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禅研究所紀要 第42号 005尾崎正善「禅宗儀礼の研究 -儀礼の変遷過程とその背景-」

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禅宗儀礼の研究︵尾崎︶ 一、はじめに   私の研究の主なテーマは、曹洞宗、禅 宗の儀礼研究でご ざいます。最初に、なぜこういう研究を始めようかと思っ たか、簡単な経緯、これに関しましては資料の初めの部分 と重複しますが、お話しさせていただきます。   私は、ただ今紹介にあずかりましたように横浜の寺院住 職で、お寺で生まれました。宗派について、禅宗、曹洞宗 ということが、中学生位から段々判って来ました。小学校 の頃から先住に付いて、朝課などをおこない、小学校六年 生ぐらいの時には、教区の施食会などに参列しておりまし たが、曹洞宗、禅宗だといわれても、夏の子ども会の坐禅 会をやる程度で、坐蒲はあるけれども、実際は、一般寺院 と同様、葬儀、法事、それから各種の法要というのが、や はり行事の中心になりますし、檀家さんがお集まりいただ くのもそういう時でした。   大学に進みまして、仏教学部でしたけれども、中国に行 く機会もあり、学んで行く内に禅宗の特徴というのは何か ということに気付くことがありました。一つは、唐代に禅 宗が独立するにあたって、燈史・語録が編纂されるという こと。もう一つが、百丈懐海に代表される、清規の成立だ と思いました。新しい、ルール・規則を作るということで す。   話は飛びますが、例えば国として独立する、組織として 【研究会】

禅宗儀礼の研究

││儀礼の変遷過程とその背景││

  

  

  

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禅宗儀礼の研究︵尾崎︶ 独立していく上には、新しいルールを作ること、さらに独 自の規範・儀礼・法要を作ることが必要です。他とは違う ということを、謳うようになっていくのです。こうした過 程、どうして新たな規則ができたのかということをまず知 りたかったということです。   次に、法要のやり方、それからその意味ということに関 しては、比較的いろんなテキストがございますが、その儀 礼 が、 実 際 に は 時 代 に よ っ て 変 化 し て い る と い う 問 題 で す。現在おこなわれている儀礼も、道元禅師の時代からお こなわれているものではない、瑩山禅師の時代からおこな われているものではないということです。若しくは、それ らの時代にあったとしても、今では内容が変化しているの です。その変化の過程というものは、どういうものなのか 少し自分なりに知りたい、自分で儀礼をおこなうにあたっ て、知っておく必要があるのではなかということで、こう した研究を始めたということです。 二、清規・儀礼の研究とは何か   資 料 の 順 番 に お 話 い た し ま す け ど も、 「 は じ め に 」 と い うところです。 「 清規・儀礼の研究とは何か 」、ということ です。先程お話ししたことと重複します。まず、儀礼とい うのは、思想の現れであるということです。これは、大学 院での研究会の時、ある先生が、儀礼は思想の現れだと仰 られた。内容は、その発表と全く関係ないのですが、たま たまそういうことを仰いまして、ああ、なるほどと思いま した。やはり、儀礼をおこなうにあたっては、意味、思想 に裏打ちされて、様々なことがおこなわれている、様々な ことが唱えられるということです。ですから、そういう思 想 的 な 背 景、 簡 単 に 言 っ て し ま え ば、 意 味 付 け で す け ど も、そういうことを、やはりしっかりと考えて行う必要が あるのではないか、ということです。   私 は、 曹 洞 宗 の 雑 誌 で あ る、 『 宗 報 』 に 三 年 間 に わ た っ て 連 載 さ せ て 頂 い た も の を 一 冊 に ま と め た、 『 私 た ち の 行 持 』、 そ れ か ら そ の 『 宗 報 』 付 録 の 『 寺 ス ク ー ル 』 と い う のに、儀礼と仏具・鳴らし物について、四年間連載させて 頂き、その内の前半の二年の行事部分をまとめた 『 よくわ かる曹洞宗の行事 』 を著しました。本日お話しするのは、 これらの本の中ですでに記した内容の、ほんの一部をご紹

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禅宗儀礼の研究︵尾崎︶ 介させていただくということです。また、他の所でもすで に論じていることなので、研究会としては、非常に恥ずか しい発表になるかもしれませんが、御寛恕下さい。   さて、個別の事例として最初に 「 回向文 」 を取り上げま す。回向文というのは、ご存じの方も多いと思いますが、 読経の後に、その功徳を振り向けることです。当然、振り 向ける功徳の対象、さらに何を、どういうことを願うかと いうことが、この回向文の中に込められるわけです。この 内容も、実は時代によって変化するのです。朝課諷経と葬 送儀礼に関して、一部取り上げます。   次に、法戦式です。法戦式については、ご存じでない方 もいらっしゃるかもしれませんが、曹洞宗の主要な行事で あり、一人前の僧侶になるための、非常に重要な儀式でご ざいます。これも、時代によって変化しています。結論を いうならば、現在のような形になるのは、明治以降という ことになります。   それから、最後に成道会を取り上げます。成道会は、十 二月八日に、お釈迦様が悟りを開いた、その法要です。三 仏忌の一つで、三仏忌というのは、一つは、降誕会、お釈 迦さまが、お生まれになった四月八日でございます。それ から、今挙げた成道会の十二月八日、お釈迦様がお悟りを 開かれた日です。そして、三つ目が二月十五日の涅槃会、 お亡くなりになった日です。この三つを三仏忌といって曹 洞宗では非常に重要視いたします。ここでおこなわれてい る儀礼も実は、道元禅師の頃からのものではないというこ とです。形式が変化しているということです。ただ、成道 会を非常に重視するという姿勢は、禅宗の、曹洞宗の特徴 でありますから、そうしたことも、一つ理解して頂ければ と思います。   それから、儀礼変遷の問題です。思想的、社会的背景を 考えていく、なぜ変わっていく必要があったのか、なぜ変 わっていったのかを考えて行く。この辺も、若干ですけど も触れたいと思います。   最後に今後の宗門儀礼のあり方につなげていくというこ とです。最終的には、これが目標でありますが、今回の発 表では、そこまでは踏み込みません。   私はまた宗門の僧侶でありますから、布教教化というこ とも含めて、儀礼というのは、非常に重要であると考えて

