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僧稠の心法と僧安道一

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稠の心法と





田熊信之

はじめに 北齊王朝初代の皇帝 文宣帝高洋に格外の篤敬を受け、懇請されてよう やく京都 城に至ることになった老沙門 稠は、帝自らの迎接を受け扶持 されて宮室に入り、帝問に「榮華世相不可當保」と説き、戒法を授け四念 處法を勧め帝業を教導したとされている。こののち 稠は、帝勅によって、 城西南の地に方法師が創立した雲門寺の重修を進めこの地に住し、また帝 室の営造した石窟大寺の主に据えられ、僧衆を綱領、教化してその影響を 後代に及ぼしている。 稠は一代の禅匠で、その八十一年に及ぶ生涯が、 唐代の 宣の筆によって『續髙 傳』卷第十六の条下に詳しく記述されて おり、また、晩年を過ごした河南安陽郊外の善應小南 の明眉な故地に、 禅観修道を行なった小石窟が遺存している。 髙齊の河北は 獨り 稠を盛んとし、 氏の關中は びて 實を登す。 寶重の冠たること まさに澄 安を駕 しの き、 神  ずる 禦を制伏す。 ……略…… 惟れ此の二賢、踵を接し 燈を傳へ 化を流 ひろ め 歇むこと靡し。 ……略…… 屬 このごろ 菩提 なる あり、 神化 宗に居り 江洛を闡 す。 大乘の壁觀 功業最も髙し。 ……略…… 稠は念慮を懷ひて 範 崇ぶ可し、 は虚宗を法とし 玄旨 幽 たり。 崇ぶ可きは則ち 事 顯はれ易く、 幽 たるは則ち 理性 じ きなり。 と 宣が綴るように 注1 、關中の 實、江洛の菩提 と共に特記される 稠 は、皇帝から顕官、僧衆、衆庶に至るまであまねく化導し、その門流の朝 代を超える活動のもといを築き起こしている。 本稿では、こうした 稠及びその門流と、それに密切に関ると推測され る 山東 、河北地 区 の 摩崖刻経 造顕活動の主導 者 である 安 一 (壹) の 実 像 の一 斑 に つ いて、 稠の 閲歴 やその心法を 探 り つつ 小 攷 を 試み て み たい。 ― 2 ― 学苑 第八 五七号 二 ~ 二一 ( 二 〇 一二 三 )

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稠の閲歴 文宣帝から國師大德として最大の崇敬を受けたという禅匠 稠の閲歴は、 稠が晩年を過ごした故地に遺存する禪窟内外の彫像、刻経、刻字と共に、 代京師長安の西明寺に住した沙門釋 宣が綴った詳伝の中から確認する ことができる。南山律宗を創めた 宣本人は、その師承を京師弘福寺智首 ↓相州雲門寺智旻 ↓と り直接 稠に連なる法脈をもっていて、法祖 稠 の伝文を綴る折には、その故地を訪れ荒涼たる現况に生滅の きを興しつ つ、伝えられた「行圖」を閲ていたことをその伝文末尾に書き添えている 注2 。 いまその伝文、 佛陀 ( ) 禅師、 菩提  、 可、  についで記される 「齊 西龍山雲門寺釋 稠傳 八」 を一 、 その概要を摘記することとし たい。伝によれば 稠は次のような高徳の僧であったとされる。 稠は昌黎 (現河北秦皇島市西南部、 渤海に臨む地) を祖籍とした鉅 の 陶 (現河北寧晋西南部、 陽河中流域の地) に移った孫氏の出自で、 生ま れながらの性ともちまえの器量は純懿、孝順の者として名を知られ、のち 俗書から経、史までの学に通達し、徴 め されて太學の博士となり、古典籍を 講解するや世を蓋うほどの名声を博した人物である。仏典を一覧してもす べてを解悟するといったことで、二十八歳の折、郷里鉅 の景明寺の 寔 法師のもとに入り出家、のち経論を尋ね学ぶなどして「財法 辯」の五願 を発して励んだ。はじめ佛陀禅師の高足、 房禅師について止観を学び実 践し、禅法を受けて北の方定州の嘉魚山に遊行するが摂証を得られなかっ たため、山を出て『涅槃經』を誦読しようとした折、たまたま泰 岳 から 来 った一僧に 遇 って 修 禅の要 旨 を 示教 されこれに 従 うと 心 を摂し定を得たと いう。涅槃 行 四念處 法に 依 りそこで 眠夢覚 見 に 至 って 慾想 をも 脱 はな れるこ とができたというのである。それより五 夏 を経て 趙 州 障供 山の 明禅師の もとに 詣 り、十 六特 法の禅法を受け、 九旬 一 食 、 石上 に 単敷 し 昼夜 も わ かた ず専 心修 行して、摂 心 入定し得たが、またつねに 死想 を 修 し、 賊 をも 教 化 して 肉慾へ の 誘 いも 退 ける定 力 を得、定より 覚 めるや 情意澄然 となっ たとされる。そこで 少林 寺祖師 三蔵 佛陀禅師のもとに 詣 り、自らの 所 証を 呈 すると、 師から 「 自 葱嶺已東 、禪 定 之 最、 汝其 人 矣 。」と 感嘆 激賞 の 語 をうけ 深 要を 授 けられ、 嵩 岳 寺に住するに 及 んでいる。 この 後 の 稠傳には、 多数 の 神異 の 事迹 が記され、 例 えば、 衆 僧が 訶遣 した 弊衣挟箒 の 婦 人が 神 であることを知り、 衆 僧の行 道 を 加護 さ せ るに 至 ら せ た経 緯 や、 懷 州 王屋 山に 至 って 修 法する折、 咆闘 する二 虎 を 錫杖 で中 解さ せ た 逸話 、また 仙 経二 卷 が 忽 然 として 床 上 に 在 り、稠の 胸奥 の 吐露 に 須臾 にして自 失 した 奇話 が 語 られ、ついで、 懷 州の 馬頭 山に移った 後 のこ とが記されている。 懷 州の 馬頭 山に移った折に、 北 魏 の孝明帝 ( 元 ) の お召 しを受けたが、 「 天 之 下莫非王 土 、 乞 在 山行 、 不夾 大 。」と 言 い 三 たびこれを 辞 退 し 帝の 許 しを得た。そこで帝は 供 物を 送 った。また北 魏 の末帝 孝 武 ( 元 修 ) も 永熙 元 年 (五 三 二) に お召 しになったが山を出ることがなかったため山 中の 尚 書 谷 中に禅 室 を 立 て 徒 衆 を 集 めて 供 養 した。これよりのち北の方 常 山に 居 を 転 じたが、定州 刺 史であった 婁叡 や 彭城 王 の高 攸等 が 又默 の大 山に 至 ることを 請 うたためその地に 帰戒 をはじめ ひ らいた。すると 奉 信 者 が 殷 うこととなり 燕 趙 の 境 の人 心 を 教 化 することとなった。 時 に名 利 に 纏 わ られる者を 修 善 、 息 心 の 道 に 導 いている。こうした中に 朝 代は 東 魏 から 北齊 へ と 変 わ り 新 王 朝 が出現するが、 初 代文宣帝は、 稠の 風 徳を 久 し く 耳 にしていて、 群 生 教 化 のために に 赴く ことを願い、 ― 3 ―

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希 荷錫暫 承明。思欲弘宣至 、濟斯苦壞。至此之日 須 山。當任 東西無 留 。 と懇請するが、 稠は、 居山積稔、業濟一生。聞有勅召、 無承命。 としてこれを辞退し続けた。しかし苦渋の思いの中山闕を出ようとすると、 両岫が忽然として驚震し悲切な響声がおこり人畜を駭擾させ禽獣が飛び走 ること三日に及び、これに思いを深めつつ、 慕 懷仁、觸 斯在。豈非愛 易守放蕩 持耶。 として、帝に事え帝都に留まることを約さず、帝城 の地に赴くことと なった。この時文宣帝は大いに喜び、躬から城郊まで出向いて 稠を迎え、 扶持しつつ入内させてその教えを聴いた。 稠はそこで、三界は本もと空 なる存在で国土もまたしかり、栄華のこの世の相は常には保ち得ないとの 旨を説き、四念處の心法を広説すると、帝は毛を逆立て冷や汗を流す思い で、神の道を受けることとなった。帝の身にする学が周かったために時を 経ず深定を体得し以後いよいよ ( 稠の) 清 を承けることとなった。 ま た菩 戒法を受け、断酒、禁肉、鷹鷂の放捨及び官の畋漁の停止を実行、 仁なる国をつくりあげることとなった。天下の 殺を断ち止め、月六回、 年三度の斎戒の実施を民に勅し、官園、私菜での葷辛の栽培をすべて除か せるに至った。 稠は別日に帝が外護檀越となりたい旨を告げると、菩  の弘誓は講法を心 むね としており三宝を棟梁として四民を導引すべきである、 とこれを固辞したという。 稠は禁中に留まること四十余日、日々明 を垂説したが帝はこれを奉 じ失なうことがなかった。 稠は道化をあまねくすべきことを思い辞して 本住に帰ろうとしたところ、帝は諧謁が或いは困難となるとして天保三年 に勅命を下し、 城西南 八 十 里 の 龍 山の 陽 に 精舎 を 構営 しそこを 雲門寺 と 名づ けそこに居らしめた。また 石窟 大 寺主 を 兼 ねさせ、 二寺 の 綱位 に任じ た。教 練 する 僧衆 は 千 にもなろうとする 数 であった。帝は国内の 諸州 に勅 して別に 禅肆 を 置 き念 慧達 解 の 者 に ( 禅 を) 教えさせた。 帝は国 を三 分 し、国 家 、 自用 、三宝 用 とその 各 々を 充 てたためこの 上 ない 仏 化の 隆盛 が もたらされた。帝は年 ご とに勅をもって 銭絹被褥 を 送 り 寺 中に 庫 を 置 きそ れらを 貯 えさせたが、 稠は 「仏 法の 要務 の 志 は 修 心に在る。 財利 は 俗 事 を 動 かし道化に 乖 くことになる。 」 と 書 を 致 してこれを 返戻 したという。 帝は 侍御徐子才 や 崔 思 和等 に勅し 諸 薬 を 送 り、 僧 の 疾 苦を 見 る時は常に 衞 を ひ きいて 幸観 する ほど であったが、 稠は 小房 に居り帝を迎 送 する ことは行な わ なかった。 弟 子 がこれを 諫 めると 賓頭盧  の 故 事 ( 王 を迎 えること 七歩 、しかしその後 七 年で 王 は国を失なうこととなった) を告げ、 吾 が 誠德 の ばざ ること、 未だ敢へ て 自 ら かず。 形 相 冀 はくは帝に を 獲ん ことの み 。 とその心 意 を 示 した。時に人々は大法を 敦 く 慎み信 を人に得ることを 賛美 した。 こうしたのち、 黄 門 侍 郎李奬 が 諸 大 徳 とともに 禅 要 を出 だ すことを請う と、 稠は 『 止 觀 法 』 二 卷 を 述 した。 稠は 北齊乾 明 元 年 ( 五 六 〇 ) 四 月十三日 辰 時に 患悩 なく 端坐 して山 寺 で 卒 した。 春秋 八 十有一、法 臘五 十 夏 であった。 臨終 の日には 寺 に 異香 が 満 ち聞 ぐ 者 は神々しさに 悚 れを 抱 い た。 帝 ( 廢 帝 高殷 ) は 襄樂 王 を 遣 わ して 慰安 、 物 五 百段 、 千僧 の 供 奉を 贈 り 雲門寺 で 追福 を行な わ せた。 皇建 二 年 ( 五 六一) 五 月に至って 弟 子 の 曇 詢 等 が 奏 請して 塔 を 起 てた。 この 折 帝 ( 孝昭 帝 高 演 ) は 詔 を下し大 禅 師 を 追 悼 、 起塔 の 由来 を 記 し、 千僧 の 齋 をたて 物 千 段 を 贈 ったという。また 芳 ― 4 ―

