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ウィリアム・フォークナーの創造の進化 : フロイド・コリンズの死からミンク・スノーブスの大地へ

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(1)

ウィリアム・フォークナーの創造の進化 : フロイ

ド・コリンズの死からミンク・スノーブスの大地へ

著者

小山 敏夫

雑誌名

商学論究

57

2

ページ

1-19

発行年

2009-09-10

URL

http://hdl.handle.net/10236/4106

(2)

はじめに

フォークナーはスノープス三部作の最後の作品『館』を出版 (1959年3月) する際に、主として三部作相互の時系列上の矛盾や不一致をランダム・ハウ ス社のアルフレッド・アースキンたちに指摘されて、ある程度の整合性には 応える。しかし最終的には一貫した修正を施さず、冒頭に断り書き的な序文 を付けて辻褄を合わせるが、その中で、 この本は、1925年に着想して書き始めた作品の最終章であり総括である。 筆者は、その作品全体が生きた文学の一部であると信じたいし、そう望 む。そして、「生きている」ことは動いていること、「動いていること」 は変化であり手直しであり、その動きに代わりうる唯一のものは、不動、 静止、死でしかない。従ってこの一つ一つの記録は34年間の進化なのだ から、不一致や矛盾が生じているのである。この注を付けた目的は、読 者に、筆者が読者よりも多くの不一致や矛盾を見つけており、それは筆 者が、34年前よりも人間の心やその葛藤をさらに学んだということ、さ らに、その長きに亘ってこれらの人間の葛藤と一緒に過ごした結果、34 年前以上に人間の性格を多く学んだということを言っておきたいがため である。1)

− 1 −

ウィリアム・フォークナーの創造の進化

フロイド・コリンズの死からミンク・スノープスの大地へ

(3)

と述べている。フォークナーが言及している、1925年に書こうとしていた作 品は、スノープス三部作の原型となった未完の『ファーザー・アブラハム』 であり、その着想は、フォークナーがニューオリンズで出会う直前にアンダ ソンが書こうとしていた、リンカーンの自伝「父アブラハム」の可能性があ る。2) また『館』の注釈でフォークナーが言及している34年とは、『ファーザ ー・アブラハム』と1959年の『館』までの長い創作期間を指しており、『館』 はその総決算とも言える作品であった。 一方未完の『ファーザー・アブラハム』には、後のスノープス三部作の原 型的な人物や背景が描かれてはいるが、フォークナーがニューオリンズでの 韻文から散文へ移行しようとした時期の試行的な作品であり、当然のことな がら後の作品の物語、人物、あるいはテーマが定まっているわけではない。 すなわち、34年間という三部作の完成までには実にさまざまな創作の変容過 程があり、さらにこの『ファーザー・アブラハム』以外にも端緒的な原型が 多くあったと考えられる。そしてその萌芽的、あるいは端緒的な作品のなか に、やはり1925年に書かれた「フロイド・コリンズ」という注目すべき詩編 がある。この作品は従来ほとんど注目されてこなかったが、その内容にはス ノープス三部作のみならず、フォークナーの創作全体の原型とも言えるべき さまざまなものが含み込まれており、十分な検討を要する作品である。 驚くべきことであるが、この詩編とスノープス三部作には34年間を超えた 不思議な共通点がある。その一つは、現実の探検家の遭難を描く詩編に、王 や主教などの宮廷人や教会を描写する場面があるが、現実の深南部の人々の 生活を描いた、ヨクナパトウファ物語の中枢とも言えるスノープス三部作の 『村』と『館』にも、同じような場面が描かれていることである。そこで本

1) William Faulkner, The Mansion (New York : Random House, 1959).

フォークナーは、1925年に着想して書き始めたと述べているが、状況判断から、実際 に書かれたのは1926年の終わりか1927年の初めで、『塵にまみれた旗』の創作に取っ て代わられたと考えられている。ただフォークナーが34年という場合、1925年が強く 念頭にあったと考えてよいであろう。

(4)

論文では、この深南部を舞台とするスノープス三部作と宮廷を結びつける鍵 が、初期の詩「フロイド・コリンズ」にあり、しかもこの詩編がフォークナ ーの創作全体にも深く関わっていると考え、『ファーザー・アブラハム』と 対照させながら、いままでほとんど注目されていなかった詩篇から34年間の 創作の道程を探っていきたい。

