学位論文
暴力 の憑在論
H28年
度修了
兵 庫 教 育 大 学 大 学 院
学 校 教 育 研 究 科
教 育 内 容 ・ 方 法 開 発 専 攻
認識形成系教育コース は会系分野
)M15128A
角
田
栄
治
郎
暴力の憑在論
I
研究の所在 と目的 国際関係のあ り方について 「平和的な話 し合 いによる解決」 とい うことが求められている。 この命題はあたかも暴力を軍による制圧、侵略 のような可視的なものとみなしている。 しか し なが ら、暴力 とは果た して可視的なもののみで 定義づけできるの力、 そもそも 嘱 し合い とは 平和的である」 とい う等式が明証的のようにさ れているが、果た してそれは真であるのれ 庸 し合い」とは交渉である。それは国家の存亡を 賭けた と駆け引きである。 この場合 「平和的な 話 し合い」 とは、互いの生死を賭けた脅 し合い の交渉である。そのような「話 し合い」は何 ら 平和的なものではなく非常に暴力的である。 他方で、ハラスメン トとい う表現で 日常に隠 れた暴力を告発する動きがある。それまで常識 であると見倣 された行為が実は差別や侮蔑を含 むものであるため、人権が脅かされるとい う理 屈である。 しか しなが ら、様々な 日常的行為に 対 してハラスメン トと名付けることで排除する 際の基準は非常に曖味である。それゆえ、ハラ スメン トと名付けることはそれまで人間関係を 円滑に進めていた諸行為に対 しても波及 して し まい、不当な排除が行われることになつて しま う。 このように暴力をり除 しようとするにも力勁ヽ わらず、いかなる行為が暴力的であるの力功`曖 味なまま事が進んでいるのが現状である。なら ば、今一度 「暴力とは何力可 という暴カー般ヘ 教育内容・ 方法開発 専攻 認識形成 系教育 コー ス 社 会系分野M15128A
角 田 栄 治 郎 の問いへと立ち返るべきである。だが、この問 いについての分析は下般的に想定されている単 純明快で、整序 されたような答えが導かれるこ とはなし、 む しろ暴力の非常に複雑な構造に気 付 くことが重要な点になる。 Ⅱ 論文構成 序 章 暴カー般卜の問いの究朋 第一章 暴力概念の発想 とその言語表現 第二章 契約論における暴力論 と一般意思に 対する再解釈について 第二章 暴力論の存在論的究開の限界 と憑在 論の可能性について 終 章 暴力の臨 Ⅲ ― 第一章では、暴力について言語的側面から分 析 した。 日本語、英語・ フランス語、ドイツ語 における「暴力」に相当する語についてその語 源や側随している意味合いを分析することで、 「内と外という領域の分節、および外から内ヘ の干渉」と「主体の自由の獲得もしくは達成の ための行為llB手の自由の制約)」 という二つの モティーフが明らかにされた。これによつて、 人間はその共同体の中で主体の自由を獲得 しよ うとすると、不可避的に暴力が生 じてしまうこ とになる。 第一章において明ら洲 こされた暴力概念は抽 象的であるため、第二章では政治哲学においてどのように考えられてきたのかを確認 した。そ の際に我々は社会契約論者たちの理論を見てき た。ホッブズは人間理性によつて形成された主 権を信頼し、その下で構築された法による暴力 の正当性の確立を主張した。そして、理性を絶 対的なものとみなし、一度形成された法を修正 不要する必要はないとした それに対して、ロックは人間理性に対 して疑 間を抱く。理性の誤謬性を了解 した上で常に法 に対 して批判 し続け、更新することを要請 した だが批判することを容認することは、幾つかの 党派を生み出すことになる。それは党派間闘争 を起こしうることになり、自然状態における闘 争よりも大規模なものを生みだしてしまう。 ルソーはロックの理論を発展させる形で、一 般意思の確立を要請する。一般意思は構成員全 員の意志を汲み取る。ゆえに定立された法は正 当なものとされる。だがそのような論理によっ て構成されている¬般意思とは、全体主義的政 治体制を容認するものとして捉えられた。我々 はそのようなルソァ解釈に対して、一般意思と は全体主義へと陥らないように注視する必要が あることを要請する理論であると解釈 した 非全体主義的悧田こよる報 臨 は、デ リダの脱構築による暴力論及び正義論に通 じる。 そのことを確認するために、第二章では、ベン ヤミンの『 暴力批判論』の読解に基づいて、デ リダの『 法の力』の解釈を試みた ベンヤミンの指摘によれは 暴力は一般的に は法措定的暴力と法維持的暴力に区分されてき た。だが、実際にはこの二つの暴力は明確に区 分することができず、常に曖味な状態をはらん でいる。このような暴力の様相を見ることでベ ンヤミンは暴力そのものを批判するのではなく、 暴力批判をさらに批判するに至る。それは或る 行為を暴力 と名付けることが暴力的であるかも しれないという矛盾 と循環、割 り切れなさを露 わにすることであった このように割 り切れなさをはらむ暴力の悪循 環を断ち切るために、ベンヤミンは神的曝力に よる根本解決を要請する。それは暴力を生み出 す構造を根こそぎ破壊することで解決しようと するものである。 それに対 して、デ リダは、暴力の連鎖が小口j 避だからとい う理由で現状に入 り組んだ諸関係 を全面的に否定することはナチスによる「最終 解決」と同様な危険性をはらんでいると批判す る。デ リ舛 動 という現象が生じている複雑 に絡まり合っている場を脱構築することで解き ほぐし、組み替えることで問題の解消を狙 う。 それ│カレソーの一般意思理論のように、問題に 関わつている者全員の絡み合いに耳を傾けるこ とでどのような仕方で暴力が生み出されている のかを確認することである。 本研究によって我々は暴力 という現象を「暴 力が引き起こす関係性の歪み」を示すマーカー であると解釈することが必要であることが判明 した
Dそ
のうえで我々は複雑な暴力の現象を解 きほぐし、組み替えていくことが求められる。 だがそれは果てしのない作業であり、在るか無 いかという「存在論」では対処できない問題で ある。デ リダはそのようにして存在論の限界を 指摘するとともに、それに代わる「憑在論」と いう概念を提唱する。それは存在すると1湖Jの 仕方で考えることである。このようなデ リダの 論理を暴力論において援用することを本論では 「暴力の憑在論」と名付けたのであった。 主任指導教員森 秀樹 指 導 教 員
森 秀樹
目次
序 章 暴 カ ー 般 へ の 問 い の 究 明 … … 口8ロ ロ ¨ ■ ■ ¨ ¨・ ・ ・ ・ ・ ・ ¨・ 口・ 口・ 口 ¨・ ・ 口・ 口・ ・ 口 ¨ … … 口・ ¨ 口2 第一節 予備的考察・00000000・
・0000・
000000000・
・2 第二節 暴力を定義す る権力の暴力・・・・ 0。0000・
00。
・・ ・・・08
第二節 暴力が発生す る場への注 目000000・
00・0000・
00・
0013
第一章 暴 力概念の発想とその表象・・……・口¨●口¨■ロロ●…"・ …口・口・・・口・・・・・¨ロロロ・・口・20 第一節 諸言語か ら「暴力」とい う語を分析す ることの意義0000・
000020
第二節 日本語における「暴力」とい う表現・・・・・・ 。・ 。。00・ ・ 0・ 23 第二節 西洋語における「暴力」 とい う表現 00・0000・
0・ ・・・ 。・ 031 第二章 契約論における曇 力nと
…般意思に対する再解釈についてい・0…0・¨………口・37 序 説 社会契約における暴力論00000。
・000・
000000000037
第一節 制度による不当な暴力の発生について・0000000000000038
第二節 ロックにおける暴力・ 0・ 0・ ・・・ 0・ 0・ ・ 0・000・
・・48 第二節 ル ソーによる解決策一一般意志について一・・00000・
