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仏教文化研究所紀要54 005道元, 徹心他「大正新脩大蔵経の学術用語に関する研究 : 仏教における生死観の研究」

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Academic year: 2021

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全文

(1)

特 指 定 研 究

袋詰

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主 大正新情大蔵経の学術用語に関する研究 任

研 究 員

長 谷 川

大 谷 大 谷 三 浦 村 上 小 野 嶋

高 阿 佐 長

一 三 五 J

岳 正

悟 順 亮 彦 子 雄 也 浩 裕 香 靖 史 博

大 慈 道 善 聖 祥 明 和 欣 由

(2)

大正新倍大蔵経の学術用語に関する研究 一 三 六

共同研究の概要

本研究会は、﹁大正新情大蔵経﹂を中心とする漢文仏典中の重要語を抽出し、分析並びに研究を加えることを目的としている。漢文仏典とは、 漢字による翻訳・著述された経律論とその注釈類を含む東アジアに展開した仏教思想の基盤となった文献群を総称している。そのような漢文仏 典から仏教要語を選ぴ用例を検討し、その要語の意味する内容が時代と地域に応じて知何に変遷したかを研究する。 本研究会ではこの数年、仏教の生死観に関する用語を研究しており、本来一体とみるべきところの生死を﹁生﹂と﹁死﹂に分けて各々の立場 で研究班を立ち上げ、大蔵経においてそれらが知何に扱われてきたかを考究してきた。 今回はその両班からの論文を掲載する。﹁生﹂班からの報告は、延命について密教の立場から取り組んだ大谷欣裕氏の研究である。氏は賢覚 の﹃転非命業抄﹄を資料として取りあげ、大蔵経を調査し成仏論の範暗において延命思想を論じている。また、延命についての従来の概念にと らわれず、仏教における生命観を新たな視点から捉えている。 また﹁死﹂班からの報告は、釈尊の死を契機として仏舎利信仰を理解し、舎利を仏教におげる死の様相の一つとして捉えた鍵和田聖子氏の研 究である。氏は舎利にまつわるものとして、禅林寺に秘蔵される倍舎利塔の研究とそれに関する﹃倍舎利記﹂を翻刻紹介した。さらに大蔵経を 調査し密教の事相を加味して、死の様相の一面として往生と倍舎利の信仰の関係を論じている。 ( 道 元 徹 心 )

理性房賢覚における延命思想とその意義

はじめに

(

)

延命思想はすでに古代インドの頃より人々の関心を集め、仏典中においても度々みられるものであるが、特に密教の文献の中で広く展開され

(3)

る 思 想 で あ る 。 延命という視点から密教の死生観の構造とその意味を検討した頼富本宏氏は、﹁広い意味の密教構造の中にあって、現実の生身の一般大衆が 最も関心を持つのは、迫りくる死を少しでも引き延ばし、限られた命を精一杯に生きようとする﹂願いを延命思想と定義し、さらには、﹁延命 という思想は密教全体の生死観の中ではむしろ基層レベルに属し、必ずしも第一義的なものではないかも知れない﹂とし、﹁少なくとも表面的 には肉体的生命の永続を希求するという低次の生命観の段階に属する﹂と位置づ防ている。 以上の位置づけを基に延命思想を概観してみると、特に日本仏教の儀礼においてはこうした願望への措置がはかられてきたことが注目される。 すなわち、日本では長寿祈願の修法である延命法の確立をもたらし、天皇や貴族の病気治癒を願う目的で平安期より数多く修されてきたという 歴 史 が あ る 。 無論、こうした事実に対して殊更否定するつもりはない。ただ、延命思想とははたして、本当に本能的欲求を満たす役割でしか機能しないも のであろうか。これまでの考察ではそもそも、 8 なぜ延命をひたすら願うのか。という、根本的な聞いに対して、突き詰めた議論がなされてこ なかったという問題がある。このことは、延命思想自体に思想的発展が窺えるのにも拘わらず、結局、どこまでいってもつ長生きしたい。と いう人間の根源的欲求を満たす目的﹂という認識で完結されてきたことに原因があると考えられる。それに対し、延命思想を仏教における教理 教学のレベルで考えたとき、そこから延命思想の本来的意義というものを見いだすことは不可能であろうか。 こうした意識のもとで本稿では、院政期の真言宗の学僧である理性房賢覚(一

O

Oj

一一五六・以下賢覚)に着目し、延命思想という観点 から賢覚の教学的特徴を解明する。そして、賢覚の説く延命の意義について追ってみたい。 延命にまつわる経典の種類とその概要 延命に関する経典・儀軌類は、漢訳を中心にまとめると十五種にも及び、そこでは共通して﹁陀羅尼﹂が説かれる点に特色がみられる。この うち、本稿では﹁金剛寿命陀羅尼﹂を経題にもつ(唐)不空(七

O

1

七七四)訳の経軌に焦点を絞り、その内容を概観しておく。 金剛寿命陀羅尼にまつわる経軌は五本確認されるが、今それを訳出年代順に従って配列すると次のようになる。 大正新情大蔵経の学術用語に関する研究 一 三 七

(4)

大 正 新 惰 大 蔵 経 の 学 術 用 語 に 関 す る 研 究 一 三 八 A ﹃ 仏 説 一 切 知 来 金 剛 寿 命 陀 羅 尼 経 ﹄ ( 一 巻 ) B ﹁ 金 剛 寿 命 陀 羅 尼 念 語 法 ﹄ ( 一 巻 ) C ﹃ 金 剛 寿 命 陀 羅 尼 経 法 ﹄ ( 一 巻 ) D ﹁ 金 剛 寿 命 陀 羅 尼 経 ﹂ ( 一 巻 ) E ﹃仏説一切諸知来心光明加持普賢菩薩延命金剛最勝陀羅尼経﹂(一巻) 頼富氏は、陀羅尼の内容から延命の具体的方法を判断し、 ( i ) ﹁ 長 寿 陀 羅 尼 系 ﹂ と

( H

)

﹁ 金 剛 寿 命 真 言 系 ﹂ の 二 系 統 に 分 け 、 A 本 は ( i ) に 、 B i E 本 は ( H U ) に配分する。また、五本の内容を比べると、 A 本および E 本の説法主は釈迦牟尼仏であるが、 BiD 本 は 見 虚 遮 那 仏 で あ る こ と 、 ま た 、 A 本および E 本は恒伽河辺所説であるのに対し、 BiD 本は須弥山頂所説という相違がある。尚、この相違を便宜上、仏教学における学 術分類法を用いて表現すると、所謂雑密から純密への思想的発展を示唆したものである。

延命の具体的内容

そこでまず、各経典におげる、延命の具体的内容について確認していきたい。 A ﹃ 仏 説 一 切 如 来 金 剛 寿 命 陀 羅 尼 経 ﹂ まず、長寿陀羅尼系に属される﹃仏説一切知来金剛寿命陀羅尼経﹂の官頭では、仏(釈迦)が四天王に対して生老病死の四種法について説く。 如 是 我 問 。 一 時 悌 在 = 残 伽 河 側 ハ 輿 = 諸 比 丘 及 大 菩 薩 無 量 天 人 大 衆 -倶 。 爾 時 世 尊 告 = 毘 沙 門 等 四 天 王 -言 。 有 = 四 種 法 -甚 可 = 怖 畏 ベ 若 男 若 女 童 男 童 女 、 一 切 有 情 無 = 能 免 -者 、 所 謂 生 老 病 死 。 於 = 中 一 法 -最 鋳 エ 逼 悩 日 難 ν可=封治山所謂死怖。我感 v 故 説 = 封 治 法 4 ( ﹃ 大 正 蔵 ﹂ 二

0

・ 五 七 八 上 ) 四苦とは一切の有情が免れ得ぬものだが、その中でも死怖が最も困難であるとする。そこで仏はこの死怖を除く為の陀羅尼を説くにあたって、 一切如来を召集し、その威神力を発揮する。

(5)

爾時世尊面向=東方司蝉指召=集一切如来ハ作=是替言ぺ所有十方一切如来癒正等究局エ衆生-故、謹エ菩提-者成皆助 v我、令 ( H 今の誤写か) 我以二切如来威神力︼故、悉令二切衆生鱒=非命業(使 v 増=詩命寸我昔未下馬=衆生-縛中此法輪日於今方縛。能令下衆生誇命色力皆得=成就-無 主 大 死 怖 日 ( ﹃ 大 正 蔵 ﹄ 二

0

・ 五 七 八 上 ) 釈迦および一切知来の威神力は衆生の非命の業を転じ、寿命を増長させ、夫死の恐怖から解放するという。そして仏はこの金剛寿命陀綴尼を菩 薩衆と四天王に授けた後に次のようにいう。 働 告 ニ 四 天 王 国 言 。 若 有 下 讃 = 諦 此 経 日 日 -受 中 持 乃 至 一 遍 P 嘗 ν敬=彼善男子善女人山臆 v = 悌 想 -終 不 ν = 三 悪 道 -定 増 = 詩 命 ↓ 若 人 毎 日 矯 = 一 切 衆生-縛=讃此綴ハ終無=夫死短命之怖 4 亦無ニ悪夢・魔魅・呪岨・悪形・羅剃・鬼神之怖ベ亦不 ν 三 水 火 兵 毒 之 所 = 傷 害 4 一 切 諸 悌 菩 薩 撮 = 受 護三念其慮寸亦爵 z悌所ニ護持寸爾時世尊説=是経-巳。毘沙門天王等一切大衆皆大歓喜信受奉行。 ( ﹃ 大 正 蔵 ﹄ ニ