 「フロイド・コリンズ」の幻想性

この詩編には、もと「洞窟」と「フロイド・コリンズ」という二つのタイ トルが併記されていたが、最終的には1933年出版の『緑の大枝』に「Ⅲ」と して収録されている。このタイトルとなっているフロイド・コリンズは、 1925年の1月30日に、ケンタッキーのマンモス洞窟の近くのサンド・ケイブ で実際に遭難した探検家である。事件は、コリンズが観光用の新たな洞窟の 入り口を探しているうちに落ちてきた岩に脚を挟まれて動けなくなり、2週 間にわたる救助も功を奏さず死亡した惨事で、全米の大きな関心を呼んだ出 来事であった。 事件は1925年の1月末に起きているから、フォークナーが悲劇をもとに作 詩したのは彼がニューオリンズに到着して1ヶ月以上たってからであろう。 そして注目すべきことは、事件自体は生々しい悲劇にも関わらず、詩そのも のの内容や描き方はリアリズムを離れて、非常に幻想的なものとなっている ことである。また事件とは異なり、舞台が吹き荒れる海中の洞窟となってい るが、フォークナーがなぜ現実の陸地の事件を幻想的な海の詩にしたのかは 謎であり、この謎を解くことはフォークナーの作品全体の理解の上で重要な ことであろう。 なぜフォークナーが生々しい現実の事件を幻想的なものにしていったかと いう問いへの明確な答えはないが、まずこの時期は、フォークナーが並々な らぬ決意で故郷を後にして創作の荒波に立ち向かう気概を強く持っていたこ とは留意すべきであろう。さらにフォークナーは、故郷と異なるニューオリ ンズ特有の、クリオール文化と国際的な雰囲気を醸し出している文学風土に

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あらためて衝撃を受けたにちがいない。彼は北ミシシッピから来て、南部の 大都会での新しいモダニスティックな芸術の雰囲気を実感し、シャーウッド ・アンダソンを初めとするニューオリンズの文人たちと交流を深めながら、 『ニューオリンズ・スケッチズ』などに見られるように、鋭い観察力と、自 己を投入した視点で芸術的に価値のある作品を書こうとしていた時期である。 また後で少し触れるように、芸術の極地を目指す詩人の願望を描こうとした 未完の「カルカソンヌ」もやがて書かれようとしている時にあたる。すなわ ちこの時期は、具体的で現実に即した作品創造と、先輩作家や詩人を脳裏に、 モダニスティックな幻想性を拡大して壮大な詩的世界を描きこもうとする創 作衝動が同時に働いている。当時のフォークナーには、具体的な巷の人物描 写と、後の創作に連続していく壮大な創造世界 (デザイン)が並行した、芸 術創造への強い模索の時代であったと考えてよいであろう。 その意味では「フロイド・コリンズ」も当時のフォークナーの壮大なデザ インを予兆させる物語性と幻想性の強い詩となっている。そのことはこの詩 編と同じく1926年に未完に終わった『ファーザー・アブラハム 、さらに後 年のスノープス三部作を重ねてみると鮮明になり、当時のフォークナーの創 作姿勢のある重要な鍵が見えてくるのである。 詩編とスノープス三部作とのつながりの一端は、まず『ファーザー・アブ ラハム』の最後の場面に見ることができる。それは斑馬騒動の後の平穏に戻 った村の黄昏の描写であるが、この平安な村の風景に、突然とも言える海の 洞窟や海底の骨のイメージが現れ、「リラの花咲く平安の世界で、ヴァーナ ーの店と鍛冶屋が、静かな忘れ去られた海の洞窟に残る廃棄船のようであっ た。音もなく、動きもなく、眠っている骨を揺り動かす潮もなく。」3) と描写 されている。この海の描写は、村での斑馬騒動の物語にはいささか場違いな イメージである。しかし海底の骨や骸骨そのもののイメージの使用は、特に T. S. エリオットや A. E. ハウスマンの影響を受けた初期の詩編にも見られ、

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これらは、詩編「フロイド・コリンズ」に描かれる荒れ狂う海と洞窟のイメ ージ、さらには珊瑚礁などとも連続しているのは明かである。すなわち、初 期のエリオット的な海底の骨のイメージは、『ファーザー・アブラハム』の テーマと深く結びつき、また、海を舞台にした「フロイド・コリンズ」の幻 想的な自然、さらには不可思議な人物設定は、やがてスノープス三部作と深 く結びついていくのである。 この詩編の幻想性をもう少し詳しく分析すると、まず地理的にケンタッキ ーの内陸部であるはずが、海に囲まれて海の激しい波がごうごうと高鳴って いる洞窟(島)になっている。最初の行では、「洞窟は暗黒の肋骨で貫かれ ていた」と過去形で始まるが、すぐに現在時制になって魔法のような7つの 光が輝き、音楽が洞窟にこだまして、いまは悪事に疲れた国王、伯爵、主教 など周囲の喧噪に無頓着な姿で寝ている宮廷の面々が描かれる。 金色の波が宝石の波頭にぶつかり 彼は黄色に囲まれている。彼の周りでは 罪に疲れた王や主教冠をかぶった主教たちが 倦み疲れた天上の身の上を夢想していたが 今は眠り、雨の音を聞き、またいびきをかいているのかもしれない。4) 繰り返せば、この洞窟と海の描写は、現実に起こった事件の場面や人物設 定とはまったく異なっており、フォークナーは明らかに現実の内陸部の洞窟 から、幻想の海に囲まれた洞窟(島)を舞台にして、登場人物を宮廷に依拠 する人物たちに変え、現実の悲惨な事件を幻想的な詩に変容しているのであ る。洞窟の入り口には鎚矛を持った歩哨がおり、ここでは洞窟と牢獄のイメ ージが重なっている。そして宮廷人の中に主人公(コリンズ)と若い女性を 登場させ、2人の若い男女が目覚めて各々洞窟内で行動しているが、この特

