河上肇と「無我苑」
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(2) 入などへ 監 禁され るの が 普通だ の に、私の 場 合は 、大. かっ た。 …(略 ) …駄 々をこね る と 、 懲し めの ため押. 何か腹を立 てて泣き出し たら 、ま るで手 は つけら れ な. 身の 士気を 鼓弄し てい る。. たび 松陰の 名 を 使用し 、諄 敬の 念を 表す ると共 に己自. 吉田 松陰へ の 憧 憬も その ― つであ る。河 上は 、たび. は 私が高 等 中学校 の予 科. 人の 方が 物 置などに逃げ込ん で難 を避けた。 切」. い」 た。. 徳 富蘇峰の 「吉田 松陰 「. j. 『梅 陰 生 」と い う 判 を 作っ て い た こ と は 先 き に 述 「 べた が 、私 は こ の 判 を 吉 田 松 陰 先 生 に 私淑 し て付 け. 通学 につい ても こ う 言っ てい る。 「 私は 満四 年 五ヶ月 になった時から 小 学校 に通うよ. に 入 っ た 年 に 刊行 さ れ た 。 私 は そ れ を ば 非 常 な 感 激 を. う になっ たが 、 その 実 、学校 へ通うとい っても 、私 は 毎日 おん ぶ されて往 復し たのである。 …(略)… 弟も. 固」 以て読ん だことを記憶し てい る。. 「 私の胸の底 に沈潜し てい た経世 家的 とでも い った. 一緒 に通学す るよう になっ てから でも 、 二つ年 上で あ. よう な欲望は 、 松陰先 生によっ て絶えず 剌激され てい. る兄の 私が おん ぶ され 、弟の 方は 歩い た。 書い ておく の も 恥 し い が 、私 は そ ん な 我 儘 を し て 育 っ た の で あ. たことと思うが 、…… 伺」. は 強烈 な懺 悔の 気持を抱 き、 他の ため に自己犠牲 を 己. 魅せ ら れ 、 絶 対 的 非 利 己 主 義 を 、 「 マタ イ 伝」より受 容. ち の影 響も 大きい。 彼ら の関係でキ リス ト 教にも 強く. 学生時 代 (東京帝 国 大学 )の 木下尚江 、内村鑑 三 た. ュニス ト になっ てから も 消えることは なかっ た。. この松陰の志士的 心 情 の影 響は、のち に河 上が コミ. 凸 る。 こ の 偏 愛 的 環 境の なか で 、 や り た い ほ う だ い の 我 儘. に強要 徹底 化し て賄 罪 とす るとい った精神が 形 成され. を 許し ても ら っ た己を 恥じ ると同時 に、 他に対し て彼. たと思われ る。絶対的 非利 己主義 、利 他主義への執 着. 己の精神史は このバイ ブル との接 触をその原点とす. し てい る 。. に 次 々 と 非 利 己 主 義 的 精 神 で 、 こ の 世 を 貫い て 生 き よ. し たの は 、次の 個所 であ っ たとし てそれ を 引用し てい. る 、と河 上は い う。とく に彼が 注目し 、精神の 拠所 と. は 、 こ こ に その 淵 源 の ― つ が あ り は し な い か 。 そ の 上. る。. う と し た 人 た ち へ の 共 惑 、共 鳴 が あ っ た と 考 え ら れ. -18-. 綱沢 河上�fiと「無我苑」.
(3) 14巻2号 2003. 3 文学・芸術・ 文化. 「 人 も し 汝 の 石 の 頬 を う た ば 、 左 を も 向 けよ 。 な ん. 日 本の 社会 主義 に関 す る 一 対の 玉と 呼 ば れ る も の で あ. と 、 幸徳 秋水 の 『社会主義神髄」とが ある。 両書は 、. としては 、 明 治三十 六年 の 片山潜 の「 わが社会主 義 」. じ を 訟へ の 下衣を 取ら ん とす る者には 、 上衣を も 取ら っ た。. る。. せよ。人も し 汝に一里 ゆく ことを強い なば、共 に二里. 河 上の 「 社会主義 評論」 は、 真の社会主義から は 遠. で の 鉱 毒地 救 済 婦 人 会 主 催 の 演 説 会 に 参 加 し た 河 上. を持った。 明治一 二十四 年十二 月 二十日 の 本郷中央 会堂. 田 中正 造 の足尾鉱 毒事 件には 、こ との ほか強い 関心. 時代的 背景も さることなが ら 、河 上の す ぐ れ た文章. りの 理想 とし ての 社会主義 につい て言及し たも の であ る兜. し 、ま た安部 磯 雄、 堺利 彦ら の思想をも 批判 し 、 彼 な. い が 、東西 の 帝 国 大 学 の 大 物 経 済 学 者 の 研 究 を 痛 罵. は 、演 説 会終 了後、 異常 とも とれる行動 に出たのであ. は 多 く の 読 者 を 魅了 し 、 大 い な る 旋 風 を 巻 き 起 こ し 、. むな。m」. ゆけ。 なん じに請ふ 者にあたへ、 借ら ん とす る者を拒. る。 こ の 行 動 は、「特志 の 大 学 生 」 と し て、「毎 日 新 河 上が いうには 「 私は 躊躇 す ることなく 、 差し 当り. の辞」 と な っ て し ま っ た 。 こ れ ま で不 眠不 休 の努 力. と な っ た の で あ る 。 つま り 、 「 第三 十六信」は 、 「 掴箪. が 「 第三 十五信」ま で続 い たところ で 、 突然打 ち 切り. 読 売新 聞」 の発 行部数は、 急増し た。 しかし、こ れ 「. 必要 なも の以 外は一 切残ら ず寄付し ようと決心 し た。. で 、 熱 情 を も っ て 執 筆 し 、読 者 を う な ら せ て き た も の. 聞 」 に 掲 載 さ れ た 。 それ は こ う い う こ と で あ っ た 。. 私は 会場 を出る時 、 着てい た二重 外 套 と羽織と襟巻 を. を、河 上は 自ら 、 それを戯 言だったというのである。. 「 『社 会 主 義 評論 」一 篇 信を重 ぬ る こ と こ こ に三 十. 脱 い で 係 り の 婦 人 に渡 し 凹 、 さ ら に 家 に あ っ た あ ら. 六、 幸い にし て多数 読者の歓迎 す るところとなり、 千. ゆる衣類 を、 翌日 、救済 会 に届ける と い う 「 善行」(奇 明治三 十八 年十月 より 、 千 山万 水 楼主人という筆名. 彼 の 言 は 次の よ う で あ る 。. で 「社会 主 義 評論 」なるも のを、「読 売新 聞 」に掲載 す. 山万 水楼 主人の 虚名 広 く江 湖に喧 伝せ ら るるに至ら し. 行) を行ったの である。. る こ と に な っ た 。 こ の 時 期、 社会 主 義 に関 す る 代 表 作. -19-.
