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梅と菖蒲が来航し 日本に対して次々に通つう商しょうを求めてきた 幕府はイギリスやフランスなどの列強国の侵略を防ぐため オランダの助力を得て長崎に海軍伝習所を設立したのが安政二年(一八五五)のことである オランダ国王から軍艦スームビング号(観光丸)が献けん上じょうされ 海軍伝習所には勝

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Academic year: 2021

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長崎

  下関を小舟でこぎ出した二人は、関門海峡を通りかかった英国商船ユニオン号の前に小舟を止 め、 商 船 を 停 船 さ せ た。 そ し て 俊 輔 は 下 手 な 英 語 で、 「 私 達 を 長 崎 に 連 れ て い っ て く れ!」 と 船 上の乗組員に聞こえるように叫んだ。まったく彼らのすることは 大 だい 胆 たん 不 ふ 敵 てき だが、俊輔には英国人 の知り合いも多いから、その交渉のおかげで長崎へはユニオン号に 便 びん 乗 じょう しての到着である。船で 洋服を 拝 はい 借 しゃく してヨーロッパ人に 扮 ふん 装 そう し、難なく長崎の地を 踏 ふ んだ。もとより 計 けい 算 さん 尽 ず くである。   グラバーに会う前に少し長崎の町を歩こうということになった。 二人は 羽 は 織 お り 袴 ばかま に着替えると、 そのまま町にくり出した。   晋作にとっては二度目の長崎である。文久二年、 上 シャン 海 ハイ 行きの幕船 千 ち 歳 とせ 丸 まる に乗り、その途中に立 ち寄ったのが最初で、その時は上海に出発するまでの百日あまりを足止めされた。その間 暇 ひま をも てあました晋作は、渡航に際して藩からもらった金で 豪 ごう 遊 ゆう した話は有名だ。 馴 な 染 じ みの芸妓を 見 み 請 う けしたかと思えば、上海出航の時には他に売り払ったというから、身請けされた女もさぞ 呆 あき れた だろう。   そもそも長崎は江戸幕府 直 ちょっ 轄 かつ の 天 てん 領 りょう でありどの藩にも属しておらず、周囲は大村藩、 諫 いさ 早 はや 藩、 平 ひら 戸 ど 藩、 五 ご 島 とう 藩、 島 しま 原 ばら 藩、対馬藩等の小藩の寄せ集めでできている。   思 え ば 吉 田 松 陰 も、 長 崎 へ は 三 み 度 たび 訪 れ た。 最 初 は 弘 化 二 年( 一 八 四 五 )、 長 崎 の 平 戸 藩 に 遊 学 し、 葉 は 山 やま 左 さ 内 ない を 師 し 事 じ し て 勉 学 に 励 ん だ。 次 が 嘉 永 三 年( 一 八 五 〇 )、 西 洋 兵 学 を 学 ぶ た め に 山 やま 鹿 が 流の 宗 そう 家 け 山鹿 万 ばん 介 すけ から 兵 へい 法 ほう を習い、オランダ商館や中国人が 居 い 留 りゅう する 唐 とう 人 じん 屋敷を訪ねて、世界情 勢を盛んに吸収しようとしていたという。ある時はオランダ商館でスープと洋酒をご 馳 ち 走 そう になっ て、汽船にも乗った。   その後、松陰の人生を決定づけたペリーが 浦 うら 賀 が に来航する。 佐 さ 久 く 間 ま 象 ぞう 山 ざん と黒船を視察し、西洋 の先進文明に大きな 衝 しょう 撃 げき を受け、 外国留学をするという一大決心をするのであった。 ペリーが去っ て一ヶ月後、プチャーチン率いるロシア艦隊四隻が長崎に入港したという知らせを聞き、松陰は ロシア船に乗り込む密航計画を 企 くわだ てて長崎に向かったのが三回目である。しかしこの時はすでに 艦隊は出航した後で、松陰の外国渡航の夢は 叶 かな わなかった。   晋作は長崎の町を歩きながら、松陰の呼吸を肌に感じた。師の果たせなかった夢を、いま自分 はその替わりとなって果たす時が来たのである。彼の心は 躍 おど っていた。   それにしても長崎は 華 はな やかだ。京都や長州のようにギスギスした 逼 ひっ 迫 ぱく 感 かん がない。第一長崎には 城がない。城がないから武士というのもいないのだ。行き交う人々はみな商人で、その空気は活 気に満ち溢れている。   なぜ幕末というこの時代に長崎がこれほど華やかなのか───。   ペリー来航以来、イギリス、フランスが 琉 りゅう 球 きゅう や浦賀に、また長崎にはロシア使節プチャーチン