0

・ 五 七 八 下 ) すなわち、この経典を日々受持読諦し、善男子・善女人を敬い仏想の如くするならば、三悪道に堕ちることなく寿命が増すという。また一切衆 生の為に毎日この経典を転読すれば、若死・短命・悪夢・呪殺などの様々な恐怖や傷害が無くなり、仏菩薩の加設を被ることができるとする。 このように

A

で は 、 いわゆる四苦のなかでもとりわけ﹁死怖﹂を克服する上での手段として延命が位置づけられる。その為には日々経典を受 持・読請し、かっ、 一切衆生の為にこの経を転読することが必須であることを強調している。 次 に

BiD(

金剛寿命真言系) における延命の具体的方法については大同であるため、

B

に絞って確認する。

B

﹁ 金 剛 寿 命 陀 羅 尼 念 調 法 ﹂ 本経では報身の毘慮遮那仏が色界頂第四禅天において成道し、須弥山頂金剛宝峯楼閣に下降し、 一切如来の要請をうけ金剛寿命陀羅尼を説く。 まず、毘慮遮那仏が大自在天を降伏させるために、降三世菩薩へと変化し、その命を断つことを明かし、その後、毘虚遮那仏はさらに金剛寿命 三摩地に入って今度は大自在天を蘇生させ、寿命を増長させたのちに仏法へと帰依させ、八地を証得するであろうと授記する。そして金剛寿命 真言を唱え、次のようにいう。 備告=執金剛菩薩ぺ若有=善男子善女人-受=持念三諦日各三時時別千遍 λ 過去所有悪業因縁、短命夫議、由 ν持エ此陀羅尼-故、信心清浄業障錦 大正新傭大蔵経の学術用語に関する研究 一 三 九

(6)

大正新傭大蔵経の学術用語に関する研究 一 四

O

滅、更増=毒命 4 若有 ν修=習三摩地-者、現生不 ν = 父 母 生 身 日 獲 二 五 神 通 ベ ( ﹃ 大 正 蔵 ﹄ 二

0

・ 五 七 五 中 ) すなわち、金悶寿命真言を毎日三時に分けて千回受持・念請すれば、信心清浄となり、過去現在のあらゆる悪業の因縁や短命・若死が消滅し、 寿命が増すという。 様々な罪業を消滅し、寿命が増すと説く点は

A

と同様である。しかし、

B

では﹁死怖﹂の対治を中心的課題に据えず、それよりも、(これは

c

D

の経軌も含め)父母生身のまま神通力が得られると明かす点に一つの思想的発展が看取される。

E

﹁仏説一切諸如来心光明加持普賢菩薩延命金剛最勝陀羅尼経﹂ 本経はその内容から、 A および

BiD

の両群の延命要素を巧みに総合した、独特の思想形態をもつものとして位置づけられており、教主は A と同様、釈迦であるが、対告衆の普賢菩穫の神通力による功徳を明かすことに力点が置かれる。この普賢菩薩の神通力については、官頭で明か さ れ る 。 知 ν 我 問 。 一時悌在二残伽河側日輿二諸大比丘僧菩薩摩詞薩天人衆-倶。爾時曾中有=普賢菩薩斗住ニ知来秘密三摩地 4 従 乙 ニ 昧 -起 、 現 = 大 神 通 力 ハ 諸 備 加 持 宣 = 金 剛 容 命 陀 羅 尼 イ 令 豆 諸 衆 生 増 エ 詩 命 -故 無 = 夫 横 死 ↓ 亦 令 下 獲 = 得 金 剛 詩 命 堅 固 不 壊 斗 成 -就 菩 提 -到 申 不 退 地 日 ( ﹃ 大 正 蔵 ﹄ 二

0

・ 五 七 九 上 ) このように、普賢菩薩の大神通力によって夫死することなく寿命が増加し、菩提を成就し、不退転の境地に到達することが明かされる。そして、 ﹁縛誠此経各四十九遍。別持是陀羅尼満十寓遍。即獲薄命。﹂というように、本経を四十九遍転読し、別に陀羅尼を十万遍読請すれば寿命を獲得 することが出来ると説く。 以上が金剛寿命陀羅尼をめぐる、密教経典にお付る延命とその方法であるが、共通して言えるのは陀羅尼や真言の受持・読請が必須であり、 この陀羅尼・真言の功徳により寿命が増長し、様々な苦悩からの解脱が可能となる点である。 不空の訳出による一連の延命経典は、空海(七七四

i

八三五)・円仁(七九四

i

八六四)・円珍(八一四

1

八九ごの手により日本へと請来さ れた。そして、延命法を担う所依の経典として位置づけられるとともに、本経に基づく延命観も同時に形成されてゆく事となる。

(7)

における延命思想 さて、日本仏教にお付る延命思想に関連するものに、醍醐寺理性院流の祖、賢覚の手にかかる﹃転非命業抄﹂なる著作が現存する。本書は ﹃金剛寿命陀羅尼念講法﹂に説かれる金剛寿命真言の功徳を中心に論じつつ、﹃仏説一切知来金剛寿命陀羅尼経﹄の経説である﹁非命の業を転ず る﹂ことの具体的内容を、問答形式により説示している。資料自体は非常に短編ではあるものの、就中、種々の経論を引用し、人間の寿命や夫 死、延命の方法などについて詳細に論じるなど、随所に特徴的な内容が看取される。尚、本替の概要はすでに﹁日本仏教典籍大事典﹂において 明かされているが、本書に基づく具体的な研究は管見の限り皆無である。そこで、賢覚の延命思想という観点から﹁転非命業抄﹄を取り上げ、 そこから窺える延命思想の本来的意義について言及してみたい。 ( 1 ) 延命の方法 まず、延命を成就させる上で克服すべき問題である﹁夫死﹂について言及しておきたい。 一般的に﹁夫死﹂と言った場合、それは﹁若くして 死ぬこと﹂を指すが、賢覚は、正法・像法・末法に共通する概念として、﹁人間の寿命は百歳を本寿とし、末法の世に於いても百歳の輩は稀に 存在する﹂という。その上で諸経論の内容から百歳を待たずして終没することを﹁夫死﹂と定義している。ところで、現代においても百歳は長 寿を象徴する年齢として認識されている。そうなると、賢覚の想定する延命の意義とは、百歳という寿命を確実に得、障りなくただその命を全 うすることを指すものであろうか。百歳の寿命について賢覚は、﹁仰出世者人詩百歳時也。(﹁大正蔵﹂七八・ニ二二上こというように、仏の出世 時に相当する点で重要視している。 さらにこの仏の出世時に準えられる百歳については、決定業との問題と絡めて次のように述べる。 問。何不 ν 下 縛 二 決 定 業 -使 b 増 = 薄 命 -乎 答。以 ν ν ν意義二此問-也。決定必死業者一百歳満年也。悌意先説 ν v = 本 薄 百 歳 一 也 。 故 日 下 縛 ニ 非 命 業 -使 歩 増 = 詩 命 -也 。 百 年 之 土 尚 、 求 = 口 百 歳 詩 -者 呪 力 滅 = 決 定 業 ベ 何 不 ν退 = 数 百 詩 -乎 。 ( ﹃ 大 正 蔵 ﹄ 七 八 ・ 二 ニ 二 中 ) すなわち、本寿百歳を得た後、数百歳という更なる寿命を得ることが賢覚のいう延命の主眼である。ここで、本寿百歳の獲得を遂げる上での妨 大 正 新 傭 大 蔵 経 の 学 術 用 語 に 関 す る 研 究 四

(8)

大正新傭大蔵経の学術用語に関する研究 四 げとなる非命業を仏の加護により転じ、さらに﹁決定必死の業(決定業)H満百歳﹂を滅することで数百歳という寿命が得られるという。また、 この決定業については﹁四重五無関罪﹂も該当すると説くことから、定められた命と様々な罪業を破すことによって、数百歳の延命が可能とな ることを明かそうとしていたと考えられる。 ( 2 ) 寿命の自在性 賢覚は数百歳の寿命を得る方法論を説示した後、今度は諸師を実例に挙げ、数百歳の寿命の獲得に関する具体性を示している。 問。員言力能滅=決定業-者、鱒=百年決定業-可 ν 。 若 過 = 百 歳 -若 及 = 数 百 歳 -人 乎 答 。 依 = 輿 言 力 -或 有 = 数 百 歳 入 山 或 有 下 過 = 百 歳 -人 日 龍 樹菩麓三百歳、龍智和尚七百歳、法護尊者八百歳。是皆依=呪カ司随 ν意自在也。菩提流志百六十歳、是皆依=呪力-則破=決定百歳業-也。 ( ﹁ 大 正 蔵 ﹄ 七 八 ・ ニ ニ ニ 下 ) 真言の呪力によって龍樹は三百歳、龍智和尚は七百歳、法護尊者は八百歳という寿命を全うしたことを明かしており、また、菩提流志の百六十 歳という年齢も、百歳という決定業を破したことの証であると述べる D 一方、夫死した人師に対しては次のように述べる。 問。然者不空金剛智乃弘法大師等、何不 v = 数 百 歳 -乎 答。悉地随行者、意於不 ν好之人。何必長遠乎。知 ν = 議 室 時 歓 喜 猶 如 = 於 口 病 ベ ︿時年六十日﹀。故悉地成就之人、薄命延促随 ν 大師﹃遺告﹂云。我初思及=子一百歳-住 ν世奉 ν = 教 法 斗 然 而 侍 = 弟 子 等 -永 擬 = 即 世 -( ﹃ 大 正 蔵 ﹄ 七 八 ・ 二 二 ニ 下 ) すなわち、不空や金剛智、空海といった者たちは所謂悉地成就の人であり、このような者にとって寿命が尽きる時とは、病(煩悩)からの解 脱を得ることに他ならず、寧ろ喜ばしいこととする。 以上のように賢覚は、数百歳の寿命を得た人師と、夫死した空海や不空などの祖師を共に悉地成就の人として位置付ける。そして悉地を成就 した者は、自由意志によって寿命を操ることができることを主張している。

