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農奴制マナの形成と崩壊

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Academic year: 2021

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(1)Title. 農奴制マナの形成と崩壊. Author(s). 小松, 淑郎. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. B, 社会科学編, 31(1): 23-32. Issue Date. 1980-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4433. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 農奴制マナの形成と崩壊. 小. 松. 淑. 郎. 14 世 紀初 葉 の ク ク ス ハ ム 村 は, オ ク ス フ オ ド大 学 マ ー ト ン ・ カ レ ジ の 15 の戸斤領* の ー であ る 大 . 英 博 物 館 の P ・ D ・ A ・ハ ー ヴ エイ 氏 は, 豊 富 に 残 さ れた こ の 村 の 決 算 書 account t s , 法 廷 記 録 cour l l i 土 地 台 d d ro 帳t 書 s 証 等 参 rer er s i ee s を 照 して, 手 際 の 良 い 村 史 を著 し て い る。 ゞ A Med l eva , , oxf i l l ordsh r e Vi age ,Cuxham 1240to1400 ,oxfordl965‐一。 本 稿 は, この 労 作 に 依 拠 し て,13 世 紀. 4世紀にかけ てのいわゆる「封建反動」 とその崩壊を, 小規模とは いえ一つの古典的マナ であ から1 る こ の 村 に つ い て明 らか に しよ う と す る も の であ る .. i l l ingt t * Sea onCa i r ew,St thHa t(Le ingay on(Durham) idge(Cambs ) r r Cour cs ) ,Barkby ,Kibwo ,Gaml ,Cambr , Chedd ington l l ) B i k H t M l d L h h F l i ( t d h i ) t N d a s n o s e a n s t a e n e a e r r e a a e e w a e ,lbs g ,Hobywe g ,Cuxham(oxon) , , , , ,. 注. Su ( ) r r y. 1。 概. 観. ククスハムの立地するチルターン丘陵とテムズ河にはさまれた地域は,19世紀まで囲込まれるこ となく, 開放耕地制 を維持する小有核村落 が存続したところである. ククスハムの囲込は1 846年, ightwe l IBa l dwin は 1802 年, 4 哩 北 西 の Cha ÷ 哩 西 の Br l ton は 1852 rove は 1845年, 1 哩 東 の Pyr g l ington は 1815 年 に そ れ ぞ れ 囲 込 ま れて い る ( Gray Eng 年, 1哩南東の Wat l i l dsys tem, shFie , .. p p . .536一42 ,Harveyp .17). このため,18世紀に多く作成された村落地図から中世像を探ることが容易になっ ている 1 67年, 。7 W・チャ プマンがマートン・カレジのために作成した地図が表わす村のレイアウトは 15世紀の土地 , 台帳のそれと同 じである. 本稿の地図はハーヴェイ氏の収録するチャ プマンの地図(M 懲 1 1) 4 ,「1 世紀初葉の宅地」(MAP V) と 「土地 および宅地の名称」(Append i l x ) の説明とから作成した. 宅 地 は, 隣村 ワ ト リ ン グト ン か ら 発 して 北 に 流 れ る Marbrooki 1 1(18世紀 の呼称)に沿っ て並ぶ。 村の東と南 は, 頂上が平らな砂塵層 から成る緩やかな低い丘 である 村 の北は Ma b l lが r r ooki , . Sh i bu l r r n(1哩半東) に発する Goggei l(18世紀の呼称) と合流してやや広い谷になる。 耕地は高 台に展開する。 緑砂と白亜土からなる地層は耕転し易 い軽い肥沃な土壌を生み出している 牧草地 . および放牧地は谷の開けた部分に存在する。冠水しがちな放牧地ほぼ25エイカを除いた湿地が牧草 地 である. ①の共同牧草地は, 1 6世紀以前は毎年抽せんで割替された地条に分割されている (13 57 ” で 3a 3r の 草 を刈 た) 森 林 は 存 在 し な い 丘 の頂 上 の フ ァ ー ロ ン toso ib i l i に ベ イ リ フ が “Pra t r っ . . . . グ, ⑤, ⑪, ⑮, ⑰ に は-den(o・E-a wo od) の語が付属しているが, 10 86年までには開墾され 23.

(3) . 小 松. 郎. 淑. 14 「世紀 の ク ク ス ハ ム 村 ③ ◎. ⑧ l l Cut t Mi. 至チ ク ル ラ ヤ を離 ダ. ①. ◎. 礁. 屡. ヂ. 牧. ,. 西. 群. ⑮. o. に 禦 い. が. 第. . 織. ⑫. ・. ◎. 元. ‘. ◎. ユ 1 1 「 J. 〉 〉 街道 曝 嚢 耕固境界 汲物こ 牧師 地条. ロング 琶* 蒔遥 ( キタ 1 に デ ポ麓. 24. ◎. 。. ワ. 書. ◎. ~ 影〆. dc. M, ,. 13. 騨 曇 f f.. *、 g. ・. 。 。 - ′ 鍋 ・--.- - 。。--- - ⑳. ◎. $,. ,. 卿 ◎. ◎. ダ ◎. ◎ 30〆. {. 至. ・. ◎. 、. ◎. ◎. も. 蛾5. 北. ◎. も 、. も. ′ ・ 3 m . ◎. 3. ◎. 王寺. ^ 登. 劃. 〉犠 ④粥. ⑦. し 、 . ◎. A. u. 燕 鮫 ⑩ ぜ. 圃. . . . o ◎. ⑨ /. ⑫. 地. ⑪. 亀. %. ⑳. 、@. 南. ⑭ 圃. ⑰. 縮 尺 . 哩. .