0・ 00・ 61 第二章 尋 力腱の存在綸的究明の限界と憑在綸 の可能性について¨¨・口¨・・・・・・・・口・口75 第一節 ベ ンヤ ミン『 暴力批判論』と神的暴力・ 00・ 00・ 0・000・
0076
第二節 デ リダによる神的暴力批判 と憑在論・ 。・・00000000000092
終章曇 力の憑在腱 …
"…
・・¨・口・ロロ・………・・¨口・口・…口0・口・・―"口・・口・ロロ・……・・116 第一節 存在論を越える0・ ・・・・・0000000000000・
・ 0・ 116 第二節 魔法少女たちによる対話000・
・00000・ 00000000・
124 結びにかえて0000。
00・0000000000・
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・・000135
多考文献・・0・・0"ロロ・・・ ■口■D●●■■●●●口●■●●B●137序 章 暴 カ ー般 へ の 問 いの究 明 第…節 予備的考察 曇 力の物理的側面と非物理的側面 暴力 とは何か。このよ うな問いに対 して一般的には、人を殴るや蹴 る、刃物で刺す、切 り つ ける、銃で撃つ とい うよ うな行為が思い浮かべ られるだろ う。しか しなが ら、そのよ うな 行為が何故、暴力的であるとみなされるのか、その理由は必ず しも明 らかではない。にもか かわ らず、我々は様 々な行為に対 してそれを暴力的であるか否かを判断 し、名付けている。 上記のよ うな諸行為の暴力性 についてその理由を考えてみると、それ らの行為によつて相 手に苦痛を与えた り、肉体を傷つけるとい う点が共通 してみ られ る。このよ うな他者に苦痛 を与え、肉体を傷つけた りす る行為をここではひ とまず、肉体的ない し物理的暴力 と呼ぶ こ とができるだろ う。 しか し、物理的な暴力だけでは暴力全般 を説明す るには不十分である。例 えば「言葉の暴 力」とい う表現が用いられ ることがある。言葉の暴力は、相手をなにか しら乏 しめる言語的 表現を伝 えることによつて生 じる。そのよ うな暴力は、直接肉体に対 して働 きかけるもので はなく、精神面において追い詰めることで傷つけるものである。さらに、時に人は相手に対 して言葉 どころか何 も反応 を示 さないこと、つま りは無視 とい う形で接す ることで傷つけ ることもある。このように物理的・肉体的な暴力 とい うカテゴリーでは説明できない暴力が 存在 していることが確認できる。 ここではそのよ うな暴力のことを精神 的ない し非物理的 暴力 と呼ぶことにす る。 「傷つけること」と『 自由の毀損Jの関係性 このよ うに暴力を物理的なもの と精神的なもの とに区別す ると、両者に共通す るもの と して暴カー般 を「相手を肉体的ない し精神的に傷つけること」と定義づけす ることができる。 しか し、果た してそのよ うな定義で暴力を説明 しつ くす ことができるだろ うか。例 えば、或 る者に対 しての尋問や拘束 とい うのは暴力的にみ られ るが、同様の行為を警察がお こなっ た場合では暴力的ではない と一般的にみなされている。単に相手を傷つける行為はすべて 暴力 と判断 されて しま うのか。そもそも、なぜ我々は「傷つける行為」を暴力 と判断す るの だろ うか。我々は、先ほど提出 した定義づけに対 して早々と批判、吟味を加 えていかねばな
らない。 「傷をつけること」、それは相手の心身を毀損す ることである。物理的な暴力 としては、 刃物で斬 りつけることや骨 を折ることな どがあてはまる。一方で、非物理的な暴力 としては、 不当な雇用契約による低賃金で相手の生活を困窮 に至 らせ ること、言論 を弾圧す ることが 相 当する。これ らの行為による傷によつて損害が生 じるが、それは どのよ うな損害なのだろ うか。す ると、それはおそ らく「自由を奪われ ること」に帰着できると考えられ る。た とえ ば物理的暴力によつて身体に傷を負つた場合、その部分を自由に動かす ことができな くな り不 自由になる。さらには、低賃金によつて好 きな経済活動を行 うどころか十分な生活を送 れない、もしくは言論を弾圧 され ることは 自分が主張 したい ことを語 ることができない と い うことがこれにあたる。物理的にせ よ非物理的にせ よ、我々は暴力 と呼ばれ うる行為によ って傷つけられ ると、いくらかは 自由を失 うことになるのである。したがつて先の「相手を 肉体的お よび精神的に傷つけること」 とい う定義のみでは説明が不十分である。 上記の分析か ら、暴力の定義には「自由の毀損」とい うことが不可欠であることが導出で きる。物理的な暴力は相手の身体 を傷つけることによつて行動を不 自由にす る。経済的暴力 も商品の売買を抑止す るもの として相手の行動を制限す るものであ りこれに当てはまる。 「言葉の暴力」は相手の品性や徳行、名声、信用などの人格的価値について社会から受ける 社会的評価 を低下させ る行為である。それゆえに民法上では名誉棄損 として一つの罪 とさ れている。名誉を傷つけることは外か らの評価 を下げることであ り、それは一種の暴力行為 とされている。社会からの評価が下がれば実践的な面でも精神的な面でも、行動に制限がか かるため、自由が損なわれて しま うがゆえに、やは りこれに関 して も先ほど挙げた定義にあ てはまる。 したがつて暴力は、「相手を肉体的及び精神的に傷つけ、 自由を奪 うこと」 と改 めて定義す ることできる。「自由を奪 う」とは相手を相手の意に反 して束縛す ることである。 この定義 をこれよ りの議論の足場 とすると、暴力について思考す る際には「自由」とい う概 念をともに考慮に入れ る必要があることがわかる。 正義と暴力を区別することの困難 「暴力 とは何か」とい う問いに対 して物理的な暴力 と精神的な暴力に区別 し、さらに「傷」 の有無だけではなく「自由の毀損」とい う点をも考慮す ることによつて、暴力を「相手を肉 体的及び精神的に傷つけ、 自由を奪 う行為」 と定義づけすることができた。 しか し、このよ うな定義は傷つけ自由を奪 うとい う行為のあ り方を示す ものであ り、それ
だ けでは暴カー般 を説明 しきれてい るとは言い難 い。例 えば、医療行為 としての肉体への処 置 は どの よ うに捉 え ることがで きるだ ろ うか。医療行為 は、た とえ生命 を救 うためで も患者 の 肉体 を傷つ け、一定範囲において 自由を奪 う。これ までの暴力の定義か ら考 えれば、それ は一種 の暴力 と見微 され て もおか しくはない。 だが医者 が行 う医療行為 は一般的 には暴力 とは見倣 されず 、む しろ一つの正義 と見倣 され ている。では何故、医療行為は暴力的 とは見 な され ないのだ ろ うか。その理 由 と して、おそ らく、医療行為 に よる治癒・ 効能 が患者 の身 体 を蝕んでい る病、傷 に よる侵襲、さらには医療行為 の際 に生 じる傷 を上回 るこ とが期待 さ れ 、その ことに対 して患者 自身 が納得 し、同意 してい るか らであ るこ とが考 え られ る。逆 に 言 うな らば、患者が十分 に納得 していないに もかかわ らず 医療行為 を して しま うと、それ は 暴 力 と見倣 され る。実際 にあ る暴力 と判断 し うる理 由の例 と しては、或 る患者 が医療 に関 し て無知である こ とを利用 して、医者が患者 の ことを 自らの研究の実験台 と して扱 うことや、 無駄 な手術 をす るこ とに よつて不 当な医療費 を請 求す るこ とな どが あ る。 専門知識 を持 つ て いない患者側 か らすれ ば医者 が言 うことが本 当か どうか、説 明が十分 にな され てい るの か を認識 し判断す るのはなかなか難 しい ことである。同様 に、医者側 として も自らの医療行 為 の正 当性 を患者 に了解 して も ら うた めに、その内容 に関 して十分 に認識 して もらいたい ところであるがそれ は、実際にはなかなか難 しい ことである。