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が来航し、日本に対して次々に 通 つう 商 しょう を求めてきた。幕府はイギリスやフランスなどの列強国の侵 略を防ぐため、オランダの助力を得て長崎に海軍伝習所を設立したのが安政二年(一八五五)の ことである。オランダ国王から軍艦スームビング号(観光丸)が 献 けん 上 じょう され、海軍伝習所には 勝 かつ 麟 りん 太 た 郎 ろう (勝海舟)をはじめ、各藩の 選 え りすぐりの青年達が集められ、オランダ人教官のもとで地理 や物理、 天文や測量や機関、 そして航海術、 造船術、 砲 ほう 術 じゅつ など、 高度な技術を学んだ場所である。 以来長崎は、西洋の近代技術の窓としての役割を果たしていくことになった。   そ う し た な か 安 政 五 年 六 月 の 日 米 修 好 通 商 条 約 調 ちょう 印 いん 後、 幕 府 は 列 強 の 外 交 圧 力 に 屈 くっ し て、 順 次それと同等の不平等条約を次々と 締 てい 結 けつ していく。いわゆるアメリカ、イギリス、フランス、ロ シア、オランダの五ヵ国それぞれと結んだ 安 あん 政 せいの 五 ご カ か 国 こく 条 じょう 約 やく である。その結果、幕末という緊張 の時代が幕を開けるのだ。   一 方、 修 好 通 商 条 約 に よ っ て 安 政 六 年( 一 八 五 九 )、 横 浜、 函 はこ 館 だて と と も に 自 由 貿 易 港 と し て 開 港 し た 長 崎 は、 華 や か な 時 代 を 迎 え る こ と に な る。 外 国 人 居 い 留 りゅう 地 ち が 造 成 さ れ、 開 港 を 待 ち わ び ていた英国貿易商たちなどは、富を求めて 相 あい 次 つ いで長崎に訪れた。彼らの居留地には貿易商会や 工場、あるいは銀行やホテルなどが次々と建設され、近代的な西洋文化の 賑 にぎ わいを見せていたの である。   トーマス・グラバーも富を求めて長崎に訪れた一人であった。   彼はスコットランド人で、海外へ 雄 ゆう 飛 ひ しようと二十歳の時に上海に渡る。当時の中国(清)は アヘン戦争に敗れ、イギリスが持ち込むアヘンの害に苦しめられていた。そんな時、世界的商社 ジャーディン・マセソン商会のマッケンジーという男に誘われ、彼は開国間もない長崎にやって 来たのだ。マッケンジーは、   「 武 器 を 扱 う “ 死 の 商 人 ” だ け に は な る な 」   と 諭 さと したというが、当時の日本の情況の中では、 必 ひつ 然 ぜん 的にそういった商売にも手を出すように なっていく。最初グラバーはオルト商会を通じて、長崎の女商 大 おお 浦 うら 慶 けい と知り合い、日本茶の輸出 を手がけて製茶工場をつくる。しかしその間に薩摩藩の五代才助や小松 帯 たて 刀 わき らから蒸気船の輸入 依頼を受けたりして、やがてマッケンジーの後任という形で独立し、グラバー商会を設立するの だ。そして禁断の艦船、大砲、小銃の輸入を手がけるようになり、ついには長崎の中でも群を抜 いた商人となっていくのである。   そ の ト ー マ ス・ グ ラ バ ー は、 英 国 領 りょう 事 じ 館 かん か 邸 宅 に い る は ず だ と 俊 輔 は 言 う。 か つ て 井 上 聞 多 と英国に渡るとき、その 斡 あっ 旋 せん にひと役買ったのがグラバーで、以来俊輔とは知り合いなのだ。   「 グ ラ バ ー さ ん は 海 外 に 目 を 向 け る 志 士 達 の 理 解 者 で す か ら、 今 回 も き っ と 手 を 尽 つ く し て く れ ると思います」   と、俊輔の足取りは軽い。   ふと、晋作が立ち止まった。   「 そ う じ ゃ、 せ っ か く 長 崎 に 来 た の じ ゃ。 い ま 流 は 行 や り の 写 真 っ ち ゅ う も ん を や っ て い か ん か?