(4) . 農奴制マナの形成と崩壊. つく した と 考 え ら れる. ドゥ ム ズ デイ ブ ク は, ワ トリ ン グト ン, ブ ライ ト ウ エ ル・ ボー ル ドウイ ン ington (北 1 哩) の 森 林 を 説明 して い る が, チ ヤ ル グラ ヴ, ピル ト ン, Eas , ク ク スハ ム に つ い て は. 沈黙している。この地域は11世紀のうちに開墾は完了 し穀物耕作の優越するところとなっ たの であ ろう。 耕地は, 1 8世紀の測量図によっ ているが, 1 5世紀およ び17世紀の土地台帳が表わすものと殆ん. ど同 様 であ る。 16 世 紀 末 の, 南 固 か ら西 圃 へ の 7 エイ カ (7a ) の移 転 と南 圃 内 フ ァ ー ロ ン グ r .l . ,3p ・ 1I の 若 干 の 整 理 と を 除 け ば, 耕 圃, フ ァ ー ロ ン グ 間 の 大 き な 変 化 は な い 北 圃 126a .lr . Pっ . 南 圃 127a r 21a .3 .13p 西 圃 1 .2r .19p .の 三 圃 制 が 採 用 さ れ て い る. こ れ ら の う ち, 直 営 地. ix は,決 算 書 の播 種 エイ カ に よ れ ば,北 圃 87a rvey r r .2r . .l . .l .であ る(Ha ,Append ,南 圃 88a ,西 圃93a. l l) . 三圃制 の存在は決算書播種エイカのシリーズ (後掲) で13世紀に遡ることが明か である. た 31 だし1 9年には, 小麦播種地すなわち冬穀圃(西圃) の一部分 が冠水し, 春に大麦が播きなおされ たという例外的事実はある. 1 5世紀の土地台帳によれば, 直営地は散在地条 でなく, ファーロン グに整理統合されている. す なわち, 西圃の ブライ トウエル・ボール ドウィ ン街道の南側の部分と北圃の宅地寄りの部分とに大. ブロックを成している. この面積の確保と ブロ ッ ク化は後述するように, 領主の経営政策として1 3. in b l 世紀半ばから進行し世紀末に完了したもの である. 14世紀の法廷記録は 「農奴播種地」 ( ado. ivo t i l idomi i na rum) 侵害と 「領主分離耕地」( ) 侵害を明 瞭に区別 しているし, 13世紀半 r ns epa a n. i ) とする一方 で, 若干エイカは 「共同地 のそれも, 直営地条の大部分は「直営地にある」( ndomi co i i ) として ブロッ ク化直営地の支 配的存在を表わしている。 (直営地 にある」( n campo commun フ ァ ー ロ ン グは ◎ で表 わ した.). ’ ’l l こ れに 対 し, 牧師保有地 (r ecto r sg ebe) と 農 民 保 有 地 (tenant s and) は 散在 して い る. 前 者 の. それは地図上に示されている. 各圃にほぼ1 0エイカずつ計30エイカ である. 村落の全耕地からこ 5a 3p の3 0エイカと直営地とを控除した残りが農民保有地 である。 すなわち37 r .3 .1 .から269aと. 30a と を マイ ナ ス し た 76a . 3r . 13p , が そ れ で あ る。 と こ ろ で農 民 は 14a .の 自 由 農 1 人 と 12a .の 半 ix 狐) 76エイ カ では 各 人 5 エイ カ ず っ と な っ て 事 実 ヴ ァ ー ギ タ 13 人 であ る (地 図 お よ び Append .. に 反する.この矛盾の原因は,村落耕地面積と直営地播種面積とは法定エイカ(St t t rmea a u eo s u r ed tomary acre or a c r e)であるのに対し, 共同耕地に散在する 30 エイ カ と 12 エイ カ は 慣 習 エイ カ(cus unmeasured a cre) であ る こ と であ る.1334 年 の 土 地 調 査 書 (survey) は 共 同 耕 地 に あ る 2÷慣習エ. イカは1ナエイカ であるとしているし, 1 447年の土地台帳の直営地は1 767の土地調査のそれに対. し1 エイ カ に つ き 2 ナ ル ー ド超 過 し て い る。(北 圃 の慣習 エ イ カ の 平均 は 2r ,23p, 南 圃 の そ れ は 2 圃 2 1 2 超 2 過 グ r 西 は 8 し い フ ー r て る が こ れは ま た ロ よ ン に て ァ っ lr . pっ . p , ,6p .か ら 3r .19p . , ま でと 変 化 す る. - Ha 5) 算 3 1 rveyp した が て 計 は 3 7 5a 3 2 を ナ n か ら 6 9 マイ ス r a っ p .42 . , . . , , , した 106a .3r .13p . を 1.7 倍 し, そ れ か ら 30エイ カ を 控 除 した 151a ,2r .18p . を 14 人 で配 分 す る. ということになる. 結果は実態にみあっ たものである. 農民地条の形態は, 13 36年から1 34 0年ま でカレジの手にあっ たア ダム・ プライアン (小屋に隠 居) の保有地に庄 屋 が立入っ て播種した決算書の記事から明らか である. それによれば, 北圃に4 な い し 4 ÷ a, 南 圃 に 3 ÷ ない し4a , 西 圃 に 3 な い し 4aという工合に三圃に散在した地条となっ て い る。 (Ha rveyp .130). ブロ ッ ク化された直営地は囲込まれず開放 耕地制下でそのまま経営された 1 . 4世紀の決算書は, 小屋住に対する領主羊欄の運搬費2d の支払を毎年記録 している また1 6 1 4年の牧師保有地台帳 , 。 は, 南固から西圃への7エイカの移転に関して次のように述べている。「前記2エイカは現在耕転さ 25.