(9)

( 3 ) 行者の問題と延命の可能性 では、すべての者が数百歳の寿命を得ることは可能であろうか。少なくとも経典において﹁陀羅尼を持することによって信心清浄となり、業 障が消滅する﹂と説かれていた。これは﹁すべての人聞が陀羅尼の功徳を得ること﹂を認めているようにも見受けられる。しかし賢覚は、前述 B における﹁由 ν持=此陀羅尼-故、信心清滞業障鈴滅、更増=詩一命ごという経文の﹁信心清浄﹂について問題視している。すなわち﹁問。信心 清浄之義如何 答 。 案 = 聖 教 意 ハ 於 ニ 行 者 -有 = ニ 類 ↓ 一 者 信 心 清 湾 人 。 二 者 信 心 不 牢 固 人 也 。 ( ﹃ 大 正 蔵 ﹄ 七 八 ・ 二 二 二 上 こ と 述 べ 、 ﹁ 信 心 清 浄 ﹂ を 、 ﹁信心清浄の人﹂と﹁信心不牢固の人﹂という行者の機質として理解するのである。そして結論を先に述べると﹁信心不牢固の人﹂は、信心が 浅く真言の不可思議なる力を覚知できない鈍根の者であるため、悉地成就は困難であるとする。 問。若少疑心雑者、何可 ν 二 行 業 -乎 答。此間可 ν爾。但浅智小信人不 ν知エ悌智不思議員言虞大力-故信水不=澄浄一悉地影難 v 也 。 : ・ 中 略 ・ : 織 有 ニ 小 信 小 恵 -雄 ν = 行 業 日 依 = 鈍 根 僻 怠 -悉 地 難 v 也 。 ( ﹁ 大 正 蔵 ﹄ 七 八 ・ 二 二 三 上 ) そのため、信心不牢固の人がいくら﹁信心清滞業障消滅﹂という経説を料簡し、延命の行を修したとしても、百年の寿命を全うする程の延命は 得 ら れ な い と 忠 告 す る 。 問 。 此 人 修 ニ 延 命 行 ハ 縛 = 非 命 業 -持 ニ 百 年 蒔 命 司 乎 。 答 。 悌 一 言 。 信 心 清 滞 業 障 消 滅 文 簡 コ 信 心 不 通 げ 人 ( 仰 難 ν = 百 年 寄 イ 縦 雄 ν v = 百 年 -何 不 v エ 随 分 之 長 詩 -乎 。 ( ﹁ 大 正 蔵 ﹄ 七 八 ・ 二 二 三 上 ) 一方、信心清滞の人については﹁問。信心清津、調ニ此延命巽言-。可 ν = 薄 命 百 年 -乎 答 云 。 ﹁ 経 ﹄ 説 L 脚 二 非 命 業 -、 使 ν = 詩 命 -終 無 巳 穴 死 短命之怖九此文百年可 v持云也。(﹃大正蔵﹂七八・ニ二二上こと述べ、延命真言を読諦することで、百年の寿命を得ることが可能とする。さら には、成仏論との関係から次のように述べる。 問 。 悉 地 成 就 人 速 身 成 悌 乎 。 答 。 於 = 悉 地 成 就 人 目 有 三 一 類 ぺ 一 者 得 = 事 相 悉 地 イ 来 ν = 三 摩 地 成 就 -以 前 、 不 ν = 即 身 成 悌 -也 。 二 者 三 摩 地 成 就人。此人即身成悌也。故﹁経﹂云。信心清滞業障消滅更増詩命︿説三事相臆=悉地成就相-也﹀。若有 ν 二 習 三 摩 地 -者 、 父 母 生 身 獲 = 五 神 通 -後浬繋自在文文﹃菩提心論﹂云。若人求=悌恵-通=達菩提心山父母所生身即謹=大費位 4 是 則 説 = 即 身 成 悌 -也 。 ( ﹃ 大 正 蔵 ﹄ 七 八 ・ ニ ニ ニ 下

1

二 二 三 上 ) 大 正 新 情 大 蔵 経 の 学 術 用 語 に 関 す る 研 究 一 四 三

(10)

大 正 新 情 大 蔵 経 の 学 術 用 語 に 関 す る 研 究 一 四 四 ここで留意しなければならないのは、﹁悉地成就の人 H 信心清浄の人﹂にも﹁事相悉地﹂と、﹁三摩地悉地﹂というこつの立場があり、このうち、 事相悉地の者は未だ三摩地を成就していないため、即身成仏とはいえないとする。しかし、経文の﹁信心清津業障消滅更増寄命﹂に関して、事 相悉地の人はこの境地を体得しているため、後は三摩地を修することで最終的には即身成仏が可能と説いている。 ここに、信心清浄の者が成仏する上での、 一つのプロセスが看取される。すなわち、信心清浄の者はまず仏の出世時と同価値に当たる百歳の 寿命を得るための修行(具体的には経典の書写や日々の読謁・衆生への転読)を行い、前述

A

の経説に基づく、﹁転非命業﹂という仏の加護を 受け、決定業を破す必要がある。そうして得られた事相悉地の立場から、さらに

B

の経典に基づいて三摩地の行法を行うことで最終的に即身成 仏に至るのであるが、この境地を体得出来るのは、あくまでも信心清浄の人に限られるという点が主張の大要なのである。そして何よりも賢覚 は、即身成仏の境地を数百歳という寿命で顕すことで、その具体性を標携するとともに、即身成仏の範曙内において、延命を体系化しようと試 み た と 考 え ら れ る 。 賢覚が生きた院政期とは、東密・台密ともに様々な修法が営まれた時期であり、修法の効力をめぐって互いに競いあう時代であった。中でも 普賢延命大法に関しては、台密を中心に執行され、賢覚在世当時には多数の延命法が修法された。このことは当時の日本の仏教界において、単 なる欲求を満たす現世利益としての延命思想が隆盛を極めていくことの証左となり得る。こうした時代の渦中にあって賢覚は、延命の本来的意 義を割酌し、現世利益としての延命に対する警鐘を示す意味も込めて、即身成仏に根差した延命観を強調したと捉えることはできまいか。 ( 4 ) 信心不牢固の人に対する救済措置 このように賢覚は機質の相違を明かし、信心清浄の人のみに陀羅尼による延命(即身成仏)の可能性を示唆していた。そうなると、信心不牢 国の人に対する措置が問題となる。そこで最後にこの問題について若干の考察を加えておく。﹁転非命業抄﹂の最後では、次に示すように行者 に二種類あることの経証を求める問答が展開されている。 問 。 就 = 行 者 -有 = ニ 類 4 有 = 謹 文 -乎 答 。 有 = 謹 文 寸 ﹃ 無 量 寄 経 ﹄ 云 。 人 信 罪 福 修 = 習 善 本 -離 ν = 彼 園 4 於 エ 悌 智 ・ 不 思 議 ( 智 ) ・ 不 可 稿 智 ・ 大乗康智・(無)等無倫最上勝智-疑惑不 ν信、五百歳不 ν = 悌 ・ 法 ・ 僧 4 謂 = 之 胎 生 -文 又 云 。 若 有 = 衆 生 -明 信 = 悌 智 乃 至 勝 智 ハ 作 = 諸 功 徳

(11)

-信心廻向、於=七寂地-自然化生、須奥之頃身相光明智恵功徳知=菩薩-文又龍樹菩薩目。若人種善根疑即花不 ν開。信心清浄者花開即見 ν ( ﹃ 大 正 蔵 ﹂ 七 八 ・ ニ 二 三 上

1

中 ・ ﹁ ( 賢覚は﹃無量寿経﹄巻下の﹁五智疑惑﹂と、龍樹の﹃十住毘婆裟論﹄巻五﹁易行品第九﹂の偶頒の内容から、信心清浄の人と信心不牢固の人の 文 ) は 筆 者 に よ る 補 記 ﹂ ) 二種類の存在を明かしている。周知の通り、ここで賢覚が挙げた経証とは所謂、浄土往生思想の中でも主に、九品往生との関連で着目される文 言である。すなわち、﹁無量寿経﹂に説く、五智に疑惑を持つものは往生したとしても五百年の聞は仏に見えることがない胎生の者や、﹁十住毘 婆裟諭﹂の人種善根に疑惑を生ずる輩に関する内容は、平安期の浄土教学の形成にかかる先駆者である源信(九四二

i

O

一七)の﹃往生要 集﹄や、日本三論宗の学僧である禅那院珍海(一

O

九 一

1

一一五二)の﹃決定往生集﹂においても、辺地往生などの問題と絡めて料簡されてい る。これら経証に対して賢覚は﹁然則雄 v = 疑 惑 寸 修 業 之 輩 者 得 ユ 遂 本 望 -也 。 但 依 コ 疑 惑 -花 運 開 也 。 信 心 清 浄 之 人 者 花 即 開 。 ( ﹃ 大 正 蔵 ﹄ 七 八 ・ ニ二三中こと説き、遅速の差はあるものの、結局は成仏できると説くのである。つまり、信心不牢固の人は、浄土往生を期すべき事を表明し ていると考えられるのである。また、信心清浄の人については即身成仏と浄土往生の両方の可能性を示唆しているといえよう。 ﹃転非命業抄﹄は非常に簡略ではあるものの、その内容は延命を基軸とした賢覚独自の即身成仏思想に加え、僅かながらも浄土往生思想の片 鱗が垣間見られた。賢覚のこうした立場は、同じく院政期に活躍した済退(一