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エゲレス渡航の記念じゃ」   「高杉さんももの好きですね。 魂 たましい を抜かれますよ」   写 真 と い う 最 先 端 技 術 で は あ っ た が、 特 に 人 物 写 真 な ど は 当 時 の 技 術 で は 撮 影 に 五 分 以 上 も じっとしていなければならなかった。しかも、写し出される人物は、 被 ひ 写 しゃ 体 たい となる人間とまった く同じ顔格好で写るから、それまで 浮 うき 世 よ 絵 え や日本画特有の線画で 描 びょう 写 しゃ される人物画しか知らない 当 時 の 人 間 に と っ て は、 写 真 の 巧 こう 妙 みょう な 映 り 具 合 が 余 程 奇 妙 に 思 え た の で あ ろ う 、 “ 魂 を 抜 か れ る ” と 庶 民 の 間 で は 専 もっぱ ら の 噂 だ っ た。 俊 輔 自 身 は 英 国 渡 航 の 時 に 撮 影 し た こ と が あ る か ら、 写 真よりも早くグラバーに会いに行きたかったのだが、晋作の好奇心も 旺 おう 盛 せい だ。   「 文 明 国 エ ゲ レ ス に 行 っ て 来 た 人 間 が そ ん な こ と を 信 じ ち ょ る の か? だ か ら お 前 は い つ ま で たっても 田 いなかびゃくしょう 舎百姓 扱いされるんじゃ」   俊輔は 渋 じゅう 面 めん で答えた。   「職業写真師の名前、何といったかの?」   「たしか上野 彦 ひこ 馬 ま ……、上野 撮 さつ 影 えい 局 きょく っていいましたかな?」   「よし、ゆこう」と気の早い晋作は方向をかえて歩き出す。   「ちょっと待ってください。場所を知りませんよ!」   「なんじゃい知らんのか」と言う二人を 路 ろ 肩 かた でじいっと見つめている十二、 三歳くらいの町人風 の 少 年 が い た。 大 小 二 つ の 太 刀 を 携 たずさ え る 二 人 の 侍 さむらい 姿 すがた の 男 が、 し か も 並 ん で 歩 く 光 景 が、 そ の 少 年にはたいそう 珍 めずら しく映ったらしい。   「おい、ぼうず、上野撮影局っちゅうのを知らんか?」   「知ってるよ」   晋作の問いに少年はぶっきらぼうに答えた。   「ちょっと案内してくれんかの?」   「おじさんたち、お 侍 さむらい さん?」   「そうじゃ」   「いいよ、ついておいで」   と、 ち ょ こ ち ょ こ と 歩 き 出 し た。 名 を 国 松 と い っ た。 地 元 の 少 年 で、 周 辺 に は 詳 し い ら し い。 後を追う晋作と俊輔は、半刻ばかり歩いてやがて上野彦馬の開業する上野撮影局に到着した。   上野彦馬といえば、幕末の多くの志士たちの写真を残した、日本における写真家の草分けであ る。世界で銀版上に画像を定着させる実用的な写真術を発明したのは一八三九年、それは発明者 の名を冠してダゲレオタイプ (銀版写真法) と呼ばれるようになった。それがはじめて日本に渡っ てきたのは嘉永元年(一八四八)のことで、 手にしたのが長崎にいた彦馬の父上野 俊 とし 之 の 丞 じょう だった。 家は代々 肖 しょう 像 ぞう 画 が を描く家系で、俊之丞は長崎奉行所の御用時計師を勤める 傍 かたわ ら、 硝 しょう 石 せき の製造を行 な う 化 学 者 で も あ り、 シ ー ボ ル ト か ら 蘭 学 を 学 ん だ 蘭 学 者 で も あ っ た。 そ ん な 父 の 影 響 か ら か、 彦馬はやがて写真技術の研究に 没 ぼっ 頭 とう するようになる。そしてついに、手製のカメラと薬品を完成