4) William Faulkner, The Marble Faun and A Green Bough (New York : Random House, 1965), pp. 1617.

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異な場面設定と人物構成は、何かのアルージョンを前提にしているとしか考 えられず、それは後で触れるようにシェイクスピアの『嵐』の場面が根底に あると考えられるのである。 このような宮廷人を思わせる人物は、フォークナーの初期の作品では数編 の詩を除けばほとんど登場しないが、一つ注目すべきは、『寓話』で描かれ ている宮廷(教会)人の描写であろう。それは市庁舎の描写で現れるが、 「耐え続け苦悩する塵(民衆)」の中から、市庁舎(都市)がゴシック建築 のように、「暗いゴシックの夢からゴシックの夢を担いつつ」5) 天空に聳え立 ち、そのゴチック様式に、騎士、主教、天使たち、聖人、幟天使たちの彫像 が描きこまれている。これは市庁舎が表象するヒエラルヒーを暗喩的に表現 したものだが、このようなヒエラルヒーの否定的な捉え方は「フロイド・コ リンズ」をはじめフォークナーの初期から胚胎していたものと考えてよく、 後に触れるスノープス三部作とも繋がっていくものと考えてよいであろう。 また、この詩の幻想性という点では初期の作品の特徴を共有していること も考慮にいれておくべきであろう。先ほど触れた T. S. エリオットや A. E. ハウスマンなどの影響を受けた初期の詩編や、ニューオリンズやヨーロッパ での短編や小品には幻想性の色濃いものがあり、また、小品「丘」(1922) から発展して、やはり1925年頃の制作と考えられている「妖精に魅せられて」 での、死(妖精)との水中での遭遇は、「フロイド・コリンズ」の洞窟での 死や女性のイメージとも通底している。洞窟とはある意味では女性の子宮的 な側面も表象するもので、「妖精に魅せられて」 でも暗黒(性)の水中から の脱出が大きなテーマとなっており、いわばこれらの暗闇の幻想性は、エロ スとタナトスの問題と絡み合ってフォークナー文学に底深く流れていくもの なのである。 もう一つ洞窟のイメージが『蚊』で再現されていることも注目してよい。 それは若いパトリシアと片思いのデーヴィッドが原始を思わせる森を彷徨っ

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ている場面で、蚊に苛まれ、へとへとになってデーヴィッドがパトリシアを 背負っている時の情景である。彼は息絶え絶えになり、「おまえは洞窟にい る、暗黒の音の響く洞窟にいる、海鳴りが洞窟の外で聞こえる。」6) とつぶや きながら歩いているが、これはデーヴィッドの苦痛の表現でありながら、 「フロイド・コリンズ」と同じ時期の洞窟の暗喩的な表現と重なっているの である。

 T. S. エリオットの『荒地』とシェイクスピアの『嵐』

フォークナーが現実の悲劇を題材にしながら、内陸の洞窟を海の情景に移 し、宮廷の面々を思わせる人物たちを幻想的に描きこんでいったのは、象徴 性や神話性を強めて壮大なデザインを構築する作家の意気込みがあったと思 われるが、それは言葉を換えれば、洞窟のイメージに表象される当時の作家 自身の錯綜した心情が表出されていることになる。そしてその壮大な企図と 自らの苦悩の心情を韻文で補強しようとする背後には、当時のフォークナー に影響を与えた詩人や作家、劇作家などがいるが、直接的には、T. S. エリ オットを初めとするモダニストたちの強い影響と、そのエリオットが利用し ていたシェイクスピアの『嵐』が影を落としていると考えられる。先ほど触 れたように、スノープス三部作の萌芽的な『ファーザー・アブラハム』には 明らかにエリオットの影響が見受けられる。フォークナーは、『春の幻』か ら読みとれるように、まずエリオットのプルフロック像を何度も翻案して書 き直し、また、『荒地』の「水死」の場面に象徴される「海底の骨」7) をやは り随所で利用しているように、相当なまでに強い衝撃を受けたと思われる。 エリオットの『荒地』の「Ⅳ」 の「水死」では、海底の流れが、底に沈 む骨をささやくように拾い上げるさまが描写されているが、このエリオット

6) William Faulkner, Mosquitoes (New York : Boni & Liveright, 1997), p. 206.

