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グレアム・グリーンの『掟なき道』の「プロローグ」について

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長野 大学紀要 第14巻 第1号 92-99頁 1992

グレアム・グリーンの『掟なき道』の「プロローグ」について

Graham Greene's The Lawless Roads: Reflections on the 'Prologue'

1 グ リー ンが1991年 4月 3日に亡 くな り、その小 説作品が出揃 ったい ま、 グリー ン研究は生涯の伝 記的な事実 を見透 した うえで、全作品を再検討す る時期 に入った といえ る.その課題の一つは、『内 なる人』 (TheMan Wl'thin,1929)の発表以来、 60年以上 にわたる永 い作家生活の途上で、40年代 末 までにほぼ完成 され た三人称による視点描写の 技法が、51年 に刊行 された 『情事 の終 り』(The End

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ftheAHair,1951)のなかで、なぜ一人称 による語 りに移行 したか とい う必然的な理由 と、 その技法の検討にあ る と筆者は考 える。 「中年 になると、作 家には もはや 自分の方法 を 思 い どお りに操 れ な くな る瞬 間 が訪 れ る もの だ1」とい うように、倦 怠期の始 まりを充分 に感 じ た グ リー ンが デ ィ ケ ンズ の 『大 い な る遺 産』 (G71eatExpectations,1860-61)か らヒン トを得 て、一人称の語 りを取 り入れたのは、それ までの 作者による注釈す る権 利 を棄 て、時間の流れを工 夫す るこ とによって、作者を主人公の陰へ埋没 さ せ るためだったのでは ないか。時間の処理 を貴大 の技法の一つ と考 えた グ リー ンがみずか ら、『情事 の終 り』の評価 を、「これは私 には時間の前後関係 の扱い方か ら生ず る退屈 さを避けるために巧みに 構成 されているように思われ る2」と記 しているか らである。本論では三つ 目の問題である 『情事 の 終 り』に見 られる一 人称の語 りの構造 を解 くヒン トとして、 この小説の語 り口とパ ラレルの関係に あるとい う見方か ら、 『提なき遺』(TheLawless Roads,1939)の70ロロー グの語 りを検証 してみた い。一人称の技法の鍵 は 自伝や 自伝的エ ッセイの 制作方法にあると考 え られるか らである。

Masaya lwasaki

2

パブ リック ・ス クール時代にグ リー ンの同級生 であったピー ター ・クウェネルは、「悲 しそ うなマ スク」 をつけた18世紀 イタリアの即興喜劇 に出て くるピエ ロとしての実在のグ リー ン と、エ ッセイ のなかに書かれた深刻 なグ リー ンとの違 いに着 目 し、書 くグ リー ンについて 「彼は、 自分 も読者 も 身の毛のよだつ思いがす るのをかな りお もしろが っていて、- 生徒 らしい軽快 なお もしろが り方 だが- こんなに非凡な技術 をもって引 き起す嫌 悪 と恐怖の感情 をなかば楽 しんでいるのではない か と思わないわけにはいかない3」と述べ る。 その 後、作者が

6

7

歳の ときに出版 した『自伝』(ASort

o

fLlfe,1971)について、書 くグ リー ンと書かれ るグ リー ンとの存在 を指摘 したイアン ・グレガ-は、両者の違いを作者による視線の選択の技法 と して検討す る。 グ リー ンは、 自伝が 自己の臨終 を 取 り扱 うこ とがで きない以上、「どんな結末 も悪 意的な

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ものにならざるをえない4」と い う。 したがって、『自伝』を自己の26歳か ら28歳 頃 までの3年間に味わった失意の時期 で閉 じたの も、「失敗 もまた一種 の死」だか らである. 『自伝

の前半 は、「追われ る」存在 として苦渋 に充 ちた バー カムステッ ド校の寮生時代 の体験か ら、後半 はジャーナ リス ト時代 と作家 として出発 したころ の体験か ら構成 されている。 自伝 の主人公である グレアムは、作者 グ リー ンの厳 しい選択の視線 を たえず浴びて、職業的な作家 として登場す る。 し か し、読者が知 りたい と思 う二児の父 としてのグ リー ン、カ トリックへの改宗の真の動機、妻 と子 との生活などの事柄 はほぼすべ て排除 されていて、 グ リー ンの制作力 をか きたてる 「幼年時代、倦怠、 反復的な失敗の意識」 な どのオブセ ッションの心 象風景ばか りが充満 しているのは、 自伝に作者 と - 9

(2)