つ ま り、医者 と患者 の間に十 分 な意思疎通が ここでは重要 になつて くる。その結果 、最近重視 され るよ うになつたのがイ ンフォーム ド0コンセ ン トである。同 じ職種の人物 による同様 の行為 であつて も、それ を行 う者 が何者 か と判断す る各 コンテ クス トにお いてその行為が暴 力 とも正義 とも見倣 され る こ とになる。上記の定義 〔「相手を肉体的及び精神的に傷つけ、自由を奪 う行為」〕は暴力的 な行為 のあ り方 を説 明 してい るが、それ が立場や場面によつて は正義 ともみな され るこ と もあ るとい う点で不十分で ある。これだ けでは「暴力 とは何 か」とい う問いの背後 に潜 んで い る本当の問いには答 え られていないのである。 「暴力 とは何か」 とい う問いに対す る答 えとして前述のよ うな定義 による説明は容易に 考 え られ ることであ る。だが 、これ では「問い」がす り替 え られ て しま う。我 々の問いは「暴 力 とは何 か」 とい う暴カー般 についての問いであ り、「なぜ 、暴力 はいけないのか」 とい う 問 いではない。それ ゆえ、前述の定義 は 「暴力 とは何か」とい う問いに対す る本来的な答 え とは言 えない。この二つの問いは根本的に異な るものであ り、この差異は十分に理解す る必 要 が ある。「なぜ 、暴力はいけないか」とい う問いは、倫理的価値判断 に属す るものであ る。 この問いには、いか なる行為が暴力であるのかは既 に明確 に されてい ることが前提 され て
いる。その前提 を踏まえて、どのよ うな構造0コ ンテクス ト上においてその行為をすべきか 否か とい う価値判断がなされ るのかを吟味す ることになる。 ヴィ トゲンシュタインの言語 ゲーム理論1やレヴィ
=ス
トロースの理論 を取 り出さなくとも、ある二つの文化間において 如何なる行為を してはいけないか とい う判断が異なつて くることや、その異なる諸文化 を 文明、未開 とい うよ うに見なす ことの暴力性は容易に理解できる。それは暴力そのものを批 判・吟味す るものではなく、或 る共同体の倫理や宗教な どのよ うな、それ を支 える構造を分 析す るとい う問いになつて しま う。この問いにおいては、もはや 「暴力」とい う言葉は どう で もよく、いかなる行為を してはいけないのか とい う価値判断が問われている。すなわち、 この問いは「なぜ、或る行為を してはいけないのか」と言い換えることができる。そ してそ のような問いに対す る答え方は非常に容易である。つま り、「なぜそのよ うな暴力 と呼ばれ ている行為はいけないのか。それはその共同体においてその暴力 と呼ばれている行為が禁 じられているか らである」 と。 一方で、「暴力 とは何か」 とい う問いは どうだろ うか。問いの構造から鑑み るに、それは 暴力そのものがいかなるものか、暴カー般 を問 うものである。そこでは特定の価値判断に対 す る批判0口今味は重視 されない。そこでは、我々人間が為せ る数多ある行為の中で何故或 る 行為を指 し示 し「暴力」 とい う言葉で分節 したのか、「暴力」 とい う言葉 を充てることによ つて何が指示 されるのかとい うことが問われ るのである。また「暴力 とは何か」と問わざる を得な くなる場 とい うのは何が暴力であるのか判断す るのが困難な状況であるとも考え ら れ る。問いが立てられる状況 とい うのは、或る事物に対す る我々の理解がその段階において 追いついていない、もしくは理解不可能、不信であるとい う状況に置かれているとい うこと を示 している2。1「
言語ゲームは、言語活動が人間の多様な生活形式に根 ざした 〈自然史)に
属 している ことを表現す る事実概念で もある。それゆえ、 ウィ トゲンシュタインは多種多様な言語使 用の事例 を列挙 しなが ら、「言語 を話す とい うことがある活動の、またはある生活形式の 一部であるとい うことを明 らかにす るため」に選ばれた と述べている。言語ゲームの多様 性は、言語使用の基盤である人間生活の多様性に由来す るのである。その多様性 を無視 し て一般化を行い、言語を生活の土台か ら切 り離 して抽象化す るとき、悪 しき哲学的誤謬が 生ず る。」 〔野家啓一著,「言語ゲーム」,廣
松渉他編,『岩波哲学・ 思想辞典』,岩
波書店,1998年
,450頁
より引用。 以下同書のことを『 岩波哲学』 と略す。〕 2例えば、我々が 日常的に リーゼ ン トとい う髪型に対 して疑間を持たないのは リーゼ ン トと い う髪型が どのような髪型なのかを常識 としてそれが真実であるとして信頼性 を得て、そ の理解で現段階での生活に何の支障 もきたさないか らなのである。 しか しなが ら、もしリ ーゼン トとい う髪型がいかなるものかを知 らない者が実際に理容室に行つて注文す ると驚 愕す る事態に陥るだろ う。そ してその時になつては じめて彼はこのよ うに問 うのである。では、暴力ではない行為 は何 と呼ばれ るのだろ うか。説明 され た通 りに言葉 を創 出すれ ば 「非暴力的行為」となるが、普段の会話ではそのよ うな言葉では表現 しないだろ うし、明確 とは言い難 い。な らば、どう呼ばれてい るのか。おそ らく二種類 の言い方がで きる と思われ る。す なわち、一つは別 に良い ことで も悪い ことで もない普通の事であ り、「日常行為」 も しくは 「常識」とい う呼び方が適 してい ると思われ る。そ して も う片方 は 「正義」である。 しか しなが ら、いかなる行為が正義 なのか判断 され に くいか らこそ「暴力 とは何か」とい う 問 いが 立て られ てい る以上、 ここで は明確 に正義 とは どの よ うな行為 なのか説 明す る こ と はで きない。そ こで、ここでは さしあたつて否定の接頭辞 を用 いて表現 してお くことにす る。 一般的 に「暴力」とい うものが悪 と見な されていることを鑑みれ ば、暴力 と正義は対立す る とい う前提 が成立 していることになる3。 その前提 に拠 つて立つ な らば、非一 正義 は暴力 と な り、非―暴力は正義 とな る。「日常行為」や 「常識」 とい う言い方は、「暴力」 とは結びつ か ない よ うに聞 こえるが、「非 日常的行為」や 「非常識」 と否 定の接頭辞 を付 ければ暴力行 為 に近づ くよ うに思われ る。 したが つて、非暴力的 な行為 を ここでは便宜的に 「正義」と呼 ん でお くとす る。ここで話 を戻 しま とめるな らば、暴力であるか ど うかを判断す るとい うの はその行為が当人に とつて どの よ うな コンテ クス トに置かれ てい るのかを見極 めることで あ る と言 える。したがつて、傷つけることだ けで暴力 と見倣す ことはできない。正 当化 され る もの とされ ない ものがあ り、見た 日で は判断で きないので あ る。 では、その判断 を決す る分水嶺 とな るものは何か。何 を基準に して判断す るのだ ろ うか。 一般的 には規則や規範が基準 にな るよ うに思われ る。規則 に従 つているな らば正 当な行為 つ ま り正義 と見倣 され 、逸脱 してい るな らば不 当な行為つ ま り暴力的な行為 とみな され う る ことにな る。この時 の判断要素 として前述 した定義 の内容 も勿論含 まれ ることになる。こ の ことを踏 まえて本論 の始 ま りとな る問いである「暴力 とは何 か」とい う問いの背後に迫 つ てみ る と以下の よ うになる。つ ま り正義 であるのか暴力であ るのかを判断す るには規貝りに 従 つて見極 め区別すれ ば よい とい うことにな る。しか し、ここでは実際に起 きてい る行為 が そ の判断・区別がで きていない とい う状 況 に置かれ てい る。そ して、その よ うな状況が実際 「リーゼ ン トとは何か」 と。「暴力 とは何 か」 とい う問い も同様 である。 このよ うな問い が立て られ ること、そ して私が この問いを立てて研究 してい るこ とを聞いてわ ざわ ざ何 を 問 うてい るのか と訪 しむ者 がい る とすれ ば、その背景 には先 ほ ど示 した リーゼ ン トに対す る我 々の態度 があ るのであ る。 3この対立図式はあ くまで一般的な見解 を何の批判 もな く受容 した上での ものであることに 注意 して も らいたい。 む しろ本論 ではその よ うな対立図式 を根本 か ら脱構築 してい こ うと 試 みてい る側 面が ある。