7) 1922年に発表された『荒地』では、「骨」のイメージが多用されており、特に、Ⅱ. 「チェス・ゲーム」とⅣ.「水死」では、「真珠となっている目」や、「海底の水流がさ さやくような音をたてながら骨をすくい上げている」さまが描かれており、次に触れ るシェイクスピアの『嵐』の海底の骨と関連している。

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の海底の骨のモチーフやイメージは、いままでしばしば指摘されているよう に、シェイクスピアの『嵐』に由来していると考えてよい。従って、フォー クナーはシェイクスピアやエリオットをうまく引用しながら独自の創作を試 みており、『嵐』の海に囲まれた孤島とそこに住むプロスペロの庵を「フロ イド・コリンズ」の洞窟に置き換えていると考えられる。 「フロイド・コリンズ」と『嵐』では人物や情景設定が厳密とは言えない までも相互に呼応している。詩編の人物たちが閉じこめられた洞窟の周囲は、 激しい海のうねりが猛り狂っているが、それはプロスペロが魔法でミラノ王 たちを載せた船を難破させた嵐と呼応する。最初の行の、「暗黒の肋骨で貫 かれていた」洞窟は、すぐに「音楽の肋骨」に変わるが、それは『嵐』で言 えば、天上から聞こえてくる妖精エリアルの歌声と、海底で妖精たちが鳴ら す鐘の響きに呼応し、フォークナーの詩で場違いな激しい海鳴りのなかで罪 に疲れて眠りこけている王、主教、公爵たちは、『嵐』では、魔法で眠らさ れている善良なアロンゾ王やゴンザーロたちと悪事を働こうとしているアン トニオたちの様子と呼応している。 シェイクスピアの『嵐』では、妖精の歌う歌は王子フェルディナンドに、 難破して海の底に横たわっている父に対する鎮魂の調べを想起させ、海の変 化による海底の骨のイメージには、豊かな珊瑚礁との連想が浮き彫りにされ ていて暗さはない。 五尋の水底に汝の父は横たわる 骨は珊瑚に変わり 目は真珠になった 消えうせたものは何もなく すべて海の変化を受けて 豊かで見慣れぬものにかわった 海の妖精たちが時間毎に彼の鐘を鳴らす。8)

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一方、「フロイド・コリンズ」には直接的な骨のイメージはないが、波に ゆらめく珊瑚のイメージ (bows of coral, trees of coral strip) が息づいている。 しかし、現代の海洋の変化には暗いイメージや運命がつきまとい、さらに眠 っている人物たちのパロディ化を余儀なくされていることは看過してはなら ない。 このような両者の呼応を考えると、フォークナーが「フロイド・コリンズ」 を書いたとき、エリオットとシェイクスピアの世界が脳裏にあり、『嵐』の 海の変化で変容した美しい海底の骨のイメージに、エリオットの現代の荒廃 の状況を重ねながら、パロディ化してもしきれない現代の暗い宿命的な世界 を表象しようとしたのではないだろうか。また「カルカソンヌ」に典型的に 具現化されるように、シェイクスピアやエリオットの骨のイメージは変容し て、芸術を志向する生きた自己と、その分身で、海底での安楽や逃避を表象 する骨との二元論的な描かれかたになっていく。それと同時に、『ファーザ ー・アブラハム』に見られるように、骨は人間の宿命を表象するものとなり、 やがてスノープス三部作の根幹にある生と死の世界にもつながっていくので ある。 このように、大枠としては詩編と『嵐』の情景は重なっており、洞窟から 脱出しようとする詩の主人公(コリンズ)は『嵐』の王子フェルディナンド と相応していると考えてよい。またこの詩には洞窟の中を彷徨う孤高の女性 像が描かれているが、このコリンズが閉じ込められた洞窟の女性は、『嵐』 のフェルディナンドと結ばれるミランダに相当する人物であろう。しかし洞 窟の女性は、柔和な姫ミランダとは異なり、王や司教の愛を退け、何ものも 拒否する強い乙女の雰囲気を醸し出している。 その中で一人の女が歩き、彼女の砦は 眠りによって襲われるが、しかし征服されることはない。