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し、長崎興福寺の山門を撮影することに成功した。しかし景色は撮れても人物写真となると「魂 を抜かれる」と 忌 い み 嫌 きら われ、 モデルになってくれる人が 皆 かい 無 む だった。そんな経験を 経 へ 、 文久二年、 長崎伊勢の 中 なか 島 しま 河 か 畔 はん に 念 ねん 願 がん の撮影所を開業したのであった。   当時の撮影代金といえば一枚で 二 に 分 ぶ というから、当時の職人の一カ月分の生活費に当たる。庶 民には高すぎる 代 しろ 物 もの である。そこにふらりと訪れた晋作は、   「おい主人、写真を頼む」   と、茶屋で 団 だん 子 ご でも注文するような調子で言ったかと思うと、 懐 ふところ から一両取り出して彦馬に渡 した。彦馬にとっての顧客といえば、晋作のような上士藩士や金持ちだから、その金をにこにこ して受け取ると、早速撮影室に案内した。すると晋作は、案内してもらった国松少年も一緒に撮 ろうと、彦馬に 袴 はかま と 脇 わき 差 ざ しを用意させ、少年の身につけさせた。彼なりの道案内のお礼のつもり なのだ。晋作はいつもそういう 配 はい 慮 りょ を忘れない。そうして俊輔と晋作と国松少年が三人で並んで 撮影された写真が現在に残った。   さて、グラーバーの方へ話しをもどそう。   晋作と俊輔が、トーマス・グラバーと会ったのは慶応元年三月二十二日のことである。その前 日長崎に到着し、写真を撮った後英国領事館に向かう。   二 人 を 迎 え た の は 長 崎 代 理 領 事 の ガ ウ ア ー と い う 男 だ っ た。 彼 は 二 人 が な ぜ 長 崎 に 来 た の か、 な ぜ 領 事 館 に 来 た の か し き り に 聞 い て き た。 俊 輔 は 片 かた 言 こと の 英 語 で、 「 グ ラ バ ー に 会 い に 来 た。 グ ラバーに会わせろ」と何度も言ったが、その日、目的の人物とは会うことができず、仕方なく二 人は英国領事館の一室を借りて 逗 とう 留 りゅう した。   そして翌日、ようやくグラバーと会うことができた。   「これはこれは伊藤さん、お久しぶりですね!」   と、グラバーは英語で言った後、二人に握手を求めた。間にはラウダという通訳が入ってくれ た。俊輔は晋作を紹介した。   「 こ ち ら は 高 杉 晋 作 さ ん で す。 実 は 英 国 留 学 の お 願 い を し よ う と 思 い、 グ ラ バ ー さ ん に 会 う た めに長崎に参りました。以前私や井上聞多らの英国行きを応援していただいたように、今回また ご 尽 じん 力 りょく ……」   なから俊輔の話を理解したようで、その途中でグラバーが何か言いかけた。   「あなた方は長州の人間でしょ?」   何やら俊輔の耳にはそう聞こえた。ラウダがグラバーの言葉を通訳して伝えた。   「高杉といえば長州藩の 要 よう 人 じん です。 そんな人がいまイギリスに渡るなんてどういうことですか? いつまた幕府が攻めて来るか分からないのに、 高杉さんが長州藩を離れている時ではありません。 それにイギリスでは密航して来る地方の日本人を受け入れるのは難しいでしょう。私は長州や薩 摩藩の味方です。悪いことは言いません。今は早く下関を貿易港として開港し、幕府に対抗し 得 う