(4) に至 っては これを見 る、 真に 一場 の 琳 語に過ぎ ず 、 む. は 、 実 に 余 が 予想 の ほ か に 出 で た り 。 し か れ ども 今 日. 教家とし ての実践が 長く 継続 し 発 展す るとす れば、河. 主義』の霊感 であった。 · :(略 ) …も し その よう な宗. 込ん だ。 か れ の 魂 を つ らぬ い た の は 、「絶 対 的 非 利 己. 活は六十日 かぎ りで打 切られた。 し たが っ て無我 苑 入. しろ笑 う べきのい たりなり。 すなわち まさに本日 をも. りは、河 上の第二 の奇行とし て記録さ れるにとどま っ. 上の 伝記は 別なも の になったろうが、 無我 苑 行者の生. ま さ し く 青天 の霰霞 であった。 この 極端な河 上の 豹. って筆をおかん とす 。竺 変ぶ りに、 驚愕の声が 巻 き起 った。 昨日 ま での 己と本. この河 上の伊 藤との接触は 、河 上の 人生にとっ て、. 」 ている。皿. である。 これ を 珍事 、奇怪と呼 ば ず し て、 何とい え ば. に お け る 宗教 と 科 学 、ま た 「 信 」 ・「 情」と「 知」 と. 重 要 な意味を持つ ことは い うま でも ない が 、 近代 日 本. 日 の 己とは 、根本的に違 う人間だというのだから大 変. 大 熊信 行は 、河 上の 生涯には 、 三つ の 「 奇行」 が あ. よかろうか。疑念、嘲 笑 、怒 りが 河 上の周囲を襲 った。. いった問 題を考 える う えで 、 極めて大 き な示唆を 私た. 河 上の生き方 には 、大 きな癖が あった。 一度あるこ. ったという。 ―つ は 、 先にあげた足尾鉱 毒事 件の 際 に つ 目は 、 こ の 「 社 会 主義 評論 」 を掴筆にし 、伊 藤証信. とに関し て確信 を持てば、 それ以外のも のは 放摘 し 、. ち に与えてく れ る問 題でも ある。. の 無我 苑 に身を 投じ たこと、 そし て、いま―つ は 、 マ. 徹 頭徹 尾それ に没 頭し 、熱 中す る。思索 す るのみなら. 見せた、身ぐ るみは が す ばかりの寄 付 の件であり、 ニ. ル クス 主義 者とし て政 治的 実践 運動 に走 っ たことであ. 獲得し たも のであっても 、 それ を誤りだと自ら 判 断す. ず 、 それを実践 に移す 。し かし 、 それ ほどま でにし て. れ ば 、 瞬 時 に し て 、 それ を ま た 放 棄 す る 。 こ れ が 河 上. てい る。 「 当 時、 お な じ く ト ル ス ト イ の 影 響 を う け た も の. の 人 生 で あ り 、 思想 的 営 為 で も あ っ た 。 ゆ き つ く と こ. ると。 河 上の 無我苑 へ の 突入につ い て大 熊は こう の ベ. に 、真 宗大 学 研 究 科在 籍 の 学 生 伊 藤 証信 が あ り 、『無. ろは 、捨身の 行である。 河 上は こういう。 j. 「 い やし く も 自分 の眼前 に真理だとし て現 われ来 っ. 我の 愛 を 唱 えて 、 「無我 苑」とい う教団 を組 織し た。 河 上は その 教義 に同感 し 、 一 切を 放棄し てこれ に飛 び. -20-. 網沢 河上肇と「無我苑」.
(5) 下が り、… (略)… しかし、こうした心 持で夢中にな. 躇 す ることなく 、い つで も 直ち にこれ を 受 け入れ 、そ. た も の は 、 それ が 如 何 よ う の も の で あ ろ う と も 更 に 躊. の過去 を通覧 す れば明ら かなこと で、彼は 何ら のオ リ. 一学徒 に過ぎ ない ことを誰 が 否定 し得よう。 これは 彼. な い 人間 と し て は き は め て 鈍 く て 平 凡 な 、 理 想 家 肌 の. 何ら 自主的な強 い 性格も 透徹 した洞察 力も 持ち あわせ. ヂナ リ テ ィ も 持 ち あ わ せ な い 、い つ も 何 か に 影 響 さ. して既 にこれ を 受 け入れ た以上、 飽く ま でこれに喰 い って進ん でゆくうち に、 最初真 理 であ ると思っ て取組. る 。… (略)… い かなる点から 見ても、 決して 彼 はト. れ 、支 配 さ れ 迷 ひに 迷 っ て あ の 歳 に 到 達 し た 人 で あ. ップ に立 って時代を支 配す る能 力のある人では ない の. ん だ 相手 が そう で なかっ たことを 見極め るに至 るや 否 乎として直ち にこれ を 振 り棄てる。 竺. や 、 その 瞬間 、一 切の 行 掛りに拘 泥す ることなく 、断. る だ け が 、 唯 一 絶 対 の 思 想 家 の 条 件で も あ る ま い 。 断. う 。しかし、 一 度受 容したも の を終 生維持し、 固執 す. り、 豹 変 ぶ り は 、 決 し て ほ め ら れ た も の で は な か ろ. ま でも ない が 、 当時の高 名なる東西帝 国 大学の 教授 た. の 評論が 、 美しい 文章で、説 得力の あ っ たことは い う. 我 苑 への 突 入 事 件 は 、 大 き な 社 会 的 反 響 を 呼 ん だ 。 こ. 前 述 し た 通 り 、 この 「 社会 主義 評論 」か ら 伊 藤の 無. である。 竺. 絶も 修正 も 飛躍 も 、真 理追 求の 過程 では 、あ る の が む. 彼が 、 その連 載 をス ト ップ し、家 族 を か える み る こと. ち を 、こき おろし 、風 雲児 さなが ら の活躍 をしてい た. 節操とい う点から す れ ば、 河上の この よう な変転ぶ. し ろ当然で は ない か。真の思想の蓄積 には そうい うこ. り 、 然 も 其 関 連 す る 所 、 政 治 、 宗 教 、 倫 理 、 道徳 、 其. 夫れ 社会主義 の 本質 たる、 固と 経済 上の 一主義 た 「. てい たのである。. 「 社会主義 評論」 の 「 第 一信」 には 、彼は こう書い. あるから 、 世間 は 驚く ほかない 。. も なく 、す べての 大学の 職 を捨てて無我 苑 に入るの で. とも ま た必要 なことであ る。 い かなる信念も なく 、 浮遊してい る人間 で、時 代 を 見る眼も なく ‘ におい を かぐ 力も な く 、ただ何も のか によってふ りま わされ てい るだけだと河 上を罵倒す る 人物 も い る。 昭和八 年三 月 の段階で 、 杉 山平 助は 次の. よう に酷評してい る。 「 考 へても わかることだが 、 あ の 人(河 上 肇)に は 、. -21-. 2003. 3 14巻2号 文学・芸術・ 文化.
(6) て 聞くを 得 べし、… (略 )… 足下乞ふ 余をして、 姑<. は、是等 社会各般 の 諸学 に精通す るの 士を 待っ て始め. 他社会各般の 事 項に及ぶ 、 随っ て之 れ が 完 全なる批評. りたるも の 何ぞ怪 むに足ら ん や、これ 今日 の 余にとり. から ば 昨の 余と今の 余と全 く其の 人格を 一 変す るに至. る や 、 既に斯 の 如きの 最高 真 理を研 鑽し 了 へたり、し. 似た り 、嗚呼 余の 新 たに得たる真 理の 何ぞ夫れ 広 大な. 差恰も 絶対無辺 の宇宙と一 個有限 の余が 肉体 と の 差に. て 『社 会 主義 評論』が 実に一場の蔭 語にだも 及ばざる. つ評論 せ し め よ、面し て若し 余力あ ら ば 、二 三名の社 会主義 者に就き 、其言論行 動 の是非を批判 し 、更 に騎. が 如 く見ゆる所 似なり。個 」. 虚心 坦懐 、斯 の 主義の 根本をありの 儘 に記述せ し め且. 虎の 勢を 得ば 、之れ に対す る官府 の 政 策態度に就きて. 並の人間 のとうていおよばぬ ところの絶対的 真 理を. 獲得してしまった河 上は 、 己の人生の最高 の地 点に到. 達し たの であり、いまや、 己を囲饒す る万 事 が 、彼を. 吐露. し ていたこの 論潮も 次第に変化し 、前 述し た 通り 「第. し て、 最高 の 幸 福、安定 をも たら す も のとなったので. 己 の 主 張 を 平 易 に し て 暢 達 、意 気 行 昂 と し て. 其 の 得 失 を 論 議す る あ ら し め よ ‘ 竺. 三十五信 」で 止め 、突 然 「第 三 十六信」を「桐 筆の辞」. 間 で あ る 、 と 平 然 と い っ て の け る。 今 日 の 己 は 、 絶 対. ど ど う で も い い と 河 上は 冷 静 で あ る 。 昨 日 ま で の 己 と. は 、 奇人 、変人と呼 ぶ。 そう呼ぶ なら 呼 べ、世 間評な. か か る 発 言 を し 、行 動 を と っ た 河 上 を 、世 間 の 人. ある。. 的 真 理を 獲得し た最高 に高 潔な人間 である 、 と 恥か し. 道 を聞けば、 夕に死す とも 可なり」 の心 境で、絶対的. 全 く違 う河 上が こ こ 存在 す る と い う の で あ る。「朝 に. 河 上は 、咋日 の 己と今日 の 己とは 、極端に異っ た 人. とし たの である。. み よ う。. 理 を 得て 、夕に死す とも 可なり の 境に入る。 是に於 て. 「 嗚呼 、 余浅 学 下根、し かも 今幸 にし て此 の最高 真. や 、 死の恐 怖さえなかった。. 最高 の 価 値 を 獲 得 し た 河 上 に 恐 い も の は な い 。も は. げ も な くい うのである。 この 昂揚し た彼の 声を 聞いて 「既 に余は 絶対最高 の 真 理 を 捉得せ り、其の真理の 偉 大なる人界 の 言を 以て之を 形 容す るに由 なく‘ 固よ り尋常 人の 思議す 可き 之に非らず 、故に此の新 たに得 た る 智 識 を 以 て 、 昨 の 余 が 有 せ し 智 識に 比 せ ん か 、 其. -22-. 網沢 河上路と「無我苑」.
