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児童詩教育実践理論の構築 : 人間形成との関わりを求めて

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(1)二〇〇三年度. 兵庫教育大学大学院学位論文. 児童詩教育実践理論の構築      ー 人間形成との関わりを求めて. 教科・領域教育専攻 言語系︵国語︶コース MO二一二五F.        池田  隆一.

(2) はじめ﹄に.  私は、教師になって三年目から、学年主任のすすめにより児童詩教育に取り組むようになった。はじめは、そ. の意義・目的も分からないまま、見よう見まねで取り組んでいった。すると、今まで分からなかった子どもの物. の見方・感じ方・考え方が見えてくるようになったのである。子どもたちの生活態度が変容していくのも実感で. きた。その教育的効果の大きさに驚かされた私は、児童詩教育の本質と方法を追求すべく、民間の教育団体が主. 催する勉強会や児童詩教育に関わる講演会に積極的に参加するようになった。  今振り返ってもその頃の実践は、充実していたように思う。お互いのクラスの作品を鑑賞・批評し合い、それ. を生活指導や学習指導に生かしていった。児童詩教育における学年独自の年間計画を作成できたことも大きな成. 果であったように思う。校内の研究授業も、管理職の許可を得て、児童詩の鑑賞の授業をしたりした。このよう に、二人は、協同で児童詩教育を充実させていったのである。.  しかし、その時は、学年主任の提示する考え方や方法に依存することが多く、一つ一つの児童詩教育の課程が. 子どもにどのように寄与し、またそれが教育的にどのような意味をもつのかが、自分の中に明確にされていなか ったように思う。.  その後、自分なりに、児童詩教育の課程がもつ教育的意味について追究していったが、今は、人権教育の新た. な視点が提示され、また、﹁生きる力﹂が、子どもたちに保障すべき能力として定位される、教育の歴史からみて も大きな変革期に位置付く時期である。.  このことを踏まえると、児童詩教育の本質や方法が、人権教育や現代の学力観とどのように関連するのかとい う新たな認識の必要性を感じる。.  ここでは、この観点に立って児童詩教育の可能性を追究していきたいと思う。.

(3) はじめに. 序章研究 の 目 的 と 方 法. 目  次. 第一章児童詩教育における﹃表現﹂と﹃内容﹄の位相⋮−・.   第旧節児童詩教育の本質と表現技術の定位⋮⋮⋮⋮−   ︵一︶﹁児童詩の定義﹂からみた表現技法の重要性 ⋮   ︵二︶﹁児童詩の芸術性﹂の形成と表現技術の役割 ⋮.   策二節児童詩教育における作品主義的評価論の克服   ︵一︶藤田圭雄の児童詩教育観 −⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮−   ︵二︶巽聖歌の児童詩教育観 ⋮⋮−⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮:.    1 吉田瑞穂との作品評価観の相違を基にして 1.   第三節人権教育との関連からみた作品評価  ⋮⋮⋮ 第二章児童詩教育における教育的価値への着目 ⋮⋮⋮−    ⋮:.   第一節﹃生きるカ﹂の形成に連動する児童詩教育   ⋮⋮⋮.    ー 吉田瑞穂が提唱した二つの教育方法を基にして   ︵一︶﹁生活を把握して表現へ﹂の内容 ⋮⋮⋮⋮⋮:. 1. 2515156333. 33. 3939. 39.

(4)   ︵二︶﹁生活させて表現へ﹂の内容と﹁総合的学習の時間﹂との関連            41.   第二節個性の伸長と児童詰教育 ⋮⋮⋮⋮⋮:⋮・⋮⋮⋮:⋮⋮⋮・⋮−           52.   ︵一︶個性を育み生かす教育としての﹁何でもいえる教室づくり﹂⋮・           52.   ︵二︶個性を育み生かす児童詩の表現 ⋮⋮⋮⋮⋮:⋮・⋮⋮⋮⋮−⋮⋮           56.     ①﹁ありのままの感動表現﹂と個性の伸長⋮⋮⋮⋮⋮:⋮⋮        56.     ②﹁詩的表現﹂と個性の伸長 ⋮⋮⋮⋮⋮:⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮:・           59.   ︵三︶個性を育み生かす教育としての﹁鑑賞・批評﹂−⋮⋮⋮⋮⋮:・:           63. 第三章児童時教育の人権教育との限りない関連性を求めて                   66   第一節学級における人権教育の定位と児童詩教育 ⋮⋮⋮⋮⋮−             66.   第二節人権教育の四視点と児童詩教育 ⋮⋮⋮⋮−⋮⋮−−⋮⋮⋮⋮−           73. 終章研究のまとめと課題  ⋮⋮⋮⋮⋮−⋮・⋮⋮−⋮⋮−                   79.  終わりに−:⋮:−−⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮−⋮帽−⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮−⋮⋮・−          81.  資料編.          ※ 引用資料中の傍線・ゴシック文字への書き換えは、特に断りのない限り引用者による。.

(5) 序章 研究の目的と方法.  昭和期は激動の時代であった。﹁金融恐慌﹂がもたらした生活苦、﹁目中戦争﹂﹁第二次世界大戦﹂﹁太平洋戦争﹂. がもたらしたファシズムの嵐と戦後の生活苦。そして、﹁高度経済成長期﹂による様々な弊害1。昭和初期に児. 童詩教育︵当時は﹁児童生活詩﹂と呼ばれていた︶が誕生してから現代に至るまで、目本の社会と国民の生活は 常に不安定で不穏な影を背負ってきた。.  そして、児童詩教育は、その時代その時代の社会的潮流に即応しながら、自らの理念・理論を再構築しつつ、. 教育的貢献を果たしてきた。このことは、児童詩教育の中に普遍的教育価値が含有されていることを示すのと同 時に、様々な教育的課題を抱えた現代の学校教育への有用性をも示唆しているといえる。.  このことを踏まえ、﹁児童生活詩﹂を継承した伝統的児童詩教育の意義や方法の中から、現代の学校教育に普. 遍化すべき教育価値を抽出し、さらにそれらが、現在重視されている人権教育や現代の学力観とどのように関連 するのかを明らかにしていくことを本研究のテーマに位置付ける。.  また、現代の学校教育において、﹁いじめ﹂﹁学級崩壊﹂﹁不登校﹂等の教育的課題が深刻化していることをか. んがみ、本研究では、児童詩教育の教育的側面の内、特に人間としての物の見方・感じ方・考え方の高揚に寄与. する部分に焦点を当てていく。本論文のサブタイトル﹁人間形成との関わりを求めて﹂は、この意図を示したも. のである。つまり、ここでいう﹁人間形成﹂は、人間としての生き方に関わる物の見方・感じ方・考え方の健全 な成長を意味しているのである。.  さて、本研究においては、現在の児童詩教育の理論や方法が、昭和初期に確立された﹁児童生活詩﹂を源流と. 1.

(6) していること、戦後、児童詩教育や綴方教育の優れた教育実践や理論が、雑誌﹁作文と教育﹂において数多く発. 表され、戦後の作文教育に多大な影響を及ぽしたこと等を踏まえ、主に﹁作文と教育﹂での論文や﹁日本作文の 会﹂の常任委員の著作を研究対象として取り上げる。.  これらの論文や著作で示される理論や主張は、それぞれ独自性をもっている。目指すべきものは共通していて. も、執筆者によって主張内容がくいちがうことが多いのである。時には誌面上で激しい討論を展開することもあ. る。それに加えて、同じ人が年を追うごとに違う主張をしている場合もしばしばみられる。しかし、それだから. こそ児童詩教育や作文・綴方教育は、その時代その時代の社会的潮流に即応しながら発展してこれたともいえる。.  本研究は、これらの理論や主張を分析・統合することを通して、児童詩教育の、現代の学校教育にも適応し得 る普遍化すべき教育価値の抽出を基本に据える。.  研究の構成については、次のように考えている。.  まず、第一章においては、児童詩において﹁表現﹂と﹁内容﹂をどのように位置付けるべきかの考察を通して、. 児童詩における教育観と作品評価のあり方を示していく。次に、第二章において、現代の学校教育において特に. 重視されている﹁生きるカ﹂﹁個性を生かす教育﹂と児童詩教育の意義・方法が、どのように関わるのかを明らか. にしたい。第三章においては、第一章・第二章で捉えた内容と、自らの実践を統合しながら、児童詩教育と人権 教育の関わりについて考察を深めていきたいと考える。. 2.