2-しての注釈や選択の権利が行使 されているか らで ある。そのため グレガ-は、この 自伝 を"asortof fiction"と規定す る5。選択の視線による方法は『情 事の終 り』のなかで、一人称の語 り口によ り、充 分 に駆使 されているが、それ以前の、すでに、30 年代 に書かれた 自伝的な旅行記 『綻 な き道』(The LauJlessRoads,1939)のなかで示 され るO

恐怖 と魅力が充満 していた。 こっそ りと一時 間は逃 げていた。辺境の見張 りに気づかれない ように して後 ろを見わたせ る国境の向 う側 に立 った。 メンデルスゾー ンを鑑賞 しているはずだ ったのだが、代 りに クロッケー用の7-70の近 くに兎がが さが さ と草 を食んでいる音が聞 こえ た。 それは救 いの一時間だった。 また祈 りの一時 間で もあった。神 を強 く意識 した。時間が宙ぶ ら りんになって停止す る。音楽が空中に漂 った。 国境の向 う側の人ごみのなかへ入 らなければな らないが、 それ までは どんなことで も起 きるか もしれない。 どこに も必然性はなか った‥‥信 仰 は山を動かす くらいに大 きくなっていた‥‥ 大 きな建物 は暗闇のなかで揺 さぶ られた。 こん なふ うに信仰がや って きた- 形に とらわれず に、教義 も示 さずに、 クロッケーの芝生のあた りに存在 して、道の向 う側にある暴力や、残虐 さや、悪 と結 びついた もの として。私は地獄の 存在 を信 じたか ら天国の存在 を信 じるようにな った。 しか し、永いことはっきりと身近に描 く こ とがで きたのは地獄だけであった6。 この文章は

、「

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歳のころだった と思 う」とい う 書 き出 しで始 まるプロロー グの一部だが、学校 と 家庭の両方か ら逃げだ して、 クロッケーの芝生の 陰に潜んでいた ときの生徒 であるグ リー ンの意識 の うえに、一時間の うちに起 きた心象風景である かのように語 られている。そのため読者はこの語 り口と時間層の処理の仕方に幻惑 され る。 これは 前段の、家庭 と寮の両方の世界か ら逃 れて「国境

であるクロッケーの芝生に仔みなが ら悪の存在 を 認識す るグ リー ンの意識 と、後段の、神への信仰 を体験 した ときの意識の二種 を含むが、 この心象 風景 をどう解釈 したらよいか。 「追 われ る」存在 として悪 を意識す る当時の グ リー ンを知 るために伝記的な資料 としてこれ まで、 『オ ー ル ド・ス クー ル』(TIle Old School

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、『地図のない旅』JourneyWithoutMa

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、『掠 な き道』、『失 われた幼年 時代』(The LostChildhodandOtherEssays,1951)、『ェ ッ セイ集』(CollectedEssays,1969)、『自伝』、『逃走 の方法』 (WaysofEscape,1980)などの著作があ ったが、それ らの記事が互いに重複 しているのは、 『逃走の方法』によれば、「彼 らにだってプ ライバ シーの権利はある。 そ して、 自分のことを書 こう とすれば、必然的に彼 らをも巻 き添 えにす るこ と になるか ら7」であ り、 グ リー ンはなお も多 くの秘 密 を守 って きた。 ところが

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年に、 グ リー ン の承認 を経たノーマ ン ・シェ リーによる 『グレア ム ・グ リー ン伝』(TheLlfeof GraJwm Greene VolumeOne:1904-1939)が刊行 されたため に、 自伝のなかに書かれた作者の

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歳 までの履歴 はほぼすべ てが この伝記によって裏付け られ るこ とになった。 3 グ リー ンは 自伝のなかで、「狭い一つの場所にい る17人 ものグ リー ンの数 は、今 日で も人 口の比率 か らい うとひ ど く高いように思われ、 また休暇の ときになるとその人数 は100人の四分 の-近 くに なるこ とがあった8」と記 しているが、 このグ リー ン一族 の繁栄 の始 ま りは、曾祖 父のベ ンジャ ミ ン ・グ リー ンがいまもグ リー ン一族が所有権 をも つベ リー ・セン ト・エ ドマンズ市にあ るウエス ト ゲイ ト通 りの土地で 「グ リー ン ・キング」 ビー ル 会社 を設立 し、後にセン ト・キッツ島で広大な砂 糖農園を購入 した ときに遡 る。次の祖父のウイ リ アムの世代は、 ビール会社経営 と農園所有のほか に、船舶運送業、 ロン ドンの金融業に進 出 し、 さ らに父親の世代 は、財産 の うえに社会的 な名声 と 知性 を獲得す る9。その結果、ブラジルの コー ヒー 農 園で財 を成 した父の弟のエ ドワー ド ・グ リー ン 家が金持 ちのグ リー ン、父の一家がイ ンテ リの グ リー ン と呼ばれ るようになる。 グ リー ンの父チャールズ ・- ン リー ・グ リー ン は またい とこのメア リアン ・レイモン ド・グ リー ン と結婚 し、 4男2女 を儲ける。モ リー ・ハ-バ