(5) . 小. 松. 淑. 郎. れ て いる.(こ の 2 エイ カ が存 在 す る) 全フ ァ ー ロ ン グ が西 圃 に 併 合 さ れ た の で. しか し, か つ て は,. 記憶する限り では, 南圃の一部と して耕転されてきた」 . この2エイ カが存在するファ ーロング⑳は 地条に従 れる であろう. た耕作が看取さ 直営地の慣習的な開放 直営地 である. っ. 1 1 . 直営地経営 i tの 保 有 l l iot の 女 婿 Ra ph Chendu ク ク ス ハ ム 直 営 地 の 形 成 は, オ ク ス フ ォ ドシ ヤ 長 官 W副ter Fo. (1 234年)からは じまる. 後述するような自由農民の追放によるマナ体制の確立は, セント・オルバ ン ズ修道院長の破問宣告をも恐れぬラルフにしてはじめて可能 な政策 であっ たのかも知れな い. こ. l tone の 2 マ ナ と と も に ク ク ス ハ ム を 大 法 官 Wa ‐ の政策は, 嗣子スティ ヴンが Cheddington と1bs 64年に彼が建てた ter de Me t 268年) 後も引継がれる. ウォ ルタのこの購入は12 r onに 譲渡した (1 マ ー ト ン ・ カ レ ジ の 基 本 財 産 つく り の た め であ っ た. ク ク ス ハ ム の 上 級領 主 ウ ォ リ ン グフ ァ ド侯 で. もあっ たリチャ ー ド一世は 寵臣スティ ヴンの 彪大な借財の棒引を条件にこの譲渡を承認した. ウオ 271年, ククスハム・マナとその牧師叙任権を, マナ年収から彼自身に30ポン ド ルタは1 , 妹クリ ス チ ナ に 5 ポン ド, 妻 に 5 マ ル ク 支 払 う‐条 件 で, カ レ ジ に 譲 渡 す る.. rdenが7月 330年ま では, 刈取後のマナを訪ねて収 穫を計算した監督 Wa カレジのマナ経営は, 1 参事会開 その年以後は 会計検査する方式 で行われていたが, 末の年次全学 参事会に報告し, それを i ew of account す る 催と関係なく, カレジのフエロ ウが各マナを個別に1月から7月ま でに検査 v 方式に変っ た. カレジの監督やフエロ ウの訪問と検査を受けながらも日常のマナ経営を担当し決算書を作成する i f f(ba l l ivus) であ る. 前 者 は 農 奴 の な か か ら 選 ば れ, 後 l i i tus) か 庄 官 ba のは, 庄 屋 reeve(prepos. 者はマナ外から任命された. 後者は領主館に住んだと思われる. 〈ククスハムの庄 屋およ び庄官〉 1268年 2月 ~1276年 2 月. Rober t , 庄官. Richardl e B1 unt , 庄屋. 1276・ 2. ~1277・ 9. 1277・. 6. ~1279・ 3. 1279・ 3. ~. Rober t de Farendon, ?. 1288・ 9. ~1311・ I. 1311・ 1. ~1349・ 3. 1349・ 3. ~1349・ 4. Rober tBeneyt , 庄屋 ▲ Rober dman t ol , 庄屋 dman JohnsonofR.0l , 庄屋. ″. ・4. ~ 〃. ・6. ″ ・6. ~ 〃 ・7. ″ ・7. ~1850・ 7. 1350・ 7. ~1352・ 9. 1353・ ?. ~1354・ 7. 1354・ 9. ~1356・ 2. 1356・ 2. ~ 〃 ・夏. 〃 ・夏 〃 ・9 26. ~1359・ 9. John Hest , 庄屋. Thomas ate Gr ene , 庄官. Lecheforde , 臨時. Hugh ate Grene , 庄官. John Sibford , 庄官. l l iam de E1mden Wi , 庄官 Rober 屋 t Magote 庄 , l l iam, 庄 官 Wi John Turk , 臨時. l den Roger Poynauntde Hame , 庄官.