(7) 第一章 児童詩教育における﹁表現﹂. ﹁山門容﹂ の︶位拍帽. 第一節児童詩教育の本質と表現技術の定位 ︵一︶﹁児童詩の定義﹂からみた表現技法の重要性.  児童詩教育における表現技法の位置付けについて考察する時、まず児童詩の定義を明確に捉えておく必要があ ろう。ここでは、国分一太郎と江口季好の定義を取り上げる。.  明文化された児童詩の定義は、次の国分一太郎のものが初めである。.    児童詩とは、生活者である子どもたちが、自分をとりまく自然や社会の事物、人問の外的内的側面にふれ.   たときに、自己の内部に発生した感動を、くどくど説明することなく、より直接的に他人に伝わるように、.   またはコトバを選んで、やや意識的に文字表現したものをいう。多くは、おとなの詩と同じような﹁行わけ﹂.   の形をとり、その像︵イメージ︶と感動のリズムが、ご≦い時間のうちに読者の心に再現しすいよう   なコトバの構成をとるのをふつうとする。qD.  国分一太郎は、一九五八年に、このように児童詩を定義付けた。江口季好は、この国分一太郎の児童詩の定義. を認めつつ、﹃児童詩教育入門﹄ の中において、国分一太郎のこの定義に﹁付け加えるならば﹂という前置きを して、次のような定義付けをしている。.    児童詩とは子どもが書く詩である。子どもが、生活感動を凝縮したことばで、内在律をもって表現したも.   ので、散文とはことなった表現として書くものであり、童謡・少年詩・短歌・俳句などはふくまない。これ.   は、北原白秋をはじめとする子どもを愛する詩人と教師によって培われてきたものである。図. 3. と.

(8)  ﹁児童詩の定義﹂は、その内容において、児童詩そのものの本質を指すものであって、それをそのまま﹁児童. 詩教育の意義・目的﹂に位置付けることはできない。しかし、国分一太郎・江口季好の児童詩の定義は、児童詩 教育が担う一側面として、ことばの操作技術の重要性を顕著に示しているといえる。.  国分一太郎が定義内容として挙げている    o コトバを選んで.    ○ ﹁行分け﹂の形をとり.    Q その映像︵イメージ︶と感動のリズムが、ごく短い時間のうちに読者の心に再現しやすいようなコト.     バの構成をとる.  という定義内容は、明らかに表現技法に関わる内容であり、子どもが書く文章表現を﹁詩﹂に成らしめる前提 条件として、詩的表現に関わることばの操作技術の習得の重要性を顕著に示している。.  江口季好は、国分一太郎の定義に﹁付け加えるならば﹂という前置きをして、児童詩における表現技法に関わ つて、次の二つの内容を提示している。.    o 凝縮したことば.    ○ 内在律をもって表現したもの.  ﹁付け加えるならば﹂という前置きが在るにもかかわらず、表現技法に関わって江口季好が提示した二つの定 義内容は、国分一太郎のそれとほぼ一致した内容になっている。.  ﹁凝縮したことば﹂は、国分一太郎の﹁コトバを選んで﹂とほぼ一致している。内容的に、両者共感動と表現. の一致を前提にしたことばの精選を取り上げているといえる。また、﹁内在律をもって表現したもの﹂は、内在律. をもって表現すると、結果的に感動のリズムに沿って﹁行分けの形をとる﹂わけで、これも国分一太郎の定義内. 容とほぼ一致した内容である。このことから、江口季好は、国分一太郎の表現技術に関わる三つの定義内容を﹁凝. 4.

(9) 縮したことば﹂と﹁内在律をもって表現したもの﹂という二つの内容に集約していることが分かる。.  結局、江口季好が﹁付け加える﹂と前置きをして、国分一太郎の児童詩の定義に新たに付け加えた内容は、﹁童. 謡・少年詩・短歌・俳句などは含まない﹂ということと、児童詩が﹁北原白秋をはじめとする子どもを愛する詩. 人と教師によって培われてきたものである。﹂という二点なのである。しかしこの二点は、児童詩教育を定義づけ る上において非常に重要な内容を示唆している。.  ﹁童謡・少年詩・短歌・俳句などは含まない。﹂という言葉は、児童詩はあくまで子どものものであり、形式. 的な表現のルールにとらわれることなく真実の生活感動をありのまま表現すべきものであることを強調している. と捉えることができる。また、﹁北原白秋をはじめとする子どもを愛する詩人と教師によって培われてきたもので. ある。﹂という言葉は、児童詩における指導・支援の源が、子どもに対する愛情であるべきことを暗示していると. 捉えることができる。︵むろん北原白秋個人に対する強い畏敬の念は伺えるのであるが︶このように、江口季好が. 国分一太郎の定義に新たに付け加えたこの二つの観点は、表現技法とは別観点の、児童詩教育を成立させるため の根本条件として位置付くものなのである。.  そして、江口季好のこのような新たな付け加えは、児童詩における詩的表現の位置付けを縮小するものではな. い。江口季好も国分一太郎同様、児童詩成立の前提として詩的表現を明確に定位しているのである。それは江口. 季好の定義文の中の﹁散文とは異なった表現として書くものである﹂という言葉が象徴している。.  以上のことから、江口季好が国分一太郎の定義に新たに付け加えた内容は、表現技法以外に大きく関わること. であり、表現技法に関わる内容については、国分一太郎の定義項目をそのまま継承したものであるといえよう。.  一九六〇年代から今目に至るまで、児童詩教育における優れた実践と理論を構築し、児童詩教育の第一人者と. も称される江口季好が、︸九五八年に発表された国分一太郎の表現技法に関わる定義内容をそのまま継承してい. る事実を考えると、両者が共通して示す表現技法に関わる定義内容は児童詩における普遍的内容であるといって. 5.

(10) よいだろう 。. 口﹁児童詩の芸術性﹂の形成と表現技術の役割.  児童詩教育におけるレトリック指導の重要性とその観点については、児童詩の定義との関わりを通して前節で. 述べてきたところであるが、ここでは、児童詩の芸術性をどのように捉え、またそれが表現技術の指導とどのよ うに関わっているのかについて考察していく。.  ﹁児童詩の表現技術と芸術性の関わり﹂について考察する時、まず、﹁児童詩の芸術性とは何か﹂を明確にし. ておく必要があろう。児童詩における芸術性の定位においては、一九六一年∼一九六二年にみられた、江口季好 の児童詩における芸術性についての認識の変容が一つの指標になるものと考える。.  この件については、すでに桐谷一夫が修士論文の中でその詳細を述べている。個 桐谷はこの中で、江口季好. が、﹁児童詩教育の理論﹂︵﹃作文と教育﹄一九六二年 十二月︶という論文を境に、修辞学的要素から芸術性を見. 出していた自らの見解を一変させ、児童詩の芸術性を﹁人間生活の真実性﹂の中から見出そうとするようになっ. たとし、江口季好の児童詩における芸術性に対する認識の変遷を明らかにしている。この江口季好の児童詩の芸. 術性に対する認識の変化は、児童詩教育の意義・目的に関わる重要な観点を示唆するものである。.  江口季好は、﹁児童詩教育の理論﹂以降、首尾一貫して児童詩の芸術性を﹁人間生活の真実性﹂の中に見出し. ているが、そのことを端的に裏付ける論文に﹁児童詩の授業OD 児童詩教育に関してのわが会の主張﹂がある。 ︻資料一︼︵資料編︸ぺージ︶.  この江口季好の論考では、.  ア、 児童詩の芸術性は、素朴な真実性の中に存在する. 6.