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94 長野大学紀要 第14巻第1号 1992 - ト、 レイモン ド、 グレアム、 ヒュ一、エ リザベ ス と続 くのだが、 グレアムは

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男 として

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日、 ロン ドンの北西

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マ イルの所にある--フォー ドシャー州 のバー カムステッ ドの町に生れ る。父は当時、創立以来

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年の歴史をもつバー カ ムステッ ド、・スクールのセン ト ジョン寮に寮監 として家族 とともに住んでいた。 6歳の時に父が 校長に昇進 したので、一家は校長公舎に移 るが、

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3

歳の とき、 グ リー ンは寮生 として再 びセン ト・ ジョン寮のなかで暮 らし始め る。 まず6人の兄弟姉妹の年齢差 はどの くらいあ る かo シェ リーの 『グレアム ・グ リー ン伝』 と トレ ー シーの ヒュ一 ・グ リー ン伝 である Fさまざまな 人

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か ら6人の年 齢 を示す記事 を引用す ると、 (1) モ リー。「姉のモ リーはグ リー ンが生れた とき

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歳だった10」。

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--バー ト

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年のイースターの最 中、--バー トの11歳の誕生 日に際 して、一家はサセ ックス州 の海岸にあるポグナ一 ・リー ジス近 く の リトル- ンプ トンとい う海岸保養地 で しば ら くの問過 した

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」。

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レイモン ド

「‥.しか しグレアムよ り

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歳年 上 であるレイモン ドは名声の頂点に辿 り着 こう としていた12」。

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グレアム

。「

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日付の『バー カムス テ ッ ド・ガゼ ッ ト・アン ド・- ミル ・-ムステ ッ ド・オブザーバー」紙は次のニュースを伝 え た

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0月2日、バーカムステッ ドのセン ト・ジ ョン寮でチャールズ

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・グ リー ンの妻に息子 が誕生13』」。 (5) ヒュ一。「ヒュ一 ・チャール トン ・グ リー ンは

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日夕方

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分過 ぎに生 れた14」。

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エ リザベ ス

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日、日曜 日、ジェ イ ム ズ ・ウ ィ ル ソ ン は 日記 に 書 く。‥. (中 略)‥.エ リザベ ス ・グ リー ンは 当時

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歳 だ っ た

1

5

以上の記事 を照合す ると6人の年齢差は次の よ うに決定 され る。 モ リー と--バー トは7 歳、--バー トとレイモン ドは3歳、 レイモン ドとグレ アムは3歳、 グレアム とヒユーは6歳、 ヒュ- と エ リザベ スは

4

歳、エ リザベ ス とモ リーは

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歳の 差がある。 グレアム を基準にす ると、 レイモン ド が

3

歳上、--バー ド

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歳上、モ ))-が

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歳上、 逆に ヒュ-が6歳下、エ リザベ スが

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歳下であ る。

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年生れの父チャールズ ・グ リー ンは

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年 に セン ト・ジョン寮の寮監になったが

、 2

年後に副 校長 を務め、 また

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11年か ら

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年 までの

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年 間 校長 を務めた。 したが ってグレアム ・グ リー ンは 生れてか ら

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年 オ ックスフォー ド大学に入学す るまでの17年間 を、バー カムステ ッ ド校地内で過 したことになる。 グ リー ンは 自伝 のなかで生涯の 最初の記憶 を二つ次のように記す。 私の最初の記録は、丘の頂で乳母車のなかに 坐 っていて、足下 に死んだ犬が一匹いるとい う ことである16。 これは馬車か なにかに控かれたモ リーの飼 って いたペ キニー ズを付 き添いの乳母が グレアムの足 下に置いて運んだ ときの風景 である。 グ リー ンは ここではなんの感情 も交 えずに事実 として述べ て いるに過 ぎない。 またこの体験 を『地図のない旅』 のなかでは、「この光景 になんの感情 も起 らなか っ たo それは一つの事実 に過 ぎない0人生のその時 期 には、驚 くほ どの客観性 をもつ ものだ17」とい う ように客観的に回想 しているが、果た してなんの 感情 もなか ったのか。 これは大人になった作者の 理性的な語 り口だ と考 えられ る。 なぜ なら、それ か ら数 カ月後 グ リー ンは"Poordog"と言って母 親 をびっ くりさせ たか らである。 しか もそれはグ リー ンが初めて喋 った言葉だ とい うのだ18。 グ リー ンが見 た二つ 目の死の光景は、ある男が 喉 を切 って 自殺 を図 る場面である。 グ リー ンはこ の記憶 をエ ッセイのなかで3回にわたって書 き留 め る。-回 目は 『地図のない旅』のなかで、「もう 一つの事実 は、運河の橋の近 くの家か らとびだ し て隣の家へ走 りこんだ男のことだ。男は手にナ イ フをもっていた。人々は叫び声 をあげて男 を追 い かけた。男は 自殺 したが っていたのだ19」 と記す。 二回 目の 『捷 な き道』のなかでは、作者は、「私 は 運河のそばに傾 いた小 さな救貧院があるのを憶 え ている。その一軒に男が狂ったように駆けこんだ のだ。私 は乳母 と一緒にいた。男はなにかに怒っ ているようだった。男は近所の人たちか ら逃げだ - 94