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迹を標樹しこれを後代に示すため、右僕射の魏 に勅して碑文を製らせた。 稠の遷化には哀慟者が後を断たず哭声が流川の如くどよもし続き、また 白鳥数百が火化の煙上に徘徊し哀切に悲鳴してしばらくして飛び逝った。 そうして寺の西北に 塔を建てたが、つねに霊景、異香があり道俗に応じ ていることであった。 宣の記す伝文には、こののち 稠の仏家への奉信以来の数条の事迹、 神異、霊験が綴られるが、讒誣による文宣帝の大怒が 稠の知力によって 霧消し、帝自らの好殺の性の由来があかされたこと、天保十年三月の下問 に帝と己れの命寿への解悟が語られたことなどが並べられ、伝末に至って 以降の寺宇の変遷が神異まじりに次のように述べられている。 寺宇 供勞賜優渥。齊滅 廢、以寺賜大夫柳務文。文又令其親辛儉守、 當將家入住、有神怒曰、何敢凌犯須陀 寺。而儉未幾便卒。隋初興復奄 同初構。六時禮懺、 若聲寰寓。大業之末賊所盤營、 房宇孑 、 餘皆焚蕩 注3 。 二 稠の門流 では 稠の薫育した 徒の二、三を『續髙 傳』及び刻石資料等から徴 しておくことにしよう。 ○釋曇詢 (『續髙 傳』卷第十六 禪初 「隋懷州柏尖山寺釋曇詢 注4 」) 弘農華陰の楊氏の出自。二十二の折白鹿山北 霖落 泉 寺に 遊 び曇 准 禪 師 に って 剃髪 、のち 受具 。自 宗禀心學 を 攝 め 戒律 を 円備 し 法 華を 誦 すな どして 行 道。 稠の 教え を 受け その 高足 となっている。この曇詢は 稠 の遷化後、 起 塔を 奏請 して 実施 した 弟子 として 宣が 特 記していて、そ の伝 中 には、 師 僧 稠と同じ二 虎 の 相闘 を 錫 を 執 って 分 かった 逸聞 が記 されている。 同 学 の 智舜 伝の 中 には、 「 念定 を同 修 すること 四 年を 經 」 と 書 かれている。曇詢は隋の 開皇 末年、懷州の柏尖山寺において 八 十 五 才 で卒し 法 臘 は 五 十年であった、という。 ○釋 智舜 (『續髙 傳』卷第十 七 禪 之二 「隋 趙郡 障洪 山釋 智舜 5 」) 趙 州大 陸 の 孟 氏の出自、 少 くして 書 生 となり 古籍 に 博通 し、 工 書 、 善 説 、 庠序 での 活躍 をしたが年二十餘で出家、 雲門 寺の 稠 公 に 師 事しの ち白鹿山に 居 ること十年、曇詢と 念定 を 四 年に わ たり同 修 した。その後 北 、 贊 皇 の 許亭 山に 結 業、 ここで 修 した。 「性 少 貪悩 、 手不 執 財 。 見貪餒 、 垂盈面 、 或 解 衣 以 給 、 或 口 以 施 。」と い う 。 仁壽 四 年 (六 〇 四 ) 正 月二十 日 七 十二 歳 で 元 氏 縣屈嶺 の禪 坊 で卒しこの山 側 に 葬 られたが、のち 舜 を 慕 う房氏 縣界嶂 洪 の山 民 がその 屍柩 を 掘 り出し 巌 中 に め、三年の後にこれを化火、 崖 上に白塔を建て 舎利 を 収 めたとされ る。 智舜 は、 「 轉讀藏 經 凡得 四 。 左 手 執 卷、 右 手 執 燭 、十 宿 五 宿 、 目 不 曾斂 。」という 勉 學 ぶ りで、 「 佛名 贊 德 、 誦 如流、 昏晝 六時禮懺」の 実修 を 通 した 生 涯 であったと記されている。 ○ 纖 ( 河南安陽 善 應小南 石 窟 中 窟外壁題 刻 注6 ) この 僧 については 稠 ゆ かりの 禅窟 の 壁 面 に「 雲門 寺 僧 纖 書 」と 名 を 留 めるの み であり、 僧 伝とその 他 の資料にその 閲歴 に 関 する記事を徴し 得 ないが、 稠の 直 弟子 の有力者と 見 られる。 ○ 賢 ( 河南安陽 善 應小南 石 窟 中 窟外壁題 刻、 『續髙 傳』 卷第二十 (二十 五 ) 禪六 「 衞 州 霖落 泉 寺釋 倫 」、 「大齊 故昭玄沙 門 大 統 僧 賢 墓 銘 注7 」) この 僧 についても、 旧 来 稠 禅 観 実修 の 故 迹 小南 石 窟 中 窟 の 外壁 上 の 題 刻と『續髙 傳』 中 の釋 倫 の伝文 中 に わ ずかにその 名 を徴するの み であったが、二 〇〇 七 年、 墓 誌 の出 土 を 見 て、その 閲歴 を 確認 し 得 る ようになった。 詳 細 は 既刊 の 拙 文に 譲 るが、 雲門 寺の 沙 門 統 を 経 て、 ― 5 ―

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時の昭玄曹の長、沙門大統にまで至った禅匠で、北齊中後期の仏教界で 重きをなしていた傑僧である。山西の桑乾郡桑乾郷の張氏の出自で、夙 く才学を発揮し仏門に投り出家、年二十九で内起居、法集を勅修するな どして頭角をあらわし、沙門統、沙門大統に任ぜられ官大寺の總持、興 聖の二寺の寺主となり教法を転ずる中、 武平元年 (五七〇) 二月五日に 遷化、 西の野馬崗東北二里の地に 葬されたことが判明している。因 みに釋 倫傳中の文を添記しておくことにしよう。この記事には年次、 事迹伝承の誤りがあること墓誌銘がこれを証している。 齊武平九年、 與父至雲門寺 賢統帥、 珉禪師所、 受法出家。 ……略…… 周武平齊時年十六、與賢統等流離西東、學四念處、誦法華經。至開皇初 興佛法。雲門受具、時二十三。 ○ 旻 (『續髙 傳』卷第二十二 明律下 「 京師弘 寺釋智首 注8 」) この僧の詳伝も不明であるが、 宣の師である智首律師の伝中に、 初投相州雲門寺智旻而出家焉。旻亦禪府龍驤、心學翹 。 稠公之神 足也。 と見えることから、 稠の直弟子であったことが確認できる。なお衞州 霖落泉寺釋 倫が師事した珉禅師はこの僧の訛傳である可能性があるよ うに推想される。 ○法懃 (河南安陽天禧鎭永慶寺現存「法懃法師塔銘 注9 」) 河南の南陽白水から河東伊氏縣に移った張氏の出自で、河北の鉅 の 景明寺で出家、理もて七支を御し、禅を めて智を照し、その才幹をた すす かめ大寧二年 (五六二) 正月五日、 六十九臘で雲門寺に薨じたと記され ている。世 寿 の記 載 はなく直 接的 に 稠との 関 りは記されていないが、 寺主であった 稠が遷化した (乾明元年 (五六〇) 四月十三日遷化) 翌々 年に 高齢 で薨じているとこ ろ からすれ ば 直門の弟子と見て誤りはないと 思 われる。 ○  (『續髙 傳』 卷第十九 禪四 「 唐 京師化 度 寺釋  」、 「化 度 寺 故  禪師 舎利 塔銘 注 」) 山西 太原介休 の 郭 氏の出自。十三 歳 、 親 に 違 いて仏 道 に 入 る べ く 西 の雲門寺で 稠に師事して出家した。 「禪 慧 靈 、 戒行標異 」の  に 稠は禅法を 授け た。 数 日を 経 て  が 稠のもとに至ると、 稠は  を 撫 で 慈 し ん で門 人 らに 向 かい 「五 停 四念、 將盡此生矣 。」と 言 った という。そこで  は 林慮 山中に 往 き、 定 門に 栖託 したが、 末 法の世と なった周武平齊の 折 、 難 を 避 け て白 鹿 山の 深森 の下に 入 り 行道 を 続 け た。 の ち隋 の開皇の世に 復 仏となっても、  は 遯 世 幽 居していた。これを 知 った 旧知 の 信 行 禅師が、 使 を 遣 り、 修 道 立 行 、 宜以濟 度 爲先 。 獨善其身 、 非 所 聞 也。 宜 盡 弘 益 之 方 、照 示 流 俗 。 と 告げ たとこ ろ 、よう や く山を出で 行 をともにし、正 節 を 同 修すること となったと記されている。 貞觀 五年 (六三 一 ) 十 一 月十六日、 世 寿 八 十 九で化 度 寺に遷化、 遺命 により 終 南山に 霊魄 を 奉 じ、門 徒 はその 遺骨 を 収 めて 信 行 禅師の塔の 左 に起塔している。 稠の伝文をはじめにこれらの禅匠の記 述 の中には、仏家 宣の 祖 流 先 師等 へ の 称揚 の 気象 を 含む とこ ろ がないとは 言 えず、そうした 部分 は 語 文を 減却 して 読 む べ きであ ろ うが、 稠の門に 育 ったこれらの 諸 匠は、 各 々 の時、 処 、 位 に 従 って、四念處、十六 特 法にはじまる、 稠が 身 現した 神 異 、 霊 験 をも つ 心法を 敷衍 、 実践 し、 衆苦済 度 を 進 めていたも のと見られる。 ― 6 ―