(11)  イ、 素朴な真実性が、高度な表現性を備えたときに、一つの作品はすぐれたものとして完成する  ウ、 作品の価値を形成する本質は内容であり、形式は内容を先行してはならない という三点を主張している。.  アは、生活感動がその土台にあり、その表現が真実ならば、修辞学的な技術が身についていない子どもにも、. 学習が遅れがちな子どもにも、どの子にも詩が書け、そしてその作品には価値︵芸術性︶が存在するという主張. である。ここからは、ある条件を満たしている特定の子どもだけでなくすべての子どもを対象にしているという. 点で、児童詩教育の普遍化を希求する姿勢が伺え、そのことはまた、現代の教育観におけるコ人一人を大切に. する教育﹂の理念にも直結しているといえる。このような生活感動を最も重視するという観点は、決して新しい. ものではなく、昭和八年に発表された稲村謙一の﹃生活への見童詩教育﹄における理論四 の中にすでに内在さ. れていた。このことは、昭和初期に広まった﹁生活詩﹂の理念・理論が、現代の教育観にも適合する普遍的価値. をもっていることを示している。江口季好は、後の論文の中で﹁その生活の中で本質をとらえ、生きている喜び. を見出していくために、生活に即する児童詩教育が存在するのである。このようなきわめて人間的本音の歩みで. ある目本の児童詩教育は真実な定式化を成立させる第一の遺産である。﹂㈲ と述べ、自らの児童詩教育理論が、. 生活詩理論を基本にしたものであることを明示している。.  イの主張は、表現技術と芸術性の相互関連性を意味し、生活感動を第一義に据えながら、これと相関する表現. 技術の重要性を説いたものである。このことは、江口季好が、同論文の中で示した指導段階の定位からも推察で きる。江口季好の定位した指導段階をまとめると次ぺ;ジの表のようになる。.  この論文において江口季好が提示する指導段階からは、生活感動の土台を損なわないことを大前提に置きなが ら系統的に表現技術の習得を目指そうとする意図が顕著に伺える。.  表現技術の指導に焦点を当ててみていくと、江口季好は、第二段階において﹁端的な一行﹂つまり、凝縮され. 7.

(12) 第一段階の指導−⋮低学年段階で、自然館生的な叫び・うったえうぶやきなどを詩に            に表現させる  ︵なし・芸術性のみ︶. 第二段階の指導 ⋮⋮ 生活体験のなかの忘れられない感勘の焦点を過去形で詩に表現さ            せる指導︵凝縮されたことば、端的な一行︶. 第三段階の指導 ⋮⋮ 感動のある場面を現在形によって描写する表現の指導            ︵比喩、行わけ、連、ことばのリズム︶. 第四段階の指導 ⋮⋮ 感勘の質に即したさまざまな発想や形態で表現する指導            ︵二・三段階までの技法の定着化︶. 第五段階の指導 ⋮⋮ 詩としての表現性を駆使して意識的に書く指導.    ︵モンタージュ形式・リフレイン・連などの表現技法の発展的な駆使と構成・推考の充実︶.   ※  ︵︶は、当該段階で習得されるべき詩的表現。五段階での生活感動は総合的なもので、     ①5④段階までの感勘形態すぺてを合むとしている. たことばの指導とその重要性を提言している。また、ここでは、﹁ここ︵端的な一行︶に着目することによって詩. の教育的価値と芸術的価値が一つのものとしてとらえられる﹂㈲ とも述べていることから、江口季好が、この. 段階においてすでに芸術性の高度化を認めていることが分かる。第三段階においては、﹁作文とは違った詩の本格. 的な独自の指導分野である﹂ω とし、対象についての感受性とことばについての感受性の育成の重要性を提言. している。江口季好は、この二つの感受性によって芸術としての詩は成立すると述べ、特に、ことばについての. 感受性を育むための指導内容として﹁比喩﹂﹁行わけ﹂﹁連﹂﹁ことばのリズム﹂を挙げている。つまり、江口季好. 8. 作品の高度化. ① ② ③ ④. ⑤.

(13) は、この段階において、児童詩を芸術作品としてみる際の詩的表現技術指導の占める割合の大きさを示している. のである。このことから、江口季好が、表現技術を生かした芸術作品としての成立ポイントをこの段階に定位し. ていることが分かる。第四段階は、前の三つの詩的表現技法を自由に駆使し、書こうと思うことをその内容に即 した発想と形体で書けるようにするというもので、第三段階までの基本を踏まえた上での応用的な位置付けにな. っている。第五段階は、発展的な指導段階として位置付けられている。江口季好は、﹁物語詩・叙事詩・構成詩な. どの指導がこの五段階である。﹂図 とし、﹁モンタージュ形式﹂﹁リフレイン﹂﹁連﹂などの表現技術の応用的駆. 使、どの部分から書き始め、全体をどう統一するかという構成力、充分な推考の必要性を提言し、詩作品として の完成度を要求している。.  次に、ウの主張であるが、この表において留意すべきは、第二段階以降の作品の高度化は、第一段階の児童詩. の芸術性を土台としており、芸術性と作品の高度化を切り離して捉えないということである。つまり、第一段階. から第五段階まで﹁人間生活の真実性︵児童詩の芸術性︶﹂が貫かれていなければ、それぞれの段階における作品. の高度化はありえないということである。そのことは、﹁児童詩ω 児童詩教育に関してのわが会の主張﹂の中の ﹁素朴な真実性が高度な表現性をそなえたときに、︸つの作品はすぐれたものとして完成する﹂という論述︵資. 料編一ぺージ︻資料一︼参照︶と前ぺージの表で示した﹁五段階の定式﹂における指導内容が顕著に物語ってい. る。﹁五段階の定式﹂における指導内容においては、ゴシック文字で示した通り、江口季好が、すべての段階にお いて﹁生活感動﹂を表現の源に位置付けていることは明白である。.  以上の考察から、江口季好が、児童詩における芸術性を﹁生活感動﹂に据えているだけでなく、その重要性を 表現技術との関わりの中においても見出していることが分かる。.  さて、次に、江口季好とは少し違った国分一太郎の見解をみながら、両者の﹁児童詩における芸術性﹂に対す る認識を比較考察していく。. 9.