にあるか らこそこのよ うな問いが生 じているのである。 例 えば、教育と虐待の区別が挙げ られ る。子 どもや初心者は経験が不十分であるがゆえに、 危険な ことや社会的 に反す るよ うな行為 を行 つて しま うことが しば しばある。そのよ うな 行 いを矯正す るために、叱るや罰を与えるとい う行為が「躾」と称 して行われてきた。だが、 近年では 「躾」は行 き過ぎた 「虐待」もしくは 「体罰」として制限 され るようになった。以 前 においては、そのような行為は教育の為 とい う規則に則つた行為 として認め られていた。 実際にヨー ロッパでは、古来よ り「鞭によ り子を懲戒す る権利」は 「天主か ら親に授 けられ た もの」とされ容認 されていた4。 梅根悟 による『 世界教育史』および『 教育学大辞典』は、 実際に どのよ うな体罰がなされていたのか、その事例 を中世か ら近代 にかけてい くつか提 示 している “。 日本においても例外ではなく、唐沢富太郎の『 教師の歴史』の中で野 口援太 郎 の「師範教育の変遷」か ら師範学校生による当時の回顧録を引用 していることか らも教育 のための躾 と体罰が混同 されていたことがあった7。 しか し、そのよ うなことが行われてい る当時は、そのような行為は一つの習慣であ り、疑 う余地 さえない常識的な行為であつたの である。ところが、極端な躾が、暴力的な行為つま りは虐待であると判断 され、告発 され る よ うになる。す ると教育的に必要 とされ認 め られ る行為 としての躾 と、それは行 き過ぎた行 為 であ り暴力的な行為 としての虐待 との線引きが試み られるようになる。だが、線引きを し よ うとしても、ことごとくその裏をか くよ うな問題が生 じ、その計画は破綻す ることになる。 現在では、基本的に相手へ と触れて しまっただけで虐待の嫌疑がかけられ る。ゆえに言葉や 身振 り、顔つきのよ うな行為をどこまで許容す るべ きか、その線引きが困難な状況にある。 どのような言葉を使 えばいいのか、どのよ うな言い方をすればいいのか、如何なる場面で も 適用 され るよ うな普遍的な規則はおそ らくあ りえないだろ う。そ もそ も教育 と洗脳 を区別 す ることも容易ではない。教育は人にものを教えることによつてその者の考え方 を方向づ ける。人の考え方を変えることは一つの洗脳 であるともいえる。或 る方向への考え方の変更 は認められ、違 う方向への変更は認め られていない。ここにおいて も一方では正義で他方で は暴力であるとい う区別がなされているが、その境界線は曖味である。おそ らくそれは立場
4山
住正巳,中
江和恵編,『子育ての書 (1)』,平
凡社東洋文庫,1976年
, 4頁
より参 照。5梅
根悟著,『世界教育史』,光
文社,1955年
,247-248
6細
谷俊夫他編,『教育学大辞典』,第
一法規出版,1978年 ,下
村哲夫,「体罰」の項を参 照。7唐
沢富太郎著,『教師の歴史』,創
文社,1955年
,60頁
より参照。によつて変化するものであ り、人は常時同 じ立場を維持す るのではな く、度ある毎に立場を 変 えてい く存在である。そ うであるな らば、なにが暴力であ り何が正義であるのか、ここで は何が教育で何が虐待に当たるのかを前 もつて決定す るのは困難であると言えるだろ う。 それを どのよ うに して解決す るのか、その状況が どのよ うな構造になっているのかを分析 す るのが「暴力 とは何か」とい う問いの中に含 まれている問いの本質の一つであるといえる だろ う。 第二節 暴力を定義する権力の曇カ 法権力の曇カ 前節において、或る行為 を暴力か正義か区別す るのは立場によつて異なるものであ り、あ らゆる行為を普遍的に区男1することが困難であることが分かつた。 さらには、「暴力 とは何 か」とい う問いそのものが如何なるものであるのか、その構造や背景、状況が如何なるもの か を知ることの重要性 を確認 した。単純に暴力 とは悪 しきものであるとして、その暴力 を定 義 し、すべての暴力 を否定 して しま うとかえつて新 しい暴力が起 きるとい う奇妙なことが 生 じて しま う。しか しなが ら、我々人類は、文明を築いて以来、区別す ることの困難 さに立 ち向かい、或る行為が正義 もしくは暴力であると決める基準を欲 してきた。た とえその根拠 が見えにくいものであつても正当性 を要求 し、それに基づいて、正義 と暴力を区別 してきた のである。 古代 中国においては儒家の影響の下、天 よ り天命 を受けた天子によつて地上が統治 され るとす る考えがあった。天子になるよ うな者は天命 を受けるに相応 しい有徳者でなければ な らず、もし徳を失えば天子 としての資格 を喪失 し、新たな天命が下され新 しい天子による 統治が行われ る。所謂、易姓革命 とい うものである8。 古代中国を統べていた段王朝の祖で ある湯王 と周王朝の祖武王は天命が下された天子 として代表的な人物 とされ、尭・舜0高 と 並び聖王 と称 され崇 められている。湯王は前の王朝である夏の暴君架王を倒 し殷王朝 を開 いた。同様 に武王 も段王朝最後の王であ り暴君化 していた紺王 を武力で倒 し周王朝を建て た。 この二人の王が典型的な易姓革命を成 した天子である。 だが、この二人が行つた行為は果た して絶対的な正義 と言えるのだろ うか。司馬遷の『 史 8小南一郎著,「天命」,『岩波哲学』1143頁を参照。 8
記』において武王の部下である伯夷 と叔斉による武王の正義 に対す る異議 申し立ての様子 が描かれている。確かに条王や紺王は酒池肉林に耽 り、民衆を虐 げ政治の混乱を招いた邪知 暴虐な王であったか もしれない。だか らといって彼 らを暴力で もつて制圧す ることは仁 に 反す るのではない力、儒教においては君臣関係 を重ん じる教えがあ り、下のものが上のもの への反逆行為は絶対に許 されない。な らば湯王 と武王が行った行為、易姓革命 とい うのは矛 盾 を孝んでいるのではないか。結局、湯王や武王 らの正義は暴力を暴力によつて制圧す るに 過 ぎないのであ り、それを勝者の論理によって 自らの行為 を正当化 しているにす ぎないの ではないか。つま り、湯王や武王 と条王や紺王の行為の差異は勝者か敗者かである。それは 行為だけを見れば、どちらも前述 した定義「相手を肉体的お よび精神的に傷つけ、自由を奪 う行為」に当てはまるのでひ とつの暴力であ り、同様のことなのではない力つ。実際に、孟 子や司馬遷 と言つた知識人か らは湯王や武王の行為は暴力であるとは見徴 されていない1011。 なぜな ら、そのよ うな行為は現状の政治 を革め徳政 を行えとい う天命が下 されたのだか ら 正 当性 を得てお り、天命 とい う規則に従 つているので正義にかなつているとされているか らである1213。 この事例か ら正義 と暴力が完全に対立 し区別 され るよ うなものであ り、正義 は絶対的に暴力的ではない とは言い切れないことが判明す る。つま り、それが正義であるか らと言つてそれが暴力的ではない とは決 して言えないのである。 このことは正義であると 判断す る基準になるはずであると信頼 していた規則 〔ここでは天命 もしくは易姓革命が規 員りになる〕とい うものの絶対性 を揺 るがす ことになる。それは、そもそも法や規則 とい うも のが果た して絶対性 、普遍性 を持 ち妥当され るものなのだろ うか とい う疑間を我々に突き 付 ける。 も う一つ例を挙げよう。それは「多数決」とい う方法である。会議において決断す る際に 最終的な決定方法 としてこの多数決 とい う論理・方法が頻繁に使用 される。多数決 とはい く つかの意見が衝突 した際に、最も賛成票の数を得た意見を採用す るとい う方法である。我々