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三 稠の心法 『續髙 傳』から ここで 稠の心法を省察してみることにしよう。 先づ 稠は、出自地鉅 の景明寺で 寔法師のもとに出家したのち、経 論を学び、 ついで佛 (跋) 陀禅師の神足  房禅師の教化に従い止観を受 け行じた、と記されるように、止観の心法を学んだと見られる。この止観 の内容については伝中に詳説がないが、後続の文に「歛念之を久しうす」 とあるように念慮を斂め止め妄念を止息させる一法で、隋の淨影寺慧 の 著『大乘義章』卷第十に説く「守心住 、離於散動。 」「止心不亂」 「觀 」 (觀智  ) の法  と見られる。 稠の心法を伝録すると推測される敦煌文献 「稠禪師意」 (大乘安心入 之法) (後 述 注 ) 中の 「頓止諸縁、 妄想永息」 の心 の看攝法、 乃 至同 「大乘心行論」 (後述) 中の 「除意地攀 心」 「守心為本、 心無攀 」の行法の一であろう。 この後、 稠はこの止観の心法を定州の嘉魚山中で行なうがその効果が 得られない。そこで 稠は山を出で『涅槃經』を誦持しようとするがその 折泰岳からやって来た一僧に遇って、 「修禅は慎しみて他志無く行なうこ と (が肝要) で、 一切の生きとし生けるものは初地の味禅があるゆえ、 必 ず 縁することが必要である。 願 いもとめて遂げられぬということはない。 」 との導きをうけ、これに従って執着の払除が肝要であることを覚り行を進 めると心を摂 おさ め果然として定を得たという。 『涅槃經』聖行品の (さとりへ の聖らかな行法である) 四念處法に依るべきことを知ると、眠夢、覚見に至 っても慾想が無くなったというのである。 こうした四念處法については、肉体の不浄、感受作用からの苦、思考作 用からの苦、存在への執着の各々の打破をすすめるもので、身、受、心、 法の各念處を観察して、常、楽、我、浄の感受を智慧の力により破却する ものとされる。因みに、 『大般涅槃經』卷第十一「 行品第七之四」では、 分別真諦について文殊師利が佛陀と問答する中にその語が示されている 注 。 また同經卷第三十「師子吼菩 品第十一之四」には、師子吼に対しての説 示として「無住」の顕在行としての四念處の内容が詳述されており、そこ には常楽我浄そのものを真実とする絶対肯定の観法が語られている。 稠はこの心法を行ずること五夏ののち、 趙 州 障 供 山の 明禅師のもと に 詣 り十 六特 法を受け、 食鞭 心、 九旬 一 食 で 昼夜 を別たず 勉励 したと いう。この十 六特 法は、淨影寺慧 の『大乘義章』卷第十 六 に四念處に 配 して語 解 されている 注  ように五 停 心攝法のこと、すな わ ち 境 界 の不浄なる 相 を観じ 貪欲 を 停 止することからはじまり 気 息の出入を 媒 に念念生 滅 する 実 態 を観じ、無常、 空性 を体得するまでに至る五 種 の観法とされる。 稠 はこうした中に 死 想をも修し、 危 害災厄 の 防遏 、慾 情 の 停 止、 鎮静 化を果 たし、 少林 寺三 蔵 佛陀禅師から 賞讃 されて 仏 法の 深 要を伝 授 されている。 こうして見ると 稠の心法は自らの得 道 解 悟 を 目指 すのみの 小乗 系 の 階 次的漸 進 的 禅法に従ったものであるかのように観察されるが、 稠自身が、 法師 紹繼 四依、 弘 三 藏 、 使夫群有識邪正 、 幽 、 ……略…… 皆 禪 業 初 宗 、 趣理 之 弘 敎 、 歸信 之 漸 發 。 蒙斯人 、 …… と述べる 通 り、自らを 媒 にして 弘 く 群有 各々の覚 醒 、 済度 への 道 筋 を顕在 化してゆこうとする心法でもあったと見られる。こうした 稠の心法の 具 体 的 様 子については、 柳田 聖山 氏 が「 ダルマ 禅とその 背 景」 、「初 期 禅 宗 と 止観思想」 ( 柳田 聖山 集 第一 巻 『禅 仏 教の 研究 』法 蔵 館 一 九九九 一一) 等 で 小乗 系 とする見 解 を、 また 沖 本 克己 氏 が「 稠について」 (『 仏 教 研究 の 諸問 題 』山 喜 房 仏 書 林 一 九 八 七 四) で、 伝 統 的 小乗 禅観とともにそれに ― 7 ―

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もとどまらぬ禅観を修していたものとする論攷を示している。そしてまた その実修、行道については、その現場であった小南海石窟中窟の構造と内 外壁上の彫像や刻字にもとづき、内奥に潜む滅罪の思想と救済の実現に向 けての実践行、 成 仏への速修の消息の解析を進めた稲本泰生氏の詳攷が ある  。 稠の実践した行道は、懺悔と禅観、礼仏行が重ねられたものであ り、そのもとには、濁する紊亂熾烈な世相と政情、狂気に満ちる王侯貴顕 の挙動を睹る現実を背景に、末法を覚取した透徹した眼があり、自己自身 を含めて、衆庶、王侯を救済しようとする確乎とした志向があったようで ある。殺父の重罪を背負う阿闍世王のごとき者、また、永却済度不能とさ れていた一闡提が、懺悔と発心、念仏と礼懺の途筋の中からこそ救済され る、 とする諸経、 殊に 『大般涅槃經』 『觀無量壽經』 を依用する 稠の心 法、行道は、浩然としたものであったように思われる。因みに、こうした 当代の心法、禅観、念仏、礼懺が、石窟寺院の主尊、毘盧舎邦佛の坐形を、 旧来の吉祥坐とは異なった降魔坐の定形にしているように推測される。 四 稠の心法 敦煌文書から さて、こうした 稠の心法、行道は、前述の門流の叡僧らによってひろ く後代へと伝えられ、并せて菩提  の系流の中にもとり込められて行っ たようであり、大 神秀の北宗禅の流れを承ける者が書き残したと考証さ れる 稠の名を冠した遺文が確認される。この遺文は長卷の敦煌文書 P.三 五五九及び P.三六六四後半に抄写されるものであるが、 P.三五五九は神田 喜一郎氏がパリで確認し、自編著『敦煌秘籍 留眞 』 (昭和 一三 年) に写 真 を 収 め論考を発 表 したことから 知 られるようになったもので、のち 柳 田 聖山 氏が 「傳 法 寶 とその 作  ペ リ オ 三五五九 號 文書をめ ぐ る北宗 禪 究資料札 」 と 題 した論考 注 を発 表 しこれを 紹介 している。 P.三六六四については神 田氏が注 意 を 払 っていたようであるが、当 時 の 柳 田氏の論中には 紙 背を含 めたこのものについての 言 及は 見 られない。 P.三六六四は現 在 その書 影 が 公刊 されて お り 注 、敦煌 研 究 院編『敦煌 書 總目索引新 編』中の 説明 によれ ば 、 P.三五五九と 接合 するものであることがわかる。ここでこの文書の 概 要 を示して お こう。 先ず首部 である。この 部位 は上 下 に 断欠 、 欠損 が 見 られるが 標 題 の一 部 「 圓 明 論 」 の文字が残 存 し、 続 いて 空格二 字後にこの論中の 各品 の名 称 、 「 明 心 色 因 見 品第 一 」 から 「 明 心 色 □□□ 第 十 」 までが 記 され、その 各 々 の本文が 鈔 書されている。これらの本文について、 柳 田氏は、 如來藏 思想 に 関 するもので 特 に北宗系の 人 の 作 品 のようである、と 評 している。な お この本文はどのような 理由 があったのか 第 八 にあたる 「 □□ 妄 相 品第 八 」 の 全体 が 脱 写されている。 これに 続 いて、 「 佛 論 釋 」、ついで 州忍 和 上の 最 上 乗 論を述 べ る 「 導 凡 悟 解 宗 脩 心 論 」 が抄写され、その 附 記 に秀 和 上 ほ かの 釈 僧の伝承 句 文、観心の法を述 べ る文が 記 されている。 柳 田氏は、これらの中に 極 め て 漸次的方便的 な内 容 が 見 られることを 指摘 し、 「 寧 ろ 何等 か小 乘 的 禪 法 に本づくものかも 知 れぬが 」 とし、 後 続 の 問答 や 韻 文などを 通覽 、「 看 心 看淨 的 と される神秀 禪 の、 より一 具體 的 な 側面 を示している 様 である。 」 と解示している。 こののち文書には 京兆杜朏 字 方 明 になる 「傳 法 寶 記 并 序 」 及び 同 本文 の 「 七 一卷 」 ( 末 尾 に 「 大 通通 ・ 和 上 塔 文 」〔 通 は秀の 誤 記 と 見 られる 〕 を写 記 ) が 連 書され、さらに 「 先 德集於雙 峯 山 塔 各 談玄 理 」 と 題 した北宗禅の 祖 系 諸 師 にあてた 馬鳴 菩 以 下 秀禅 師 までの 十 二 人 の 先 徳 の 句 語 が 列 記 されて ― 8 ―