(6) . 農奴制マナの形成と崩壊. 彼らのうち,13世紀末から14世紀前葉にかけて22年間勤めたロ バート・ベニトとその後任と し て黒死病死ま で38年間勤めたロバート.オルドマンの 二人はその長い任期だけでも注目に値いする.. 特に後者は決算書および法廷記録によればククスハム最大の麦芽製造人 であると同時に, 3エイカ の自由保有地, 6エイカの農奴保有地を入手し2人の奉公人を抱え, 67頭の羊を有する富農であっ. inson は, ク ク スハ ム のロ バ ー ト ・ オ ル ドマ ン を 14 世 紀 た.チ ョ ー サ ー の 編 集 者 であ る F・ N ・Rob の 庄 屋 の 典 型 と して あ げて い る (Ha rveyp ,4) .65n . 黒死病による彼の 死後, マナは適当な庄屋を. 得ることができないこともあっ て貸出されてしまっ たとも云えるのである. 1。 穀物生産. ハーヴェイ 氏は直営地播種面積を決算書から第1表 のようにまとめた (Append i l) xl . ククスハ ム・マナ決算書は会計年度をミクルマス (9月 29 日) ではなく聖ジェイムズ祭 (7月 25 日) で区 切 っ て い る. した が っ て, 例 え ば1298-1299 の 決 算 書 に は, 小 麦 の 1298 年 秋 の収 穫 のう ち 1299年. { l 7月ま でに脱穀された量, 1 dg in, 297年の収穫のうち1 298年8月以降に脱穀された量 ( t o r a us ve. 8年冬の播種量, 春穀の1 29 r anum) 8年秋の全収穫量 (7月末ま でにすべて脱穀完了) 299 g , 129 ,1 年春の播種量が記録されることになる. 筆者は現実的収穫量とは刈取量(これは既に畑 で10分の1 税相当分を控除した量) ではなくて脱穀されて納 屋に収納された量と考える. 1 299年の収穫とは. 1 298年秋に刈取られ1 29 9年に脱穀された量である.ただし, 年度が7月 末で区切られるので小麦の ,「収 穫」 は 1298一1299 と 1299一1300 の 両 年 度 に 現 わ れ る こ とに な る. 春 穀 の そ れは 1298一1299 の. 単年度に しか現われない. 以上 のようなわけ で,,筆者は1 298一1 299の決算書を1 2 99年のものとし た.. 画然とした三圃制 が看てとれる. 空欄は休閑であり, その翌年の播種穀物は小麦である. いまひ とつの面積は大麦・燕麦・豆類の春穀合計 である. 13世紀と1 4世紀の数字が異なるのは面積縮小. の故ではない. 前者 では現実の地条を数える慣習エイカ が採用さ れているのに後者 では法定エイカ 第1表 直営地播種面積 (エイカ). 年. 91 皿o1 皿, 81m9 1 即o1 閑 弓 即21 即31 即41 即51 即 細 o m 蜘9. 北圃. 106寸. 南圃. 〔:〕. 年. 1313 r 1314. 89十. 南圃 西圃 年. 96. 116 106十. 西圃. 北圃. 119. 100. 87十. 南圃. 88を. 88. 西圃. 93★. 92才. 113. 112十 105十. 101十. 87十 111÷. 103十. 87. 111. 102十. 87十. 〔:〕. 61十. 82十 87. 93十. 94★. 87十 88十. 93十. 3 1 3 0-4 6 1347 1 1348 1 1349 1 1350 1 1351. 北圃. 93÷. 93÷. 85÷. 113十. 107÷. 105★. 86÷. 71÷. 87★ 80十. 93を. 1354 1 1355 87十. 87. 88寸. 93音. 102÷. 87 88十 92十. 備. 104. 1329 1328 1・. 88十. 93十. 1357 1 1358. 0 9. 85十. 102十. 13 16 1 1317 ー 1318 1 1319 1 1320 1 1321 1 1322 1 1323 1 1324 88. 103を. 94÷. 113. 111十. 103十. 112十 103÷. 83÷. 93十. 考. 〔:〕 1 34 2年8 6÷a (北圃). 〔:〕. 8 7t 96. 100. 27.