(7) 14巻2号 2003. 3 文学・芸術・ 文化. か絶対 の平 安 あり、絶対 の自由 あり、絶 対 の幸福あ. か。吉田松陰の志士 的意識か、木下尚江、内村鑑三ら. である。何が彼 を して、こ の心境 に到 達 せしめ た の. これは、確かに河上の人生のある段階にお ける異変. 面に涼溢せる人類の苦痛煩悶を 根本的に除去し、個人. 想を 実施せしめんとするもの也。貴人は現代社会の裏. して、個人の心霊の上に、他力主義、利他主義の大理. 我利主義の基礎 に立てる現代の思想界を 根底より破壊. 世界を 建設せんとするにある也、吾人は、自力主義、. 「吾人の期する所は我の世界を 亡ぼして無我の愛の. る。. を 通してのキリスト教か、田中正造の自己犠牲 的精神. の心霊の上に、絶対 的幸福の妙境を開顕せしめんとす. 」 り、個. か、はたまたトルストイか。どれもこれもそのことに. るもの也。 飼. l. る器というものが、河上には幼少期の照罪意識として. かかわってはいよう。しかし、そういうものを 受容す. 広い説者層を 持った。この小さな印刷物が、大きな反. 伊藤が発行したこの「無我の愛」は、好評を 博し、. この大いなる変身、豹変の直接的契機が、伊藤証信. る、この時期の特殊な状況が存在していたのである。. 響を 呼び、人を 引きつ けた背景には、近代日本にお け. あるように私には思える。 の無我の愛にあったことは、多くの人の認めるところ. 日清戦争以後、 ふくれあがってゆく日本という外型. ではある。ところで、無我の愛を 唱え、実践、伝道し. た伊藤とは、いったいいかなる人物か、そして無我の. 愛」なる雑誌を 発行し、無我の愛の実践、伝道に、八. 伊藤は、真宗大学 在学 中に、仲間 と共 に、「無我の. していた。明治三十六年五月 二十一日の藤村操の華厳. 第に希薄となり、内部全命に沈潜してゆく若者が増大. 拡大、深化があった。国家と個人の健全な緊張感は次. の裏に、しのびよる個人の内面的苦悩、煩悶、怨念の. 十八年の生涯 を 捧げた人物である⑰°明治三十七年八. た⑲。国家のためにという世俗 的出世欲など が、陳腐. の滝 の投 身 自殺 は、そ の象 徴 的 事 件 の― つ で あ っ. 愛とは。. う。その翌年、明治三十 八年 の六月 十日に、「無我の. なもの、恥になるものとして放榔される風景がそこに. 月 二十 七 日の夜、伊藤は、心的 革命 を 体感 した とい. 愛」を 創刊したのであるが、そこで彼はこうのべてい. -23-.
(8) と い う 言 菓 は 、な ん と す が す が し く ‘ 魅 力 あ る も の で. はあった。 このような時代のなかで、 伊 藤の 「無我 」. っ た 。伊 藤は 「 脱宗号 」 に関し てこうの べている。. 現実に、痛 棒を下す べく 、彼の 心情 を 吐露 し たの であ. 「 『無我 の 愛」第十号 を 特に 脱宗号 と名けて、全部赤. 始め の 間は 毎号 千部 づ :刷っ て居たが、 や が てニ 「. 封し て本山へ 郵 送し 、 同時 に郷里 伊 勢の 父母にも 此事. 上 届 と 度牒 (僧 侶 の 鑑 札の 如き も の )と該 雑誌とを 同. った理由 を詳述し て、之を天下 に発 表し 、 一 方 僧 籍返. 刷りとなし 、 其 中 に退 校 と脱 宗との 止むを 得ざるに至. 千部 と な り 三千部 と な り 、 九ヶ月 の 後には 四 千五百部. を通知し、 絃 に私は 全 く 脱宗の本壊 を遂げ終 ったので. う に語ら れ て いる 。. 無我 の 愛」の 発 刊当初 の 状況は次 のよ あ っ た ことか 。「. の二 君 であったが、 後には 数 十人 の 同人 を 得、全国新. を 刷るや う になっ た。執 筆者も 始めは 私と安 藤、 和田. 無我 の 愛」 を 誌上で強説 す る伊 藤の 主義 ‘主 この 「. 綱 島染 川、内 山愚 童ら の 熱 い支 援の 声が 伊 藤の も とに. る 支 援、激励 の声が 寄 せられた。幸 徳 秋水、 堺利 彦、. この 「 脱 宗号 」は 、広 く 世 間に知ら れ 、伊 藤に対 す. ある。 時 に明治三 十八 年十月 十日 で、私は 年令正 に三. 張は 、大学当局 を大きく 、 強く 刺 激し 、激し い攻撃に. 届いた 。 「見神の 実験」を世 に問 うこと で、世 間を 騒然. 進 の 思想 家から 多大の 同情 と同感 とを 得、名 実共 に心. さら され ることとなる。 伊 藤の無我 苑 には 近づ く な、. とさせ た綱島染 川は 、 次の よう な同情 を 伊 藤に寄 せ て. 竺 十歳 であった。. 無我 の 愛」 は読む な、と学長みず から が 学生に通告 「. いる。. 竺 霊 界 に於 ける公の 機関たら し むるに至 った。. 撃され、つい に 、 彼は 大学を退学し 、僧 籍 は 返上す る. し た 。 当然の ことなが ら 、真 宗大学派 から も 批判 、攻. 明治三 十八 年六月 に発 刊し たばかりの 「 無我 の 愛」. み、 神と共に働 く」これ小生が達 し得た る 最高 の 悟 境. て 拝 読 仕 候 … 『神 の 子 て ふ 自 覚 に 立 ち て 神 と 共 に 楽. 「『無我 の 愛」脱宗号 、少 か ら ず 同感 と 歎美点 と を 以. は 、 その年の十月 には 、 も は や 「脱宗号 」となら ざる. に候 。 これ 『自己の 運命 を全く他の愛に任 せ、 同時 に. と い う と ん だ 羽 目に 陥 っ た 。. を えな か っ た 。 血で染めら れたように真赤 なこの印 刷. 無我 愛の主義と究覚の内 昧. 全 力を 献げて他を 愛す る. j. 物 で、伊 藤は 、私利 私欲、 虚偽 虚栄 に走 る真宗世 界の. -24-. 綱沢 河上僻と「無我苑」.