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いる。そしてその後続部に「稠禪師意」と題し た「大乘安心入 之法」についての問答が写出 されている。 な お、 「稠禪師意」 の文字は P.三 六六四の書影 (上掲図版 1 上参照) からすれば明 らかに問答文の表題と見られ、 「意」は「本意」 「意趣」 、先出の「傳」と同じく本旨を伝え示す もの、との内容を表わすものと理解される。原 文を以下に引く。 (/は改行部を示す。 ) 稠禪師意 問大乘安心、入 之法云何 答曰欲脩大/乘之 、先當安心、凡安心之法、 一切不安、名真安心、言安者頓止諸/ 、妄 想永息、放捨身心、虚壑其懐、不 而照、起 作恒寂、種 /動静音聲 、莫嫌為妨、何以 然者、一切外 、各無定相、是非生/滅、一 由自心、若能无心、於法即无 礙、无縛无解、 自體无縛、名/為解脱无碍、稱之為道、又復 是非之見、出自妄想、若自心/不心、誰嫌是 非、若能所 亡、則諸相恒寂、以諸法等故、 万惑皆如/如理、真照无法、非道此法、秘要 非近情所惻、行者若欲開讀、暫看實/意、莫 取文字、還自縮心、无令有閙、不得調戯、散 心放逸、大道法不可軽示、尓/可黙心、自知 以養神志、温道育徳、資成法身、三空自調、 以充恵命、非是/不肖之人、而能堪受要福、 ― 9 ― 図版 1 敦煌文獻 P.3664部分 (據 『敦煌寶藏』)法國國家圖書館所蔵 (「稠禪師意」大乘安心入之法(上)、「大乘心行論」部分(下))

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重人乃能脩耳、内視不巳見、返聴不我聞、乃/知一切諸法滅、非智 滅。 若能行此觀者、體同 空、名无邊三昧、无心/入名大寂三昧、諸量不 、 是不恩議三昧、不従 變、名法住三昧 /問曰云何名禪 答曰禪者定也、 由坐得定、故名為禅 問曰禪/名定者、心定身定 答曰結跏身定、攝心 心定 問曰心无形状/云何看攝 答曰如風形 レ 无、動物即知、心亦无形、 物即知、攝心/无 、即名為定 問曰五亭十八境、見物乃名為定、眼 須見色、 心/須見境、 云何名定 答曰見境即生心、 動 レ 物即風 。風 息 即境安/心息即境滅、若心境 滅、即自然寂定 問曰既无心境同 空、 云何脩行/答曰心雖无形、而有大用、是即聖法、今稱心體、即定即聖、 即真即/正、非業非悩、非邪非悪、即断三 、即成三學、即捨凡法、即 聖法 /夫安心者、要須常見夲清浄心、亦不可皃、如是不可皃。如是不 可皃、/心常須現前、雖常現前、而一物可得。非但无一物可得、乃至少 許/相皃、亦不可得、雖少許相皀、亦不可得。如是行 、分明了 、不 被/一切言教惑乱、而不捨是心、従初發心、乃至成仏、不離此行、唯當 漸 /寛廣、漸 易成、畢竟歸空、雖作事業、具六度行、一切業常不捨 /是心不覺、漸 除疑惑。漸 悟解、即須讀誦大乗經典。与心相應/者、 雖讀誦経時、 亦不須分別、 強作觧釋。 漸 自當洞達、 一切法 レ 諸/上来 雖言了 、分明見心、如是見心非眼所見、亦非凡夫所見、如人飲水/冷 暖自知 无力飲河池 能呑大 不習二乘法 /何能學大乘 光信 二乘法 方能信大乘 无信誦大乘 空言/无所益 具足諸善根 守護慈 悲夲 常樂攝利物 是名為大乗 /三字觀出仏藏経 无心識 制六賊 知已作 自證息 夲无有/是定力 一心生 成万億 絶諸  仏在即 莫曲他 /身須直 諂意多 若相  この「大乘安心入 之法」について柳田氏は、 この一段の中心とみられる安心の は特に注目すべきで、 「凡安心之法、一切 不安、 名 眞安心、 言 安者、 頓 止  云云 」 と言ひ ママ 、「安心 、 要須常見本 淨 心」 と主張する あた り 、中 々 する どく 大乘安心の 極 所 を ついている 樣 に 思わ れる。 と 述 べ、 菩提  の安心の 説 、「如是安心、 如是發行、 如是 順 物、 如是方 便 、 此大乘安心之法、 …… 如是安心 、 壁 觀 云云 」 を 引 き、 ま た 信の 「入 安心 方 法 門 」 等 に言 及し て、 「前 記 の 先德集於雙峯山塔各談玄 理 云云 に、 こ の 問 答 と 法 が 内 容的 に 關 する も のと 見 る な ら ば 、こ の 安 心 は當然 雙峯 の  を 傳え る も のと見 ねばな ら ぬ で あ ろ う 。」 、と 説 き、此 の 説 法の 後 で二乗法 を 習 う こと を すす め ていることに注意 し 、 就 中「 種種 動 靜音聲刺 、莫 嫌爲妨 」との一 句 に 積 極 的 に 小 乗 系 の禅法 を と り 入れ た も のと見て、 そ の特 質 を 解 示 し ている 注  。柳田氏はこの 遺文 を 雙峯 の 遺響 を 伝 え る も のとするので あ る が 、 これは 信、 弘 の法 流 、 雙峯山 の 東 山 法 門 に 収斂さ れ た 稠 由来の心法の一 部 を 示 す も のと見 た 方 が 良 い よ う に 思わ れ るのは、 後 述 の 北齊 中 末期 の 山 東 等 の 刻 経 活 動の主 導 者、す な わ ち 稠 或 は そ の直 門 の 顕僧 と 密接 に かか わ ると 推察 さ れる 安 一の 顕彰 の 碑銘 中 にこの安心 説 が 確認 さ れる か らで あ る。 な お冉雲華 氏は 「 稠 禪 師 意 」 的 究 」中 で 文 中に 道 教特有の名 詞 (術語) で あ る「 内 」「 聽 」 な ど が 見 ら れること か ら、 文 の作 者 が 道 教 文 献 に 熟 知 し ていること を 推察 し てい る 注  。 さ て、 P.三六六 四 にはこの「 稠 禪 師 意」の「大乘安心入 之法」の問答 の 後 に、 治病 の た め の 薬品調合 に 擬 え られ た 習禅の心得と そ の 効 用 を説く 通俗 的 諧 謔表 現の「 稠 禪 師 藥 方」 及 稠 禅 師 の 著 とする やや長 文 の「大乘心 行 論 」、 ま た 寂 和 上 偈 及 び姚和 上 金剛 五 禮 の 口 誦 句 が 連写 さ れている。 そ ― 10―