(7) . 小 松. 郎. 淑. 19年に起っ てい 20年, 西圃は13 31 8年, 南圃は13 に変化しているからである.この転換は,北圃は1 春穀耕圃のフ ァー るが,小麦の播種されたときに転換されたものであろう.多様な穀物が播種される ロン グを合計するという観念の獲得は, 単一 の小麦播種地に対するそれに比べ て容易 でなかっ たの かも知 れない. また商品作物たる小麦(種子用15%, 販売およ びカレジヘの引渡60%-マナ決算書. ixl l l) i ionessupe lsa l tum と す る こ と が あ る.Append ic iona t t rcompo es では 領 主 へ の引 渡 を f ,vend. の播種 量およ び面積は 生産性比較のために標準的基準を真先に 必要としたのかも知れない. この転換は小麦および大麦のエイカ当り播種量の変化としても表われている. 第2表. エイカ当り播種量 (ブッシェ ル). 年. 1316. 1317. 1318. 1319. 1320. 1321. 1322. 1323. 小麦( b ). 2t. 2を. 2÷. 2÷. 2÷. 2÷. 2÷. 2÷. 4. 4. b 大麦( ). 3÷. 4. 4. 4. 3. マナの穀物生産力は, エイカ当り収 穫量で比較することはできない. 既述のようにエイカが2種. 類 あ る し, 収 穫 量 の ブ ッ シ ェ ル も 多 様 な も の であ る か ら であ る. 例 え ば ク ク ス ハ ム では, ブ ッ シ ェ i inecumul l s) で計る と いう 方 ) で, 他 は す り切 り (s ル 粉 で 計る と き, 8耕めは山盛り ( cum cante. 4年決算書) 35 式がとられた. 結果として全体量の32分の1が実際量より 少なく なるわけ である(1 . lo 差 額 は 脱穀 労 働 者 の 取 分 と な っ て い た と 思 わ れる. し た が っ て 生 産 性 は 通 常 レ ス ポン シオ respons. l e W). ドレ ジ 収穫量/播種 量 で表現される. ハーヴェイ 氏はこれを表にまとめている (p .58Tab 0%を占めている.(P 0%, 50年代には5 340年代に 春穀圃の2 (d r edge大麦と燕麦の混合) は1 .50. l in ライ 麦 と 小 麦 の 混 合) 等 は ク ク ス ハ ム では 作 付 さ れて い な い. Tab l l l) ライ 麦, マ ス リ ン (mas el. 第3表は, ハー ヴェイ 氏の表に, ウィ ンチエ スタ司教頒38マナの 平均 (拙稿:領主直営生産の構 t b F P te ry 造 : 北教大紀要26- 1) , ,Fornce ,Devon(H.P.R.Finberg) ,ot ,oi氷ington,Cam・ s( . age). i t fo l k (F t) Nor s) .A.Laf .G.Devenpor , Ramsey (J. 以 上 何 れ も 鵜 川 馨 : イ ギリ ス 中 世 史 上 の -. 0-3.4所収表 -の諸マナの教字を付加 して作成した. ククスハムの非常に高い生 問題:社経史学3 産性が明らかである. ウインチエスタ領の平均 数字はミ ドラン ドから南部イ ングラン ドにかけて散 第3 表 マ. ナ. ク ク スハ ム. 不 明 氏. 年. 1289~1359. [ lc XD .. 小. 代 ・麦. 大. 麦. ド レ ジ. ウインチエスタ オーキントン. オツタリ. フオンセ ト. ラ ム ジ. 1300~1349 1271~1320 1335~1343 1290~1306 1324~1405. 6,. 5. 3,9. 5.0. 4.7. 5.0. 4.2. 5.8 4.4. 8. 4.8 -. -. 6. 3.7 -. -. 4.0 4,0. 4.3 -. 燕. 麦. 3.1. 4. 2.4. 2.6. 4.3. -. 1.7. 豆. 類. 4,8. 6. -. 4.3. -. -. 2.2. ク. 年代. 1290. 1300. 1310. 1320. 1330. 1340. 1350. ク 小 麦 ス 大 麦. 8,3 5.6. 7.8 5.8. 5.2 5.7. 6.3 6.0. 6.7 6.6. 5.2 4.8. 4.3 -. ハ ドレジ. 5.3 3,3 5,9. 5.1 5,2 6,3. 4.4 3.8. 4.9 4.1 5.4. 3.7. 3.8 3.3. 2.1 2.1. 4,0. -. ム 燕. 麦. 豆 類. 28. しスポンシオとその 比較. 6.7. 4.1 4.2.

