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源氏物語宿木後半評釈(1)

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2019年2月

富山大学人文学部紀要第

70号抜刷

源氏物語宿木後半評釈(1)

 

 

 

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源氏物語宿木後半評釈︵1︶ 一

源氏物語宿木後半評釈(1)

 

 

 

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富山大学人文学部紀要 二  

評釈篇

凡例

◎   会話文には、鍵括弧︵ ﹁   ﹂︶を付けた。その会話文の中の会話文は、二重鍵括弧︵ ﹃   ﹄︶を付けた。心内文も鍵括弧を付けること もある。その、二重鍵括弧で括った部分に、会話文がある場合、三角括弧︵ ︿   ﹀︶で括った。 ◎   ﹃源氏物語﹄の用例、文章を引用する場合、原則として、次のような方針を立てている。 まず、総角巻、宿木巻については私の釈文を引用する。 尾 州 家 本 古 写 の 巻 々 の う ち、 ﹃ 古 典 の 批 判 的 処 置 に 関 す る 研 究 ﹄ 第 二 部 二 九 一 頁 で い う﹁ 合 成 ﹂ の 巻 々︵ 総 角、 宿 木 を 除 く と 全 部で八帖︶については、青表紙本の主として古代学協会蔵本︵通称大島本︶を底本とした新全集で引用した後、尾州家本見セ消チ 補入前本文も書き添える。 尾 州 家 本 古 写 の 巻 々 の う ち、 ﹃ 古 典 の 批 判 的 処 置 に 関 す る 研 究 ﹄ 第 二 部 二 九 一 ∼ 二 九 二 頁 で い う﹁ 混 成 ﹂ の 巻 々、 及 び 尾 州 家 本 補写の巻々については、新全集で引用する。 ◎   本拙稿評釈篇の︻注︼の欄、 ︻鑑賞︼の欄を作成するに当たっては、比較的新しい次の六種の校注書を用いた。     一集成︵宿木巻を収める第七巻は、昭和五十八年発行︶     二新全集︵宿木巻を収める第五分冊は平成九年発行︶     三﹃源氏物語の鑑賞と基礎知識   宿木︵前半︶ ﹄︵至文堂、平成一七年発行︶    なお、三の略称として、 ﹁鑑賞と基礎知識前半﹂という呼び名を使うことにした。     四﹃源氏物語の鑑賞と基礎知識   宿木︵後半︶ ﹄︵至文堂、平成一七年発行︶    なお、四の略称として、 ﹁鑑賞と基礎知識後半﹂という呼び名を使うことにした。     五インターネットの渋谷栄一氏のサイト﹁源氏物語の世界﹂

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源氏物語宿木後半評釈︵1︶ 三 渋谷氏のサイトは各巻ごとに、 ﹁本文﹂ 、﹁ローマ字版﹂ 、﹁現代語訳﹂ 、﹁注釈﹂ 、﹁翻刻資料︵架蔵本︶ ﹂、﹁翻刻資料︵大島本︶ ﹂︵巻によっ ては﹁翻刻資料︵定家自筆本︶ ﹂や﹁翻刻資料︵明融臨模本︶ ﹂が加わることもある︶ 、﹁自筆本奥入﹂が掲載されているが、私が参 照 し た の は﹁ 4 9   宿 木 ﹂ の﹁ 注 釈 ﹂ の 部 分 で あ る。 序 文 に 当 た る︻ ご 利 用 の 皆 様 へ ︼ の 日 付 は 二 〇 〇 一 年 一 月 一 日、 ︻ ご 利 用 の 皆様へ︼の追加の日付は二〇〇二年八月七日。以上、二〇一二年八月にアクセスした上での情報である。私がプリントアウトした のは、二〇一五年四月三日である。その後、このサイトに﹁注釈﹂の部分が残っているかは不明である。あくまで、二〇一五年四 月三日にプリントアウトした紙に基づいている。    なお、五の略称として、 ﹁世界﹂という呼び名を使うことにした。     六﹃源氏物語注釈十﹄ ︵風間書房、平成二六年︶ なお、六の略称として、 「 注釈﹂という呼び名を使うことにした。前拙稿﹁源氏物語総角前半評釈︵1︶ ﹂を提出した後、総角巻 を含む ﹃源氏物語注釈﹄ 第九巻が発行された ︵平成二四年一〇月︶ ため、 総角巻の評釈を書く際には参照しなかった。本拙稿の ﹁注 釈﹂という言葉も、特に断らない限り、宿木巻を含む﹃源氏物語注釈﹄第十巻を指す。 ︻注︼で引用する際、例えば、    集成では、○○○○のように述べられている。 という形で記すことも、     ○○○○︽集成︾ という形で記すこともある。 又、これらの諸注釈書の文言を全くそのまま引用する場合も、少し表現を変えて引用する場合も、     ○○○○︽集成︾ という形で記すことにする。

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富山大学人文学部紀要 四 複数の注釈書で同じ趣旨の注がある場合も一つの注釈書名のみ記すこともあった。その場合、発行年の早い注釈書を優先した。 ◎   ﹁源氏物語宿木後半評釈︵1︶ ﹂の範囲は、宿木巻︹三三︺から︹四一︺である︵段落分けは、私に拠る︶ 。 ◎   その他の点に就いては、 ﹃富山大学人文学部紀要﹄第六五号︵二〇一六年︶所収拙稿﹁源氏物語宿木前半評釈︵1︶ ﹂の評釈篇の凡 例を参照されたい。 ︹三三︺   薫、弁の尼に浮舟仲介を頼む。 さ て、 も の の つ い で に、 か の 形 代 の こ と を 言 ひ 出 で 給 へ り。 ︵ 弁 の 尼 ︶﹁ 京 に、 こ の 頃 侍 ら む と は え 知 り 侍 ら ず。 人 伝 て に 承 り し 1 こ と の 筋 な な り。 故 宮 2 の、 ま だ か か る 山 里 住 み も し 給 は ず、 故 北 の 方 の 亡 せ 給 へ り け る 3 程 近 か り け る 頃、 中 将 の 君 と て さ ぶ ら ひ ける上臈 の、心ばせなどもけしうはあらざりけるを、いと忍びてはかなきほどにもの宣はせけるを、知る人も侍らざりけるに、女 子 を なん産 みて侍りけるを、さもやあらむと思すことのありけるからに、あいなくわづらはしくものしきやうに思しなりて、またとも御覧 じ 入 る る こ と も な か り け り。 あ い な く そ の こ と に 思 し 懲 り て、 や が て お ほ か た 聖 に 成 ら せ 給[ た ま ひ ] に け る を 4 、 は し た な く 思 ひ てえさぶらはずなりにけるが、陸 奥国 の守 の妻 になりけるを、一 年、上 りて、その君たひらかにものし給[たまふ]よし、この辺 りに もほのめかし申[まうし]たりけるを聞こし召しつけて、 ︵八の宮︶ ﹃さらにかかる消 息あるべきことにもあらず﹄と宣はせ放ちければ、 か ひ な く て な ん 嘆 き 侍 り け る。 さ て、 ま た、 常 陸 に 成 り て 下 り 侍 り け れ ば、 こ の 年 頃 音 に も 聞 こ え 給 は ざ り つ る が、 こ の 春、 上 り て、 か の 宮 に は 尋 ね 参 り た り け る 5 と な ん、 ほ の か に 聞 き 侍 り し。 か の 君 の 年 は、 二 十 ば か り に は 成 り 給 ひ ぬ ら む か し。 ﹃ い と う つ く し う 生 ひ出で給[たまふ]がかなしき﹄などこそ、中頃は、文 にさへ書き続けて侍 めりしか﹂と聞こゆ。 くはしく聞きあきらめ給ひて、 ︵薫︶ ﹁さらば、まことにてもあらむかし、見ばや﹂と思ふ心出 で来 ぬ。 ︵薫︶ ﹁昔の御けはひに、かけ て も 触 れ た ら む 人 は 6 、 知 ら ぬ 国 ま で も 尋 ね 知 ら ま ほ し き 心 あ る を、 数 ま へ 給 は ざ り け れ ど、 け 近 き 人 に こ そ は あ な れ。 わ ざ と は な く と も 、 こ の 辺 り に お と な ふ 折 あ ら む つ い で に 、 か く な ん 言 ひ し と 伝 へ 給 へ ﹂ な ど ば か り 宣 ひ 置 く 。︵ 弁 の 尼 ︶﹁ 母 君 7 は 、 故 北 の 方 の 8 御姪 なり。弁も離れぬ仲らひに侍[はべる]べき 9 を、 その昔 はほかほかに侍りて、 くはしくも見給へ馴 れざりき。先 つ頃、 京より、