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禅宗儀礼の研究︵尾崎︶ います。これを実際にどのように行っていくか、現代社会 における布教、その方向性や可能性ときり結んでいく必要 があるのではないかと思うのです。これは、少し極端な言 い 方 か も し れ ま せ ん が、 研 究 は 研 究 で 留 ま る の で は な く て、実際に役に立つといいますか、現場で生かされる研究 でなければ意味がないと思います。   儀礼というものを研究するということを通して、その変 遷過程を明らかにし、それにより何がわかるか、何を読み 取るのか。そして、現代社会にそれをどう振り向けていく かということが、最終的には私の研究の大きなテーマ、方 向性であります。   先程、坐禅堂をお参り、拝観させていただきました。坐 禅の仕方について今日は触れませんが、例えば、警策は、 道 元 禅 師 は 使 わ れ て い ま せ ん し、 瑩 山 禅 師 も 使 わ れ て な い。警策が入ってくるのは、江戸期、黄檗宗からですね。   それから、道元禅師の坐禅のやり方を見ましても、止静 とか抽解鐘というのもありません。こちらの坐禅堂には立 派な経行廊下がありますが、経行は今は一斉に、抽解鐘が 鳴ると経行しますけども、当時は、例えば眠くなったり足 が痛くなったりしたら、自由に自分で単を降りて、経行廊 下に出て経行するというのが、昔の坐禅堂での進退であり ます。   ですから、坐禅堂の進退一つを取っても、そこには変化 があるということです。やはり坐禅指導をする時に、そう い う こ と を 知 っ て い て 行 う の と、 知 ら な い で と い い ま す か、あまり意識しないで行うのとでは、心構えも少し違う のでないかというふうに思います。   そういったことも踏まえて、本日の発表をお聞きいただ ければと思います。 三、朝課回向文の変遷   まず、一番目、回向文です。回向文については、先程も 少し述べましたけども、読経をした後に、その功徳を振り 向 け る こ と で す。 そ の 振 り 向 け る 対 象、 願 い と い う も の が、その時代によって変わってくる、その文言の中身に変 化が現れてくるというわけです。   最 初 に 「 朝 課 諷 経 」で す が、 漢 字 ば っ か り で す。 全 部 読 ん でいると時間もありませんので、要点だけお話しします。

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禅宗儀礼の研究︵尾崎︶   まず、禅林寺本 『 瑩山清規 』 というのは、現存する 『 瑩 山清規 』 の中では、最古の写本であります。普済善救が書 写したものでございまして、一千三百年代の後半、瑩山禅 師が亡くなられたのが、一三二五年ですので、大体亡くな ら れ て か ら 五 十 年 後 ぐ ら い に 書 写 さ れ た も の と 思 わ れ ま す。かなり原形を留めているということ、原形に近いと思 います。ただし、この時点ですでに異本校合がおこなわれ ています。五十年も経た時点では、いろいろ変化もあると いうことです。   「 朝 課 回 向 文 」 と い う こ と で、 朝 の お 勤 め で す。 現 在 の 朝 課 は、 『 行 持 軌 範 』 を 見 ま す と 五 つ、 仏 殿 諷 経、 応 供 諷 経、祖堂諷経、それから開山歴住諷経と祠堂諷経の、五つ を行っています。しかし、 この時代は、 この 「 粥了諷経 」、 後世のものだと 「 粥罷諷経 」 と書かれますが、これ一つだ けです。因みに、粥罷というのは、朝粥の後ということで す。   『 僧 堂 清 規 行 法 鈔 』 は、 面 山 の 著 し た 江 戸 時 代 の も の で すが、これも、粥了諷経というということです。これは、 少し余計な話ですけども、初期の段階では、坐禅をして、 朝粥、朝ご飯を食べ、その後に仏殿に上がって朝課をしま した。僧堂経験者はわかると思いますが、現在は坐禅をし て朝課を行ってから、粥を食べ、そして掃除などを行いま す。順番が逆転しているのです。   こ の 理 由 は、 簡 単 で あ り ま し て、 黄 檗 宗 の 影 響 な の で す。 面 山 は、 「 こ れ は 古 規 に 乗 っ 取 っ て い な い、 古 い 形 式 ではない 」 とかなり激しく批判するのですが、現在永平寺 も總持寺も坐禅をした後に朝課を行い、その後に朝粥、朝 ご飯を食べます。この時代は、逆でございました。   これもまた少し横道にそれますが、黄檗宗の影響という のはかなり強くて、先程言いましたように警策、それから 朝課の読経の時に木魚を敲きますけども、この木魚も黄檗 か ら の 影 響 で す。 永 平 寺 の 玄 透 即 中 禅 師 は、 「 こ れ は 古 規 に乗っ取っていない 」 といって永平寺中の木魚を全部集め て燃したという記録が 『 永平寺史 』 の中にも引かれていま すが、私が永平寺にいた時も、ちゃんと木魚は敲いており ました。   面山は、警策の批判をかなり行いましたけれど、現在で も警策は使用されています。それと同様に、諷経と朝粥の

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禅宗儀礼の研究︵尾崎︶ 順 番 も、 黄 檗 の 影 響 を 受 け て 変 わ っ て い る と い う こ と で す。   少し話が横道にそれましたけども、初期の回向文の特徴 を述べます     上来諷誦、大悲円満無碍神呪、消災妙吉祥神呪、所 集 功 徳、 回 向 真 如 実 際 無 上 仏 果 菩 提。 祝 献、 護 法 龍 天、護法聖者、三界万霊、十方真宰、日本国内大小神 祇、當山土地、當山龍王、護伽藍神、十八善神、招宝 七郎大権修利菩薩、白山、八幡、監斉使者、多聞、迦 羅、稲荷神等、合堂の真宰、今年歳分、主執陰陽、権 衡造化、南方火徳星君、火部聖衆。殊勲、祝献、本寺 檀那・十方施主・合山清衆本命元辰、當年属星、守道 守宮、一切聖造。所冀、山門鎮静、修造無難、十方施 主、福寿荘嚴、法界衆生、同円種智者。   ︵禅林寺本 『 瑩山清規 』「 粥諷経 」 の回向文︶   「 上 来 諷 経 す る、 大 悲 円 満 無 礙 神 呪、 消 災 妙 吉 祥 神 呪 」 か ら 始 ま り ま す。 次 に、 「 集 ま る と こ ろ の 功 徳 は、 真 妙 実 際 無 上 仏 果 菩 提 に 回 向 す る 」 と 続 き ま す。 次 に 「 祝 献 す る 」 の で す が、 こ こ は 長 い の で、 読 み ま せ ん が、 「 火 部 聖 衆 」 まで掛かります。そして、また 「 祝献 」 が出てきて、 「 本寺檀那 」 から 「 一切聖造 」 に掛かります。最後に、 「 所 冀は、山門鎮静 」 から、 「 同円種智者 」 という構造です。   これをまとめると、次のようになります。    Ⅰ、 読 誦 経 典 の 変 化。 ↓ 流 布 本 『 瑩 規 』 は、 「 上 来 諷 誦神咒功徳 」 へ    Ⅱ、 まず 「 真如実際無上仏果菩提 」 に回向する。    Ⅲ、 次に 「 護法の龍天 」から 「 火部聖衆 」に祝献する。    Ⅳ、 次に 「 本寺の檀那 」から 「 一切聖造 」に祝献する。    Ⅴ、 最後に 「 山門の鎮静、 施主の福寿 」等を祈念する。   まず、後の清規と比較すると、読誦経典の変化というこ と が あ り ま す。 こ の 時 代 は、 大 悲 呪 と 消 災 呪 を 読 み ま し た。 と こ ろ が、 流 布 本 『 瑩 山 清 規 』 は、 「 上 来 諷 誦、 神 咒 」 と な り ま す。 「 神 咒 」 で す の で、 大 悲 呪 か 消 災 呪 と い う 意 味 も あ る の で し ょ う が、 特 定 の も の を 挙 げ て い ま せ ん。   『 行法鈔 』 になりますと、 「 上来諷誦、経号 」 というふう に書いてあります。これは、何の経典でも入れられるよう な形に変えられているのです。