O

二 五

1

一 一 一 五 ) や 覚 鍍 ( 一

O

九 四

1

一 一 四 一 ニ ) な ど に 代 表 さ れる、密教浄土教の教学形成にかかる過渡期の思想として評価すべきものと考えられる。 念 品 シ ﹂ 仇 ⋮ v 以上、﹃金剛寿命陀羅尼経﹂をめぐる延命思想と、その思想的展開について賢覚を例に検討してきた。こうした検討結果を踏まえた上で、延 命思想の教学的意義について述べてみたい。 頼富氏は金剛寿命陀羅尼をめぐる経典群の思想的変遷を検討した結果、﹁世間的な延命・長寿という意味﹂から﹁現象の世界の中に永遠なる 実在の境地を体得するという構造に昇化していったのではなかろうか﹂と指摘していた。このことと﹃転非命業抄﹄における賢覚の教学的態度 を鑑みると、延命そのものを即身成仏として捉える必要性を示唆していたと思われる。賢覚のこうした主張のもとに延命思想を再度考えるので 大 正 新 情 大 蔵 経 の 学 術 用 語 に 関 す る 研 究 一 四 五

(12)

大正新情大蔵経の学術用語に関する研究 それはもはや単なる人間の根源的欲求を満たすといった低次元のものではないことが理解される。それよりもむしろ延命とは、成仏論 一 四 六 あ れ ば 、 の範鴎内において反映される、高度かつ必要不可欠な理論として評価できると考えられる。 さらにこれを、仏教における生命観という視点から捉え直すのであれば、延命思想とは災難や夫死によって修行が断たれることなく、仏道を 歩む期間をより長く保つ役割を担うものであると位置づけることが可能なのではなかろうか。 及してみた。今後は延命法や﹃金剛寿命陀羅尼経﹄ 以上、金剛寿命陀羅尼をめぐる延命経典と、その思想的展開の一つとして賢覚の﹃転非命業抄﹄を例にあげ考察し、賢覚の延命観について言 にまつわる唱導などにも着目し、延命思想を多角的に捉え検討してゆきたい。 鮭 ( 1 ) 密教における延命思想についてはこれまで栂尾祥冨﹁延命法の史的考察﹂ (﹁密教研究﹄四三号・一九コ二年)、初崎正純﹃秘密仏教におげる普賢延命 法の研究﹂(科学研究費助成事業研究課題・種智院大学・一九六七年度)、同 ﹃密教にお付る延命法の成立に関する研究﹄(﹃印度学仏教学研究﹂一五巻一 号・一九六六年、科学研究費助成事業研究課題・種智院大学・一九六六年 度)、頼富本宏﹁密教文献に見る死生観﹂(﹃仏教における生死の問題﹄・日本 仏教学会福・一九八一年)の論考が確認されるが、いずれも延命に関する経 典・儀軌を成立(訳出)年代願に追ってその内容と形態について考察したも の で あ る 。 ( 2 ) 恐らく原文の﹁知云穏盛時敵喜猶如於口病﹂とは﹃倶舎論﹄巻三﹁分別根 品第二之こにある﹁党行妙成立聖道己普修詩輩時歓喜猶知捨衆病(﹃大 正蔵﹂二九・一五下こという煩を下敷きとしたものと考えられる。 ( 3 ) 尚、普賢延命大法に関して、武覚超氏(﹃比叡山仏教の研究﹄法蔵館・ニ

00

八年)は台密におげる奉修の歴史とその内容について考察している。そ こで武氏の論考に基づき、台密における修法回数を確認すると、延命大法は 現在に至るまで合計五十一回修法されている。始行は承保二(一 O 七五)年 で、このうち賢覚の在世時期には、承暦四(一 O 八 O ) 年 、 永 保 三 ( 一 O 八 一 ニ ) 年 、 応 徳 元 ( 一 O 八四)年、応徳二(一 O 八五)年、応徳三(一 O 八 六)年、嘉保二(一 O 九五)年、康和四こ一 O 二 ) 年 、 長 治 一 一 ( 一 一 O 五)年、大治二(一一二七)年、長承元(一三三己年、長承二こ一三 一ニ)年、天護元二一四四)年と一三回にも及ぷ修法が確認され、それ以降 は 建 久 一 一 ( 一 一 九 一 ) 年 ま で 聞 が 聞 く こ と に な る 。 ( 4 ) ﹃大正蔵﹄二了二七八上

1

中 ( 5 ) ﹃ 大 正 蔵 ﹄ 二 六 ・ 四 三 中 ( 6 ) ﹃金悶寿命陀羅尼経﹂の日本にお付る教学的展開については、未だ十分な 検討がなされていないと考えられる。これは恐らく、﹁金剛寿命陀羅尼経﹂ 自体が非常に短編であり、思想的発展が見出しにくい文献であることが一つ の要因と考えられる。そもそも本経典に関する註釈由自体、ほぽ現存してい ないことがその証左となろう。尚、本経の日本における受容について考究し た も の と し て は 箕 輪 顕 量 ﹁ ﹃ 薬 師 経 釈 ﹂ と ﹃ 寿 命 経 釈 ﹂ ﹂ ( ﹁ 日 本 仏 教 の 教 理 形 成│法会における唱導と論義の研究│﹄・大蔵出版・二 OO 九 年 ) 、 拙 稿 ﹁ 伝 良源撰﹃金剛寿命陀羅尼経疏﹂にお付る延命思想の考察﹂(﹃仏教学研究﹂七 一 号 ・ 二 O 一 五 年 ) が 挙 げ ら れ る 。 ( 大 谷 欣 裕 )

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京都・禅林寺蔵﹁金銅倍舎利塔

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新出資料の紹介を兼ねて

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(

)

の制作背景

はじめに 仏舎利信何というのは、釈迦の死を切っ掛けに起こった仏教における信仰の一形態だ。そういう意味で、舎利は仏教における死の様相を表す ものと捉えることもできるのではないであろうか。そこで、この度は、仏教における死の様相の一つとして舎利信仰とそれに伴う造形をテ l マ と し た い 。 さて、日本においても舎利信仰は仏教伝来当初より根強く定着し、釈迦の死と直接的な関係性を失った感はあるものの、度々その霊験性が語 られ、信何を集めてきた。そのような中で舎利を荘厳する様々な造形が残されている。本論では、舎利にまつわる造形として特に、禅林寺蔵 ﹁ 金 銅 倍舎利塔(厨子入)﹂(以下﹁倍舎利塔﹂)を取り上げる。本舎利塔は江戸時代に制作され、厨子と一具になっている。非常に徽密で繊細 な飾りが施され、厨子にも四体の仏像が取り付けられるなど、豪華な作りである。また、禅林寺は通称で永観堂と呼ばれ親しまれているが、こ の舎利塔の名に付された﹁倍舎利﹂というのは、その通称の由来である禅林寺第七世の永観(一

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三 三

1

一一一一)が所持していたと伝わる、 霊験高き舎利の名称であって、大正時代にまとめられた禅林寺の総史、﹃禅林寺誌﹄などにもその名が見られる。ところが、本舎利塔について は、制作の経緯や目的、詳細な制作年代などは不明であった。筆者は二

O

一四年度の秋から冬にかけて、この舎利塔の調査および写真撮影とそ れに伴って、関連文書の調査をさせて頂く貴重な機会を得ることができた。その中で、これまで把握されていなかった﹁倍舎利塔﹂に関する文 書を見出すことができ、これまで不明であった造像の経緯や詳細な制作年代を知ることができた。そこで、ここに新出資料の紹介も兼ねて、文 書の記述から舎利塔の造形や制作意図、制作年代などを確認し、加えて大蔵経を用いながら、多少の分析を試みたい。 大正新情大蔵経の学術用語に関する研究 一 四 七

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大 正 新 総 州 大 政 経 の 学 術 用 語 に 関 す る 研 究 四 /¥

、 ﹁ 金銅

一基の造形的特徴

厨子入倍舎利塔﹂ 倍舎利塔 本舎利塔は、総高が七四 ・ 七(文中の寸法は全てセンチメ ー トル単位 を使用する。以下単 位 を 省 略 す る 。 ) 、 間 以 下 段 の 館 般 の 縦 横 が 三 五 ・ 二 × 金銅 三 五 ・ ニの多宝塔形舎 利塔 で 、 露盤の側面に﹁五条稲荷町 / 作鋳屋治左 図1 衛 門 ﹂ ﹁ 施主 徳容宗思﹂という銘が刻してある。また、露盤の側面に は四方に阿昨の獅 子 飾 り が 、 縁の側面には四方に二輪づっ開敷蓮華の 飾 りが付 け ら れ る 。 下回と上回 の聞の伏鉢形部分 に は四方に飛天が 、 屋 恨 四方それぞれに時局を巻いた桁 } の飾りが取り 付 け 部には雲を地文様と飾りで表現し 、 られる。さらに、相輪部分から屋根の四方に向かって鎖常のものに鐸を模したものが 取り付けられた金飾 りが垂れ下がり 、 屋根の 四 つ角にも鐸 形の飾り が取り付けられる など 、多 彩な装飾が施された舎利塔である。塔の下層部分 は 方形で四方に開閉可能な 厨子 扉があり 、 一 扉の内側に四天王と蓮 池 文が施される。内部には米敷蓮筆状の銅細工に瑠 木 製 璃仮をはめ込んだ舎利容器が安置され 、 その中に璃璃製と考えられる球体の中に五色 の粒 状 舎 利 が埋め込まれたものが蓮台に安置されている。 図 2 厨子は 木製漆 塗りで総高が九五 ・ 二、床叡の縦横が四七×四七である 。 内部は全体 に漆箔がほどこされ 、 天井部に龍図が描かれる。龍図の四方より幡が下がる。四枚の 板扉は全て 開閉可能 。それぞれに 一 体 づっ雲坐に座る如来の木像が取り付けられ 、 そ れぞれに天蓋 飾り を施している。それぞれの仏像は、①智拳 印 を結ぶ金剛界大日 如 来 ( 像 高 一 一 九 ・ 七)。②弥陀定印を結ぶ阿弥陀如来(傑高 一 一 八 ・