(14)  国分一太郎は、﹃目本の児童詩﹄⑨ の中で、﹁生活の感動を、集約されたコトバによる表現で、ある形にまで. つくりあげる﹂ところに児童詩の芸術性は存在すると述べている。︻資料二︼︵資料編二ぺージ︶この見解は、生. 活感動を率直で短いことばで表白された表現の中に芸術性を見出しているという点において、江口季好の見方と. 共通しているといえる。しかし、国分一太郎は江口季好と違い、児童詩の芸術性を主に表現技術に据えている。. このことは、﹁それでは、なぜ子どもの詩は芸術か。コトバを媒介として作り出される芸術、すなわち文学の一つ. なのか?それは、コトバをえらばせるからである。形をえらばせるからである﹂という言葉に顕著に表れている。.  国分一太郎は、この自らの論述︻資料二︼︵資料編二ぺージ︶について、同書の最終章﹁一五  ︵七︶児童詩. と芸術﹂の中で、次のような新たな見解を付け加えている。. この﹁芸術﹂であるというコトバは、﹁子どもの芸術﹂であるというようにとってもらえばよい。これはち ようど、子どものまはおとなのまではないが、まさしく﹁子どものま﹂であるのと同じである。おとなの世. 界でいう、げんみつな意味の﹁芸術﹂ではないが、﹁子どもの芸術﹂ではある。︵中略−引用者︶.  もうすこしこまかく考えるとしよう。﹁子どもの詩﹂にも、また、さきに言った意味での未分化性というも. のは、当然存在するだろう。子どもたちの発達程度がまだ未分化の部分をのこし、無自覚的部分をのこす限. り、子どもが書く詩といえども未分化でないはずはないからだ。それは別のコトバで言えば、自然発生的、. 自然成長的とも言えるかも知れぬ。けれども、﹁子どもの詩﹂を指導するわたしたちは、 . なかでも、芸術的な可能性、芸術的な萌芽のほうが、より大きな部分をしめるものになるよう、﹁子どもの宗﹂.   というものを指導していくことが、自覚されてよいと思う。︵後略−引用者︶㈹.  国分一太郎が、子どもの書く詩を﹁芸術﹂ではなく﹁子どもの芸術﹂と位置付ける根拠は、未分化性というと. ころにある。この論述が示す通り、﹁子どもの芸術﹂という概念は、大人の芸術にはなり得ていないが、その可能. 性は含んでいるという発想が基になっている。この捉え方は、児童詩が、大きな可能性を持っているというポジ. 10.

(15) テイブな側面と、発展途上のレベルの低いもの、というネガテイブな側面の、二つの側面を併せ持った認識であ ると捉える こ と が で き る 。.  この、児童詩の芸術性が﹁芸術﹂か﹁子どもの芸術﹂かということに関しても、江口季好は、国分一太郎と相 反する認識をもっている。.  資料一の二行目からの次の論述がそのことを顕著に示している。.    児童詩の素朴さと率直さとは、基本的に重大なことである。それは、素朴であるためにイ品として低次の.   ものであるということにはならない。素朴さ、あるがままの真実、率直さというのは、技法を弄しない表現.   ということであり、現実の直接的表現である。それは、感覚的につかまれたものであり、また直接的なもの.   である。この感覚的で直感的であるということは芸術一般の基本的なことである。芸術は、具体的生活を一.   つの作品に統一してはたらく直接性において成立し得るものである。この素朴な真実性こそ芸術的真実とな   るものである。.  ここで、江口季好と国分一太郎の﹁児童詩の芸術性﹂についての見解の相違を整理すると︻資料三︼︵資料編 三ぺージ︶の表のようになる。.  この表で示した通り、まず第一に、江口季好は国分一太郎のように、児童詩の芸術性を発展途上のレベルの低. いものとは受け止めていない。それは、﹁素朴であるために作品として低次のものであるということにはならない﹂ ﹁感覚的で直感的であるということは芸術一般の基本である﹂という言葉が顕著に物語っている。つまり、江口. 季好は、児童詩の芸術性を、﹁未分化な子どもの芸術性﹂として受け止めるのではなく、むしろ国分︸太郎のいう. ところの未分化性、つまり、素朴さと率直さの中に芸術性を見出しているのである。.  第二に、江口季好は、国分一太郎のように、児童詩の中における芸術性のおおもとの所在を、表現技術に置い. ていない。江口季好は、前にも述べた通り、﹁児童詩教育の理論﹂以降、児童詩における芸術性を﹁生活感動﹂﹁人. 11.

(16) 間生活の真理性﹂の中に見出している。.  さて、﹁生活感動を表現の源とする﹂という共通性があるにも関わらず、児童詩の芸術性に対して両者の見解. にこのような相違点があるのは、児童詩がもつ﹁生活感動﹂と﹁表現技術﹂という二つの必要条件の内、そのど. ちらに重きを置いているかの違いであるといえる。︻資料一︼︵資料編一ぺージ︶の傍線ウは、この意味において. も着目すべき論述である。江口季好はここで、﹁表現性、つまり形式︵語とリズム︶が重視されすぎると、それが. 内容の問題に先行するようになると、古今和歌集ふうな、現実から遊離した趣味道楽の児童詩教育になるのです。. 作品の価値を形成する本質は内容である﹂と述べ﹁表現技術﹂を偏重する考え方に警告を発している。この論述. は、あたかも古今和歌集に生活感動がないが如く述べられている部分にやや疑問を感じるが、児童詩教育にとっ. て﹁現実から遊離しない﹂という観点は重要である。現実から遊離するということは、﹁生活の真実性﹂の欠如を. 意味し、また﹁生活の真理性の欠如﹂は、江口季好の理論からすれば芸術性の欠如を意味するからである。.  以上の考察から、児童詩における芸術性の所在のおおもとについて、国分一太郎と江口季好はその認識を異に. していることが明確になった。しかし、この二人の見解の相違が、そのまま児童詩教育の意義・目的に対する見. 解の相違に結びつくものでは決してない。それは、先にも触れたように、二人が﹁生活感動の表白が基本である. こと﹂﹁真理性︵生活と表現の整合性︶を重視すること﹂﹁児童詩が、事象に対する感性・ことばに対する感性を. 育むものであるということ﹂﹁表現技術が、児童詩をより教育的・芸術的価値を高みに導くということ﹂という児 童詩の本質について共通した見解を示していることからも明白である。.  ﹁生活感動﹂と﹁表現技術﹂のどちらに重きを置くかという問題に関わって、野口茂夫は﹃新しい児童詩教室﹄ の﹁第五章 児童詩教育の今目的課題﹂において次のように論述している。.    このようにわたしたちは、取材のしかたから、主題の燃焼、構想、構成、表現のしかた、それこそ題のつ.   けかたから行分けについてまで、その学年段階に応じた指導をすすめる。それは前章で述べたとおりだが、. 12.

(17)   それは決して表現技術が先行してのことではない。あくまでも子どもたちの目と体でとらえた現実から、詩.   的認識の高まりとともに、そう表現せずにはいられないというところに表現技術が生まれる。したがって表.   現技術の高度化は、子どもたちの詩的認識の高度化を意味するのである。︵中略ー引用者︶子どもたちの感.   動、子どもたちの思考を一ばんだいじにし、それを表現させることによって、その表現技術をとおし、その.   詩的認識を高め、定着を期待するのである。ことばを選ぶといい、ことばのゆたかさといい、倒置法のリフ.   レインの、あるいは直喩の暗喩のといっても、それら修辞学的技法が第一義ではなくて、子どもたちの感動.   主張の、その主題表現のための技法でなければならない。そのことばと知的な技法の自由な駆使こそ、その   認識を助け、その認識を高めることなのである。︵後略−引用者︶㈲.  この野口茂夫の見解は、端的にいうと児童詩教育が、表現技術の習得やその高度化のためだけに為されるべき.  北原白秋から継承した童謡、児童自由詩、またはそれに類する作風を花鳥風月趣味と称して批判し、表現. 桐谷一夫﹃国語科表現指導についての研究 −児童詩教育における指導段階論を中心にー﹄                            一九九二年度 兵庫教育大学大学院学位論文. 江口季好﹃児童詩教育入門﹄百合出版 一九六八年八月 一五ぺージ. 目本作文の会﹃生活綴方辞典﹄明治図書 一九五八年九月 四三ぺージ.      〉. 13. ではないという提言であり、先に示した表︵八ぺージ︶が提示する意味とほぼ一致するものである。また、この. ように江口季好と野口茂夫が、表現技術の児童詩における重要性を十分認識しつつ、表現技術以外の﹁人間生活. の真理性の表白﹂︵江口季好︶、﹁感動主張﹂︵野口茂夫︶という側面を第一義に据えていることからは、コ人一人.  第一章第一節. の子どもを大切にみる児童詩教育﹂という普遍的教育観を見出すこともできるのである。. ︵4︺. 3H2)(1)窪.