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赤い衣服を纏い、金色の髪の毛で、 彼女の唇はまだ接吻されていない。9) いわば彼女は、やがてフォークナーの小説世界に登場する、妖精的な側面 と魔性的な側面を併せ持つ人物の先駆けであり、同じ頃に書いた「妖精に魅 せられて」の妖精を思わせる女性と重なっている。そして、当時の詩作品や 小品の妖精的な側面を持ちながら、『ファーザー・アブラハム』では孤独な 姿で描かれているユーラと呼応し、さらに『村』や『館』で言及されるトロ イのヘレンと重なり、最終的には『館』のリンダと重なっていくと考えてよ いであろう。『館』では、リンダにこと寄せて何度もトロイのヘレンが言及 されている。 このように、「フロイド・コリンズ」に登場する女性像は、『嵐』の女性像 を受け継ぎながら、神話性と、善悪両面を備えた現代的なヘレンという二面 性を兼ねた人物として登場し、やがて『ファーザー・アブラハム』で描かれ るユーラへと変容し、スノープス三部作まで連続していくと言ってよい。そ して変容したユーラは、フェルディナンドとミランダならぬ、現代のパロデ ィ化された村のヘレンとなって、スズメバチが蜂蜜に集まるように周囲の若 者たちが必死で追い求めても徒労に終わり、最後はマッカロンという青年と の1回限りの愛の行為をして、「ユーラは母親になって少しは変わったが、 依然として豊で静かに男性の目を虜にしていた。」10) のであるが、不能のス ノープスの妻として孤独な生涯を自らの手で終えることになる。

 暗い宿命と大地の生命

このように、1925年の詩編「フロイド・コリンズ」と、次に続く『ファー ザー・アブラハム 、そしてスノープス三部作をつなぐ34年の糸をたぐって いくと、初期に描かれた人物像や背景、また主題と深く関わる海底の骨(珊

9) The Marble Faun and A Green Bough, p. 17. 10) Father Abraham, p. 22.

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瑚)を中心に重要なモチーフが、「カルカソンヌ」を初めとする初期の幻想 的な作品から、『塵にまみれた旗 、そして中期の重要な作品を経ながら、最 後の作品まで生き続けているのは実に驚嘆すべきことであろう。特に骨(骸 骨)のイメージはフォークナー特有の塵や影のモチーフと深く関わり、フォ ークナー作品全般に亘る、人間の生死のテーマや宿命を表象する作品の主題 と密接に関わっている。たとえば、「カルカソンヌ」では、芸術の極致と中 世の永遠の都カルカソンヌを重ねて昇華しようとする詩人は、その反対の極 地に海底の骨を対置して自己の負の分身としている。また『塵にまみれた旗』 では、次の引用に見られるように、直接的な骨のイメージは用いられていな いが、「塵」のイメージと結びつきながら頭蓋骨(死)のイメージと重なっ て用いられ、サートリス家の暗い宿命と並行している。 それから彼(ベヤード)はもう一度這い出していって、ブナの木の根っ こから湧き出している泉のところまで行き、飲もうとして口を突き出し た。すると黄昏の日の光が顔に反射し、額と、くぼんだ目の眼窩のうえ に突き出た鼻と、動物のようにあえぎながらむき出しているような彼の 歯がくっきりと映り、静かな水から頭蓋骨 (a skull) が一瞬彼を凝視し ていた。11) このベヤードを凝視する頭蓋骨(髑髏)は、彼自身の内面の表出でもあり、 それが象徴的に作品全体の基調となっている。こうして最初の本格的な長編 になるべく書き始めた『ファーザー・アブラハム』やニューオリンズでの 「フロイド・コリンズ」には、後の作品の根源的な主題や人物像がすでに描 かれようとしていたわけであるが、これらの人間の死や宿命を表すモチーフ やイメージと並行して見落としてならないのは、これらに対峙する生命を象 徴する木の根や葉と草の根のイメジャリーやモチーフである。先ほどのベヤ

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ードがのどを潤す場面でも、木の根っこから湧き出している泉が対比されて いるが、34年間あるいはそれ以上のフォークナーの創作全般にわたる作品の 底流には、骨(骸骨)や塵の対極にある根源的な人間の生命を表象する木や 草の生命のイメージが底深く流れており、「カルカソンヌ」に描かれている ように、それは大きくは母なる大地や広大な宇宙に収斂していくものである。 このフォークナー文学の本源的なものとも言える、木(根)や草(葉)の イメジャリーやモチーフはフォークナーの詩作時代に遡ることができる。作 家フォークナーにとって、故郷の青い丘と大地とそこに根付く木々は、永遠 に支えてくれるものであり、次第に土着の色彩が織り込まれるようになる。 その意識が鮮明になるのは、1924年という大きな節目の年であるが、フォー クナーはこの年に作詩したと考えてよい「ミシシッピの丘:我が墓碑銘」 (「この大地」、「悲しみがあっても」というタイトルも付けられていた)で、 自己の死と自然を対比して詠っている。この詩は、フォークナーがニューオ リンズに出向く前の1924年の秋頃の創作と考えられるが、まさにこの故郷の 心情を胸にニューオリンズに出向き、異国の地で新しい文学活動の船出にし ようとしたのでる。 そして、1924年の故郷を離れる心境を、「ミシシッピの丘」で表現したと き、故郷の青い丘と、大地に立つ木を詠い、その木のように大地に根付いて いれば、死んでもそのしっかりと私を抱いてくれる大地が息吹を与えてくれ ると詠っている。 私は帰ってくる! 死などいずこにあろう? 頭上に眠るような青い丘があり、 私が木のように根付いている限り、私が死んでも この私を抱いている大地が息吹を見だしてくれるだろう。12)

12) The Marble Faun and A Green Bough, p. 67.