(8) . 農奴制マナの形成と崩壊. 在する3 8マナの平均 であるが, 他は何れも高い生産性を もつマナの数 字である。 2。 家畜生産 ドゥ ム ズ ディ 9 ブ ク では ク ク ス ハ ム の 耕 地 は 4 カ ルカ と評 価 さ れて い る が,14 世 紀に は 3 台 の 塾. 6頭の牡牛と4頭の塾 馬が飼われている。 3台めの塾 が存在する。 これを牽引するために普通12一1 9年に降霜のため春耕 が遅れて2週間使用されてい はときどきしか使用されていない。 例えば130 1 屋所有 の2頭の馬, それに別の塾の4頭の牽馬である.131 る。これを牽いたのは2頭の馬車馬と庄 年 の 38 日間の使用のときは, 4牽馬十2馬車馬十1牡牛十1種牛の編成 である。 このように3台め は飽までも臨時のものであっ た.6牡牛十2塾馬の完全牽隊2組がククスハムの通常的装備 である。 l dp l tate) であ り, 決 算 書 に は 毎 年 新 しい 車 輪 の 購 入 が記 録 さ rucero なお, こ の 塗は whee ough(ca れて い る。. 2頭の馬車馬を含めて, 馬はすべて成馬を購入し使用に耐えなくなると売却したよう である. た i i l i 345年の決算書に qu a vetuset deb s で格 だし老化した馬車馬が牽馬に転用されることもあった。1. 下げしたとある。 牛もマナ で育成するよりは購入に頼っ ている, 第1表でわかるように残存する決 25 1本であるが, このなかの牡牛購入頭数は全部 で1 算書は5 , 幼牛からの振替は31 である。 牝牛の 放牧地の欠乏は大畜群 地図 でもわかるようなククスハムの 1 8である. 購入は4 ,幼牛からの振替は4 1 241年の証書には領主ラルフが隣村ピルトンの領主との間に結 の飼育を可能にしなかったのである。 0頭の牝牛, 1頭 んだ協定-刈取後のピルトン村の耕地へのククスハムの4頭の馬,12頭の牡牛,1 の種牛の放牧権-が載っ ている。14世紀の直営地の飼育頭数のマクシマムはこれ ぐらいであっ たと 思われる.. 27 289年の決算書には羊は 6年から1 00頭の羊の放牧権も認めている。 しかし1 1 241年の協定は2 現 わ れ な い。 1289 年 に は 2 3頭の牡羊と子を連 れた12頭の 牝羊の購入が載っ ている。 しかしまた. 1 303年から1 310年には3頭ないし 5 頭 に 減 少 して い る. 1335 年 に は 150 頭 に な る が, 58 頭 が病 死 50頭があらわ 353年に全部売却,1356年再び1 3 37年1 02頭購入さ れるが,1 し残りは売却された。1 れる。 中世マナに特徴的に存在する羊飼育がこのように 不安定なのは, ククスハムがその領域を最 大限ま で耕地化し穀物生産マナとして特化したことの結果に他ならない。 高い穀物生産性は土壌の. 自然的性質のみ ではなくこのよう なマナの構造によるものであろう。. 最大限の耕地化は放牧地のみならず牧草地およ び森林の不足・欠如をも生み出している. そのた. ing(Berks)か らま で木 材 を頻 繁 に dermaston や Read め 近 く の ピル トン やイ ブ ス ト ン は も と よ り A1 購 入す る こ とに な っ た。 ク ク ス ハ ム は 干 し 草 や 木 材, 石 材 の 購 入 を 通 じて, テ ム ズ河 と チ ル タ ー ン. 丘陵との間に展開する多数の小村落と緊密な経済的リンクに結ばれていたのである。 3。 労. 働. 力. ク ク ス ハ ム に は, 1 人 の自 由 農, 13 人 の 半 ヴァ ー ギタ, 9 人 の 小 屋 住, 2 人 の 水 車 番, 各1人の. l i(塗夫4 縮減工, 鍛治屋, 庄屋手代, ビール醸造人, 大工, 6人ないし9人の直営地奉公人f amu 人, 酪農場助手, 牛飼, 羊飼, 庭師, 馬車追, 各1人) が住ん でいたと思われる. この労働力構成 は直営地の拡大と共に1 3世紀に形成されたものである.このうち直営地経営に直接関係があるのは. 半ヴァーギタとファ ムルス である. まず半ヴァ ーギタの賦役を紹介する.(第4表) 0 日, 1人の農奴(庄屋といま1人が賦役免除) によっ て行われている。 1人ほぼ10 この賦役は1 29.

(9) . 小 松. 第4表 年. 淑. 郎. 週賦役とその価値 1333. 1331. 小麦刈取 春穀 〃. 51 W. 12s . 9d .. 51W. s . 9d . 12. 78. 13. 0. 63. 10. 6. 小麦脱穀. 242. 20. 2. 324. 27. 0. 春穀 〃 牧 草 刈. 150. 12. 6. 127. 10. 7. 33. 5. 6. 33. 5. 6. 肥料散布. 12. 1. 0. 牽. 耕. 21. 1. 9. 3. 把. 耕. 44. 3. 8. 50. 4. 2. 溝. 掘. 110. 9. 2. 100. 8. 4. 肥料運搬. 192. 24. 0. 80. 10. 0. 3. 搬. 30. 3. 9. 刈持除去. 200. 16. 8. 運. そ の 他 合. 計. 88才 1,021をW. 7. 35 10s i .10÷d. 2. 30÷. 4÷. 1,091を W. 呂5. ◆ 12s. 6★ ふd ◆. 日賦役 (溝掘り、 肥料散布、 脱穀) 、 ld~1÷.