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)

。@施無畏与願

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印の釈迦知来(像高一一八・

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)

。④印相不明(右手は掌を上にして膝に置き、左手は拳のように握って膝に置く)。調査の結果、左手の拳の下 には衣の布がひだを作っている様子が表現されており、左手はかつて衣の角を握っている像として造像された可能性が高いことがわかった。恐 らく、別材で衣の端を作成し、手に差し込む技法を用いたため、落ちたものと推測できる。そうであれば、膝の上に掌を上に向けて置くという、 右手の印相と合わせて考えても、宝生如来と比定することができる。すなわち、本厨子に取り付けられているのは、﹁大日・阿弥陀・釈迦・宝 生﹂の四体である。四体ともに雲台に坐するわけだが、通常雲の表現は来迎や影向の相に用いられるものであり、本厨子の仏像は来迎の相では な い こ と か ら 、 一見、難解な造形であると言える。

二、現時点で確認できる﹁金銅

倍舎利塔﹂(厨子入)

についての解説 さて、現時点でも右記の舎利塔について、解説を施した文章を幾つか確認することができるロ最も新しいものが、本舎利塔が一九九八年に千 葉そごうにて開催された展覧会に出陳された際の図録解説である。ひとまずその内容を挙げると﹁永観律師が念仏を唱えて祈願したところ、舎 利二粒が倍増したと伝える舎利塔で、阿弥陀堂に安置されていた。大目、阿悶などの四仏を扉内面に取り付けた厨子に納置され、金銅製の宝塔 には細織な装飾が施される。宝塔の刻銘から、元禄年間に京都で活躍した鋳屋治左衛門の作とわかり、木製厨子も同じ頃の制作と考えられる。 ︿全文﹀﹂といったものである。しかし、尊格や制作年代についての分析は暖昧で、説明は不十分と言わざるを得ない。すなわち、倍舎利塔作 成の経緯や詳細な年代は、 一九九八年の時点ではほぽ不明であったということであり、おそらく、この図録の解説は大正二年発行の﹃禅林寺 誌﹂を参考にしたものと考えられる白その﹁禅林寺誌﹄の記述が以下である。 ﹃禅林寺箆(大正二年発行) -﹁ 永 観 律 師 ﹂ 後当山に帰りて諸縁を禁止し長坐念仏以て歳月を送る。曽て現益を見んが為に志を決して仏舎利二粒を宝塔に納れ寄って臼く、吾必ず安養に 生ずべくんば舎利増粒せんと翠年果たして数粒と成れるに愈安心決定して浄業を増進せり。(二五頁) 大 正 新 情 大 蔵 経 の 学 術 用 語 に 関 す る 研 究 一 四 九

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大 正 新 傭 大 蔵 経 の 学 術 用 語 に 関 す る 研 究 一 五

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-﹁ 倍 舎 利 縁 起 ﹂ 中興永観律師、曽て諸縁を絶ちて長坐念仏以て歳月を送る。或時仏舎利二粒を宝塔に納れ普って日く。われ必ず安養に生ずぺくんば舎利増粒 せんと。翌年果たして倍と成ると。因て倍舎利の名あり。(五二頁) -﹁ 舎 利 ﹂ て仏舎利命中に宝塔あり。永観律師感得の倍舎利。 一 名 五 色 運 転 の 舎 利 。 ( 六

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頁 ) また、この他にも明治時代に幾つかの寺宝を撰んでまとめた巻子装偵の文書が禅林寺に伝わっていて、その中に﹃倍舎利縁箆という文書が あり、そこには以下のように説明がなされている。 ﹃ 倍 舎 利 縁 起 ﹄ ( 明 治 八 年 ) 抑然御舎利ハ黍なくも人王四十五代、清(聖)武天皇御時唐土龍興寺之鑑真大和尚、勅請に応じて日本へ渡し玉ふ時賀来する所の仏舎利三千 粒有、然るに永観律師具内二粒を得て常に敬信し玉ふ所に、律師信心乃除り我現信に在て往生の験を得んと、然仏舎利二粒を費塔に納め五口必 安養に往生せば此舎利数を増すべしと普ひ玉ふに、奇異なる哉翌年舎利此数去年に倍増す、故に是を倍舎利と申すなり、幸ひなる哉末世今日 に在て釈迦知来の遺身に逢ひ奉るに同じ候、誠に功徳鹿大なる品(御舎利)なれば各近うよって拝礼あふれ満昇 ﹃禅林寺誌﹂によると、永観が自ら所持していた舎利二粒を塔に安置し、自身が安養浄土に往生できるならば数が増えるであろうという普い を立てたところ、翌年倍になった。そのためこれを倍舎利と呼ぶのだという。そして、この舎利を治めたのが、現在見ることのできる﹁倍舎利 塔﹂であり、五色運転の舎利とも呼ばれているという。 つまり、この時点では、現在自にすることのできる﹁倍舎利塔﹂の下層に安置された五 色の舎利を永観所持の﹁倍舎利﹂と判断していたことがわかる。また、﹃倍舎利縁起﹄では、永観所持の舎利が鑑真請来の三千粒の舎利の一部 ということになっているが、時が経つにつれてそのような伝説が生まれたのであろう。しかし、これらの資料からは、舎利塔を制作した経緯や

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その目的を窺うことは出来ない。そこで、以下では﹁倍舎利塔﹂制作の直後に執筆されたと考えられる﹃倍舎利記﹄という資料を紹介したい。

に記された﹁金銅

および厨子の制作の経緯 さて、この度、禅林寺の格別な協力を得て、未調査と考えられる資料を閲覧させて頂くことができた。その中に、﹃倍舎利記﹂と記された巻 子装丁の資料を確認する事が出来た。これは、﹁倍舎利塔﹂制作の直後に当時の法主であった太空湖南によって記されたものと考えられ、舎利 塔制作の経緯が詳しく述べられている。近年、禅林寺の寺宝については、 阪市立美術館が行った調査や、二

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一一年京都国立博物館で行われた﹁法然 一九九六年に開催された﹁京都・永観堂禅林寺の名宝﹂展に伴って大 生涯と美術﹂展に伴う調査などが知られるものの、﹃倍舎利記﹂ は調査の対象に無かったものと考えられ、禅林寺側もこの度初めて把握することができたようである。そこで、以下では、その全文を紹介し、 ﹁倍舎利塔﹂および厨子の造形と比較したい。 ﹃ 倍 舎 利 記 ﹄ ( 全 文 翻 刻 ) 倍舎利記 ヒ デ / ニ ヲ ヒ ヲ ネ テ ク ヲ ニ b テ ス ル ニ ヲ / タ チ 永観律師八歳ん=当山中深観僧都之島 4 祝髭十二歳随=東大寺有慶-専学ニ三弘明兼間二諸宗寸十八歳偶ニ学浄教ハ宿習知忽発ユ帰念仏門寸 ヲ ニ テ テ ヒ ヲ ク レ ス ザ ハ 専慕=安娘-四十二歳息=大衆-交還住=当山(立ニ弥陀像-専修=浄業寸或時、為 ν ニ 往 生 得 否 -安 = 仏 舎 利 二 粒 於 宝 塔 日 立 v寄目、吾必生=安 セ ム リ テ ニ ス シ カ ラ ス L V テ 養ハ舎利増粒。明年成 ν倍、決 v願。不 ν虚ニ浄器末、増進発=得三昧寸或感コ仏像顧防ハ或拝=聖衆来迎 λ 霊応勝跡至 ν 。 不 浪 倍 舎 利 者 為 ニ 其 随 一 寸 信 = 斯 舎 利 -感 瑞 者 多 。 霊験記 元 禄 之 比 、 雛 下 信 士 逢 坂 宗 思 、 シ テ ヲ ス ル ヲ 信 三 倍 舎 利 -参 = 詣 之 -時 、 莫 ν エ 礼 供 ベ 思 或 夜 、 エ デ シ テ シ ニ 夢 自 望 = 晴 空 宝 塔 ぺ 出 = 現 仏 -坐 = 雲 ム ロ ム 合 掌 護 念 。 傍 有 = 大正新情大蔵経の学術用語に関する研究 五