(9) を 工夫し て 見たい と思うておりま し た。 しかし、 御教. が 、)社会組 織 の 工夫な ど と い う事 は、 極 々 つ ま ら ぬ. を 同じ う す るも の かと存候 、今朝 此事 に想到 し て 大歓 河 上が この 伊 藤の 「 無我 の 愛」に 関 心を 寄 せ る直接. 事 で、人 世の 平 和幸福というも のに は、 そん な廻り 遠. に よ る と 、(あ る い は誤 解を し て い る か も 知 れ ま せ ぬ. 的 契機と なっ た の は、彼の 「社会 主義 評論 」が 、こ の. い事 をせん でも、た だ 「無我 愛 」こ れ ―つの 実 行 で 即. 喜を得申候 。四」. 「 無我 の 愛」 で 、取り 上げら れ るとい う情 報を、キ ャ. そこで自分 のやっている職 業が つま ら な くな り 、博 士. :(略 )… 時 に成就できるも の の ように思われま す 。 ·. 号 で も 得 た い と い う よ う な 自 惚 が 極 々 馬鹿ら し き 事 と. ッ チした時である。河 上 は 「 無我 の愛」第 九号 を 買い 、. わが 宗教」 とも 重 なり、河 上 は戦 た。トル スト イの 「. でし ょうか。四」. な り 、何となく不 安でたまりませぬ 、 如何し たら よい. 脱 宗 号 」と な っ た 第 十 号 を 手 に し て 驚 愕 し さらに 「 慄を 覚えた 。 当時 、河 上の 内 面で は、 相反 するものが. 立 身出世の 足 が か り となる東京帝 国 大学 を 卒業し 、. 河 上を たず ね 、無我 苑 訪問 を 強くす す め 、伊 藤との会. に 心酔し 、す でに無我 苑 に入苑 し て い た 。)は、即刻 、. だ と 知 っ た 石 野準(彼も河 上と同じ 山 口県 民で 、伊 藤. 伊 藤に差し 出し た 封書の 裏面を 見て 、 差出人が河 上. 闘ってい た。 つま り、 無我 の 精神への 憧 憬、 帰着 と、. 結婚もし、 子供も 生れ 、 農科大学 、学 習院 、専修学 校. 世俗的 生活へ の 未練とが それ で あ っ た。. などの 講師の 職 にも つき 、い わ ゆる生活の 基 盤 は整 い. 見を要請し た。. 返事 を 書い てい る。. 河 上の書簡を受 けた伊 藤 は、傲慢とも とれ るよう な. つつあ っ た。これ ら を す べて放摘 し 、絶 対的 非利己主 義への道 を 歩 む べきかどうか。 人 生 の 岐路に立った河. です 。 『 社 会 組 織 の エ夫 な どと い ふ こ と は極 々 つ ま ら. 「 あなた への 御 答 は、あ な た の お手紙の 文字で 充分. 「 年末の 希望とし ておっ たの は、何か 人 世の 進 歩に. い事 をせん でも、た ゞ 〈 無我 の 愛〉こ れ ―つの 実 行で. ぬ 事 で、人 生の 平和幸福といふ も の は、 そん な 廻り 遠. 明治三 十八 年十二 月 一日 のことであった。. 上 は、こ の 悩み を 卒直に 伊 藤にぶ っつけたの である。. て、 「善を為し易 く悪 は為し難 し」とい う 様な社会組 織. 貢 献 を し た い と い う の で 、自 分 の 学 問 の 方 面 か ら し. -25-. 2003. 3 14巻2号 文学・芸術 ・ 文化.
(10) す べき です 。これ が 為に妨と な る こと. ど、実はつまらぬ 事 で、 寧ろ全 力を 挙げ て 無我 愛の 実. 即時 に 成就 で き」ま す。『さ す れ ば 、経 済 学 の 研 究 な. に及ん では 隠れ も ない 事 実となった。彼は 官 憲か ら も. る こと は 評論 の 事 に至っ て 既に世 間 に洩れ 、 その 末期. あら う。然 る に、千山万 水 楼主人 が 法学 士河 上月 で あ. j. 行 と 伝 報に 尽. 呪ま れたが 、 その 峻烈 に罵倒し た先翡教授 に対し て全. 明治三 十八 年十二 月四 日、河 上は 石野の 説 得 に忠実. j. を 見て心 機一 転し たりとし 、箪を 掴 き 稿. の 嘘で 、迷惑 千万 だとし てい る⑳°真偽 のほどは 、と も. この 白柳の 酷評に対し て 、河 上は 、これ は ま った<. を 止め て 巣 鴨 の 大 日堂に趨っ た 。四」. 『 無我 の 愛. く立 場を失ってし ま った 。 さ う し て 最後に伊 藤証信の. は、万 事 放摘 すれ ば よい の で す 。竺 に 応え 、 大 日堂の 無我 苑 を 訪れ 、 急 転 直下 、伊 藤の指 示通 り 、生 活基盤となっ てい た各大学 の 講師の 職 は 、 る決意をし たの である。河 上が 伊 藤に関心 を示し 、共. か く、こう い っ た見方が 登場 す るほど 、 この河 上の 変. す べて 投げ 捨て 、無我 の 愛の 実践 と伝道 に一 生を捧 げ 鳴 していったのは、伊 藤の 説 く無我 の 愛の 哲学 的 思 想. 身震いするほど感 動 し 、心 酔し たこの 伊 藤の 無我 の. 身ぶ りは 、 青 天の 叩辟歴だったのである。. う人も いる。 つまり、伊 藤の僧 籍返上、 大学退学を通. 的内 客も さることなが ら 、彼の 生きる姿であっ たとい. 評論」執 筆 途中 で 、も は や 千山万 水 楼主人が河 上 だ と. 河 上の 無我 苑 突 入を 酷 評す る 人 も い た 。 「 社会主義. 義を強説 し なが ら 、無我苑 の人たち は 、ぬ くぬ くと 惰. ぜ か。それ は こうい うことであった。絶対的 非利 己主. は 何の つなが り も ない 邪説 とま で罵ることになる。な. は や くも 伊 藤に強烈 な パン チを放ってい るのだ。 己 に. 愛であったが 、無我苑 への 二 回目の 訪問 で、河 上は 、. い う ことが バ レ、 権 力に 対す る恐 怖を抱いていたと同. 眠を 貪っ てい るでは ない か。この よう な 姿に河 上は 激. し ての 非利 己主義 実践 者とい う 型へ の 憧 憬だ と。. 時 に、厳し く批判 し た大先翡たち への 賄 罪 の 意識が 強. 怒 し た の で あ る 。 知行 合 一 に 理想 を 置 く河 上 の 姿 勢. は 、とう てい この よう な状況を 是認す るわ けには い か. 「若し 初め の 計画通 り 彼の 本名 が 絶対に世 間 に洩れ した. くは たら い たから だと。 白 柳 秀湖は 次の よう にい う 。 ず 、 政 府 の注意も 彼が 如 く厳峻で なか っ た こと. な か っ た 。 河 上は こ う 主 張 し て い た の で あ る 。. A. なら ば、彼は 恐 ら く無我 愛の道 場には走 らなか った で. -26-. 綱沢 河上栄と 「 無我苑」.