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源氏物語宿木後半評釈︵1︶ 五 大輔[たいふが]もとより申[まうし]たりしは、 ﹃かの君なん、 ︵浮舟︶ < いかでかの 10 御 墓 にだに参らむ > と宣ふなる、 さる心せよ﹄ など侍りしかど、 まだ、 ここにさしはへてはおとなはず侍 めり。いまさらに、 さやのついでに、 かかる仰せなど伝へ侍らむ﹂と聞こゆ。

1   原本は﹁うせ給はりし﹂ 。﹁う﹂の下の﹁せ﹂を﹁け﹂に校訂した。 2   亡き八の宮︽集成︾ 3   原本は﹁うけ給へりける﹂ 。﹁う﹂の下の﹁け﹂を﹁せ﹂に校訂した。青表紙本系古代学協会蔵本も﹁うせ給へりける﹂ ︵八十二丁ウ六∼七行目︶ 。 4   ﹁聖﹂とは、ここでは、女性のことを全く考えない男性、という意味。 ﹁なごりなき御聖心の深くなりゆくにつけても﹂ ︵﹁幻﹂ ︹二︺ ︶。 5   二条院に参上して中の君の許にお伺いした︽鑑賞と基礎知識後半︾ 。 6   亡き大君に似た人であるなら。 ︽新全集︾ 7   浮舟の母、中将の君。 ︽新全集︾ 8   原本は﹁こきたの﹂ 。下に﹁方の﹂を補う。青表紙本系古代学協会蔵本も﹁故北の方の﹂ ︵八十四丁オ九行目︶ 。 9   弁は故北の方の従 姉妹。 ︽新全集︾ 10   八の宮の︽集成︾

【鑑賞】

この段落から、薫の強い興味が浮舟へ向けられて行く。 浮 舟 は、 宇 治 十 帖 執 筆 開 始 の 時 点 で、 作 者 の 構 想 に な か っ た こ と は、 森 岡 常 夫 氏﹃ 源 氏 物 語 の 研 究 ﹄︵ 弘 文 堂、 昭 和 二 三 年 ︶ 四 四 ∼ 四五頁で指摘され、以後定説に成って行く。半分よりは明らかに短いが、浮舟中心に繰り広げられるこの段落以降を宿木巻後﹁半﹂と する理由の一つである。 ︹三四︺   薫、弁の尼と唱和。 明けぬれば帰り給はむとて、昨 夜後 れて持 て参れる絹 、綿 などやうのもの、阿 闍 梨 に贈らせ給[たまふ] 。尼君にも賜 ふ。法師ばら、

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富山大学人文学部紀要 六 尼 君 の下 衆どもの料 にとて、布 などいふ物をさへ召して賜 ぶ。心細き住まひなれど、かかる御とぶらひたゆまざりければ、身のほどに は い と め や す く、 し め や か に て な ん 行 ひ け る。 木 枯 1の 耐 へ が た き ま で 吹 き と ほ し た る に、 残 る 梢 も な く 散 り 敷 き た る 紅 葉 を 踏 み 分 け け る 跡 も 見 え ぬ 2を 見 渡 し て、 と み に も え 出 で た ま は ず。 い と け し き あ る 深 山 木 に や ど り た る 蔦 の 色 ぞ ま だ 残 り た る。 ﹁ こ だ に 3﹂ などすこし引き取らせ給ひて、宮へと思しくて 4、持たせ給ふ。   やどり木と思ひ出でずは木 のもとの旅寝もいかにさびしからまし 5 と独りごち給ふを聞きて、尼君、   荒れ果つる朽 木 のもとをやどり木と思ひ置きける程の悲しさ 6 あくまで古めきたれど、ゆゑなくはあらぬをぞいささかの慰めには思しける。

1   現在の冬のイメージとは異なり、秋の初めから冬までと、その吹く季節は広い。 ︽鑑賞と基礎知識後半の鑑賞欄﹁木枯﹂ ︾。 2   ﹁秋はきぬ紅 葉は屋 戸 にふりしきぬ道ふみわけてとふ人はなし﹂ ︵﹃古今和歌集﹄ ・ 秋歌下 ・ 二八七 ・ 読人しらず︶ による措辞。 ︽集成︾ ﹃伊勢物語﹄ や ﹃源 氏 物 語 ﹄ で は、 来 訪 す る 人 が な い 家 を、 雪 や 紅 葉 を﹁ 踏 み 分 く ﹂ 人、 若 し く は、 ﹁ 踏 み あ く ﹂ 人 が 自 分 以 外 に は な い、 と い う 措 辞 で 言 い 表 す。 ﹁ 忘 れては夢かとぞ思ふおもひきや雪ふみわけて君を見むとは﹂ ︵﹃伊勢物語﹄ 第八十五段︶ 。﹁庭の紅葉こそ踏み分けたる跡もなけれ﹂ ︵﹁帚木﹂ ︹九︺ ︶。 ﹁踏 みあけたる跡もなく、はるばると荒れわたりて、いみじうさびしげなるに﹂ ︵﹁末摘花﹂ ︹一三︺ ︶︽ ﹁帚木﹂の例については、注釈も挙げている︾ 3   ﹁これだに﹂の意味で、せめてこれだけでも、とも解せる。 ︽鑑賞と基礎知識後半︾ 4   中の君へのお土産のお積りらしく。 ︽集成︾ 5   前 に こ こ に 泊 っ た こ と が あ る と 思 い 出 さ な か っ た な ら、 こ の 深 山 木 の も と の 旅 寝 も ど ん な に さ び し か っ た こ と で あ ろ う。 ﹁ 宿 木 ﹂︵ こ こ は 前 文 に あ るように蔦のこと︶に﹁宿りき﹂を掛ける。巻名出所の歌︽集成︾ 6   薫が ﹁やどり木﹂ と言った宇治の邸は、 実際には荒廃しきった ﹁荒れはつる朽木﹂ にほかならぬとした。前歌に対して注解的な機能をさえもった詠歌。 ﹁朽ち木﹂ も歌語 ︽新全集︾ 。荒れはてた朽木のような尼の住いを、 昔の宿と覚えてくださっているお心のほども悲しゅうございます ︽新全集下段訳︾