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して P.三六六四の最末には、玄奘三藏新譯の『般若經』にもとづいた経句 語の注解「大般若關」が摘録されている。 なお、これらの長巻子抄本の背面には、天寶十載の紀年をもつ「敦煌縣 差科簿」及び天寶十二載の紀年を残す「敦煌郡倉 目」が記されている。 この文書中には方角の縣、郡印の捺押も見られるためそれらが公文書であ ることがわかる。おそらく本来はこちらの面が正面でこの紙背を利用して 「圓明論」以下のものが抄写されたのではあるまいか。 「圓明論」以下のも のの抄写年代は天寶十二載以降の玄宗朝の一時と想像される。 柳田氏は、 「稠禪師藥方」 及 び 「大乘心行論」 は著しく大乗的であるた め、 「むしろ 稠その人の著作というよりは、 ……後人たちの 稠觀の所 産とみるべきであろう。 」 と述べてい る 注  。 もちろん 「藥方」 に擬えて禅観 を説くなどの諧謔表現を 稠がしていたことは想像し難いところではある が、 「大乘心行論」 そのものすべてを後人の作で仮託物であるとするには なおさらに詳密な論究が必要となるもののように思われる。 「大乘心行論」は、 「心外無法」 、「一切是心」 、「心中具万行、覧万行在一 心」を説き、看心をすすめて五逆 倒が心から起こることを示し、十悪を 除く菩 の心行を勧めたもので、 「心性常浄、 猶如虚空」 のもとに、 入理 と起用の二門を分け、 「心不 心不動」 の一相法門に入ることを説き、 苦 受、 樂受、 不樂受の三受を超え、 事 理無取 (檀波羅蜜) 、 不染五欲 (尸波羅 蜜) 、我 所 性 空 ( 提波羅蜜) 、 自心不可得 ( 梨耶波羅蜜) 、心 境 不 二 (禪波 羅蜜) 、无无邊住處 (般若波羅蜜) の六度行をすすめている。文中『持心經』 、 『思益經』 、『維 經』 の引文が見られる。 因みにこれらの六度すなわち六 波羅蜜の用語は、河北、山東の刻経に常用されている。 ところで、菩提 の禅法をその弟子曇林が筆受したとされる「二入四 行論」の写本である敦煌本 (北京本宿九九号、 S.二七一五、 P.二九二三) には 末尾に古往の禅匠の句語が連写されているが、そのうちその中半部には二 十六名の禅匠の語が留められている。これらのうち 八 名は禅 籍 『宗 鏡 』 卷第 九十七にもその語が引かれており、 その中の可禪師 ( 惠 可) 、 顯 禪師 ( 荊州顯 ) 、藏 禪 師 ( 舒州 法藏) 、 三 藏法師 (菩提 ) 禪師 ( 弘 ) 朗 禪 師 ( 黄梅朗 ) 以外はすべて禅 籍 、 僧伝 に記録を 欠 いているとして、 また 安 禪師が『 楞伽 人法 志 』(本書は『 楞伽 師 資 記』 『 大正 新 脩 大藏經』 第 八 十五 册 № 二 八 三九) に 断 片 的に抄記されている) に 嵩 山 老 安 、『 代法寶記』 (『 大正 新 脩 大藏 經』 第 五十 册 № 二 〇 五五) に 老 安 師と記されていることを一覧表中に示し ている。 この 安 禪師 ( 嵩 山 老 安 、 老 安 師) については、 『 楞伽 師 資 記』 中の 弘 伝 、 神秀 伝 条 にもその名が見え、 弘 門 資 で 洛 州 嵩 山 會 善寺 に住した 老 安 であり、 神秀 、玄 頤 と 共 に 則 天 武后 、 應 天 神 龍皇帝 、 太 上 皇 の 国 師と な っ た 僧 であ っ たことがわかる。また不明とされている、この 安 禪師に 先 立 っ て記されている 賢 禪師は、 同 書中の 寂 伝 条 及び『無 畏 三藏  』 (『 大正 新 脩 大藏經』 第 十 八 册 № 九一七) 、『玄宗  經三藏 善 無 畏 鴻臚 行 』 (『 大正 新 脩 大藏經』 第 五十 册 № 二 〇 五五) に記されている 神秀 門 資 で 善 無 畏 門人 でもあ っ た 嵩 嶽 會 善寺 の 敬 賢 禪師である可 能 性が 高 い。 両 僧 同 じ く 嵩 山の 會 善寺 に 止 住した禅匠ということのようである。なお、 賢 禪師の名のもと に摘録されている語は、 眼 見處 即 是 實 際 、一切法 皆 是 實 際 、 更覓何 物。 というもので、 稠の名をも っ て記されている「稠禪師 意 」 や 「大乘心行 論」の 内容 に 脈絡 するところもある や に見られる。因みに、これらの 八 名 の 僧 名とその語を引く『宗 鏡 』 卷第 九十七には、それらの門 流 とは 別 な 南 嶽 慧 思大 和尚 の語 や 、稠禪師の語も引かれている 注  。稠禪師の語は、敦煌 ― 11―

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本 P.三六六四等に見られる「稠禪師意」と題された「大乘安心入 之法」 の問答中の一節である。いまこれを抄記しておくことにする。 一切外 、名無定相。是非生滅、一由自心。苦自心不心、誰嫌是非。能 所 無、  相恒寂。 五 安の事迹 北齊代の初中期以降、殊に河清、天統、武平を中心とする年代には、河 北、河南の各地及び山東の濟、 、鄒の地では刻経活動が勃然として起こ っている。現在これに関する活動の痕跡が山巌摩崖、石窟壁上の刻経、刻 字として多数確認されている。こうした刻字、刻経には、この造営に関与 した僧俗の名と共に紀年が刻まれたものがあり、その実態の一部を把握す ることができる。刻書の書態及びその抄刻内容等からすれば、その後半の 時期の主導者は 安らであったと推考できる。 さて、河北、河南の刻字、刻経は、北齊期に関しては、已述した 稠に かかわる小南 石窟中窟の内外壁上の刻字、 刻経 (題記、 佛名等及び班經記、 華嚴經偈、 大般涅槃經 行品本文抄刻、 同梵行品偈讚、 賢、 纖等の手になる 大般涅槃經高貴德王品及び一切大衆問乘品の偈句。 乾明元年四月以降) が嚆矢と 見られ、ついで恐らく 稠の直弟子 賢がかかわったであろうと推測され る鼓山 (北響堂山) 山腰の刻経 (大般涅槃經師子吼菩 品 天統二年) 、さ ら に顯官唐 の發願になる鼓山 (北 堂山) 南洞外壁の刻経 (維 詰所 經、 鬘經、 佛 孛經、 彌勒下生成佛經 天統四年~武平三年) をはじめとする十 三種に上る諸刻、 釜 山 (南 堂山) 石窟第二窟等の刻経、 題記、 仏 名刻字 計十種 (大方廣佛華嚴經第四~七品節文、 文殊師利所 摩訶般若波羅蜜經下卷抄 文、 摩訶般若波羅蜜經法尚品、 妙法蓮華經化城喩品、 同觀世音 門品、 大般涅槃 經 行品無常偈等 天統~武平) 及び唐 が関与したと見られる中皇山の刻 経 (佛 思益梵天所問經、 十地經、 十地經論、 佛垂般涅槃略  戒經、 佛 盂蘭 盆 經、 深 蜜 解 經、 妙法蓮華經觀世音 門品節文 天統 ? ~ 承光 元年以 前 ) とな っていて、武平半ば以降に山東の刻経、刻字を 遺 した 安 一らにかかわ る刻書が 加え られて 来 る。 山東の地のものは、 概観 すれば、 碑 刻を 除 くと、東平、平 陰 地 区 のもの から起こされる よ うであり、齊王 朝 初から武平 末 年に及び平齊以後の北  の大 象 二年 頃 までに 西 南部の鄒、 徐へ の地 へ と ひ ろがりを見 せ ている。こ の山東地 区 の刻字、刻經は、河北、河南の地のものと 脈 略をもつところも あるが、 刻書の 素材 (石 質 ) と 志向 を 違 え ており、 大字、 抄文の刻成が 概 ね となっている。 口誦 、 礼拝 の 対 象 、 表幟 としての書刻が 極立 っている。 これらの刻字、刻経の実態については、 馬忠理氏 、 頼 非 氏 、 張總氏 、 桐 谷征 一 氏 、 坂田玄 氏 及び 拙 文がある 注  ので、ここでは 詳 述を 控 え るが、刻 経に 限 り山東地 区 のものを 配列 すれば 次 の 通 りである。 ― 12― 同 濟南 黄 石崖摩崖 遺址等 佛經刻字 ( 含摘 刻 語 句) と抄刻内容 妙法蓮華經 普 門品 自在之 業 、 示 現 神 通 力 、 発阿耨 多羅三 藐 三菩 提 。 称 名、 得 解 脱 、 災厄 、苦 悩 大般涅槃經 行品 無常 偈 諸行無常 経句等原拠/抄刻内容 姚秦鳩 羅 什 北 涼曇 無 讖 譯出者 東 魏 ~ (北齊) 東 魏 ~ (北齊) 刻成時期

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― 13― 同 同 同 同 平陰洪頂山 同 同 東平司里山 式佛名(維衞佛~安樂佛) 過去七佛~未来佛 大集經 海慧菩 品 六波羅蜜、発阿耨多羅三 藐三菩提心、得无生法忍 佛 仁王般若波羅蜜經 受 持品 般若波羅蜜 經 摩訶衍經(摩訶般若波羅蜜 問乘品) 空 文殊師利所  訶般若波羅 蜜經、文殊師利所 般若波 羅蜜經 三種 智、観仏、般若波羅蜜 无念无作、一乘 大般涅槃經 陳如品 能断 一 切 諸有、 第 一 義 空 、 観智 小品般若波羅蜜經 陳如 品 波羅蜜(明呪)による十 善道の成就 大般涅槃經 行品 無常 偈 諸行無常 高齊那 提耶舎 姚秦鳩 羅什 姚秦鳩 羅什 梁扶南三藏曼陀羅 仙、同 伽婆羅 北涼曇無讖 姚秦鳩 羅什 北涼曇無讖 北齊天保~河 清 北齊~隋 北齊 (皇建 (五六〇) (以 前) 北齊 (皇建 (五六〇) 以 前) 同 英佛巖 新泰徂徠山 光 化寺 東平銀山 同 州泗水出土 巨野石佛寺 泗水天明寺 東平 檀寺 文殊師利所 般若波羅蜜經 般若波羅蜜 无念无作、 一乘 大般若經 (大般若波羅蜜經) 空 (般若波羅蜜) 訶般若波羅蜜 佛 觀無量壽佛經 引句 四大海水、五須弥山 文殊師利所  訶般若波羅 蜜經、文殊師利所 般若波 羅蜜經 四種 般若波羅蜜 无念无作、 一乘 大方廣華嚴十惡品經 葉 菩 品 破齋者墮地獄 維摩詰所 經見 阿 佛品 正観、无分別、一切言語 道断 妙法蓮華經 觀世音菩 普 門品 自在之業、示現神通力、 発阿耨多羅三藐三菩提。 称名、得解脱、災厄、苦 悩 梁扶南三藏 伽婆羅 姚秦鳩 羅什 宋西域三藏 良耶舎 梁扶南三藏曼陀羅 仙、同 伽婆羅、等 姚秦鳩 羅什 姚秦鳩 羅什 武平元年(五 七〇) 七〇) 武平元年(五 北齊か 北齊~ 日 六四)七月八 河清三年(五 二〇日 六一)一二月 皇建二年(五 二三日 六一)一一月 皇建二年(五