(秋) 馬車による運搬、 1÷d .~3d .(秋) 馬に よる 運搬. 1 ÷d .. 塾耕(札賦役)、 1÷d .. 牧草刈、. 2d .. (春殻) 3d 刈取 (サエイカ/日)、 2d .(小麦) .. その価値1 0÷s .の負担である. 金納化は殆んど行 われていない. 金納化賦役は僅かに5s .である. もっ ともこれは実際の価値の半額 であっ たらしく, 1 i 3 28年の決算書には検査官aud t rの値上げの o 努力 が記録されている. 半ヴァ ーギタ1人の負担は, この賦役の他に, 半ルー ドの牽耕と肥耕 (礼 賦 役) , ミ ク ル マ ス (9 / 29) の 種 子 用 小 麦 1 ク ォ ー タ, マ ル テ ィ ン マ ス (11 / 11) の÷ dり 1 ペ ッ. ク の 小 麦, 4 ブ ッ シ ェ ル の 燕 麦, 3 羽 の 雌 鶏, ク リ ス マ ス (12 / 24) の 1 羽 の雄 鶏 2 羽 の 雌 鶏 , ,. 2個 の パン または6d os .等と小屋住の小屋の修理維持, そして, 定額地代l .である. 直営地のフル・タイ ムの労働者はフ ァムルス である. 4人の牽夫の1人が奉公人頭f r o eman で, 牽耕はもとより, 播種からリン ゴ酒造りま で担当した 彼らの労働 は週5 日 と して 年 2 000日とな , . る であろう. 彼らの給与は領主屋敷内の小屋, 穀物10週ないし16週に つき1クオータ, 現金5s .な い し los . であ る.. 直営地にはこの他に パー ト・タイ マーが雇用される 豚飼のよう に現物賃金をうける者 脱穀人 . , , 除草人, 刈取人のように現金をうけ る者-決算書には 毎年 希2 から よ3の支出が載っ ている - 鍛 , 冶屋- 毎年 記1を受けとる -, 石屋, 大工, 瓦屋のような手工業者がそれ である 彼らはマナ外の . 人 間 であ る こ と の 方 が 多 い.. 小屋住は直 営地経営には直接に関係しない. 貨幣地代ls .2d .ないし4s .を支払う他は5日の干 草積と随時の羊欄移動の仕事を負う のみ である 宅地が Ma b k r r 川の北側と村の外れに在ること o o . か ら み る と 村 の 新 来 者 あ る い は 自 立 したフ ァ ム ル ス と 考 え る の が妥 当 であ ろ う ドゥ ム ズ ディ ・ ブ . 30.

(10) . 農奴制マナの形成と崩壊. ク は 4 人 の 奴 隷 に つ いて は 述 べ て い る が 小 屋 住 に つ いて 語 る と こ ろ は な い.. 以上 のよ うな 労働力 構 成を前 提に して他マ ナとそ の労働力 投 入率 を比較 して みる. Cr awl y. t )マナは穀作に関してはウインチエ スタ司教領マナの平均的存在 であり,その生産性はククス (Han s ハ ム に 比 して 遥 か に 低 い. こ の マ ナ の 作 付 面積 は, 13 世 紀 350エ イ カ, 14 世 紀 250エイ カ で あ る.. 00 日, 1,400日 であ る. フ ァ ム ルス は 6 人 と 8 人 であ る か ら, そ れ これに対し賦役はそれぞれ, 3 ,4 1 5 0 0 日 2 0 0 0 ぞれ , 00 日/ 350a 日である. これを合計すると, 労働投下率は4 ,お よ び 3,400 日 , , ,9. /2 50a . であ る. ク ロ オ リ ・ マ ,となる. (前掲拙稿参照) しかるにククスハムは3 ,000 日 / 170a ナはククスハムの8 0%弱しか投入していないことになる. なお, 賦役の内訳 で肥料関係は, ククス ハ ム 200 日 / 170a. クロ オ リ 186 日/3 5 4世紀) でそれぞれの総 50 3世紀) 4日/2 0a a .(1 .(1 , 17. 2% である. これに対し羊関係は, ククスハム無し, クロオリ370日 (13世 賦役の2 0%, 5 .5%, 1 1 ) 紀) 2 9 0日 ( 4世紀 で11%, 21% である. 1 , ,000頭の羊を飼う牧羊マナと穀作マナとの相違 であ ろう. 結果は生産性の相違としてあらわれるのである.. 1 1 1 . 農奴保有の成立と解体 1279 年 のハ ン ドレ ド・ ロ ー ル ズ は, ク ク ス ハ ム に,13 の 小 屋 住 保 有, 8 の半 ヴ ァ ー ギ ト 農 奴保 有,. Rob,Serviens の 9 エイ カ Rob a . te Grene の 3 エイ カ 3 ル ー ド付 屋 敷 が あ る と 述 べ て いる. と こ ろ ,. 22 27 9年の法廷記録の裏面に1 7年ないし43年頃のものと思われる証書の写しがあっ が, おなじ1 て, そのなかでは農民保有は9 (完全) ヴァーギトとなっ ている. この半減は如何にして行われた のか, これを検討する. 1 23 0年代と1 270年代の間に起っ た変化をあらわす一連の特許状が残っ ている.それによれば, か. ightwe l l tmere つ て は次の自由民が存 在 した の で あ る. す な わ ち, Rob.de Her . , Wat ,Thom,ofBr. l i io i l Fo l iottherector, Ed. CaPerun, Asc.de Pyr l iot ter ton r ・ l e Newman .l .Fo .de Ci ,Ric ,VV ,Reg ,. の9人である。 