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る力を付けることに尽力しなければなりません」   晋作はにんまりと笑った。   「あんたもそう言うか?」   大 たい 局 きょく から見れば、晋作が俊輔に語った英国行きの策も一理あるとはいえ、大きな 賭 かけ であること は晋作自身知っていた。だが、現実的にはグラバーが言う路線がもっともだろうと思った。しか し長崎まで来て、たったグラバーの一言で英国行きが中止にされるのは、なんとも 歯 は 痒 がゆ いもので ある。更にグラバーは続けて、   「下関開港に当たっては新任公使のパークスを紹介しますから、彼と協議するとよいでしょう」   と 勧 すす めた。そこまで言われてしまえば、もはやグラバーに頼ることはできない。   「もうエゲレス留学なんていってる年ではないということか……」   晋作は苦笑しながら俊輔を見つめた。その時の晋作の判断も早かった。   「これは失礼した。エゲレス行きは縁がなかったと思って 諦 あきら めましょう。しかし長崎まで来て、 このまま手ぶらで帰るのは 口 くち 惜 お しい。下関に帰ったらあんたの言う通りボクは開港のために働こ う と 思 う が、 い ま 長 州 に 必 要 な の は 武 器 じ ゃ。 ど う か 国 へ の 土 み や げ 産 に、 あ り っ た け の 武 器 弾 薬 を 譲 ゆず って欲しい」   と、英国渡航のため藩からもらった千両で武器弾薬を買い込み、それを船に積んで下関に帰港 したのが二十七日のことである。 皮 ひ 肉 にく にもその前日、藩からは英国渡航の許可が正式に下りたば かりだった。加えて以前留学して先に帰国した俊輔と聞多の代わりの留学生を探しており、   「これは誰か替わりの者を出さないとおさまりませんな」   と の 俊 輔 の 言 葉 に、 晋 作 は 自 分 の 代 わ り に 山 崎 小 三 郎 と 南 みなみ 貞 てい 助 すけ の 二 人 を 留 学 に 勧 め た。 南 は 従 い と こ 兄弟 であり義弟でもある十八歳の青年だ。その若者に夢を 託 たく す形となった。やがて彼らは英国 へ向かう。   そんな話をしながら、晋作は突然激しく 咳 せき 込んだ。俊輔はビックリして背中をさすったが、そ の咳込みは尾を引いて、なかなかおさまらなかった。   「高杉さん、大丈夫ですか?」   これまで忙しさの中で気が付きもしなかったが、一段落して 若 じゃっ 干 かん 落ち着いた日々を過ごしてい ると、何やら身体がだるく、ときたま胸が苦しくなる時がある。   「医者に 診 み てもらった方がいいですよ」   心配する俊輔をよそに、下関開港の準備を進める晋作であった。   さて、村田蔵六が書いた書簡が、但馬の 出 い ず し 石 に 潜 せん ぷく 伏 する桂小五郎の手元に届いた頃、グラバー が言った通り、 長州には再び大きな危機が 迫 せま っていた。 幕府が第二次征長を将軍自らが進発と内々 に発表したのである。それが三月十八日のことだった。そして二十六日には、長州藩主父子が江 戸 召 しょう 致 ち 命令を 拒 こば んだ場合は、進発する将軍に 供 ぐ 奉 ぶ するよう諸藩にその用意を命じたのである。

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  長州藩は藩主江戸召致命令をうやむやにしたまま、奇兵隊及び諸隊の陣容を十隊千五百人に定 めて武備を着々と進めていたが、そういったことを背景にしながら晋作の下関開港の 周 しゅう 旋 せん 活動が 始められたことになる。   そして、四月に入って七日、元号が 慶 けい 応 おう へと改元された。   元治と改まってわずか一年足らずでの改元は異例の早さではあるが、過去には二カ月あまりで 終わった「 暦 りゃく 仁 にん 」という最短元号がある。これは鎌倉時代であるが、当時の 天 てん 変 ぺん 地 ち 異 い は 著 いちぢる しかっ たようである。今回の場合、江戸幕府創設以来、幕府が指示してきた改元制度が朝廷によって行 われるという、 幕府権威 失 しっ 墜 つい を象徴するものでもあった。当日は御所に諸藩の代表を集め公開し、 これまた異例の儀式でもあったが、実質的にはこれが江戸時代最後の改元となる。晋作にとって は、幕府の権威失墜は喜ばしいことであったが、改元の理由を聞けば、昨年七月の禁門の変など の社会不安の 災 さい 異 い のためというから、内心 穏 おだ やかではいられない。   「長州はやはり 朝 ちょう 敵 てき というわけか……」   晋作の苦悩は深い。   その頃晋作は山口にいた。藩主に下関開港を説き、その 内 ない 諾 だく をもらって行動に移そうとしてい た時で、桂の事も気がかりだったので、馬関にいた村田蔵六に 潜 せん 伏 ぷく 先 さき を問う書簡を送った。四月 十二日のことである。   「 桂 さ ん は 丹 たん 波 ば に い る の で す か? あ る い は 但 たじ 馬 ま に い る の で す か? も し 但 馬 に い る の で あ れ ば 何 村の 何 なに 兵 べ 衛 え の所にいるのでしょうか?ご 一 いっ 筆 ぴつ 下されたく頼み上げ 候 そうろう 」   間もなく藩からは聞多とともに 外 がい 国 こく 応 おう 接 せつ 掛 がかり という 肩 かた 書 が きをもらい、俊輔は身分が低い分外国応 接掛通訳という肩書きをもらって三人は、命を 狙 ねら われることになる馬関に下る。

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