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― 14― 同 同 同 鄒城 尖山 同 妖精洞 同 鄒城 山五 華 峰 同 上 水牛山 文殊般若 (般若) 大般涅槃經 行品 無常 偈 諸行無常 六波羅蜜 思益梵天所問經 文殊師利所 般若波羅蜜經 般若波羅蜜 无念无作、 一乘 文殊師利所 般若波羅蜜經 般若波羅蜜 无念无作、 一乘 (般若) 般若 文殊師利所 般若波羅蜜經 般若波羅蜜 无念无作、 一乘 文殊師利所 般若波羅蜜經 (碑) 般若波羅蜜 无念无作、 一乘 文殊師利所  訶般若波羅 蜜經(摩崖) 觀佛、智 北涼曇無讖 姚秦鳩 羅什 梁扶南三藏 伽婆羅 梁扶南三藏 伽婆羅 梁扶南三藏 伽婆羅 梁扶南三藏 伽婆羅 梁扶南三藏曼陀羅仙 武平五年(五 七四) 六四)? 河清三年(五 同 鄒城 崗山 泰山 經石峪 滕州 龍山 滕州 陶山 鄒城 山 鄒城 鉄山 鄒城 陽山 入楞伽經 佛品 无量自在三昧 佛 觀無量壽佛經 慈悲、八戒 菩提 滅、當得阿耨多羅三藐三 受持讀誦此功徳、罪業消 金剛般若波羅蜜經 文殊師利所 般若波羅蜜經 (般若波羅蜜 无念无作、 一乘) (般若波羅蜜) 般若波羅蜜 維 詰所 經見 阿 佛品 正観、无分別、一切言語 道断 大方等大集經 慧菩 品 調心~観真実、施、戒、 忍、 精進、 三昧、 智慧 (六波羅蜜) 文殊師利所 般若波羅蜜經 般若波羅蜜 无念无作、 一乘 元魏天竺三藏菩提流 支 宋西域三藏 良耶舎 姚秦鳩 羅什 梁扶南三藏 伽婆羅 姚秦鳩 羅什 高齊那連提耶舎 梁扶南三藏 伽婆羅 大象二年(五 八〇) 八〇) 大象二年(五 北 大象元年 (五七九)

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安の実像 さて、ここで、山東の刻字、刻経を主導しまた河南、河北にも足跡を留 める 安についての小述を進めたい。 安の出自については現在までこれを明証する資料の出現を見ていない。 洪頂山北崖の題記に刻まれる 「 大沙門 安又名 壹廣大  ? 善 / ? 見 里人也」 との郷里名を実在のものと見て、その活動の境域に従い、山東の東平乃至 平陰一帯を含む鄒魯の某所と推測する説が張偉然氏をはじめとする研究者 から出されてい る 注  。 しかしながら、 こ の 安又名 壹 (一) の顕彰或いは 追慕とも見られる刻書の句文は、渓谷を隔てた洪頂山南崖に刻まれている 天竺沙門釋法洪の題記の劈頭、 「沙門釋法洪娑婆國土閻浮聚落天竺人也」 と同様に、名儀上の表示と理解し得る余地があり、その実態はなお判然と しないことである。 またその止住所も、 鄒城の鐡山摩崖刻経題記中に、 「東嶺 安 壹」 と署刻されるのみで、 具体的に何処であったのかは未詳 のままである。 安の山東の東平、平陰周辺での刻経活動は、二鼓山周辺 から起こされているかのようで、後来巨大化、広大化に向かう刻書の中こ の二鼓山下の露巖上に刻成された大空王佛の仏号のもとに 安一の名が見 えるのもこの消息であろうかと推考される。洪頂山北崖の題記に「 安又 名 壹」とあるのは、原初の法名「安一」がのちに「安」 「 一」と「 」 を加えて複称化され、さらに「一」字が霊妙さを表示可能な同義別字の繁 形字「壹」字に変えられて行ったことを物語るのではあるまいか。 この 安 一 (壹) については、 鄒城の鐡山に遺された同衆の後刻の 「石頌」題記には、 「大沙門安法師者、  不二、德悟一原」と評述されて おり、道徳と 悟が不二、一原、即ち現身に顕現される風光とそのもとに 内在する悟境が真実から導かれて一如となっている高僧と銘記されている。 こうした 安 一 (壹) の風貌については、 洪頂山北崖峡間の西面に 安 一が署刻した佛經『文殊師利所 般若波羅蜜經』 (梁扶南三藏 伽婆羅譯) 抄文の左隣に、同衆によって次のような形で書 き 留められている。この刻 字は、 安 一の署経 や 刻書の字態に 近似 するものの、 隷味 を含みながら 規格性 が 強く やや 方直 で 肥厚 、 暢達 さが 欠け ており、 碑 形を 意識 して 鐫 刻 された「安 公 」との 篆 題からしても、この 碑 銘が 安 一 本 人の 手 になら ぬ ことを 窺わ すようである。ここで 因 みに「安 公之碑 」銘を 録 記し 試訓 し てお く こととしよう。なお、この 鐫 刻の地 点 は風の 吹 き 口 との 意 味 で「風 門 口 」と名 づ け られていたようであり、門 関状 に 巌壁 が 両立 するこの地 点 の刻書す べ てを「風門 口碑 」と 呼ん でいたことが「安 公之碑 」の左隣の刻 字で 確認 される。この刻字は大字であるが 筆 態が「安 公之碑 」の文字と し く 同 筆 と見られる。 ― 15― 図版 2 洪頂山南崖所刻 天竺沙門釋法洪 題記 拓影 (據 坂田玄翔『中国の摩崖刻経』)

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大沙門僧安、不安所安、安所不 大沙門僧安は、安なる所を安とせず (やすんずるところをやすんぜず) 、安ならざる所を安とす (やすんぜざるところをやすんず) 。 安。大 一、不一所一、一所不 大道は一なるも、一なる所を一とせず、一なること能はざる所を一 とす。 能一。不安所安、不安於安、安所 安なる所を安とせざるは (やすんずるところをやすんぜざるは) 、安に安 お らざればなり。 不安、能安於安。不一所一、不一 安ならざる所を安とするは (やすんぜざるところをやすんずるは、 ) 、能く安に安 お ればなり、一なる所を一と せざるは、其の一を一とせざればなり。 其一。一所不一、能一其一。詞曰、 一ならざる所を一とするは、能く其の一を一とすればなり。詞に曰 はく、 安故能一、一故能安、安一一安、 安は故に能く一にして、 一 は故に能く安なれば、 安 は一にして (  安一 ( 安 一) は眞境そのもので) 一は安なること (眞境を具現する 者は 安 一であること) 、 巖上雕刊。 巌上に雕刊す。 雙 林後千六百廿 繻 。 雙林千六百廿 繻 。 「安公之碑」 銘には、 格義仏教盛時の流れをひく中に培われて来た思弁 的な措辞や論理的な表現が見られるが、敢えて同字を累ね進めるといった 表現の傾向は、 安 一 (壹) にかかわる刻経や題記に頻見されるところ ― 16― 図版 3 洪頂山北崖 風門口所刻 刻経及び「安公之碑」刻銘 題刻 (據 坂田玄『中国の摩崖刻経』)

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であり、一見言語遊戯に堕すかの観を呈する措辞のもとに、文字を超克し ようとする希願が示されるかのようである。この碑銘は、讚頌対象沙門の 道号に因む「安」 「 」「一」の文字を強いて重畳させてその風光を細密に 表述したものと考えられる。 初行の「大沙門僧安」の「安」は僧名そのものを示し、この「安」字に 因んで安心立命の得悟の実態が、 「安」 と 「不安」 の対立概念を基盤に対 照的に綴られ、対待超脱の現実昇華の手段が識見否定に 絡して表現され ている。因みに記せば、当時訳出されていた『大般涅槃經』には、 善男子、 佛性 、 亦色非色、 非色非非色、 ……略…… 亦一非一、 非一非 非一、 ……( 「師子吼菩 品 注  」) などと否定の論理による真理を表出する方法が用いられており、これらが 既成概念の否定による真理当体の説示を行なう老、莊道徳の表現と混じっ てこうした文辞を生み育くんでいたものと思われる。 「安公之碑」の銘文は、 「安」や「 」、 「一」に表象される真実世界、俗 諦超絶の静寂世界を鑚仰するが、しかし、これに停滞することなく挙措す べきことも述べている。この銘文の 者は、固定的に凝滞した場合は悟り も本来のものでなくなるということを、概念の否定、肯定を繰り返す措辞 の中で開示しようとしたものと見られる。 ところで、 「 」 と 「一」 については、 例えば梁劉 「滅惑論」 (梁  『弘明集』卷第八 所収) の一節に、 至道宗極、理歸乎一。妙法眞境、本因無二。佛之至也、則空玄無形。而 萬象 應、 …… 但言萬象 生、假名 立。梵言菩提、 語曰 、其顯跡也。 …… と綴られ る 注  のを見れば、 「一」 はすなわち仏道の真境、 菩提 (悟り) を指 し、 「一」と「 」とは同義語であることがわかる。 「一」は「 」の形質 を示すとも言い得よう。 さらにこの「一」と「 」の術語に関しては、謝鎭之の「重與顧 士書 序 」に、 故德總乎 之所一、 ……略…… 至矣 之所一者。 ……  との表現などが注意される。こうしたことは恐らく古く道家者の流れに培 われて来た術語が仏家に援用され、 哲 理の表現に 頻 用されたことを 証 すも のであろう。銘文中に見られる「不一」 「其一」の語も『莊子』 「大宗師」 由 来の語、 「其一也一、 其不一也一。 其一與 天爲徒 、 其不一與 人爲徒 。 天 與 人 不 相 也、 是 之 謂 眞 人 。 注 」 として 確認 できるところがあり、 ま た 長 安 沙門 釋 肇 の 著 である 『 寶藏 論』 「 廣 照空 有 品第一」 「本 際 玄品第 三 」に も 守 眞 抱 一、不 染外物 。  太 一、其 何有元 。…… 湛 寂 自如 、 内外 不 干 、 識 物 不 關 、 各任 其一。…… 是 以 一 一 切 、一 切 一。…… 夫 言一者、 對彼異 。 異 非 異 、 一亦非一、 非一亦不一。 假 號 眞一。 ……  などとの 類縁 表現が 検 出できる。当時の仏 徒 、 修 禅 者の思 惟 世界の表現が 老莊玄 学 とも 深 くかかわりながらあったことを 窺 わせるようである。 七 稠と 安の安心 さて、 ここでさらに 「安心立命」 の体現者としての 安、 又 の名 一 ( 壹 ) の風光を 描写 すると見 做 される碑銘について 省察 すると、 その表現 内 容 の 根幹 と術語が、 諸 家に 或 いは 後代 の 仮託 かとも 評 されている既述し た 習 禅 家の心法の 要 諦を 伝 える「 稠禪 師意」の「大 乘 安心 入 之法」に 契 合していることに 驚 かされる。い ま その一 部 を 引 記して 試訓 しておくこと ― 17―