(18) ︵5︶. ⑰㈹(9)(8)(7)(6). と生活の統一を目指す児童詩教育運動が巻き起こった。そこには、自然風物だけに眼を向け現実生活から逃. 避した態度からは教育的意義を見出せないとする主張があった。稲村謙一の﹃生活への見童詩教育﹄︵一九三. 三年発刊︶は、そういった運動の理念・理論を表す著作の代表的なものであった。その中の次の論述は、当 時の生活詩の理念を顕著に象徴している。.  詩は生活の糧となり、生活は、詩の深い土壌となるーそうした詩と、生活へ。.  作者は、詩と生活を統一し、一致させることによって、真に正しく、真に力強い生活の建設へ。.  詩を深めることは生活を深めることであり、生活の力強い営みは詩の力強い発展となる。.  詩は、そのままにおいて生活とならなければならない。生活はそのままの姿において詩とならなければな らない 。.  詩は生活を貫かねばならない。詩が生活からの遊離であったり、単なる慰めであったりしてはならない。. 詩はあくまでも生活に働きかけ、生活にカを与えるものでなくてはならない。︵後略−引用者︶.            稲村謙一﹃生活への見童詩教育︵復刻版︶﹄厚生閣版 一九八四年 一七二ぺージ 江口季好﹁児童詩教育の定式化についての試論 −五つの原則と五つの指導段階1﹂.                        ︵﹁作文と教育﹂百合出版 一九七四年十月号︶八ぺージ 同右  一二ぺージ 同右 同 右    一四ぺージ. 国分一太郎﹃日本の児童詩﹄百合出版 一九六〇年二月 同右  二八O∼二八二ぺージ. 野口茂夫﹃新しい児童詩教育﹄新評社 一九七〇年二月 二九七∼二九八ぺージ. 14.

(19) 第二節 児童詩教育における作品主義的評価論の克服 ︵一︶藤田圭雄の児童詩教育観.  藤田圭雄は、雑誌﹃作文と教育﹄において、﹁児童詩ノート﹂という児童詩に関する論文を四回シリーズで発. 表している。︵一九六二年五月∼一九六二年八月︶当時、藤田圭雄は、詩人であり、ジャーナリストであり、﹁目. 本作文の会﹂の常任委員も務めていた。わずかではあるが教壇経験をもつ藤田圭雄は、ここで児童詩を教育的に 価値あるものとして位置付けながら、詩人という立場から児童詩教育論を展開している。  次に、連載﹁児童詩ノート﹂の内容を挙げる。.  *﹁児童詩ノートー﹂︵五月号四七∼五二ぺージ︶⋮⋮ 児童詩における﹁行わけ﹂.  *﹁児童詩ノートH﹂︵六月号六八∼七三ぺージ︶⋮⋮ 詩とはなにか.  *﹁児童詩ノート皿﹂︵七月号七八∼八三ぺージ︶⋮⋮  ﹁児童詩は、詩ではない﹂という根拠.  *﹁児童詩ノートW﹂︵八月号八八∼九三ぺージ︶⋮⋮ 児童詩における﹁ことばえらび﹂. この中の、﹁児童詩における﹃行わけ﹄﹂と﹁児童詩における﹃ことばえらび﹄﹂に関する論述は、﹁生活と表現の. 一致﹂という児童詩の本質に関わる内容であり、それはまた前節の内容と系統的な関わりをもつものである。.  本節では、この二つの内容について国分一太郎や江口季好とは異なる見解を示す藤田圭雄の主張から、児童詩 教育の根源的な意義と指導観について考察を深めていく。  まず﹁ことばえらび﹂の指導論からみていく。.  藤田圭雄は﹁児童詩ノート皿﹂で、国分一太郎の論述︻資料二︼︵資料編二ぺージ︶を引用し、その中の﹁それ. は、コトバをえらばせるからである。形をえらばせるからである。﹂という見解に異をとなえている。確かに国分. 15.

(20) 一太郎は、生活の感動︵子どもの詩精神︶を前提にしながらも、詩的表現の中に芸術性を見出そうとしていた。. 国分一太郎の﹁散文は芸術とは言い難いが、児童詩は芸術である﹂という見解はそのことを顕著に物語っている。.  藤田圭雄はまず、国分一太郎の見解に異をとなえる第一の理由に、子どもも教師も、意図して芸術作品︵﹁こ. とばの持つ意味とことばのひびきが調和され、それが美しい外形の中に内包されたような作品﹂ω︶を目指すべ きものではないことを挙げている。.  藤田圭雄は、芸術的に優れた児童詩について次のように述べている。.    児童の表現の中には時として、とてもおとなには考えられないような、的確なすばらしいものが現われる.   ことがあります。わずかなことばしか知らないために、かえってそのわずかなことばの結び合わせが、すば.   らしい詩のイメージを完成させていることもあります。おとなの芸術品よりも、もっともっと匂い高い芸術   品が生まれる場合もあります。. ︵後略ー引用者︶⑧.    しかし、これはあくまでも製fの結果の問題であって、そのイ者が、 密なことば選び  を  し  て  、 創り上げ.   た芸術品とはいえません。たとい芸術品だとしても、それはまことに特殊なものです。.  藤田圭雄はここで、芸術的に優れた児童詩は偶発的に生まれるもので、決して意図的に芸術性を目指して創り. 上げられるものではないと述べている。この論述は、児童詩教育の価値は、できあがった作品にあるのではなく. 詩を創作するプロセスにあることを主張するものである。この主張からは、作品の質的向上よりも人間形成を基 軸にした教育的側面を重んじる藤田圭雄の児童詩教育観を伺い知ることができる。.  藤田圭雄は、この教育観を基に、優れた児童詩が生まれるプロセスと児童詩の指導内容について次のようにも 述べている。.    子どものすぐれた詩を見ていつも胸を打たれるのは、その自然な、むりのない﹁ことばえらび﹂なのです。.   これは教わったり、練習したりの結果とは思えません。作者が、見たり聞いたり感じたりしたものを、正し. 16.

(21)   く把握したときに、自然に、自分の持っているそんなに多くないボキャブラリーの中から溢れ出て来たこと   ばが、この美しい、強力な詩語を生み出しているのだと思います。.    児童詩の尊さは、子どもたちの中から、こうしたすばらしいことばを導き出すことにあります。ことばの.   前に、こうした人生に対する確かな目を見聞かせるところにあると思います。︵後略ー引用者︶㈹.  藤田圭雄はここで、優れた児童詩は、教わった技法の駆使から生まれるものではなく、感じたままを、自然に、. 自分のことばで表白した時に生まれるものであると述べ、過度な表現技法の指導を牽制している。指導者は、表. 現技法を教えることよりも、感動と一致した素朴で自然なことばを子どもの内から引き出すことに重点を置くべ ことを主張しているのである。.  つまり、藤田圭雄は、芸術作品追求のための表現技法の駆使を、自然で素朴な感動の表白という児童詩固有の. 価値を歪曲させてしまうものとして位置付けているのである。﹁指にいやらしいマニキュアをし、ドーラン化粧に. つけ眉毛、そのうえ、髪を赤く染めたような﹃詩﹄などのそばから子どもを離しましょう。﹂叫 という言葉が、 そのことを顕著に象徴している。.  このような藤田圭雄の児童詩観は、児童詩教育における﹁ことば選び﹂も許容しない。藤田圭雄は、﹁子ども. は自分の感じたままを自分の言葉で表出しているのです。言葉は、人間がものを考えたり、しゃべったりする時、. それを普遍化するための記号です。子どもの場合には、それが素朴で純粋だから尊いのです。芸術的に言葉をえ. らぼうなどという邪心はないはずです。﹂㈲ と述べ、﹁ことば選び﹂を﹁邪心﹂として位置付けている。暴論と. もとれる言い方ではあるが、この言葉からは、自分の生活感動を自分のことばで自然な形で表白するという児童 詩の本質を堅持しようとする藤田圭雄の姿勢が伺える。.  藤田圭雄は、そのことを論証するために﹃やまびこ学校﹄⑧ の冒頭の詩を事例に挙げ、次のような所感を述 べている。. 17.