この詩編には、「ミシシッピの丘 わが墓碑銘」というタイトルで、1924年10月17 日の日付がうたれたものが残っており、この詩編は『緑の大枝』に収録される。

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また1924年に、それまでの文学遍歴のエッセイを書き、「精神的にも物質 的にも見出される南部の美は、神がこれほど多くの業をなしえたのに、人間 はほとんどなにもしていない。」13) と書き、まさにフォークナー自身がその 美を背に、「人を悲しませずに、何か美しい情熱的なものを書く人はいない のか?」14) と問いかけている。 いわばフォークナーは、この大地の魂と美を抱えてニューオリンズに船出 をして、シャーウッド・アンダソンをはじめ南部の都会の文人たちと交流し ながら、まず『ニューオリンズ・スケッチズ』をはじめとする小品を新聞や 雑誌に寄稿しながら文学活動をしていくのである。そしてそこで遭遇したの がフロイド・コリンズの惨事であり、フォークナーがそれを題材にして書い た詩編「フロイド・コリンズ」は、ニューオリンズに来たフォークナーにと って強い衝撃を与え、洞窟の閉塞感や、海の激しい波のうねり、そして無責 任な面々と孤高の女性像には、異郷の地で彼が抱いていた心情が反映されて いると考えてよいであろう。 そして驚くべきことに、荒涼とした海の洞窟を描写している「フロイド・ コリンズ」にも、通常では考えられない木の根と草の根が描かれ、それらが 生命と大地のテーマと深く結びついているのである。これらのイメジャリー やモチーフは先ほど触れたシェイクスピアやエリオットにはなく、フォーク ナー独特のものであることも留意すべきであろう。 音楽が洞窟の肋骨を満たし、いく条もの音が、 金色のコウモリの震える羽に光り輝き、 草の根と木々の根が輪になって 日光に差し込み、鳥の鳴き声が 銀色の輪を描いて枝から枝へ光を投げかける。

13) Carvel Collins, ed., William Faulkner : Early Prose and Poetry (Boston : Little, Brown, 1962), p. 116.

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野原の草が彼の空想の足を冷やし 草のうえの露と、生け垣の鳥が 日光と飛ぶ鋭い線模様と織りなす。15) この連は、激しい海のうねりや、惰眠をむさぼる面々の描写などと比べる と、この詩にはそぐわないほどの詩情に溢れた牧歌的な詩行となっているが、 この異質なものの対比のありようはフォークナー文学の大きな特徴の一つと 言えるであろう。この木と草の根のモチーフは『ファーザー・アブラハム』 でも用いられ、スノープス三部作に受け継がれていくが、それが大地の生命 と結びついて用いられており、いわばこの暗い運命を表象する洞窟や髑髏の 姿と、故郷の大地の木々や草に象徴される自然の循環こそフォークナー文学 の神髄なのである。16)

 ミシシッピの丘と大地への帰還

少し触れたように、『ファーザー・アブラハム』では、4月の終わりの黄 昏の夕陽と、咲く桜とが見事に対比されて美しい自然描写がなされており、 斑馬の悲喜劇にもフォークナーの目は大地から離れることはない。そして、 フォークナーが長い間中断していた『ファーザー・アブラハム』を取りあげ て、スノープス三部作の最初の『村』を1940年に完成したとき、美しい自然 と人間の営みの鋭い対比は随所に描かれ、その顕著なものは「フロイド・コ リンズ」で描かれていた草の露の情景の見事な再現である。そこでは15年を 経てさらに詩情が深まっている。それはアイザック・スノープスと牝牛との 愛の語らいの箇所であるが、大地の根から露が生じ、それが朝焼けにつなが っていく。しかもこの自然と混じり合わせながら、フォークナーは先ほど触

15) The Marble Faun and A Green Bough, p. 18.