9司
馬遷著、村山学,竹内良雄訳、『 史記Ⅳ 歴史の底流』、徳間書店、1988年
、237-240
頁を参照。 10孟 子著,今
里禎訳、「梁恵篇」,『中国の思想3
孟子』,徳
間書店,昭
和39年
〔1964 年〕,78-79頁
より参照。 11司馬遷は『史記』において本事柄に関して賛成 しながらも、批判する考えも書いてい る。 12直 江清隆,越
智貢編,『高校倫理からの哲学3
正義 とは』,串
田久治著,「第3講
〈正義)は
ひとつか」,岩
波書店,2012年
,121-123頁
を参照。 13久米旺生他編,「伯夷列伝」,『「史記」Jヽ事典』,徳
間書店,1988年
,78-79頁
より参 照。は事ある毎にこの方式 を利用 している。その理 由 としておそ らく、「最大多数の最大幸福」 とい う功利主義的なこの方式以外に議論 を決す る方法 を思いつかないか、そ もそ も他の方 式 を考 えることが面倒だか らであるだろ う。実際に我々は多数決による決断を妥当なもの だ と見倣 している。 しか し、「多数決」 とい う方式は、ノイジーマイノ リテ ィーのようにそ のシステムを上手 く利用 しさえすれば結果を操作できる。本来な らば少数意見 とな り淘汰 され るべ き意見であつても、多数 を占める意見へ と変化 させ ることもあ りうる。だがそれは 多数決の原理、ルールに則つたひ とつの戦略であ り、票を多 く得 る方法に関 して何 ら文句は 言われえない。この場合、多数決 とい う方式 自体は大抵の場合には正当性 を得ているが、そ の方式を使用す ることを一方的に決めていた場合には一種の暴力 と見倣 され るだろ う。つ ま リー見、正当性を持つているよ うにみえる多数決であろ うとも、その方式が如何なる場面 において も適用できるもの とは限 らない。多数決を適用するにも、それが適切であるかを検 討す る必要がある。 多数決の原理が必ず しも絶対的なものではないことをよく示 して くれ るのが裁判である。 裁判官は基本的には法律 に従つて判決を下すが、一つ一つの事例 を法律に書かれているこ とに従つてただ機械的に分類 して判決を下すのではな く、それぞれの場合の特殊性 を考慮 に入れた うえで判決 を下す。おそ らく最大多数に匹敵す るだろ う民意がその被告人を死刑 にすべきであると言つた として も、裁判官はそれ には関心を一切持たずにその事例に対 し て純粋に向かい合 うのではなくてはならない。そ して、それ こそが正義であると見倣 されて いるのである。裁判官は法律や規則 とい う閉 じられた枠組 と、一つ一つの事例を特異なもの として見 るとい う二つの相反す る考え方の間を揺れ動きなが ら判決を下す。しか し、そのよ うな裁判官であつて も、最終的な結審をす る際には裁判官の中における多数決を行つてい る。もちろん、その際の多数決には何 ら色眼鏡が無いように行われなければならないもので ある。各裁判官は最終的な結審 として多数決 とい う方法を使用す る際に深 く考えなければ な らない。裁判官はまさにその時に 自らと多数決の間をさまよ うことになるのである。 このよ うに多数決には絶対的な価値 を持 つてはお らずそれ 自体 として正当性 を持 つてい るのではなく、む しろ多数決 もそれ 自体 として常に正当性 を要求す る状況にあることが明 らかになつた。 このよ うな多数決 とい うものに対 してル ソーは以下のような皮 肉を述べて いる。 事実、もし先にあるべき約束ができていなかつた とすれば、選挙が全員一致でないかぎ 10
り、少数者は多数者の選択に従わなければな らぬ とい う義務は、いつたい どこになるのだ ろ う
?主
人をほ しい とお も う百人の人が、主事な どほ しい とお もわない十人の人に代わ つて評決す る権利は、いつたい どこか ら出て くるのだ?多
数決の法貝Jは、それ 自身、約束 によつて うちたて られたものであ り、また少な くとも一度だけは、全員一致があつたこと を前提 とするものである14。 では、なぜ多数決の論理は正当性 を得ているのだろ う力、 この問いはこのよ うにも換言で きる。つま りどのように して、多数決 とい う暴力が正当化 されるのか、と。 しか し我々は以 上までの事例によつてこの問いにとりあえずの解答 を与えることができる。つま り、暴力の 正 当化は、その時点において意見の衝突が起 きてお り、その闘争を解消 させ るために行われ るのである。このことは、暴力は暴力によつて しか抑制できないことを示 している。そのこ とか ら闘争を解消 させ るために暴力が必要 とされ る理 由も明 らかになる。 それはそのまま 闘争状態が続 けば、自己の生命が脅か され、秩序を得 ることができないか らである。それを 食 い止めるために、なにか しらの行為 をす る必要があ り、その行為が暴力である場合には、 それを人々に承認 させ るために正当化が必要 となる。 また、裁判官の事例によつて何が正義であるのか判断す る基準 としていた規則や規範そ の ものもまた揺 るがされていることが判明す る。そ して、ここにおいて正義 と暴力に関す る 問題が生 じて くる。つま り正義か暴力かを判断す るには規則や規範が必要であつたはずな のだが、その規則それ 自体が本当に妥当なものなのか とい う問いが生 じて しま う。ただ規貝J に従つて さえすればそれで正義であると見倣す ことができるのか とい う問題である。 この、 ただ規則 に従つて さえいれば正義であるといえるのか、 とい う問いに関 しては既 にデ リダ は『 法の力』において正義に関する三つのアポ リアの うちの一つ として提示 している15。 そ れ らのアポ リアは、いずれ も正義 と法/権
利の間に生 じている。ここで言われ る法/権
利 と はデ リダの説明によると、「規則や合法性 としてなされる」ものであ り、「安定 させてお くこ とができる、規約 にかなつた、計算可能な装置 として、また規則正 しく整えられてコー ド化 されたもろもろの指示の体系」である。それに対 して、正義 とは「計算不可能なものであ り、 14ジ ャン=ジ
ャック・ル ソー著,桑
原武夫,前
り│1貞次郎訳,『社会契約論』,岩
波書 店,1954年,28頁
より引用。 15ジ ャック.デリダ著,堅
田研一訳,『法の力』,法
政大学出版局、1999年
,54-58頁
を 参照。以下同書をFLと
略す。 ■ ■ ■ ■規貝1に反抗 し、対象性 とは無縁であ り、不均衡であ り、異なる方向性をもつた もの」である とされる。ここでデ リダは、正義に適つているためにはその行為をす る者が 自由であ り、責 任
/応