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-せ れば、ナ イフで喉 を切 ろ うとしていた20」 と書 く。三 回 目の 自伝の冒頭では、「小 さな家が並 んで いるそのなかの一軒に人だか りが していて、一人 の男が群 をとびだ し、家のなか-駆けこんだ。そ の 男 が喉 を切 ろ う として い るの だ と教 え られ た

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」 と述べ るが、二回 目までの記事 と異なる点 は、周囲の人々はだれ も男のあ とを追わず、成 り 行 きを見ていたことである。 したが って男が 自殺 を果 た した とい う記事は 自伝 を書 くために兄 レイ モン ドか ら聞いたこ ととして脚注に記 され る。 シ ェ リーは当時の 「バー カムステッ ド・ガゼ ッ ト

紙 を探 したが、その記事 は見当 らなかった という。 この二度にわたる 「死」の発見の体験は、 グ リー ンのオブセ ッションとなった とい う点で注 削 二倍 す るだけでな く、作者が 自伝の冒頭 を 「死」の発 見で始めたことは私たちが 自伝 を貫 く制作意図を 知 るうえで きわめて暗示的である。 なぜ なら 『自 伝』 に流れ る生の在 り方 を探 ることが、幼年時代 におけ る作者の現実認識の構造 とその反映である 小説作品に表れるさまざまな死の風景 を解 くヒン トになるか らである。 グ リー ン家の子 どもたちはエ ドワー ド朝の中流 階級の生活様式に基づ き、乳母主導型の一 日を過 す。朝、子 ども部屋で朝食 をとってか ら、そこに いて、午後11時頃、階下-下 りて母親 と一緒に過 す。昼 食は子 ども部屋で とり、午後、乳母や子守 と一緒に散歩に出る。お茶の時間は子 ども部屋に 乳母 といる。 その後、応接室で母か ら本 を読んで もらう。夕食、就寝。 父は校長 を務めていて、母は乳母 を含む6人の 使用人の監督 をしなければならなかったため、子 どもたちは必然的に両親か らはなれて、大部分の 時間 を乳母 たちと過 さなければならなかった。 し か し

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歳の ときセン ト・ジ ョン寮に入 るまでは、 グ リー ンに とってこの生活は少な くとも孤独感で な く、仲間意識 と愛情 を植 えつけた。 グ リー ンは 公舎 内の子 ども部屋 を 「石造 りの教会 と古い墓地 を見渡せ る乱雑 な大 きな部屋で、玩具戸棚や本棚、 意地悪 な 目つ きをした大 きな揺 り木馬、それに鉄 のス トーブ囲いのそばには乳母のための居心地の よい大 きな藤椅子があった22」 と回想す る。 生涯にわた りオブセ ッションの一つになる恐怖 も公舎の生活か ら生れた。 グ リー ンは鳥や コウモ リにたいす る恐怖感 を母か ら受け継 いだため、大 人になって も羽毛の感触が嫌いで、 コウモ リは恐 怖の対象だった。後にイン ドシナ戦争 を取材 した ときの回顧 として、 コウモ リを見 るよ りもヴェ ト ミンの奇襲の方が ましだった23と記すOグ リー ン は夜寝 るときにお気に入 りのテディ ・ベ アなどの 動物 たちの縫 い ぐるみ をベ ッ ドに持 ちこんだ。そ のなかに嫌 いなビロー ドの烏が入 っていたのは、 「ベ ッ ドをいっぱいに.す るためだけだった」か ら だ とい う。雇 る時間になると、火事 にたいす る恐 怖感 と家族か ら見棄て られた とい う孤独感か ら、 グ リー ンはテディ ・ベアを床に放 り出 し、乳母 に 拾 って くれ と叫び、乳母がや って くると、安心 し て眠 ることができた。 シェ リーは子 ども部屋の孤 独感が 「地下室」(