(22)  言葉をえらぶというのはどういうことなのでしょう。えらぶというからには、いろいろな種類があってそ. の中から一つをとり出すということでしょう。しかし子どもの言葉は素直です。表現しようとする対象と子 どもの言葉とは一致します。一致した場合にだけよい作品が生まれるのです。  雪はコンコン降る。.  人間は.  その下で暮らしているのです。 ﹁雪はコンコン﹂とか﹁雨はザアザア﹂などというのは概念的な表現だから﹁雪は音もなく降る﹂としたら. よいとでもいうのでしょうか。この子にとって、やはり雪はコンコンと降っているのです。雪はコンコンと. 書いたのは技巧でもなければ、ことばえら、でもありません。この子の心に響いた実感だとおもいます。だ. カら強いのです。児童詔の強さは、すみずみまで正確で、感情があふれているからです。うそのことばがな   いからです。胸にうけとめた感情を、いつわらない、虚飾のない、イい︷れた言葉で素直に表 しているカ   らです。  ︵後略−引用者︶ω.  この論述で注目すべきは、選ばれたことばではなく﹁使い慣れた言葉﹂が詩の価値を高めているという見解で. ある。藤田圭雄のいうように、純粋に生活感動の表白を追求するならば、詩の表現︵ことば︶は、その子ども自. 身のことばであるべきである。芸術性を高めるために誰かの模倣をしたり、使ったこともないようなことばを挿. 入したりすることは、虚飾であり、いつわりであるといってよい。またそのことが、生活感動と表現の一致を崩. 壊させてしまう可能性もあるだろう。しかし、だからといって﹁ことば選び﹂が不要であるということにはなら. ない。子どもにその時の感動を表すことばがいくつかあれば、やはりその中から最も自分の感動と一致すること. ばを選ばなくてはならない。この場合、結果的に選んだことばが誰かのものと同じであったり、似ていたりして. いても、その子どもの主体を通して選択されたことばはやはりその子のことばとして位置付くはずである。藤田. 18.

(23) 圭雄の主張は、自分のその時の感動を普段使っている二とばでしか表現できない場合にのみいえることなのであ. る。そういう意味で、小学校の低学年くらいの段階についていえば、藤田圭雄の主張はまさに理にかなっている. といえる。この発達段階の子どもは、語彙に限界があり、ことばを選ぶ余地が残されていない場合が多いからで ある。.  しかし、中学年以上の子どもは、低学年の子どもとは比較にならないほどの語彙を獲得してくる。その場合、. 藤田圭雄が主張するように、自然に思い浮かんだことばだけが真実の表現であるとは言い切れなくなってくるの. である。確かに、この段階においても、自然発生的なことばや表現が詩としての強さや純粋性を表出する場合も. ある。だから、藤田圭雄の主張を全面的に否定することはできない。しかしその反面、安易なことばの使用や表. 現が、その子どもの﹁生活感動の率直な表白﹂をつぶしてしまうことも往々にしてあるのである。つまり、推考. をしない自然発生的なことばや表現が、逆に感動と表現の一致を阻むこともありえるのである。次節で取り上げ. る雑誌﹃作文と教育﹄において巽聖歌が批判した﹁インスタント児童詩﹂︵一九六一年四月∼八月︶は、そのこと を示す顕著な事例である。.  藤田圭雄は、詩の本質は﹁作者の詩精神を読者に伝える二とにあるレと主張した。それならば、実際の感動の. 大きさと、文章による感動表現の大きさを一致させるための﹁ことば選び﹂は、むしろ必然なのである。.  中学年以上の段階では、国語科の学習において、象徴的なことばをどう読み取るかの学習が行われているし、. 高学年にもなれば、作者・筆者の優れた表現についての学習もなされている。つまり、個人差はあるにしろ、子 どもたちには、学年の発達段階に応じた言語感覚が身についていくのである。また、学年が進むにつれて﹁物の. 見方、感じ方、考え方﹂も高度化していくことも厳然たる事実である。そういう状況の中での﹁ことば選び﹂は、. ﹁表現﹂と﹁内容﹂の一致を具現化するのと同時に、現時点での﹁言語感覚﹂﹁物の見方、感じ方、考え方﹂を高. 揚させる意義あるものとして捉えられなくてはならない。自然発生的な叫びやつぶやきのみを重視するあまり﹁こ. 19.

(24) とば選び﹂を否定することは、このような可能性をとどめてしまうことになるのである。.  ただ、詩の場合、散文と違って独自の表現形態があるため、﹁ことば選び﹂は、詩的表現と併せて、個人の﹁言. 語感覚﹂﹁物の見方、感じ方、考え方﹂に応じて系統的に指導されなくてはならない。そして、指導者は﹁難解な. ことばを選ぶのではなく、周りの友達に効果的に感動が伝わることばを選ぶ﹂という基本的な原理に基づく指導・. 支援を重ね、藤田圭雄が危惧するように、﹁感動と一致させることを目的としないことばの操作﹂が習慣化しない ように留意して見ていく必要はあるだろう。.  藤田圭雄が、児童詩教育において、﹁ことば選び﹂を否定したのは、自分の生活感動を自分のことばで自然な. 形で表白するという児童詩の本質を堅持せんがためである。この観点は、児童詩において非常に重要な観点であ る。.  以上のように、﹁ことば選び﹂の否定については疑問が残るものの、生活感動の率直な表白を児童詩教育にお. ける根源的価値として定位し、その普遍性を堅持しようとする藤田圭雄の姿勢・態度からは、子どもの物の見方・. 感じ方・考え方を尊重しようとする児童詩教育に携わる者が忘れてはならない普遍的教育観を見出すことができ るのである。.  次に、﹁行わけ﹂指導についての論述を基に、藤田圭雄の児童詩観を追究していく。.  藤田圭雄は、児童詩の﹁行わけ﹂のあり方について国分一太郎の児童詩の定義を基に次のように述べている。.    つまり、作文指導の場合︵、︶や︵。︶をつけさせたり、別行を作らせたりするのと同じような考え方で、.   詩の場合は行わけを考えさせてはどうでしょう。その上、詩は作文とちがって、国分一太郎の﹁定義﹂によ.   れば﹁生活者である子どもたちが、自分をとりまく自然や社会の事物、人問の外的内的側面にふれたときに、.   自己の内部に発生した感動を、くどくど説明することなく、より直接的に他人に伝わるように、やや自然発.   生的に、︵こんなよけいなことはない方がいい︶またはコトバを選んで、やや意識的に︵どうも﹃やや﹄とい. 20.