16) 文脈は異なるが、『響きと怒り』で、ベンジーが姉のキャディを、“Caddy smelled like trees.” や “ Caddy smelled like leaves.” と形容するとき、この弟の嗅覚的な表現は逆 に自然そのものの象徴的な表象となっており、これは「ミシシッピの丘」の心情の連 続線上にあると言ってよい。

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れたように、エリオットやシェイクスピアのモチーフやイメジャリーを見事 に膨らませて生かしていくのである。ここでは、大地との交流が愛と深く結 びつき、後で触れるように、この両者はスノープス三部作の最後の『館』で、 ミンクとフレムのプロットと、ギャヴィン・スティーヴンスとリンダ・スノ ープスとで大きな循環の輪を描くことになる。 いまや [アイザック] は、3日前に初めて発見したものが繰り返される のを見ている:あの朝焼けの光は空から地上へ注がれるのではなく、大 地そのものから発散されるのだ。すなわち、むやみと勢いよく伸びる草 の根や木の根でよじれた天蓋に覆われ、目に見えない暗黒の時のシルト (土)と、いっぱいになっている塵芥(骨)から発散される。朝焼けは、 いつもと同じように、まどろむこともなく、ミミズのような虫に満たさ れ、無名でどこの誰ともわからず、地中に眠ってもはやお互い離れられ ない、トロイのヘレンや妖精たち、いびきをかいている主教冠をかぶっ た主教たち、救い主たち、犠牲者たち、そして王たちのような名の知れ た骨の積み重なった闇の中で、不眠のまま、無数の這うような流れにな って目覚める。初めは根に、次に細かい葉から細かい葉へ、そしてその 逃げようとする先端からガスのように上り、分散して活気のない虫のつ ぶやきのような音でぐっすりと眠っている大地と混じり合う。17) ここには、生命の目覚める朝、木を媒体にして、光(水)が骨(死者)の 眠る大地から、夜明けの光が、根から木の幹を伝わって葉へ、さらに葉の先 から上空へと向かっていくさまが見事に描かれている。この場面は先ほど触 れた、「フロイド・コリンズ」の詩情に溢れた自然描写と呼応しているが、 ここでも異化作用ともいうべき、驚くほど異質なものが並列している。非常 に牧歌的な大地の朝焼けの風景には、大地と天上が一致する光のイメージが

17)William Faulkner, The Hamlet (New York : Random House, 1940. The Corrected Text. New York : Vintage International 1991), p. 181.

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描かれ、それは地上から木の根や葉を伝わって上がってくる露のイメージと 一体となる。そしてそこに、「フロイド・コリンズ」でも見た宮廷人が対置 されているのである。 しかもここで注目すべきことは、『村』で初めてトロイのヘレンという具 体的な女性像が明示されていることであろう。「フロイド・コリンズ」では、 『嵐』との対比で、ミランダに呼応する女性とし、さらにユーラの系譜とし て考えてきたが、ここで言及されるトロイのヘレンはその連続線上にあるの であろうか。私は広い意味でユーラとその娘リンダの系譜と考えていいと思 う。かつてフォークナーはスノープス三部作を書き始めていた1938年の12月 に、ロバート・ハースに、最後の作品に「トロイの陥落 (ILIUM FALLING)」 という表題を考えていることを伝えているが、18) 三部作の構想には、フレム (スノープス)王国の陥落とその犠牲になったユーラが脳裏にあったことは 否定すべくもなく、『村』と『館』で言及されるヘレンには、ユーラ(リン ダ)が重ねられていると考えてよいであろう。 こうして「フロイド・コリンズ」で用いられた『嵐』にまつわるメタファ ーと、1924年以来の大地と木と草のイメジャリーはこの『村』を経過し、ス ノープス三部作の最後『館』で最大の効果をもたらし、次に引用するように、 集大成的な静かな終焉を迎えることになる。最後にすべての目的を果たした ミンクは、いままでの胸につかえていたものすべてが消え、いまや大地に吸 い込まれていくが、その描写は、『村』の大地から水が上がって朝焼けを迎 えるのとは逆の方向、すなわち大地での静かな眠りであり、今度は、草の葉 から根に移りそして大地に吸いこまれていくのである。 しかし彼は危険を冒すことが出来た、さらにはその危険に公平な行動の 機会を与えたいと想い、そうやろうと思えば出来るということを彼に示 すことができたのだ。実際、彼がそう思うや、いままで長い間不必要な

18) Joseph Blotner, ed., Selected Letters of William Faulkner (New York : Random House, 1977), p. 107.