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禅宗儀礼の研究︵尾崎︶   『 明 治 校 訂 』 の 仏 殿 諷 経 に な る と、 現 在 の よ う に 「 普 門 品・ 大 悲 呪・ 消 災 呪 」 と い う 形 に な り ま す。 時 代 に よ っ て、経典の内容、若しくは表記が変わってくるのです。   最初、 「 真如実際無上仏果菩提 」、これは、悟り、最上な る悟りのものということですが、釈尊若しくは仏陀という ふ う に 考 え て い た だ け れ ば 理 解 し や す い か も し れ ま せ ん が、に回向する。   次に、護法の龍天、護法の聖者、三界万霊、十方真宰、 日本国内大小神祇、當山土地、當山龍王、護伽藍神、十八 善神、招宝七郎大権修利菩薩、白山、八幡、監斉使者、多 聞、伽羅、稲荷等の数々の、神仏に回向をしています。こ れが岩手の 『 正法清規 』 になると、その地域の土地神をど んどんと取り込んで増えていくのです。   ところが面山の 『 僧堂清規行法鈔 』 は、これを整理し、 削って行く方向に向かいます。一部重複ところもあります けれども、天照大神が加えられ、稲荷大明神、白山妙理大 権 現 と 続 き、 そ の 後 に、 「 某 国 宗 廟 」 と 記 さ れ て い ま す。 そ の 国、 そ の 土 地 の 神 様 を 何 で も 入 れ ら れ る と い う よ う に、マニュアル化するのです。その地域の神を取り込むと いうことです。   少し飛びますけれど、 『 僧堂清規行法鈔 』 の最後は、 「 所 冀は、皇図鞏固、国土昇平、本寺大小檀那、福壽長久 」 と なります。ここは祈りの言葉です。これに関しては、また 後に指摘したいと思います。   次 に、 『 明 治 校 訂 』 の 朝 課 で は 「 仏 殿 諷 経 」 が 該 当 す る ということで挙げさせて頂きます。   明治新政府、国の統制などもありまして、江戸時代まで は、各門派別、その地域別におこなわれていた法要・儀礼 を新たに全国統一していこうということが図られます。そ う い う 中 で、 『 明 治 校 訂 洞 上 行 持 軌 範 』 が 明 治 二 二 年︵ 一 八八九︶に編集されます。   こ の 「 仏 殿 諷 経 」 は、 先 に 述 べ ま し た よ う に 「 上 来 諷 誦、大乗妙典観音普門品、大悲心陀羅尼、消災妙吉祥陀羅 尼 」 と な り、 経 典 名 が 固 定 し ま す。 次 に、 「 集 む る 所 の 功 徳は、真如実際荘厳無上仏果菩提に回向す 」 と、ここまで は 同 じ で す。 次 の 祝 献 す の 後 は、 「 護 法 諸 天、 護 法 聖 者、 日本国内大小神祇、當山土地護伽藍神、招宝七郎大権修利 菩薩、合堂真宰 」 と、護法諸天、護法聖者、日本国内大小

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禅宗儀礼の研究︵尾崎︶ 神祇は残りますが、例えば天照大神・稲荷大明神等の神が 全部なくなってしまいます。土地神、それから、道元禅師 の一夜碧巌ゆかりの招宝七郎大権修利菩薩だけは残ります が、それ以外の神様は全部、さらに南方火徳聖君とか、火 部聖衆等も皆なくなってしまいます。   最 後 に、 「 所 冀 は、 皇 図 鞏 固、 国 土 昇 平、 本 寺 大 小 檀 那、福壽長久、十方施主 」 という形で非常に整理統合され ますが、これは面山と同じ方向です。   そ の 次、 『 昭 和 訂 補 』 で す。 こ れ は 戦 争 が 終 り ま し て、 新 た に 儀 礼 な ど も 定 め ら れ た の で す。 こ れ は 昭 和 二 五 年 ︵一九五〇︶のものです。   「 所冀は 」 の箇所ですが、 「 大恩教主本師釈迦牟尼仏、現 座道場本尊云々、高祖承陽大師、太祖常済大師 」 となりま す。 「 一 仏 両 祖 」 と い う 形 で す が、 こ れ が 確 定 す る の は こ の段階なのです。   因みに、一仏両祖という、両祖御尊号の統一がはかられ るのは、明治一〇年です。明治一〇年に両祖という考え方 が、確定したのですが、これが回向文に反映されるのは、 戦後ということです。   続いて、 「 無上仏果菩提を荘厳す 」 となります。   次 の、 祝 献 の 後 は、 「 護 法 諸 天、 護 法 聖 者、 当 山 土 地 護 伽藍神、招宝七郎大権修利菩薩 」 と、護法神と土地神と招 宝七郎大権修利菩薩だけになってしまうのです。   極端なことを言いますと、日本国内大小神祇という神道 系の考え方をみんな削除してしまうということになるので す。最後に、 「 所冀は、 国家昌平、 万邦和楽 」 となります。   さらに、 『 昭和修訂 』、これは昭和六三年︵一九八八︶に 出たものでが、これは男女差別なども含めた、様々な人権 思 想 に 基 づ い て 改 訂 し た も の で、 「 仏 殿 諷 経 」 に 関 し て は、 最 後 の と こ ろ で、 「 所 冀 は、 国 土 安 穏、 万 邦 和 楽 」 と な り ま す。 そ れ ま で は、 「 皇 図 鞏 固、 国 土 昇 平 」、 ま た は 「 国家昌平、国土安穏 」 となっていた箇所です。   何かこの箇所だけ取り上げると、重箱の隅をつつくよう な、挙げ足を取るような感じもしますが、やはりこれを変 えた意味があるのです。   これは、先程も言いました人権思想や国家観に基づくも の で、 政 治 的 な 判 断 で 変 わ っ て 行 く と い う こ と で あ り ま す。