(25)   う部分は気に入らない︶文字表現したもの﹂  もつとてっとりばやくいえば、心にひびいたものを、いち.   ばん適切な、素直なコトバで表現したものです。だから、作文よりも、もっとひとつひとつのフレーズの区.   切りはよくなるし、自然そこにリズムが生まれてくるし、そんなに﹁苦しんでさとら﹂ないでもできるので.   はないでしようか。ここで行わけをするのは、こういう理由があるからだ、などと深刻に考えるのではなく、.   本来は﹃行にしてもいいのだという原則にたって、適当なところで行わけをする。その方が読みよいし感じ.   がいいからーそれでいいのだと思います。︵後略ー引用者︶圖.  藤田圭雄はこの論述において、児童詩における﹁行わけ﹂は、指導者が行の切りかたを教えるのではなく、子 どもが、実際の感動と文字による感動表現の一致を求める中で自然に見出していくべきものであると主張し、同. 論考で、﹁行わけ﹂の根源的形態である﹁自由律の詩﹂から﹁行わけ﹂を理解することの不合理さを強調して、﹁﹃な. かなかむずかしいことで、多くの作品をつくり、読みして、苦しんでさとらなければならない﹄のです。だれに. でもできるわけのものではありません。小学五年生からでもとてもむりだし、ましてや一年生からなどとうてい. 教えられるものではありません。﹃行のきりかたとは、詩を作る心持ちの自然な区切りです﹄などといっても、そ. れは﹃般に通用するものではありません。︵後略ー引用者ご⑨ と述べている。.  この﹁行わけ﹂についての藤田圭雄の二つの論述からは、児童詩は、おとなの詩と同列に位置付けるべきでは. ないこと、児童詩における詩の形式は、あくまで第二義的に位置付けられるべきことの主張を読み取ることがで きる。.  確かに藤田圭雄が指摘する通り、﹁行のきりかたとは、詩を作る心持ちの自然な区切りです﹂などと、﹁行わけ﹂. の法則を子どもに伝えると、﹁行わけ﹂の難しさから、多くの子どもはそのことばかりを意識して詩を書くように. なり、﹁詩精神﹂よりもそのことが先行するようになってしまう可能性はある。つまり藤田圭雄は、ここでも、作. 品の中で形式が生活感動や詩精神を覆い隠してしまうことを危惧しているのである。﹁ことば選び﹂の否定の根拠. 21.

(26) もそうであったように、藤田圭雄は、児童詩の命ともいえる生活感動や詩精神の表白を、表現技法の駆使という. 形式的側面から守るという一貫した姿勢をここでも堅持しているのである。︵ここでいう表現技術とは、過度の意. 識化による表現技術であり、児童詩における詩的表現技術を全面否定しているわけではない。︶.  藤田圭雄は、﹁行わけ﹂指導において、﹁邪道である﹂ω としながらも、子どもが説明したがっている内容を ﹁くどくど説明してはいけない﹂などと切り捨ててしまわずに、﹁前書き﹂として散文体で一行に書かせてはどう. か、と提案している。これは、﹁行わけ﹂をさせて無理に詩としての形態を整えるのではなくその感動にいたるま. での状況︵シテユエイション︶を﹁前書き﹂として書かせ、感動の部分のみを﹁行わけ﹂の形で書かせる、とい うものである。.  藤田圭雄は、この提案の根拠を次のように述べている。. 22. やっぱりある程度いろいろなシテユエイションを説明したい子どもの気持ちを 重して、その部分を切り. 捨てるのではなく、散文体で書力して、それからその牛の殺された光景をまとして表現させるというやり方 もあっていいのではないでしょうか。.  子どもは正直です。だから﹁海へいきたい﹂の場合でも、あの、先生から聞いたことをどこかでひとこと. るのは賛成できま ん。子どもたちが自然に. いわなくては気がすまないのだし、﹁牛﹂の場合でも、あの説明がどうしてもしたいのでしょう。それを﹁ま﹂. とはこういう形のものだ、というので、むりに行わけを強制   行わけをするような段階まで待っている方がいいと思います。. を自分で判断していく﹁行わけ﹂の作業の中にこそ﹁自らの感動の内  容  と  質  を  見  極  め  る  ﹂ という児童詩の重要な. け﹂するかを判断させることは、子どもに余計な混乱を与える可能性  が  あ  る  し  、 何が必要で何が不必要であるか. 童詩の模範的指導として位置付けるには疑問が残る。どこからどこま  で  を  散  文  に  し  、 どこからどこまでを﹁行わ.  この論述は、積極的な﹁行わけ﹂指導を否定するものとして受け止  め  ら  れ  る  が  、 藤田圭雄の提案をそのまま児. 切.

(27) 意義が存在するからである。.  しかし、藤田圭雄のこの論述からは、普遍化すべき重要な観点を見出すことができる。.  藤田圭雄は、この論文を、新たな理論の創造のために書いたのではく、児童詩に携わる者︵特に現場の教師︶. に対して、一石を投じるために書いている。そのことは、﹁わたくしのこの議論が少しでもみなさんのご参考にな. ればこの上の喜びはありません。そのつもりでわたくしはこれを書き、また今後も勉強をして行きたいと思って. います。﹂働 という言葉から察しがつく。だから、﹁行わけ﹂に関するこの提案も普遍性は極めて薄い。しかし、. 藤田圭雄の児童詩の見方や児童詩に対する姿勢・態度からは重要な教育的価値を見出すことができる。この論文. における普遍的価値は、狭視的な方法論ではなく﹁児童詩をどう捉え、どのように子どもを指導・支援するか﹂. というところにある。多くの実践者や研究者が児童詩における﹁ことば選び﹂の重要性を提唱する中で、あえて ﹁ことば選び﹂の否定を論じたことも、﹁行わけ﹂について、邪道といいながらも散文と﹁行わけ﹂を合わせた形. 式を提案したことも、常に子どもの側に立って、試行錯誤しながら子どもたちの実態に応じた人間教育としての. 児童詩の道を開いていこうとする藤田圭雄の児童詩教育観の表れとしてみることができる。.  ﹃九六〇年代前半は、児童詩教育が急速に教育現場に広がっていった時期である。それと同時に、作品の質的. 低下が問題にされ、﹁作文と教育﹂の中においても、児童詩教育についての議論がさかんに取り上げられていた。. 巽聖歌の﹁インスタント児童詩批判論﹂︵﹃作文と教育﹄一九六一年四月∼八月︶は、その顕著な表れである。当. 時、児童詩の質的向上を目指すあまり、﹁子どもの側に立2という基本姿勢が見失われ、﹁作文と教育﹂におけ. る多くの論文において作品主義的な観点で﹁児童詩も詩である以上、∼でなければならない﹂という姿勢で作品. 評価が為されていたことは否めない。こうした背景が、藤田圭雄がこの論文﹁児童詩ノート﹂を書く一つの契機 になったと考えられる。.  藤田圭雄の、﹁児童詩も詩である以上、∼でなければならない﹂という姿勢ではなく、常に子どもの側に立っ. 23.

(28) て、子どもが詩に親しみ、意欲をもって主体的に詩を創造していく児童詩教育の道を開いていこうとする姿勢・. 一九六二年八月号︶九三ぺージ. 一九六二年五月号︶五〇ぺージ. 一九六二年 七月 八三ぺージ. 一九六二年八月号︶九一ぺージ. 態度は、現代教育の指導観との整合性からみても、これから児童詩教育を普遍化していく上において最も尊重さ れるべき観点といえる。.  ︿注v第一章第二節︵一︶ 田圭雄 ﹁児童詩ノートW﹂︵﹁作文と教育﹂百合出版. 図 同右  八三ぺージ 團 同右  九〇ぺージ. 鰯藤田圭雄﹁児童詩ノート皿﹂︵﹁作文と教育﹂百合出版 ㈲ 同右  八二ぺージ. ⑤ 無着成恭﹃やまびこ学校﹄青銅社 一九五一年三月 ω 同右  八三ぺージ. 圖藤田圭雄﹁児童詩ノートi﹂︵﹁作文と教育﹂百合出版 ⑨ 同右  四九ぺージ ⑳ 同右  五一ぺージ ⑰ 同右  五二ぺージ. 回藤田圭雄 ﹁児童詩ノートW﹂︵﹁作文と教育﹂百合出版. 24. qD.