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源氏物語宿木後半評釈︵1︶ 七

【鑑賞】

薫は、中の君へ贈るつもりで、 ﹁いとけしきある深山木にやどりたる蔦﹂を手に取った。このように、紅葉を男性が女性に贈るのは、 光源氏が藤壺に贈るという賢木巻の例がある。人目を忍ぶ恋には、花よりも、紅葉という比較的目立たぬ贈り物のほうが望ましいとい うことであろう。 紅葉を贈られた藤壺は、 ﹁なほかかる心の絶えたまはぬこそ、 いと疎ましけれ、 あたら、 思ひやり深うものしたまふ人[=光源氏]の、 ゆくりなく、 かうやうなることをりをりまぜたまふを、 人 [=女房達] もあやしと見るらむかし、 と心づきなく思されて﹂ ︵﹁賢木﹂ ︹二三︺ ︶ と、贈り主に対して、嫌悪感を抱いている。 ﹁疎まし﹂ 、﹁心づきな﹂ ︵し︶などは嫌悪感の中でも最も強いものであろう。桐壺院が亡く なった後なら、光源氏との恋愛も世間は或る程度許容するようにも思えるが、桐壺帝の御時、二人は不倫の関係を持ったのであり、桐 壺院死後に二人の関係が明るみに出れば、生前から始まっていたのかどうかに注目が集まるはずであり、いったん、疑いを持たれてし まえば、光源氏とよく似ている冷泉東宮の顔と、その年齢が秘密を明らかにすることに成るに違いない。露骨な求愛は、この上なく迷 惑だったに違いなく、藤壺はこの直後に、出家している︵ ﹁賢木﹂ ︹二七︺ ︶。 次の段落で、中の君は﹁むつかしきこともこそ﹂と、やはり、贈り物を迷惑に思っている。 ︹三五︺   薫、中の君に紅葉を贈呈。 宮 に 紅 葉 奉 れ 給 へ れ ば、 男 宮 1お は し ま し け る 程 な り け り。 ﹁ 南 の 宮 2よ り ﹂ と て、 何 心 な く 持 て 参 り た る を、 女 君、 ︵ 中 の 君 ︶﹁ 例 のむつかしきこともこそ﹂と苦しく思せど、とり隠さむやは。宮、 ︵匂宮︶ ﹁をかしき蔦 かな﹂と、ただならず宣ひて、召し寄せて見給 ふ。御文 には、 日頃、 何とかおはしますらむ。山里にものし侍りて、 いとど峰の朝霧にまどひはべりつる、 御物語もみづからなん 3。かしこの寝殿、 堂になすべきこと、阿 闍梨 に言ひつけ侍りにき。御ゆるし侍りてこそは、外 に移すこともものし侍らめ。弁の尼にさるべき仰 せ言 は つかはせ。

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富山大学人文学部紀要 八 などぞある。 ︵匂宮︶ ﹁よくもつれなく書き給へる文 かな。まろありとぞ聞きつらむ﹂と宣ふも、すこしは、げに、さやありつらむ。女 君は、 事なきを嬉しと思ひ給ふに、 あながちにかく宣ふをわりなし 4と思して、 うち怨 じてゐ給へる御様、 よろづの罪許しつべくをかし。 ︵匂宮︶ ﹁返り事書き給へ。見じや﹂とて、外 ざまに向き給へり。あまえて書かざらむもあやしければ 5 、 山里の御歩 きのうらやましくも侍るかな。かしこは、げに、さやにてこそよくよくと思ひ給へしを。ことさらに、また、巌 の中求め むよりは、荒らし果つまじく思ひ侍るを、いかにもさるべきさまになさせ給はば、おろかならずなん。 と 聞 こ え 給 ふ。 ︵ 匂 宮 ︶﹁ か く 憎 き 気 色 も な き 御 睦 び な め り ﹂ と 見 給[ た ま ひ ] な が ら、 わ が 御 心 な ら ひ 6に、 た だ な ら じ と 思 す が 安 からぬなるべし。

1   匂宮。 ︽集成︾ 2   薫の邸、三条の宮。 ︽集成︾ 3   いつもにもまして峰の朝霧の深さに晴れぬ悲しみの数々を味わい尽くしましたお話も、いずれお目にかかりまして申し上げましょう。 ﹁雁 のくる峰 の朝 霧はれずのみ思ひ尽きせぬ世の中の憂 さ﹂ ︵﹃古今和歌集﹄ ・雑歌下・九三五・読人しらず︶に拠る措辞。 ︽集成︾ 4   無茶だ、の意。 ﹁総角﹂ ︹四︺の﹁わりなきやうなるも心苦しくて、 ﹂の﹁わりなき﹂について、 ﹁無理矢理⋮⋮をする、という際に使われる形容詞﹂ と注した︵拙稿﹁源氏物語総角前半評釈︵2︶ ﹂。 ﹃富山大学人文学部紀要﹄第五九号︵二〇一三年︶所収︶ 。 5   匂宮の前で返事を書かないのも、かえって、匂宮にあやしまれてしまうから。    鑑賞と基礎知識後半にも、 ﹁返事を出さないも逆に匂宮に誤解を与えてしまうという考え﹂とある。 6   自分の常日頃の性格を基準にして、 他の人もそうだろうと思い込むときに使われる言葉。 ﹁衛門督、 わがあやしき心ならひにや、 この君︻=夕霧︼の、 いとさしも親しからぬ継 母の御事にいたく心しめたまへるかな、と目をとどむ。 ︵﹁若菜下﹂ ︹二九︺ ︶。

【鑑賞】

 

中の君への薫の文が懸想めいたものでなかったのは、自分が中の君と一緒にいるからだろう、というのは、匂宮の思い込みに過ぎな

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源氏物語宿木後半評釈︵1︶ 九 い。薫は、本当に懸想をする時にも婉曲な、遠慮がちな書きぶりであると想像されるからである。 しかし、語り手は、 ﹁すこしは、げに、さやありつらむ﹂と述べている。この、 ﹁すこし﹂に、疑われても仕方がない薫の振る舞いが 言い表されている。 ︹三六︺   中の君、菊を見て琴を弾く。 枯 れ 枯 れ な る 前 栽 の 中 に、 尾 花 の、 物 よ り こ と に て、 手 を さ し 出 で て 招 く 1が を か し く 見 ゆ る に、 ま だ 穂 に 出 で さ し た る も、 露 を つらぬきとむる玉の緒 、はかなげにうちなびきたるなど、例のことなれど、夕風なほあはれなるころなりかし。 ︵匂宮︶穂に出でぬもの思ふらししのすすき招くたもとの露しげくして 2 な つ か し き ほ ど の 御 衣 ど も に、 直 衣 ば か り 3着 給 ひ て、 琵 琶 を 弾 き ゐ 給 へ り。 黄 鐘 調 の 搔 き 合 は せ を、 い と あ は れ に 弾 き な し 給 へ ば、 女君も心に入り給へることにて、 もの怨 じもえし果て給はず、 小さき御几 帳 のつまより、 脇 息 に寄りかかりてほのかにさし出で給へる、 いと見まほしくらうたげなり。 ︵中の君︶ ﹁秋果つる野辺の気色もしのすすきほのめく風につけてこそ知れ 4 わ が 身 一 つ の 5﹂ と て 涙 ぐ ま る る が、 さ す が に 恥 づ か し け れ ば、 扇 を 紛 ら は し て お は す る 心 6の 中 も、 ら う た く 推 し は か ら る れ ど、 ︵ 匂 宮︶ ﹁かかるにこそ人もえ思ひ放たざらめ﹂と疑はしき方ただならで恨めしき 7なめり。 菊の、まだよくもうつろひ果てで、わざとつくろひたてさせ給へるは、なかなかおそきに、いかなる一 本にかあらむ、いと見どころ あ り て う つ ろ ひ た る を、 と り わ き て 折 ら せ 給 ひ て、 ︵ 匂 宮 ︶﹁ 花 の 中 に 偏 に ﹂ 8と 誦 じ 給 ひ て、 ︵ 匂 宮 ︶﹁ な に が し の 皇 子 の、 こ の 花 め で た る 夕 ぞ か し、 い に し へ 天 人 の 翔 り て、 琵 琶 の 手 を 調 べ け る は 9。 何 事 も 浅 く な り に た る 世 は も の 憂 し や ﹂ と て、 御 琴 さ し 置 き 給 ふを、口惜しと思して、 ︵中の君︶ ﹁心こそ浅くもあらめ、昔を伝へたらむことさへは、などてかさしも﹂とて、おぼつかなき手などを ゆかしげに思したれば、 ︵匂宮︶ ﹁さらば、ひとりごとはさうざうしきに、さし答 へし給へかし﹂とて、人召して、箏 の御琴 とり寄せさ せて、弾 かせ奉り給へど、 ︵中の君︶ ﹁昔こそまねぶ人もものし給ひしか、はかばかしく弾きもとめずなりにしものを﹂とつつましげに

