧﹂の罪として、 厳しく処断しておるわけです。和合僧を破るということ は、つまり僧伽を破って新しく僧伽を別立したり、ある いは所属の僧伽を離れて異説を立てるということです。 こういう風に、破和合僧という、僧伽の原理によって親 驚は善驚を破門している。逆に言えば、東国の念仏の共 同体をやはり僧伽とみなしていた。したがって、そうい う意味で親驚のいう教団は僧伽であって、しかも出家者 のみによる小乗の僧伽じゃなくして、出家・在家に聞か れた大乗の僧伽だと、こういう風に受け止めることが出 来ると思うわけす。 それで、真宗教団は、歴史の中に存在していますから、 世俗社会の教団として多くの負の遣産を引き継いで今日 に到っております。そこには、僧伽との大きなギャップ がはらまれております。しかし仏教である以上、僧伽と いうものが常に指向されていかなければいけない。 そういう意味で一つの試金石になったのが明治という 時代であったかと思います。この明治近代に真宗教団と いうものがどのようにして僧伽としての教団の本来性と いうものを追求していったのかということは、これは一

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24 つ大きな問題でございます。これについて見落とすこと が出来ないのが清沢満之の宗門改革運動であったと私は 思います。そういうことから、今回私は、特にこの清沢 の宗門改革運動というものにスポットをあてて、そして ﹁僧伽的精神の回復﹂という、そういう題を出させてい ただいたようなことでございます。明治以来、真宗とい うのは大変大きな危機に晒されたということは、これは ご承知の通りです。一方にはそれまで邪宗門とされてお りましたキリスト教というものが認められるということ になりますし、また他方には、廃仏段釈以来の神道の巻 き返し、更に進んでは神道の国教化政策ということによ る大きな仏教教団の危機というものが襲って来ました。 そういう状況の中で真宗の復興ということが一つの共通 の課題であったわけです。しかし、その課題の迫求が現 実になって動き出してきたのは、明治の中期に入ってき てからだと思います。そしてそこには、真宗復興のため に宗派性を強めていこうと、︵一不門というものを強くして いくといいますか、宗派性を強く持っていこうとする立 場︵流れ︶と、それから宗派性から脱却していこうとい う、そういう流れというものがあったように思います。 大谷派の場合、この宗派性を強めていったのは、ご承知 のように、渥美契縁という人がいますけれども、そうい う方に代表されるような宗務当局であったわけです。彼 らは、﹁法義相続﹂﹁本廟護持﹂という愛山護法的な精神 ですね、そういう宗派的精神によって機構改革、あるい は布教の重視、あるいは教育制度の充実、そういうこと を計っておりました。殊に幕末に禁門の変︵蛤御門の 変︶でございますが、この戦火のために両堂が焼失いた しました。両堂つまり大師堂と阿弥陀堂というものが焼 失してしまった。その建物の再建がありました。あるい は別の方では、負債を返却していかなければいけない。 そういう事が大きな課題であったわけです。そしてその ために大変なお金を必要としたわけです。そのお金を全 国の門徒から募財していかなければいけない。そういう ことで、特にその時に強力なイデオロギーとして働いた のが、ご承知のように真俗二諦論でございます。真俗二 諦論というものをテコとして用いて、そして全国の門末 に働きかけていったということがご、ざいます。 それから、他方には宗派性から脱却していこうと、つ まりもう宗派仏教ではだめだということで、宗門から一 定の距離を置いて、もっと大きな仏教という文脈の中で 真宗を復興していこうという、そういう流れもあること

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団 はご示知の通りでございます。そういう人達として、例 えば村上専精とか、近角常観とか、あるいは伊藤証信と か、井上円了もそうかもしれませんが、そういう方々の お名前が記憶に蘇ってまいります。この方々は、大谷派 という宗門に距離を置きながら、教育や思想、あるいは 社会運動というものを通して、真宗を復興していこうと した。こういうように明冶の真宗ということを考えた場 合に、一方では宗派的な精神。そして他方では非宗派的 といいますか、脱宗派的な精神。こういうような流れが あ る わ け で す 。 それに対して清沢満之がとったスタンスというものは 一体どういうところにあったのか。これにつきましては、 ﹁ 仏 教 の 興 起 ﹂ ︵ ﹁ 全 集 ﹂ 6 一副頁︶という題で行った講演 が思いだされます。 そのお話しの内容を見ておりますと、明治仏教という ものを、三段階に分けて論じております。あの方はへ 1 ゲルをやっておりますので、へlゲル的な意味で三段階 的な理解に立っていられるわけです。それで清沢によれ ば、明治仏教の歴史は最初の段階は廃仏致釈で自信喪失 の時代だと、それから第二段階として学問的仏教という ものを興していった時代だと。仏教は哲学だということ 教 25 で、哲学の道に立って復興していこうとしたんだと。そ して今や第三段階の時代に立ち到ったのだと、こういう 風にいうわけですね。ではその第三段階はどういう段階 であるかというと、つまり ﹁宗旨的の信仰を以て仏教真正の教徒とするもので あ る ﹂ ︵ ﹁ 全 集 ﹂ 6 一 紛 頁 ︶ とこういっております。宗旨的ということですから、や はりそれは非宗派的な精神とは一線を画しておるわけで す 。 ところが一方においては信仰ということをいっており ます。この信仰ということが、非常に彼にとって大切な ことでした。この信仰ということにおいて愛山護法的な、 因襲的な精神というものともまた一線を画すわけですね。 その信仰というのは具体的にはどいうことであるかとい うと、端的に申しますと﹁帰依三宝﹂という、そういう 仏教徒としての基本的な心であるわけです。 清沢は在︷永から仏門に入った人です。それだけに宗門 の現実というものに触れて、本来の信仰に立った教団に なってないということに深い悲しみと憤りを感じた。明 治時代には、愛山護法的な精神は大変強かったと思、つん です。しかし、その愛山護法の精神は、ある面では、因

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