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禅宗儀礼の研究︵尾崎︶   ここまでの結論を簡単にいうならば、各種神祇の取り込 み、そしてそれを削除、整理していくという過程がありま す。それから、釈尊だけだったものが、一仏両祖になりま す。その他、様々な変化の過程が見られます。さらに、最 初に申しましたように、お経を読んでどのような功徳を求 めるか、何を願うのか、誰を対象にして振り向けるかとい うことが、非常に重要なことであります。   時代毎、若しくは地域毎によって変化していくというこ とを、ご理解というか、気が付いて頂ければと思います。 四、葬送回向文の変遷   さてその次に、曹洞宗の葬送儀礼回向文の変遷について です。   曹 洞 宗 は、 坐 禅 修 行 を 中 心 に 捉 え て い ま す け ど も、 教 線、教団の広がりの過程においては、葬儀・授戒・祈祷が 大きな役割を果たしたというのです。これは広瀬良弘先生 の 説 で す が、 こ の 三 つ の 順 番 は 優 劣 の 順 番 で は あ り ま せ ん。鎌倉新仏教といわれる教団の人たちは、葬送儀礼、つ まり死者儀礼・祖先供養を厭わなかったというのが、一般 にいわれているところです。   実際禅宗は、中国由来の葬儀の方法を実践して行く、曹 洞宗は教団として行っていくわけです。そこにおける回向 文に、時代と共に変化が見られるということです。結論が 先 に 書 い て あ り ま す が、 「 浄 土 思 想 の 払 拭 の 過 程 と 在 家 葬 法の確立 」 ということであります。   資 料 に 挙 げ ま し た 清 規 は、 ま ず 『 禅 苑 清 規 』、 こ れ は 中 国の長蘆宗賾が作ったものでございます。それから、先程 の禅林寺本 『 瑩山清規 』 です。次の 『 正法清規 』 というの は、岩手の正法寺の清規でございます。峨山禅師の一番弟 子であります無底良韶が開き、その後、月泉良印が継いだ 寺院ですが、こちらに残っている清規で、禅林寺本が発見 されるまでは 『 瑩山清規 』 の古い形のもので、これが一番 古い系統と山端先生などは考えていたものです。   最後は、流布本 『 瑩山清規 』 です。流布本というのは、 江戸時代に卍山が開板したものです。これは卍山が、かな り手を入れています。卍山は、自分が読みやすいよう、さ らに後世のために、写本ではかなり読みにくい部分がある ので、それを手直ししています。その後、現行の 『 行持軌

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禅宗儀礼の研究︵尾崎︶ 範 』 へと引き継がれて行くのです。   さ て、 「 龕 前 念 誦 」 の 最 後 の 箇 所 に、 「 諸 聖 の 洪 名 を 誦 す。清魂を浄土に薦む。仰いで大衆を憑んで念ず 」 と、あ ります。   『 禅 苑 清 規 』 の 編 者 宗 賾 は、 禅 浄 一 致 思 想 と い う こ と で あ り ま す。 実 際、 浄 土 教 に も 参 じ て お り ま し た の で、 「 清 らかな魂を、浄土に進める 」 というこの回向文を作ったわ けです。その後、 『 瑩山清規 』 の 「 禅林寺本 」 は、 「 清魂を 覚路に進む 」 となります。清らかな魂というのは、残りま すが、浄土という言葉がなくなり、 「 覚路 」 になります。   「 禅 林 寺 本 」 が 発 見 さ れ る 前 は、 先 程 申 し ま し た よ う に 『 正 法 清 規 』 が 古 い 形 と 考 え ら れ て い ま し た。 こ ち ら は、 「 精魂 」 です。 「 精魂 」 というのは、清らかなではなくて、 精進の精という字を書きますが、覚路に進むということで す。その後は読みませんが、 「 覚路を荘厳する 」、という形 で、 「 精 魂 」 へ、 そ れ か ら 「 浄 土 」 と い う こ と が な く な っ ていく、変化しているのです。   次 に、 「 塔 前 十 念 」 の 場 合 で す。 『 禅 苑 清 規 』 で は、 「 切 に 以 み れ ば 歿 故 某 人。 常 に 縁 に 従 っ て 順 寂 す、 即 ち 法 に よ っ て も っ て 荼 毘 す 」 と あ り ま し て、 こ の 後 に、 「 百 年 弘 道 の 身 を 焚 い て、 一 路 涅 槃 の 経 に 入 ら し む 」 と、 あ り ま す。このところチェックしておいて下さい。   そ の 次 に、 「 上 来 聖 号 を 称 揚 し、 往 生 を 資 助 す 」 と あ り ま す。 往 生 を 資 助 す る、 極 楽 往 生、 浄 土 に 行 っ て 生 ま れ る、生まれることを助けるのだ、と唱えています。   次 に、 「 菩 提 園 裏 に 覚 意 の 華 を 開 敷 し、 法 性 海 中 に 塵 心 の 垢 を 蕩 滌 す 」、 と あ り ま す。 蕩 滌 は、 洗 い 流 す、 洗 い 清 めるということです。心の垢、これを洗い流して清めるの だということになります。   こ れ ら の 箇 所 を 例 え ば、 「 禅 林 寺 本 」 の 該 当 箇 所 と 比 較 し て み ま す。 百 年 焚 く、 「 焚 百 年 」 と 書 い て あ り ま す が、 次に弘道と虚幻とあります。これは、原本では二行取りに なっています。つまり、百年の年の下に、弘道と虚幻が両 方並行に書いてある形になります。   こ こ の 該 当 箇 所 を、 『 正 法 清 規 』 で 見 ま す と、 出 家 の 場 合は 「 百年弘道 」、在家の場合は 「 一生行道 」 の、 という形 になります。ですから、 「 禅林寺本 」を見た時に、もうこの 時点で、在家用がすでに有ったのだということが、分かる