(11) 主義 とす る 以 上、夜分 も 寝ず に他人の ために働 く とい. 私の 方は 、い や し くも 全力を献げて他を 愛す るを 「. 神主 義 的 生活に身を 投ず るの で ある 。校 長時 代 の 山高. 十三 年には、は や くも その 校 長職 を 辞退 し 、 禁欲的 精. 尋常 中学校 長に就 任し た 清沢で あ っ た が 、 翌々 年 の 二. し た 。東京帝 国 大 学 卒業後、 明治二 十一 年 に京都府 立. 帽、人 力車 とい っ たも の は その 姿を 消し 、 行 者的 修業. う ところまで努 めねばならぬ と考 えてい たので 、 そこ し て 見て 、 何 とな く意気 の 相投合 せ ざ るも のあるを惑. が は じま るの で ある 。宗教界 の 堕落 、 腐 敗に抗し て僧. に甚 しき立 場の相違 がある 。 …(略 ) …無我 苑 を 訪問 じた も の と 見 え る 。か く て 私 は、 無 我 苑 か ら 独 立 し. の 原 点に 回帰し よ う とし た の で あ る 。. 河 上も 次の よう な決意表明を し た 。. て 、伝道 事 業を起 し 、 自分 の方は寝ね ず休 まずして事. 覚 悟 が 出来 れ ば 、こ の 際 な ん で も よ か っ た の で あ る. い きなり、 直接 的 に睡眠に執 着す る の で あ る 。決死の. 河 上は ここで何故‘ 睡眠にこだ わ る の で あ ろう か 。 、、 、、 「た と えば 睡眠 」 とい うのであればわかりやす い が 、. て い た 。し かも 私は 断乎 とし て そう し た 生 活に 突き 入. う 生 活を続 けようも のなら 、間 も な く燈れ る に決ま っ. て い た よう な か ら だ だ か ら 、 『寝ねず休 まず」な ど とい. 元来 蒲柳の 質 で 、 当時 は 生 命保険の加 入をすら 断ら れ. に 従 わ むと決意し たのである 。 竺. が、たま たま 河 上の 眼前にこの事 実が現 われたのであ. 意し たのだ、死に 直面し た の だ 。 …(略 ) •そ • • れは禅. ろ う と決意し た 。私は 死を 考 えたの で は な く、死 を 決. 「 実際い のち を放り出す 決意をし たのである 。私は. ろ う 。不眠 不休 とい う自虐に よっ て の み、この 堕落 し. 家にい う 所 の 大死一 番なるも の に 相当す る 。 四」. てし ま った己の 精神を破 壊 出来 る とい う 強烈 な 河上の 意志決定 が 、 ここにはのぞい て い る と見て よか ろう 。. し た の と類 似し て い る 。人間は どこま で生活を 簡素 化. これは 清沢満之 が 、 「ミ ニ マム、 ポ シブル 竺 を実験. ざる明快を覚 え、透 明なる こ と破璃の 如 くなるを 惑 じ. 界 に は ま っ た とい う 。 「 余 が 頭 脳は 実 に 形 容 す べか ら. 日 の 夜中に、河 上は この 世 にあら ざるよう な異常 な世. 原 稿執 箪中 の こ とであるが、 明治三 十八 年 十二 月 九. 出来、 どこま で己を 放摘 可能 か 。清沢も ま た 、絶対的. た り g」とか 、 「 余 は 俄に身体の 軽 く空 に浮 び 上る 如く. 自己 滅却、 自己否定 の 実験 ともい えよ う 。. 非利 己主義の ための 厳し い 禁欲を決意し 、 それ を 実践. -27-. 2003. 3 14巻2号 文学 ・ 芸術・ 文化.
(12) 覚 えたり 、何 物 かあ り て余 が身体 を軽 く和 かく抱 き上. り 、 つま り無我苑 が閉鎖 さ れ るま で、無 我 の愛 の実践. の大 日堂 の無 我 苑 、第 三 分 苑 に お いて、 ニ ヶ 月 ば か. うと した のであ るが、ど う いうわ け か、年 末 には 、ま. み、そ の地 で真 の無我愛 の実 践 と伝導 の任 務を 果 たそ. は、己 が入苑 してや った からだ と いう のであ る。 こ の. に、そも そも こ の無我 苑 な るも のが世 間 に知 られ た の. の発刊 中止も 、そ の原因 は己 の辞 退 にあ る 、と。さ ら. を 顕 示 し て いる。 こ の苑 の閉鎖 も 、ま た 「 無我 の愛」. この無我苑 の閉鎖 に際 し、河上は己 の存在 の大き さ. 活 動 、伝 導 活動 に懸命 なる努 力 を した のであ る。. ぐ るか如 く 覚 えたり⑳」 と い ったよ うな具合 であ る。 無我苑在 苑 の人 々に対 し、そ の姿勢 に疑 いを抱 いて. た大 日堂 の近 く に、仲 間 と共 に住 み、 そ こから 「 読売. いた河上は、 とも かく 、 こ の苑 を去 り 、本郷湯島 に住. 新聞」 社 にも通 勤 し て いる。 この第 三分苑 と呼ば れ た. この河上 の自 己宣伝的 発 言 に対 し て、伊藤 の反応 は. あ たり が、無 我 、非 利 己主義 を説く河上 にしては 、 い. 「 大 日堂 の南 二丁 目ば かり の処 に、河上兄 が寓 居 せ. 冷 や か であ る。 た し か に、河 上 が 入 苑 し た こと に よ. 家 に同居 し て いた倉内 雅 一は、当時 の状 況を次 のよ う. らる A事 とな って、之 を第 三分苑 と した。… ( 略) …. り 、無我苑 の知 名度 が多 少高 く なり は した が 、彼 の退. ただ け な い発言 な のであ る。. 今 は河 上兄 と 、兄 の令 弟 と 、炊事 す る婆 さ んと 、僕 の. 行中 止 の理由 でもな いと断 言 し、次 のよ う に いう。. 苑 が無我苑 の閉鎖 理由 でも な けれ ば 、「 無我 の愛」の刊. に説 明 し て いる。. 三 骨 との三間 であ る。四畳 の間 の窓 を 開 け 、冬 松 の景. 「 な る ほど河 上 さ ん の入苑 によ って、無 我 苑 が 一層. 四人暮 ら しであ る。屋賃 は四円五拾 銭 、四畳 と六畳 と 、火 鉢 を 擁 し て話 しす る の は大 変 面 白. 有 名 になり 、雑 誌 も部 数を増 し てゐた こと は事実 であ. A. い。… ( 略) …河上 兄 は日 々大 日堂 の座談 を写 し、 そ. る が 、河 上さん が無我苑を出 た から無 我 苑 が閉鎖 せら. 色 を眺 め つ. れを 「 人生 の帰 趨」 の原稿 にして、読売社 へ送 る事 に. に、同朋全体 ( 河 上さ んも 入れ て) の合 意 によ って、. れ 、雑 誌 も廃刊 にな った のでは決 し て無 く 、そ の反対. 一時 、伊藤 の無我 の愛 、無我苑 に対 して、激 しく厳. 無我苑 が閉鎖 され た から こそ 、雑 誌 も廃 刊 せられ 、河. g」 せられ た。 し い批 判 の矢 を 放 った河上 であ ったが 、そ れ でも 、 こ. -28-. 綱沢 河上旅と 「 無我苑」.