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富山大学人文学部紀要 一〇 て 手 も 触 れ 給 は ね ば、 ︵ 匂 宮 ︶﹁ か ば か り の こ と も、 隔 て 給 へ る こ そ 心 憂 け れ。 こ の 頃 見 る 辺 り 10は、 ま だ い と 心 と く べ き ほ ど に も な らねど、片 なりなる初 ごとをも隠さずこそあれ。 ︵薫︶ ﹃すべて、女は、やはらかに心うつくしきなん良きこと﹄とこそ、その中納言も 定 む 11め り し か 12。 か の 君 に、 は た、 か く も つ つ み 給 は じ。 こ よ な き 御 仲 な め れ ば 13﹂ な ど、 ま め や か に 恨 み ら れ て 14ぞ、 う ち 嘆 き てすこし調べ給ふ。ゆるびたりければ、盤 渉 調 に合はせ給ふ。搔き合はせなど、爪 音をかしげに聞こゆ。伊勢の海うたひ給ふ御声のあ てにをかしきを、女ばらも物の背 後 に近づき参りて、笑 みひろごりてゐたり。 ︵女房︶ ﹁二 心 おはしますはつらけれど、それもことわり な れ ば、 な ほ わ が 御 前 を ば 幸 ひ 人 15と こ そ は 申 さ め。 か か る 御 あ り さ ま に ま じ ら ひ 給 ふ べ く も あ ら ざ り し 所 の 御 住 ま ひ を、 ま た 帰 り なまほしげに思して、宣はするこそいと心憂けれ﹂など、ただ言ひに言へば 16、若き人々は、 ﹁あなかまや﹂など制す。

1   ﹁尾花﹂ は穂 ︵花︶ の出た薄 。穂のなびく様子を、 手を振って人を招く動作に見立てる。和歌固有の擬人法。次の匂宮の和歌も同じ表現法。 ︽新全集︾ ﹁この家の垣ほより、いとめでたく色清らなる尾花、折れ返り招く。前 に立ちたまへる人、 ︵兵衛佐︶ ﹁あやしく招くところかな﹂とて、/    吹く 風の招くなるべし花すすきわが呼ぶ人の袖と見つるは/とて渡りたまふ。若小君︵=藤原兼雅︶ 、/    見る人の招くなるらむ花すすきわが袖ぞと はいはぬものから/とて、立ち寄りたまひて折りたまふに、この女︵=俊蔭女︶の見ゆ﹂ ︵﹃うつほ物語﹄ ﹁俊蔭﹂ ︹一七︺ ︶。 2   表 には現さない何か悩みでもおありのようですね、露にうちしおれて人恋しげなすすきの風情さながらですよ。薫のことを諷する。 ︽集成︾ 3   底本は、 ﹁なつかしきかりき給て﹂ 。青表紙本系古代学協会蔵本が ﹁なつかしきほとの御そともになおしハかりき給て﹂ とある ︵八十七ウ八∼一〇行目︶ とあるのを参照して、 ﹁ほどの御そともに、なほしは﹂を補った。 4   もう私がすっかり嫌いにおなりになったあなた様のお気持は、 それとないそぶりでも私には分ります。 ﹁秋果つる﹂ に﹁飽き果つる﹂ を掛ける。 ︽集成︾ 5   ﹁ お ほ か た の 我 が 身 一 つ の う き か ら に な べ て の 世 を も 怨 つ る か な ﹂︵ ﹃ 拾 遺 集 ﹄・ 恋 五 ・ 九 五 三・ 貫 之 ︶。 わ が 身 の 不 仕 合 せ か ら、 秋 の 哀 れ も ひ と し お 身に沁みます、というほどの気持であろう。 ︽集成︾ 6   底本は﹁こゝろこゝろ﹂ 。二つ目の﹁こゝろ﹂を衍字と見做し、削除した。 7   中 の 君 が 魅 力 的 だ か ら、 恐 ら く 他 の 男 と の 密 通 の 機 会 も 増 え る の で は な い か、 と い う 発 想 は、 ︹ 二 五 ︺ に も 見 ら れ た。 ﹁ う ち 泣 き 給 へ る 気 色 の、 限 りなくあはれなるを見るにも、 ︵匂宮︶ ﹁かかればぞかし﹂といとど心やましくて、 ﹂。 ﹁⋮⋮愛敬づきらうたきところなどの、なほ人には多くまさり て思さるるままには、 ︵匂宮︶ ﹁これをはらからなどにはあらぬ人のけ近く言ひ通ひて、事にふれつつ、おのづから声、けはひをも聞き見馴れむは、

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源氏物語宿木後半評釈︵1︶ 一一 い か で か た だ に も 思 は む。 か な ら ず し か お ぼ え ぬ べ き こ と な る を ﹂ と わ が い と 隈 な き 御 心 な ら ひ に 思 し 知 ら る れ ば、 心 を か け て、 ︵ 匂 宮 ︶﹁ し る き さまなる文などやある﹂と、近き御厨 子、小唐櫃などやうの物をも、さりげなくて探し給へど、さる物もなし。⋮⋮︵匂宮︶ ﹁あやし。なほ、いと かうのみはあらじかし﹂と疑はるるに、 ﹂ 8   ﹁是 れ花の中 に偏 に菊を愛するにはあらず/此 の花開 けて後 更 に花無 ければなり﹂ ︵﹃和漢朗詠集﹄ ・上・菊・二六七・元稹︶ ︽集成︾ 9   新全集は、 ﹁源高明︵醍醐天皇第五皇子︶の庭の木に廉 承武 の霊が降りて、小児の口をありて前注の詩[=是 れ花の中 に偏 に⋮⋮]を詠じ、作者元 稹の本意は﹁開ケテ後﹂ではなく﹁開ケ尽キテ﹂であったとし、さらに琵琶の秘曲を授けたとする故事。 ﹃源氏釈﹄ ﹃紫明抄﹄ ﹃河海抄﹄などに注さ れ る こ の 伝 承 は、 ﹃ 江 談 抄 ﹄﹃ 十 訓 抄 ﹄﹃ 古 今 著 聞 集 ﹄ な ど に も 類 話 が 見 え る ﹂ と 注 す る が、 匂 宮 は、 ﹁﹃ 開 ケ テ 後 ﹄ で は な く﹃ 開 ケ 尽 キ テ ﹄﹂ で あ る ということには言及していないし、天人の名に値するかどうかも不明であるので、出典不明としておきたい。 10   六の君のこと。 ︽集成︾ 11   藤袴巻末に、 ﹁定む﹂の用例がある。 ﹁女の御心ばへは、 この君[=玉鬘]をなん本 にすべきと、 大 臣たち定めきこえたまひけりとや﹂ 。この﹁定め﹂ と同じく、評定する、の意であろう。 12   ﹁ す べ て、 女 は、 や は ら か に 心 う つ く し き な ん 良 き こ と ﹂ に つ い て は、 光 源 氏 が 紫 上 に 言 っ た 詞 の 中 に、 似 た も の が あ る。 ﹁︵ 源 氏 ︶﹁ ⋮⋮。 女 は、 心やはらかなるなむよき﹂など今より教へきこえたまふ﹂ ︵﹁若紫﹂ ︹二三︺ ︶。光源氏は、戸籍上の息子である薫に、こうした教えを伝授したのであ ろう。 13   薫との仲を推量するいやみでしめくくる。 ︽新全集︾ 。 14   この ﹁恨 ︵む︶ ﹂に就いても、 ﹁宿木﹂ ︹四︺ 鑑賞欄参照。 ︵拙稿 ﹁源氏物語宿木前半評釈 ︵1︶ ﹂。 ﹃富山大学人文学部紀要﹄ 六五号。二〇一六年︶ 。ここでも、 連用修飾語は、 ﹁まめやかに﹂である。 15   低い身分なのに、 思いがけず高貴な人と結婚して重んじられる、 幸運な女性をいう。黄鐘調と盤渉調の調べが相和し、 二人の仲睦まじい様子を見た、 女房の感嘆の声である。物語中、幸い人と取り沙汰された女性は、明石の君二例、中の君二例、紫の上一例である︽注釈︾ 16   動 詞 の 連 用 形 プ ラ ス﹁ に ﹂ プ ラ ス 同 じ 動 詞、 と い う 語 法 は、 そ の こ と が 滞 り な く 行 わ れ る こ と を 示 す。 ﹁ 蟻 は い と に く け れ ど、 か ろ び い み じ う て、 水の上などをただ歩 みに歩みありくこそをかしけれ﹂ ︵﹃枕草子﹄四一︶ 。