答可能性がないといけない と述べている16。 っま り、自由であることはなにか しらの 規則に従 つていることか ら解放 されていなければな らない。 自由であることは裏返せば何 をす るのか分か らない状態であ り、先の ことを予測す るよ うな計算す ることとは真逆のこ とである。両者は互いに正義には必要なものであ りなが らも、互いに相反す るよ うな概念で あ る。だか らこそ両者の間でアポ リアが生 じているのである17. 法と正機 現代において正 しいとされ、その下に成立 している秩序 とい うのは、物理的な行為である か、もしくは精神的な暴力であるのかは問わず闘争の歴史の果てに出来上がった法・規貝1に したがつて判断 されたものである。このような見方にはホ ッブズが『 リヴァイアサン』にお いて述べていた「万人の万人に対す る闘争」状態が前提 とされている。人は自らの欲望を満 た したいがために互いの自然権 を侵害 し合 うよ うな暴力的な存在である。だが、このままで は何時まで経 つても自らの安寧 を築 くことはできない、それ どころか、このよ うな闘争の果 てに互いに破滅の道 を歩む ことになって しま う。そのためにホ ッブズは各人が持つている 自然権の一部を主権者が掌握 し、以前よ りは比較的不 自由になるが秩序 を形成す るために 皆で耐え忍ぶ ことを要求す る。つま り、暴力や闘争 とい う現象は「社会形成 と社会体の運動 や歴史の基礎 にあるもの」なのである。 ホ ップズの理論において人間の自然状態は暴力的 な ものと見なされている。そのよ うな人間たちを牛耳る統治者が要請 されているがゆえに、 この理論は絶対主義王政を擁護す るものであると解釈 される。しか し、たとえ外観が現代か ら見れば時代遅れで異質なもの とされている君主制であつて も、それで一つの秩序が形成 されていることに間違いはない。同様のことを今村仁司は『 暴力のオン トロギー』において、 16同 書,55頁
参照。 17第一のアポ リアは正義に適 うためには 自らの言動に対 して責任 を持たねばならず 自由で ないといけないが、一方で決断す る際には何 らかの掟や規則 に従わねばな らない とい うア ポ リアのことである。 この第一のアポ リアについて述べている箇所においてデ リダは裁判 官 を事例 に出 している。第二のアポ リアは決断規則に従つているものなのか、それ とも自 由な意思によるものなのか判断するのが困難であ り、結局は決断不可能な状況になってい ることである。そ して第二のアポ リア とは、正義に適 う決断が十全性 を要求 しているにも かかわらず、常に不十分な条件で決断を差 し迫 られ るとい うことである。いずれのアポ リ ア も同一の事、つま り形式 と自由に関す ることであるが、それぞれ様態が異なっている。 12ホ ップズやル ソーなどを引き合いに出 しなが ら言及 している。彼 らが社会や文化、国家形成 の起源 について考察す る際には大抵はそ こに暴力が出現 して くるとい う。それは社会 とい う一つの秩序が形成 され るには暴力が必須なものであることを指示 している。それ こそ「間 争の歴史」と呼ぶべ きものなのである18。 もちろん、秩序やその下での正義 とい うのはそれ 自体が必ず しも現実に存在 している人、その秩序の中に組み込まれている構成員を完壁 に 満足に至 らせ るよ うなもの と言い切 ることはできない。それはま さしく一つの論理の支配 状態である。しか し、だか らと言つてその秩序や正義が直ちに悪であ り暴力的であると判断 す るのも早計である。だが、闘争の果てに敗者 とな り侵略 された側が、その社会の中に強制 的に位置づ けされて しまつたな らば、そのよ うな見方を して しま うのは仕方のないことか も しれない。彼 らは形式上その社会の中に組み込まれてはいるが 自分たちのや り方ができ ない以上、排除 されている状況であ り排 除 された側か らすればそれは暴力的に排除 された 歴史であ り、現在は不法に抑圧 された状態であると主張す るであろ う。 しか し、ホ ップズ的な社会が形成 され る段階において、その構成員は、皆そろつて各人の 自然権の一部を国家に割譲す ることを認 めている。だが、そのよ うなことを認めているのは、 その社会が形成 され る時の者達だけであ り、国家が出来上がってか ら誕生 した者達には、国 家 に従 うことを認 める機会は与えられていない。それ どころか、それ を審議す る場に立つ こ とす らないのである。とすれば当初は、それがなければ秩序が崩壊 して しま うがゆえに自己 保存のために必要 とされていた規則や法が、やがては、自己の活動や表現を阻害す る障壁、 不必要なもの として見 られ るよ うになる可能性がある。つま り、そこには 自由が損なわれて い ると感 じられ る可能性があるのである。ある規則や法が定立 された時にはその方法が最 善のものであつたに しても、時代が移 り変わつていくことによつて違 う方法が案出 されて くることはあ りうる。現状のままでは不満足であるがゆえに別の可能性 を求めて考究 し、発 見 して実践へ と移 していくがその方法が既存の規則や法に触れ ることであるな らば、それ は現状の秩序 を維持す るために禁止 され ることになる。この時、禁止 された側か らすればそ れは抑圧 と感 じること以外に他はなく、その時の規則や法は一種の暴力 と見倣 され ること になる。 前節 において暴力 と正義を具体的に検討 してみ ると、両者 を区別す ることが困難になつ て しま うことがあることを見た。法権力の根拠や半l断に対 して疑間を付す と、どうして も正 18今村仁司著,『暴力のオン トロギー』
,勁
草書房,1989年
,225-226頁
を参照。 13当性 と不 当性 とが割 り切れ な くつて しま うとい う行 き詰 ま りに陥 つて しま うことが分 か つ た。現代 の法や正義 、秩序 の歴 史を遡及 し、解体 してい くことでそれ らを支 えているものが 暴 力的 で あ り、一般 的 に想 定 され てい るよ うな絶対的 な正義 、暴力的な要素がひ とつ もない よ うな正義はなかつた とい うこと。そ して、正義 と暴力が簡単には区別 して考 えることがで きない こ とが明 らかになつたので あ る。 第 二節 曇 力が発生する場への注 目 アン′`ランスの告 知としての曇 カ 以上 の こ とを踏 ま えて現実 にお いて起 きてい る暴 力や 闘争 を見 てみ る と、暴力 はただ相 手 を傷 つ けてい るこ とのみ を示 してい るのではな く、 さらに秩序 とされ てい る現状 に歪み や ア ンバ ランス さが隠れ てい るこ とをあ らわに してい る と見 る こ とも可能 にな る。つ ま り 暴 力 を、秩序 内に歪 みが存在 して い るこ とを発信 してい る一つ の表徴 と して見倣す ことが 可能 にな る。我 々は何 か しらの行為 に対 して暴力的 であ る と直感す る。その よ うな直感 的 に 暴 力的で ある とされ た行為 は、制度 に照 らし合 わ され て「暴力 」と して社会的に抑圧 され る。 しか しなが ら、「暴力」 と見な された行為 をお こな う者 は、そのよ うな判断 を下す制度 に対 して不満 を抱 き、それ に反発す ることもあ り得 るのである。暴力 とい う現象が起 きてい るこ とに対 して、制度にな らつて正 当性 を判断す るだけでは、問題 に対 して真正面に向かい合 つ て い るこ とにはな らない。む しろ、我々は暴力の声を聞き取 らねばな らないのではないか。 暴力 の声 を聞かず た だ埋没す るか の よ うに対処 した として も雑 草 の よ うに再び問題 の芽 が 出て きて馳 ごつこの状態 になつて しま う。逆 に考 えれ ば、隠蔽 され た暴力の声 とは我 々の 日 常 を支 えてい る規則や法 とい う一つ の リズム、循環 を崩壊 させ 、変化 させ うるシンコペー シ ョンの よ うな役割 といえる。その とき固定化 されていた正義 と暴力、善 と悪 とい う階層的二 項対立が解 きほ ぐされ相対化 され てい く。その とき我 々は地盤 を失い、新たな地盤 を見つ け るために紡径 うことになる。それ はま さに闘争状態 に戻 されてい る状況である。あ らゆる力 は 自らを正 当化 しよ うとそれ らしい ことを主張 し、その他 の ものを排斥 し互いにせ めぎ合 う状 況 で あ る。 その よ うな状 況 に あつて今 まで拠 つて きた基盤 を失 うとい う経験 を した 我 々は、容易 に次な る代替物 としての正義 を選択す ることはで きないだ ろ う。それで も我 々 は次なる改訂 した正義へ と移行 していかなけれ ばな らない。そのためには、まず現状の秩序 の 中にある歪みを告発す る必要がある。以下において提示 され る二つの事例は一般的には、 14