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禅宗儀礼の研究︵尾崎︶ わけです。つまり、瑩山禅師が亡くなって、五十年後の写 本においてこうした回向文の使い分けをしていたのです。   こ の 箇 所 が、 『 行 持 軌 範 』 に な り ま す と、 亡 僧 の 場 合 は、 「 百年弘道の身 」 ということであります。次に、 『 行持 軌 範 』 の 在 家 の 山 頭 念 誦 は、 「 百 年 虚 幻 の 身 を 焚 い て 」 と いう形になります。ですから、道を広める僧侶の弘道と、 何か夢幻の身というような在家と、こうした使い分けが既 に 「 禅林寺本 」 の段階でおこなっていたということです。   『 禅 苑 清 規 』 で 先 程 指 摘 し た 「 往 生 資 助 」、 そ れ か ら、 「 塵 心 の 垢 を 蕩 滌 す 」 の 箇 所 は、 「 禅 林 寺 本 」 で す と、 「 覚 霊の往生を資助す 」 です。ですから、この時点では、まだ 「 往生 」 は残っています。   ま た、 「 法 性 海 中 に、 塵 心 の 垢 を 蕩 滌 す 」 と、 こ れ も 残 っ て い ま す。 こ れ が、 『 正 法 清 規 』 に な り ま す と 「 雲 程 を 資 助 す 」 と 「 無 垢 の 波 を 活 動 す 」 と な り ま す。 『 行 持 軌 範 』 は、 「 覚 霊 を 資 助 し、 無 垢 の 波 を 活 動 す 」 と な り ま す。 で す か ら、 『 正 法 清 規 』 の 時 点 で は、 「 龕 前 念 誦 」 の 「 精 魂 を 覚 路 に 」 と い う 部 分 は、 魂 と い う の は 残 っ て い ま すけれども、 『 正法清規 』 の 「 塔前十念 」 では、 「 往生を資 助す 」 ではなくて、 「 雲程を資助す 」 ですし、 「 無垢の波を 活動す 」 と改められています。   「 禅 林 寺 本 」 が 発 見 さ れ る ま で は、 亡 く な ら れ た 桜 井 秀 雄 先 生 が 述 べ ら れ た よ う に、 「 瑩 山 禅 師 は 素 晴 ら し い。 浄 土 思 想 を は っ き り と 払 拭 し て い る 」 と い う 説 も あ り ま し た。 し か し、 「 禅 林 寺 本 」 が 発 見 さ れ て、 瑩 山 禅 師 も そ れ は残されていた。段階的に削除・変化して行ったのだとい うことが明らかになったのです。   つまり、瑩山禅師が浄土思想というものをすぐに払拭し て、曹洞宗に合った葬送儀礼を作ったのではなく、何段階 かの変化をし、浄土思想、浄土に係わるような 「 清魂・往 生 」 という言葉を削除していく、変化させていくという過 程があったということです。これも、先人の考え方、努力 の 結 果 だ と 思 い ま す。 そ う し た 過 程 も 知 っ て お く べ き で しょう。   こ れ は 余 計 な こ と で す が、 臨 済 宗 で は、 『 禅 苑 清 規 』 を 今もそのまま使っています。ですから、この回向文はほと ん ど 変 わ っ て お り ま せ ん。 で す か ら、 「 往 生 」 と い う よ う な言葉もそのまま残っております。

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禅宗儀礼の研究︵尾崎︶ 五、法戦式の変遷   さて、続きまして法戦式です。お坊さんになる過程とし て、非常に重要な儀礼であります。私も法戦式を行ったこ とがあります。また他の寺院に呼ばれ手伝いをすることも あ り ま す。 そ の 時、 「 こ の 儀 式 は 道 元 禅 師 以 来 の 」 と、 い うような説明があります。しかし、そういう説明でいいの かなと思っています。   結論から言うと先程述べましたように、現在の差定は明 治時代にできたものでございます。現在使われているもの は、 明 治 時 代 の 『 行 持 軌 範 』、 先 程 言 い ま し た 明 治 二 二 年 にできたものに定められます。     こ の、 巻 中 の 三 十 二 丁 目 か ら、 法 戦 式 の 考 証 を 詳 細 に 行っております。つまり、これを作る時点で、様々な資料 を集めて、色々考えて折衷案として、この差定を作ったの だということが、延々と書かれています。その一部、抜粋 ですけども資料に挙げさせてもらいました。   まず、法戦式の儀礼に出られたことのない方は、少し分 か り に く い か も し れ ま せ ん が、 法 戦 式 の 前 日 に 入 寺 式 と いって首座が僧堂に入る式と、本則行茶、本則配役行茶と も 言 い ま す け ど も、 次 の 日 の 問 答 の 本 則 の 提 唱 を 行 い ま す。 『 行持軌範 』 に、 「 本則の茶と云う事、古今の清規に無 き処なり。今時は必要たるにより慣習法を折衷して之を創 定す 」 とあります。本則行茶というのは、古今の清規なき ところだと、色々捜したけど無いのだというのです。しか し、今時は必要だから慣習法を折衷して創定す、というの です。慣習法に関しては、また後でお話をします。   資料を全部読んでいると大変なので、少し飛ばしながら 指 摘 し ま す が、 「 清 規 に 四 節 の 秉 払 と は、 元 旦・ 結 夏・ 解 夏・冬至なり。今時、洞下に五則の時、首座の分座挙揚が 結夏秉払の意なり 」 とあります。清規に四節に秉払す、四 節上堂があると。それは、元旦、結夏、解夏、冬至である と。この説明はいたしませんが、現在洞下で行っている五 則は、結夏秉払の意である、と書かれています。   今、制中五則という言葉を、永平寺も総持寺でも使いま す。 五 則 に つ い て は、 ま た 後 で お 話 を し ま す が、 結 夏 の 時、 要 す る に 結 制 の 最 初、 結 制 安 居 の 最 初 に、 秉 払 を お こ な うのです。首座分座挙揚が結夏秉払であるというのです。

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禅宗儀礼の研究︵尾崎︶   次 に 五 則 と い う の は、 誰 が や る の か と い う こ と で す。 「 諸 清 規 の 四 節 秉 払 に は 前 堂・ 後 堂・ 書 記・ 東 蔵・ 西 蔵 の 五頭首が一時次第に秉払す。今日は弉翁の儀によりて首座 一 人 に て も 行 ず べ し 」 と あ り ま す。 諸 清 規 の 四 節 秉 払 で は、前堂、後堂、前堂というのは、前堂首座、後堂という のは、後堂首座ということです。それから、書記、東蔵、 西蔵の五頭首が、一時次第に秉払するというのです。以上 五人が行っていたのですが、今日は、道元禅師と懐弉禅師 の 因 縁 に 基 づ い て、 首 座 一 人 で も 行 う べ き だ、 と あ り ま す。五則とは、本来は五人がそれぞれ本則を取り上げると いうことです。   次 に、 「 僧 規 の 説 に 基 づ き、 今 時 の 首 座 法 問 の 式 を 秉 払 法に改正せんと欲すれども、秉払は須弥座に拠て問答・提 綱・謝語等、上堂に異ならず。秉払の人、須弥の法座に拠 り 住 持 は 其 側 に 居 す。 謂 は ゆ る 分 座 の 面 目 な れ ど も、 到 底、今時の首座に適せざるゆへ法問の行式は其の是非を問 はず、全分慣習法に依って本文の行式を確定す 」 と、あり ます。   秉払とは、須弥座に陞って問答・提網・謝語等、上堂と 同じなのだいうのです。その時、住持はその傍らに居ると いうのです。今の法戦式の形とは全然違いますが、本来そ う い う も の な の だ と い う の で す。 し か し、 「 到 底 今 時 の 首 座に適せさるゆえ、法問の行式はその是非を問わず、全分 慣習法によって本文の行式を確定す 」 と続くのです。本当 は、須弥の法座で秉払するのだけれど、あまり修行してな いからそれができないので、慣習法によって今の形にしま したというのです。   ま た、 「 今 時、 法 問 挙 唱 の 体 裁 は、 是 亦 何 れ の 世、 誰 れ の創始なるを知らず 」 と、ありますように、今の法問挙唱 の 形 式 は、 何 時、 誰 が 創 始 し た の か 分 か ら な い と う の で す。その後、色々な説をここでは挙げていますけれども、 それは省略します。   こ の 上 堂 に 関 し て は、 『 椙 規 』 に 云 く と あ り ま す。 こ れ は、 『 椙 樹 林 清 規 』 と い う 大 乗 寺 の 清 規 で す が、 正 月 五 日 に、 「 法 問 始 め 」 と 称 す と あ り ま す。 一 年 の 始 め、 五 日 に、問答の開始という行事があって、一年を通して問答を 行 っ て い た の で す。 そ こ で は、 「 朝 課 罷 礼 仏 の 後、 主 人 着 椅、侍者等払子竹箆を携ち来る、主人先ず則を挙し、次に