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大 正 新 情 大 蔵 経 の 学 術 用 語 に 関 す る 研 究 一 五 二 ス ル リ ル ト ヒ リ テ 冨 リ シ ヒ テ ユ ス ヒ テ ル コ ト ナ リ ハ ニ シ テ ノ 高僧日指 ν 目 、 汝 如 = 平 日 -所 ν念随=宝塔-去。一言誌、塔中放光、向=西口(眠か)-去。恩随去里飴。楼閣台沼厳麗舷目異樹珍華香 ナ リ ハ b ス シ デ ヒ テ ス ル F b p b シ チ ク ハ ナ リ タ 気爽心。諸天童子歌舞伎楽。恩為=奇異-想欲 v知=何処寸高僧復現、告白此処安娘浄土、知=汝所願-可 ν = 来 遊 ↓ 思 喜 二 無 窮 一 夢 覚 以 為 、 ヲ ス ル ト コ ロ / 卦 テ ヲ ル / カ ヲ カ ノ 孟 ヨ リ テ ス カ ヒ ハ ヲ 所 v現宝塔平日所 ν念倍舎利塔。其一高僧永観律師。吾旧念=舎利-頃、疑慮念二舎利-得=往生司否。今夜示現除=遺吾疑↓大悲方便 不 v ν認駕。早朝登山、敬三礼舎利及律師像日悔過念仏、求 v滅ニ罪障寸其妻南氏、文有=信念 4 夫婦同志喜=捨浄財(改造=宝塔↓厳飾 童 ν巧、不 v v ν夢。爾後、翁婆信行、逐日増進。可 ν = 決 定 往 生 人 -突 。 倍舎利宝塔記 宝 塔 之 長 一 肌 = ニ 尺 計 寸 楯 , 除 = 護 也 四 天 王 像 -令 ν 、 露 盤 市 民 -小 島 町 イ 十 一 面 大 悲 薩 謹 也 。 田 島 ハ 吐 金 テ 光 訳 振 一 一 党 立 町 4 欄 楯 重 階 , 鎮 一 金 磨 忌 ↓ 宝 段 初 札 免 ニ 倍 舎 利 仰 ( 第 二 一 札 札 = 五 色 舎 制 的 二 時 ハ 耕 助 下 先 固 め も 一 石 上 払 -舵 棟 、 空 海 阿 閤 札 一 肌 中 持 4 山 口 也 。 施 中 む 宗 思 、 得 ν む札 ν 。 世 島 ν 引 婚 低 動 為 ニ 衛 瑞 酌 λ 柱殿宝極彩 ν施=錦繍寸安=附四智像於四閲ハ以其中央配=法界宮↓鋭々方壇欄楯四鏡以擬=切利ハ要摸=須弥寸荘飾之美、工巧之妙、不 ν カ ラ X X ル ス ン ハ レ p b テ ヲ ν タ 且 ル コ ト ニ ラ ム ヤ -b テ ヘ ス ニ ヒ テ ミ タ J R a w ハ 孟 ル ヤ へ テ タ テ 可=具状-濡。非=費財之多、謹 ν 之 久 山 室 至 ν 葱乎。余敬礼不 ν = 歓 喜 4 問=施主司日、今所二安置-大悲尊像何故造耶。答目、余嘗 / ミ タ ナ ル J -P リ テ ユ ル 7 L Y T ヲ タ キ / タ ス ヲ 見 ニ ヲ 7 ヲ ニ テ ノ ヲ b リ ト 所 ν夢妙境界相紡錦、不覚自然作 v之。余告 ν之日、律師之古其母、旧信二十一面尊寸一夜感三夢大悲尊像、諦呪輿=玉母寸得=之呑夢ハ覚 ν ν J -9 1 7 キ テ ノ ニ ス ヲ ハ 予 ス 金 子 ル ヲ ス ル カ J F -ス ヤ エ ヒ テ 9 7 娠、律師誕生。其日、産屋間=請呪音 4 驚 = 斯 祥 瑞 -律 師 為 = 大 悲 之 応 現 寸 汝 未 ν v 然、而安=斯像 4 宣非=感応道交之妙-耶。施主喜甚請 v 為=乙号除 ν 喜二之飴忠一吾れ-拙筆記

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爾 。 元禄第四龍集辛未夷則仏歓日 錐東本山禅林寺 湖 南 欽 識 ︻ 太 空 ︼ ︻ 湖 南 ︼ ( ︻ ︼は朱印)

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︻ 解 釈 ︼ ﹁ 倍 舎 利 記 ﹂ 永観律師は八歳で当山(禅林寺) の深観僧都のもとに入室した。剃髪をしたのは十二歳で東大寺の有鹿に従って主に三論学を学び、合わせて 諸々の宗についても聞き学んだ。十八歳で浄土教に出会い学ぶと、前世にて学んだことがあったかのように、 たちまち念仏門に帰依する心を起 こした。もっぱら安養浄土を願い求めて四十二歳で東大寺の職を辞し、戻ってきて当山(禅林寺) に住し、阿弥陀如来の像を安置してもっぱら 念仏行を修した。ある時、自分が安養浄土に往生することができるかどうかを試みるために仏舎利二粒を宝塔に安置し、普いを立てて言った、 ﹁私が必ず安養に往生できるならば、舎利の粒は増えるであろう。﹂。すると明くる年には倍になって、普いは成就した。念仏行は無駄ではなか っ た こ と か ら 、 いっそう念仏行に励んで三昧を発得した。あるいは、仏像が後ろをかえり見るという奇瑞を感じたり、あるいは聖衆の来迎を拝 むなどして、仏の霊験や勝れた軌跡が今残っているのである。ほろびることなき倍舎利はその軌跡の中でも随一のものである。この舎利を信じ るものには奇瑞を感じる人が多いのである。 ﹁ 霊 験 記 ﹂ 元禄の頃、洛外の信士で逢坂の宗思という人が、倍舎利を信じており、これを参詣する時は、 いつも敬礼し供養しないことはなかった。思は ある夜、夢で自ら晴れた空に宝塔を仰ぎ見ると、仏が出現して、雲台に坐し合掌し、護念した。その傍らに高僧が居て、塔を指さして﹁あなた が、ふだんより念じている宝塔から来た﹂と言った。言い終わると、塔の中から光が放たれ、西に向かって行った。思はその光に従って一里余 り行った。楼閣や蓮池は荘厳で麗しく舷しいほどであり、変わった樹木やめずらしい撃の香りは爽やかである。諸天の童子達は歌い舞って伎楽 を奏でている。恩は不思議に思い、ここはどこであるか知りたいと考えた。すると、高僧がまた現れ、告げて﹁ここは安養浄土である。あなた が願ったように(安養浄土への)来遊を得たのである。﹂と言った。恩は非常に喜んで、夢から目覚めて思ったことには、(夢で)現れた宝塔は 日頃念じている倍舎利塔であり、その高僧は永観律師である。私はむかし、舎利を念じていた時、舎利を念じて往生を得ることができるのであ ろうかと疑いを持ったことがあったが、今夜の示現によって私の疑いを除き遺ることができた。大悲の方便を誹ってはいけないのだ。(恩は) 大正新傭大蔵経の学術用語に関する研究 一 五 三

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大 正 新 情 大 蔵 経 の 学 術 用 語 に 関 す る 研 究 一 五 四 早朝、(禅林寺に)登山して、舎利と律師の像に敬礼し、悔過し念仏をして、罪障が滅することを願った。その委である南氏もまた信念のある 人で、夫婦は志を同じくしており、浄財を喜捨して、新たに宝塔を造った。荘厳なる装飾には技術を尽くし、夢で見た宝塔から減らすことなく (忠実に)造った。その後、この老夫婦の教えを信じて修行に励むことは日を追って増進した。必ず(安養浄土へ)往生する人と言うべきであ ろ h

﹁ 倍 舎 利 宝 塔 記 ﹂ 宝塔の全長はニ尺に造らなくてはならない。軒下には護世の四天王の像を刻んで護らせ、露盤には一つの小像を安置する。十一面観音像であ る。層には金を貼って光輝く叙は仏の声をゆり鳴らす。欄楯棚や階段などには金や磨玉を鎚めた。宝塔の初級(上層を指すか) には倍舎利を安 置し、第二級(下層を指すか) には五色の舎利を納めた。聞くところによれば、(この五色の舎利は)三条堀川の石上社にあったもので、空海 阿閤梨が大切に所持していたものだという。施主の宗思は、これ(五色の舎利)を得てここに納めた。(厨子の天井に描かれた)塔を覆うとぐ ろを巻いた龍の勢いが衛護し、柱殿の宝の柱は錦繍(のような色)を施して彩る。四つの門の内側には四智の像を取り付け、安置し、その中央 に法界宮(舎利塔)を安置する。高く大きい方形の壇と欄楯概を四つ重ねることで切利天になぞらえ、中心(塔内中央の須弥段)を須弥山に見 立てる。荘厳なる装飾の美しさ、工巧(細工の手仕事)の妙なることは、文章に書き表すことはできない。費用を多くつぎこみ、工夫を尽くし て長い時間をかけることがなければ、どうしてこのような(すばらしい)ものに行き着くであろうか。わたしは、敬礼して、大変に歓喜し、施 主に問うて、﹁今、安置している大悲尊像(十一面観音)は、なぜ、造ったのですか﹂と尋ねると、答えて﹁私が以前に夢でみた妙なる境界の すがたをありありと思い浮かべたのであって、何を思ったわけでもなく、自然にこれを作ったのです。﹂と言った。私は告げて﹁律師はその昔、 その母が、普から十一面観音を信じていた。ある夜、夢で大悲尊像(十一面観音像)が、律師の母に諦呪を与えた。この夢を見ることを得て妊 娠していることがわかり、律師が誕生した。その日は、産屋で謁呪の音が聞こえた。そのすばらしい兆しに心動かされて律師は大悲の応現を為 したのです。あなたは、こういった話しを知らずにこの像(十一面観音像)を安置したのですか。どうしてこれが、信心が仏に通じ、(永観律 師の霊験と)道を交えることとなったすばらしい奇瑞でないことがあろうか。﹂と言った。施主は喜んでこの記を記すことをたいそう望んだの