ただ一方が悪のよ うに見な され るものである。ところが、その暴力の現象を分析す ることで そのよ うな見方が偏つたものであることが明 らかにされ るだろ う。そ してそれ こそが、暴力 とい う声が我々に伝 えたかつたものであることが示 され る。 テロリズムという事例 一般的にテ ロ リズム とい うのは、平和的な秩序 を揺 るがす悪質な暴力であるとみなされ ている。確かに、何 ら関係のない一般市民を無差別 に攻撃 し、殺傷す ることは許 されがたい ものである。しか しなが ら、彼 らとて、何の意味 もな くそのよ うなことを しているわけでは ない。彼 らが、世界中で報道 され るほどのテロ活動を しているのは、そ うす ることで世界中 の人々に対 して 自分たちが置かれている状況がいかに酷いものであるのかを示 したいか ら こそである。自分たちに直面 している否定的な現実を変えるには、自分たちのみでなく他の 人々も巻 き込んでい く必要がある。そのためには、まず もつて可能な限 り多 くの人に知って もらう必要があるのである。ところが、彼 らが このような方法を行使 している事態は、逆説 的に彼 らが 自分たちの意見を正式 とされている場 において主張す る機会が失われているこ とを示 しているのである。 ここで、イスラム諸勢力による、欧米諸国へのテ ロ活動を事例に確認 してみよ う。2015 年 1月 7日、フランスのパ リにおいて風刺新聞を発刊 しているシャル リー・エブ ド社の本 社がイスラム過激派思想をもつ武装 した二人の兄弟に襲撃 された。編集者や執筆者、担当者、 警察官など合わせて
12人
が殺害 された。その後二 日間、犯人の籠城や逃亡劇 を経て兄弟は 治安介入部隊に射殺 されたことにより事件は収束 した。事件後、オラン ド大統領は一連の事 件 のことを「テ ロ攻撃」であると非難 した。いわゆる「シャル リー・エブ ド事件」と呼ばれ るものであるが、オラン ド大統領が「テロ」と呼んでいるので本論ではこの事件 もテロリズ ムのひ とつ として捉えることにす る。 イスラム系の人々や文化、そ してテ ロ活動 とい うものに対 して疎遠 な生活 を している 我 々 日本人は、今回の事件の責任はすべて彼 ら兄弟にあるよ うに映るだろ う。しか しなが ら、 このテ ロ事件にはフランス国内において以前か ら問題視 されていたことが通底 しているの である。そもそも、フランスは ヨー ロッパを代表す るほどの移民大国であ り、特にイスラム 系の移民が多い。それはフランスが第二次大戦期 において植民地 としていた ところがイス ラム系の国が大半であ り、戦後の労働者不足問題 を解決す るために移民させたことか らで ある。ところが、フランスでは憲法でライシテ とい う公的な場において宗教色の強い服装や 15様式などが禁止 されている。つま り、政教分離の原則が非常に厳格なのである。これによ り、 イ スラム教徒の人々はブルカや ヒジャブ といつた習俗によつて着 ることを義務付 けられて い るものの着用が禁 じられている。さらには、もともと生まれ育つた国 も違 えば文化や名前 も異なる彼 らは、フランス国内において就職な どの面において差別 を受けていた。また、ム ス リム同士でも異なる出身地や民族であることを原因 とした社会的階級による差別が生 じ てお り、それへの反発 として抗争や対立、分断が生 じている。つま り、フランス国内におい て二重二重 と入れ子構造的に差別が生 じてお り、その ヒエ ラル キーの底辺層では不満が 日々募つている状況にあるのである。 加 えて、フランスは
1980年
代 よ り続 く不況によ り階級格差や雇用不安 とい う問題が広が つている。この問題 の原因を、イスラム系人々を代表 とした移民たちが国内の雇用を奪つて い るか らであるとし、右派 もしくは」F外主義的な風潮が次第に強 くなってきている現状が ある。 フランス国内では移民 とい うグローバ リゼーシ ョンの代名詞 と呼び うることを率先 した 結果 として、以上のような問題に陥つているのである。このよ うな背景がある中でシャル リ ー0エブ ドは、以前よリイスラム教を批判す るよ うな記事を掲載 しイスラム諸勢力よ り非難 を受けていた。度重なる社会的抑圧 を受け限界に来ていた彼 らの不満は、シャル リー・エブ ドによる風刺によつて爆発 したのである。犯行に至った兄弟によるテ ロ活動は、それ 自体 と しては単なる殺人であ り許 しがたいものである。だか らといつて、この事件のすべての責任 は果た して彼 らにだけあるのだろ うか。全責任 を彼 らに押 し付 けることは果た して妥当さ れ るのだろ うか。このよ うな事件が起 きた真の原因 とい うのは、イスラム教徒である兄弟に だけあるのではない。彼 らにこのよ うな事件 を引き起 こさせ るよ うに仕向けた社会的背景 お よびシャル リー・エブ ドによる風刺、さらには移民政策 とい うグローバ リゼーションの一 環 にもあるのではないだろ うか とい うことが判明 して くる。 彼 ら兄弟はテ ロ活動 とい う暴力的行為 によつて、 自分たちがフランス社会において如何 に抑圧 されているのかをフランス全土のみな らず、全世界に対 して提示 しているのである。 確 かにそのよ うなことを提示す るための方法はテ ロ活動以外にもあつたのかもしれない。 しか しなが ら、就学や職業選択 とい う面において差別 され、まともな教育を受けられなかっ たのかもしれない とい う事情が彼 らにあつた とした ら、テロ活動へ至る以外に方策はなか つたのか もしれない。先ほど、私は「彼 らが自分たちの意見を正式 とされている場において 主張する機会が失われている」と述べたが、その機会の失われ方 とい うのはまさにこのよ う 16な こ とで ある。フランス とい う国 は以前か ら先進国の代表格 と して位 置づ け られ、秩序 立て られ た もので ある とい うイ メー ジが、少 な くとも 日本人では抱 かれて い る。ところが、その よ うな世界 を リー ドして きた国家 の秩序 には、その秩序 を崩壊 させ うる移 民問題 とい う歪 み が は らむれ てい るのであ る。この よ うに、テ ロ リス トとい う暴力的 な存在 は実 は暴力 を受 けてい る者 た ちであ り、彼 らに暴力 を振 るつて きた者 た ちに対す る報復攻 撃 と捉 えるこ と が可能 になるのである。 ハ ラスメントという事例 上記 の事例 ではテ ロ リス トとい う暴力 をお こな つている者 が、実は 自分たちが暴力的な 状 況 に置かれ てい る こ とを知 らせ るため に、仕方 な く暴力的 なテ ロ活動 を行 つてい るこ と が判明 した。この ことはテ ロ リズム とい うものが、非常に複雑 な構造に よつて支 え られ てい る ことを も示 してい るので ある。 テ ロ リズム と同様 に実際には複雑 な構造 を呈 している事例 として各種ハ ラスメン ト行為 が挙 げ られ る。しか しなが ら、それ は複雑であることは同様 であるがハ ラスメン トの場合で はテ ロ リズム とは異なる性質の複雑性である。