(13) 14巻2号 2003. 3 文学・芸術・ 文化. 河 上の 言 動 は 二の 次 で 、無 我 苑 閉 鎖 の 根 源 的 理 由. かなる意味を 持つも の であっ たの か。前 述 した 通 り 、. へ の 接 近、突入の 問 題は 、 その 後の河 上の 人 生 上、い. 若き河 上肇が 、この時期体 験 したこ の 伊 藤の 無我 苑. を 、伊 藤は 無我 苑 構成員全体 の 未熟さに求め てい る。. 経済 学 ‘と く に マル クス 主義的 経済 学の先 駆者と して. 上 さ んも苑 を 出 られ た次第であ る。8」. 伝導す る 資格も 獲得出来 てい ない ような未熟 メン バー. し、こ の よう な枠には おさま らぬ河 上の不 可思 議な 魅. カの ― つが 、この時 期に 噴 出 して い る よう に思 える 。. の河 上 の 評 価 は 、こ れ は こ れ で 重 要 で は あ る 。 しか. 奇 大 熊 信 行 が 、こ の 無 我 苑 へ の 入 苑 を 、河 上 の 「. に 、そもそも間違 い が あ っ たとい う 。その点で、河 上. が 無我 苑 の 具体 的 活動 に 対 して疑義を さ しはさ んだの. 奇行 」で も 行」の ―つにあ げたことは 、前述 した が 、「. が 、極め て 傲慢にも 、その 役 割を 担おう と したと こ ろ. うる心 眼を持っていた河 上を 、伊 藤は高 く評価 して い. 珍行 」で も い い 、私は こ こ に、河 上の 面目躍 如た る 「. は 、や む を えない とこ ろで あ る し、その 弱点 を予 見 し るのである。河 上もまた 、「 大死一 審 」で 、次のような. に 思 われ る ほど赤 裸々な純粋さを 貫い てゆく 真 摯な姿. 的 常 識などというもの に 囚われ ず 、愚 行 、愚 考 、愚 直. 童心 」 的 行為を 見る。世 の中の一般 童子」 「 幼 児」 「 「. 「 元来 こ の か らだ を 自分の私有物 と思ふ のが間違 い. 境地 に到 達 した ことを記 しているのである。 で、こ れ は 暫く 自分の 預っ てい る天下の 公 器で あ る 、. 明 治 三 十九年 二月 三日 付 を以て、 野間 真 綱 に宛 て 「. 大人」には 通 用 しな い 。河 上 は 、知人 が 夏目漱 勢は 、「. られ た も の で あ る。「拝 啓 。…… 小 生 例の 如 く 毎 日 を. とい うことを悟 るな らば 、こ の か らだ を 大切に育 て上. ことが 会得され る。 か く て 私は 、絶対的 な非利 己主義. 消 光、人 間 皆姑息 手段で毎日 を送ってい る。 これ を 思. 石の 手紙の な か に、次のような 文章 を 発 見した と い っ. を 奉 じ な が ら、心 中 奄 末 の 荻 しさ を 感 ず る こ と な し. う と 、河 上肇などとい う 人は 、感心 なものだ。 あ の 位. て 知 らせてきたことを、『自叙 伝」 に 引 用 している。. に 、こ の か らだ に 飲食衣 服を 供 し、 睡眠休 槌を 許 し、. い う こ とこ そ、 自 分の 任務で な けれ ば な らぬ 、とい う. なお学問 を も させ 智識を も 累積 させ て行く ことが 出来. な決心 がなく て豪傑と は い われ な い 。… (略)… 人間. げ 、 他は 必要 と 認め た 場 合 に之 を 天下 の 為に献げ る と. るよう になっ た。5-. -29-.
(14) い う 所 を 把 持し て 行 か な け れ ば 、 安 心 も 宗 教 も 哲 学 も. は他が 何とい っても 、自分 だ けで 安心し て、 エ ラ イ と. の でも ない 。. 欲と か 、客観化と い う も の は、ま や かし 以 外の なにも. が要 ることを河 上 は示 唆し て くれてい る。 情熱な き 禁. この時、河 上の 取得し た 宗教的 、 非合 理 的 霊 的 直観. 文学 も あ っ た も の で はない 。 敬 具。」私 は冷 か さ れ て い るのかも 知れ ない が 、 別に恥し い 気も し ない から 、. は、 その 後の 彼の 思想 、行動 を支えて ゆ く‘ ―つ の 大. て、絶対的 無我 につ なが るも の であるが 、この絶対的. き な 弾機となってい る。 宗教的 真理 と は、河 上にとっ. 普通人とい う か、常 識人 と い う か 、い わ ゆ る 世間的. 無我 の 世界の 自覚 こ そ、彼 の 求道の到 達 点であった。. 初 め て 知っ た この 手 紙を ここに書き 入れ て おくの で あ. 「大 人」 は、 皆姑息な、 つまり 一時的 間合 せ で 人 生を. る。g 」. やってい る。 河上 はその 点 、 異常 で はあるが 、 その 異. 真 骨項と な る 。. マル クス 主義 と 宗教の 矛盾を 説 くの が 、 世間の常 識. このことの自覚 と、科学的 真 理との共 存こそが 河 上の. 「大人 」 とし て生きるとい うこと は、一般的通念のな. 年こう の べている。. となってい たが 、 河 上 はこ の 交接 •共 存につ い て、 晩. 常 なところが 素晴しい で はないかと漱 石 はいうのだ。. 立て ず 、 清 濁を 合 わ せ 呑むと い う 理 屈を つ けなが ら 世. 「今 年 六十五、人生を終 らん とす る に 臨み 、絶対的. か で 姑息に 生きることである。 現 体 制のなか で 波 風を 間 で 拾 っ た 垢を 一 っ ―つ 身 に つ け て 生 き る こ と で あ 河上の 無我 苑 入り による 非利 己的 愛他精神の徹底 化. べから ず も の とし て弁証法的 統一 を形 成し つ つ 、我を. ―つ の科学的 真理 と は、 私の 心の 中 に 牢乎と し て 抜 く. 無我 とい う― つ の宗教的 真理と、 マル クス 主義 とい う. は、この 「大人 」 の 常 識的 世界を 打破す る に充分 な 行. し て 無上の 安心に 住し て 瞑目す る を 得し むる 我 が 一 生. る。. 為であった。彼の求 道 は、真 理 を 追 い 求め る 強烈な心. 性」を常 に保持し なが ら 「 大人」の 世界を歩い てい る。. マグ マの よ う な 危 険 物 を 内 包 し た 河 上 は、「 幼 児. の所 得であった、と私 は確 信して動 かない。5」. 「大人」 になるプ ロセス で はなかった。 客 観的 真理を. 情で あ っ て 、決 し て 常 識 と 妥 協 し、 そ れ に 敗 北 し て 追 い 求めるために は、 その 前 提とし て熱き 主観 ・心情. -30-. 網沢 河上栄と「無我苑」.
(15) 14巻2号 2003. 3 文学・ 芸術・ 文化. 世 間的 、 一般的 通念では 理解し 難 い「奇行」を 断行し 、. その チ ャンピオ ンであ った。 しかし、 どれ ほ ど 巧妙に. 取 り 込むこと が 近代 化の 方向と な った。西 欧的 近代 は. の世 界、 未分 化、未分 離 の 世 界 に脅威を 感 じ、 それ を. そ の 排 除 の 論 理 が 形 成 さ れ た と し て も 、こ の 「幼 児. ある 。志士的 、経世 家 的 人 物の 多くは 、この「幼児性 」. をその属性とし てい る。 河 上の尊敬し てやま なか った. 性 」的「奇行」は、地 殻の 深層にあ る マグマの よう に、. 常 識では 打破困難 なも の に断固た る 闘い を 挑 むこ と が. 吉田 松陰も 、 も ち ろん そうであ った。 松陰は 晩年 、 李. は 、 この「 奇行」 を 押え切 った と 思 った 瞬間 に、 足元. 常 に出口 を 探し 求め て さ ま よ ってい る。 近代 的 「知 」. を す くわ れ る 歴史を 経過し てきた。 そし てま た、 そ う. る。 朱 子学的 形式主 義 の 虚を 突い た卓 吾は 、完 全 なる アウト サイ ダ ーで あ ったが 、 松陰も 河 上も そうであ っ. 近代的 「知 」の限 界 を知り、「信」、「情」、「心」とい う. なるの は それ を 「知」 の力不 足 だ と思い 込ん でき た。. 卓 吾岡の 「童心 」説に傾倒し 、草 非堀起 の 起 爆剤とし て. 仮や偽 が横行する時、この 純真 、純心 は 、 止むに止ま. た。偽 物、偽 者を 嫌い 、 純真 ・純心 を我が意とする。. 非合 理 世界 を 覗こうとし た知識人は い る。 先に触れた. 清沢満之などは その 一例である。 彼の求道 のプ ロセス. れぬ 情 念とし て噴出す る。. 螢雪の 功な って、 獲得し てい た大 学の職 も 辞し 、世. を 受 けた清沢は、 一度は 徹 底的 に理屈の 世 界に 埋没 し. は そうい うも のであ った。西 欧の 近代 的 「知 」の 洗礼. た。 その際、 論理 的 整合性の 有 無が彼の価値 現 準と な. 俗的 名 誉‘ 幸福への道 を断念し た。 非利 己主義 の 徹 底. 行動 とし て、 世 間を驚愕させ ず には おかなか った 。し. った。 直観、感 性などより も 、知的 作 業を限 界までお. 化を 「 奇行 」と呼 ばずし て何と呼 ぶ か。常 執 を逸し た かし、河 上は 、この 「奇行 」 によ って救わ れ たの で は. い う 薬 物を 多 量に 飲ま され た人間の眼には 、 論理、合. し す す めることを当初の仕事 とし た。 近代的 「知 」 と. 大 人」 への道 を 極力嫌 った。 そう なること 河 上は 「. ない か。. 情 」を 打ち 消そう と 血眼になる 知 」には 、 「 信」や 「 「. 存在 す る 恐 怖 と 映る の で あ る 。 そ し て 、 そ の 近 代 的. 理と 異な る 「信 」や 「情」とい うも のは 、 閤の 世 界 に. 、「意心性 」を宿す 「奇行」 近代は 、こ の 「幼 児性」. へ の 己に 対 し 、 厳し い 禁欲と 課し た 。 を 排除す る 現 準作 成に 躍起と な る と こ ろ がある。 混沌. -31-.