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禅宗儀礼の研究︵尾崎︶ 侍者頌を唱へ説破開口す。主人垂語了って大衆三拝 」 とあ るように、朝課罷、礼仏の後に主人は、椅子に着いて、侍 者が払子・竹箆を持ってくると。主人は、問答の則を挙し て、次に侍者が頌を唱え、説破開口す、とあります。現在 の法戦式の形式そのままなのです。住持と侍者が行ってい たということです。   『 僧堂清規 』 にも、 「 僧規に云く、正月五日、古来より洞 下に法問はじめあり 」 とあります。   最 後 に、 「 今 又 結 制 の 五 則 を も 廃 止 し て 法 問 の 行 式 を 首 座一人に帰せしめたるは、大用現前、規則を存せざるの徴 意 に 外 な ら ず。 真 箇 慕 道 の 納 僧 は、 規 式 に 関 せ ず 日 用 光 中、弁道商量して可なり 」 とあるように、今また結制の五 則も廃止して、法問の行式を首座一人にしたのは、大用現 前規則を残そうという微意に外ならないというわけです。 曲げておこなっていると、忸怩たる思いで作ったというこ とが述べられているのです。   来 馬 琢 道 師 の 『 禅 門 宝 鑑 』、 こ れ も 儀 礼 に つ い て は 詳 し い で す け れ ど も、 「 又 古 来 の 説 に は 殿 中 に て 問 答 せ る 時 の 体裁を模したものなりとあり、古規には全く見えぬものに て不審と云ふべきものなり。更に考証待つ 」 と、書いてあ ります。そこで、考証を行おうかと調べさせていただいた ものです。   ま ず、 先 程 述 べ た、 正 月 五 日 の 法 問 始 め は、 大 安 寺 の 『 回 向 并 式 法 』 に あ り ま す。 こ の 清 規 は、 長 野 の 大 安 寺 と いう寺院で発見されたもので、一千四百年代後半の非常に 古 い 清 規 で す。 大 雄 山 系 の 清 規 で す。 そ こ に、 「 首 座 頭 首 は、其の鑑板を捧げて方丈に上って古則の始の一義を届て 散 ぬ 」 と あ り ま す。 ま た、 「 鑑 板 を 本 処 に 掛 く、 古 則 の 始 の鑑板の書︵中略︶鑑板の始に本則頌古と書納べし 」 とあ りますので、開口板、今は赤いものに白墨で書きますけど も、 そ れ に 本 則 を 書 い て 掛 け る と い う の で す。 「 次 に 斉 飯 了って、法門鐘東廊の雲板を鳴す。大衆各々被位に著く。 住持、禅牀上に於て鑑板を挙して、本則頌古を唱了て大衆 首座尽く説破し了て 」 と、あります。斉飯は、斎飯、お昼 が終るということで、法門鐘、法門のモンは、問答の問だ と思います。写本ですから間違いが多いのです。そして、 東廊の雲板を鳴らすと大衆は位に着いて、住持は禅牀上に 鑑板を挙して、本則頌古を唱え終ると大衆首座をことごと

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禅宗儀礼の研究︵尾崎︶ く説破する、というのです。   こ の や り 方 は、 本 則 を 書 い た 板 を 掛 け、 そ の 本 則 を 唱 え、 頌 古 を 唱 え、 そ し て 問 答 し て、 そ れ を 説 破 す る と い う、そういう形式があったということが確認できるわけで す。 先 程 述 べ ま し た 江 戸 期 に も、 『 椙 樹 林 清 規 』 と か、 面 山の 『 洞上僧堂清規行法鈔 』 などにもこの法問始めはあり ます。   次に五則ですが、後に三則へと減っていくということが あ り ま す。 五 則 を お こ な う 例 は、 『 椙 樹 林 清 規 』・ 『 万 松 山 清規 』 などに書いてあります。岸澤文庫の 『 理諺清規 』 と いうものがあります。これは江戸期の後半ぐらいのものだ と思いますが、年代が確定できないのでまだ発表はしてい ませんが、なかなか皮肉を込めた文章が沢山出てくる面白 い清規です。   そ こ に は、 「 今 時 洞 家 に は 公 案 五 則 を 拈 出 し て 商 量 す る と。初日は住持、第二則は首座、第三則以下は諸人を請し て挙唱させしむ 」 と、あります。初日は住持だと、住職が ま ず 行 う の だ と。 『 万 松 山 清 規 』 で は、 「 堂 頭・ 首 座・ 書 記・ 知 客・ 副 寺 」 と あ り ま す。 『 椙 樹 林 清 規 』 の よ う に、 前堂・後堂という表記もありましたけども、先ず住持なの です。住職が最初に行い、第二則は首座だというのです。 第三則以下は 「 諸人を請して 」 とあるように、誰がやって もいいというか、適当な人を選んで行う訳です。   そ れ か ら、 面 山 の 『 行 法 鈔 』 は 先 程 も 言 い ま し た が、 「 前 堂・ 後 堂・ 書 記・ 東 蔵・ 西 蔵 」 と、 五 頭 首 と い う 形 な のです。   これが、時代が下ると五人出すのは大変だということに な っ て く る よ う で す。 三 則 と な り ま す。 『 副 寺 寮 日 鑑 』 と いう延宝年間ぐらいの清規です。文章は、読みませんが、 最 後 に、 「 二 則、 三 則 も こ れ と 同 じ 」 と あ り ま す。 五 則 ま であるとしたら、こういう書き方はしないと思います。   そ の 次 の、 『 江 湖 指 南 記 』 も 江 戸 の 後 期 の 清 規 で す。 そ の 十 六 日、 朝 課 の 後 の 記 述 で す が、 「 恒 規 三 則 の 拈 話 を 記 す 」 と、あります。これは三則の拈提、本則を記すという こ と で す。 さ ら に、 「 大 殿 に 出 す べ し 」 と、 あ り ま す か ら、開口板で、先程述べた鑑板のことでございます。こち らに、三つ本則を載せるというのです。完全に五則ではな くて、三則という形であったことが分かります。これは、