ハ ラスメン トとい うのは「いやが らせ」の こ とであ り、様 々な形 として表出 されてい る (セクシャル・ ハ ラスメン トやパ ワー・ ハ ラスメ ン ト、モ ラル・ ハ ラスメン ト、アカデ ミック・ ハ ラスメン トな ど)。 それ ら各種 ハ ラスメン トとい うのは人間の歴 史か ら見れ ば、非常に最近 になつて指摘 され るよ うになつた もので あ るЮ。その ことはつ ま り、それ 以前 にお いては現在 ではセ クハ ラ とされ る行為 に関 しては 問題視 され ることはなかつた こ とを意味 してい る。その よ うな行為 に対 して「セ クハ ラ」と 呼び批判す ることは、その行為 を暴力的 な ものであ る と名付 けることであ る。それ までの社 会 において隠薇 されていた暴力的な行為 を「セ クハ ラ」と呼ぶ ことによつて暴 き出すのであ る。同様 の ことを、アカデ ミック・ ハ ラスメン トやモ ラル 0ハ ラスメン トな どで も生 じてい るので ある。 このよ うな各種ハ ラスメン トを叫ぶ ことによって既存の秩序 内において隠薇 され てい る暴力的行為 を暴 き出 し、是正 させ よ うとす る構造は前述 したテ ロ リズム と同様 の性質の ものである。 しか しなが ら、ハ ラスメン トの場合では この先 に続 きが ある。確 かに、何か しらの行為に 19セ クシャル・ ハラスメン トに関 しては、
1989年
において 「セ クシャル・ハ ラスメン ト」がその年 の流行語大賞 となつているので、少 な くとも現在か ら27年
前 には一般的 に 使 用 され てい ることが確認 で きる。 17対 してハ ラスメン トと呼び批判す ることによつて、秩序内に隠蔽 されている暴力はツト除 さ れ るよ うに思われ る。ところがそのよ うにツト除す ることは、実は新たな暴力を生み出 しかね ない。セクハラは基本的に被害者の主観によつて決定 され るため、どのような行為がそれに あたるのか不明確であるがゆえに、些細なことにまでセ クハ ラであると指摘 されかねない。 それゆえ、学校や職場な どにおいて必要 とされ るコミュニケー シ ョンに気 を使わなければ な らなくなつて しま う。また、セクハラであるか否かを判断す ることが主観によつて決定 さ れ ることを利用 して、 自分が気に入 らない相手を陥れるためにその者の行為をセクハ ラ呼 ばわ りす ることもある。 このよ うにハラスメン トとい う言葉は、秩序内に隠蔽 された暴力を暴き出す もので もあ ると同時に、そ うではない行為をも暴力 と見な して しまい うる恐れがあるのである。「その 行為はセ クハラである」と批判することは、それが正当か不当かを問わず、少なくとも批判 され る者 もしくは行為を抑圧す るものであ り、それ もひ とつの暴力であると見なされ得 る のである。テ ロリズムとい う暴力の場合では、そのよ うな現象が生 じている場を支えている ものを暴 きだす ものであつた。それに対 してハ ラスメン トの場合では、暴力を支 えているも のを暴 き出 して もい るが、それだけに終わらずにむ しろ新たな暴力を生 じさせ る支 えのひ とつ となっているのである。 問い直されるべき曇カ 様々な暴力が錯綜 している現代において、我々は今一度暴力について間 うべき状況に直 面 している。それは既存の正義や悪を判断す る基準が崩壊 し、何が暴力 と見徴 されるのかに ついて様 々な立場が互いに対立 し合つている状況である。
Aに
とつては正義であるがBに
とつては暴力であ り、その逆 もまた然 りとい うことが生 じている。さらには、この関係は1 対1のような二者関係だけでなく、三者、四者 と複雑に入 り組んでいる。それぞれにはそれ ぞれの立場があ り、それに立脚 した正義をもつている。このよ うな状況を支えているものが 判明す ると、一概にある行為 を暴力であると見倣す ことはできな くなつて しま うだろ う。む しろ、そのよ うにある行為 を暴力であると見傲 して しま うこと自体が暴力的であると言わ れても何 らおか しくない。何が暴力であるのか解釈す る際に、考察の結果或ることが暴力で あると判明 しても、そのことを用いてそれは暴力的であると見傲 して しま うことそれ 自体 が暴力であると批判 されて しま うとい う一つのアポ リアが生 じている。 「暴力 とは何か」とい う問いには、間 うものが如何なる行為を暴力的であると見徴 しうる のか、その判断基準を見失つている状況が前提 とされている。そ うであるならば、我々にはその見失つているものが如何なるものかを明 らかにす ることが重要な課題 となる。 この見 失 つた ものを明 らかにす ることは、暴力 とい う不十分な規定 しか下せない複雑な概念を解 きほぐす ことであ り、それ こそが暴力を解決す る第一歩なのである。 そ こでまず第一章では、主に「暴力」とい う言葉 を各言語において分析 していきたい。言 葉 とい うのが、 ウィ トゲンシュタインの言 う写像理論に基づいていると考 えるな らば、「暴 力」とい う言葉は世界の中にあらわれている事柄の写像である。であるな らば、人間が どの よ うな事態 を前に して、それに対 して如何なるイメー ジを抱いたのかが言葉の中に秘め ら れていると考えられ る。ところが、ひ との言語 とい うのは、単一なものではな く、多種多様 に分断 している。そ して、各言語同士では厳密 に等価なものではないがゆえに、完全な翻訳 が不可能である。言語 とい うものがそのようなものであるな らば、各言語における「暴力」 とい う言葉によつて捉 えられている事態やイメー ジもまた異なつていると考 えられ る。そ れ故、我々は各言語における「暴力」とい う言葉について分析す る必要がある。そのよ うな 言語分析の末に、我々は暴力についての重要なモテ ィーフを見出す ことができるだろ う。 第一章における言語分析によつて見出 した暴力の重要なモテ ィーフについて、今度は具 体的な場面に応用す ることによつて、いかなる仕方でその様相呈 しているかを確認 してい きたい。その際に、第二章ではホ ッブズ、ロック、ル ソー とい う近代政治思想の根幹を支え ている二人の思想 を、第一章において分析 したモテ ィーフと照 らし合わせなが ら見ていき たい。彼 ら二人の思索は素朴な地点よ り始めているため、第一章において見出 した暴力の抽 象的なイメージをより理解できると思われる。また、ル ソーの思想は本論で確認す ることに なる暴力のアポ リア、解決困難な問題 に対 して我 々が如何なる態度でいるのかを示唆す る ものである。しか しなが ら、彼の思想は全体主義的なもの と捉 えられかねない側面を持つて お り、実際、そのよ うな方途へ と利用 された歴史がある。 そこで第二章においてベ ンヤ ミン、デ リダといつた現代思想 において暴力論が如何 に考 えられているのかを確認す ると共 に、ル ソーの思想が前述 したよ うな全体主義的なもので はないこと、デ リダの脱構築に通 じるものであることが判明 され る。また、第二章における 作業によつて、一般的に難解であると捉えられ ることが多い現代思想 とい うものが、第二章 における社会契約論者のよ うな素朴な思想 と同様 のことを語 つていることを確認す ること で、容易な理解への一助になると思われ る。 最後に終章で、本論において議論 してきた暴力論 を政治経済や国際関係 といつた分野に おいてのみではなく、他の領域にも表現 されていることを示 したい。他の領域 とい うのは伝 19
統的な文学や芸術、 さらには現代的な文化たるアニメやゲーム といったサブカルチャー も それに当てはまる。そのよ うなサブカル チャー といつた一見 して暴力 とは無縁なもの と思 われ る領域にも暴力論が応用できることを示す ことによつて、社会契約論者や現代思想で 扱 っている内容をより身近なものであることが理解 できるだろ う。