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で、その喜びに従って、自分の能力を考えると拙筆ではあるけれどもこれを記したばかりである。 以上より、造形に関係すると考えられる要点を挙げると、 -永観四十二歳の時、禅林寺に阿弥陀如来を安置し、念仏行を修した。その時、自身が極楽浄土に往生出来るかどうかを試して、仏舎利二粒を 宝塔に安置し、安養浄土に往生できるなら舎利が増えると替った。翌年、舎利は倍になった。 -宗恩という人物が日頃から倍舎利を信仰していた。その宗思が雲台に座した仏が舎利塔の周囲に示現し、その傍らに高僧がいて極楽浄土の様 相を見せる霊夢を見た。その高僧が永観だと知り、早速早朝に倍舎利と永観律師像を参詣した。宗思は罪障の滅することを願い、妻と共に自 らの財産を喜捨して倍舎利を納める宝塔を新しく造り直すことを希望した。 -宝塔は二尺ほどの大きさで、四天王が刻されており、露盤の上には小さな十一面観音像が安置された。全体に豪華な装飾が施されており、塔 の上層に倍舎利を、下層に五色の舎利を安置した。この五色の舎利は三条堀川の石上社にあったもので、空海が持念していたものだという。 塔に加えて塔を護るための厨子を作り、塔の上を覆うように龍を描いて﹁倍舎利塔﹂を護らせた。その四つの扉には四智仏像を取り付け、そ の中央に法界宮(宝塔)を配置した。多宝塔は方形の檀と高欄を合わせて四重に重ねることをもって切利天になぞらえ、中央の須弥坦を須弥 山に見立てる。その造形は宗恩の夢に見た塔を再現したものであった。十一面観音は永観の母が信仰しており、ある時、十一面観音の霊夢を 見て永観を懐妊したことを知ったという。宗恩はこの伝承を知らなかったが、宗思も霊夢で十一面観音を感得して塔に安置した。 といったことが知られる。 すなわち、倍舎利は元々別の塔に安置されていたが、施主の宗思の希望で新たに現在目にする事の出来る﹁倍舎利塔﹂が造られたことがわか 大正新情大蔵経の学術用語に関する研究 一 五 五

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大正新術大蔵経の学術用語に関する 研 究 『倍舎利記jのうち「倍舎利記

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図3

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倍舎利記』のうち

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験記」 図4 一 沢 六 る。造形的にも、厨子の四仏が雲台に座しているのは、施主である宗 f倍舎利記jのうち「倍舎利宝培記

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① 思の 霊 前 ゲ に 従 っ た も のであ ったこと がわかり、元 々 は 小 さ な 十 一 面観 音像 も安置されていたようだが、現 在は確認で きない。しかも、借金 円 利 自体は塔の上回に安置されたものと考えら れ 、 これは失われている。 現在見ることのできる五色の粒状舎利は元様年間に ﹁ 倍舎利浴 ﹂ を作 った際、新しく採用され、安置された舎利であったことがわかる。す なわち、大正時代発行の ﹃ 禅林寺誌 ﹄ において倍舎利と考えられてい た五色の舎利は 三条 痢 川 の石上社にあった空海 所持 と缶わる舎 利 であ ることがわかったのだ。なお、石上社とは 、 現在も京都の三条堀 川 付 図5 近に存在する中山神社のことと考えられ、 もともとは岩上社と呼ばれ ていたことが知られて い る 。 f倍舎利却のうち「倍舎利宝綜沼

J

② 文告の記述は、塔の大きさ、施主の名前、培下回の凹天王の先刻、 周子の天井の龍図、厨子の扉の四仏などが、倍舎利塔と 一 致 し て お り 、 この舎利塔について脅かれたものであることは間違いない。このこと か ら 、 ﹁ 倍 舎 利塔 ﹂は 禅林寺四十七世太空湖南の時、 元禄 四 年 二 六

に禅林寺に務納されたということがわかるのである。 四

倍舎

に記された内容の検討 さ て 、 ﹁ 倍舎利記 ﹂ には永観の仏舎利に 関 する霊験認が記される。 図6 明 治、大正以降に記された倍舎利伝承にも近い説が見られるが 、 こ れ

(23)

については三善為康(一

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四 九

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一 一 三 九 ) によって天永二年(一一一一)頃にまとめられた﹁拾遺往生伝﹄にも同じような記述が見られる。 ﹃ 拾 遺 往 生 伝 ﹂ 巻 下 ﹁ 前 権 律 師 、 氷 観 者 ﹂ 寛治八年。造=立七宝塔婆寸柳設ニ斎会寸其中奉 ν安=置仏舎利二粒イ即発 v願日、若順次生可 ν = 極 楽 -者 、 舎 利 可 v ν数。其願文、同納=塔 中寸次年開=見之 4 己 ニ 成 = 四 粒 λ 即歓喜流涙。分=取二位ぺ奉 ν簡=本尊弥陀之居間ベ昔道縛禅師。語=善導比丘-云。取ユ一一漣花山行進七日 不 v 者 。 即 得 = 往 生 4 此舎利之増数。教 ν輿 ニ 彼 蓮 花 之 萎 -失 ( ﹃ 日 仏 全 ﹂

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七 ・ 八 六 頁 ・ 下 ) これは、永観の生没年から考えると、最晩年か死の直後の記述である可能性が高い。すなわち倍舎利の伝承は永観在世中に非常に近い時期から 語られていたと言うことができる。 また、﹃倍舎利記﹂によれば厨子に取り付けられた四仏は四智仏であるとする。通常、四智如来と言う場合、 いわゆる五智知来(大日・阿 関・宝生・阿弥陀・不空成就) のうち、大日知来を除いた四仏を指す場合が多い。しかし、﹁ 1 、﹂で触れたように、本厨子の仏像の尊格は大日 如来、阿弥陀如来、宝生如来、釈迦如来に比定でき、通常の四智如来とは全く異なっている。これについては、富島義幸氏の唱える顕密融合と いう現象が示唆を与えてくれる。富島氏は塔建築において、密教の五智如来を安置する例と顕教における四方浄土変四仏が安置される例を提示 した上で、平安中期以降に両者に交替が起こる例が見られるという。その例えとして、寛弘四年(一

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七)に仁海が上奏したとされる高野山 大塔の再建計画である﹁紀伊国金剛峯寺解容に、大塔の四方四仏が薬師・宝生・無量寿・釈迦とされていることなどをあげ一れなお、薬師や 釈迦については、密教においても多く言及される尊格であるから、これを顕密融合を呼ぶべきであるかについては疑問が残るが、 いわゆる四智 仏以外の並びの四仏が存在した良い例と言える。また、その他にもこのような事例は見られ、﹃渓嵐拾葉集﹄には 以テ一 切 知目 衆 .7u!'生ノ 名ッ智 ゐタ恵 門 無 キ 弥 陀ト故ニ ケ ス / ヲ ヨ リ ル 不 ν開=宝塔扉ベ無始以来生死闇週。仏説五智如来意仏体似 v = 大 日 寸 無 = 無 明 病 -名 ニ 薬 師 寸 以 = 本 来 寂 静 目 名 = 釈 迦 べ 以 ニ 無 漏 妙 行 -名 二 宝 生 4 ( ﹃ 大 正 蔵 ﹂ 七 六 ・ 七 七 三 頁 ・ 中 ) 大正新情大蔵経の学術用語に関する研究 一 五 七

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大 正 新 情 大 蔵 経 の 学 術 用 語 に 関 す る 研 究 一 五 八 などとあり、五智知来を大日・薬師・宝生・阿弥陀・釈迦とする考え方が存在したことを示している。﹃渓嵐拾葉集﹄は台密の光宗(一二七六 ー一三五

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)

に よ っ て 、 一三一一年から一三四八年頃の聞に書き継がれた文献で、口伝法門も多く、扱いには注意を要するが、これらは、金剛 界蔓茶羅において配置される方角と四方浄土が結びつくことによって起こった現象の表れと考えられ、配置方向としては大日が中央、薬師が東 (金剛界受茶羅では阿悶)・宝生が南・阿弥陀が西・釈迦が北(金剛界畏茶羅では不空成就)となる。さらに、全国でも五智如来と呼びながら、 大日・薬師・宝生・阿弥陀・釈迦が安置される例が散見しており、京都・法観寺の五重塔(永享二年︿一四四

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﹀完成)や、東京・如来寺の五 智知来堂(宝暦十二年︿一六二﹀の再建時には五智知来の存在が確認できるようだ。)などが知られる。すなわち、通常の金剛界や胎蔵におけ る五智如来でなく薬師や釈迦を含んでいても五智如来と呼ぶ例が少なからず存在するのである。 なお、倍舎利塔の厨子に取り付げられた四智仏については、方角が四方如来とは一致しない上に薬師の存在が見られず、右記にあげたような 例のみで判断することはできない。そこで、厨子に取り付けられた四知来の特徴を見ていくと、それぞれが多宝塔や舎利、舎利と同一視される 宝珠などに関係深い尊格であることがわかる。まず、塔を説く経典の代表格としてあげられるのが﹃法華経﹄であるが、その﹁見宝塔品第十 こは壮麗な宝塔が大地より涌出する場面から始まる。この塔には過去仏である多宝如来の全身舎利が安置されており、多宝如来の誓願によっ て出現したものである。そして、釈迦が宝塔を開くと、多宝如来が現れ、自らの座を釈迦牟尼に半分譲ると、宝塔の中で二仏が並座する姿が衆 会の前に顕現するのであお r この物語りから、塔を描く画像においても﹁法華経﹂に関係するものは必ず、塔内に多宝如来と釈迦知来の二仏が 描かれる。なお、密教では多宝如来と宝生如来は肉体と考えられており、舎利法の本尊も﹁宝生如来の三昧に入った釈迦知来﹂とする例が多い。 鎌倉期の事相替にも ﹃秘紗﹄(勝賢二一三八