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のなかにモチーフ として再現 されているとい う。 ペ インズ とエ ミ-がフィ リップ少年 をベ ッ ドまで 送 りとどけた後、「ドアの開 く音、時計が鳴 る書や 長いこ と彼 らの話す声が聞こえた。 それで彼 らが 遠 くにいないので自分が安全 だ と感 じた

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」。 また グ リー ンは魔女に襲われ る悪夢 を見 るよう になったのは7歳になってか らだ と記すが、 シェ リー に よると、その悪夢はグ ))- ンの想像力の産 物 ではな く、「快適 さは現実ではない。現実 は恐怖 に充 ちた出来事だ。ベ ッ ドに行 く途 中にある階段、 踊 り場 にあるなに も入っていない食器棚、 白い膨 らんだ手 と肉づ さの よい顔 をした魔女25」であ り、 それが 「地下室」に再現 されているのだ とい う。 グ リー ンの鳥にたいす る恐怖感は、「パー ティの終 り

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の なかで、 隠れん坊 を始め るときに、双子の兄の ピー ターが、 「大 きな鳥が巽 を拡 げて弟 の頭の うえ に影 を落 す」 の を意識 をす ることろにモチー フ として再生 され る。 国境の隠境 としてのラシャ張 りの ドアの原型は、 6歳の ときに一家が移 り住んだ公舎 のなかにあ り、 私邸 と校舎 を隔てているが、 グ リー ンは 「国境

を次の ように記す。 校舎は父の書斎の向 うにある緑色の ラシャ張 りの ドアを通 り過 ぎた ところか ら始 まる。廊下 は休 日には私たちが遊ぶ ことがで きる古いホー ルに通 じ、 もう一方の廊下は寮母の部 屋のテラ

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96 長野大学紀要 第14巻第1号 1992 スへ と続いていた26。 『自伝』に示 されたラシャ張 りの ドアについて の記事 は作者の冷静な理性によってなんの感情 を も含めずに語 られ る。 しか し

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年前に書かれた 『提 なき道』のプロロー グでは、家庭にたい して は愛情 を、学校にたい しては烈 しい憎 しみの気持 をこめなが ら幼年期 の心象風景が語 られ る。 父の書斎のわ きの廊下にある緑色のラシャ張 りの ドアを開け ると、紛 らわ しいほ どよ く似 た 別の廊下に出る。 それに もかかわ らず、そこは 異国の土地なのだ。寮母の部屋か らヨー ドチン キの、更衣室か ら蒸 しタオルの、あちらこちら か らインクのかすかな匂いが していた。再び ド アを背に して閉め ると、世界は違 った匂いが し た。書物 と果物 とオーデ コロンの匂い。私 は両 方の国の住人だった。土曜 と日曜の午後にはラ シャ張 りの ドアの片方の住人であ り、平 日は も う一方の住人だった。国境の うえで暮 らしてい ると不安 でない とい うことがあるだろ うか27。 一方、 ヒュ一 ・グ リー ンの伝記作者の トレー シ ーはラシャ張 りの ドアを次のように記す。 校長公舎 自体は二つの区画に別れていた。私 邸側では ヒュ-や兄弟姉妹が両親 と暮 らしてい て、両親の愛情が どちらか といえはば遠 まわ し で、 ときどきサディスティックになるメイ ドが いたに もかかわらず、少 しは満足 を味わ うこと ができたO-階のチャールズ ・グ リー ンの書斎 を越 えて、狭 くて天井が低 く暗い石の廊下の端 にある緑のラシャ張 りの ドアは両方の世界 を隔 て る国境地帯であった。 ヒュ-は ドアの私邸側 にいるときはほぼ安心 してい られたが、そこを 通過す るといつ も、その気分がす り抜けて嫌悪 を感 じた り憂欝になった りした28。 この文章の 「ヒュ

-

」 を 「グレアム」に置 き換 えれば、 そのまま公舎のなかにはグ リー ンの幼年 を形成す る生 と死の世界が現れ る。国境に仔んで 二重意識に苛 まされ るグ リー ンの心象風景は、公 舎 に住んでいた6歳か ら13歳の間の意識なのか、 それ とも13歳以後の意識だろうか

。 6

歳の ときの 公舎の記憶 は 『自伝』に、「最 も印象的な新 しいこ とは、表の通 りか ら玄関 まで長い小道があ り、右 手に赤煉瓦のチュ- ダー様式の講堂があ り、左手 には、花壇 を隔てて、古い使 われていない墓地が あったこ とだ29」と記 されているよ うに、たんなる 見取図 としての外観の記述に過 ぎない。 グ リー ン が 「追われ る」を意識 したのは13歳 の ときセン ト・ ジ ョン寮に入ってか らである。マ リー -フランソ ワ- ズ ・アラン との対談のなかで