【鑑賞】

新全集は、 ﹁盤渉調﹂の注として、 ﹁箏を盤渉調︵帚木1八〇ページ注二八︶にととのえた﹂と、雨夜の品定めの一場面に注意を喚起 している。今、その場面を引用しよう。

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富山大学人文学部紀要 一二 菊いとおもしろくうつろひわたりて、風に競 へる紅 葉の乱れなど、あはれとげに見えたり。 [女は]また箏 の琴 を盤 渉 調 に調べて、 いまめかしく掻い弾 きたる爪 音、かどなきにはあらねど、 ︵﹁帚木﹂ ︹九︺ ︶ 趣深く色変わりした菊を背景に、やや高い音である盤渉調で演奏されている。 この段落の後半でも、色変わりした菊を背景に、中の君が盤渉調で演奏している。前半では、尾花が目立った。菊が描写される後半 で初めて、盤渉調の演奏が始まるのである。菊と盤渉調との取り合わせを愛でる美意識があったのではなかろうか。 ︹三七︺   夕霧、匂宮を連れ去る。 御 琴 ど も 教 へ 奉 り な ど し て、 三、 四 日 籠 り お は し て、 御 物 忌 な ど こ と つ け 給 ふ を、 か の 殿 に は 恨 め し く 思 し て、 大 臣、 内 裏 よ り 出 で 給 ひ け る ま ま に こ こ に 参 り 給 へ れ ば、 宮、 ﹁ こ と ご と し げ な る さ ま し て、 何 し に い ま し つ る ぞ と よ ﹂ と む つ か り 給 へ ど、 あ な た に 渡 り 給 ひ て 対 面 し 給 ふ。 ︵ 夕 霧 ︶﹁ こ と な る こ と な き ほ ど は、 こ の 院 を 見 で 久 し う な り 侍 る も あ は れ に こ そ ﹂ な ど 1、 昔 の 御 物 語 ど も す こ し聞こえ給ひて、 やがて引き連れ聞こえ給ひて出で給ひぬ。御子どもの殿ばら、 さらぬ上達部、 殿上人などもいと多く引き続き給へる、 勢ひこちたきを見るに、 並ぶべくもあらぬぞ屈 しいたかりける。人々のぞきて見奉りて、 ︵女房︶ ﹁さも、 きよらにおはしける大 臣かな。 さ ば か り、 い づ れ と も な く 若 く 盛 り に て、 き よ げ に お は さ う ず る 2御 子 ど も の、 似 給 ふ べ き も な か り け り。 あ な め で た や ﹂ 3と 言 ふ も あり。また、 ︵女房︶ ﹁さばかりやむごとなげなる御さまにて、わざと迎へに参り給へるこそ憎けれ。やすげなの世の中や﹂など、うち 嘆くもあるべし。御みづからも、来 し方 を思[おもひ]出づるよりはじめ、かのはなやかなる御仲らひに立ちまじるべくもあらず、か す か な る 身 の お ぼ え を と い よ い よ 心 細 け れ ば、 ︵ 中 の 君 ︶﹁ な ほ 心 や す く 籠 り ゐ な ん の み こ そ 目 や す か ら め ﹂ な ど、 い と ど お ぼ え 給 ふ。 はかなくて年も暮れぬ。

1   父・ 光 源 氏 の 思 い 出 が 残 っ て い る、 こ の 二 条 院 は、 し ば ら く 見 な い で い る と、 な つ か し く な る、 だ か ら 来 た、 と い う 趣 旨 の 夕 霧 の   詞。 鑑 賞 と 基

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源氏物語宿木後半評釈︵1︶ 一三 礎知識後半鑑賞欄﹁夕霧と二条院﹂にも、 ﹁夕霧にとってこの場所は思い出深い場所であったろう﹂とある。勿論、 これは、 ここに来た口実である。 真の狙いは、大勢の子供を引き連れてここに来て、その帰りに匂宮を連れ去ろう、ということにある。 2   ﹁おはさうず﹂は、元の語構成の要素である﹁あふ﹂の意味を保持していて、主語は複数となる。 ︽鑑賞と基礎知識鑑賞欄﹁おはさうずる﹂ ︾ 3   この詞は、 ﹁きよらなり﹂が﹁きよげなり﹂より一段高い美を示す、と考える際の格好の根拠になる。

【鑑賞】

 

﹁ 心 細 し ﹂ は﹁ 心 細 い ﹂ と 訳 さ れ る こ と が 多 く、 そ れ は そ れ で い い の だ が、 現 代 語 の﹁ 心 細 い ﹂ が 漠 然 と し た 不 安 を 表 す こ と が 多 い のに対し、もっと切実な、目の前に迫った不安である。 ○今 年こそなりはひにも頼むところすくなく、田 舎の通ひも思ひかけねば、いと心細けれ。 ︵﹁夕顔﹂ ︹一〇︺ ︶ 次の例は、 ﹁あつし﹂ ︵=病気がち︶と共に使われているが、命に関わるような病気を読者に連想させているのであろう。 ○いとあつしくなりゆき、もの心細げに里がちなるを︵ ﹁桐壷﹂ ︹一︺ ︶ そのため、親がない娘にも、頻用される。 ○親もなく、いと心細げにて、さらばこの人こそはと事にふれて思へるさまもらうたげなりき。 ︵﹁帚木﹂ ︹一〇︺ ︶ ○故常 陸の親 王の末にまうけていみじうかなしうかしづきたまひし御むすめ、心細くて残りゐたるを、 ︵﹁末摘花﹂ ︹二︺ ︶ ○とりわきてらうたくしたまひし小さき童 の、親どももなくいと心細げに思へる、ことわりに見たまひて、 ︵﹁葵﹂ ︹二二︺ ︶ ○[自分、即ち中の君と大君は]幼き程より、心細くあはれなる身どもにて︵ ﹁宿木﹂ ︹一三︺ ︶ また、切実な不安である以上、やはり、もうすぐ死ぬに違いないというときにも頻用される。 ○[朱雀帝は、 ]おほかた世にえ長くあるまじう、心細きこと︵ ﹁澪標﹂ ︹一︺ ︶ ○[六条御息所は]にはかに重くわづらひたまひて、ものいと心細く思されければ、 ︵﹁澪標﹂ ︹一二︺ ︶ ○朱 雀 院 の帝 、ありし御 幸 の後 、そのころほひより、例ならずなやみわたらせたまふ。もとよりあつしくおはします中 に、このた びはもの心細く思 しめされて、 ︵﹁若菜上﹂ ︹一︺ ︶