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禅宗儀礼の研究︵尾崎︶ 最終的に首座一人になっていく通過点ではないかと思いま す。   さて、法戦儀礼の典拠を全て見つけることはできなかっ た の で す が、 例 え ば、 『 寿 山 清 規 』 な ど に は、 本 則 の 提 唱 の基になるものと思われるものとして、予め前日に小参あ る い は 法 益 を 行 う と あ り ま す。 そ こ で、 「 古 人 の 因 縁 を 挙 す 」 ということですので、前日に問答を想定した、小参・ 法益を事前に行っておく、と定められているのです。   その根拠としては、面山の 『 洞上僧堂清規行法鈔 』 に、 「 昨 夜 方 丈 小 参 の 公 案 を 挙 し、 或 は 拈 じ、 或 は 頌 す。 了 っ て下座して、住持前に問訊して、本位に帰る 」 とあります から、前の晩の小参に事前に公案を学んでいるのです。こ れ が、 『 寿 山 清 規 』 に つ な が っ て く る の で は な い か と、 思 い ま す。 ま た、 「 あ る い は 拈 じ あ る い は 頌 す 」 と あ り ま す。 さ ら に、 「 終 わ っ て 下 座 し て 」 と あ り ま す か ら、 こ の 下座という言葉を見るとこれは須弥壇上に登っているとい うことです。ですからこの時代は、ちゃんと秉払を行って いたと思われます。   次 の 『 韜 菴 清 規 』 は、 こ れ も 非 常 に 面 白 い も 清 規 で す が、江戸の後期ぐらいのものだと思います。駒澤大学図書 館所蔵の清規ですが、これもまだ全文の報告はしておりま せん。   こ こ に は、 「 今 わ が 宗、 法 問 と 称 し、 古 人 の 話 頭 を 拈 じ、人々着語して師家と対して論量をす。元来、平語を以 て 自 己 本 分 の こ と を 論 じ、 興 道 を 挙 揚 す る な り。 し か し て、弊風久しく扇ぎ、年少幼学のものは語句を習い覚えて 大音を挙げ、あるいは俗事に落ちて、笑いを招くようにな る鄙語を唱え、宗門を慚かしむこと実に悲しむべし 」 と、 あります。江戸時代の末に、これこれこうと習い覚えた語 句で、意味も判らず問答するというのです。   だ か ら、 「 故 に 住 持・ 維 那 并 に 老 僧 を 等 は 予 め 口 宣 し、 よくよく教訓すべし 」 と、いうことになるわけで、これが 本則の提唱へ、こうしたテーマで問答を行うのだ、という 説明につながってくるのではないかと思います。   最 後、 現 在 の 本 則 を 首 座 に 手 渡 す と い う 形 式 は、 『 太 平 山諸寮日看 』 にございました。上殿して三拝の後、座につ く と、 「 方 丈、 侍 者 を し て、 三 宝 に 本 則 と 竹 箆 と を 送 る。 首座頂戴して本則を挙す。終わって開口を唱える 」 とあり

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禅宗儀礼の研究︵尾崎︶ ます。この状況は、法戦式の儀礼を御知りの方はよく分か ると思います。   次 に、 「 開 口 を 唱 え る 内 に、 首 座、 右 の 三 宝 を 方 丈 の 前 に持参し、退いて触礼三拝して位に返る。侍香等又は竹箆 を持して渡す。この時商量あり、或いはなし 」 と、ありま す。ということで、この進退から考えると、須弥壇上にの ぼって唱えて、また降りてきて三拝して位に帰るというの は、少し無理だと思います。ですから、現在のように大間 内でおこなっていたと思います。   また、侍者等が竹箆を持し来る、とありましたが、この 進退は、可睡斎でのやり方だそうです。有る所でこの話を しましたら、可睡斎では侍者が竹箆を持って行って、首座 に渡すということを教えて下さいました。こうした伝統が 今でも続いていると同時に、明治期にこうした進退を折衷 して、定めたということがわかると思います。 六、成道会の変遷   最後成道会です。この成道会は、曹洞宗の行事として、 禅宗の行事として、非常に特筆すべきものだと思いますの で、挙げさせてもらいました。   成道会は、お釈迦様の悟りを讃えるということでありま し て、 『 永 平 広 録 』 巻 五 に、 こ れ も 有 名 な も の で す が 臘 八 上 堂 に、 「 日 本 国、 先 代 曽 て 仏 生 会・ 仏 涅 槃 会 を 伝 う。 然 して未だ曽て仏成道会を伝え行ぜず。永平、始めて伝えて 已に二十年。自今已後、尽未来際伝え行ずべし 」 と。仏生 会、仏涅槃会は伝わっていたが、今だかつて、仏成道会を 伝えたものはいなかった。道元、私が最初に成道会を伝え たのだ、という非常に自負のある言葉を述べております。   た だ し、 『 延 喜 式 』 に、 奈 良 西 大 寺 に お い て、 三 月 十 五 日に成道会をおこなったと、記録されています。この三月 十五日というのは、十二月八日と違いますが、玄奘三蔵の 『 大 唐 西 域 記 』 の 説 を 採 用 し て い る か ら で す。 し か し、 禅 宗以外ではほとんど成道会はおこなわれていません。ホー ムページ上での確認ですが、各宗派の本山にアクセスして 年間行事を見ても、成道会、お釈迦様が悟りを開いた日で すから仏教の誕生日みたいな日ですが、この日に法要を行 わないところが多いのです。近代以降は行うところが増え てきたようですが、中世の年中行事の記録には、ほとんど