、「

『分裂 した忠 誠心』が現れたのは少年期 と青年期 の問ですが、 それ以前は どうだったのですか」 と尋ね られて、 「幸福 な状態だよ。少年時代 は13歳 までは きわめ て平穏 だった。家庭か ら寮-送 り出 され るまでは ね30」 と答 える。1 4 グ リー ンと両親の疎遠 な関係の原因は、子 ども たちが一 日の大半 を両親か ら離れて、乳母 たちと ともに過す とい う当時の生活様式 にあったが、 シ ェ リーは 「それは愛情の欠如か ら くるとい うより は性格の違いか ら生 じたように思 われる」 と言い、 その ような父 と母に挟 まれて、 グ リー ン自身の消 極 さと内面の問題 を伝 えられない無能力 さとが結 果 として危機 を惹 き起す こ とにな った31と指摘す る。 かつて- ノイのイギ リス領事 を務 めた トレヴァ 一 ・ウィルソンは晩年のメア リア ン ・グ リー ンを 訪ねた ときの憶 い出を、「彼女は当時

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歳代になっ ていたに違 いない。たいへん美 しい人だった。 グ レアムについては大事 なことを言 った。彼女は静 かに 『グレアムの面倒 を見て くだ さい』 と言った よ」 と語 り、 グ リー ンにたいす るメア リアンの愛 情が変 らないことを伝 える32。一方、父親のグ リー ンにたいす る愛情は母親以上に距経 を感 じさせ た。 グレアムの意識は父の愛情にたい しむ しろ逃避感 情 を抱 き、父か ら褒め られ ると、「す ぐに手近にあ るテーブルの下に もぐりこんだ33」とい う。校長の チャールズ ・グ リー ンは生徒 たちか ら近づ きがた い と思われていて、 クロー ド・コックバー ンによ ると、校長のお気に入 りの言葉は

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ど った とい う34。 また

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Sス タニエ は次のエ ピソー ドを記憶 していた。一般の生徒 たちは9時に寝 る - 96

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-ことになっていたが、監督生 たちはあ と一時間起 きていることを許 されていた。チャールズ ・グ リ ー ンは監督生が この時問 を予習に使 うことを期待 していたので、ある日用事で監督生 を呼んだ とき、 風 呂に入っていたの を知 って、驚いて、「きみは風 呂に入 るために 自分の義務 を棄 てるつ もりかね」 と皆の前で尋ねた とい う35。 グ リーン自身は校長 としての父にたい しては尊 敬の気持 を抱 き、「私が父である校長の業績 を褒め るのは家族への誇 りか らではない。父は賞賛に値 す るほ ど進歩的 な校長 であ り、在職期間の晩年ほ ど進歩的であった時期 はない。進歩的な学校でい まで も大胆な新制度 と思 われている大部分の改革 が 当時 のバ ー カム ス テ ッ ドで うま く実 行 され た36」と記 し、また、親 としての父について も、結 婚 して子 どもを もった ときに初めて埋れた愛 と悲 しみ を意識 した と述べ ている。 しか しこれ らは ど ちらも寮生活の恐怖 によって惹 き起 された自我の 分裂 を克服で きるようになった成人後の グ リー ン による理性的 な解説である。

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年、 ジュニアー ・スクールに入学 してか ら、 グ リー ンは学校生活に不適応の反応 を示す。それ は体育や軍事教練 とい う規律 を強いられ る場面で ある。 まず グ リー ンは体育の女性教師に、病気だ と偽 って授業 を休む。11歳になると、食事 を子 ど も部屋ではな く大人たち と一緒に食堂で とるこ と になる。朝食後は全校礼拝のためチャペル-行 く ことになっていたけれ ども、一人だけで中庭 にい た。 『自伝』によると、学期の最後の 日までず る休 み をした と記すが、ヴィヴィアン宛ての手紙では