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富山大学人文学部紀要 一四 ○我[=自分、即ち女三宮]も、今 日か明 日かの心地してもの心細ければ、 ︵﹁柏木﹂ ︹二︺ ︶ 興味深いのは、 匂宮の心理をいう場合、 女性を失ったとき、 或いは、 失いそうなとき、 ﹁心細し﹂が使われることである。匂宮にとって、 そのときに恋をしている女性を失うのは、大袈裟でなく、死ぬ程の悲しみなのであろう。実際、病気になることもあった。 ○おとろ 〳〵 しき心ちにもはへらぬをみな人はつゝしむへきやまひのさまなりとのみものすれはうちにも宮にもおほしさわくかい とくるしくけに世中のつねなきをも心ほそく思はへる︵ ﹁蜻蛉﹂十四丁オ︶ 新全集では、 おどろおどろしき心地にもはべらぬを、皆 人 は、つつしむべき病のさまなりとのみものすれば、内 裏にも宮にも思し騒ぐがいと 苦しく、げに世の中の常なきをも、心細く思ひはべる︵ ﹁五﹂ ︶ ○かうおほしいらるれとおはします事はわりなしかうのみものを思はゝさらにえなからふましき身なめりと心ほそさをそへてなけ き給︵ ﹁浮舟﹂二十六丁オ︶ 新全集では、 かう思し焦 らるれど、おはしますことはいとわりなし。かうのみものを思はば、さらにえながらふまじき身なめりと心細さを添 へて嘆きたまふ。 ︵︹一五︺ ︶ この段落の﹁心細し﹂は、中の君の心理を言ったものであるが、次段落以降、出産、しかも男児出産が語られることとなる。 次の帝の有力候補の匂宮の男児を出産し、地位が安定したあとの中の君の描写に於いては、たとえ﹁心細し﹂が使われていても、 〇世中のうらめしく心ほそきおりくも又かくなからふれはすこしもおもひなくさめつへきおりもあるを︵ ﹁東屋﹂二十二丁オ︶ 新全集では、 世の中の恨めしく心細きをりをりも、また、かくながらふれば、すこしも思ひ慰めつべきをりもあるを、 ︵︹十八︺ ︶ のように、 ﹁思ひ慰︵む︶ ﹂と一緒に使われていたり、 〇あはれにあさましきはかなさのさま 〳〵 につけて心ふかきなかに我ひとり物思しらねはいまゝてなからふるにやそれもいつまて

(16)

源氏物語宿木後半評釈︵1︶ 一五 と心ほそくおほす︵ ﹁蜻蛉﹂十八丁オ∼ウ︶ 新全集では、 あはれにあさましきはかなさのさまざまにつけて心深き中に、我一 人、もの思ひ知らねば、今までながらふるにや、それもいつ まで、と心細く思す。 ︵﹁蜻蛉﹂ ︹六︺ ︶ のように、姉妹の夭折に触発されての感慨である。 ︹三八︺   中の君、出産近づく。 正 月 晦 日 方 よ り、 例 な ら ぬ さ ま に な や み 給 ふ 1を、 宮、 ま だ 御 覧 じ 知 ら ぬ こ と に て、 い か な ら む と 思 し 嘆 き て、 御 修 法 な ど、 所 ど ころにてあまたせさせ給ふに、またまたはじめ添へさせ給ふ。いといたうわづらひ給へば、后 の宮よりも御とぶらひあり。かくて三 年 になりぬれど 2、 一ところの御心ざしこそおろかならね、 おほかたの世にはものものしくももてなし聞こえ給はざりつるを、 この折ぞ、 いづこにもいづこにも聞こし召し驚きて、御とぶらひども聞こえ給ひける。

1   懐妊の徴候の現れたのは昨年五月ごろ。出産が近い。 ︽新全集︾昨年五月ごろ、とは、拙稿﹁源氏物語宿木前半評釈︵2︶ ﹂では、 ︹一七︺に当たる ︵﹃富山大学人文学部紀要﹄第六六号︵二〇一七年︶ ︶。 2   集成は、 ﹁こうしてもう三年になったけれども。中の君が二条の院に移ってから三年と読める。この年︵宿木の第三年︶を、 中の君が二条の院に移っ た 早 蕨 の 春 の 翌 年 と す る の が 現 行 年 立 の 処 理 で あ る が、 そ れ で は 二 条 の 院 移 転 か ら 足 掛 け 二 年 に し か な ら な い。 こ の 第 三 年 を も う 一 年 あ と に ず ら し て は じ め て 足 掛 け 三 年 と い う 計 算 に な る。 諸 注、 匂 宮 が 宇 治 に 通 う よ う に な っ た 総 角 の 秋 以 来 足 掛 け 三 年 と 見 る が、 無 理 で あ ろ う。 ﹂ と 注 す る。 世 界 は、 ﹁﹃ 集 成 ﹄ は﹁ こ う し て 三 年 に な っ た け れ ど も。 中 の 君 が 二 条 の 院 に 移 っ て か ら 三 年 と 読 め る。 こ の 年︵ 宿 木 の 第 三 年 ︶ を、 中 の 君 が 二 条 の 院 に 移 っ た 早 蕨 の 春 の 翌 年 と す る の が 現 行 の 年 立 の 処 理 で あ る が、 そ れ で は 二 条 の 院 移 転 か ら 足 掛 け 二 年 し か な ら な い。 こ の 第 三 年 を も う 一 度 あ と に ず ら し て は じ め て 足 掛 け 三 年 と い う 計 算 に な る。 諸 注、 匂 宮 が 宇 治 に 通 う よ う に な っ た 総 角 の 秋 以 来 足 掛 け 三 年 と 見 る が、 無 理 で あ ろ う ﹂。 ﹃完訳﹄ [小学館発行﹃完訳日本の古典﹄の略称]は﹁結婚以来、足かけ三年﹂と注す。 ﹂と、集成と集成と対立する説とを併記する。新全集は﹁中

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富山大学人文学部紀要 一六 の 君 と の 結 婚 以 来、 足 か け 三 年 ﹂、 鑑 賞 と 基 礎 知 識 後 半 も﹁ 女 君 は 結 婚 以 来 三 年 に な る が ﹂ と 訳 し、 注 釈 も﹁ ﹁ 三 年 に な り ぬ ﹂ は、 匂 宮 と 中 の 君 が 結婚して三年になったこと。 ﹂と注する。新全集、鑑賞と基礎知識後半、注釈に従いたい。