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までの心配や気苦労をしてきたミンク・スノープスが、這って、染みこ んで、眠りのように気楽に流れていくのを感じ、それがあらゆる小さな 草の葉や小さな根、虫が空けた小さな穴を辿りながら地中へ下がってい くのが見えるようだった。そこには既に人がいっぱいいて、皆自由で、 むしろ心配しなくてはいけないのは大地や土くれで……すべての人は無 名のまま離れがたく混じり合っている。それらは、ヘレン、主教たち、 王たち、家なき天使たち、侮蔑すべき慈悲なき幟天使たちのような、美 しい人、すばらしい人、誇り高い人、勇敢な人、長い人間の記録の標石 となっている輝く亡霊や夢の中で最上位にいる人々なのだ。19) 「フロイド・コリンズ」での女性(ヘレン)を初め、眠りに落ちていた主 教や王はいま地中に眠り、アイザックが目撃した朝焼けの中で地上に上がっ ていた生命はいま地下に下りて、ミンクたちの生命を押し包んでいるのであ る。しかもこの『館』に至って、「フロイド・コリンズ」や『村』で描かれ ていた宮廷人や教会にまつわる人々や天使に加えて、「美しい人、すばらし い人、誇り高い人、勇敢な人、長い人間の記録の標石となっている輝く亡霊 や夢の中で最上位にいる人々」が加えられている。これはフォークナーの創 造空間の拡大と深化であり、さらには、神話性と仏教的な側面への深化と考 えてよい。 ミンクは最後に西に向かうが、この「西」には、エマソンやソローたちに 代表される東洋思想の流れがあり、西方浄土の感覚が込められていると考え ても決して誤りではないであろう。すなわち、フォークナーは34年前の『フ ァーザー・アブラハム』で、フレムを仏陀(釈迦)と比較しており、そこで は、フレムの、無関心で形式化されたような行動様式や精神のありようが、 まるで時空を超えたような印象を与え、それが瞑想や悟りの境地にいる釈迦 と対照して描かれていたのである。いまそのフレムを殺したミンクが西方浄 19) The Mansion, pp. 43536.

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土へ向かい、土の中に入って生命を大地に託すのは偶然ではない。 アイザックと牝牛の愛の語らいの場面は、土中から露が地上に上がり、葉 に伝わりながら上空にあがって朝焼けに導かれるが、それは日の昇る東の空 へと通じている。まさに大自然の生命の循環がスノープス三部作を貫き、聖 書的に言えば、「日は昇り日は沈む」(「コヘレトヘの言葉」Ecclesiastes I ) のであり、そこには宇宙の永劫回帰の摂理が語られていることになる。この 大地と天を結ぶ生命の循環を伝導する木のメタファーは、ユダヤ教の神秘主 義的カバラ哲学の中心をなす、10のセフィロトを構成する「生命の木」と通 底していると考えても不思議ではないであろう。 こうみると、1924年以来の連続性を様々なモチーフやイメジャリーの連続 性の見事さと、集大成の締めくくりの用意周到さや先見の明にはただ驚くば かりであるが、それこそがフォークナーの創造の真骨頂であろう。1924 (1925)年の心情が、34年後に一層深められさらに人間の真実となって見事 な締めくくりとなるその不思議な附合を見ると、そこには、創作力の不思議 さと、その創造の持続、そして創造の進化とそれから生まれた創作の輪が垣 間見えてくるのである。 再度確認すれば、フォークナーの最大のテーマは、大地と人との関わりと、 愛であり、それをめぐる人間の心の葛藤と、最終的には「明日」へのテーマ であろう。大地と人との関わりでは、敵対と友愛が併存している。フレムは 大地と分離しており、彼には金と乾いた人間関係しかなく、「貪欲と利己心」 に執着して「悪の権化」(スノープス主義)から最後は「虚ろな」人間にな り、ミンクに殺される瞬間はすでに人間の抜け殻でしかない。一方ミンクは、 一時は “They, Them, It” で表象される大地(神)から見放され、大地に復 讐されるが、最後はその大地 (“Old Mostor”) に包み込まれていく。

そしてその大地との融和や友愛は、人間の男女の愛と並行している。『館』 でのギャヴィンとリンダの愛は、通常の男女の愛の成就ではないが、三部作 全体を通した、大地(神)と人との関わりを含み込んだ愛の結末であろう。 そして、それを見守るラトリフのまなざしは、「明日」への希望を託したも

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のであり、「明日」を担う視点となっている。 われわれは、シェイクスピアとフォークナーを比較して、『マクベス』と 『響きと怒り』や『自動車泥棒』と『嵐』を考えるが、むしろ『館』と『嵐』 を比較して考えるとまた別の視点が生まれてくる。両者には自然の法(宇宙 の法)が共通して流れており、エマソン的な宇宙や仏教的な世界観を反映し たような大地に根ざす自然の法こそフォークナーの根幹であり、そこにこそ 日本の読者を魅惑する根源がある。 以上1925年から1959年の34年間のフォークナーの創造世界の連続線を、 「フロイド・コリンズ」や『ファーザー・アブラハム』と『館』を枠組みと してみてきたが、この34年とは、フォークナーの創造的進化(深化)の過程 と言えるものである。それは1924年のスノープス物語の萌芽を34年間かけて 熟成させる過程であり、それはまたシェイクスピアの言葉で言えば、エリア ルが詠っている「海洋の変化」を通じた、「海底の骨」の珊瑚礁や、真珠へ の変化と言うこともできる。 (筆者は関西学院大学名誉教授)

参照

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