2

週間だった37とい う。ある日、校長が息子の担任 か らグレアムの病状は どうか と聞かれた ときにグ リー ンの仮病が発覚 した。そのためグ リー ンは父 か ら杖 で打たれた38。 セン ト・ジョン寮生活の不潔 さと残酷 さ- こ れが グ リー ンの知覚 した悪の心象風景 だが、『自 伝』では次のように記 されている。 私 は文明 をあ とに し、奇妙 な慣習 と説明のつ かない残酷 さのある未開の国に入 りこんだのだ。 そこでは私 は異邦人であ り、容疑者だった。不 審 な共犯者がいることが知れわたっている文字 どお りの追われる生 き物だった。父は校長では ないか。私は占領下にある国の クィス リングの 息子の ような ものだった390 校長である父 と寮長 を務め る兄 レイモ ン ドに代 表 され る体制側 と、それに対抗す るい とこのベ ン を含む生徒 たちの反体制側の間にあって、 グ リー ンの意識がそれぞれの体制への二種類の忠誠心に 引 き裂かれた とい うことをこの文章は示 してい る。 これにたいしシェ リーは、「グ リー ンが置かれた境 遇 を記すのに使 った感情表記 を示す言葉 を正 当化 す る ものはほ とん ど見当 らない」 と前置 きして、 次の ように反論す る。 た しかにグ リー ンは校長の 息子 だが、公舎 と寮の距柾はわずか しか な く、兄 レイモン ドや、い とこのベ ンや トゥ- ター も同 じ 寮生 であ り、人格形成に傷痕 を残 さないで卒業 し たこ とを考 えると、 グ リー ンの生活態度の衰弱 と 寮での苛めの記事 は重要 ではない40とい う。その あ とシェ リーは本論の冒頭に引用 した、 グリー ン が クロッケーの芝生に潜む ときの心象風景 を取 り 上げて、 この記憶 は誇張ではないが、その表現 に 注意 しなければならない と述べ たあとで、 グ リー ンは カルチャー ・シ ョックを受 けたの だ41とい う。 グ リー ンは、アランとの対談で、プ ライバ シー のない寮生活につ いて、「あれは 『脅威』だった。 いつ もプ ライバ シーが必要だった と思 う。乱雑 さ、 孤独が少 しもない状態、- 脅威だったよ42」と述 べているが、 グ リー ンを知 る卒業生たちはグ リー ンについて次のように言 う。サー ・セ シル ・バ ロ ッ トは、 グ リー ンは とくに適応力に欠 けていた43 とい う。

R.

Sス タニエは、生徒 たちがグ リー ンをか らか ったのはそのおか しな発声の仕方 にあ り、 ま た、集団競技には参加 しなかったので、当然、苛 め られたことを証言す る。 また

.

B

.

ウィル ソン は、寮長 を務め、 ラクビ一 ・チームに属 していた 兄の レイモン ドは万事 に完聖だったの で、生徒 に 尊敬 されたが、 グレアムは どこに も見 当 らなか っ た45と言 う。 グ リー ンは苛め られたこ とについて、 『自伝』のなかで、「子 どもたちはひど く残酷にな れ るものだが、私 にはなんの肉体的な拷問 も加 え られなかった」 と善 くが、『提なき道』 では逆 に、 初めは肉体的な苛めがあったこ とを示 唆す る。 コリファックスがいて、 コンパスで拷問 を加

(7)

98 長野大学紀要 第14巻 第1号 1992 えた。三重に くびれ たいかめ しい顎 を して汚れ たガウンを着 て、一種 の悪魔 に取 り惑かれたよ うな好色 さを感 じさせ るクラン ドン先生、 これ らの高 い所か ら悪 がパー ロウの方-下 りて きた。 彼の机 には くだ らない写真一一一芸術写真の広告 がいっぱい入 って いた46。 コ リファックス、 クラン ドン、パー ロウの三 人 はだれか.仮名 と実名 の関係 を考証 したシェ リー に よれば、 グ リー ンの最初の小説`AnthonySant' (オ ックスフォー ド大学生の ときに書かれ、のち に`ProloguetoPilgrimage'と改題)のなかに、女 の裸 の写真 を収集す るPorterが登場 す る。 さ ら に 『英国が私 をつ くった』(England Made Me

,

1935)には女の胸 と太 腿 の写真 を眺め るGullieが 現れ る。シェ リーはGullieがアマチュアの船舶画 家であるこ とに ヒン トを得て、 グ リー ン と同 じ頃 にセ ン ト ・ジョン寮 にHensloweとい うアマチュ アの航空機 の画家が監督生 を務めてい るこ とを探 り出 し、同 じ韻 を もつ こ とか ら、HensloweがPar -lowの実名 だ47とい う。 また三重顎のCrandenは、 32年後に発表の 『自伝 』のなかでDr.Simpsonと い う実名 で登場 す る。 コ リフ ァ ッ クスの実 名 は Carterで48、Wh eelerを部下に して二人が グ リー ンを脅すのだoF自伝 』刊 行の ときWh eelerは まだ 健在 だったので、Watsonとい う仮名 で記 され て い る。Carterはグ リー ンの二つの忠誠心の葛藤 を 巧 みに利用 して、体制側 を裏切 るよ うに働 きかけ るが、 グ リー ンよ りわずか数 カ月年上 であ るに過 ぎない。LionelArthurCarterは1904年5月12日 に生れ、1971年5月17日に死去。