(29) ︵二︶巽聖歌の児童詩教育観  吉田瑞穂との作品評価観の相違を基にしてー.  巽聖歌は、雑誌﹃作文と教育﹄に﹁新しい児童詩の発展のために﹂と題した論文をシリーズで六回発表してい. る。︵一九六一年四月∼一九六一年十月︶巽聖歌は、﹁内容把握の類型化、表現形式の固定化、発想の卑俗化﹂OD. を露呈する当時の作品群の傾向を﹁インスタント児童詩﹂と称して、そういう作品群及び児童詩教育の現状に対. して批判的見解を述べていった。この時の作品に対する厳しい見方と、それらを指導した教師への批判的見解か ら巽聖歌の作品評価観を伺い知ることができる。.  巽聖歌は、﹁インスタント児童詩の、もっともインスタントらしい特徴は、内容と形式の二つの面から考える. ことができる。﹂図  とし、﹁サッカi﹂﹁こじき﹂﹁足﹂︻資料四︼︵資料編四ぺージ︶ という三作品を事例に挙. げ、作品の問題点を次のように指摘している。.    第一に挙げたいのは、書き出しの類型化ということである。﹁氷の上でサッカーをやった。﹂﹁学校の帰り.   に、こじきがとおった。﹂﹁姉ちゃんと私とお母ちゃんと、おふろで足のてんらん会をした。﹂こういう発想     に な っている。.    すべてが過去形であり、事実の断定、あるいは説明から始まっている。︵中略−引用者︶.    この過去形発想というのは、﹁見たこと、聞いたこと、考えたことを書く﹂という、初歩指導の要領に準.   拠したので、こういうことになってしまうのであるかどうか。そういうことであればわれわれの指導者面が、.   自縄自縛におちいるわけだ。﹁見たこと、聞いたことをそのまま﹂は、作文にしろ、詩にしろ、これは初歩.   指導の方便に使うコトバなのであって、何年生になってもそのままでいいということではない。作文などで、.   学年に応じて文形を書かせることなどから、判断してもらってもいい。︵中略−引用者︶. 25.

(30)  それから第二の傾向としては、おしまいの二、三行でドンデン返しをうち、見るひとのこころをくすぐる. という方法。これももう、目にあまる。たびたび、口をすっぱくしていう類型だからだ。こんどの例示作品 は乱暴で、あまりいい参考ではないが、それでもこんなことになる。   ★. ズデンとしりもちをついた。. あたまの方まで ビビビと電気がきたようだ。.   ★. わらったやつら、全部ばかっつらだ。 血もなみだもない人でなし。.   ★ こんなしなびた小さな足が⋮⋮。 お母ちゃん、親孝行するで。.   ﹁サッカー﹂では、うすっとぼけた﹁泣きわらい﹂をねらい、﹁こじき﹂でも、こどもの正義感みたいなも.  のをだしているが、これもわれわれのような、すれっからしのおとなの目からみれば﹁おわらい﹂だ。﹁足﹂.  の孝行にいたっては、もはや論外であって、いくら名子役を使ってみたところで、これは芝居だということ.  がわかってみれば、子役を使う教師に義憤をおぼえるだけだ。感銘するところは少ない。︵後略ー引用者︶個. 巽聖歌は、このような作品評価を基に、児童詩の作品レベルを上げるために、教師にも子どもにも生活感動と. 26.

(31) 表現の﹃致を追求する厳しい姿勢・態度を要求しているのである。.  さらに巽聖歌は、吉田瑞穂の作品評価︻資料五︼︵資料編五ぺージ︶ に対して次のような見解を示している。.    この作品は、吉田瑞穂によると、子どもが書いてきて提出したようになっている。わたしは、子どもがい.   ったことを、先生がすくいあげ、書きとったのではないかと想像する。ここに解決のちがいが出てくるが、.   おしまいの三行に与えられている深い読みは、やはり教えられるところが多い。わたしはそこで考えるのだ. わたしたちもまた、先輩たちのそういう深い読みに わって、いろんな 室の、まだみたこともない子.   詩は、事実の総合ではない。インスタント詩を書かせるには、生活感動をたいせつにしたい。その感動の核.    子ども︵作者︶が対象から触発された感動をたいせつにし、それをことばにうつさせなければならない。.  吉田瑞穂は、巽聖歌のこのような見解に対して、次のように述べている。. にすぐれた教育実践がなされてきたことを踏まえると、この件に関する巽聖歌の見解の妥当性には疑問が残る。. で昭和初期から受け継がれてきた崇高な教育理念を基にしたものであり、また、これまでこのような評価観を基. る根本になっているかもしれない﹂ともいっている。しかし、吉田瑞穂のような作品の見方は、生活詩理論の中. めようとする吉田瑞穂のような作品の見方を﹁過大な推測評価﹂として位置付け、﹁それがインスタントを作らせ.  巽聖歌は、子どものことばから、その背景にある感情や情動を受け止め、そこにある価値を引き出しそれを認.   辮である。︵後略ー引用者︶四.   な推測評価を与えて、世を惑わすことになっていはしないカ。これは少し考えすぎかもしれないが、自戒の. せる根本になってはしないか、少し疑問になってきたのである。f者自身も、指導者も気づいていない過大. どうか。吉田瑞穂氏の例ばかりではない。自分自身のことも含めていうのだが、肖. どものf品をいろしろにあげつらってきたのだが、これが たして、児童まの削進になっているのだろうか.   、.   をなすものは、的見であり、創造でなけ ばならない。しかし、刮指導は 育であるし、指導には段自があ. 27. が.

(32) るから、生活感動をじゅうぶんつかむところまでいカない子どもが、インスタントまのようなものをかいて. も寛容でありたい。そしていちおう、ある事実を把握したことだけはほめておく。それから、それをほんも. 以上は、インスタント詩を問題にしたのであるが、もうひとつ大切なことがある。それは、則劃. は、個人 があることを再確認したい。そして、ひとりひとりが、個性的にの ていくような配慮をしたい。. つねに低きより高きへとゆっくりやりたい。どうかするとf品本位になり、おきざりにされる子どもができ.   るカもしれないカら、この点についての酉慮が必要である。個.  この吉田瑞穂の論述は、巽聖歌の﹁インスタント児童詩﹂批判論を完全否定するものではない。ここでの吉田. 瑞穂の論述が、巽聖歌が﹁インスタント児童詩﹂批判論の中において主張してきた児童詩の前提条件と同一見解. を含んでいることからもそのことは明らかである。それは、吉田瑞穂の﹁感動の核をなすものは、的見︵﹁発見﹂. という意味と考えられる・引用者注︶であり、創造でなければならない﹂㈲ という巽聖歌の主張を承認したこ. とばに表れている。しかし、吉田瑞穂は同時に、一人一人の子どもを人間的に成長させようとする教育的視点か. らのアプローチがその前提になることを提言している。吉田瑞穂はここで、その作品が生まれた背景にある子ど. もの感情や情動を汲み取ろうとする姿勢・態度こそが重要であり、大人の価値観で子どもを見下ろす作品主義的 な作品評価に傾斜してはならないことを説いているのである。.  さらに、吉田瑞穂は同論文の次の章で次のように述べている。.    子どもの詩とおとなの詩は共通なところもあるが、ちがう点が多い。ちがう点がわかれば、児童詩はやさ.   しいことがわかる。つまり、やさしくいえば、子どもの生活感動を子どものことばで、書けばよいことであ. る。そんなにやさしく書いたイ品にも価値があることを認識し、書くまでの過程も大きな価イがあることを. 解したい。そして、それは 育的価値も大きいことを理解したい。児童詩を生みだすまでのプロセスをだ. 28.

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