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としよう。 稠禪師の意。 問ふ 大乘安心入 の法は云何? 答へて曰はく、大 乘の を修せんと欲せば、先づ當に安心すべし。凡そ安心の法は、一切 安んぜざるを眞の安心と名づく。安と言ふは、頓に諸 を止め、妄想永 息し、身心を放捨して、其の懷を虚壑とし、 せずして照し、 作恒に 寂す (ことなり) 。種種の動静音聲の刺も、妨を為すと嫌ふこと莫れ。何 を以って然るとなれば、一切の外 は、各 定相無く、是非生滅は一に 自心に由ればなり。若し能く無心なれば、法に於きて ち 碍無きなり。 碍無く解無し。自ら縛無きを體するを、名づけて解脱、無碍と為すなり。 之を称して と為すなり。また是非の見、妄想自り出づ。若し自心 心 とせざれば、誰れか是非を嫌はんや。若し能所 に亡ずれば、則ち諸相 恒に寂たり。 …… これ以降「大乘安心入 之法」の文は既掲のように、実意を看ること、 文字を取らぬこと、 黙心して神意を養い、 「温 育德」 すること、 この観 を能く行ずれば虚空と同じことを体することになることなど、また問答に よる禅についての説示、 「結跏身定、 攝心心定」 の禅の本質、 「五亭十八境」 の説明、 「心境 滅」の寂定世界を述べ、さらに「畢竟歸空」と説き、 「雖 作事業、 具六度行」 「讀誦大乘經典」 などを説き示している。 文中に見え る「 能 」「所」 は 動作主体と動作客体をいう語詞であるが、 この語詞は 「安公之碑」 銘文中にも頻用されていることである。 因みにこれを含む文 は、 杜朏の になる『宗鏡 』卷第九十七にも引かれていることは已述 したところである。 稠の名を冠して伝えられる語句、 文 章に随所で契合する 安 一 (壹) にかかわる刻銘は、なおまたこれと渓をはさんで対面する洪頂山南崖に刻 記された「河清三年歳次實沈 」の紀年をもつ天竺人沙門釋法洪の銘 文に類接するところがある。この刻銘は、 安自身がものしたものと推察 されるもので、 そこには、 「特 挺 三壑」 、「 紛 綸萬 行」 、「非定 不談 」、 「非 如 不 説」 、「是非 兩氓 」、 「無 無 談 」、 「 有无雙 亡」などの語が 連ね られており、 これもまた稠禪師のものと伝えられる語文の 内 意ときわめて 近 接している のである。 末法の中で むすびにかえて 「安公之碑」 の 末 行は刻 成 の紀年であるが、 同種の紀年が洪頂山 北 崖 上 の特大の 佛 名刻字、 「大空 王 佛 」の 左側 の 題 記中にも 認 められるためこの 紀年自体が 「 釋 雙 林後 一 千 六 百廿 三年」 と見える (この紀年は 「安公之碑」 の刻 成 三年 後 となる) ため、 「釋 雙 林 」の「 釋 」 の語が 略 されたもので あることがわかる。 従 ってこのものは、釋 牟尼 の 般涅槃即 ち入滅の 時 を 始点 に 据 えた年 限 を示すもので、 正 像 末 の三 時 の 確 認 の 思 想、 殊 にそ の中の法滅の 現 実のあらわれるとされる 末 法の世の 到来 の意 識 を 背景 にし て記された紀年であることは明らかであり、 本 来 、「 娑羅 雙 樹 林 に於ける 釋 牟尼 佛 の 般涅槃 の 後 …… (年に當たる) 年」 とすべき 表 現 が、 「 雙 林 涅 槃 後 …… 年」 と 節 略 され、 さらに 「 涅槃 」 の語をも 省 除 して 「 雙 林後 …… 年」 とされたものと見られる。 「 雙 林後 」 という 当 時 の 仏徒僧衆 の作り 上 げ た釋 入滅年次を示す 術 語は、 当 時 としてはきわめて先 鋭的 で 異様 なま でに 末 法意 識 を 表 象 するものと言うことができよう。これについては 曽 て 筆者 が 拙 文で 考 述したところである 注  。 当 時 、 僧 尼 の 破 戒淫乱 と 帝 王 の 恣情 によって 現 実にもたらされた 仏徒 の 受難 をもとに、 『大 方等 大 集 經』 「 月藏 分 」や『 訶 耶 經』 、『 佛 法滅 盡 經』などによる三 時 の意 識 や法滅の 予 ― 18―

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言の感受がおこり、釋 降誕、入滅以来の時を巡りその像、末入りの年次 を算出させた如くで、 安 一 (壹) を含め彼を敬仰する衆徒は、 この年 次を紀年として巖上に特記、鐫刻していたわけである。因みに、依拠經典 によってさまざまに説かれる釋 降誕年次や三時区分の年限が、入末の年 次の理解を複雑化させているが、仮に、北魏延昌四年に生まれ東魏、北齊、 隋代を生きた南嶽慧思の入末年次を推算して記した「立誓願文 注  」を参照す れば、 「安公之碑」の「後一千六百廿年」は、北齊天保四年 (五五三) 癸酉 ということになるが、この年次については更に究明すべきところが残され るようである。 末法を深く意識する僧団、大衆のもとで、護法と往生、消除災殃と求得 安楽の希願をもって、 安 一の悟境と為人を称頌すべく「安公之碑」銘 文、紀年は堅固不変な磐石に刻まみ込まれた。こうして敬頌された 安  一は、武平年間に河南、河北に歩みをそめており、鼓山 (北 堂山) 、釜山 (南 堂山) の石窟寺院の窟壁や露巌上に刻字、刻経を遺している。当時、 顕官唐 が王朝の行く末を案じ往生と護法を願って山内に数部の経典の刻 出を進めており、またこの刻経を支援していた 稠薫陶の弟子達が山内に 行道していたようである。昭玄沙門大統となった 稠の直弟子 賢はそれ らを綱領する沙門であったと見られる 注  。そしてこの 賢の後を承け沙門大 統位に就いたのは、釜山南 堂寺第二窟、鼓山水浴寺西窟に題記、彫像を 遺した定禪師であった 注  。この沙門も 稠由縁の禅匠であったに違いない。 安 一はこれらの沙門が活動する場に入り、これらの沙門が法輪を転ず る石窟寺院の内外に刻字、刻経を遺していたのである。恐らく 安 一自 身が國師大德 稠禪師に がる法脈をもっていたゆえに、こうした活動が 可能となったのではあるまいか。 本 稿 は 『 續髙 傳』及び敦煌新 出の P.三六六四の文 書 を 手 がかりに、  稠の 閲歴 と 心 法、またその門 流 を 追 いつつ、 研 究 諸家 があまり注意を 払 わ なかった「安公之碑」銘文 等 の内 容 を 読 み解こうとしたものである。 疏略 な行文には 稠、 安 一間に 横 たわるものを 全面的 に 揚 出し得なかった ところがあるが、 「安公之碑」 銘文 等 から、 稠に がる 安 一の法脈 の一 面 を 証 す 緒口 を見出し得たように思われる。また「安公之碑」銘文 等 の解 読 によって、仮 託偽 説の行なわれている 稠「大 乘 安 心 入 之法」 及び 「大 乘心 行 論 」の 論 著 の内 質 が 古 く北齊の時代まで り得ることを 確 認 し得たように思われる 注 。 注記 1 宣 『 續髙 傳』 卷 第二 十 禪五 卷 末 論 (『 大 正 新 脩 大 藏 經 』 第五 十 册 ) 五 九 六 頁中~ 2 注 1 書 卷 第 十 六 禪 初 「齊 西 龍 山 雲 門寺釋 稠 傳 八 」 (『 大 正 新 脩 大 藏 經 』 第五 十 册 ) 五五五 頁中~ 3 注 2 参照 4 注 1 書 卷 第 十 六 禪 初 「隋 懷州柏尖 山寺釋 曇詢 傳 二 十 」 (『 大 正 新 脩 大 藏 經 』 第五 十 册 ) 五五 九頁 上 ~ 5 注 1 書 卷 第 十 七 禪 之二 「隋 趙郡障洪 山釋 智舜 傳 九 」 (『 大 正 新 脩 大 藏 經 』 第五 十 册 ) 五六 九頁 下 ~ 6 拙 文「 大 齊 故 昭玄沙門大統僧賢 墓 銘 疏 攷 」 (『 学苑 』 第 八 三三 号 昭 和女 子大 学 近 代文化 研 究 所 二 〇 一 〇 三) 六三 ~ 六四 頁 7 注 1 書 卷 第二 十 (二 十 五) 禪六 「 衞 州 霖落泉 寺釋 倫 傳 十 一」 (『 大 正 新 脩 大 藏 經 』 第五 十 册 ) 六 〇 一 頁 下 、注 6 拙 文五四 ~ 六 七 頁 ― 19―