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この ように して精神 的 な拷問に対抗 で きずに、 グ リー ンは 自殺 を図 る とともに、学校 と家庭の両 方か ら逃避行 を くり返す。 この逃避行 の体験が本 論の 冒頭 に引用 した クロ ッケーの芝生 に仔 む グ リ ー ンの心象風景 として記 され るのだが、 シェ リー が この 日を1920年12月14日だ と突 きとめ たために、 時間の重層性 は次の よ うに理解す るこ とがで きる だろ う。文章の前半 には、16歳の グ リー ンが クロ ー ツケ-の芝地 に庁 み なが ら寮生活での悪 の存在 を認識す る時間が流れ る。後半 には21歳の とき、 カ トリックに改宗 して以来、30歳 の ときの リベ リ ア行 きの途上 で 「生」への救 い を回復す るまでの 10年 にわた るさまざまな 「死」の体験 を回想す る 時間 と、 リベ リアで再生 を知覚 した ときの二種 の 時間が交錯す る。 したが って、 冒頭 の告 白を した のは16歳の グ リー ンの意識ではな く、35歳の グ リ ー ンに よる選択 の視 線である。つ ま り16歳の 「追 われ る」意識は、 その後の19年 にわた る認識の変 化 を示す フィル ター を とお して、致 いに達 した39 歳の作者の告 白であ るかの よ うに語 られてい る。 この よ うに して作者 の Ⅰは書かれ る

`

Ⅰ'

の陰 に埋 没す る。 註 1 Graham Greene,Ways of Escape (London: BodleyHead,1980),p.134. 2 Ibid.,p.136.

3 PeterQuennel,TheSignoftheFish(London: Collins,1960),p.62.

4 Graham Greene,A Sortof Llfe (London: BodleyHead,1971),p.9.

5 Ian Gregor,'A SortofFiction',New Black -fy7'aYS,53(March1972),pp.120-124.

6 Graham Greene,TheLawlessRoads(1939; London:BodleyHead,1978),pp.2-3.

7 Greene,WaysEscaz)e,p.9. 8 Greene,A SortofLlfe,pp.14115.

9 MichaelTracer,A Van'e& ofLives(London: BodleyHead,1983),pp.3-4.

10 Norm anSherry,7TheLifeof G71aham Gyleene VblumeOne15m-1939(London:JonathanCape, 1989),p.10. ll Ibid.,p-14. 12Ibid.,p-396. 13Ibid.,p.3. 14 Tracey,A Vayieか ofLives,p.5. 15 Sherry,TheLlfeofGraham Gyleene,p.60. 16 Greene,A Sortoflife,p.15. 17 GrahamGreene,Joum

WithoutMaps(1936; London:BodleyHead,1978),p.30.

18 Greene,A SortofLife,p.15. 19 Greene,Joum町 Iyl'thoutMaps,p.30. 20 Greene,TheLou)lessRoads,p.4. - 98

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-21 Greene,A So71Life,p.16. 34 Sherry,TheLifeofGraham G71eene,p.40. 22Zbid"p.17. 35 Ibid"p.40.

23 Zbid_,p-29. 36 Graham Greene,ed.,TheOldSchool(London: 24 Graham Greene,Collected Ston'es(London: JonathanCape,1934),p.248.

BodleyHead,1972),p.476. 37 Sherry,TheLlfeofGraham Gyleene,p.55. 25 Sherry,TheLifeofGylaham Greene,p.12. 38 Greene,A SortofLlfe,p.68.

26 Greene,A SortofLife,pp-60-61. 39 Ibid"p.72.

27 Greene,TheLawlessRoadk,pp.1-2. 40 Sherry,TheLifeofGylaham Greene,p-66. 28 Thracey,A VarietyofLives,pp.819. 41 Zbid.,p.68.

29 Greene,A So71ofLlfe,p.42.

30 Marie-FrancoiseAllian,ed.,TheOtherMan Conve7Sations Wl'th Graham G71eene(London: BodleyHead,1983),p.30.

31 Sherry,TheLlfeofGyalham Greene,p.37.

32 Zbid.,p.37. 33 Greene,A SortofLife,p.23. 42 Allain,TheOtherMan,p.34. 43 Sherry,TheLifeofGTlaham Greene,p.69. 44 Ibid"p.70. 45 Ibid.,p.70. 46 Green,TheLawlessRoads,p.2.

47 Sherry,TheLifeofGy7aham Gyleene,p.73.

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