彼らはこの期間にそ の保有地 を領主に返還 しククスハムを 立去っ た. 例 外は Ed .. i Caperun であ る 彼 は f fe で 屋 敷, 年 金 5s rl o . . . , 靴 代 ls , 布 代 ls , 9 週 間 に つ き 小 麦 1 ク ォ ー タ, .. 2年につき衣服1着等を保障され村に残っ た.かくして直営地は少なくとも1 00エイカは増大した. 自由保有を削減し直営地を拡大総合する政策はマナの所有がカレジに移っ ても継続される. その 2 ための農奴的労働力の増加は次のような方法 で実現された.1 77年の決算書には6人の農奴保有者 が い る が, 78年 に は 7 人に な り, 79年 の ハ ン ドレ ド・ ロ ー ル ズ では 8 人 に な っ て い る. こ の 2個 の. 農奴的保有の創出は直営地の縮少によっ て行われたの ではない. 次の直営地播種量の推移をみても Rb l 明 ら か で あ る.(p,40Tab e l) . 自由保有の農奴保有への切替以外の方法はない. この政策は o, Se i r v ensの自 由保有の廃止で完成する. 彼の半ヴァーギトは農奴保有にされ, 残りの9エイカと屋 te Grene の 所有 と な る. グ レ ン こ そ ク ク スハ ム に 残 っ た唯 一 の 自 由 農 であ っ た. こ れ で 敷 は Rob.a. 10個の自由保有 が壊滅したわけである.. 農奴保有の創 出は自由保有の切 替のみによら ない. 12 90年から9 3年にかけて5人の新 しい半 第5表 直営地播種量 年. 1 2 7 7. 12 7 8. 127 9. 1 291. 小 麦. 33qI b ・4q 4 b 24q I b 26q. 春 穀. 54 3. 51 1. 55 6. 53 5. 1 2 92. 4 1 2 9. 12 95. b 26q 3 b 26q 4 b 31q 6 b 45 1. 37 8. 49. 0. 31.

(11) . 小 松. 淑. 郎. ines 26s ヴァ ーギタが現われる. 1291年の決算書の新保有税en tyf .8d .支 払 が 4 人 記 録 さ れ て い 5 る. 人めは見当 らないが9 3年に支 払っ たもの であろう. この保有の 出現は, 12 98年の賦役帳 lによれば, 新保有者の創出 ではない. t ーギト引受け uma 小屋住の半ヴ cus である ァ . . 今や彼らは, 小屋住本来の2s .ないし3s .の支払いと収穫期の6日仕事とを続けながら, 新たに農奴賦役をも遂. 行せねばならないの である. 彼らの屋敷は村の北西部の痩せたと ころ (地図の1-4と7) に設け ら れ た.. 以上のような農奴保有の創出は賦役総量の顕著な増加として結果した. 次の表はそれをあらわす.. l (Tab e 棚 から). 第6表. 年. 1277. 値. 1290. 818W. 賦 役 量 価. 賦役の増大 1294 1,223W. 792W. 宏4 8s .2d. 1299. 宏47s .1 ÷d .. 1,273W. 宏6 12s .10すd . .10÷d . 需617s. 農奴保有は1 3人になっ た.空いた小屋はファムルスその他によっ て埋められたであ ろ う.14世紀. iner が 見 え る ter 9 人 の ・屋 住 の名 前 に Dryver r rd ,Ca ,Ga .. マナは漸く完成した. しかし直ちにその崩壊がはじまる. ペストが1349年の冬と春にククスハム. を 襲 っ た. そ の 年 の 1月 に 元 気 であ っ た 12 人 の 農 奴 は 年 末 に は 1 人 と して 生 き て い な か っ た. 8 人. 35 の小 屋住のうち4人のみが1 2年まで生存した. 有能な庄屋, ロ バート・オル ドマンも家族ととも に 死 亡 した. 1352 年 に は, 13 の 半 ヴ ァ ー ギ ト の う ち 9 が無 主 の 地 と な っ た. カ レ ジ は 保 有 者 の 勧 誘. 355年までには新来者によっ て穴は埋められた. しかし事態はこれま での経営を許 に懸命になる. 1 さない. 一度高騰した賃金は仲々 元の水準に戻らない. ファムルスのそれは戻っ ても日 傭いのそれ は遂に戻らない よう である. 賦役の徴 収 も不可能 である. 有 能な庄 屋も 見つからずカレジは遂 に直接経営を諦らめねばならなかっ たよう である. 第7表. 賃. 金. 年. 1349. 1350. 1351. 1354. 1358. 賦 役 徴 収. 1,052÷ W. 205W. 25W. 43W. 55W. 8÷d 日 雇 支 払 需27s . .6をd . 宏12 12s. 牽 夫 給 与. 2s .. 7s .. 圭6 16s .4d . 1OS . 6d .. 需9 9 s .3d . 希7 11 s .4 ÷d 6s .6d .. 7s . .6d. i l (Tab x N か ら) e 孤立 と Append. (本学教授・札幌分校). 32.

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参照

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