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二九六)記、守覚法親王ご一五

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一 二

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二)輯。駄都︿舎利と同意﹀の段) 舎利与宝珠肉体也。先観=釈迦子三形濁磨身-了、釈迦知来、更入=宝生三摩地-成 ν $ 字。観 ν事字成=宝珠寸即チ舎利也。可 ν 也 。 ( ﹃ 大 正 蔵 ﹂ 七 八 ・ 五 五 九 頁 ・ 上 )

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﹃ 秘 紗 問 答 ﹂ ( 頼 犠 ( 一 二 二 六 : 一 三

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四)撰。駄都秘決の段。舎利の念講に、なぜ種子や三昧耶形に宝珠を用いるのかという問いに対して) 文定恵理智配嘗依惣何乎。故知。今、稗迦入二費生三摩地-故、費生崎県言終字爵=種子-也。 ( ﹁ 大 正 蔵 ﹂ 七 九 ・ 五 一 二 頁 ・ 中 ) などといった記述が見られる。右記の二書ではこれに続けて何度も釈迦が宝生の三昧に入った状態という説明がなされている。また、これが更 なる密教的発展を遂げた例が大日知来との統合である。 ﹃ 秘 紗 問 答 ﹄ ( 頼 璃 撰 。 法 華 経 の 段 。 ) ニ タ ヒ テ ユ タ ト ヲ 法花儀軌云。於=塔中-画=釈迦牟尼如来多宝如来同坐而坐 4 塔門西関、戚儀形色経云、塔中師子座上釈迦多宝半蜘扶坐而名=同坐-文。 経 軌 意 以 三 一 仏 -為 ニ 本 尊 ↓ 此 釈 迦 多 宝 又 与 = 大 日 -一 体 也 。 -8 ' 私 云 、 ( ﹁ 大 正 蔵 ﹄ 七 九 ・ 四

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一 頁 ・ 下 ) ﹃了因決﹂(了恵撰。十四世紀に成立。台密の事相書) ト ハ ν チ / ト ハ チ ニ シ ヘ ル 示云。南天鉄塔者、即法花経宝塔品涌出塔也。文両部大日者、是則釈迦多宝二仏也。多宝仏者、即宝生如来也。塔中二仏並座給事甚 ト 、 チ 深也。唯仏与仏授記説法也。又大日三形者即多宝塔也。 ( ﹃ 大 日 経 ﹄ 七 七 ・ 一 五 五 頁 ・ 下 ) このように﹁法華経﹂における塔中の釈迦・多宝の同座が大日と同一一体のものと説かれるようになる。そもそも、大日如来は三昧耶形が塔で あり、舎利塔そのものと言える如来なのであるが、それが、塔中の釈迦・多宝との一体性を帯びるに至ったのであろう。また、舎利自体が釈迦 の遺骨なのであるから、舎利と釈迦は肉体であり、舎利法の本尊が釈迦如来であるのは当然のことである。さらに、舎利は宝珠と同一視された ことから、宝珠を三昧耶形とする宝生如来との関係性が生まれたことは想像に難くない。しかも、右記のような﹃法華経﹄に説かれる多宝塔を めぐる様々な観点から、これら三知来は舎利塔に関係深い尊格と見ることができるのである。さらに、﹃秘紗問答﹄などでも舎利と宝珠は一体 のものとして語られるが阿弥陀如来に関して言えば、古くより宝珠との関係性を見出すことのできる尊格である。たとえば、﹁陀羅尼集経﹂では 大 正 新 情 大 蔵 経 の 学 術 用 語 に 関 す る 研 究 一 五 九

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大 正 新 情 大 蔵 経 の 学 術 用 語 に 関 す る 研 究 一 六

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﹁陀羅尼集経﹄(唐の岡地嬰多訳。日本密教の事相書に多く引用される。) 中 央 著 = 阿 弥 陀 仏 4 結加鉄坐手作=阿弥陀仏説法印寸左右大指、無名指頭各相捻。以=右大指、無名指頭山圧=左大指、無名指頭目左右頭指、 中指、小指開竪。仏之右賄、作=十一面観世音菩麓像寸左廟作=大勢至菩薩像-仏上作=宝殿ベ皆以=七宝所成ハ殿下作=七宝帳寸悉以=七宝理 務所成寸其宝殿上、画作乙ニ箇大宝珠玉 4 ( ﹃ 大 正 蔵 ﹂ 一 八 ・ 八

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頁 ・ 下 ) これは、阿弥陀三尊蔵を描く際の手顕であるが、ここに頭上の宝殿の上に大宝珠を描くことが説かれており、この部分は日本の天台宗において 一二世紀頃に活躍した静然の﹁行林抄﹄などにも引用されている。また、﹃渓嵐拾葉集﹄にも ﹁渓嵐拾葉集﹄(光宗撰) 一、舎利与=弥陀-一体事。心光院禅助僧正弘師彼僧正依=近江入渡諸-舎利宝箆弥陀抄云事一巻、造 ν之。彼禅門許被 ν遣。此書、随分秘 サレタリ 事被 v書。御室在 v 云 云 ﹃ 大 正 蔵 ﹂ 七 六 ・ 五 四 六 頁 ・ 上 ) などと見え、秘事としながらも、舎利と阿弥陀の一体説が存在した様子を看取することができる。すなわち、大日・宝生・釈迦ほど多くはない ものの、阿弥陀知来にも舎利や宝珠との関係性を見出すことができる。なお、禅林寺は永観の時代より浄土教の中心寺院の一つであり、舎利と の関係性を考えずとも、永観律師由来の倍舎利塔に阿弥陀如来は必須であったと考えられる。 以上の内容を考え合わせてみれば、永観由来の﹁倍舎利塔﹂を取り囲む仏として舎利や宝珠、もしくは永観律師に関係の深い四如来を選びだ し、厨子に取り付りたと考えることができるのではないであろうか。その上で、それらを、大日・薬師・宝生・阿弥陀・釈迦といった金剛界や 胎蔵の五仏以外を五智知来と呼ぶような呼ぴ習わしに従って四智仏と呼んだと推測できる。

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ま と め 造形について、新出の﹃倍舎利記﹂ この度は、舎利信仰を仏教における死の様相の一つと考え、永観に由来する倍舎利を安置したとされる禅林寺蔵の金銅倍舎利塔とその厨子の の紹介を中心に少しく考察を試みた。それにより、倍舎利塔制作の経緯や、詳細な年代が明らかになり、ま た、これまで倍舎利と考えられていた五色の舎利が、元禄に新たに採用されたものであったことや、厨子に取り付けられた四仏が雲座に表現さ れている理由などが明らかになった。さらに厨子に取り付けられた四仏を四智仏と呼んでいることがわかったことから、富島義幸氏の唱える所 の顕密融合と、舎利や宝珠に関係深い如来という観点で、厨子の四知来が四智仏となる可能性を探った。なお、四仏の配置の問題などについて は、さらに詳細な考察が必要であると考えられるが、本論では紙数の限りもあるため、今後の機会に譲りたい。 鮭 ( 1 ) 舎利と龍の関係はアショ l カ王の時代に遡り、﹁阿育王経﹂にはナ l ガ に よって供養されていた塔については舎利の取り出しを断念したことが記され る 。 ( ﹃ 大 正 蔵 ﹂ 五 0 ・一三五・上)中国や我が国でも多くの舎利容器が龍で 装飾される。(内藤栄編﹃舎利と宝珠﹂一八頁・﹁日本の美術﹂五三九・二 O 一 一 ) ( 2 ) 千葉そごう美術館編﹃京都・永観堂禅林寺展﹄一九九八年。 ( 3 ) 稲村修道編﹃禅林寺誌﹄法蔵館・一九二ニ。 ( 4 ) 明治八年ご八七五)四月に永観堂の寺宝から七点を選ぴ、その縁起を密 き記したと考えられる一連の資料のうちの一つ。﹁本山禅林寺旧歴代八十六 大正新傭大蔵経の学術用語に関する研究 世亀空大和尚御代﹂とある。 ( 5 ) 文中では﹁第一級﹂﹁第二級﹂という表現が使用される。文脈より、上層 を﹁第一級﹂下層を﹁第二級﹂と呼んでいると判断した。しかし、このよう な数え方が存在するのかは不明である。 ( 6 ) ﹁平安遺文﹄四四六号(﹁平安遺文﹂古文脅編第二巻・六 O 三

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六 O 六 頁 ) 。 ( 7 ) 冨島義幸﹃密教空間史論﹂法蔵館・ニ OO 七 。 ( 8 ) 遠賀亮達﹁瑞膳・養玉院四百年史﹄宗教法人喪玉院・一九九九。 ( 9 ) ﹁ 妙 法 蓮 華 経 ﹂ ﹁ 見 宝 塔 品 第 十 一 ﹂ ( ﹁ 大 正 蔵 ﹂ 九 ・ 三 二 頁 ・ 中

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三 四 頁 中 ) 。 (鍵和国型子) 一 六

参照

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