(16) と こ ろがあ る 。理 不尽な 弾圧、 殺数 が 次々と 計画さ れ. マは 火を 吹い たの であ る。 そし て 、 その 噴 火は 、 その. 「こ の 時に得 た法悦の 中 の 非利己主義 の 霊 的直 観が. 後 の 彼 の 思 想 と 行 動 の 中 核 をな す も の と な っ て い っ. お そら く それ 以後の河 上のあら ゆる思想 と実践の中心. る 。清沢は 、こ の こ と を最終 的 には 理解す るが 、 そこ. 清 沢には か な わぬ と こ ろも あ る が 、「大死 一番」にみ. におかれ てい たことは 推測にかたく ない 。… (略 )…. た 。 饗庭孝男の 次の 言を引い て、 ひとま ずこ の 稿を閉. ら れ る よ う に河 上 も 必 死 の 覚悟 、 決 意 を し た 。し か. に到 達 す るまでは 、文字通り 、生 命 が けの 修雅 を、 己. し 、どことなく河 上には 一 種余 裕 の よ うな も の を私 は. 河 上は 、無我苑 の体 験から 、一 生 の 生 活方針 を得 し て. じ る こ と にす る 。. 惑 じてしま う。河 上には 、は じめから、 あら ゆるも の. た 、と 言い 切ることが できたのであ ろう。竺. ゆ く に た る ― つ の 宗 教 的 真 理 を把 握 す る こ と が で き. に 課す ことになっ た。. を呑 咽し て し ま うほ どの 巨大 な 非合 理 的 、心 情 倫理的. 注. ① 赤城和彦 ( 住谷悦治)は、「 社会主義評論」の反響について、. り 杉原 •一海編 「 河上旅 ·自叙伝」国 、平成九年、八三号。 ① 同上書、八0頁。. い 同上書‘八七頁 。 固 同上書、八八頁。 ① 同上。. 頁。 ③ 同上書、五 一頁。. j. 自叙伝 園岩波書店 、平成九年 、三七頁。 ② 杉原 ・一海編 「 河上旅 •自叙伝」日 、平成 八年 、四 一1四二. m 大内兵衛 「自叙伝の価値」、杉原四郎、 一海知義編 「河上肇 ・. な も の を、わが心 中に 備えて い た よ うに 思 える 。 ど の よ うに考 えて も 、河 上は 、 本質的にと い うか 、 生来的. に と い うか 、「知」 や それ を 磨く ことにおい ても 、 並の 人 間 を は る か に 超 え て い る が 、 そ れ 以 上 に 、彼 は 「 信」 、「情 」 の世 界 に生きる人間であった よ うに 思 え る 。 その よ うな場 所 に彼 を置く ほ うが 、 座り が い い と い うも のだ。し かし 、河 上は 身 に纏絡す る 粘着 物 を削 ぎ 落 し 、 そのよ うな世 界 か ら 必死に逃 げ よ うとし た 。 逃げても 逃げても 彼の 肉体 と精神の 内 奥に、 幼年期へ の 贖罪意識、 松陰的 志 し 意識、 青年 期 に避逗し た 数々 伊 藤の無我 苑 、無我 の 愛に触 れ た瞬間 、河 上の マグ. の激情 的 思想 家の魂が 充満し てい たの である。. -32-. 網沢 河上架と「無我苑」.
(17) する桑 田熊蔵 、亀井延、戸水寛人、田島錦治諸博士 の思想と. 次 のよ うに のべて いる。 「 明治 三十 八年 のある日、突 如 とし て千山万水楼主人な る匿名 のも とに、 「 社会主義評論」 が読 売新聞紙上に掲載され、大学教授、とく に社会政策を看板と 怯儒を反撃 し、安部磯雄、木下治江、堺利彦、幸徳秋水、片. 伊藤を こう評価 して いる。 「 氏 によれば、われわれ人間 の個. j. 体的存在 の最窮極的単元 は、絶対 に分 け る こと のでき な い 「 意識点 であ って、そ れ は、そ の絶対 的 不 可分 性 のゆえ に、永遠 に不滅 であり、かく して氏 は、自 らの形面上学説を. 根 底 とす る独 自 の霊魂 不 滅 説 に到 達 し た わ け であ る。… 略). ( . . 二、三 の卓越 した人 々を別にしては、何人も扱 わな か った独 自 の世界観体系だ った と いう ことは、今 日心 ある. 森信三 」( 人 々の、改 めた検討 に値する事柄と思う のである。 無我愛運動史概 伊藤証信 の哲学説 に ついて」、千薬耕堂 「 「. 略)…当時 山潜 の諸氏 の思想 の不徹底や矛盾を批判 し、… ( 一世 の各文家幸徳秋水 なども、境利彦と逢 ったとき、千山万 ぬと語 ってゐた と のこと、 」( 「 河上肇 博 士 の横顔」E‘ 「 教. 観 ー付 •伊藤証信先生略伝」無我愛運動史科編緩会 、昭和四 ) 十五年 、 一八五ー 一八六頁。 ⑱ 同上書、二六頁。. 水楼主人とは誰 れだろう、き っと新帰朝 の大学教授 かもしれ ) 掟」健 文社、昭和 二十 一年、二五頁。 河上栄著作鮨」第 一巻 、筑摩書房、昭和三十九年 、七七頁 。 ⑩ 「 ⑪ 大熊信行 「 河上肇」、朝 日ジ ャーナル編 「 日本 の思想家」③朝. j. 藤村 の ⑲ 安倍能成は当時を回顧 して次 のよう に の べて いる。 「 自殺が我 々に与 へた衝 撃 は大きく、未熟 の身 で人生を 『一切 か皆 無か」に つき つめ て、自殺 に駆 られ ると いふ傾 きの我 々 略)…岩波は藤 村 の自殺 に .( . にあ った ことは事実 である。. j. 日新聞社、昭和三十八年 、 一三五ー 一三六頁。 ⑬ 杉原 ·一海編 「 河上條 •自叙伝 曰‘ 10四- 10五頁。 求道者河上雅」「 文芸春秋 、昭和八年三月 、二三 ⑬ 杉 山平助 「 二貝゜. 巌頭 の感」を読んでは、林 、渡 剌激され、東片町 の寓居 で 「 」( 岩波茂雄 伝」岩 波書 安倍 能 成 「 辺 と共 に泣 いた り した。. 「 河上嫁著作集」第 一巻、五ー六頁。. 店、昭和三十二年 、六ニー六三頁 。 ). ⑭ ⑱ 同上書、七八頁。. ⑮ 同上書、七七頁。 ⑰ 大内兵衛 は、この伊藤 の無我苑、無我 の愛と河上と の関係を. 四 同上書、二0頁。. 無我愛 の真理」蔵経書院、大正十年 、十七頁 。 ⑳ 伊藤証信 「 ⑳ 同上書‘ 一八ー 一九頁。. 河上森 ·自叙伝」固 、九三i九四頁。 四 杉原、 一海編 「 河上肇博士と宗教」ナ ニワ書房 、昭和二十三年 、 ⑳ 伊藤証信 「 六頁。. j. こう のべている。「 博士は、「 社会主義評論 を書くうちに、 早 くもそ のことを やめて無我苑 に入 った。そして昨 日ま での 経済学者 は今 日は ーつの ( 世 間 から いえば 一種 のイ ンチキ. 祖国」第 二巻 第 五 唯心的人物 と唯物的人物評」 「 四 白柳秀湖 「. な)宗 教 の宣伝家 とな った のである。 」( 大内、前掲、三七二 伊藤 と何度 か直接的 に接触したこと のある哲学者森信 三は、. ) 頁。. -33-. 2003. 3 14巻2号 文学 · 芸術・ 文化.