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8 注 1 書 卷 第二十二 明律下 「 京師弘 寺釋智首傳一」 (『 大正 新脩 大藏經』 第 五十册) 六一四頁上 9 『安陽縣志』附 「金石 」卷二 七丁~八丁 10 注 1 書卷 第 十 九 禪四 「 京師化度寺釋  傳九」 (『 大正 新脩 大藏經』第五十 册) 五八三頁下~、 田喜一郎「三階 に關する隋 の古碑」 (『佛 研究』第 三卷第三號) 、 同 「 化度寺塔銘に就いて」 (『支那學』 第 二卷第九號) 、同「 再 び 化度寺塔銘に就いて」 (『支那學』第二卷第十號) (『 田喜一郎全集』第一卷「東洋 學 林補 」同朋社出版 一九八七 一 再収) 11 法師 『大乘義章』卷第十 (『 大正 新脩 大藏經』第四十四册) 六六五頁下 12 後節 「四 稠の心法  敦煌文書から 」七~一一頁参照 13 北涼曇無讖譯 『大般涅槃經』 卷第十一 「 行品第七之四」 (『 大正 新脩 大藏經』 第 十二册) 四四七頁~、 同卷第三十 「師子吼菩 品第十一之四」 (『 大正 新脩 大藏經』 第十二册) 五四六頁中~ 14 注 11書 卷第十六 (『 大正 新脩 大藏經』第四十四册) 七七二頁上~ 15 稲本泰生 「小南海中窟と 稠禪師  北齊石窟研究序説  」 (『 北朝 隋唐 中国仏教 思想史』 法蔵館 二 〇〇〇 二) 二七〇~三〇七頁、 同氏 「小南海中窟と滅罪 の思想  僧稠周辺における実践行と 『涅槃経』 『観無量寿経』 の解釈を中 心に」 (奈良国立博物館紀要『鹿園雜集』第 4 号 二〇〇三 三) 一~四二頁 16 柳田聖山 「傳法寶紀とその作者  ペリオ三五五九號文書をめぐる北宗禪 究資 料の札 、その一  」 (『禪學研究』第 53號 禪文化研究所 一九六二 七) 17 黄永武編『敦煌寶藏』第一二九冊 伯三六六四號 (新文豐出版公司 一九八四) 、 五〇六下~五三二頁、 『 敦煌吐魯番 文獻集成 法藏敦煌西域文獻』 「法國國家圖書館藏敦煌 西域文獻 25」(上海古籍出版社 二〇〇二 一一) 二七〇上~二九〇頁下 18 注 16柳田論文 五七上~五九頁上 19 冉雲華「 「 稠禪師意 」 的 究」 (『敦煌學』第六輯 敦煌史學會 中 華民國七十二年 六月) 七一頁 20 注 16柳田論文 六二頁下 21 宋永明智覺 『宗鏡 』 卷 第九十七 (『 大正 新脩 大藏經』 第四十八册) 九四一頁 上~下 22 次掲論書等参照  馬忠理「邯鄲北朝摩佛經時代考」 (『北朝 崖刻経研究』 三  内蒙古人民出版 社 二〇〇六 七) 二五~七三頁  頼非『山東北朝佛教摩崖刻経調査与研究』 (科学出版社 二〇〇七 一二)  張總「山東摩崖刻経経義内 索探」 (『北朝摩崖刻経研究』 続  香 港天 馬 図 書 有限 公司 二〇〇三 一二) 一~四四頁  桐谷征 一 「北齊大 沙門 安 壹 刻経 事迹 」 (『北朝摩崖刻経研究』 続  香 港天 馬 図 書 有限 公司 二〇〇三 一二) 四五~九一頁  坂 田 玄 『中国の摩崖刻経』 (石刻 芸術 研究所 二〇〇二 五)  拙 文「山東 平陰 東 平 縣 発見 の北朝佛経摩崖に つ いて」 (『 昭和女 子大学文化 史研究』第 3 号 昭和女 子大学文化史学 会 一九九九 六) 一~三〇頁  拙 文 「山東西 部 における刻経 事 業 に つ いて」 (『学 苑 』 第 八四五号 昭和女 子大学 近 代文化研究所 二〇一一 三) 一一~三三頁 等 23 張 偉然 「 関于 山東北朝摩崖刻経書 丹 人 僧安 壹 的 兩个問題 」 (『文物』 一 九九九 三) 六五~六七頁、 同氏 「 関于 僧安 壹 的再思考」 (『北朝摩崖刻 経研究』 三  内蒙古人民出版社 二〇〇六 七) 七八~八二頁、 北 島信 一「 彩色 石 壁 摩崖刻経論 及其 年代考」 (『北朝摩崖刻経研究』 三  内蒙古人民出版社 二〇 〇六 七) 二四八~二七九頁 等 24 注 13書 卷 第二十七 「師子吼菩 品第十一之一」 (『 大正 新脩 大藏經』 第十二册) 五 ― 20―

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二六頁上 25 梁   『弘明集』卷第八 (新文豊出版公司 中華民國六十三年) 十二丁裏 26 注 25書 卷第六 (新文豊出版公司 中華民國六十三年) 二十八丁裏 27 莊 『莊子』内 「大宗師第六」 (市川安司他『老子莊子上』 新釈漢文大 系第七巻 明治書院 一九六八 一一 二五二頁~) 28 釋 肇 『寶藏論』 「廣照空有品第一」 (『 大正 新脩 大藏經』 第四十五册) 一四五頁上~、 同「本際 玄品第三」 (同書) 一四八頁下~ 29 注 22 拙文 一七頁下~二一頁上 30 南嶽慧思大師 「南嶽慧思大禪師立誓願文」 (『 大正 新脩 大藏經』 第四十六册) 七八 六頁中~ 31 注 6 拙文 二五~二九頁参照 32 注 30、 及び拙文 「 邯鄲 鼓山 水浴寺東山石窟の銘文について」 (『学苑』 第七百八十三 号 昭和女子大学近代文化研究所 二〇〇七 一) 一四二頁、一四八~一四九頁 33 安 一の行法の根幹が 稠の心法と密接に関ることを推考した本論の末尾 に、次のことも付言しておくこととしたい。 安 一らの依用する仏経は、 その遺刻から、 涅槃、 般若 (小品、 大品、 文殊) 、 大集、 及び維 、 思益と無 量壽、入楞伽、金剛般若等の諸経であったことがわかる。そしてこの中で特 記されるのは、梁代扶南沙門 伽婆羅及び同曼陀羅仙譯出の『文殊般若經』 (『文殊師利所 般若波羅蜜經』 『文殊師利所 訶般若波羅蜜經』 ) の重用である。 この仏経の抄刻は、 安 一らの標榜する実修の内実を示すものであるが、 そこに主唱されるのは、無常、空観体認のもとの六波羅蜜の奉行と観仏、礼 懺の専修の具体化である。こうした仏経の書刻と護伝の実践による得道、教 化の遂行の流れは、北 平齊後更に隋代に至る間に起こった政状の変転と信 仰の変容のもとに停断していったようであるが、興味あることに、 安 一 の祖脈にかかわると見られる 稠の門流の心法を自家に収接して行く 系 の禅流に、この『文殊般若經』所説の行法を特崇する禅 匠 が出 現 しているこ とである。 現 在 こうした 両者 の 絡 を 分 明にする 資料 は見出すことがで きな いが、いわ ゆ る東山法門の 信とその法 嗣 弘 、 並 びにその門 嗣神秀 に及 ぶ 流の中にこれに依 拠 した実修が 高称 されているのである。 『楞伽師 資 記』 (『 大正 新脩 大藏經』 第八十五册 № 二八三七) に 綴 られる 神秀 の伝を見ると、 則 天 大 皇后 の 問 いに 帝 師と な った 彼 が 答え た「 稟 州 東山法門」 「依文殊般若經 一行三 昧 」の 語 が認 め られる。この「一行三 昧 」の内容が同書の 信の 条 下 (一二八六頁下~ ) の「 依楞伽經、 佛 心第一」 の 句 後に、 「 又 依文殊 (所) 般若經、一行三 昧 、 念 佛 心 是 佛 、 妄念是凡夫 」と記され、ついで やや長 文の曼陀羅仙譯 『文殊般若經』 のこれに関した 詳 説を 節引 しつつ、 「法 界 一 相 、 法 界 」の実 態 、「 不 不壞 」「無 礙 無 相 」の 真 実を 顕 在 化する専行で あるとして説かれていて、 「 應處 空 閑 、  亂意 、 不 取 相 貌 、 心一 佛 、 專 稱名字 、 隨 佛 方便 所、 端身 正 向 、 能於 一 佛 、 念念 相 續 」する中に具体化され るもの、と記されている。一 切 法 悉 是 佛 法、一 切衆生悉 有 佛 性 を 現 身 心に 顕 出すること、す な わ ち 「 身 心 方 寸 は 擧足 下 足 に常に 場 であ り 、 施爲擧動 は 皆 これ 菩提 であって、 端 坐 して 實 相 を 念 じ 念 佛 することが懺 、 解脱 を 果 た すことである。 」 と いうのである。 そ してこの 『文殊般若經』 の 引 文の 前 接 部 が、 安 一が山東、 河 北の諸 地 に 鐫 刻した経 句 そのもの な のである。  初 の禅 匠 が示す『文殊般若經』 由 の「一行三 昧 」は、 遥 かに 安 一らの 行道を祖 源 とするものから 導 かれていたように推 察 されることである。 (たく ま の ぶゆき 日 本 語 日 本文学 科 ) ― 21―

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