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禅宗儀礼の研究︵尾崎︶ 確認できません。各研究会で各宗派に聞いたところ、うち ではやるよ、やらないよと、様々でした。やはり釈尊が坐 禅を通して悟り開いたということが、禅宗では非常に重要 視されるのだと思います。   道元禅師がおこなっていた成道会の儀礼とは、上堂がメ インになります。   「 成道会の上堂 」 と書きましたが、 『 慧日山東福禅寺行令 規法 』 という、これは京都東福寺のものですが、一三一八 年の成立ですから比較的古い清規です。仏成道会では、後 夜上堂ということで、明け方に上堂をおこなうということ です。やり方は、如常の上堂に準ずるということで、おこ なっております。それから、 『 叢林拾遺 』︵一五世紀末頃︶ や、江戸後期の 『 吉祥山永平小清規 』 などにも上堂はあり ますが、現在のような摂心という形はございません。   現在、成道会というと 「 摂心 」 というのを、修行道場に 安居をされた方は、すぐ連想すると思います。しかし、中 国の清規にはこの時期の摂心というのがありません。それ か ら 『 瑩 山 清 規 』 に も 実 は あ り ま せ ん。 「 七 日 の 夜、 九 日 の夜、山僧住裏、一衆長座 」 ということで、七日の夜の徹 夜坐禅と九日の断臂会摂心、これは徹夜で坐禅しますが、 十二月一日からの摂心という記録はありません。   断臂会摂心を行う、また断臂会を行うというのも曹洞宗 だけです。臨済宗の方に聞きましたけども、二祖慧可の断 臂に対する報恩というのを行いません。これも曹洞宗の特 徴として挙げられるのではないかと思います。   さ て、 次 に 行 き ま す が、 先 程 か ら 言 っ て い る 大 安 寺 の 『 回向并式法 』、これが現時点では摂心儀礼の最古の記録だ と思います。 「 十二月朔日、入定。早朝祝聖如常 」 と。 「 朝 参、大衆散す 」 と、この後ですが 「 住持大衆等、入堂面壁 す。これより入定なり 」 と。ですから、十二月一日から、 そ の 次 の 行 に な り ま す が、 「 定 ん で 七 日 の 間、 毎 日、 鉢 盂 を行ずべし。義︵儀︶式は前に委す。また、七堂の門戸を 閉却、門外へ寸歩も移さず、結跏趺坐す 」 と、いうことで す。この時期、摂心をおこなうことが確認できます。   先 程、 『 吉 祥 山 永 平 小 清 規 』 に は、 摂 心 の 記 録 が な い と 言 い ま し た が、 岸 澤 文 庫 の 『 吉 祥 山 永 平 寺 年 中 定 規 』 に は、 十 二 月 朔 日 か ら、 「 今 朝 付 日 中、 今 日 よ り 八 日 ま で、 飯台三時なり、飯后より摂心なり。法器すべて打たず 」 と

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禅宗儀礼の研究︵尾崎︶ いうことで、摂心があります。   面 山 の 『 僧 堂 行 法 鈔 』 で は、 「 朔 日 の 午 後 よ り 八 日 の 暁 まで、諷経看読作務をやめて、粥飯を除いてほかは、昼夜 打坐す 」 と、あります。摂心が、江戸時代にはおこなわれ ていたのです。成道を讃える、道元禅師の上堂などもあり ましたし、それから時代が降ると、上堂はありますけれど も摂心も行われるようになる。それが、江戸時代になると 摂心の方が一般的になってくるということです。   しかし一方で、これは古規に乗っ取っていないというこ とで、かなり批判を受けるところもあります。最後に摂心 会に対する批判を述べたいと思います。   大 雄 山 の 『 最 乗 輪 住 大 日 鑑 』 に は、 「 今 日 よ り 摂 心 と 称 し、只管に打坐する事、澆末の弊例なりと。飢喰困民なる ぞ摂心をしもいわんやな 」 とあります。本当に世も末の悪 い例だ、餓えて、眠さに堪えて坐禅するというのは何なの だ、 と い う の で す。 続 け て、 「 然 り と い え ど も、 近 年 諸 山 の如き坐禅は叢林の行法の 羊 よう に思い、夢にも工夫を知らざ る も の あ り 」 と。 だ か ら、 「 故 に 臘 七 昼 夜 報 謝 の た め、 所 縁を報捨して成すべくことなり 」 と、あります。そうはい うけれども、最近しっかり坐禅をしていないではないか、 工 夫 し て い な い で は な い か、 だ か ら こ れ を き っ か け と し て、一生懸命坐禅をしよう、と述べているのです。   ただ、面白いのは、この最乗寺の場合、一番最後の部分 で す が 「 本 菴 主、 両 院 主 」、 大 慈 院・ 報 恩 院 の 両 院 で す が、 そ の 菴 主・ 住 持 は、 「 交 交 坐 禅 儀・ 坐 禅 箴、 古 則 公 案 を提唱して、後学を策進すべし 」 とあります。交替交替に 『 坐 禅 儀 』『 坐 禅 箴 』、 さ ら に 古 則 公 案 を 提 唱 し て、 後 学 を 策進すべし、とあるように、ただ単に坐るだけではなく勉 強しながら坐るという形を取っていたのです。   それから少し辛辣ですけど、岸澤文庫の 『 理諺清規 』 に も 批 判 が 記 さ れ て い ま す。 「 十 二 月 八 日。 中 古 は 今 日 よ り 静坐と名づけて念経諸行事を放下して八日の早に至すまで 坐禅摂心す。何れの時に何れの処の何れの人の講行と云う ことを知らず。諸方沿襲して改ること能はず 」 と、ありま す。   さらに、後半ですが 「 毎日、四次の坐禅のみ尋常統一に 弁道す。十二時中、寸陰を惜む。時節因縁を待つ者は、何 れの日と云ことなし 」 とあるように、毎日、四時の坐禅を

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禅宗儀礼の研究︵尾崎︶ するのだ、悟りを得ようと思うものは、何時何時が良いと いうことでなく、寸暇を惜しまず坐禅をすべきなのだ、と いう批判をするのです。   現状を鑑みますと、四時の坐禅は行っていません。道元 禅 師 が 定 め た 四 時 の 坐 禅 と い う の は、 暁 天︵ 後 夜 坐 禅 ︶、 早 晨、 晡 時、 そ れ か ら 黄 昏︵ 初 夜 坐 禅 ︶ の 四 つ で す が、 『 行 持 軌 範 』 で は 三 時 の 坐 禅 と い う こ と で す。 実 際 に、 永 平寺・総持寺、曹洞宗では、暁天と夜坐、後夜と初夜しか 坐禅をおこなっていないのです。なかなか摂心というよう な時間を取らないと、集中して座ることができない。忙し 過ぎるというのは、言い訳にならないかもしれませんけど も、現状はこういう状態があるということです。   ですから、お釈迦様の悟りを讃える成道会というのも道 元禅師が初めて伝えて、そしてその法要を行うのだ、上堂 を行うのだといったけれども、実際には上堂ではなくて、 その悟りの姿を讃える形で、坐禅、摂心という形に変わっ て来たということです。 七、おわりに   以上、早口で大変雑駁な発表になりましたけれども、回 向文の内容変化、それから首座法戦式、そして成道会につ いて述べさせて頂きました。   曹 洞 宗 の 行 事 を あ ま り ご 存 じ な い 方 に は、 思 い 至 ら な かった部分もあろうかと思いますけれども、通常曹洞宗で おこなわれる行事、さらに臨時行事、そして年中行事など が、実は時代とともに変化して来たのです。その実際と変 化の背景というものに気が付いて頂ければと思います。   特に回向文ですが、今後どういう形で法要の中で生かし ていくのかというようなことも、重要だと思います。特定 の案があるということで、ここでお示しする訳ではではご ざいませんが、そうしたことも視野に入れながら、時代と ともに変わっていく行事、その意味というものを、考えて 頂ければということです。   丁度、時間となりまして、まだ若干質問の時間もあると 思います。これにて発表の方は終らせていただきます。ご 静聴ありがとうございました。失礼いたしました。

参照

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