【鑑賞】

国語学者の時枝誠記氏は、 ﹃文章研究序説﹄ ︵山田書院、一九六〇年︶第二篇第一章二︵四︶に於いて、次のように述べている。 六君との新しい結婚生活に入るについて、匂宮は、中君を忘れ去つたのではなく、それどころか、大變な氣の使ひ方である。しか し、中君にはそれが通じなかつたのである。 [略]久々で、中君の所に歸つて來た匂宮は、 [略]中君を慰めるのである。もうこの 頃、 薫 の 邪 心 を 知 つ て、 そ の 信 頼 出 來 な い こ と を 悟 つ た 中 君 は、 次 第 に 匂 宮 を 頼 り に す る よ う に な つ て 來 た。 [ 略 ] 匂 宮 は、 六 君 との關係よりも、中君と静かに暮すことの方が本望なのである。それがかなはぬことが残念であるが、そのやうにかしづき据ゑら れてゐる中君を、世の人は幸人と評してゐる。 こ の 段 落 で も 匂 宮 は、 ﹁ ま だ 御 覧 じ 知 ら ぬ こ と に て、 い か な ら む と 思 し 嘆 き て、 御 修 法 な ど、 所 ど こ ろ に て あ ま た せ さ せ 給 ふ に、 ま た またはじめ添へさせ給ふ﹂と心を砕いている。 ︹三九︺   女二宮の裳着の準備。結婚近し。 中 納 言 の 君 1は、 宮 の 思 し 騒 ぐ に 劣 ら ず、 い か に 思 は せ む と 嘆 き て 2、 心 苦 し く う し ろ め た く 思 さ る れ ど、 限 り あ る 御 と ぶ ら ひ ば かりこそあれ、あまりもえ参 で給はで、忍びてぞ御祈 祷などもせさせ給ひける。さるは、女二宮の御裳 着 、ただこの頃に成りて、世の 中響 き営 みののしる。よろづのこと、帝 の御心ひとつなるやうに思し急げば、御後 見 なきしもぞ、なかなかめでたげに見えける。女御 の し 置 き 給 へ る こ と を ば さ る も の に て、 作 物 所 3、 さ る べ き 受 領 ど も な ど、 と り ど り に 仕 う ま つ る こ と ど も い と 限 り な し や。 や が て、 そ の ほ ど に、 参 り そ め 給 ふ べ き や う に あ り け れ ば 4、 男 方 も 心 づ か ひ し 給 ふ 頃 な れ ど、 例 の こ と な れ ば、 そ な た ざ ま に は 心 も 入 ら で、 この御事 5のみいとほしく嘆かる。

(18)

源氏物語宿木後半評釈︵1︶ 一七

1   底本は﹁中納のきみ﹂ 。﹁納﹂の下に﹁言﹂を補った。青表紙本系古代学協会蔵本も﹁中納言君﹂ ︵九十二丁オ九行目︶ 。 2   どのようなお気持ちになってもらおうか、と嘆いて。 3   禁中の調度類を調進する所。蔵人所の被管。 ︽集成︾ 4   裳着の儀の直後、そのまま薫を婿として通わせようとする。 ︽集成︾ 5   中の君のこと︽集成︾

【鑑賞】

集成解説三一〇頁︵第一巻︶に、 ﹁家集︻=﹃紫式部集﹄ ︼には母のことに一言も触れていないので、 母は早く亡くなったと思われる。 母の死を悼 む歌も、母を恋う歌も一首もないところから、よほど小さい時に母と死別したのではなかろうか﹂と記されているのはほぼ 通説に成ったと思われ、また、 ﹃源氏物語﹄の主要登場人物の中に母を小さい時に亡くした者が多いことも良く知られている。 女二宮も、非常に幼い時に、とは言えないが、十四歳で母を亡くしている。しかし、そのせいで、父・今上帝が裳着の準備の際表に 出るので、 ﹁めでたげに﹂お見えに成った、だから、かえって良かった、というのである。 ﹁なかなか﹂という副詞は、普通一般に悪い と 考 え ら れ る と き に 良 か っ た、 と い う 場 合、 或 い は、 普 通 一 般 に 良 い と 考 え ら れ る と き に 悪 か っ た、 と い う 場 合 に 用 い ら れ、 こ こ は、 前者である。 いったい、母が無い主要登場人物たちは、不幸に成っているだろうか。 男性では、夕霧が幸福、光源氏は他の人間が味わあないような不幸を舐めたが、人生全体を通して見ると、やはり勝ち組である。女 性では、紫上がいる。玉鬘は、当初予定していた冷泉帝への入内は叶わなかったが、必ずしも不幸な人生とは言えないだろう。 ︹四〇︺   薫、権大納言に昇進。 二 月 の 朔 日 ご ろ に、 直 物 1と か い ふ こ と に、 権 大 納 言 に 成 り 給 ひ て、 右 大 将 か け 給 ひ つ。 右 の 大 殿 2左 に て お は し け る が、 辞 し 給

(19)

富山大学人文学部紀要 一八 へ る と こ ろ な り け り。 よ ろ こ び 3に 所 ど こ ろ 歩 き 給 ひ て、 こ の 宮 4に も 参 り 給 へ り。 い と 苦 し く し 給 へ ば 5、 こ な た に お は し ま す ほ ど な り け れ ば、 や が て 参 り 給 へ り。 僧 な ど さ ぶ ら ひ て 便 な き 方 と 6お ど ろ き 給 ひ て、 あ ざ や か な る 御 直 衣 、 御 下 襲 な ど 奉 り、 ひ き つ く ろひ給ひて、 下 りて答 の拝 し給ふ、 御さまどもとりどりにいとめでたく、 ︵薫︶ ﹁やがて、 衛 府の禄 賜ふ饗 の所に 7﹂と請 じ奉り給ふを、 な や み 給 ふ 人 に よ り て ぞ 思 し た ゆ た ひ 給 ふ め る 8。 右 大 臣 殿 9の し 給 ひ け る ま ま に 10、 六 条 院 に て な ん あ り け る。 垣 下 11の 親 王 た ち、 上 達 部、 大 饗 に 劣 ら ず、 あ ま り 騒 が し き ま で な ん 集 ひ 給 ひ け る。 こ の 宮 も 渡 り 給 ひ て、 静 心 な け れ ば 12、 ま だ 事 果 て ぬ に 急 ぎ 帰 り 給 ひ ぬ る を、 大 殿 の 御 方 に は 13、﹁ い と あ か ず め ざ ま し ﹂ と 宣 ふ。 劣 る べ く も あ ら ぬ 御 ほ ど な る を、 た だ 今 の お ぼ え の は な や か さ に 思 し おごりて、おしたちもてなし給へるなめりかし。

1   除 目 ︵官吏任命の儀︶の後、召 名 ︵任官名簿︶の失錯を正す名目で行われる任命の儀。 ︽集成︾ 2   右大臣、夕霧。以下、夕霧が兼任の左大将を辞し、右大将が左に転じたその空席という趣。 ︽集成︾ 3   昇進のお礼言上に諸所を訪問する儀礼。 ︽集成︾ 4   二条の院︽集成︾ 5   ︹中君が︺ひどくお具合が悪いので︽集成︾ 6   ︹匂宮が︺ ︽集成︾ 7   右大将新任の披露の宴。 ︻略︼この時、親王、公卿も招待される。 ︽集成︾ 8   お具合の悪い中の君のことが気がかりで︹匂宮は︺出席をおためらいになるようだ︽集成︾ 9   底本は﹁左大臣殿﹂ 。直前に﹁右のおほいとの﹂という文言があったので、 ﹁右大臣殿﹂と校訂する。 10   夕霧の右大臣新任の大饗が六条の院で行われたのにならって、という文言。ただしこの大饗のことは物語に見えない。 ︽集成︾ 11   朝廷や貴族の邸宅で催される饗宴での、正客以外の相伴の人をさす。 ︽鑑賞と基礎知識後半﹁垣下﹂ ︾ 12   気が気でないので。中の君の出産も間近なので、気もそぞろの体 。︽集成︾ 13   右大臣方では。 六の君方のこと。 匂宮がせっかく六条の院に顔を見せながら、 同じ邸内の六の君を訪れず、 二条の院に帰ったのを不満とする。 ︽集成︾

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源氏物語宿木後半評釈︵1︶ 一九

【鑑賞】

 