(18) 号 、昭和四年、四九頁 。 私は 「 社 ⑳ 河上 の白柳 に対する反 論 の 一部を引 いてお こう。 「. A. 先づ無垢 の心と解 して い のだが、それが到 らな い稚 なさと. 違 ふことは勿論だ、それが大 丈夫 の直 た る志 に通 じる こと は 、これを松陰が 「 至誠」 の精神 で受 けと ってゐることで分. j. 即ちホンモノ. 、. る。卓吾は童心を振り かざ して 、忌憚なく前代 の腐梱 の形式. j. 会主義評論」を書 いて官 憲 に呪まれたと い って いるが 、当時 そんな替察方面 の煩 いと いうも のは 、影も形もなか った ので. と ニセ モノの対立が、彼 があらゆる批判 の碁準 であ った。 」. 主義 の虚を ついた。… ( 真 と「 略)・ ・ ・「 仮. ある。. :また千山万水楼主人が法学士河上架だと い 略)· .( . うことが 、執箪 の途中世間 に漏れ 、そ のために私が慌 て出 し. 社 、昭和五十 一年 、 一三 一頁。. j. 吉 田松 陰 —武 と儒 によ る人間像 文芸 春 秋 ( 河上徹 太郎 「 社 、昭和四十三年 、三六0頁。 ⑱ 堺庭孝男 「 河上成年 」「 近代 の解体 ー知識人 の文学」河出魯房新. 主要参考 ·引用文献 ( 河上雑 の著作は省略). 」 たも ののよ う に言 って いる が、これ ま た全然 嘘 であ る。 ) 河上珠 •自叙伝」日 ‘ ―ニ ―頁。 自画像」 、杉原 ・一海編 「 (「 四 同上害 、 一―ニー ―一三頁。 ⑳ 寺川俊昭は次 のような意 味 で使われ て いると いう。 「 そ の当 面 の意味は 、人間が生命を つなぐ に足る最 小限の可能点を確 かめようとす る実験と いうことである。真宗 の俗諦勤倹 の教 えに基 いて、生命を保持し つ [衣食をど こまで捨 てることが. 無我愛 の真理」蔵経書院 、大正十年 。 伊藤証信 「 j. 」寺川俊昭 「 消沢満之論 文栄堂 できるかと いう実験 である。 一0二頁。. j. 河上婚」吉川弘文館、昭和三十七年。 住谷悦治 「. 安倍能成 「 岩波茂雄伝」岩波書店 、昭和三十 二年。 古 田光 「 平ー近代日本 の思想家」東京大学出版会 、昭和三十 河上匹 四年。. 年。. 赤城和彦 「 河上楷博士 の横顔」( 上 ・下)「 教投」第 一巻第 ニー三. 白柳秀湖 「 唯心的 人物 評 と唯 物的人物評」 「 祖国」第 二巻 第 五. 号 、昭和四年 。 杉山平助 「 求道者河上成平 」「 文芸春秋」昭和八年。. 、. 書店 、昭和四十八年 ‘六七頁。 河上成中 ・自叙伝」国 四 杉原 ・一海編 「 ⑳ 同上書 、 一0九ー ―10頁。. 号 、昭和 二十 一年 四ー五月。 伊藤証信 「 河上指 博士と宗教 ナ ニワ書房 、昭和 二十三年。 天野敬太郎編著 「 河上成平 博士文献誌」日本評論新社 、昭和三十 一 J. ⑳ 同上書‘ ―10頁。 図 伊藤 「 河上條 閣士と宗教 、 一五ー 一六頁。 図 同上沿 、 一八頁。 ⑳ 杉原 ·一海編 「 河上僻 •自叙伝」国、 一―六頁。. j. 図 杉原 ·一海編 「 河上架 ·自叙伝」い 、 一四五ー 一四六頁。 河上嫁 •自叙伝 口 、岩波書店、平成 八年 、 ⑳ 杉原 ・一海編 「 五 一ー五二頁。 ふに童心説は松陰 と卓吾 の思 想 の楔機 である。童 心とは 一と. ⑰ 河上徹 太郎は 、李卓吾 と松 陰 に ついてこう の べて いる。 「 思. -34-. 綱沢. 河 上索 と 「無我苑」.
(19) 千葉 耕 堂 「 伊藤 証 信 と河 上 柴 」 「 大 法 輪」 昭和 三十 八年 五月 。. 本 の思想 家 」 ③ 、朝 日新 聞 社 、昭和 三 十 八年 。. 大熊 信 行 「 河上婚 ー求 道 の マルキ スト」、朝 日ジ ャーナ ル編 「 日 唐 木順 三 「 新 版 ・現代 史 への試 み」 筑 摩書 房 、昭和 三十 八年 。. 房 、 昭和 三 十 九 年 。. 大 内 兵 衛 編 集 ・解 説 「 河 上 嫁」 〈 現 代 日 本 思 想 大 系 ⑲〉 筑 摩 書. 「 近 代 日本 を 創 った百 人」山毎 日新 聞 社 、昭和 四十 一年 。. 大 河内 一男 「 河 上成手と求 道 の科 学 」、大河内 一男 ・大 宅壮 一監修 天野敬 太郎 •野 口務編 「 河 上 栄 の人間像」図 書新 聞 社 、昭和 四十 三年 。. 四十 三年 。. j. 河上 徹 太郎 「 吉 田松陰 ー武 と怖 によ る人間 像 文芸 春秋 社 、 昭和. 運 動 史 科 編 謀会 、昭和 四十 五年 。. 千蔀 耕 堂 「 無 我 愛 迎 動 史 概 説 —付 •伊 藤 証 信 先 生 略 伝」 無 我 愛. 和 四十 五年 。. 河上 皮年 」〈 住谷 一彦 編 狐 ・解説 「 日本 の名著 ⑲〉中 央 公論 社 、昭 藤 田省 三 「 転 向 の思想史 的研 究 ーそ の 一側面」岩 波書 店 、昭和 五 十年 。 「 河上栄 ー生 誕 ―0 0年 」 「 思想」 昭和 五十 四年 十 月 。 j. 山 田洸 「 河 上 成ホ 〈 人 と思 想 ③〉 清水 書院 、昭和 五十 五年 。. -35-. 2003. 3 14巻2号 文学・芸術・ 文化.
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