権 大 納 言 は、 ﹃ 源 氏 物 語 ﹄ 前 後 編 の 男 主 人 公 四 人 の う ち、 臣 籍 降 下 し な か っ た 匂 宮 を 除 く 全 員 が 獲 得 し た 役 職 で あ る。 そ の 名 も﹃ 浜 松中納言物語﹄の主人公のように初めから中納言であった男ならそれでよいが、中将として初登場する﹃源氏物語﹄主人公の中納言時 代︵若しくは大将時代︶はつらく苦しく、権大納言に就任してようやく理想性を取り戻し、安定するのである。 光源氏は、須磨一年間、明石一年半の滞在を得て還京した後、権大納言に成った。 薫は、流罪同然の身になった経験は無いが、目の前で大君が半ば自殺するような死に方で死んで行ったのは、勿論、人生最大の不幸 である。 女二宮降嫁はその悲しみから立ち直る時を意味し、 それと相前後するにして、 権大納言に就任したのは重い意味があるのである。 ︵ほぼ同じような趣旨のことは、拙稿﹁宮廷社会の薫︱宿木・蜻蛉の巻︱﹂ ︵﹃源氏物語講座﹄第四巻。勉誠社、一九九二年︶に書いた︶ ︹四一︺   中の君、出産。 か ら う じ て、 そ の 暁 に、 男 に て 生 ま れ 給 へ る を、 宮 も い と か ひ あ り て 嬉 し く 思 し た り。 大 将 殿 も、 よ ろ こ び に 添 へ て 1嬉 し く 思 す。 昨 夜 お は し ま し た り し か し こ ま り 2に 3、 や が て、 こ の 御 よ ろ こ び も う ち 添 へ て、 立 ち な が ら 参 り 給 へ り。 か く 籠 り お は し ま せ ば、 参 り 給 は ぬ 人 な し。 御 産 養 、 三 日 は、 例 の、 た だ 宮 の 御 私 事 に て、 五 日 の 夜 は、 大 将 殿 よ り 屯 食 4五 十 具 、 碁 手 の 銭 5、 椀 飯 な ど は 世 の 常 の や う に て、 子 持 の 御 前 6の 衝 重 7三 十、 児 の 御 衣 五 襲 に て、 御 襁 褓 8な ど ぞ、 こ と ご と し か ら ず 忍 び や か に し な し 給 へ れ ど、 こ ま か に 見 れ ば、 わ ざ と 目 馴 れ ぬ 心 ば へ な ど 見 え け る 9。 宮 10の 御 前 に も 浅 香 11の 折 敷 、 高 坏 12ど も に て、 粉 熟 13参 ら せ 給 へ り。 女 房の御 前 には、衝 重 をばさるものにて、檜 破 子 三十、さまざまし尽くしたることどもあり。人目にことごとしくは、ことさらにしなし 給 は ず。 七 日 の 夜 は、 后 の 宮 の 御 産 養 な れ ば、 参 り 給 ふ 人 々 い と 多 か り。 宮 の 大 夫 14は じ め て、 殿 上 人、 上 達 部 数 知 ら ず 参 り 給 へ り。 内 裏 に も 聞 こ し 召 し て、 ︵ 帝 ︶﹁ 宮 の は じ め て 大 人 び 給 ふ な る に、 い か で か ﹂ と 宣 は せ て、 御 佩 刀 15奉 ら せ 給 へ り。 九 日 も、 大 殿 よ り 仕 う ま つ ら せ 給 へ り 16。 よ ろ し か ら ず 思 す あ た り な れ ど、 宮 の 思 さ む と こ ろ あ れ ば、 御 子 の 君 達 な ど 参 り 給 ひ て。 す べ て い と 思 ふ こ と な げ に め で た け れ ば、 御 み づ か ら も 17、 月 ご ろ、 も の 思 は し く 心 地 の な や ま し き に つ け て も、 心 細 く 思 し た り つ る 18に、 か く 面 だ

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富山大学人文学部紀要 二〇 たしく今めかしきことどもの多かれば、すこし慰みもやし給ふらむ。大将殿は、かくさへおとなび給ふめれば、いとど我が方ざまはけ 遠くやならむ、また、宮の御心ざしもいとおろかならじ、と思ふは口惜しけれど、また、はじめよりの心おきてを思ふにはいと嬉しく もあり。

1   昇進の喜びに中の君安産の喜びが重なる。 ︽新全集︾ 2   底本は﹁かしまり﹂ 。﹁し﹂の下に﹁こ﹂を補う。青表紙本系古代学協会蔵本も﹁かしこまり﹂ ︵九十四丁ウ三行目︶ 。 3   匂宮が昨夜の饗応に加わってくれたお礼。 ︽新全集︾ 4   強 飯を卵型に握り固めたもの。 ︽集成︾ 5   碁や双六の勝負に賭けるための銭。 ︽新全集︾ 6   中の君。 ︽新全集︾ 7   檜 の白木で作った四角の折 敷 に台をつけたもの。食器をのせる。 ︽新全集︾ 8   小児用の掛布団。 ︽新全集︾ 9   ﹃源氏物語﹄では、このように目立たぬ趣向が賞讃されることがよくある。例えば、 七 そ う の ほ う ふ く な と す へ て お ほ か た の 事 と も は み な む ら さ き の う へ せ さ せ た ま へ り あ や の よ そ ひ に て け さ の ぬ ひ め ま て み し る 人 は 世 に な へ て なからすとめてけりとやむかしうこまかなることゝもかな︵ ﹁鈴虫﹂四丁オ︶    新全集では、 七 僧 の 法 服 な ど、 す べ て お ほ か た の こ と ど も は、 み な 紫 の 上 せ さ せ た ま へ り。 綾 の 装 ひ に て、 袈 裟 の 縫 目 ま で、 見 知 る 人 は 世 に な べ て な ら ず と めでけりとや、むつかしうこまかなることどもかな﹂ ︵︹三︺ ︶    とある。 10   匂宮︽集成︾ 11   香木の一種。 ︽新全集︾ 12   食物を盛るのに用いる高い脚をつけた器。 ︽新全集︾ 13   菓子の名。米・麦・豆・胡麻などの粉を餅にしてゆで、甘 葛 とこね合せて、竹筒にかたくおし入れて固めたもの。 ︽新全集︾ 14   中宮職 ︵中宮づきの役所︶の長官。 ︽集成︾

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源氏物語宿木後半評釈︵1︶ 二一 15   守り刀。 ︽新全集︾ 16   九日の産養は夕霧右大臣の主催。六の君を正妻とする匂宮にとって、夕霧は後見役。 ︽新全集︾ 17   中の君ご自身も︽集成︾ 18   ﹁心細く﹂思ったのが、過去のこととして語られている。 ︹三八︺鑑賞欄参照。

【鑑賞】

﹃紫式部日記﹄ 前半の主要テーマとも言うべき、 寛弘五年 ︵一〇〇八︶ 九月の中宮影子の出産 ︵後の第六十八代後一条天皇︶ について、 産養の様子が詳述されている。 ﹁佩刀﹂は、頭の中将頼 定 が持参している。 ︵︹一五︺ ︶ ﹁三日にならせたまふ夜﹂とは、 九月十三日であるが︵御誕生は、 九月十一日︶ 、﹁宮づかさ、 大 夫 よりはじめて、 御 産 養 仕 うまつる。 ﹂ と記されている。 ︵︹一七︺ ︶ ﹁五日の夜は、 ﹂藤原道長の御産養である。 ︵︹一八︺ ︶ ﹁七日の夜は、 ﹂朝廷の御産養である。 ︵︹二〇︺ ︶ 右 記 の﹃ 紫 式 部 日 記 ﹄ の 記 事 は、 鑑 賞 と 基 礎 知 識 後 半 の﹁ 産 養 の 儀 礼 ﹂ で も 触 れ ら れ て い る。 な お、 ﹁ 産 養 の 儀 礼 ﹂ で は、 若 菜 上 卷 の明石の姫君の男児出産の記事、柏木巻の女三宮の薫出産の記事が挙げられ、詳細な比較検討がなされている。 この段落で最も注目すべき産養は、夕霧主催のものではなかろうか。六の君のライバル ・ 中の君であっても、男児出産をしたことで、 夕霧も一目置かざるを得なくなったことであろう。 [二〇一八年九月一九日提出]

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参照

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